2018年5月21日 (月)

祝福あれ、主の御名によって来る人に。私たちは主の家からあなたたちを祝福する。

思った通り、働かせ方改悪法案が強引に押し通されようとしており、これが通れば、まさに我が国は24時間働かせ放題のディストピアへと転じることになる。

筆者がこれまでずっと述べて来た通り、労働がまさに罪のゆえの終わりなき懲罰と化す時代が到来しているのだ。アウシュヴィッツ行きの列車が人々を満杯に乗せて、汽笛をあげて発車しようとしている。

この列車に乗ってはいけない。今は勤労の精神を説く時代ではない。プロテスタントの始まりと共にヨーロッパ諸国で勤労の精神が取り入れられたが、プロテスタントも、労働市場も、徹底的に腐敗堕落し、もはや終焉にさしかかっているのだ。

「私たちは安定的な雇用を得て、定期的な収入と、高い職業的な地位を得て、まっとうな市民としてのつとめを果たしているから大丈夫・・・」などと思っていると、行き先は飢えと死の支配する強制収容所となろう。

それはキリスト教界も同じで、宗教組織に所属し、宗教指導者に従うことで、それを神の救いの目に見える形の代替物のように思って握りしめていると、行き先は地獄でしかない。

この国は、もはやすべてにおいてタガが外れており、善と悪が逆転し、すべてのことがひっくり返っている。善良な人々が悪人とみなされ、悪人が善人面して跋扈している。

だが、そうなったのには、深い理由がある。これは我が国が経済成長だけを第一として、金儲けを至上の価値として歩んできたことの手痛いツケであり、必然的な結果なのである。

戦前もそうであったが、戦争は、政府や皇族や大企業の金儲けのために起こされるものであって、口実など何でも良いのである。要するに、儲かりさえすれば、どんな手段を取っても構わないという精神が、戦争へとつながって行くのだ。

人権軽視の憲法改悪と、武器の製造と輸出(軍需産業の育成)、国公立大学における人文科学の縮小、人間を過労死させるまで働かせて使い捨てることを厭わない働かせ方改悪法案などは、すべて根底では一つにつながっている。要するに、これらは金の力の前に人権および人命が徹底的に軽視され続けたことの結果、起きたことである。

最近、辛淑玉さんが事実上の国外亡命を果たしたというニュースを知って驚いた。以下のニュースは「読む・書く・考える」のブログから転載したものである。
 

東京新聞(3/14):

「ニュース女子」問題で辛淑玉さん
ヘイト標的 拠点ドイツに 

 沖縄県の米軍基地反対運動を扱った東京MXテレビの番組「ニュース女子」で、名誉を毅損されたと認められた団体代表の辛淑玉さん(59)が昨年11月からドイツに生活拠点を移した。本紙の取材に対し、昨年1月に番組が放送されてから民族差別に基づくヘイトクライム(憎悪犯罪)の標的にされかねない不安が高まったとして、「事実上の亡命です」と明かした。(辻渕智之)

 辛さんによると、番組放送後、注文していない物が自宅に届いた。近所で見知らぬ人が親指を下に向け批判するポーズをしたり、罵声を浴びたりもした。これまでも仕事先などへの脅迫や嫌がらせはあったが「私の身近な生活圏に踏込んできた」という。(略)
(略)
 最近は「スリーパーセル」(潜伏工作員)との中傷もある。先月、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)中央本部が銃撃されたことに触れ、「私が狙われてもおかしくなかった。国のリーダーは北朝鮮と敵対しても、『日本の中にいる朝鮮人たちは一緒に生きていく隣人です』と宣言してほしい」と訴える。

この出来事についてブログの著者は呼びかけている、
 

「辛淑玉さんは、日米両政府から差別・迫害されるマイノリティ(沖縄)に連帯し、その自己解放運動を支援してきた。そんなマイノリティ(在日コリアン)女性の自宅を特定し、嫌がらせを繰り返して、ついには国内で生活できなくなるまで追い詰める。これが「愛国」だの「美しい国」だのを標榜している連中の正体なのだ。

一刻も早く、そんな不良日本人どもからこの国を取り返さなければならない。それは、間違いなく、この国のマジョリティである我々の責務である。

まったく同感である。だが、それにしても、ここまで事態が深刻化していたと知って筆者は驚いた。単なるテレビ番組だけの問題ではなくなり、実生活にまで被害が及び、もはや日本にいられないというまでの事態になっていたのだ。

「ニュース女子」とは、化粧品会社DHCの傘下のグループ企業が制作しているテレビ番組である。このDHCは、澤藤統一郎弁護士のブログの文章を理由に、弁護士に高額スラップ訴訟を起こしたことで知られる。DHCが起こした高額スラップ訴訟については、「澤藤統一郎の憲法日記」に詳しく、弁護士はDHCと勇敢に戦って勝訴し、今やDHCが被告となっている。

「ニュース女子」では最近、沖縄の高江・ヘリパット基地建設に関連して、事実として裏づけの取れていない、基地反対派の活動を一方的に敵視して貶める内容の放送を行ったとして、ネットでも数多くの批判を浴びていた。DHCのグループ会社が制作するこのTV番組は、まさにDHCという企業の意向を強く受けて制作されていたと見られる。
 

朝日新聞デジタル 「ニュース女子」打ち切りへ MXと制作会社に隔たり 
田玉恵美 2018年3月1日03時21分 から抜粋

 ニュース女子は、化粧品大手ディーエイチシーのグループ会社「DHCテレビジョン」が取材・制作し、MXが完成版の納品を受けて放送している。問題になった昨年1月2日の放送回については、放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会が昨年12月、MXが番組内容を適正にチェックせず、中核となった事実についても裏付けがないとして「重大な放送倫理違反があった」とする意見を公表していた。

 関係者によると、批判を受け、MXは自ら番組の制作に関与したいと申し入れて交渉していたが、DHC側から断られたという。このため、今春の番組改編に合わせて番組の放送をやめることを決めた。


しかし、BPOから放送倫理違反との結論が出されたことに対し、DHC会長は、かえって「BPOは正気か」とする反論を発表し、そこでBPOは委員のほとんどが「反日、左翼」に占められており、正常な判断など下せるはずがないと、偏見としか言いようのない衝撃的な見解を述べている。そして、「ニュース女子」はうちきりになったわけではない、これからも放映を続行すると強弁して、BPOに対決宣言と見える姿勢を打ち出している。

【DHC会長独占手記】「ニュース女子」騒動、BPOは正気か 
「ニュース女子」DHC会長、衝撃の反論手記 
から抜粋
「田嘉明(DHC会長)

 今、問題になっている放送倫理・番組向上機構(BPO)についてですが、まずこの倫理という言葉を辞書で調べてみると「善悪・正邪の判断において普遍的な基準となるもの」(「大辞泉」)ということになっています。そもそも委員のほとんどが反日、左翼という極端に偏った組織に「善悪・正邪」の判断などできるのでしょうか。

 沖縄問題に関わっている在日コリアンを中心にした活動家に、彼らが肩入れするのは恐らく同胞愛に起因しているものと思われます。私どもは同じように、わが同胞、沖縄県民の惨状を見て、止むに止まれぬ気持ちから放映に踏み切ったのです。これこそが善意ある正義の行動ではないでしょうか。

 先日、情報バラエティー番組『ニュース女子』の問題に関して、朝日新聞が「放送の打ち切り決定」というニュースを大々的に流したようですが、『ニュース女子』の放映は今も打ち切ってはいません。これからも全国17社の地上波放送局で放映は続行します。」

  だが、以上のような見解を見ても、すぐに分かることは、DHC側が、沖縄の基地問題を、日本と米国の外交問題、政治問題、また、日本本土と沖縄との偏って不公平な関係といった観点からとらえるのではなく、これを日本人対在日コリアンという民族対立のヘイト問題にすりかえることで、人々の目を問題の本当の核心から目をそらそうとしていることである。

もしも民族的対立という観点からとらえるのであれば、沖縄の基地問題は、何よりも、日本人から琉球人への差別という観点から論じられねばならない。今でも続行している日本本土による沖縄への基地の押しつけという不公平にこそ、まずは目を向けなければならない。

ところが、本土と沖縄という問題を、それとは全く異なる日本人と在日コリアンの対立という問題にすり替え、「在日コリアン側からの日本人への敵視」が行われているという、一種の被害妄想めいた話を作り出すことによって、沖縄を差別してきた加害者であるはずの日本人が、かえって被害者であるかのような問題のすり替えが行われようとしている。

そうした原因すり替え論の結果として、辛淑玉さんが国外亡命さざるを得ないような状況さえ起きて来ている。本来は、企業が政治活動に携わること自体が、望ましいことではないと筆者は考えるのだが、最近は、企業にもあからさまな右傾化が起きており、DHCのみならず、巨大企業がブランド力と動員力を使って、テレビだけにとどまらない政治的影響力を行使するようになっている様子が伺える。

とはいえ、日本人もTV番組や巨大企業の宣伝だからと裏づけの取れない情報を完全に鵜呑みにするほどまで愚かではないため、こうした動きに対しては、強い反発も起きており、DHC製品の不買運動もじわじわ広がっているようであり、上記の弁護士などもDHCの不買運動を呼びかけて広く反響を得ている様子である。

東京MXテレビとDHCの開き直りに反感、デモや不買運動もー『ニュース女子』沖縄ヘイト放送
志葉玲  | フリージャーナリスト(環境、人権、戦争と平和)  2017/1/27(金) 8:59


だが、今のままだと、まもなく不買運動など呼びかけずとも、化粧品のことなど誰も考えていられないような恐るべき時代がやって来ることになるだろう・・・。しかも、まるでロシア革命時に大勢のロシア人が国外に亡命したように、辛淑玉さんのみならず、我が国で「非国民」のレッテルを貼られた人々が、続々とこの国を捨てて国外亡命を果たすような時代が、もうすぐそこまで来ていると感じられてならないのである。

こうした一連の出来事を見つつ、筆者も色々と考えさせられる。

筆者は最近、ヴァイオリンを弾きながら、辛淑玉さんのように、将来、ドイツへ行ってみるのも悪くないなあ・・・、などと思いめぐらしている。国外亡命のためではない。何しろ、ドイツは教育が無償だそうだから、改めて音楽を学び直す良い機会ともなろう。

音楽には国境もなければ言語の壁もないため、いざとなれば、日本国内外を問わず、そこから何か開けてくるものがあるだろうと思うのだ。筆者はこの試みが、深いところで、筆者自身の自由とも密接につながっていることを強く確信している。

筆者は以前から、この国はソドムとゴモラ化していると書いており、まさしくその通りの展開となっていることを感じている。そして、このような腐敗した領域からは出るべきだと述べている。だが、筆者が述べている「エクソダス」とは、あからさまな国外亡命のような、物理的な移動を指しているわけではないのだ。時には、そういうことが不可欠な場合もないわけではないと思うが、はるかに重要なのは、霊的エクソダスである。

これから先、どれだけ早く真実に気づいて「エクソダス」を成し遂げるかが、一人一人の生死を分けることであろう。

筆者は、働かせ方改悪法案に賛同しておらず、事実上の24時間労働制・国家総動員体制などに賛成票を投じるつもりも全くないが、それでも、残念ながら、我が国に国家総動員体制のようなものが敷かれるのはほとんど避けられない結果だと考えている。

それはこの国がこれまで敷いて来たヒエラルキー、競争原理が必然的にもたらす結果なのであり、一旦、とことん行き着くところまで行き着かない限り、この残酷な競争の激化は止められないのではないかと考えている。

だから、私たちはそうした先行きのない世界から目を逸らし、新しい地境を見るべきなのである。もし船の左側に網を降ろして何も魚が取れなかったなら、右側に網を降ろしてみれば良いのだ。左側は、人間の努力によってすべてを達成する道、右側は、神の約束によってすべてが達成される道である。

話が変わるように思われるかも知れないが、経済界および労働市場の絶望的なることを示すために、あるエピソードを述べておきたい。

それはかつて筆者が何年も前に、アルバイトのような仕事をして、とある故障・修理受付のセンターで働いていた時のことであった。

筆者がその職場に入ったとき、その職場は、開けた都会の駅からすぐの大型ショッピングモールのビル街の只中の、きれいでピカピカのオフィスにあった。まだ立ち上がったばかりで、大勢の同僚たちが雇用され、活気があり、窓から見える景色はきれいで、食べ物屋にも困らず、まことに良い雰囲気であった。

ところが、それがとことん異常になり果てて行くまで、3ヶ月もかからなかった。そのセンターの仕事には最初から前線部門と技術部門の二つの区分があり、最初、これらの部門の間に差別はなかった。だが、最初から給与が違っており、技術部門の方がわずかに高かった。前線部門は修理の受付をして技術部門へ渡すための一次対応であった。

センター始まってしばらくすると、いつの間にか、前線部門と技術部門との間にヒエラルキーのような格差が出来てきた。前線部門は、技術部門に接続する前段階の苦情受付のための捨て駒のような役目を押しつけられ、技術部門との間に、だんだん給与面だけでなく心理的にも大きな格差ができ、技術部門は特権的な地位のようにみなされるようになって行ったのである。

職場の中にヒエラルキーがあるということは心理的にも非常によくない。職場内にあからさまな無気力感が漂い、同僚同士が妬み合ったり、足を引っ張り合ったりして、何一つ良いことは起きない。

だが、そのセンターには、筆者が働き始めて3か月頃した頃から、今度は、いきなり現場の仕事には全く携わることのない庶務部門や、社員の仕事をチェックしてはダメ出しするだけの品質管理部門といった新たな部門が導入されて、さらに新たな重層的ヒエラルキーが出来上がり、事務仕事に携わる連中が、前線部門、技術部門を問わず、センター全体の仕事を見張り、難癖をつけては、大きな顔をするようになったのである。

いきなり導入された庶務部が、シフト管理などにうるさく口出しをし、全従業員に君臨して大きな顔をし始め、一つの職場内で、事実上の官僚集団のようになって行った。一つのセンターの中に完全な「お役所」が出来上がり、筆者は開いた口がふさがらなかった。

そのような事態になるまでの間に、仕事の質もどんどん落ちて行った。最初は活気があったセンターが、連日の苦情のために、どんどん疲弊して行った。さらに、従業員は、あくどい形で、顧客から金をとるために、修理しなくても良い箇所まで、修理させるようにとの業務指示を下されたりと、納得のできないことの連続で、顧客が可哀想だと思われることしきりであった。

何より、連日のように顧客から異常と思われる終わりのない苦情が入って来るようになり、それにみなが苦しめられていた。むろん、そんな苦情が発生したこと自体、企業の経営方針、倫理の欠如が深刻に問われる。そうした希望の見えない仕事の中で、職場では身びいきがはびこり、幹部の覚えめでたい連中だけが、見る間に出世して管理職に登用されて行き、管理者ばかりがゴロゴロいるようになったのであった。

筆者はより高い給与とましな仕事内容を求めて技術部門への転身を試みたが、あいにく実現しなかった。(そして、筆者の人生では、この仕事が本業とは関係のない最後のアルバイトとなった。)

以上のような変化の中で、筆者はこの職場には将来の希望が全く見いだせないため、早く転職せねばならないと思うようになった。品質管理部門が、皆の仕事に目を光らせて、あれやこれやとうるさく難癖をつけているため、思うように仕事もできなくなり、筆者はこの職場を一刻も早く出るべきと確信した。

ほんのわずかな期間に、入ったばかりの頃のわきあいあいとした雰囲気、同僚たちとのあけっぴろげな談笑、これから何かが始まるぞという活気は、急速に萎み、見る影もなくなっていた。

筆者が仕事に愛想を尽かしかかっている気配を察知して、それまで同僚だった人が、それを上部に密告し、友達の顔をして、筆者の動向を調べ上げ、中枢部に報告するようになった、筆者はうすうす同僚の裏切りを感じてはいたが、それでも、それを全く意に介さず、その同僚の説得を振り切って、センターを去った。

その同僚は、筆者の退職後、筆者を裏切り者のように言いふらしていたらしい。(だが、自己弁明しておけば、そのように悪しざまに言われていた人々の中には、筆者のみならず、この職場を脱出しようとしたすべての同僚たちがを含まれていたのである。)

そして、密告までして上部に媚を売り、その仕事にしがみつき、センターに残った人たちが、その後、どのような末路を辿ったのかは、センターにいた仲の良かった別な同僚が仔細に至るまで教えてくれた。

筆者がそこを出た後、なんとごくわずかな間で、本社からリストラ精鋭部隊なるものが送り込まれて、大規模リストラを決行し、そのセンターが事実上、崩壊したというのである。

筆者はその話を聞くまで、追い出し部屋だとかの話を耳にしても、半信半疑で、リストラ部隊などといったものは、あるはずのない話だと思っていた。まさかそれなりに名の通った大企業に、自社の社員たちをリストラすることだけを専門にしている社員が雇われているなど、考えてみたこともなかったのである。一体、何のために?

ところが、それは本当のことらしかった。本部から四人の凄腕のリストラ精鋭部隊が送り込まれて来て、センターに残っていた同僚たちをことごとく片っ端からクビにして行ったというのだ。

仕事のできる優秀な人々がまず真っ先にターゲットとされ、仕事に難癖をつけられては、何度も、何度も、訂正を求められ、それにうんざりして自分から辞めた人も多かったという。数か国語を扱える優秀な社員も同じようにターゲットとされて追い払われた。

次に、管理職、平を問わず、大規模なリストラが決行されて、センターの人員が半数近くもいなくなった。その後は、事実上の恐怖政治が敷かれ、最後までクビにならずに残った人たちは、シフトも自由に申告できなくなり、休みも思うように取れず、恐怖で辞めることもままならず、会社への密告を恐れて同僚と口を利くことさえできなくなり、職場に出勤しても、恐怖のあまり手が震えてパソコンを打てないほどだったという。

センター自体はなくならなかったはずだが、筆者が見知っていた同僚の8割がたは解雇されて入れ替えられた。筆者がいた頃に、身びいきで出世していった人々も、みなすげ替えられたのである。

筆者はこの他にも、職場の腐敗や、崩壊に近い現象をそれなりに見て来たが、短期間でこれほどまでにダイナミックな崩壊(自滅?)を遂げた事例は他に聞いたことがなかった。立ち上げ当初の活気ある雰囲気を知っていただけに、まさかという思いが今でも込み上げて来るが、やはり、自分の中の直観は正しかったのだと思う。

リストラ部隊は、筆者には、抜き身の剣を持った御使いたちの姿を思い起こさせる。コネや身びいきがはびこり、不平等なヒエラルキーが敷かれ、お友達ばかりが管理職になって出世し、誠実な人々はひたすら苦情処理のような味気ない仕事を押しつけられ、昇進の道も閉ざされ、将来の希望もなく、不公平、不正義、堕落、腐敗の代名詞のようになったセンターには、こうして目に見えない剣が投げ込まれて、誰の手にもよらず、職場が自壊して行ったのである。

そうした話を同僚から克明に聞かされた時、職場がそんなひどい状態に陥るよりも前に、筆者がそこを去ったのは、まことに正しい決断だったと、改めて心の中で頷いたものであった。たとえ裏切り者のように罵られたりしたとしても構わない、残っていれば、もっとはるかにひどい事態が待ち受けていたことは明らかなのである。

可哀想なことに、優秀でまじめで仕事好きだった同僚は、精神的に追い詰められて、疲弊した様子だった。決して誰とも対立したり、会社の悪口を言ったりするようなタイプではなく、思いやり深く、働き者の同僚であったが、結局、無理がたたって怪我をして、その仕事を続けることはかなわなくなったようであった。

筆者が何を言いたいかは、しまいまで言い切らずとも、分かってもらえるのではないかと思う。

これまで我が国は、「国と企業のために役立つ優秀な人材」を求めて、ひたすら偏差値教育やら、就職戦線やら、国家公務員試験制度やらを通して、国民同士を競争させ、国民の間にヒエラルキーを敷いて、差別的な階層を作り出した。仕事を得る上でも、新卒・既卒の差別や、正規雇用と非正規雇用の身分差別、圧倒的な賃金格差を作り出し、とことん不公平な体制を敷いて、国民同士を「勝ち組・負け組」に分断して、戦わせて来たのである。

そのような悪しき分断作戦に、国民は気づいて立ち向かうべきであったのに、競争原理に踊らされ、自分を「勝ち組」として、地位にしがみつくことに必死の人々は、隣人に起こっていることに無関心で、自分が優位にあるうちは、自分だけが大丈夫であれば良いと考え、他人を見殺しにした。自分自身が徹底的にターゲットとされるまで、搾取や、リストラや、過労死や、ハラスメントなどは、自分には関係のないことだと高をくくっていた。

そのような愚かさ、無関心さ、無慈悲さ、利己主義がもたらす最後の当然の結末として、我が国では、今や国家や企業の無限大の搾取の願望が、ついに24時間働かせ放題のディストピアという形で押し通されようとしているのだ。

もうこうなると、国の崩壊そのものが近いと言えよう。今や抜き身の剣を持った御使いたちが、天から派遣されて、目に見えない死の剣を、我が国の国民全体の頭上に振りかざしている最中なのである。

それなのに、人々は殺されるまで物言わぬ羊として、上からの覚えめでたい人間として生きるため、地位にしがみつくため、殺人的な政策にも黙って従い、屠殺場に黙って引いて行かれるつもりなのであろうか? 

残念ながら、こうした現象は、経済界だけに限ったことではなく、むろん、国の組織も、学術研究機関も同じであり、およそ地上の組織という組織が、腐敗して、頼りにならない、人間を苦しめ、圧迫し、閉じ込めるものとなっているのである。

それは、宗教指導者の利益を第一とし、宗教指導者から評価されることを信者の「救い」と取り替えた腐敗した宗教組織にも共通することである。

「囲いの呪縛から出よ!」と、筆者はもう一度、言いたい。私たちは「和の精神」の呪縛から自分を解放すべきなのである。

カルト団体では、宗教指導者が信者に死ぬ寸前まで奉仕を要求するが、今の経済界で起こっていることは、それと本質的に同じ現象である。合理的な結果を出すために働かせるのではなく、人間を完全に奴隷化して支配するために、限度を超えた労働を要求しているのである。

このような死の世界には触れてはいけない。問題は、過労死をいかに防ぐかとか、企業や団体に労基法をどうやって守らせるかとか、正規と非正規の格差をどうやって埋めるかと言ったところにはもはやないのだ。

この果てしない地獄のような搾取の願望、人命を何とも思わずに犠牲とする金儲け第一主義の腐敗した理念から、どうやって一人一人が身を引きはがし、身を守り、これにNOを突きつけ、これとは全く異なる価値観に従って生きて行くかという選択の問題なのである。

筆者はクリスチャンとして言うが、今やまさに一人一人の信者が、信仰によって神ご自身との直接のつながりを得て、人間の指導者を介さず、組織を介さず、神のまことの命からすべての供給を受けて生きて行かねばならない時代が来ている。

それはハドソン・テイラーやジョージ・ミュラーを含め、幾多のキリスト教の先人が生涯に渡って成し遂げて来た方法であるから、何も不可思議な方法論ではないし、恐れることでもない。

イエスは十字架にかかられる前にこう言われた。

「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。

わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(ヨハネ12:23-26)

この御言葉は、隣人愛のために自分を捧げるという文脈で誤解される向きが強いが、実際にはそうではない。この御言葉は、クリスチャンが、この世で得られるすべてのかりそめの栄誉、地位、財産など、人間の間で作り出される虚栄に対して死ぬという意味を強く持っている。

これは、人の目に立派な人間と認められ、この世でひとかどの者と認められて地位を築き上げようとすることをやめて、ただお一人の神だけに評価され、神の御心を満足させることだけを求めて生きよという神の命令なのである。そして、主イエスは、その実現のために、十字架の死に向かわれたのであり、ご自分の死を指して、ご自分の「栄光」だと言われたのである。

イエスが地上に来られた時代、地上には立派なエルサレムの都と神殿があった。多数の宗教指導者がいて、人々に敬われていた。だが、イエスはそうした人々から全く栄光をお受けにならなかった。むしろ、主イエスは彼らを偽善者と呼び、「白く塗った墓」にたとえ、「外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている」(マタイ23:27)と非難されたのである。

イエスは彼らにこう言われた、

「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。こうして、自分が預言者を殺した者の子孫であることを、自ら証明している。

先祖のが始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。蛇よ。蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。

こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」(マタイ23:29-36)

今日の時代もこれと全く同じではないだろうか。地上には荘厳で立派な教会がいくつも建てられ、立派な服を着た宗教指導者たちが講壇から重々しく説教し、うやうやしく荘厳な儀式が行われている。そして、彼らのもとに集まる信者は、自分たちは正しい宗教指導者を拝む正しい信者であると自負している。

あたかも、そこには完成に近い素晴らしい礼拝があり、素晴らしい敬虔な指導者や信者たちがいるように見えることであろう。

ところが、そうした人々は、神が遣わされた「預言者、知者、学者」を決して認めようとはせず、その中の「ある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する」。そして、その血の責任を、自分自身の身に負っているのである。

イエスが、エルサレムの都と神殿の崩壊を予告して言われたことを思い出したい。

「「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ。めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。

見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。
言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。

イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指した。そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石ここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」」(マタイ23:37-39.,24:1-2)

このような宣告が一切、我が国とは関係がないと、私たちは言えるだろうか? 義人を罪に定め、真実を闇に葬り、不法と虐げを見て見ぬふりをし、寄る辺ない弱い者たちを嘲笑して死に追いやり、神に従う信者を迫害し、神が遣わされた預言者を殺そうとする国や街が、この先、無傷で立ちおおせることなどあるだろうか?

だが、私たちは、地上のエルサレムではなく、天のエルサレムを目指して歩んでいる。地上の目に見える都、宗教組織、目に見える礼拝、目に見える宗教指導者に帰属するのではなく、天の都に根差して生きている。だから、私たちは常に見えない新しい地に目を注ぎ、地上の目に見える有様に足を取られることは決してない。上にあるものを求めるために、崩壊しかかっている地上の有様からは目を離すのである。

今日、私たちがこの身に負っている「イエスの死」は、現実の死ではなく、十字架における霊的死である。私たちは絶えず自分の心に問われている、あなたは何を第一として生きるのかと。この地上における栄誉、人からの賞賛や理解、高い地位などと言ったものを求め、それを第一として生きるのか、それとも、見えない神からの賞賛や評価だけを求めて生きるのか。神を愛し、神に従って生きることと、地上での栄誉を求めることは決して両立しない。

筆者は何も持たずにこの地へやって来たときと同じように、手ぶらかつ気楽に、しかし心から、神に向かって祈る、主イエスよ、私はあなたに従います。何があろうとも、私はあなたに従います。私は、キリストがそうであったように、完全な人となり、あなたに従いたいと心から願っている僕の一人です。私の行くべき道を教えて下さい。私を教え、導いて下さい。私の人生は、あなたの御手の中にあり、私は人生最後の瞬間まで、あなたの僕です。

私たち自身の努力や決意は不完全であっても、神は私たちの信仰に必ず応えて下さる。何しろ、私たちが神を選んだのではなく、主が私たちを選んで下さったのであり、それは私たちが出て行って、実を結び、その実が永遠に残るためなのである。

そこで、地上の有様がますます悲惨に、混乱に満ちて行ったとしても、私たちの心の中には、常に新しい尽きない感謝の歌がある。それは、私たちの永遠になくなることのない希望である、まことの神への尽きない賛美と感謝の歌である。

だから、私たちは確信を持って大胆にこう言う、「主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなし得よう」と。イエスはすでに十字架で私たちのために勝利を取られたのであり、生涯の終わりまで、完全に私たちの味方でいて下さるのである。

「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。
 イスラエルは言え。  慈しみはとこしえに。
 アロンの家は言え。  慈しみはとこしえに。
 主を畏れる人は言え。 慈しみはとこしえに。

 苦難のはざまから主を呼び求めると

 主は答えてわたしを解き放たれた。
 主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。
 人間がわたしに何をなしえよう。
 
 主はわたしの味方、助けとなって
 わたしを憎む者らを支配させてくださる。
 人間に頼らず、主を避けどころとしよう。
 君侯に頼らず、主を避けどころとしよう。
 
 国々はこぞってわたしを包囲するが
 主の御名によってわたしは必ず彼らを滅ぼす。
 蜂のようにわたしを包囲するが
 茨が燃えるように彼らは燃え尽きる。
 主の御名によってわたしは必ず彼らを滅ぼす。

 激しく攻められて倒れそうになったわたしを
 主は助けてくださった。
 主はわたしの砦、わたしの歌。
 主はわたしの救いとなってくださった。

 御救いを喜び謳う声が主に従う人の天幕に響く。
 主の右の手は御力を示す。
 主の右の手は高く上がり
 主の道の手は御力を示す。

 死ぬことなく、生き長らえて
 主の御業を語り伝えよう。
 主はわたしを厳しく懲らしめられたが
 死に渡すことはなさらなかった。

 正義の城門を開け
 わたしは入って主に感謝しよう。
 これは主の城門
 主に従う人はここを入る。
 わたしはあなたに感謝をささげる
 あなたは、答え、救いを与えてくださった。

 家を建てる者の退けた石が
 隅の親石となった。
 これは主の御業
 わたしたちの目には驚くべきこと。
 
 今日こそ主の御業の日。
 今日を喜び祝い、喜び踊ろう。

 どうか主よ、わたしたちに救いを。
 どうか主よ、わたしたちに栄えを。
 
 祝福あれ、主の御名によって来る人に。
 わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。
 主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。
 祭壇の角のところこまで
 祭りのいけにえを綱でひいて行け。
 あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。
 わたしの神よ、あなたをあがめる。

 恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。」(詩編118:5-29) 

2018年5月19日 (土)

もし神が私たちの味方であるならば、誰が私たちに敵対できますか。どんな被造物も、キリストによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです。

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために取り成してくださるのです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができるましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。

「わたしたちは、あなたのために、
 一日中死にさらされ、
 屠られる羊のように見られている」

と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にあるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:31-19)

とても気持ちの良い穏やかな日が続いている。書類の作成の真っただ中であるが、冒頭では少し違った話題を提供しておきたい。

筆者がヴァイオリンを再開してから約1年が経とうとしているが、今取り組んでいる曲の中には、バッハの『シャコンヌ』もある。

ブゾーニがこの曲をピアノ用に編曲していることを知ったのは比較的最近だ。両方をやってみると、改めてバッハのこの曲の奥深さ、ブゾーニの編曲の見事さが分かる。ピアノとヴァイオリンの両方の楽器の特性を活かして、それぞれの長所を曲に取り入れることもできる。

むろん、シャコンヌはもとは舞曲の様式であるから、葬儀とは何の関係もない。だが、筆者が昨年、ブゾーニの編曲版を練習し始めたのは、親族が亡くなる直前にあることを知らされたことがきっかけだった。

親族を見送るために演奏しようと考えていたのである。しかし、その親族の家にはピアノがなく、筆者は葬儀には立ち会うこともなかったので、幸いなことに、この美しくダイナミックな曲を葬儀で演奏することはせずに済んだ。

それでも、不思議なことに、その人が亡くなったのは、ちょうど筆者がこの曲に取り組み、曲がそれなりに出来上がった時のことであった。「そろそろ、完成したな」とつぶやいたその次の日に、その人は亡くなったという知らせが来たのであった。

バッハは敬虔なキリスト教信者であったが、筆者はこの曲の中に、それほど信仰的な要素を感じない。これはバッハの信仰を否定しているわけではなく、バッハの曲が、非常に人間的に感じられるということを言いたいのである。

信仰の歩みは、ある意味で、とても軽快な部分がある。人間の魂のあの切ないまでのもつれ、悲しみ、叫びといったものは、信仰生活にはそれほど関わって来ない。キリストの復活の命を知ると、特にそうだが、以前には抜け出られなかったそうした魂の重荷ともつれから、かなり解放される部分がある。

キリストにあっての信仰の歩みは、重い足取りではなく、相当に軽快な足取りなのである(筆者の記述からはあまりそれが感じられないと言われそうだが…)。

しかし、バッハの曲には、永遠にたどり着こうと願いながらも、自力ではそれができない、生まれながらの人間の限界、魂のもがき、紆余曲折、脆さ、儚さなど、人間のあるがままの弱さと、魂の遍歴、呻きが非常によく表れているように感じられる。

この曲を聴くと、生まれながらの人間の有限性を痛切に感じさせられ、人間とは一体、何なのだろうかという厳粛な思いにさせられる。聖書の中で呈される「人とは何者なのでしょう」という疑問は、神の人間に対する深い愛に基づくものであるため、感謝と喜びに満ちているのだが、バッハの曲から感じられる疑問は、まだ永遠にたどり着く前の人間の切ない叫びのように感じられてならない。

さて、ピアノがない代わりに、親族の家にはヴァイオリンを持って行ったが、その時、筆者の手元にあったのは、安物の楽器商から買った音の良くないヴァイオリンだけで、顎当てもなく、覚えている曲も、子供時代に弾いた一曲くらいであった。

当然ながら、演奏と呼べるような曲は弾けず、親族からのコメントもなかったが、その人と筆者とは全く異なる価値観に生きており、その人はクラシック音楽にも一切、関心がなく、最後まで「音楽など聴く高級な耳は私にはない」などと皮肉を言っていたほどなので、うまく演奏ができていたとしても、やはりコメントはなかっただろうと思う。

筆者がその人をバッハの曲で送ってあげたいと考えたのは、どちらかと言えば、筆者の自己満足であり、その人はバッハの音楽を理解する耳を持っていなかったので、そんなことを全く必要としていなかったのである。

だが、そういういきさつもあって、筆者は、この人と生きているうちに喜びを共有するためだけに会い、この曲を葬儀で演奏しなかったことは、まことに幸いだったと考えている。そして、この曲を弾いているうちに、いかにこの曲が荘厳で、有限なる人間の切ない魂の叫びを感じさせると言っても、それでもやはり、生きることの喜びを感じずにいられないのである。

音楽を演奏するのは、人を死出の旅路に送り出すためではなく、生きていることの喜びを共有するためである。

さて、それにしても、初心者が『シャコンヌ』をヴァイオリンで弾くというのは、どう考えても、背伸びのしすぎという考えもあるだろうし、実際、その通りだと言えよう。もし十分に時間があるならば、この曲にたどり着くまでの間に、あまたの曲に取り組み、そのような無謀な挑戦は避けるべきだと思う。

それでも、筆者はもともとこの楽器を思うように弾けるようになるまで、何年越しかのチャレンジだと覚悟を決めていたので、時間がかかることは最初から承知で、焦りもなく、気楽なものであった。

筆者は、ヴァイオリンについては、まずは楽器に友達になってもらうことが大切と考え、決して強引で無理な接近はしないことに決めている。一日に長時間弾くこともせず、難解な箇所を延々と繰り返すようなうんざりする練習の仕方を決してしない。弾けても弾けなくとも、無理をせず、曲が難しく、嫌になりそうになれば、2、3日、「寝かせておく」。

すると、しばらく経って、再び取り上げてみると、思いのほか、前には弾けなかったところが、弾けるようになり、出せなかった音が出て、不思議と上達しているのだ。一体、眠っている間に、なぜ上達があるのか、本当に不思議としか言いようがない。

ヴァイオリンは音作りのためだけに相当な時間がかかる。曲を覚えるのに時間は要らず、運指やポジションを覚えるのも全く大変ではない。とはいえ、重音の連続を美しく聞こえるように弾けるようになるまでには、大変な月日がかかる。低い弦の高音域は、押さえても音にならない。一曲を弾き通すだけでも、最初はエベレスト登頂のようにはるかに遠く感じられた。

それでも、取り組むこと3~4ヶ月くらいの頃だろうか、ある時、動画を見ていると、演奏者がまるで自分に乗り移ったように、力加減、バランスのとり方などについて、ふっと疑問が氷解したのであった。ああ、これで峠を越えたな、あとは時間をかけてゆっくり細部を完成させて行くだけだ…と分かったのである。この曲をある程度、満足するよう弾けるようになるまで、3年も5年もの月日はかからないであろうと分かった。

さて、この記事と話題が異なるが、今準備している書類について、少しだけ書いておこう。損害賠償請求訴訟は、原告の住所地(の管轄裁判所)で提起できる。被告が移送を申し立てても、よほどの理由がない限り、認められないことは、IWJの岩上氏が橋下氏から受けたスラップ訴訟の件でも証明されている。

裁判の管轄を決めるのはあくまで裁判官であって、管轄を争った場合の結果をある程度、予想することは可能でも、事前に断定することは不可能である。特に、岩上氏はジャーナリストで全国各地を飛び回っていることから、移送の申立てが認められなかったと見られる。それでは、被害者のために全国各地を飛び回っている牧師はどうだろう? 少し予想すれば、軽はずみに断定的な発言を記すことは控えようと思うはずである。

また、ブログの記述が名誉毀損に該当しないことを証明するためには、その記述内容が真実であることを裏づけるために被告の論証が必要になるのは言うまでもないが、これは被告にとって大変に骨の折れる作業になるというか、ほとんど不可能であると言って良い。もともと真実でない記述を真実だと論証するなど、誰にとっても無理な相談だ。

また、他人のブログの題名や文章を大量に剽窃して記事やコメントに含めたり、他人のブログに不必要なリンクを大量に貼るような記事を数多く投稿したりすることは、むろん、逆SEOの手法に含まれる。

工作員や親衛隊という言葉も、学生運動の専売特許ではない。コメント投稿者と共同して不正に検索順位を操作した記録があまた残っているのだから、工作員との共同作業と言われるのは仕方がないだろう。

もちろん、裁判手続きを取ったり、警察を利用することは、市民としての正当な権利を行使することであって、「公務員に助けを求める」ことを意味しない。裁判所の書記官はただ事務手続きを行うだけであり、警察は捜査を行うだけで、物事に白黒つけて決着を下すのは彼らではない。これらの人々は市民の救済者ではない。公務員は国民の公僕であるから、行政の職員はサービスを提供し、司法の職員は司法手続きを前に進めるだけである。

筆者がブログで述べているのは、憲法の言う公務員とは、選挙で選ばれた政治家を指すのであって、国家公務員制度や公務員試験の由来は、戦前の明治憲法時代の官吏にあるということだ。つまり、現在の公務員と呼ばれている人々は、旧時代の遺物なのである。

だが、こうした主張も、筆者の専売特許ではないし、何ら筆者が公務員を「罵倒」していることにも当たらない。ましてそれは筆者が市民として裁判を利用したり、警察を利用したりすることを不当であるかのように非難し、押しとどめる根拠とはならない。

こうしたごくわずかな事項を取り上げただけでも、向こうの記述がいかにデタラメで、およそ司法手続きを理解しない人間の言い分であり、勝ち目が薄いかは誰にでもすぐに分かるだろう。反論する価値もないので、これ以上詳しく書く必要もないものと思う。しかも、大半の記事は内容の是非を問う以前に単なる著作権法違反として削除の対象となる。

このような事態だからこそ、ずっと以前から、筆者はラスコーリニコフに学ぶよう伝えているのだ。

筆者は大地にひざまずき、神に感謝を捧げる。だが、それはラスコーリニコフのように罪の赦しを乞うためでなく、罪赦されて、義とされ、復活の命が与えられ、勝利していることを神に感謝するためだ。

クリスチャンは、自分が神に選ばれた者であることを大胆に宣言できなくて一体、どうするのだろうか。万民祭司の今の時代、クリスチャンは一人一人がみな神の預言者であり、祭司なのではないと否定するつもりなのだろうか。一体、そうした揺るぎない聖書的事実を自ら否定してどうするつもりなのだろうか。それは自分がクリスチャンではなく、神に選ばれておらず、神の祭司でも預言者でもなく、「神に疎外されし者」であることを、まさに自分自身の口から告白しているのと同じではないのか? そのようなことは考えるだに恐ろしい告白である。

筆者は、冒頭に挙げた御言葉は、まさに筆者のためにあることを信じて疑わない。筆者だけでなく、むろん、すべてのクリスチャンに同じように当てはまる。悪魔はディアボロスすなわち中傷者であり、訴える者である。しかし、キリストにあって、私たちにはすべての訴え、すべての罪定めからの救いと勝利が与えられているのだから、絶大な血潮の価値を確信して、大胆に前進して行くべきなのである。

この土地に、キリストの主権が打ち立てられることを確信して、高い山に登頂した人がするように、筆者は目に見えない勝利の旗を立てる。そして心で言う、主よ、感謝します。あなたの御言葉は正しく、あなたの知恵は十分で、あなたの栄光は揺るぎません。

私たちは永遠に至るまで、キリストの復活の証人であり、自らの証しを公然と高所に掲げるのです。私たちは世の光であって、山の下にある町は、この光から隠れることはできません。

白毫が世界を照らすのではない。私たちの持っているこの小さな光こそ、神の御言葉の真実を証するものとして世を照らすのです、私たちはこの光を隠しません・・・。


<参考までに…>


アルトゥール・ルービンシュテイン


ヤッシャ・ハイフェッツ


ナタン・ミルスタイン


イツァーク・パールマン


アンドレス・セゴビア

2018年5月17日 (木)

見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない。

「見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない。 」(イザヤ65:17)

目覚めると、この御言葉が心に響いた。何の変哲もない朝だが、いつの間にかエクソダスが完了していた。いつの間にか紅海を渡り切り、追っ手はいなくなり、エジプト軍は溺れ死んでいた。あの激しい戦いがすべて過去になり、新しい朝が来たことが分かったのである。

このような確信は、言葉で証明できるものではない。まだ周りには、がれきの山が散乱しており、洪水の爪痕が残り、後片付けが残っている。また雨が降るのではないか? 箱舟から降りて大丈夫なのか?

目に見える保証はない。それにも関わらず、「戦いは完了した」とはっきり心の中で理解できるのである。

前にも書いたように、霊的「エクソダス」の瞬間には、いつも激しい戦いが伴う。その脱出は、命がけの試みであり、壮大なドラマである。私たちは信仰の小舟に乗っているが、外の嵐に、小舟は翻弄される。嵐が本当だと信じるのか、それとも、信仰によって与えられる内なる平安を信じるのか。それは常に私たちの心にかかっている。

どんなに波が高く、風が強く見えようとも、心の奥底にある平安を確固として握りしめ、御言葉に立って、主に従い抜けば、いつの間にか、考えられないような静けさが訪れる。戦いは止み、平安が訪れる。

もし本当に脱出したいと望むならば、絶対に目的をあきらめてはいけない。追っ手がどんなに強力に見えようと、妨害がどんなに激しく感じられようと、決してあきらめてはならない。

神が必ず自由な地へと導いて下さる。長血の女がイエスに出会って癒されたように、長年、主の民を圧迫し、食い破ろうとしていた獰猛な獣は追い払われ、鉄の枷が打ち砕かれたのだ。

筆者は、キリスト教界からのエクソダスはとうに完了したと思っていたが、もしかしたら、未完了の部分が残っていたのかも知れない。何が過去に引き留めていたのかは知らないが、いずれにせよ、改めて自分自身をキリスト教の一切の宗教組織から引きはがし、この呪われた絆をキリストの十字架の死において完全かつ永遠に断ち切ったのであった。

むろん、筆者は生涯の終わりまで聖書に忠実な信仰者である。だが、地上の宗教組織は、もはや筆者とはいかなる関係もない。そういうものとは一切縁を切り、地上の呪われたキリスト教界とは何の関わりもないただの人として生きることに決めたのである。

その決意と共に、この古き絆から派生していたすべてのしがらみが死に絶え、断ち切られたのであった。筆者は、全く新しい方向へ向かって歩き出した・・・。

溺れ死んだのは、古き人、古き過去、古き呪われた縁の数々・・・。気付くと、キリストにある新しい人としての新しい朝がやって来たのであった。

ちょうど横浜へ来る直前がそのような状況であった。信者の刷新は、まず霊の内側から始まる。霊から始まる新しい命の息吹が、魂へ、体へと波及し、現実に少しずつ影響を及ぼしていく。この変化は少しずつ行われる。

十年ほども前のことであるが、筆者はその頃、色々な戦いがあって疲れていた。霊の内側は新しくされても、体はまだ過去の残滓の只中にあり、主が色々なことを用意して下さったのに、目まぐるしい展開に着いて行けず、自ら望んだことだったにも関わらず、こんなことで大丈夫だろうかと不安に思っていた。

いつものように朝寝坊をしかけていると、御霊によって起こされた。最後の平日だから、今日は住民票を取らないと手続きが間に合わないから行きなさいと、心に思い起こさせられたのであった。

その頃、自分が新しい土地へ旅立ち、どこで何をすることになるのか、皆目、分からないまま、それでも平安の内に御霊と共に歩んでいた。何もかもが手探りである。不慣れゆえすべてに戸惑いがないわけではない。だが、心の底では平安だ。主が着いておられるという確信があった。体がどんなに疲れていても、御霊が新しい命の中から、筆者自身のものではないエネルギーを心と体に供給してくれる。

その当時と今は全く同じである。神と私との間を隔てるものが何もなくなった。おそらく、筆者と神との間を隔てていたものがあるとすれば、それは地上の呪われた宗教組織、神と人との間に立ちはだかろうとする肉なる指導者、十字架を経ていない生まれながらの人間の古き人の情による絆としがらみだったのであろう。

だが、古きものはみな水の下に沈み、滅ぼされた。一つの時代が過ぎ去り、ノアは恐る恐る箱舟から降りて、新しい地へ一歩を踏み出す。まだ誰も降りたことのない、清められた新しい地、復活の領域に・・・。

主は私に顔を上げるよう促し、目の前に見える広大な土地を指して言われる、「目をあげて、目の前にある新たな土地を見なさい。あれがあなたのための土地です。まだ誰も足を踏みいれたことのない新しい土地です。これから始まることに思いを馳せなさい。古き世界のものがあなたを追ってくることはありません。それはあなたに手を触れられません。かつてあったものはみな死んだのです。

あなたはキリストにある新しい人、先のことをもう思い出す必要はありません。それは私の中では無きに等しいものですから、あなたも同じように考えなさい。死んだものに未練を持たず、それを振り返らず、これから進むべき地、獲得しなければならない新たな目的をしっかり見据えなさい。

恐れることはありません。私が着いています。私があなたのすべての戦いに共にいます。私の守りの中にとどまりなさい。呪われたものには二度と触れてはなりません。」

依然としてまどろみの中にあるように、心の中で、これは本当のことなのだろうか、と思いめぐらす。40日間、洪水がやまなかった間の窮屈な生活をよく覚えている。だが、神は、これから起きることに目を向けなさいと促される。

自然と、新しい歌が口をついて出て来る。それはこの世の音楽ではない、歌詞やメロディのない、人知を超えた、新しい霊の歌である。

それは、とどまるところを知らない神への賛美である。主を賛美せよ、万軍の主は戦いに勝利を取られた、心貧しい人、虐げられた人、蔑まれる人、弱い人、圧迫された人、神を呼び求め、神の義を求めるすべての選民よ、喜びなさい、神はあなた方のために、新しい人を用意され、新しい天と地を創造されたのだ・・・。

あなた方の古き人の上に、天から下られた聖なる新しい人である主イエス・キリストを着なさい。あなた方の罪のために十字架で死なれ、よみがえられたキリストを着なさい。

見よ、この新しい人の中にすべてがある。キリストこそ、すべてのすべてであって、彼こそあなたのためのまことの命なのです。

だから、キリストがお与えになったすべての良き性質を身に着けなさい。あなたのために天に備えられているすべての宝を、賜物を、義を、知恵を、命の糧を、キリストを通して得なさい、それはあなたのために払われた犠牲なのだから…。

主は勝利を取られた。肉の人としてのノアは、まだすっかり以前と変わってしまった大地に戸惑いを覚えている。しかし、霊の人としてのノアは、喜びに溢れ、主を賛美している。人は神のなさることを魂で理解できないが、霊においては、御霊を通して、神が人知を超えた解放の御業をなしておられることを確かに知っている。

だから、信仰の先人たちは、行く先を知らないで出て行くことができたのであり、何が起きているのかを知らないままで、主を賛美しながら、新しい目的に向かって行ったのである。

私たちは、神を畏れながら、新しい大地に跪き、主を崇め、誉め讃え、感謝する。

私たちの目は新しい契約に注がれている。それは神の目に喜ばれる新しい人であるキリスト、復活の命、新しい天と地、私たちのために用意された永遠の都である。

そこでは、もはや人の教えだとか、儀式だとかといったものはない。人が人に向かって「主を知れ」と教えることはない。神と人との唯一の仲保者であられるキリストが、直接、御霊を通して私たちを教え、導いて下さる。キリストは、信じる者たちにご自身を喜んで啓示される。

「もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。

「『見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、新しい契約を結ぶ時が来る』と、
主は言われる。
それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、
エジプトの地から導き出した日に、
彼らと結んだ契約のようなものではない。
彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、
わたしも彼らを顧みなかった』と、
主は言われる。

『それらの日の後、わたしが
イスラエルの家と結ぶ契約はこれである』と、
主は言われる。

『すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、
 彼らの心にそれを書きつけよう。
 わたしは彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 彼らはそれぞれ自分の同胞に、
 それぞれ自分の兄弟に、
 「主を知れ」と言って教える必要はなくなる。
 小さな者から大きな者に至るまで
 彼らはすべて、わたしを知るようになり、
 わたしは、彼らの不義を赦し、
 もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。

 神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消え失せます。」(ヘブライ8:7-13)

「年を経て古びたもの」という言葉は、「年を経たあの蛇」を思い出させる。

「わたしはまた、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖を手にして、天から降って来るのを見た。この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。」(黙示20:1-3)

復活の命には、経年劣化がない。この命は常に新しい命である。だが、堕落したもの、朽ちゆくもの、呪われたものにはすべて老いと死の跡が刻まれる。

エクレシアとは、死を打ち破ってよみがえられたキリストの命によって生かされ、立たされているすべての者たちである。いかなる外的な証明手段にもよらない、復活の命の刻印を帯びたすべての人々を指す。

「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」(Ⅱコリント5:17-18)

キリストにあって、神と和解し、一つとされた人々。キリストに結ばれた聖なる花嫁。この人々は、新しい天と地、新しい都へ向かって進軍し続ける強力な軍隊である。

私たちのためには堅固な都が用意されている。そこには汚れた者は入ることはできない。だが、その都へ入るために、私たちは勇敢に前進して、信仰の戦いを戦い抜いて、御言葉を守り抜き、勝利を得る必要がある。聖書は言う、臆病者、不信仰な者になってはいけないと。勝利を得る者が、神の相続財産を受け継ぎ、神の子どとして栄光を受けるのだと。

だから、エクレシアよ、神の軍隊よ、花嫁たちよ、臆することなく、勇敢に前進して行きなさい! あなた方のために備えられた約束の地を勇敢に勝ち取りなさい!

「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。

そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。
見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも苦労もない。最初のものは過ぎ去ったからである。

すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。

また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。
しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」(黙示21:1-8)

最後に、「神は決して正しい者がゆるがされるようにはなさらない。神は志の堅固な者を全き平安のうちに守られる。」という記事から、もう一度、以下の御言葉を引用しておこう。


あなたの重荷を主にゆだねよ。

主は、あなたのことを心配してくださる。
主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。

しかし、神よ。あなたは彼らを、
滅びの穴に落とされましょう。
血を流す者と欺く者どもは、
おのれの日数の半ばも生きながらえないでしょう。
けれども、私は、あなたに拠り頼みます。
(詩編55:22-23)

私たちには強い町がある。
神はその城壁と塁で私たちを救ってくださる。
城門をあけて、
誠実を守る正しい民をはいらせよ。
志の堅固な者を、
あなたは全き平安のうちに守られます。
その人があなたに信頼しているからです。

いつまでも主に信頼せよ。
ヤハ、主は、とこしえの岩だから。
主は高い所、そびえ立つ都に住む者を引き倒し、
これを下して地に倒し、
これを投げつけて、ちりにされる。
貧しい者の足、弱い者の歩みが、
これを踏みつける。
(イザヤ26:2-6)


2018年5月16日 (水)

神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。死人を葬ることは、死人に任せなさい。

どのようなことでも、自分自身でやってみることに価値がある。最初は抵抗感を覚えるような難しいことでも、少しずつ、取り組んでいるとコツが分かって来る。訴状もいわば作品の一つのようなものだ。
 
ものを書くのは、ひたすら考察と推敲の繰り返しである。当ブログの記事も、かなりの回数、書き直している。一度書いたものは二度と書き直さないという人々もいるが、筆者はとにかくひたすら文章を推敲するタイプだ。まして公に出す文書は、それにかける手間暇はすごいものがある。

その作業をこれまでずっと着実に果たして来たからこそ、自信を持って、どんなことでも自分でできると断言できるのだ。これは主イエスがついておられるがゆえの自信でもある。自分自身により頼まず、神により頼んでいるからこそ、言えることなのだ。

筆者は、当ブログを迫害して来た暗闇の勢力の手口を、何年間もかけて研究した結果、その手口には、ほとんど定型化された複合的なパターンがあることを学んだ。恫喝による口封じ、誹謗中傷による圧迫、個人情報の暴露の脅し、猜疑心を植えつけることによる仲間との分断工作、訴訟で反撃しようとすれば、スラップ訴訟だとわめき、権利を主張することを何とかして諦めさせようとすることなど・・・。

こうしたことは、ブラック企業が労働者に権利をあきらめさせようとする時に使う手口と非常によく似ている。だが、筆者はこうしたやり方にも、毅然と立ち向かう術を学んで来た。それ通して、卑劣な訴えにどう立ち向かうかという具体的な方法論を学んで来たのである。学生時代のディベートで鍛えた能力に加え、悪徳社労士、悪徳弁護士のような人たちにも根気強く向き合い、代価を払って、どのようにして自分の権利を守るかという具体的な方法を学んだ。

今やネトウヨが弁護士に大量に懲戒請求を出したりしている時代であり、人権そのものを敵視し、これを葬り去りたいと願っている勢力が蠢いている。しかし、そのような考えにチャンスを与えてはいけないのだ。弁護士を攻撃することの背景には、人権への敵視が潜んでいる。だが、卑劣な訴えには、弁護士の方も黙ってはいない。何百人ものネトウヨに毅然と反撃を開始しているし、DHCのような巨大企業からスラップ訴訟を起こされた弁護士もこれに立ち向かい、今やDHCを被告席に座らせていると聞く。

パウロは空を撃つような拳闘はしないと言ったが、筆者も負けるような戦いはしない。だが、努力なしに勝利できる戦いなど何一つない。実践の積み重ねでしか、手応えを掴むことはできないのだ。従って、脅されたからと言って、すごすごと引っ込んで取引に応じて妥協などしていれば、そんな臆病な態度では、初めから何一つ学習できない。まして殉教などを語る資格は全くないと言えよう。
 
さて、今回の訴えの中には数々の不法行為に加えて、著作権侵害も重要なポイントとして含まれるので、記事にまとめるために推敲しようと一旦、非開示にしていたコラム欄も公開しておきたい。

当ブログに長年敵対しているブログだけでなく、匿名掲示板でも多数の剽窃が行われている。掲示板のコメント投稿者らの中には、ネタ探しのためだけに、様々なブログを訪問し、出典も示すことなく、文章を無断で剽窃して行く者たちがいる。

剽窃者らは、ブロガーが最も手間を割いて書いた肝心な記事には見向きもせずに、ただゴシップ探しのためだけに様々なブログを訪問している。そして、わずか1~2秒ほどで、前後もわきまえずに、短い文章をコピペして盗み取り、別な場所へ貼りつけるために去って行く。そういう読み方を、ブログの作者は全く望んでおらず、それがブロガーへの敬意でもない。

法律上、出典を示せば、ある程度の引用は認められているが、本文のほとんどがコピペのような文章は、引用の範疇には含まれない。他者の画像や文章の出典を示さずに引用することは、剽窃に当たり、それだけで違法行為として、後日、責任追及がなされる可能性がある。

そこで、当ブログの文章を許可を取らずに引用することは控えていただくようにされたい。匿名掲示板だから、他人の争いだけを高みの見物できると高をくくっていると、思わぬところから足をすくわれることもありうる。

権利侵害を受けている当事者には、被害を語る権利があり、訴えられている人間にも、合法的な範囲で自己弁明する権利がある。もし合法的な範囲を超えて、反論をすれば、当然ながら、その訴えは認められず、かえって罪として追及されるだろう。

だが、当事者でなく、裁判官でもないのに、どっちつかずの立場から、人を裁き続ける「無数の匿名氏」らの罪も非常に重いと言えよう。もし真に「匿名氏」として非難されるべき存在があるとすれば、それは、当ブログではなく、むしろ、自分は何の苦労も責任も負うことなく、最低限度の自己紹介もなしに、ただ他人の文章を無断でコピペして、評論家然と、知ったかぶりで物事を論じ、部外者にも関わらず、当事者をよそにして、他人の人生を見物材料として高みの見物し、裁判官でもないのに、どっちつかずの立場から、人々を裁き、争いに火に油を投じようとしている人々であろう。

誰からも被害を受けていないにも関わらず、自分が審判者となって他人の争いに首を突っ込み、事態をよりこじらせるような投稿を行い続ける人々は相当に悪質であると言える。

また、人が自分で公開していない個人情報を無断で収集し暴露することも、プライバシーの侵害であり、不法行為に当たる。どんな理由があっても、本人が公開していない個人情報を第三者が無断で暴き、公表することは許されない。

ところが、牧師の中にさえ、当ブログを「匿名氏」と呼んで、実名暴露せよといきり立つ暴徒のような人々に暗黙の賛同票を送り、彼らの怨念を煽り立て、犯罪行為に焚きつけようとする者がいる。それはカルト被害者救済活動の筆頭に立ち、実際にこれらの暴徒たちに筆者の個人情報を提供したと見られる村上密のような牧師だけではない。

たとえば、以下の記事を読んでいただければ分かるように、筆者と面識のない牧師でさえ、そのような考え方に暗黙の賛同表を送っているのである。

死人を葬ることは死人に任せなさい―肉による情愛や、弱者救済を口実に、エクレシアにこの世を公然と持ち込むプロテスタントの偽牧師たち ―

異なる意見を持つ人々がネット上で議論することは大いに奨励されて良い。だが、平和な議論と、他人が公開していない個人情報を暴露したり、暴露を助長するような呼びかけを行うことにより、恫喝や権利侵害によって反対意見を力づくで封じ込めようとする行為は、厳に区別されなければならない。

実名でブログを書くかどうかは、あくまで本人の判断であり、ペンネームでブログを記すことは何らの不法行為にも当たらない。個人情報をどこまで公開するかは、あくまで本人の自主的な判断によるのであって、それは他人がとやかく言える問題ではない。実名を出さないから無責任だとか、逃げているなどといった主張も成立しない。

特に、現代社会ではセキュリティ上の観点から、一人一人が慎重な決断を求められており、世間でも、様々な犯罪事件の被害者が二次被害の発生などを抑えるために、個人情報の公開を自ら制限することは当然視されている。

にも関わらず、キリスト教界の牧師たちには、以上のような認識がまるで欠けているのである。
この教界には、表向きには、弱者を助ける優しい正義の味方のような顔をしつつも、実際には、自分よりも目下と考えている信徒らから、ほんの少しでも自分の論を批判されただけでも、相手を赦すことができない思いになり、生涯をかけてその相手を恨み続け、相手が一般信徒であっても、個人情報を暴露するなどして、何年間かけてでも徹底的に報復せずにいられないという、ヤクザ顔負けのような牧師たちが跋扈している。

自分が信徒に批判されて、少しでも面子を傷つけられたと感じると、一人を寄ってたかって大勢で痛めつけ、個人情報を暴き、徹底的に辱めようとする。むろん、相手が女性であろうと、一般信徒であろうと、一切の容赦もデリカシーもない。さらに、自分の手を汚さないために、一見、自分の教会とは無関係に見える信徒を焚き付け、手先のように利用して、復讐を加える。

しかも、その執念深さたるや、まさに異常のレベルである。些細なことで10年間も誰かを恨み続ける。法律には時効があるのに、彼らはその時効さえ無視し、法も無視して、私刑を加える。たった一件のコメントでさえ、頼まれても削除に応じない。一旦人を憎むと、恥知らずな嘘のプロパガンダを終わりなく流布して、徹底的にその人の人生を滅ぼそうとする…。

世間は、これがキリスト教の宗教組織の醜い現実の有様であることをよく見れば良いだろう。筆者の知り合いには、他宗教の信者も数多くいるが、自らの知人に対して、このような陰惨な復讐劇のような光景が繰り広げられているキリスト教界を見て、これに人々は少しでも近寄りたいと考えるだろうか。このような悪しき、忌むべき牧師たちを抱える宗教組織に自ら関わりたいと、人々は考えるだろうか。

むしろ、筆者に対して彼らが行っている仕打ちを見れば、筆者でなくとも、このような業界からは、誰しも「エクソダス」を唱えるのが当たり前であろう。当ブログで批判されて向きになって言い返している牧師や信徒たち、信徒の個人情報を言いふらす信徒、嘘八百を垂れ流して信徒を傷つける信徒、掲示板で騒ぎを拡大している信徒らを見て、こういう人たちに関わりたいと思う人は、誰もいないだろう。要するに、カルトを批判している人たちが、一番カルト化しているわけで、この光景を見ただけで、この宗教は何かがおかしいと世間は考え、近寄りたくないと思い、逃げ去って行くのは当然であろう。

こんなものが真実なキリスト教徒の姿と言えるはずもない。一般人以上に異常である。このような人々の出現は、キリスト教の名折れでしかないと、筆者ははっきり言っておきたい。そして、このような人々が、他の宗教団体を敵視して、正義漢ぶって争いをしかけるなど、百年早いと断言する。

だが、こういうことが起きたのも、牧師制度が既得権益となり、政治家と同じように世襲制となり、利権そのものと化していればこその事態である。牧師制度などというものが導入されたこと自体がとてつもない誤りであり、牧師制度が徹底的に腐敗すると同時に、キリスト教界全体が腐敗し、完全にセルフで塗り固められた搾取と虚栄の世界と化したのである。

筆者は生涯の終わりまでキリスト教徒であり、聖書への信仰は失わないつもりだが、こんなにも醜い宗教組織は、聖書とは何の関係もない、堕落した世界でしかなく、関わりたいとも思わない。世間はよくよくこうした事件を通して、この宗教の何たるかを学ぶことだろう。筆者は幼い頃からキリスト教界を知っており、通りすがりの人間としてコメントしているわけではないことも重く見られると良い。

牧師たちは自教団・自教会内での地位さえ守れれば良く、そのためならば、どんな手段を使ってでも、信徒の口を封じれば良いと考えているのかも知れないが、そのようにプライドと自己保身がすべてとなった姿が、客観的に見て、あまりにも幼稚で醜く忌まわしいものと映り、キリスト教の評判をさんざんなものにしていることに、自分で気づいていないのである。

安倍政権と同じだ。内実のない者が職務的に高い地位に就き、自分よりも賢明な者たちに横暴な権力を振るっている。だが、偉そうに君臨していられるのは国内だけで、世界からは呆れられている。要するに、自分を客観的に見る能力が欠けているのである。

かつて筆者の前で、プロテスタントの牧師の未熟さ、幼稚さ、傲慢さについて思いの丈をぶちまけ、非難の言葉を残して、カトリックへ去ると述べた信者がいた。筆者は、プロテスタントに絶望してカトリックに去ることが正しい選択だとは思っておらず、キリスト教を改革して母性原理を補うべきと唱えるペンテコステ運動をも支持しないし、禅や、ニューエイジ思想を取り込むことにも賛成できず、統一教会やその他の異端を支持するわけでもない。

筆者はカルト団体を支持しないが、他のカルトの犯した罪がどうあれ、今日、これほどまでに徹底して腐敗堕落したキリスト教界は、そもそも他宗教を非難できる筋合いにはないと思う。まずは牧師制度という階級制度を撤廃すればよろしい。牧師制度こそ、諸悪の根源であり、どの異端よりもさらに悪質で、完全に間違った制度であると、声を大に言わざるを得ない。

カルト被害者救済活動の暴徒のような信徒を生んだのも、牧師制度であり、キリスト教界を声高に非難し、憎しみの言葉を発し続けているKFCを生んだのも、牧師制度である。この制度こそ、まさに信徒同士を戦わせるすべての悪の根源になっていることが、なぜ多くの人々には分からないのだろうか。

牧師制度には聖書的な根拠がない。使徒パウロは信徒らから献金を受けとることができる立場にあったにも関わらず、何が何でもその権利を使うまいと考えて、身を粉にして働いた。初代教会には、信徒からの献金で生計を立てたような宗教指導者は、誰一人として存在しなかった。

今日の牧師たちは、羊を食い物にする強盗であり、霊的な中間搾取者階級でしかない。彼らには自分たちの利権だけが大切なのであり、信徒は野望を実現する手段でしかない。だからこそ、彼らは思い通りにならない信徒に徹底的に復讐を果たし、信徒を闇に葬ろうとするのであり、このような醜い精神は、悪魔から来るものであって、どこをどうやっても聖書に基づいて生まれて来るものではない。

だからこそ、当ブログでは、彼らはグノーシス主義者だと、再三、言っているのである。筆者がこの論稿を書いているのは、今日のキリスト教界が、全く聖書に基づかない別な教えによって陥落されていることをはっきりさせるためである。

誰が本当のキリスト教徒であるのかは、神ご自身が証明される。悪党を支援した牧師は恥を見ることになる。

さて、当ブログについて虚偽の非難を繰り広げている人々に公に反駁することは、訴訟が始まってからで良いと思っているので、ここに書いていることは、あくまで予告であって、公の反論は後日、きちんと手順を踏んで行うつもりであるが、それに先立って、いくつかかいつまんでトピックを挙げておこう。

労働紛争を闘うためには、会社の登記簿謄本を取り寄せるのは必須条件なので、会社と闘ったことのある人が、会社情報の調べ方を知らないことはあり得ない。だが、料金を払ってまで、会社の登記簿謄本を取り寄せたいと願う人がいるかどうかは別問題だ。仮に登記簿謄本を取り寄せなかったとしても、それだけで「会社情報の調べ方も知らない」と決めつけることはできず、そういう決めつけを発表すれば、誹謗中傷となるだろう。

さらに、「…という説もある」とあえて疑問の余地を残している記述を基に、「ガセネタを流布した」と言い切ることはできず、そのような主張こそ、かえって「ガセネタ」とみなされる恐れがある。むろん、掲示板からの情報だと記されていないものについて、勝手に掲示板の情報だと決めつけ、それを基に非難を繰り広げることも、誹謗中傷である。

さらに、「キリストの香り」「キリストを着る」といった言葉は、クリスチャンとしては最低限度、知っておかねばならない聖書表現である。この表現を知らないのであれば、せめてネット検索だけでもしていれば、すぐに分かったはずである。むろん、どちらも筆者の「お得意の造語」などではない。むしろ、「一人修道院」といった訳の分からない言葉の方が、間違いなく造語に該当するだろう。

「殉教」を「言論テロ」と決めつけたい者たちがいるようだが、もはやこうした稚拙な論には呆れて反論する気にもならない。テロを主張するためには、まずは具体的な犠牲が出てなくてはならないが、殉教の精神を説くことによって出る犠牲とは何を意味するのだろうか?

日本でも、長崎を含め、殉教したクリスチャンは、すべての信者らから尊敬を受ける存在である。殉教者を尊敬する気風は、世界のすべてのキリスト教に共通する。にも関わらず、今日、殉教の精神を説くことだけで、これを「カルト」とみなしたり、「言論テロ」と決めつける者がいるとすれば、その人は果たして本当のクリスチャンなのかという疑問が生じるのは当然である。

むしろ、彼らが自分たちの論を批判する言動をすべて「言論テロ」や「犯罪」と決めつけていることこそ、最も激しい言論テロではないのか。

筆者が、当ブログに対して長年、行われている嫌がらせ行為を刑事告訴の対象としたことを嘘だとわめきちらしている人々がいる。

だが、実際には、刑事告訴が成立しているのは事実であり、ちょうど警察が追加された中傷記事についても、長い報告書を書いているところである。筆者は、ゴールデンウィーク明けに、当ブログに対して加えられたさらなる誹謗中傷の記事を警察に提出し、これからも、改めて追加資料を提出する予定である。

警察が作成している報告書は、量刑に関わって来るものであり、むろん、筆者もさらに調書を提出する。このような話が、全て筆者による作り話だと、読者は本当に思うのだろうか? 

しかも、刑事告訴された事件について、警察は捜査義務を負う。捜査しなければ、職務放棄に当たるわけで、事件が解決してもいないうちに、警察が告訴人を「見離す」という事態は起き得ない。

警察は一般に警告を文書で出さない。もしそういうことをするとしたら、裁判所の仮処分等であろう。また、民事調停委員は中立的立場で話し合いに臨んでいるため、申立書の内容について個人的な意見を言う立場になく、まして職務として臨んでいる調停の申立内容を「分からない」と発言すること自体があり得ない。

むろん、筆者が提出した申立書の趣旨は、具体的な損害賠償請求であるため、「神学的議論」には当たらない。もしも神学的議論で埋め尽くされた申立書が出されるようなことがあれば、裁判所がそれを受け付けない。裁判所は、訴訟であれ、調停であれ、申立書に不備があれば、訂正を求め、訂正が完了するまで、決して審理を進めない。

申立人が、自ら費用を払って調停を申し立てたこと自体が、話し合いによる解決を目指す姿勢を意味する。そこで、相手方が、申立人の訴えを「棄却する」という答弁書を出したにも関わらず、「自分は話し合いを強硬に拒否された」と主張しても、それが認められることはまずない。

期日当日、開始時刻間際に出した答弁書の内容は、その日の議題に取り上げてもらえず、従って、その日中に回答が出ないのは当然である。それを「回答できないからしないのだ」と決めつけるのは無理筋の話である。調停では、申立人と相手方は対面しないため、必要な説明はすべて調停委員から行われる。もし説明不足があるならば、それは委員に言わなくてはならない。

第二回目の期日が決められれば、「今後の見通し」が立ったことになるので、「今後の見通しが立たず」という主張は成立しない。民事調停への出廷は任意なので、調停に呼び出されたことで損害を受けたという主張は成り立たない。

さらに、筆者はネット上を含め、どこにも「随想」を発表した事実がなく猫を飼っていたこともない。KFCに夜行バスを使って訪ねたのも、人生に一度きりの出来事であり、夜行バスを使って月に何度もKFCに通った事実などない。むろん、会ったことのない人間に「ラブレターのようなメール」を送った事実もなく、当ブログのグノーシス主義研究は、大田俊寛氏以外にも、荒井献氏、ハンス=ヨナス氏など、グノーシス主義研究で著名な研究者の論を度々引用しており、一人だけの研究に依拠して書かれていないことは明白である。当ブログのグノーシス主義批判が研究者の「受け売り」であると主張できるだけの具体的な論拠は何もない。

また、「Sさんへの手紙」の中には、どこにも「実名」は出されていない。この手紙が書かれたのは、2010年10月であり、当ブログに対する1千件のコメントを伴うバッシング記事がネットに掲載されたのは、2009年11月である。従って、この手紙が紛争のきっかけになったという主張は時系列的に成立しない。むろん、この手紙が和解のために書かれたものであることは、一読すればすぐに分かる。当ブログがカルト被害者の裁判を狂言呼ばわりした事実もない…。

この他にも、終わりなく事実は列挙できるのだが、わずかにたったこれだけの事実を挙げただけでも、当ブログに向けられている非難が、いかに嘘八百のデタラメであるかは、誰にでも十分に分かるだろう。そうした主張には、いかなる具体的な証拠も示されていない。真実性を証明するためには根拠がなくてはならないが、そこにあるのは嘘、ごまかし、すり替え、トリックだけなのである。

これでクリスチャンを名乗ろうというのだから、まさに呆れるような詐欺としか言いようがない。さらに、筆者から見て、最も気になる点は、どうにも彼らには「御霊に導かれるクリスチャン」という言葉に、拒否反応を起こさずにいられない傾向が見受けられる点だ。

筆者は当ブログにおいて、自分が聖霊に導かれるクリスチャンだと決して誇示したり、それを自己顕示の材料としたりはしていない。さらに、筆者は「自分たちだけが正しい信仰を持っている」と一度も述べたことがない。そもそも当ブログは、筆者個人の信仰告白を述べたものでしかなく、団体による告白ではないのだ。

さらに、既存の教会組織からのエクソダスを唱えたのも、当ブログが初めてでは全くない。内村鑑三、古くはハドソン・テイラー、ジョージ・ミュラー、それから、オースチンスパークスや、ウォッチマン・ニーなども、みな同じことを主張して、既存の教団教派から離れて行った人々である。それにも関わらず、筆者が「エクソダス」を主張していることが、まるで筆者特異の極めて新奇な概念であるかのように考えている人々があるとすれば、その人々は、キリスト教史を知らなさすぎると言えよう。

それはさておき、いずれにしても、「御霊に導かれるクリスチャン」に対する拒否反応こそ、彼らが、一体、なぜ当ブログに対して、これほど執拗に絡み続けて来たのか、その答えを解く最も核心となるだろうと思う。この問題を突いて行けば、隠れていた最後の動機が明らかになるという気がしてならない。

どうして彼らはこれまで聖霊派をあれほどまでに敵視し、徹底的に叩き続けて来たのか? そのような行動を取る動機として何が具体的に隠されているのか? ただ単に過去にペンテコステ派の異様な集会を見てつまずいたといったような表面的な動機ではないだろう。そこには「聖霊」そのものに対する憎しみが隠れているのだと筆者には感じられてならない。まさにステパノに向かって歯ぎしりした群衆や、イエスをベルゼブルと呼んだ人々のように・・・。

2018年5月12日 (土)

小さな群れよ、恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国をくださるのだから!

「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4:7)

さて、当方が申し立てた民事調停の第二回目の期日が開かれなかったことを、まるで当方が一方的に調停期日を「キャンセル」したかのように、自分に都合よく言いふらしている連中がいるようなので、一言断っておきたい。

普段から、裁判、裁判と叫んでいる割には、彼らは裁判手続きの詳しいことをよほど知らないらしい。当方は、申立を取り下げたわけでは全くなく、そもそも民事調停のキャンセルと不成立は全く違うものなのだ。

今回は、訴訟へ切り替えるために、裁判所に調停不成立としてもらえるよう要請を行った。後日、必要文書が裁判所から送られて来るので、それをつけて訴状を出すだけである。

民事調停は不成立になれば、これを前提として訴訟に移行することができる。その方がゼロベースから訴訟を起こすよりはるかに有利なのだ。しかも、今度は、原告の住所地の裁判所へ訴状を出すことになる。わざわざ遠方へ足を運ぶ必要がない。実に便利である。

訴えは複数、提起することになろう。しかし、この辺のことは戦略なのでブログで詳細を公にはしない。だが、本訴となれば、判決も含めて、申立の内容も、答弁書も公表されるため、誰が嘘を言っているのかは、当然ながら、万人に知れ渡ることになる。訴えに反論するためには十分な証拠が必要であり、根拠のある反論ができなければ、原告の言い分が認められるだけである。

カルト被害者救済を唱えている陣営は、案外、裁判手続きに疎いようで、この当たりのことを何も知らずに、ただ調停が開かれなかっただけで、争いは終わった、自分たちは勝った、通常通りの生活に戻ったと、恥ずかしげもなく嘘のプロパガンダを流布しているようだ。相変わらず、刑事事件も終結していないうちから、あまりにも軽率な連中である。
 
だが、考え違いをしないでもらいたいのだが、彼らのついた嘘は必ず、責任追及されることになる。当ブログは信仰告白がメインなので、裁判手続きについて細かいことは、これからも事前には決して書かない。場合によっては、事後も書かないことがあるかも知れない。今、言えるのは、こちら側では必要なアクションを着々と取って行くだけであり、脅されたからと言って退却することは決してないということである。

向き合う価値のない連中、あまりにも愚かな論争とは思うが、バアルの450人の預言者を相手取ったエリヤと同じように、勇敢に、決して途中で諦めたり、手を引くことはせず、決着をつけるまで戦い抜く所存である。

これまでも、幾度も見て来た光景なのだが、理屈の勝負となった時に、人数や力だけをよりどころとして来た連中は、絶対に勝てない。仮に向こうが当方を「口達者なだけで臆病な兎」と考えて馬鹿にし、見下げているとしても、口で筋の通った理屈を唱えられなければ、負けるのが裁判というものなのだ。そこでは、人数も図体も腕力も何の頼りにもならない。

それが証拠に、鳴尾教会との裁判で、アッセンブリー教団・村上サイドはボロ負けしている。そうなるまで、鳴尾教会の信徒の人数の減少を、村上は鬼の首でも取ったように吹聴して、さんざん上から目線で馬鹿にしていたが、その村上が負けたのだ。次には、「穴にこもった兎」と揶揄してさんざん馬鹿にしていた人間に負けることになる。事前に馬鹿にすればするほど、敗訴した時にはさらに面目丸つぶれとなろう。

このように、ジャイアン対のび太、ジャイアン対スネ夫の勝負であっても、ジャイアンが必ず負けるのが裁判というものなのだ。ジャイアン相手であれば、誰でも訴状を出しさえすれば、自動的に勝てると言っても過言ではない。別に口達者でなくてもよいのである。ジャイアンには腕力以外の取り柄がないので、誰にとっても恐れるに足りない。しかも、申立書は8割方出来ている。

もっと言えば、私たちはロゴスなるキリストに立脚して、信仰によって、すべてのことを行っている。私たちには、決して揺るがされることのない永遠の岩なるお方がおられる。だが、向こうには何も立脚するよりどころがない。あえて言うなら虚無の深淵、混沌から生まれて来たような、信仰のない連中である。このような闇が光に打勝つことは決してあり得ない。よろめいても、つかまる支えになるものさえ彼らにはなく、風に吹き去られるもみ殻である。

このような状況で、とある連中が、決着も着いていない争いについて、嘘のプロパガンダをさんざん流布していることは、こちらにとっては、実に好材料である。間違いなく、彼らが垂れ流す嘘は、賠償金や罪の重さに関わって来ることになるからだ。大いに油断させて、言いたい放題言わせて、周到に材料を集めながら、様子を見るのも一つの戦略で、愚か者は口が軽く、思い込みが強く、自惚れ切って、慢心しているため、自らの愚かさによって墓穴を掘るに任せよう。

ちなみに、参考までに書いておくと・・・

(被告の)名誉毀損行為が違法でないと認められるには以下の3つの条件が必要になります。
• 【公共の利害に関すること】
• 【書き込んだ目的が公共の利益を図るもの】
• 【その内容が真実である又は真実と信じる相当の理由がある】
これらを1つでも満たしていないことを裁判所に主張し、認められれば(原告の)請求が認められる可能性はあります。

これを読めば、我々にとっての戦いのハードルがどんなに低いかすぐに分かるのではないだろうか。筆者に関する誹謗中諸の書き込みは、この条件を全部満たしていない。筆者は公共性のある人間ではない。当ブログは公刊論文でもなく、宗教団体の発信したメッセージでもなく、公共の利益とは関係のない、私人の信仰告白に過ぎない。さらに、最後の真実であることの立証責任を彼らは絶対に果たせないであろう。本人でない者がこれを立証するのはもともと至難の業だからだ。

たとえば、実際に刑事告訴された人物について、事実に基づき、「誰それが刑事告訴された」とブログに書くのは、事実なので、基本的に違法行為とはみなされない。しかし、「誰それのブログ内容が犯罪的である」とか「誰それは精神疾患である」などと書き、それが名誉毀損の違法行為に当たらないと主張するためには、「誰それのブログに具体的な犯罪性があること」および「誰それが精神疾患に陥っていること」を、書いた本人や情報を掲載した者が、具体的根拠と共に立証せねばならないのである。

そこで、相手をよく知りもしないのに、根拠なく人を貶める印象批評ばかりしていれば、その記述のすべてについて、立証責任を問われることになり、それが立証できないために、誹謗中傷になって終わる。記事の削除くらいで済めば良いが、賠償請求の対象となる危険が極めて高いのだ。

だからこそ、当ブログでは結論を述べるに当たっては、必ず根拠となるソースを明白にするようにしている。画像の転載でも、安全と認められなければ、出典を記載しないことはない。こういう細かい作業は、論文の書き方の基本である。しかし、彼らの主張には根拠となるソースがいつもない。そこで、多分、彼らは反論のために論拠を探し出すだけでも、大変な苦労となるだろう。次々とネガキャンを書けば書くほど、立証責任がますます重く彼らにのしかかって来るというわけだ。

それから、もう少しだけついでに予告すると、訴えの内容如何によっては、賠償金は必ずしも判決が出てから支払いになるとは限らない。さらに、調停で一回請求がなされていると、延滞利息がつけられることもある。むろん、追加の請求が発生することは言うまでもなく…あとは、残念ながら、訴状が届いてからのお・楽・し・みだ。

そういうわけで、今、思い出されるのは、以前、筆者がこちらへ引っ越して来たばかりの頃に、筆者のバイクがいたずらで盗まれ、犯人が全員検挙された時のことだ。筆者は警察に被害届を出した際、犯人が見つかることには大した期待を寄せておらず、バイクも見つからないかも知れないと半分あきらめていた。しかし、すぐに近所で乗り捨てられていたバイクが発見され、それほどの故障もなく、十分に使用可能であったので、日常生活にはまるで支障をきたさなかった。後ほど弁護士から示談の電話がかかって来て、その時に、筆者のバイクを盗んだのは、8人くらいの少年グループで、あちこちで似た様な事件を引き起こしていたため、別の家で防犯カメラにばっちりと犯行の映像が映っていたことから、全員、面子が割れて捕まったと聞かされた。悔やまれるのは、その時、一人一人にきちんと賠償請求していれば、即座に新しいバイクが買えていたに違いないということだけである。

そこで、以前にも書いたように、村上密、杉本徳久を含め、カルト被害者救済活動の支持者らに誹謗中傷された人々は、集団訴訟に移行することを強くお勧めする。筆者はカルト団体は基本的に支持しないが、信教の自由を守る戦いにおいては、心は一つである。しかも、以上の連中は「不正に時効はない」という考え方のようなので、大昔の事件でも思う存分に追及されたら良いと思う。根拠のない脅しメール一通であっても、賠償請求に上乗せすればよろしい。迷惑を受けた宗教団体の方々は、アッセンブリー教団に公式に苦情と罷免の請求を送りつけられたらどうだろうか。当ブログでも、訴訟が開始すれば、署名なども募るかも知れない。

当ブログは、裁判沙汰やネガキャンにのめりこむことなく、この先も、あくまで基本路線の穏やかで平和な信仰告白と異端反駁を続けて行きたいと考えているが、おそらく、この事件の決着をつけることと、安倍政権の崩壊は深い所では一つにつながっているのではないかと感じられてならない。ネトウヨが跋扈して弁護士に勝ち目のない懲戒請求を送りつけるような、薄汚れた曲がった時代は早く終わらねばならない。きっと大勢の人々がそう感じているはずだ。

しかし、神の国の前進は、我々がぽかんと空を仰いでいてやって来るものではなく、一人一人のクリスチャンの毅然としたアクションにかかっている。そこで、我々は勇敢に真実を持って誠意ある行動を取るべきなのである。

「小さな群れよ、恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国をくださる。」(ルカ12:32)

2018年5月11日 (金)

肉のものと霊とのものを区別する必要性~キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋的神秘主義の危険⑪~

・Eden Mediaの語る偽りの「悟り」としての「人類超人化計画」(アセンション)について(終)

さて、Eden Mediaの偽りを語る総仕上げとして「悟り」という動画に触れておきたい。この動画は、東洋思想の「悟り」とニューエイジの言う「アセンション」が本質的に同じ概念であることを示している。これまでの東洋思想の偽りを語るシリーズの総まとめとして、その内容の虚偽性について触れておきたい。

今日、ペンテコステ運動もそうであるが、こうした偽りの覚醒体験をキリスト教界に持ち込もうとしている勢力がある。だが、このような覚醒に関わってしまえば、信者はキリスト教徒として生きることはできなくなるであろう。これは堕落した人類の生まれながらの力を開発して、人が自力で神に至ろうとする試みだからである。

今日のバベルの塔は、目に見える形で、天にまで届くれんがの塔を建設する代わりに、「意識の上昇=覚醒」によって、人が自己の力で天にまで至ろうとするものである。神秘主義の言う「アセンション=悟り」とは、人類が自力で死を打ち破って永遠にたどり着こうとする悪魔的な試みなのである。

グノーシス主義は、すべての対極にあるものの融合を目指しており、そこには「男女の統合」も含まれている。割礼を受けることのない男性的なパワーと女性的なパワーの「融合」によって、世界を生み出す源とされる原初的エネルギーを回復して、人間が自力で創造の過程を逆行して世界の根源にまで至り着き、永遠と一体化しようとする試みがそこにある。

以下の動画の解説を通して、私たちは彼らが「光」と「闇」との融合という錬金術を目指していることが分かる。これはグノーシス主義が「神と人」、「男と女」、「精神と肉体」などのあらゆる対立するものの融合を目指していることを表している。

あなたは現代社会の欺瞞に立ち向かい、奥底に眠る意識を開花できるか?闇から光へ、今新たな時代が始まる。

光り輝くものをイメージする事では悟れない。
暗闇にあるものを意識に持ってくる事のみで悟れる。
【カール・ユング】

 
しかし、聖書は言う、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは無い一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネ1:1-5)

別な訳では、最後の部分は「やみは光に打ち勝たなかった」となっている。聖書においては、光と闇との間には何の接点もなく、この二つは決して交わることがない、異質なものである。男女の融合、光と闇との融合、神と人との融合など、対極にあるものの融合は、人類が自力で成し遂げられることでは決してない。

しかも、聖書は、世界を形作ったのは、神のことば(ロゴス)であると述べるが、東洋神秘主義は、世界の万物は「気」というエネルギーによって出来たとする。エネルギーは、それが形作るものに、名をつけることもなければ、名を呼ぶこともなく、意味内容も一切伴わない。だが、ロゴスは、名をつけ、意味を表す。ロゴスなるキリストによってこそ、万物は造られたのであり、彼は名と体(本体と影)とを完全に一致させることのできる真のリアリティなのである。

聖書はこのように、世界は意味を持たない混沌・漠然としたエネルギーから作られたのではなく、神の精緻なご計画に従い、極めて論理的な意味内容を伴うものとして創造されたと告げている。

しかし、世界が混沌としたエネルギーから生まれ出たとする東洋神秘主義は、造られたものにも混沌以外の意味を持たせない。東洋神秘主義者は、万物はただ混沌としたエネルギーから生まれたのであり、人類はそのエネルギーへ回帰することで、永遠との一体化が成し遂げられると言うが、原初的エネルギーに溶け合うことを目指すだけで、決して自己存在の中に単独で意味を探そうとせず、一人一人に個人としての価値や意味を認めない。

彼らは、被造物の堕落を認めず、人類が生来のエネルギーを引き出すことで、そのまま神の永遠に至ることができるかのように偽りを教える。そして、その堕落した悪しき力によって、人類が自分たちの力で目覚めて「一つ」になれると主張するのである。

そのようなことは、聖書が述べていることとは真逆である。東洋神秘主義者の言うう"ONENESS"(一致)は、まさにバベルの塔の精神の再現であり、同時に、聖書におけるエクレシアの悪質な模倣でしかない。

聖書は、創世記において、人類が堕落した時点で、正しい男女のあり方も失われてしまったと告げている。神はエバはこう言われた。

「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」(創世記3:16)

さらに、アダムには神はこう言われた。

「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。 地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。
あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」」(創世記3:17-19)

地上における男女の関わり(というよりも、アダムとエバが築いた人類最初の家庭)は、人類の堕落によって、幸福と調和に満ちた一致の場ではなくなり、大いなる不幸の源になったのである。夫は妻に君臨し、支配しようとし、妻はそれによって大いなる苦しみを受けるが、それでも夫から離れることができない。夫は妻子を養うために身を粉にして働くが、大地は実りをもたらさず、苦労が積み重なり、ついには老いて死が人を飲み込む。家庭を維持し、ただ生きるために、夫婦は並々ならぬ苦労を負わねばならなくなり、その後、人類初の兄弟であるカインとアベルが生まれても、たちまちカインによる兄弟殺しが起きた。

人類の堕落によって、人間関係は徹底的に罪に汚染されて壊され、戦争、暴力、殺人を生んで行き、文字通り、家庭も含め、すべての人間関係が汚染され、堕落し、破壊されたのである。

そのような呪われた人間関係とは異なるあり方を人が得るためには、人は生まれながらの堕落した本能的なパワーによって、他人に関わろうとすることをやめて、キリストにあって、古き自己に死に、信仰を経由して、夫や妻を愛し、家族を愛し、他者と関わるという方法しかない。

キリストを経由しなければ、夫と妻の間にも、兄弟姉妹の間にも、他者との間にも、真実な信頼関係や愛情が育まれることは決してないのである。信仰を経由しない肉の絆が生み出せるのは、せいぜい敵意と憎しみでしかなく、そこからはどんな一致も生まれて来ない。

「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」(エフェソ5:25)

生まれながらの人間の本能的なパワーが、神の永遠とは何の関係もないことは、ロトの時代も、ノアの時代も、人々は
「娶ったり、嫁いだり、飲んだり、食べたり」していたが、そうした行為が、神から見て全く評価の対象とならず、堕落したこの世の有様として、根こそぎ滅ぼされてしまった事実からも分かる。

彼らは地上になにがしかのものを持ち、人間関係を誇り、自分の所有物のように、家庭や地位や財産を誇っていたのであろうが、神の目から見て、それらは全く評価の対象とはならなかったのである。

この世の人々が誇っているものは、神の目には一切、永遠と接点を持たないことごとくむなしいのである。うわべには価値があるように見えるかも知れないし、なにがしかの幸福があるように見えるかも知れないが、それは動物的生存以上の意味を全く持たない堕落した人間の営みでしかなく、神が人に望んでおられたこととは関係がないものである。

しかし、キリストは、十字架において死なれ、復活されたことにより、信じる者にとって新しい永遠の命となられた。キリストは、ご自分の死によって敵意の隔ての壁を取り壊し、二つのものを一つにして神と和解させた。
ただこの方によって、信仰を通して互いに一つに結ばれることによってのみ、信者はエクレシアとして一つに結び合わされることができる。

本来は、信者の家族関係も、このようなエクレシアの一致に入らない限り、つまり、キリストへの信仰に立脚した、キリストを経由した愛情の上に築かれない限り、それはただの堕落した地上の肉なる関係として、分裂、混乱、憎しみ、争いなどの悲劇を決して免れられないのである。

「あなたがたは、皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(ガラテヤ3:26-28)

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。
二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。

キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。
それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。

従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ2:14-22)


しかし、東洋神秘主義思想は、決してキリストへの信仰に立たず、十字架の死を経由していないのに、人類が神の教会であるエクレシアを模倣して、アダムの命によって一つになり、団結して神の永遠に到達できると考える。しかし、十字架の死を経由していないからこそ、彼らは自分たちの偽りの十字架を造り出し、自死によって死を乗り越えようとするしかないという忌むべきカラクリが生まれるのである。

東洋思想は、時間軸を逆にして、人類が自ら生まれ出た創造の過程を逆行し、根源的なエネルギーに回帰することで、永遠と一体化できるとする。それが以下の動画にも表れているように、「嬰児的回帰」という概念で現れる。

聖書では、イエスが「誰でも幼子のようにならなければ、天の国に入れない」と述べた箇所があるが、このことは、決して東洋神秘主義が言うような「根源的なエネルギー」にへ回帰するための「嬰児的回帰」を指すわけではない。

「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(マタイ18:1-5)

ここで語られているのは、エネルギーの話ではなく、神の国における序列の話である。イエスは、この世においては、年長者が敬われ、子供は軽んじられるが、天で重んじられたいならば、信者は自らを低くして仕える人にならなければならない、と言われたのである。

これは東洋神秘主義者の主張する「嬰児的回帰」(原初回帰)とは全く異なるものである。

むしろ、聖書が教えていることは、信者一人一人が信仰において成長して「キリストにある成人」に達することであり、東洋思想の「嬰児回帰」とは逆である。

だが、肉にあって歩んでいる限り、決して人はキリストの身丈まで成長することはできず、赤ん坊のままだと聖書は言う。

「兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです。

お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。
」(Ⅰコリント3:1-3)


霊的乳飲み子状態からキリストにある成人へと成長するために避けて通ることができないのが、肉に対する十字架の死の働きである。

「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。<略>キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:19-21,24)

クリスチャンが霊的にどれだけ成長するかは、その人の内側で生まれながらの自己(=肉)に対してどれほど十字架の霊的死が適用されたかに比例する。肉に対していつまでも十字架を経ず、生まれながらの肉のパワーによって生きている者は、いつまで経っても嬰児のままなのであり、それは決して聖書があるべき信者の姿として教えている状態ではない。

生まれながらの自己、生まれながらのアダムの命、そこから来る力や衝動を否み、どれだけ日々の十字架を取ってイエスに従ったか、その過程に従い、初めて霊的に正しい識別力が得られ、成長が起きるのである。

「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの道あふれる豊かさになるまで成長するのです。こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根差して真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。」(エフェソ4:12-15)

従って、東洋思想が目指している目的は、何から何まで、聖書とは「さかさま」である。
 

さて、この動画は、まず作成したファンドの名前が"IN SHADOW"(影の中で)と、極めて悪趣味な名前となっていることに注目したい。この名前を見ただけで、この動画がキリスト教とは何の関係もない、「光と闇」との統合を目指すオカルト的な世界観に基づくものであることは明白であろう。

影とは暗闇のことであり、同時に、本体の影でしかない被造物を指す。それは本体なるキリストのいない、被造物だけからなる闇の世界、虚無の世界である。

冒頭では「皆既月食」と思われるシーンが登場する。
これはニューエイジの概念では「太陽と月の融合」を意味する。

その「輪」は、すべての神秘主義者が、宇宙の根源だと見なしている「対極にあるものの融合」としての「永遠の循環」、すなわち、「和」=「輪」=「道」=「虚無の深淵」=「空」を指している。

この「和=輪」が、おそらくチャクラと思われる三つの輪に分割される。チャクラとは神秘主義で用いられる概念であり、これも「輪」を意味することは前回までに説明した。

また、この「三つの輪」は、グノーシス主義の「父・母・子」という偽りの三位一体を意味すると思われる。
つまり、男性的なエネルギー、女性的なエネルギーと、その交わりの結果として生まれる「子」が、グノーシス主義の偽りの三位一体である。

また、ヒンドゥー教では、「ブラフマー」、「ヴィシュヌ」、「シヴァ」の「3神」が、宇宙の創造、維持、破壊という3つの機能を持つ、三人で一組の「神」とされる。この「三神一体(トリムールティ)」とも関係があるかも知れない。

ここで、「四角い地球」(=キューブ)という、おかしなシンボルが登場する。


(注:Eden Mediaの嘘。人類を支配しているのは「キューブ」ではない!)

そして、早速、「キューブは”悪魔のシステム”を表す」などと字幕がつき、人類はまるで家畜がくつわにつながれるように「キューブ」のとりこになって、悪魔崇拝者の奴隷として支配されているとされる。

この世を仕切る秘密結社の悪魔崇拝者たち…
キューブは”悪魔のシステム”を表す。
人は毎日好きでもない仕事に追われる。
しかし、住宅・車ローンのために働く。
来る日も、来る日も…
(右上の時計)
気付けば、魂は吸い取られ…
仮面が…
仮面をかぶって日頃のうっぷんを晴らす。

ここで「キューブ」とは、一体、何なのか?という疑問が生じよう。

早々に種明かしをすれば、「キューブ」とは、キリスト教を指す。

この動画の製作者は、神秘主義者であり、オカルト信仰者であるから、キリスト教を悪者にして非難するために、この動画を作ったのである。

ただし、この動画では、「キューブ」とは、本来のキリスト教という意味から転じて、「西欧キリスト教文明・文化を土台として生まれた現代社会システム」といった意味をも持つ。

この動画は、現代のバビロン化された社会は、西欧キリスト教文化を基に生まれて来たものだとして、根本的にキリスト教を悪者として責任を問いたいのである。そして、東洋思想の方にこそ人類救済の秘訣があるという偽りを広めるために、この動画が作成されたのである。

さて、「キューブ」とは、聖書においては、神の完全を表す形である。神殿の中でも最も聖なる場所であり、神の霊の訪れる至聖所は立方体である。


エゼキエル書に従って図案化された神殿の図。

「1.立方体の形。この理由により、昔の幕屋と宮では、全き栄光の完全性は至聖所の立方体の形によって象徴されていた(出三六・一五~三〇)。立方体は完成を表す図形だからである。新しいエルサレムも立方体として示されている(黙二一・一六。なおエゼ四八・一六を参照)。これが教えているのは、新しいエルサレムは完全な天の至聖所だということである。

エーリッヒ・ザウアー(Erich Sauer)「十字架のキリストの勝利」"The Triumph of the Crucified" 第四部 世界の完成と天のエルサレム 第三章 完成された神の宮 から

新エルサレムは、神殿の完成であるから、「キューブ」は新エルサレムにおいて完全になる。クリスチャンは今ここへ向かっている途上にあるのだと言えよう。

「しかしキリストにあって、すべては完成されて新しくされた。キリストは道を備える偉大な御方であり、扉を開く御方である。キリストにあって、パラダイスと至聖所は開かれたのである。今や、すべてが成就されている。天は開かれている。しかし、天はエルサレムであり、エルサレムは至聖所であり、至聖所は天の栄化されたパラダイスである。」(同上)

「しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。」(ヘブル12:24)

(*ちなみに、前回引用したDr.Lukeの「エロヒムの祝宴」というポスターは、以上の御言葉から取られた言葉である。ここでの「エロヒム」とは「天使たち」のことである。だが、KFCの信者らはすでに「神々」になってしまっているので、彼らの言う「エロヒムの祝宴」とは、スピリチュアリズムにおける「エロヒム」(=下級神)と同じ概念で、要するに、彼らは自分たちがエロヒムだと言っているのである。)

聖書では、立方体は神の完全を表す形であるにも関わらず、Eden Mediaは「キューブは悪魔のシステムだ」として、悪質な概念のすり替えを行い、暗にキリスト教を敵視し、聖書のまことの神を非難する。そして、そこからの「脱出」として「アセンション」を唱えるのである。

だが、真実を言えば、人間を閉じ込めて奴隷化しているのは、「キューブ」ではなく、「和の精神」である。グノーシス主義的な「輪(和)」こそ、人間を奴隷にして逃がそうとしない悪魔のシステムなのである。

その後、突然、動画では「赤ちゃんには”7つのチャクラ”が備わる。」と話が飛躍する。もちろん、このような話は、ニューエイジやヨガでしか使われない概念であるが、要するに、この動画は、人は誕生した時が、一番、何者にも妨げられず、汚染されない、力強い生命エネルギーを持っていると言いたいのである。

その後、この動画は、いかにこの世がサタンの奴隷的なシステムによって動かされ、人々がそのシステムに閉じ込められ、苦しめられ、騙されながら、悲惨な生活を送っているか、世の中の不条理を延々と語り出す。

そこで描写されるこの世の人々は、グロテスクで、侮蔑的にディスカウントされた醜い姿をしている。この動画が、厭世的で悲観的な世界観に立って、この世をサタンの牢獄として侮蔑し、見下している様子がよく伝わって来る。要約すれば、その内容は大体、次のようになるだろう。

この世の人々は、悪魔の支配下に置かれ、知らないうちに操られ、奴隷的なシステムの中に閉じ込められて、本来の生命エネルギーを吸い取られて疲弊している。

たとえば、学校教育の弊害、ワクチンの害、戦争、軍需産業、企業による搾取、役人の腐敗、TV業界のマインドコントロール、利権を守るための情報操作、大衆を家畜化しておくためのセレブ、映画、スマホ、ゲーム・・・

人々を支配するツールには終わりがなく、市民たちは無分別に宣伝広告に煽られて、ひたすら化粧品や筋肉増強剤で自分を飾り立て、「オレオレ、ワタシワタシ」と、自分の欲望に突進して、我を失っている。そうこうしているうちに、食べ物はひどく汚染され、人々の健康が害されることで製薬会社が儲かり、科学者、政治家、エリートたちが、大衆を使って動物実験を繰り広げている…

もしも人々が自分たちが操られ、奴隷化されていることに気づいて声を上げようものなら、早速、彼らは狂人として牢獄へ送られる。人々は「もの言えば唇寒し」の状況で暮らし、国を支配するエリートたちは、とても人間の良心を持ち合わせているとは思えないサディストばかりである…

これが、あなたがたの生きるこの世のシステムであり、この世には、真実も正義も希望もなく、ひたすら絶望的で悲観的な世界観があるのみなのだ…。




動画は、このような地上の悲惨はみな「キューブのせい」ということにしてしまう。だが、もちろん、それは嘘である。

そして、動画は、このような悲観的な世界から脱出しなければならないと語り始める。

それが「覚醒=アセンション=悟り」である。いわば、グノーシス主義者の考案した、この世からの偽りの「エクソダス」の方法なのである。

どこにでもありそうな幸福な一家の主人が登場する。が、彼は不幸に見舞われ、自死するしかない状況に追い込まれる。この父親だけでなく、大勢の人々が仮面の生活も成り立たなくなり、自死へと追い込まれている。

死なない限り、この不幸な地上世界からは逃れる手立てはない。

と、動画は訴えているのである。

こうして、Eden Mediaの動画は、ひたすら絶望的な地上世界の有様を描き、そこに生きる人々を徹底的な侮蔑の眼差しで見下ろした後で、その生き地獄のような状態から逃れるためには、自死しかないという方向へ人々を誘導して行く。死によって初めて、人類には自分自身から真に解放されて、死を乗り越えて「覚醒」する道が開ける、と暗示されているのである。

「武士道と云ふは死ぬことと見つけたり」

と同じ価値観である。
三島由紀夫の最期と同じ、死による自己完成という偽りの思想が奨励されているのである。


自死が遂げられた瞬間にこそ、人類は「覚醒」する、と彼らは言う。
 

「エジプト死者の書」にも記されているという「アセンション」


「死」との一体化による「超人化」への道!


松果体が開かれて邪悪なエネルギーが活性化し、


存在しない「霊の波動」を受け、


超人的なパワーが生まれる!


「覚醒」した超人の意識は、高次元へと上昇していき、


死によって自己の殻が取り払われたので、宇宙と一つに融け合い、


宇宙に漂う人類全体の集合意識"ONENESS"と一つに融合する。


その後も、人類の集合意識はさらに上昇して行き、


ついに自らの力で天に昇り、目指していた「道」(=日輪=永遠=混沌)との一体化が成し遂げられる!


陰と陽、男と女、太陽と月、神と人、対極にあるものが融合し、


人類は自ら宇宙の原初的なパワーへ回帰することによって、
「精→気→神→虚」の回帰が成し遂げられる。
人類は自分を生み出した宇宙の根源へとたどり着き、
嬰児的回帰を成し遂げ、
永遠の混沌(道)と一体化して安らぐ。


これぞ涅槃の境地である。


こうして覚醒を遂げた者は、邪悪な目が開け、人は神のように善悪を知る者となる。

「そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:4-5)


これが彼らの目指す「アセンション」の内容である。しかしながら、これは、グノーシス主義的な「さかさまの世界観」であり、Eden Mediaは、聖書の神の完全を表す「キューブ」を諸悪の根源であるかのように非難しているが、実際には、彼らが理想としている「和(輪=道=太陽神=永遠の循環=虚無の深淵)」こそ、最も人間を奴隷的に貶めて支配し、自由を与えない諸悪の根源である。

「和の精神」なるものが、うわべは美しい一致や団結に見えても、どれほどはかりしれない人々を死に巻き込んできたのかは、改めて説明する必要もないであろう。この動画は、まだはっきりと明言していないだけで、聖書の神を敵視し、キリスト教への敵視の上に作り上げられており、悪魔の行った悪しきわざを全て聖書の神に責任転嫁しようとしているのである。

おそらく、終わりの時代、人々の心が荒廃し、社会の有様が荒廃・悪化して行くのは、以上のような偽りのアセンションを経て、人類の悪しき集合意識につながる人々が多くなることと無関係ではないと筆者は考える。人の心も体も、異常な方法で変容させられるため、常識では考えられないほどに堕落した人々が出現するのである。

しかし、聖書は、悪くなる者は悪くなるにまかせよと告げている。時代の状況が悪化し、あざける霊が人々の心を支配したとしても、それと同時に、聖なる者は、より一層、聖なる者とされることを、聖書ははっきりと告げている。

そこで、我々のなすべきことは、こうした時代だからこそ、より一層、キリストと共なる十字架において自己を否み、天の父なる神の御心を求め、それを行って生きることである。

世間で何が流行り、人々が何を考え、時代の潮流がどうあるかに一切関係なく、どれほど多くの人々が偽りの覚醒体験に飛びつくかにも関係なく、神は個人個人のわざを見ておられ、それに応じて、人々を裁かれ、報いをなされる。

「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マタイ24:35)

私たちクリスチャンが求めているのは、神秘主義者の目指すような「善悪を知る木の実」ではない。私たちは肉なる自己を肥大化させ、自分を高めるだけの「二度目の林檎」を食べることを固く拒否し、自分の衣を改めて血潮によって洗い清め、イエスの十字架の死と一つとなって、イエスという羊の門を通って都に入り、命の木に対する権利を与えられることを心から願う。

クリスチャンは、完成した神殿であり、至聖所である都を目指して歩いている。そして、私たちのためには、すでに死んで下さった方がおられるため、神秘主義者らのように、自分で自分のための十字架を改めて作り出す必要もなければ、自力で死を乗り越えようとする必要もない。

黙示録は言う、「渇いている者は来るが良い。命の水が欲しい者は、価なしに飲むが良い。」と。ここに「価なしに」と書いてある。自分で得るのではない。集団で得ようとするのでもない。しかも、そこには、誰もが神の国に入れるわけではないこともはっきりと書かれている。神の国に入るための条件が列挙されている。神の御言葉を守らず、それに従って生きてもいない人々が、人類の集合意識にアクセスしたからと言って、どこにもたどり着くことはない。

聖書は、「それぞれの行いに応じて報いる」と、はっきり書いている。集団でどんなに連帯して悪質なわざを成し遂げ、どんなに責任の所在を曖昧化したつもりでも、各自は、はっきりと自分のしたことに対して、一つ一つ、神と人との前で責任を問われることになると告げられているのである。

それが真実である。聖書の世界観は、個人を起点として始まり、個人で終わる。そこで問われるのは、どこまでも神と人との個人的な責任関係である。地上では、人間同士が互いに関わり、繋がり合うが、人間関係についても、人は神を介して責任を問われることになる。他者を騙し、陥れ、口を封じ、もはや誰も悪事に声を上げる人がいなくなったとしても、その悪行については、神がその人に責任を問われる。

しかし、東洋思想は、個人を見失わせ、個人を集団の中に埋没させることによって、個人の価値を無化するだけでなく、人は必ず、自分のした行いに対して報いを受けなければならないという基本的な事実をも見失わせる。

そして、東洋思想は、人々を神の御言葉をわきまえるという知性によらず、堕落した本能的なエネルギーに従って、衝動的に生きさせることによって、自分を高めてくれそうなものに見境なく飛びつかせ、訳の分からない集団的な暴走のような現象を引き起こし、人々に取り返しのつかない罪を犯させるのである。その罪が、最後に大きく膨らんで至り着くのが、自死という自己破壊である。これは、我が国が戦中そうであったように、個人的なレベルだけでなく、集団的なレベルで、集団死となって現れることもよくある。アセンションが目指しているのは、人類が自らの死によって死を克服することであるから、必ず、それは必ず人を自ら死に至らしめるという結果を伴うのである。

「この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。

見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファでありオメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。

命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。

わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」

”霊”と花嫁とが言う。「来てください。」これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。渇いている者は来るが良い。命の水が欲しい者は、価なしに飲むが良い。」(黙示22:10-17)

人にはたった二つの選択肢しかない。セルフを十字架において否んで、キリストに従い、永遠の命を得るのか、セルフを保って、キリストを拒んで、アダムの命に生き、死に至るのか。クリスチャンは全世界の前で、そのどちらを選ぶのか、自分の生き方を証明させられ、試されているのである。

もう一度、以下の御言葉を引用しておきたい。

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。

人をその父に、
娘を母に、
嫁をしゅうとめに。
こうして、自分の家族の者が敵となる。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイ10:34-39)

以上の御言葉は、人が心で愛着し、手の中で握りしめているものがすべて――それが自己の命であれ、自分自身であれ、家族であれ――、キリストの十字架の死を経ていないものであれば、どんなにそれを誇りとし、よすがとしていても、必ず、その関係は敵対関係に変わり、無価値なものとなって失われることを示している。

キリストの十字架の死に渡されることなくして、永遠の価値を持つものは何もないのである。殉教とは、キリストの十字架の死の地点において、人が絶えず自己の天然の命を否み続けることの集大成である。十字架における霊的死を経ていればこそ、信者には朽ちることのない神の永遠の命が与えられているのである。

もしも人が十字架において絶えず自己を否むことを拒み、自分の天然の命、生まれながらのエネルギー、それに基づいて築き上げられた関係や、名声、欲望、地位などの獲得物を保存しようとするならば、アセンションへの道しか残されているものはない。その道を行けば、自己を楽しませ、偉大にできるように錯覚できるのも、ほんの束の間で、最終的に待ち受けるものは、死以外には何もなく、得ようと思っていた命さえ、失わて終わることになる。

2018年5月10日 (木)

肉のものと霊とのものを区別する必要性~キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋的神秘主義の危険⑩~

KFCのDr.Lukeの近年のメッセージは、ニューエイジの神秘主義思想から強い影響を受けたものであり、完全に聖書に基づく正しいキリスト教の信仰からは外れているが、Dr.Luke自身、自らのメッセージが、ニューエイジの着想に大いにヒントを得たものであることを否定していない。

以下の記事に見るように、彼は今日のキリスト教界においては霊的息吹を失った形骸化した教えがあるだけであり、その代わりに、ニューエイジには「人が神になる」という変容(覚醒)という「肉汁たっぷりのステーキ」が保存されており、キリスト教界では失われているその「肉汁」の部分を、自分たちは「取り返さねばならない」と主張する。

Dr.Lukeは常にそうであったように、徹底的なキリスト教界への侮蔑と敵視に立って、形骸化したキリスト教界を凌駕するためならば、どんなものでも取り入れると言わんばかりに、ニューエイジという神秘主義思想の「神髄」となるべき核心部分を、自分たちは教えの中に取り込んだと告白するのである。

そこで、Dr.Lukeが、堕落した「肉」と深く関係する「肉汁」という言葉を使っていることは興味深い。その「肉汁」こそが、実のところ、「割礼を受けない人間の生来の本能的なパワー」を指すのであって、「蛇」の力にによって、人が肉的なパワーを肥大化させて、超能力を得ようとするニューエイジの「アセンション」に通じるのである。

これまで、「気」とは、人間の堕落した肉に働く悪魔的なパワーだと述べて来たが、Dr.LukeやEden Mediaの語る「マインド」は、ちょうど「気」の言い換えである。

彼らの言う「マインド」は、「思念」などと呼びかえることもできようが、それは要するに、理知的な思考のことではなく、より本能的で情意的な「思い」を意味し、人間の堕落した魂の働きである。神秘主義やニューエイジにおいては、この「思念」は、肉体の限界を超える、超能力を発揮するエネルギーとなるものである。もちろん「マインド」は「霊(Sprit)」とは別物であり、神の聖霊とは何の関係もない、霊に由来しない、魂的・肉的な力である。

Dr.Lukeは、以下に挙げる記事において、「私たちのマインドには創造する力がある」と述べて、真の霊的創造は「霊(Sprit)」から始まるという事実を無視・否定しているだけでなく、その根拠として、何と驚くべきことに、聖書のバベルの塔の記述を引き合いに出す。それを通しても、彼の主張する「マインドの創造力」なるものが、神の聖霊に由来するものでなく、反キリスト的なパワーであることは明らかである。

また、Dr.Lukeが、人類のエスタブリッシュメントは爬虫類人種だと述べているデイヴィッド・アイクの名を上げて、その説を荒唐無稽として全否定するどころか、興味深いものとして引き合いに出し、半ば肯定する文脈で、「人間とは意識であり、それは孤立してものではなく、大海の一滴のようにすべての人類の意識とひとつである(ONENESS)」などとして、人はバラバラの個人個人では意味をなさず、個々人が「人類の集合意識」にアクセスし、これを通じて「さらに高次元の霊的な存在」と接続して初めて高次の存在になれるかのように述べていることも、彼がどれほどニューエイジ思想から深い影響を受けているかを伺わせる。この「ONENESS]なるものこそ、実質的な「和の精神」のことである。

Dr.Lukeがしきりに主張する「波動」も、ニューエイジの思想では至る所に見られる概念である。ニューエイジの神秘主義者らは、「松果体」の活性化や「覚醒」のために特定の周波数を聴いたり、以下に示す「エロヒム」から「波動」を受けることが有益だと説いたりしている。

しかし、前にも説明したが、「波動」というのは、この世の物理的時空間の中でしか起き得ない物理現象であって、聖書における霊的な世界には、そもそも時空間がないため、波動など起きようがないのである。従って「波動」という言葉が出て来た時点で、それは霊に属する事柄を、この世の物理現象の話にすり換えているとすぐに判断できるのである。

従って、こうした事実から、Dr.Lukeの唱えている以上のような説は、すべて「肉的(物質的)な領域に造り出された霊の偽物」だということが明らかとなる。

Dr.Lukeの唱える「マインドのトランスフォーメーション」は事実上、ニューエイジの「覚醒」(アセンション)と同じものであり、彼はすべてのペンテコステ運動の指導者と同様に、人間の堕落した本能的な力を、キリストの十字架において否む必要を主張するどころか、それをあたかも神の神聖な霊の働きであるかのように装いながら、その堕落したパワーを増幅し、肥大化させることで、人類の超人化(アセンション)を促しているのである。

クリスチャニティとニューエイジ 
投稿者: drluke 投稿日: 2017-12-02

投稿者: drluke 投稿日: 2017-12-02「(このふたつ表向きは実によく似ている。が、本質的にはニューエイジはキリストの否定。しかし、神学オツムで空回りするキリスト教徒よりは霊的世界との触れ方は深い。キリスト教徒は肉汁の抜けた筋張ったステーキを食わされているが、ジューシーな部分はニューエイジに取られている。われわれはそれをゲットバックする必要がある1) コチコチなオツムの人はただ「ニューエイジは危険だ、危険だ」とヒステリックに叫ぶだけだが、きちんとした見極めが必要。そう言ってるあなたのオツムはどうなのよ、と言いたいわけ。

さて、David Ickeなる人物を知っている人は、最近ではけっこう多いと思う。英国人、サッカー選手に憧れるもリューマチで挫折。その後BBCキャスターとして活躍するが、原稿を読まされるだけの仕事に飽き飽き。緑の党の広告塔となり、BBCを解雇され、90年代の初期に霊的覚醒を経験。

その後、世界を巡る間に爬虫類伝説が各地にあることに気づき、世界のエシュタブリッシュメントはスメールの子孫である爬虫類人類(レプタリアン)であると指摘。彼らがいわゆるシェイプシフトする動画などもYouTubeにはころがっている。日本では大田龍氏と親交が深かった。一時は故小石泉牧師とも交流があった模様。

彼の論はきわめて興味深い。いわく、人間とは意識であり、それは孤立してものではなく、大海の一滴のようにすべての人類の意識とひとつである(ONENESS)。この大海の意識はさらに高次元の霊的なエンティティとつながっている。

ところがこの肉体の中に閉じ込められている間に五感によって作られた偽りのリアリティーのカプセルの中に束縛されている。人は恐れによって自分の中に閉じ篭っているのだ。それが場を作り、そこにはある種のエネルギーが存在する。

それを生み出すのが爬虫類脳、つまり私の言うところの大脳辺縁系だ。ここを刺激されると人間は弱くされる。自己保存するための闘争が世では繰り広げられているが、それはこの爬虫類脳を刺激されて、マニュピレートされた結果だ。彼はここでマニュピレートする存在をイルミナティとかメーソンと言うわけ。

レプテリアンが存在するかどうかはわからないが、これはきわめて面白い。ある意味私が指摘しているとおりなのだ。人は欺かれている2) 誰に?Ickeの言うようなエスタブリッシュメントというよりは、霊的な存在による(Eph 2:2)。そのヘッドであるサタンは全人類を欺く存在である(Rev 12:9)。人は爬虫類脳である大脳辺縁系を刺激され、恐れや情欲によって振り回されているのだ。

内的な世界モデルは自分の内面を投影したものであり(☞鏡像原理)、よって人により世界をどう把握するかはテンデンバラバラ。一応その最大公約数的な部分が常識とされるわけだが、この常識というやつが危ない。特にニッポンのものはやばい。さらに危ないのがニッポンキリスト教のそれだ。<略>

われわれがある種の霊的なオーラを発していることは明らか。真に御霊に満たされているクリスチャンの醸す雰囲気は普通とは異なる。その霊的な場に人々が引き寄せられることは当然。イエスも多くの、特に虐げられた人々を吸引した。

また私たちのマインドには創造する力があることはバベルの塔の件で神が証言している。彼らが思い巡らすことは妨げられることはないと(Gen 11:6)。そして言葉にもその力があることは何度も書いている。

われわれはこの物理的世界と霊的世界の狭間に生きている。神と悪魔と人は三角関係のダイナミックスに置かれている。諸霊の影響を受けているのが世の中の人々、そしてオツムだけのキリスト教徒だ。彼らは霊の世界、あるいは霊の場を知らない。その場の振動(波動)がこの物理的世界に現出するのだ。

中東情勢も、個人の経験も、みな原則はひとつ。われわれのフェイスによる言葉はその霊の場に波動を起こす。フェイスによって霊の場の波動、すなわちサブスタンスをこの世界に現出させる(Heb 11:1)。

イエスは内にいます父の言葉をご自身の霊の波動としてとらえ、それを語り出された。これが死者を生かし、水をワインに変え、癒しやしるし・不思議をなしたのだ。物質界も場の波動であり、霊的世界も場の波動。そのふたつの領域を結ぶのがわれわれの言葉だ。内なる霊の波動による言葉を語り出すとき、それは何かを生じる。

Ickeも言っている、マインドのトランスフォーメーションこそが鍵だ、と。目の前の世界、現象を変えるのではなく、自分の内が変われば自ずと世界も変わると。まことにそのとおり。小さな自分というカプセルから飛び出せ!船から水面に一歩を踏み出したペテロのように。神のレーマがあれば水面も固体化するのだ!
 
「自分の内が変われば自ずと世界も変わる」などと言って、神に目を向けさせず、ひたすら「自分の内」に目を向けさせていくのは、グノーシス主義者の常套手段である。グノーシス主義者はもともと神を人間と同一とみなしているため、神を見いだすためには、人が自己を見つめることが必要だと言って、自分自身に目を向けさせる。それはどこまで行っても、被造物だけしかおらず、まことの神が不在の世界である。そこでは、「神」は人間の認識を通してしか得られないものとされ、あたかも被造物の付属物のごとく貶められ、被造物に存在を乗っ取られているからである。

Eden Mediaは、神秘主義の独自の概念である「松果体」や「サードアイ」に、まるで聖書に起源があるかのように見せかけながら、人類超人化計画を推進しようとする。あまりにも荒唐無稽なため、あえて紙面を割いて分析する必要もないようには思うが、以下では、笑い出したくなるような、こじつけとしか言えない語呂合わせが展開されている。

聖書における「松果体」について…

古代人は松果体(PINEAL GLAND)を知ってた。
マインドとの繋がりを。
それは難解だった。
実際、聖書も触れてるくらいだ。

それでは、聖書に松果体(PINEAL GLAND)が登場する
節句を挙げていこう。
「創世記 32章30節」

ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、
なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)
と名付けた。

ペヌエル=Peniel="Pineal Gland"(松果体)」


だが、ここで語られているのは、単なる語呂合わせだけではなく、聖書において、ヤコブがヤボクの渡しで神と格闘した際、「もものつがい」を外され、「顔と顔とを合わせて神を見た」ことを、Eden Mediaはグノーシス主義の立場に立って、これを「覚醒」による「真の自己の発見」と結びつけようとしているのである。

本来のキリスト教の解釈では、ペヌエルで神との格闘の中でヤコブの「もものつがいが外された」ことは、ヤコブの中で、生まれながらの古き人が、主と共なる十字架につけられて霊的に死んだことを意味する。もちろん、それが起きたのは、キリストの十字架よりも前の時代であるから、ヤコブに起きたことは、キリストの十字架の霊的予表である。

「もものつがい」が外された時、ヤコブの生まれ持った天然のエネルギーの中で、最も強靭で手に負えなかったアダムの堕落した命に由来する本能的な力が、神の力によって「デス・タッチ」を受けて、霊的に死を経たのである。

ヤコブという人物が、かなりわがままで狡猾な策略家で、自分が望んだものは何が何でも手に入れるまで絶対に後には引かないというタイプだったことは、聖書の色々な記述から明らかである。だが、そんな性格ゆえに、ヤコブの人生には様々な苦難が連続して起こった。

むろん、そうしたヤコブの強い性格の中には、神への信仰を決してあきらめないという長所も含まれていたが、同時に、それはヤコブ自身が自分ではどうすることもできない、彼らの頑なで手に負えない天然の内なる自己をも意味していた。

しかし、ペヌエルでは、それまでのヤコブの人生に絶えず働いていた肉的なエネルギーに、神の側からの霊的死が適用されて、そのエネルギーが死んで無効化されたのである。神との格闘の中で、十字架の霊的死に触れられた後で、ヤコブは足をひきずるようになった。そのことは、ヤコブの人生にそれまでずっと働いていた強力な肉的エネルギーが死んだことを意味し、その時から、ヤコブはそれまでのように生まれながらの「古き人」に生きるのではなく、キリストの十字架の死とよみがえりを経た「新しい人」に生きるようになった。すると、それまで、彼の人生に絶え間なく襲いかかっていた困難や試練が徐々に取り去られて行き、神の祝福は、以前よりももっと滞りなく豊かにヤコブの上に流れ出るようになったのである。

キリスト教の正統な解釈では、ペヌエルは「キリストの十字架におけるアダムの自己の死」を象徴する場所である。すなわち、人間の堕落した生来の肉的なエネルギーがすべて神によって触れられて死ぬ場所である。神を見るためには、人は生まれながらの自己に対する死を経なければならないのである。

ところが、グノーシス主義者は、このようなペヌエルの正統な意味をまるで逆にしてしまう。彼らは、ペヌエルで、ヤコブは「鏡」の中に映る自己を見つめてこれを「神」だと認識し、天然の自己を保存してこれに死ぬことなく、肉的なエネルギーの中で「覚醒」して、自ら神に到達したと、話の趣旨を捻じ曲げてしまうのである、

Eden Mediaでは、ペヌエルのエピソードは、ヤコブが十字架の霊的死によって自己を否んだ結果として、神との出会いと祝福の中に入れられたことを意味するのではなく、むしろ、ヤコブが自ら自分は神であるという認識に達して、ヤコブの内側で「アセンション」が起き、彼は超人的な能力を手にして神からの祝福に与り、自ら神と同じものになった、という正反対のとんでもない解釈を施されているのである。
 

「”ペヌエル”で何が起きていたか説明すると、
ヤコブは夜明け前になっても起きてたんだ。
そんな彼は最高神の天使と格闘中だった。
それは”YAH”(ヤハウェ)の天使だ。
ヤコブが最高神の化身の天使と格闘していると
ヤコブはももの関節をはずしてしまう。

それでも、ヤコブは最高神から
祝福をもらうのに必死で
「祝福するまでは離さない」と言った。
すると、最高神は彼に祝福を与え、彼の名前を
”イスラエル”に変えた。

ヤコブは「顔と顔とを合わせて神を見たので、
その場所を”ペヌエル”と名付けた。
「面と向かって、神を見たため…」



さらに、ここで、Eden Mediaの解説者が、「神(God)」と呼ばずに、最高神(Most High)」などという聞きなれない名を持ち出していることにも注意したい。もちろん、「最高神」などという呼び名は、聖書の神が、唯一の神であることを否定する立場に立っていなければ、出て来るはずのない言葉である。

「最高神」という存在は、他にも「下級神」がいて、神は一人ではないという前提なしには生まれない呼び名である。そこで、Eden Mediaが「最高神」と呼んでいるのは、グノーシス主義における「真の至高者」だということがすぐに分かる。つまり、彼らの言う「神」とは、聖書の唯一の神ではなく、グノーシス主義の「至高者(=鏡=虚無の深淵)」のことなのである。

このことは、Dr.Lukeが近年、「神」という呼び名を使わずに、やたらと「エロヒム」という言葉を多用している事実をも思い起こさせる。「エロヒム」とは、以下にも記すように、スピリチュアリズムの世界では、極めて広く使われている独自の概念なのである。



Dr.Lukeの出しているポスター。エロヒム(神々)とはKFCの「覚醒」した信者らを指す。


以下は、Dr.Lukeが2016年7月4日に書いた「あなたがたはエロヒムだ!」と題する記事。これはKFCの事実上の「覚醒宣言」であった。

今週のメッセはいわゆるキリスト教(特にニッポンキリスト教)の神学オツムにはかなり刺激的だと思う。あるいは挑発的か。われわれの真のアイデンティティーに覚醒せよ! われわれは神の新創造、ニュークリーチャー、新生命体、スーパーヒューマン、そしてエロヒムである! WOW! 

そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々(エロヒム)である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。-John 10:34-35



ニッポンキリスト教や英語圏キリスト教のマトリックスから解かれよ!エロヒム・ヤハヴェはエロヒムの会議で裁定するのだから。知ろうとせず、闇の中を行き来する、ことのないように!<後略>



むろん、以上で述べられているようなDr.Lukeの聖書解釈は、完全に荒唐無稽で成立し得ないものであることは、別の記事の中で、すでに説明したので繰り返さない。以上で、Dr.Lukeが「われわれの真のアイデンティティーに覚醒せよ! われわれは神の新創造、ニュークリーチャー、新生命体、スーパーヒューマン、そしてエロヒムである! WOW!」などと述べているのは、間違いなく、ニューエイジの「アセンション」と同一の「超人化」を指しており、KFCの信徒らが「覚醒」に至り、自らを「神々」とみなし始めたことを宣言したものである。

スピリチュアリズムにおいても、「エロヒム」の概念は広く使われているが、それが何を意味するのかを見てみよう。以下の記事では、「エロヒムとは天使だ」と言われてはいるものの、そこで言う「天使」とは、「最高神」から直接、創造され、「最高神」のパワーを受けとる「被造物」もしくは「下級神」といったような意味合いである。

また、スピリチュアリズムでは、「エロヒムは高い、効果的な波動を持つ強力な存在」などと言われていることも興味深い。やはり、「霊の波動」などという怪しげな概念を強調するDr.Lukeのメッセージと非常に重なる部分が多く、Dr.Lukeがこのような従来のキリスト教とは全く無縁の用語を強調し始めた理由が、ニューエイジやスピリチュアリズムの影響にあったことが推察される。





Eden Mediaは、神秘主義者の言う「アセンション」に、あたかも聖書的な根拠があるかのような虚偽の説明を続ける。

次は「マタイ6章22節」
読み上げると「体のともし火は目である」
「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが…」

Yehushua(イエス・キリスト)…
”人の子”と呼ばれる方
または、罪の贖いのために死んだ方は、
目を”単数形”で話す。

しかし、我々には”二つの目”が…
となると、Yehushuaが話した”目”は
違う目だったはずだ。
”一つの目”と言うからね。

彼は”マインドの目”を語ってた。
それは人間に洞察力を与える目のことだよ。
だから、この”光”…この”目”が…

Yehushuaが話していた
この一つの目が濁っていると…
そして閉じていると、
あなたの身体は全身暗い。
Yehushuaは松果体の存在を知っていただろう。

なぜかって?
彼は最高神”YAH”の息子で、
人間を自分自身に摸って
デザインしたわけだからね。
だから、最高神に摸って、人間をデザインしたということは、
その体の器官やその機能を知った上で創造し―
それらが”身体”と”魂”に与える
影響を知っていたはずだからね。



だが、以上のような記述も、真っ先に「聖書は神による人間の取扱説明書」などと主張していたDr.Lukeの記述を思い起こさせる。Dr.Lukeは、自らのブログの解説を、次のように記していた。

「Dr.Lukeのキングダム・フェローシップ・ブログ。聖書を宗教から解放すべく自然科学者の視点から解き明かす。聖書は神による人間の「取り扱い説明書」であり、物理的世界と霊的世界の関係を啓示しており、スーパーナチュラル。WHOも「霊的健康」なる概念を提唱するが、『霊精神身体医学』を開拓する。



しかし、これはどこから見てもツッコミどころ満載のデタラメな記述である。その根拠として、まず、第一に、聖書は「自然の人は神の霊に関する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。」(Ⅰコリント2:14)と述べており、霊の事柄は霊によってしか解釈できず、魂で理解することはできないと教えているため、Dr.Lukeの言うように、「自然科学者の視点から聖書を解き明かす」ことは絶対に無理であることがすぐに分かる。なぜなら、自然科学は、人間の魂による探求によって生まれたものであり、神の霊とは無関係であり、必ずしも信仰に基づかないからである。

また、聖書は、神が人間に与えられた約束(契約)であり、人間の側でも神に対して守るべき義務を定めている。聖書は神と人間との間に結ばれる契約であって、決して、Dr.Lukeの言うように、人間の「取扱説明書」ではない。聖書を人間の「取扱説明書」とみなすDr.Lukeの考えの中からは、人間本位の考えが読み取れるだけであって、聖書の中心は、人間ではなく、まことの神ご自身であり、聖書はキリストを中心とする物語であるという概念が抜け落ちている。やはり、ここでも、被造物しか存在しないグノーシス主義の世界観を見て取れるのである。

さらに、仮に聖書が「物理的世界と霊的世界の関係を啓示している」としても、聖書が一環して述べていることは、物理的世界と霊的世界との接点は、十字架で死なれたキリストという、ただ一人の「神と人との仲介者」(Ⅰテモテ2:5)なしには絶対に成立しないということである。このキリストの十字架の死と一つとなって、人が古き自己に死ぬことなくして、人が神に受け入れられ、神の霊と一つとされることは絶対にないという点が完全に抜け落ちている。

さらに、Dr.Lukeの引き合いに出す「霊的健康」なる概念を唱えるWHOは、以下の通りの紋章を使っている。これを見れば、WHOの唱える「霊的健康」なる概念が、どういうものであるかがよく理解できるのではないかと思う。このようなシンボルに従って行けば、霊的健康どころか、霊的病以外には待ち受けているものはないだろう。

 

世界保健機関(WHO)で使われている「アクレピオスの杖」

救急車で使われている「アクレピオスの杖」


以上のWHOや救急車で使われているシンボルは、「アスクレピオスの杖」と呼ばれ、ギリシア神話で名医とされるアスクレピオスが持っていたと蛇の巻きついた杖を指す。むろん、聖書とは何の関係もない概念である。しかし、今日、この「蛇」のからみついた「杖」のマークが、医療・医術の象徴として世界的に広く用いられている。

この杖は、『龍の正体』でウィルソンの昇進の儀式の際に師匠が持ち出して来た魔術師の杖を思い出される。もちろん、シャーマンの杖に、蛇はいない。なぜなら、そこに絡みついている蛇は、悪魔に由来する見えない邪悪なエネルギー(=「気」)を指しているからである。



このような事を考え合わせても、Dr.Lukeが唱えている「霊精神身体医学」なるものは、邪悪な霊的パワーによって人体を変容させる内丹術とほとんど変わらない、非科学的かつ非聖書的な偽りの概念であると言えよう。

彼が目指しているのは、グノーシス主義者と同じように、邪悪な起源を持つ人間の堕落した魂の世界や、堕落した肉的なパワーを、神の御霊と「融合」させるという身体的錬金術なのである。

そして、Dr.Lukeと同じように、Eden Mediaも、本来は、霊によって解釈することしかできない事柄を、この世の物質的世界の諸現象に置き換え、霊に属する概念を、肉に属する概念にすり替えて行く。

むろん、以下のマタイ第6章22節の記述も、「サードアイ」や「松果体」のことを指しているのでは全くないが、Eden Mediaはそれも文脈を捻じ曲げて解釈してしまう。

「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」(マタイ6:22)

以上の御言葉は、神の霊が人の内に住んで、御言葉の意味を啓示し、それによって光(正しい知識)を与えることがなければ、人間は自分だけでは何事も正しく理解し、判断することができないということを示したている。確かに、ここで言われている「目」とは、霊の目のことなのだが、それは、キリストの霊と一つになった人間の霊が、霊の中の直覚において、御霊を通して、神の啓示を受けて、何が神の喜ばれることで、何がそうでないかをわきまえる(見る)ことを示している。

一言で言えば、「目が澄んでいる」とは、信者が神の聖霊から御言葉を通して霊的啓示を受けることを指しているのであり、「松果体」やら「松果体を流れるエネルギー」やら「サードアイ」なる概念とは全く何の関係もない話である。そうしたものは、たとえ百歩譲って、作り話ではなく実在すると仮定したとしても、徹頭徹尾、この世の物質世界における物理現象の域を出ない、霊的な事柄とは何の関係もない話である。

しかし、Eden Mediaは、本来、神の「霊(Sprit)」によってしか見極められないはずの事柄を、肉に属する「思念(mind)」の話にすり替え、ひたすら、人間の生まれながらの自己の内側で、すべてを自己完結させて、神に至り着く道を切り開こうとする。そして、「ヤコブはペヌエルで最高神から松果体を開いてもらい、超能力に目覚めたのだから、あなたもそれに倣うべきだ」などと、とんでもない解釈を語り出すのである。

「だから、松果体をデザインした時
主はその明確な役割を知っていたんだ。
”セロトニン”や”メロトニン”
といったホルモンを分泌する
この松果体という小さな器官は―
人間に”夢”や”幻想”をもたらす機能も果たすんだ。

だから人々は鮮明なイメージをマインドで見れるわけだ。
その場で体験しているかのように…。
実際は睡眠中なのにね。スゴイ。

両目は閉じてるのに、

鮮明なイメージが見れるんだ。

例えば、数年前に亡くなった親族が
鮮明に浮かび上がったりする。
または学校のイジメっ子が
現れることもあったり―
そんな彼と遭遇してしまう
恐怖を感じたりする。

(注:こうして死者に言及したり、やたら不気味で不快なイメージばかりを描くところに、Eden Mediaの悪趣味がよく表れている。そんなイメージしか見られない「第三の目」など、開眼する必要は全くないものである。)

あるいはあなたのマインドで創造される
不思議でアブストラクトなイメージを見れたりもする。
それは実際、存在しないが、
あなたはそれを両目が閉じた状態で見れるんだ。

最高神はヤコブを祝福し、彼の松果体を開いた。
そうだ、その通り。
”最高神”が…彼の松果体を開いた。

要するに…あなたは自分の部屋でヨガのポーズをとり
サードアイを開こうとしてはならない。
それは違う。
そんなことすると、あらゆる悪質な存在に隙を与え、
精神分裂症になるだけだからな。
自分で開こうとするならな。

そうでなく、あなたは最高神に集中し、

彼を賛美し、
最高神のガイダンスに従い、
彼に開いてもらうべきなんだ。
それが正しいやり方だ。

では、あなたが、最高神の霊に

身体を引き渡すなら何が起きると思う?
その魂は?
神の息吹(ルアク)は?
聖書によると、”神の息吹(ルアク)”は何をもたらすと?
それはあなたを完ぺきな真理へと
導いてくれると教える。
洞察力を与える。

だから、こうした奇妙なモノは必要ない。
ヨガ、メデイテーション、マントラやら…
周波数やら、トーンやら、
松果体を開くにはね…
最高神に集中すれば、彼が開いてくれる。 

Eden Mediaは、「最高神(=グノーシス主義における真の至高者)」を賛美していれば、自然と、「真の至高者」が「松果体」の開き方を教えてくれて、「サードアイ」が開眼するのだと言っていることは、Dr.Lukeの唱えている「セレブレーション」の内容を思い起こさせる。要するに、KFCの「セレブ」は、ニューエイジが考える「霊的覚醒(=アセンション)」を呼び起こし、「人が神になる」ための場なのだと見て良いだろう。



以上の記述において、Eden Mediaはいつもの例にならって、一方では、「ヨガや、瞑想や、マントラや、周波数や、波動やらは要らない」と言いながら、他方では、「彼らが言うことは必ずしも嘘ではない」と真逆の結論を述べ、それらを肯定する。そして、「サードアイ」やら「松果体」やらと言った概念は、オカルト的・魔術的・悪魔的なものではなく、使い方次第によっては十分に有益なものとなるため、ニューエイジの思想の価値を「見直す」べきだ、などと人々に訴え、悪魔的起源を有する呪われたものを、クリスチャンが信仰生活の中に積極的に取り入れるよう促していくのである。その主張は、Dr.Lukeとほとんど変わらない。

「言った通り、古代人は松果体を知ってた。
世界中の文化を見渡せばわかる。
それが古代インドだったり、ヒンドゥーだね。
あとは古代中国や…日本もそうだ。
古代エジプト、古代マヤ。
どこ行こうが、皆、松果体を知ってた。

どっかのヨギーが、ヨガを通して、
サードアイの開き方を教えてるからと言って…
彼らは最高神と繋がりを持たない未熟な形で
開こうとしているかもしれないが、
彼らが言うことは、必ずしも嘘ではない。

要は、サタンは何でも悪用できる。
例えば、火を使って、放火することも出来れば、
調理することもできる。
それは、あなたとその意図次第。

では”サードアイ”や”松果体”と言うコンセプトは
本当に悪質でオカルトと言い切れるのか?
”悪魔”で”魔術的”だと…
考えるべきだ。」 


先に述べたDr.Lukeの主張と、Eden Mediaと驚くほどそっくりである。彼らは「ニューエイジは危険だ」とか「サードアイや松果体などはオカルト的だ」と決めつけず、もう一度、本当にそれらが間違っているのか、考え直すべきであり、ヒステリックに拒否反応するのではなく、「きちんとした見極めが必要」だ、などと言うのである。

これは、かつて蛇がエデンの園で、次のように人類に尋ねたことの繰り返しである。

「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。

今日も、蛇は人類に語り掛ける、「ほんとうに神はあなたにそれを禁じられたのですか? ニューエイジは危険だ、魔術だ、オカルトだから、関わってはならないと、神がほんとうに言われたのですか? 

いや、あなたはもう一度、それについて考え直してみるべきです…。あなたはヒステリックな思い込みに陥っているだけです。きちんとした見極めさえできれば、ニューエイジだろうと、オカルトだろうと、神秘主義だろうと、実に無害で、有益なものなんですよ…。あなたが考えているような危険なものじゃありません。あなたはせっかくのチャンスを、自分の狭い了見のせいで、台無しにしているんですよ…」


このような主張に、決してクリスチャンは耳を傾けるべきではない。Dr.Lukeは「聖書を宗教から解放しなければならない」などと述べて、聖書を「キリスト教」の枠組みからも取り出さなければならないなどと主張するが、その結果、起きるのは、あらゆる忌むべき思想と聖書との「混合」である。

もしDr.Lukeの言うように「オツム」が崩壊して滅びに至るような人々が出現するとすれば、それはキリスト教徒ではなく、むしろ、クリスチャンを名乗りながらも、「二度目の林檎」を取って食べ、ニューエイジの神秘主義思想を内に取り入れた人々である。なぜなら、神を畏れることを捨て、真理を捨てた者が、正常な意識を保つことはなく、蛇の言うことは常に嘘だからである。

「そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:4-5)

ニューエイジの思想に従って、「人類の集合意識」にアクセスし、これと融け合い、さらなる「高次の霊的意識(=虚無の深淵)」と融合するために、「アセンション」を経ることは、「この世の君」であるサタンの意識に直接アクセスする権限を得るのと同じことであるから、そのような「覚醒」が、もし信者の内で起きれば、その信者は、サタンのための開かれた通路となり、もはや二度と聖書の神への正しい信仰に立ち戻ることはできまい。

前回の記事の冒頭で、黙示録に登場する「獣の刻印」に関する御言葉を引き合いに出したが、そこでは、獣を拝む者には「すべての者にその右手か額に刻印を押させた。」と記されている。この獣の刻印なるものが、具体的に何であるのかは定かではないが、今、分かっていることは、この獣の刻印が押される場所が、「額」すなわち、「サードアイ」と同一の場所であるか、もしくは、ヒンドゥー教で、「聖なる手」とみなされている右手だということである。

このことは、獣の刻印が、悪魔の支配の印であるにも関わらず、あたかも聖なる刻印であるかのようにみなされて、彼らが「聖なる体の部位」だと主張するところに選んで押されるということである。

むろん、獣の刻印が何であるかは分からないとはいえ、神秘主義思想家らの言う「サードアイ」とは、それ自体が、獣の刻印の予表のようなものだと筆者には思われてならない。

そこで、KFCの「セレブレーション」も含めて、ペンテコステ運動の集会や、それに関わる信者たち、Eden Mediaの言う「超越瞑想者の集会」や「サードアイの開眼」など、「クンダリーニ覚醒」によって「蛇」の邪悪なエネルギーを呼び覚まし、サタンに通じる「集合意識」にアクセスして、暗闇の勢力に扉を開く手段には、決して関わらないようにと勧められるのみである。

そのような「覚醒」は、聖書のまことの神への礼拝や賛美とは何の関わりもなく、そのような悪魔的礼拝に関われば、クリスチャンはもはや神の子供ではなくなり、命の書から名前を削られ、救いからも除外されて、神の敵となり、真実なクリスチャンに戦いを挑む暗闇の兵士とされた上、外の暗闇に打ち捨てられるであろう。

このような忌むべきオカルト思想に関わりながら、クリスチャンが同時に神の民であり続けることは不可能である。汚れたものとは分離せよ、という聖書の原則を厳に守らねばならない。

「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとべリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。

神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。

「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。
 そして、彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せになる。

「そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。』
 全能の主は仰せられる。」(Ⅱコリント6:14-18)

肉のものと霊とのものを区別する必要性~キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋的神秘主義の危険⑨~

・獣の刻印としての「サードアイ」~人が暗闇の勢力に自己を開くことの危険~

「第二の獣は、獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像がものを言うことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた。また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。
ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるが良い。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である。」(黙示13:15-18)

Eden Mediaは、聖書に基づく警告であるかのように見せかけながら、実は反キリストの思想を宣伝する媒体となっていることはすでに述べたが、この媒体は、時を追うごとに、その正体をあからさまに見せ始めている。直近の動画の一つ「【4月】全能の目・松果体のお話。」では、冒頭から、「地球上の誰もが目に見えない形で、つながりを持つ。それが”暗黒エネルギー”や”暗黒物質”とのつながりだ。そして、それを利用し、あらゆるコトが実現できる。」などと、とんでもない話が始められる。

むろん、「暗黒エネルギー」「暗黒物質」などを通して、人間同士が互いにつながり合い、超能力を発揮できるなどという話が、キリスト教とは何の関係もないことは明白である。「暗黒エネルギー」「暗黒物質」といった名前を聞いただけで、これはオカルトだと判断して差し支えない。

この動画では、「暗黒エネルギー」とは何を意味するのか、具体的な内容は示されていないが、これまでの話の流れから察すると、それは「気」や「マインド」のことであり、要するに、「クンダリニー(蛇)」に由来する悪魔的なエネルギーであることが、説明なしでも十分に理解できる。

要するに、冒頭からこの動画は、「悪魔に由来する邪悪な暗黒エネルギーを活性化して、あなたも我々と共に覚醒し、超人となり、人類全体でつながり合って、神に反逆しましょう」と言っているに等しいのである。

この動画の後に続く「悟り」では、そのような路線に沿って、人が暗黒エネルギーに覚醒するとどうなるのかという話が続行される。それについては次回以降に説明するが、「全能の目・松果体のお話。」の動画で語られるのは、人類を超能力に目覚めさせる鍵となる「サードアイ」の開眼というテーマである。



世界中の古代文明は”なにか”を知ってた。

我々に”能力”があることをな…
”超能力”だ。

念動、テレパシー、幽体離脱、
これらはすべてリアルだ。
実際起きる。
実在する。

けど仕組みは?
それは
ここ最近のエビデンスによると
「松果体」がこれらの能力の鍵を握るという。

それでは人間の身体で
最も重要な器官の一つの話をしよう。
闇に閉ざされた…
「ザ・サードアイ」


私たちは、前回までの記事において、「サードアイの開眼」は、ヨガの修行「クンダリーニ覚醒」の一環であることを見て来た。これは、人の体の中で背骨の下に眠っている「蛇」を目覚めさせて、「蛇」の上昇によって、人が「覚醒」して「神」になろうとする神秘主義の反キリスト的な修行法である。

Eden Mediaは、以前の動画では、蛇(クンダリニー)が悪魔的なエネルギーであることを認め、「クリスチャンはクンダリーニ覚醒には絶対に関わってはいけない」と警告していた。にも関わらず、今回の動画では、「サードアイ」なる概念が、悪魔的な起源を持つものである事実を無視・否定して、むしろ、「サードアイを開眼せよ」と宣伝する側に回っているのだから、その自己矛盾に呆れる他ない。

グノーシス主義は常にこうして、あるメッセージを打ち出すと同時に、次の瞬間にはそれを自分で否定し、まるで壊れたレコードのように、どこにもたどり着かない永遠の堂々巡りを繰り返すのである。


神秘主義の思想では、「第三の目」の開眼は、事実上、「悟り」と同一視されている。そこで言う「悟り」とは、結局、人間が超人化するという「アセンション」を指している。

今ここで、少しの間、動画の解説を脇に置いて、まずは「サードアイ」なる概念の詳細から見ていきたい。むろん、この「第三の目」は、Eden Mediaが述べているように、「最近のエビデンス」によって存在が科学的に証明されたわけではなく、実在が全く証明されていない、古代から神秘主義思想で用いられている独自の概念である。

さらに、クリスチャンの観点から見れば、この「第三の目」は「悪魔の目」と呼ぶ他ないものである。

「第三の目」は、仏教やヒンドゥー教にも見られる。たとえば、ヒンドゥー教の最高神の一人であるシヴァ神には「第三の目」があり、大仏の眉間などに見られる「白毫(びゃくごう)」(白い毛を巻いたもの)も、実質的には、神秘主義者らの言う「サードアイ」と本質的に同一だとみなせる。

仏像の白毫は、目ではなく、白い毛を巻いたものであり、表向きには、ヒンドゥー教の「シヴァ神」の第三の目とは直接的には関係がないとされる。

だが、「シヴァ神」の第三の目も、白毫も、同じように、ヨガの「第六のチャクラ」に当たる位置にあり、また、光り輝いて世界を照らす源となったなどの神話的記述が共通していることを見ると、それらは両方、世界を照らす「悟りの智慧」を意味しており、よって本質的に同じ概念であるとみなせる。

「第三の目」の概念

“内なる目”“松果眼”とも称される神秘主義や形而上学で扱われる概念
多くの場合、直接認識、精神集中、幻視、透視、千里眼、予知、体外離脱に関連付けられ、また内なる世界や上位意識への扉として扱われる。また肉体的な特徴以上に、統一、均衡、事物の相対的把握、解脱、超越的英知、光の結晶、霊的意識、悟りを象徴するという。

シヴァの額の目や仏陀の白毫、およびヨーガのアージュニャーチャクラがこれに当るとされる(白毫は正確には第三の目を模した毛)。シヴァの第三の目は炎のように輝いて全世界を照らし、仏陀の白毫も光を放って世界を照らすものとして語られる。

ヘッドティカのように、第三の目を模したような装飾品も存在。
みんなでつくるpixivの百科事典参照。



白毫(びゃくごう)は、仏(如来)の眉間のやや上に生えているとされる白く長い毛。右巻きに丸まっており、伸ばすと1丈5尺(約4.5メートル)あるとされる。眉間白毫とも。三十二相の31番目であり、白毫相、眉間白毫相とも。仏教美術での表現から、膨らみや模様と誤解されることがあるが、誤りである。

光を放ち世界を照らすとされる。『法華経』序品には、仏(ガウタマ・シッダールタ)が無量義処三昧の瞑想に入ったとき、白毫が光を放ち東方一万八千世界を照らし出すというシーンが描かれている(爾時仏 放眉間白毫相光 照東方万八千世界)。

白毫の位置は、インド哲学における第6チャクラのアージニャーである。シヴァ神などいくつかのヒンドゥー教の神はその位置に第3の目を持つ。ヒンドゥー教徒が同じ位置にする装飾であるビンディーやティラカと、俗に混同されるが、直接の関係は薄い。
Wikipedia白毫から 



 
ビンディ(結婚したヒンドゥー教徒の女性が額につける装飾)


ヒンドゥー教の最高神の一人とされる「シヴァ神」の第三の目


仏像の白毫


私たちが常日頃から見ている座禅のポーズをした仏像は、ブッダが「クンダリーニ覚醒」を行う修行の最中であること、また、仏像の白毫は、ブッダが「覚醒」を経て「サードアイ」が開眼した事実を伝えているのだと見て良いだろう。もしくは、仏像はブッダという人間を指しているというよりも、それ自体が、「覚醒(=アセンション)」の象徴なのである。

ちなみに、ヒンドゥー教の「シヴァ神」は、ほとんどの場合、首に蛇を巻いた姿で描かれ、髪の毛にも蛇が絡んでいるが、それは「シヴァ神」が、古代インドにおける「ナーガ(蛇)」信仰と合体して出来た存在だからだと言うことができよう。「ナーガ(蛇)」信仰とは、むろん、本質的にはルシファーへの信仰、悪魔崇拝に他ならない。

悪霊シヴァの起源」などの記事の解説では、「ナーガ(蛇)」信仰も、「シヴァ神」も、もとは悪霊(悪鬼)とみなされていたものが、「神」とされるようになったのだとする。十二神将などと同じように、「シヴァ神」も悪鬼が神格化されたものだという考えには説得力がある。

今日でも、「シヴァ神」を描いた画の中には、不気味なオカルト信仰としか見受けられないような描写が多数含まれているのは、もともとこれが悪鬼であったからだと考えれば理解できる。


ヒンドゥー教の最高神である「シヴァ神」はほとんどの場合、蛇を首に巻いた姿で描かれる。今でこそ「吉祥」を表すとされているが、激しい怒りですべてを焼き尽くす「破壊の神」でもあり、もとは悪鬼とされていたものが神格化されたという説は正しいのではないかと想像される。


ヒンドゥー教における「シヴァ神」は「破壊と創造の神」とされており、宇宙の根本原理とされる「ブラフマン(力)」と同一であるとされるが、ここで言う「ブラフマン」とは、グノーシス主義における「虚無の深淵」や、内丹術における「道」とほとんど同一の概念であるとみなしてよいだろう。

シヴァという世界観」などの記事によれば、「シヴァ神」の姿は「リンガ」にたとえられる。インドには至る所に「リンガ」の形となった「シヴァ神」が祀られ、「ヨーニ」と合わせて崇拝の対象となっているという。そこから分かるのは、「シヴァ神」とは、一言で言えば、「割礼を受けていない男性的なエネルギーの象徴」であって、ヒンドゥー教では、それが世界を創造した根源的なエネルギーであるとみなされ、創造と破壊を続ける根源的な力だとみなされて、神格化されて崇拝の対象となっているということである。

老子は、人間は「神は気を生じ気は精となり精は形を成し子孫を生みだす」という過程を経て生み出されるという「神→気→精」の経路を主張し、人間がこれを自ら逆行し、「精→気→神→虚」の経路をたどることで、世界の根源である「道(=虚無の深淵)」への復帰が可能であるとした(内丹道)。「シヴァ神」というシンボルが表しているのは、まさに老子の主張と同じである。老子の述べた「精→気→神→虚」とは、「シヴァ神(リンガ)」や「クンダリニー(蛇)」と同一のエネルギーを意味する。

また、「シヴァ神」の髪の毛にも蛇が絡みついているように、仏像の額に巻いている白毫も、その起源は、とぐろを巻いた白蛇にあると考えるのが妥当ではないだろうか。つまり、それはブッダを「覚醒」に至らせた力も、クンダリニー(蛇)に由来することを暗示しているのである。

そう考えると、相当に多くの謎が解けて来るのではないだろうか。なぜ旧約聖書で、イスラエルの民に属する男子たちは、生まれて八日目に割礼を受けなければならなかったのか。割礼とは、聖書の神が、決して人間の生まれながらの堕落したエネルギー(=人間の生まれながらの自己=肉の力=天然の男性的なパワー)を聖なるものとは認められず、人間が神に受け入れられるためには、(男であれ女であれ)、生来の本能的な力に対して十字架の霊的死を経なければならないという事実を示している。

このように、聖書の神は、決して人間の生まれながらの堕落した肉的な力を、神に属するものとして受け入れられることはない。割礼は、人類の生まれながらの肉的な力に対する霊的死の適用を意味する。だが、「シヴァ神」に見られるような異教信仰においては、割礼を受けない男性的パワー、人間の堕落した生まれながらの本能的な肉の力が、そのまま「世界の根源」として崇拝の対象とされ、誉め讃えられる。だが、それは元来は「ナーガ(蛇)」や「クンダリニー(蛇)」に由来することを見ても、悪魔的な力なのである。

「ビンディ」は、ヒンドゥー教徒の女性(被造物全体の象徴)が結婚することで、「割礼を受けていない生まれながらの男性的なエネルギー(=ナーガ(蛇))を主人として、その堕落した悪魔的な力と結びつき、その支配下に入ったことを象徴的に表す印だと言えよう。そして、ヒンドゥー教徒の女性に限らず、「第三の目」を開眼させた者たちはみな、その印によって、彼女たちと同じように、自分が悪魔的なパワーの支配下に入ったことを自ら言い表しているのである。

さて、この蛇(クンダリニー)に由来する 「サードアイ」は、「プロビデンス(=神の摂理)の目」(万物を見通す目)と同じものである。

「プロビデンスの目(Eye of Providence)」は、キリスト教の聖堂などの建築物などでも使用されていたことから、「神の全能の目(all-seeing eye of God)」を意味するものとして、表向きには、三位一体を象徴するキリスト教のシンボルであるかのように言われて来た。

だが、筆者は、これがキリスト教のシンボルだというのは、ほとんどあり得ないことだと考えている。

聖書には次の一説があり、神が確かに全能の目を持っておられることを示している。

主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(Ⅱ歴代誌16:9.)

だが、以上の御言葉は、神が「ご自分と心ひとつになっている人々」を見つけ出し、その人々を助けるために、深い関心を持って、全地を見渡し、人類の中にご自分に忠実な信徒を探されている、ということを表しているだけである。

以上の御言葉の意図は、ピラミッド・アイとも呼ばれる、自分の象徴を誰にでも見せつけようとするあの自己顕示的な「目」とは全く別物であると筆者は考えている。

私たちは、神の他にも、「全能の目」を持ちたがっている存在が確かにいることを知っている。その存在は、神のように人々を助けるためではなく、神を超えて万物の支配者となるために、人類の心を不当に監視し、覗き見て、弱点を掴み、恐怖に陥れ、暴力と殺戮によって支配しようと、神に等しい「全能の目」を持ちたがっているのである。むろん、その存在とは悪魔である。

錬金術や、フリーメイソンで用いられている「プロビデンスの目」は、神の目ではなく、悪魔の目であるが、それを考えるとなおさらのこと、この「目」が、もともとキリスト教の中で作られたシンボルであったとは考えにくく、これは地上の組織としてのキリスト教界の中枢部が、悪魔的思想に取り込まれて堕落してしまった時に、その腐敗と一緒に外からキリスト教界の中に持ち込まれたと考えるのが妥当ではないかと思う。


Wikpediaから 左から順に、キリスト教界で用いられているとされる「プロビデンスの目」のデザイン、錬金術で使われていたシンボル、フリーメイソンの初期のシンボル


さらに、フリーメイソンや錬金術のシンボルである「プロビデンスの目」の起源は、古代エジプトの「ホルスの目(=ラーの目)」にあるとされる。ホルスとは、古代エジプト神話において太陽神ラーの子孫とみなされている「天空と太陽の隼の神」である。ホルスの両目は、太陽と月にたとえられ、右目が太陽の象徴である「ラーの目」、左目は月を象徴する「ウジャトの目」と呼ばれる。


ラーの目」とホルス


「プロビデンスの目」や、神秘主義者が主張している「サードアイ」は、一言で言えば、ホルスの両目である「太陽の目」と「月の目」という二つの目の「統合」の象徴である。そのことは、以下の図からも明白であろう。太陽と月との統合という概念は、光の源である太陽(≒男性、創造主)と、太陽の光によって輝く月(≒女性、被造物)との「統合」を意味しており、要するに、神と人とを融合させようというグノーシス主義的錬金術を指す。


ホルスの左目の呼び名である「ウジャト」とは、コブラの姿か、もしくは、頭上にコブラをつけた女性の姿で描かれる、古代エジプト神話の女神である。つまり、これも古代インドの「ナーガ(蛇)」や「クンダリニー」と同じように、蛇を神格化した「女神」である。


ウジャトの像

「ウアジェトの目」は、周期的に満ち欠けする月の象徴であることから、欠けた月が再び満ちるように、「失ったものを回復させる」「完全なるもの、修復されたもの」という意味がある。

エジプト神話では、ホルス神の左目である「ウアジェトの目」は、ホルス神が父オシリス神の仇であるセト神を討つ時に失われたが、(この左目はホルス神の下を離れ、エジプト全土を旅して知見を得た後、)知恵の神にして月の神・時の神であるトート神によって癒され(ホルス神の下に戻り)、回復した

そのため、「ウアジェトの目」は「全てを見通す知恵」や「癒し・修復・再生」の象徴(シンボル)とされた。またホルス神が癒された目を父オシリス神に捧げたというエピソードから、供物の象徴(シンボル)ともされた。

また、守護神としてのウアジェトの性質から、守護や魔除けの護符として用いられた。ミイラ(死者)に添えられることもある。ツタンカーメンの「ウジャトの目の胸飾り」が有名である。

第一中間期と中王国時代に、「ウアジェトの目」(左目)と「ラーの目」(右目)を左右に合わせた両目が、ミイラを納めた(ミイラは体の左側を下にして納められることが多かった)柩の左側面に描かれたりした。これはミイラを守る護符とも、死者(ミイラ)がこの世(棺の外)を見るための窓とも解釈される。目は太陽の昇る方向である東に向けられていた。
Wikipedia 「ホルスの目」から


ここで、戦闘中に失われた「ウジャトの目」をホルスに回復させたのは、「知恵の神にして月の神」とされる「トート神」だったとされる。この「トート神」は、歴史的に広範な地域、すなわち、エジプトの外の新バビロニアや古代ローマ帝国でも信仰された対象だったようで、今日でもオカルトにおいて重要な役割を果たしているとされる。

知恵の神、書記の守護者、時の管理人、楽器の開発者、創造神などとされ、王族、民間人問わず信仰された。そのためある程度の規模を持つ神殿には、トートのための神殿が一緒に作られている。」

創世神の一人であり、言葉によって世界を形作るとされる。

「誕生について諸説ある。ヘリオポリス神話において世界ができた時、自らの力で石から生まれたとされる説が有名である(この場合、早く生まれたために足が悪くなったとされる)。<略>

ヘルモポリス神話において世界は、八柱神(オグドアド)によって作り出されたとされている。その後この神々が眠りにつくが世界が終焉を迎えた時、また新しい世界を生み出すために目覚めさせなければならない。この役目を請け負ったのがトートだとされる。あるいは、トートが創造神とされた。」

トートは、魔法に通じておりイシスに数多くの呪文を伝えた。病を治す呪文も熟知していることから医療の神の面もある。<略>」

トートは、ギリシア神話のヘルメス神と同一視された。楽器の開発者とされるなど、他にも神話上に多くの役割を持っている。ピラミッドの建設方法を人間に伝えたのもトトであるとされる。」 Wikipedia 「トート


「トート神」はトキの姿で描かれたことから、トキの頭部を「白蛇」の姿に重ね合わせる説もないわけではない(たとえば、「瀬織津姫 & クンダリーニ…No.83」。また、「トート神」自身が蛇の姿になって現れたりしていたとする説もある。

さて、「サードアイ」は「太陽」と「月」の統合の象徴であるから、そのシンボル自体が、「太陽」と「三日月」を組み合わせたものだと言われる。

さらに、以下の解説においては、この「全能の目」としての「サードアイ」が、ただ単に「監視する」という意味だけでなく、「裁き」や「正義」「力」を象徴しているとされていることも興味深い。

つまり、「悪魔の目」が全地をあまねく監視する目的は、「正義」の名のもとに「裁き」を行い「力」を行使するためだというのだ。この目は単なる偽りの「知恵」を指しているだけではなく、自分にとって「悪」と見えるものに裁きを下し、実力行使で排除する「力」を兼ね備えた裁きのシンボルなのである。

(このことは、たとえば、「シヴァ神」が「創造と破壊の神」とされ、怒ると「第三の目」から炎を出して対象を焼き尽くすなどとされていることとも重なる。それは「光」であると同時に激しい怒りと憎悪によってすべてを焼きつくす力としての「炎」をも意味するのである。)

「目」の起源

この「目」のシンボル(象徴)の本質は、「月」と「太陽」のシンボルを、合成したものである。「月」は「三日月」、「太陽」は「丸」で表現される

「月」と「太陽」のシンボルを、「月」を上に、「太陽」を下になるように、縦に並べると、横向きの「三日月」が瞼に、「丸」が瞳に、すなわち「目」のように、見える。

「目」の意味

中世からルネサンスにかけて以降、三位一体の象徴としてデザインが用いられた。三位一体の盾から、この三角形の中心にある「目」は、「完全なる神」、「究極の神」、「至高存在」を表している。この目は、光輝いていることから、「光明神」である。「目」は、「目覚めた者」の象徴であり、「知恵(智慧)」と「理性」の象徴である。「知恵(智慧)」と「理性」は、蒙を切り裂き啓く、鋭利な「光」にたとえられる。ゆえに「光明神」は、「知恵(智慧)と理性の神」である。

また、「光明神」は、「太陽神」と同一視される存在であり、いと高きところ(天空)より、その光で世界を遍く照らし、闇=悪=不正の存在を見逃さない(許さない)ことから、「監視する神」であり、「正義の神」であり、ゆえに「裁く神」である。力無き正義は無力である。正義無き力は暴力である。ゆえにこの神は「知」と「力」を兼ね備えた存在である。

「☆青い空大好き☆➀②③ プロビデンスの目」から抜粋



こうした記述からも、「悟りの知恵(般若)」と表裏一体となっている残酷な般若の面という裏側が見えて来る。つまり、「すべてを見通す目」の目的は、表向きには、人に神のような知恵を与えるということになっているが、裏では、このような「第三の目」に覚醒することは、「正義」の名のもとに、容赦のない暴力の行使によって、自分に従わない全ての人々に危害を加え、排除する装置が稼働することをも意味するのである。

このことは、キリストの十字架の死を否定し、キリストの霊的死にあずかることなく、人類の生まれながらの肉の力を使って、神に至り着こうと目指す人々が、本物の十字架を経由しない代わりに、偽りの「十字架」を作り出し、まことの神によらない、身勝手な裁き(私刑)を行うことをよく表しているのではないだろうか。

一方では、彼らは、人類が自力で神に回帰して、地上の楽園を実現できると言うが、他方では、必ず、その実現のために、何かしらとてつもない犠牲が人類に必要となると言う。そして、圧倒的多数の人々を抑圧し、排除するための暴力装置という必要もない犠牲を生み出すのである。

そのようにして、人類が自ら作り出す偽りの十字架が、般若の面や、「薬師如来」を守護する「十二神将」や、「国体」や「和の精神」といった理想論とワンセットになった治安維持法、共産主義ユートピアをもたらすために不可欠とされた秘密警察、カルト救済活動につきもののカルト監視機構、安倍政権の制定した共謀罪などに表れているのである。

要するに、生まれながらの人類を神とする反聖書的な思想と、人類が人類を監視し、気に入らない者に裁きを下すための暴力装置としての「悪魔の目」は一体なのである。「和の精神」は、表向きには、人類を希望で照らす太陽のような「叡知の光」を指すと同時に、不浄のものをすべて焼き尽くしてしまう地獄の火炎としての側面を持つのである。

もう一度、以下の聖書の御言葉を引用して、「悪魔の目」が目指している目的が、神の目とは全く正反対であることを確認しよう。

神の目:「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(Ⅱ歴代誌16:9.)

悪魔の目:「悪魔は自らが全能だとみなしているその目をもって、あまねく全地を監視し、その心が悪魔と一つでない人々(=特にクリスチャン)を断罪し、裁き、実力行使によって排除する。

さて、Eden Media に話を戻すが、神秘主義において、「サードアイ」は「松果体」と切り離せない関係にあるとされて来た。このことを知っていれば、まさにEden Mediaの動画は、神秘主義思想そのものであることが分かる。

以下は、神秘家の記した「天空神ホルスの錬金術 天空神ホルスの目覚め:AS2012(60)」 という記事からの転載である。この記事を読めば、神秘主義者が「サードアイ」と「松果体」とをどのように関連づけて考えていたのかが大体分かるだろう。以下の記事では、「サードアイ」とは文字通りの目のことではなく、また「松果体」それ自身でもなく、「松果体を流れるエネルギーである」とみなしている。


こちらが一般的にホルスの眼と呼ばれるデザインです。


こちらは私たちの脳の構造を表したものです。

一般的に言われる「ホルスの眼」のデザインは「松果体」を中心にした脳の部位を様式化したものです。


こちらは神経網の断面図。


ホルスの眼は第三の眼だけではなく、松果体を取り囲んでいる器官をデザイン化したものです

眼の下に突き出ているのは「橋」と「延髄」である「脳幹」です。
そして眼から左斜め下に伸びて最後で螺旋になっているのは「小脳」へ繋がっている神経です。

眼の上に描かれている眉毛のようなカーブは右脳と左脳の間にある「海溝」と呼ばれる溝です。
そして瞳を囲んでいる部分が、海馬と脳弓です。
驚きですね。
太古のエジプト文明では、すでに脳の具体的な構造を理解していたわけです。
その構造の理解は、現代の医療の理解を遥かに超えたものです。

なぜなら「エジプトの死者」の書は一般的に理解されているエジプト人の捉えていた死後の世界、黄泉の世界観を表したものではないからです。
死者の書に書かれている内容は、多次元的な世界へ移行するための技術です。
死後の世界を描いた死者の書ではなく、ファラオ達の通過儀礼としての「アセンションの書」なのです。

以上の記事では、第三の目は松果体そのものではなく、松果体を流れるエネルギーであるとみなしている。

ホルスは第三の眼ではなく、隼・ハヤブサとして松果体の器官に関係するエネルギーを表したものです。
さて次の段階ですが、このデザインの理解のポイントは頭の上と両足に合計三つの赤い玉があしらってあることです。
上の石盤の両足の近くにはアンクが描かれています。
こちらはホルスを立体的に作り上げたもの。
下の胸当てのデザインは、「 隼の姿をしたホルス」が両方の羽を左目の形をしているように見える脳の中心部を表すシンボルに接続されています。
ホルスの翼の片方は眉毛=海馬に、手前の翼は目尻=脳弓に、そして足は小脳に繋がる管に接続されています。
ホルスは脳の中心部にエネルギーを与える存在ということです。
ホルスの波動は脳の後頭部から入って来るのです。<略>
ホルスの翼は頭の赤い宝石が波動で包まれるという比喩です。
そして松果体は赤い色です。


では目頭の下から出ているのは何でしょうか?
コブラをデザイン化したものです。
<略>
エジプトの死者の書は、コブラを出現させるためのテキスト、波動を使った体内の錬金術を教える書なのです。

 

以上の記事が「エジプト死者の書」は、「波動」を使って「コブラ」を目覚めさせて、「アセンション」を引き起こすための手順書だったとしていることは興味深い。このようなニューエイジ思想の記述を読む時、私たちは、Dr.Lukeが「祈りとは波動」だと述べたり、以下のように語っていることを思い出さずにいられない。



少しでも神秘主義の思想の構造を知っている者であれば、Dr.Lukeの語る以上のようなメッセージは、ニューエイジの思想から深い影響を受けたものであることをすぐに見て取ることができる。そして、次の記事で指摘するように、Dr.Luke自身が、ニューエイジから積極的に発想を取り入れたことを隠していない。

つまり、Dr.Lukeの語るメッセージは、実質的には、Eden Mediaと同じように、実質的にニューエイジと同じ「覚醒(=アセンション)」へと人々を導く暗闇の思想なのである。

あたかも聖書に根拠があるかのように見せかけながら、「五感を超えた能力を身に着けよ!」と述べて、「覚醒」による超人化を促しているという点では、Eden Mediaと同じなのである。

むろん、そこでは「サードアイ」を開眼せよとは言われていないかも知れない。だが、「サードアイ」なるものはもともと実在しないので、神秘主義者らが「サードアイを開眼せよ」という言葉で表している内容も、実質的には、脳内の「松果体」もしくは「松果体に流れるエネルギー」を「覚醒」させることを通して、五感を超えた能力を身に着けよ、ということであり、人々を超人的エネルギーに目覚めさせようとしている点は、Dr.Lukeの主張と実質的に同じである。

以下の「太陽神「ホルスの目」は、「第3の目」の象徴」という記事を見れば、「第三の目」が五感を作り出す根源、すなわち、五感を超えた見えない知覚や認識の世界全体を象徴していることが分かる。このような認識こそ、根本的には、人が「道」と一体化した「大円境地」を指しているのであり、偽りの知識に目覚めてすべてをさかさまに見るようになった「サタンの目」の意味なのである。


Wikpediaのページに掲載されている「ホルスの目」
これはいったい何を意味するのかと言えば、こちら↓



人間の感覚を表すそれぞれ六つの部分に分かれているのです。

更に、↓



数学の方程式=宇宙の方程式に繋がります。

この世は、数字でできていて、数字が基本
数字で説明、解釈できる世界なんですね。

そして「ホルスの目」の極意にいきます!

「目は水晶体というレンズを通して、フィルムという網膜に映像が映し出され
視神経を通って電気信号で脳に伝わって初めてものが見える、光を感知する。
つまり、目は脳の一部であって、私達は脳でものを見ている」ということは
知識として持っていましたが、その正体が、脳の中心にある「松果体」だったのです。
そして、その「松果体」が「第3の目」=「ホルスの目」に繋がっているのです!<略>



松果体は、松ぼっくりの形に似た脳の中心にある小さな内分泌器で
概日リズムを調節するホルモン、メラトニンを分泌する働きがあるのですが
これが「第3の目」の働きをすることが、近年の研究でわかってきました。

「目を持たない魚たちは松果体で見ていた」というもので
「光の探知に関しては目より松果体のほうが役割が大きい」との
興味深い実験結果も出ています。
詳しくは、
こちらのサイトへ。


松果体は、顔正面の額の高さの位置にあります=「第3の目」

;
 
<続く>

2018年5月 6日 (日)

肉のものと霊とのものを区別する必要性~キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋的神秘主義の危険⑧~

・Eden Mediaが推奨する偽りの「人類超人化計画」(アセンション)の危険性について 

6.錬金術とグノーシス主義は同一である ~なぜフリーメイソンは石工団体なのか?~

「そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:4-5)

悪魔の目的は、神の能力、支配権を奪い取って、神を超えることにある。そこで、悪魔は人類をそそのかす際にも、自分が望んでいるのと同じ欲望を吹き込もうとする。

そのやり方は、人類誕生の当初から今日までも変わらない。私たちは、Eden Mediaの動画を通して、東洋神秘主義が目指していた悪魔的な超人思想(=人を神のように変容させる術)が、今やニューエイジ思想の中に最も先鋭化した形で受け継がれているのを見て来た。

これまで見て来たように、神秘主義は、ただ思想であるだけではなく、人体を変容させるための方法論でもある。たとえば、古代中国の錬丹術などがまさにその方法論に当たり、何らかの刺激や訓練(修行)を通して、人体を変容させて、眠っている力を引き出し、神のような超自然的な能力を備えさせようとするのである。

その意味で、錬金術も、ただ卑金属を金に変えることだけを目的としていたのではなく、ここにも、人類が不老不死を手に入れ、悟りの智慧を得て神に等しい者になろうとする悪魔的な欲望が込められている。
 

錬金術における最大の目標は賢者の石を創り出すことだった。賢者の石は、卑金属を金などの貴金属に変え、人間を不老不死にすることができる究極の物質と考えられた。また後述の通り、神にも等しい智慧を得るための過程の一つが賢者の石の生成とされた。

「中国では『抱朴子』などによると、金を作ることには「仙丹の原料にする」・「仙丹を作り仙人となるまでの間の収入にあてる」という二つの目的があったとされている。辰砂などから冶金術的に不老不死の薬・「仙丹(せんたん)」を創って服用し仙人となることが主目的となっている。これは「煉丹術(錬丹術、れんたんじゅつ)」と呼ばれている。厳密には、化学的手法を用いて物質的に内服薬の丹を得ようとする外丹術である。
 Wikipedia「錬金術」から

 

現代人は、「賢者の石」などという言葉を聞けば、すぐさまハリー・ポッターの映画などを思い出し、ファンタジーだと一笑に付して終わりたくなるかも知れないが、この概念は、歴史上数多くのグノーシス主義者が追い求めた悲願を意味し、これまでオカルト研究者、魔術師、錬金術師のみならず、自然科学者の関心さえも惹きつけて来た。今日では、万有引力の法則の発見で知られるアイザック・ニュートンも、膨大な労力を錬金術(オカルト)の研究に注ぎ込んでいたことはよく知られている。

あらゆる錬金術師の至上命題は、卑金属を金に変える至高の物質とされ、かつ、治癒不可能な病や傷をさえ瞬時に治す「神の物質」とされていた「賢者の石」の製造と、それによる金の錬成にあった。

ニュートンの死後に残された蔵書のうち、数学・自然学・天文学関連の本が16%であるのに対して、神学・哲学関連は32%を占めていることを見れば(アイザック・ニュートンのオカルト研究)、いかに彼が生涯をオカルト研究に費やしていたかが分かるだろう。

ここで言う「神学」とは、正統な神学のことではなく、錬金術に集約される異端的オカルト研究を指す。ニュートンは、聖書の中に、何とかして錬金術の根拠を探し求めようと、ソロモン神殿などの研究を行っていたが、彼はそもそも三位一体を信じていなかったので、キリスト教徒としての正統な信仰に立っておらず、「神学者」と呼ぶのは全くふさわしくない。ニュートンの名誉をおもんばかって、後世の人々がオカルト研究を「神学・哲学研究」と言い換えているだけである。

ニュートンの錬金術師としての研究の主要な目的は、まずは「賢者の石」の発見、次に賢者の石と同一か、もしくはこれを液体化したものと考えられている「エリクシル」の発見にあった。

また、心理学者ユングも錬金術に注目していた。彼は心理学と錬金術との関係性を研究し、そこから「いっさいの神秘主義は、対立しあうものの結合を目指している」という結論を引き出したという。

心理学者カール・グスタフ・ユングは、錬金術に注目し、『心理学と錬金術』なる著書を書いた。その本の考察のすえにユングが得た構図は、錬金術(のみならずいっさいの神秘主義というもの)が、実は「対立しあうものの結合」をめざしていること、そこに登場する物質と物質の変化のすべてはほとんど心の変容のプロセスのアレゴリーであること、また、そこにはたいてい「アニマとアニムスの対比と統合」が暗示されているということである。
Wikipedia「
錬金術」から

結局、錬金術とは、何とかして卑金属(≒人間)から金(≒神)を生み出し、両者を「統合」させることで、生まれながらの人類という堕落した卑しい種族の中から、聖なる全知全能の「神」を作り出そうとするまさにグノーシス主義的な異端の(詐欺的)試みであったと言えよう。

ちなみに、あらゆる錬金術師の悲願が「賢者の石」を作り出すことにあると考えれば、なぜフリーメイソンが「石工」集団の名で呼ばれているのかも、おのずと理解できるのではないだろうか?

そして、錬金術が、大きく見れば、人体の外にある物質を通して「霊薬」としての「仙丹(=賢者の石)」を作り出し、これを摂取することで、人間が不老不死に到達しようとする外丹術であるならば、人が座禅や瞑想や呼吸法などの修行を通して、体内の丹田(腹)に「気」を集めることで「仙丹」を練り、不老不死に到達しようとするのが、内丹術である。

今日、神秘主義の探求者の間では、錬金術のような外丹術よりも内丹術の方が主流になっているように思われるが、ヨガや、座禅や、瞑想、気功、武術には、人が自らの力で「気」を集めることにより、人体を変容させて永遠に到達しようとする内丹術が受け継がれている。

もちろん、「気」などというエネルギーが実在するという科学的証明は一切ない。そのような超自然的エネルギーがもしあるとすれば、それはただ悪霊に由来する魔術のような力でしかないことはすでに述べた。従って、「気」を引き出すことで、人間が超自然的な力を得て、自ら神を乗り越えようとする内丹術は、聖書の神に反逆する魔術でしかないことも、すでに説明して来た通りである。

だが、神秘主義者らは、今日も変わらず、人間を「神のように」するために、「気」を汲み出すことで超人的な人体の変容を目指しているのであり、それを彼らは「悟り」とか「覚醒」と呼ぶ。

東洋思想における「悟り」(=般若)とは「覚醒」と同義であって、これはただ単に人間の頭の中だけで理解される「知恵」ではない。彼らの言う「悟り」の概念には、人間が神のように変容するための具体的方法論としての修行が含まれており、東洋思想における「悟り」とは実質的に超自然的な能力の「覚醒」を伴うものなのである。

そして、そのような意味での「覚醒」こそ、創世記で蛇が人類に吹き込んだ「あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようにな」るという「偽りの知恵」だったのであり、それこそが、鈴木大拙の言う「知がその本質からはなれて、その底にあるものと一つになる」結果として生まれる「行を支配する知」(もしくは「行」と一体化した「知」)なのである。

そう考えると、なぜキリスト教に偽装したグノーシス主義の媒体に"Eden Media"という名称がつけられたのか、その意味も見えて来よう。私たちはこの媒体が、決してキリスト教の信仰に立っておらず、キリスト教の信仰を装いながら、その実、聖書とは決して相容れないものをキリスト教と合体させようとするグノーシス主義的な偽りの「統合」に根差していることをすでに見て来たが、”Eden Media” の意味する "Eden"とは、「入不二界」と同じであり、要するに、鈴木の述べた「第二の林檎を食べ」た後に出現する人類の楽園を意味しており、すべての神秘主義者が飽くことなく目指している人類の地上における幸福社会、第二のエデン、すなわち、「道」との一体化のことなのである。

私たちクリスチャンは知っているはずだが、真のキリスト者であれば、エデンに回帰することなどを決して目指したりしない。私たちの到達目標は、失われたエデンではなく、神の聖なる都としての新エルサレム、新しい天と地である。しかし、グノーシス主義者には、必ず時間軸を逆行して、人類が創造される前の状態に自力で回帰することで神と一つになろうとする、原初回帰という特徴がある。

「人間の本質とでもいうべきは、理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである。知性はどうしても二分性を根本的に帯びている。それゆえ、表面的になりがちである。すなわち薄っぺらだということになる。これに反して情意的なものは未分的すなわち全一的であって、人間をその根本のところから動かす本能を持っている。人間は行為を最先にして、それから反省が出る、知性的になる。知が行を支配するようになるのは、知がその本質からはなれて、その底にあるものと一つになるところが出なくてはならぬ。

アダム、イブの世界には『行』のみがあって『知』がなかった。それでエデンの楽園が成立した。一旦、知が出ると、失楽園となったのである。入不二法門の世界では、その知をそのままにして、もとの行の世界、意の世界を、新たな面から再現させている。この点で入不二界はエデンと相違するのである。一段の進出といってよいのである。二度目の林檎を食べぬといけない。」(『東洋的な見方』、鈴木大拙著、岩波書店、pp.195-196)

 
むろん、鈴木大拙の以上の主張も、すでに説明した通り、錬金術のような詐術であって、これは徹底的に神不在のグノーシス主義である。アダム、エバのいたエデンには、聖書の神の言葉を人間がわきまえ、それに従うという「知」が存在しており、鈴木の言うように「行」だけが存在したわけではなかった。そこには、「知」と「行」が一体化した世界があったのである。ところが、鈴木はそこから「神の言葉を知るという知」を除き去り、エデンには聖書の神の言葉も、それをわきまえる「知」もなく、ただ「行」だけがあったことにしてしまっている。

その後、蛇に由来する偽りの「知」が出て、失楽園が起きたのであるが、鈴木は、失楽園の原因となった悪魔的な「知恵」をも、聖書の神の言葉を知る「知恵」とすりかえ、人類が自ら神に逆らったため、神の言葉を知る「知」から排除されたことを棚に上げて、知性(聖書における神の言葉に立脚する知性)が二分性を帯びており、人間を罪に定めたり、排除したしりするから、表面的で薄っぺらなもので、人間の本質たり得ないと決めつける。

そこには、聖書の神の御言葉が、ただ人間を排除するものだという決めつけがあるだけで、聖書の御言葉が本来的に目指しているのは、キリストの十字架を通して、人間を神に立ち帰らせることだという神の側からの救済の観点が完全に抜け落ちている。

そして、鈴木は、そのようにして、すりかえと歪曲とごまかしと決めつけに立脚して、「神の言葉を知るという知」を全面的に退け、人類は失楽園の原因となった蛇に汚された偽りの「知」を保存しつつ、これをもとの「行」と一致させることで、第二のエデン(「入不二界」)に復帰できるというのである。

これが禅者の言う「悟り」の本質である。要するに、蛇に由来する偽りの「知」と「行」を一致させることで、人類が聖書の神の言葉を退け、神から疎外されたまま、神不在の状況の中で、「二度目の林檎を食べ」て、隠れた内なる目を開眼させて、自分だけの力で神のような超人の世界に足を踏み入れることができるという教えである。二度目の林檎を食べるとは、要するに、人類が再び、蛇に由来する偽りの知恵に基づいて、「内なる目を開眼させる=悟りを得る=覚醒する」ことを意味する。

これは、結局、創世記において、蛇が「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と人類に言ったことの発展・繰り返しであり、「目が開ける=第三の目が開眼する」、「神のようになる=覚醒して超人的能力を身に着ける」、「決して死なない=不老不死に到達する」、「善悪を知るようになる=悟りを得てすべての物事を聖書の神の秩序とはさかさまに被造物を中心に見るようになる」と理解できる。

大仏像などが、常に座禅のポーズを取っているのは、「覚醒」が起きるための修行中であることを表す。そうして彼らが得ようとしている「悟り」は、頭の中だけで得られる知識ではなく、人体を変容させるための「行(修行)」を含んでいる。つまり、「悟り(般若)」とは、単なる思想ではなく、人類が「神のように」変容するための方法論なのである。


7.座禅(ヨガ)は蛇(クンダリニー)による「覚醒」によって人類を超人化する偽りの「道」


鎌倉大仏殿高徳院 PHOTEK


日本人は、至る所で、座禅を組んで修行をしている仏像などを見ているものの、あまりにも何気なくそれを通り過ぎているため、自分たちが一体どのようなシンボルに取り囲まれているのか、それにどれほど危険な思想が込められているのかを理解することはほとんどない。

人類が自らの内にある悪魔的能力を開発することによって自ら神に到達するという「アセンション」の概念は、比較的最近になって生まれたわけではなく、実質的に、古代からずっと絶え間なく存在していた。そこで、今回、改めて、神秘主義思想家らの言う「悟り」が、蛇の教えによる「覚醒」と不可分の関係にある大変に危険な思想であることを、鎌倉の大仏の座禅のポーズなどが根本的に何を意味するのかを通して考えて行きたい。

今日、仏教の寺などで一般向けに行われている座禅は、精神統一の方法であるなどと教えられており、そこでは、「悟りを得て神のようになる」という神秘主義思想の本来の中核となる超人思想の要素はかなり薄れているか、あるいは抜け落ちている。

だが、禅は、もともとサンスクリットの dhyāna(ディヤーナ/パーリ語では jhāna ジャーナ)の音写、もしくはその音写としての禅那(ぜんな)から来る名称で、日本の禅宗も、中国禅から来たものであり、その始祖はインド人で中国で禅を広めた菩提達磨(ボーディダルマ)であるとされる。また、座禅とヨガの根源は同じであり、インドの古典哲学「ヨーガ・スートラ」に由来する。

 


(月岡芳年画『月百姿 破窓月』Wikipediaから)
 だるま人形のモデルともなった菩提達磨。手足がない人形に模されるのは、達磨が偽りの知恵に基づき、修行によって「覚醒」した(=「悟り」を得た)結果、自らの思念によって肉体を制圧し、肉体の限界を超えて、手足を使わなくても、まるで霊だけであるかのように自在に動き回り、「神のように」超能力を行使する術を身に着けたことを意味する。

 
このように、座禅とヨガは基本的に同じ概念でり、同じ目的を目指していると言える。そのことを理解した上で、前回、取り上げた、Eden Mediaの「ニューエイジ思想の呪縛 / ヨーガ 」の中で触れられていたヨガの危険性を改めて振り返りたい。

この動画では、ハタ・ヨーガにのめり込んでいたとする解説者が、ヨガの危険性について語る。むろん、Eden Mediaは、すでに述べたように、ニューエイジ思想を非難しているように見せかけながら、実質的には、人々をニューエイジの只中に誘導するという悪しき循環のシナリオになっているため、視聴者はこれがキリスト教の信仰に立つメディアではないということにはよくよく注意して、これを鵜呑みにしないようにしなければならない。ただし、ヨガの起源が悪魔的思想にあるという指摘そのものは事実であるため、一体、座禅やヨガの意味するところが何なのかを理解するために、その危険性が指摘されている部分だけを取り出して見てみたい。

 

ハタ・ヨーガは”月と太陽””光と闇””男と女”
主要目的は内部の対極をバランスさせることです。

しかし、この概念は間違いであり、
別の機会に取り上げる予定です。
ここでは詳しい内容は述べませんが―
根源はオカルトであり、悪魔的です。

(注:対極にあるものを融合するとはグノーシス主義の概念であるから
オカルト的であり、悪魔的であるという指摘は正しい。)

では”ヨーガ”の意味は?
グーグルで”yoga”の意味を調べてみます。
すると現れる定義は、
「ヒンドゥー教の霊的な禁欲苦行」
「主な手法は呼吸法、簡単な瞑想、そして様々なポーズである」

まず気付くのが「ヒンドゥー教の霊的作法」
肝心なのが、そのルーツが間違った宗教にある事です。
私はヒンドゥー教徒の聖典「ハガヴァッド・ギーター」の勉強を行いました。

そして認識すべき事は一つ一つのヨーガのポーズは
ヒンドゥー教の神に対する礼拝になると言う事です。





ヨーガを始める多くの人は、この事実について全く知りません。
ナイーヴな状態です。
しかし、霊的な根源は間違った宗教にあり、
関わるべきではありません。

私が深くのめり込んだのが”クンダリーニ・ヨーガ”でした。
クンダリーニ・ヨーガは
ヨーガの種類の中でも、最も悪魔的です。
主要思想は、背骨の最下部に
休眠中の蛇がいると言うものです。



そこで体験するのが”クンダリーニ覚醒”です。
クンダリーニ覚醒では、螺旋の蛇が背骨を上昇します。
チャクラを経由し、松果体に到達します。
そこはクラウン・チャクラであり、”神意識”が芽生えるのです。

蛇が上昇し、頂点に到達すると―
”悟りの目”と言われるサードアイに達します。



そこであなたが神であると説得します。
ヨーガの最終段階は、神に到達する事だからです。
自分が神であると認識し、すべてが神となるのです。


この解説から、結局、ヨガが目指しているのは、「アセンション」つまり、「人が神のようになる」ことなのだと分かる。そのためには「サードアイ(隠れた第三の目)」の開眼が必要であり、蛇の助けを借りねばならないというのである。
 
聖書の創世記では、蛇の姿をした悪魔が、外側から人類に忍び寄って偽りの知恵を語りかけて欺いたように思われるが、「クンダリーニ覚醒」では、その蛇が人体の中に侵入し、人を内側から「覚醒」させるというのであるから、これは恐ろしい修行である。

だが、聖書において、人類が神に食べることを禁止されていたにも関わらず、取って食べた「善悪知識の木の実」は、実質的に「蛇の卵」だったとのかも知れないという推測も生じる。人類が神に背いて堕落してしまった時に、人類は悪魔の支配下に落ち、その際、霊的な文脈において、悪魔的な種子がすべての人類に植えつけられたのだと考えることもできよう。

 

(*ちなみに、Eden Mediaの動画には、以上のような不気味な映像や、ぞっとさせるような表現が満ちている。ある意味ではそれらの指摘は当たっているのだが、それでも、明らかに、この動画が単なる警告という目的を超えて、あらゆる箇所で不気味さを強調し、このような異常な悪魔的シンボルを人々に見せつけるために作られていることをも感じさせる。)

さて、ヨガという言葉には、「従わせる」という意味が込められているが、これが何を意味するのかを考えてみたい。この語は、もともとは牛馬などの家畜にくびきをつけてつなぐ、という意味を持つ。「十牛図」でも、グノーシス主義的な意味での「神的自己(真の自己)」を牛にたとえ、人類が「真の自己」を発見し、これを制する(一体化する)ことによって、世界(永遠)との合一を目指すという過程が描かれる。
 


十牛図

 
ここで「牛」がモチーフとして使われているのは、ヒンドゥー教では、牛が聖なる動物として崇拝の対象となっていることにちなんでいるだけでなく、牛は、「神的自己」でありながら、同時に、人体にもなぞらえられていると考えられる。

すなわち、ヨガにおいては、人間が自らの思念によって、自分の肉体にくつわをかけて、自在に引き回すがごとくに、己のすべての肉体感覚をないがごとくに滅却する能力を身に着け、肉体の限界を超えて、肉体を離脱して、あたかも霊だけになったかのように、自在に超自然的な働きをなす前提を整える。

「十牛図」の真の意味もそこにあり、一般向けの理解や解釈がどうあれ、この神秘主義思想の本来的な意味においては、ヨガのような修行によって、人間が体を完全に制圧する術を学ぶことによってしか、彼らの考える(偽りの)完全な「悟り」を得て、人が「神意識」に目覚め、「永遠」と一体化して「神のようになる」ことはできない、という意味が込められているものと考えられる。(まさに以下に引用するペンルイスの指摘の通りである。)
 

 

「十牛図」から。
この図は、人が「真の自己」(牛の姿で表される)を発見し、これと一体化して「悟り」に至る過程を絵図で表したとされる。上記の四~六の図では人が思いのままにならない「牛」を制御する方法を会得し、「真の自己」と一体化する過程が描かれている。各画像の出典は、

ヨーガ (योग) は、「牛馬にくびきをつけて車につなぐ」という意味の動詞根√yuj(ユジュ)から派生した名詞で、「結びつける」という意味もある。つまり語源的に見ると、牛馬を御するように心身を制御するということを示唆しており、「くびき」を意味する英語yokeと同根である。『ヨーガ・スートラ』は「ヨーガとは心の作用のニローダである」(第1章2節)と定義している(ニローダは静止、制御の意)

森本達雄によると、それは、実践者がすすんで森林樹下の閑静な場所に座し、牛馬に軛をかけて奔放な動きをコントロールするように、自らの感覚器官を制御し、瞑想によって精神を集中する(結びつける)ことを通じて「(日常的な)心の作用を止滅する」ことを意味する]。
Wikipedia「ヨーガ」より

 

先に引用したように、ペンルイスは、東洋神秘主義の導師(グル)たちが、思念によって肉体感覚を完全な制圧し、服従(=Yoga)させて、すべての肉体感覚を滅却する術を身に着けているがゆえに、邪悪な超自然的な力を発揮できると記している。

「ペンバーの「地球の幼年期」の中に、これに光を当てる節があります。彼は次のように記しています。「『魂の力』を生み出すためには、肉体を魂の支配下に置かなければならない。そうすることによって、自分の魂と霊を投影し、地上に生きていながら、あたかも肉体を持たない霊のように行動することができるようになる

この力を会得した人は『導師』と呼ばれており……意識的に他人の心の中を覗くことができる。彼は自分の『魂の力』によって、外界の諸霊に働きかけることができる。……彼は凶暴な野生の獣をおとなしくさせ、自分の魂を遠方に送ることができる」「彼は遠くにいる友人に、肉の体と同じ様で自分の霊の体を見せることができる」「長期間の訓練によってのみ、これらの能力を会得することができる。訓練の目的は、体を完全に服従させて、一切の喜び、痛み、地的情動に対して無感覚にならせることである」。

「インド人の宗教生活は、まぎれもなく、これらの魂の力を発達させています。キリストの福音を知らない数十万の人々が、ある特定の対象に向けて強烈な「祈り」を放つ効果は、いかばかりでしょう。彼らはこの世の神に導かれて、自分の望む対象に魂の力を「投影」しているのです。」

ジェシー・ペン-ルイス著「魂の力」対「霊の力」 

 

「クンダリーニ覚醒」とは、このようにして、人が自分の肉体を完全に制圧して、その限界から離脱することで、「神意識」なるものと融合するための前提条件だと考えられる。

さらに、そこで、言われている「チャクラ」なる概念も、非科学的で全く実在が証明されておらず、古代インドの神秘主義に由来する概念に過ぎないが、それが「円盤」や「輪」を意味するものであるということを心に留めておきたい。
 

「チャクラ(梵: चक्र, cakra; 英: chakra)は、サンスクリットで円、円盤、車輪、轆轤(ろくろ)を意味する語である。ヒンドゥー教のタントラやハタ・ヨーガ、仏教の後期密教では、人体の頭部、胸部、腹部などにあるとされる中枢を指す言葉として用いられる。
輪(りん)と漢訳される。チベット語では「コルロ」という。」

「身体エネルギーの活性化を図る身体重視のヨーガであるハタ・ヨーガでは、身体宇宙論とでもいうべき独自の身体観が発達し、蓮華様円盤状のエネルギー中枢であるチャクラとエネルギー循環路であるナーディー(脈管)の存在が想定された。これは『ハタプラディーピカー』などのハタ・ヨーガ文献やヒンドゥー教のタントラ文献に見られ、仏教の後期密教文献の身体論とも共通性がある。

現代のヨーガの参考図書で述べられる身体観では、主要な3つの脈管と、身体内にある6つのチャクラ、そして頭頂に戴く1つのチャクラがあるとされることが多い。この6輪プラス1輪というチャクラ説は、ジョン・ウッドロフ(英語版)(筆名アーサー・アヴァロン Arthur Avalon)が著作『蛇の力』 (The Serpent Power) で英訳紹介した『六輪解説』 (Ṣaṭcakranirūpaṇa) に基づいている。
Wikipedia「チャクラ」より

 

さらに、「クンダリニー」とは一体、何を意味するのか調べてみよう。すると、Wikipedia「チャクラを参照すると、それは「蛇の姿をした女神」であることが分かる。第一から第六までの「チャクラ」なるものについての詳細は、ここでは細かく引用しないため、上記ソースを参照されたいが、これを見ると、背骨の下にあるとされる「第一のチャクラ」において、「蛇=クンダリニー」が「休眠」しているということになっており、「覚醒」とは、この蛇が活性化し、次第に頭部まで昇りつめ、人間の全身を制御することで、超人的な変化をもたらすことを指す。「悟りの目」なる「サードアイ」が開眼するのは、この蛇が眉間にある「第六のチャクラ」まで到達した時だとされている。

「クンダリニー(蛇)」の正体とは何なのかさらに調べると、それは「人体内に存在する根源的生命エネルギー」であるとされる。
 

クンダリニー(Kundalini, कुण्डलिनी, kuṇḍalinī)は、人体内に存在する根源的生命エネルギー。宇宙に遍満する根源的エネルギーであるプラーナの、人体内における名称であり、シャクティとも呼ばれる。クンダリーニ、クンダリニと表記されることもある。

クンダリニー・ヨーガなどにより覚醒させられると神秘体験をもたらし、完全に覚醒すると解脱に至ることができるとされているが、覚醒技法の失敗や日常生活におけるアクシデントなどにより準備が整わない形で覚醒が生じる様々な快・不快の症状をもたらすと主張している。
Wikipedia「クンダリニー」より 

「クンダリニー」とは「プラーナ」とも呼ばれているため、「プラーナ」が意味するところも調べてみると、以下の通りである。
 

プラーナ(梵: प्राण、prāṇa) は、サンスクリットで呼吸、息吹などを意味する言葉である。日本語では気息と訳されることが多い。Wikipedia「プラーナ」より

 

これでほとんどの謎が解けたのではないかと思う。武術や座禅や瞑想や呼吸法などの修行によって引き出される「気」というものは、まさに「クンダリニー」すなわち蛇に由来する悪魔的な力だったのである。古代インド哲学や、それを継承する東洋神秘主義思想は、蛇に由来する堕落したパワーをすべての生命の「根源的エネルギー」であるかのようにみなしているということである。

ここで蛇(クンダリニー)が女神とされているのは、おそらくは、サタンも神の被造物(霊的女性)であることから来ているものと思われる。グノーシス主義では、ソフィアの過失なども含め、女性人格の側から男性人格への簒奪が行われるが、それは結局、被造物から神への反乱という意味合いを持つ。

クンダリニーは離れ離れになったシヴァ神(ヒンドゥー教の最高神)と再結合を果たすために、人体に侵入しており、この堕落したエネルギーの活性化により、休眠状態を解いて頭頂部にまで上り詰めるというが、それが果たされれば、堕落した肉的エネルギーが人間の精神を制圧し、人体を完全に操ることになる。

このことは、人間の全身がグノーシス主義的思想によって占められることを意味し、結果として、霊的に「頭のない体」が出来上がる。なぜなら、人間の内側で、精神が肉体をコントロールするのではなく、肉体に由来する本能的で悪魔的なエネルギー(「気」、もしくは「思念」)が、人間の肉体ばかりか精神までも完全に制圧し、知性・理性を駆逐してしまうことは、人が理性を失った状態になることと同じだからである。

これが、グノーシス主義が目指している「嬰児的回帰」の具体内容である。老子が説いている「道への復帰」としての「精→気→神→虚の逆行」の過程も上記と同じことを指しており、人間が知性を退け、彼らが「万物を生み出す根源的なエネルギー」であるとみなす「精、気」に自ら立ち戻ること(嬰児的回帰)を通して、人類が自ら創造された過程を自力で逆行して、すべての創造の根源であり永遠の生命とされる「道」まで昇り詰め、「天地造化の秘密を奪う」ことを終局的な目的としているのである。(人体におけるクンダリニー上昇の過程は、人類の天までの上昇の過程と重なるであろう。)
 

クンダリニーは、神話を研究したソヴァツキーによれば、受精後の肉体の形成にはじまり、人間を終生にわたり成熟・進化させる究極の力であるという。また、フランスのエミール・デュルケームはあらゆる種類の神々の原料のことを集合意識と述べているが、クンダリニーはそれに該当する可能性があると主張する。
Wikipedia「クンダリニー」より

 

『老子』第十六章は「帰根復命」によって、道への復帰をいう。内丹術はこれらに基づいて、「道生一、一生二、二生三、三生万物」という天地万物の生成の「順行」に対し、修煉によって、「三は二となり一と化し道に帰る」という「逆行」に進むことができるとする。人間においては、神は気を生じ気は精となり精は形を成し子孫を生みだすという「神→気→精」が順行の経路であり、「精→気→神→虚」の逆行が根源への復帰であるとした。これが内丹道の説く天地造化の秘密を奪うことであるこの「逆修返源」の方法は「順成人、逆成仙」の原則となり、性と命が虚霊である「元神」(本性・本来の真性)にたち帰り、迷いを去り道を得る、万物と感応し道と交わる、永遠の生命たる道まで昇り一体となる修道(中国語版)の基礎理論となった。

『老子』は神秘思想を語った章があり日本では哲学と考えられていたが、現在では何らかの修行を伴ったとする研究者が増えている。『荘子』は道と一体になる手段として「坐忘」「心斎」を説いている。それを承け紀元前から紀元2世紀の『淮南子』までの初期道家で、虚に至る高度な瞑想実践が行われたとする説も発表されている。
Wikipedia「内丹術」より 

 

一体、彼らが、こうした修行によって到達できるとしている「神意識」なるものは、何なのだろうか。それを人類の「集合意識」だととらえている説もあるから興味深い。そう考えると、なぜグノーシス主義者が個人の悟りでは満足せず、集団的覚醒を促そうとしているのか、その理由も見えて来るだろう。

さて、このように座禅やヨガにおける「悟り」や「覚醒」は、蛇(悪魔)の偽りの知恵に由来するグノーシス主義的な悪しき概念であり、邪悪なエネルギーによって人間の内なる「神的自己」(本当はそのようなものは人間の内に存在しないので、これは邪悪な生まれながらの自己を肥大化したものである)を「覚醒」させて、人間を「神のように」変容させようとする手段であることを理解したい。

その上で、Eden Mediaが出している直近の動画「【4月】全能の目・松果体のお話。」や「悟り」を見てみると、この媒体が、決してキリスト教の信仰に立っておらず、むしろ、反キリストの到来に備えて、人類超人化計画(集団的アセンション)の達成に奉仕しようとするものであることが分かる。

Eden Mediaが真の目的としているのは、人類が「クンダリニー(蛇=悪魔)」の力によって「覚醒」し、「サードアイ」を開眼し、超能力を身に着けて、「神のよう」になって、存在し得ない地上の楽園たる「第二のエデン」に自力で回帰することであり、これはキリスト教に偽装しようとしてはいるものの、その本質は完全に偽りの神秘主義思想を「布教」する媒体なのである。

<続く>

2018年5月 5日 (土)

肉のものと霊とのものを区別する必要性~キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋的神秘主義の危険⑦~

・Eden Mediaの偽りと、ペンテコステ運動の起源がヒンドゥー教にあることについて

愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。 多くのにせ預言者が世に出てきているからである。 」(Ⅰヨハネ4:1)


クリスチャンならば誰しも知っているはずだが、人類には神に至るために、たった一つの道しかない。それは罪を悔い改め、バプテスマを受け、キリストと共なる十字架において自己に死に、彼のよみがえりの命にあずかることである。そして、日々の十字架を負って、神の御言葉に従い、神を愛して生きることである。

しかし、終わりの時代には、キリストと共なる十字架で自己を死に渡すということが、信者にとって特に狭き門となる。

これまで、当ブログでは再三に渡り、聖書に記された終末の大淫婦バビロンとは、東洋神秘主義とキリスト教との混合の教えであると述べて来た。

作家ドストエフスキーは、『カラマーゾフの兄弟』の中で、終末の時代には、偽キリスト教があたかも正統なキリスト教であるかのように地上に広がるであろうと警告したが、聖書においても、終末のバビロンは、ちょうどそのような全世界的な規模の偽キリスト教となると警告されているのである。

聖書の次の警告を、私たちは決して、キリストを知らない、主の民でない人々だけに向かって言われたことだと決めつけないようにしたい。

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ7:13-14)

滅びに至る広き門から入って行く者が多い――それは、自分たちこそキリストを知っている神の民だと自負する人々にも、大いに当てはまる警告なのである。イエスは、終わりの時代は、ノアの時代、ロトの時代のようになると警告された。「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(ルカ18:8)つまり、地上にほとんど信仰が見られないまでになるだろうと予告されたのだ。

わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことを全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」(マタイ7:21-23)


以上の御言葉からも分かるのは、終末には多くのクリスチャンを名乗る人々が、キリストの十字架を介さずに、生まれながらの自己に死ぬこともなく、神に至ろうとする「広き門」に殺到し、何かの超自然的な力を身に着け、神のような奇跡を行うことであり、ついにはそのような悪しき疑似キリスト教が、あたかも正道であるかのように、真実なキリスト教を隅に追いやり、迫害する側に回る可能性があることである。

終わりの時代には、多くの人々が、ただ主と共なる十字架において自己に死ぬことを避けるだけでなく、自己を延命させ、肥大化させながら、それによって、神にまで至ろうと、「体の変容」に取り組むであろう。これまでの記事で見て来たように、人類が自力で自己を変容させて神のような永遠の命を得ようとする取り組みは、古代中国の煉丹術のような思想の中にも見られ、そのような非科学的かつ反聖書的な古代思想が、現代のキリスト教界の中にも入り込んでいるのである。

悪魔にとっては、人間の「体の変容」は、焦眉のテーマである。なぜなら、人類が自力で「神のように」なれるかのように見せかけるためには、人間の通常の体の限界を打ち破らなければならないからである。

そのことは、2012年頃にアセンションというニューエイジの偽りの覚醒体験が世間で流行した事実にも見られる通りであって、このような現象は『龍の正体』で見たような、東洋武術の魅力にはまって懸命に修行に励んでいる一部の人々だけに当てはまる危険ではないことに注意したい。

聖書は、クリスチャン一人一人が「霊を見分ける」ことの必要性を説いている。信者一人一人には、何が本当に神から来たものであり、何がそうでないのかを判別するリトマス試験紙の役割がある。

私たちはこれまで、あらゆる異端には共通の型というものが存在することを見て来た。つまり、世界にはキリスト教かグノーシス主義かという二つの思想(信仰)しかなく、聖書に従わないすべての思想は、根本的にはグノーシス主義に属する。それゆえ、それらの思想にはすべてグノーシス主義の基本形が当てはまり、その基本構造を把握していることにより、それらの思想がどこから来たものであるかも見分けられる。

さて、ここ数年、Youtubeを通して、Eden Mediaという出所不明の動画が、あたかもキリスト教のメディアであるかのように広められて来た。一見、その内容は『龍の正体』にも似て、キリスト教の信仰に基づく警告動画のように見える部分もあるため、当ブログでも引用したことがある。

だが、この動画はあまりにもフリーメイソンの悪を暴くことに熱中しすぎていたため、筆者は途中からこの動画をかなり警戒して、距離を置いて来た。悪魔は自己顕示欲が強く、自分のシンボルを人に見せつけることを好む。

そこで、警告動画だからと言って安易に信用することはできず、真の目的がどこにあるのかは、きちんと調べてみなければ分からない。この度、見ていると、あからさまに聖書から逸脱した神秘主義思想に基づく発言がいくつも散見されるようになったため、改めて過去の動画を含めて振り返ってみた。すると、当初は気づかなかったが、この動画には最初から、すぐにそれとは分からない巧妙な形で、聖書からの逸脱が含まれていたことが分かって来たのである。

これまで見て来た通り、悪魔に由来する偽りの思想は、常に正反対のものを一つであるかのように結びつけるダブルスピーク、ダブルメッセージを常套手段としている。そこで、一見、何かを批判したり、警告しているように見えても、必ずしも、批判・警告している対象と手を切っておらず、裏側では一つに結びついているという場合も非常に多い。

たとえば、かつてDr.LukeのKingdom Fellowship Churchのメッセージは「キリスト教界からエクソダスせよ」と唱えていたが、実際には、その団体は。キリスト教界からエクソダスしておらず、手を切ってもいない現役のキリスト教界の信者を数多く内包していた。それでは、わざわざエクソダスせよと唱える意味もなく、詭弁だとみなされるのは当然である。

このように、うわべだけのスローガンと実質的な行動が正反対になっているか、もしくは、スローガンそのものに自己矛盾が含まれているのが、キリストに従わない、すべての霊の特徴である。悪霊に由来する霊の思想は、必ず、どこかに論理破綻が含まれている。そこで、私たちは、あるミニストリーの言動が完全に一致しているかどうかをよく確認しないまま、ただ表面的な言葉だけを通して軽率に物事を判断すべきではないのである。人間と同じように、時間をかけて観察することは必要であろう。

以下では、Eden Mediaの中に含まれている自己矛盾や、あからさまな偽りを取り上げ、なぜこれがクリスチャンを欺く非キリスト教メディアであると言えるのか、その理由を示しておきたい。





1. 東洋神秘主義の悪魔的シンボル ~Eden Mediaという媒体の不透明性~


まず、Eden Mediaの怪しさの筆頭格として挙げられるのは、媒体の背景にある組織の不透明性である。このような大規模な動画作成と発信は、相当な資金力、人手がなければ行えないのは明らかであるにも関わらず、この媒体は、誰が(どのような団体が)、何の目的で発信し、かつどのようなルートで日本語に訳され、発信されているのかが全く明らかでない。

各動画は、世界の様々な名前の組織を通して行われているようだが、誰がそれを一つにとりまとめて、Eden Mediaの名のもとで発信しているのか、何故、それが我が国向けに翻訳されて配布されているのかが分からないのである。

このような不透明さは、キリスト教の伝統的な組織的ミニストリーには決してあり得ないものである。到底、個人で行えるような編集の域を超えているにも関わらず、どのような組織が後ろ盾になっているのかが明かされていないのであるから、それだけで疑惑が生じるのは当然である。

さらに、これらの動画はいずれもニューエイジや異教との関わりが深かったメンバーらの告白を通して、ニューエイジ運動の反聖書的で悪なることを告発するという形で作られている。そして、すべての動画が、一見、キリスト教の信仰に立っているかのように装っている。

Eden Media の標語の下に掲げられている"Truth will set us free"という言葉は、「真理はあなたを自由にする」という聖句を基にしており、一見すると、「正しい知識を得ることにより誤謬から免れられる」と謳っているかのように視聴者には思わせる。

だが、実際には、これらの動画はキリスト教の福音に根差すものではなく、むしろ、真理の中に虚偽を混ぜ込むことで、ニューエイジ運動を糾弾しているように見せかけながら、実際には、ニューエイジの只中へと視聴者を誘導するものとなっている。

さて、ニューエイジ運動とは結局のところ、東洋神秘主義の思想や修行法の寄せ集めであると言える。既存の仏教やヒンドゥー教が世俗化して、東洋神秘主義の中核となる思想の探求がもはやこれらの宗教の中にほとんど見いだせなくなったため、東洋神秘主義の神髄となる思想は、それらの宗教の枠組みの外に出て、ニューエイジの中に移動して行ったのである。

驚くべきことに、Eden Media の動画発信元となっている一つに、"Round SaturnsEye"があるが、このネーミングそのものが、まさに異常であると言えよう。直訳すれば「サタンの丸い目」であり、およそキリスト教のミニストリーにつける名前ではない。製作者は元TV司会者とあり、表向きは、キリスト教の信仰に立って、TVのプロパガンダに込められた神秘主義の偽りを暴くという説明がされているようだが、しかし、このようなシンボルを使っている時点で、その本質が分かる。これはまさに大円鏡智=すべてを見通す目=グノーシス主義の鏡=和の精神、などのシンボルと本質的に同じものなのである。

 

 

シンボルの意味
Round SaturnsEye=すべてを見通す目=大円鏡智=和の精神=日輪=道



2.当初とは正反対の結論へ誘導する ~Eden Mediaのダブルメッセージ~

調べてみると、Eden Mediaの提示する結論には、そもそも当初から「どっちつかずの曖昧さ」が多分に含まれていた。半分までは真理が提示されているのだが、後半では、真理に反する虚偽が混ぜ込まれているのである。

たとえば、Eden Mediaは、2016年2月20日に「ニューエイジ思想の呪縛 / ヨーガ 」と題する動画を発信している。この動画は、冒頭で「今日もニューエイジ運動の正体を暴いていきます。この動画では、ヨーガ・ティーチャー時代の体験を交えヨーガに潜む危険性と、その悪質な正体をお伝えしたいと思います。」などと述べているので、一見すると、ヨガの起源が反聖書的な思想にあることを警告し、ヨガを全否定するために作成された動画のように見える。

ところが、この動画は、前半ではヨガの悪魔的起源に言及して、これに関わってはならないと言いながらも、後半では、ヨガの中でも、ピラティスだけは、ヨガの霊的思想を含まない無難な体操なので、これをお勧めすると、正反対の結論を述べている。つまり、この動画は、一見すると、ヨガの悪魔的起源を批判し、これを完全に捨て去るように勧めているように見えながらも、実際には、「ヨガには罪のない運動も含まれているので、それまで完全に捨てる必要はない」と真逆の結論を提示し、事実上のヨガの推奨になってしまっているのである。

 

*偽りの結論への誘導の顕著な例




 
Eden Mediaは「ピラティスはヨーガの霊的部分を省いたものです。」と言うが、実際には、以下で根拠を示すように、ピラティスは決してヨガと霊的に無関係ではない。にも関わらず、ピラティスがあたたかも無害な体操であって、ヨガとは無関係であるかのように主張することにより、Eden Mediaは、クリスチャンがピラティスを捨てる必要はないと主張。そうなると、結局、この動画は、ヨガの危険を告発しながら、同時に、ヨガと関係の深いものを無関係に見せかけることで、ヨガへ誘導しているのと同じことになる。

そもそも、クリスチャンにとって重要なのは、、エネルギーの発散のために体操に取り組むことよりも、じっくりと聖書の御言葉の意味を、御霊の助けを借りて理解することである。だが、東洋思想やニューエイジやオカルトは、人が自分自身の知性や理性を使って物事を深く考えることを何とかして邪魔し、とにかく後先考えず行動に至らせようとする特徴がある。



以上のような自己矛盾した結論は、この動画につけられた以下の訳者(もしくは解説者)の言葉の中では、さらに強化されている。
 

2016/02/20 に公開

この動画は賛否両論を呼ぶかもしれません。

私自身ヨーガを生活の一部に取り入れてきましたし、ヨーガの恩恵を受けてきたこともまた事実でありますヨーガを行うことで身体を柔らかく保ち、精神的にも鍛えられた経験から、ヨーガを良い方向に活用することが出来れば、特に問題はないと思っています。

しかし、この動画でも触れているとおり、自らが神であるかの様な意識や間違った意図があるならば、それは必ず悪影響をもたらすはずです・・・

我々は常に謙虚な気持ちを忘れてはいけないのです。
ニューエイジ思想の呪縛 / ヨーガ 解説。


ここで最も重要な問題は、「謙虚な気持ち」があるかどうかなどといった事柄ではない。以上の解説を通して、私たちは、この解説者も、ヨガから相当に深い思想的影響を受けた人物であることが分かるが、その人物も、警告動画と同じく、ヨガを完全に捨て去るつもりが全くなく、そんなことはしなくて良いという態度を取っている。この人物は、「ピラティスだけはヨガと違って無害」とは言っていない。そこからさらに進んで、「ヨガを良い方向へ活用できれば、ヨガにも害はない」と言うのである。

こうして、Eden Mediaでは、冒頭で提示したはずの結論が、途中で完全にひっくり返り、実質的に真逆のことを同時に述べるというダブルメッセージが視聴者に突きつけられる。このように、本来、クリスチャンが訣別せねばならないものに対するどっちつかずの曖昧な態度は、前回、『龍の正体』で見て来たエリック・ウィルソンの姿勢とは正反対である。

ウィルソンは、武術の起源が東洋神秘主義にあることが分かった際、肉体的運動としての武術と、その起源となる思想とは、切り離せないものであることを理解し、起源が誤っている以上、運動としての武術だけを「良いもの」として残すことは決してできないと気づいた。彼は武術と聖書への信仰は決して両立し得ないことを理解し、武術を完全に捨て去る決断をしたのである。

ウィルソンは決して、以上の解説者のように、「武術を行うことで体を強くし、精神的にも鍛えられた経験から、武術を良い方向に活用することが出来れば、特に問題はない」などとして、武術に対してどっちつかずの立場を保持し、何とかしてそれを捨てなくて良いように考えたりはしなかった。

思想が誤っている以上、そこから発生して来るすべての訓練や運動も間違っており、悪しき霊的起源と手を切りたければ、訓練や運動などの思想の現れとなるものも含めて、すべてを捨て去るしかないのである。そこで、Eden Mediaがヨガと訣別しようとせず、「体操」の部分だけを、霊的起源と切り離して残そうとしていることは、完全に誤った態度であることが分かる。

さらに、この動画が無害な運動であるとしている「ピラティス」とは一体、何なのか。それは本当に「ヨガの霊的部分を除いたもの」と言えるのかについても調べてみよう。

インターネットを検索すると「ピラティスとヨガは別物だ」という意見が数多く出て来る。しかし、ピラティスとは、その名から分かる通り、このリハビリ体操を作った人物にちなんでつけられた名であるため、まずはピラティスがどのような人物であったのかを見てみなければならない。

ジョゼフ・ヒューベルトゥス・ピラティス (ドイツ語読みではヨーゼフ・フーベルトゥス・ピラテス) は、1883年12月9日にドイツ帝国のデュッセルドルフ行政管区、メンヒェングラートバッハにある小さな町で生まれた。

幼少期は病弱で、リウマチ熱、くる病、喘息に苦しみながら過ごした。大人になってからはヘビースモーカーであったので、喘息に関して著しく健康になったということはなかった。母が自然療法医で父が体操選手であったので、病を克服したい気持ちと父親に対する憧れから、父親の勤務するスポーツクラブでトレーニング (器械体操、レスリング、ヨガ、ボクシング等) を行い、14歳になったジョセフの体はとても鍛錬された魅力的な体となっていた。


1912年-その後も彼は東洋と西洋両方の身体訓練法を研究し、特にギリシャの文化や彫刻の美しさ、それに表現される強さに関心を感じていた。この頃、ジョセフはサーカス団と共に旅をすることになる。

1914年に第一次世界大戦勃発。当時ジョセフは、イギリスにてボクサー兼自己防衛術の指導者として働いていたが、敵国の人間だったので捕虜になってしまい、マン島の収容所に送られる。

この頃、自分のために開発していた運動プログラムを他の抑留者にも伝え始める。

マン島にいる期間、ジョセフは看護師として働いていた。

ある時、寝たきりで動くことも大変な患者に対して、マットレスベッドに使用されていたスプリングを使ってサポートや抵抗を与えること考えつく。これは現在「キャディラック」と呼ばれているベッド型の器具の基礎になった。


彼が行ったこの新しいタイプのリハビリは、後に「ピラティス・メソッド」と呼ばれる考え方の始まりとなる。
<後略>

Wikipedia「ピラティス・メソッド」から抜粋



なんと驚くほど三島由紀夫との共通点が見いだせる。幼少期から病弱で、体を鍛えるためにスポーツクラブでボクシング等のトレーニングを行い、自分の肉体を立派に鍛え上げたり、東洋と西洋両方を合わせた身体訓練を研究し、ギリシア彫刻の美しさに心惹かれていた等々。むろん、ピラティスが行っていたトレーニングの中にはっきりとヨガが含まれていることが判明している以上、ピラティス・メソッドとヨガを思想的に完全に切り離すことが不可能に近いことも分かる。

こうした事柄を考えると、Eden Mediaの動画の結論は、クリスチャンが本来、完全に捨て去らねばならないはずの悪魔的な霊の影響力を「無害なもの」「無難なもの」に見せかけ、「善良な目的のためならば、活用も許される」などと言って、部分的に留保させることで、クリスチャンが決して悪しき霊的影響力と手を切らないように、それとの結びつきを保持し続けるよう、あるべきでない方向へ人々を誘導して行くという、完全に誤った目的に立つ欺きの教えであることが分かる。





3.ペンテコステ運動の「霊」がヒンドゥー教と同じであることについて

ただし、Eden Mediaの動画が以上に述べた通り、悪質な虚偽を含んでおり、クリスチャンがこの動画の内容に対して非常に警戒し、注意しなければならないことは、言うまでもないとしても、それでも、この動画の中には、幾ばくかの真実も含まれており、何から何まで虚偽とは言えないことは否定できない。

特に、ニューエイジの思想や運動がどのようなものかについては、実際に、体験者の言葉に基づいて、あらかた事実に基づく告白が述べられていると言えるだろう。

たとえば、以上で挙げた動画では、ヨガには、「クンダリーニ覚醒」という、ヒンドゥー教の修行が含まれているが、これは大変危険なものであるから、クリスチャンは絶対に関わらないようにと勧められている。その警告自体は真実であると言えよう。(どうしてクリスチャンがヒンドゥー教の儀式などに関わって良かろうか。)

だが、驚くのは、その「クンダリーニ覚醒」で起きる有様が、まさにペンテコステ運動で起きている諸現象にぴったり一致することである。

以下に掲載するヒンドゥー教の「覚醒」の際に起きる現象は、まさにペンテコステ運動の各種のイベントで繰り広げられている超自然的現象と細部に至るまで完全に一致するのである。

たとえば、ペンテコステ運動の様々な「聖会」などの集会では、指導者が信者たちに按手をすることで、自分を導いているのと同じ(偽りの)霊を授けるが、これはヒンドゥー教の「シャクティーパッド」と同じであることが分かる。

さらに、ペンテコステ運動で、指導者から按手を受けた信者たちが、床に倒れたり、倒れたままけいれんを始めたり、笑いが止まらなくなったり、異言を語り出したりすることも、まさにヒンドゥー教の儀式の様子にぴったり一致する。

また、そのような恍惚状態に陥った信者らは、周囲から見れば、完全に我を失って、セルフコントロールが効かなくなり、異常な状態に陥っているのだが、本人は、それによって不快になるどころか、満たされた良い気分を味わい、あたかもそれまで心を占めていたすべての雑念が消えて、心の中が愛で満たされ、自分が天的な思いの中に入れられて、心が清く変えられたような錯覚と幸福感を覚える、という点も一致する。

この異常体験には、偽りの幸福感が伴うために、信者らは、自分の思いが神の聖霊に触れられて刷新されたに違いないと思い込み、その体験が、聖書の神から来たものではないということを疑うこともできず、幸福体験に病みつきになって、有名指導者の集会から集会へと巡り歩くのである。

動画では、最近では、クリスチャン・ヨガなるおかしな言葉も生まれており、ヨガがキリスト教の仮面をつけて、「異なるイエス」を利用して、キリスト教界に入り込んでいることも述べられており、そこで実際に教えられているのは、「覚醒」や「輪廻転生」などの反聖書的なヒンドゥー教の教えであると言う。
 
















 

(ヒンドゥー教の儀式である「シャクティパッド」では、師が弟子の額に手を触れ、自分の霊的なパワーを注ぎ込むと、触れられた人々は倒れ、けいれんし、笑い出し、恍惚状態を味わうなどする。ヒンドゥー教のこうした「覚醒」の様子は、ペンテコステ運動の諸現象にまさにぴったり一致する。)


こうして、現象面から見ても、ペンテコステ運動の起源は聖書にはなく、むしろ、この運動を導く「霊」は、ヒンドゥー教に由来するものであることが明白に確認できる。



4.「気」が悪霊に由来するものであることを教えず、「気」を積極的に「活用」して人体の変容を目指すEden Mediaの嘘と危険
 
以上で、Eden Mediaの動画は、これまで反聖書的な東洋神秘主義に基づくニューエイジ運動を表向きは糾弾しているように見せかけながら、実際には、まさにその只中へとクリスチャンを誘導しようとして来たことを確認した。

だが、最近では、Eden Mediaの動画からは、次第に「糾弾」という側面が薄れ、あからさまな虚偽への誘導が行われるという風にシナリオが変わりつつある。

その誘導の目的は、当然ながら、「人が神のようになる」という「人体の変容」を促すことにある。中国の古代思想では、内丹術などを通して、人体の中にある悪霊に由来するエネルギーを引き出す方法が開発されて来たことはすでに見て来たが、Eden Mediaの動画はあからさまにそうした思想を積極的に容認して、肉的エネルギーを「活用」する方向へと人々を誘導しようとしているのである。

たとえば、先月(2018年4月13日)に公開された「人間のエネルギーのお話。」では、「幼いころ武道を学んで超常現象に触れた」と述べる解説者が登場し、人体に宿る不思議なエネルギーについて語り出し、途中で「気」のエネルギーについても語るが、そこでは、「気」が悪霊に由来するエネルギーであるという事実は全く触れられず、むしろ、そうしたエネルギーを「どう活用するか」という方向へと話がすり替えられ、こうしたエネルギーは「善良な目的のためであれば、大いに活用すべきである」と結論づけられる。



 
この動画では、もはや今までのEden Mediaの動画に見られたように、偽りの思想を糾弾するという姿勢すらももうない。解説者は、武術を通して学んだ超常現象を生み出すエネルギーを全く否定せず、これを「神の賜物」とみなして、良い方向へ大いに活用すべきだと結論づける。冒頭ではこう言われる。

”コンシャスネス”(意識)が我々の現実を生む。
”モノ”以上に”マインド”
”決意”と”信念”
この世は科学でも説明不可能な”なにか”を利用することで
信じられないことをやっておける人がいる」
それが「マインド」だ。
”脳”ではなく「マインド」だ。


ここで言われている「マインド」の正体を確かめて行くと、それは事実上、「気」であると分かる。解説者は「気」を汲み出すことで、これを戦術に変える少林拳が生まれたいきさつについて語る。(注:少林寺拳法は日本で生まれた武術で、中国の少林拳とは別物であるとされる。)

ではこのエネルギーの可能性とは?
体に流れるこのエネルギーを利用して何ができる?

古代中国では、このエネルギーを「気」と呼んだ。
その昔…少林寺の僧侶たちは平和に暮らしていた。

(筆者注:思想が間違っている以上、僧侶たちが平和に暮らしていたかも分からない。以下の画像は瞑想のポーズだが、瞑想も、ヨガにおける覚醒と密接な関わりを持つ。)

 

スピリチュアルで非暴力的。
しかし、暴力がそれを変えた。

当時、少林寺の僧侶たちは山賊に悩まされていた。
彼らは嫌気をさし、戦士を捜すためスカウトを派遣することに。
彼らが求めたのは僧侶たちに防御法を教えられる戦士たちだった。
そうして”少林拳”が生まれた。

もちろん、それ以前から武術は存在したが、
少林拳の誕生は武術を異次元に導いた。
彼らが生み出したのは、奇襲的で、
相手を催眠術で翻弄する戦法スタイルだった。
”催眠術”だ。




遠く離れた場所からパンチを撃つことを可能とし――
モノを自由自在に動かした。
触れるだけで、敵は全身麻痺を起こし――
ナイフや尖ったモノに身体を差し出しても、
痛みを耐える能力も備えた。



中国軍がこの様なテクニックを教えられる
専門家を雇うのも納得できるはずだ。


むろん、少林拳が生まれたきっかけが、山賊の脅威だけだったのかどうかも実際には分からない。誰かが、もっと別な目的で、プロの戦闘集団を養成する必要に迫られて訓練を要請したのかも知れないし、あるいは、それも少林寺の思想が必然的に行き着いた結果だったのかも知れない。ここで「催眠術」と言われているものは、実際には「気」を汲み出すことで、これを戦闘術に変えて行く方法のことである。

そのように超人的なパワーを駆使して尋常ならぬ戦闘能力を備えた人間を養成する拳法を少林寺に伝えたのは、禅宗の開祖である僧侶、達磨だったという。今日、達磨流拳法は、ビルマ拳法とヨガを組み合わせたものだとも言われている。達磨はインド武術カラリパヤットの使い手であり、インドから中国に布教に来た際にこれを伝えたとされる。

伝説によれば、禅宗(「座禅」もヨガである)の僧・達磨大師がインドの格闘技を中国に伝道した。その際に禅の修行に僧達が耐えられるように、心身を鍛える術を記した『洗髄経』『易筋経』を与えた。それが現在の少林拳(十八羅漢拳、達磨拳などがある)、になったと言われている。 Wikipedia「カラリパヤット」から



もしそれが単なる伝説でなく事実であるとすれば、達磨の教えの中には、これまで見て来たのと同じように、初めから、涅槃の境地に至るための「悟り」という一つの側面の裏側に、憎しみや怨念に基づく終わりなき「戦闘」(武術)という、もう一つの側面が備わっていたことになる。また、禅そのものが極めてヒンドゥー教と密接な関わりがある。

こうして伝統的な戦闘法に、悪霊に由来する超自然的な力を加えて生まれたのが少林拳なのである。それは日本にも伝来する。




菩薩達磨は中央アジアやインドから渡来した
仏教の僧侶であった。
そして彼こそが少林寺にその拳法を伝え―
少林寺の僧侶にトレーニングを施した者だったという。




そのコンセプトは後に東南アジアや日本に伝わることに…
そして日本では…これらの秘伝を授かった”気の達人”がいた。

伝説によると、彼らは、少林寺の僧侶と同じ能力を持った上――
大声を上げるだけでモノを破壊できたという。
現在でいう”気合い”だ。


その目的は、敵を脅かし、攻撃にエネルギーを加えることにある。
しかし、”気の達人”になると、そのダメージは相手の細胞にまで及んだ。
また、彼らはやけどを負わず、自分の体の周りに火を起こしたという。


むろん、「気の達人」といった人々が日本に実在したのかどうかも分からないが、いずれにしても、解説者は、このように他人の人体に危害を加える悪魔的戦闘法が、継承者を失って廃れつつあることを惜しむ。そのようにして、廃れつつある技の中には、「気」によって相手を死に至らしめる技さえも含まれているという。

真偽はともかく、これらの秘伝の多くが”親から子”
”師匠から弟子”に伝授されず、失われていった。
そして、多くの術が今も消えつつある。

例えば”点欠術”
その意味は”デス・タッチ”…”ドラゴン・タッチ”



習得者は手元から”気”を引き出し―
24時間周期内に活発化する特定の時間に
相手のツボを攻撃すると―
48時間以内にその人は死亡する。
このテクニックを使えば、
その人の内蔵は破裂してしまう。


このように他人を即座に死に至らしめることのできるほどの破壊力を持つ戦闘法を、Eden Mediaは、悪霊に由来するものだと非難もせず、警戒する必要も訴えず、むしろ、これらの力が魔術的なものではないとみなして、このエネルギーを「神の賜物」として積極的に活用すべきだというのである。

「これらはすべて”マインド”が可能とする一例だ。
”禁断の魔術”を使わずにな…
我々は皆超能力で交信できる。
DNAや遺伝も関係するけどな…
例えるなら、離れ離れの双子が互いの
痛みを感じ取れるという話だ。
同じ服装や行動をし…
以心伝心の仲だ。
これらは無視できないだろう。」

我々は神の賜物を最大限生かすべく、これらを取り入れるべきだ。
戦いの為でなく…利益でもなく…名声でもなく…
我々とその周りを癒すためにな。
それも”思考”のみでな。」


悪霊に由来するパワーを「神の賜物」と呼び、これを「最大限生かし」「取り入れるべきだ」と偽りを語る 解説者のわざとらしい不気味な語り口調にも注意したい。男女が光り輝いているのは、彼らが「覚醒」によって「変容」を遂げつつあることを意味するのだろう。



5.Eden Mediaは超人的な人体の変容を通してバベルの塔の構築を目指している

こうして、Eden Mediaは、戦いや殺人のために編み出された悪霊に由来するパワーでも、「人を癒す」という善良な目的のためならば利用可能であるかのように語り、異教的な起源を持つ悪しき力を退けるどころか、これを積極的に「活用」するよう信者らに推奨し、反聖書的な思想を宣伝する。

一体、何のためにそのようなメッセージを投げかけているのであろうか? むろん、人々を「アセンション」に導き、神に逆らう戦闘員として超人化するためである。

こうしたことは、ペンテコステ運動にも顕著に見られる特徴である。たとえば、ペンテコステ運動の流れを汲むKFCのDr.Lukeも、アセンションが流行った2012年頃からしきりに「ロゴス(言葉)ではなくデュナミス(力)」を強調していた。
 

「まことに. 神の国は言葉(logos)ではなく、力(dunamis)である-1Cor 4:20. その神の国には3種類の時制がある。それはイエスと共にすでに到来した(初臨の時代)、今到来しつつある(教会時代)、そして完全に到来する(再臨と千年期) 。この神の国の中に生きること。これがCUBEの生活だ。」

「何度も繰り返すが、時代はすでに相転換している。私たちがシェアすべきは正しい信仰信条でもなければ、キリスト教の伝統的儀式でもない。霊の領域に存在する神の国だ。それは明確な現れをもってその存在を自ら証明する。すでに時代は霊の時代。人は自分の魂の理解できない事柄、知性のフレームに収まりきれない存在、感情と相容れないものに対しては拒否反応を示す。これが魂の自然な傾向だ。」

Dr.Luke霊の時代:サドカイ性からの離脱 2012/03/31から抜粋


むろん、こんな解釈は暴論であり、神の国が言葉ではなく、力であると言ったパウロの「言葉(ロゴス)」は、ロゴスなるお方としてのキリストを指すのではなく、心高慢になって、パウロを悪しざまに言っていた口先だけの信者たちのむなしい見せかけの信心の言葉を指していた。そして、後半に言われている「力」も、パウロ自身の超人的能力を指すのでなく、神の霊的支配を指す。

だが、Dr.Lukeは、以前にも記したように、「祈りとは波動である」などとして、無内容な音声としての異言を集会で長時間に渡り語り続けることを推奨するなど、意味内容としてのロゴスを退けて、力だけを追求するという誤りにますます傾倒して行った。

そのようにして「デュナミス(力)」を追求することは、まさに超自然的なパワーを発揮することを飽くことなく追い求めた歴代のペンテコステ運動の指導者たちの特徴でもある。ペンテコステ運動の指導者たちも、同じように、パウロが述べた以上の聖句を、前後の文脈もなしに引き合いに出し、自分たちの超自然的なパワーこそ「神の力の現れである」と言って、超常現象を誇示していたのである。

そのようにして知性を退けて、行動ばかりを重視する傾向は、「人間の本質とでもいうべきは、理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである。」と述べて、知性によって物事をわきまえることを軽んじ、人間は知性よりも行動が先んじる生き物だと定義した東洋思想の思想家の考えにも重なる。
 
しかし、聖書が警告しているのは、すべての霊、すべての力が、神の霊から来るものではなく、悪霊に由来する力もあるため、それが一体、何の霊に由来するものであり、誰の支配がそこで成立しているのかを見極めなさい、ということである。

神の国の支配は、正しい信仰信条と一体であり、それなしには成立しない。ロゴスとしてのイエス・キリストのすべての御言葉と、デュナミスとしての神の国の霊的支配は完全に矛盾なく一致する。

「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。」(Ⅰコリント6:9-10)
 
以上のような資格要件を満たしていない者が、神の国の継承者となれるはずがない。これはほんの一例に過ぎず、要するに、神の御言葉を守って生きていない者が、神の国に入ることは決してないのである。

にも関わらず、神の御言葉を守り、御言葉に従い、御言葉の中にとどまる、という資格要件を無視して、ただ「力」だけを追い求め、これを身に着ければ、それが神の国の現れにつながると主張することは、根本的な偽りである。

彼らは実際に何かの「力」を発揮するかも知れないが、聖書の御言葉を軽んじる者たちの「力」の出所は、たった一つしかない。それは悪霊に由来するパワーである。ニューエイジの目的は、堕落した肉に働く悪霊に由来するパワーを通して、人体に眠っている未知の力を引き出し、人体を変容させて、神のような「超人」を生み出すことにある。

ペンテコステ運動のような偽りのキリスト教も、それに従い、聖書の御言葉でカモフラージュしながら、超人への「道」を目指しているのである。しかも、その偽りの教えの特徴は、常に「集団で超人化する」ことを目指すところにある。

本物のキリスト教が、常に個人的な信仰に根差すものであり、個人が自主的に信仰を通して自己を否んで日々の十字架を負い、神の御言葉を守ってキリストに従うことを求めるのに対し、偽りの教えは、常に集団で超人的な力を行使して神に近づこうとする

すでに見たように、東洋思想においては、個人は個人のままでは意味をなさず、集団の中で自己を手放し、集団(全体)と一つとなって初めて意味を持つとみなされている。そこで、東洋神秘主義が最終的に目指すのも、個人が修行を通じて「神のようになる」ことだけでなく、集合体としての人類が変容を遂げて、人類という種族が「神のようになる」ことなのである。

そこで、彼らは自分たちが究極的に目指している超人的な人体の変容さえ、集団で行おうとする。個人的なレベルでなく、集団的なレベルで超人的なパワーを発揮することにより、世界の変革を目指すのである。
 

また”マスター・マインド”という手法がある。
これは同じ意識を持つ者が集う行為を言う。
この行為により、宇宙に放たれるエネルギーの量が増幅する。
もし十分な人が集まり、同じ目標やアイディアが放出されるなら、
それはグローバルな影響を及ぼすことも…

これを実演したのが、90年代の超越瞑想者たちだ。
大人数でワシントンDCに集まった彼らは
犯罪率の低下を実現することに。
より多くが集まると、犯罪率が低下した。
これからはエネルギーを利用した。



  
むろん、超越瞑想者の集団などはキリスト教とは何の関係もない。Eden Mediaは、ヨガも、武術も、瞑想も受け入れ、もはや見境なく何でもありになっている。

私たちは、以上のような集団的な試みが、何を意味するか、聖書を通して知っている。「犯罪率を低下させる」などの聞こえの良い言葉に欺かれてはならない。同じ意識を持つ者同士が集まり、悪霊に由来する「気」を集団で行使し、連帯して超自然的パワーを発揮して、全世界を思うがままに操り、塗り替え、自分たちの力で地上に幸福社会を打ち立てようという試みは、もちろん、未完に終わったバベルの塔建設の再開の願望を意味するのである。

全地は同じ発音、同じ言葉であった。時に人々は東に移り、シナルの地に平野を得て、そこに住んだ。 彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。

こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。 彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。

時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て、言われた、「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」。

こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。これによってその町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を乱されたからである。主はそこから彼らを全地のおもてに散らされた。 」(創世記11:1-9)

<続く>

«肉のものと霊とのものを区別する必要性~キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋的神秘主義の危険⑥~

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