2017年5月14日 (日)

十字架の死と復活の原則―日々の十字架を代価として払って主に従う―「私に従って来なさい、死人を葬るのは死人に任せなさい」―

以前にも、「死人を葬るのは死人に任せなさい」という趣旨の記事に書いた通り、肉の絆に対する十字架の取り扱いは相当に厳しいものである。それは自分で分かっているつもりの領域を超えて、なお、生まれながらの人間の情に鋭くメスを入れ、これを断ち切る。

幾度も書いて来たことであるが、肉による情をキリストの死の向こう側の復活の領域にそのまま持ち込むことは許されない。たとえば、家人だから、親族だから、親しい友人だから、自分にとって身近な大切な人だから、長くつきあった仲間だから、肉の情愛に結ばれたまま、手をつないで、天国の門をくぐりたい、この地上で別れても、永遠の世界で再び出会いたい…などとどんなに願ったとしても、そのような願いを神が聞き届けられることはない。

むしろ、そのような肉の思いこそ、徹底的に十字架の死に渡されなければならないであろう。

なぜならば、人が真に救われるためには、まず、水と御霊によって生まれなければならないからだ。(信仰仲間との連帯であっても、肉による情のすべては十字架において死に渡されなければないのだが、今回は、まず生まれながらの肉による情や絆について書いておきたい。)

何よりも、神が唯一であり、神の独り子である主イエス・キリストが人類の罪のために十字架で死なれ、よみがえられたこと、信じる者のために永遠の贖いとなられたことを信じ、この救いを受け入れないのに、天国に入れる者は誰一人としていない。

だが、ニコデモがそうであったように、水と霊によって再び生まれなければ、誰も神の国に入ることはできないというイエスの御言葉を聞いて、それを即座に素直に信じて受け入れることのできる人は、ごくごく限られており、非常に少ないであろうと思う。

筆者は、90歳を超える親族が病の床に着いた知らせを聞いたとき、自分の書いた記事を思い出し、この親族が救われて神に至ることを願いつつ、帰郷した。

しかしながら、しばらくの間、この親族を観察してよく分かったことは、この親族は、二十年以上の歳月をかけて、生長の家の信者を続けており、病床で残されたわずかな時をさえ、生長の家の説教テープを聞くことに費やしていたことである。その姿は、筆者には、衰えゆく自分自身への不安を紛らし、過去から目をそらし、現実から目をそらし、死の恐怖から目をそらすためとしか見えなかった。

それにしても、この老いた親族が病床から起きられなくなってから、生長の家で親しくしていたはずの信者たちはどこへ消えたのか、誰一人姿を見かけることもなく、訪問して来ることもなかった。

それもそのはずであろう。生長の家は、人間は生まれながらにしてみな神の子であって、神の威厳と大能を帯びて、金色のオーラに包まれており、病や邪念などはみな影や幻想に過ぎないものであって、人間に触れて害することはできないと教えているからだ。

この偽りの宗教は、人間は生まれながらにしてみな神の子であると嘘を教えて、キリストの十字架の贖いを介さなければ、誰も神の国に入れないという聖書の事実を否定している。そして、生まれながらに神の子である人間はみな、神の体、神の命を持っていると、偽りを教えている。

ところが、生まれながらにして神であるはずの信者を、影に過ぎないはず、幻想に過ぎないはずの病が脅かし、病の床に臥させ、信者を今や死の恐怖をもって脅かしているのだ。この現実に対し、彼らはどう言い訳できようか。それでも彼らは、実相の世界においては、人間の霊魂は不滅なのだから、病に冒された肉体も幻想なのだと言って、矛盾のすべてをごまかすのであろうか。

彼らがどんなに多くの詭弁を用意していたとしても、そのような虚しく空々しい言葉が、厳しい現実を前に通用するはずもない。死を目前に見ている病人に真の安心を与えるはずもない。そこで、この宗教の信者たちが、この親族が元気なうちには、徹底的に偽りの教えによって献金を巻き上げた上、不都合な事態が起きると、寄り付きもしなくなり、姿を消すのは当たり前であると思う。

だが、それにしても、90を超える老人にも、家族の反対を押し切ってまで、献金をまきあげるように捧げさせていたこの宗教には、恐るべしと言うほかない。その献金のために、この親族はわざわざ新札まで用意していたというから、そこまでさせていたこの宗教に、呆れ、憤慨するだけだ。だが、さすがにそのお布施は、家族が反対してようやくやめさせるに至ったようである。

家族の理解も得られないまま、長年、周囲に反対されつつ、多額の献金と奉仕を費やして、この宗教にはまり続けて来たのである。今更、説得して、どんな効果があるのか、とまずは思わざるを得ない。そんな風にして、家庭から長年に渡り、家族の成員の心と体を奪って行ったこの宗教の欺瞞を、まずは糾弾せずにいられない。

生長の家は、アッラー、仏陀、キリスト、その他のどんな神々を信じようとも、最終的にはみな救いに至れると教えており、一言で言えば、あらゆる宗教の「いいとこどり」だけで出来あがった混合物である。

しかしながら、こうした生長の家のいいとこどりの教えは、汎神論や、原始宗教の名残のような、八百万の「神々」への信仰心の残る日本の精神風土にはなじみやすいものである。伝統的な日本の土着の宗教は多神教だからである。

さらに、「人間は生まれながらにしてみな神の子である」という、生長の家の偽りの教えは、人の自尊心やエゴを巧みにくすぐって、人間の心をおだてあげる。自分自身を「神である」と思わせるのである。この親族は、特に、家長であったから、自分自身がもともと家全体のシンボルであり、長年、先祖供養などを通して、いずれは自分も子孫として、(神や仏となって)その家系に連なるのだという自覚を養われていたことであろう。

さて、筆者が上記の記事を書いた時には、まだ筆者はこの親族の病のことを全く知らなかったので、何の関連性もなくこの記事を書いたのであった。

だが、人間は知らないことも、神だけでなく、悪霊どもも知っている。そして、筆者は、親族の病という不幸を聞いて、たとえ回想であっても、こんな不吉な記事を書くものではないと当初は考えたが、むしろ、現実はその逆であったと言えよう。

筆者は、肉親の情から、この親族の病を哀れんだが、逆に、この親族の内にいる(キリストを知らない)霊は、肉親の情や絆に訴えかけることで、筆者との取引を願っていたのだと思われてならない。

なぜなら、すでに書いた通り、この親族は、筆者を呼び寄せて、開口一番、こう言ったからである。「苦しまなくて済むように、キリストさんに祈って欲しい」と。

この親族は、自分の病名も知らず、この先、自分がどうなるのかも知らなかったが、直観的に、死が近いことを感じていたのであろう。最期が苦しくないものとなるように願って、筆者に助力を求めたのであった。その時、親族は、体力はそれなりに衰えていたので、寝ていなければならない状態であったが、まだ自分で行動することもでき、会話も可能で、それほど重大な苦しみには直面していなかった。

そこで、親族からの求めに対し、筆者は、筆者だけが代わりに祈っても意味がないこと、何より、そう願っている本人が、自分でまことの神を信じて祈らなければ効果がないことを述べた。それは、果たして、この親族に、キリストを心から信じる気持ちがあるのかどうかかをはっきりさせるためにあえて問うた内容であった。

しかし、このようなやり取りがあったこと自体が、実に不思議なことであった。何しろ、この親族は90歳という高齢で、人生の大先輩であり、かつ肉においては先祖に当たり、筆者などはまだほんの小娘に過ぎない。かつて信仰について論争した時にも、この人は筆者の助言や忠告など何も必要としていなかった。しかし、「キリストさんに祈って欲しい」とわざわざ依頼して来たところに、自分の力ではもはや太刀打ちできない深刻な事態が起きているという切迫感があるのだろうかと思わされた。

この際、きっかけが何であれ、構わない。たとえそれが苦しみたくないという利己的な願いからであれ、あるいは死の恐怖から逃れたい願いであったとしても、どのようなことがきっかけでも良いから、何が何でも、まことの神に至りつき、真理を知って平安を得たいという心さえあれば、神は聞いて下さると筆者は信じてやまないので、その助けになれないかと筆者は考えた。

筆者自身も、窮地にあって、何度、神に助けを求めたり、率直に願いを祈り求めたか知れない。そして、その祈りの中に、利己的な動機が微塵も含まれていなかったとは言えない。自分が楽になりたいという気持ちが微塵も含まれていなかった、とか、すべては自分自身のためだけではなかった、などとは言えず、言うつもりもない。

だが、それでも、筆者の多くの祈りを、願いを、実際に、神は御言葉に応じてかなえて下さった。神は私たち人間の地上における弱さ、脆さ、儚さを十分に知っておられ、その弱さの中で強さとなって下さる方である。聖書の神が、我々の肉体の限界から来る悩み、苦しみに、耳を傾けて下さらない方だとは、筆者は思っていない。

だが、神の助けを受けるためには、条件がある。それは、他の神々を捨てねばならないこと、そして、自分がまことの神をおざなりにして来たならば、そのことを罪として悔い改めねばならないことだ。その罪に対する赦しとして、キリストの贖いがあることを信じねばならないことだ。

だが、それは、人は生まれながらにして神の子ではなく、生まれながらにはただの罪人でしかないと認めることを意味する。自力で、つまり、地上の生まれ持った出自によって、血統によって、永遠に至ろうとするのではなく、神の一方的な恵みとしてのキリストの十字架の贖いを受け入れることによって、神の国に至ることを意味する。それがこの親族に出来るだろうか?

重要なのは、ただ単に人の苦しみが軽減されることではなく、人の魂が救われることである。そこで、たとえ筆者が代わりに祈ってみたところで、この親族の魂が根本的に救われなければ、すべては何の意味もないのだ。だからこそ、この点(自分でキリストを信じることができるかどうか)は極めて重要な争点であると筆者は考えた。

しかしながら、観察すればするほど、親族が願っているのは、そういうことではない、ということが分かって来た。何よりも、二十年以上(あるいは三十年以上か?)生長の家の教えを受け続けて来た影響は相当に根深いものがある。その教え込みを打破して、誤りに気づいてもらうこと自体が、至難の技である。しかも、90歳という高齢者を前にして、そのようなことを、50歳以上の年の差がある小娘が行おうとしているのだ。不遜だと思われても仕方がないだけではない。この親族に関しては、死後についてもすっかりレールが敷かれており、葬儀の依頼先や、墓までも決まっていることが分かった。もちろん、一切、キリスト教とは関係のない、義理の世界の話である。

このような状況の中で、この親族が、キリスト者になることを、誰が望み、受け入れられるであろうか? そして肝心の本人は、この点をどう思っているのか。もし本人が、それでも何が何でも、病床で本当の神を求め、信じると宣言すれば、誰もその内心の決定には立ち入れないであろう。だが、本人がこの点についてはっきりしないのでは、筆者としてはできることがない。

親族がキリストを信じられると言う中には、明らかに、生長の家が、あらゆる神々を奉じており、その中の一人にキリストをも含めているということがあった。つまり、他の神々を捨ててまでキリストを信じるという告白ではないのである。

そこで、こうした対話の中で、筆者が感じたことは、この親族(本人の魂というよりも、その内にいる霊)が筆者に、ある種の取引を持ちかけているのではないか、ということであった。

むろん、これは誰にも証明することのできない話なので、筆者の印象と言われても仕方がないであろうが、その(キリストを知らない)霊は、筆者が記事に書いた内容を知っているのであろうと予感せざるを得なかった。

筆者は以上の記事の中で、特定の病においては、死に様が非常に苦しみに満ちたものとならざるを得ないこと、特に、神を信じていない者の苦しみは逃れ難いもので見るにも忍びないものであり、特定の不信者の最期が筆者の目にどのように見えたかを描いた。

おそらく、親族の内にいる(キリストに属さない)霊は、時空間を超えて、その内容を察知し、そこから、自分の未来に起こり得る事態を予想し、そのような結果が自分の身に降りかからないようにと、筆者を通して神に懇願しようとしているのだとしか思えなかったのである。

もしもその人が自らキリストを信じることさえできれば、神ご自身がその人を確かに守って下さるであろう。だが、筆者が「自分で信じて祈らなくちゃね」と切り返しても、親族の反応はなかった。

幾度かそのような対話があって、その霊が望んでいることは、やはり、キリストを信じて、唯一の神に栄光を帰することではなく、あくまでただ自分の苦しみが軽減されることだけなのであろうと感じられた。唯一の神としての聖書の神、神の独り子としてのキリストの贖いを信じないままでも、どうにかして、その憐れみにあずかることができないかと考え、そのルートとして、筆者を頼ったのである。

もちろん、この身内は筆者に決してそうは言わないが、筆者にとっては、一種の脅しめいた心理状況が展開された。

要するに、敵は筆者に向かってこのようにささやくのである、「おまえはこの人間の身内なんだろう。この状況を見て、おまえはこの病人を可哀想だと思わないのか。こんな状況でも、おまえはこの身内のために、この人の苦しみが少しでも少なくなるよう、おまえの神に祈ってやる気はないのか。この身内にキリストへの信仰がないからと言って、おまえはその懇願まで突っぱね、拒否するのか。おまえには何と情がなく、おまえらの宗教は何と残酷なのか」

しかし、どう脅されようとも、そこには、筆者がどうしても譲れない厳格な線引きが存在するのであった。

おぼろげながらに記憶しているが、筆者はまだ10歳にも満たない頃、この親族の家で、先祖が祀られた仏壇を拝むよう求められ、それを拒否して立ち去ったことがあった。筆者は、その際、子供ながらに、「私にとっての神様は一人しかいないので、他の神様にお祈りするわけにはいかないの」と言って立ち去ったようである。

だが、その場に立ち会っていた(当時)無神論者の父は、子供のこの思いがけない行動に驚き、「キリスト教とは何と礼儀しらずで排他的な宗教か。先祖に対する無礼だ」としか感じなかったようで、後で(筆者にではないが)文句を言っていたようである。その後、様々な話し合いによって、筆者の聖書の神への信仰のあり方を知って、父も現在はもはやかつてと同じようには考えておらず、仏壇を拝むよう筆者に求めて来ることはまずないであろうと思うが、そんなはるか昔から、筆者の中で、すでに信仰による戦いは始まっていたのである。

その戦いとは、この世界を造ったのは「神々」なのか、それとも「唯一の神」なのか、人間は「生まれながらにして神」なのか、それとも「恵みによらなければ救われない」のか、という論戦である。

この論戦は、この世が終わるまでずっと神と悪魔との間で続く激しい戦いである。そして、我々は一体、どっちの側につくのか、絶えず、回答を求められている。筆者は、「神々」の側には決してつかないことを、子供の頃からはっきりと決意していたのであった。その頃は、単に教会の日曜学校で教えられた通りの教えに従っていただけであったかも知れない。その教会も、日曜学校も、まことに誤りの多い組織でしかなかったので、結局、その誤りはすべて後々、気づいて修正しなければならなくなるのだが、たとえそうであったとしても、筆者の中には、その頃から、ただ聖書の御言葉だけに基づいて、唯一の神だけを神とし、「神々を拝む」ことへの拒否感が、親族への情愛や礼節以上に強く、重んじるべきことであり、仏壇を拝むことはやってはいけないというはっきりした認識があったのだ。

その当時、筆者が拝むよう求められた仏壇は、筆者の先祖が祀られている場所であり、もしも筆者にキリストへの信仰がなければ、筆者は何のためらいもなく、先祖への感謝と畏敬の念からそれに手を合わせ、そして、何のためらいも不思議もなく、いずれ筆者自身も「神々」の一人となって、その仏壇に加えられ、代々、家系を守る者となり、子孫から手を合わせられるのだということを受け入れていたかも知れない。

(想像でしかないが)そうして筆者が仏壇に祀られる頃には、筆者にはもはや己の肉体もなくなって、食べることも、飲むことも、見ることもできなくなっているのに、毎日、毎日、子孫によって、位牌の前に、菓子やら、花やら、米やら、色々な供え物を置かれ、それを筆者はあの世から見て、ああ、もう一度、人生をやり直して、あの美味しそうな菓子を食べられたらなあ、とか、何よりも、生きているうちに、神の救いをちゃんと受け入れておくのだった…、キリストを受け入れなければ、行き先は地獄しかないと、地獄の釜の蓋が開いて、年に一度だけ家に戻れるという盆の時にでもいいから、子孫に警告できたら…などと思っていたかも知れない。

いずれにしても、キリストへの信仰がなければ、筆者は何の疑うこともなく、「生まれながらにして神」と信じる「神々の家系」の一人として祀られることになっていたであろう。

だが、そのようにして血統がものを言う「家」と一体となって、「生まれながらにして神聖」な存在として祀り上げられる人生から、筆者は様々な巡り合わせによって、完全に「ドロップアウト」したのであった。

物心ついた頃から、筆者の目から見ると、そのような価値観は、あまりにも変なのであった。こんなにも誤りやすい、未熟で、愚かな人間たちが、「生まれながらにして神」などということは、筆者から見ても、絶対にあり得なかった。むしろ、筆者が早くから求めていたのは、このような限界ある弱く愚かな人間たちの一切の思惑や行動を超えて、もっと高いところから、すべての被造物を正確に把握し、間違いなく治め、裁くことのできる、まことの神の存在であった。

このように、聖書の神への筆者の信仰は、ただたまたまキリスト教会なるところに、子供時代に関わったことによって生まれたものではなく、早くから、目に見えるこの世の一切の矛盾や不条理を超えて、また、人間の弱さや、愚かさや、罪深さを超えて、それらのすべての目に見える世の矛盾を克服することのできる絶対的な正義がどこかにあるはずだ、という確信に基づくものであり、もしそのような文脈で、神がおられるのでなければ、この地上を生きる意味そのものが存在しないという、筆者自身の切なる確信と求めがきっかけだったのである。

そして、その道は単純ではなく、筆者が今も聖書の神をまことと信じているとはいっても、子供時代にキリスト教会で受けた誤った教え込みから脱して、純粋に聖書の御言葉を自分自身で学び、知り、まことの神ご自身、キリストに直接、出会うために、どのような道を通らねばならなかったかも、すでに書いた通りである。

筆者は、自分が努力によって神に到達したとは言わない。これだけ苦しんだから、神に達する資格や権利があると言うつもりもない。苦行を通して神に達することができるという考えは誤りである。

苦しみがありさえすれば信仰が生まれるということは決してない。だが、信仰が生まれ、深められるために、苦しみが存在せねばならない場合は存在するのである。

聖書の信仰の先人たちのほとんどすべては、生涯を通して、苦しみによって信仰を練られた人々ばかりである。もしも彼らが、人生の初めからすべてが順風満帆で、幸せいっぱいで、何一つ思い悩むこともなく、立ち向かうべき問題も持たず、挫折もしなかったなら、彼らには信仰そのものが生まれなかったか、あったとしても、全く成長しないままに終わったであろう。

このように、救いも、信仰も、人間の努力によって達成されるものでなく、神の側から与えられる恵みであるとはいえ、神を求める気持ちが全くない人間に、神がご自身を啓示して下さることは絶対にない。人の中に、神を切に呼び求める願いがなければ、神はその人に自分自身を現さず、信じることのできる力もお与えにならない。

だが、神を切に呼び求める気持ちが人の心に生まれるためにこそ、しばしば、人は逆境や、苦しみの中を通らされねばならないのである。

さて、筆者は、「生まれながらにして神」という高みに祀り上げられる人生の歩みから、早々にドロップアウトしたが、それをとても幸運に思っている。なぜなら、自らその歩みからおいとましたからこそ、キリストの救いにあずかることができたのだと思うからだ。その両方を取ることは絶対に無理であったと確信する。

どういうわけかは全く分からないが、筆者には、子供の頃から、地上の「家」に思いを寄せつつも、そこが自分の最終的な「家」には決してならないという確信が存在していた。先祖から子孫に至るまで、家の人間がみな神々のように祀られている風景を見て、自分もそこに連なるのだという意識は持てなかった。むしろ、そのような自画自賛的な、自己肯定的な、自己顕示的な有様に対して、相当な違和感か、もしくは、拒絶感しか覚えるものはなかった。

それは単なる思想信条上の違いにはとどまらず、実際に、年月が過ぎるに連れて、ますます大きな考え方の差異を生んで行ったのである。年月が過ぎるに連れて、ますます、筆者は自分がその「家」の一員ではないという感じを強くして行ったのであった。

これはその土地が住みにくいとか、人々と気質が合わなかったとか、そんな皮相なレベルの問題ではない。むしろ、筆者はその土地が気に入っており、親族にもいたく心を寄せて、家に対する思い入れも存在したのである。あるいは、筆者が、その家を継ぐ者になるという可能性もないわけではなかった。

にも関わらず、そのような肉の情や絆は、決して筆者がその土着の宗教と一体化した家の一員となる決定的な要因とはならなかった。むしろ、それを断ち切ってでも、獲得せねばならない、より高度で重要な課題が現れ、筆者は彼らのもとを立ち去らねばならなくなったのである。

そして、今、「家」を代表する人が、筆者の目の前で、衰えて、子孫に道を譲ろうという段階になって、その人が、筆者に頼みごとをして来ている。だが、筆者は、それを簡単に受けるわけにはいかない。

肉における地上的存在としての筆者への頼み事なら、情によって引き受けることは可能であろう。しかしながら、主の御名を使って、キリストを通して神に願うとなれば、それは安易に受けるわけにはいかないのだ。

筆者が神に願うことができるのは、人の魂が救われて神に至ることであり、それ以前のどんなレベルの要求でもない。そして、人が救われて神に至るためには、しばしば、らくだが針の穴を通るように、その人が苦境を通らねばならないことを筆者は知っている。苦しみを軽減してほしいという人間の願いがどんなに大きなものであっても、しばしば、神はあえて人の信仰を試すために苦しみを用いられることを、筆者は実際に幾度も経験して知っている。

だから、主イエスが祈られたように、「できれば苦しみを私に与えないで下さい。けれども、たとえ苦しみがあっても、私は本当の神と出会うこと、本当の神がご自身を私に示して下さることを願います」というのであれば、それは筆者にはとてもよく分かる祈りであって、協力することは可能であり、そのような祈りを神が聞いて下さらないことはないと思うのだ。

人が神を知るために、地上で何の思い煩いも悩みも苦しみもなく、孤独にも迫害にも対立にも遭遇せず、本当の神を知りたいという祈りも探求心も持つことなく、ただ自分にとって喜ばしく心地よいことだけを体験しながら、何一つ地上的利益を手放すことなく、同時に、真理を知って神に至ることができるとは、筆者は全く考えていない。そのような救い、そのような信仰があると言う人がいたとしても、それを本当だとも思わない。

まことの神に至りつくために、苦労があるだけではない。まことの神を知れば知ったで、そこから、この神だけに従うための戦いも始まる。

その代価を自ら支払っていない、もしくは、支払うつもりのない人間に対して、救いだけを安易に投げて寄越す(約束する)ことは、神を軽んじることであり、神の救いを曲げることであり、筆者には、それは決してできない相談なのであった。

だが、死を間近にして、苦しみを逃れたいと懇願する人に、そのように返答すること自体、「おまえの宗教は何と残酷なのか」と受け取られるきっかけになりかねない。地上の肉親の情や絆だけをすべてとする人々には、この言い分は容易には理解できないであろう。そのように誤解される危険を十分に理解した上で、それでもなお、そのようにしか返答できないのである。

それは、筆者自身が、この神に従うために、この神だけに従うために、払い続けて来た代償を知っていればこそであった。他の「神々」にすがりながら、同時に、キリストの救いや慰めも欲しいと主張するのは、心の分裂でしかない。それは、夫以外、妻以外の幾人もの愛人と浮気を重ねながら、夫の愛、妻の愛も欲しい、私は伴侶を愛しているとあくまで言い張るのとさほど変わらず、神への貞潔さが欠けているのだ。だから、どうしても、まことの神に至りつくためには、その人の心の中に、激しいまでの純粋な願い求め、「正真正銘、本当のことだけを私は知りたい。嘘はもうたくさんだ」という思いが、なくてはならないのである。

筆者は、親族の抱える内心の問題を、親族が直接、神に願い求めるよう促し、まことの神はただ一人しかおらず、「神々」は存在しないのだという事実を告げた。そして、厳しいようだが、もし生長の家の教えが真実だったならば、今の現実(病)そのものが存在していないはずなのだから、この結果を見れば、この宗教の教えに、人を救う力がないことは明白ではないかと告げた。だから、もし救いを与える力がないのであれば、その教えは間違いであったことを認めて、本当の神を知りたいと望み、悔い改めて神に立ち返りさえすれば、神ご自身がその願いに応えて下さるはずだと。

キリスト者になったから、死なないと言うつもりはない。だが、私たちは、病を幻想として否定して、死を否定するのではなく、死と正面から向き合った上で、キリストがすでにこの最終的な敵である死を滅ぼされてことを信じている。キリストと共に死ぬならば、キリストと共に復活することを信じている。もしキリストの贖いを信じれば、その人は永遠の命を受けることができ、その命によって、死んでも、主と共によみがえって生きることができるのだ。
 
だが、筆者は、それ以上の説得を行わなかった。後は神と本人との対話である。たとえ苦しみを軽減したいという願いがきっかけであったとしても、他の神々のすべてを捨ててでも、本当の神に願い求めたいという強い気持ちが、本人に生まれるのならば、神が応えて下さるであろう。だが、今までの人生を振り返って、自分がすがり続けて来たものに、自分を救う力はなかったという現実に直面する勇気が本人にあるかどうか、自らまことの神を探し求める気持ちがあるかどうか、それは本人の意志と選択なのであって、もし本人にその希求がなければ、これはどんなに理屈が揃っていても、他者が強要したり、説得したりできるものではない。

そして筆者は、あまりにも親族が色々なものにがんじがらめにされているのを傍観しながら、もしそのようなこと(キリストへの信仰)が仮に親族の中に生まれたとしても、それはきっと想像を絶するほどに激しい戦いを巻き起こすだろうと思わずにいられなかった。

だから、筆者は、それ以上の領域に踏み込み、立ち入ってまで、本人の望まないことを、説得によって押しつけることで、人の意志を無理やり変えようとは思わない。だが、そのような状況で、筆者がずっとそこにとどまっていれば、かえって押しつけないという立場を悪用されて、筆者は情にほだされ、人が苦しまなくて済むことだけを最高の価値とする人間本位な教えに仕えさせられて行き、いずれ「死人を葬る」ことに助力させられてしまうであろう。しまいには、地縁・血縁の支配する土地で、他の神々を拝むことをも余儀なくさせられかねない。そうこうしているうちに、すでに後にしてきたはずのものに、すっかりからめとられ、引き戻されてしまうであろう。
 
おそらくは、キリストに属さない「霊」の狙いはこの点にこそこそにあるのだと思わないわけにはいかなかった。つまり、肉の情や義理を口実として、キリスト者をキリスト以外のものにがんじがらめにして行き、キリスト者の探求をやめさせることである。

だが、そんなことが今になってできるくらいなら、筆者はもともとこの土地を離れて移住することもなく、幼い頃から今に至るまで、この土地で何の問題もなく、親族らと共に、平和に幸福に満足して暮らしていたことであろう。自分も死んでいずれ仏壇に祀られ、神々の一人のごとく子孫に拝まれる対象となるという考えに何の違和感も持たなかったであろう。それらをすべて拒否して後にしてでも、向かわなければならない先があったのである。そこで一体何が打ち立てられたのか、どんな成果があるのか、未だ何もないではないか、と問われても、それでも目指さなければならない地が存在するのである。最終的には、それは見えない天の都である。
   
だが、そうはいっても、感覚的に慣れ親しんだ地上の故郷を後にするのは、人間的には常に断腸の思いであり、今回ほど、それが強く激しかったこともない。何しろ、客観的な判断としては、今の状況では、親族が他の神々を捨てて、まことの神の救いを心から求める可能性は極めて低いと言わざるを得ず、親族の救いを見ないまま、その地を後にすることがためらわれるだけでなく、筆者自身が、この血脈に支配される人間関係の中で、自分が決定的に「異質な存在」になってしまったことを強く感じるからだ。本当は、それはとうの昔に始まっていたことなのだが、それでも、筆者はまだ彼らにそれなりに受け入れられ、情による絆が強く残っていたため、この両者の間に横たわる決定的な違いを、筆者自身がそれほど体感していなかったのである。それが今、何かしら大きな節目を迎え、霊的な領域において、何かが断ち切られ、後戻りの道が閉ざされた。つまり、地上の故郷というものの欺瞞性が、もはや無視できないほどにまではっきりと筆者の目に見え、情による絆に、未だかつてない鋭いメスが入れられ、終止符が打たれたのである。

たとえどんなに長年の絆や、歴史があったとしても、どんなに強い情や義理で堅く結ばれていても、個人の救いというものは、他者がどうすることもできないほどまでに、極めて内心の厳粛な問題である。さらに、土着の宗教や地縁が深くものを言う社会で、このしがらみを脱することには非常に大きな犠牲が要求される。地上の肉による社会から受けられるすべてのメリットを捨て、そこから来る対立をすべて乗り越えるほどの強い信仰がなければ、このような環境で、キリストへの信仰は生まれようがなく、維持することも不可能なのだ。それは奇跡であり、人間の側からの激しい願い求めと、神の側からの強い介入なくしては決して生まれ得ない奇跡である。
 
さらに、筆者が思うことは、筆者が誰かにキリストの救いを語り、十字架の死と復活を語る時、筆者の心に溢れる感動や、喜びは、あくまで筆者自身のものなのであって、他の誰のものではないということだ。

筆者がかつて関東に移住し、エクレシアに連なりたいと願って、それを神に願い求め、神がこの願いを不思議な方法で聞き届けて下さった時、筆者の心には大きな喜びがあり、すぐさま信仰仲間とその喜びを分かち合えるのではないかという期待感があった。だが、それはあくまで筆者の信仰に、神が直接、応えて下さっただけのことであって、他者とは関係ないのであった。それは関東にいた信者たちがとりわけ素晴らしく、彼らが親交に値するから、筆者を彼らの中に投入することで、何かを学ばせようと、神がそういう出来事を起こされたわけでもなかった。ただ、筆者の心に生まれた願いがそれほどまでに強く、諦められないものであり、純粋な願い求めだったので、御言葉に基づいて、神がそれを叶えて下さった、というだけのことである。一言で言えば、その後、起きて来ることについても、その時と同じほどの強い決意を持って、探求を続けねばならないのであって、何もせず待っていさえすれば、何か素晴らしいことが起きるということは、絶対にないのであった。

筆者はしばしば、自分が感じている喜びや感動を、他者とも分かち合うことができるのではないかと期待する。神が筆者に与えて下さった素晴らしい恵みを、他者と分かち合おうと考える。あるいは、神が出会せて下さったキリスト者なのだから、これはきっと素晴らしい信仰仲間なのに違いない、などと安易に考える。ところが、神は、それは違う、とはっきり示される。

「私はあなたが私に求めたから、あなたが私を信じているから、それに応えているのであって、そこに他の人は一切関係ないのです。他者にはほとんどの場合、あなたが考えていることがほぼ全く理解できませんし、あなたと同じ恵みを分かち合うこともできません。どんなにあなたが喜びに溢れ、天に昇るほどの感動を覚え、御言葉の意味を悟り、この恵みをぜひとも他の人に伝えたい、他の人にも同じように解放されて欲しい、などと切に願っていたとしても、ほとんどの場合、それを受けとることができる人々の数は、あまりにも限られており、他者の心の状況はあなたとは全く違うのです。

たとえその人がキリスト者であっても、信仰があるから、あなたと同じ理解を共有できるということも、ほぼあり得ません。この点で、あなたに求められていることは非常に厳粛です。あなたはどんな時でも、他者の理解や共感や賛同を一切当てにせず、ただ私だけに聞き従い、私だけを見て、私の考えだけを探るべきであって、一瞬たりとも、他者との関係で自分をとらえ、他者の心の中で起きることに足を取られて、他者の顔色を伺うようになって、思うように良好な関係が生まれないと言っては自分を振り返り、後悔や反省に明け暮れたりして、自由を奪われるべきではないのです。

あなたが私の名による福音を語っても、人々が聞かず、あなたが手を差し伸べても、人々が拒絶し、あなたが仲良くなろうとしても、嘲笑や拒絶だけがかえってくることは往々にしてあります。さらには、ようやく純粋な信仰仲間に出会えたと思った瞬間に、その人が地上から取り去られるということもあるでしょう。

その時、あなたはいぶかしむでしょう、『このミッションは、神に祈り、願い、神が許されて起きたはずなのに、どうしてこんな不本意な結果にしかならないのか。私がどこでどう間違ったから、このような結果に至ったのか』

それを不本意だと思う必要はありません。もちろん、そのような結果にならないよう、願い求めることは有益です。しかし、動かせない結果が出たなら、それが人々の応答であり、また彼らの選んだ結末なのです。あなたを誰かが拒絶したとしても、それをあなたがまるで自分の責任のように感じる必要もありません。聖書の預言者のすべては、人々からそのように扱われたことを思い出しなさい。私の名で語れば、いつも人々から友好的な反応が得られ、私の名で語れば、人々に通じるということはまず絶対にないと思って差し支えありません。むしろ、人々は様々な地上的な理由づけを持ち出して反対して来るでしょう。しかし、あなたは人々の反応がどんなであれ、ただ私だけに従って来なければなりません。もし人々との間で望ましい結果が出るとしても、それはあなたが人々に良好で望ましい態度で関与をしたからではなく、ただあなたが私との間で自分の召しとして与えられた探求を決して諦めずに遂行し続けた結果でしかありません。」

2017年5月 9日 (火)

十字架における死と復活の原則―神の御前での単独者としての厳粛かつ孤独な歩みを決して忘れるな―

前回、キリストにある新しい人(栄光から栄光へ主の似姿に変えられて行くこと、復活の命による統治、命の御霊の法則)というテーマについて語る際、法則性はない、と書いたが、この点について改めて訂正もしくは補足をしておきたい。これまで繰り返し書いて来たことだが、「主と共に十字架の死と復活にとどまる以外には法則性はない」と。

なぜなら、ゴルゴタを離れること、キリストと共なる十字架の死の重要性から少しでも目を背け、これを過小評価したり、言及せずに通り過ぎることは、たちまち、クリスチャンを別な道へ逸らせる大きな危険性であることを、改めて思わされるからだ。

筆者にも、クリスチャンが低められること、主と共に苦しみを負うことについて、長々と語りたくないという衝動が生じることがある。そのようなネガティブな話題からは、いい加減、目を背けてもいい頃合いではないかと。しかしながら、そうした衝動や願望にははかりしれない危険がある。

主と共なる死からクリスチャンが卒業できる日など来ることは決してなく、キリストの十字架は、来るべき世においても永遠の偉業として打ち立てられている。だから、クリスチャンが、主と共なる栄光は欲しいが、死は負いたくないという衝動に安易に身を任せて、十字架の死について沈黙し、復活という側面だけを語ろうとすることは、極めて重大な危険としての背教に陥る最初の一歩なのである。

主と共に栄光を受けたいならば、主と共に苦難をも受けるべきである。高められたいならば、低められることにも甘んじねばならない。キリストと共なる復活の側面だけを重視して、死の必要性を少しでも過小評価することは、たちまち、我々キリスト者を違った教えへと逸らせる要因にしかならない。

実際に、幾度も書いて来たように、筆者の知っている多くのキリスト者たちが道を誤ったのは、彼らがキリストと共なる死の中にとどまることをやめて、ゴルゴタの装甲の外に飛び出し、主と共なる輝かしい復活の要素だけにあずかろうと願ったためである。そのために、彼らは自画自賛、自己顕示、自己宣伝、セルフを建て上げる道へと逸れて行ったのである。その結果、ついにはセルフを神とし、自分への恵みを受けるためだけにキリストを利用し、主イエス・キリストを否定するまでに至っている。

そのような誤りに陥らないために、たとえ生活の何もかもが順風満帆で、思わぬ苦しみや不幸のように見える出来事に全く遭遇することなく、自分の名誉が望まずして傷つけられたり、恥を負わされたりすることがなかったとしても、あえてゴルゴタの死の中にとどまろうとする姿勢がどれほど重要であるかを思う。

特に、人に誉めそやされたり、ありがたがられたり、重宝されるようなことがあれば、特別な用心が必要であり、そうしたどこから来たのかも分からない流れに持ち上げられ、流されることなく、主と共なる死の中に自らとどまろうとする姿勢は非常に重要である。

ゴルゴタは我々にとって最も堅固な要塞であり、装甲のようなものである。そこから一歩でも外へ出ることは、神の守りの外へ自ら出ることを意味し、その結果として、自分を守ることができなくなる。人前に、キリスト者ゆえの苦難を受けることを厭い、他人からのお世辞やお追従を好み、自画自賛や、自慢話に明け暮れ、自分を喜ばせる快楽(目の欲、肉の欲、持ち物の誇り)を好んだ人の中に、正常な信仰を維持しえた人間は、これまで一人もいない。そういう人間は、信仰を持たない世でも忌み嫌われるが、まして信仰者としては完全な失格者となる他ない。だから、我々はどんなに神の恵みが雨のように降り注がれたとしても、決してそのような道を行かないことを宣言する。

さて、筆者の家人や親族への義務はあらかた終わったことを思う。筆者は、束の間、地上の故郷に帰って来たが、それは地上の肉の絆を確かめ合うことが目的ではなかった。

キリストは公生涯の間、家を持たず、地上における職業を持たず、御霊の導きのままに歩まれた。だから、主がそうであれらたのだから、筆者は、地上の故郷を故郷と呼ぶことはもうないだろう。ここは伝道のために立ち寄った地の一つに過ぎず、そこが筆者にとっての真の故郷ではないからだ。
 
『ギルバート・グレイブ』という映画を知っている人は覚えていると思うがが、そこに、地上の家を離れることができないまま生涯を終えた主人公の母親が登場する。彼女の悲劇は、家から一歩も外出ができないほどまでに太ってしまった点にあるのか、それとも家から離れられなかった結果そうなったのか、どちらが先かを論じても仕方がないが、少なくとも家がもたらす精神的束縛(もしくは現実逃避)こそ、そのような結果を招いたことは間違いない。

地上の家というものは、多かれ少なかれ、そういうものだ。肉親の情愛はどんなに美しく飾られていたとしても、最終的には、人間を縛りつけ、また、現実逃避のための砦や繭となってしまう。

地上の故郷や、肉の絆にしがみつく人々は、家族や親子の情愛という麗しいヴェールで、生まれながらの自分自身の弱さを覆い隠そうとしているに過ぎない。それは、堕落した人間の自己欺瞞の手段であり、さかのぼれば、創世記において、罪を犯したがゆえのアダムとエバが、自分が裸であることを知って、己の恥を隠そうとして編んだイチヂクの葉に由来する(それがイチヂクだったのかどうかは定かではないが、筆者はこれを便宜上「イチヂクの葉」と呼んでいる。)また、弟アベルを嫉妬ゆえに殺して神から逃避するに至ったカインが、自分や一族を復讐の脅威から守るために築き上げた都市(要塞、城壁)に由来する。

筆者は、地上における家というものは、霊的には、このイチヂクの葉、カインの城壁と密接につながっており、それはすなわち、人間の滅びゆく命の防衛の砦としての地上の肉体の幕屋そのものを象徴しているように思えてならない。

人間の肉体は、その人自身の一部であると同時に、その人の脆くはかないアダムの命を持ち運び、これを守るための砦(幕屋、宮)である。

この宮は命を守るために存在する。しかしながら、人間の肉体は、朽ちゆくものであるから、宮を守る使命とは裏腹に、命を守るにはあまりにも不十分であり、脆く、弱い砦でしかなくい。宮だけでなく、肉体という宮によって守られている命そのものも、有限で儚いものである。そのような人間の命の弱さ、脆さ、限界は、罪から来るものであり、最終的には、罪の報酬である死が命全体を滅ぼし、奪い去ってしまう。

だが、そのように人間の命が脆く有限であるにも関わらず、生まれながらの人間は、己の罪を認めず、己の罪のもたらす当然の結果である己の有限性、弱さ、脆さを認めず、最終的には、死をも認めようとしない。

たとえば、三島由紀夫は、自らの肉体を鍛え上げることで、己の精神的弱さやコンプレックスを隠し、そこから目を背けようと試みた。三島由紀夫の人生においては、マッチョイズムによる自己からの逃避は、私営の軍隊の創設、盾の会といったより高度な形へと発展して行く。そして、最後には、自己を守るための「殉死」(結局は自己破壊)という、パラドックスに満ちた究極の結末へと至りつく。そこには、天皇を守るためという大義名分がついていたが、その根底にあるのは、生まれながらの人間の有限なる命への絶望感と、己の罪を否定して、己を永遠の存在に高めようとする願望であった。

天皇を現人神とみなすことで、三島が何とかして信じようとしていたのは、生まれながらの自己の命の永遠性である。天皇を神とみなし、それに殉ずることで、三島が永遠の存在へと高めようとしていたのは、他ならぬ自分自身であった。

三島は、生まれながらの人間とその美を愛するあまり、生まれながらの人間が朽ちゆくもろく儚い、滅びゆく存在に過ぎないという事実が認められなかった。彼は朽ちゆく人間の命を惜しみ、己の肉体を鍛えることや、目に見える人間を賛美することで、人間の命が滅びゆくものであるという事実そのものを、人類への冒涜とみなして否定し、アダムの命とそれを守るための砦としての人間を永遠とみなそうとした。肉体を鍛え、軍隊を創ることは、人間の有限性という事実を否定する手段であり、最終的には、自分自身を理想化し、これを永遠の存在として保存するために、自死という最期を遂げたのである。

さて、地上における肉による絆だけによって築き上げられる「家」というものも、筆者には、上記と全く同じ文脈で、人が地上の朽ちゆく有限な命と、その幕屋としての肉体を永遠とみなそうとする自己欺瞞の思想の象徴であるように感じられてならない。

すでに別な記事で幾度も論じたように、万世一系という神話を作り出し、天皇と臣民を一つの家になぞらえ、「家」を守るために、個人が自己の命を捧げることが、人の最高の使命であるかのように教え、親のために子が命を捨て、指導者のために部下が命を捨て、天皇のために臣民が命を捨てて、こうして、「家」を存続させることによって、人類が己の「神聖な」命を存続できるかのように教える考えは、結局、人が生まれながらのアダムの命の有限性を否定して、自らを永遠とみなそうとする偽りの思想から出て来たものに他ならない。

そうした文脈における「家」とは、通常の文脈におけるただの家を指すのではなく、偽りの神話に基づいて、生まれながらの人間の家系(=アダムに属する人類の血統)を神聖視・絶対視するために作り出された要塞であり、かつ神話である。人間には明らかな寿命があるため、人間の命が永遠でないことは、誰の目にも明白な事実であるにも関わらず、子孫が先祖に仕え、代々、家を守ることが人間の使命であるかのように説くことによって、この思想は、人間の命を血統になぞらえて不滅のもののようにみなし、アダムの命の有限性から目を背けて、人類という堕落した血統を神聖で永遠のものであるかのように讃えようとしているのである。

そのような考えで、もし個人を「家」を守るための手段とするならば、その時、その個人はもはや個人ではなくなり、実際には存在しない「神聖な家」の附属物か、もっと言えば、家の象徴のようなものへと変えられて行く。

そのようにして「家」と一体化した個人は、自らの意志を奪われた、偽りの神話の象徴となり、束縛された奴隷も同然になってしまう。万世一系などといった神話でどんなに飾りたて、どんなに不滅のもののように見せかけ、誉め讃えても、この偽りの思想は、その虜となった人間を滅ぼしてしまうだけなのだ。

『ギルバート・グレイプ』に存在する母親のように、人が自らの弱さ、脆さを隠すために築き上げる要塞としての家に束縛されてしまうと、その人間は、その偽りの安全から外に出て、現実に直面する勇気を失って、家と一体化してその象徴と化してしまう。その家は、人間の弱さや脆さと直面することを拒否する、同情や優しさに見せかけた様々な偽りの情に塗り固められて美化されてはいるが、実際には、人を縛りつける場所にしかならず、誰をも自由にはせず、幸せにもしない。

筆者は、今、我が国は曲がり角に来ており、大きな過渡期にあるものと思う。すなわち、敗戦後、我が国は、天皇を現人神とみなすことをやめ、象徴天皇制に移行した。官吏は天皇に仕える僕ではなくなり、公務員は国民の公僕とされた。しかしながら、この改革は非常に中途半端なもので、数多くの矛盾を抱え、数多くの点で、ミイラのような過去の残存物を内に抱えている。

すでに書いたように、憲法上の真の公務員の定義は、官僚を指すものではなく、選挙で選ばれた政治家を指すものであって、現在の官僚は、本当の意味での公務員ではなく、戦前の官吏の影のような残存物であって、勝手に公務員を詐称しているに過ぎない。さらに、天皇が国民の象徴として存続し続けることの矛盾は、天皇自身が退位を望んだという事実に何よりも明白に表れている。

筆者は、神と人とがつながるために、キリスト以外のどんな仲介者もあってはならず、牧師という役職は不要であると再三に渡り、述べて来たが、それと全く同様に、国民の象徴としての天皇という存在も必要ないと考えている。

すでに説明したように、カトリックのような、法王を中心とする聖職者階級を否定して、聖書の真理をすべての人々に解放すべく行われたプロテスタントの宗教改革は、結局、牧師を中心とする教職者制度を残したことによって、非常に中途半端で、かつ、矛盾だらけの改革に終わった。そして、当然のごとく、このように中途半端に教職者制度を肯定したことは、悪魔に口実を与えるきっかけとなり、その結果、牧師夫妻を「霊の父・霊の母」として崇めるような、全く聖書に反する異端の思想が、公然とプロテスタントに侵入して来る契機を作ったのである。

日本国憲法も、結局はプロテスタントに起きた現象と同じような、中途半端な過渡的改革を示している。敗戦後、天皇を神として崇める思想は否定されたものの、天皇制そのものは廃止されず、これが国民の「象徴」として残されたことによって、依然として、主権在民が完全に実現しないまま、改革は中途半端に終わったのだ。国民一人一人が完全に個人としての自覚や責任を持つには大きな妨げが残ったのである。

そして、天皇が「象徴」として残されたことによって、ただ未来への前進が中途半端に妨げられただけでなく、さらに、過去に立ち戻ろうとする動きにも口実を与えることとなり、戦前回帰などという愚かな潮流の出現も手助けされているのである。

そこで、以前も述べた通り、次なる時代が到来するためには、筆者は、プロテスタントもそうであるが、我が国の体制そのものも、この中途半端な「象徴」を取り除き、一人一人が完全な主権を取り戻し、個人が個人として生きられるような形式を整えるしかないと考えている。今はそのための過渡期・移行期であって、歴史を逆行して、天皇を再び現人神とすることによって、後退することが必要とされているのではなく、むしろ、天皇制を廃して、完全なる国民主権を実現することで、未来へ前進することこそ必要なのであり、もしも憲法を改正するならば、そのような前進の文脈でこそ、初めて意義が生まれるのである。

皇族や、国民の象徴という言葉は、いかにも偉大な響きを帯びてはいるが、実際には、天皇の任務は、考えられているほど尊いものでもなければ、美しいものでもない。そのことが、天皇の退位という問題をきっかけに、今になってようやく多くの人々に広く認識されるようになった。

象徴天皇制は、天皇自身に人権すら与えずに、一生、生まれながらに選択の自由もなく、象徴としての義務に縛りつけるような、残酷な束縛の枷にしかなっていない。

天皇自身がその矛盾に気づいており、象徴であり続けることに疑問を感じているにも関わらず、そんな制度をありがたがり、天皇の気遣いを受けることで、自分が満たされ、高められるかのように錯覚している国民がいるとすれば、その国民の方も、(まるで牧師の気遣いに依存する信徒同様に)全くどうかしていると言わざるを得ない。

他人に犠牲を強いることによってしか、自己の価s値を十全に感じられないというならば、その充足感は偽りである。たとえ高齢の天皇が退き、若い世代に道を譲る事で、新たな天皇を立てたとしても、生きた人間を「象徴」的存在に閉じ込め、自由な意志選択や自己決定権を奪うことの忌まわしさは何一つ変わるものではない。

それなのに、なぜ人間は、まるで金の子牛像を拝むようにして、常に自分の偉大さを証明してくれる、目に見える象徴を求め、目に見える自分以外の人間からの賞賛や支援や同情や激励の言葉を求めずにいられないのか。

そういう浅はか弱々しく自己本位な願望と訣別すべき時が来ているのである。にも関わらず、もしこれから先も、我が国の国民が、他者からの賞賛や激励や同情といったものを求め続けるならば、その美しい言葉を口実に、どんどん自らの自由と権利をかすめ取られて行くだけであろう。

そのような文脈での「象徴」としての任務が、光栄な務めであって、偉大な使命であると考えるのは間違っている。それは人間の依存心を助長し、自立を妨げ、無用な束縛を増し加えるだけである。

さて、話を戻せば、偽りの思想における「家」というものの欺瞞性に、筆者が言及したのも、以上と同じ文脈である。家系を代々、絶やさないことによって、家を守ることを人の最高の使命とし、それによって、人類の血統を永遠のものに高めようとする思想は、非常に忌まわしいものでしかなく、そのような文脈によって生まれる「家」というものも、何ら美しい存在ではない。

また、『ギルバート・グレイプ』の映画に登場する母親のように、分厚いたるんだ脂肪に包まれているだけの人間も、三島由紀夫のように、自らの肉体を鍛え上げることで、肉体美・筋肉美を誇る人間も、外見はまるで正反対のように見えたとしても、本質的には全く同じであり、両者ともに、生まれながらの人間の自己を神格化し、その考えに基づいて、人類という「家」を守るためのカインの城壁にしがみつき、束縛されているだけなのだ、という事実に気づく人は少ないだろう。

結局、この両者は、己の肉体にしがみつくことで、どちらもが地上の故郷である「家」へしがみつき、執着しているのである。象徴としての「家」を絶対視・神聖視し、それに自ら束縛されることで、己の有限性、弱さ、罪を否定して、現実から目を背けて、堕落した人類には存在しないはずの永遠に思いをはせているのである。その偽りの思想は、個人に個人として生きることを許さず、秩序を転倒させ、最終的には、個人を滅ぼしてしまう。

その結果、本来、家というものは、家族の成員を守るための屋根のようなものに過ぎないのに、この屋根を守るために、家族が命を捨てるという本末転倒な結果が生まれるのである。あるいは、肉体は、命を守るための砦に過ぎないのに、その砦を不滅のものとするために、人が自己の命そのものを滅ぼすという結果になる。こうした考え方を延長して行くと、牧師のために、あるいは教会組織のために、信徒が命を捧げ、企業を守るために社員が命を捨て、象徴天皇制を守るために、国民が犠牲を払い、あるいは天皇のために、もしくは国のために、再び国民は命を捨てよという思想が生まれる。

このような思想においては、何もかもがさかさまである。人間のために家があるのに、家のために人間が存在することにされ、人間のために肉体があるのに、肉体のために人間が存在することにされ、人間のために組織があるのに、組織ために人間があることにされ、国民のために国があり、天皇が存在するのに、天皇のために、国のために国民が存在することにされてしまう。

最終的には、そのようなさかさまの思想は、神と人との秩序を転覆させる。聖書によれば、本来、人間は、神に仕える宮であるのに、その宮に過ぎない者、被造物に過ぎない者が、主人である神を超えて、自らを永遠の存在として誇るという秩序転倒に至る。宮が主を超えてしまうのである。

その結果、パラドックスに満ちた現象が起きる。自らが神聖でないのに、神聖の領域に不法侵入した者が、打ち滅ぼされる。 自らが永遠でないのに、自らを永遠と宣言した者が、己を滅ぼし、それによって、自らが永遠でないことを逆説的に立証するのである。天皇のために「殉死」した三島もそうであったし、滅んだ「皇軍」もそうであり、家と一体化したまま死んだ母親もそうだが、結局は自殺としか言えない結末に至るのである。

こうして、腐敗した朽ちゆくアダムの命を神聖視し、滅びゆく不完全な地上の幕屋としての肉体にしがみつき、人間を滅びに導くだけの肉欲にしがみつき、朽ちるものに執着し、それに同情の涙を注ぐことによって、滅びゆく自分の堕落や弱さから目を背けて、自己を保存しようとする人間の自己防衛の試みは、究極的に、自己破壊という結果に至りつくだけなのである。

だから、家を自分の弱さから逃避するための手段として用いる人々もまた、自己の罪を隠すためのイチヂクの葉により頼んで生きているだけなのだと言える。地上の組織の強化や拡大にこだわる人間もすべてこれと同じである。

家にしがみつく人間も、企業の繁栄や、宗教団体の繁栄や拡大にこだわり、あるいは国家の強化や、軍備の増強を唱える人間は、すべて同一線上に立っている。それは決して十字架の死を経ることのない、アダムに属する人間の、生まれながらの自己(セルフ)を建て上げ、永遠に肯定したいという欲望の言い換えに過ぎないのである。

生まれながらのセルフの腐敗・堕落を隠すために、彼らはその覆いとしての宮(肉体、家、組織、国家)を賛美し、そうすることで、神に背いた人類の堕落した本質を隠しながら、被造物に過ぎない自分自身を、造物主以上に掲げて、神と宣言しているのである。

このように、神を口実にしながら、結局、神の地位をのっとることで、己を高め、神格化しようとするこの思想の傲慢さ、忌まわしさは、三島の「殉死」が、彼が最も崇めたはずの他でもない天皇の意志を無視して単独で行われたことにもよく表れている。どんなに天皇を口実に掲げていても、三島の最期は、現実の天皇の意志をまるで無視して行われた独りよがりなパフォーマンスに過ぎず、結局、三島が望んだのは、天皇を口実に持ち出すことで、自らを神格化することだけだったのである。

今、戦前回帰を持ち出して天皇を担ぎ上げ、讃えている人々がしていることも、全く同じである。天皇をありがたがる人々ほど、実際には、天皇自身の意志や人格などまるで尊重してはおらず、単に自己を高める口実として、他者を利用しているに過ぎない。

そして、プロテスタントの信者が牧師や教会組織にこだわる理由もこれと同じである。彼らは、自分たちの属する教会やリーダーを絶対視し、誉めそやすことで、結局、自分を偉大な存在に祀り上げようとしているだけなのである。家や家系を絶対視する人々もそれと同じであり、その根底にあるのは、常に自己を偉大な存在とする口実が欲しいという「セルフの神格化」の願望だけである。

真のキリスト者の願いや、目指す目的は、決して、以上のような人々と同じものではない。キリスト者の目的は、地上的な様々な象徴によって自己を強化し、武装し、己を高めて、神聖視し、それによって、自己の抱える本当の弱さ、愚かさ、罪深さから目を背けて、自分を偉大に美しく見せかけることにはない。我々にとって、真により頼むべきものは、そうした地上的なものではない。

だから、冒頭のテーマへ話を戻すと、もしもクリスチャンが、主と共なる十字架の死にとどまることの重大な意味を忘れ、主と共なる復活、栄光だけを願い始めるなら、その人はたちまち、自分では神に従っていると錯覚しながら、実際には、生まれながらの己を神として祀り上げる誤った方向へ逸れて行くであろう。

また、少しでも、神との直接的な交わりではなく、地上の人間たちとの横のつながり、人間との絆や連帯を賞賛し、もしくは自分の帰属集団などに価値を見いだし、栄光を帰そうとするなら、たちまち以上のような誤った思想へ逸れて行くであろう。

多くのクリスチャン(と称する人々)が実際にそうなったのであり、筆者はまさにそれゆえに、地上における家にこだわり、地上的な情愛にとらわれることへの重大な危険を思い、また、それを警戒している。

もしもこうした要素を信仰生活に少しでも混ぜ込むならば、たちまち、神への純粋な従順も失われてしまうであろう。

確かに、「主イエスを信じなさい、そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」という御言葉には重大な意義があるが、それは、決して、我々が肉の情愛を神聖視し、それにしがみつき、埋没するための口実ではないのだ。

人は、地上における自分の家や、勤め先の企業や団体、もしくは宗教団体や、国家といった組織を隠れ蓑のように利用して、その中に埋没することで、己の罪や弱さや限界から目を背けるのではなく、常に個人として、一人分の重荷を負って生きねばならない。その生き様は、集団の中に自分の居場所を求め、地上への帰属を誇ることで、個人としての孤独や自分独自の使命を忘れ、自己の本質から目をそらそうとする衝動や生き様とは正反対である。

集団に埋没することの中には、自己忘却の誘惑としての安楽が常にあるが、それはキリスト者の道ではない。

人はもともと集団を維持するための道具として生まれているのではなく、個人として生きており、それゆえ、個人としての意志や、独立性を生まれ持っている。他の誰のコピーや附属物でもない、オリジナルな、他から独立した、個人として生きており、それゆえ、個人としての尊厳や、諸権利が生じるのであり、個人の尊厳は、決して、帰属集団によって担保されたり、定義されるものではない。誰のコピーでもないオリジナルであるがゆえ、その使命も人と同じではなく、独自の重荷を負わねばならない。ましてキリスト者はそうであり、キリスト者は、「日々の十字架」として、一人分の重荷、一人分の孤独、一人分の十字架を常に負う任務があることを筆者は疑わない。地上では寄留者として、どこにも最終的に定住することなく、つつましく歩み、常に神の御前の単独者としての孤独を負い続けねばならない。

だが、多くのクリスチャンを名乗る信者たちが、まさにつまずき、脱落して行ったのは、この点であった。

彼らを堕落させたのは、自分は絶対に一人になりたくない、孤独を負いたくない、人間の絆から切り離されたくない、人間の絆から生じる温もりや、連帯を失いたくないという願望であった。その思いが、彼らが十字架の死を経ない、アダムの命によって生じる生温かい情に身を委ね、集団の中に安易に埋没して、神の御前での単独者として、自分独自の重荷、自分独自の孤独、自分独自の十字架を負うことを拒ませるきっかけとなり、その孤独な歩みを忘れさせたのである。そのような信者たちは、その後、まるで営利企業や、軍事力の強化に走る国家も同然に、自分たちの連帯を神聖視し、賛美しながら、自分たちの属する宗教団体の権威や威光を誇示し、これを強化・拡大することを至高の目的として、完全に誤った道へと逸れて行った。

筆者は、彼らと同じ道を決して行くまいと決意している。だが、そのためには、神の御前で、どんな時も、キリスト者が自分一人分の孤独を自ら背負い続ける姿勢が、極めて重要なのだと思わずにいられない。その任務は、人の目には、孤独で悩み多きもののように見えても、地上における人間たちのどんな種類の連帯にもまさる意義を持つと確信している。

つまり、神に満たしていただくためには、神が来られる前に、信者である人間が、すでに満たされてしまっていては駄目なのだ。神の御許にだけ、我々が携えて行かねばならない一人分の孤独、弱さ、限界、飢え渇きがどうしても必要なのである。神の御前で、人間が、すでに満たされてしまっておらず、孤独で、飢え渇いていることが必要なのである。

ところが、人間が、自分自身の弱さを恥として否定すべく、自分で自分を強め、孤独を忘れるために、自分を慰め、励ましてくれる象徴を自ら作り出し、人間の温もりと連帯の中に安易に身を埋めると、本来は、神に向けるべき、一人分の飢え渇きが、あまりにも簡単にあっけなく失われてしまう。そして、もはや以前のように、悩みや苦しみの中でも、心の底から神を求め、信じて見上げるだけの純粋な信仰、純粋な叫び、祈り、求めが曇らされ、なくなってしまう。最終的には、そのような人間にとっては、ただ神にのみ自分のすべてを委ねて生きることよりも、悩みや苦しみから手っ取り早く目を背けて、自己の弱さを忘れることおの方が、はるかに重要課となり、まるで中毒患者のように、現実の自分自の弱さから目を背けるために、自己に慰めをもたらすものに依存し、それを手放せなくなる。それが家であったり、家族であったり、偉大に見える指導者であったり、企業や宗教団体であったり、または国家になったりするのである。

そのような状態こそ、筆者は恐れるのだ。人間的な観点からは、まことに幸福そうで、問題がなく、強そうで、理想的で、満たされているように見えたとしても、神を語りながら、実際には、まるで神を必要としないという、人間側の独りよがりな状態以上に、忌むべき状態があろうか。しかも、キリストが来られるよりも前に、信者の側がすでに満たされてしまい、自己陶酔、自己満悦、自画自賛に陥っていることほど、神の目に忌むべきことはないと思われてならない。我々にそのような錯覚としての偽りの満足をもたらすものは何であれ、早々に手放し、ゴルゴタの死へ戻るのが最善である。

2017年5月 7日 (日)

十字架の死と復活の原則―死よ、おまえの棘はどこにあるのか。死を打ち破り、よみがえられたキリストの御業―

さて、記事では、これからずっと、キリストにある新しい人(栄光から栄光へ主の似姿に変えられて行くこと、復活の命による統治、命の御霊の法則)というテーマを追って行きたいと考えているが、このテーマについて、何かしら方法論めいたものを記すのは土台、無理であるばかりか、避けるべきことだと考えている。

なぜなら、こうした問題には決まった方法論というものは存在しないと思うからだ。筆者が考えているのは、信者が何かしら偉大な宣教者や、偉大な人格者となったり、超人的な力を発揮して生きるための方法論を見つけることではない。

もちろん、筆者は、キリストの復活の命が、父なる神の御心にかなった天的な統治そのものであり、そうである以上、この命によって生かされるキリスト者には、様々な不思議が起きることを否定しない。だが、それでも、キリストにある新しい人とは、決して超人めいた存在を意味するのではなく、むしろ、ごくごく自然で素朴な人間なのである。それは、信者がキリストにあって、神が本来かくあれかしと意図してその人を創造された通りの、のびのびとして誰にも似ていない自然な個性を生きることであり、主ご自身がそうであられたように、調和の取れたあるべき人間として、地上を生きることであると考えている。

だが、調和の取れたあるべき人間と言っても、それは決して、どんな苦難や挫折や失敗とも無縁の、何かしら偉大で理想的な人間の標準や鋳型を意味するのではない。そもそも、信者になったとたんに、信者の人格が突如として高められ、すべての心の葛藤がなくなって、どんな困難や苦しみにも直面せずに生きられるようになると考えるのは、大きな間違いである。

むしろ、信者になればこそ、起きて来る葛藤もある。ジョージ・ミュラーやハドソン・テイラーなどの信仰者の伝記を読んでもすぐに分かることだが、信者になって改めて生じる罪との闘い、聖潔への願いなど、キリスト者にならなければ起きない葛藤というものも存在する。また、信仰ゆえの苦難や迫害なども起きて来る。

だが、そのような戦いから来る葛藤をさて置いても、筆者は、キリストにある信者の内的刷新とは、一直線に高みへと昇って行くというような、非常に分かりやすい単純な変化の過程を辿るとは思わない。ワインにも熟成期間があるように、信者の人生には、ただがむしゃらに前進するだけではなく、一見、何のためにあるのかも分からないような「遅延」や「停滞」の時期も必要なのではないかと思う。

これは筆者の自己弁護のために作り出した詭弁ではない。もしそうでなければ、何のために、アブラハムとサラは、待望の息子イサクの誕生をあれほど長い間、待ち望まねばならなかったのか? なぜヤコブはラケルを得る前にレアを娶らねばならなかったのか? なぜヨセフは兄弟に裏切られ、エジプトへ売られねばならなかったのか?そもそも、なぜキリストは十字架にかけれられ、死を経ねばならなかったのか?

信者が意識していなくとも、神は、天然の命から来る衝動が死に絶えるまで、信者の人生に「停滞」や「遅延」のように見える期間を許される。それは神ご自身が用意されるものであって、信者が自ら望んで獲得するものではないが、ある意味、十字架の死の象徴であり、霊的な葬りの期間である。

さて、前回の続きとなるが、筆者はある商人からヴァイオリンを買った。それはそれほどまでに大した楽器ではないので、帰郷の際に、子供の頃から練習していたヴァイオリンを家人に借りてみると、そちらの方が良い音がするように思われた上、体にもよくなじんでいた。むろん、どちらの楽器にも良さはあるのだが、弾き続けた楽器以上のものはない。そして、このなじみ深い楽器を手に取って数週間が過ぎると、子供の頃に練習していた曲がいくつも自然と思い起こされるのだった。

世間では、楽器をマスターするには、15歳頃から、どんなに遅くとも20歳を迎える頃までに、技術的に完成の域に達していないと、一流の水準に達するには遅すぎるものと考えられている。つまり、成人するまでの間に、完全なテクニックをものにできなければ、その後は、どんなにやっても、しょせんプロの水準とはならず、生涯、アマチュアの域を出ないと考えられている。そういうわけで、当然ながら、プロの音楽家を目指す人々は、物心ついたその時からずっと楽器を弾き続ける。10代後半で技術的完成の域に達し、その後、60歳、70歳を迎え、死ぬまでずっと楽器を弾き続けるのである。

しかしながら、以上に記した通り、十代ですでに完成の域に達していなければ、その後はどんなにやっても、しょせん、お楽しみ程度にしかならないという考えは、多くの人々が音楽に取り組むにあたって、あまりにも深い、無意味な絶望感と無力感を与える障壁となっているように筆者は思う。筆者には、果たして、このような考えは本当に正しいのだろうかと首をかしげざるを得ない部分がある。

筆者は、ピアノを弾くにあたって、幾度も、何年間ものブランクを経験したが、不思議なことに、かなり長い間、ピアノの鍵盤に触れずにいても、ある時、ふと練習を再開してみると、最後に弾き辞めた時から、まるでほとんど歳月が経っていないかのように、最後に弾いた時の曲のイメージがそっくり鮮やかに眼前に出現するということが多々起きた。もちろん、忘却や、運動能力の低下が全く起きないわけではないが、それでも、一旦、ある程度の水準に達したものは、そうそう簡単に忘れ去られたりするものではない。むしろ、黙って「寝かせていた」期間に、さらなる熟成を遂げていたと判明することもある(これはブランクなしに弾き続けている時でさえ起きる。三日、四日ほど、取り組んでいる曲をあえて「寝かせておく」と、もう一度弾いた時に、最後に弾いたときよりも圧倒的に曲の完成度があがっていることはよくある。)

このように、音楽には、寝かせておいても、演奏家の人格の成長と共に、沈黙のうちに熟成する可能性があるのだ、と筆者は確信している。その熟成期間が、一日、二日程度でなく、なんと十年以上に渡ることもありうるものと思う。日々、楽器や鍵盤に触れて、がむしゃらに練習し続けることだけが全てではない。演奏家が自分の人生を通して得たすべての経験が総合的に作用して、曲のイメージが完成するのである。その意味では、人が生きれば生きるほど、演奏に深みが増して来るのは当然であり、十代前半の子供たちをまるで神童のごとくもてはやし、若い時期を過ぎてしまえば、すでに演奏家としてのデビューの時期も通り過ぎ、演奏の価値もその後は落ちていくだけであるかのように思い込む風潮は、完全に間違っていると言わざるを得ない。

確かに、語学と同じように、音楽にも、若いうちに基礎を習得してしまわねば、後からのつけ足しが極めて困難な部分が存在することは否めないとはいえ、単に基礎を習得しただけでは、どんなに優れた技術があろうとも、機械仕掛けの人形とほとんど変わらない。さらに、演奏は漬物のように、時間をかけて弾きこまなければ、決してその人のものにはならず、良い味は出て来ない。

筆者は楽譜を読むのは遅い方ではないが、それでも、一つの曲を本当に自分のものにしたいと願うなら、どんなに少なくとも、一カ月以上の時間をかけて、弾きこむことがどうしても必要となる。楽譜通りに弾くだけが目標であれば、場合によっては初見か、数日もあれば十分という曲もたくさんあろう。しかし、それでは、間違いなく弾いたとしても、しょせん「楽譜通り」でしかない。曲に込められた情感、イメージ、思想、芸術性といったものを読み込んで、自分なりの形を完成し、それを思うように表現できるようになるためには、どうしても、一定の時間が必要である。その期間が、一カ月では、あまりに短すぎると言えるだろう。

この「熟成期間」には、必ずしも自分でその曲を弾きこむだけでなく、優れた演奏家の演奏を聴いたり、楽譜を読み直しながら、新たなインスピレーションを受けて、頭の中で曲のイメージを練り直したりすることが有益である。散歩中に思索を巡らしているうちに、それまで何度も聴き、弾いて来た曲のイメージが、突如として「分かった」ということもよくある。

こうして、セールスマンが足しげく営業に通いながら、自分のセールストークを磨いて行くように、曲想を練り上げ、それを完全に自分のものとし、自分自身の言葉として表現するためには、一定の期間がどうしても必要なのである。それはただ間違いなく指を動かして楽器を正しく演奏するために必要な期間ではなく、自分が何を表現しようとしているのか、その全体像を掴むための期間である。

話を戻すと、筆者は、信者の人生にも、このような時期があるかも知れないと思う。人から見れば、一体、何のために必要なのかも分からない、成果からはほど遠いように見える、「無駄な時間」である。同じパッセージをうんざりするほど繰り返しているだけのような時もあれば、まるで演奏など放棄したかのように、楽器から遠ざかり、黙って思索を巡らしているだけの時もあろう。全く何もしていない、という時さえ多く存在するかも知れない。だが、たとえそうであっても、その人の心の内側に深い探求があり、どれだけ多くの困難、どれだけ多くの障害、どれだけ長い遅延や停滞があったとしても、あるいは、生きているうちに達成不可能であるとか、手遅れであると宣告されても、なお諦めきれないほどの切なる希求が存在するのであれば、それは「何もしていない期間」ではないのだ。

その希求とは、ただ優れた楽曲を譜面通りに弾けるようになりたいという程度の浅薄な願いではない。曲の向こう側にあるもの、曲を作り出す源となる壮大な深みに手を伸ばし、何とかしてそこに至りつき、一つになりたいという願いなのである。

このように、筆者は、音楽の場合と同じように、キリストにある新しい人をも、信者が自らの努力によって獲得するのは不可能であると考えている。探求する努力は必要であるとはいえ、それは努力だけによって到達できるものではない。信者の側には、追い求めたいとの切なる希求があるきりで、それを達成させて下さるのはあくまで神である。そして、それは決して、若ければ若いほど良いといったような安直な歩みではなく、人の目には実に不思議な、しばしば逆説的な形で達成されるような気がしてならない。

さて、筆者がこの度、地上のふるさとに戻って来たのは、郷里にある親族を見舞うためであったが、この親族はすでに90歳を超えており、病床にあるため、この年齢から察するに、そろそろ生涯の終わりに来ているのではないかと見られる。しかし、長年、他宗教の信者であったので、帰郷の際、筆者はどちらかと言えば、気が重かった。もっと前に、この親族が健康な時期に、信仰について長く話し合ったが、共通理解に達しなかった記憶も残っている。

そこで、帰省前、筆者は、自分で書いた「死人のことは死人に任せなさい」という記事を思い出し、まるでその記事が不吉な予言となって、今回、別な親族のための思わぬ帰郷を招いたかのように感じたりもした。またもや、筆者は、キリストを受け入れないまま、親族を見送らねばならないのだろうか? そのために帰郷することにどんな意味があるのだろうか?という、敗北感のような感情にも襲われた。

しかしながら、筆者は、その無力感や敗北感にも似た悪しき感情を撃退し、悪魔に恥をかかせ、神に栄光を帰することだけに集中しようと決めたのであった。このところ、筆者はずっと、そういった「いかにもそれらしく感じられる」、「現実はすでに決定済みで、悪しき結末は動かせないものであるかのような感覚」、しかも、「その悪い出来事が、まるでキリスト者のせいで起きたものであるかのように、信者に罪悪感を呼び起こそうとする感覚」に、徹底的に抗って、願いを獲得するまでしぶとく諦めないで神に懇願し続ける姿勢が、信者にとっていかに重要なものであるかを学習させられていた。

そこで、筆者は、長年、他宗教の信者であったからと言って、この親族が聖書の神による救いを拒んだまま亡くなるかも知れない、という予想に、徹底的に抗うことに決めたのであった。筆者が見舞った時、この親族は、まだそれなりに元気ではあるが、他宗教の説教の録音テープを握りしめるようにして聞いており、それを心の安定剤にしようとしているように見えた。そして、残された元気を、食べることや、飲むことや、体の調子を向上させることだけに費やしており、周囲もそれを手助けしており、そこに伝道の余地など微塵も残されているように見えなかった。また、そのチャンスもめぐって来なかった。それゆえ、筆者の心は絶望感に覆われかけた。

が、しかし、数日経って、病床にある親族の様子が少し変わって来た。このまま話すチャンスもないままに別れが来るのであろうかと予想されるほど、コンディションに浮き沈みが見られたとき、筆者は、伝道のチャンスを、改めて神に願い求めた。すると、その機会が少しずつ巡って来たのである。

筆者は、この親族が、出会い頭に、筆者に向かって、「苦しまなくていいように、キリストさんに祈ってもらえるか」と尋ねて来たことをとりあげて、筆者だけが代わりに祈っても、本人に信仰がなければ、神に聞き届けられず、ほとんど意味がないことを話した。そして、自分でキリストを信じるように勧めた。そして、多神教の誤りを指摘し、夫と妻が一対一であるように、人間を救うことのできる神は唯一であり、キリストの十字架以外に救いはなく、他の神々を捨ててでも、この唯一の神だけを信じて祈るべきことを、親族に語った。罪の赦しと、死とよみがえり、永遠の命について話した。すると、かつては信仰を巡って論争めいたやり取りもあったこの親族は抵抗感を示さず、「分かる?」、「信じられる?」との筆者の問いに、素直に頷くのである。

調子の悪い時には、話しかけても反応すらも返さないのが、多神教を否定する筆者の言い分を、抵抗もなく受け入れる姿勢を示したのであった。筆者は、長年、ずっと考えが合わないまま、全く違う世界で生きて来た親族に、まるで火事場泥棒のごとく、残された時間がわずかとなってから駆けつけて伝道している自分自身の無理を思いながらも、それでも、この反応を見たとき、非常に厳粛な気持ちと深い感動に襲われずにいられなかった。こうしなければならない、こうでなければならない、という感じがしたのである。

これとどこかしら似たような現象が、筆者の連れて来た小鳥にも起きた。物音に驚いた小鳥が、鳥かごの金網に自ら足を引っかけて複雑骨折に至り、発見した時には、多量の出血と、足の指に血が通わないことにより、指が紫色になっていたのである。その状態を見た時には、筆者は、正直、足の指が持たないのではないかと恐れを感じた。医者に診てもらうと、解放骨折なので、治るかどうか分からず、もし足の指が壊死すれば、ただ単に足が不自由になるだけでなく、全身に毒素が回って致命的な影響を及ぼすことさえありうると言われた。

筆者はこの状況に対し、心の中で、猛抗議した。何か取り返しのつかない事態が起きて、すでに手遅れとなっているかのような印象と感覚を全身全霊で拒否し、死んだ息子のために預言者エリヤに抗議した女のように、神に願い求めたのであった。すると、医者に連れて行ってから二日ほどで足に再び血色が戻った。骨折が治癒するには時間がかかり、解放骨折となるとさらに治癒に困難が生じると言われているにも関わらず、それから現在に至るまで、小鳥はほぼ完全に近い形で治癒するだろうと思われるほどの驚異的な回復を遂げている。

こうした出来事は筆者に、神の守りが動物一匹に至るまで家族全体に及んでいることと、神には手遅れだとか、不可能はないのだと、改めて感じさせた。いや、どんな状況でも、悪魔のささやきに負けて、御言葉に反する負の結果をたやすく受け入れたりせず、神に心のうちをすべてさらけ出して、しぶとく諦めず、神に直談判するがごとくに懇願し続け、結果を獲得するまでに退かない態度が必要な場合が多々あることを、改めて思い知らされたのであった。

むろん、どんなに健康であっても、人間同士には地上でいつか別れが来るとはいえ、人間にとって最も克服しがたい、いや、生まれながらの人間には克服不可能である死をも、キリストは打ち破られて、よみがえられたのだから、我々は一体、何を恐れる必要があろうか?

このことを、つまり、十字架の死と復活の原則を、筆者は知っているつもりではあっても、それを自分自身の信仰告白として改めて自分の言葉で表現し、その告白が現実となって、目の前で主のみわざを見せられるとき、それによって、神の御心が何であるかを知らされるとき(神の御心は、人を罪に定めることにはなく、赦すことにあり、人を滅ぼすことにはなく、生かすことにこそある)、自分の信仰のスケールを改めて急速に押し広げられるような、厳粛で感動的な気持ちにさせられる。悪魔のささやきに簡単に耳を貸して敗北を受け入れることの無意味さと、御言葉に反対するものに、最後まで、固く立って抵抗し続けることの重要性、そして、神が我々一人一人の信仰に、どんなに真摯に耳を傾けて下さり、これを喜んで下さる方であるかを思うのである。

他人に向かって信仰の証を語っている時でさえ、筆者自身が、御前に畏れかしこんでひざまずき、「神よ、あなたこそ、我ら人間のただ一人の救い主です」と告白し、瞠目と感動のうちに、神を崇めずにいられないのである。

十字架の死と復活の原則―燔祭として神に捧げられ、死んでよみがえらされ、神の手から返された新しい人―

このところ、都会のすべての喧騒を離れ、キリストにある自由と平安を満喫している。空気は清浄で、食べ物は美味しく、親族を見舞うという名目ではあるが、人生の中で、久方ぶりに与えられた平穏な休暇である。

さて、生ける水を流し出す秘訣は、キリスト者自身にある。自分の中にある新しい命を解放する秘訣を知れば、信仰による創造はそんなにも難しいことではない、と筆者は確信する。

時には良いことだけでなく、人の目には失敗のように見えることも起きるが、そんな中でさえ、神の同情、慈しみと憐れみが、雨のように筆者に注がれている。人からの同情など要りはしないが、神からの同情や憐れみならば、どんな時でも、あればあるほど嬉しい。もし神が筆者に注意を払って下さるならば、どんなにわずかな瞬間であっても良い、その瞬間を何とかしてもっと増し加え、主との交わりの時を増やしたいと切に思う。

まさにダビデが詩編に書いたように、筆者も言う、主よ、奴隷が主人の命令を待って、主人をまっすぐに見つめるように、私の目は、あなたを見つめるのです、ほんの少しでも、あなたの関心を、あなたの慈しみを、憐れみを、祝福を得たいと思って、神よ、私はずっとあなたを見つめ続けるのです…。私の心はあなたがご存知です、お言葉を、命令を、戒めを、あなたの御思いを、私に教えて下さい…。

以前から書いていることだが、主イエスは地上で公生涯を生きられた間、ご自分の職業を持たず、養ってくれる家族を持たず、スケジュール表を持たず、ただ御霊の促しのままに、誰にも相談することなく、御父の御旨だけに従ってすべての物事を決定して生きられた。

主イエスがどのようにして日々の糧を得、どのようにして助け導くべき人々を見分けられ、ご自分の使命を知られたのか、聖書に具体的には示されていないことが多い。しかし、エルサレム入場のために用意されていた子ろばのように、主イエスの召しに必要なものは、すべて天の父が備えられた。それはすべて人知によらず、御霊によって告げられ、理解され、達成される事柄であった。主イエスは、御父の命じることを御霊によって識別することで、父なる神の御心のままに行動されたのである。

前回、筆者は記事において、自然界の動物に生存のための知恵が本能として備わっているように、命というものには、おのずから生きるための法則性が組み込まれており、神がキリストを通して信じる人々にお与えになった新しい命にも、命の御霊の法則性が組み込まれていると考えていることを書いた。天然の命に法則性があるならば、いわんや、キリストの復活の命には、新しい法則が備わっているはずである。そして、それが、御霊の油塗がすべてを教えるということの意味であると筆者は理解している。つまり、天然の命においては、本能という不完全なナビしか設定されていないが、復活の命においては、御霊自身が真実を教えるナビゲータの役割を果たすのである。

とはいえ、御霊の導きに生きるとは、人が機械的に何かの命令に従って自分の意志を放棄して生きることを意味せず、あるいは、信者が説教者になったり、牧師や伝道者になることを最高の到達点と考えて、いわゆる模範的なクリスチャンの生き方を目指して、何かの型に当てはまろうとすることを意味しない。

御霊の導きに従って生きることに、特定の型はなく、それは人の作り出したどんな固定概念にもおさまるものではないと筆者は確信する。神は人それぞれの個性を尊重されるため、それはあくまで神と人との同労によって作り出される生き様なのである。

キリスト者の人生とは、信じる人の個性と、その人の内に住んで下さるキリストの人格とが、何の矛盾もなく、調和の取れた同労を成し遂げて形作られるものである、と筆者は確信している。神は決して人の個性を無理やり押し潰したり、人の意志を否定して、何かを力づくで押しつけ、強制なさることはない。神が信じる者の内で生きて働かれる時には、むしろ、神はその人の意志を最大限に尊重されて、その人の人格と調和の中で同労を成し遂げられる。そのため、そのような生き様においては、信じる者の個性も、圧迫されるどころか、極めて自然に生かされる。

神は信じる者の個性を尊重して、その人と同労することがおできになるのだ。だから、信者の生き様には、ただ神がどんなに偉大で憐れみに満ちたお方であるかという、神の御言葉の真実、神のご性質が様々な形で証されるだけでなく、キリストと共に死んでよみがえらされた信じる者自身の個性も、生き生きとした形で、表現されるはずである。

このように、キリスト者の人生とは、信者がキリストの生涯を真似て、地上でそのコピーになろうとすることとは全く異なる。あるいは、誰か偉大な説教者や、信仰の偉人などの先人たちを手本に、模範的なクリスチャンになろうとすることをも意味しない。

それは、誰の生き様の模倣でもなく、その人自身の人格と、キリストの人格との同労によって作り出される、誰にも似ていない、新しいオリジナルの人生である。ナビゲータは御霊であるが、御霊が力づくで信者をどこかの方向へ引っ張って行くということもない。信者と御霊とが平和的に共存・同労を成し遂げるのである。

だから、筆者は、御霊に従って生きることに、定義というものはおよそ存在しないのだと思っている。おそらく、その生き様は、人知によって外から定義づけをしたり、何かのものさしで推し量って理解したりすることが極めて難しい事柄であろうと思う。

そして、何よりも、その人生には自由がある。それは、こうせねばならない、ああせねばならないという数々の義務や、人間の作り出した常識や、規則によってがんじがらめにされる人生ではなく、また、己の生存を必死になって自力で支えねばならないという恐怖によるものでもない。

共産主義者の定義とは全く違った意味で、それは必然の王国ではなく、自由の王国の生活である。だが、自由といっても、放縦とは違うので、当然ながら、節度や限度はある。その範囲内であれば、信者は自分自身の個性を存分に生かして生きることが許される。

さて、筆者は何年も前に、今身を置いている地上の故郷から新天地を目指して旅立って行ったのだが、長い間、なぜ神は、筆者が関東へ移住することを許して下さり、その条件を気前よく備えて下さったのだろうかと思いめぐらしていた。

当初、筆者は、この移住は、エクレシアに連なるため、信頼できる信仰の仲間に出会い、彼らの交わりに加わるためであったと解釈していたため、その期待が潰えた後には、一体、この移住に何の意味があったのだろうかとしばらく考えざるを得なかった。

そして、もし信頼できる信者の交わりというものがないとしたら、主は、筆者に一体、どんなミッションをお与えになっておられるがゆえに、この地に筆者を呼び出されたのだろうかと思いめぐらしたものである。

だが、最近になって、筆者が思い至るのは、神はただ筆者が御名により心から願い求めたから、ご自分の愛する子供の一人として、筆者の願いを気前よく叶えて下さっただけだ、ということである。

つまり、この移住は、エクレシアに連なるための手段ではなかったのである。いや、どんなことの手段でもなく、それ自体が、筆者の願いに対する神の応答だったのである。あれやこれやの目的の手段として、移住を促されたのではなく、ただ筆者が信仰により願い求めたものに、神が応えて下さったということである。

筆者はこれまで、この移住の他にも、実に沢山のものを、信仰により神に注文し(注文という言葉は、まるでい神を手段とするかのような、いささか不適切な表現のように響くが、これには、願いが成就するまで譲らず懇願し続けるという強い意味合いも含まれる)、信仰によって地上に引き下ろして来た。たとえば、一番多く引き下ろしたものは、仕事であろう。筆者が、目下、従事している仕事にどうしても満足できなくなって、もっと違う仕事をやりたいと切望するようになった時、神は、実に不思議な形で、筆者の願いにかなう新しい仕事を用意して下さったのである。

この他、友人や知人が、祈りを通し与えられたこともあれば、筆者が受けた悲しみに、神が思いもかけない豊かな慰めを用意して下さったこともあった。

しかしながら、一つだけ、筆者がこれまでどんなに願っても、実際に呼び出すことができなかったものがあった。全く不思議なことであるが、それが、信頼できる信仰の仲間との恒常的な交わりなのである。エクレシアに連なり、エクレシアの建設のために、移住までしたはずなのに、なぜそんな結果になるのかと、当初は、まことに不思議でならなかったのだが、筆者が共に教会を建て上げる目的で接近したキリスト者(らしき)人々は、ことごとく、交わりの途中で、信仰の道から逸れて行った。彼らがどのようにおかしくなって、聖書に反する考えへとあからさまに移り変わって行ったかといった過程の詳細は、すでに再三、書いて来た通りなので繰り返さない。

筆者は、ある人々に対しては、その変節を実際に詳細に知る前に、これ以上接触すべきでないと直感的に理解したので、交わりから退いた。そして、それ以外の誠実な信者は、亡くなったりするなどして、早々に別れがやって来たのである。

そんなこんなで、ついに筆者には、関東方面で、心にかなう信仰仲間が一人もいなくなった。そして、今やそのような人間を探そうとも思っていないほどである。ただ一つとても嬉しいことは、それ以外では、家人も含め、親族の誰も、地上の組織としての教会にこだわる人々がいなくなったことである。以前には、宗教団体としての教会に拘泥していた親族も、今や全くそのようなものに未練を持たず、むしろ、組織を離れた信仰を模索するようになった。

筆者は、こうして、かつてはエクレシアの一員と思った人々の中から多くの離反者が出て、もはやエクレシアだと確信を持って呼べる、信頼できる信仰仲間の存在が身近になくなってから、かえって、これは非常に自然で有益な結果だったのではないかと思うようになった。なぜなら、おかしな方向に逸れて行った信者たちは、みな目に見える地上の組織や、仲良しサークルのような目に見える仲間との人間関係やつながりを重視して、仲間を失うまいと、人間の絆に必死にしがみついて、人々からの承認や賛同を求めていたからである。

彼らは依然として、宗教団体としか呼べない地上組織を建て上げることに腐心しており、目に見えるリーダーを崇め、目に見える組織を神聖視しており、目に見える団体に所属していることが、自分の聖を信じる根拠になってしまっており、そのような生き方に、筆者は全く真実な信仰のかけらも見いだすことはできなかった。

こうして、筆者が観察しているうちに、かつてこれこそまことのキリスト教であると豪語して、いかにもクリスチャンの交わりを装っていた、目に見えるつながりがことごとく偽りであると判明し、当初は信頼できると考えていた信者たちの中にも、嘘や不誠実さが見い出され、彼らが信頼に値しなかったことだけが判明し、交わりと思っていたものは離散したのである。

こうして、何か目に見えるサークルの一員になることによって、教会を建て上げることができるという発想自体が、ことごとくナンセンスなものと判明し、筆者は、教会を建て上げるという概念を、以前とは全く違ったものとしてとらえざるを得なくなった。

筆者は、何年も前の当時は、信頼できる信仰の仲間と手を携えてエクレシアを建て上げることができると考え、それに関心を寄せていたものであるが、今はひょっとすると、そのような考え方にこそ、以上のような人々の犯した過ちに通じる、目に見えるものの神格化という、危険極まりない要素が含まれていたのではないかと考えるようになった。

つまり、エクレシア賛美、エクレシア崇拝の危険性である。目に見える人間同士の連帯、目に見える人的ネットワーク、五感で確かめ合うことのできるつながりを賛美し、そこに神聖を見いだそうとする考え方の罠や、深い危険性を思うのである。

エクレシアという単語には、信者にとって、何かしらとても耳に心地よい、甘く、理想的な響きがある。だが、その響きの甘さに陶酔することの中には、キリスト以上に信者が自分自身を聖なる存在として掲げたいという誤った欲望、間違った自己崇拝、信者の自己神格化の危険が潜んでいるのではないかと危惧されてならない。

いわゆる教会組織と呼ばれている地上の目に見える宗教団体や組織にこだわる信者ほど、この誤った自己崇拝、自己神格化の度合いが非常に深いように思われてならないのはそのためである。

だから、筆者は今、エクレシアを賛美しようという考えは全くもっておらず、これに憧れ、建て上げることが自分の使命であると言うつもりもない。もしそういうミッションがあるとしても、それは日々、自分自身が主と共に死と復活を経ること、自分の十字架を負ってキリストに従うことだけにしかよらないのだ。仲良しごっこのような交わりを通して達成できることなど何一つありはしない。そもそも、我々が見るべきお方はキリストだけであり、キリスト以上に教会を高く掲げ、これを関心の対象とすること自体が、非常に危険なことではないかと思わずにいられない。

今までの経験から言えることは、教会が建て上げられ、発展する方法は、多くの人たちが想像するように大人数がひと所に「集まる」ことよりも、むしろ「散らされる」ことにあり、大勢が集まって自分たちの存在を世間にアピールし、「自分たちの名を地上で高く掲げる」こととは正反対なのだと思わずにいられない。人が成功し、有名になったり、地位を築き上げて、安直な手柄を立て、自分をアピールすることではなく、むしろ、低められ、砕かれ、無化され、苦しみを通過しながら、人格が練られることの方にこそあるのだと思わずにいられない。

何よりも、もし我々がただキリストだけに目を注ぎ、この方だけに栄光を帰し、この方だけに従って生きていれば、教会を建て上げることに特別な関心など寄せずとも、エクレシアが何なのかは自然に分かって来るのではないかと思われてならない。

すでに一度は書いたような気がするが、筆者が今でも覚えている体験の中に、筆者が横浜に来る前、当初、筆者がエクレシアだと考えていた人々の、幸福そうな集まりの様子を遠くからネットで眺め、何か分厚いガラスの隔たりでもあるかのように、彼らと自分自身との間に決定的な距離を感じ、心に鈍い悲しみを覚えたということがあった。

その時、感じた悲しみや失望が何だったのか、その理由は、実際に彼らと接触してみて分かった。その集まりは、聖書的な交わりを装ってはいたが、結局のところ、いわゆる内輪の知り合い同士の仲良しサークルの域を一歩たりとも出てはいなかったのである。それは互いに誉めそやし合い、自画自賛し合うための、エクレシアに似て非なる集まり、単なる自己満悦のごっこ遊びのようなものに過ぎなかったのである。そこで、結局、筆者はその仲良しサークルを観察しては見たが、その一員には決してなることなく、その交わり(と呼ばれていた偽物)を通り過ぎただけであった。

今、筆者はそのようなものがエクレシアだとは露ほども考えておらず、彼らのように、自分が心許せると考えた仲間内だけで、徒党を組むことで、キリスト者の交わりを確立できるとも思っていない。そのようにして、仲良しサークルを拡大したり、自分たちの交わりこそ本物であると、世間に誇らしげにアピールしようとする試みを一切無視して、もっと言えば、そもそも人に良く見られ、誤解なしに受け入れられたいという衝動そのものとも訣別し、エクレシアというものを、まるで同時代人のサークルのような、人間の目に見えるネットワークに見いだそうとする考えを完全に捨てて、ただ神の御前の単独者として御言葉に従って真実に歩むことだけを目指す生き方を貫くことに決めたのである。

そうこうしている中でも、筆者のもとには、その時々に、神が率直に語り合うことのできる誠実な信仰者を友として送って下さることがあった。だが、その友情や連携は、固い結びつきになって、同志的な関係が生まれる前に、かなり早い段階で、強化されるどころか、分解されるのが常であった。

そんなことからも、筆者は、エクレシアを建て上げるという名目で、人々が寄り集まって自画自賛に明け暮れ、自己陶酔に浸ることは、全く神の御心でないばかりか、むしろ、大きな危険性が伴うだけだと考えるようになり、教会を建て上げるとは、気の合ったクリスチャン者同士が、お手手つないで、みんなで仲良く一緒に天国の門をくぐりましょうといった子供騙しのような願望とは全く異なる事柄で、もっともっと厳しい側面を含んでいる、と思わずにいられなくなった。その厳しさの中では、共に手を携えて歩める仲間が現れることの方が少ないほどである。そして、それゆえ、信仰者の歩みの基本は、やはり、神の御前の単独者としての信仰の歩みにしかないと確信している。

たとえ信者であっても、人間と人間との間で結ばれる絆や友情は、決して永久的なものとはならず、人は時と共に変化し、あるいは簡単に道から逸れてしまい、固いように見えた絆も取り去られる。だから、どんな時にも、信者は人を当てにせず、まずは神との間で、確固たる信仰による交わりを維持することに心を砕くべきであって、それ以外のものにほんの少しでも価値を置き、期待をかけ、栄光を帰したい衝動が芽生えると、それはたちまち腐敗したものとしてあっけなく失われるのだと思わずにいられない。

キリストだけに変わらない価値を置いて、この方にすべてを委ねて生きようと決意するときにこそ、それ以外のものが、必要に応じて与えられる。生活の様々な必要だけでなく、信仰の仲間でさえ、そうなのである。その意味で、キリストとエクレシアとの優先順位は、絶対に逆にされることがあってはならないのではないかと筆者は考える。

さて、以上の内容から、話が再び変わるようだが、筆者は、最近、とある商人からヴァイオリンを買った。どうにもこうにも、ヴァイオリンを弾くべきだと思えてならない時が来たせいである。一年ほど前から、ピアノの特訓を再開していたが、どうにもピアノだけでは物足りなく思えるようになった。

実は、筆者のペンネームは、ヴァイオリンから取られたものなのだが、筆者自身がヴァイオリンを弾けるのかと言えば、子供の頃、我が家に人から譲り受けた分数ヴァイオリンがあったが、本格的なレッスンを始めるに至らず、学校時代に基礎を習ったが、ヴァイオリニストのように自由に弾けるようになる手前で習い辞め、今、暗譜している曲はほんの二曲ほどしかない。それでも、長年に渡り、ヴァイオリンへの情熱は消えず、身近で他人の演奏を聴き続けたりした記憶の蓄積がついに飽和状態に達し、自分で弾かねばならないと思うに至った。

全くの余談に聞こえるかも知れないが、そう思ったきっかけは、ピアノだけに熱心に取り組むことに何かしらの限界を感じたせいでもあった。筆者は一時期、仕事に熱中して、ピアノをうっちゃっていたせいで、ほとんどピアノが弾けなくなってしまった時期があり、そのブランクを挽回しようとしているうちに、どうにもピアノという楽器には、何かしら根本的に、人になじみにくい要素があるのではないかと思い始めたのだった。

これは決して愚痴や泣き言ではなく、真剣に取り組めばこそ、思うことなのである。物心ついてすぐに最初に習い始めた楽器がピアノだったので、今までこのようなことを考えたこともなく、ピアノという楽器の難解さを感じても、常にそれは自分の技量の足りなさのせいだとしか思いもしなかったが、何しろ、ピアノには88鍵ものキイがある。隅から隅までこの楽器を使いこなすには、両手をいっぱいに広げねばならず、それだけでも大変な移動距離である。そして、ピアノ曲は旋律だけのものはほとんど皆無で、旋律も伴奏も一台の楽器で全部やってしまうのが通常であり、それゆえ、一度に奏さねばならない音がとにかく多く、その点で、他の楽器に比べても、極めて楽譜も複雑になりがちである。最も重大な注意点は、楽器が巨大なので、持ち運びが利かず、自分用に調整された楽器を演奏会用に準備することもできないことだ。どこへ行っても、コンディションの異なる備え付けのピアノに、奏者が自分自身をなじませるしかない。さらに、楽器が巨大ゆえ、人との間に拭い難い距離感があって、人が楽器と完全に一体になって共鳴することがやりづらい。

そんな楽器にも関わらず、ピアノ奏者は全世界で他の楽器にくらべてもとりわけ多く、音楽界における競争は他のどんな楽器に比べても一層過酷だ。そのような条件は、演奏家に非常に大きな負担を強いるものではないだろうか。

これと比べると、ヴァイオリンという楽器は、ピアノに比べれば、運指のための移動範囲もそれほどでなく、ピアノのように、鍵盤を押しさえすれば、それらしき音が鳴るということもなく、まずは自分で音を作るところから始めねばならないが、その方が楽器としては、はるかに自然な気がしてならない。ピアノは一音が消えるまでの時間が早いため、音を持続させるために、比較的早く次の音へ移行せねばならないが、ヴァイオリンは、弓を上手に使えば、少なくとも、一音をピアノよりはるかに長く持続させることが可能であり、その間に音の強弱も変えられる。

何よりも、ヴァイオリンという楽器の最も自然なところは、奏でる音質が人間の音声に近いことだろう。だから、ちょうど歌を歌うのにも似た感覚で、楽器を演奏することができる。しかも、楽器が人の腕の中にすっぽり入ってしまうくらいの大きさなので、人との距離感がさほどでなく、接触している部分も多く、楽器の共鳴が人体にそのまま伝わる。人の体と楽器がまさに一体となって音楽を奏でているという感覚を持ちやすい。

それに引き換え、ピアノと人体との直接の接点は、指先と、ペダルを踏む足先くらいであろう。だから、ピアノの音の振動は、人間の体で直接、体感する部分が少なく、基本的には、耳で聴いて音を感知するしかない。しかも、ピアノの音は、人間の声にさほど似ていない。

世の中にはピアノとヴァイオリンの他にも無数の楽器が存在するので、この二つだけを比べて論じることには無理があると思うが、それにしても、ヴァイオリンに比べると、いかにピアノが人工的で不自然な楽器かという気がしてならないのである。ピアノが親しみやすい楽器だと錯覚できるのは、子供に初歩を習わせる時くらいのことではないだろうか。

もともとヴァイオリンは、民衆のための楽器であり、クラシックの世界で、ヴァイオリニストたちが、楽器の値段や価値を競い合い、また難解なテクニックを競い合って、激しい競争が行われるようになって、一流ヴァイオリニストが、スター同然にもてはやされたりするようになったのは、ごく最近のことであろう。

そうなるまでのヴァイオリンは、オーケストラや室内楽だけでなく、民衆の祭りなどでも普通に駆り出されるような、庶民にもごくごく身近な楽器であったはずだと思う。肩当てや、顎当てさえ、比較的最近になって普及したのだと言われるように、もともとは非常に単純な楽器である。そんな楽器に、人間が逆立ちしなければ、達成できないような複雑怪奇な操作は、必要とされていないはずで、もともとこれはそんなアクロバットを当て込んで作られた楽器ではないはずだ。だから、本来のヴァイオリンとは、人を寄せつけないほど難解ではない、単純素朴な楽器のはずだと思うのである(だが、ヴァイオリニストはこれを聞いて、異議を唱えるかも知れない。単純なものが全く複雑化されてしまうところは、宗教もクラシック音楽界もどこか似ている。)

もちろん、ピアノにはピアノの良さがあり、ピアノという楽器を知っているがゆえに得られる喜びや満足は非常に大きいと言える。そもそも音楽の基礎を学ぶのに、この楽器を避けて通ることはできず、ピアノ曲には偉大な作曲家の豊富なレパートリーの取り揃えがあるので、一生を費やしても時間が足りないほどの楽しみが満載であると言うことはできる。だが、そうは言っても、ピアノには備わっていない別な要素を、ヴァイオリンのような別の楽器で学び、これをピアノに応用することで、ピアノの人工的で不自然な部分を補うことができないだろうかと筆者は考えているところだ。その実験の最たる目的は、どうすれば、人間の音声からかなり離れたピアノを、人の歌声のように自然に歌わせ、響かせることができるかというところにある。

一体、この実験と信仰に何の関係があるのか?と問われそうだ。まるでこじつけのようにしか聞こえないかも知れないが、これも筆者が神に願って与えられた機会なのである。

筆者はかつて非常に音楽に熱中していた時期があったが、一旦、これを神にお返しした。筆者の専門もこれと同じことで、かつて自分自身の思いで熱心に探求し、愛でていたすべてのものを、どこかの時点で、筆者はすべて手放し、一旦、神に返却することになった。

それゆえ、筆者は多年に渡り、音楽からも、自分の専門からも離れた時期が存在する。一見、その時期は、全くの無駄な紆余曲折のようにしか見えないことだろう。だが、そうして神にお返ししたものは、まるで燔祭に捧げられたイサクのように、一度、死んでよみがえって生かされたものとして、主の御手からもう一度、受け取ることができる。そうすれば、今度こそ、何のためらいもなく、信仰に反しない、聖別されて、祝福されたわざとして用いることができるのだ。

もし離れていた時期がなく、幼い頃から、両方の楽器を真剣にやっていれば、今、与えられている楽しみが、どんなに大きなものとなっていたろうと、ふと考えることがないわけではないが、幼い頃には、理解しようと思っても、分からないことの方が大きい。そんなわけで、筆者はブランクの時期を振り返って後悔するということはない。

その当時、筆者を教えてくれた教師たちは、真面目に練習していないがゆえに、抜けの多い筆者の演奏をも、素質があると誉めてくれ、その道に進めばどうかと助言してくれたこともあったが、それでも、当時、筆者の探求心は違ったことに向いていた。どちらかと言えば、筆者には、言葉の方に関心があったのである。

だが、幾年もの月日を経て、言葉への探求と、音楽への探求が、互いに矛盾しないものとして、一つにつながる時がやって来た。さらに、それらは死を経てよみがえらされたことにより、信仰とも全く矛盾しないものとなったのである。

もっと言うならば、言葉になる前の言葉と、音楽になる前の音が、信仰により、信者と一体になる時が来たのだと言っても良いかも知れない。

地上で音楽を奏でるということには、絶えざる格闘がある。なぜなら、プロの演奏者でさえ、思っているような演奏がなかなかできないからだ。コンディションの悪さが、常に演奏を邪魔し、自分が理想として追い求めるイメージと、現実に発せられる音との間に、絶えず開きを生む。自分がとらえよう、獲得しよう、達成しようと思っているものをどんなに真剣に追いかけても、すでにとらえたから、もう満足だという日は来ない。

だが、それでも、奏者は心の中に理想として持ち続けているイメージといつか自分が一体となり、音楽と自分との距離がなくなることを目指して、ひたすら弾き続ける。そこには、聴衆を含めた世界全体が一体となる時を目指すことも含まれている。

また、詩人は、演奏家とはまた違った形で、自らの言葉を通して世界と一体になろうとしている。いや、もっと正確に言えば、有限な言葉を通して、言葉になる前の無限の世界を追い求めていると言って良い。

詩人にとっては、どんなに素晴らしい詩を書いてみたところで、言葉を通して表現されるものが全てではない。言葉の先にある、言葉を生み出す源となるインスピレーション、霊感そのものをとらえようとして追い求めているのである。音楽家もある意味ではこれと同じである。音を通して表現しようとしているものは、音が生まれる以前の何か、音を生み出す源となるものなのである。

鈴木大拙が「神が光あれと言われる前の世界」への回帰を唱えたことを、筆者は別の記事で触れたが、人間が探求しているのは、まさにその霊感の世界なのであろう。だが、筆者は、禅者ではなく、あくまで聖書の神を信じるキリスト者であるから、「神が光あれと言われる前の世界」への回帰を目指さず、むしろ、「神が光あれと言われた後の世界で、光を造られた神と一つとして生きる」ことを目指している。

音楽家や詩人が、音や言葉の生まれる前の、それらを生み出す源となるものと一体化して、これを表現しようとしているならば、筆者は、信仰によって、この地上に実際の事物が生まれる前の、それらを生み出す源となる命そのものと一つになりたいと願っているのだ。

だが、筆者は、歴史を逆行して、神と人(被造物)とが分かたれる前の世界に回帰することで、その一体性を得ようとは思わない。むしろ、創造主と被造物の両者の間には距離があること、その距離が、我々が地上にいる間には、決して完全には克服できないものであること、それゆえ地上では、人の苦悩があることを分かりつつ、それでも、自分の力によらず、ただ一人、この断絶を乗り越えることのできるキリストの十字架の御業によって、朽ちない命に与り、この方と一つとして生きることを目指しているのである。

これは決して人が神を獲得することを意味しない。人が人の分際を超えて、神から神である地位と性質を奪おうとする試みでもない。人間の側からの神の詐称でもない。私たちは、神を心から敬い、この方を慕い求め、かつ崇め、誉め讃え、自分が被造物に過ぎないことを十分にわきまえて、畏れかしこみながら、同時に、この方に愛され、受け入れられて、子とされて、一つとされて生きることを心から願っているのである。

信じる者がキリストとの間で、完全な一致を地上にいるうちに獲得できないことを知りつつも、それでも、この方が信じる者のうちに住んで下さり、生きて働いて下さり、この方と共に共同統治者とされることを信じながら、私たちは神を喜び、神を尊び、神を愛して生きているのである。

聖書に書いてある通り、私たちはキリストをこの目で見たことはなく、実際に生きてお会いしたわけでもない。その声を聞いたこともなく、手で触れたわけでもない。神を五感でとらえることはできない。にも関わらず、この見えない方を見るようにして信じ、かつ、愛してさえいる。敬い、崇め、慕い、賛美するが、その賛美は、何よりも、神への愛から来るものなのである。

その愛は、この新しい命、朽ちないまことの命は、我々が自力で獲得したのではなく、神の側から一方的な恵みとして与えられたのだという認識から来る。神がまず私たちを愛して下さり、すべてを与えて下さったがゆえに、私たちも神を愛さずにいられないのである。

こうして、神の方を向くならば、人の心の覆いは取り除かれる。自分自身を完全に神に捧げ、かつては自分で握りしめようとしていたものも、今は神に委ねているからこそ、筆者も、キリストにあって再統合された自分自身を、ためらいなく受け入れ、生きることができるのだと言える。

古きは過ぎ去った以上、信じる者の個性そのものが、今やキリストにあって、神に聖別された新しい人として、神の手から信者の手に返されている。そこにはもはや恥じるべきものは何一つなく、隠すべきものもなく、死の宣告を受けたものを、まるで聖別されないものであるかのように思い返して、恥じたり、修正したり、変えようとする必要はない。信者の過去も、人格も、個性も、すべてがキリストにあって新しく生かされていることを信じれば良いのである。

筆者は、前途有望と言われた時期に、自分に与えられた様々な可能性を、自分の人生の成功を掴むためには利用しなかった。今となっては、遅すぎると言う人もあろう。たとえば、筆者は、職業音楽家になるにはいささか遅すぎるし、研究者として功績を残すにもやや遅れ気味であり、その他、遅すぎると言われても不思議ではないチャレンジがいくつもある。

だが、筆者はこの「遅延」を嘆くどころか、むしろ喜び、楽しんでいる。地中に眠っている種が、発芽して根を下ろすまでに、長い時がかかることがあるように、他人にどう見えようとも、筆者にとっては遅いということはなく、今がまさにその時なのである。もしもっと前に、有望と期待されている時に、もっと真剣に取り組んでいれば、今以上の結果が出たであろうか? 決して、そうは思わない。その時には、分かっているようで、何も分かってはいなかったのであり、何事にも今と同じ姿勢を到底、持ちようがなかったであろう。

今、筆者に与えられているすべての可能性は、筆者が自力で自分の名誉、地位、成功を築き上げるための手段として与えられているものではなく、そういうものを獲得せねばならないという焦りや義務感や恐怖とも、筆者は無縁である。そういった無用な気負いがないからこそ、平安のうちに、純粋に喜び、楽しむことができるのだと考えている。

今、筆者に与えられているものは、筆者が人生を喜び、楽しんで生き、神に栄光を帰するために、恵みとして与えられたものであって、それ以上の意味はない。自己顕示のための手段でもなければ、地位を築き上げるためのものでもない。音楽であれ、言語であれ、詩であれ、もはやどんなものも、筆者の心の偶像にはなり得ない。たとえ熱心に取り組んだとしても、自分を見失うまで熱中したり、あるいは憑りつかれているのではないかと言われるような取り組み方は決してしないのである。

さて、最後に、再び、話が飛ぶと思われるかも知れないが、多くのプロテスタントのクリスチャンをいたずらに苦しめ、恐怖に追いやっているカルヴァンの予定説の何が間違っているのかについて、筆者の考えを少し書いておきたい。

この説の決定的な誤りは、人類(人間一般)という定義の中に、古い人類と新しい人類とを一緒くたに混同していることにあるのではないかと筆者は考えている。決して一緒にしてはならない二つのものを、無理やり同じ土俵で一緒くたに論じればこそ、クリスチャンとなった後でも、誰が真実救われているのかは、信者が死後、神の御前でさばきの座に立たされる時まで本当には分からないなどといった、全く恐ろしい絶望的で不毛な結論が生じるのではないだろうか。

それはまるでチンパンジーとオランウータンを同じ種族と断定して、どれがチンパンジーであってどれがオランウータンなのかは、DNA鑑定をしてみないことには分からないと言っているのと同じくらいのナンセンスに感じられる。

パウロは、ローマ人への手紙で、一人の人(アダム)によって罪と死が人類に入り込んだように、一人の人(キリスト)によって多くの者が義とされ、命を得ることを述べている。この二つの系列の種族は、決して同列に論じられるべきものではない、全く別の種類である。

外見が同じように「人類」に見えるからと言って、アダムの古き命に生きる者と、キリストの新しい命によって生かされる者とを、「人間一般」という定義でひとくくりにするのは全く望ましくない。いや、望ましくないだけでなく、これは誤った定義であり、事実誤認である。外見だけによって、本来、一緒にしてはならないものを一緒にするから、救われた人間と、そうでない人間を、内的確信によって区別することが不可能だとする荒唐無稽が生じるのである。

さて、キリストと共に十字架の死にあずかり、共に復活した者は、自分がすべての面において完全に新しくされ、すべての面において聖別されたことを信ずべきである(ただし、これは決してその信者が地上において、すでに罪なき完全に聖なる存在となったことを意味しない)。我々は地上にあっては、依然として、欠けの多い、誤りやすい、不完全な存在にしか見えず、多くの期待はむなしく潰え、もはや手遅れに思われることも多く、キリストご自身との間には、相当な距離があり、達しようと目指しているものとの間には、はるかに遠大な距離があるかのように感じられることだろう。その距離は、我々を打ちのめして、失意や悲しみをもたらしかねないほどのものであり、それゆえ、我々はこの不完全な地上の幕屋の中で絶えず呻いている。

それにも関わらず、我々はその感覚を否定して、呻きの中から、完全に贖われる日を待ち望み、それを信じ、これに達しようとしている。信仰によってそれが事実であることを先取りして、すでにその贖いと一つであること、キリストと一つとされていることを信じ、宣言する。つまり、飲むにも、食べるにも、移動するにも、学ぶにも、演奏するにも、書くにしても、何をするときも、生きることはキリストだと宣言する。たとえ現実がどれほどそこから遠いように見えても、目指しているものが、生きているうちに到達不可能であるように見えても、それでも、生きることそのものが、我々の存在そのものが、地上での限りある一瞬一瞬が、キリストと一つとして生かされており、そうであるがゆえに、この方に栄光を帰するものとなるようにと願い、信仰によってそれを宣言し、待ち望むのである。

このことは、我々が外見的にどんな風に見え、どれくらいの見込みが残されていると想定されるかには全く関係ない。我々の望みは、目に見えるものにあるのではなく、見えないものにこそ置かれているからだ。我々は御言葉により、自分をすでに死んだものとみなし、死者をよみがえらせ、無から有を引き出し、不可能を可能とすることのできる神の御業を信じて、贖いの完成を待ち望んでいるのである。

だから、状況が見込み薄のように見え、嘆かわしく見える時ほど、信じ、待ち望む甲斐があるのだ。主にあって、一度手放したものを、再び返されて、この手に取り上げる時には、常に死の厳粛さと、よみがえりの喜びを思わずにいられない。筆者がこの手に握っているものは、もはや筆者のものではなく、神の所有なのである。

多くの人々は、若いうちに、つまり、自分にたくさんの可能性があるように見え、たくさんの期待を寄せられているうちに、早々に何かを達成してしまうことこそ、人生の成功であると思い込んでいる。そして、失敗や遅延を無意味なものとして、できる限り避けながら、ただ成功だけを手にして前進したいと考えるのかも知れないが、筆者は決してそうは思わないのだ。

人が若くてエネルギッシュで生命力に溢れ、前途有望と誰からも期待されているうちに、持ち前の生命力によって、何かを成し遂げることには、何の不思議もありはしない。そこにはただ天然の命の生まれ持った本能があるだけで、何の奇跡もなければ、瞠目すべき要素もない。

もし死を経るという過程、死んで葬られるという過程がなければ、筆者のすべてのわざは、非常に皮相で、軽薄な、むなしい価値しか持たなかったであろう。筆者は、軽薄で皮相なものを全く欲していないし、そのようなものが自分の人生の本当の麗しい飾りになるとも思っていない。そのようなもので他人を満足させたり、深い感動を与えることができるとも思わない。

神の目から見て、天然の命に属するものが何一つとして価値を持たないように、人の目にも、長年かけて熟成され、正真正銘、試練や、苦しみや、呻きの中で、練られ、洗練たものでなければ、賞賛に値する価値は見いだせない。神の目はごまかせないが、人間の目なら簡単に欺けると考えるのも間違っている。皮相で軽薄なもので人の関心を引き、人目を欺けるとしても、それはほんの一時しのぎでしかない。真に価値を持たないものは、いずれにせよ、短期間で馬脚を現し、長続きしないと相場は決まっている。そのようなものを追って生きても、全くむなしいだけで、一体、何の甲斐があろうか。

2017年5月 2日 (火)

十字架の死と復活の原則―栄光から栄光へ―主と同じかたちに姿を変えられて行く (2)

「しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。
かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。

しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:14-18)


何年ぶりかに、700キロの走行距離を経て、久々に郷里の美味しい空気を味わうことができた。

不思議なことだが、筆者が天に直接、養われる生活を始めてからは、神に向かうために自由な時間が圧迫されるようなことがあると、それから間もなくして、神ご自身が、信じる者のために、暇(いとま)を用意して下さることが頻繁に起きるようになった。

たとえば、このところ、しばらくブログ更新が滞っていたが、このように、日常生活で、神に向かうことが難しくなるほどの多忙状況に陥ったり、何かの出来事で過度に心を煩わされるような時が続くと、必ずと言って良いほど、立ち止まる機会が与えられる。信じる者は、心煩わせる全ての出来事の渦中から高く引き上げられて、安息を取り戻すための平穏な場所に置かれる。しかも、その移行がとても自然な形で、誰にとっても無理のない形で起きるのだ。

このように、神の国とその義とを第一に生きてさえいれば、信者には、ただ生きるためだけの様々な心配は無用である。これは確かな事実であり、法則でもある。だが、筆者は、こう言うことによって、信者が自分の生活に必要な様々な措置を自分で何も講じなくて良いと言っているのではない。やるべきことやらねばならない。ただ、どうやって生きようかとあれやこれやと心を悩ませ、煩わせる必要がなくなるのである。

もし信者が本当に神の国とのその義の何たるかを知っており、あるいは心から探求しており、神にさえ心の照準を合わせているならば、多くの人々が毎日、胃が痛むほどに悩んでいる食べ物、飲み物、着物の心配を含めたあらゆる日常生活の心配事、仕事や生計を立てることに関する心配事は、何もかも完全に神の御手に任せてしまうのが一番良い。神が信者の生活を心配して下さるからだ。

もし信者が仕事で成功したり、立身出世などといったことに少しでも興味があるなら、そうした一切のことがらも、すべて神にお任せすることをお勧めする。

これは信者が「すべてを神に任せる」という口実で、自己放棄し、自分では一切何もしなくなるという意味ではない。また、望みを捨て去るという意味でもない。自分で何かを獲得しようともがき、必死の努力を重ねる代わりに、望みのすべてを正直に神に打ち明け、神にそれを承認していただけるかどうかを尋ね、もし神との間に争いがないならば、神の御手から改めて承認された自分の願いを受けとって、その実現に生きることが一番確かで自然な方法だという意味である。

筆者はこれまでにも幾度か述べて来たように、ある時期から、自分の人生を完全に天に委ねてしまった。つまり、神の恵みにより、天の経済によって生かされるようになり、どう生きるかということについて、あれこれ心配をしなくなったのである。

だが、それは決して、筆者の人生に何一つ心配に値する出来事が起きなくなったという意味ではない。何の波乱も、一つの事件も起きなくなったという意味ではない。そうした事柄に心が触れられなくなり、何が起きても、一切、心を騒がせず、静かに落ち着いて最善の解決を見いだし、そこへ向かう方法が分かって来たという意味である。

これは子供が自転車の乗り方を覚えるのにもよく似て、最初は何かしらとてつもない無謀な実験のように、もしくは無責任な考えのようにすら感じられるだろう。普通の人々は、仕事や家族のことで何と心を煩わせていることか! そして、まるで心煩わせることこそ、義務を果たすことであるかのように思い込んでいる。生活環境が変わり、仕事内容が変わったり、勤務地が変わったり、居住地を変えたり、家族に変化が起きたりすれば、その度ごとに、ほとんどの人は、これからの自分の人生は一体、どうなるのだろうかと不安を抱かずにいられないであろう。

この不安定な時代には、多くの人々はただ生計を維持するだけでも大変な苦労を負わされており、さらに、その不安に追い討ちをかけるように、しばしば情勢の不安が生じ、または心根の悪い人たちに遭遇して、裏切られたり、騙される寸前のところに追い込まれたり、あるいは、思わぬ負の事件をもいくつもくぐり抜けねばならない。そうした中でも、その出来事について思い煩わず、圧倒的な平安の中に座し、神の守りを確信し、心を悩ませずに、すべての出来事にふさわしい解決を見いだすというのは、並大抵のわざではない。いや、それは人の努力によってできることではない。

だから、筆者がこの法則を体得するにも、多少の時間はかかった。だが、それを通しても分かるのは、人にとって何よりも時間がかかるのは、自分の生存を自力で支えるためのあれやこれやの手練手管や方策を獲得しようともがくことではなく、どのような状況の中でも平安の中にとどまる秘訣を知ることなのだ。多分、この秘訣を知っている人はほとんどいないだろう。なぜなら、そのような平安は、人の力で獲得できるものではなく、神から来るものだからである。

だが、それでも言えるのは、御言葉への信仰に基づき、一切の思い煩いを捨てて、神に自分自身を委ね切ることは、そんなにも難しいことではなく、慣れてしまうと全く困難ではないということだ。それは天の法則に従って生きることを意味する。

さて、ここで筆者の言う「天の法則に従って生き、どんな状況においても平安に座する秘訣」とは、外見的にいかにもハッピーで、悩みがなさそうで、喜びに満ちて、常に笑顔を絶やさず生きている理想的なクリスチャンの姿、などといった皮相で軽薄な印象の次元の話ではない。これは、外側から判断して、その人が他人にどう見えるかという問題とは全く関係なく、信者が内面において天の法則(命の御霊の法則)を知っており、その確信に基づいて生きているかどうかを指す。

この地上にも、自然界の法則がある。たとえば、野生の動物たちは、一体、どうやって食糧のありかを自分で見つけられるのだろうか。道端にいる猫や犬やカラスや雀たちは、どうやって自分を養っているのか。どうしてかは分からないが、彼らは生きるための法則を自ら知っており、神は彼らに自分の命をつなぐために必要な知恵を、彼らの命の中に組み込む形でお与えになった。それならば、まして人間が、しかも、キリストを信じて、その復活の命によって生かされている人間が、自分を生かす天の法則を知らないはずがない。

多くの信者は、神に向かって、自分が直面している当面の問題を解決するためのふさわしい知恵を下さいと言って、延々と長い祈りを捧げるが、筆者はこう言いたい、天の法則は、キリストが十字架の死を経て信じる者にお与えになった復活の命の中にすでに組み込まれていると。つまり、もしも信者が、真にキリストを知って、アダムの古い命ではなく、キリストの新しい復活の命によって生かされているならば、その信者は、自分を生かす新しい法則を自ら知っているはずであり、その鍵は御言葉の中にある。信者は御言葉を通じて、あらゆる問題解決に必要な知恵を自分で探り出し、体得する秘訣をすでに持っているのだと。

それが、キリストが信者の中に住んで下さることの意味である。つまり、神がキリストを通して信者に与えられた新しい命(命の御霊)が、信者がどう生きるべきかをおのずから信者に教えてくれるのである。

だから、信者は余計な思い煩いを一切捨てて、心静かに御言葉を探り、御言葉に従い、神がお与え下さった新しい法則に従って生きるだけで良いのである。そして、その新しい法則は、人間に苦役ではなく、自由をもたらすものであり、もはや信者はかつてのように、恐れや義務感にとらわれて生きるのではなく、心の本当の願いに従って生きることができる。

キリストの復活の命は、人がただ生存するためだけに、耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶように求めるような、残酷な性質のものではなく、御名によって、信者が心に願うことを率直に神に求めることを許してくれる。つまり、絶大な自由を信者に与えてくれる。だから、神との間に争いがなく、良心に咎めがないならば、信者は御名によって、大胆に、自分の心の願いを神に申し上げ、その実現を願い求めれば良いのである! 求めたならば、落ち着いて、その実現を信じ、それに向けて、ごく普通に、必要な新しい一歩を踏み出せば良いだけである。そこには、困難で複雑なことは何もない。

こうして、何重にも重い衣装をまとっていた人が、それを一つ一つ脱ぎ捨てて、軽快な服装に着替えるように、信者はかつて自分を縛っていた様々な心の重荷から解放されて、自由になって行く。かつてのように、地上の残酷な法則に縛られ、翻弄されて生きるよりも、天の新しい法則に従って生きる方が、はるかに自然であることが分かって来る。

信者が、天の新しい法則に従って生きるために、特に必要なことは、後ろを振り返らないこと(過去に未練や執着をもたないこと、自分で自分の過去を裁いて失敗に悩んだり、これを修正しようとして見てくれに拘泥しないこと)、自分の心の願いに正直であること(自分の心を神の御前に偽らないこと)、神の忌み嫌われる汚れたものとは分離することである。

最後の項目の中には、明らかに反聖書的な考えや教えを持つ人や団体と訣別することだけでなく、信者が自分自身の心に思い浮かぶ恐怖や、悪しき想像、思念と訣別することも含まれる。この課題は極めて重要である。

筆者はこれまで、信仰による創造というテーマについて幾度か書いたが、信者は、自分で自覚していようといまいと、自分の思念と言葉によって、絶えず信仰的に何かを創造しているのである。だが、その創造は、必ずしも、神の御心に合致せず、むしろ、悪魔のささやきに耳を貸すようなものである場合もある。なぜなら、信者自身が、自分は一体、何を本当だと信じるのか、御言葉に合致する事実を選び取るのか、そうでない事実を選ぶのか、選択を迫られているからである。

信者が、もし神の御心に合致した調和の取れた生き様を願うならば、自分の思いを統制し、御言葉にかなわない、自分にふさわしくない、神を喜ばせない、キリストに従わない思念を撃退して自分の外に追い払わなければならない。自分の身に呪いや滅びを招くような悪しき思念とは訣別しなければならない。そして、この課題は、信者の生活が順風満帆であるときにはたやすく達成できると思われるかも知れないが、逆境にある時にも、同じようにせねばならない。

信者は、人からの呪いの言葉を聞いたとしても、それを決して自分の中に取り入れるべきではなく、まして信じてはならないし、ネガティブな事件がどれほど身近に起きたとしても、それに注意を払うべきではなく、それを最終的な現実として受け入れるべきでもなく、御言葉に逆らう状況に徹底的に立ち向かいながら、ただ神が定めて下さった目的地(キリストにある新しい人、復活の領域にある自由と解放)だけを求めてまっすぐに見つめ続けねばならない。

信者が何を現実と認めるかによって、信者の歩みは全く変わってしまうのである。道に横たわって進路を妨げる障害物を現実だと思うならば、一歩たりとも前に進んで行くことはできなくなる。だが、悪しき思念は、必ずしも、他人の言動や、不意の望まない出来事を通してやって来るとは限らず、まるで自分の思いであるかのように、信者の心に思い浮かぶこともある。それでも、信者はこれを自分の思いであると錯覚せずに、その出所を識別して、御名によってその思いを拒絶し、これを虚偽として立ち向かわなければならないのである。

筆者はまだ天の法則を十分に知ったとは言わないが、これまでの年月、一日、一日、神がどんな状況においても、信じる者を支え、導いて下さる方であることを確かめて来たため、その一日、一日が、神がどんなに信頼できる方であるかということの確証となって、筆者の確信を補強している。

さて、すでに書いた通り、今回も、天の不思議な采配により、久々に郷里の空気を吸う機会を得たが、こうしている間にも、十字架の死と復活の原則は、生きて信じる者の人生に確かに働くことを筆者は経験し続けている。

たとえば、この道中に連れて来た小鳥が、到着後に不意に重大な怪我をするという事件も起きたが、神に助けを求めると、良い獣医を見つけて、早期に適切な治療を施すことができ、そのおかげで、小鳥も順調に回復を遂げるに至った。

場合によっては命に関わるほどのリスクを伴っておかしくない重大事故であったが、今やほとんど元通りに健康を回復しつつあり、これにも、死の中に働く確かな命の法則を見る。

さて、これから先の記事では、十字架の死だけでなく、復活の側面に大きくスポットライトを当てたいと筆者は考えている。前回までの記事では、筆者はキリスト者が低められることの重要性について幾度も触れたが、ここから先は、栄光から栄光へと、キリストの似姿に変えられて行くことに重点を置いて話を続けたいと考えている。

その本題に入る前に断っておきたいのは、筆者が、信者が低められる必要があると述べるのは、決して信者が自分から低い地位を求めるべきという意味ではないことだ。これは自虐の勧めではないからだ。しかし、信者が束の間、意に反して、卑しめられたり、低められたり、注目されず、無化されたかのような立場に置かれるということは、しばしば起きうる。そして、その訓練の間に、信者が呻きや嘆きを通して、神の御前にそこからの解放を願い出るならば、それは間もなく叶えられる。

そのため、もし信者が、束の間、低められることがあれば、その後には、高くされることが続くと思って差し支えない。それは、信仰者には、主にあって御名のゆえに遭遇した束の間の苦しみの後に、常に休息の時がやって来るのと同じである。

たとえば、この時代の状況もあって、筆者はこれまで、個人的に、長い間、自分が並大抵でない苦労の連続の中を生きて来た自覚があり、それは筆者の周囲の人々も共通して認めているところであったが、しかしながら、そうした苦労にも終止符が打たれ、次第に、人生が自由と解放へとシフトして来ているのを感じる。

つまり、筆者自身の歩みが、栄光から栄光へと、キリストの似姿へ変えられて行くという局面に移り変わって来ているのだ。

かつて、アブラハム型、イサク型、ヤコブ型、どの人生に自分が一番近いかを問う質問を聞いたことがあるが、筆者の歩みは、どこかしらヤコブの人生にも似ている。開けた広い場所へ出るまでの間は、ラクダが針の穴を通るように、狭苦しい窮屈な通路を長々と通過せねばならない時期がある。だが、それもいつかは終わり、大路へ達する。あるいは、ヨセフの人生にも少し似ているかも知れない。他の人々が遭遇することがないようなスケールの劇的な苦難にも度々遭遇して来ているからだ。

筆者は、これまでの人生に絶えまない格闘があったので、ヤコブのように、自分の「もものつがい」が外されるために、何か特別に劇的な格闘があったのかどうかも分からないが、気づくと、もものつがいも外れ、これまでさんざんそこから脱出しようとして苦しんだり悩んだりする原因になった出来事が、全く古い出来事として過ぎ去り、とうに自分の心に触れなくなっているのを知るのである。

それどころか、そうした出来事が人間の心を翻弄するカラクリが、あまりにもはっきり分かってしまうので、その悪しき装置の仕掛けを見抜いて、これを事前に打ち壊すことさえ可能になる。そのようなことがあらゆる場面で起きて来る。

それはちょうどいじめられっ子が、成長して、いじめっ子の挑発にびくともしなくなるのにもよく似ている。敵はクリスチャンを苦しめる目的で、絶えず悪しき活動を続ける。ところが、クリスチャンの方では、そうした次元の事柄に、全く自分が反応しなくなるのが分かるのである。レベル1の敵と対戦して負けては、悔しい思いをしていたのは大昔の話になり、今立ち向かうべき相手は、レベル10は超えている。仮に取っ組み合って立ち向かい、格闘する対戦が訪れるにしても、その時々にふさわしい相手を見分けられるようになる。レベル1の敵が活発に蠢いているのを見たとしても、脅威にも思わず、全く動じることもなく、相手にもせず、素通りするだけなのである。

一つの例を挙げれば、かつてもブログ記事に書いたことであるが、筆者は何年もかなり前に、大手で有名ではあるが、モラルの欠ける劣悪な人材派遣会社のもとから、同じほどモラルの欠落した劣悪な派遣先に遣わされ、そこでいわれのない理由で、一方的に契約を短縮させられそうになり、交渉の末にようやくその措置を免れるという出来事に遭遇したことがあった。

その当時は、何も理由が分からずに遭遇した出来事だったため、この事件に、筆者は衝撃を受け、愚かしい長々とした交渉に消耗もしたが、その後、人材派遣業そのものがブラックな業界だと言われる中でも、派遣会社にはピンからキリまであって、上記に比べ、はるかにましで良心的な会社も存在しており、良心的な会社は、同じような状況が持ち上がっても、決して以上のような措置を取らないことを知った。

つまり、その時、筆者が関わった会社は、大手にも関わらず、あらゆる派遣会社の中でも、とりわけモラルがなく、レベルが低かったのだと言えるのである。後になって分かったことは、問題となった派遣会社は、当時から、他の派遣会社がさじを投げ、すでに派遣を中止して撤退したような、劣悪な環境の職場に積極的に乗り込んで行っては、ブラック企業を食い漁るようにして、シェアを伸ばしていたということであった。

筆者がその当時、派遣された職場も、他の派遣会社が送り込んだ人材への扱いが相当にひどかったため、他社が度重なるクレームをつけたにも関わらず改善がなく、他社がすでに手を引いた職場だったことを、筆者はまさにその当時、職場にいた同僚から聞かされた。他の会社が撤退するほど悪い環境に、積極的に乗り込んで行くのだから、そんな環境で、問題に巻き込まれないことの方がおかしい。

しかし、そうなっても、派遣会社の方は派遣先と連携して、何が起きても、ただ労働者に一方的な責任を負わせる形で幕引きを図ろうとするのが通常だったと見られる。その派遣会社は、近年も、有名企業に正社員を対象とするいわゆる首切りマニュアルなるものを提供してリストラを促し、社員の退職を機に人材派遣のチャンスを増やして、自らの儲けの手段としていたことを、TVでも特集として報道され、世間に問題視されるに至っているほどだ。いわば、他者の不幸を自分の儲け話に変える手法が、社風として定着してしまっているのである。(しかも、その劣悪な派遣会社が、当時、筆者を派遣した先が、政府の事業の下請け企業であった。政府の下請けという立場もまたとりわけ悲哀に満ちた環境が生まれる元凶である。)

さて、当記事は労働環境について論じることを目的としていないので、本題に戻るが、上記のような事件は、筆者には、遭遇した当時は、いきさつを全く知らなかったため、それなりに衝撃的に感じられたものであるが、その後の月日で、すっかりその人材派遣会社のレベルの低さとモラルの欠如が見えてしまい、その事件が起きたカラクリも分かってしまい、なおかつ、比較的良心的でましな会社が他にいくらでも存在していることや、派遣であろうとなかろうと、会社を選ぶ権利は誰にでもあり、起きた出来事も、見る人から見れば、最初から予測できた当然の結果でしかなく、少しも筆者の個人的な責任に帰されるべきものでないことが分かったので、今はこのような出来事にはまるで心を動かすことなく、振り返って憤ることもなく、ただ取り合う価値もない出来事として呆れながら、素通りして行くだけである。

この世の中には、残念ながら、ハイエナやハゲタカのような企業や宗教や人間も存在しており、空中に蠢くウィルスを根絶できないように、それらを駆逐することは誰にもできない相談である。だが、人が健康であればウィルスに感染しないのと同様、そのような低いレベルの対象を見抜くことさえできれば、これを相手にせず、関わらないことによって、害を受けず、関わったとしてもその害を最小限度にとどめることは誰にでも可能なのである。

以上の体験談は、労働問題を論じるためでなく、信仰の生長について語るための一種の比喩として持ち出したものである。つまり、人生で一時的に、耐え難いほど心を悩ませる問題が起きて来ることがあっても、人が生長すれば、その事件を通り過ぎることができる。そして、もっとはるかに高度な問題に取り組むようになる。卑劣な人間や組織ほど、活発に自己主張するため、他者を押しのけて、人の不幸を踏み台にしてでも、貪欲に自己の利益拡大をはかるかも知れないが、そうした人々の厚顔不遜さに影響されることも減って行き、そばで誰がどのような生き様をしていようとも、落ち着いて自分の歩みを進めつつ、卑劣漢にその後、何が起きるのかを、冷静に観察できるようになる。つまり、理不尽な状況や有様を見ても、義憤に駆られて、自分の手で誰かに報復したり、自分の手で正義を実現しようなどと思うこともなく、すべての問題にふさわしい結果が現れることを確信して、穏やかでいることができ、心を悩ませる価値もないような問題や人々のために、人生の貴重な時間を膨大に浪費することはなくなるのだ。

この世に人材派遣会社が数えきれないほどあって、仕事を探している人間の側で、いくらでも選択が可能であるのと同様に、人はどんな対象と付き合う際にも、自分にふさわしレベルの相手を見分けて選ぶことができる。

つまり、誰でも相手をよく観察し、本心を見分ける術を心得て、関わる相手の性質やレベルを自分で見抜いて、これを定め、選びさえすれば、自分を守ることができる。そのための観察眼や洞察力を磨くべきなのである。(何よりも霊的洞察力・識別力を持つべきである。)だが、もし比較材料が全くなければ、学習を積む機会もないであろう。もしある人の人生に苦しみも悩みも全くないならば、その人には、さらなる自由や解放を求める機会自体が訪れないであろう。

人生に起きる出来事はすべてこのようなものである。一時的に卑劣な人間や劣悪な組織に出会ったとしても、全く絶望する必要がないのは、それよりももっと良心的な人間や組織が必ず存在するからである。つまり、人は何があっても、決して諦めることなく、より純粋なもの、より誠実なもの、より良心的なもの、より真実なもの、より完全なものを探し求め続けるべきであって、さらなる望みを持ち続けるべきなのである。最終的には、完全に真実な方は、神ご自身のみであることを忘れず、神にすべての望みをかけているなら、人生において、真実で誠実なものを求め続ける信者の願いを、神は笑われたりはしない。すべてのものについて、より真実で完全なものを求める願いがあって初めて、人は虚偽を脱し、不完全さと訣別し、より完全に近いレベルに到達することができる。地上における人の人生に完全はないが、それでも、信者は完成に向かって、絶えず歩み続ける。神と出会ったと言っているクリスチャンでも、決して信仰によって一足飛びにすべてを得ることはできない。自分の望みに従って一歩ずつ踏み出して行くしかないのである。

今となっては、筆者は人材派遣会社などに関わろうとは思わないが、かつてはなぜ派遣会社などを利用するのかとよく聞かれたものだ。それだけではない。なぜこんな条件に黙って応じているのか。なぜこんなに短い契約期間なのか。なぜこんな仕事内容なのか。あなたほどの人が、なぜ…。だが、他者がどんなに忠告しても、本人がそれを心から理不尽だと感じて、その束縛を脱することを全身全霊で望まないことには、脱出の道も現われない。そのことは、筆者が他の人たちを観察して常に感じて来たことだ。残念ながら、何と多くの人たちが、本来は、とうに脱しているべき劣悪な環境に自らとどまろうとすることか。多くの人たちは、束縛を振り払って自由になることよりも、かえって束縛に自分を合わせて自分の願いを切り取ることを願う。

信仰の成長も基本的にはそれと同じである。自分を悩ませたり、苦しめたり、束縛している問題に、一つ一つ、根気強く向き合って、神が約束しておられる自由と解放とは何なのかを思い巡らし、ふさわしい解決、ふさわしい解放、ふさわしい達成を自ら願い求めて、より完全なものへ向かって、一歩、一歩、階段を上るようにして、そこへ到達して行こうとする試みなしには、一足飛びにいきなり何かしら高度な達成へ至りつくことは決してない。自分が不当に束縛されているのに、それを束縛とも思わず、他者の同情を得る手段として利用したり、解放される必要があるのに、自分はすでに自由だなどと豪語して、問題と向き合うことなく、自分を偽っていれば、そこから一歩たりとも成長しないのは当然である。

かつて、ある信者が筆者に向かってこう言ったのを思い出す、「ヴィオロンさん、私があなたについて評価するのは、あなたの望みの高さです。現状だけを見て比べれば、今、あなたよりもはるかにましな状態、ましな環境にあり、はるかに成功しているように見える人たちはたくさんいるでしょう。でも、私が、あなたが他の人たちと違うと思うところは、あなたの望みの高さなのです。望みこそ、人の最終的な到達点を決めるものであって、現状がどうあるかは関係ありません。あなたには非常に高い望みがある。誰にも見られないほどの高い望みがある。だから、私はあなたに期待するのです。」

筆者は今、神以外の誰からも「期待している」と言われて喜ぶことはきっとないだろうと思う。人の評価ほど当てにならないものはなく、他人の期待に応えることが筆者の責務でもないからだ。だが、それでも、以上のような意見には、依然として耳を貸すべき部分があって、誰しも望みは高く持つべきだと考えている。特に、信仰者はそうだ。我らの望みは、キリストなのだから、まさに最高の最高の望みである。この最高の方を信じ、その方が共におられるにも関わらず、どうして我々が自分の人生について望みを高く持っていけない理由があるだろうか。そして、神がその願いを喜んで下さると信じない理由があるだろうか。

人は何を望み、何を現実だと思い、何を信じるかによって、その歩みは全く変わってしまう。不誠実な友に満足し、束縛があっても束縛とも思わず、モラルの欠ける状況に自ら甘んじたり、受けた苦難のゆえに、ただ苦々しい思いだけを心に抱いて、憤りや失意や悲しみに暮れて生きるのは容易である。自分は被害者だと主張して、途方に暮れたり、他者を責め続けるのも容易である。しかしながら、どんな出来事であれ、遭遇した出来事を、さらに高い到達点を目指すきっかけとし、より真実なもの、より確かなもの、より完全なものを見いだし、決して失われることのない希望と栄光に達するきっかけとしたいと心から願い、実際に、その栄光に至りつくことも可能なのだと、筆者は信じてやまない。なぜなら、より良い環境、より良い条件、より良い対象に出会いたいという願い、より真実な、決して変わることのない完全なもの、最良のものに出会いたいという人の願いを、神は決して笑うことなく、常に重んじて下さるからだ。神は筆者を常にその願いに従って、実際に願いの実現へと導いて下さったのであり、最善、最良のものを願い続ける人の望みは、最終的には、人を必ず神に向かわせる。神はご自分が完全な方であられるがゆえに、完全を求める人の願いをも重んじて下さるのである。

もう一度書いておくと、キリスト者には、しばしば自分を低めることに同意すべき時があるが、それは決して信者が自分で自分を卑しめるべきということではない。むしろ、信者はどんな限界や束縛の中にあっても、御言葉に基づいて、常に大胆に自由を目指すべきであり、神がキリストにあって約束して下さっている絶大な自由の価値を決して忘れるべきではない。謙虚さと卑屈さとは全く異なる別の事柄である。信者は、心の望みは、どんなことがあっても、決して自ら低めてはいけない。現状がどうあれ、信者の人生は、信仰を通して、心の望みに従って、形作られて行くからである。 「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)と聖書に書かれている通りである。

2017年3月20日 (月)

十字架の死と復活の原則―カルバリに住む―権勢によらず、能力によらず、ただ神の霊によって生きる―

愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃え盛る火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。

もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。」(Ⅰペテロ4:12-14)

* * *

キリスト者は荒野の中で泉を探して地中を深く掘り続けているうちに、ついに願っているものに達した。神が信じる者のために用意して下さった尽きることのない命の水脈を発見したのである。

そこで、次なる課題は、灌漑設備を作り、命の水を荒れ果てた大地に広く流れさせ、土地を潤し、再生させるための装置を建設することにある。

生ける水の川々が流れだす秘訣は、十字架の死と復活にこそある。

キリスト者が自己を否んで十字架を負う時、そこに復活の法則が働く。信者は束の間、低められても、それがまるで嘘だったかのように、高く引き上げられ、重い栄光に満ちた瞬間を見る。

日々、主にあって、ほんの少しの軽い患難を負い、自分が低められることや、誤解されたり、栄光を奪われることに同意し、常に何者かでありたいと願って、人前に栄誉を受けようとする自己の願望を退け、十字架の死を負うならば、信者が自分自身で「何者かになろう」と努力する代わりに、主が信じる者を高く引き上げて、願っておられるところに到達させて下さる。人間の願いではなく、神が願っておられることが何であるかを見せて、実現して下さる。その時、多くの場合、信者一人だけでなく、信者を通して、多くの人々が潤されることになる。

この復活の命の現われこそ、御座から流れる生ける水の川々である。

* * *

ウォッチマン・ニーは、クリスチャンが生ける水を流し出す秘訣を「血の高速道路」と呼んだ。

血の高速道路とは、何ともすさまじい表現ではないだろうか。十字架が、文字通り、剣のように、クリスチャンの自己を貫き通し、刺し通すという意味である。つまり、主にあって真に祝福を得たいと願い、主と共に栄光を見たいと思うなら、その信者は、主と共に十字架を負い、自分が低められることに同意しなければならない。キリスト者の自己が裂かれた分だけ、生ける命の水の川々が、そのキリスト者自身から流れ出すのである。

その血がにじむほどの、いや、血が噴き出るほどの苦しみが、高速道路と表現されているのである。おそらく、それは他者がそのキリスト者の栄光を奪い、彼を踏みつけて、その上を走って行くことにも同意せよ、という意味であろう。

これはある意味、キリスト者が主にあって負うべき苦しみの極致を示していると言える。最終的には殉教を指している。

しかしながら、クリスチャンは殉教といった巨大なスケールに達するよりも前に、これをもっとごく小さなスケールで繰り返して生きており、日々、信者が神の国の義のために、神への愛のために、他者への愛のために、人知れず自分を裂き、注ぎだした分だけ、そこに命の法則が働くというのは確かな法則なのである。

ところで、殉教といった言葉を聞くと、必ず、反発する人たちが現れる。そういう考えはカルト思考だというのである。しかしながら、聖書の神は、願ってもいない人たちに、殉教を強制されるようなことは絶対にない。だから、クリスチャンが神のために死を強いられているなどといった考えは全く正しいものではない。たとえば、かつての日本がそうであったように、皇国史観に基づいて天皇のために国民に強制された死と、クリスチャンの殉教を並べて論じるのは正しいことではない。

キリスト者が日々、主と共に負っている十字架は、あくまで霊的な文脈であり、信仰によって、信者が自主的に同意して成るものである。そして、キリストを信じる者にとって、十字架の死は、決して死で終わることなく、復活という、実に栄光に満ちた事実と分かちがたく一つである。人間に過ぎない君主のために命を捧げても、何の見返りもないであろうし、それは人情の観点からは讃えられても、何も生み出すことのない無駄な犠牲でしかない。

だが、キリストはまだ我々が罪人であり、背く者であった時に、我々のために十字架でご自分の命を与えて下さったのであり、我々はそのまことの、永遠の命にあずかり、その命をこの地上に流し出し、主と共に天で永遠の栄光を受けるためにこそ、カルバリの十字架に自分を重ね、日々、主と共に自分が死んだことを認め、彼の死に自分を同形化するのである。

クリスチャンは、こうして日々、主と共に死を負うことにより、苦しみが苦しみで終わらず、患難が患難で終わらず、死が死で終わらず、御名のゆえに負った苦難には、どんな小さなものであれ、必ず、絶大な命の法則が働くことを実際の体験を通して知っている。

筆者もまた十字架の死と復活の法則が確かなものであることを、日々、自分の意志によって試しており、そこに相応の成果を見ているので、このやり方に間違いはないと確信している。

信仰の初歩においては、信者は殉教などといったテーマを考えることなく、日々の小さな十字架から始めるのが良いだろう。そうしているうちに、最終的にもっと大きなスケールの試練にも耐えうる力が養われる。

だが、信仰者にとって、一体、何が主の御名のゆえに負う「十字架」であるのか、一体、何が後々、天の栄光に満ちた益をもたらす土台となりうる苦難なのかは、人間的な観点からは、はっきりとは分からず、見分けがたいとしか言いようがない。

たとえば、人の目から見て、空振りや、無駄でしかないと見える様々な事柄、もっとうまくやりさえすれば、時間を短縮して、浪費を少なく出来たはずなのにと後悔するような出来事であっても、あるいは、みっともない恥だ、失敗だ、と思われるような出来事さえも、信仰の観点からは、損失でないばかりか、後々、えもいわれぬ大きな収穫を生み出す土台となることもあり得るのだ。おそらく、神の観点から見て、信者が御名によって耐えた全ての試練に、無駄というものはないのではないかと思われてならない。

たとえば、筆者は、ある年末年始の休日に、歯痛に襲われ(実際には一時的なストレスから来るもので病気ではなかったのだが)診療所を探して行ってみた。すると、祝日にも関わらず、待合室は大混雑して、長蛇の列ができており、待ち時間が一時間以上に渡り、パイプ椅子が並べられていたにも関わらず、数が足りず、子連れの親も数多く来て騒がしかった上に、診療それ自体も、決して良い雰囲気ではなく、結局、大した治療もできず、しかも病気でもないことが判明し、筆者は疲労だけを手に完全な無駄足だったと思いながら帰途に着いたという出来事があった。

ところが、その後まもなく、実に不思議ないきさつで、その診療所のすぐ近くに拠点を構えるある企業に仕事上でお世話になる機会を得たのであった。筆者が無駄足だったと思いながら、疲れて帰途に着いている時には、そのような縁が生まれることを予測せず、地上で誰一人、そのようなことが起きると知る者もなく、筆者自身も、その会社組織の存在さえ知らなかったが、今となっては、歯科医を探してその場所へ赴いたこと自体が、まるで未来へ向けての下見のようであった。神はそのような全くの無駄に見える出来事の中にさえ、しっかり働いておられ、不思議な形で、この出来事を新たな有効な出会いへと結びつけて下さり、筆者と共に生きて働いて下さっていたのである。この話には後日談もあるのだが、それはまたの機会にしよう。

さて、筆者は、キリストの復活の命に生きるために、何年も前にこの土地へやって来たのだが、長い間、悪魔の巧妙な策略のために、生ける水の川々を流れさせる法則をうまく掴めないでいた。

それは、かつて筆者の周りにいたクリスチャンたちの間では、主のために信者がすすんで負うべき苦しみについて、ほとんど語られなかったせいでもある。あるいは、語られることはあっても、実践されなかったのである。

その当時、筆者を取り巻いていた交わりでは、信仰者が主のために苦しむこと、いわれなき苦難を負うこと、主のために損失や、恥や、無駄を負うことについては、何か時代遅れの気まずい話題のように避けられ、信者が神を信じたことによって得られる祝福や恵みばかりが強調されていた。

信者たちは、仲間内で、自分が神に愛されている者として、他の人々には与えられない優れた祝福にあずかり、どれほど幸福に生きているかというイメージを演出することを、一種のお約束事のようにしていた。そうすることで、彼らは自分たちが他の信者たちの及ばない霊的高みに達している証拠のように誇示していたのである。

だが、筆者はこれにいたく疑問を感じていた。筆者はもともと世故に長けて器用に立ち回ることによって、己が力で人生の成功者となりうるような才覚の持ち主ではなく(もしそんな才覚が生まれつきあれば、自己過信して、神を求めることもなく、キリストに出会うこともなく、信仰を持つこともなかったであろうから、そのような手練手管を持たなかったのは、極めて幸いなことであり、また、それが神の筆者への特別なはからいであり、愛に満ちた恵みであることを疑わないが)、さらに、確固たる信仰を持つよりも前から、筆者はそのような地上的な成功を目指して生きることに、何の意味をも感じていなかったので、人生の成功だけを全ての価値のようにみなすこの世の不信者の社会においてならばともかく、信仰者の社会においてまで、自分が「上手に器用に立ち回って失敗を避け、そつなく生きている成功者」であり、「霊的勝ち組」であるかのようなイメージを演出して自己の成功を誇る空気には、全く同意できなかった。

そのため、仲間内で器用に立ち回って賞賛を浴び、他人の名誉が傷つけられても一向に平気であるにも関わらず、自分の名誉が傷つけられることだけには敏感で、それが起きないように先手を打ち、あるいは自分に歯向かう者には策謀を巡らして徹底的に報復し、自分だけは人と違って高みにいて幸福だと豪語して、他者の苦しみを高慢に見下す周りのクリスチャンたち(?)(おそらく彼らはクリスチャンとは呼べまいが)のあからさまな自慢話を聞かされる度に、筆者は首をかしげ、悩まされ、苦しめられていた。

幾度か、彼らのあまりの自画自賛のひどさに耐えきれず、それとなく間違いを指摘してみたこともあったが、しかしながら、いかなる説得によっても、彼らの強烈な思い込みを変えることは無理であった。

ついに最後には、筆者と彼らとの生き様や信仰的な立場の違いは、否定しようにも否定し得ないほどの大きな溝となり、彼らから見れば、筆者の存在自体が、彼らのままごと遊びのようなお楽しみの括弧つきの「信仰生活」に水を差すもの、彼らの虚飾の栄誉をいたく傷つけるものでしかないと感じられたのだろう。彼らは、すでに上流階級の特権的社交界クラブと化していた彼らの偽りのソサエティから、筆者を似つかわしくないメンバーとして除外したのであった。(ただ除外しただけでなく、相当な報復をも加えたのである。)

筆者は、彼らの進んでいる方向が、根本的に聖書に相違する間違ったものであることを随分前からよく分かっていたので、そのような結末に至ることを予想済みであったが、何とかその結末を食い止めて、彼らを真実な道に立ち戻らせることができないかと当時は思っていたので、その願いにも関わらず、目の前にいる生きた人間から排斥され、残念と思われる結果に至ったことに、何の痛みも感じなかったわけではない。

だが、その体験は、主にあって、筆者の人生でまことに幸いな実を結び、大きな恵みを受けることへとつながった。それからほどなくして、筆者は自分が神に出会って後、心から正しいと確信していた通りの、聖書に基づく、純粋で素朴な信仰生活に何の妨げもなく平穏に立ち戻ることができただけでなく、まがいものの交わりの代わりに、もっと親しく愛情に満ちた豊かな交わりに加えられ、人生の別な方面においても、収穫を得たのである。

その後も、色々なところで、類似した出来事が繰り返された。誤解や、非難や、対立や、排斥といった出来事は、往々にして起きて来るものであり、クリスチャンと呼ばれる人々の中では、特に、激しい戦いが常に起こるものであるが(なぜなら、真に聖書の御言葉を実践して、神に忠実に従う信者は、クリスチャンを名乗る者の中にも、極めて稀だからである)、今、思うことは、信者がそういった何かしらの尋常でない苦しみや痛みを伴う事件に遭遇し、人の誤解や、非難や、嘲笑、排斥に遭遇し、慣れ親しんだコミュニティを離れることがあったとしても、そのような出来事のせいで、傷ついたり、落胆する必要は全くないということである。

むしろ、信者が地上において、主に忠実に従うがゆえに、人からの拒絶を受ける時には、常にほどなくして、それに相応する天の栄光が待ち構えていると言って良いから、それを待ち望むくらいでちょうど良いのである。信者が主に従う過程で負った苦しみには、どんなものであれ、必ず、天での報いが伴う。

だから、信者は、人間に過ぎない者たちの言い分や、人の思惑に振り回される必要がなく、また、自分の地上生活における苦しみだけに注目して、落胆したりする必要もなく、それとセットになって天に備えられている絶大な栄光に思いを馳せ、神が地上の軽い患難と引き換えにどのような大きな喜びをもたらされるのか、それだけを心に留めて進んで行くべきなのである。

繰り返すが、信者が地上でいわれなき苦難を黙って身に背負うとき、神はその信者の態度をよく見て下さり、信者のどんな些細な苦しみに対しても、予想だにしない大きな祝福を備えて待っていて下さる。

むしろ、そのようにして、自分が地上で低められ、恥を負うことによって、十字架の死を負う態度がなければ、信者はキリストの死に同形化されることができず、キリストの死に同形化されていない者が、キリストの復活に同形化されることは決してない。

つまり、信者が主と共に十字架を負うことに同意しない限り、その者に神の復活の命の現われが見出されることもないのである。主の死を共に負わない信者が、キリストと一つであると豪語するのは、嘘であり、悪魔の罠でしかない。主の死に同形化されずに、主の復活にあずかろうとする者は、神に従うどころか、逆に悪魔と同じ高慢さに落ちて行くことになる。これは大変恐ろしい罠である。

聖書ははっきりと告げている、「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:14)。これは世人のみならず、まさにクリスチャンを名乗る人々にも同様に当てはまる事柄である。

いのちに至るための小さな門、狭い道とは、主と共なる十字架の死のことである。主と共に、人前に蔑みや、排斥や、そしりを負い、自分で自分を高く掲げないことである。もし神の御前で高くされたいなら、その人は、まず低くされることに同意しなければならない。神と人との前に真に賞賛に値する者とされたいならば、まず、人前に低められ、誤解されたり、そしられたり、嘲られたり、のけ者にされたり、拒まれ、栄光を奪われ、無とされることに同意しなければならない。その経緯を辿って初めて、天の栄光にあずかることができるのである。

筆者がしばらくの間、生ける命の水の川々を流し出す秘訣を十分に知らずにいたのは、この絶えざる十字架の死こそ、復活の命の現われであると、まだはっきりと気づいていなかったためである。信者の信仰生活につきものである苦難を驚き怪しむどころかこれを積極的にキリストの苦しみにあずかる機会として用い、御名のゆえに、自己を余すところなく十字架の死に渡すことが、どれほど絶大な喜びへとつながるか、まだ具体的に十分には知ってはいなかったためである。
 
クリスチャンになってまで、主のための苦しみを避け、自分が人生の成功者であり、失敗や痛み苦しみとは一切無縁であるというイメージを醸し出しては、それを神の恵みと称して、人前に誇っているような人々は、ただ自分の生まれ持った肉の力を誇っているだけである。だが、人が生まれ持った人間的な手練手管によっては、誰も、神が信じる者のために備えて下さっている天の栄光にあずかることはできない。

旧約聖書に登場するヤコブは、自分の手練手管により、兄であるエサウを出し抜いて、長子の権を奪うことには成功したが、その後、彼より上手だったラバンからしたたかに利用され、つらい様々な紆余曲折を経なければならなかった。ヨセフは、父のお気に入りの息子として、他の兄弟たちにまさって親の愛を受け、自分が将来、兄たちの上に立つ支配者になることを幼い頃から予感していたが、その栄光に満ちた召しへたどり着くためには、兄弟たちに裏切られて、奴隷として売られ、家からも親の愛からも遠く引き離されねばならず、さらには使用人として仕えていた家でも、主人の妻の偽りの証言がもとになって、いわれなく投獄されたり、相当につらい体験を味わわなければならなかった。モーセも、エジプトの王子として育てられ、言葉にもわざにも力があったが、イスラエルの民をくびきから解放するという光栄な召しを果たすために、神によって指導者として立たされるまで、長い間の失意の逃亡生活を耐えなければならなかった。

待望の息子が生まれるまでに肉の力が尽きるまで待たされたアブラハムとサラは言うに及ばず、このようにして、天の栄光が信者に現れるためには、必ず、信者が地上で低められるという過程がなければならない。それによって、信者が生まれ持った肉の力が尽き、どんなに生まれつき才覚のある人間でも、もはや自分自身の力で自分を高く上げることができなくなったときに、信仰によって、神の力がその人に臨み、人間の努力や才覚によらず、ただ神の霊により、神の御言葉により、その信者を通して、神のご計画が成就し、信じる者がキリストと共に高く上げられるということが起きるのである。

筆者は、20世紀に地上の人間として生まれ、人間としての常識を持っているために、さまざまな問題が持ち上がる時、人間的な観点から、常識に従って、その解決方法を考えないわけではない。時には、専門家と呼ばれる人々に助けを求めたことがなかったわけではない。ヨセフがポテパルの妻の讒言が災いして投獄されていた時、一刻も早く釈放されたい願いから、他の囚人に助けを求めたように、人間の助言や力に頼ろうとしたこともないわけではない。だが、そういう方法では、決まって問題が解決せず、かえってこじれることの方が多いということを、筆者は思い知らされて来た。

つまり、神が信者のために供えられた苦難に対しては、神が定められた方法でしか、解決が与えられないのである。そして、その解決とは、人間の力によらず、ただ神の御言葉から来る。

人間は、自分の体に不調があれば、医者にかかれば治ると思うかも知れない。それがこの世の常識である。だが、結局、医者ができることなど限られており、人間の体を健康に戻す最大の力とは、その人の生命それ自体に備わった自然の治癒力にこそある。そして、しばしば医者の助言は、患者にとって極めて有害なものともなりうる。たとえ大手術をしても、手術が患者を救うのではなく、その手術から回復する力がなければ、むしろ、手術自体が命取りになりかねない。そして、本当に必要な手術でない手術も、病院では「治療」と称して極めて多く行われている。

人間が生まれ持ったアダムの命の治癒力には限界があるが、この治癒力を他のどんなものよりも効果的かつ完全に発揮できるのは、キリストの復活の命である。そこで、キリストの復活の命を持っているということは、その信者が、あらゆる問題を、主と共に、自らの力で解決することができる立場に立っていることを意味する。

同様のことは、病気だけでなく、人間が遭遇するあらゆる問題に共通する。何かしらのこじれた問題が起きれば、人は弁護士のもとを尋ねたり、裁判所に赴いたり、警察に赴いたりすれば、解決が早まると信じるかも知れない。だが、その問題を解決する力は、そのような識者や専門家にはなく、その人自身の霊的な状態と思考力、その人自身の判断力、交渉力、決断力にこそある。

だから、筆者は、今となっては、様々な問題が発生する時に、その解決を、この世のどんな「専門家」に委ねようとも思わない。そのような人々に接近して、自分の問題解決を委ねた信者たちがいることは知っているが、彼らの末路は決して明るいものではなかったとはっきり言える。

幾度も述べて来たように、医者に頼る者は、不安を煽られて、切除しなくても良い臓器まで切り取られて健康を失い、裁判に頼る者、警察に頼る者は、信仰の道から逸れて、人間のプライドを立てるためだけの終わりなき闘争に引きずり込まれて行った。

神は筆者に対して、そのような方法を決してお許しにならなかった。そこには何か目に見えない線引きがあって、他の人たちにはできることが、筆者には許されず、神ご自身がはっきりとそれ以上、その道を進んで行ってはならないと、ストップをかけられるのである。つまり、人間的な力を用いて、自分の名誉や権利を力づくで取り返そうとすることを、神は決して筆者にはお許しにならない。これは極めて厳粛な線引きである。そして、このような神の知恵と守りがなければ、信仰の道から脱落した他の信者たちと同様、筆者も誤った道に容易に足を取られていたであろう。

神は筆者に対してこのように語られる、「ある人々は、自分の名誉が傷つけられれば、徹底的に相手に報復することで、自分が潔白であると主張しようとするでしょう。そのためならば、他人に濡れ衣を着せて告発したり、有罪に追い込み、悪口を触れ回ることをも辞さないでしょう。しかし、あなたはそのような人たちが、自己を守るために引き起こしている絶え間ない争いを見て、それを美しいと思うでしょうか。そこに栄光を見るでしょうか。むしろ、その反対ではないでしょうか。

クリスチャンとは、人を罪に定めるために召された存在ではなく、神の和解と赦しを勧めるために召されたのです。人を告発し、罪に定める仕事よりも、人に罪の赦しを宣べ伝え、解放を告げる召しの方が、どれほど栄光に満ちた、名誉ある、感謝される仕事であると思いますか。どちらがあなたに栄光をもたらす仕事だと思いますか。あの不正な管理人のたとえ(ルカ16:1~13)を思い出しなさい。

だからこそ、信者には、この召しの実行のために、人前に甘んじて不義を受けるという態度が必要なのです。私があなたの義である限り、あなたの潔白はゆるぎません。誰もあなたを再び罪に定めることのできる存在はありません。しかし、私はあえて私の愛と栄光を、信じる者たちを通して地上に現したいのですよ。そのために、あなた方に、反抗する罪人たちに、終日手を差し伸べる者となって、私の耐えた苦しみを、あなた方にも共に背負ってもらいたいのです。私が神であるにも関わらず、その栄光を捨てて地上に弱い人間として生き、その中でも最大の恥辱を負って十字架にかけられることを辞さなかったように、その愛にあなた方もならって、地上で自分を低くすることで得られる天の栄誉の大きさをを共に知ってもらいたいのです。それによってしか、私の栄光をあなた方が共に得ることはできないのです。」

だから、信者は、どんな瞬間にも、自分は主と共にすでに死んでいることを思い、日々、人生に起きて来る、ごく些細な苦しみに同意して、神の御前に自分を低めることによって、ただ神だけがなしうる不思議な方法で、その些細な苦しみと引き換えに、それとは比べものにならないほどの、絶大な天の栄光が与えられるのを確認するのである。

信者にとって真のリアリティは、苦しみではなく、それと引き換えにもたらされる天の栄光である。地上的な試練は、ほんの束の間に過ぎ去るものでしかない。たとえば、車の運転をするときに、障害物だけを見つめて運転していたのでは危険であろう。また、障害物が現れたからと言って、それを迂回せず、無理やりどけてから進むという者はいないだろう。そんなやり方では1mも前進はできない。

同じように、信者の信仰生活には、様々な「試練」や「苦難」や「障害物」が現れて来るが、信者はそれを見つめず、あくまで進むべき進路だけを見つめ、道の先に待っているもの、目指している目的地だけをまっすぐに見つめるのである。それが天の都、信者が主と共にあずかるはかりしれない永遠の重い栄光である。

多くの信者たちは、障害物がリアリティだと思い込んでしまうので、そこでつまずいて前に進めなくなってしまう。自分が傷つけられ、栄誉を奪われれば、取り返さねばならないと思い、目の前に何か大きな障害が立ちはだかって、前進が妨げられているように見えるときには、その問題を解決しない限り、前に進めないと思い、主と共に解決を落ち着いて考えようともせずに、苦しみから早く逃れようと、不安を煽られて、専門家のもとを闇雲に走り回り、無用な忠告を受けて道に迷わされ、さらに問題をこじらせてしまう。人間的な力で物事を正そうとするがゆえに、御言葉を退け、十字架につまずいて、前に進めなくなってしまう。そして、もっと悪いことには、それをきっかけに、信仰から逸れて行ってしまう者も多い。

覚えておかなければならないのは、信者の人生に、主と共に信者が自分で乗り越えられないような障害物は、地上に何一つ存在しないということである。障害物を絶やすことは、信者の力ではできず、それらをすべて力づくで除去することもできない。必要なのは、障害物は進路ではなく、注意を払うべき対象でもなく、さらには現実でもないことを認識して、真にリアリティである方から目をそらさずに、まっすぐに前だけを見て進む方法を見つけることである。間違っても、障害物を除去するまでは前進できないなどと誤解してはならない。

信者が障害物を乗り越える方法は、その時々によって様々である。人間的な手練手管によって、上手に迂回することはほとんどの場合は無理である。むしろ、人間的な力や策謀によらない、実に不思議な方法によって、神はそれを乗り越える方法を信者に示して下さる。それが、御言葉が信者の人生において実際になるということである。障害物は、最初は巨大な壁のように見えても、信仰によって進んで行くうちに、いつの間にか、それは全くリアリティではないこと、すでにキリストによって打ち破られて、効力を失っており、注目に値しないことが分かる。信者に障害物だけを見させて、前進を忘れさせるのが、悪魔の目的なのである。

地上にどんなに障害物が多く現れても、キリスト者にとって、道がなくなることはない。道とはキリストである。この方だけが真のリアリティである。だから、信者はこの方だけを見つめ、他のものから目をそらすのである。すべてのすべてであられる方が自分と共におられ、すべての解決であられる方が、自分の内に住んで下さっていることを確信し、地上で何が起ころうと、それに心を留めず、自分の目の前に置かれた喜びだけをまっすぐに見つめて、天の栄光だけを信じてまっすぐに進むのである。

「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」(マルコ5:34)と、主イエスが言われたように、信者が信仰によって目を注ぎ、心に思い、それがリアリティだと思って見つめるものが、現実になるのである。あなたにとっての現実とは何だろうか。病が現実なのであろうか。障害が現実なのであろうか。苦難が現実なのであろうか。はたまた、不幸な過去や、嘆かわしい生い立ちや、過去の失敗や、恥や、不完全な自分自身や、人の身勝手な思惑や、いわれなき讒言や、迫害や、傷つけられた自己の名誉やプライドが現実なのであろうか。

仮にそういうものがどれほど数多くあったとしても、神はあなたにとってそういうものを解決できないほどまでに弱々しい存在なのであろうか。あなたは一体、何を現実として選び取るのか。人の弱さや不完全さの中にこそ、神の強さと完全が生きて働くという幸いな事実を見ることができるだろうか。信者が地上において御名のゆえに負うすべての苦しみは、信者を通して、神の栄光が現されるためのほんの些細なきっかけでしかないという幸いな事実を見ることができるであろうか。

「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。
患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。


「あなたのために、私たちは一日中、

死に定められている。
私たちは、ほふられる羊とみなされた。」
と書いてあるとおりです。」

しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威あるものも、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:35-39)
   
    

2017年3月 5日 (日)

十字架の死のと復活の原則――信者のからだの命でもあるキリスト――ただキリストの復活の命によってすべての必要を満たされて生きる

ですから、私はあなたがたに、食事をとることを勧めます。これであなたがたは助かることになるのです。あなたがたの頭から髪一筋も失われることはありません。」(使徒27:34)

「しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕えて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。

それはあなたがたのあかしをする機会となります。
それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。
どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。

しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もあり、わたしの名のために、みなの者に憎まれます。
しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。
あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。」(ルカ21:12-18)

かつて巨大なエクソダスが起き、筆者が初めてキリストの十字架の死と復活に同形化されることの意味を知った時の出来事を思い返している。というのは、それとほぼよく似た体験をつい最近もしたばかりだからである。

一つ前の記事において、神から信者への御言葉による光の照らしを筆者はレントゲン写真にたとえたが、これは少しばかり不適切なたとえかも知れないと思う。なぜなら、神による照らしは、レントゲンのように有害な放射線によらず、また、我々が自分を吟味していただくお方も、あくまで神であって、目に見える誰か人間に向かって客観的に自分の状態を確認してもらうことが目的ではないからである。

以前、筆者は、獣医の誤診によってさんざん無益な狂奔をさせられた事件について書いたことがあるが、医者という存在は、どこかしら牧師にもよく似ていて、もしも自分の体のことを自分で管理できない不安を抱く患者が安易に助けを求めるならば、医師たちは、そのような患者をあたかも問題から助けてやるかのように見せかけながら、さらにその問題を悪化させ、よりひどい依存状態へとがんじがらめにして行くということが、全くないわけではない。

だから、キリスト者が頼るべきは、人間の医師ではなく、まことの医師たるキリストであって、キリスト者を生かす命は、人間による外科治療や薬による外的影響力ではなく、内側から働くキリストのまことの命なのである。キリスト者が受けるべき検査は、人体に有害な人工的な光の外側からの照射による検査ではなく、神の無害な御言葉の光の内側からの照射による検査である。

前回の記事で、筆者は『キリスト者の標準』を引用しながら、ウォッチマン・ニーが憔悴状態にあった時の体験に触れたが、彼には何かしらの持病があったらしく、それが悪化した際に、一度は重篤な状態に陥り、兄弟姉妹からも命を危ぶまれ、診察した医師からも、余命いくばくもないと宣告されたことがあるそうである。その体験を、筆者は別な著書で読んだ。だが、ニーはその時、息も絶え絶えの病の床で、医師から受けた死の宣告を、信仰によって拒否し、そして、実際に彼は奇跡的な回復を遂げるのだが、それからしばらく経って、たまたま読んだ新聞の死亡欄に、自分を診察した医師の名前を見つけ、神は生きておられると痛感した、というくだりがあったと記憶している。

筆者もそれにかなりの部分で同意する。筆者は、信者が医学的な治療や、薬や、検査を一切拒否すべきとまで言うつもりはないが、極力、そのようなものは受けないに越したことはないと考える。そういったものに頼って自分の健康を維持しようとすることは常に失敗に終わる。

たとえば、誰しも分かるように、薬などによって症状が抑えられるのは、ほんの一時的な間でしかない。たとえどんなに小さな傷であっても、患者の体自身に受けたダメージから根本的に治癒する力がなければ、患者が薬を飲み辞めた時点で、また症状が再発するだけなのだ。そのように外側からの影響力に頼って、人間が自分の状態をごまかそうとすることは、回復というよりも、目くらましに近い。薬のせいで、傷があるという事実が忘れられ、さらに、傷が治らないか、あるいは治る見込みが薄ければ、今度は、外科治療によって体の部位ごと切除しましょうという話になる。医師たちから見れば、それこそ「治療」である。だが、もし患者がそれに同意すれば、患者は最初に受けたダメージよりも、はるかに大きなものを永久に失わなければならなくなる。体に必要な部位を切除すれば、体に必要な器官がなくなるわけだから、その悪影響は、何年後かにまた必ず現れて来る。一つの症状は治まっても、今度は体の部位がなくなったことから来る弊害のための「治療」が必要になるのである。

だから、信者は、このような無限ループのようなごまかしに近い療法で満足するのではなく、根本的な原因は何かというところに目を向けて、目くらましの治療ではごまかせないもっと深いレベルまでで、人間ではなく、神によって根本的な治療をしていただかなければならない。人間は常に外からの影響力に頼って問題の本質をごまかし、なおかつ、人間の肉眼で見える証拠しか採用しないので、しばしば判断を間違うが、神はキリストを通して、人間を内側から生かすことのできるまことの命をお与えになっているのであって、その診断は決して間違うことなく、その命は、患者をいかなる外的影響力にも依存させずに自ら立ち直らせる力のあるものである。

キリスト者には、地上で様々な圧迫や苦しみが起きて来ること自体は避けられない。どんなにすべての思い煩いを神に委ねているとしても、色々な出来事に対処を求められる過程で、また特にサタンによって引き起こされる様々な問題に立ち向かう上で、極度の憔悴や、疲労困憊に追い込まれることは実際にないとは言えない。だが、信者がそのような圧迫によって起きた状態を、「取り返しのつかない現実」であると考えて、死や、損失を、避けがたいものとして受け入れるか、もしくはそれに信仰に立って徹底的に抵抗して、信仰によってその損失を拒否し、命を選び取るかどうかは、あくまで本人の選択による。

キリスト者はその生だけでなく、死によっても、神を証すべき存在であり、殉教と、サタンの攻撃や不摂生の結果として起きただけの病死や、もしくは老衰などによる死は、決して同列に論じるべき事柄ではない。アブラハムや、モーセがそうであったように、信者は老いてもますます神の命によって支えられ、輝かされるくらいでなければ普通とは言えない。病についても同じことが言える。信者の歩む道は自然の法則によるものではないのである。

だから、もし抵抗できるなら、信者は最後の瞬間まで、病や、圧迫や、死を拒んで、いのちを選び取るべきなのである。それはただ自分が苦しみたくないとか、死にたくないといった自己中心な利益を求めてなされる抵抗ではなく、もしキリストの御名のためならば、いつでも死を辞さない覚悟はあるが、それでも、キリストの死を打ち破った命が、人間をすべての圧迫から救い出すことができ、神は人に死ではなく命を与えるためにこそ人を創造されたのだと、天地の前で生きて証明するために堅く信仰に立って抵抗し続けるのである。

キリストのまことの命が信者を生かすようになると、信者の内側に未だかつてない新たな確信が生まれると共に、信者の滅びゆく肉体の幕屋にも新たなエネルギーが注がれる。

キリストの十字架の死と復活に信者があずかることは、信者の生涯で決して一度では終わらない体験であり、この原則は、信者の人生に極めてダイナミックな出来事の形を通して適用されることもあれば、そうでないもっと些細な出来事によって適用されることもある。

だが、表面的な見え方がどのように違えど、地上におけるごくごく軽い患難を通して、永遠の重い栄光にあずかることは、信者の生涯に渡る絶え間ない体験である。 文字通り、自分が地上で受けるすべての悩み苦しみについて、信者はこの原則を適用することができるのである。

ごくごく最近も似たような体験をしたばかりなので、改めて書いておくと、筆者が、2009年当時に初めてキリストの復活の新しい命が自分を生かしていることを知った時に、真っ先に感じたことは、このまことの命は、たとえ地球が七回核爆弾で滅んでも、それでも滅びないほどまでにとてつもない力を持つ命だ、ということであった。 つまり、この物質世界で起きるどんな脅威をも打ち破るほどの、何かしらのとてつもないエネルギーをもたらす新たな強力な命が、自分自身の力には全くよらずに、自分の内側に存在することを感じたのである。

次に、理解できたのは、こうして信仰によって新しく与えられた御子の復活の命が、筆者自身の脆く弱く朽ちゆくはかない有限な肉体の幕屋にも、絶えずエネルギーを送り込む主電源となっている、ということであった。

当時を思い返すと、十字架の死が霊的に適用されるまでの間に起きた様々な圧迫のせいで、筆者はかなり憔悴していた。その当時はまだ、十字架の死と復活が信者に適用される直前には、多々そのような予期せぬ圧迫が起こることを知らなかったので、多くの出来事が不意打ちのように感じられ、そのために翻弄され、悲しんだり、悩んだりしたせいで、心身が極度に憔悴していたのである。

ところが、主の死に霊的に同形化され、よみがえりにも同形化されると、キリストの復活の命が、はっきりと自分自身の中で働きを始めたのが分かり、そして、その瞬間を境に、それまで死に向かって処刑台を行進させられる囚人のように憔悴の一途を辿っていた心身が解放され、肉体は強められて健康に回復され、疲弊していた魂は新たなエネルギーを得て生き生きとし、生きた人間として自分がまるごと刷新され、活性化されたのが分かるのである。

サタンの圧迫によって苦しめられたり意気消沈していた魂はたちまち健康を取り戻し、体には食欲の増進が起き、あらゆる食べ物が極めて美味に感じられ、体がそれまでの霊的死のために通らねばならなかった疲労状態から回復するために、急速にエネルギーを回復している様子が分かった。だが、それは決して病的な傾向ではなく、真に健康であるがゆえに、食事を楽しむことができるという幸福なのである。そして、採った食べ物が、どんなストレスにも妨げられることなく、体を生かすための栄養源になるという幸福な状態なのである。

幾度も書いている通り、信者の人生には、しばしば、十字架の死と復活の原則が適用されるために、思いもかけない激しい戦いのような出来事が起きることがある。十字架の死を迎える瞬間までは、信者はまさに死のクライマックスに向かって自分が行進をさせられているかのように感じ、まるでこの世全体が自分にスクラムを組んで敵対しているのではないかとさえ感じるであろう。

しかし、それが、何ら予期せぬ出来事でもなく、思いもかけない不審な事柄でもなく、ただキリストと共なる霊的死にあずかるために、信者が避けて通れない軽い患難、小さな杯であることが分かれば、信者は、そういう事柄に心を煩わせる必要が全くないことを理解するであろう。それは、自分の信仰が試されているだけであり、その苦しみの先には、はかり知れない栄光が待ち受けていることを、まだその苦しみが終わらないうちから、大胆に確信でき、天の褒賞にあずかる喜びを楽しみにさえすることができるようになる。そして、実際に信者が御子の復活に同形化されると、かつての苦しみによって受けたすべての損失が嘘のようにそれを補って余りあるほどの回復、祝福にとって代わる幸いを見ることができる。

苦しみによってダメージを受けた心や体が回復されるだけでなく、さらに、失われたこの世の富も、回復されるであろう。信者に与えられた新しい神の命は、すべてを統治・支配する命であるから、信者のために必要な全てを(肉体のエネルギー源のみならず、生活の必要の全て、また信者の心の願いを)自然な形で供給することができると分かるはずである。

キリストは地上におられた時、何も財産を所有しておらず、職業を持っておらず、生計を立てるための具体的手段を持っておられなかった。それにも関わらず、神の国の宣教は、信仰によってのみ支えられたのである。こうして、今日、キリストだけでなく、信者自身も、持って生まれた権勢、自己の力で築き上げた権勢によらず、生まれつきの才覚や、後天的に獲得した優れた能力によらず、職業的な専門技術によらず、親族や知人のコネに頼らず、神への信仰を生きて働かせることだけによって、すべての必要を神に供給していただくのである。

キリストはご自分も肉体を持っておられ、人としての弱さを知っておられたにも関わらず、決してご自身の必要のためだけに人々に関わられたり、懇願されることはなく、むしろ、常に人々に豊かに与える側に回っておられた。そのキリストが信者の内側に住んで下さることは、キリストが地上におられた時にすべての必要をただ信仰を通して神によって供給していただいたのと同じ法則性が、信者の内に生きて働くことを意味する。

だから、 「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じて、バプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」(マルコ16:15)という命令を実行する力と条件を信者に与えるのは、神の側の仕事なのである。信者はただ信仰を働かせ、すべての必要をイエスの御名によって父なる神にかなえていただくのであり、それを実際に可能にするのが、信者の内に住んでおられるキリストの支配する命である。

また、その命は霊であり、その中に神と信者との交わりの中心がある。そこで、信者はキリストの復活の命を知ると、それまでのように、神との交わりを求めて自分の外をさまよい、神を知るためにあれやこれやの指導者を訪ね歩く不安に満ちた生活から、ただ自分自身のうちに住んでおられるキリストへと平安のうちに関心を転換することができる。

どんな時にも、信者は自分は心の内側で、聖なる御座へ進み出て、誰をも介さず、神に直接、全てを願い求め、祈り、交わることができる。自分の霊の内側に祭壇があって、そこで、いつでもキリストを通して、どんな問題についても、父なる神に直接、祈り、相談し、求めることが可能になるのである。神はもはやどことも知れない遠くにおられて、自分をいつでも見捨るかも知れないような不確かなお方ではなく、たとえ目で見られず、耳で聞こえず、肌で感知できずとも、生涯の終わりまで、共にいて下さり、信じる者を力強く守って下さり、すべての必要を満たして下さる方であり、信者は、祈る時にはいつでも天に直結してその願いが聞き届けられていることを知る。

だが、このような命が信者に与えられているのは、ただ信者一人だけの満足のためではない。信者は自分自身がキリストの復活の証人として世に出て行く使命を負っているのであり、そのためにこそ、主と共に死からよみがえらされて証人として立たされているのである。

キリスト者が伝道するのは、多くの信者たちが誤解しているように、教会組織の人数や権勢を拡大するために、神を求めていない人の関心をあの手この手で引こうとすることとは断じて関係がない。キリスト者が人々に奉仕する意味も、自己変革によって神に到達するための精進などでは決してない。すでに、全ての全てであられる方を内に得ているのに、何のために自己変革などするのか。信者がもし自己変革などを目指すとすれば、それはただ地上において、軽い患難を耐え忍ぶことを通して、重い天の栄光があることをより深く知り、より深くキリストの十字架の死と復活に同形化されて、内に住んでおられるキリストと深く交わり、この方への愛を深め、御子に似せられて行くことのためだけである。だが、それは信者が何かしら偉大な人格者へと変えられることにより、世から賞賛を受けることとは何の関係もない事柄である。

キリスト者が世に出て行くのは、世に自分の欠乏をかなえてもらうためではなく、世の欠乏をかなえるためでもなく、むしろ、惜しみなく与えることを願うキリストの命を注ぎだすことにより、神の召しに応え、神の愛を全うするためなのである。

こうして、信者が自分自身を注ぎだすのは、まず第一に神のためであり、信者がまだ反抗的な罪人であった時に、信者のためにすべてを捨てて下さった方の愛に応えるために、自分自身も彼にならって、この方にすべてを捧げるのである。だが、それが成就した時に、実に不思議な形で、信者自身の地上的な必要も満たされ、また、多くの場合、信者をとりまく人々の必要も満たされるのを信者は知るであろう。その順序は決して逆にはならない。

もし信者が神のために一切のものを留保せずに惜しみなく捧げ切ることができれば、この地上で信者が神を証して生きるために必要なその他の一切は、すべて自然に与えられる。まるでそうしたものは、全く取るに足りない付属物に過ぎないもののように、軽やかに、ごく自然に、悩みなく与えられ、成就するのである。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

2017年2月28日 (火)

十字架の死と復活の原則――自分を低くする者が高くされる――ただ神のために自分を注ぎ出すことによってのみ結ばれる永遠に朽ちない実

「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。私たちは、この務めがそしられないために、どんなことにも人につまずきを与えないようにと、あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しているのです。

すなわち非常な忍耐と、悩みと、嘆きの中で、また、むち打たれるときにも、入獄にも、暴動にも、労役にも、徹夜にも、断食にも
また、純潔と知識と、寛容と親切と、聖霊と偽りのない愛と、真理のことばと神の力とにより、また、左右の手に持っている義の武器により、また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。

私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。」(
コリント6:2-10)

ここ最近、キリスト者が苦難を通して得られる天の栄光があることについて、連続して記事を書いているが、上記の御言葉もそれにぴったり重なる。

パウロが耐え忍んだ「非常な忍耐、悩み、嘆き、鞭打ち、投獄、暴動、労役、徹夜、断食」などの話を聞くと、不信者は、そんな信仰の試練は御免こうむるとばかりに一目散に逃げて行くかも知れない。

だが、信者にとって、キリストの御名のゆえに受ける苦難は、恥でもなければ、災いでもない。パウロはこうした苦難をものともせず、別な箇所では次のようにも述べている。

「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
あなたのために、私たちは一日中、
死に定められている。
私たちは、ほふられる羊とみなされた。」
と書いてあるとおりです。」(ローマ8:35-36)

人類の罪のために永遠にほふられた小羊なるお方は、もちろん、キリストただお一人である。しかしながら、キリストの十字架の死と復活に信仰を通してあずかる主の弟子たちもまた、イエスと同じように「一日中、死に定められている」のである。

不信者はこういう話を聞いて、ますます疑念を深めて言うだろう、「私にはそんな信仰は理解しかねます。あなたの信仰はあまりにも偏っています。あなたの話すことを聞いていると、クリスチャンがどんなに神のために苦しまなければならないか、そんな話題ばかりではありませんか。私はそんな信仰は嫌です。御免こうむります。」

このような考えの人をあえて説得しようとは思わないが、何度も述べて来たように、キリスト者の人生にはただ苦しみしかなく、幸福は伴わないなどと勝手に誤解されては困る。

さらに、言っておかなくてはならないのは、クリスチャンが主の御名のゆえに地上で受ける苦しみは、ただ贖われた信者から成る教会のためであるばかりか、まさに以上のような不信者たちのためでもあるということだ。

なぜなら、自分が損なわれることにより、地に落ちて実を結ぶことが、初穂として贖われた者たちの役目だからである。

むろん、世は信者たちの受ける苦難が自分たちのためだとは少しも思っていない。そこで、キリスト者が受ける試練のことで、世が感謝したり理解を示すことは決してないと言えよう。

そのようなことは世に告げ知らせる必要もないことであり、世は、預言者たちを迫害して殺し、主イエスを十字架につけて殺し、主イエスの弟子たちをも迫害して命を奪った時から今に至るまで、その悪しき性質は寸分たりとも変わっていない。

だが、それにも関わらず、主イエスご自身がそうされたように、主イエスの弟子たちもまた、教会のため、自分自身のためだけではなく、神の愛のゆえに、福音に敵対し、神に反抗し続ける世人のためにも、自分自身を注ぎだし、それによって神の僕としての道を全うするのである。キリスト者が世から拒絶され、憎まれ、嘲られ、低められることによって受ける苦難を通してしか結ばれることのない実が存在し、このようにして神の国が拡大する法則は今も変わらない。

こうしてキリストの僕たちが、自分を拒絶する世の罪人らの反抗をものともせず、彼らをも救いへの道に招き入れるために福音を語り続けることができたのは、そこに人間の思惑によらない、神の無条件の愛があったためであり、彼らは自分自身の利益をはるかに超えるもっと大きなものにとらえられていたからこそ、自分たちを拒絶し、あるいは殺そうとまでする人々のために苦しみを受けることを辞さずに、神の国の権益拡大に向かって進んだのである。

だから、キリストの僕たちが地上で受ける苦しみは、ただ単に彼ら自身の信仰の成長のため、彼らが受ける天での栄光のため、あるいはすでに贖われた者たちの栄光のためだけではないのである。たとえ世が理解せずとも、彼らがそのように自分自身を注ぎだすことができたのは、神のためであると同時に、人々のためでもあり、世人のためでもあった、と言える。そして彼らの苦しみを通して教会が大きな前進を遂げて行ったのである。

さて、今回の記事では、殉教というスケールの大きな試練は脇に置いて、むしろ、それに至るまでの、もう少し小さな日常生活のスケールにおいて、信者が信仰ゆえに受ける「苦しみ」に必ず「栄光」が伴うこと、また、そのようにして、キリストの十字架の死と復活に同形化されることによってのみ、信者は多くの実を結び、「栄光から栄光へ」主の似姿に変えられて行くことができるということについて、引き続き書いていきたい。

すでに述べた通り、信者がもしも主の御名のゆえにいかなる苦しみをも試練をも受けないならば、その人の信仰は何かがおかしいと言える。だが、同時に、信者の地上生活が絶えず苦しみだけに満たされ、試練を勇気を持って耐え忍んだことへの報いとしての、天の喜びに満ちた栄光を何一つ経験しないならば、そのような信仰生活も、やはり何かがおかしいのである。

信者の正常な信仰生活においては、信者が地上で主のために受ける苦しみには、必ず報いが伴う。それは天の重い栄光の前触れとしてもたらされていることが、多くの場合、信者自身にも分かる。そして、多くの場合、実際に、試練を耐え忍んだことへの報いとして、天の父なる神から与えられる栄光を、信者は自分自身でも確認できるのである。

もちろん、信者が耐え忍んだ苦しみのゆえに、地上でどんな実が結ばれたのかは、最後まで分からないこともある。そして、「主の御名のゆえの苦しみ」と言っても、それは必ずしも、信仰に対する迫害だけでなく、信者が地上で耐え忍ぶあらゆる圧迫を含んでいる。信者は地上で受ける全ての苦しみを「御名のゆえに」甘んじて受けるのである。そして、多くの場合、信者はそのような出来事を通して働く十字架の死と復活の原則を、自分の人生で生きて実際に知ることができる。

だから、クリスチャンの生活が絶え間なく苦しみに満たされているだけで、喜びも勝利も栄光もないのだと考えることは大きな間違いである。信者は、地上で受けるあらゆる圧迫や制限、人として生まれ持った愚かさや限界にも関わらず、そこに神の偉大な力が働いて、巨大な勝利がもたらされるというパラドックスを味わうことができる。

だから、もしクリスチャンの中に、十字架の死と復活の原則が人生でどのように働くのか知らないという人があるなら、実際に自分の生活を使ってこの法則を試してみることをお勧めする。つまり、主の御名によって、信者が己を低くして、小さな苦難を信仰によって耐え忍ぶことにより、どんなに大きな栄光がもたされるのか、日々の生活のごく些細な事柄を通して、誰しも十分すぎるほどに確かめられる。

だが、これは先に述べた通り、信者がただ悪魔の虜となって苦難にいたずらに翻弄される消極的で受け身の生き方や、信者が無用な苦しみを自分から好んで招くような自虐的な生き方を意味しない。信者は現在、自分が望まずして、自分の生活に働くあらゆる制限、圧迫、束縛、予期せずして起きて来る迫害や苦難を、主のために耐え忍ぶのであり、そうした弱さが弱さで終わらず、時が来れば必ず、神がその出来事の解決となって、ご自分の栄光をそこに現して下さり、信者をも共に高く引き上げて下さることを確信して、その時を勇気と確信を持って大胆に待ち望むのである。

信者は、ただ自分が一刻も早く楽になり、不快な思いをしたくないから、また、自分の名誉が傷つけられたくないから、といった利己的な動機で、苦難が長引かないように神に願うのではない。その苦しみを通して、神に栄光が帰されることだけを願って、自分のためでなく、神の栄光のために、神の御心が地上に成るようよう願い求め、神を信じて待ち望む者が、地上で忍耐することによって、ふさわさしい時に助けを得て、神自らが信者の弁護者になって下さり、信者をあらゆる苦難から確かに力強く救い出して下さる助け主であることを天地の前で証明し、それによって、主の御名がほめたたえられることを願うのである。つまり、神が栄光を受けられる機会として、自分の苦難があることを信じるのである。ダビデが次のように詠った通りである。

私たちにではなく、主よ、私たちにではなく
あなたの恵みとまことのために
栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください」(詩編115:1)

信者は「御名のために」地上におけるすべての苦しみを耐え、「御名のゆえに」神がその苦しみを栄光に変えて下さることを信じるのである。信者が、あらゆる苦難を信仰によって堅く勝利の確信のうちに耐え忍ぶ秘訣を学びさえすれば、苦しみは多くの場合、急速に取り去られる。たとえそうでなくとも、信者の内なる人が強められることにより、信者は地上で経験する苦しみによって圧迫されたり、心悩まされ、悲しみに打ちひしがれたりすることがなくなり、むしろ、そこに復活の命が働くことを信じて期待できるようになる。

だが、苦難を通して受ける天の栄光を逃さないためには、信者は自分が何を主の御名のゆえに耐え忍んでいるのか、人にはあまり触れ回らない方が良いであろう。「私は神のためにかれこれの巨大な苦しみを耐え忍びました。すでに殉教をも辞さない覚悟です」などと人前で言うのは、やめておいた方が良い。そのような決意表明は失敗に終わる可能性が高い。

もしどうしても信者が受けた苦難について語りたいならば、苦難をいわゆるお涙頂戴の物語に変えて多くの人々の関心を引きつける材料としたり、自己宣伝の材料として用いたりするのでなく神だけが栄光を受けられるように、聖書の神が信じる者をどんな状況においても見捨てられることのない確かなお方であることを世が知ることができるように語るべきである。

とはいえ、主が本当に信者の苦しみを喜びに変え、御業を成して下さる時には、人はどんなに黙っていようと思っても、黙っていられないほどの喜びに突き動かされることは確かなのだが。

このように、信者は大きなことから小さなことまで、神と信者とだけが知っている日常のごく隠れた様々な出来事を通して、信仰による訓練を絶え間なく重ねて行くことにより、その先に初めて殉教などの極めて大きなスケールの試練にも十分に耐えうるだけの力が養われる。つまり、信者に地上で与えられる試練は、各人の信仰の成長段階に応じて与えられるのであって、決して一足飛びのものではなく、戦いの初心者がいきなり熟練者しか勝利できないような困難な戦いに直面することは絶対にないと言える。

そして、何度も書いているように、キリスト者が地上で受けるあらゆる試練は、どんなに些細なものであっても、神の御前に覚えられており、予想だにしない大きな栄光が伴うのであり、その栄光は、信者がこの地上に実際に生きている間に、あらゆる生活場面で確認することができる。

聖書の神は、信者に与える恵みを出し惜しみされるような方ではなく、また、信者を無駄に追い詰めたり、苦しめる残酷な主人でもない。信者がこの地上に生きる間、良きものを惜しみなく与えて下さり、あらゆる祝福で満たして下さる方である。だから、信者が地上で人としての生活を送るために必要なすべてを十分に備えて下さらないことはない。

だが、だからと言って、信者は恵みが与えられるがゆえに神に従うのではなく、地上の一切の利益にも増して、神ご自身を愛するがゆえに従うことを、絶えず告白し続けるのである。そして、信者は地上で必要な一切のものを、この世の手練手管によらず、ただ信仰によって地上に引き下ろす。それによって、神こそすべてのものの造り主であり、すべての供給者であり、キリストの命の中にこそ、あらゆるものを支配し、供給する力があることを知るのである。

キリストの復活の命は、支配する命である。この命が信者の内にあることによって、信者は外見的にはこの世の有限な滅びゆく弱い存在に過ぎないが、その内側に、この世を打ち破る圧倒的な勝利の法則性を確かに有していることが分かるのである。そこで、信者自身が地上で抱える生まれ持った人間としての様々な弱さとは対極的に、彼の内にある死を打ち破った支配する命によって、外からやって来るすべての圧迫に翻弄されることなく勝利する秘訣を学ぶのである。

***

さて、次に、信者に対する神からの吟味、光による照らし、検査というテーマについても少し書いておきたい。

神のさばき、神の吟味というものは、レントゲン写真の撮影にもどこかしら似た、神から人間への吟味である。そして、しばしば、神は試練を通して、信じる者の心の内を吟味される。

人間は生まれつき自分を試されることや、自分自身を吟味され、検査されることを望まない。人間には光の照射によって自分の本質が明らかにされることを拒む本能があり、それはレントゲン写真を撮られるような時でさえそうだ。

たとえば、私たちは、肺や手足のレントゲン写真といった、首から下の写真ならば、健康診断でよく見慣れているであろうが、首から上のレントゲン写真を見慣れている人はどれくらいいるであろうか?

特に、頭がい骨の写真を、真正面でも横からでない別な角度から撮られたりすると、死人のように目も鼻も空洞化した自分の顔の写真を見て、一体、これが生きた自分自身を少しでも反映した写真なのだろうかと改めて驚かされる。

レントゲン写真はすべてグロテスクなものであるが、それは病気や歪みを早期に発見するために撮られたものだから、撮影される人間が、カメラの前でポーズを取るようにして、必死に自分のグロテスクさを取り繕ろうとするのは無駄なことである。
 
余計な肉が排除され、取り繕いが通用しないからこそ、正確な写真が撮れるのであり、仮に異常が発見されても、落胆するどころか、むしろ、不調の原因はこれだったのか、早期発見できてよかったと安堵するのである。

ところが、今日、多くの信者たちは、全くこれとは逆の道を歩んでいる。彼らは神に認められるためには、まず、神の御前に正直に取り繕わない自分自身の姿を見せなければならないのだということが、どうしても認められないのである。

彼らは、神に受け入れられるためには、相当に立派な行いが信者の側になければならないという巨大な錯誤の中にあって、いわゆる教会生活を通して、神の目に認められるための善行を必死になって積み上げている。

彼らは、いわば、神のさばきに耐えるためには、人間の側で満たさなければならない高度な要件があって、信仰の「優等生」になるための努力を毎日続けねばならないと思い込んでいるのである。

だが、このような考え方は極めて深刻な自己欺瞞の罠である。そんな彼らの努力は、まるでレントゲン写真を撮るに当たって、少しでも美しい「自分の骨の写真」を取ってもらおうと、医者に向かって懸命にせがみ、撮影された自分の写真が気に入らないと注文を付けては、あれこれとポーズを取って撮り直しを要求し、取り繕いを重ねる患者の姿にも似ている。

この種類の「患者たち」は、自分の病気や弱いところが何であるかを知るために、少しでも正確な写真を撮ってもらうことにはいささかも関心がなく、むしろ、少しでも自分の恥や弱さが暴かれないで済むように、自分を可能な限り飾り、健康に見せかけるために、どれだけ本当の自分を偽って、外面を取り繕い、裸の恥を撮影されることを免れられるかに腐心しているのである。

だが、神にはそういう人間の取り繕いは一切通用しない。神が人間をご覧になるまなざしは、レントゲン写真よりももっとはるかに正確で、人間の側では、小骨一本のごくごくわずかな歪みまで、どんな小さな病巣まで、隠しおおせるものはなく、どんな心の弱さであろうと、信者の過去であろうと、現在であろうと、未来であろうと、隠蔽できるものは何もない。神の目にすべては明らかで、裸であり、人間の取り繕いが全く功を奏さないのである。

だから、来るべき日に神のさばきの御座の前に立たされる時に向けて、信者が、常日頃から、この地上生活においても、神の御前で自分自身を探られ、申し開きを求められる場面でも、信者が神に対して自分を取り繕ったり、ごまかすことは一切通用しないし、それは有害である。

むしろ、信者がそこで果たすべき義務があるとすれば、ただ正直であることだけである。現在の自分の状態がどうあろうとも、どれほど合格基準に満たない、惨めなものに思われても、信者は神の側から行われるすべての吟味に対して、ただ自分を隠し立てなく明らかにして、正直に差し出すのである。

つまり、信者はレントゲン写真を撮る時に、自分を取り繕わずにあるがままの自分を撮ってもらうのを目的とするのと同じように、あるいは、ナビを設定する際に自分の現在地を偽って目的地を設定したりしないのと同じように、現在の自分にどんな弱さがあって、どんな欠点があり、どれほど過去に取り返しのつかない失敗を犯し、人生がいかなる損傷を受けているように思えようとも、自分の歩んで来た過去、現在のすべてを恥じることなく、隠し立てなく、神の光の照射に委ね、こうして自分が一切を神の御手に委ねていること、また、信者が受けた損失が何のせいであるにせよ、神がそれらの損失を豊かに補って余りある方であると信じていることを態度で表明するのである。

だから、信者は、人の目から見て、恥や、不完全さ、弱さ、欠陥、失敗と映る事柄についても、決して自己を飾るために、自分の過去を自力で修正しようとせず、自分自身の存在がまるごと神に委ねられており、神がすべての問題に正しい処置を施し、信者をあるべき状態へと導くことのできる唯一の方であると信頼して、この神に自分を委ねるのである。

このようにして、信者が神に明け渡すことにより、神の光によって照らされた信者の心の領域だけが、漂白された布のように罪から清められ、神の力に覆われて、新たにされて行く。信者が神に明け渡そうとしさない領域には、神の力は働かず、それどころか、それは長い間、施錠されたままの暗い地下室の倉庫のようなもので、そこにどれほど蜘蛛の巣が張り、埃が分厚い層のようにたまり、そこに蓄えられていたはずの宝がすでに錆び、朽ちていたとしても、信者がこの部屋を自分で開錠して大掃除に了承しない限り、誰もどうすることもできないのだ。

多くの信者たちは、神と人の前に自分を取り繕うために、自分の心に開かずの間を作り、そこに自分の見たくないあらゆるものを押し込んでいる。そして、そこに自分の弱さが集中して隠されていることを無意識に知っているので、それを恥じて、そのような開かずの間が自分の心の中にあること自体を自分にも隠し、外にも隠し、神にも隠しながら、自己を対外的に粉飾し、虚勢を張り続けるのである。だが、このように、信者が神の吟味に明け渡そうとしない心の暗い領域が罪の温床となって行くのである。

従って、信者の神への明け渡し、清め、従順は、信者が自分の行動をどれだけ律して「神の合格基準」に達するように外面的に整えたかによるのではなく、むしろ、信者が現状の自分をどれほど不完全で未熟に感じていたとしても、信者がその自分をありのままを神に探られることに同意し、自己の見たくないすべての欠点を隠そうとしたりせず、自分の全てを神によって吟味され、照らされ、明らかにされることに了承し、その痛みに耐えつつ、自らの弱さに対して神がもたらされる力強い解決に信頼して自分を委ねることができたか、その程度によると言っても良い。
 
信者がそのようにして神に自分を照らされる時に感じるごくごくわずかな痛み、ごくごくわずかな恥を耐え忍んで、自分の限界を正直に、あるがまま、恥じることも、隠すことも、取り繕うこともなく、従順に神の御手に委ね、自分の弱さの中に、神が力強く働いて下さることを信じさえするならば、信者の弱さは、たちまち神の憐れみに満ちた強さによって覆われ、信者は自分の無力や限界の中に、キリストが生き生きと働いて下さるのを知り、「もはや私ではなく、キリスト」が生きておられることを知るのである。

開かずの間は大掃除されて明るく清潔な小部屋になり、骨しか見えない白黒のレントゲン写真には肉や目鼻がついて生き生きとした色彩と表情が生まれ、死人がよみがえって、生きた者とされるのを見ることができるのである。

信者の生活は、片方では、地上の滅びゆく人間に過ぎない自分自身が、もう片方では、まことの生きた人であるキリストにしっかりと結ばれることにより、共に生かされているようなものである。片方は滅びゆく人間というよりも、すでに死人である。自分では何もすることはできず、まして実を結ぶ善行を行う力などない。だが、その人間の死が、信仰によって、キリストの死に結ばれているがゆえに、死んだはずの腐敗した人間が、キリストの復活にあずかって、清められ、彼の豊かな命によって生かされ、生き生きと輝いて、この両者が一人の新しい人の中で平和裏に結合・共存しているのである。

だから、信者は、自分の抱えるあらゆる弱さや限界に限らず、自分の存在そのものが、まるごとキリストと共に十字架で「すでに死んでいる」こと、それと同時に、十字架で共によみがえらされ、「神の中に隠されて生きている」ことを確信し、それゆえに、自らの死を帯びた圧倒的な弱さの中でも、大胆に神の命の強さを信じて前進して行くことができるのである。

このようにして、信者は地上で受けるあらゆる苦難を通して、絶えず神に自分を探られることに同意しつつ、より深く、より一層、自分の弱さを含めて、自分自身の全てを神に明け渡し、自分の処遇の一切を神に委ねることにより、死の中に生きて働く神の復活の力を知り、天の恵みを地上に引き下ろし、天の父なる神から栄光を受けることができるのである。

こうした法則があることを知っていたからこそ、預言者たちも、使徒たちも、みなキリストのゆえに受ける苦しみをものともせずに、喜んで苦難に甘んじることができたのである。

だから、信者の歩むべき道は、自分の力で必死に自分の外面を取り繕い、あらゆる努力を払って、信仰の「優等生」であろうとして、人目にそのように認められようと努力することとは真逆なのである。

むしろ、すべての真に「優秀な」イエスの弟子たちは、そうした自己宣伝とは無縁であり、むしろ、地上生活において、辱めや、苦難や、恥や、悪評や、そしりに耐えたのであり、決して地上の生涯において、偉大な宗教的権威者のように高められ、誉めたたえられることを目指したりはしなかった。

キリスト者の信仰の前進は、自分で自分を優秀な人間として人前に推薦したり、自分で自分を飾り、偉大にみせかけることによって、自分で自分を救おうとする努力とどこまで手を切って、自分の価値ではなく、キリストの価値だけにすべての信頼を置いて、ただキリストのみを頼りとして生きるのか、それによって決まるのである。

「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。」(マタイ6:1)

「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」(マタイ5:10-12)

「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に表れるからである。」と言われたのです。

ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さ誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじていますなぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」(Ⅱコリント12:9-10)

 
  * * *
 
さて今、思い起こされるのは、ウォッチマン•ニーの『キリスト者の標準』の次の一節である。

「一九ニ九年に、私は上海から故郷の福州に帰りました。ある日私は、健康を害したため、非常に衰弱したからだを杖で支えつつ道を歩いていましたが、途中大学時代の教授に会いました。

教授は私を喫茶店につれて行き、私たちは席につきました。彼は私を頭のてっぺんからつま先まで眺め、次につま先から頭のてっぺんまでを眺めてこう言いました。

「ねえ、きみ、きみの学生時代には、われわれはきみにずい分期待をかけていたし、きみが何か偉大なことを成し遂げるだろうと望みをかけていた。きみは 今この有様が、きみのあるべき姿であるとでも言うのかね。」

彼は私を射抜くようなまなざしで、この質問を発したのです。正直なところ、私はそれを耳にした時、くずおれて泣き出したい衝動にかられました。私の生涯、健康、すべてのすべてが消え去ってしまったのです。しかも大学で法律を教えた教授が今ここにいて、「きみは成功もせず、進歩もなく、なんら取り立てて示すものも持たずに、いぜんとしてこんな状態でいるのか」と尋ねているのです。

しかし、次の瞬間ーーそれは私にとって、始めての経験でしたがーー私は自分の上に臨む「栄光の御霊」とはどのようなものであるかを、真に知ったのです。自分のいのちを主のために注ぎ尽くすことができるという思いが、栄光をもって私の魂に溢れました。そのとき、栄光の御霊そのものが私に臨んだのです。

私は目を上げ、ためらうことなく言うことができました。「主よ、あなたを讃えます。これこそ望み得る最善のことです。私の選んだ道は正しい道でした。」私の旧師にとっては、主に仕えることが全くのむだであると思えたのです。しかし、福音の目的は、私たちをして主の価値を真に自覚させるためにあるのです。」『キリスト者の標準』、ウォッチマン・ニー著、斎藤一訳、いのちのことば社、pp.306-307 、下線は筆者による、本文では点による強調。)

ウォッチマン•ニーは今日、彼の名がつけられて残されている著書の文章を通しても理解できるように、かなり研究者肌の知性の持ち主だったようで、霊的な事柄についてこれほどまでに知的・論理的に分析を試みた信仰者は他に類を見ないように思う。

若い時分には、聖書注解者になることをも夢見ていたようだが、それも頷ける話で、知的分析、論証は彼の天与の才であり、以上の引用からも、学生時代から彼は同期に抜きん出て将来を嘱望されていた様子が伺える。

少しでも学術研究に関わったことのある人間ならば、ニーの文章が知的好奇心旺盛な人間にとってどれほど魅力的に映るかも分かるであろう。 ところが、ニーはその才能を主のために放棄し、「浪費してしまった」のである。

それは、大学の恩師にとってはさぞかし手痛い損失に見えたものと思う。もし研究者を目指していたならば、権威として大成していたのは間違いないからである。そうでなくとも、新しい発見によって社会を揺るがし、変革する人物になるだけの資質は十分に備わっていた。だからこそ、期待を裏切られた恩師は、この久方ぶりの邂逅の場面で、ニーの衰弱して落ちぶれた「惨めな姿」に痛烈な皮肉を浴びせたのである。

しかも、それだけではない。ニーは聖書注解者として名を残すことをさえも断念した。そして、彼がどんな最期を遂げたのかは知られている通りである。

一体、この人は自分に与えられた大きな才能を何に使ったのか? 神のためにとは言うが、ただ自虐的に自分を苦しめ、人生を浪費しただではないのか? という疑問も生まれて来よう。

彼がもし聖書注解を書いていれば、今の時代になっても、並ぶもののない書を残せたであろう。我々にとってもそれは興味深い内容だったに違いない。だが、それすらもしなかったのはなぜなのか。今日ニーの著書とされているもののほとんどは同時代人の速記録の書き起こしによるもので、色々な人々の思惑がつけ加わり、偽りの宗教によって書き換えられ、改ざんされ、ただで利用され、宗教的権威にしたて上げられ、ニー自身がどんな人だったのかすらも、粉飾されて分からなくなり、純粋にニーの作品と言い切れるものがどれだけあるのかも不明だ。もし自分の名を冠した著書を発行してさえいれば、そうしたことは避けられたはずである。

にも関わらず、彼がそうしなかったのは、自分のためでなく、この世の人々のためでもなく、社会の発展のためでもなく、ただ神のためにだけ自分を注ぎ出し、地上では完全に無名の、いかなる権威とも無縁の人間として生きるためであったと見られる。もし願いさえすれば、自らの得意とする分野で、様々な成功を手にする事ができたであろうが、人前に栄光を受けないために、それをあえて望まなかったのである。

学術研究の分野に身を置くことは、「先生」と呼ばれる立場に立つことと密接に結びついている。それは自分自身を学問的権威者として他人に推薦する行為である。また、その探求はどこまで行っても、神を抜きにした人間の魂による終わらない探求であり、人間の天然の知的好奇心を満たすためだけに行われる活動である。そうである以上、そのような探求は、人間の堕落した魂の働きを活性化させ、肥大化させることはあっても、純粋な霊的な活動には本質的に対立する、信仰に基づく行動ではないのではないかと筆者は推測する。

知識欲に限らず、人間の魂が持って生まれた欲というのは、情であれ、他の何であれ、どれもこれも、人間の目にどんなに美しく優れた性質のように映っても、すべて堕落に陥る可能性を持つ。それは、人間の魂そのものが罪によって腐敗・堕落しているせいである。そこで、天与の才を発揮して生きるという、人の耳にはまことに無難そうに、もっともらしく、良さそうに聞こえる言葉でも、一歩間違えば、己の欲に好きなだけ邁進して生きよという貪欲の奨励になりかねない危険が存在するのである。

ただ神だけが、人間の天然の魂の衝動から生まれて来る腐敗した活動と、純粋に霊的な活動を正しく切り分けることができる。前者はどんなに人の目に立派に、良さそうに見えても、あくまで人間の探求に過ぎない腐敗した活動であって、永遠に神に向くことがなく、永遠に残る実を結ぶこともない。

ウォッチマン・ニーはどこかの時点でそれを悟り、知的研究の分野から身を引いたのであろう。聖書注解者になることの中にさえ、神から来たのでない人間の魂の探求が紛れ込む可能性を悟り、自分はそのような方法で神に仕え、人々に仕えることはふさわしくないと理解したのであろう。彼が自分の可能性や才能を脇に置いて、これらを捨てても、御国への奉仕を優先したのは、主に仕えるためであり、神への献身のためだったのだが、同時に、それが教会に対する奉仕でもあり、人々に対する奉仕でもあったことを筆者は疑わない。

だが、もしも仮にそこで彼が身を引かず、知的研究に携わり続けた場合、この人の身の上に何が起きただろうか? 彼はおそらく学問的権威者となって、多くの弟子を従えて、立派な先生として、新調の服を着て巷を歩くことができ、自分について何一つ引け目も感じず、情けなく思うこともなく、まして若くして衰弱したからだで、よろめきながら杖をついて歩いたり、その格好のせいで、人に哀れまれたり、蔑まれたりもしなくて良かったであろう。

だが、そうして得た社会的成功と引き換えに、彼を待ち受けるものは何だったろうか? サタンの誘惑だけだったのではあるまいか? 彼はそのようにして地上で自分が栄光を受け切ってしまうことよりも、神としての栄光を自ら捨てて十字架の死にまでご自分を渡されたキリストにならって、自分も自分を高くせず、人からの栄誉ではなく神から栄誉を受けることの方を潔しとしたのである。

このようなことは、人の目から見れば、あまりにも馬鹿げた損失に過ぎないものと映るであろう。色々な才覚が与えられていたのに、それを十分に活用しないまま世を去るとは、何と愚かな無駄であろうかと人々は思うだけであろう。人は、この世において頭角を現し、ひとかどの人間として認められ、名を残すことを成功と考え、自分の才能や活動意欲を余すところなく発揮できる場を求め、なおかつ、著書や、目に見える様々な功績を手柄として残すことを願う。それが自分のためであると同時に、他者のためにもなるのだと信じて疑わない。そして、自らの名を残すことができなければ、地上に生きている意味もないと考えるのであろう。

だが、神の評価は、人の評価とは多くの場合、正反対であり、まさに裏返しである。地上で自分で自分を高くしようとする者が、神の御前に賞賛を受けることは絶対にできない。神は、世から徹底的に憎まれ、蔑まれ、退けられたキリストの苦難に、信者がどれほど自分もあずかることに同意し、キリストの死に自分を同形化したか、その度合いによって、信者が天で受ける栄光をお決めになる。

だから、信者が地上で人前に栄光を受けながら、同時に、天の神からも栄光を受けようとすることはできない相談なのである。そして、何が本当に主の御名のために信者が耐え忍んだ苦難であるのかは、ただ神だけがご存知である。

ニーに限らず、キリストに従う者は、地上で自らいかなる権威になることもなく、最後まで無名の知られざる信徒として、人の目にではなく、ただ神の御前にのみ覚えられ、認められることを目指して生き続けるべきであると筆者は考えている。

信者が主のために自分を低くされ、苦しみを受ける時、ニーが書いているように、栄光の御霊が力強く自分に臨む瞬間を、信者が必ずしも常に経験するわけではない。だが、たとえ主の臨在が、信者に実感を伴う形で感じられない場合にも、信者は、この地上で自分が低められることによってしか働くことのない天の法則と栄光が確かにあること、それによってしか結ばれない実が確かにあること、それはまさに神が願っておられる事柄であると、人生のあらゆる場面で知ることができる。そして、信者がそのように神の御前で低められ、無に徹することを耐え忍ぶと、神はその労苦を特別に重んじて下さり、特別な恵みによって報いて下さるのを、実際に多くの場面で見ることができるのである。

だから、信者が一時的に陥った苦しみだけを見て、落胆するには全く及ばない。ヨブがそうであったように、多くの場合、信者が主のために失った様々な富は、時が来れば、前よりも一層、豊かにされて信者の手に返される。それが死後になってしか起きないことは決してない。この地上に生きている間に、信者は、十字架の死と共に働く復活の原則を、キリストの命にある絶大な権威や力を、信者のために神が天に蓄えて下さっている無尽蔵の富や栄光の大きさを、十分に伺い知ることができる。

そのような歩みを主と共に地道に続けて行った最後の段階になって、ようやく殉教というテーマが信者の目の前に現れて来る。信者が十字架の死と復活の原則をほとんど知らないうちに、一足飛びにそのような事柄が求められることはまずない。そして、その段階になると、信者はそれまでの人生を通して、すでに神の恵み深さ、憐れみ深さ、誠実さ、愛の深さを十分に知っているので、もはや自分の内には神のために留保するものは何一つありませんと、ためらいなく応答する心の準備ができているのである。

2017年2月22日 (水)

十字架の死と復活の原則―栄光から栄光へ―鏡のように主の栄光を反映させながら、主と同じかたちに姿を変えられて行く

偽りの宗教からのエクソダスが完了し、悪しき霊どもを除霊し、地獄の軍勢にもと来たところへ帰るように命じ、原点に立ち戻って、生ける水の水脈を見つける。

追いすがるファラオの追手を振り切って、その軍隊がことごとく水に沈むのを見届けて、この地にやって来た時に見えていた、新たなすがすがしい展望を取り戻す。

キリスト者が立っている土地は、悪しき軍勢に占領され、踏みにじられたために、荒廃している。この土地に、彼はキリストの復活の旗を立てて、御子の統治を宣言する。

キリスト者は、はるかに天の都を仰ぎ見つつ、前途に神が信じる者のために備えて下さった豊かな約束の地を見据える。そこで天の無尽蔵の豊かな富と、永遠の栄光がキリスト者を待ち受けている。

そう、御子の復活の命の統治は、信じる者の内ですでに始まっているのだが、信者が自分の内でそれを知ったことで、すべてが終わるのではない。キリスト者にはまだまだこれから獲得せねばならない土地がある。つまり、自分自身の内にある統治を外へ流れ出さなければならないのだ。

信じる者の足元では、荒れ果てた大地の割れ目から、澄んだ泉が湧き出すように、復活の命の統治を通して、清らかな水が流れ出ている。それはまだ少量の流れだが、いずれは大河になって、荒廃した大地全体を潤し、よみがえらせるはずだ。これは、主イエスが信じる者たちにただで受けよと言われた生ける水、疲れた人々を癒し、病んでいる人を立ち上がらせ、死んだものを生き返らせ、サタンに支配されていた人々を解放する力のある命の流れである。

御座の統治から流れ出す生ける水の川々である。

長年に渡り、深く深く井戸を掘り続けてきたキリスト者は、ようやく水脈に達したという確かな手ごたえを感じて、安堵する。飢え渇きと共に飽くことなく井戸を掘り続けて来た彼は、ようやく荷を降ろし、喜びのうちに安堵して、額を拭う。やはり、神は信じる者の呼び声に応えて下さったのだ。求め続けるうちに、天の資源にようやく達した。そうなれば、工事はあらかた終わったようなもので、あとはこの水を汲み出し、絶え間なく流れさせるための設備を整えなければならない。

さて、前回の記事では、キリスト者にとっての苦しみと栄光の不思議な関係について述べた。

キリスト者が神の御前に栄光を受けようと思えば、地上で苦しみをも受けなければならないことを書いた。この二つは密接に結びついており、苦しみがキリスト者の体を通過することによってしか得られない栄光がある。

クリスチャンは世から召し出された者たちであるが、御国の働き人であり、神の兵士でもある以上、ただ自分自身の幸福と平和と繁栄のためだけに召されたのではなく、神の国の権益を守る兵士として、神の利益のために召し出されたのである。そうである以上、キリスト者は、神の軍隊の兵士として、地獄の軍勢との激しい戦いを戦い抜いて勝利をおさめることなしに、神からの褒め言葉にあずかることは決してできない。そして、戦いはどんなものであっても、命がけであり、自分自身のためだけでなく、自分を召して下さった方の栄光のために、あらゆる障害を乗り越えてでも、勝利したいとの強い願いがないなら、むしろ、初めから臨まない方がましである。

だから、クリスチャンには、地上で人前に栄光を受けて、拍手喝采を浴びて、安楽に生き、自分自身だけを楽しませながら、なおかつ、神の御前にも栄光を受けようなどという生き方は成り立たないのである。むしろ、神の御前にどれだけ己を低くして地上における患難を耐え抜いたかが、来るべき日において、キリスト者が神の御前で受ける栄光の度合いを決める。

今回は苦難がもたらす栄光というテーマをさらに発展させて、「栄光から栄光へ」というテーマを語りたい。

「しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。
かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。

しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:14-18)

古い契約、それはキリスト者が去って来た世界、すでに水に沈んでいる世界であるが、それは何も律法や、ユダヤ教のことだけを指すのではない。今日、聖書に従う信仰に見せかけた偽りの宗教においては人が敬虔な信者を装うために勝手に作り出した様々な規則や掟が存在する。日曜礼拝を遵守することや、奉仕や献金を行うこともそれに含まれ、そのような定めを数多く守って、人の目に正しい行いをしていると認められることこそ、敬虔な信者のあるべき姿だと説かれる。

しかし、そのようにして、各種の規則で自分を縛り、自分自身の立派な行動を通して、人前に義を得ようとすることは、どこまで行っても終わらない偽りの霊性を得るための偽りの精進である。どれほど人が善行を積んでも、そのことによって、「私はここまで達したのだから、もう義人となった。これ以上、誰からも後ろ指をさされることなく、何も要求されることはない。もう大丈夫だ」と言える日は来ない。また、世が信者が学びや精進によって高みに到達しようとする必死の努力を認めてくれて、「あなたはここまで努力を払ったのだから、合格水準に達しました。もうこれ以上何も要求しません」と言ってくれる日も来ない。

むしろ、人が努力すればするほど、ますます深く泥沼にはまって行くかのように、要求だけが加算される。どれほど人が善行を積んでも、心に「もう大丈夫だ」という確信と平安はやって来ないばかりか、彼に対する期待と要求がさらに増し加わる。だから、そのように自分自身の善行や努力によって義を得ようとする人は、自分自身の心の消えない不安を覆い隠すために、永遠に終わらない努力を重ねているのであり、その行為は、人が義とされるために行っているというよりは、むしろ、心の内なる罪悪感を薄め、本当の自分自身の惨めな姿から目を背け、これを覆い隠すために行われる自己欺瞞であり、キリストによらない人類の偽りの贖罪行為なのである。

このような努力を人がどんなに重ねても、ちょうど巨額の負債を抱えて苦しむ人が、返済しても、返済しても、利子がますます膨らんで行くことにより負債の額が減らないように、人類がどんなに自分で自分を義としようと努力しても、罪悪感はますます膨らみ、義とされることはなく、神に到達することはない。魂のあがないしろは高価で、人は自分で自分の罪を贖うことはできないからである。

そのような人たちは、心に覆いがかかり、思いが鈍くされており、神の義が分からなくなってしまっているのである。彼らは自分では神を信じていると思っているかも知れないが、彼らの悲痛なまでの努力の根底にあるのは、神への信頼や、愛ではなく、むしろ、神に対しての虚勢、演技、取り繕いであり、なおかつ、彼らの心の根底にあるのは、「どうして神は我々に対して、こんなにも重い返済不可能な罪の負債を負わせたのだ」という憤り、恨みである。そして、彼らは「神によって不当に負わされた罪の債務証書」を帳消しにするために、それほどまでに悲痛な努力を払っているのだから、神もそれを認めざるを得ないと考えて、神ご自身を否定して、神の御心を退けて、神の御怒りから身を避けて、自分自身を守るための偽りのレンガの塔(バベルの塔)を建設し続けているのである。

だが、そのように人が己が力では到底、返しきれない罪の負債を人類に負わせたのは、神ではなく、サタンである。だから、サタンを打ち破ることによってしか、人がその負債から解放される術はない。そして、神はそれをすでに成し遂げて下さったのであり、神はキリストの十字架を通して、すでに人間の罪の債務証書を無効にする道を開いて下さっているのである。だから、人がこの「罪の債務証書」を自力で返済する必要はなく、また、そのことで神を恨みに思う必要もなく、むしろ、糾弾されるべきは悪魔であって、神はキリストを通して彼に打ち勝たれたことを確信し、それを宣言し、喜び、現実に適用するだけで良いのである。

ただ上記のような人々はそれが分からず、自分に負わされた途方もない負い目を返済し続けることにより、自分たちは神に仕えているのだと誤解しており、彼らが仕えている相手は、神ではなく、彼らをまさに罪の負債地獄に突き落とした地獄の看守たる悪魔であるということが分からないのである。

しかし、人が真にキリストご自身の方を向くならば、この救いようない古い契約でがんじがらめにされた泥沼の状態から、誰しも自由にされることができる。それだけではない、その人の内側が新たにされ、主の御姿へと変えられて行く。

しかしながら、栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を変えられて行くことは、やはり、信じる者が己を低くして苦難を甘んじて受け、キリストの遜りにあずかることにしかないのである。だから、キリスト者が「いいとこどり」の人生を送ることはできない。神から喜びや恵みと平安だけを頂戴し、苦しみは一切御免だと言うことはできない。

しかし、誤解してはならないのは、信者が無駄に虐げられ、抑圧の中にとどまり、悪魔の圧迫の虜とされ続けることが、神が栄光をお受けになる手段ではないことである。むしろ、信者はそうしたすべての圧迫の中で、これに勝利する力を信仰によって得なければならないのである。

信者にとって地上の苦しみとは何なのかと問えば、それは、苦しみを通して信者に突きつけられる地上的な限界のことだとも言えよう。信者は患難を通り抜けることによって、恐れや、不安や、自分自身の限界を痛切に感じる。しばしば、自分自身の人生を照らされ、自分の誤りの多い選択を振り返り、もしかしてこれは避けることので来た苦しみではなかったかと考える。

しかし、信者は自分の抱えるあらゆる限界や愚かさにも関わらず、それに対して自分の力によってではなく、ただ信仰に立って、キリストにより、絶え間なく、この限界に「NO」を突きつけるのである。つまり、信者は、「自分にはできないが、神にはできる」という確信に立って、迫りくるすべての苦難に立ち向かい、それを乗り越えるのである。信者はこの地上で圧迫を受け、苦しめられ、追い詰められもし、そのような出来事が起きた原因がどこにあるのかさえ分からないことが多いが、絶え間なく、これらの地上の圧迫に対し、地上の限界ある人間としての自分自身に基づいてではなく、天的な人である「キリスト」によって、立ち向かい続けるのである。その時、そのパラドックスの中に、神のはかり知れない力が働く。

従って、信者が患難を通過することによって得られる天の栄光とは、信者が苦しみに翻弄され、悪魔に圧迫され続ける立場に受け身に立つことを意味せず、自虐的的で、自縄自縛の立場に身を置くことを意味せず、むしろ、それとは反対に、信仰によってそれらの圧迫を内面的に打ち破り、これに勝利する秘訣を学ぶことにある。信者の人生には、絶え間なく外側で様々な事件が起き続けるであろう、しかし、信者が苦難に勝利する力を学ぶと、それらの出来事が、信者の内面に影響を及ぼさないようになる。いかなる現象が起きようとも、どのように自分自身を脅かされようとも、信者が大胆な確信に基づいて、キリストの復活を宣べ伝えることが可能になるのである。

パウロは書いている、

「しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。

私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。

ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する賞賛が届くのです。」(Ⅰコリント4:3-5)

パウロは神の力ある使徒であったにも関わらず、兄弟姉妹と呼ばれた人々からも中傷されたり、あらぬ疑いをかけられたりもし、兄弟姉妹ではないこの世の人々からは、まして誤解され、憎まれ、迫害され、しばしばあらぬ罪を着せられて法廷にも立たされ、弁明を求められたりした。

このような迫害を使徒たちも経験したというのに、今日、キリスト者がこうした誤解や偏見や対立や苦難を全て避けて通ることができると考えるのは大きな間違いであろう。もしそのようにいかなる対立も迫害も生じないのだとしたら、その信者の信仰生活は何かがおかしいのだとはっきり言える。

しかしながら、パウロは、この世の目線に立って、人間の見地から、自分に対して下される評価や「人間による判決」をものともせず、「私は自分で自分をさばくことさえしません」と述べた。パウロはかつては熱心なユダヤ教徒であり、教会の迫害者であり、それゆえ、クリスチャンからは回心当初は恐れられもし、疑いもかけられもしたが、そのような過去でさえ、パウロは神の御前に死んだものとして一切ないがごとくに自分の手から放し、すべてを神の御手に委ね、自分自身では全く過去に拘泥せず、それに限らず、回心後に起きたどんな事柄についても、自分で自分を振り返って犯した過ちとキリストへの従順を勘定して、自分がどの程度義人であるかをはかるようなことをしなかった。

パウロは人前に立たされて弁明を求められる時、自分自身により頼まず、ただ彼を贖い出されたキリストの御名、キリストの義と聖と贖いだけに頼って立ったのであった。それだけが自分を守る防御の盾であることを彼は知っていたからである。彼は、神がいずれ自分を裁かれることを知っているが、神の裁きをも恐れてはいない。神の裁きについて大胆に述べることができたのも、彼が人間の裁きから身を避ける口実として、神の裁きを持ち出していたからではなく、人間の裁きよりもはるかに正確で決して間違いのない、すべてをご存知である神のさばきの前に立たされる時でさえ、確信を持って進み出ることができるという自負を持っていたためである。

その確信に満ちた自負は、地上の人であるパウロ自身から生まれるものではなく、パウロを通して働かれるキリストによるものであった。全身全霊でキリストに従い通しているがゆえに、パウロは、この方が、自分自身を力強く弁護して下さり、義として下さり、神は信じる者の信頼に応えて下さるという確信がったのである。

それだけではなく、パウロは、神の裁きの前に立たされる時、自分が罪に定められることがなく、義とされるばかりか、朽ちない栄冠を受けるであろうことを確信していた。信仰者はただキリストの贖いを信じて神の目に義とされただけでは十分ではない。それだけでは、罪赦されて、ただスタートラインに立っただけのことである。それ以上に、神からの栄誉にあずかるために、地上で勝利を持って試練を通過せねばならないのである。

兵士が戦いを経ずして勲章をもらうことはできず、スポーツ選手が試合を経ないのに賞を勝ち取ることができないように、信者には、この地上において患難を忍び抜くことによってしか、得られない天の栄誉がある。苦しみや圧迫を通して、信仰が試され、すべての試練に勝利する秘訣を学び、キリストにあって、完全に「おとな」にならない限り、神の朽ちない栄冠を得ることはできないことを、パウロは知っていた。だからこそ、救われた後の地上における生涯を、彼はこの朽ちない「神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走る」ことに費やしたのである。

つまり、天で用意されている「神の栄冠」という栄誉を得るために、信者は、この世における苦しみを通され、それを通して、キリストの十字架の死に同形化され、より深く復活の命にあずかるのである。この死を土台とした復活の命の増し加わりこそ、教会の成長の秘訣なのである。

「私たちは、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくさる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。」(ピリピ3:12-14)

ヤコブも同じように、試練、患難、苦しみを信仰によって忍び通すことによってのみ、信者は「何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者とな」ることを書いている。

私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブ1:2-4)

試練に耐える人は幸いです。耐え抜いてよしと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」(ヤコブ1:12)

以上の事から、私たちは、どうすれば信者がキリストに似た者とされるのか、どうすれば、「鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行」くことができるのか、どうすれば、「キリストの身丈まで成長し、完全なおとなとなる」ことができるのか、その秘訣を学ぶことができる。

エペソ書4章11節から16節には、キリストのからだを建て上げるために、信者それぞれに与えられた賜物に従い、教会には役割分担があることが語られると同時に、そうして信者一人一人が賜物に応じて互いに仕え合うことが、信じる者たちが「キリストの満ち満ちた身丈」にまで成長し、「完全におとなになって」、もはや人間の言い伝えに過ぎない偽りの教えに騙されたり、弄ばれたりすることなく、真理のうちにとどまり、キリストに従い抜いて成長するためであることが語られている。

しかしながら、多くのプロテスタントの教会においては、エペソ書のこの箇所は、組織としての教会内の信者の役割分担を示すものと解釈して、教会に牧師制度を置く根拠とさえみなしている。だが、筆者はそのような文脈でこの聖書箇所を引用しない。筆者はそもそも教会というものを、地上の組織としては見ておらず、教会内に町内会やらPTAやら、はたまた学習塾のような、様々な固定化された役割分担を置くことにより、教会の成長を促すことができるとも考えていない。

むしろ、筆者自身の経験に立って言えば、キリストのみからだなるエクレシアの働きは、決して、地上的な組織としての役割分担や、まして教団教派や組織の枠組みにとらわれるものではなく、むしろ、そのような地上的な疑似教会組織と無関係になった時点で、初めてキリストの生きた働きが信者に見えて来るのである。神は人間が人間の意志によって立てた地上の組織のネットワークを通さず、人の思いによらず、人知を超えた不思議な方法で、互いに知らない信者たちをも時宜に応じて引き合わせ、しばしば、予期せぬ形で、塩気を失って死んだこの世の地上組織としての教会の代わりに、この世の不信者からの圧迫でさえも、エクレシアを建て上げる機会として用いられる。

これは、決して不信者が教会の一部となって、教会のために奉仕していると言うのではない。不信者はあくまで教会の外にいて、教会を建て上げる目的でその働きに関わっていないのだが、それにも関わらず、この世の不信者からの迫害や圧迫を、神は教会を建て上げる手段として用いておられるのである。

前回、ステパノの殉教の場面に触れたが、イエスの復活後、このような形でユダヤ教徒による教会への迫害が強まるまでは、弟子たちの宣教によって、神の御言葉を受け入れる人々が地上に増え広がり、神の教会に加えられる兄弟姉妹が増加していた。人の目には、あたかも、そのようにして信者数が地上で増加し、教会が地上で権勢拡大し続けることこそ、教会の「成長」を指すように見えるであろう。

ところが、神は教会の成長を、決して、そのような規模や人数や組織力によってはかられないのである。むしろ、神は、サウロによる教会への迫害、ステパノの殉教などの出来事を許されて、教会が地上で勢力を増して人間的な力の結集する場所となって、強大な組織が建設され、弟子たちが多くの信者たちを従えて宗教的権威となるよりも前に、信者たちを迫害によって散らされ、教会を離散させられたのである。

教会の成長は常にこのように、世からの激しい迫害や苦難と背中合わせで、人間の目から見た繁栄や成功とは真逆の方向性を向いており、真にキリストに従う弟子たちが、大勢の人びとから敬われ、かしずかれ、立派な教師、宗教的権威者として崇められることはない。神の望んでおられる「教会成長」は、これとは全く正反対で、地上における迫害や苦しみや誤解や偏見とは一切無縁の、地上で歓迎され、安泰な地位を築き上げることのできる強力な組織力を意味しないのである。むしろ、神から見た教会の成長とは、量や規模といった、外側から見て誰しもすぐに分かるような基準でおしはかられることはなく、より深く内面的な基準によってはかられ、量よりも質を指していると言えよう。つまり、信者があらゆる苦しみの中を通され、代価を払って、ただキリストだけに従い抜く過程で生まれて来る洗練された従順、献身、信者がキリストの死と復活に同形化されたその程度の増し加わり、神への燃えるような愛の増し加わりを意味するのである。

このようなわけで、筆者は、エクレシアが何であるのかを、信者が肉眼でとらえて理解することはできず、エクレシアというものを、人が地上の組織の中に限定・固定化することもできず、また、エクレシアをキリストにふさわしく建て上げ、成長させるために、神がどのような方法を用いられるのかを、決して人知でははかりしることができない、という考えに立っている。

神がエクレシアを成長させられる手段は、この世の人々が組織を成長させるために考え出すような手練手管とはむしろ反対なのである。この世の人々は、教会に学習塾のような役割分担を設け、専門家による教育訓練を充実させ、入塾した者たちを鍛えれば、それによって教会全体の信仰を成長させることができると思うかも知れない。だが、神は決してエクレシアの成長のためにそんなな方法を用いられることはない。

先の記事でも触れた通り、パウロが述べたのは、むしろ、教会に栄光がもたらされるのは、キリスト者が投獄されたり、迫害されたり、誤解され、排斥され、苦しみを受けるなど、人間の目には決して好ましくない、心地よくない様々な出来事を通してだということであった。そのようにして、一人のキリスト者が苦しむのは、教会全体のためであり、教会全体の利益にかなっていると、彼は述べたのである。

これはまさに人が肉眼で見て、組織を成長させ、発展させる方法とは真逆である。人間の目には、苦しみや、迫害や、組織を弱体化させるものにしか映らないであろう。このような逆説的な方法を用いて、神が教会を成長させておられるとは、信仰者でさえ、信仰によらなければ、理解することはできないであろう。

しかしながら、たとえ人知ではかることができずとも、このような形で、キリスト者が不思議な形で互いに仕え合うことによって、教会が成長して行くのである。信者たちが互いにお世辞を述べあって、互いを誉めそやし、互いに栄光を受け合い、苦しみとは無縁の、人間にとって心地よく安全な共同体を地上に確固として築き上げることで、教会が成長するのではなく、むしろ一人一人が自分の代価を払って、試練を忍び通しながら、キリストに従い抜くその過程で、初めて互いが仕え合うことが可能になるのである。そのようにして、信者一人一人が「完全におとなになってキリストの満ち満ちた身丈にまで達する」のである。

「それが、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。<…>

 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」(エペソ4:12-16)

果たして、今日、キリスト教と呼ばれる宗教が、すっかり人間の安楽と現世利益のためだけの疑似宗教と化している中、このように主のための試練をも甘んじて受け、この世からの迫害や誤解や偏見や危難をも勇敢にくぐり抜け、様々な訓練を通して、神の御手に懲らしめられながら、それでも己を低くしてそれに耐え、苦難を忍び通して信仰を成長させ、キリストの死と復活により深く同形化され、朽ちない神の栄冠にあずかりたいと、心から願う信者は、どのくらい存在するのであろうか? 

そういう信者がどのくらいいるのかいないのか、それは筆者の知るところではないが、苦難と栄光の深い関わりについてのテーマは、この後の記事でもさらに続行して行く。

2017年2月17日 (金)

十字架の死と復活の原則―患難が生み出す栄光―後ろのものを忘れ、ひたすら前のものに向かって進み、キリストが上に召して下さる神の栄冠を得るべく、目標を目指して一心に走る

「なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ14:11)

「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。


 
今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:16-18)

巨大なエクソダスが完了して、不思議なほど心が平安に満たされている。

一つ前の記事で、「キリストに従うことに、そんなにも多くの代償が伴うなら、信じることに何の意味がありますか。キリストを信じたゆえに、世からの理解を失い、迫害されるなら、生きることが前より苦しくなるだけで、信じることにどんなメリットがあるのでしょうか」という不信者の問いを取り上げた。

確かにキリストに従うことには代償が伴い、多くの患難がつきものである。不信者のほとんどはそれを聞いただけで、踵を返すことであろう。ちょうどイエスのために全財産を捨てることをためらった金持ちの青年のように。

だが、キリスト者は、イエスに従うことに伴う代償だけに注目して、恐れ、失望したりはしない。なぜなら、地上における患難が、むなしい代償では終わらず、永遠の重い栄光をもたらすことを知っているからである。

今回は、キリスト者にとっての苦しみと栄光との不思議な関係について、つまり、十字架の死と復活の原則について、信じる者が代価を支払ってキリストに従うことに伴う恵みが、どれほどはかりしれないものであるかについて、少しばかり書いておきたいと思う。

さて、冒頭からまたもや突飛な展開だと言われるかも知れないが、今、筆者が思い出すのは、次の聖書箇所である。これは筆者が好んで使っている箇所なので、以前にも幾度か引用したかも知れない。

「ところが、アンテオケとイコニオムからユダヤ人たちが来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引きずり出した
しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町にはいって行った。その翌日、彼はバルナバとともにデルベに向かった。

彼らはその町で、福音を宣べ、多くの人を弟子としてから、ルステラとイコニオムとアンテオケとに引き返して、弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」と言った」(使徒14:19-22)

パウロは、かつては熱心なユダヤ教徒であったが、主イエスに出会って、十字架の贖いを知り、福音の使徒とされてから、かつては仲間であったユダヤ人や律法学者から激しく憎まれ、妬まれ、執拗に命をつけ狙われ、迫害されるようになった。

上記は、ユダヤ人たちに扇動された群衆に取り囲まれたパウロが、石打ちに遭い、あわや命を失う寸前まで追い込まれる場面である。当時の石打ちは、死罪を宣告する行為であり、つまり、ユダヤ人たちは、個人的にパウロの働きを妬んでいただけでなく、パウロがユダヤ教の教えに基づく律法による義を捨てたことを深く恨みに思っていたので、何の罪も犯してなかったパウロを、勝手に死刑にしようと狙っていたのである。

その恨みと憎しみの背後には、キリストの十字架によって人類が贖われ、罪赦されるという、律法によらない、信仰による義そのものが、決して認められない、というユダヤ人たちの思いがあった。

それは、人が自分の努力によらず、神の一方的な恵みを信じることによって、信仰によって義とされる道が開かれてしまうと、ユダヤ人たちが日々熱心に律法を守って、落ち度なく立派に行動することによって、自分で自分を善人とし、義としている一切の努力が水泡に帰するからである。そこで、ユダヤ人たちは、パウロの宣教によって、自分たちの教えそのものが危機に晒されていると感じ、自分たちの必死の涙ぐましいまでの努力が無にならないために、パウロの宣べ伝えるキリストの信仰による義を何とかして否定しようと、パウロをつけ狙い、迫害し、神が罪赦された聖徒であるパウロをあわよくば再び罪に定めて、自分たちの手で処刑して死に追いやろうと執拗に試みていたのである。

しかしながら、群衆が獣のごとき暴行に満足して、パウロはすでに死んだものと思い込んで立ち去った後、パウロはまるで何事もなかったかのように起き上がり、自分で歩いて町に入って行った。そして、その後、危篤状態に陥ることもなく、入院することもなく、翌日にはもう別の町に向かって出発し、そこで福音を宣べ伝えて多くの人々を悔い改めに導き、キリストの弟子とした。

パウロの身に起きたことは、多くの信者たちを驚かせたと同時に、勇気づけた。すなわち、パウロは、キリスト者には、地上での生涯を終えて、完全に神の国に入るまでの間に、多くの苦難が残っているが、それだからと言って、決して信者が失望する必要はなく、勇気を出しなさいと勧めたのである。なぜなら、神はキリスト者に、地上で受ける全ての患難を乗り越えるに十分な力をお与えになっているだけでなく、信者が地上で失ったものの代償として、天で栄光に満ちたはかりしれない重い褒賞を用意して下さるからである。だから、たとえ地上で予想外の事柄が起き、人々の思わぬ反対に直面し、物事が順調に行かないように思われる時にも、勇気を失うことなく、むしろ、あらゆる患難には死を打ち破ったキリストの復活の命が働くことによって、信者にはいかなる損失も生じず、天の御国に収穫がもたらされることを知って、勇気を出してしっかりとこの道にとどまり、信仰を捨てないようにと勧めたのである。

聖書の他の箇所を見ても、御霊を通してパウロの内に住んで下さったキリストは、パウロの内なる人を通して、彼の外側の限界ある肉体をも強め、人知では考えられない力を与えていたことが分かる。

キリストと共に十字架の死を経ると、その信者を生かしている命は、滅びゆくアダムの命から、死を打ち破ったキリストの復活の命へと変えられる。その復活の命は、キリスト者が地上で使命を終えるまで、信者のすべての必要を供給し、信者がこの世で受ける全ての圧迫を超えて、神から受けた召しを果たす力を与える。

贖われた人々は、自分を生かす命が、キリストの新たな命となったことを知った瞬間から、神の超自然的な命の力が自分を支えていると同時に、悪魔と地獄の全軍勢の尽きせぬ憎悪の前に、自分がキリストの復活の証人として立たされていることを知る。この人間のものではない、超自然的な、神の非受造の命のゆえに、キリスト者を巡っては、暗闇の勢力からの激しい陰謀や妨害を含む、途方もない規模の霊的対立が起きるのである。

信者が主と共に十字架の死と復活に同形化されると、信者の意志とは関係なく、信者を巡って、常識では考えられないような極めて異常で極端な出来事が起きるようになる。だが、それは信者にとっては当たり前のことで、驚くには値しない。逆に言えば、もし信者に地獄の軍勢の憎しみに直面している自覚がなく、何らの激しい対立や圧迫も起きないならば、その人が本当にキリストのものとされているかどうかは極めて怪しい、と言えよう。

さて、筆者は、偽りの宗教体系を含めて、信者が訣別すべきこの世の教えの体系からエクソダスを果たす際には、多くの圧迫や激変が起きることを書いた。そうした圧迫は、人間の目には、無用な苦しみでしかないように見えるかも知れないが、信じる者にとっては、大きな栄光の前触れである。冒頭で挙げた御言葉の通り、キリスト者が受ける苦難には、すべて後々報いが伴うのである。

人間は生まれつき試されることを喜ばないので、神の手から与えられる患難や試練を忍耐強く乗り越え、これを喜んで受けることを学ぶまでには、少しばかり時間がかかる。だが、聖書の御言葉は真実であり、キリスト者が地上で受ける苦難は、どんな種類のものであっても、すべて「軽い患難」に過ぎない一方、これを耐え忍んだ対価として与えられるのは、天での「測り知れない、重い永遠の栄光」である。

だが、不信者は言うだろう、「いや、ちょっと待って下さい。ユダヤ人に憎まれ、扇動された群衆にあらぬ罪を着せられ、石打ちになって殺されそうになることのどこが、「軽い患難」なのでしょう。しかも、パウロは生涯に渡って、ずっとそういう迫害に直面していたのでしょう。」それでも、筆者は言う、そういうものはみな軽い患難でしかないと。たとえ、信者が殉教に至り、地上の肉体の幕屋を破壊されたとしても、それもすべて軽い患難でしかないと。

重要なのは、そのような一つ一つの患難に対して、神はそれをただ耐え忍ぶのみならず、勝利を持って乗り越える力を信者にお与えになり、多くの場合、信者のこの地上での人生がまだ終わらないうちに、それに対する報いとしての天の栄光を垣間見せて下さり、それによって信者が十字架の死と復活の法則が信じる者の内に生きて力強く働いていることを知ることなのである。

「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」という御言葉が意味するのも、同じことなのである。もしキリスト者が、地上では苦難しか味わえず、敵意や、辱めや、嘲笑や、迫害にしか遭遇することなく、その報いとして与えられる栄光や喜びは、すべて死後になってしかやって来ない、などと考えるなら、それはあまりにも大きな間違いである。信者が地上で受ける全ての苦しみは、信者が自分を低くするために与えられるものだが、日々の十字架を耐え忍んだ代価として与えられる栄光を、信者は生きているうちにも、日々見ることができる。

多くの場合、信者が地上で受ける苦しみは、神が信じる者を高く上げて下さることの前触れである。信者は、神が大きな解放の御業をなし遂げて下さろうとしている時には、ほとんど決まって、人の目から見ると苦しみとしか思われない事柄が前もって起きて来るのを理解するようになる。だが、その苦しみは栄光の前触れでしかなく、信者が心騒がせずに神を信頼してこれを受けるならば、そこに、天の法則が働いて、人の思いもかけない解放が起こり、神が願っておられる通りに天の栄光がもたらされる。

キリスト者は、この地上にありながら、内にキリストをいただいていることにより、すでに来るべき世の統治の中に入れられているのであり、天の支配下に生きているのである。そこで、死後を待たずとも、キリスト者の内には、絶えず天的法則が働いて、御言葉が実際として成就する。だから、こう書いてある。「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらす」と。

ここで「私たちのうちに働いて」と言われているのは、患難が「私たちキリスト者の内なる人を通過することによって」、重い栄光をもたらすと述べられているのと同じである。

つまり、キリスト者にとって、患難とは、それが自分の内なる人を通過することによって、そこに天の法則が働いて、測り知れない、重い永遠の栄光がもたらすきっかけでしかないのである。その証拠の一つに、石打にされそうになったパウロが、別の町で行った宣教の際に、新たな弟子たちが起こり、天に収穫がもたされたことがある。他にも色々な収穫があったかも知れないが、要するに、パウロが受けた苦難を通して、十字架の死と復活の法則が働いて、人々の魂が神に立ち返り、御国に大きな収穫がもたらされたのである。

このことは、キリスト者が地上で苦しみを受けることによってしか生まれ得ない天の栄光が存在することを教えてくれる。だが、誤解してはならないのは、これは決して信者が自ら苦しみを求めて良いという意味でなく、人が自分で自分を苦しめることとは全く異なる。信者の意志とは関係なく、神が許されて、地上で患難が与えられ、信者がそれを己を低くして信仰によって受け止める時、天で大きな報いが伴うのである。

さて、信者の「内なる人」とは、キリストと言い換えても良いかも知れない。確か、ウォッチマン・ニーがどこかの解説に書いていたように思うが、キリストの御霊が、信者の内側に住んで下さることによって、信者の内側では、御霊と信者の霊とが分かちがたく結びついている。

これはちょうど一人の人の中に二つの人格があるようなものだが、しかしながら、それは病的な二重人格ではなく、あるいは、ローカルチャーチの教えのように、「神と人とが混ざり合う」ことでもない。キリストと信者との結合は、ただ霊においてのみの結合だからである。

信者の内側で、キリストの人格と、信者の人格は、互いに分裂して押しのけ合ったり否定し合ったりすることなく、調和の取れた形で不思議に同居している。それが、キリストの人格が、御霊を通して、信者の内に住んで下さることの意味である。だが、それは自動的に達成される調和ではなく、信者の側からの協力が必要であり、信者にはキリストの人格を無視することもできるし、拒絶し、否定することもできる。もし信者がキリストの御声に聞き従うのをやめれば、キリストの人格は信者の中で働きをやめ、その状態が続けば、御霊はやがてその信者を去るだろう。

正常な状態の信者にあっては、信者の「内なる人」が、キリストの内住によって満たされ、強められているがゆえに、信者は外側ではこの世の滅びゆく肉体を持った有限な存在に過ぎず、魂においては、地上の人としての記憶や意識を持っているが、それでも、信者の内側には「キリストの成分」とでも呼ぶべきものがあって、それが信者の「内なる人」を形成するのである。つまり、信者の「内なる人」は、信者自身の霊と、キリストの御霊との結合から成り、この二つの人格を共に指していると言っても良い。

それゆえ、信者が地上で苦しみを受け、患難が鋭い矢のように信者の内側を通過してその存在を射るとき、その苦しみは、ただ信者という一人の人間を通過するだけでなく、信者の内におられるキリストをも通過するのである。それによって、ただ地上の滅びゆく有限なる存在としての人間が苦しめられただけでは、決して起き得ない現象が起きる。つまり、信者が受けた苦しみが、天ではキリストの受けられた苦しみに加算され、それが天の権益に関わる事柄として受け止められ、そこに天の法則が働いて、栄光に満ちた収穫がもたらされるのである。

パウロが「キリストの苦しみの欠けたところを満たしている」と言った言葉の意味はそこにある。キリストが十字架で受けられた苦難は、それ自体、完全であって、人間によって補わなければならない欠点はない。だから、信者が地上で苦しみを受けることで、キリストの御業に何かをつけ加えたりするわけではない。だが、それにも関わらず、神は地上において、あえてキリスト者一人一人が、主イエスに従う過程で苦しみを受けることをお許しになる。神はそれを通して、信者一人一人を練られ、ご自分にならう者として鍛え、その心を吟味されると同時に、さらに、その苦しみを通して、信者に栄光をお与えになり、何よりも教会に栄光をもたらされる。上記の御言葉は、前後を踏まえて引用すると次のようになる。

「ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです
私は、あなたがたのために神からゆだねられた努めに従って、教会に仕える者となりました神のことばを余すところなく伝えるためです。」(コロサイ1:24-25)

つまり、パウロが受けたような迫害は、キリストのからだなる教会のためだというのである。パウロは教会に仕える者として患難を受け、そこに天の法則が働いて、神の国に収穫がもたらされるのだというのである。

この死と復活の法則は、ステパノの殉教にも当てはまるだろう。パウロの回心という巨大な事件は、ステパノの殉教なしには起こらなかった出来事であると考えられる。

キリストの弟子とされた後、「ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行なっていた。」(使徒6:8)。つまり、ステパノは、イエスの力ある弟子であった。これに対し、その当時、パウロ(サウロ)はまだ青年で、キリストを知らず、熱心なユダヤ教徒として、教会を迫害する側に回っていた。サウロは個人的にステパノの石打に大いに賛成しており、群衆によるステパノ殺害の場面にも立ち会っていた。

しかし、当時は何のためらいもなく、確信を持って、ステパノを迫害する側に立っていたパウロが、ダマスコ途上で復活のキリストに出会って、キリストの僕に変えられる。この出来事は、直接的には、ステパノの死とは関係がないように見えるが、それでも、これは信仰者の目から見ると、ステパノが受けた患難なしには決して起き得ない収穫だったものと思われる。

ステパノが殉教した場面で、彼が群衆に向けて語った最後のメッセージの締めくくりと、群衆の反応を、ここに引用しておこう。ステパノは群衆に向かって言った、

かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです
あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか
彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。

あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。

人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした
しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、こう言った。
「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」

人々は大声で叫びながら耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。そして彼を町の外に追い出し、石で打ち殺した

証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。

こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。

「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。」(使徒7:51-60)

前の記事で引用したイザヤ書の預言の通りである。ユダヤ人たちは、福音を聞いても耳を塞ぎ、神の御言葉を携えてやって来たイエスの弟子たちを見ないために目を覆った。彼らは、自分たちは律法を守り、落ち度なく行動しているという自負のゆえに、信仰による義を認められず、福音を全くの有難迷惑として退けた。彼らは福音をただ受け入れなかっただけでなく、福音を語った神の僕にも、尽きせぬ憎しみを燃やし、迫害し、石で打ち殺すまでに至ったのである。

これは、決してユダヤ教対キリスト教などといった対立構造を示すものではなく、神の義対人類の義の霊的対決を示すものである。すなわち、ステパノが神の恵みとしての信仰による義を語って、人類が自らの力で神の義に達しようとしている必死の努力を否定したために、有史以来、常に自力で神に到達するためにバベルの塔建設に励んでいる人類が、人類の涙ぐましい努力を否定する神の福音を、人類を冒涜するものとして理解し、これを宣教することが、死罪に当たる「罪」であると考え、福音を聞かないために耳を塞いで、神の義を否定しながら、その証人である神の僕を迫害して殺したことを意味する。こうして、世は人類の存在しない「聖」や「尊厳」を守るために、常に神を冒涜し、神の御言葉を退け、神の僕をも退けるのである。

先に引用したパウロの石打ちの場面とは対照的に、ステパノはここで殉教して生涯を閉じる。しかし、これら二つの場面に共通しているのは、パウロが、ユダヤ人たちの憎しみによって内面的に全く影響を受けなかったのと同様、群衆の激しい憤りと殺意に直面したステパノも、その出来事によって全く魂を触れられなかったことである。

ステパノは群衆が福音を拒絶することや、悪意に満ちた反応を返すことを前もって完全に予測していた。彼は霊的に贖われない人々が福音に対してどういう反応を示すか、理解していたのである。だから、彼は群衆の反応に動じることもなければ、彼らの憤りの前に譲歩することもなかった。彼は憎まれることを承知で群衆の前に立ち、拒絶されることを知っていながら福音を語り、殺されることも覚悟の上で、あえて真理を宣べ伝える神の僕として、最後まで世の前に立ち続けたのである。

そして、群衆の激しい憤りに直面しても、ステパノの人格が傷一つ受けず、動揺することも、悲しみに暮れることも、怒りをかきたてられることもなく、彼の心が、群衆の反応とは一切無関係に、最後まで平静を保ち、外側の肉体の幕屋が傷つけられても、内側では全き平安のうちに、揺るぎなく真理の確信に立ち続けることができるように守ったのは、主イエスご自身であった。

このように、全世界から激しい憎しみと悪意を向けられ、ついには命さえ奪われても、それによって全く微動だにしないような、人知では説明のできない、圧倒的な内なる平安が、ステパノの全人格を覆っていた。それは、パウロも全く同様であった。

このように、神の福音は、これを信じて受け入れた人々を、世から完全に切り離し、神だけに全幅の信頼を置いて、神の僕として立たせる。使徒たちは、人に拒絶されても、誤解されても、否定されても、そのような世の反応によっては全く変わらず、揺るがされることのない、圧倒的な平安を伴う内なる満ちた確信を持っていた。それは、決して相手に見返りを求めない、神の無条件の愛から来るものであり、神の愛が、それに捕えられた人々をも、キリストと同じようにあらゆる苦しみに耐えられるよう励まし、力づけ、勇気づけるのである。

このように、人の目から見て苦難が最大になった時にも、信者がその中でなお真理の確信に立ってこれを力強く守り抜く力を与えるのは、神ご自身である。ステパノの殉教の後、回心したパウロも、やがてはキリストご自身や、多くの弟子たちにならって、殉教することになる。使徒行伝にパウロの殉教の場面は描かれていないが、彼は皇帝ネロによるキリスト教徒への大迫害の時代に、ペテロなどと共に殉教したと言われている。おそらくは、描写もはばかられるような形で非業の死を遂げたに違いないと想像するが、最後までキリストの僕として、喜びと確信に満ちて大胆に主を証しつつ、衝撃的でドラマチックな形で生涯を閉じたのであろう。

このような殉教の場面を、信者ならば理解することができる。人間の目にどのように見えようとも、どれほど多くの人たちが理解せずとも、もし代価を払って主イエスに従うことができるなら、それは言葉に言い尽くせない栄光だと感じるのである。もちろん、人間の努力によってはそんなことは達成できない。誰も自らの目に損失と見えることを願う者はない。だが、信者が代価を払うことに心から同意し、自分の全ての利益よりもキリストを優先することを願い、神に自分自身を完全に捧げるならば、神がふさわしい時に全ての機会を用意して下さり、何が起きても、最後まで動じず、確信に立ち続ける力を信者に与えて下さると、はっきり言うことができるのである。

だが、不信者はこのような話を聞けば、ますます疑念を深めるだろう、「私はそんな人生を送りたくありません。そんなのは狂信者の道ですよ。あなた方の神は、信じる人々にそんな重い代償を要求なさる神なのですか。苦難を与えた上に、命まで捨てて殉教までせよというのですか。一体、そんな人生のどこに「測り知れない、重い永遠の栄光」があるのですか?」

これを人に分かるように説明するのは難しく、以上のような意見の持ち主を説得するのは不可能であろう。ステパノの殉教と、パウロの回心を直接的に結びつけることができないように、どうやって信者の中で患難が栄光を生むのか、それは理屈によって説明できることではない。だが、それでも、「今の時の軽い患難」「測り知れない重い永遠の栄光」と一つに結びついている、というのは確かな御言葉だと言えるのである。地上での些細な苦しみさえそうなのだから、ましてパウロやステパノが辿った殉教がそうでなかったはずがないのである。

ダマスコ途上でパウロに現れた復活のキリストは、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(使徒9:5)と名乗られた。このことは前述した通り、キリストのものとされた信者たちの内側には、キリストが住んで下さっており、その意味で、彼らはただの地上の人間ではなく、彼らは「キリストのからだ」を構成しており、それゆえ、信者たちの内面を苦しみが通過する時、それは信者の中におられるキリストの人格をも通過することを意味する。だからこそ、信者たちが受けた苦しみを、神はキリストが受けられた苦しみと同じものと考えられ、イエスは、迫害されている教会が、ご自身であると言われたのである。

ここに、教会を迫害することの恐ろしさがある。今までにも書いて来たように、神に贖われてエクレシアとされたクリスチャンを迫害することは、あれやこれやの地上の人間を苦しめることだけを意味せず、キリストの御身体だを傷つけることを意味し、文字通り、「キリストを迫害する」ことと同義だからである。パウロの場合のように、その人々がまだ福音を知らず、回心する余地が残っていれば良いが、もっと恐ろしいのは、群衆を扇動した首謀者としてのユダヤ人や律法学者や、あるいは、福音を知り、キリストの弟子を名乗りながら、神を裏切ったような人々に、果たして、悔い改めの余地があるかどうか分からず、場合によっては、アナニヤとサッピラに降りかかったような報いが及びかねないことである。

パウロは書いている、「ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。その中には、ヒメナオとアレキサンデルがいます。私は、彼らをサタンに引き渡しました。それは、神をけがしてはならないことを、彼らに学ばせるためです。」(Ⅰテモテ1:20)

御使いたちをさえさばく権限を持っている教会は、信者を名乗りながらも信仰を捨て、御言葉を否定し、神を裏切った人々を「サタンに引き渡す」権限をも持っている。昔であれば、それは教会から信者を除名することと同義に解釈されたのであろうが、地上の教会がむしろ不信者によって占拠されている今の状況で、筆者は、これをそういう文脈では解釈しない。「サタンに引き渡す」とは、信者が御言葉を否定する者たちに向かって、その者が「神の家族でなく、兄弟姉妹でもなく、神の守りの外にいて、サタンの支配下に追いやられていることを公然と宣告する」といった意味である。もっと簡単に言えば、信者がある人たちに向かって、「この人たちは私たちと同じ神の家族には属していないよそ者であって、私たちは彼らを守りません。この先、悪魔が彼を好き勝手に翻弄して、彼らの魂を占領しても、私たちはそれに対して一切、責任を負いません」と宣言しているのと同じである。

パウロを通して教会からこういう宣告を受けた二人にどういう結末が降りかかったのかは分からない。彼らに悔い改めの余地があったのかなかったのかも分からない。しかしながら、教会が彼らを見捨てると同時に、彼らの魂が悪霊に引き渡されて、サタンの思うがままになり、その人生が尋常ならぬ破滅へと向かって行ったであろうことは予想がつく。

ステパノは自分を殺した群衆を罪には定めなかった。それは、多くの群衆は扇動されていただけであって、自分が何をしているかも理解していないことを知っていたからである。しかし、それはあくまでそれまで福音を聞いたことがなかった人々に対する神の憐れみであって、確信犯的に福音に敵対し、神の御言葉を闇に葬るために、群衆を扇動してでも、陰謀を巡らしていたような人々の中には、おそらく神の憐れみも届かない人々が含まれていたことであろう。ステパノを拒絶した群衆も、その後、どれだけの人々が悔い改めることができたのか分からない。悔い改めなければ、いずれにしても、罪の報いが降りかかるのである。

このように、クリスチャンは世の人々にとって重大な試金石であって、外見がどんなに無力に見えるありふれた地上の人間であっても、内側に、測り知れない神の力である御言葉を携えている以上、信者の存在を通して、御言葉が人々をふるい分けるのである。信者の内におられるキリストが人々をふるいわける。そのため、御言葉を宣べ伝える使者が現れる時、人々の心の内に隠されていた、人が思ってもみなかったような内面が明らかにされる。多くのパラドックスが生じ、人の目に賞賛されていたものの醜さが明るみに出され、人の目に正義と見えていたものが、むしろその逆であることが判明し、ある人々は、御言葉につまずいて、あからさまに福音の敵と化す。ここで、応答の方法を間違えると、その人の人生全体が、取り返しのつかない方向へ向かって転げ落ちて行きかねない怖さが存在する。

だが、クリスチャンはある人々を「サタンに引き渡す」ことまではしても、その人の命運に最後まで手を下すことはしない。それは神の領域だからである。そこで、暗闇の軍勢との激しい闘いの中にある時、信者は、どこまでその闘いに関与して良いかについて、その程度をも、神に教わる。

たとえば、かつては兄弟姉妹と呼ばれた信者の中から、福音を否定し、教会の迫害者となるような者たちが現れ、彼らに勧めても、説得しても、何の効果もない場合、ある時点を境に、信者は彼らを公然と「サタンに引き渡」し、その人間どもから手を引かねばならない。神に逆らう人々をいつまでも相手に語り続けることがキリスト者の使命ではないからである。

そして、「サタンに引き渡」されたその瞬間から、彼らの存在は、聖徒らの全く手の届かない領域に去る。すべてのつながりが断ち切られ、彼らに降りかかる一切の事柄の責任は、聖徒には及ばないものとなる。そうなると、聖徒らはもう二度と彼らの命運を気遣うことも、関わることもない。

最近、筆者は、そのようなことを経験したばかりである。ある出来事を通して、あたかも、神が御使いらと共にこう言われたかのようであった、「ヴィオロンさん、あなたはよくやりました。あなたはやれるところまで十分にやりました。しかし、もうこれ以上、この出来事にあなたが関与する必要はありません。ここから先は、私たちの領域です。心配することなく、私たちにすべてを任せなさい。」こうなると、この世的な観点から見れば、決着がついておらず、まだ打つ手が残っているように見える場合でも、信仰的観点から見て、信者はその出来事から手を引かねばならないのである。あとは神と御使いたちの出番となる。

信者は、天と地の前でキリストの復活を証する使命を負ってはいるが、信者の目的は、人間的な思いで人々を説得することにはなく、人間的な観点から見て、すべての人々と折り合いをつけることにもない。この世は、ちょうどソドムとゴモラの町のようなものであって、その町で、キリスト者と住人とがどんな「折り合い」や「決着」をつけることが可能だろうか。

だから、キリスト者の使命は、福音を拒絶する人々を力づくで説得することで、自分の正しさを論証することにはなく、世に向かって語りはしても、世と交渉もしないし、深入りしない。世の敵意に直面しても、世と交渉するうことで、これをやわらげようとはしない。もしも、世に向かって、信者が自己の正当性をどうしても分からせようと、あるいは、何とかして福音を受け取らせようと、御言葉に逆らう世人を説得したり、論争に熱中したりして、世に深入りして行くと、結局、信者は世人の思惑に翻弄され、信仰による義から逸れて行くことになる。

どんなに神の福音が正しいものであっても、それを受けとるかどうかはあくまで個人の自由な選択に委ねられており、御言葉を聞いても従わない人間の末路は、信者の責任の外にある。世は始まって以来、福音を拒絶し続け、神の僕を迫害し続け、キリストを十字架にかけて殺したのであり、今に至ってもその悪しき性質は寸分たりとも変わらず、これを変えることがキリスト者の使命でもない。

だから、信者は、決して世から受け入れられることを願うべきではなく、むしろ、主イエスが地上でどのような扱いを受けられたかを思い起こし、低められることの中に、十字架の死の原則が働くことを思い起こすべきなのである。ソドムとゴモラの住人と、人間的な観点から折り合いをつけたり、彼らから歓迎されたり、理解されることが可能だと思えば、とんでもない間違いに陥るであろう。むしろ、神の目から見て、有益な結果が結ばれるためには、必ず十字架の死をくぐらなければならないこと、誤解や、拒絶や、否定や、蔑みや、迫害があって初めて復活の原則が働くことを思うべきなのである。何より、人が自分を真に高くしたいならば、低くされることに甘んじねばならないのである。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」(ヘブル12:2-4)

主イエスが罪人たちの反抗を耐え忍ばれ、はずかしめをものともせずに十字架を忍ばれたのは、「ご自分の前に置かれた喜び」を見て、来るべき栄光を確信しておられたからであった。つまり、神はご自分に従う者を決して見捨てられず、辱めが辱めで終わらず、苦難が苦難で終わらず、死が死で終わらないことを、予め知っておられたからである。だから、我々聖徒たちも同じように、自分が低められ、卑しめられる時に、落胆するようなことはなく、むしろ、一つ一つの苦しみに対して、天でどんなに栄光に満ちた報いが待ち受けているかを確信しつつ、この天の褒賞をまっすぐに見つめて、喜ぶ。

信者は、キリストの新しい命が、地上で受けるどんな損失をも補って余りあるものであることを確信しており、地上で起きる苦難には目もくれず、天に備えられた栄冠が、すぐそこに見えており、すぐ手の届くところにあることを知って、それだけを見つめて喜ぶのである。

ある信徒は言った、「悪魔は本当に愚かです。悪魔は、キリストを殺せば、復活という、悪魔が最も恐れる出来事が起きてしまい、悪魔の最大の武器である死が打ち破られて、役に立たなくなることを知っていたのです。それにも関わらず、地獄の軍勢は、抑えがたい殺意によって、キリストを十字架につけて殺害しないことがどうしてもできなかったのです。彼は自分で自分にとって最も不利になることをやってしまったわけですね。」

これは信徒が遭遇するあらゆる患難に同じように当てはまるであろう。信者たちは、至る所で、憎しみや、反目や、敵意や、辱めや、殺意にまで遭遇する。地獄の軍勢は彼らを見て歯ぎしりし、聖徒らの背中を踏みつけて、「自分たちは勝った」と誇るであろう。しかしながら、その次の瞬間、思いもかけないことが起きる。聖徒らの受けた一つ一つの苦難の中に、「十字架の死と復活」の原則が働いて、暗闇の軍勢が駆逐され、天の収穫がもたらされるのである。暗闇の勢力が占拠していた地には、復活の旗が立てられ、すべての名に勝る名を持つ方が高く掲げられて、この方が、すべてのものを足の下に踏みつけられる。サタンは彼のかかとで踏みにじられ、聖徒らもこの方と共に高く上げられて栄光にあずかり、共に喜ぶのである。

もちろん、私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。」(コロサイ3:4)という御言葉が完全な形で成就するのは、キリストがやがて再び地上に来られる時である。だが、その時を待たずして、この地上で彼を待っている間にも、聖徒は様々な患難を通して主と共に栄光にあずかり、常に来るべき時代の栄光の前味を知ることができるのである。

この法則は、自分が低められることを拒み、ひたすら自分の正しさだけを主張して、人前に自分を義と認めさせようとしている世人や暗闇の勢力には決して理解できないものである。

今日、「人造のキリスト教」であるキリスト教界は、パウロやステパノのような弟子たちよりも、むしろ、彼らを迫害したユダヤ人や律法学者に似たものとなっている。そこにいる人々は、あらゆる努力を払って、人前に立派な善人と見られ、敬虔な信徒と認められようと、外見を飾り、熱心に奉仕に励み、自分の正しさを人前で主張することをやめられないでいる。彼らはあまりにも心頑ななので、人前に自分を折ることができず、己が罪を認めることもできず、熱心さの上にも熱心さを増し加え、ひたすら努力によって神に到達することが可能であると考えている。そして、彼らが神に至る手段だと思っている熱心な奉仕を否定する者が現れると、尽きせぬ憎悪をむき出しにし、教会から追い出し、迫害を加える。

だが、見落としてはならないのは、クリスチャンは一体、誰の目に義と認められる必要があるのか、という点である。私たちは、神の目に義と認められたいのか、それとも、神を知らない世間の目に認められたいのか、あるいは、クリスチャンの世間の目に認められたいのか、自分自身の目に正しい存在と認められたいのか。

外見的に自分を正しく見せかける能力に長けていることは、人にとって極めて不幸なことである、と筆者は思う。なぜなら、そのような能力が巧みであればあるほど、その人は十字架の死の意味が分からず、己を低くすることもできず、それゆえ、復活の命に至るチャンスが失われるからである。彼らは、自らの巧みな演技によって他者を欺くだけでなく、自分自身をも欺く。自分でイチヂクの葉で編んだ衣装、自らの手で建設した城壁に夢中になって、自分はこれほどまでに精進したのだから、すでにひとかどの人間になったはずだ、と思い込み、自分と同じように精進に励む仲間と一丸となって、人に対してだけでなく、神に対しても、自分たちを集団的に義と認めさせようと迫るのである。

だが、神はそのようにして人間の振りかざす義を退けられる。神が認められるのはキリストだけだからである。聖書にはこう書かれている、キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(ピリピ2:6-11)

ここに、キリストが神の御前に高く上げられたのは、まさに彼がご自分を徹底的に低められ、十字架の死にまで渡されるほど、低められたためであることが分かる。だから、今日、キリストにならって己を低くすることのできない者が、天の栄光にあずかることは絶対にない、と私たちは言える。

こう考えると、自分の義を人前で捨てることができない人間ほど、哀れな存在はない、と言えるだろう。神の御前で己の義を誇って罪に定められたパリサイ人に連なるよりは、そのパリサイ人に罪人と蔑まれ、神の御前で悔い改めて義とされた取税人に連なる方が、人にとっては幸いではないだろうか。自分の中にはいかなる義もないことを認めて、自力で自己を改造して神に達しようとの努力を一切放棄して、自分自身がどうあろうと、ただ恵みとして与えられた神の義にすがることである。キリストの義こそ自分にとっての義であることを信じて、自分自身の努力によらず、これを信仰によって受けとることである、

贖われてキリストのものとされた信者は、もはや決して人の目に自分がどう映るかという基準で、自分を見たり、規定したりしてはいけない。信者がクリスチャンの世間を気にして、人前に敬虔な信者として自分の見てくれを整えようとすることは、極めて大きな誘惑であり、罠である。贖われた人々であっても、その罠に陥ることはありうる。ひとたび、信者が、神が自分をどうご覧になるかという基準でなく、人の目に、世間の目に、自分がどう映るのかという基準で、自分自身を推し量り始めると、その瞬間に、信者は蜘蛛の巣のように錯綜するこの世の人々の思惑に捕えられて自由を失い、信者に与えられた神の完全な義は曇らされ、信者は恐れの念に駆られて、聖書が教える通りに、神の福音を正確に宣べ伝えることが不可能になってしまう。

だから、信者は、バプテスマを通してすでに水に沈んだものを振り返るべきでなく、死んだものの名誉を気遣うべきではないのである。振り返ってはならないものの中に、信者の過去、信者の自己も含まれている。死体のあるところにハゲタカが集まっていたとしても、そんなものは注意に値する現象ではない。死んだ者には名誉も利益も存在しないのである。キリスト者が真に目を注ぐべきは、バプテスマを通して、水から上がった時に、天から注がれた喜び、神から受けた義認、死を経ることによって内側に生まれた、キリストに連なる新しい人、ちょうどノアが洪水を経て初めて足を踏み出した新しい大地に感動し、紅海を渡ったイスラエルの民が感嘆を込めて約束の地を仰ぎ見たように、信仰の人たちが焦がれ、待ち望んだ天の都を、つまり、キリストご自身を、どこまでも追い求めるべきなのである。信者はこの地上における生涯において、肉体の幕屋の中にあって、絶えず呻きつつ、キリストの十字架の死と復活に同形化されて、軽い患難と引き換えに、天の永遠の重い栄光を得る。それを通して、世人には決して分からない不思議な方法で、御心が成就し、天の御国に収穫がもたらされ、信者自身も主と共に栄光と喜びにあずかる。それが、信者がこの地上で信仰によって患難を通過することの意味なのである。

私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。」(ピリピ1:21-22)

「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るため、目標を目指して一心に走っているのです」(ピリピ3:12-14)

これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです

 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています

 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのですそれゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥とはなさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(ヘブル11:5-16)

«地上にあるものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。

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