2018年4月26日 (木)

御霊に導かれて生きる~イエスを公に証しない霊はすべて神から出ていない反キリストの霊である~

「「人は皆、草のようで、
 その華やかさはすべて、草の花のようだ。
 草は枯れ、
 花は散る。
 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。
 これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。」(Ⅰペテロ1:24-25)

草は枯れ、花は散る。

以上の御言葉の前半部分は、まさに東洋的世界観にも通じるこの世の物質世界の無常をよく表している。しかし、聖書の御言葉は無常観を表すものでは全くないから、それに続く御言葉は、前半とは全く異なる永遠の世界があることをはっきりと告げる。

「しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」

この最後の部分を認めるか認めないかによって、人の世界観、人の運命は真逆のものとなる。

さて、悪魔の歪んだディスカウントの鏡に映っている人間の像は、いつも嘘だらけで、信じるに値しない。当ブログについてディスカウントを続けている「鏡」があるが、その人々と彼らの言い分をこれから「彼岸」と呼ぶことにしたい。なぜなら、彼らはグノーシス(=般若)にたどり着いた面々だから、その名称がよく似合っているはずだ。

以前にグノーシス主義とは、母体となる宗教や思想の枠組みを持たない悲観的な哲学・世界観であって、どのような宗教、どのような思想の中にでも入り込み、その宗教の神話などを自在に利用して、自身に都合よく変えてしまうのだと書いた。

それゆえ、「彼岸」のグノーシス主義的世界では、筆者についても、これを一人の登場人物として、一聞しただけで、思わず笑いがこみあげて来るような、完全に妄想に満ちた虚偽の荒唐無稽なストーリーが出来上がっている。たとえば、筆者には甥など一人もいないにも関わらず、存在しないはずの甥が、筆者の家族の成員に加えられ、筆者の家庭は、クリスチャンホームでもなかったにも関わらず、筆者の「両親」は共に教会に通う敬虔な(?)クリスチャンに仕立て上げられ、その他にも、あるはずもない数々の虚偽が作り出されて、笑い出したくなるような非現実的なストーリーが出来上がっている。

そこでは、筆者に数々の栄誉ある称号も色々と取り揃えられており、筆者は極めて優秀な「御霊によって歩む」クリスチャンとなっているばかりか、ドストエフスキーやトルストイの研究者とも呼ばれ、当無料ブログのおかげで、評論家という称号まで受けている。一体、ドストエフスキーとトルストイの両方の研究者を名乗ることの困難さを、彼らは知らないのだろうか。こうなっては、まさにもう何でもありの世界だが、さわやか読者が押しかけて日夜検索結果の操作にいそしんでいるこのブログを理由に、ネット評論家を名乗るなどのことも、筆者自身は考えたこともなかった。

偉大な称号と、呆れるような中傷がミックスされて、大いに結構づくめのディストピアが出来上がっているようだが、そのデタラメぶり、根拠のなさがあまりにも可笑しく、断片を見ただけで、思わずふき出してしまう。足りないのは「ユダヤ人の王」の称号くらいか、いや、欠けているのは、聖書と、真実な信仰である。

聖書の神に忠実に従って生きるクリスチャンは、誰しもリトマス試験紙の役割を担っていると当ブログでは以前に書いた。様々な霊たちが、クリスチャンの周りで論争を繰り広げるが、クリスチャンは自覚していようといまいと、これらの霊の正体を人前ではっきり明らかにする役割を担っている。

当ブログにぶつかってきた霊たちは、いよいよはっきりとその正体と本音を明るみに出し始めたようだ。驚くべきことに、彼らはあからさまに聖書を否定し始めたのである。聖書に基づく純粋な信仰に生きることを、カルト扱いして、聖書の真実性を否定し、退け始めたのである。

このことは、彼らが今までうわべだけはクリスチャンを装って来たことから考えると、驚くべき事実であり、彼らが重大な分岐点を通過したことをよく物語っていると言えよう。

カルト被害者救済活動には、以前に説明した通り、当初は統一教会やその他のカルトと名指しされている宗教に入信した信者らを、暴力によって強制的に拉致監禁して、密室で聖書を使って延々と説得工作を行い、元カルト信者らの思想の誤りを暴き、彼らの誤った信仰を打ち砕いて、カルトへの信仰を棄教させた上で、キリスト教に入信させて来たという残酷な過去がある。

そんなにまでして、聖書を聖典として振りかざし、カルト信者に強制的な脱会・説得工作を行って来たカルト被害者救済活動の陣営が、ついに自ら振りかざしていた聖書の真実性を否定し始めたのである。

まさに本音が出たなという印象を受ける。筆者は以前から、拉致監禁までして他宗教から信者を奪うようなことは、決してキリスト教の信仰に基づく正しい行動ではないと指摘して来た。なぜなら、聖書の神は決して人に信仰を強制するようなことはなさらないからだ。

この人々は、聖書はすべてがすべて真に受けるべきものでなく、ほどほどの理解で良いなどと言っているようだが、もしそんなことを本気で考えているのなら、彼らが元カルト信者を強制的に脱会させた過去はどのように正当化されるのであろうか。そんなにもいい加減で無責任な認識で良いならば、多くのカルト宗教では、改ざんされているとはいえ、聖書も伝道に利用されているわけだから、多少、クリスチャンと認識がずれているくらいのことで、目くじら立てず、黙って放っておけばよかったのだということにしかならないであろう。身勝手極まりない理屈である。

聖書は、彼らにとってうわべを飾り、他宗教に対して優位を誇り、自己正当化をはかるためだけのどうでも良いツールだったことが、この告白によって明らかになった。彼らは本気で聖書の御言葉を信じ、従うつもりなどさらさらなかったのに、カルト信者に対して己の優位を振りかざすためだけに聖書を都合よく利用したのである。脱会工作は、おそらく、牧師たちが、カルトに入信した信者らの親から、泣く泣く頼み込まれ、しかも親たちから報酬としての謝礼金をもらって実行したことに過ぎないのだろう。それが決して信仰に基づく行動ではなかったことがますます裏づけられているのである。

「彼岸」では、日曜礼拝その他の各種の儀式の重要性ばかりが語られているようだが、それらの儀式をどんなに形式的に遵守しても、聖書の御言葉の真実性さえ信じようとしない、信仰のない人々の独りよがりな礼拝などは、罪人カインの礼拝として、神に受け入れられることも、喜ばれることも決してあるまい。

さて、これまで当ブログで大きなテーマを勢力的に扱おうとすると、「彼岸」では必ずこの種のネガティブ・キャンペーンが張り巡らされて来た。いつものパターンの繰り返しである。今や言いたいことがあるならば、裁判所や警察を通して、きちんと公に自分の言い分を主張する道が開かれているのに、こうした卑劣な方法しか使えないのは、よほど自分たちの主張を出るべきところに出て主張することに自信がないせいであり、かつ、よほど当ブログにおける主張が、暗闇の勢力にとって身に堪えているせいであろう。

グノーシス主義の理論の共通の骨子が暴露されることは、悪魔と暗闇の勢力にとって何としても耐えがたいことなのであろう。

彼らは筆者を狂人扱いした挙句、このままでは破滅するなどと言っているが、よくよく自分を振り返って観察してみることだ、一体、破滅の淵に立っているのは誰なのか。
 
この人々には、今までにも、決して自分の所属先の宗教団体を名乗らないという明白な特徴があった。勤務先はもちろんだが、どの宗教団体の人間なのかさえ、全くはっきりしない連中ばかりなのである。このような人々の述べる信仰論は、それだけで、最初から耳を傾けるに値しないことが明白である。他人には身元を明かせと要求し、暴力的に個人情報を暴いて、プライバシーを侵害する行為に出ておきながら、自分自身は所属教会さえ明らかにしないとは、まさに笑止千万な行動である。それでどうやって信仰を語る資格があるというのか。

このように、信仰があると自称しているにも関わらず、自分がどの宗教の信者であるかさえ明らかにしないような人々の言い分に、真面目に耳を傾けるのは愚か者のすることである。彼らは、クリスチャンであるのかどうかという最低限度の事実さえはっきりさせずに、他者の信仰告白の内容について云々できる資格などないのは当然である。

だからこそ、もとより信仰のないこの人々は、週刊誌のように他人の人間模様やスキャンダルを暴くことにばかりに熱中し、それ以外にできることがないのである。それは、彼らにはもともと聖書的な知識も信仰もなく、あるのはこの世的な関心だけかだらである。

だが、ついに彼らが最も好んで来た人間模様の中にさえ、フィクションの登場人物が作り出され、話がどんどん現実離れした方向へ向かっている様子を見ると、彼らがすでに重度の妄想に陥っていることがよく分かり、ただただ可笑しくなるだけである。

このような人々にはまさに「彼岸」という言葉がふさわしい。彼らはすでにこの世をすら去って、自ら「他界」し始めているのである。むろん、以下の御言葉の「悟りの道」がグノーシス主義のグノーシスと同じものでないことは、説明せずとも良いと思うが、死者の霊の集会に出席する者は、例外なく黄泉に誘われて行く。以上の人々はまさに「棺桶に片足を突っ込んでいる」のだと言えよう。

「悟りの道から迷い出る者は、死者の霊たちの集会の中で休む。 」(箴言21:16)

さて、以上のような人々の愚劣な行為がこの先、しかるべき罰を受け、そのデタラメな記述が必ず削除されることは変わらない事実だが、ただし、この先、彼らの「彼岸」の世界で、ありもしない創作物語が、どこまで大きく膨らんで行くのか、また、そのような話に騙される人々が、どの程度、この国にいるのか、それは面白い観察材料であるものと思う。

ある意味で、この手の話は、日本人の民度の高さを試す良いバロメーターになると言えよう。何の根拠もない中傷を真に受ける程度の判断能力しか持たない人々には、関わってもろくなことは起きない。良識的な人々は決してそのようなものに惑わされず、振り回されることもない。だから、このようなものは、自動的に良いフィルターの役目を果たしてくれる。

すでに多くの人々が気づき始めているように、この国は、だいぶ前からのグノーシス主義国であり、何もかもがさかさまにされているのである。安倍政権のもとで、以前からあった傾向が極度に強められ、今やこの国で良識的に生きる人々は、みな前回の記事で触れたロストロポーヴィチ夫妻のように、ソヴィエト政権から追放されたり、処罰された人々と同じく、あらぬスキャンダルの疑いをかけられ、「狂人」のレッテルを貼られ、社会から排斥されている現状がある。何しろ、グノーシス主義国だから、真実と虚偽が裏返しにされ、良識的な人々が「狂人」とされ、狂人が「健常者」の仮面をかぶって巷を跋扈しているのである。

それにしても、論拠のない稚拙な決めつけの記事もさることながら、他人のブログに便乗して二、三行の無責任なコメントを投稿するだけで、何か言ったような気分になるとは、信じがたいほどの独りよがりだと言う他ない。

筆者は、できる限り、ツイッターやフェイスブックや掲示板や他者のブログ等へのコメントの投稿を控えるよう心がけている。それは、あのように短い文章の中で、十分な論拠を示して物事を主張することは、決してできない相談であり、そういうツールを使い始めると、人はとことん怠惰になって、決めつけや、思い込みだけで、まことしやかにものを言う癖が身についてしまうと考えるからだ。

断片的な文章しか書かないでいると、思考力と文章力も、当然ながら著しく低下する。しかも、そういったコメント内容のほとんどは、他者の書いた論評に対する印象批評でしかないため、自分自身では何も生み出していないのだ。

論文で最も重要になるのは論拠である。なぜあなたはそのように考えるのかという具体的な証明プロセスのない、結論だけが決めつけのように提示されている文章は、決して誰にも相手にされない。緻密な論証過程を飛ばして、結論だけ提示して、何か言ったような気になるという無精な発言の仕方に慣れてしまうと、いざ何かを論証せねばならなくなった時、全くその要求に対応する力が自分の内に見いだせないとであろう。「彼岸」の著者の一人が、博士論文を書き上げることができなかったのは決してゆえなきことではあるまいと思う。

さらに、論証過程を飛ばしてコメントすることに慣れてしまうと、自分が無精な方法でしか発言していないため、他者が作り上げた作品にも、どれほどの苦労が込められているかが全く分からなくなってしまう。何を見ても、上から目線で傲慢な態度で、一方的な印象批評を書き記すだけの空っぽな人間が出来上がる。痴呆化と高慢さへの最短コースである。

そこで、当ブログの内容について反論がある人々は、一人一人自分でブログを開設して、引用箇所をはっきりさせた上で、ルールを守って、自分の文章を論理的に書いて反証してみれば良いのだ。多分、どんなにそれが恐ろしく手間のかかる作業であるかがすぐに分かり、ほとんどの人々が面倒になって途中で放り出すことであろう。むろん、所属先の宗教団体も当然、明かすべきであろう。その上で、しかるべき諸手続きを最後まできちんと遂行して主張を提示できる人々がいたならば、それは傾聴に値する意見であるため、ネット上で議論をする価値もそれなりに出て来よう。

だが、ブログというものは、そもそも他者への反論だけではどうやっても続かない。自分の信念に基づく確固たる意見が出せなければ、文章を書き続けること自体が無意味である。コピペだとか、ネットのニュースの転載だとか、どこかで起きた事件を、ただ右から左に報道しているだけで、自分が一体、それについて何を訴えたいのか、自分自身はその出来事にどう関与しているのか、それさえ明らかにできないブログは、読者の共感も得られず、決して続かない。

人を貶め、中傷するためだけの「鏡」は、完全に独創性を失っているため、そこまで内容が希薄になれば、この先、放っておいても、長くは持ちこたえられないのは明白である。脅せば誰でも人は言いなりになると考えているのだとすれば、それは完全な誤りである。

主張というものは、内容が勝負所なのであって、主張と主張のぶつかり合いで勝利をおさめたければ、相手の主張を超える強度を持った主張を自ら提示せねばならない。相手の主張がダイヤモンドならば、それを超える強度が必要となる。それができなかった場合、弱い方の主張が粉々にされてしまうだけである。

時に、粉砕されなくても、淘汰という現象も起きる。筆者が知っているだけで、ここ5年ほどで匿名掲示板とその投稿が相当な分量、淘汰されて消え去った。当ブログに悪質なコメントを残していた掲示板があったので、その投稿の記録を保存してあったが、ここ数年の間に、掲示板ごと消失しているものが、相当数あったのである。2ちゃんねるなどは一時は広がりを見せ、人目には隆盛を極めていると見えた時期があったかも知れないが、今となっては、あまりにも悪評高いせいで、良識的な読者に見捨てられ、消滅の危機に晒されている。日本年金機構への内部告発に利用された際、消えかけた線香花火のような存在意義を見せたくらいであろうか。

匿名掲示板には訴訟沙汰なども多発しているため、人々が安心感を持てなくなり、関心が薄れつつあるだけでなく、ツイッターやフェイスブックなどで身元を明かして、同じくらいに短いコメントを発信するスタイルが今や主流になったため、そのことが匿名掲示板の衰退に拍車をかけている。

やはり、責任の所在を明らかにしない文章は、影響力を持たないのであり、その上、きちんとした論拠を示さず、とりともないおしゃべりを続けるだけとあれば、内容の希薄さゆえに、淘汰されて行くのは当然である。おそらくあと10年から長くとも15年のうちに、匿名掲示板は消え去るか、今とは全く違った形式に移行する必要に迫られるのではないかと予想する。

花が散り、草が枯れるように、聖書の永遠の御言葉に立脚しないむなしい議論は、一時は盛り上がっているように見えたとしても、時と共にすべて初めから無かったも同然に、胡散霧消して行くのである。

さて、聖書にはこんな文句もある。空中に散じて行くだけの無意味なおしゃべりのせいで、永遠に有罪を宣告される者たちが出て来るというのである。

言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」(マタイ12:36)

「彼岸」から他者をディスカウントする発言ばかりに熱中している悪霊に導かれる者たちは、いざ神の御前で申し開きを求められたとき、その言葉のゆえに、どれほど重い罪を負わされるのであろうか。しかも、その幾分かは、この世でもリハーサルがあるのだ。すべての言葉には責任が伴い、必ずそれが追及される日が来るのである。

しかし、きちんとルールや手順を守って価値ある内容の文章を書いていれば、その記事は、三十年、四十年先になっても、いや百年先であっても、必ず、残るだろう。そのことは、ソビエト体制のような厳しい思想的統制下で秘密裏に書かれた文学作品でさえ、あらゆる方法で保存され、何十年もの時を経て、今日まで残されている事実を見ても分かる。それはこの世の文学作品の話であるが、永遠に変わらない神の御言葉に立つ信仰告白が、この世の文学作品よりも早く消え去ることは絶対にない。

悪魔の妄想でしかないフィクションの「鏡」は短期間で消え去るであろうが、真のリアリティである神ご自身という「本体」に属するものは必ず残る。筆者が自信を持って、この先、何が起こるかを見てもらいたいと言うのは、キリストとの霊的な結びつきの中を歩んでいるキリスト者の証が地上から取り去られて、悪魔の「鏡」だけが残るということは絶対にないと分かっているためである。

筆者はまだ信仰の歩みの途上にあるため、パウロと同じように、自分が学ぶべきことを学び終えてすでに完璧なクリスチャンになったなどと自己宣伝するつもりはさらさらないが、それでも、当ブログは、筆者の真実な信仰告白であるから、その内容に対しては、神が責任を負って下さると分かっている。

なぜなら、聖書に書かれていることが真実であることを証明されるのは、神ご自身だからである。だから、たとえ誰かが筆者を狂人扱いしたりしても、それによって、その人が神の御言葉までも消し去り、否定することは絶対にできないのである。

筆者は、この度、「般若=グノーシス」を根こそぎ断罪して、彼岸に投げ捨てた。うわべだけは敬虔な信者を名乗っている多くの人々が、筆者に対して、般若の顔をして、筆者を中傷したり、呪ったり、断罪したりしたが、そのようにして彼らが筆者になすりつけようとしたすべての呪いを、みなキリストの十字架を経て彼岸へと渡し、黄泉の世界に追い返したのである。

興味深いのは、「彼岸」から未だ中傷を続けている人々の言い分が、だんだん筆者個人への非難や中傷の域を超えて、ついに聖書全体への中傷、神ご自身への冒涜にシフトしつつあることだ。

ある意味で、筆者がずっと待っていた回答がやっと提示され始めたのである。いよいよこれからが本番中の本番である。彼らは自分たちはグノーシス主義者ではないと言っているが、彼らの言い分を聞いて、誰が本当にそうだと信じるだろうか? 彼らはこれまで自分たちがあたかもクリスチャンであるかのように振る舞ってきたが、ついにそのかりそめの信仰も自ら捨てつつあるのだ。聖書など初めから全く敬っておらず、御言葉の真実性を信じていなかったことを彼らは自ら告白している。

おそらく、この先、クリスチャンの仮面をかぶり続けて来た彼らの内心が、とことん明るみに出され、その本心に溢れ返っているものは、神への恨み、憎悪、聖書の御言葉への憎しみ、否定であることが、この上なくはっきりする時が来るものと思う。

先に当ブログでは、彼らは必ず警察の忠告を振り切り、この世のすべての秩序を侮るだろうと予告したが、現にそうなっている。このまま見守り続ければ、いずれ彼らは必ず、聖書の神ご自身への憎しみと中傷をまき散らし、憤りを爆発させて、自分たちが神の敵であることをはっきりと万人の前で告白する時が来るであろう。それがまさに彼らの心の本質なのである。

そして、それは必ず多くの人々が目撃する形でなされるであろうから、そうなるまで、しばらくこのまま観察しておきたい。

筆者が殉教などという言葉を口にしたからと言って、まさか自ら死に支度をしているなどと勝手に考えてもらっては困る。今はまだ戦いの初歩の初歩の段階であって、およそ殉教などというレベルの話が具体的に出て来る余地はない。仮にそういう時代が来るとしても、それはまだまだかなり先のことである。

筆者がいかなる人間であろうと、聖書の御言葉で武装し、神の懐に隠れている人間を攻撃することのできる人々はいない。今起きていることは、我々はまずこの地上で、小羊の血潮と証しの言葉によって悪魔に立ち向かうことをきちんと学ばねばならない、ということを示しているだけである。

さらに、「彼岸」にいる人々がブログを失い、人生を失って破滅すれば、自暴自棄な行動に出る可能性があると思い、憂慮する人もあるかも知れないが、しかし、それすらも、全く心配の必要がないと言うのは、彼らの行動はすべて衆人環視の中で行われ、以下の御言葉にもはっきりと示されている通り、彼らが抜いた剣は、彼ら自身の胸を刺し通すだけだからだ。考えても見てもらいたいが、今まで行われた彼らの行動のすべてが、大勢の証人のいるところで行われたのだ。この人々の運命は全世界に対して指示されねばならないので、その終わりも、当然ながら、衆人環視の中となるであろう。

これまでも、彼らはただ脅すだけで、決して何事も筆者に強制することはできなかった。それは、筆者が何を信じるのか、誰からの強制によらずに、自分自身で選択し、告白することを神に求められているためである。神はすべてのことを、信者自身の意志で選ばせたいと考えておられる。強制されて行われた告白は、自由の中で自ら選んだものと言えない。よって本当にその人自身の選択なのかどうかも分からない。神は、筆者が人生における最後の選択の一つに至るまで、すべてを自らの意志で決定することを望んでおられるのである。それが神の御心であるがゆえに、筆者に対して何一つ強制できる人はいないのである。

筆者は「彼岸」のブログに自殺者の遺族のフォーラムの話題が掲載された時点で、それは彼らがすでに死者の集会の中に身を置いていることを明白に示す証拠だと受け止めている。彼らの心は絶えず死とその周辺の黄泉とをさまよっている。今後、どういう形でそれが具体的に彼らの身の上に実現するのか、今はまだ分からないが、すでに述べたように、彼らが神を公然と人前で呪う段階が訪れた後、ヨブの妻がヨブに投げつけた言葉が、おそらく、彼らの身の上に成就するであろうと思う。「神を呪って死になさい!」という彼女の言葉は、神を呪うことと、人が自死することが、分かちがたく一つであることを示している。

これが、神を知る知識を自分で退け、捨てたすべての人に働く霊的法則性なのである。それは決して誰かの意志次第で変えられるような軽い運命ではない。だから、聖書に対してどのような態度を取るか、各人は極めて慎重でなければならない。全世界の人々が見ている前で、聖書の真実性に異議をさしはさむような者は、必ずその次には神を呪ったり、冒涜・否定する段階へと進み、誰もに取って見せしめや教訓となるような最期を遂げることになるであろう。

「人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、”霊”に対する冒瀆は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」(マタイ12:31-32)

人を罵倒する罪は、悔い改めれば赦されるし、償うこともできよう。しかし、聖霊を冒涜する罪は赦されないと、前々から幾度も述べているように、人はクリスチャンや神の教会を罵倒しているうちに、いつしか取り返しのつかないところまで深く罪を犯してしまうことがありうる。さらに、聖書の真実性を否定することは、御霊によって書かれた書物を虚偽であるとみなすことと同義であり、それは、ひいては神ご自身を偽り者とみなすことを意味する。

そして、人が創造主を偽り者(=フィクション)とみなせば、その人の存在そのものがフィクションとして消えるのである。これは霊的法則性である。自分が創造主に対して吐いた言葉が、自分の運命をそのまま決することになるのである。

だが、いかに人を侮辱することが永遠の罪にならないと言っても、彼らはこの先、筆者を攻撃すればするほど、自分で自分の心を傷つけ、人としての尊厳を失い、罪悪感と、後ろめたさと、社会からの蔑みの目線と、孤立により、居たたまれなくなって行くだけである。

さらに、筆者はこの十年間というもの、どうやっていわれのない迫害に立ち向かうべきか、一つ一つ必要な手順を学んできたが、彼らは一度たりとも一人で神に向き合ったことがなく、迫害や圧迫に立ち向かう術をも学んでいない。

だから、彼らが孤立状態に置かれれば、その心は、それがごくごくわずかな期間であっても、大変な打撃を受け、正常には保たれるまい。彼らの言い分の内容の希薄さを見ても、彼らの終焉が近いことはすぐに分かるが、彼らに残された月日自体がそう多くはない。人を馬鹿にすることはまだ償いが可能であるとしても、神を侮り、冒涜し、自ら神になり代わろうとすることはそれとは異なるからだ。
 
肉のものは霊のものより早熟である。それは肉の性急で忍耐できない性質に由来する。それゆえ、肉のものは霊のものよりも先に絶頂に達し、先に繁栄を謳歌する。その繁栄は、ぱっと見には長く続くように見えるかも知れないが、実際には、花が散り、草が枯れるように、たちまちにして消えて行くものである。悪人は気づけばもう跡形もなく、いなくなっている。栄枯盛衰、諸行無常、聖書の御言葉を信じない悪人にあるのは、ただ滅びゆく世界の無常観だけである。その定めに抗う術は彼らにはない。だが、御言葉に立つ者は、悪人が消え去った後も、末永く平和と繁栄を享受する。

人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。
 「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、
 裁きを受けるとき、勝利を得られる。」と書いてある通りです。」(ローマ3:4)

「悪事を謀る者のことでいら立つな。
 不正を行う者をうらやむな。
 彼らは草のように瞬く間に枯れる。
 青草のようにすぐにしおれる。

 主に信頼し、善を行え。
 この地に住み着き、信仰を糧とせよ。
 主に自らをゆだねよ。
 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
 あなたの道を主にまかせよ。
 信頼せよ、主は計らい、
 あなたの正しさを光のように
 あなたのための裁きを
 真昼の光のように輝かせてくださる。

 沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。
 繁栄の道を行く者や
 悪だくみをする者のことでいら立つな。
 怒りを解き、憤りを捨てよ。
 自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはいならない。
 悪事を謀る者は断たれ
 主に望みをおく人は、地を継ぐ。

 しばらくすれば、主に逆らう者は消え去る。
 彼のいたところを調べてみよ、彼は消え去っている。
 貧しい人は地を継ぎ
 豊かな平和に自らをゆだねるであろう。

 主に従う人に向かって
 主に逆らう者はたくらみ、牙をむくが
 主は彼を笑われる。
 彼に定めの日が来るのを見ておられるから。
 主に逆らう者は剣を抜き、弓を引き絞り
 貧しい人、乏しい人を倒そうとし
 まっすぐに歩む人を屠ろうとするが
 その剣はかえって自分の胸を貫き
 弓は折れるであろう。

 主に従う人が持っているものは僅かでも
 主に逆らう者、権力ある者の富にまさる。
 主はご自分に逆らう者の腕を折り
 従う人を支えてくださる。
 無垢な人の生涯を
 主は知っていてくださる。」(詩編37:1-18)

聖書の御言葉と、フィクションの世界はどこまで行ってもなじまない。筆者はまだ信仰に生きるようになる前、学生時代に長編小説を書こうと試みたことがあるが、完成に至らないまま放棄した。筆者はその当時、架空の世界を舞台として、冒険物語を書こうと思い、構想を練り、登場人物を揃え、プロットがほぼできあがった。だが、いくつかの章ができ、あとは細部を書き上げてつなぎ合わせるだけとなった時点で、別な用事のために、その作品は未完のまま放置された。それから、何年も月日が過ぎて、当ブログを始めた少し後で、改めてその小説を開いてみたところ、聖書とは無関係の架空の世界を舞台にして小説を書き続けることは筆者にはもうできないという結論に至った。

筆者は、キリスト者として生きることが何を意味するのかを理解するようになってから、それ以前とは大いに自分の感覚が変わってしまったと思うことがたくさんある。ここで言う「キリスト者として生きるようになってから」という言葉は、教会に通うようになってからとか、洗礼を受けてからという意味ではない。キリストご自身を実際に生きて知ってから、という意味である。

世にはクリスチャン作家が存在することは知っているが、その人たちの考えがどうあれ、筆者自身は、現実に存在しない架空の舞台で、キリスト教の神について語ることは無理であると考えている。なぜなら、神の御業を生きて知ることは、常にそれに関わる人々に現実的な代価を要求するため、人としての痛み苦しみも実際には味わうことなく、この世の時空間の中にまるで存在しない架空の登場人物に、神の貴い御業を信仰の代価なしに体験させることなど無理だからだ。どうやってそんな設定に説得力を持たせることができようか。

もしフィクションの物語で描ける内容があるとすれば、それは神のいない、人間だけの世界で起きる絶望的なストーリー展開だけであろう。その悲しい描写によって、人々の心にこんなにもむなしい世界は嫌だという思いを起こさせ、そのフィクションの世界を抜け出て、真実な神へ向かいたいという願いを呼び起こすことは可能かも知れない。

フィクションの世界では、このように、まことの神ご自身を物語のプロットに介入させることができないため、描けるのはどこまでも人間だけである。だが、キリスト教の神を扱えないからと言って、そこに聖書の神とは異なる別の神を作り出し、フィクションの宗教を作ったりすることは、もっと忌むべき試みであるものと思う。

そのようなわけで、架空の物語には、その物語の世界観の基礎となるべき思想がなく、それゆえ、どんなにプロットに重みを持たせようとしても、中心となる柱が欠けているため、最も主張したい重要な事実に、裏づけがなくなり、主張が消し飛んでしまうと分かり、それ以後、筆者は小説を書くことを放棄した。

この他にも、以前にはそれなりに本を読んでいたが、興味もなくなり、読めなくなってしまったという変化も起きた。感情や感覚をいたずらに刺激する文学的修辞が、物事の本質からいかにかけ離れているかが分かり、受けつけられなくなったのである。

人間の感情や感覚を刺激する描写や表現は、たとえそれが文字で書かれた文章であったとしても、ある種の悪魔的な性質としての肉の働きを含んでおり、それに没入するならば、本人を全く意図していない方向へと導く。文学的修辞は、堕落した魂の世界に属するものであり、それを通して、様々な悪しき思いが人間の心へ入り込むきっかけを作り出す。

聖書には、霊的な文脈はあるが、文学的修辞はない。聖書は人間の使う言語を用いて書かれているとはいえ、文学的修辞のような、魂に働きかける言語によって書かれたものではないのである。

以前に、筆者は、当ブログにも度々引用しているオリーブ園クリスチャン古典ライブラリーに掲載されている記事の中で、クリストフ・ブルームハルトや、セス・リースのような、ペンテコステ系の指導者の記事だけは、どうにもいただけないと疑問符を投げかけたことがあった。その理由は、こうしたペンテコステ・カリスマ運動の指導者らの記事の文章が、霊的文脈でなく、まさに通常の小説などと同じ、文学的手法を用いて書かれているためである。(それゆえ筆者自身はこれらの記事を一部を除いてほとんど読んでいない。)

文学的修辞は、人間の感情や感覚を揺さぶる力を持っているが、それはあくまで人間の天然の魂に働きかける力であって、霊的文脈ではない。人間の道徳観も同じである。どんなに正しい主張のように聞こえても、魂から生まれる道徳論は、神の霊的な事実とは一致しない。それゆえ、ペンテコステ・カリスマ運動の指導者の書いた記事は、どんなに霊的内容を装っていても、オースチン-スパークスやペン-ルイスなどの文章とは全く異質な別の動機によって書かれたものであると、筆者は判断せざるを得なかったのである。(このことは、オリーブ園の著者が行っている膨大な手間暇をかけた翻訳作業を筆者が評価しないという意味では全くないため、誤解しないようにしてもらいたい。いかなる人の発表したいかなる内容であれ、読者は自分自身で識別しなければならないことを述べているだけである。)

そうした判断に基づき、オースチン-スパークスのような霊的先人たちの主張と、ペンテコステ・カリスマ運動のような「霊的ムーブメント」とが、どのように異なるのかを追っていくと、両者は、全く源流を異にする別の霊的運動だという事実が見えて来る。そして、一体、ペンテコステ・カリスマ運動の起源は何かということを調べて行くと、これは聖書とは全く異なる東洋思想をキリスト教と合体させて出来た異端で、その本質はグノーシス主義だということが分かるのである。

「霊的」と言われているからと言って、すべてが御霊から来たものではなく、グノーシス主義のように、「肉のものを御霊のものに見せかける」トリックが存在するため、この点を見分けることができなければ、熱心なクリスチャンほど欺かれる危険がある。なぜなら、熱心なクリスチャンには、霊的な信者になりたいという真剣な熱意があるので、真理への渇望、探究という点で、怠惰なクリスチャンとは比較にならないからだ。そして、そのような熱心さにつけこんで、「あなたはかれこれの教えを受ければ、もっと霊的になって、神に近付けますよ」という甘い誘い文句で、信者を欺くのがグノーシス主義の特徴であるため、注意しなければならない。その偽りを見分けるためには、霊の偽物が存在することを理解した上で、異端の基礎構造を把握して備えておく必要がある。ちなみに、霊を識別することは、聖書が信者たちにはっきりと信者に呼びかけている事柄である。

「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。」(Ⅰヨハネ4:1-3)

以上の短い御言葉を読んだだけでも、イエス・キリストを証せず、人間を証し、聖書を軽んじるカルト被害者救済活動が、神の霊から来た活動でないことは明白である。だとすれば、その運動はどこから来たのか。悪魔から以外にはあり得ないだろう。ではなぜ彼らは自分たちはグノーシス主義者ではないと言っているのか? ただ嘘をついているだけである。

我々には、ある人の主張の背後に存在する霊の性質を見分けるに当たり、その人の書いた文章以外に手がかりとなるものはない。そこで、ある主張が、本当に神の聖霊から来たものであるかどうかを確かめる有力な手がかりは、聖書の御言葉と対比することである。だが、もっと簡単に見分けるポイントをあげるなら、それは前々から書いているように、「キリストに栄光を帰しているのか、それとも、人間に栄光を帰しているのか」という違いに注目することだ。御霊はイエスを証しし、イエスに栄光を帰する。それをせず、人間を証し、人間に栄光を帰する霊は、キリストの御霊ではない。

イエスは言われた、「もし、わたしが自分自身について証しするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証は真実であることを、わたしは知っている。」(ヨハネ5:31-32)

「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」(ヨハネ15:26)

「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。」(ヨハネ16:13-15)


ペンテコステ・カリスマ運動がいかがわしい偽物の霊的運動だとはっきり言えるのも、この点によるのであり、この運動は必ずと言っていいほど、人間の指導者に栄光を帰する。彼らは人間に過ぎない指導者を、偉大な霊の器として誉めたたえ、いかにその指導者が数々の奇跡的な偉業を成し遂げたかという話に夢中になる。この類の話は、イエスを人間が栄光を受けるための手段に変えてしまっており、その「証」の内容も、ほとんどがサンダー・シングと全く変わらない奇跡物語である。それゆえ、どこからの時点で、死者の霊との語らいというテーマも出て来るであろう。なぜなら、悪魔的な思想は、死、黄泉、墓、死者の霊などに異常なほどの愛着を持っているためである。

繰り返すが、キリストから来た御霊は、キリストを証する。そしてキリストに栄光を帰する。しかし、堕落した被造物としての人間(悪魔)から来る霊は、人間自身を証し、人間に栄光を与えようとする。前者がキリスト教の正しいあり方で、後者は被造物を神とするグノーシス主義の特徴である。そこで、以上の御言葉のリトマス試験紙により、9割程度の主張の出所が明らかになる。それでも分からないものがあれば、さらなる検証が必要である。

さて、自分たちはグノーシス主義者ではないと言って、筆者の論に反対しているカルト被害者救済活動の支持者らが、イエス・キリストを証しせず、聖書の完全な真実性を認めず、クリスチャンや神の教会を迫害し、嘘とデタラメを終わりなく並べ、筆者のようなクリスチャンが聖書を捨てるべきだとまで主張していることは、思わず笑ってしまうほどの自己矛盾であり、荒唐無稽かつ愚劣な主張である。こうも支離滅裂な主張になって来ると、もはや精神の異常さえ疑われるレベルに達していると言われるのも当然であろう。

偽りの霊性がその醜い本性を赤裸々に表すのは、彼らの思想の展開が最後の段階になってからのことである。悪魔が光の天使を装うように、般若(グノーシス)は、最初は涅槃の姿をして近づいて来るのであって、その真の顔が、般若の(鬼の)面であることは、最初から示されるわけではない。現に三島もそうであった。三島が肉体を鍛え、明るい太陽の下で、人々と楽しく交流し、人生を謳歌していたように見えた時、彼は人々から見れば、涅槃に生きているようにしか見えず、まさか彼がまっしぐらに死へ向かっているのだとは、皆に思いもかけなかったであろう。彼には妻もあれば、子供たちもいたのである。その上、才能もあった。死ななければならない理由は、彼の思想に着目する以外には、どこにも見いだせなかった。

今日も、同じように、何の問題もなく人生を謳歌して安楽に生きているように見える人々の心に、御言葉という見えない霊的法則性の物差しを当てはめるなら、まるで数学の方程式を解くように、彼らの向かう先がどこであるか、その目的地をほとんど狂いなく正確に導き出すことができる。

ノアが嘲りの只中で箱舟建設の作業を進めていた時、人々は飲んだり、食べたり、娶ったり、嫁いだりして、己の欲望に邁進していた。人々は、ノアがそうした事柄に関わろうとせず、人々の振る舞いに賛同も賞賛もしないのを見て、最初はいぶかしみ、次に忠告し、彼を何とかして世に引き戻そうと試み、それがかなわないと見るや、何という変人かと呆れ、ノアはきっと偏屈なカルト信者に違いないと決めつけて、嘲りと妨害に転じたことであろう。箱舟建設に妨害は起きなかったと思う方が安易すぎる。

ロトの時代もやはりそれと同じであった。ソドムの住人は己の欲のゆえに途方もなく凶暴化しており、ロトの家に滞在した御使いたちの引き渡しを求めて、ロトの家に群衆となって殺到し、押し入ろうとさえした。だが、神はロトの家族を守ることを決めておられ、実際に彼らを守られたのである。ただロトの妻だけが、ソドムの欲に引かれ、脱出の途上で後ろを振り返って帰らぬ人となった。ソドムの凶暴化した住人たちは、当然ながら、一人残らず滅ぼされた。そこには加害者も被害者もなかった。ロトの家族を除いて、全員が滅ぼされたのである。

今、見えない箱舟建設の作業は着々と進んでいる最中であり、これを嘲っている人々は、ただ自分たちに差し迫っている滅びが見えないだけである。彼らは自分が何からエクソダスせねばならないかも分かっておらず、神と聖霊に執拗に言い逆らって、自分たちが二度と後戻りできないように、信仰の道を自ら閉鎖している。まもなく、彼らは、御使いたちを憎悪して引き渡しを求めたソドムの住人たちのように、自らの憎悪を、被造物ではなく、創造主に直接、向けるようになるだろう。通常の常識のあるクリスチャンが、彼らの境遇に置かれれば、自分たちを待ち受けている滅びの運命が、あまりに恐ろしいことに気づき、とうに嘲りとディスカウントの鏡を捨て去って、真心から悔い改めて神に立ち戻っていたことだろう。神が彼らの心をこれほど頑なにされたのである。恐るべき霊的盲目性と言うほかない。それは彼らが悔い改めて神に立ち返る道が閉ざされるためである。神はご自分が憐れもうとする者を憐れみ、心頑なにしようと思う者を頑なにされるからである。

「ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。人の子が現れる日にも、同じことが起こる。<略>自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。」(ルカ17:26-33)

「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。」(マタイ24:36-39)

2018年4月24日 (火)

御霊に導かれて生きる~悪魔のディスカウントの鏡を否み、神の新しい完全な人であるキリストを着る~

さて、いつの間にやら当ブログと筆者は「聖霊によって歩むクリスチャン」という極めて名誉ある称号を頂戴していたようである。

そのことは厳粛な喜びと感動のような感慨を筆者にもたらす。これは冗談や皮肉で言うのではない。なぜなら、この称号の意味は非常に重く、責任が伴い、それだけに、それが暗闇の軍勢から発せられたことは極めて予表的な出来事だと思うためである。

ちょうどイエスの十字架の上に「ユダヤ人の王」と書かれた札が掲げられていたことを彷彿とさせる。そういう意味で、この表現は筆者の予想を超えて、霊的に栄誉ある称号であり、改めて神に従うキリスト者が誰しも辿らねばならない十字架の道を思わせる。それを理解した上で、心を新たに、主の御前で、御霊に従って生きさせて下さい、あなたに従う道を教えて下さいと厳粛な決意を表明させられるのである。

筆者はかねてより、クリスチャンはみな殉教の覚悟を固めるべきと述べて来たが、「御霊によって歩む」ことには、大きな解放も伴うと同時に、十字架も伴う。それは決して人間にとって好ましい偉大な側面だけを意味しない。代償を払い続ける覚悟がなければ、神に従うことは誰にもできない相談であり、その告白をますます生きて実践的に問われる時代が来ていることを感じる。

折しも、ちょうどここしばらくの間、「善悪の路線ではなく、命の御霊の路線によって生きる」というテーマに戻らなければならないと考えていたところだ。

今は地上に「御霊によって歩むクリスチャン」がどのくらいいるのかさえも疑わしい危機的な時代だが、それでも、そのような状況には一切関係なく、もしも個人が心の中で主を見上げ、決して目に目るものによらずに神だけを頼りにして歩むなら、「御霊によって歩く」ことは十分に今日も可能であると確信する。

人には人生で時間をかけて取り組む価値のあることはたくさんあるように見えるかも知れないが、御霊によって、キリストと一つとされて彼の中を歩むことは、他のすべてにまさって価値あることである。そのようにして過ごす短い数日に知る事柄は、人が何十年間かかっても到達することができないほどの深い真理の知識を与える。

聖書の真理は聖霊によってのみ知ることができるものである。真理の啓示には客観的な証明手段が必要とならない。人間が正しい知識を得る際には、必ず、それが正しいものであることを論理的または物的証拠によって証明するための膨大な裏づけが必要となるが、真理に関しては、そのようにして客観的な証拠の積み上げによって、それが真理である(らしい)と証明されるのではなく、神ご自身がそれが正しいことを人の霊の内に直接、啓示して下さるのである。とはいえ、人は霊の内側で知ったことを、魂で再解釈する必要があるので、ただ啓示を受けたというだけでは、たとえそれが神から来たと疑いの余地なく分かっていたとしても、あえてそれを鵜呑みにするのではなく、受けた啓示が正しいものであることを、やはり魂によって吟味し、証明しなければならない。もしそれが真に神から来た啓示であれば、魂による検証作業の過程で、聖書の御言葉との齟齬が出て来ることはない。そうして霊的な事柄を御言葉に照らし合わせて再検証することはどんな場合にも有益である。

御霊の中を歩み続けるならば、絶えず真理を知らされることができるであろうが、残念ながら、クリスチャンは必ず様々な攻撃を受けてそこから逸らされたり、転落させられたりして、御霊によって歩むことの意味を、数々の失敗を通して学ばされるしかない。御霊によって歩むことの学びは一朝一夕では終わらず、まずは、何が自分のアダムの古き命に属するもので、何を十字架において否まなければならないのか、それを知るためだけにも、長い学びの年月がある。

否むべきものが何であるのかが分からなければ、御霊による歩みはほんの一瞬程度しか続かない。神の霊に属するものと、肉に属するものは決して両立しないからだ。人間が天然の魂に従って生きている間は、御霊による歩みは決して続かない。むろん、契約の箱に触れたウザが死んだように、御霊によって歩むことに失敗したからと言って、信者が罰を受けるようなことはないにせよ、信者の命が著しい損傷を受けることは確かである。そして、その損傷の度合いは、信者が御霊の導きを知らなかったときに犯した誤りとは比べものにもならないほどの深刻かつ広範な影響力を及ぼす。ひとたび、神の聖霊と悪魔と暗闇の軍勢との恐るべき戦いの世界に足を踏み入れたならば、霊の世界に生きることが、通常の天然の域をどれほど著しく超えているか、信者は理解しないわけにいかなくなる。それを学ぶためだけにでも、月日がかかるものと思う。

だが、今は、天的な領域における霊的戦いについて語るのではなく、一人の人間が自分の思いの中でどうやって天然の衝動を拒んで、御霊に従うことを選択して行くかという話に限りたい。御霊によって歩むとは、キリストの完全の中を歩むことであるが、信者は、キリストの霊によって新しく生まれることを理解して、御霊の導きを見極めようとした瞬間から、思いの中で、激しい戦いが始まる。自分自身の中にある旧創造の命と新創造の命との戦いである。

その戦いに打ち勝つためには、信者が「思いを新しくする」ことが不可欠となる。これは私たちが古いアイデンティティに立って生きるのか、それとも、新しいアイデンティティに立って生きるのか、心の中で起きる激しい戦いのことを示している。

悪魔は新生されたクリスチャンの「思い」に対して攻撃を仕かける。その攻撃の最たるものは「ディスカウント」である。悪魔は別名を「中傷する者(ディアボロス)」と呼ばれ、嘘や、ごまかしや、トリックや、あらゆる禁じ手を使って、何とかして人間の価値を貶めようとする。その方法は、人の思いの中で、その人のイメージを汚すことによる。

すでに書いたように、創世記において、悪魔は人類に、神の創造は間違っており、人類は神によって不当に貶められ、制限だらけの劣った存在として造られたかのように嘘を吹き込んだ。

ある意味では、悪魔はその時、自分の手鏡を持って人類の目の前に現れ、その鏡に人類の姿を映し出して見せたのだと言えよう。「ほら、これがあなたの姿ですよ」と、人類の前に、醜く、劣った、傷だらけの、不完全な人類の姿を映し出して見せた。そして、「神はあなたを信用していないから、あなたに対する優位を誇ろうと、わざとあなたを制限の下に置いて、あなたをこんなにも劣って、醜い、弱く、惨めな姿に創造されたのですよ。あなたは自分自身のこんな姿に本当に満足しているんですか。神の決定は不当だと思いませんか。」と問いかけたのである。

悪魔は、このようにして、人類の思いの中で、人類のイメージを汚し、人類が決して神の創造された自分自身の姿に満足できなくなって、その姿を自分で変えなければならいと思い込むように仕向けた。それによって、人類が神に不満を持ち、神を恨むようにそそのかしたのである。人類に神を憎ませ、自分自身を憎ませるためである。

だが、そうして悪魔が映し出して見せた人類のイメージは、悪魔の眼差しという歪んだ鏡に映った映像であったので、人類の真実な姿ではなかった。人間は、神の目に自分がどう映っているかを気にかけるべきであり、悪魔が思い描いた人類の虚偽のイメージに気を取られるべきではなかったのである。

悪魔はこうして人類が創造されたその瞬間から、すでに神と人類とをディスカウントしていたのであって、神を「信用ならない傲慢不遜な存在」とみなした上、人類をも「愚かな神による出来損ないの産物」と見ていた。そして、神と人類との間を引き裂いて、両者の間に不信のくさびを打ち込み、両者を戦わせて相撃ちにさせれば、自分が漁夫の利を得られると考えつつ、人類に近づいたのである。

人類はそのように不当にディスカウントされた像が虚偽であり、悪魔の語りかけは、自分を罠に陥れるための策略であることを理解し、悪魔が提示して来た人類の姿を、自分自身の本当の像として受け入れることを断固、拒否せねばならなかった。しかし、人類がそれを嘘と見抜けず、受け入れてしまった瞬間に、悪魔の嘘はリアリティとなって人類の上に結実し、実際に、アダムの命は限界と弱さの象徴、もっと言えば、死の象徴となってしまった。つまり、堕落が現実に起きる前に、人類は自分は神の御前で何者であるかという認識を、すでに悪魔に奪い取られてしまっていたのである。

ヨブ記では、悪魔はアダムとエバに対して使ったのと似た策略を用いて、義人ヨブをも堕落させようと試みた。悪魔はまずヨブから大事な子供たちを奪い去った上、ヨブにひどい腫れ物をもたらして、彼の外観を別人とみまごうほどに損い、不快な感覚で悩ました。ここでは、悪魔はヨブのイメージをただ彼の心の中だけで傷つけようとしたのではなく、実際に彼の外観を傷つけることで、ヨブが自分は不幸だと嘆いて自己憐憫に沈むよう仕向け、神に対する彼の「思い」を変えようとしたのである。

病は悪魔がヨブにもたらした災いのまだ最初の部分であったが、ヨブの妻は、ヨブがそれほど惨めな姿になっても、まだ神を恨んで死のうとしないのを見て、夫を侮蔑した。自分ならば、そんな試練をもたらされれば、とうに神を呪って死んでいただろう、その方が、これほどの屈辱を甘んじて耐え忍ぶよりも、よほど潔いと思ったのだ。

ここに天然の人間特有のものの考え方がある。ヨブの妻の目には、これほど苦しめられても、まだ神の誠実な御心を疑わずにすがっているヨブは、あまりにも愚直すぎ、侮蔑と嘲りの対象でしかなかった。信仰のない生まれながらの人類は、プライドを傷つけられることや、自分が脅かされることに耐えられない。神を信じることよりも、自分の美的イメージを保つことの方がはるかに重要であり、自分のイメージが傷つけ、人前に恥を晒すくらいならば、死を選ぶという人々も少なくない。災いが起これば、早速、「神の祟り」にかこつけ、神に対して自分を被害者とみなし、自らを哀れむばかりか、神を悪罵して死ぬのも当然の権利と考える。彼らの目には、どこまでも正しいのは、自分であって、神ではないのである。

だが、義人ヨブは、天然の人のものの考え方を拒否し、神に対して被害者意識を持つことを強く拒んだ。彼は自分の美的イメージが根こそぎ傷つけられても、神を恨むことはなく、信仰を捨てることもなかった。ある意味で、ヨブは、古き人の中にありながら、信仰によって、すでに「新しき人」であるキリストを見つめていたのである。本当の自分自身は、現実の目に見える古い自分にはなく、神がヨブのために新しい人を用意しておられ、それを上から着ることができると信じていたのである。

「 ある日、また神の子たちが来て、主の前に立った。サタンもまたその中に来て、主の前に立った。 主はサタンに言われた、「あなたはどこから来たか」。サタンは主に答えて言った、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」。
主はサタンに言われた、「あなたは、わたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか。あなたは、わたしを勧めて、ゆえなく彼を滅ぼそうとしたが、彼はなお堅く保って、おのれを全うした」。

サタンは主に答えて言った、「皮には皮をもってします。人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます。 しかしいま、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。

主はサタンに言われた、「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」。 サタンは主の前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました。
ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった。 時にその妻は彼に言った、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」。

しかしヨブは彼女に言った、「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった
。」(ヨブ記2:1-10)


その後、今度は、友人たちがやって来た。彼らは最初はヨブに同情していたが、ヨブが一向に神を恨まないのを見て、今度はヨブ自身を責め始めた。彼が罪を犯したから当然の罰として災いが降りかかったのではないかというわけだ。その言葉で、友人たちの同情が本物でなかったことが判明した。

ここにも天然の人特有のものの考え方がある。普通の人間は、何かとてつもない災いが、自分以外の誰かに降りかかるのを見ると、必ず「原因探し」をしようとする。まずは神を悪者にした上、人間は弱い者同士として、被害者意識で連帯し、災いに見舞われた人に自分も同じような経験に見舞われる可能性のある人間として同情しようとする。

しかし、彼らは災いの当事者に自分を被害者と考えて神を恨ませることができないと分かれば、今度は災いに舞われた人自身を「タブー」とみなして、その者に原因をなすりつけようとする。彼には何か隠れた問題があって、神に見捨てられたせいでそうなったに違いないと考えて、今度は人間を悪者にして済まそうとする。

結局は、そのどちらの行為も、人間に被害者意識を持たせるために行われていることだ。災いを「神の祟り」とみなして神を恨ませようとすることも、「もし神が原因でないというなら、あなた自身が原因だと認めるんですか」と返答を迫ることも、根本的には同じなのである。どちらを選んでも、しょせん理不尽な答えしか導き出せない、間違った問いの立て方である。実のところ、そこには「サタンが悪い」という選択肢だけが巧妙に抜け落ちているのである。

ヨブは神と人とのどちらの側にも原因を認めなかった。その姿勢の中には神の御思いが反映している。ヨブが見ていたのは、責められるところのない、傷のない、完全な人のイメージである。ヨブは自分の義に固執していたわけではなく、そのずっと先に、キリストを見ていた。神は人間を弱く、劣った、罪深い存在として、理不尽に罰して滅ぼすために創造されたのではない。神はご自分の目にかなう、傷のない被造物として、人間を造られた、そして、人間が罪によって神に離反しても、なお罪から贖うことで、ご自分から離れて行った被造物を取り戻そうとしておられる…、その神の御思いをヨブは一心に見つめてそこから目をそらさなかったのである。

ヨブは自分の姿がどうあるかに関係なく、信仰によって神の御心の中心を掴んでいたのである。むろん、ヨブは最後には神に向かって自分は塵と灰の中で悔い改めますと叫ぶが、それは、ヨブの友人たちが彼を責めたように、自分に非があるために一連の災いがもたらされたと認めるという意味ではない。人間は罪深く、弱く、劣った存在であるがゆえに、神に罰せられても仕方がないと認めるという意味では決してないのだ。

ヨブは義人であったから、責められる理由がなかった。それでも、彼は被造物として創造主の前に頭を下げ、自分の処遇のすべてを神に委ねたのである。それは、彼がたとえどのような目に遭わされ、何が自分に降りかかっても、決して神を加害者とはみなさず、自分を被害者とも思わないという信仰告白の総仕上げであった。むろん、ヨブのこの行為は、罪なくして罰せられた十字架上のイエスの父なる神への従順を予表する。

神の御前で(注意:人の前ではない!)自分の義を捨てるという、神への最後の明け渡しの段階を超えた後で、ヨブには失ったもののすべてが新しくされて取り戻される。それは彼が十字架の死を経て、復活のステージに入ったことを意味する。

今はまだ旧創造が贖われつつある時代なので、聖書では、この復活の領域についてあまり多くのことは明らかになっていない。十字架で死に、よみがえられた後のイエスは、復活の体を持って人々の前に現れられた。その体は、それまでの体とは異なっていた。巨大な墓石をどけてしまったり、大勢の人々の前に一度に現れたりすることのできる、天然の世界を超えたよみがえりの体であった。何よりその体にはすべての古い体を縛っている罪と死の法則が全く働いていなかった。

イエス自身は復活の前も後も変わらない同じ人格を持っておられたが、弟子たちはイエスの姿を見ても、それがイエスであることがすぐに分からないこともあった。イエスは十字架で死なれる前にも、数多くの奇跡を行われたが、死を経てよみがえられた時には、以前とは異なる意味で、この世を完全に超越していた。霊・魂・体のすべてが以前とは異なり、全く新しくされていたのである。

私たちは神を信じる者がいずれイエスが復活された時と同じように、新しい贖われた体でよみがえることを知っている。だが、それがどのように栄光ある体であったとしても、おそらく、それが私たちの中心的な関心事にはなるまい。この恵みの時代が通り過ぎた後も、聖書が一貫して中心に据えているのは、依然として「弱さのゆえに十字架につけられた」キリストのままである。すなわち、人としての弱さ、限界、痛み苦しみのすべてを背負いながら、最後まで神に従順であったキリストの偉大な達成の御業のままであろう。「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられたましたが、神の力によって生きているのです。」(Ⅱコリント13:4)

さて、悪魔は、すべての物事を「加害者と被害者」というフィルターを通して見つめさせようとする。特に、人間に自分は神の被害者だという思いを吹き込むことが、サタンの主要な仕事である。サタンが人を傷つける方法はたくさんある。その中には、ヨブにもたらされたような災いもあれば、その他の試練や、誘惑や、中傷や、裏切りもある。

だが、サタンの人を傷つける方法がどんなものであれ、それらの目的はただ一つ――人間を思いの中でディスカウントすること――人の思いを攻撃して、自尊心を傷つけ、自分自身を恥じさせ、神を憎ませ、自分を憎ませ、人生を苦にして自ら死を選ぶよう仕向けることである。

私たちは、ペンテコステ・カリスマ運動の中から始まったカルト被害者救済活動の中に、この悪魔的な思考の罠を如実に見ることができよう。すなわち、被害者性と加害者性とはまさに一体であり、本質的に同質のものなのである。自分は被害者だと言っている人たちが、ひとたび状況が変われば、自分たちの心の傷やトラウマを、自分よりも弱そうな誰かをターゲットとして残酷に注ぎ込み、新たな被害者を延々と作り出していく。被害者が被害者で終わらず、その心の傷ある限り、彼らはいつでもどんなにでも恐ろしい加害者になりうることを、この運動ははっきりと物語っている。

つまり、自分を被害者だとみなすことは、悪魔のディスカウントを受け入れることと同じなのであり、さらに言えば、悪魔自身と一体化することをさえ意味する。その被害者意識を通して、神への不満と恨みが人間の思いの中に侵入し、それが傷つけられた自尊心を生み、自分を愛せない心を生み、他者を愛せない心を生んで行く。何よりも、自分と同じような境遇から脱して自由になろうとする人々に対する尽きせぬ妬みが生まれる。自分が被害者意識に縛られているのに、他人だけは自由になるなど許せないという妬みである。

だが、キリスト者は、そんな悪しき思いにとりつかれるよりも前に、まずは自分が見ている自分の像が本物なのかどうかを問わなければならない。自分を何者だとみなすかが、人の人生において決定的に重要な意味を帯びているのであって、何が理由であれ、ディスカウントされた像を自ら受け入れることは、その人の人生を決定的に損なう。

正義はれっきとして神にあり、悪人に対する神の裁きは確かに存在する。剣を取る者は剣で滅び、誰かに対する加害行為に及べば、その人は罰せられる。だが、罪人がふさわしい裁きを受けることと、誰かの不当な行為によって傷つけられた人が、値引きされた自分のイメージを自己の像として受け入れるかどうかは別問題である。ここに「思い」の中での戦いがある。

戦いは難しければ難しいほど面白いと当ブログでは以前に書いた。それは、人には立ち向かうことのできない弱さがあればあるほど、そこに信仰によって神の力が現れる余地が存在するからだ。

サタンは、常日頃から、病や、その他の弱さにひしがれて被害者意識に溺れ、ただ同情を乞うためだけに人々の間を巡り歩いているような信者たちは、とりたててターゲットにもしない。そういう人々は、サタンにとって何の脅威にもならないので、いつまでも弱さの中に閉じ込めておく以外にさしたる攻撃も行わない。

だが、真に束縛から抜け出て自由になって、完全な人間性を取り戻そうとする人々を、悪魔は本気で攻撃の対象とする。特に、人間の作った宗教組織の「和」によるディスカウントの束縛の中から抜け出て自由になることを、悪魔は何としても阻止しようとし、キリストの十字架の死と復活に同形化されて、復活の領域を歩むようになったクリスチャンを、死にもの狂いでターゲットとする。

しかし、その攻撃の際に悪魔が用いる方法は、古来から同じである。その人の価値をディスカウントし、中傷を真実であるかのように思わせることによって、神に対する人間の思いを汚そうとするのである。問題は、人々が悪魔の中傷にどの程度影響されるかや、世間が何を真実だと思うかではない。重要なのは、人が自分自身について何を真実だと信じるかである。

ところで、かつて世界的に高名なチェリストのロストロポーヴィチがソビエト体制崩壊後に我が国の記者のインタビューに答えてテレビで語っていた内容を思い出す。そこで記者は、ソビエト体制は芸術家の育成に類を見ないほどの力を入れていたことを指摘し、ロストロポーヴィチに向かって、彼がソビエト体制に生まれ、この体制の中で教育を受けたことは、彼の音楽家としての形成に不可欠な要素となっており、彼にはこの体制から受けた恩恵があるのではないか、ソビエトの教育をどう振り返り、どう評価するか、といった趣旨の質問を向けていた。

チェリストはそれに答えて言った、確かに、ソビエト体制は芸術家の育成に心血を注いでいた、だが、その教育には明らかな限界があった。その限界とは、ちょうど庭の芝刈りと同じで、ひとたび芸術家が体制の望む以上に成長を見せ始めると、その芝はたちまち刈られてしまうのだと。要するに、それは管理された教育であって、ある程度までの成長は許されるが、体制が許した限度を超えて成長することは決して許されないのである。

ロストロポーヴィチ夫妻がソビエト体制から迫害を受け、事実上、国外に追放された明らかな原因の一つは、国外で『収容所群島』を発表するなどしてソビエト体制の暗部を告発したために、体制から抑圧されていた作家ソルジェニーツィンを彼ら夫妻が助けていたことであった。1969年頃からロストロポーヴィチ夫妻はソルジェニーツィンをモスクワ近郊の自分たちの別荘に住まわせて経済的に支援し、作家のためにブレジネフに嘆願書を書いたりもしている。そうした振る舞いが原因となって、すでに音楽家として高い名声を獲得していたロストロポーヴィチはソビエト国内でコンサート活動や録音の機会を奪われて行く。

ロストロポーヴィチ一家は1974年にソビエト文化省から公式の許可を受けて長期の海外滞在に赴いたが、彼らが海外に滞在中の1978年、ソビエト国内では『イズベスチヤ』紙に3月16日付で大々的にロストロポーヴィチの反ソ的活動を非難し、彼らのソビエト市民権が剥奪されたと報道する記事が掲載される。(以下の記事断片は Wikipediaから抜粋)

 

M.L.ロストロポーヴィチとG.P.ヴィシネフスカヤ(*妻)は国外に出発した後、ソビエト連邦に帰国したいとの願いを表明せず、反愛国主義的活動を行い、ソビエト社会の秩序とソビエト市民としての名誉を傷つけた。彼らは反ソ的地下組織や、その他のソビエト連邦に敵対する外国の組織を組織的に支援した。1976-77年には、亡命した白系ロシア人(**ソビエト革命を避けて国外亡命したロシア人)の組織を支援するためにコンサートで募金を募るなどしていた。<略>
ロストロポーヴィチとヴィシネフスカヤが、ソヴィエト連邦の威信を損なう、ソビエト市民としてあるまじき活動を組織的に継続していることに鑑み、ソビエト連邦最高会議は1938年8月19日付のソビエト連邦市民権に関する連邦法第7条に基づき、M.L.ロストロポーヴィチとG.P.ヴィシネフスカヤの市民権を剥奪することを決定した。
1978年3月16日付の『イズベスチヤ』紙(NO.63(18823),p.4

  ソビエト体制も、「和の精神」に基づく「大日本帝国」と同じように、神と人類が同一であるというフィクションに基づくグノーシス主義国であった。グノーシス主義とは、聖書の霊なる見えない神を創造主とせず、物質世界の被造物を神とする教えであるから、本質的に唯物論である。ソビエト体制は、グノーシス主義的唯物論に基づき、人類の欲望をあらゆる制約から取り払って、無限に解放することを人類にとっての幸福社会と考え、欲望が無制限に解放される社会の実現を目的に、革命を起こして旧体制を追放し、グノーシス主義理論に基づく国家を建立したのである。ここでは、ちょうどマルクス主義的唯物論が「グノーシス」の役割を果たしている。グノーシス主義思想の中に見られる終わりなき秩序転覆は、マルクス主義を含めたあらゆる弁証法の起源なのである。

グノーシス主義理論に基づいて成立する国家や社会はいずれも、人類を抑圧から解放して自由と幸福を実現するという名目とは裏腹に、必ず恐るべき抑圧を人間にもたらすことになるのだが、むろん、ソビエト体制もその点で全く例外ではない。

これらのグノーシス主義国という抑圧的な体制は、それ自体が、人間をディスカウントする悪魔の「鏡」にたとえられる。

ロストロポーヴィチは国外滞在中に突然、ソビエト体制から事実上の「破門・追放宣言」を受けて、自分たちはもはや人間として生きるに値しない人々になったという宣告を、祖国の新聞雑誌という「鏡」を通して突きつけられた。彼らには母国に帰国する道はもはや絶たれた。だが、国外に旅立つ前から、国内には居場所がなくなっていたことから、やがてはそうなるであろうことを、夫妻は心の中でうすうす予期していたであろう。ソビエト政権は、彼らがあまりにも有名すぎて、ソルジェニーツィン同様、国内で処罰することができないために、このような形で厄介払いしたのである。

ソビエト政権は、ロストロポーヴィチがこの体制の限界と誤りに気づくまでの間は、彼を育成していたかも知れないが、いざ夫妻がこの国の体制が、根本的に人間性に反していることを悟り、政権の許容範囲を超えて活動し始めると、たちまち迫害に転じた。ロストロポーヴィチは、人間とは箱庭に植えられた芝ではないので、自分に備わった自然な命に従って、他の一般的な芝の高さを超えてでも、どんどん成長していくのが当然と考えたが、労働者と農民の国という形を取ったグノーシス主義国は、人間とは箱庭に植えられた芝であって、許された限度以上には決して成長してはならないとみなしていたのである。

一体、どちらの主張する人間の姿が本当なのだろうか? むろん、答えは明らかであろう。刈られた芝草は、ちょうどグノーシス主義のディスカウントの鏡に映し出された人間の姿を示す。ソビエト社会の秩序だとか、市民としての名誉だとかいったものは、みな「和の精神」というフィクションによって生み出される幻想であり、いわば芝草の背丈を示す、草刈機が作動する口実である。「和」を乱す活動は、すべて「罪」であって許されない活動として、草刈機によって排除される。この排除は、グノーシス主義理論に基づく国家や社会であれば、どこでも同じように起きる。

だが、現実の人間は、鏡に映った歪んだ映像とは異なり、未知数の可能性を秘めており、誰かが勝手に定めた芝草の背丈などにおさまりきらない成長を見せる。人間が箱庭の芝草なのではなく、そもそも人間のために庭があるのだ。その人間をどうして芝草同然に扱うことなどできようか。限界ある普通の人間でさえこうなのだから、まして信仰者はなおさらである。こうした国家は現実に逆らい、現実の人間自身を否定して、虚構の上に成り立っているのである。

人間は、神に比べれば確かに劣った存在であり、多くの限界と制約を受ける弱い存在である。創造主と被造物との関係は、人間がどんなに偉大に成長したとしても覆せないものであり、人間はどんな方法を使っても神と等しくなることは決してない。しかしながら、そのことは、神の側からの被造物への侮蔑や軽視を示す事実では全くなく、むしろ、事実は正反対である。

聖書に話を戻せば、神が人をどれほど重んじておられるかは至る所で分かる。神は人を滅ぼそうと思われる時にも、その計画を決して人に知らせず、突如として実行されることはなかった。ソドムとゴモラの悪を確かめ、これらの町々を滅ぼそうと決められた時にも、神はアブラハムにその旨を告げられた。

「時に主は言われた、「わたしのしようとする事をアブラハムに隠してよいであろうか。 アブラハムは必ず大きな強い国民となって、地のすべての民がみな、彼によって祝福を受けるのではないか。 わたしは彼が後の子らと家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公道とを行わせるために彼を知ったのである。これは主がかつてアブラハムについて言った事を彼の上に臨ませるためである」(創世記18:17-19)

神はイスラエルの民が偶像崇拝に陥り、神に背を向けた時にも、幾人もの預言者を遣わし、民に警告された。また、イエスは弟子たちに言われた、わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」(ヨハネ15:14-15)

これらの事実は、神がどれほど人類を重んじて、ご自分の御思いを打ち明け、その実現を人が手伝うことを望んでおられるかということをはっきりと物語っている。神はこの目に見える世界を正しく統治させるために人間を創造されたのである。創造主と被造物との関係は覆せないとはいえ、決して神はご自分の優位性を誇り、人間を自分よりもはるかに劣った存在として貶め、無知にとどめおくために、不当に人間を弱く創造されて、制限をもうけられたわけではない。

しかし、悪魔は、人間に自分の限界だけに目を向けさせ、これを恥じさせることによって、神の御心を見失わせようとした。悪魔は、神は人間を不当に弱く、醜く、劣った存在にとどめおいているのであり、神には人間を信頼するつもりがなく、人間を侮蔑しているからこそ、そうしだのだと人に思わせようとした。人間がそれを真に受ければ、人の内側で神への信頼が失われ、両者の絆が断ち切れることを悪魔は知っていたのである。

それを信じたことは、人間の側のたとえようのない愚かさであったが、それでも、神は人間の犯した罪を人間自身に負わせることを是としなかったがゆえに、キリストを地上に送って贖いの十字架を負わされた。それによって、人類にはキリストによって新しく生まれ、旧創造としての限界を打ち破る可能性が開かれた。悪魔の嘘によって汚されたり、ディスカウントされていない、全く新しい聖なる天と地へ至る道が開けたのである。神はこうして人類を新しい世界へ脱出させることにより、悪魔の嘘によって汚された世界から人類を守り、その本来的な使命を全うさせようと考えられたのである。

キリストの贖いの犠牲によって、悪魔の言い分がどれほど卑劣な嘘であったかが、完膚なきまでに証明された。

にも関わらず、悪魔は今日になってもまだ同じ嘘をつき続けている。悪魔はまずは人間をディスカウントして精神的に抹殺を試み、それでも効き目がない場合には、カインがアベルを殺したように、肉体的抹殺という手段に及ぶ。悪魔の願望が、ただ人間をディスカウントすることにはなく、最終的には殺人にあることは、ここで改めて説明する必要もなかろう。

ただし、ディスカウントはそれ自体が精神的殺人であると言える。もしも人が悪魔の吹き込む思いを心の中で受けれれば、必ず、その人は死ぬことになる。殺されずとも、死がその人間の思いの中で働き、その人自身を内側から壊し、いずれ死に赴かせるであろう。

それだからこそ、カルト被害者救済活動は、自殺を罪とみなしていないのである。このことは、彼らが初めから、最終的には、自分たちの陣営に閉じ込めたすべての「被害者」たちを、あからさまに死に至らしめようと積極的に望んでいることをはっきりと物語っている。被害者救済活動という羊頭狗肉の看板は、結局、彼らが被害者として名乗り出て来たすべての人間を永遠に被害者のままにとどめ、ディスカウントの中に隔離して閉じ込めた結果、功を奏することのないむなしい自己改良に延々と取り組ませた結果、絶望して死に至らしめることを目的としていることを物語っている。

神が人類を不当な制約の下に置いたのではなく、悪魔こそ、人類を不当な制約の中に隔離してディスカウントした挙句、死へ追い込むことを願っていた張本人なのである。

だが、大きく見れば、ペンテコステ・カリスマ運動であろうと、キリスト教界であろうと、もしくは以上に挙げた「和の精神」に基づくすべての組織や国家や企業であろうと、あるいはソビエト体制のようなグノーシス主義国であろうと、その悪魔的性質はほとんど変わらない。宗教組織は、人生で様々な悩みや、弱さや苦しみを抱え、人の同情を求めてやって来た人々を、組織の中に束縛し、いつかはその弱さから脱出できるというあらぬ望みと引き換えに、ひたすら献金や奉仕を吸い上げる道具として扱い、彼らが搾取から抜け出せないよう、永久に弱みがなくならないよう、弱さの中に閉じ込める。その構造は、いつかは共産主義ユートピアがやって来るという嘘と引き換えに、国民に赤貧の苦労を耐え忍ばせたソビエト体制と何ら変わらない。

人がその体制の虚偽性に気づいていないうちは、そのような組織の枠組みの中でも、人にはまだ平穏に生きられる道があるかも知れないが、ひとたび、人がその社会が、偽りの希望によって成り立っている死に至るまでの絶望的な隔離病棟も同然であって、その中にいる限り、決して自由は得られず、弱さの克服もなく、絶望と、死が待っているだけであることに気づくと、その瞬間から、「鏡」による残酷な迫害が始まる。激しいネガティブ・キャンペーンが繰り広げられ、中傷によっても抹殺できない人々については、肉体的な迫害も繰り広げられる。

カルト被害者救済活動についても同じである。一体、これまでどれだけの人々が、この活動によって精神的にまた肉体的に追い込まれて殺されて来たことであろう。その人数ははかり知れないことであろう。

現在は皇帝ネロが繰り広げたようなクリスチャンの大規模な抹殺がまかり通るような時代ではないが、戦いは巧妙化しており、今もこれからの時代も、一人一人のクリスチャンに、極めて個人的に厳しい戦いを強いることで、悪魔はクリスチャンへの迫害を強化するであろう。

そこで、私たちば常に選択を迫られている。ちょうど我が国で「和の精神」などというものが公に説かれていた時代に、多くの宗教家や思想家が、天皇の前に跪くのか、それとも自分の信仰を貫くのかを問われ、身に危険が及ぶことを恐れて転向するのか、それとも、「非国民」とみなされて迫害の上、獄死する覚悟を固めても信念を貫くのか選択を迫られたように、今日も様々な形でキリスト者は「踏み絵」を迫られているのである。

私たちは、一人一人、いずれ神の御前に出て申し開きをせねばならない。その時に、どれくらい悪魔の策略に対して勝利をおさめ、神の御心を実行して生きたか、成果を問われることであろう。悪魔の「鏡」が突きつける嘘を信じて、自分はディスカウントされていると思い込み、それゆえ、神を恨んで被害者意識の中を生きたのか、それとも、神が人間に与えようと思っておられる自由を固く信じてこれを手放さないで生きたのか――。必ずその信仰を御前で評価される時が来るゆえ、私たちは固く立って、二度と人の奴隷にされないように気をつけなければならない。

勝利を勝ち取るために有益な方法として提示できることの一つが、悪魔の嘘の理論としてのグノーシス主義の基本構造を明らかにすることである。悪魔はオレオレ詐欺のように、人類の不意を狙って、様々な方法で人間に語りかけては、ディスカウントされた像を突きつけて来るであろうが、そのすべての目的は、人間に神に対する被害者意識を持たせるという一点に集約される。

だから、その鏡が嘘であることを見抜いてこれを拒否せねばならないのである。そのために悪魔の嘘である偽りの理論の基本構造を明らかにすることは有益である。

それ同時に、心のすべてを傾けて、神を知ろうとすることであろう。本物を知らずして、偽物を暴くことは難しい。もし信者が一度でもキリストと霊的に一つとなって信仰の中を歩むことについて、生きて実際に知ることがなければ、人は御霊によって心が新しくされるとは何か、キリストの復活の命とは何か、その意味が全く分からず、悪魔によって心が汚されるとはどういう意味なのかも分からないままだろう。

旧創造の傷ついて病んだ状態、罪に縛られ、不完全な自分しか知らない人間が、それ以外のあり方が存在すると、想像することさえできないのは当然だ。だから、キリストの復活の命の中に、人としてのすべての完全さが備わっていることを、私たちは生きて実際に信仰によって知らなければならない。そのために、まずは神がキリストのうちにすべての備えをして下さっていることを信じなければならない。人としての完全さだけではない。物質的な完全さもそこには備わっている。

筆者ははっきりと言っておきたい。ノアが箱舟を建設していた時、ノアの家族以外の人々は、どういう態度を取ってこれを見ていたことであろか。エレミヤが神の宣告を受け、民に罪を告げて悔い改めるよう迫ったとき、民はどういう態度を取ったであろうか。

今日、御霊に従って生きるクリスチャンを、悪魔の手下どもがあらん限りの力を込めて中傷・迫害している風景など、今に始まったことではない。それは旧約聖書時代から果てしなく繰り返されて来た光景であり、我々の主であるイエス自身が、誰よりも経験されたことである。僕は主人にまさるものではなく、主人がこの世でどういう扱いを受けたかを考えれば、何もかも全く不思議ではない。

だが、神はそれらすべてに対して勝利して余りある備えを、私たち一人一人のために天に準備して下さっている。だから、この先起きることをよく見ておいてもらいたい。神はご自分を信じ、従う者を、決して失望で終わらせることのない方である。

そこで、筆者は悪魔がまき散らす嘘と、神がキリストにあって約束して下さっている事柄のどちらが真実であるかは、キリスト者自身が、公然と世に証明する責務を負っており、またその証明が可能であることを確信してやまない。そのために、あえて「鏡」をそのままにしておくことにも意味があるものと思う。(むろん、中傷する者は、罰を受けることになり、かつ、その中傷が述べた者自身に跳ね返ることは言うまでもないが。)

悪魔は有史以来、ずっと人類を中傷し続けている。だが、それにも関わらず、キリスト者は主の復活の証人であるから、すべての試練と苦難の中で、神がどんなにご自分の一人一人の子供たちを愛され、重んじ、はかりしれない栄光に満ちた約束を与えて下さっているか、どれほどご自分の子供たちを気にかけて、助けの手を差し伸べ、期待をかけて下さっているか、その愛と、御助けの大きさを証明し、主が十字架上ですでに世に打ち勝たれた勝利を、自分自身のものとして地に引き下ろし、主と共に栄光にあずかる権限と責務を与えられているのである。

T. オースチン・スパークス 「「御霊による生活」 第二章 内なるキリスト (1)

人の子の完成

 主イエスは数々の苦難により、人の子として完成されました。彼は完全であり、罪がありませんでしたが、それでも「彼は数々の苦難によって完成された」と私たちは告げられています。彼の場合、罪の問題はなく、この問題は人の子の完成とは無関係です。人の子の完成は次の事実と関係しています。すなわち、彼には罪がなく、彼は自発的に御自身をささげて、神に頼る生活を送られた、という事実です。彼は決して自分に頼らず、自分自身の人間的願望を行わず、自分自身の人間的判断にしたがって生きず、自分自身の人間的欲望や感覚に従いませんでした。生活・行動・言葉といったいかなる事柄においてもそうであり、彼は御父から離れようとはしませんでした。この基礎に基づいて彼は、あらゆる種類の試みや試練――それは誰もが受ける可能性のあるものです――を受ける束の間の時のあいだ、服従されました。

誘惑や試練に関して彼が何を耐え忍ばれたのか、どちらかというと私たちは何も知りません。彼の生涯の記録は幾つかの試練・誘惑・苦難を見せていますが、それでも、あなたも私も彼の苦しみの深さや厳しさは決して分かりません。レビ記の最初の六つの章の数々の供え物は真にキリストの型ですが、実際上、どの供え物も何らかの形で火にさらされます。こういうわけで、全焼の供え物である彼の十字架においてだけでなく、同じように穀物の供え物という意味においても、彼の純粋で、聖なる、罪のない人間生活は火によって試されたのです。これらの火によって、生きるときも死ぬときも、彼は試されました。御父への信頼、御父への従順、御父から離れて少しでも行動することを拒否すること、御父の時や御旨から出ているものは何でも受け入れること、という基礎について試されたのです。


 ゲッセマネの園と十字架における最後の恐るべき試練は、彼を打ちのめす――もし彼が打ちのめされえればの話ですが――のに十分なものでした。そしてこのような方法で彼は完成されました――完全だったのですが、完成されたのです。

 この人性、この命を彼は生きました。それは完全に神を満足させ、完全に地獄のすべての力と試みを打ち破りました。この人性とこの命は栄光へ、神の右手に上げられました。その神の右手で彼は完成された人として示されています。この人は罪がないだけでなく、試練を通して完全な度量・完全な能力にまで成長しました。これに関して、御霊は聖書を通して私たちに、「あなたたちは新生により、また信仰を通して御霊を持っていることにより、今やまさにこの命に与る者たちなのです」と告げておられます。

この人性は物質的なものにすぎない、と考えないようにしましょう。それは完全な人、完全な性質に属するものであり、完全に神を満足させました。そして聖霊によって私たちに与えられ、私たちの命の最も真実で、最も内奥にある現実となっています。それは私たちに与えられたキリストであり、私たちがそのパンを取る時、私たちは次の事実を証ししているのです。すなわち、今や私たちの天然的存在という基礎ではなく、栄光の中におられるイエス御自身という基礎に基づいて、私たちは自分の生活を営んでいるのであり、自分の生活を選択しているのである、という事実です。次に、今度は私たちが試みられ、試されます。それは、キリスト、神の完全な人という基礎に基づいて生きるのか、それとも、その立場を捨てて自分自身の立場に戻り、何らかの方法で自己の立場に基づいて生きるのか、ということに関してです。

これが、「私はキリストと共に十字架に付けられました……」というパウロの偉大な言葉の最も内奥にある真理です。これが意味するのは、「私」が象徴するものはみな取り除かれ、もはや私ではなくキリストである、ということです。

2018年4月23日 (月)

神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画/"MISHIMA"から(終)

・東洋思想の無常観と美の密接な関係 ~命をディスカウントして成立する東洋的な美の概念~

さて、かなり駆け足で重要なテーマを見て来た。前回までに記した三島由紀夫に関する一連の分析記事は、これまで書いた記事の中でも、苦労の多い分析であった。

当ブログでは何年も前から、東洋思想が本質的にグノーシス主義と同一であることや、いろは歌や般若心経に流れる無常観がグノーシス主義と同じであることを、記事で指摘しようと試みて来た。それがなかなか形にならなかったのは、グノーシス主義の分析にはかなりの厄介さが伴うせいでもある。

この種の思想は、通常の文章とは異なり、シンボルで出来上がっているため、一つのシンボルの中に幾通りもの解釈が込められ、言葉の後ろにある方程式を読み解かねばならない。その上、詭弁とダブルスピークによって成り立っているこの思想を丹念に解体して聖書と対比しながらその詐術を論理的に証明して行くのはかなり厄介で骨の折れる作業である。

そして、そのテーマに関心を払う人も、その作業を遂行できる人も、地上にそう数多くいるとは思えないが、だからこそ、それははかりしれない重要性を帯びた仕事である。この仕事に取り組もうとすると、各方面から激しい妨害が起きて来ること自体、どんなにこのテーマが喫緊の課題であるかをよくよく物語っていると言えよう。

記事は形にまとめることを最優先したため、文章の推敲、修正が必要な箇所は多く、さらなる考察が必要であることは否定しない。だが、そこで触れている一つ一つの事項は、それだけで独立した論文のテーマに値するようなものだ。特に、グノーシス主義における美の概念などについては、それ自体が長大な紙面を割いた考察に値する。だが、今は長大な分析をしている余裕はないため、今回は最後の補足として手短に結論だけを述べたい。

東洋思想は、すべての命がディスカウントされ、死によって脅かされているという危機感の上に成立している。東洋的な美の観念や、「もののあはれ」といった概念も、すべては滅びゆく被造物の無常観によって呼び起こされる情感であり、それは突き詰めて行くと、有限なる被造物の無念(被害者意識)に通じる。

東洋的な「美」の概念は、あらゆる命が死によって脅かされる儚いものであることを前提として生まれる。その意味で、東洋的な美の概念は、死や滅びと密接に結びついており、死と無縁の、死によって脅かされることのない完全な美というものは、この思想の世界観の中には存在しない。仮にそのようなものが出現すると、たちまち、三島の金閣寺のようなことになって、その完全性が憎むべきものとされて排除されるのである。

鈴木大拙は、東洋思想の根底には「母を守る」ことがあると述べたが、そこで言われている「母」とは、脅かされている人類を指す。東洋思想とは、言い換えれば「人類が脅かされている」という被害者意識、また、人類が脅かされねばならないほどか弱い存在であることへの無念を出発点に発生している思想なのである。

だが、この思想では、一体、何によって人類は脅かされているのか? なぜ「母を守る」必要があるのか? 直接的には、「母」を脅かしているのは、死の脅威であるが、さらに突き詰めれば、「聖書の父なる神の脅威によって脅かされている「母=人類」を守らなければならない」というのが、この思想の至上命題ということになろう。

グノーシス主義は、ディスカウントの教えであると言っても良い。ここでのディスカウントとは「本来の価値を値引くこと、尊厳を辱めて貶めること」といった意味である。

グノーシス主義の起源が、聖書の創世記に登場する蛇の教えにあることは幾度も指摘した。創世記で、蛇の形を取った悪魔が、人類に向かって、「神が人類を神よりも劣った存在として創造したことは、神の側から人類に対する不当なディスカウントだった」と嘘を吹き込んだのである。

悪魔のその嘘を信じてしまった瞬間に、人類の価値は値引きされ、その尊厳が傷つけられ、被害者意識が入り込んだ。それまでは神は人類の創造主であり、庇護者であり、まことの主人であったが、悪魔の嘘を信じた瞬間に、神は人類の抑圧者ということになってしまったのである。

ここに、東洋思想の「母を守る」という発想の起源があると言える。その後、人類が悪魔の勧めに従って神の掟を破って堕落したことにより、人類は実際に死という現実的な脅威に脅かされるこようになったのだが、堕落以前から、本当の意味での「ディスカウント」は、人類が悪魔の嘘を真に受けて、神を抑圧者であると考えるようになった瞬間に始まっていた。

悪魔は人類に向かって、人類は創造の初めから、神のもうけた不当な制約のために、いたずらに貶められた存在であり、それに気づいて神のもうけた不当な制約の抑圧の下から抜け出すことなしに自由になれないという偽りの知恵を吹き込んだのである。

いわば、グノーシス主義は、人類が神の形に似せて、神より劣ったものとして創造されたこと自体が、人類にとっての不幸の源であり、人類の誕生そのものが悲劇だと言っているに等しい。実際には、神は人間を創造して、これを見て「甚だ良い」と言われたのであって、その誕生は祝福であったのに、これを抑圧された悲劇に変えてしまったのである。

そのような思想的大転換が起きた後で、人類の思いの中で生じたディスカウントは現実となり、人類は堕落により神から遠く切り離され、創造当初の輝きを完全に失って、神に遠く及ばない存在になり、神のようになるどころか、人間性さえも喪失した。だが、実際に堕落が起きる前に、人類がすでに思いの中で悪魔のディスカウントを受け入れてしまったことに注意しなければならない。

こうして、グノーシス主義においては、まず人類の創造自体が神によるディスカウントであったと事実を塗り替えるところから始まり、その後、すべてのものが「死や滅びによって脅かされている」という危機感や被害者意識を終わりなく生み出していく。

無常観とは、「ディスカウントされている」という被害者意識、無念を基礎として生まれるのであり、そこでは、美意識も含め、すべての価値が、傷つけられ、不完全で、死の響きを帯びている。だが、「すべては有限であり、本質的には無であるが、滅びゆくものだからこそ美しい(=愛(かな)しい)」といった哀惜の情が生まれ、それが美的概念として受け止められるのである。

東洋的世界観では、儚く脆い実体のないものの有限性に対する同情や被害者意識が、美意識や愛情を生んで行く。死に脅かされている被造物同士だからこそ、同情や共感を持ち合い、互いに寄り添いましょうという被害者意識による連帯が、あたかも愛であるかのように錯覚されるのである。

だが、実際には、そこには、真の同情も愛情も存在しない。人間同士が愛情によって結びついたり、同情によって連帯していると見えるのは、ある種の錯覚に近く、この世の滅びゆく存在である限り、人間は自らの欠乏を満たすために他者を利用することをやめられないため、自分の必要を離れて純粋に他者と関わることができないのである。人は最も純粋な愛情が自分にあると思っている時でさえ、その関わりの中には必ず、他者の存在によって自己を満たそう(自分を喜ばそう)とする欲望が含まれている。

人は他者を見ることによって、また、手で触れたり、声を聞いたり、会話したりすることで感覚的な満足を得て、自分が満たされたいと願い、そうした欠乏と関係なく、自分の欲望を一切交えずに、他者と関わりを持つことができない。さらにもっと低い次元では、人は食べたり飲んだりして、外界から物質的な栄養を絶えず摂取しなければ、自分の命を保てない。

このように、人は己が欲望によって外界と関わり、外界から必要を満たされることによらなければ、決して自己存在を保つことができず、満たされても、満たされても、再び飢え渇くだけで、決して飽くことがない存在であるがゆえに、物質的世界の奴隷であり、自己の欲望の奴隷なのである。

本当は、人はキリストと共なる十字架の死と復活を経て、アダムの命に対して死ぬことによって、このようなしがらみに対して死ぬ道が備わっているのだが、神が不在で、被造物だけしか存在しないグノーシス主義には、十字架も、救いもなく、どこまで行っても、その思想の中で、滅びゆく被造物に、物質世界の有限性から脱する道はない。それゆえ、そのような世界観では、人間は自己存在に対して尽きせぬ悲哀を感じないわけに行かないのである。

さらに、グノーシス主義はその悲哀も、間違った方法で克服しようと試みて、さらなる悲劇に陥る。すなわち、人は神より劣った存在として創造されたという「コンプレックス」を自力で解消しようと、アダムの命のままで、自力で自己を高めて「神のように」なろうとし、神に反逆して自分を滅ぼすのである。

本当は、そうなる前に、人が神よりも劣った存在として造られたことが人間の悲劇だという考え方を捨てるべきであり、神の創造を不当なものとみなして、自分の「かたち」を憎み、自分が置かれているすべての状況を神のせいだと考えて創造主と他者だけを責め続ける不毛な堂々巡りから抜け出なければならない。神が人類をディスカウントしているのではなく、人類が自分自身をディスカウントしていることにこそ、真の問題があるのだ。

だが、グノーシス主義者は、どうしても自分を「可哀想」だと考えることをやめられない。彼らは人類を「哀れむべき存在」とみなすことが、人類へのディスカウントであることにさえ気づかず、同情や自己憐憫を美しいものだと考えており、そのことがこの人々が絶えず自己存在をディスカウントされ続ける最大の原因となっているのである。

神の創造そのものに意義を唱えている彼らは、弱い自己を哀れみ、あらゆるものをその被害者意識に染め上げながら観察し、被害者意識と無関係のものを見つければ、早速、それを傷つけることで自分と同じように不完全なものにしようとし、さらに何とかして自分を「神のように」見せかけることで、己の無念を自力で解消しようとする。彼らがしようとしているのは、自分が創造された形そのものに対して意義を唱えること、それを何とかして自分の力で変えることによって神に達することである。

あなたがたは転倒して考えている。陶器師は粘土と同じものに思われるだろうか。造られた物はそれを造った者について、「彼はわたしを造らなかった」と言い、形造られた物は形造った者について、「彼は知恵がない」と言うことができようか。 」(イザヤ29:16)

グノーシス主義化された疑似キリスト教であるペンテコステ・カリスマ運動にも、同様のことが当てはまる。一方では、この運動は、偽物の「聖霊のバプテスマ」を造り出し、その霊を受けることによって、人が霊的に高められ、神のような偉大な存在となれるかのように教える。ところが、もう一方では、この運動の中から、カルト被害者救済活動のような、嫉妬と怨念に基づく破壊的な運動が生まれて来る。

実は、そのどちらもが根底には被害者意識を抱えているのである。カルト被害者救済運動は、表向きはカルト化教会の牧師に立ち向かうとしているが、その本当の敵は、聖書の神であり、正常なクリスチャンであり、神を毀損し、クリスチャンをディスカウントすることに真の目的がある。教会生活の中で心傷つけられて、正常な信仰を見失い、被害者意識を抱える元信者たちが、神に従って生きている正常なクリスチャンを妬み、これを中傷して傷つけることで、自分たちと同じレベルへ引きずり降ろそうとしているのである。

このように、ペンテコステ・カリスマ運動と、そこから生まれて来たカルト被害者救済活動は、見かけは全く異なるように見えても、本質的には同一の運動である。そして、以下に記す通り、そこにはバベルの塔の精神が脈々と流れている。それは自己を神のように高めようとするナルシシズムと、嫉妬と怨念に狂って神とクリスチャンから聖なる性質を奪い取ろうとする二つの側面から成る本質的に同一の運動であり、その運動の根底にあるものはどちらも神に対する嫉妬と怨念と被害者意識に基づく神の簒奪なのである。

こうした運動に関わる人々の心の根底に流れるものは、東洋的無常観と同じく「人間が可哀想だ」という自己憐憫と被害者意識の叫びである。なぜ人間が可哀想なのか? その理由を突き詰めれば、結局、神がそもそも人間を自分よりも劣った有限なる存在として創造されたことが間違っていたという結論になる。いずれにしても、聖書の神が悪いのであって自分たちは悪くないという話になる。彼らは自分たちの罪や弱さをそのままで、何らそれを悔い改めることも反省することもないままに、彼らの存在を哀れみ、被害者意識を慰め、優しく包んでくれそうな東洋的な「慈悲」や「慈愛」や「同情」や「もののあはれ」などの感情に、見境もなく飛びつく。そして、真綿の中でがんじがらめにされて身動き取れなくなるように、同情に見せかけた歪んだ支配の中でますます弱くされて自己を失って行くのである。

だが、実際には、そうした偽りの「同情」や「慈悲」といった感情の根底にこそ、人間存在を残酷にディスカウントし、弱さの中に閉じ込める悪魔的な思いが隠されていることに気づかなければいけない。偽りの美辞麗句を弄して人を弱さに閉じ込め、立ち上がれなくさせてしまうこの思想の世界観の異常さに気づき、これを拒否せねばならないのである。

同情という感情は、人が自分以外の誰かの弱さや苦しみに直面して初めて生まれる感情であり、逆に言えば、他者が傷つけられるのを見なければ、生まれることもない感情であるため、そこには言外に、苦しんでいるのが自分ではなく他人で良かったという安堵が含まれている。

聖書の神は、人の弱さに同情することのできない神ではないが、神の同情は、単なる言葉や感情にとどまらず、人の抱えるすべての問題に対して、その痛み苦しみを共に担い、分かち合いながら、なおかつ、現実的な解決策を与えてくれる。キリストは、まずはご自分が人の形を取って地上に来られ、人間のすべての痛み苦しみを味わわれ、弱さを体験され、人類のための刑罰を身に背負われた。その過程を経ていればこそ、キリストは人間の苦しみに心から同情する根拠を持っておられるのであり、しかも、死を打ち破られた復活の命によって、悲しむ人には慰めを、病める人には癒しを、罪には贖いとしての十字架を、死には復活を提供することがおできになる。

何よりも、死からよみがえられたキリストの復活の命は、人間を自分自身とこの世の欠乏の奴隷状態から解放する力を持っている。神の同情はただの言葉や感情だけの内実のない同情ではないのである。

だが、それに引き換え、人間が人間に与える同情は、何も生み出さず、何の救済も与えないばかりか、人間を悪質にディスカウントする。人はただ他者の苦しみを前に、自分も同じように脅かされている人間として、他者の苦しみに自分の苦しみを重ねながら、自分の被害者意識のために憐憫の涙を流すことができるだけである。苦しむ他者にどんなに寄り添い、救済を与えたいと願っても、人間が与えられるものは、せいぜい口先だけの言葉や、束の間の寄り添いや、すぐに尽きる物質的支援くらいで、それは一瞬の慰めの後で、さらに相手を卑しめ、ディスカウントし、依存関係を生み出すことはあっても、解放には結びつかない。

同情する者とされる者とは、共に抱き合い、涙を流すことによって、一時的に一つになったかのような共感を抱くかも知れないが、そこにはれっきとして、同情を施す側と、施される側の立場の差があり、優劣がある。その共感からは何も生まれず、さらに悪いことに、そこでは、同情する者が、同情される者を利用して優位性を誇り、栄光を受けることが常態化し、支配関係が生まれることさえある。

そうなると、同情を受ける人は、弱さを抱えた時点ですでに命をディスカウントされている上に、他者から同情を受けることによって、自己の尊厳をより一層ひどく傷つけられ、ディスカウントされて行くことになる。それにも気づかず、うわべだけの感情がもたらす満足により、自分の立場が何一つ変わっていないのに、あたかも救いの手を差し伸べられたかのように錯覚しながら、まるで麻薬を求めるように、すぐに消えてえしまう仮初の感情的な満たしを求めて、泥沼に足を取られるようにして果てしないディスカウントの中に落ち込んで行くのである。

そうした偽りの同情が、偽りの救済論として体系化されると、「救う者」と「救われる者」との間の差別的支配関係が固定化される。「救われる者(弱者)」は「救う者」の満足の手段として、永久に弱さの中に閉じ込められたまま、徹底的に利用されることになる。人間同士が互いの弱さに寄り添い、同情しているつもりが、ますます互いをディスカウントしながら、弱く、卑しく、惨めな境遇に閉じ込め合うことになるのである。カルト被害者救済活動のようなものには、まさに偽りの同情がもたらす悪しき支配関係が最も典型的な形で表れていると言えよう。

このように、被害者意識による負の「絆」で結ばれることによって、人類が互いを守り合うことは決してできない。それは助け合いでもなく、解放でもないため、その絆はかえって人をますます罪や弱さの中に閉じ込めるだけで、何の自由を与えないのである。

だが、東洋思想の中には、「死によって脅かされない命」が存在しないため、被害者意識によらない連帯という発想が全く生まれる余地がない。そのようなディスカウントとは無縁の、自由に基づく関係が生まれるためには、まずは人間が罪の奴隷、欠乏の奴隷状態から解放されていなければならないが、そのような人間自体がこの世界観の中には存在しないからである。

聖書においては、この物質世界の外におられる霊なる永遠の存在である神が、人類の救済のために、その独り子を地上に送られたことにより、今や御子を信じる者たちが、神の子供たちとされて、「人となられたイエス」の死と復活に同形化され、有限なる被造物でありながら、同時に、永遠の命を持つことができる。

しかし、東洋思想には、神と人との仲保者なるイエス・キリストが存在しないため、この思想の中には、永遠という概念自体がない。霊的世界と物質世界との接点もなく、完全という概念もなく、この思想は、最初から最後まで、物質世界の外に一歩も出ることがないので、永遠という概念が生じようがないのである。(物質界にあるものはすべて一時的だからである。)

東洋思想における生成と消滅の背後にある無限の循環という概念は、永遠の偽物である。なぜなら、真に永遠を考えるためには、まずはこの世の時空間という概念の外に出なければならないが、この「輪」は、無窮とも言える果てしない時間軸の上に成立する歴史的概念であって、決して物質世界の外にある時間と無関係の概念ではないからである。

そこで、結局のところ、東洋思想には、永遠の偽物があるだけで、永遠が存在しない以上、完全もないのである。無限の循環は、この世の諸現象によって作り出される偽りの概念でしかない。

このように、東洋思想は、一方では永遠に憧れ、被造物の有限性という制約を覆すことを目指しながらも、他方では、滅びゆく物質的世界を一歩たりとも外に出ることができず、死によって脅かされることのない、ディスカウントとは無縁の、完全性に到達する道をどこにも見いだせないのである。

そうなるのは、もともとこの思想が、被造物を神とする「神不在」の思想であって、被造物としての物質世界だけで成り立っているからである。創造主に属する霊の秩序ではなく、被造物に属する物質世界が真のリアリティとされる転倒した唯物論的思想なので、このような思想の中では、「わたしはある」という確固たるリアリティである聖書の神や、神の完全という概念が受容されない。そればかりか、このような世界観には何一つ絶対的な価値が存在せず、欠けるところのない完全性、ディスカウントされない命というものが存在し得ないのである。

グノーシス主義には「永遠の女性美」といった概念が存在しているように見えるかも知れないが、それさえも究極的には「脅かされている母」であり、永遠ではなく、死や滅びと無縁の存在でもない。

このように、すべてが死を帯びて、不完全であり、有限なる滅びゆく世界に、いざ永遠に絶対的な価値が出現すると、どうなるだろうか、大変な問題が持ち上がる――なぜなら、両者は完全に異質だからである。

三島作品における金閣寺への放火には、神殿破壊、すなわち、エクレシア殺しという隠れた意味が込められていることを説明した。むろん、三島はそのような隠れたプロットを想定していなかったであろうが、真の意味での「永遠の女性美」とは、神の復活の命によって生かされるエクレシアにしか存在せず、それゆえ、宮を破壊するという行為は、ただ単に人が神の神殿である自分自身を破壊することばかりか、それに加えて、永遠に揺るがされることのない完成した女性美であるキリストの花嫁たる教会を破壊するという隠れた意味合いを持つ。それは人が自分の完全な救いであるキリストを退け、自分自身が神の花嫁となる可能性を根こそぎ否定することを意味する。

ここに、二つの全く異なる存在がある。一方には、東洋思想の死によって脅かされる脆く弱い「母」(エバ、人類)があり、もう一方に、キリストの復活の命によって生かされる神の教会たるエクレシア(キリストの花嫁、新しい人)がある。

三島作品における金閣寺への放火は、東洋的世界観の中には、永遠に揺るがされることのない美、もしくは、キリストにあって完全とされた新しい人という概念が決して存在し得ないこと、つまり、被造物の贖いや、完成というものが決してないことをよく表している。この思想の中では、死を帯びていない何物にも脅かされることのない傷のない完全なものは、決して存在してはならないのである。

『金閣寺』の主人公は、コンプレックスや惨めさや無念を心に抱え、まさに滅びゆく被造物としての不完全性の象徴のようである。そして彼は、東洋思想の原則にのっとって、完成された女性美を、この世界や自分とは全く無縁・異質なものとして憎み、これをディスカウントし、毀損して、自分のレベルまで引きずりおろすことにより、抹殺しようと試みる。

その行為には、すでに述べたように、無意識のうちにも、エクレシアに対する悪魔の憎しみ、死を打ち破ったキリストの復活の命に対する悪魔の憎しみが込められている。このプロットから読み取れるのは、いかに悪魔が、被造物の贖いが完成して、被造物が完全な美を取り戻すことを心から憎んでいるかということである。

悪魔は被造物を永遠にディスカウントしておきたいのである。間違っても、被造物が被害者意識を帯びた「もののあはれ」や無常観とは関係のない、傷つけられたり、脅かされることのない完全な美を取り戻すことを望まないのである。

キリストの復活の命は、死を打ち破る力を持っているが、悪魔は人を攻撃し、ディスカウントしては、信仰を弱め、人が傷ついて、弱く、脆い存在になるよう引きずりおろそうとする。その悪影響は、しばしば、贖われたキリスト者にさえ到達する。

使徒パウロはコリント人への手紙で言う、「あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。」(Ⅰコリント11:30)これはキリストの復活の命によって生かされる信者であっても、不信仰ゆえに、滅びゆく世界の不完全性に逆戻りさせられ、弱さのゆえに死んだ者が数多くいることを示す。

弱さ、傷、病、死などは、決して聖書によれば、美化されるべき概念ではなく、キリストの命の本質とは無縁である。有限なる被造物の、死によって脅かされる脆く儚い、過ぎ行く有様に「もののあわれ」を見いだすような情緒は、聖書とは一切無縁である。それは悪魔のディスカウントした世界を抵抗もせずに受容し、すべてが不完全で弱く傷ついている転倒した有様に喜びを見いだすことであるから、まさに倒錯した嗜好と言って良い。

悪魔は完全なもの、傷のないもの、死によって脅かされないものを憎み、人間を偽りの「慈愛」や「慈悲」や「同情」などの美的概念で騙しつつ、何とかしてキリストの復活の命に達しないよう、滅びゆくアダムの有限な命の世界から逃がすまいとしている。

東洋思想の世界観は、悪魔が人類を騙し、ディスカウントしておくための格好のツールであり、相手が信者であっても、悪魔は信者が被害者意識に陥れて自らの弱さを甘んじて受け入れ、抵抗をやめるか、アダムの命を改良して、自ら神に至ろうとのむなしい努力をするかのどちらかに誘導しようとする。間違っても、アダムの命に対する霊的な十字架の死が適用されて、復活の命が現れることがないよう、細心の注意を払い、もしそれが現れたなら、早速、あらゆる攻撃を加え、ディスカウントし、引きずりおろそうと準備しているのである。


・「和の精神」とはバベルの塔建設における人類の一致の悲願を指す

さて、前回の記事では言及できなかったが、「和の精神」についても補足しておきたい。「和の精神」とは、バベルの塔における人類の一致という、罪人たちの悲願を表す。そう考えれば、実に多くの事柄に納得がいく。

グノーシス主義の偽りの霊性は、常に目に見える人間集団を建て上げることによって、人類の圧倒的な威信を全世界に見せつけ、自己を誇り、人類の一致という悲願を達成しようとする。
今一度、バベルの塔建設のくだりを聖書から引用しよう。

全地は同じ発音、同じ言葉であった。時に人々は東に移り、シナルの地に平野を得て、そこに住んだ。 彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。

こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。 彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。

時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て、言われた、「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」。

こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。これによってその町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を乱されたからである。主はそこから彼らを全地のおもてに散らされた。 」(創世記11:1-9)

以上のバベルの塔建設における人類の連帯の中には、「和の精神」が見られたのではないだろうか。何しろ、「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。」と言われたくらいなので、そこにはどんなことによっても妨げられないほどに統制された瞠目すべき人類の一致、協力、連帯が見られたのではないかと思う。

さて、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」という言葉は、まさに以下のような精神を彷彿とさせる。
 

国体の本義
第一 大日本国体、一、肇国から抜粋

大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いてゐる。而してそれは、国家の発展と共に弥々鞏く、天壌と共に窮るところがない。我等は先づ我が肇国(てうこく)の事事の中に、この大本が如何に生き輝いてゐるかを知らねばならぬ。」

現御神にまします天皇の大御心・大御業の中には皇祖皇宗の御心が拝せられ、又この中に我が国の無限の将来が生きてゐる。我が皇位が天壌無窮であるといふ意味は、実に過去も未来も今に於て一になり、我が国が永遠の生命を有し、無窮に発展することである。我が歴史は永遠の今の展開であり、我が歴史の根柢にはいつも永遠の今が流れてゐる。


「万世一系の天皇皇后」というフィクションの神話に基づき、全世界を一つの家とみなして「一大家族国家」を形成し、これを歴史を貫いて輝かせ、永遠に到達しようという思想は、事実上、「町と塔(国家)を建てて、その頂を天に届かせよう」という発想と同じである。

そこでは確かに「我が国が永遠の生命を有し、無窮に発展する」という、永遠にまで到達しようという果てしない欲望が述べられている。このような思想に基づき、八紘一宇というスローガンのもと、全世界の国民が、一つ屋根の下に集まるように、同じシンボルのもとに集結すべきとしたのであるから、まさにバベルの塔の精神に他ならないではないか。

ここでは繰り返さないが、『国体の本義』が西欧文明の個人主義に対して激しい批判を展開し、西欧文明の長所と東洋思想との合体の末に新日本文化の創設なるものを唱えていたことを思い出したい。なぜ彼らがこのような塔=国家の建設にこだわったかという動機の根底には、「母が脅かされている」(西洋キリスト教文明の個人主義によって東洋文化が脅かされている)、すなわち、言い換えれば「聖書の父なる神によって人類が脅かされている」という被害者意識が存在したことが読み取れるのである。

そう考えると、「和の精神」とは、人類が聖書の神に対する被害者意識から、己が欲望によって自己を高ぶらせて、自力で神の領域にまで達しようとする悪魔的な一致・協力を指すことになる。一つ前の記事で、個人の意思決定権を認めず、集団だけにそれがあるかのようにみなす「和の精神」とは、まるで「かしら」を失った「首のない体」、つまり、精神に統御されない体と同じだと述べたが、首がない体だからこそ、自力で天に到達し、何とかして自分の力でかしらである神につながろうとしているのだと言えるかも知れない。

国家神道が「日輪(太陽=天照大神=天皇)」を神としていたということの中にも、首のない体(人類)が自力で天に到達しようとしていた願望を見ることができるのではないだろうか。そして、このような悪しき塔建設の試みは、必ず、個人単位ではなく、集団で行われるのである。

このような人類の神に対する反逆の試みに対する裁きがとりわけ厳しいものであることは言うまでもない。バベルの塔建設作業には、神の鉄槌が下されて分裂と混乱で終わり、塔も未完に終わったが、今日、そのような悪しき思想を信じる者には、個人単位でも、滅びが降りかかる。

前回、三島がいかに人類の果てしない欲望に対する神の霊的な刑罰を象徴するような最期を遂げたかを見て来たが、それと共に思い出されるのは、使徒行伝でペテロが語ったイスカリオテのユダの最期である。

「ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり『血の土地』と呼ばれるようになりました。

詩編にはこう書いてあります。
『その住まいは荒れ果てよ。
 そこに住む者はいなくなれ。』
また、
『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』」(使徒1:17-20)

ユダも自殺して体が真っ二つに裂けてはらわたがみな飛び出したというから凄まじい最期である。ちなみに、マタイの福音書では、ユダはイエスを銀貨三十枚で売ったことを後悔して、祭司長や長老に金を返そうとして断られ、銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、その後に首をつって死んだとある。

「そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、相談のうえ、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。このため、この畑は今日まで「血の畑」と言われている。」(マタイ27:3-8)

この記述が使徒行伝の記述と食い違うと主張する者もあるが、高所で首をつった後、体が地面に転落して裂けたなどのことも考えられるため、表面的な描写だけを取って、死に様が食い違うと考えるのは早いものと思う。

いずれにしても、首を吊った上に腹が裂けたというのだから、あまりにも凄絶な見せしめ的な最期であり、それは三島と同様に、キリストの十字架に敵対する者の最期を思わせるものである。キリストの十字架に敵対してい歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」(フィリピ3:18-19)

ユダの体が真っ二つに裂けたことは、ユダが神と悪魔の両方に心を売ろうとして、最後までどっちつかずの生き方をしたことに対する厳しい報いと受け止められないこともない。そこには、バベルの塔同様に、分裂という要素も見られるし、自力で自分を高めて神以上の存在になろうとする人類が、最後には自分の正常な形までとことん失う様子を見て取れる。また、ユダがイエスを売った血の代価で買われたのが「陶器職人の畑」だったことにも、意味がなかったわけではないだろう。なぜなら、旧約聖書において、陶器師は何度も創造主なる神にたとえられているからだ。そして、そのたとえの中では、神が人の身も心も思うがままに、救おうと思う者を救われ、滅ぼそうと思われる者を滅ぼすことがおできになることが示されている。「神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。」(ローマ9:18)

エレミヤ書第18章にも、神がご自分を陶器師にたとえる記述が登場する。そして、造られた者でありながら、創造主に逆らう民を、神が滅びに引き渡され、その宣告を告げさせるために預言者を民に向かわせるが、その預言者にも、民は耳を傾けず、かえってその宣告を憎み、彼を殺そうとする。これはまさに今日起きていることではないだろうか?

「主からエレミヤに臨んだ言葉。 「立って、陶器師の家に下って行きなさい。その所でわたしはあなたにわたしの言葉を聞かせよう」。
わたしは陶器師の家へ下って行った。見ると彼は、ろくろで仕事をしていたが、 粘土で造っていた器が、その人の手の中で仕損じたので、彼は自分の意のままに、それをもってほかの器を造った。

その時、主の言葉がわたしに臨んだ、 「主は仰せられる、イスラエルの家よ、この陶器師がしたように、わたしもあなたがたにできないのだろうか。イスラエルの家よ、陶器師の手に粘土があるように、あなたがたはわたしの手のうちにある。 ある時には、わたしが民または国を抜く、破る、滅ぼすということがあるが、もしわたしの言った国がその悪を離れるならば、わたしはこれに災を下そうとしたことを思いかえす。
またある時には、わたしが民または国を建てる、植えるということがあるが、もしその国がわたしの目に悪と見えることを行い、わたしの声に聞き従わないなら、わたしはこれに幸を与えようとしたことを思いかえす。

それゆえ、ユダの人々とエルサレムに住む者に言いなさい、『主はこう仰せられる、見よ、わたしはあなたがたに災を下そうと工夫し、あなたがたを攻める計りごとを立てている。あなたがたはおのおのその悪しき道を離れ、その道と行いを改めなさい』と。

しかし彼らは言う、『それはむだです。われわれは自分の図るところに従い、おのおのその悪い強情な心にしたがって行動します』と。
それゆえ主はこう言われる、異邦の民のうちのある者に尋ねてみよ、このような事を聞いた者があろうか。おとめイスラエルは恐ろしい事をした。レバノンの雪が、どうしてシリオンの岩を離れようか。山の水、冷たい川の流れが、どうしてかわいてしまおうか。
それなのにわが民はわたしを忘れて、偽りの神々に香をたいている。彼らはその道、古い道につまずき、また小道に入り、大路からはなれた。 自分の地を荒れすたれさせて、いつまでも人に舌打ちされるものとした。そこを通る人はみな身震いして、首を振る。わたしは東風のように、彼らをその敵の前に散らす。その滅びの日には、わたしは彼らに背を向け、顔を向けない」。

彼らは言った、「さあ、計略をめぐらして、エレミヤを倒そう。祭司には律法があり、知恵ある者には計りごとがあり、預言者には言葉があって、これらのものが滅びてしまうことはない。さあ、われわれは舌をもって彼を撃とう。彼のすべての言葉に、心を留めないことにしよう」。」

バベルの塔の精神は、まさに人類が被害者意識によって連帯して、創造主なる神に逆らい、立ち向かいながら、神が自分の主人であることを否定して、神に代わって自分が自分の人生の主人となり、欲望に従って思うがままに生きられるかのような、人類の集団的な思い上がりを示している。彼らがれんがとアスファルトで塔を建てたというのも、神の霊に属する性質ではなく、肉の性質を使って、神に到達しようとしたことを表している。

「和の精神」もその本質はこれと同じで、それは創造主に逆らって己を神とする人類の集団的な思い上がりと反逆、肉の思いによる高ぶりを示している。彼らは飽くことのない繁栄を望むが、首を失った体に対する裁きは厳しいものであり、分裂と、滅亡と、荒廃とが待ち受けている。

キリスト者の道は、このようなものとは全く異なる。筆者は、三島やユダの最期を思うにつけても、やはり、グノーシス主義者の滅びには、一切、キリスト者は手を貸さない方が良いと考えざるを得ない。

筆者は、周りで起きている激しい妨害を知らないわけではなく、それに当然の権利を持って立ち向かい、言葉を返し力を行使しようと思えば容易なことであるのも知っているが、グノーシス主義者には、まずは彼らの心のうちを隅々まで吐露させ、その悪しき思いが誰も否定できないほどにはっきり形を取って現れるまで、好きにさせておけば良いのではないかと考えている。なぜなら、彼らには、必ず、彼らの悪しき思想が形となって結実し、滅びとして身の上に降りかかる時が来ると分かっているからだ。

人は自分で自分の生き方を選択していると思っているかも知れないが、自覚せずとも、必ず、何らかの思想に導かれて生きている。その人の思想こそが、その人の生き様を形作っているのである。その思想とは、大きく分けて、この世には二種類しかない。聖書の神に従うのか、従わないのか、そのどちらかしか人間に選択はないのである。

文学作品は、現実から乖離したフィクションに過ぎないと言う人がいるが、実はそうではない。たとえ小説であっても、そこには、著者の世界観、思想がよく表れており、むしろ、小説であるからこそ、現実の何倍もの凝縮された形で端的に著者の思想が込められている場合が少なくない。

著者が作品の中でほとんど無意識に行った告白が、やがて著者の身の上に極めて教訓的な形で結実することはよくある。そのことは三島作品を読めば分かることだ。もし三島の書いた作品が単なる「フィクション」でしかなかったのならば、三島には作品中の主人公と同じような最期を遂げる必要は全くなかったであろう。しかし、実際には、作品中で行われたのはみな三島の死のリハーサルだったのである。

そこで、筆者は、グノーシス主義者らの行く末については、放っておいても、彼らの誤った思想それ自体が、彼らを当然の滅びに引き渡すであろうと考える。そこで、あえて二、三歩、退いて、その生き様を傍から観察し、彼らにふさわしい最期がやって来ることを見届けようと思う。

このように言うのは、「ディアボロス」すなわち「中傷する者=悪魔」に味方する人々に降りかかる裁きが、格別に厳しいものとなることが、予め分かっているためである。筆者はその結末に微塵も責任を負うつもりはなく、それは彼ら自身が選んだ結末としてはっきり身の上に現れなければならない。それがあまりにも悲惨な末路となることが明白であればこそ、キリスト者はその結末に手を貸さず、屠られる羊のように黙しつつ、この世の手段を用いず、ただ小羊の血潮と証の言葉のみに立って、すべての虚偽に立ち向かうことに意味があると考える。肝要なのは、血肉の戦いに精魂を費やすことではなく、まずは偽りの思想という要塞そのものを暴き出し、粉砕することである。

さて、話を戻せば、キリストの復活の命に至りつくためには、個人的な信仰がなくてはならず、それは集団的な連帯によって獲得することは決してできない。その個人的な信仰の歩みは、バベルの塔の連帯とは真逆の方向性である。だからこそ、グノーシス主義者らは必死になって、「集団を離れての個人は存在しない」とか「孤立は死だ」とか言いながら、人が個人としての真実な信仰の探求を行うことを何とかして妨げようと努力しているのであろう。

しかし、「和の精神」は、人類の悪魔的な一致の願望であるから、このような偽りのスローガンのもとで、有限なる被造物を神として崇め奉る組織や集団に帰属している限り、人は永久に復活の命にはたどり着けない。そうした組織の中には、牧師という目に見える人間を神の代理人とする集会も含まれている。

できるなら、これまで何度も引き合いに出して来たオースチン-スパークスの論説私たちのいのちなるキリストが現される時……を、もう一度参照されたいが、そこでは、はっきりと、終末に向けて、反キリストに属する「人造のキリスト教」が大規模に発展すること、それはキリストや、キリストの命に見せかけた「キリストご自身の代替物」を用意して、「自らの勢いで生成発展する偽りのいのち」によって膨らんで行くことが指摘されている。

今日、ペンテコステ・カリスマ運動のように、また、牧師制度を有するすべての組織に見るように、キリストを礼拝すると言いながら、被造物を拝み、被造物の命を偽りの霊性に見せかけて発展させようとするグノーシス主義と合体した虚偽のキリスト教が、キリスト教界を席巻している。彼らは「事物、人、運動、制度、組織」などを中心に据えて、目に見える指導者のもとに、目に見える集団を建て上げ、「大衆を引きつけ、群衆をとらえる」要素をちりばめた、見せかけの礼拝を行うことに心を砕いている。

そうした人々は、主日礼拝を守るとか、安息日を守るとか、祝祭日を守るとかいった表面的な儀式を守ることを敬虔と勘違いし、うわべを飾ることに腐心している。だが、聖書はこれらの人々についてはっきりと言う、

「だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。

偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。」(コロサイ2:16-19)

ここに、「頭であるキリストにしっかり付いていない」すなわち、「首のない体」が登場していることに注意したい。こういう体に属する人々は、いたずらに思い上がり、自分たちの努力で天にまで到達しようと様々な儀式を守り、偽りの従順を演じ、自らの努力をうず高く積み上げ、そうしていればいつか「頭」が得られるかのように思い込んでいる。

だが、どんなに努力を重ねても、彼らはずっと「首のない体」のままである。どんなに偉大な宗教指導者を組織の頂点に据えても、被造物はすべて体に過ぎないので、頭にはなれない。首のないその体に、どんなに「和」が働いても、そこにあるのは、神をわきまえる知性を捨てた「肉の思い」すなわち堕落した欲望でしかない。

もしもこの先、信者が少しでも「事物、人、運動、制度、組織」に気を取られ、このような価値観を受け入れるならば、欺かれて終わるだろう。「影」に過ぎず「本体」ではない本質的なものでないものに気を取られれば取られるほど、命の制限が生じるだけである。

被造物を神とするあらゆる制度から離れねばならないが、残念ながら、今やこの時代のキリスト者には、現人神のように人間を崇め奉る牧師制度のような偽りの教職者制度を離れ去るだけでなく、己を神として生きる全ての個々の人間からも離れ去ることが要求されている。

以下の御言葉は当ブログでは幾度も引用して来たが、今や隅から隅まで成就したことに慄然とする思いである。

「しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。」(二テモテ3:1-5)

悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」(二テモテ3:13-16)


以前にも書いたが、今やこの世、宗教界を問わず、至る所で終末のバビロン化が大規模に進行し、目に見えない洪水がひたひたと押し寄せて来るように、周囲にいるすべてが水の中に飲み込まれて行く様を、筆者は箱舟の中にいながら、静かに見る思いがする。信者を名乗る人々が創造主なる神と神の民に反逆し、国は虚偽と不正と腐敗と搾取にまみれて機能停止し、すべてのものが支離滅裂な思想に汚染され、その中に飲み込まれつつある。悪いものは極端に悪くなり、およそ秩序という秩序が転倒させられている。

だが、ノアの時代、洪水から救われたのは、たった8人であった。イエスは言われた、「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いて下さる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(ルカ18:7-8)

我々の脱出の道は常にキリストを通して備えられている。それは決して多くの人が見いだすことのない狭き門ではあるが、確かな救いであり、ディスカウントされることのない、まことの命である。オースチン-スパークスの以上の論説も警告している、万物の運命は「キリストがすべてのすべて」となることであると。神の霊の実際の働きは、すべてのものをキリストに帰することであるから、我々はその命だけに頼って生きる方法を学ばねばならないのだと。

キリストだけが我々の内なる人の命となるときに初めて、私たちは、被造物の限界に脅かされることなく、彼の中で強くあることができる。もしも私たちが、この方だけに頼ることをやめ、自分自身や、他の人々や、物事に頼ろうとするなら、たちまち弱くされてしまうであろう。我々は、すべての「影」に過ぎないものを退け、「本体」であるキリストの力だけで、すべての逆境を切り抜ける秘訣を学ぶ必要がある。そして、そのために必要なすべての備えが、この命なる方の中には存在するのである。

2018年4月21日 (土)

神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画/"MISHIMA"から⑦

・般若心経に現れるグノーシス主義的世界観 ~永遠に循環を続ける「無=空」~

多くの仏教の宗派の中で共通の経典として用いられていることを見ても、般若心経の中に、いかに「無=空」の思想が、最も凝縮された端的な形で込められているかが分かる。

多くの日本人は、自分はどんな宗教も信じていないと考えている人間でさえ、葬儀の際には、儀礼的に般若心経を唱えたりする。そうした読経によって、彼らは自覚なしに「いろは歌」と同じように、グノーシス主義の世界観を呼び起こす呪文(マントラ)を唱えているのである。

般若心経についてはいくつもの現代語訳があるため、それらを参考にしながら以下に私訳してみた。これを読めば、般若心経には「いろは歌」よりももっとはるかに鮮明に世界の本質が「空=無」であるという思想が表れていることが分かる。

むろん、仏教は、宗教と呼ぶより哲学であると言った方が良いため、そこには神もなければ神話もなく、一般的なグノーシス主義の物語に見られるようなプロットは存在しない。従って、「空=無」が擬人化されて登場するようなこともない。しかし、そのような差異を脇においても、当ブログでは、仏教の無常観も、世界の本質を「無」であると定義している点で、グノーシス主義と本質的に同一の思想であるとみなしている。

グノーシス主義における至高神にも、すでに見て来たように、およそ人格らしきものは存在しない。グノーシス主義の至高神は、自らの意志で行動して世界に関与することはなく、それはひたすら物言わぬ「鏡」や「虚無の深淵」である。それは結局、グノーシス主義が、人格を持った神の存在を認めておらず、グノーシス主義における至高神が、仏教の「空」や「無」と同一であることを意味する。

つまり、世界の創造者(と言っても人格を有さない神)が虚無の深淵と同一であって、すべての目に見えるものは根源的に「無」に集約されるというで、仏教もグノーシス主義も根本的に同じ思想だと言えるのである。そのことが以下の訳文の内容からも十分に見えて来よう。
  

かんじざいぼさつ
観自在菩薩               (観音菩薩は)
ぎょうじんはんにゃはらみったじ
行深般若波羅蜜多時     (深遠な智慧により彼岸に到るための修業をしている時)
しょうけんごうんかいくう
照見五蘊皆空    (人間存在のすべてが本質的に実体のないものであることを見極め)
どいっさいくやく
度一切苦厄             (物事が思い通りにならない苦しみと災いをすべて彼岸に渡した)
しゃりし
舎利子                 (そしてシャーリプトラに向かって次のように述べた)
しきふいくう
色不異空               (すべて形あるものは、実体のない一時的なものでしかなく)
くうふいしき
空不異色               (実体がないものが一時的に形を取って現れているだけである)
しきそくぜくう
色即是空               (それゆえ形あるものはすなわち実体のない永遠でないものであり)
くうそくぜしき
空即是色               (実体のがなく永遠でないものが一時的に形あるものとして現れているに過ぎない)
じゅそうぎょうしき
受想行識               (人間の心の働きについても、)
やくぶにょぜ
亦復如是               (同じことが当てはまる。)
しゃりし
舎利子                 (シャーリプトラよ、)
ぜしょほうくうそう
是諸法空想             (この世の中のすべての存在や現象は、もともと実体がなく一時的で永遠でないからこそ、)
ふしょうふめつ
不生不滅               (それには本当は生成も消滅もなく、)
ふくふじょう
不垢不浄               (汚れも清さもなく、)
ふぞうふげん
不増不減               (増えることも減ることもないのだ。)
ぜこくうちゅう
是故空中          (すべてのものは常に変化して同じ形をとどめず実体がないからこそ)
むしきむじゅそうぎょうしき
無色無受想行識             (人の体も存在せず、心もまた存在しない。)
むげんにびぜつしんに
無限耳鼻舌身意         (むろん、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、心などの感覚器官もなければ)
むしきしょうこうみそくほう
無色声香味触法         (目に見える形や、耳に聞こえる音や、嗅いだ臭い、食べた味わい、触った感触、抱く思いなども存在しない。)
むげんかいないしむいしきかい
無限界乃至無意識界     (物事を目で見て把握したり、心で意識したりしている感覚自体が存在しないのであるから)
むむみょう
無無明                 (当然、悟りに対する無知もければ、)
やくむむみょうじん
亦無無明尽             (悟りに対する無知の克服もない、)
ないしむろうし
乃至無老死             (そこから始まって、老いも死もなく)
やくむろうしじん
亦無老死尽             (老いや死の克服もない。)
むくしゅうめつどう
無苦集滅道             (苦しみやその原因となる迷いを克服して楽になる方法もなければ、)
むちやくむとく
無知亦無得             (真実を知り悟りを得るということもない。)
いむしょとくこ
以無所得故             (従って、悟りを獲得することがないのだから、)
ぼだいさった
菩提薩垂               (悟りを求めている者は、)
えはんにゃはらみった
依般若波羅蜜多         (彼岸に到る本質的な智慧のおかげで)
こしんむけいげ
故心無圭礙             (心を覆う疑いの雲は晴れ)
むけいげこむうくふ
無圭礙故無有恐怖       (心を覆う疑いがないから恐れもなく、)
おんりいっさいてんどうむそう
遠離一切転倒夢想       (あらゆる転倒して誤った幻想から遠く離れて、)
くきょうねはん
究境涅槃               (平安(涅槃)の境地に達することができる。)
さんぜしょぶつ
三世諸仏               (過去・現在・未来において、目覚めたものたちは)
えはんにゃはらみつたこ
依般若波羅蜜多故       (彼岸に到る智慧のおかげで、)
とくあのくたらさんみゃくさんぼだい
得阿耨多羅三藐三菩提   (最高の悟りを得ることができる。)
こち
故知                   (知るがよい、)
はんにゃはらみった
般若波羅蜜多           (彼岸に到る智慧は)
ぜだいじんしゅ
是大神呪               (偉大な神(仏)の呪文であり、)
ぜだいみょうしゅ
是大明呪               (悟りを得るための偉大な呪文、)
ぜむじょうしゅ
是無上呪               (この上ない呪文、)
ぜむとうどうしゅ
是無等等呪             (並ぶもののない呪文である。)
のうじょいっさいく
能除一切苦             (これはあらゆる苦しみを取り除くことができ、)
しんじつふこ
真実不虚               (真実であって虚偽ではない。)
こせつはんにゃはらみつたしゅ
故説般若波羅蜜多呪     (ゆえに、彼岸に到る智慧の呪文を唱えよう。)
そくせつしゅわつ
即説呪曰               (次のように呪文を唱えよう。)
ぎゃていぎゃていはらぎゃてい
羯帝羯帝波羅羯帝         (彼岸へ行く者よ、彼岸に行く者よ)
はらそうぎゃてい
波羅僧羯帝             (彼岸に行きて到達する者が、)
ぼうじ
菩提                   (悟りを得て)
そわか
僧莎訶                 (幸いがあるように。)
はんにゃしんぎょう
般若心経               (悟りを得る智慧の最も重要な経典。)


般若心経においても、グノーシス主義に特徴的な「対極にある概念の統合」が見られる。すなわち、すべての物質界の現象は本質的に「空=無」である(実体がない)ため、悟りもないとしながらも、同時に、すべての物事が実体のない無であるという本質を理解することによって、人は「深淵なる智慧」を得て彼岸に到達し、苦しみから解かれて平安を得られるとしている。

このような説は、一見すると著しい自己矛盾でしかなく、そのような理屈は「対極性の統合」の果てに出現して来るものである。般若心経の言う「彼岸」(涅槃の境地)とは、ウロボロスの輪と同じように、生成と消滅を超越したところにある「永遠=無」を指しているのであり、涅槃の境地に達することは、要するに、人が個人としての生成と消滅にとらわれず、個人の枠組みを超越して、すべてのものを包含する「空=無」と一体化することによってのみ可能だと言っているに等しい。

そこで、結局、般若心経における智慧(=般若)は、グノーシス主義における叡智(=グノーシス)と同じであり、それはサタンがエデンの園で、人類をそそのかして吹き込んだ偽りの知恵と同義であり、そこにあるのは、人類と神とが本質的に同一だという思想である。

「でも、仏教にはそもそも神という概念が存在しません。なのに、なぜあなたは仏教の思想までが、人類と神とが本質的に同一だという神秘主義の思想と同じだと言うのですか」と再び尋ねないでもらいたい。

これまで見て来たように、グノーシス主義の神は、物言わぬ「虚無の深淵」である。そして、この「虚無の深淵」と人間とを同一視することによって、グノーシス主義は、人と神とが本来的に同一であるとみなしているのであり、これと比較すれば、すべてのものが人間存在も含めて根本的には「無」であると教える仏教の思想は、グノーシス主義とほとんど変わらないことになる。

聖書の創世記で、サタンは人類が自ら神の掟を破ることで、「神のようになれる」(=神になれる)と教え、人の側から神の性質を盗み取って神になりすますようそそのかした。しかし、その嘘を受け入れて堕落した瞬間から、人類は神を知る知識を失って、神のいない、被造物(自分)しか存在しない、独りよがりな世界に投げ出されたのである。神を喪失した人類の中では、神の席が空席となり、そこに実体のある神の代わりに、虚無の深淵が横たわった。そのため、人が自力で神に到達するために残された道は、虚無の深淵と自己を同一視して、無の中に飲み込まれることしかなくなったのである。


・個人の概念が幻想として消え「永遠の無という循環」だけがリアリティとして残る思想

虚無の深淵が「神」になり、「永遠の無」がリアリティとなって、個人がその中に埋没して消えると、一体、どういう恐ろしいことが起きるのかを、『方丈記』の有名な冒頭の文章を通してよりはっきり理解したい。
 

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。  たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、卑しき、人のすまひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。あるいは去年焼けて今年作れり。あるいは大家滅びて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。

朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわにぞ似たりける。知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、たがためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、あるじとすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるいは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。あるいは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つことなし。」

 
『方丈記』では、人間が誕生しては死にゆく有様が「ゆく河の流れ」と「淀みに浮かぶうたかた」にたとえられる。個人の生や死は、水面に束の間現れては消える「うたかた」のような無意味でむなしいものに過ぎず、そこに何一つ確かなリアリティはない。確かなのは、うたかたではなく、うたかたを水面に登場させる絶えることのない「河」の方である。

こうして『方丈記』の冒頭では、「河」という概念が、グノーシス主義の「鏡」や「虚無の深淵」と同じものとして登場する。その「河」は、もちろん、「永遠の循環である無」(ウロボロスの輪)と同じである。

現実には、現れては消える「うたかた」の一つ一つには何の同一性もなければ、連続性もなく、それはただバラバラの一過性の現象に過ぎないのだが、一つ一つのうたかたの生成と消滅を「河」という視点から見ることで、あたかもそこに「うたかたが現れては消える」という繰り返しが発生しているような幻想が生まれる。そこから、その繰り返しが発展して、「先祖」から「子孫」へと、何らかの価値が受け継がれているかのような虚構の連続性が生まれ、循環する永遠の無という概念が作り出されるのである。

この虚構の連続性は、具体的には、万世一系の天皇家といった国家的神話や、先祖代々から受け継がれる神聖な家制度というフィクションや、創設以来永遠の発展を目指し続けている企業やその他の団体などの神話が生まれ、人類の連続性を謳う何らかの組織や集団のフィクションとなる。

そして、「うたかた」である個々の人間の生が幻に過ぎないような無意味なものとされる代わりに、この「人類の連続性」というフィクションが、確固たる永遠の真実であるかのようにみなされるのである。

『方丈記』の無常観を見ても、そこでは、人間存在は「神の似像」という呼び名にさえ値しないような、水面に束の間、現れては消えるだけの「あぶく」として、あるかなきかの些末な存在でしかないため、個人が、このように儚く脆いあぶくとしての存在を抜け出て、自己存在を神のような永遠に高めたいと思えば、自ら「あぶく」であることを捨てて、「河」と一体化するしかない、という結論が自然に出て来る。

従って、ここにも、グノーシス主義が常に導き出す究極の答えが見られる。人が有限なる被造物としての限界を脱したければ、人が自ら自己存在を捨てて、自己の隔ての壁を取り除き、人類の連続性という永遠のフィクションの中に身を投げて、虚無の深淵と一体化するしかないのである。そうしない限り、人間はどこまで行っても、あるかなきかの「あぶく」に過ぎないのである。

つまり、グノーシス主義を信じると、三島由紀夫がそうしたように、人は自分であるという区分を自ら取り払い、自分を抹消することで、「無=永遠」と一体化する以外には、解放に至り着く手段がないことになる。

すなわち、こうした思想では、人間が、目に見える世界の万象はおろか、自分自身の存在さえ究極的には「無である」とみなすことによって、虚無の深淵である「鏡=輪=永遠=無」の中に自ら飛び込み、無である世界と一体化して、自らの苦楽そのものも滅却するしか手立てがないのである。

それゆえ、グノーシス主義は、「無=永遠」と人が一体化するための手段として、肉体からの離脱(自死)という方法を提供する。

だが、多くの場合、グノーシス主義的な「無」との一体化による自己からの「解放」は、三島由紀夫のような凄絶な自死という形を取らず、人々が無意識的に集団の中へ埋没し、個の意識を放棄するという形で成し遂げられる。

般若心経のように、すべてのものが本質的に「無=空」であるとみなす思想を信じると、個人という概念が消え失せてしまい、全体(無)だけが残ることは、禅の視点から般若心経を読み解いた次のサイトの記述を読んでもよく理解できる。
 

『般若心経』を現代語訳するとこうなる - 存在が存在することの意味を説くお経 -

 あらゆる存在が「空」だとわかると、面白い事実に気がつくことになる。
私たちは、命は生まれて死ぬものだと考えがちだが、それも違うのだ。
あらゆる存在は、いろいろなものが集まって形を為し、そこに形以上の「はたらき」が生まれて「生きる」という活動をしている。
私たちが、自分を自分だと認識して生きていることも、形以上の不思議な「はたらき」のなせるわざである。
「命」もまた実体として存在するものではなく、それは神秘としか言いようのない、不思議は「はたらき」なのである。
「個」が集まってできた「和」には、単なる個の集合以上の不思議な「はたらき」が具わることがある。
それが、命だ。

だから生き物は、生まれて死ぬのではなく、はじめから実体が存在しない「空」という存在のしかたをするなかで、ただ変化を繰り返している。
この、「存在は変化を繰り返す」という真実には、「無常(むじょう)」という言葉を当てるとしよう。
存在=空=自性がない=無常=変化を繰り返す=常なるものは存在しない
これらはすべてイコールでつながるものなのだ。
存在には「変化」があるばかりで、生まれもしなければ死にもせず、垢がつくこともなければ浄らかなのでもなく、増えもしなければ減りもしない。
ただ、変化を続けるだけである。

<略>
ただ、存在の本質が「空」であり、私という概念が取り払われ、世界と自分とを隔てる虚構が崩された認識というのは、すがすがしいものである
わだかまりを抱くことが何もない。
わだかまりを抱く私が存在せず、わだかまりという心もまた、本当には存在しないから当然といえば当然か。
心に何の恐れも生じないのだ。

<略>
人は普通、自分のことは自分でしていると思っていることだろう。
だが、本当にそうだろうか。
たとえば、心臓が絶えず拍動を続けているのは、自分の意思か?
この体を作ったのは、自分か?
熱い物を触ったとき手を引っ込めるのは、はたして考えた上でのことか?
自分の体でありながら、それらは自分の意思とは関係のないところで自ずとはたらき続けてくれているのではないか

それなのに、多くの人は自分の体は自分のものであり、自分の意思で自分は生きていると思っている。
存在しないはずの自分を「有る」と疑うことなく所有し続けているからだ
このような誤った考えから離れるだけで、心はずっと安らかになるというのに。 

以上の解釈では、まず、人の体の機能について、あたかも、体が人間の意思とは関係のないところで自動的に働いていることが重要であるかのように述べることで、鈴木大拙と同じように、人間の本質は「知」にはなく「行」にあるという発想が述べられていることに注意したい。

つまり、ここでは、意志(精神)が理性によって体全体を統御することが重要なのではなく、体はそれ自体、意志(精神)とは無関係のところで働いているところに重要性があって、その自然な働きに人は身を委ねるべきだと言われているのである。

こうした考えの中に、前回見て来たような「精神と肉体の支配関係の逆転」、「肉体および肉欲の復権」というグノーシス主義の逆転の発想が見られることは言うまでもない。

そうして「精神」を軽視して、肉体の本能的な働きだけを重んじる考えに立って、以上の記述は続ける、人間一人一人の悩み苦しみなど全く本質的な問題ではなく、そのようなものは本質的に「空=無」でしかなく、人間存在は、個別に悩み苦しむバラバラの個人としては全く意味をなさず、人類全体もしくは全宇宙(あるいは社会や国家や家族)という大きなひとまとまりの「体」としてつながって初めて意味が生じるのだと。

裏を返せば、人類は個人単位では全く意味をなさず、個人には「命」も「働き」もなく、むろん、精神もなければ、悩み苦しみもなく、集合体となって初めて人類には「働き」や「命」が生まれるのであって、バラバラの個人という概念自体が虚妄であると言っているに等しい。

そうして、この種の思想では、「自分」というものが虚妄の概念とする以上、「自分」に生じる苦しみも当然、虚妄ということになり、いっそそのような個人の隔ての壁を完全に取り払って、自分と世界とを融合させて一体化すれば、人は自分自身の限界からも解放され、「自分に固有の苦しみ」もなくなり、精神が生じさせるすべての葛藤から解放されて、楽になれると言うのである。

これも「うたかた」を幻とみなす代わりに、「河」を確かなものとみなすフィクションと全く同一の思想である。この思想は、多くの人々の誕生や死は、実体のない「空=無」でしかなく、個人のレベルでは、生成も消滅もないが、それらが集まって集合体をなすとき、「空=無」でしかないはずのうたかたの生成と消滅に、何らかの連続性や均一性といった虚構の概念が付与され、そこに先祖代々から伝わる家制度だとか国家だとかいった神話が生まれ、集合体としての社会に「和」という幻想に基づくフィクションが生まれ、そうなって初めて、その集団に真の「命」が吹き込まれ、「体」としての機能が始まると言っているわけなのである。

このような考え方は、まさに『国体の本義』における「和の大精神」にも通じる。『国体の本義』が、西欧文明における個人主義を徹底して非難し、排除しようとしていることはすでに見て来たが、この書は、「和の精神」の名のもとに、個人という概念を退け、一人一人の人間が「個人」であることを自ら放棄して「生み生まれる親子の立体関係」という(本来、連続性のないうたかたの生成と消滅に連続性を持たせようとするのと同種の)神話的フィクションによって統御される国や家族といった集団に帰属することで、初めて人としての真価が発揮されると主張する。

『国体の本義』では、国家や家族という「生み生まれる親子の関係」という虚構の歴史から切り離された個人は、「所詮本源を失った抽象論」として無意味・無価値な存在として一蹴される。その根底にあるのは、結局、人類は集合体となって初めて「命」や「働き」が生まれるのであって、バラバラの個人という概念はもとより存在しないとする般若心経と同じ無常観である。
 

『国体の本義』、第一 大日本国体、三、臣節、忠君愛国 より抜粋

個人は、その発生の根本たる国家・歴史に連なる存在であつて、本来それと一体をなしてゐる。然るにこの一体より個人のみを抽象し、この抽象せられた個人を基本として、逆に国家を考へ又道徳を立てても、それは所詮本源を失つた抽象論に終るの外はない。」

ここまで見て来ると、個人をフィクションとして集団の中に埋没させ、集団をリアリティとするこの種の思想は、日本の敗戦後も決してなくなるどころか、むしろ、現在に至るまで、日本社会に連綿と受け継がれ、強力かつ無意識的に社会に根を張り、社会全体を隠れたところから支配する原動力となっていることが分かるのではないだろうか。

今日、三島由紀夫のように、死によって永遠と一体化しようとする者はそうないであろう。しかし、その数歩手前で、日本国民の大半が、個人としての自分の存在を自ら滅却し、自己を集団の中へ埋没させ、集団と一体化することが、自分の使命であるかのように思い込み、自己放棄という「緩慢な自殺」を遂げている。彼らは「バラバラの個人」というものは存在しない虚妄の概念であるとみなし、集団に帰属して初めて自己の価値が生じると思い込み、「孤立は死である」などと言って、集団から切り離されることを病的なまでに恐れながら、SNSでのやり取りにやみつきになったり、官庁や、会社や、学校などの集団の中で、自己を放棄しようとむなしい努力を重ねている。そのようにして自己を滅却して集団の中に溶け合うことこそ、麗しい「協調性」であり「和」の精神の美徳であるかのように信じ込み、集団から追放されないことだけを是として生きている。同時に、集団の側からも、「麗しい美徳」としての集団との一体化を拒むような個人が出て来ると、徹底的に攻撃し、その存在を無化しようとする。

このように見ると、なぜ日本には民主主義が真に根付かないのか、その理由もおのずと見えて来よう。最近では、安倍政権の腐敗に絡めて、外国人記者から次のような警鐘が鳴らされたことも記憶に新しい。
外国人からみて日本の民主主義は絶滅寸前だ  森友スキャンダルが映す日本の本当の闇」(東洋経済オンライン 、レジス・アルノー:『フランス・ジャポン・エコー」編集長、仏フィガロ東京特派員2018/03/23 16:35)
外国人特派員が森友「公文書改ざん」に見た日本の深刻な病──この国みんなが“民主主義のお芝居”を演じているだけ?」週プレNews2018年04月05日、仏紙「ル・モンド」東京特派員、フィリップ・メスメール記者へのインタビュー)

民主主義とは、そもそも国家などの組織や集団の重要な意思決定を、その組織の構成員(人民、民衆、大衆、国民)が行い、構成員が最終決定権(主権)を持つという制度である。それゆえ、民主主義が成立し、正しく機能するための前提として、まずは個人の意思決定権というものがれっきとして存在しなければならない。

ところが、以上のような日本社会に古来から蔓延するグノーシス主義的無常観は、個人という存在さえ認めないため、個人には決して意思決定権を与えず、個人が自己存在を集団に明け渡すことにより、自らの意思決定権までも集団に委ねてしまうことを要求する。

日本社会にあるのは、依然、個人を出発点とせず、全体を離れた個人という概念を「単なる抽象論」として退け、個人が細胞のように集まってできる「全体」としての「体」の「和」だけをリアリティであるかのようにみなす思想である。個人の意思決定よりも全体の「和」の方がはるかに重視されるのである。その意味で、日本の民主主義は、まさに見せかけだけの概念でしかない。


・「和の精神」とは、頭(精神)による統御を失って自己目的化した「体」に同じ

しかし、このように個人を否定して出来上がる集団に働く「和」の正体とは、一体何なのだろうか。

以上の般若心経の解説では、体は理性とは無関係に、無意識的に動き、人間の意志決定とは無関係に自己防衛的に条件反射して生きており、そこに重要性があるとされる。精神の働きなど、厄介なだけで、自然に身を任せて本能的に生きた方が楽になれると言いたげである。それが人間にとってあたかも正常な状態であるかのように述べ、その考えを集団にまで高めようとする。

だが、そんな考えが正しい結論とはならないだろう。これまでの記事で再三、見て来たように、人間の体は、精神によってコントロールされて初めて正常に機能する。あまりにも強い精神的ショックを受けた人が、自動的に心臓が止まって即死してしまうこともあり得るように、心臓の鼓動も、精神の統御に服していないわけではない。人間存在は、意識していようといなかろうと、必ず、意志のもとに統御されている。

精神のコントロールに服さなくなった体は、ちょうど脳死状態になった植物人間の体と同じである。司令塔としての「頭」を失ったも同然であり、もはや人としての正常なあるべき姿とは到底、言えない。

そこで、個人の存在を「あぶく」のようなものとみなして個人の意志決定権も認めず、個人には生成も消滅もないとしながら、個人が寄り集まって出来る組織や集団にだけは、「命」や「働き」が生まれ、「和」が生み出されるとする思想は、まるで脳死状態にある人の体と同じである。

なぜなら、そこでは、個人の存在もその精神の働きも幻想であるとみなされているため、体全体を統御する意思決定権を持つブレーンが事実上存在しないからだ。そのような集団は、脳が死んで、精神が抜け殻となって生き続けている体と同じである。

体は、脳が死んだからと言って、バラバラに分解することはなく、未だ何らかの「和」を保って生きているように見えるかも知れない。だが、精神のコントロールがなくなった体は、ただ自己保存のためだけに、本能に従って生き続けるだけである。精神が生きているうちは、人間の体は、決して体のためだけに生きることはない。体は主人である人間の意志に従い、自己や他者の必要を満たすために行動する手段でしかない。人間は体を使って他者と関わり、他者に影響を与え、他者に奉仕し、他者との関わりの中で生きる。しかし、精神が死ねば、人は植物状態も同然となり、体は自己保存だけを目的に生きるようになる。もはや他者との関わりはなく、自己表現もなく、すべての活動が、ただ体を生き永らえさせるという目的のためだけに続けられる。体は体としての本来の役割を失い、自己目的化して、ただ己の欲求を満たすためだけに生き続けることになる。

個人の意思決定権を認めない組織は、このように脳が死に植物人間となった体と同じであり、そこに働く「和」とは、結局、体に働く肉欲と同じ、人類の本能的な欲望の総体なのである。「和」と言えば聞こえは良いが、それは結局、知性によるコントロールを退けて、精神の統御が効かなくなった集団の本能的欲望の総体なのである。

グノーシス主義が、個人の内側で精神と肉体との関係を覆し、肉欲を無制限に解放することを目指す危険な教えであることはすでに見て来たが、それが集団に適用されると、集団のレベルでも同様のことが起き、集団における意思決定の方法や所在がどんどん曖昧となる代わりに、歯止めのない集団的な欲望の暴走が起きる。

日本の政体における「誰も責任を取らない」摩訶不思議なシステムは、まさに以上のような思想を土台に生まれて来るのだと言える。個人が責任を取るためには、まずは個人が組織の中で重要な意思決定権を持ち、自らの決定に対して責任を負うという発想がなければならないが、グノーシス主義的無常観に貫かれる日本の社会には、個人という概念が存在せず、個人の意思決定権もほとんど認められておらず、結果的に個人ではなく集団が最終的な意思決定権を持ち、集団が最終責任者となる。

最も下っ端の部下から上長まで果てしない人数の人間が承認印を押さねばなならない役所の決裁文書などは、それを表す格好の事例で、そのように多数の人間が承認印を押すことで、結果的に誰が意志決定したのか、責任の所在が無限に分散されて、最後にはすべてが「組織全体の決定」ということになってうやむやにされて終わってしまう。責任を追及しようにも、責任者が事実上いないも同然の仕組みが出来上がるのである。

そのような意思決定権の所在が不明かつ不在の組織は、脳のない体と同様、いざその「体」としての組織があらぬ方向へ向かって暴走し始めたときに、これを制御できるブレーキとしての司令塔が全く存在しない。だからこそ、我が国においては、このような無常観に基づき、かつて軍部の独走やら軍国主義化やら無謀な戦争への突入などといった事件が起きて来たのである。

それは我が国という「体」が、個人を個人として認めず、個人の意思決定権を奪い去り、それを集団に明け渡させて、脳の機能を破壊・放棄して、体の自己保存だけを目的に、果てしない欲望に従って生きた結果として起きたことである。

しかしながら、その教訓もむなしく、今日もかつてとほとんど同じ出来事が進行中である。我が国では、政・官・民・財界すべてが協力して、金儲けだけを第一として危険な原発推進に突き進んだ結果、取り返しのつかない事故が起きてもまだ引き返すことができない。総理夫人は権限もないのに国政に口出しし、首相は国会で虚偽答弁を繰り返し、政治家の汚職と腐敗が官庁に及び、官僚も汚職に手を染め、公文書を改ざんし、経済界は労働者を奴隷的に使役・搾取してその富を内部留保するか国家に貢ぐだけとなり、戦争放棄の憲法を食い破る形で、武器は海外へ輸出され、国内では安保法制や秘密保護法が敷かれ、共謀罪が制定され、カジノが解禁され、自衛隊は海外の紛争地域へ派遣され、国会議員が自衛隊員に脅しつけられ、シビリアン・コントロールは脅かされ、あらゆる場所で秩序の転倒が起きている。

今日も見えない「和の精神」の名のもとに追求されているのは、集団に働く人類の欲望の無制限な解放であり、それに歯止めをかけるブレーキの役割を担う知性はとことん軽視され、排除されている。我が国では、あらゆる組織や集団から、政権に逆らう個人が追放され、社会的に抹殺されており、そうなった結果、再び国全体で、良心のブレーキが全く効かなくなり、歯止めのない欲望の暴走が起き、国が再び丸ごと「虚無の深淵」に今しも飲み込まれようとしている最中である。

確かに、外国人記者の言う通り、我が国の民主主義はもはや完全に死に体なのであり、これが精神によって統御されることがなくなり、脳の機能を失って体の欲望だけが無制限に解放された「美しい国」の辿る当然の末路なのである。むろん、「美しい国」という概念における「美」が、見せかけだけの内実のない悪魔的な美であることは言うまでもない。

今や我が国では、国会も今や半ば機能停止し、国家レベルで、脳死状態が進行しつつある。それにも関わらず、「体」という集団だけは、己が欲望に突き動かされて未だゾンビのように歩き回り、ただ自分が今を生き永らえるだけでなく、永遠にまで到達しようと、果てしない欲望を募らせている。

三島由紀夫は戦後の日本社会を侮蔑しており、我が国は戦後、天皇という「かしら」を失ったために、正常な目的意識を失い、自己目的化して生きるようになったとみなして憂慮していた。「などてすめろぎはひととなりたまひし」という三島作品に登場する怨霊たちの叫びも、脳を失った体の漂流に対する危機感から来る叫びであると言えなくもない。

だが、集合体としての人類という「体」に対する真の頭首権は、三島が考えたように天皇にはなく、真の頭首権を有しておられるのは、「ひととなられたイエス」である。

聖書の神は、「わたしはある」と言われる方で、人類のためには一言も発しないグノーシス主義の虚無の深淵とは何の接点もなく正反対の存在である。聖書の神は、虚無の深淵ではなく、まごうかたなきリアリティであり、しかも、人格を持ったお方であるから、人間の弱さに同情できない方ではなく、人類の救済のために、独り子なるイエスを人として地上に送られ、現実的な解決策を自ら打ち出された。神ご自身が、神であるという姿を捨てて、卑しい人間となって地上に来られ、しかも、「肉において罰せられ」、人類の刑罰を身代わりに受けられたのである。

グノーシス主義は人間が自ら永遠と一体化するという「下からの解放」を唱えるが、キリスト教は徹底して神の側からの「上からの救済」を唱える。すなわち、イエスが人間となって地上に来られたがゆえに、これを信じる一人一人の信者は、地上にあるままで、罪のゆえに悪魔によって支配される滅びゆくアダムの奴隷状態から抜け出て、自分の人生に対する自己決定権を取り戻して自由にされるのである。

この神を信じるために、人は肉体を破壊して虚無の深淵と一体化する必要はなく、むしろ、キリストの十字架を信じるだけで、神の方から人の内に自ら住んで下さり、人と共に人自身とその周りの世界を治めて下さる。

こうして、滅びゆくだけであった人間は、キリストと共に死んでよみがえらされ、有限なる「あぶく」に過ぎない人間の中から、真のリアリティが生まれる。人の悩みも苦しみも、もはや存在しないと言われることはなく、全体から切り離された個人が虚妄であると言われるどころか、取るに足りない存在であるその土の器の中で、はかりしれない神の命の力が働き、人の内でも転倒していた秩序が回復され、霊が魂を治め、魂が肉体を治めるようになる。

ところが、グノーシス主義は、被造物が神になり代わっているために、「神」の概念が骨抜きとなり、神不在となって、その空席に、虚無の深淵が横たわっている。その虚無の深淵に、人間を救う力はなく、そこに映し出される「神の似像」としての人類の姿は、見れば見るほど、むなしく、惨めで、無きに等しいあぶくのような姿である。

グノーシス主義は、被造物が神になりすましたために、神がもとより不在であればこそ、人の苦しみに対して、何の救済策も提示することができず、そこにいる「神」は、人の苦しみをどこまでも傲然と上から目線で見下ろすだけのもの言わぬ深淵であり、それ自体がフィクションである。

グノーシス主義は、神と人との断絶を認めないがゆえに、どこまで行っても、人間にとって「自分しかいない独りよがりな物語」である。そうであるがゆえに、この思想には永遠の堂々巡りという悪循環からの出口がなく、それを終わらせるには、自己存在を滅却する以外に手立てがないのである。

グノーシス主義は、人間が聖書における神の側からの救済を退け、自力で救済に至ろうとすると、どういう結末が待ち受けているかという残酷な事実を如実に表す思想である。結局、神をどのようにとらえるかが、人の生を決定するのであって、神をフィクションや虚無とみなせば、結局、人間自身も虚無となって消えるしかない。

我が国をかつて破滅の淵まで至らせたのは、まさに個を認めないグノーシス主義的世界観であり、「和の精神」などといったものが、徹底して個人への蔑視、人間存在への軽視の上に成り立っていることに気づいて、個人を出発点としてすべての物事を考え直さない限り、我が国では何度でも同じ破滅が繰り返されるものと思われてならない。


・グノーシス主義における「智慧」(グノーシス)の本質は、人類と悪魔による神に対する嫉妬と怨念である

ところで 、平安(涅槃)の境地に至るための悟りの智慧を表す訳語であるはずの「般若」は、今日、嫉妬と怨念に狂って鬼と化した女性の顔を表す能面の呼び名になっているが、それも以上のことを考えると、不思議ではないように思われてならない。


(般若の面「面友会」のページから転載)

 
  「般若の面」という呼称が定着したいきさつは、一説では、般若坊という能面師が作った鬼の面の評判が高かったことによるとされるが、その真偽のほどは定かではない。

また、能楽の謡曲『葵上』の中には、『源氏物語』の登場人物である六条の御息所が、嫉妬に狂った怨霊となって、源氏の寵愛を受ける葵上の前に現れるシーンがあり、そこで六条の御息所の怨霊が般若経の読経によって成仏させられることから、それにちなんで能面自体が般若と呼ばれるようになったという説もある。

ちなみに、『源氏物語』も、グノーシス主義的な無常観を表すものであって、文字通りにとらえるべき物語ではないと筆者は考えている。そこでは、光源氏という人物が「ゆく河」にたとえられ、登場する女たちは、現れては消える「うたかた」の役目を果たしている。光源氏は、無常観である虚無の深淵が擬人化された存在であって、源氏が美男子として描かれていることも、被造物を神とするグノーシス主義的世界観に一致する。

源氏を取り巻く女たちにとって、彼はあたかも「神」のような存在であるが、その「神」は、人間がどんなに手を伸ばしても、手に入れることのできない、実体のない虚無の深淵のような「鏡」であり、偶像でしかない。その「神」は人間を救済することができないため、人がどんなに神を見いだそうと、「鏡」を覗き込んでも、そこに映る自分の姿を見つめれば見つめるほど、ますます弱く惨めな存在である自分自身を発見し、満足を得られず、自分には手の届かない存在への嫉妬と怨念を募らせるだけである。

六条の御息所が怨霊と化すという筋書きも、本質的には、被造物を神とする人々が、「神」を独占してこれと一体化したいと願い、それによって、むなしい「あぶく」の立場を抜け出ようと願いながらも、思いを遂げられないで滅びゆく無念を表していると言える。

このように、当ブログでは、仏教における「般若」も、グノーシス主義における「グノーシス(叡智)」と本質的に同じで、その起源は、悪魔が人類に吹き込んだ、人類を神と同一視する悪魔的な知恵であるとみなしている。その知恵は偽りであるから、彼らの言う平安の境地も存在しないフィクションである。

そのように考えると、「般若の面」が「嫉妬と怨念に狂った鬼女」の顔をしていることは、全く不思議でない。そこに描かれている「鬼女」とは、脆く儚い「うたかた」であることに我慢ができなくなり、悪魔にそそのかされて、神に対する嫉妬と怨念を燃やし、自ら神になり代わろうとして「神を簒奪する」ことを悟りの境地であるかのように偽る人類そのものの姿だと言えるのである。

鈴木大拙は、東洋思想には「母を守る」ことがその根本にあると述べたが、東洋思想が目指している究極の目的は、グノーシス主義と同じく、「ソフィアの過失を修正する」ことである。つまり、「被造物が神になる」ことによって、被造物の罪を覆い隠し、正当化をはかることなのである。

そこで、東洋思想における「母」とは、神に逆らったために楽園を追われた人類全体を指すと同時に、あらゆる制限から自分自身を解放しようとする人類の欲望それ自体も表す。それは「子」らを自分の欲望をかなえる道具として支配し、集団からの自立を決して許さない「イゼベルの霊」(怨念)とも同一である。

三島作品の真の主人公が「怨念」であることはすでに述べたが、永遠を目指しながら永遠に到達できない滅びゆく人類という「母なる存在」が、自らの限界を前に発する無念の叫びは、主人公らの中でどんどん膨張して行く。三島作品の中で、怨念は主人公らを内側から食い破って、死に至らしめた挙句、ついに体も失った怨霊という形で作品の中をさまよわせる。

その怨念は、登場人物ばかりか、ついに三島自身をも内側から食い破って破滅させる。三島は、一方では自己存在を永遠にしたいと望みながら、他方では、自ら考え出した刑罰のような死によって、自分で自分の肉体を破壊し、それによって、「色即是空 空即是色」「是故空中 無色無受想行識」を自ら体現して、「彼岸」に到達しようと試みたのである。

むろん、私たちは、そのような方法で、人の魂が解放されることなどあり得ないことをよく知っている。それは、神風特攻隊として死んだからと言って、人が天皇と同化することもなく、まして「神になる」など不可能であるのと同じであり、人が自らの肉体を滅ぼしたところで、それで霊を解放して永遠の存在となれるはずもない。

そこにあるのは、ただ自分のためだけに、永遠の美と知識と満足を追求した結果、その高慢さによって、滅びの刑罰に定められた悪魔と同じ破滅の運命であって、グノーシス主義者がどんなに自らの死を解放に見せかけたとしても、その死は、実質的に刑罰も同然なのである。

こうして、人類の罪を認めず、神と人との断絶を認めず、人類が罰せられることなく自ら神に回帰することを正当化する教えを信じると、人はまるで脳を失った体のように、欲望に引きずられて地上をむなしくさまようだけとなり、神の概念が消えるばかりか、ついに人間も消えてすべてが無となり消失する。

三島が自らの最期に際して、自衛隊に向かってクーデターを呼びかけてそれに失敗し、割腹という手段を取ったのみならず、弟子に自分の首を切り落とさせたことも象徴的である。このような最期は、どこからどう見ても、罪人に対する最も残酷な刑罰以外の何物でもなく、三島が自分で自分を処刑したことを意味するだけではない。

聖書は、すでに述べたように、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者たちが、自らの「腹」を神としていると非難している。そこで言う「腹」とは、人類の欲望の象徴であり、さらに、三島が切り落とした「首」も、キリストの頭首権の象徴である。従って、首のない体とは、神の頭首権に服さなくなった集合体としての人類を意味し、裂かれた腹も、堕落した人類の体に働く罪深い欲望に対する神の裁きを物語ると言えよう。

三島は単なる小説家ではなく、グノーシス主義という反聖書的な偽りの福音を宣べ伝える宣教師であったからこそ、自ら宣べ伝えた恐るべき「福音」がもたらす当然の結末に従い、このような破滅的な最期を遂げたのだと言える。

神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画"MISHIMA"から⑥

・被造物を神とする思想が過剰なまでの美意識とナルシシズムを生む

さて、そろそろ映画"MISHIMA; A Life in Four Chapters"の分析を抜け出たいと考えているが、今回は、これまでの分析の総まとめとして、グノーシス主義における「美」とは何かという疑問について、さらに、グノーシス主義がなぜ個人の概念を認めず、集団からの離脱を許さないのかという問題について考えてみたい。

これまで、グノーシス主義は、被造物を神とする被造物崇拝(人類の自己崇拝)の教えであり、この教えは、「父なる神」を事実上のフィクションとしてしまうため、この教えを信じると、人は神を探し求める過程で、自己の像を見つめるしかなくなり、それゆえ、歪んだナルシシズムに陥って滅びるということを再三に渡り、述べて来た。

グノーシス主義は、人間は神の「似像」として創造されたとするが、グノーシス主義における至高神とは、それ自体が「鏡」であり「虚無の深淵」であって、本体を持たないため、結局、グノーシス主義では、「似像」として造り出された被造物の方が真のリアリティだということになってしまう。

それゆえ、この教えを信じる人々は、神を探し求めると言いながら、自分自身を見つめ、己を神とするしか手段がないが、どんなに鏡の中を覗き込んで、そこに映る自分の像を見つめて、神を見いだそうとしても、そこに神はおられないため、彼らはナルキッソスのように自分を映し出す虚無の深淵に吸い込まれて破滅のうちに消えて行くしかないのである。

しかも、ただナルシシズムのうちに絶望して滅びるだけではない。彼らは神を探し求めているうちに、「虚無の深淵」である「鏡」に自分の像を質に取られ、自分をどんどん乗っ取られながら喪失して行くのである。

グノーシス主義とは、弱い者が強い者を乗っ取るというヒエラルキーの転覆を果てしなく正当化する教えである。そこで、このような秩序転覆の教えを信じると、神と人との関係が逆転するだけでなく、男女の秩序も逆転する。そして強い存在であるはずの男性が弱い女性に飲み込まれて自己を喪失するということが起きる。神の助け手となるべく創造された人類と神との関係が壊れることにより、男女の正常な秩序も崩れるのである。

詩編には次のような箇所がある。

「人の子は何ものなのでしょう
 あなたが顧みてくださるとは。
 神に僅かに劣るものとして人を造り
 なお、栄光と威光を冠としていただかせ
 御手によって造られたものすべてを治めるように
 その足元に置かれました。
 羊も、牛も、野の獣も
 空の鳥、生みの魚、海路を渡るものも。」(詩編8:5-9)

ここに、人は「神に僅かに劣るものとして」創造されたとある。確かに、聖書において、人は神の形に似せて創造されたとはいえ、人類は堕落していなかったときから、神と同一の存在では決してあり得ず、人は神よりも弱く劣った存在として造られたのである。そこには明らかに序列があり、優劣があった。

しかし、この優劣はただ単に神と人との主従関係として理解されるだけでなく、人間に任された役割を示すものと理解できる。すなわち、神は霊であるが、人間を霊的な世界と物質的な世界の両方に接点を持つ者として創造され、神の代理人として、神が造られた目に見える万物を正しく治めるために創造されたのである。

いわば、人間は神が造られたこの世という庭の園丁のような存在でもあったと言えるかも知れない。被造物は被造物でしかなく、どこまで行っても、創造主にはなれないとはいえ、人は神と交流を持ちながらも、物質界の主人だったのであり、一つの世界を治めるべき存在として、神は人間に絶大な権限を与えておられたのである。

ここで神と人とは男女になぞらえられる。つまり、神はご自分の創造された物質的な世界を治めるための助け手として人を創造し、この世界を人の監督下に置かれた。何度も言うが、人類は、神に対して霊的に女性として創造されたのである。

ところが、グノーシス主義は、人類が神よりも劣った弱い存在であることを認めず、聖書の創世記において、蛇の姿をした悪魔が人類のもとにやって来て、神は人類を神より劣った存在に貶めるために、人類の知識と力をいたずらに制限しようと「善悪の知識の木の実」を食べることを禁じていると嘘を吹き込んだ。それがグノーシス主義の始まりである。

人類はこの時、悪魔の嘘を信じて神の掟を捨てて悪魔側に寝返ってしまったので、人類の堕落と共に、この世全体の統治権が悪魔の手に渡り、悪魔が人間を奴隷として従えつつ、「この世の君」となったのである。

グノーシス主義は、今日も、その時から少しも変わらず、神と人とがあたかも本来的に対等(同一)な存在であって、そこに優劣はなく、序列もなく、主従関係もなく、知識や力の差もないのが当然であるかのように主張している。

結局、この思想は、人類が神よりも劣った存在として創造されたこと、人類が被造物であって創造主ではないという事実自体に逆らって、人類を神と同一視しているのであり、それと同時に、人類が神の被造物として有限なる存在として創造されたこと自体に被害者意識を持っていると言って良い。

グノーシス主義は、もともと人類が神より劣った存在であることを認めていなかったが、その上、人類が神に逆らって罪を犯したために死に行く存在となって、永遠性から切り離されたので、罪に対する刑罰への恨みも、もともとあった神への被害者意識の上に増し加えた。

おそらく、そのような不当な被害者意識に基づき、神を悪者とする転倒した思想は、サタン自身がもともと神に対して持っていた思想を、そのまま人類に転嫁するために吹き込んだものと考えられる。

グノーシス主義は、別な言葉で言いかえれば、人類(被造物)の側からの、神への怨念に基づく神への反逆としての、神の乗っ取り(なりすまし)の思想ということになる。事実、人類は神ではないにも関わらず、その人類が自己を神と同一視することは、人類の側からの神の存在の乗っ取りやなりすまし以外の何物でもない。

このような転倒した教えを引き延ばして行くと、当然ながら、神と人との関係だけでなく、男女の秩序も破壊される。男性の側からは、女性は自分の「似像」(同一)であると主張して女性を支配しようとするが、他方、女性の側からも同じように自分は男性の「似像」であって、両者は本質的に「同一」であり、「対等」だと主張する。

その結果、神から神であることを奪った人類(男性)は、自分も弱い者(女性)から存在を奪われ、弱い者(女性)に同化させられ、飲み込まれて消え失せる。聖書の創世記において、エバがまず最初に「善悪知識の木の実」を食べ、次に夫であるアダムをそそのかして自分と同じ違反を犯させた様子を見ても、この時点で、すでに男女の秩序が転覆していることが分かる。男が自分よりも弱い女の言いなりになって誘惑されて独自の判断を失い、死に赴かされているのである。

むろん、こうした秩序の転覆は、男女の間だけでなく、人間社会における強者と弱者との間で果てしなく繰り返される。こうして、人類が神から神であることを奪い取って、自分が神になり代わることを正当化すると、人類同士の間でも、果てしなく弱い者からの強い者への乗っ取りが起きるのである。いわば、弁証法的唯物論の原型がグノーシス主義の中にあるのだと言えよう。

さて、話を戻せば、歪んだナルシシズムと並行して、グノーシス主義者の見落とせない特徴として挙げられるのは、過剰なまでの美意識である。

三島由紀夫が自分の美意識にこだわり、その美意識があるために、自分の肉体に対するコンプレックスを常に抱え、それを払拭するために、肉体を鍛えるなどして、何とかして自分の外見を自分の目にかなう「美しいもの」に変えようとしていたことは前回までの記事で確認した。

しかも、三島の場合は、ただ単に外見を美しくしようとするというありふれた努力で終わらず、自らを「永遠の美」の領域にまで高めようとしていたことを私たちは見て来た。自らの存在を永遠にするためにこそ、三島は自分が「美しいもの」になったと考えた次の瞬間、自分の美をそのまま永久に保存するために、死に赴いたのである。

むろん、死は残酷に彼の美を破壊して奪い去っただけで、何一つ保存などしなかったが、当の三島は、死を解放であると思い込み、それが滅びであるとみなしていなかった。我々から見ると、三島の死はまさに自ら造り出した刑罰に他ならず、凶悪な罪人に対する十字架刑のような残酷な死であって、およそ解放などと呼べる類のものでは決してない。

しかしながら、グノーシス主義者は肉体からの解放を、自己存在が永遠と一つに融け合うことだと考えているため、そのような霊的刑罰としての最も残酷な死でさえも、あたかも自己存在を高めるための儀式であるかのように錯覚しつつ、それに陶酔して行くのである。

このように、「宇宙全体と一つになる」という名目で個人を消失させることが、グノーシス主義の最大の破壊的マインドコントロールの効果である。グノーシス主義は、ウロボロスの輪のシンボルにも見られるように、創造と破壊という対極のものを一つに結び合わせるという錬金術的な詐術のもとで、永遠の循環という概念を信じているため、この思想において、死は終わりとはみなされていない。死は新たなる生の始まりのようなものでしかないとみなされているため、そこに個人の死という概念は存在しないのである。

もちろん、当ブログはそういう考えを完全に荒唐無稽とみなしているが、東洋思想の基盤には、すべての生命が滅びることなく永遠に循環するという偽りの概念が脈々と流れている。そのことは、サンダー・シングの教えの偽りについて分析した際にも見て来た。

このような循環あればこそ、美という概念が、彼らにとって極めて重要性を帯びるのだと言えよう。


・被造物が堕落したために、美はその本来的な目的を失って欺きの源となった

ところで、私たちは、女性が自分の美にこだわるならまだ分かるとしても、三島のような男性が、青年期を通り過ぎ、「いい年をしたおじさん」になってから、自分の外見的な美にそれほどまでにこだわり続けたことに、かなり奇異な印象を受けるかも知れない。

だが、そのようにして自分の美にこだわることは、グノーシス主義者には男女を問わず、共通して見られる現象であって、何ら三島に固有の現象ではないのである。当ブログでは、ペンテコステ・カリスマ運動の信者が常に、人前で、弱者の救済者のように振る舞ったり、同情心溢れる純真で貞潔な信徒を演じたりしながら、自分の美的イメージを作り上げることに腐心し、その美しい外観が傷つけられることに強い抵抗感を示すことを見て来た。

彼らは自分で作り上げた美しい自己像にあまりにも耽溺しているせいで、それが現実の自分からは遠くかけ離れた虚構のイメージでしかない事実さえ、もはや自分では分からなくなっており、認められないのである。

さて、クリスチャンが、聖書の中で、自分の美に固執し続けたのは誰かと尋ねられ、真っ先に連想するのは、サタンの存在ではないだろうか。なぜなら、悪魔こそ、自分の美に対して異常なまでの自信と執着を示し、自らの美と知識と繁栄のゆえにおごり高ぶって神に反逆した張本人だからである。

聖書の中では、悪魔の起源は明らかではないが、一般にキリスト教の教理では、悪魔は神に反逆して堕落した天使の一人であるとみなされており、しかも、天使の中でおそらく最高位の神に最も近い位にあったものと考えられている。

聖書では、サタンの神への反逆と堕落がいつ起きたのかは記されていない。それが天地創造以前の段階ですでに起きていたのか、それとも、天地創造以後のことであるのかも、聖書の記述の中からは明らかでない。しかし、エデンの園で悪魔が蛇の姿を取って人類をそそのかしにやって来たところを見ると、この時点ですでに悪魔が堕落していたことは明白である。

一般的に、クリスチャンの間では、エゼキエル書28章は、悪魔の神に対する反逆と堕落の一端を明らかにするものだと考えられている。むろん、この記述が悪魔に関するものだという証拠はなく、異論も存在するが、ここでは「ツロの君」に対する宣告に重ねて、悪魔に対する神の宣告が重ねて込められているという解釈が一般的である。その記述によれば、悪魔の堕落は、悪魔が自らの美しさと知識と、不正な貿易によって増し加えた富のゆえに慢心し、自分を神以上の存在であると考えたために起きたことが分かる。

「人の子よ、ツロの君に言え、主なる神はこう言われる、あなたは心に高ぶって言う、『わたしは神である、神々の座にすわって、海の中にいる』と。しかし、あなたは自分を神のように賢いと思っても、人であって、神ではない。 」(2節)

「それゆえ、主なる神はこう言われる、あなたは自分を神のように賢いと思っているゆえ、 見よ、わたしは、もろもろの国民の最も恐れている異邦人をあなたに攻めこさせる。彼らはつるぎを抜いて、あなたが知恵をもって得た麗しいものに向かい、あなたの輝きを汚し、 あなたを穴に投げ入れる。あなたは海の中で殺された者のような死を遂げる。

それでもなおあなたは、『自分は神である』と、あなたを殺す人々の前で言うことができるか。あなたは自分を傷つける者の手にかかっては、人であって、神ではないではないか。
あなたは異邦人の手によって割礼を受けない者の死を遂げる。これはわたしが言うのであると、主なる神は言われる」。 」(6-10節)

「人の子よ、ツロの王のために悲しみの歌をのべて、これに言え。主なる神はこう言われる、あなたは知恵に満ち、美のきわみである完全な印である。 あなたは神の園エデンにあって、もろもろの宝石が、あなたをおおっていた。すなわち赤めのう、黄玉、青玉、貴かんらん石、緑柱石、縞めのう、サファイヤ、ざくろ石、エメラルド。そしてあなたの象眼も彫刻も金でなされた。これらはあなたの造られた日に、あなたのために備えられた。

わたしはあなたを油そそがれた守護のケルブと一緒に置いた。あなたは神の聖なる山にいて、火の石の間を歩いた。 あなたは造られた日から、あなたの中に悪が見いだされた日まではそのおこないが完全であった。

あなたの商売が盛んになると、あなたの中に暴虐が満ちて、あなたは罪を犯した。それゆえ、わたしはあなたを神の山から汚れたものとして投げ出し、守護のケルブはあなたを火の石の間から追い出した。

あなたは自分の美しさのために心高ぶり、その輝きのために自分の知恵を汚したゆえに、わたしはあなたを地に投げうち、王たちの前に置いて見せ物とした。

あなたは不正な交易をして犯した多くの罪によってあなたの聖所を汚したゆえ、わたしはあなたの中から火を出してあなたを焼き、あなたを見るすべての者の前であなたを地の上の灰とした。
もろもろの民のうちであなたを知る者は皆あなたについて驚く。あなたは恐るべき終りを遂げ、永遠にうせはてる」。(12-19節)

エゼキエル書の以上の宣告の中には、「ツロの君」に対する宣告と、堕落した人類に対する宣告と、悪魔に対する宣告の三つの意味が重ねられているのではないかと想像されるため、それらをすべて別々に切り離して、どこからどこまでが悪魔に対する宣告なのかを明白にすることは難しい。

しかも、この記述は、悪魔のみならず、神に背いてエデンの園を追放された人類にも、随分、重なる部分があるように感じられる。

たとえば、創世記において、人がエデンを追放された場面にはこうある。

主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。 神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。 」(創世記3:22-24)

この楽園追放の場面の記述は、「守護のケルブはあなたを火の石の間から追い出した。 」というエゼキエル書の記述に重なる。

さらに、「わたしはあなたの中から火を出してあなたを焼き、あなたを見るすべての者の前であなたを地の上の灰とした。」というエゼキエル書の記述も、「 あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」(創世記3:19)というアダムへの宣告に部分的に重なる。アダムが死んで火葬されたという話は聖書にないが、塵に帰るという表現は、灰になることとも似通っているからである。

以上の記述の中では、悪魔がかつてアダムのように肉体を持っていたのにそれを失って霊だけの存在になったのか、それとも、悪魔は最初から霊だけの存在であり、体を持っていなかったのかも明白ではない。

ただ悪魔が蛇の姿を取って人間のもとにやって来たという記述から、悪魔は霊的な存在であり、地上の被造物の中に住処を得て入り込み、人知を超えた方法で人間に語りかけることができるという事実が分かるだけである。

もしサタンが体を持たなかったのであれば、この目で見ることのできない霊的存在であるサタンに、どのような美が備わっていたのか、我々は想像することもできないが、いずれにせよ、以上の記述から分かるのは、サタンは己が美と知識と繁栄のゆえにおごり高ぶって神に対して逆らったために、特別厳しい裁きと滅びに定められたという事実だけである。

こうしたことを考えれば、聖書の神に対する反逆の教えであるグノーシス主義においても、美意識や美という概念が極めて重要性を帯びて来るのは不思議ではない。

ここで私たちは「美とは一体、何なのか」という根本問題について考えてみたい。そもそも、美というものは、それだけで成立するものではなく、これを見る者、愛でる者、鑑賞し、評価する者があって、初めてその真価を認められるものである。

そういう意味で、美とは、それを有する自己のためにあるというよりも、これを鑑賞する他者の満足のために備えられたものであると言うことができるかも知れない。

花は花自身のために美しく装うわけではない。深海の驚くべき生物たちも、空を飛ぶ鳥たちも、その瞠目すべき彼らの美は、明らかに彼ら自身の命のためだけに用意されたものではない。同様に、フェミニストたちは憤りを表明するかも知れないが、女性の美も、女性自身のためにあるわけではなく、これを見てその美しさを評価する他者のために存在している。その真価を最も評価できるのは男性であろう。

そうしたことから考えると、人間の美、そして、被造物の美とは、最終的には、これを創造した神の満足のために備えられたのであり、被造物自身の満足のためにあるのではないということが言える。

そして、神は決して人を外見だけで偏り見て評価せず、人の心を見られることも聖書には記されている。神が求めておられるのは、外見だけの美ではなく、外見と内面とが一致した、神への従順を通して自然に生まれて来る美しさだと言えよう。

そこで、もしサタンに美が備わっていたというならば、その美も、本来はサタン自身を満足させるために備えられたものではなく、神の満足に奉仕する目的で付与された性質だったはずであると言える。

しかし、サタンはその美を自分自身のために悪用し、まるで自分の手柄のように誇ったため、その瞬間に、サタンの外見的な美が、内面的な美と乖離した。サタンは神に背いて内面的な美を失っていたにも関わらず、外見的な美しさを誇り続けた結果、その美は、表面的でうわべだけの見せかけのものとなり、さらに、サタンに滅びの宣告が下されたことにより、その美は完全に実質とは正反対の欺きの性質となってしまった。

こうして見て行くと、美とは、被造物全般に共通する特徴であることが分かる。神に愛でられ、神の満足のために創造された被造物であるがゆえに、あらゆる被造物は、滅びゆく存在でありながらも、みな束の間の美を付与されていると言えるのである。

ところが、被造物全体が堕落したがために、サタンはおろか、被造物の美は、本来の正常な働きを失って、不幸の源となってしまった。被造物は、サタンと同じように、他の被造物と自らの美を競い合い、手柄のように誇りながら、自分の満足のために、自分の美に固執しつつも、一瞬でその輝きを失って滅んで行くしかない存在になった。人間の持つ美醜の概念は、それ自体が欺きとなり、偽りとなり、形容しがたい醜い争いを生む根源となった。


・グノーシス主義の美意識は、無常観と密接な関係がある

ここで、話が唐突に変わるように思われるかも知れないが、ここでグノーシス主義的な世界観と美の関係性について述べるために、「いろは歌」について触れておきたい。

日本人が誰でも知っている「いろは歌」は、中世から存在しており、平安時代にはすでに存在が確認されているが、誰がどういう目的で作ったのかは明らかでない。

この「いろは歌」には、単なる文字の学習という域をはるかに超えた深淵な無常観を表す思想が込められており、それ自体が、般若心経などと同じような「誦文(ずもん)=呪文」である。もちろん、当ブログの読者であれば、あえて説明せずともお分かりかと思うが、「いろは歌」に込められている思想も、やはりグノーシス主義である。そのことを確認するために、まずは「いろは歌」の解釈を確認したい。

 


(この達筆の書は「極楽浄土~浄土宗~仏教用語集」から借用)

色はにほへど 散りぬるを
(どんなに美しく芳しい香りを放って咲いている花も、すぐに散って枯れて行くように、すべての存在は束の間にしか存在せず、永遠性を持たない滅びゆくものである。[=諸行無常])

我が世たれぞ 常ならむ
(それと同様、人間がこの世の春を謳歌して生きていられるのも、ほんの束の間だけのことであり、人間存在も滅びゆくものであって、永遠ではない。[=是世滅法])

有為の奥山  今日越えて
(目に見えるものも、見えない心の有様も、何もかも束の間に現れては消える儚い幻想に過ぎないが、そのことが分かれば、この世の無常を乗り越えることができるため、 [=消滅滅己])

浅き夢見じ  酔ひもせず
(もはや儚い夢に浮かれたり、この世の苦楽に溺れたりもせず、この世の過ぎ行く有様を超えた平安な心の境地に至ることができる。 [=寂滅為楽] )


「いろは歌」が示しているのは、要するに、目に見える被造物の美しさも含めて、この世の有様のすべては幻のように仮初であり、すべての目に見えるものが、生成から滅亡への過程を辿っているように見えても、その本質は「空=無」であるという思想である。

さらに言えば、すべてのものが一時的でしかなくその本質は「空=無」であることを悟るとき、人々は心の中にあるすべての苦しみを超越して、自己と永遠を一体化させて無我の境地に至り着いて平安を得るという思想である。

この「いろは歌」は仏教思想の本質を表しているとよく言われるが、当ブログでは、仏教を含め、世界の本質が「無」であるというこの種の思想はみな根本的にグノーシス主義であるとみなしている。

つまり、「いろは歌」の中に込められているのは、万物の生成と消滅を一つの循環のようにとらえ、この輪の背後に巨大な永遠(=無)が存在するという思想なのであって、それはウロボロスの輪が意味するものと同じであり、さらに、『国体の本義』が説く「和の大精神」とも本質的に同じである。

すでに見て来たように、『国体の本義』が説くのは、我が国において、「天照大神」を始祖とする神話を継承する天皇家に始まり、先祖代々から人々が誕生と死を繰り返しながら全体として受け継いで来た「和の精神」によって、日本人は「天壌無窮」すなわち永遠に到達し、生成と消滅の「和=輪」の中で、「永遠の今を生きる」という思想である。

ウロボロスの輪がグノーシス主義の思想を表すシンボルであるのと同じように、「和の精神」という言葉や、「いろは歌」という呪文も、それ自体がグノーシス主義と本質的に同じ思想を表すシンボルなのだと言えよう。

(ちなみに、余談であるが、この「いろは歌」には暗号が隠されているといった話があり、その暗号を読み解くと「咎なくして死す」というメッセージが読み取れるという解釈がある。そのような説は江戸時代からあったらしいと思われ、それゆえ、いろは歌は、赤穂浪士の切腹を描いた人形浄瑠璃の題名に使われたり、柿本人麻呂の遺言や、菅原道真の無念が込められていると言った諸説が登場している。さらに、今日では、そこからもっと進んで、「咎(罪)無くして死んだ」者とは、イエス・キリストを示しているといった奇抜な解釈まで見られる有様である。
 


しかしながら、当ブログではこうした暗号の問題に立ち入るつもりはない。また、仮にいろは歌の中に、「咎なくして死す」という暗号が込められているとしても、この歌自体が、無常観という反聖書的な概念のもとに成り立っている以上、その暗号が決してイエス・キリストを指しているはずがないことは明らかであるものと確信する。

仮にこの「いろは歌」を暗号として理解したとしても、そこから読み取れる通低音は、やはり、「などてすめろぎはひととなりたまひし」という三島作品の叫びと同様に、「人類に罪はない! なのに神が人間を滅びに定めたのは不当だ!」というグノーシス主義に常なる滅びゆく人間の無念(被害者意識、怨念)の叫びだけである。)

「いろは歌」の中には「美」という概念がはっきり登場しているわけではないにせよ、そこでは「色」すなわち、この世の物質界の現象が一時的な形を取って現れる有様を「美」と同一視することもできよう。そう考えれば、美とはまさに永遠性を持たない一時的なもの、脆く儚いものの別名、代表格も同然となる。

そのように物質世界の諸現象が、脆く儚い有限な一時的存在として形を取って現れること自体が、グノーシス主義的な美の概念であるとも言えるかも知れない。言い換えれば、グノーシス主義における「美」には、確固たる存在の裏づけがないのである。

さらに、グノーシス主義の神話的プロットにおいて、唯一「醜い存在」として非難されているのが、ヤルダバオートおよび堕落したカインとアベルの種族であることを見ても、我々は、グノーシス主義における美醜の判断の基準が、「自分よりも上位の被造物の思惑を無視して自分にこだわること」と密接な関係を持っていることが分かる。

グノーシス主義が、被造物の間に貴賎を設け、カースト制のようなヒエラルキーを造り出すことを正当化する教えだということはこれまで度々述べて来たが、そのようなヒエラルキーは、グノーシス主義の神話においては被造物がどれほど至高者である神に近い存在であるかに応じて序列が定められていることに由来する。大田俊寛氏は、『グノーシス主義の思想<父>というフィクション』の中で次のように述べる。
 

これまでに述べてきたように、プレーローマ界に住まうアイオーンの神々は、すべて「深淵」である至高神から流出する。しかしながら、それゆえにすべてのアイオーンが平等の立場にあるかと言えば、実はそうではない。「(原)父」である至高神を見ることができるか、またそれによって自分自身を知ることができるかということに応じて、アイオーンたちのあいだには、暗黙の裡にヒエラルキーが設定されているのである。(『グノーシス主義の思想<父>というフィクション』、春秋社、p.126)

注目すべきは、このヒエラルキーは神と被造物の関係を指すというより、被造物同士の序列を指すことである。悪とは、このヒエラルキーを覆すことである。しかし、グノーシス主義における至高神は、物言わぬ深淵であるから、自分にたてついた者を罰するために出てくることもない。従って、そのヒエラルキーは、至高者の目から見たヒエラルキーではなく、被造物同士の序列だということができる。

グノーシス主義における美醜の概念や、善悪の概念は、このような被造物同士の序列と密接な関係があり、被造物の社会の序列の中で、「空気を読み、自分の分をわきまえて行動すること」こそ美(善)であり、「被造物同士の間で、自分の分をわきまえないで行動すること」が醜(悪
)なる性質であるかのようにみなされる。

ソフィアはヒエラルキーを犯したがそれを後悔して、自分の分をわきまえようとしたのでとがめられることなく、また、ソフィアの行為は、自分も至高神を知りたいと願っていた他の被造物全体の思いを代弁していたため、同情されることはあっても、罰せられることはなかったが、ソフィアの過失の結果として生まれたヤルダバオートは、周りも憚らず、「私は妬む神である。私の他に創造主はいない」と宣言し、自分だけが神であると述べて、自分よりも上位の他のすべての被造物に恥をかかせ、面目を失わせたために「醜悪な存在」として侮蔑と嫌悪の対象とされているのである(もっと言えば、ヤルダバオートは出生の段階から母であるソフィアに恥をかかせていた)。さらに、カインとアベルの種族も、己が欲望だけに邁進して流血と殺人を繰り返す種族であるから醜悪な種族なのだという。

早い話が、グノーシス主義では、神との間で被造物がヒエラルキーを犯すことは無罪放免される一方で、被造物の間のヒエラルキーを犯して自分の存在を絶対化しようとすることは、非常に醜悪な行為とみなされ、侮蔑の対象となるのである。つまり、被造物自身が創造主を差し置いて、善悪や美醜の判定者になってしまっているのだと言える。

そこから考えると、グノーシス主義における美とは、「被造物同士の序列の中で、個々が自分の分をわきまえて、自分を手放すこと」と深い関係があることが見えて来よう。端的に言えば、グノーシス主義は、被造物が「全体のために自分を捨てる」状態にあることこそ「美」(善)であるとみなし、序列を無視して自分に固執する状態を「醜」(悪)とみなしていると言っても良い。それだからこそ、この思想における美は、自己存在の裏づけを持たない、脆さ儚さと切り離せないものとなのである。

このような考え方は、次回でも触れるように、『国体の本義』に現れる「和の大精神」にも通じる。『国体の本義』は、個人の平等を認めず、社会の中に身分制度としての差別的ヒエラルキーをもうけ、その中で、人が「分をわきまえて行動する」ことで、全体の秩序(和)が保たれるかのように教えた。そして、個人はそのような差別的な序列に従ってこそ、その真価が発揮できるかのように説き、決して個人がそのヒエラルキーから離脱することを許さず、集団を離れた個人という概念自体を認めなかった。

グノーシス主義における「美」の概念は、このように差別的なヒエラルキーを守り抜くためにもうけられる「和」の概念と無関係ではない。それは被造物が創造主なる神に従うことによって保たれる美ではなく、むしろ、被造物自身が、神から盗み取って得た美であり、被造物同士が互いのヒエラルキーを保たせ、威信を保つための美である。

その「美」は、弱い者が自分よりも強い者のために自分を捨てながら、個であることを放棄して被造物全体と一体化することによって、初めて成し遂げられる「和」の一部である。

そうした思想の究極の形が、自分が無であること悟ることで世界と一体化するという仏教的な無常観、および、肉体からの霊の解放を救済とみなすグノーシス主義の思想の中に表れている。このような思想は、人が自己存在にこだわることをやめ、自分が生成し消滅する個としての命であることさえ否定し、自己存在が移ろいゆく不確かなものであるばかりか、本質的に無であることをわきまえ、自己存在をまるごと放棄して、永遠=無の中に身を投げる時に、初めて人と世界が一体化して全体の中の調和が取り戻され、被造物があるべき美を取り戻すのだと述べているに等しく、極言するならば、それは滅びと死の中に「美」を見いだそうとする倒錯した思想なのである。

別な言葉で言えば、その「美」は「哀れ」という感情とつながっており、命がヒエラルキーに従ってディスカウントされて完全性を失って行くことによって初めて得られるものである。こうした世界観では、あらゆる生命が死や滅びによって脅かされる儚く脆い存在であることを前提として初めてそれらの生命の「美」が成立するのであり、「美」とは本質的に「可哀想」という感情と一体化しているとも言える。別な言い方で言えば、滅びゆく被造物の無念とそれに対する同情という被害者意識に基づく感情自体が、美という形で表現されていると言えるのである。

日本人は「いろは歌」を通して、知らないうちに、世界の本質が無であるという思想に触れて、その世界観を無意識的に呪文として唱え、呼び出しているのであり、「いろは歌」に込められている無常観は、次回で説明するように、般若心経の中で、もっとはっきりと鮮明で凝縮された形を取って表れている。

<続く>

2018年4月14日 (土)

神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画"MISHIMA"から⑤

・ウロボロスの輪と「和の大精神」に見る「二度目の林檎を食べる」という嘘
 
映画"MISHIMA"の終わりで三島は言う、「知性などをはるかに超えたもっと本質的に大切なものが、どこかにあるはずだ。芸術と行動を調和させる何かが。」

この言葉を通しても、私たちは三島が鈴木大拙とほぼ同一の見解に立って、人間の本質とは「知性」をはるかに超えたところにあるものと考え、「行」が「知」によって排除されることのない、全一的な世界を求めていたことを知ることができる。

三島は、「知と行」、「芸術と行動」、「精神と肉体」、「男と女」、「自己と他者」といった、あらゆるの隔ての壁をなくすことで、自分が何者によっても疎外・排除されることのない、完全性、永遠性を身に着けられるかのように考え、自分なりに、最初のエデンの「一段の進出」である「入不二法門の世界」へ入ろうとしたのである。

三島にとって、第二のエデンである全一的な世界は、日輪というシンボルで表される。日輪は、三島の美意識が無限大に拡大して行きついた最後の姿であり、かつて三島を外界に誘い出し、彼が肉体の衝動に従って生きることで、自ら肉体を縛っている制約を取り払い、自己疎外を終わらせられるかのように教えたギリシアやハワイで見た太陽と同じである。

三島はこの「日輪=太陽」というシンボルの中に、「すべての疎外が解消された隔てのない世界」を見、その「母なる神」の懐に飛び込むことで、自己存在を永遠と溶け合わせることができるかのように考えた。

その日輪が、天皇家の神話上の始祖とされる天照大神と同一であることは言うまでもない。それは慈悲によってすべてを包容する、決して人間を排除することなく、人間を罪に定めたり、楽園から追放したり、滅ぼしたりすることのない、東洋的な慈悲の神のシンボルであり、東洋思想の「神秘なる母性」の象徴である。

さらに、日輪は「輪」であるから「和」の精神をも指す。「和」とは、かつて『国体の本義』を通して確認したように、「神と人との隔てがなくなった状態」、あらゆる区分が取り払われ、すべてが一体となった全一的な世界を指す。

三島は、自分と世界との区別を取り払うことにより、自分が永遠の存在となるかのように考え、自ら日輪の懐に飛び込むことで、「肉体の牢獄から霊を解放する」という、グノーシス主義の最後の錬金術を達成しようとしたのである。


 


知性などをはるかに超えたもっと本質的に大切なものが、どこかにあるはずだ。芸術と行動を調和させる何かが。私はそれが死であると考えた。

地球は死に包まれている。上空には空気がない。
極めて純粋で単純な死がひしめいている。4万5千フィートの上空では、銀色の弾痕は裸になった光の中に見事な平衡を保って浮かんだ。

私の心はのびやかで、生き生きと思考していた。何一つ動きもなく、音も、記憶もない。機体の閉ざされた部屋と、外の開かれた世界とは、一人の人間の精神と肉体のようなものであった。

究極の行為の果てに、私が見るであろう光景が、今私の目の前にあった。雲も海も太陽も、すべてが私の一部であった。もう矛盾は一つもなかった。

精神と肉体も、芸術と行動も、男と女も、

あらゆる対極性を一つのものにしてしまう巨大な輪は、ゆっくりと地球の周りをまわった。それは死よりも大きな輪、これこそ、私の求めてやまぬ地点であった。
 

 

 
さて、私たちはここで、日輪という「輪」が、グノーシス主義のシンボルとしてのウロボロスの輪にもぴったり重なることを見いだす。

すでに見て来た通り、日輪は、対極にあるものの統合であり、それは被造物の究極の美を表すと同時に、被造物の限界としての死をも意味する。

ウロボロスの輪も、これと同様に、死と再生、破壊と創造のように、相反するもの、対極にあるものの統合の象徴であり、世界が本来的に一つであるという思想を表す。

つまり、「和の大精神」なるものも、ウロボロスの輪も、本質的に同一の概念を指しているのであり、それは三島が言った通り、「あらゆる対極性を一つのものにしてしまう巨大な輪」であり、永遠でありながら、同時に死の象徴なのである。
 
「あらゆる対極性を一つのものにしてしまう巨大な輪は、ゆっくりと地球の周りをまわった。それは死よりも大きな輪、これこそ、私の求めてやまぬ地点であった。」



このように解釈すると、『国体の本義』で説かれている、「すべて葛藤が終局ではなく、和が終局であり、破壊を以て終らず、成就によつて結ばれる。ここに我が国の大精神がある。」という記述内容は、まさにウロボロスの輪をそっくり体現したものであり、まさしくグノーシス主義の悲願としての「破壊」と「創造」の一体化による永遠性を指していることが分かる。

もう一度、『国体の本義』の中で、日輪(天照大神)がどのように永遠のシンボルとして描かれているかを見てみよう。
 

国体の本義
第一 大日本国体、一、肇国から抜粋


大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いてゐる。而してそれは、国家の発展と共に弥々鞏く、天壌と共に窮るところがない。我等は先づ我が肇国(てうこく)の事事の中に、この大本が如何に生き輝いてゐるかを知らねばならぬ。

我が肇国は、皇祖天照大神(あまてらすおほみかみ)が神勅を皇孫瓊瓊杵(ににぎ)ノ尊に授け給うて、豊葦原の瑞穂(みづほ)の国に降臨せしめ給うたときに存する。<略>

天照大神は日神又は大日孁貴とも申し上げ、「光華明彩しくして六合の内に照徹らせり」とある如く、その御稜威は宏大無辺であつて、万物を化育せられる。

 天照大紳は、この大御心・大御業を天壌と共に窮りなく弥栄えに発展せしめられるために、皇孫を降臨せしめられ、神勅を下し給うて君臣の大義を定め、我が国の祭祀と政治と教育との根本を確立し給うたのであつて、こゝに肇固の大業が成つたのである。我が国は、かゝる悠久深遠な肇国の事実に始つて、天壌と共に窮りなく生成発展するのであつて、まことに万邦に類を見ない一大盛事を現前してゐる。
<略>

 天壌無窮とは天地と共に窮りないことである。惟ふに、無窮といふことを単に時間的連続に於てのみ考へるのは、未だその意味を尽くしたものではない。普通、永遠とか無限とかいふ言葉は、単なる時間的連続に於ける永久性を意味してゐるのであるが、所謂天壌無窮は、更に一層深い意義をもつてゐる。即ち永遠を表すと同時に現在を意味してゐる。

現御神にまします天皇の大御心・大御業の中には皇祖皇宗の御心が拝せられ、又この中に我が国の無限の将来が生きてゐる。我が皇位が天壌無窮であるといふ意味は、実に過去も未来も今に於て一になり、我が国が永遠の生命を有し、無窮に発展することである。我が歴史は永遠の今の展開であり、我が歴史の根柢にはいつも永遠の今が流れてゐる。

 
こうした記述から、私たちは『国体の本義』で述べられている思想は、ただ単に天照大神を始祖とする「万世一系」の天皇家の神話に基づく建国神話といったレベルをはるかに超えた、もっと恐ろしい思想であることが分かる。

ここにおいて、日輪=天照大神とは、はっきりと「天壌無窮」すなわち永遠性のシンボルであると表明されており、そのシンボルのもとに統合される一大家族国家である日本の使命とは、「過去も未来も現在もすべてが一つとなって、永遠の生命を有し、『永遠の今』を生きる」ことにあるとされる。

つまり、「和の大精神」の目指すところは、一言で言えば、人間が自力で永遠の生命にたどり着き、「入不二不問の世界」「一段の進出」としての第二のエデン、神と人との一体化した究極の状態へとたどり着くことであり、それを実現することが、大日本帝国という(虚構の)「国体」の使命(本義)とされていたことが分かるのである。

国体の本義
四、和と「まこと」、
神と人との和 より抜粋

「更に我が国に於ては、神と人との和が見られる。これを西洋諸国の神人関係と比較する時は、そこに大なる差異を見出す。西洋の神話に現れた、神による追放、神による処罰、厳酷なる制裁の如きは、我が国の語事とは大いに相違するのてあつて、こゝに我が国の神と人との関係と、西洋諸国のそれとの間に大なる差異のあることを知る。このことは我が国の祭祀・祝詞等の中にも明らかに見えてゐるところであつて、我が国に於ては、神は恐しきものではなく、常に冥助を垂れ給ひ、敬愛感謝せられる神であつて、神と人との間は極めて親密である

 又この和は、人と自然との間の最も親しい関係にも見られる。我が国は海に囲まれ、山秀で水清く、春夏秋冬の季節の変化もあつて、他国には見られない美しい自然をなしてゐる。この美しい自然は、神々と共に天ッ神の生み給うたところのものであつて、親しむべきものでこそあれ、恐るべきものではない。そこに自然を愛する国民性が生まれ、人と自然との和が成り立つ。
<略>かゝる自然と人との親しい一体の関係も、亦人と自然とが同胞として相親しむ我が国本来の思想から生まれたのである。

 この和の精神は、広く国民生活の上にも実現せられる。我が国に於ては、特有の家族制度の下に親子・夫婦が相倚り相扶けて生活を共にしてゐる。「教育ニ関スル勅語」には「夫婦相和シ」と仰せられてある。而してこの夫婦の和は、やがて「父母ニ孝ニ」と一体に融け合はねばならぬ。即ち家は、親子関係による縦の和と、夫婦兄弟による横の和と相合したる、渾然たる一如一体の和の栄えるところである。

 更に進んで、この和は、如何なる集団生活の間にも実現せられねばならない。役所に勤めるもの、会社に働くもの、皆共々に和の道に従はねばならぬ。夫々の集団には、上に立つものがをり、下に働くものがある。それら各々が分を守ることによつて集団の和は得られる。分を守ることは、夫々の有する位置に於て、定まつた職分を最も忠実につとめることであつて、それによつて上は下に扶けられ、下は上に愛せられ、又同業互に相和して、そこに美しき和が現れ、創造が行はれる。

 このことは、又郷党に於ても国家に於ても同様である。国の和が実現せられるためには、国民各々がその分を竭くし、分を発揚するより外はない。身分の高いもの、低いもの、富んだもの、貧しいもの、朝野・公私その他農工商等、相互に自己に執著して対立をこととせず、一に和を以て本とすべきである。

 要するに我が国に於ては、夫々の立場による意見の対立、利害の相違も、大本を同じうするところより出づる特有の大和によつてよく一となる。すべて葛藤が終局ではなく、和が終局であり、破壊を以て終らず、成就によつて結ばれる。ここに我が国の大精神がある。而して我が国に現れるすべての進歩発展は、皆かくして成される。聖徳太子が憲法十七条に、
 和を以て貴しとなし、忤ふることなきを宗と為す。人皆党有り、亦達れる者少し。是を以て或は君父に順はずして、乍隣里に違ふ。然れども上和ぎ下睦びて、事を論はむに諧ひぬるときには、則ち事理自らに通ず。何等か成らざらむ。
と示し給うたのも、我が国のこの和の大精神を説かせられたものである。」

   
「和の大精神」がウロボロスの輪に重なるだけでなく、そこで描かれる社会のヒエラルキーもグノーシス主義に固有の概念であることについては、今は細かい説明はしないが、結論だけを述べるなら、一方では「すべてのものが一つに融合している」と言いながら、他方では、人間に貴賎をもうけ、差別的な身分制度を作り出し、「各々が分を守る」などという名目で、固定化された身分制度の中に人を閉じ込め、離脱を許さないのもグノーシス主義の特徴である。

  私たちは今日、この壮大な「和の精神」に基づく国家的神話が、我が国にどんな悲惨をもたらしたのかを知っており、三島がどういう形で生涯を閉じたのかも知っている。

『国体の本義』は、初めから「天皇の御ために身命を捧げることは<略>、小我を捨てて大いなる御稜威に生き、国民としての真生命を発揚する所以である。として、すべての「臣民」が、日輪の化身たる天皇のために命を捨てることこそ、「真生命の発揚」であると厚かましく要求していた。このようにして「死をもって永遠性に到達する」というグノーシス主義の究極目的が、狂信的な個人の中だけの願望にとどまらず、国家レベルですべての国民に要求されたのが、軍国主義時代の日本の歴史なのである。
 

第一 大日本国体、三、臣節、忠君愛国 より抜粋

我が国は、天照大神の御子孫であらせられる天皇を中心として成り立つてをり、我等の祖先及び我等は、その生命と流動の源を常に天皇に仰ぎ奉るのである。それ故に天皇に奉仕し、天皇の大御心を奉体することは、我等の歴史的生命を今に生かす所以であり、こゝに国民のすべての道徳の根源がある。

 忠は、天皇を中心とし奉り、天皇に絶対随順する道である。絶対随順は、我を捨て私を去り、ひたすら天皇に奉仕することである。この忠の道を行ずることが我等国民の唯一の生きる道であり、あらゆる力の源泉である。されば、天皇の御ために身命を捧げることは、所謂自己犠牲ではなくして、小我を捨てて大いなる御稜威に生き、国民としての真生命を発揚する所以である。

 
三島は、敗戦という過去の歴史を通して、以上のような思想が、実現不可能な虚偽でしかないことがすでに証明されたにも関わらず、それでも、時代に遅れて登場した人間として、過去に失敗に終わった思想を再び個人的な人生で再現しようと、同じ実験に着手し、第二のエデンの出現を目指して、当然の破滅に至ったのである。

三島が目指した「永遠の美」は、すでに述べたように、対極性のある二つの概念を一体化したものであり、美の極致、永遠の完成でありながら、同時に、死と、抑圧と、限界のシンボルでもある。いわば、それは虚無の深淵そのものである。

日輪は、被造物全体の究極の美を象徴すると同時に、被造物が持つ有限性や滅びそのものの象徴なのである。彼はそれが「死よりも大きな輪」であると言うが、そのようなものは現実には存在しない虚構の概念でしかない。

そうであるがゆえに、この日輪は、被造物の限界を表すだけでなく、永遠を目指しながら、決して自力でそれに到達することができず、永遠から疎外され、決して満たされることのない渇望を抱える被造物の呻き、怨念と呪詛をも意味するのである。

日輪は、いわば、滅びゆく被造物全体の無念の象徴であり、それゆえ、「母なるもの」すなわち被造物の怨念と呪詛による支配を象徴するのである。

三島作品には、人間存在を縛っている怨念や呪縛による支配が、常に影のようにつきまとう。そして、その怨念もまた、他のシンボルと同様に、晩年になるに連れて、個人的なスケールから国家的スケールへと昇華される。

たとえば、『鏡子』の家では、高利貸しの女の怨念が、主人公の俳優の人生を乗っ取り、俳優に憑依して心中へ追いやるが、『憂国』の主人公は、二・二六事件で銃殺された将校らの無念(怨念)に憑依されて、彼らの道連れとなるために、自ら死へと赴く。

さらに、『英霊の声』になると、その怨念は、二・二六事件で天皇を守ろうとして銃殺された青年将校らの無念に加えて、神風特攻隊として死んだ兵士らの怨念という形に「昇華」されている。

『英霊の声』では、霊媒師の川崎君が、「鏡」の役割を果たしている。川崎君は、非業の死を遂げて怨霊と化した死者の霊の発する声に一身に耳を傾け、これを代弁して言う、戦後の日本が我欲に邁進し、すっかり自堕落になり駄目になってしまったのは、天皇が人間宣言をしたからだと。それゆえ人々は心のよすがをなくし、自己の尊厳を失い、見当外れな欲望に邁進し、戦死者らの非業の死は全く浮かばれず、彼らは怨霊と化してさまよっているのだと。

川崎君は、「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」(=なぜ天皇は人間などになってしまわれたのか)という怨霊たちの呪詛の大合唱を浴びせられた結果、自ら天皇の身代わりとして怨霊たちの集中攻撃を浴びて呪い殺される。死んだとき、彼は自分の顔を失って、神とも人間ともつかぬ、何者か分からない曖昧な顔になっていたという。

これもまさにウロボロスの輪である。神であると同時に人間であるという相反する状態が、川崎君の死において実現したのである。結局、「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」という怨霊の叫びは、天皇についてのみ言われたのではなく、永遠に達したいと望みながら、永遠に到達することができず、どっちつかずの状態をさまよいながら、滅びへ向かう被造物全体の無念を象徴しているのである。

つまり、『英霊の声」においては、神になりたいと願いながら、神から切り離されて、永遠から疎外され、滅びに定められている人間全般の抱える無念が、怨霊の声という形で表されたのである。

ここまで来ると、三島作品の登場人物は、偽りの神話によって個性を失っただけでなく、体さえ失って、ついに霊だけになっている。

三島作品の主人公らは、『憂国』においてすでに肉体を脱ぎ捨てていたが、その結果、ついに肉体を失った霊だけの登場人物が現れるという、とんでもない展開が実現しているのである。

そして、このことを通して、私たちは、三島作品の真の主人公は、本当はあれやこれやの人物ではなく、疎外された者たちの怨念であったという事実が分かるのである。

グノーシス主義が、神に疎外された人間による復讐の哲学だと書いた理由はここにある。グノーシス主義はもともと宗教でもなく、独自の神話もないため、どのような宗教や思想の中にでも入り込み、それを換骨奪胎して自分に都合よく作り変えることができる。

ちょうど肉体を失った怨霊が別人に憑依するように、自らの母体を持たないグノーシス主義は、既存の宗教や思想にいくらでも寄生して、そこで自らを増殖・発展させる思想なのである。

三島作品は、ほとんどすべてが無意識のうちに、グノーシス主義的テーマを体現することだけを目的として書かれたものであると言って良く、さらに三島自身が、この思想を自ら体現するために生きたのだと言える。

そこで、三島が晩年に近づくに連れて、グノーシス主義という思想それ自体が、無限大に膨らんで、作品の登場人物や三島の人生を押しつぶし、彼らの人格の内側で、巨大なパン種のように膨らんで、本体を食い破ってしまうのである。

グノーシス主義は、被造物が自力で己が過ちを修正して神に疎外された状態を解消することを目指す思想であるため、これは、どこまで行っても、真実な神が登場しない、人間が自分に都合よく作り出した独りよがりな物語であると言える。

この思想における神のイメージは、被造物自身と言って良いほどに、被造物と瓜二つの被造物の似像であり、それゆえ、グノーシス主義の神は、被造物に都合よく作り変えられ、事実上、被造物に乗っ取られて、不在となっていると言えるのである。

そのためにこそ、この思想はどこまで行っても、人間にとって、「自分しかいない」独りよがりな物語であり、そうであるがゆえに、全くどこにも出口を見い出せない堂々巡りの思想なのである。

すでに見て来たように、人間が堕落したのは、エデンの園において、人が神の掟に背き、「知」を捨てて「行」を優先した結果であり、その堕落のゆえに、「行」はその美しさを失って、醜悪な恥ずべきものへと転落し、人間の中で精神と肉体が乖離し、肉体の疎外が起こった。

だとすれば、人間がその異常な状態を解消するためにできることがあるとすれば、それは人間がもう一度、神の言葉という「知」を見いだして、それに「行」を一致させることにしかない。

にも関わらず、グノーシス主義者は、人間が「知」の制約を嫌って、肉欲をほしいがままにしたことが、失楽園の原因となったという事実を全く認めようとはず、詭弁を弄することで、そのように転倒した状態のままで、人があたかも再び「知」と「行」を統合して、全一的な美しい自己の姿を取り戻し、永遠の存在となれるかのように教える。

このような錬金術・イカサマによって、堕落した肉に過ぎないものを、神聖な神の霊に属するもののように見せかけようとする結果、グノーシス主義者らは、自力で被造物としての限界を打ち破って、自らを永遠の存在に高め、神と融合するために、悲惨な自己破壊に赴くという悲劇に至るしかないのである。

こうして、これらの錬金術師たちの身の上に、肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。」(ローマ8:13)という聖書の御言葉の正しさが証明されるのである。

しかも、彼らに降りかかる死は、ただの死ではない。まるで偽りの思想に従って生きると、どのように救いようのない報いが降りかかるかを、全世界に教訓として見せつけるかのように、彼らは解放という名目で、死の中でも最も酷たらしい非業の死を自ら選択して行くのである。

私たちは、三島の死の介錯をした盾の会の会員や、『憂国』に登場する陸軍中尉の妻などが、ちょうど『ユダの福音書』におけるイスカリオテのユダと同じように、師の霊を肉体から解放する手助けをする弟子の役割を果たしていることに気づかないわけにいかない。

グノーシス主義とは、聖書の神の福音から疎外された人々が、キリストの十字架によらずに、自己の罪を自力で「修正」し、自力で神に到達しようとする偽りの福音であるため、これを信じた人々は、キリストの贖いの十字架を拒否する代わりに、自力で罪を贖うために、最も残酷で悲惨な十字架を再び地上に作り出し、自分自身を磔にすることを余儀なくされるのである。

(*以下の場面では、窓枠がグノーシス主義の歪曲された十字架を象徴していることに注意したい。)

 



 
 
 

『奔馬』の主人公は、社会正義のために人殺しを達成し、自殺を遂げる際に言う、「まさに、刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪はまぶたの裏に赫奕と上った。」と。

このようなものは、テロリストの思想としか言えないであろう。三島や三島作品の主人公らが自己破壊に至るのには、『奔馬』の主人公が、殺人によって社会を悪から浄化しようと考えるのと同じ原理に基づいている。

彼らは、罪を贖う内なる十字架を持たない代わりに、外なる十字架を作り出し、暴力によって己が理想を実現しようとするのである。それが他者の破壊を正当化するテロリズムの思想になると同時に、やがては自己の破壊という結果となって跳ね返るのである。

聖書によれば、このような教えに従って歩む人々は、まさにキリストの十字架の敵である。

彼らは、自分たちは、被造物が脅かされることのない、弱者に優しい美しい世界を目指しているのだと言うかも知れないが、聖書は、グノーシス主義の「神」とは、彼らの「腹」すなわち、人間の欲望であるとはっきり告げている。

「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。

何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、
キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです、彼らの行き着くところは滅びです。彼らは 腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。

キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に造り変えてくださるのです。」(フィリピ3:17-21)

肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子供なのです。」(ローマ8:13-14)

グノーシス主義者らが、自らの肉体を「美しいもの」として永遠の完成に導くことを目指しながらも、彼らが自分を神の神殿として建て上げるどころか、むしろ自己破壊によって自ら生命を絶つことで、神殿破壊という結果に至っていることは、極めて教訓的である。

聖書は、信仰のある者たちには、地上の卑しい体が贖われ、やがて復活の栄光の体で、本国である天に帰る日が来ることを示している。だが、その実現の方法は、グノーシス主義とは全く異なる。

キリスト教においては、神と人、男と女、精神と肉体、霊と肉は、決して「対」として混じり合うことのない概念であり、それらのものの間にある敵意を解消することも、キリストの十字架によってのみ可能である。

十字架なしに、人間が自力でこれらの概念に橋渡しをして、敵意を解消して、両者を統合することはできない。しかし、グノーシス主義者らは、十字架なしに、あらゆる対極性のあるものを統合し、あらゆる疎外を解消できると言いつつ、自己存在を、死によって全世界から疎外するという、究極の自己破壊・自己疎外に至るのである。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。

従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス後自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ2:14-22)

聖書の真理によれば、肉のものと霊のものは決して混じり合うことがないため、人がどんなに「鏡」を覗き込んでも、そこに彼らが探し求めている神の姿は見いだせない。映るのは、有限なる被造物自身の姿だけである。だが、グノーシス主義者らは、鏡に映る弱い被造物の姿を見て、そこに神の似像を見いだし、ひたすら自分自身の弱い像を抱きしめてこれに同情の涙を注ぎながら、自らの弱さを神聖な性質であるかのように誉めたたえ、「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」と叫ぶことによって、自分が滅びゆく被造物に過ぎない事実そのものに逆らい、自分で自分を救済しようとするのである。

このようなものは、神がキリストの十字架で廃棄を決定された旧創造に対する無用な自己憐憫と救済の物語であるから、その中をどんなに探し回っても、永遠が見出されることは決してない。そして、このようなイカサマ錬金術を用いて、人間が自己存在を永遠に高めようとすれば、人は持っていたものまで失い、永遠を生きるどころか、「今」さえ失って、最も悲惨な自己破壊で生涯を終えるだけである。

聖書においては、救済は徹頭徹尾、ただ神の側から、キリストによってのみ達成されるものであり、人間には神の言葉という真の「知性」に従おうとすることはできても、自力で救済を勝ち取ることはできない。

しかし、グノーシス主義は、「神の側からの介入」を認めず、ひたすら人間の側から、人が自力で神に至り、救済を手に入れることが可能であるかのように見せかける。しかも、人間が真の知性である神の言葉に逆らい、己が欲望に従って生きながら、それと同時に、自らの救済を成し遂げられるかのように教えるがゆえに、それはどこまで行っても、神不在の、人間の独りよがりな自己愛と自己憐憫に基づく虚偽の救済であり、人間に都合の良い「創作物語」でしかないのである。

ペンテコステ・カリスマ運動が、キリスト教を換骨奪胎したグノーシス主義であることは、当ブログでは幾度も述べて来た通りであるが、グノーシス主義にとりつかれた人々は、この運動の信奉者にとどまらず、みな知性に逆らい、肉欲をほしいがままにして、自分を甘やかして生きるために、そのうちに、すっかり理性を失って、精神的に退行・幼児化して行く。

彼らは美を追求し、自分自身を高めると言いながら、滅びへ向かって行く。彼らが最後まで大切に握りしめている自己愛さえも、ついに自己破壊という最も醜悪な形でかき消されるのである。

こうして、「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイ10:39)という聖書の御言葉が実現し、アダムの命を惜しみ、これを愛でて、この滅びゆく命を永遠にしたいと望む者は、ことごとくその命を失って行くことになる。

私たちは、三島由紀夫という一人の人物が、滅びゆく被造物を永遠の存在に高めたいというグノーシス主義のフィクションの目的の実現に全生涯を傾けた結果、ついに自分自身の存在を激しい苦しみの果てに、フィクションに飲み込まれて喪失したことを見て来た。

グノーシス主義というフィクションの教えを信じると、初めはあったように見えた実体さえも、このように幻となって消え失せるのである。なぜなら、そこにある美は、初めから幻想でしかなく、そこには完成も永遠も存在しないからである。

三島が作家であり、『鏡子の家』の主人公の一人も俳優であり、『憂国』の主人公にも、特にモデルがあるわけでもないと三島が述べていたことは興味深い。なぜなら、作家や俳優という職業は、どこかしら架空の登場人物や、肉体を失った怨霊たちや、死者の声を代弁しようとする霊媒師にも似ていて、その存在が初めから芝居がかっており、「何者か分からない曖昧な顔」をしているからである。

ところで、筆者は、牧師という職業も、基本的には、作家や俳優と変わらないものと考えている。当ブログでは、牧師制度の起源も、グノーシス主義にあることを述べて来た。グノーシス主義は、人間の間に貴賎の差別を設け、階層を設け、身分制度を固定化する思想であり、牧師制度は、グノーシス主義的な階層制という発想にならって、キリスト教界に作り出された身分制度である。そこで、牧師たちも、その本質は、霊媒師や巫女とほとんど同じく、実体のない架空の存在なのである。

牧師たちは、今日、問題を抱えた哀れな信徒のために涙を流し、彼らの問題に手を差し伸べ、人々の欲望と悲哀を一身に引き受けながら、人々の理想を代弁するために奔走る。彼らは会衆の心の慰めと満足のために講壇から福音を語り、「あなたがたはみな神の子供たちです。私たちはみな救われています」と語るかも知れない。人々の心の慰めのために、「貧しい人々のうちにキリストがおられる」と言い、そこからもっと進んで、「あなたがたは神だ!」(Dr.Luke)とさえ言うかもしれない。

だが、そうして人々の心の弱さを一身に引き受けて、被造物の有限性に熱い同情の涙を注ぎながら、救済者然と振る舞うこの人々は、一人の人間としての個性を失った、「何者か分からない曖昧な顔」をしている人々である。

そして、彼らは表向きには「神を知っている」かのように振る舞いながら、同時に、心の中では、「神はどこだ。どこにおられるのだ。」(奥田知志牧師、マザー・テレサ)と叫んでいる。

このように、今日、牧師たちの作り出す信仰告白は、どこまで行っても、グノーシス主義と同じように、神不在の、人間の側から作り出された自作自演劇でしかなく、彼らの信仰告白は、「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」と叫んだ怨霊たちと同じように、神に疎外されて、神を見いだせなくなった被造物たちの無念の叫びと同じなのである。

それだからこそ、このようなグノーシス主義的現人神の教えである牧師制度に貫かれるキリスト教界では、片方では「母なる聖霊」を受ければ、人が神のように高次の存在になれると教えるペンテコステ・カリスマ運動が登場して来て、各地の教会に悲劇的混乱を引き起こすかと思えば、もう一方では、カルト被害者救済活動のような恐るべき運動が出現し、教会に対する怨念を持つ人々を、教会に受け入れよと迫り、教会に争いをしかけることで、聖書の御言葉を忠実に守り、神に従って生きている兄弟姉妹を教会から追い出し、中傷しながら、「エクレシア殺し」にいそしみ、教会のメンバーを、キリストの復活の命に従って生きている兄弟姉妹から、被造物の有限性に対する怨念や被害者を抱える人々にすっかり取り替えようとしているのである。

そういう恐るべき倒錯現象は、今日のキリスト教界が、牧師制度という被造物崇拝を取り入れることにより、グノーシス主義に汚染され、これと合体したために起きたことである。当ブログでは、大淫婦バビロンとは、東洋思想とキリスト教との合体の結果、生まれるものであることを繰り返し説明して来た。今日のキリスト教界は、この混合の教えにすっかり占拠されているため、信者には、憎むべきバビロンの倒壊に巻き込まれないためには、このような恐るべき教えの偽りを見抜き、それに近寄らないことが求められる。

神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画"MISHIMA"から④

・金閣寺は果てしなく巨大化する ~すべてのものを押しつぶす造物崇拝の恐ろしさ~
 
  三島は、死へロマンチックに憧れるような青年期を過ぎ、美しく死ねる年齢も過ぎてから、自分の死を壮大な自己完成の事業とすべく、創作の世界だけでなく、現実世界でも、周りを巻き込んで巨大な装置を作り出した。

彼は自分の死をありふれた死と同一のものとは全くとらえず、解放という特別な意味をもたせ、自らの死を自己完成であると同時に、国家的な宗教行事の域にまで高めようとした。

『金閣寺』の主人公が述べた言葉の通り、晩年に近づくに連れ、三島の人生と創作において、すべてのシンボルは、まるで綿菓子でも膨らますようにどんどん拡大し、概念的に昇華されて行く様子を見ることができる。

幼少期に三島の心を縛っていた祖母の言葉や、彼の肉体を疎外していた美意識は、三島の人生の中で、無限大な「母なるもの」の支配として拡大・発展して行き、東洋的な永遠の女性美の象徴となり、ついに天照大神や、「和の大精神」といった国家的神話にまで拡大・発展する。

「永遠(とわ)の美しさっちゅうもんは、怖いもんやで。どんどんどんどん大きなって、何もかも押しつぶしてしまうんや。」
「美しさはぼくの怨敵(おんてき)なんや。金閣寺が滅びん限り、とてもやないが、耐えられへん」
 

  三島の幼少期には、祖母という一人の女性による精神的呪縛に過ぎなかった「母なるものの支配」は、晩年には国家的神話のレベルまで拡大している。

それと同時に、かつて三島が、自分の肉体の弱さを個人的に克服しようとした過程も、今や個人の問題ではなくなり、敗戦によってプライドを傷つけられ、尊厳を失い、コンプレックスを抱えた日本が、どのように国としての自信を回復するかという国家的問題へと高められている。

また、三島が自らの個人的な弱さを克服するためだけの手段だったボディビルも、今や天皇を守ることを名目とする私営の軍隊「盾の会」に昇格している。

「盾の会」の目的は、「ますらおの心」と「みやびの伝統」を融合させることにあるとされるが、これも「男女の融合」、「精神と肉体の融合」という、三島が追求して来たテーマを概念的に昇華させたものである。むろん、そのテーマの根底にあるものが、神と人との一体化であることは言うまでもない。
 

「我々のことをおもちゃの軍隊と、そう呼ぶ人々もいます。しかし、我々のゴールは、我々の心の奥底に潜む、ますらおの心をよみがえらせることなのです。また、作家としての私個人が支持するのは、みやびの伝統であります。私が求めてやまないのは、この二つの伝統を一体化することなのであります。

 
 
こうして、すべてのシンボルが無限に拡大するに伴い、三島の創作の登場人物たちも、概念的に昇華される。

『金閣寺』では、金閣への放火は、主人公の異常心理のゆえの犯罪行為でしかなく、『鏡子の家』における俳優と高利貸しの女の心中も、自虐的な狂気の沙汰の行為でしかなかった。そうした主人公らの自滅が、『憂国』では、殉死というレベルにまで引き上げられる。

『金閣寺』や『鏡子の家』では、コンプレックスに苛まれ、自滅的な死を選んだだけであった主人公が、『憂国』では、国家的神話としての天皇に身を捧げる陸軍中尉に変身し、『鏡子の家』では、俳優を残酷に死の道連れにしただけの醜い高利貸しの女も、『憂国』では、夫の思想に忠実に従って、後追い自殺を遂げる美しく従順な妻に変身している。

つまり、三島の創作の中で、登場人物の思想的レベルが引き上げられ、彼らが、神聖かつ崇高な思想に身を捧げるジハーディストのような存在へと昇華され、美化されているのである。

『金閣寺』、『鏡子の家』で行われた神殿破壊のリハーサルは、『憂国』では、さらに概念的に昇華された形で、三島の現実的な死の予行演習となる。

『憂国』の主人公は、二・二六事件で追及を処刑を免れて一人取り残されて、自死することを選んだ陸軍中尉の青年である。この青年は、ちょうど天皇のために「散華する」という理想を抱きながらも、それを実現する機会のないまま戦後を迎え、理想的な生き様・死に様から取り残された三島自身にも重なる。

だが、三島の晩年になると、こうして登場人物の思想的レベルが引き上げられる代わりに、これらの男女はすっかり個性を失って、非常に退屈な人物になってしまう。 『憂国』の陸軍中尉は、国家神道に心を奪われて個性を失っており、その妻も、ほとんど夫のコピーのような存在でしかなく、この二人にはおよそ人格と言えるものは何もない。

「母なるものの支配」があまりにも巨大化しているがゆえに、それが主人公らの個性をほぼ完全に奪い取り、押しつぶしてしまっているのである。

こうして、最初から「母なるものの支配」に個性を飲みつくされている主人公たちを待ち受けるのは、ついに命までもこの思想に捧げ切るという最後の段階だけである。ほぼそれだけが、小説の中心的テーマであると言っても過言ではない。

とはいえ、『憂国』では、陸軍中尉とその妻が殉死を決めてから最後に持つ肉体的交わりが、極めて重大な出来事であるかのように、長々と紙面を割いて描写される。

小説では、この夫婦が肉欲にふけることには、何の後ろ暗さも後ろめたさもない出来事として描かれる。仲間がすでに非業の死を遂げた後で、自分たち夫婦が彼らの後を追うことも、すでに決定している。にも関わらず、彼らには、そのような「火急の時」に、自分たちが重大なミッションを差し置いて、卑しく自己中心な欲望にふけっているという感覚は微塵もない。

むしろ、二人の肉体的結合は、「御真影」として祀られる天皇皇后の承認のもと、また、彼ら自身の死を目前にして、いささかの後ろめたさもなく、あたかも聖なる儀式であるかのように、概念的に昇華されるのである。

そのようなことが起きている理由は、この「儀式」の中に、三島が「ますらおの心」と「みやびの伝統」の一体化が具現化しようとしているためであると考えれば理解できよう。

つまり、この夫婦の交わりの中には、「男女の区別を取り払うことにより、完全な自己を取り戻そうとする」グノーシス主義の悲願が込められているのである。

ヴァレンティノス派のグノーシス主義には「新婦の部屋」という概念が存在した。それは、人が「真実の伴侶」を得て、これと「対」を形成し、結婚の儀式を通して、完全な自己存在を取り戻すという儀式であったようである。

教父エイレナイオスが、異端反駁の中で、グノーシス主義者がこの「新婦の部屋」という概念を利用して、性的放埓に耽っていると激しく非難していた事実(『グノーシス主義の思想<父>というフィクション』大田俊寛、春秋社、2009年、p.166)からも推測されるのは、実際に当時のグノーシス主義者たちは、「新婦の部屋」という概念を使って、「対となるべき男女の結合によって真の自己(原初的統合)を取り戻す」ことを儀式化していたのではないかということである。

このようなグノーシス主義的概念に照らし合わると、なお一層、陸軍中尉とその妻との最後の結合は、まさに「人が男と女の区別を取り払うことで自己を完全なものとする」という、グノーシス主義的路線に沿って描かれた「神聖な儀式」という意味を持つものと理解される。

つまり、それは隠された思想的な意義を持つ「秘儀」であるからこそ、三島はこの「儀式」を、作品の極めて重要なプロットとして、自死の場面と同じほどの重きを置いているのだと考えられる。

『憂国』では、このように主人公らが、男女の区別のない「原初的な自己」を取り戻した後、さらに自分を縛っているすべての制約から自分を解放し、自らが理想とする思想と一体化するために、有限なる肉体を脱ぎ捨てて手に手を取り合って死に至る。

ただし、どんなに作品中で、この夫婦の死が美化されて、神聖な儀式のように描かれているとは言え、結局、その本質は『鏡子の家』で描かれた俳優と高利貸しの女の心中と何ら変わらず、ただそれが思想的に引き上げられ、スケールが拡大されただけであることが読者には分かる。

すでに見て来たように、グノーシス主義の「統合」の本質は、「弱い者が強い者を乗っ取る」ことにあるため、男女の区別を取り払うと、男が女に飲み込まれて消えるという結末になるだけである。

それゆえ、『憂国』でも、『鏡子の家』と同じように、男が先に死に、女がその死を見届けてから、その後を追うという展開になっている。

本来、夫よりも弱い存在であるはずの妻が、夫への従順さを装いながらも、最後には夫よりも強い存在として、物語の中に君臨するのである。この妻がちょうど「鏡」や「虚無の深淵」と同じく、死の象徴として、夫を飲み込んで滅ぼす役割を果たしていることが分かる。

だが、その妻も、自ら死に化粧を施して夫の後を追うため、この夫婦はともに「永遠の美」のシンボルの中にまるごと飲み込まれて消失する。

物語に最後まで残って勝ち誇るものは、人間を抑圧し、その命を残酷に奪い尽くす「永遠の女性美」だけである。これは東洋的な慈悲の神であり、被造物の美の化身であり、国家的神話にまで昇格された天照大神=日輪である。

結局、人が自らの美を永遠のものとして完成するためには、人は自己存在を抹殺するしか手段がないという結論だけが明らかにされるのである。


・グノーシス主義の隠れた目的は「肉欲および肉体を精神の抑圧から解放する」ことにある

ここで少し補足しておきたいことがある。今日、グノーシス主義については、この思想が人間の肉体を、悪神ヤルダバオートが創造した「出来そこないの世界」に属するものと考え、その世界を憎むがゆえに、「肉体は魂(霊)の牢獄である」と考えて、肉体からの解放を目指していたということが強調されるあまり、リューサーが述べたように、「グノーシス主義とは、人間の肉体に対する憎悪・蔑視の教えである」という見解がまるで定説のように広まっている。

しかし、当ブログでは、グノーシス主義における人間の肉体のとらえ方は、それほどまでに単純ではなかったものと考える。

むしろ、グノーシス主義においては、二段階の解放が存在したのであり、その第一段階では、「肉体の復権」、すなわち、肉体および肉欲をあらゆる制限から「救い出し」、肉体を自己疎外の状態から解放するという問題に、非常に重要なウェイトが置かれていたことを、私たちは見る必要がある。

もしも今日一般に広まっている定説の通り、グノーシス主義者が、人間の肉体を初めから霊を閉じ込める「牢獄」としかみなさず、一方的に嫌悪し、無用の長物のようにみなしていたというのであれば、グノーシス主義者は、彼らの言う、「真理の知識の啓示」を得た後で、すぐに「肉体からの解放」へ向かうだけで良く、肉体の中にとどまって禁欲主義的な修行や、その他の儀式を行うことで、自己修練する必要は一切なかったはずである。

しかし、グノーシス主義の様々な流派では、ある場合は、禁欲主義的な修行によって、ある場合には、性的放縦という、まるで対極にあるように見える手段を用いながら、人が肉体の中にあるうちに、自己完成に到達しようと、様々な儀式や訓練が重ねられていたのである。

このようなことは、グノーシス主義者が、肉体の中に生きているうちから、精神と肉体との融合によって、自己疎外を解消し、自らの存在を「全一的」なものに高め、さらに、男女の区別を廃し、自己と自他の区別を取り払うことで、完全な自己を得ることができると考えていたことを示している。

そのように、あらゆる区分を取り払って全的自己を取り戻そうとする試みの究極の形が、「新婦の部屋」における「真の伴侶との結合」といった、自他の融合(男女未分化の原初的自己の回復)という「儀式」になって現れていたと考えられるのである。

そう考えると、グノーシス主義の第一段階において、肉体および肉欲は、人が原初的統合を実現し、彼らの考える「完全な自己存在」を得るためには必要不可欠な要素とみなされていたと言えるのであり、グノーシス主義者が、最初から、人間の肉体を一方的な嫌悪・蔑視の対象と考え、これを人間にとって用のないものとみなしていたという見解は成立しなくなる。

繰り返すが、グノーシス主義の「解放」には大きく分けて二段階のステージが存在したと言え、第一段階は、グノーシス主義者の内側で、精神と肉体との隔てが取り払われ、肉体の自己疎外が終わり、彼らの言う「全一的な自己」が取り戻されるという過程であった。

それが達成された後で、彼らは自己存在を完全かつ永遠にするために、自分と世界とを隔てる壁となる自らの肉体を脱ぎ捨て、死によって自分を「解放」しようと考えたのである。

グノーシス主義とは、弱い者(抑圧される者・疎外される者)が、強い者(抑圧する者・疎外する者)との区分を自ら廃することで、それまで自分を疎外して来た強い者になり代わって、これを支配することを正当化する教えである。

それはあらゆるヒエラルキーを覆すことにより、人間が自分を縛っているすべての制約から自分を解放しようとする思想であから、その原則は、男女の区別や、自他の区別だけでなく、グノーシス主義者自身の内側における、精神と肉体の区別にも当てはまる。

グノーシス主義の思想の中には、リューサーが述べたように、また、三島が自分自身を実験台として行ったように、「精神(言葉)によって(不当に)抑圧されている肉体を、精神の束縛から救い出す」というテーマが含まれており、「肉体の精神からの解放」は、グノーシス主義において極めて重要なテーマだったと考えられるのである。

このように見て行くと、我々は、グノーシス主義者が「霊を肉体の牢獄から解放する」という、最後の結末に行き着くまでのプロセスは、決して今日、一般的にそうであると信じられているほどに単純ではなく、この思想がただ単純に肉体に対する一方的な嫌悪や蔑視に基づいていたわけでないことを確認できる。

グノーシス主義者の考える「解放」は、すでに述べた通り、大まかに二段階あり、彼らがまずは自分のうちで「全一的な自己」を達成しようと試みた後、世界の融合を目指すことは、三島自身の人生を振り返っても理解できる。

これまでの記事で確認したように、三島の心の中に、自分の肉体への嫌悪が生まれた最初のきっかけは、祖母が彼の幼少期に誤った考えを植えつけたことにあった。幼少期に三島が本当に病弱であったかどうかは不明であるが、彼を手元に置いておきたかった祖母が、彼は体が弱いという嘘を信じ込ませたのである。

だが、いずれにしても、祖母の言葉をきっかけに、三島は自らの弱すぎる肉体が、外界との隔ての壁となっているという制約に気づいた。三島の残る全生涯は、祖母の言葉をきっかけに気づいた自分の肉体の制約を、どうやって克服して、自己を永遠の存在に高めるかという問題に費やされたと言っても過言ではない。

三島は、リューサーが宣言したように、自分で自分の肉体を縛っている「言葉」の制約を取り払い、肉体に沸き起こる自然な衝動に身を任せて生きることで、「言葉が健康な肉体から自分を切り離している」状態を解消しようとした。

彼は、ハワイや、ギリシアで、頭上に明るく降り注ぎ、心を陽気にしてくれる太陽の光に誘われるがままに、自分の肉体の自然な衝動に従って生き、それによって、あたかも今まで自分と外界とを切り離していた壁がなくなり、「太陽と握手したような衝動を覚え」た。

この時、太陽は三島には解放のシンボルのように映り、彼は「太陽が自分を解き放ってくれた」と感じる。

「私はいつも、自分の中にある化け物のような感受性に苦しめられて来た。言葉の世界が、私を健康な肉体から切り離していた。その私を太陽が解き放ってくれた。ギリシアは私の自己嫌悪を癒し、健康への意志を呼び覚ました。」

三島は、リューサーが唱えたのと同じように、自分自身の肉体および肉欲を、言葉による制約から解放することで、自己の内で肉体が嫌悪すべきものとして疎外されている状態を解消しようと試みた。さらに、彼は自分の肉体を鍛え、これを自分の目に適う「美しいもの」に引き上げることで、それまで精神によって肉体が恥ずべきもの、醜悪なものとして疎外されていた状態を完全に解消しようとして、肉体の「復権」を試みるのである。

「私は美しい作品を作ることも、自分が美しいものになることも、その道理は同じなのだと見つけた。

こうして、三島の中で、グノーシス主義的な第一段階の「解放」が達成されて、彼は自分の中で、肉体が精神と並ぶものとなり、肉体に対する精神による「不当な抑圧」は終わったと考えた。

ところが、奇妙な逆説現象が起きる。幼少期に聞いた祖母の言葉は、三島が自分の体の弱さを克服した後も、依然として消えることなく、ますます大きくなって、三島の耳にこだまする。「ぼうやは体が弱い」という祖母の声は、いつしか「人間は誰しも老いて死ぬ」という被造物全体の限界を唱える大合唱となって、三島の作り上げた「美しい」肉体を脅かしていた。

三島は、肉体を「美しいもの」にすることによって、ようやく精神と肉体の乖離状態を終わらせたと思ったのに、今度は、死という現実を眼前に突きつけられ、自分が造り出した「美しい肉体」に対する「製造物責任」を問われる。

「歯を食いしばって、汗を流して、その生きた芸術作品が出来たとしますね。しかし、それが老いさらばえることはどうするんですか。その美しさはどうなるわけ。作ったあなたが、それをどうにかしなきゃならないんだから。」

三島がこの問題に対して出した回答は、我々にとっては驚くべきものである。

「だから、一番美しい時に、死んでしまえばいいんですよ。」

私たちは、三島が本気でこのような結論を出していると知って、それをあまりにも馬鹿馬鹿しい考えだと笑うだろう。こんな方法で、どうやって死を克服したことになるのか。そんな死は、老いに直面したくない人間の身勝手な現実逃避であって、無駄死であり、敗北以外の何物でもないと。

ところが、グノーシス主義者はそうは考えない。グノーシス主義者の目から見れば、その死には全く違った意味が込められているのである。

すでに述べたように、三島の中で、グノーシス主義的な第一段階の解放は成し遂げられた。そこで、「美しい肉体」を手に入れ、精神と肉体の乖離状態を解消し、自己存在を「全一的」に高めたと考える彼に残された課題は、その達成を永遠のレベルへ引き上げることだけである。

つまり、自らの肉体の有限性という壁を打ち破って、自分と全世界とを隔てている最後の壁を取り払い、世界と一体化し、神と人とが、創造主と被造物とが区別なく一つの永遠の中に溶け合う世界へ向かって、最後の一歩を踏み出し、永遠と同化することだけである。

そのために、有限なる肉体からの脱出、すなわち、死によって自分自身の限界から解き放たれることが、ぜひとも彼には必要なのである。なぜなら、肉体がある限り、自分と外界との隔ての壁はなくならないからである。

かつて当ブログでは、聖書を甚だしく歪曲するグノーシス主義文献『ユダの福音書』を取り上げて、そこでは、イエス・キリストを銀貨30枚でユダヤ人たちに売り渡した恥ずべき弟子であるイスカリオテのユダが、他のどんな弟子にもまさって、イエスの使命を忠実に理解する優秀な弟子だったとされ、ユダは師匠が「肉体の牢獄から脱出する」ことを手助けするために、率先してイエスを十字架につけたとみなされていることを見て来た。

『ユダの福音書』では、イスカリオテのユダの裏切りは、決してイエスに対する憎悪や蔑視からなされた行為でなく、まさにイエスの霊を肉体から解放するという師匠の悲願の手助けとして行われたことであり、「必要悪」だったとされ、イエスもそれを理解した上で、ユダの行為を評価していたとされる。

「今回発見された『ユダの福音書』が注目を浴びたのは、それまで知られていたのとはまったく違うユダがそこに描かれていたからだ。この福音書に描かれるユダは、悪者でもなければ、不正直者でもなく、イエスを裏切り敵に引き渡した弟子でもない。

むしろユダは、誰よりもイエスのことを理解していた最も親しい友で、イエスの「依頼」で、彼を官憲に引き渡したのである。イエスを引き渡したことで、ユダは最大の奉仕をしたのだ。
この『ユダの福音書』によると、イエスは神に反逆するこの世界を逃れて、天にある自分の家へ帰りたかったのだ。」(『原典ユダの福音書』、ロドルフ・カッセル、マービン・マイヤー他著、日経ナショナル・ジオグラフィック社、2006年、p.103)


グノーシス主義の書によれば、<略>、最終的で完全なる神聖さは人々が死すべき運命の肉体と離別して初めて実現するという。『ユダの福音書』のイエスは、セツ(グノーシス主義者)のあの世代の人々が亡くなるとき、肉体は死んでもその魂は死なず、解き放たれた魂は天にある彼らの家へ戻ると告げる(チャコス写本四三ページ)。死ぬと肉体に付随するものすべて、この死を免れえない世界の家にあるものすべてを手放すことになる。知識を獲得した人々の死すべき肉体が放棄されることで「彼らの魂が天上にある永遠の御国へと昇っていく」と、イエスはユダに告げている(同四四ページ)。(同上、p.173)


このように、グノーシス主義では、神聖なる霊を宿す人々にあっては、肉体は死んでも、霊は永遠であるため、肉体の死は敗北ではなく、むしろ「霊を天界という家へ帰す」ための解放の手段だと考えられていたのである。

だが、私たちは、グノーシス主義者が考えるように、肉体の死によって「霊を天界へ帰す」ことなど不可能であり、そのようなものは、偽りの解放でしかない事実を知っている。

そこで、私たちは、なぜ三島のようなグノーシス主義者が、一方では、自分の肉体に対する極端なまでの美意識に駆り立てられ、肉体を善なるもののようにみなし、愛し、永遠の存在に高めようとしながら、もう一方では、肉体の破壊という自殺行為に至るのか、一体、彼らが肉体の破壊によって到達しようとしている真の目的とは何なのか、という問題について考えたい。

そして、この問題を解くために、もう一度、聖書の創世記の記述を通して、グノーシス主義とは、人間の内部における秩序転覆の教えであるという事実を確認しようと思う。


・グノーシス主義の隠れた目的は「肉欲および肉体を精神の抑圧から解放する」ことにある

グノーシス主義の原型は、エデンの園で、蛇が人類に吹き込んだ偽りの知恵にあり、その目指す目的は、とどのつまり、「肉のものを霊のものに見せかける」こと、つまり、人が己が欲望に従って生きることで、あたかも偽りの霊性を身に着け、神に等しい存在になるかのように錯覚させることにより、人間を破滅へと至らせることにあった。

そこで、グノーシス主義においては、その当時だけでなく、今日も、「霊の解放」に見せかけた「肉欲の解放」が極めて重要なテーマとなる。この点を見逃して、グノーシス主義が一方的な肉体嫌悪の教えだと考えているうちは、この思想の本質的な危険性は見えて来ないであろう。

グノーシス主義とは、人間の欲望をあらゆる制約から解放し、欲望を無限大に解き放つことで、人間を解放できるとみなす偽りの思想であり、彼らは「欲望の解放」を、人間を永遠の存在にまで高めるために必要な「霊の解放」と同一視して、美化し、奨励して来たのである。

前回も確認した通り、聖書において、人間は「霊」と「魂」と「体」という三部位から成ると定義される。これらの部位には、それぞれ正しい支配関係(秩序)があり、人間の内でその正しい秩序が成立していることこそ、人間のあるべき正常な状態である。

その正しい秩序とは、霊が魂を治め、魂が肉体を治めるという順位が守られることである。この支配関係はそのまま、この三部位の序列を示している。

人の中で神と交わることができ、最も貴い機能を備えている器官は、霊のみである。魂は神の霊との交流とは関係なく、ただ霊の中にあるものを受けて、これを解釈し、自ら思考・判断して、体に意志を伝達して、命令を実行させる機能を持つ。

体は、魂から受けた命令を遂行する器官であって、人の中で最も卑俗で、神聖からは最も遠く離れた部位である。

聖書において、人間の三部位は、旧約時代の神殿の原型としての幕屋に当てはめられるが、そのたとえからも、肉体が人間の中で最も卑俗な部位であることが分かる。

霊は、大祭司が年に一回のみ入り、民の罪の贖いのために、いけにえの血を捧げた「至聖所」にたとえられ、魂は「聖所」、体は「外庭」に当たる。外庭とは、犠牲となるべき動物が持ち込まれて殺され、解体され、その血が犠牲として注ぎ出された作業場であり、幕屋の中で、最もこの世に近く、神聖な至聖所から遠い場所である。

キリスト教の信仰の全くない人であっても、人間の内で、精神によって肉体が治められている状態が正常であり、その逆に肉体が人間の中で精神を凌駕して主人となるべきではないことは否定しないものと思う。

人間の魂(精神)には、良心の機能があり、どんな人であれ、何が正しく、何が間違っているかを、自らの精神によって判断する。肉体は、精神の判断に従って動くのが当然である。もしもその順序が逆になり、肉体の衝動によって精神が動かされるようになれば、それは動物的生存であって、理性的な生き方ではない。

しかし、グノーシス主義は、人間の内側で、この三部位の秩序を転覆し、聖書とは真逆の秩序を打ち立てようとするのである。

もう一度、聖書の創世記の記述を振り返ろう。

「さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。

 女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、 ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。
へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。
 
女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。 」(創世記3:1-7)

グノーシス主義とは、この創世記の場面で、蛇が人間を神に背かせて堕落させるために吹き込んだ悪魔の知恵と本質的に同じものであり、その今日的な延長であると言える。

そこで、その思想の骨子は創世記の時代から変わらず、それは人間が肉欲に従って生きるようそそのかし、かつ、そのように欲望に従って生きる結果、「偽りの霊性」を身に着け、自己存在を神に等しい高次の存在へと引き上げられるかのように錯覚させる欺きの教えだと言える。

それゆえ、グノーシス主義において、人間の肉体および肉欲が果たす役割は、はかりしれないほど大きいのである。

以上の創世記の記述を見ると、私たちは、エデンの園において、人間の中で理想的な秩序が実現していたこと、人は己が知性によって肉体を治めるという秩序が成り立っていた様子を確認できる。

人間は、園にある木の実を食べることが許されていたが、「善悪を知る木の実」だけからは、取って食べるなという制約が神によって課されていた。その制約は、神の言葉を通してもうけられた。

人間は、楽園にいた当初、自らの知性によって神の掟をわきまえ、神の言葉に従って生きることで、知性によって自分の肉体を治め、人間の「知性」と「行動」との間には、いかなる乖離もなかった。その時、人間の肉欲はまだ罪とはなっておらず、人には自分の肉体を恥じる意識もなかった。

つまり、人が神の掟(神の御言葉)を知るという知性によって肉体を治めていた間は、人間は「全一的存在」であり、肉体の知性からの乖離も、肉体の疎外も起きていなかったのである。

しかし、そこへ悪魔がやって来て、人間に、神がもうけた制約は、人間の知識と力をいたずらに制限するための不当な制約であるかのように思い込ませた。そして、「善悪の知識の木の実」を取って食べれば、人間は、神が定めた不当な制約から解放されて、死ぬどころか、むしろ、「神のような高次元の存在になれる」と嘘を吹き込んだ。

つまり、悪魔は、人間が神の言葉に縛られる必要は初めからなく、己が欲望のままに行動して、タブーを破ることで、逆に神のように高次元の存在となれるのだと教え、「言葉によって健康な肉体から自分自身を切り離す」のをやめるようそそのかしたのである。

人が「善悪の知識の木の実」を見ると、それは「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましい」ものと見えたため、人は、悪魔の勧めに従って、自分の肉体の衝動(肉欲)に思うがままに身を任せ、その実を取って食べるという行動に及んだ結果、罪を犯し、堕落した。

こうして、人間が肉欲に従って知性を捨てた瞬間、人間の中で、秩序転覆が起こったのである。それまであった知性と行動の一致は壊され、精神が肉体を統御するという秩序も転覆された。そして、最も卑しむべき肉体および肉欲が、人間の中で主人となり、肉体が精神を屈服させたのである。

だが、その瞬間に、奇妙なことに、人間の心に自分の肉体に対する羞恥心が生じた。

おそらく、その羞恥心は、人の霊および魂の中に、まだかすかに残っていた正常な良心の機能がもたらしたものだったと推測される。人間の魂は、神の御言葉を知る知性に従わず、魂の命令を聞こうともせず、自分勝手に行動して罪に堕落した肉体を、恥ずべきものとして自ら嫌悪したのである。それゆえ、この時から、人間の内側で、自らの肉体に対する恥の意識が生じ、肉体の疎外という状態が生まれたのである。

しかし、人間が「善悪を知る木の実」を食べたことにより、人間の魂の知性の中にも、悪が入り込み、魂も全く当てにならなくなった。人間の霊は死に、魂も正常な機能を失い、そのせいで、それ以後、人間の歩みにおいては、「知性」も「行動」も両方とも当てにならないデタラメなものとなり、両者はますます乖離を深め、混乱や矛盾を生じさせるばかりとなった。

それにも関わらず、グノーシス主義者は、人が正しい知性を捨てて肉欲に従い、霊および魂が肉体を統御するという当然の秩序を覆したことこそ、堕落の原因となったのだという事実を認めず、かえって、人が肉欲に従って生きることは、悪いことではないと正当化する。そして、人間は、より一層、肉体および肉欲を様々な制約から取り払うことで、自由になれるかのように教え、そのように転覆された秩序を引きずったまま、人間は再び「知」と「行」を一致させて、第二のエデンに帰れると教えるのである。

鈴木大拙の言葉には、そのようなグノーシス主義者のイカサマ的な願望が非常に端的に表れているため、もう一度引用しておきたい。

人間の本質とでもいうべきは、理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである。知性はどうしても二分性を根本的に帯びている。それゆえ、表面的になりがちである。すなわち薄っぺらだということになる。これに反して情意的なものは未分的すなわち全一的であって、人間をその根本のところから動かす本能を持っている。人間は行為を最先にして、それから反省が出る、知性的になる。知が行を支配するようになるのは、知がその本質からはなれて、その底にあるものと一つになるところが出なくてはならぬ。

アダム、イブの世界には『行』のみがあって『知』がなかった。それでエデンの楽園が成立した。一旦、知が出ると、失楽園となったのである。入不二法門の世界では、その知をそのままにして、もとの行の世界、意の世界を、新たな面から再現させている。この点で入不二界はエデンと相違するのである。一段の進出といってよいのである。二度目の林檎を食べぬといけない。」(『東洋的な見方』、鈴木大拙著、岩波書店、pp.195-196)

鈴木大拙がここで言わんとしている内容は、リューサーや三島と全く同じである。しかし、それだからこそ、この記述には、多くのトリックが含まれているので、よくよく注意して読まなければならない。

まず、鈴木大拙は、「アダム、イブの世界には『行』のみがあって『知』がなかった。それでエデンの楽園が成立した。」と言うが、この記述が、大きな誤りであることに気づかれたい。

なぜなら、すでに見たように、エデンにおいて、人間は神から教えられた掟を知って、これに従って生きていたわけであるから、そこにはれっきとして「知」が存在しており、鈴木の言うように「行」のみが存在したわけではないのである。

エデンでの生活では、人間の中で、神の言葉を知るという「知」と「行」とが完全に一致しており、人間は精神によって肉体を治めていた。それこそが人間のあるべき本来的な姿なのである。

ところが、鈴木は、エデンにおいては、あたかも「知」が存在せず、「行」だけが存在したかのように主張することにより、「行」がすべてをほしいままにしている状態こそ、人間にとって理想状態であるかのように主張する。

こうして、鈴木は、暗黙のうちに、「人間にとっての楽園とは、人が己が肉欲を、いかなる制限も受けることなく、ほしいままに解放した状態である」と言っているに等しい。要するに、彼は「行」のみが存在する世界こそ「楽園」であるとして、人間がいかなる欲望でも叶えることのできる唯物論的ユートピアを至上の価値としたマルクス主義者と大差のない楽園観を唱えているのである。

さらに、鈴木の言う「一旦、知が出ると、失楽園となった」という言葉にも、トリックがしかけられている。そこで、鈴木が「知」と呼んでいるものは、悪魔が人間をそそのかして、神に逆らわせるために吹き込んだ「悪知恵」であって、偽りの知恵であるから、そのようなものは、正常な「知」とは呼べない。

しかも、私たちは、これまでのいくつもの記事において、鈴木大拙が聖書の御言葉の二分性に激しい抵抗感や嫌悪を示して来たことを確認して来た。そこで、ここで鈴木大拙が、失楽園の原因となった「知」という言葉で非難しているものは、悪魔のもたらした悪知恵ではなく、聖書の御言葉であることも理解できよう。

つまり、鈴木大拙は、ここでも看過できないトリックを用いて、失楽園をもたらした原因が、あたかも悪魔の悪知恵にはなく、神の御言葉が、人間を楽園から追放した諸悪の根源であるかのようにみなして、そのような論旨のすり替えに立って、「一旦、知が出ると、失楽園となった」「知性はどうしても二分性を根本的に帯びている。それゆえ、表面的になりがちである。すなわち薄っぺらだということになる。」と述べているのである。

つまり、鈴木は、神の言葉を知るという「知性」を、誤った、薄っぺらなものとみなし、それは人間の行動をいたずらに制限し、罪に定めて排除するだけの、表面的なものでしかないため、そんな「知性」は人間の本質たりえないと言うのである。

そして、彼はエデンには「行」だけがあって「知」がなかったのだから、その状態こそ人間にとっての理想状態であるとして、「人間の本質とでもいうべきは、理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである。」と決めつけるのである。

このような理屈は、この世には法があるから、罪人や悪人が生まれるのであって、法をなくせば、罪人や悪人もいなくなると言っているのと変わらない甚だしい詭弁である。

要するに、鈴木は、何が善であり、何が悪であるかを判断する「知性」そのものを取り払えば、人間の「行」は無制限に解放されて、それが悪とみなされて排除されることもなくなるため、人間の中で全一的な自己が成立する、と言うのである。

このような理屈は、まさに悪魔的な詭弁であり、「裏返しのキリスト教」であるとしか言えない。

そもそも、「知性が二分性を根本に帯びている」と言えるのは、「行」が「知」に従わない場合のみである。

法律を守っている人間にとって、法律は自分を排除したり、罰する脅威とはならないのと同じように、聖書の御言葉をわきまえるという「知性」は、御言葉に従って生きている人々にとって、何ら自分を排除したり、疎外する二分性の脅威とはならないのである。

肉体が知性の統御に従っている限り、知性は何も分割する必要がなく、肉体の疎外という問題も生じない。

そこで、聖書の御言葉の二分性によって、「不当な疎外が生じている」かのように感じるのは、御言葉に従わず、それに逆らっているがゆえに、初めから御言葉から疎外されている者たちだけである。

だが、法に逆らった人たちの側から、自分たちを罰したり排除したりする法が悪いと言われたからと言って、なぜすべての人々が、そんな主張を真に受けて、法を撤廃する必要などあろうか。

「行」が「知」に従わないからこそ、「知」が「行」を恥ずべきものとして除外したのだとすれば、そこで悪者にされるべきは、「知」ではなく、「行」ではないだろうか。

ところが、グノーシス主義は、常に「抑圧された者」の側に立ってこれを一方的に擁護するため、「知」が「行」を排除したのが悪いと決めつけ、「肉体および肉欲が、人の中で精神によって抑圧され、疎外されているのは不当である」と言って、肉欲と肉体の復権を唱えるのである。

このような転倒した理屈で、グノーシス主義者らは、「行」を「知」よりも上位に置き、「行」を排除する「知」を屈服した上で、「知」を撤廃し、さらに「新たな判断」として、「行」を排除したり、罪に定めることのない、「新しい知」の概念を導入しようとする。

それが鈴木大拙の次の言葉の意味するところである。

「人間は行為を最先にして、それから反省が出る、知性的になる。知が行を支配するようになるのは、知がその本質からはなれて、その底にあるものと一つになるところが出なくてはならぬ。」

つまり、彼は、人間が「行為を優先にして、それから反省が出る」生き物であることを十分に理解して、そのような状態を決して罪に定めたりしない、新しい「知性」が必要だと言うわけである。そのような知性を得ることは、「二度目の林檎を食べる」ことを意味し、それによって、新たな「知」と「行」とが調和する「入不二法門の世界」に至る道が開けるというのである。

「入不二法門の世界では、その知をそのままにして、もとの行の世界、意の世界を、新たな面から再現させている。この点で入不二界はエデンと相違するのである。一段の進出といってよいのである。」

こうして、グノーシス主義は、人間が神の言葉を捨てて、「知」よりも「行」を優先して、肉欲に生きたために起きた失楽園という過失を全く人間の罪として認めることなく、人間は自らの生き方を少しも変えることなく、依然として肉欲に従って生きているままで、自ら失楽園という過ちを修正して(=ソフィアの過ちを修正し)、自力で第二のエデンに帰れると言うのである。

果たして、そんな都合の良さすぎる「うまい話」が本当にあるだろうか。その答えを、私たちは次章で三島の最期を通じて見て行きたい。

<続く>

2018年4月10日 (火)

神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画"MISHIMA"から③

・あらゆる制約からの解放を目指すグノーシス主義は、肉体を制約から解放しようとして肉体からの解放を目指すというパラドックス

さて、三島は自分の美意識が己が肉体を疎外しているという事実を解消するために、肉体を鍛えることで、自分の肉体を、美意識が求める水準まで引き上げ、それによって、自己嫌悪、自己疎外から解放されて、「言葉」と「体」の両方を永遠の完成の域にまで高めることができるかのように考えた。

ところが、結局、その方法では、決して彼は自分自身を統合することはできないどころか、望んでいるのとは正反対の結論だけが出ることになる。

『金閣寺』において、すでにその予表が表れていることを私たちは見て来た。主人公が破壊した金閣寺は、「永遠の女性美」の象徴であると同時に、三島の美意識のシンボルでもある。いわば、それは三島にとっての「神」である。

主人公にこの「永遠の女性美」を破壊させることによって、三島は、自分を無意識に縛って来た祖母の言葉を否定し、「母なるもの」の呪縛から自分を解放しようとしたのだとも言える。

だが、三島が自らの美意識を否定することは、自分自身を否定することを意味するがゆえに、その試みは決して成功に終わらず、「母殺し(=神殺し)」は、結局、「自分殺し」を暗示するだけである。

三島は、美意識によって悪とみなされていた自分の体を救い出すために、美意識の中から、究極の美を奪い取って、それを自分の体に分与し、それによって、自分の中で美意識(言葉)と肉体を対等な地位につけようとしたのである。

「言葉と肉体を融合させる」と言えば聞こえは良いが、その本質は、「簒奪」である。それは、堕落した「肉体」が、「言葉」からその美しい本質を奪い取り、あたかも「言葉」と対等な存在であるかのようになりすまし、己が堕落した本質を、聖なるものであるかのように見せかけ、有限なものを、無限なものであるかのように見せかけようとするトリックなのである。

三島は言う、「私は美しい作品を作ることも、自分が美しいものになることも、その道理は同じなのだと見つけた。

だが、彼が主張していることは、不可能事であって、このようなグノーシス主義的錬金術によって、人が自らの肉体を永遠の存在に高めたり、自己を神と並ぶ存在としようとすることはできない。

そこで、そのような試みは、かえって目指していた目的と全く逆の悲劇を招くだけであり、その原則が、『鏡子の家』で、よりはっきりした形で表れる。

『金閣寺』では宮という形を取っていた「永遠の女性美」は、『鏡子の家』では、「鏡」という、まさにグノーシス主義の象徴となって登場する。しかも、その「鏡」は、幾人もの女性たちの姿に擬人化されて、主人公に群がり、彼の像を簒奪する。

『鏡子の家』の主人公の一人である俳優は、顔には自信があっても、体には自信のない男である。そこで、彼は役欲しさに、他者の目に映る自分の姿をもっと立派にしようと、ボディビルを通して体を鍛えて自信を取り戻そうとする。
 


男:「ちくしょう。顔だけじゃダメなんだよ。体なんだ。もっと筋肉がついてればな。闘牛士みたいに。そしたら、体中、顔にしちまえるのにな。」
女:「何馬鹿なこと言ってんのよ(笑う)。」
男:「俺、ボディビル始めるんだ。」
女:「あはは」
男:「ほんとだよ(手鏡を開いて自分の顔を見つめる)」
女:「ダメよ、ダメダメ。これ以上モテたら許さない。昨日の夜だって何よ。ケイコなの?マサコ?白状しなさいよ。また新しい子でしょ?ほら、弱虫、男が泣くわよ。」
男:「いい加減にしろよ。(女に手鏡を奪われる)何?」
女:「いいの。あたしが見てあげる。(手鏡を逆向きにして自分を映しながら)これがあなたの髪。これがあなたの顔。これがあなたの胸。ね、鏡見るよりずっとよく見えたでしょう?

 

ここでも「鏡」が、主人公を客体化して、その弱さを残酷に映し出すことで、主人公を世界から疎外する役割を担っている。主人公は「鏡」を見つめ、そこに映し出された自分の弱々しい肉体を見てため息をつく。

そうして主人公は、「鏡」に映し出された自己の弱点を、現実であると認めて受け入れたことをきっかけに、その後、「鏡」を見る度に、さらに次々と自分の弱さを見せつけられ、弱さを質に取られ、「鏡」の奴隷とされて支配されて行くのである。

しかも、彼がまだ「鏡」に映る自分の弱さを克服することが可能だと思っていた頃から、彼の気づかぬところで、「鏡」を通して、彼の存在の乗っ取りが起きていた。

主人公は、「鏡」に映る自分の弱さを見つめながらも、この先、ボディビルを通して理想的な自己を手に入れるのだから、この弱点を克服した後で、もっと良い自分の像が手に入ると考えて喜んでいる。

ところが、主人公のそばにいる女は、彼が手鏡を持ち出したのを幸いに、その手鏡をくるりと反転し、そこに彼の見たかった理想的な自己像ではなく、彼女自身の像を映し出す。

それは彼より美しいかも知れないが、彼よりも弱く、抑圧されており、行き場を失った怨念を抱える彼女の像である。女は男の自由を妬み、男を独り占めしたいと思いながらも、それができないゆえに、嫉妬と怨念を抱え、男を束縛するために、彼が持っている「鏡」を反転して、そこに自分の姿を映し出し、「それがあなただ」と言う。

ここに、霊的な文脈で、グノーシス主義的な「存在の簒奪と転換」が起きており、彼と彼女が入れ替わっている。より強くなってより自由になり、自己の尊厳を取り戻そうと願う男を、そばにいる女は、嫉妬の眼差しで見つめ、復讐心から、男が取り戻そうとしている完全な自己像を、こっそりと、不完全で抑圧された弱い女自身の像に取り替える。そして、それを機に、抑圧された自分の怨念と弱さを、その像を通して彼の中に注ぎ込み、転嫁する。

その時、すでに弱い者(女)が強い者(男)の存在を乗っ取り、否定し、弱い者(女)が強い者(男)と入れ替わって支配するというグノーシス主義の原則が成立している。

こうして、「母なるもの」の呪縛から逃れるために強くなろうと思っていた主人公は、「鏡」を見つめる度に、どういうわけか、ますます深く「母なるもの」の呪縛に自分を乗っ取られ、弱くなって行く。

主人公は体を鍛え、弱点を克服して勝利をおさめたと思い、母親に立派な体を自慢する。ところ、その直後に、さらなる「存在の乗っ取り」が起きる。

「鏡」を通して女に自分の像を乗っ取られた彼は、今度は、自堕落な母親がこしらえた借金という罪を、身代わりに背負わされていた。取り立て屋の前には、鍛えた体も全く通用しない。惨めに床に打ち倒された彼は、鏡を呆然と見つめるが、そこには、望んでいた立派な自己像とはかけ離れた、さらに弱く、惨めになった自分自身が映っていた。

 

 

こうして、彼は鏡を見つめる度に、望んでいた強さとは正反対の、ますます弱く、醜く、恥ずべき、厭うべき存在となった自分自身を見いだすのである。

それでも、彼が鏡の中に発見された自己の弱さを何とか克服しようともがくうちに、ついにそれまで彼の像を次々と簒奪して来た「鏡」が、女性の姿をして擬人化して現れる。

「鏡」は、高利貸しの女という人格になって現われ、借金という彼の弱みを足がかりに、ついに彼の全人格を支配した上、彼の存在をまるごとのみ込んで消し去る。

 


「ねえぼく、今分かったんだけど。長年、探し求めていた人が、やっと見つかったんだ。もう鏡なんか見なくたっていいんだ。今、ここに自分がいるんだって、はっきりと感じるんだよ。
「じゃあ、とことんまでつきあってくれる?死ぬのもよ。血の中でのたうち回って、動かなくなるまで、ちゃあんと見届けてあげるから。まあ、その後であたしは、毒なんか飲んで」
「いいけど。まかり間違っても、キスなんかしないでよ。ちゃんと死ぬまではね」

 

むろん、ここで母親の借金を理由に、主人公に奴隷契約を結ばせて、命まで差し出すことを要求する高利貸しの女は、グノーシス主義的な「虚無の深淵」である。

主人公は、この女に出会うまでの間にも、周囲の女たちや世間の眼差しという「鏡」の中に、次々と自己の弱さを質に取られて来たのだが、ついに虚無の深淵それ自体が現れて、借金を棒引きにして彼を弱さから「救済」するという名目で、彼自身の存在をまるごと対価として要求し、滅ぼした。

グノーシス主義の「鏡」とは、至高者が自らの似像を被造物として生み出すためのツールであるだけでなく、被造物の側から、妬みによって至高者の像を盗み取り、弱い者が強い者の像を奪い取り、強い者になりすまし、支配するためのツールだということを述べて来た。

そこで、この教えを信じる人間は、ちょうどグノーシス主義の真の至高者が、自分よりも下位の被造物から存在を盗まれ、流出させられたと同様、自分も「鏡」を通して、自分よりも弱い者から、無限に存在を盗み取られることを避けられない。

「女」たちは、主人公に群がり、「愛」や「慈悲」や「同情」の名のもとに、主人公の弱みを握り、それをもとに、さんざん主人公の像を奪い取り、主人公が望んでいた理想像の代わりに、自分たちの弱い像を彼に押しつけ、主人公の心の空洞に、自分たちの弱さや怨念を注ぎ込む。

そのため、主人公は強くなろうと願っているのに、「鏡」を介して、強い者と弱い者、抑圧する者とされる者、疎外する者とされる者、加害者と被害者が転換し、強くなるどころか、自分よりも抑圧されて疎外された者たちの怨念が、一斉に主人公の心に注ぎ込まれ、主人公はいけにえとして支配される。

グノーシス主義の「父なる神」はフィクションであって、実質的には存在していないと言って良い。「鏡」とは、真の至高者(原父)と同一視されるものの、その「鏡」は虚無の深淵であるから、そこに真の至高者の姿はなく、あるのは被造物の像だけである。そこで、グノーシス主義における真の至高者としての「神」は、「女の姿」をしている。

要するに、グノーシス主義の教えの中に「父なる神」は存在せず、ただ神の似像として「鏡」に映し出された被造物だけが存在する。被造物が「神」になりすまし、「神」のように振る舞っているのである。

ソフィアが「父なる神」の像を簒奪することを正当化した瞬間から、グノーシス主義における「父なる神」は、被造物に存在を乗っ取られ、事実上、消え失せた。その後は、被造物が神になりすましているだけなので、グノーシス主義の至高神は、女の姿になるのである。

このように、グノーシス主義は、被造物を神とする「母性崇拝」(イゼベルの霊)の教えであり、簒奪を正当化する教えである。弱い者たちが強い者たちの存在を怨念によって奪い取り、強い者を乗っ取ることを正当化する教えと呼ぶこともできよう。

このように、グノーシス主義の至高神は、被造物崇拝の「イゼベルの霊」であり、それは嫉妬と怨念を抱える霊である。この霊は、コンプレックスや弱さや被害者意識を抱える人間を探し求め、見つけると「愛」や「同情」や「救済」の名の下に、彼らの心を支配する。この霊は、人を解放するように見せかけながら、極端なまでに彼らの傷を押し広げ、二度と立ち上がれないように、自分の支配の中に閉じ込められてボロボロにする。そして、最後にはこれをいけにえとして、存在を乗っ取る。

結局、「父なる神」の像を、被造物が妬みによって奪い取り、自ら「父なる神」になりすますというグノーシス主義の教えを信じてしまうと、それを信じた人間も、自己の像を自分よりも弱い者に果てしなく奪い取られながら、最後には、自分よりも弱い者の怨念に飲み込まれて自己を喪失して終わるしかないのである。

さて、グノーシス主義では、表向きのヒエラルキーと影のヒエラルキーというダブルスタンダードがある。表向きには、「父なる神が家を統御している」かのようなフィクションが作り出され、「男性中心の秩序と支配」が成立しているように見える。だが、それは見せかけだけの秩序である。

グノーシス主義における「父が社会を統御する」というストーリーはフィクションであり、これは実質的に、「母の側からの乗っ取り」によって破壊され、現実には「無限大の権威を持つ母なる存在による支配」だけが正当化されるからである。

従って、グノーシス主義が男尊女卑の教えであるように見えることがあるとすれば、それはヒエラルキーの末端で起きている出来事であるか、見せかけの秩序でしかない。グノーシス主義のヒエラルキーの頂点には、常に「母なる存在」があり、これはヒエラルキー転覆の教えなので、延々と簒奪と秩序の転覆が繰り返される。

たとえば、最近、相撲協会が女性の土俵入りを禁止していることが、男女差別として話題になっているが、ほとんどの閣僚を、戦前回帰を唱える日本会議に占められている現在の我が国政府には、グノーシス主義的世界観が蔓延している。

そこで、このような国で、男尊女卑が支配しているように見えるのは、ほんの表面的な出来事でしかない。 その証拠に、トップを見れば、何の権限もないはずの「私人」である総理夫人が、首相以上の権限を行使して、国を陰から支配している。さらに、首相夫人のみならず、首相の母も「ゴッドマザー」などと呼ばれて影の実権として国を支配している。

それらの女性たちの国政への関与は、表向きにはいかなる法秩序にも基づいておらず、完全に公の秩序の枠外で行われているため、一体、その女性たちが、どれほど国政に絶大かつ重大な関与を及ぼしているのかは、誰にも分からない「ブラックボックス」となってしまっている。

こうして、表向きには戦前回帰だの男尊女卑だの、古めかしい秩序に支配されているようにみえるかも知れないが、我が国いおいて、男たちが作り出す表向きの秩序は、すでに「マザー・コンプレックス」によってすっかり形骸化・骨抜きにされており、結局、「母なるものによる支配」がいかなる法にも決定にもよらず、実質的に国を陰から動かすことがまかり通るという、とても民主主義国家とは思えない、まるで古代社会への逆行のような現象が起きているのである。

こうして、表向きの秩序は男たちによって占められているように見えても、その公の秩序が、実質的に、陰の秩序によって乗っ取られ、骨抜きにされ、もはや全く正常な機能を失ってしまっているのが現状である。

『鏡子の家』では、「鏡」を通して、女が男に置き換えられ、男が女に飲み込まれて消えるという、「男女の秩序の逆転」が起こっている。そこには、当然ながら、「被造物に過ぎない人類(霊的女性)が、父なる神(創造主)の像を簒奪し、自ら神になり代わる」という、グノーシス主義のお決まりの反逆の筋書きが表れている。

だが、そのプロットの中には、一人の人間における「霊」と「肉」の秩序の逆転も暗示される。

体を鍛えることで、コンプレックスから解放されて、肉体を永遠の理想状態にまで高めようとした主人公は、三島の分身でもある。だが、三島が、理想的肉体を手に入れることで、自己嫌悪から逃れることができたかのように考えられたのは、ほんの束の間でしかなかった。

祖母の言葉の呪縛からようやく逃れられたと思った途端、彼を縛っていた祖母の呪縛は消えるどころか、ますます巨大化し、三島が抗うことがほとんど不可能なまでの限界となって目の前に立ち現れた。

体の弱さを克服した先には、「老いと死」という、彼がどうやっても自力では克服することのできない、さらに大きな壁が立ちはだかっている。

焼き払ったはずの「金閣寺」は、消えていなかったどころか、より巨大化してよみがえり、相変わらず、彼に被造物としての惨めな限界を突きつけ、答えを迫る。

 



「夏雄ちゃん」
「いらっしゃい」
「やあ、どうしてたんだよ」
「いや、ボディビル始めたんだよ」

「へえ?」
「夏雄ちゃんの方はどう?相変わらず、描いてるの?」
「やってるよ」
「夏雄って、山形夏雄さん?日本画の?」
「ええ」
「この前拝見しましたよ」
「ああ、そうですか、どうも」
「まあ、人間の体描かないだけ、まだ許せるけど?」
「別に悪気ないんだよ。今ちょっと武井さん、彫刻の話してたからさ」
「ふーん、どんな話?」
「いやだからね、たとえミケランジェロでも、ロダンでも、結局は人間の体を石か何かで彫るわけだ。現に生きた人間の体ってもんがあるってのに。要するに、芸術家なんて要らないんだよ。」
「それじゃあ、武井さんが正しいとしましょうか。歯を食いしばって、汗を流して、その生きた芸術作品が出来たとしますね。しかし、それが老いさらばえることはどうするんですか。その美しさはどうなるわけ。作ったあなたが、それをどうにかしなきゃならないんだから。だから、一番美しい時に、死んでしまえばいいんですよ。

 

こうして、三島の思想の中に、ついにグノーシス主義者が決まってたどり着く「肉体の牢獄から霊を解放する」という究極的結末が、はっきりと形を取って浮かび上がる。

肉体の悪なることを否定して、自分自身を自己嫌悪から救うには、ただ体の弱さを克服し、健康的な衝動に従って生きるだけでは全く不十分であり、結局、死という肉体の限界そのものから解かれることによってしか、自己の弱さから逃れる道はなかったのである。

そのためには、自分の肉体そのものを滅ぼすしかないというパラドックスが明らかになる。

肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子供なのです。」(ローマ8:13-14)

キリスト者ならば、「霊によって体の仕業を絶つ」ことを知っているため、自己の弱さから逃れるために、肉体を滅ぼす必要など全くないことが分かっている。だが、信仰のない三島には、死を超越して生きることは不可能であり、それが可能であるかのように見せかけるためには、さらなる錬金術が必要となる。

彼に選択できるのは、自ら死に方を選択することで、死を支配しているかのような体裁を装うことだけである。自分の望み通りの死を演出することによって、肉体という限界そのものから、自己を解き放つ儀式を完了することだけである。

せめて無様に老いさらばえて、自己の弱さに飲み込まれるという、ありふれた当然の結末だけは避けたい。だが、青年期を過ぎている以上、「一番美しい時に死ぬ」という選択肢も、彼にはもはや残っていなかった。

三島に出来ることは、自分の死を、単なる老いや病の不可避的な結果としてではなく、自主的な決断・選択と見せかけた上で、なおかつ、その死の中に、「言葉による理想を究極的に実現し、言葉と肉体の区別を取り払う」という大義を持たせることで、自らの死を単なるありふれた死でなく、永遠性を持つ非日常的な宗教行事のレベルにまで高めることにしかなかった。

そのために、天皇のための「殉死」という概念が作り出されるのである。

<続く>

神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画"MISHIMA"から②

・霊肉二元論の悲観的な世界観―「イゼベルの霊」(東洋的母性崇拝)がもたらす心の呪縛

さて、先に述べたように、Paul Shrader監督の映画に描かれる三島由紀夫の人物像には、グノーシス主義がもたらす精神的病の一つである歪んだ自己愛、ナルシシズムがよく表れている。

このような歪んだナルシシズムは、グノーシス主義がもたらす「マザー・コンプレックス」と密接な関係があって生まれて来るものである。

グノーシス主義とは、「母なる神」(被造物)が「父なる神」(創造主)を妬み、これを否定して、神としての性質を奪って、自ら神となる物語だということは幾度も述べて来た。グノーシス主義の究極的な目的は、そのような「妬む母」(怨念を持つ母)の子孫として生まれた人類が、自ら「父なる神」の子孫であると宣言して神に回帰することで、「母の過ちを修正する」ことにあるということもすでに述べた。

言い換えれば、「尽きせぬ怨念に支配される母」とその母の怨念を一身に背負わされて運命共同体となった「子」が、一体化して自ら神になろうとする思想が、グノーシス主義なのである。

そこで、グノーシス主義思想の担い手となる者たちは、幼少期から、自らの家庭において「イゼベルの霊」から怨念を注ぎ込まれ、「母なるもの」の支配を受けて、深刻な「マザー・コンプレックス」に陥っていることが少なくない。

そのような者たちは、すでに幼少期から、「母なるもの」との間で、何らかの心の傷を介した悲劇的な心の絆(癒着)が出来上がり、まるで運命共同体のように「母」と互いを束縛し合う関係が成立していることが多く、それが彼らの生涯に渡る「母なるもの」の支配の原型となって行くのである。

映画"MISHIMA"では、三島由紀夫が生まれて数ヶ月で母のもとから取り上げられ、その後、祖母の精神的支配を受けて育った様子が描かれている。

 

「幼少の頃、私は絶えず窓辺にたたずみ、外で思いがけないことが起こる日を、しきりに待ちわびていた。自分の力では決して変えようのない世界を、じっと見つめながら、世界が向こうから変わってくれるのを熱望していた。生まれて50日目に祖母は私を母の手から奪い取った。」

「病が悪化する祖母を看護する私に、祖母は様々な歌舞伎の話をして聞かせた。遊び相手も外出先も、祖母によって厳しく限定されていた。」


この映画を観る限り、三島の幼少期は、母からではないが、祖母という女性による精神的統制と支配を受けたゆえに、まるで牢獄や隔離病棟に閉じ込められたかのように、息苦しいものであった様子が分かる。

祖母は、三島を母のもとへ返さず、自分に満足をもたらす道具として、片時も離さずそばへ置こうとした。そのため、彼女は、うわべだけは同情を装いながら、「ぼうやはなでしこのように体が弱い」と言い聞かせ、三島をマインドコントロールすることで、三島が、自分は病弱な人間であって、外界との接触になど耐えられないという嘘を信じるよう吹き込むのである。

子供ゆえに祖母の言うことを疑えなかった三島は、祖母の言葉を真に受けて、自分の体には病弱という大きな欠点があるのだと思い込んでしまう。だが、外出の予定も、友達選びも、すべてが祖母によって干渉され、支配される日々は、三島にとって耐えがたく、彼はいつか外界で何かが起きて、自分を閉じ込めているカプセルのような世界が打ち破られることを熱望する。

ただ一つ、祖母が許してくれた娯楽である歌舞伎だけが、幼少の三島が自力で閉塞した世界から逃避する手段であった。歌舞伎の舞台は、言葉を通じて現実を塗り替えることのできる芸術の世界が存在することを彼に教え、芸術の世界に彼の心を誘い出す。

「子供の頃、すでに私は、世界が二つの相反するもので出来ているのだと感じていた。一つは、世界を塗り替えることのできる言葉、もう一つは、言葉とは全く関係のない現実の世界。世の常の人は、体が先に出来て、そして言葉を覚えるのであろうに、私の場合は、言葉が先に来た。」

「舞台はあらゆるものを美しく塗り替えた。男を女に変え、世界中を塗り替えることができるのだった。」

三島は、早くから目の前に広がる現実を悲観的に見て、その現実が自分を疎外しているととらえ、これを「言葉によって塗り替える」ことを切望していた。

三島にとって、現実世界は、憎むべき混乱と矛盾に満ち、理想からはほど遠く、何の意味も見いだせない、牢獄のように彼を閉じ込めるものである。

彼は、なぜ自分が、他の子供たちと同じように何も考えずに思うがままに現実に生きることができないのか、なぜ現実から疎外されていると感じるのか、なぜ思索によって現実世界から隔てられ、自分自身をも嫌悪しているのか、理解できない。

そして、彼にとっては、自分の貧弱な体も、憎むべき現実世界の一部である。

三島は、祖母の精神的支配が、自分から自分らしい生き様を奪い、自分を世界から隔離し、他の人々からも疎外される原因を作り出しているとは気づかないまま、どうすれば自分と他の人々を隔てている壁を取り払うことができるのかと考える。

そこで、彼は世界を眺め、男が男であること、女が女であること、自分が自分であることを憎むべきことと考え、男女の区別、自他の区別、言葉と体の区別など、多くの区別が人間を疎外しているのだと考える。

そして、いつかはそうした隔ての壁がことごとく打ち破られて、すべての区分が取り払われ、対極にあるものが一つになって、自分が世界と一つとなって、自分を疎外している牢獄から解放される時を待ち望むようになる。

三島はそうした多重の疎外から成る憎むべき世界を、「言葉」によって、芸術を通して塗り替え、統合できると考えた。

彼にとっては、「言葉」の中にこそ、永遠の理想的な世界へ通じる扉があり、創作を通して、閉塞した世界からの逃げ道を見つけることが可能であると感じられる。

彼は文体を磨き、これを改造し、自分の作り出す芸術の世界を絶えずより洗練されたものにすることで、そこで作り出された美しい世界を、逆に現実に適用しようと考える。

こうした三島の世界観は、全世界が悪しき神(ヤルダバオート)のもとにあって悲惨に満ちており、天界へ復帰することがだけが救いであるかのようにみなすグノーシス主義の霊肉二元論の世界観ともおおむね一致する。

グノーシス主義は天的なプレーローマ界にこそ真のリアリティがあるとみなし、そこへ回帰することを終局的な目的とするのだが、三島の生涯も、人生を通じて、「言葉」と「現実世界」とのギャップを取り払い、両者を融合させることで、天界と現実世界とを融合させようとするものであったと言える。

だが、キリスト者ならば誰しも知っているように、十字架を介さずに天を地に引き下ろすことは不可能であり、それゆえ、グノーシス主義者に降りかかるのと同じ悲劇が彼を見舞うのである。

 
・疎外された者が疎外する者を否定的に乗り越える―悲観的な世界観の転換

太宰治のような作家が、厭世的な世界観を持ちながら、同時に、人間の奥深くに潜む罪の問題に気づき、罪悪感に苦しめられていたのに対し、三島は、祖母の心の中にも、自分の心の中にも、悪や罪の存在を認めなかった。

三島は、疎外されている人間自身に罪があるとは決して考えない。また、罪ゆえの疎外といった考えを持たない。そうなると、諸悪の原因は、人間自身の中にはなく、むしろ、人間を疎外している何らかの壁(区分)の側にあることになる。

三島は、自分を苦しめている諸問題の原因を、決して己の内にある罪に見い出すことがない代わりに、「自分を疎外している区分こそが悪である」とみなし、その区分を抹消することで、世界と自分とを再統合できると考える。

このようにして「自分を疎外する者の存在を否定的に乗り越えることで、自己疎外を解消しようとする」という発想こそ、グノーシス主義に典型的な発想なのである。

三島は、自分が病弱な人間であるという考えが、祖母によって吹き込まれた嘘であるとは長い間、気づかず、ただ鏡をのぞき込んでは、そこに映る自分の貧弱な体を見て、深刻なコンプレックスと自己嫌悪に苛まれていた。

彼はどうすればそのような自己嫌悪から逃れられるのかを考える過程で、「自分の美意識が自分の体を疎外している」と考えるようになり、自己の意識が自分の体を疎外しているという状態を取り払い、変えるための実験に着手する。むろん、それは実験というより、錬金術なのだが、ここに最初の目に見えるグノーシス主義的な転換が起こった。

美意識によって「見られる対象」であったはずの彼の肉体が、「見る者」である美意識から、その美なる性質を奪い取って我が物とし、「見られる者」が「見る者」と同化し、対等な地位を得ようとするのである。


「きみもぼくも美意識というものを持っている。きみが鏡の前へ立つと、その美しいものが見えて来る。それがぼくだと、もう目も当てられないんだ。だからもうからかうのはよしてくれ。」

「ハワイも近づいたある日、私はついに暗い洞窟から出て、太陽と握手したような衝動を覚えた。私はいつも、自分の中にある化け物のような感受性に苦しめられて来た。言葉の世界が、私を健康な肉体から切り離していた。その私を太陽が解き放ってくれた。ギリシアは私の自己嫌悪を癒し、健康への意志を呼び覚ました。私は美しい作品を作ることも、自分が美しいものになることも、その道理は同じなのだと見つけた。


三島にとって、彼の「美意識」(言葉)は「鏡」のように、肉体を「見られる対象」として客体化する役割を果たす。ここで言う「鏡」とは、まさにグノーシス主義のシンボルとしての「鏡」であって、次々と自分の似像を投影することによって数々の被造物を生み出す至高神を象徴する。

三島の美意識は、芸術の世界においては、思うがままの像を自在に作り出し、美しい世界を作り上げる。まさにグノーシス主義の神のような創造行為を行う。だが、その美意識は、同時に、現実世界の三島自身を、対象化して映し出す際、三島が望むような自己の像を映し出さず、むしろ、彼の弱々しい肉体を容赦なく映し出し、彼自身の弱さを暴露しては、彼を自己嫌悪させる。

三島は、自分の中にある「言葉の世界」つまり、自分の美意識が、自分自身を疎外しているという事実に耐えられなくなって言う、「私はいつも、自分の中にある化け物のような感受性に苦しめられて来た。言葉の世界が、私を健康な肉体から切り離していた。」と。

彼は、自分で自分の肉体を醜悪なものとみなして嫌悪するという、自己疎外の呪縛から逃れるために、自分の中で、何とかして言葉と肉体の二つを矛盾のないものとして融合させられないかと考え、「鏡」に映る自分自身の像を改良することによって、「美意識」が要求するのと同じ水準まで肉体を引き上げれば、美意識と肉体とが同一のものになり、言葉と映像(体)との間にある溝が埋まるのではないかと考えた。

そこで、三島は、自分の「体」を「言葉」と同じ芸術の水準まで引き上げるべく、健康を追求し、体を鍛え上げ、自己存在そのものを、芸術と同じ、理想的な存在にまで高めようとしたのである。

三島は、肉体改造に成功したことで、言葉を通して「美しい作品」を作り出すのと同じように、現実の自分自身を「美しいもの」に塗り替えることができたと錯覚する。

「私は美しい作品を作ることも、自分が美しいものになることも、その道理は同じなのだと見つけた。

こうして、グノーシス主義的な錬金術が行われ、「体」が「言葉」と対等な、美しい、善なる、永遠性を持つ存在にまで引き上げられる。

三島は、青年期を過ぎてようやく、自力で体の弱さを克服し、自分は弱すぎて外界の刺激に耐えられないという祖母の言葉の呪縛を振り切った。彼は感覚的な刺激に誘われるがままに、ためらいなく外界に飛び出し、「健康な衝動」に身を任せることで、「ついに暗い洞窟から出て、太陽と握手したような衝動を覚え」る。肉体の衝動を解放することで、それまで自分を縛って来た自己疎外の呪縛からようやく解放され、あるべき自分自身を取り戻したように感じたのである。

だが、こうした三島の行動には、ただ単に自分の弱さを克服するという目的を超えた、決して我々が無視することのできない、重大な危険をはらむ恐るべき目的が込められていた。それは、彼が、理想的な肉体美を追求することで、かつては目も当てられないほど厭わしく感じられ、「悪」でしかなかった自分の肉体を、あたかも「善なるもの」「聖なるもの」「永遠のもの」であるかのように、完成の極致へ導き、それによって、「体」の堕落を否定し、かつ、「言葉」と「体」とが対等な地位にあって、あたかも両者が融合可能であるかのように主張し、「霊」(言葉)と「肉」(体)の区別を否定し、「言葉が体を支配し、統御する」という、聖書的な動かせない主従関係や秩序を否定し、覆そうとしたことである。


三島のこのような発想は、当ブログでかつて取り上げた女性解放神学者リューサーの考えにも通じる。当ブログでは、解放神学が、キリスト教を換骨奪胎して作られたグノーシス主義であることはすでに述べたが、リューサーが伝統的なキリスト教の「二分性」に、激しい憎悪と非難の言葉を浴びせながら、キリスト教が人間の肉体および肉欲を堕落したものとみなしていることに、とりわけ強い抵抗感を示したことも説明した通りである。
 

(伝統的キリスト教における)「救いとは、肉的なものを抑えることによってくるものであると解釈される。肉欲と感情の抑制、そして内的・超越的・霊的自己への逃避。食べること、眠ること、入浴さえもが、また、視覚的・聴覚的楽しみ、そして何にもまし て、一番強烈な肉体感覚である性の喜びなどが真の『悪魔の住処』とされた。文字通り、死の倫理を形成したのである。救いは死を目指しつつ生涯かけて『苦行』を実践することによって与えられる『魂の肉体からの分離』である。創造を堕落と見るグノーシス主義的思考を訂正しようとして苦心したにもかかわらず、 キリスト教はその同じグノーシス的精神性の多くをそのまま保存するにとどまった」(『解放神学 虚と実』、勝田吉太郎他著、(大石昭夫著、「解放神学の基本構造」)、荒竹出版、昭和61年、p.61-62)。

 

ここで、リューサーが、肉欲を堕落して罪深いものとみなす伝統的なキリスト教の考えを、あたかもグノーシス主義的精神から来る誤謬であるかのようにみなして非難していることには、特別な注意が必要である。

なぜなら、「肉欲および肉体を罪深いものとして嫌悪し、軽んじることは、グノーシス主義的な霊肉二元論の発想である」という彼女の主張は、根拠を持たない決めつけだからである。

こうした言説は、今日でもクリスチャンの間でまことしやかに広まっている。グノーシス主義が、人間の肉体を、神聖な霊を閉じ込める牢獄とみなし、肉体からの解放を究極目的としていたという認識を利用して、肉体を堕落したものと考えること自体を、グノーシス主義的な概念だと決めつけて、「体の復権」を求めようとする人々がいる。そうした中には、「肉体は中立である」(Dr.Luke)という考えもある。

だが、聖書は、はっきりと人間の魂および肉体を堕落したものとみなしているため、肉体の堕落を認めず、肉体を「中立」とみなすような考えは、聖書に反している。

そこで、肉体を堕落したものとみなす考えは、決してリューサーの言うように、グノーシス主義的な考えではなく、むしろ、肉体の堕落を認めない考えこそ、以下に記すように、真理に背く虚偽であって、グノーシス主義的発想であるため、注意しなければならない。

グノーシス主義は、人間を「霊」と「肉体」の二つの部分から成ると定義しているのに対し、キリスト教は、人間を「霊」「魂」「肉体」の三つの部分から成ると定義する。

こうして、キリスト教は霊肉二元論を取っていないという違いはあるが、しかし、聖書においても、大きく分ければ、被造物は「霊」と「肉」の二つに分類される(「肉」の中には、人間の「魂」と「肉体」の両方が含まれる)。

ここにおいて「肉」とは堕落の象徴である。「肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。」(ローマ8:8)

クリスチャンが知っている通り、人はキリストを信じても、贖われるのは、ただ霊だけであり、信者の「魂」と「肉体」は、信者が救われた後も、依然として堕落した「肉」に属するままである。

信者の魂と肉体が贖われ、信者が完全に新創造とされるのは、復活の時である、そうなるまで、信者はこの地上にいる限り、贖われた「霊」と、贖われない「肉」の二つの部分を合わせ持つ。

聖書において「肉」は徹底的に堕落したもの、贖われていないものの総称であり、サタンの作業上にしかならないため、もし人間が「肉」を通して、堕落した肉欲に支配されるならば、人は罪を犯し、死ぬしかない。

そこで、聖書は、信者にはキリストと共なる十字架において「肉に対して死ぬ」ことが必要であると言う。「霊によって体のはたらきを殺す」ことなくして、信者は堕落した肉の罪深い衝動に支配されずに、霊によって歩むことはできないのである。

肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子供なのです。」(ローマ8:13-14)

以上のことを考えれば、人間の魂と肉体を堕落した「肉」に分類し、「肉的なもの」が、罪深いものであるとみなすことは、何ら聖書に反せず、グノーシス主義的な概念でもないことが分かるだろう。

従って、リューサーが、「伝統的なキリスト教が、肉的なものを罪深いものとみなして否定し、肉体および肉欲を嫌悪していることは、グノーシス主義的な誤りである」と決めつけていることは、極めて重大な誤謬なのである。

彼女がそれによって、聖書における「霊的なもの」と「肉的なもの」の区別を否定し、肉の堕落という動かせない事実を否定して、両者を融合させようとしていることに気づかなければならず、そのような考えこそ、グノーシス主義的発想なのである。

(このように、リューサーの論は、グノーシス主義者にありがちな「さかさまの理論」になっているため、注意しなければならない。)

私たちは、これまで、聖書において、霊的な世界と肉的な世界は、決して交わらず、その両者を仲介することができる存在も、キリストを置いて他にないことを見て来た。

従って、グノーシス主義の神話のプロットが、創造主を「鏡」のような存在とみなし、創造主が「鏡」に自分の姿を映し出すことによって、被造物の創造が行われたかのように主張して、霊的な存在である神と、物質的存在である被造物との間に、「鏡」という架け橋を設定し、この架け橋を通した交流が成り立つかのように主張していることが、完全に荒唐無稽であることを見て来た。

グノーシス主義の神話のプロットに見るように、もしも創造主が自分の姿を何らかの「鏡」に映し出すことによって、被造物を生み出せると仮定するならば、この「鏡」さえあれば、被造物の側でも、いくらでも霊的世界から物質世界にリアリティを流出させることが可能となり、霊的な世界と物質的な世界の隔ては事実上、なくなり、両者はまるで一続きの世界のようになってしまうだろう。むろん、そこには、創造主に背いたがゆえの被造物全体の疎外(堕落)もなく、肉の堕落もない。そもそも「肉」と「霊」の区別そのものが消え失せる。

リューサーは、このようなグノーシス主義的神話のプロットに従うかのように、聖書における「霊」と「肉」の絶対的な区別に反対し、堕落した人間の肉体を、まるで罪のないもののように、神聖な霊の領域に潜り込ませようとするのである。

そのことによって、彼女が「肉」という滅びゆく旧創造を、こっそり十字架の罪定めと滅びから救い出そうとしていることが分かる。

後述するが、グノーシス主義とは、決して今日考えられているように、ただ単純に肉体に対する悲観的な嫌悪や侮蔑に基づいて「霊を肉体の牢獄から解放する」ことを最終目的とする教えではない。

グノーシス主義は、「疎外される者と疎外する者との区別を廃することによって、疎外された者が、疎外した者を否定的に乗り越える」という思想であり、この思想は、神と人との区別、男女の区別、霊と肉の区別といったすべての区分を廃し、対極にあるものを融合させることによって、多重疎外の状態を解消し、原初的統合を回復することを目的としているのである。

それゆえ、グノーシス主義の思想の中には、「肉を堕落したものとみなし、肉体および肉欲を罪深いものとみなして嫌悪することによって、人間が自分自身の中から不当に肉体だけを疎外するという状態を解消する」という発想も込められており、 リューサーが目指したのは、まさにそれであった。

彼女は、霊と肉の区別を廃止することによって、人間が自分の中から自己の肉体だけを罪深いものとみなして疎外するという「自己疎外の解消」を唱えたのであり、その点で、三島とリューサーの見解は、本質的に全く同じなのである。
 
この二人は、「体」を「言葉」と対等なレベルまで引き上げ、両者の区別を取り払うことにより、「肉」が排除されているという状態を終わらせ、「肉」を「霊」と同じように、善良で、罪のない存在とみなし、共に聖なる領域まで引き上げようとしているのである。

もちろん、クリスチャンはそんなことは絶対に不可能であることを知っている。二人が目指していたのは、結局、「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(ヘブル11:3)という聖書の秩序を否定して、あたかも「見えるもの」(被造物)と「見えないもの」(神の言葉)が本質的に同一の性質を持つ、融合可能なものであるかのように主張して、堕落した物質世界の「被造物」とを、霊である「創造主」と同一であると主張することにあった。

このように、グノーシス主義の思想は、決して混じり合うことのないものを一つに「統合」することで、弱い者(疎外された者)が、強い者(疎外した者)の性質を簒奪し、これを乗っ取り、なりすますというものであるため、この思想の中には、「罪深いものとして排除された肉欲および肉体が、自分は霊と同じ性質を持っていると主張する」ということも含まれていた。

リューサーは、女性解放神学者として、女は男から造られたという聖書の記述に猛反対する。だが、何度も見て来たように、グノーシス主義者が、女が男から造られたという聖書の記述を否定するとき、彼らは暗に、被造物は創造主から作られたという聖書の秩序を否定して、人と神とは同一だと主張しているのである。

こうして、グノーシス主義者が、聖書の御言葉の持つあらゆる「二分性」を嫌悪・否定して、それが悪しき自己疎外をもたらしているので、その区分自体を廃止しなければならないと主張する真の目的は、結局、人間が、己を疎外した神を「否定的に乗り越える」ことにある。

つまり、そこには、人間が、自分を疎外した神に対して、怨念と嫉妬に基づく復讐を企て、自分は神と同一であるから、神が自分を疎外しているのはおかしいと主張して、神の性質を奪い取り、神を乗っ取り、自ら神になり代わるという簒奪と破壊の願望があるのである。

肉体を言葉のレベルに引き上げるというのは、そのための第一歩である。

<続く>

神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画"MISHIMA"から➀

さて、二つほど前の記事、神に疎外された者たちによる神への復讐としての「エクレシア殺し」の中で触れた、Paul Shrader監督の"MISHIMA: A Life in Four Chapters"について、もう一度、補足しておきたい。
 
残念なことに、以前に記事で紹介した動画はすでに削除されているため引用できないが、この映画を改めて見直してみると、三島作品の中には、至るところにグノーシス主義のシンボルがちりばめられていることが非常によく分かる内容である。
 
三島由紀夫が自分をグノーシス主義者だととらえていなかったとしても、三島作品にグノーシス主義のシンボルがふんだんにちりばめられ、かつ、三島自身の生き様の中に、グノーシス主義の思想がまざまざと体現されているのは全く不思議なことではない。

なぜなら、グノーシス主義は、厭世的で悲観的な哲学であり、政治や社会の情勢が不安定となり、人々の心のよりどころが失われるような状況があれば、いつの時代にも、どこの場所でも、発生しうるものだからだ。

今回、私たちは、この映画を中心に据えて、三島と三島の作品に流れるグノーシス主義的なナルシシズムの忌まわしさ、恐ろしさというテーマに踏み込んで行きたい。

そのことを通して、同時に、これまで見て来たような、グノーシス主義によって骨抜きにされた疑似キリスト教である、ペンテコステ・カリスマ運動を支持する信者たちの異常なほどの幼児性、自己愛などの数々の精神病理的な退行現象(セルフ病)の発生原因にも迫って行くことができるだろう。

私たちは、すでにペンテコステ・カリスマ運動の支持者らには、あらゆる場面で、実年齢にふさわしくない極端に自己中心でナルシシズムに溺れた幼稚な行動を取るという特徴があることを見て来た。

カルト被害者救済活動を支持している村上密、杉本徳久の行動、Dr.Lukeや坂井能大の行動について、ここで詳細に繰り返す必要はないであろう。現実の自分の失敗や欠点を直視することができず、自分をありもしないヒーローや救済者に見せかけて、人前に演技することをやめられなくなり、自分にとって不都合な事実はすべて無視し、批判に耳を塞ぎながら、フィクションの中に逃げ込んでいつまでも自画自賛を重ねているこの人々の行動が、実年齢に照らし合わせて、あまりにも幼稚で、自己中心であることは今更、わざわざ繰り返す必要がない。

だが、ペンテコステ・カリスマ運動に影響を受ければ、指導者であるか信者であるかを問わず、男女を問わず、誰でもこのように、とても大人とは思えない幼稚な行動を繰り返し、感情過多となって眉唾物の自画自賛やお涙頂戴の物語に年がら年中、明け暮れるようになることもすでに述べた通りである。

この映画を通して、私たちはそうしたペンテコステ・カリスマ運動の信者らの精神的幼児性はどこから来るのか、という問題だけでなく、日本人全般が抱える精神文化的な成熟度の遅れという問題を解く鍵をも、ある程度、見いだせるのではないかと考えている。

マッカーサーが日本人全体の精神年齢について次のように述べたことは知られている。

「もしアングロ・サクソンが、科学、芸術、神学、文化などの分野において45歳だとすると、ドイツ人は我々同様十分成熟している。しかし、日本人は歴史の長さにも拘らず、まだまだ勉強中の状態だ。近代文明の尺度で計ると、我々が45歳であるのに対し、日本人は12歳の子供のようなものだ。」

これは技術革新の話ではなく、日本の精神文化的な成熟度について行われた言及である。そして、状況が悲劇的なのは、以上の発言がなされた時点から今に至るまで、多くの月日が流れたにも関わらず、おそらく日本人はその間に、わずかに1歳たりとも成熟度を増し加えていないと感じられることである。

このように、日本人の精神的成熟を著しく妨げ、停止させている最たる原因は、グノーシス主義的文化的土壌にあるものと筆者は確信している。

つまり、ペンテコステ・カリスマ運動の支持者らに見られる実年齢に全くふさわしくない精神の幼児性や自己中心性と、日本人全般の抱える精神文化的成熟度の低さは、根は同じところに存在しており、その根本原因は、神と人との分離を否定する東洋的・グノーシス主義的な思想の病理に存在すると筆者はみている。

さて、Paul Shraderの映画の長所は、三島の人生を非常に美しく描写しながらも、同時に、三島とその思想を客観的に突き放して分析することで、その人生の悲劇を浮かび上がらせることに成功している点である。

おそらく、この映画を観て、ハッピーエンドだと思う人はほとんどおらず、また、これを観て三島に追随したいと願う者も出て来るまい。

そこがこの映画の長所なのであり、この映画は、三島の思想を十分に深く理解しながらも、三島自身や、三島作品の主人公たちの抱える心の弱点、彼らの陥った人生の悲劇を、はっきりと描き出しているために、観るものに一定の感銘と衝撃を与えるが、決して、三島や三島作品の主人公たちの人生美学を賛美したり理想化する材料とはならないのである。

やはり、キリスト教文化圏のフィルターを介して三島をとらえたことの意義は非常に大きかったのではないかと思う。それも精神文化の優位性のなせるわざかも知れない。45歳の大人の目から、12歳の子供を見れば、その人となりを分析することは、レントゲン写真でも撮るように容易なはずだからだ。

筆者が、日本人の精神年齢の低さが、グノーシス主義的文化的土壌に起因すると言うのは、グノーシス主義とは、神と人との断絶を認めず、「母と子の分離」を認めないことによって、人を永久に「嬰児」のままに留め置く思想だからである。

東洋思想は、神と人とは調和しており、いかなる分離もなく、自然を通して万物のうちに神は満ちており、人は自然の一部としてその中に調和していると言う。しかし、そのようにして、神と人との(罪による)断絶・分離を認めないという発想が、逆に、人を「母のへその緒」に永久に「嬰児」のままに縛り付け、自立させない束縛の枷となり、精神的な成熟と自立を妨げるのである。

キリスト教のように「父なる神」と「人」との分離を認めず、人間を含めすべての被造物が「神と一つであり、母のような慈愛の中で包容されている」という、東洋思想の「母性崇拝」を基調とする思想が、日本人が、自分を冷静に客体化して観察・分析することを妨げ、「自分しか存在しないナルシシズムの世界」を作り出しているのである。

日本人はしばしば自国の政策の誤りを、外圧という形で諸外国から突きつけられなければ、決して軌道修正できないと評されるが、そのように自己の過ちを自分で認識して修正できないという傾向も、そもそも自己を客観視できないという「自分病」のもたらす当然の結果であると言えよう。

このようなことを言えば、三島の信奉者からは早速、非難が来るかも知れないが、映画に見られる芸術としての美化された側面をすべて取り払って、むきだしの結論だけを語るならば、三島の人生は、「いい年をしたおっさんが、鏡を見つめて究極なまでの自己愛にふけり、理想的な自己を追求し続けた結果、ついに鏡に映った自分の映像に命を奪われ、飲み込まれて消失するという、どこまでも独りよがりなナルシシズムの破滅の物語」にたとえられ、しかも、彼がその破滅を、何かしら非常に神聖で崇高な宗教行事のように見せかけて、観客に拍手喝采や同意を求めるという、どこまでも誇大妄想的なおまけがついた物語だとも言える。

三島の人間像の中には、東大卒の人間が陥る典型的な病としてのナルシシズム、東洋思想につきものの「イゼベルの霊による支配」、また、母なるものの支配が生み出す深刻なコンプレックスと自信喪失、そのコンプレックスを覆い隠すためのむなしい肉体改造の試み、などなどの非常に興味深い精神病理的な特徴をすべて見ることができる。

詳しくは次章以降で論ずるが、これを観れば、なぜかつての我が国では、「いい年をしたおっさん」たちが、自己愛に溺れ、理性を失って幼児化し、自らの欠点や失敗を全く直視できなくなって、皇国史観などといった馬鹿げた神話にとりつかれ、天皇と己を神として破滅に突き進んで行ったのかという疑問が、おのずから解けるだけでなく、そういう精神性が、戦後も変わらず、「いい年をしたおっさん」たちの心の中に脈々と流れ、残っている理由が、何となく分かって来るのである。

現在の安倍政権なども、こうした「おっさんナルシシズム」が究極の形で現れたものだと言えよう。つい最近になるまで、盛んに安倍政権をヨイショして、政権批判的なコメントを貶めるために日夜ネットを監視しているネトウヨや、自民党ネットサポーターズクラブのメンバーは、盲目的に安倍を信奉する若者世代だと考えられていたが、自民党ネトサポの決起大会のような写真が流出することにより、実は彼らの大半が「いい年をしたおっさん世代」であったことが判明し、人々に衝撃が走った。

こうした自己愛に溺れる「おっさん」たちの出現は、彼らをいつまでも自立させない「母なる存在の支配」と密接な関係がある。

グノーシス主義とは、「父なる神を妬み、父なる神から神であることを奪い取って自ら神となった、母なる神による支配」を指す。この「母なるものの支配」が、常に「父なるものの支配」を凌駕し、否定し、簒奪し、骨抜きにするせいで、グノーシス主義の思想的影響下に生きる男たちには、健全な自意識、健全な自尊心が育まれる余地が喪失し、彼らは自信が持てず、コンプレックスに苛まれ、健全な自己を養えないのである。

本来、健全な人間であれば、幼少期から青年期にかけて「母からの自立」が始まるだろう。出生直後にへその緒が切られ、乳離れがあり、幼少期から青年期には反抗期が繰り返され、慕うべき存在であった母が、次第に、厭わしい分離すべき存在に変わる。そして、最終的には、母から完全に分離・独立し、母とは別の女性を自ら選び、新たな家庭を築くのである。

ところが、「イゼベルの霊」による支配は、怨念による支配であるから、グノーシス主義的母性崇拝の思想は、決して人を自由にしないのである。そこで、この霊の支配によって、マザー・コンプレックスに苛まれている男たちは、青年期を過ぎて、「おっさん」の年齢になっても、まだ「母の支配」から抜け出せない。

彼らの心の中にある「母の呪縛」は、あまりに強すぎるため、彼らは心の一方では「母なるもの」を憎み、そこからの解放を願いながらも、決して怨念によって結ばれた母との悪しき運命共同体の絆を断ち切ることができず、母を憎みながらも、最後には、嬰児として母の胎内に回帰することを自ら目指すかのように、「母なるもの」の中に飲み込まれて自分を消失して行くのである。

Paul Shraderの映画に描かれる三島の人間像には、グノーシス主義者を陥る避けがたい破滅が、極めて興味深くシンボリックに表れている。

<続く>


 
「さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。

 女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、 ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。
へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。
 
女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。 」(創世記3:1-7)

肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子供なのです。」(ローマ8:13-14)

«義人の道はあけぼのの光のように。キリストの死を打ち破った非受造の命は、信じる者にすべてを供給する