2018年2月25日 (日)

十字架の死と復活の原則―労働によって自由を目指す偽りの生き方を退け、真理によって自由とされて、御言葉に養われて生きる―

「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたは書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。」(Ⅰテサロニケ5:1-3)

わたしの民よ、彼女から離れ去れ。
 その罪に加わったり、
 その災いに巻き込まれたりしないようにせよ。
 彼女の罪は積み重なって天にまで届き、
 神はその不義を覚えておられるからである。」(黙示18:4-5)
 

最近、あらゆる情報を見るにつけても、エクソダスの時が近づいていると思わずにいられない。筆者の人生は、アブラハムの生涯のように、エクソダスの連続である。

できるだけ早い段階で首都圏を離れるべきだという思いが、最近、どうにもこみ上げて来てならないのだ。バビロンの倒壊がいよいよ始まっていることを、あらゆる兆候から見て取れる。

首都圏に住むことに対する疑問を筆者が初めて抱いたのは、「シン・ゴジラ」という映画を観た時であった。この映画は創作と呼ぶにはあまりにも駄作すぎて、ここで取り上げて論じる価値もないが、筆者は、この映画は創作というより、創作に託した政治的プロパガンダ映画であって、何者かが東京に来たらんとしている戦争の惨禍について告げるために作成した予告映画であるように感じた。

むろん、そのような解釈には何の証拠もないため、同意できない人も多かろうが、筆者は、その映画を観た時、被災地の苦しみや、貧しい人々の苦しみを見殺しにして、富を貯め込み、身勝手な繁栄を享受して来たこの国の主都に、裁きの時が迫っていることを思わされたのであった。その裁きは、ソドムとゴモラのような形ではないにせよ、何者かが東京を戦禍に晒し、火の海にしようとする悪しき計画によって成就されるかも知れないことを思わされたのであった。

ところで、日本政府の悲願は、核武装にある。改憲の先に見えているのは、戦争である。しかも、ただの戦争ではない。核戦争である。

そして、そのようなことが現実に起きた日には、我が国首相は、ゴジラ映画のような「英雄」とはならず、ただ己が野望のために核のボタンを押して、大勢の国民を破滅に晒す独裁者にしかならないであろう。

そういう日が、刻一刻と近づいていることを筆者は感じているのである。東京オリンピックもそうだが、こうした計画はすべて「大日本帝国の復興」という呪われたイデオロギーの延長線上に進められている。そして、筆者はそのような恐るべき計画と、それがもたらす破滅に巻き込まれるつもりは毛頭ないので、首都圏からお暇したいと考えている。

戦争の話はさて置くとしても、それ以外の面でも、この国の未来に暗雲が垂れ込め、滅びが近づいていることは、あらゆる兆候からよく感じられる。

たとえば、裁量労働制について、今国会で行われている議論は、この国にいよいよ国民に底なしの労働の義務を課し、国民が働いても働いても、決して個人に利益が還元されず、すべての利益が国や巨大企業に吸い上げられて行くだけの呪われた社会主義システムが完成されつつあることを物語っている。

アベノミクスの本質は、全体主義なのであるが、アベノミクスの本番の地獄は、いよいよこれからなのである。経済再生などという謳い文句は、詐欺の入り口でしかなく、国民は、夢のような偽りの繁栄の約束と引き換えに、騙されてアウシュヴィッツ行きの列車に乗せられ、今や強制労働収容所の入り口に掲げられた悪名高い看板「働けば自由になる(Arbeit macht Frei)」の下をくぐり抜けようとしているところだ。

こうして、全国民に未来のない労働が強制される時代が到来し、そのしばらく先に、共謀罪による大粛清やら戦争による殺戮やらが待ち受けているのである。

だが、キリストの十字架の贖いによって義とされ、罪の奴隷状態から自由とされたキリスト者が、こんな呪われた運命に巻き込まれる筋合いはないのであるから、我々は自由を勝ち取って生きねばならない。

ちなみに、上記の「労働は人を自由にする」とのスローガンは、「真理はあなたを自由にする」という聖書の御言葉の悪質なパロディであり、悪質な虚偽である。労働を通じて人間が自由を勝ち取ることなど決してできない。

だが、そのような偽りのスローガンは、全体主義体制に共通するものである。ソビエトの強制労働収容所の入り口にも、アウシュヴィッツとほぼ同じような意味のスローガンが掲げられていた。あたかも労働こそ、人民の栄誉と繁栄と自由への道であるかのように…。

当ブログではこれまで再三述べて来たことであるが、このような労働賛美の思想は、歪んで異常な考え方であって、そこで言う「労働」とは、呪われた概念であって、ただの労働を指すのではない。要するに、それは人類が自己の罪を自分で贖い、自力で神に至り着こうとする、神に逆らう計画としての、終わりなき不毛な贖罪行為を指しているのだ。

クリスチャンならば誰しも知っているように、人間の罪は、人が自分で贖うことはできない。どんなに真面目に働いてみたところで、人はわずかでも自分の罪の負債を減らせはしない。

罪の奴隷状態を抜け出て、自由になるためには、真理によるしかない。真理とは、人となって地上に来られ、十字架にかかられた神の独り子なるイエス・キリストであり、御言葉なるキリストのうちにとどまることこそ、自由への道である。

わたしの言葉にとどまるならば、あなたがたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8:31-32)

そこで、この真理を知っている筆者は、"Arbeit macht Frei"との偽りの標語が記された列車に、大勢の人たちと一緒に乗り込むことを拒否して、我先にと順番待ちをする群衆を置き去りに、一人、駅から立ち去る。

カルト被害者救済活動の支持者らは、筆者が輝かしい労働への道に進まず、強制収容所行きの乗車への乗車を拒否して、一人どこへともなく去ろうとしていることを知って、筆者が変人で、あたかもまともな仕事に就けない浮浪者であるがごとくにあざ笑っている。

だが、彼らは自分の身にこれから降りかかろうとしている悲惨な末路を全く知らないのだ。歴史を振り返るが良い。人々は「まともな仕事に就ける」とか、「十分な賃金と、豊かな生活ができる」などの謳い文句を信じて、アウシュヴィッツ行きの列車に乗り込まされた。幸福で豊かな生活が待っていると、これから乳と蜜の流れる土地へ行くのだと、騙されて死への旅路へ出かけて行ったのだ…。

カルト被害者救済活動の支持者らは知らない。政府の唱える「一億総活躍」の偽りのスローガンを信じれば、強制労働収容所へ連れて行かれるだけだと。そこで待ち受けているのは、未来ある労働どころか、飢えと、死だけである。

だから、彼らが自分は金持ちだと言って、貧しい人々をあざ笑っていられるのは、ほんの束の間でしかない。

聖書にはこうある、富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。

ご覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがた支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません。」(ヤコブ5:1-6)


カルト被害者救済活動の支持者らの中には、人助けを職業として選んでいる者も多い。だが、その職業が見栄のためだけであって、自分は人助けをしているのだと人前に誇りながら、不幸な他人よりも一段上のところに立って、上から目線で他者の苦しみを見下ろし、苦しむ人を踏みつけにし、嘲笑するためだけのものならば、その職業は彼らから取り去られ、他の人々に与えられるだろう。

たとえば、社会福祉士は国家資格であるから、法律で欠格条項が定められている。社会福祉士の信用を傷つけ、刑法に触れるようなことをすれば、当然、国家資格を剥奪される恐れが出て来る。

カルト被害者を「冒涜」することは何の罪にも当たらないが、貧しく寄る辺のない国民を誹謗中傷すれば、この世の刑法に触れることになるのだ。

だから、そういうことを考えれば、大淫婦バビロンが「わたしは、女王の座に着いており、やもめなどではない。決して悲しい目に遭いはしない。」(黙示18:7)とつぶやいたのと同じように、自分だけは立派な職業に就いて、豊かな生活を送っているから、あの浮浪者や、この貧乏人とはわけが違うなどと、ゆめ神と人との前で豪語したりするものではない。

バビロンは心の中でそうつぶやいただけで、そのつぶやきを神に見透かされ、罪として裁かれたのだから、そんな呪われた文句を神の教会の前で公然と吐き捨ててクリスチャンを侮辱した人々には、どういう恐ろしい運命が待ち受けていることだろうか。

バビロンは宣告されたのだ。

彼女がしたとおりに、
 彼女に仕返しせよ、
 彼女の仕業に応じ、倍にして返せ。
 彼女が注いだ杯に、その倍も注いでやれ。
 彼女がおごり高ぶって、
 ぜいたくに暮らしていたのと、
 同じだけの苦しみと悲しみを、
 彼女に与えよ

 「それゆえ、日のうちに、さまざまな災いが、
 死と悲しみと飢えとが彼女を襲う。
 また、彼女は火で焼かれる
 彼女を裁く神は、
 力ある主だからである。」(黙示18:6-8)

また、箴言(13:21-23)にはこうある、

「わざわいは罪人を追いかけ、幸いは正しい者に報いる。 善良な人は子孫にゆずりの地を残す。 罪人の財宝は正しい者のためにたくわえられる。 貧しい者の開拓地に、多くの食糧がある。 公義がないところで、財産は滅ぼし尽くされる。」


このように、義のないところでは、富は長続きしない。罪人がどんなに豊かに財産を蓄えたとしても、それはすべて罪人の手から取り上げられて、義人の手に委ねられる。義人は貧しく見えても、その開拓地には多くの食糧を持っており、子孫のために財産を残す。

繰り返すが、罪人の富は義人のために蓄えられるのだ。カルト被害者救済活動の支持者らは、愚かな行為に及んだクリスチャンを非難して言う、民事で巨額の賠償金を支払って和解しても、刑事ではずっと捜査が続くのだと。だが、その言葉は、クリスチャンを非難し、教会をあざ笑っている彼らにそのままお返ししよう。

目に見える地上の神社に油をまく行為は、世間から見れば迷惑千万であり、かつ文化財を毀損する罪かも知れないが、滅びゆくものは、放っておいてもいつかは消滅するのだ。だが、キリストの花嫁たる目に見えない教会は新創造であり、永遠性を持つ。そこで、神の聖霊が宿っている教会を冒涜する罪は、未来永劫、赦されることはない。旧創造を毀損する罪と、新創造を冒涜する罪と、果たしてどちらが神の目から見て重い罪なのか、それはこれから公然と人前に証明されよう。

さて、筆者の目から見れば、今やこの国全体に、巨大な不幸が降りかかろうとしているのは明白であるにも関わらず、未だに勤労の精神を説いたり、自分だけはまっとうな職業に就いているから、貧しさや孤独とは無縁で、不幸にはならないなどと豪語している連中は、まさに愚の骨頂である。

この先、この国には「まともな仕事」と呼べる職業がほとんど存在しないような恐ろしい時代が来ようとしているのだ。信仰によって生きるキリスト者以外は、生き延びることさえ困難な時代が到来しているのである。

バビロン体系の中で生きるには知恵が要る。秘訣はただ一つ、世間が奨励するような「まっとうな生き方」を目指すのではなく、神の目から見て、真に「まともな職業」に就くことである。人の目にではなく、神の目に評価される生き方をすることである。そうせねば、結局は、誰一人、生きられない時代が到来しているのである。

そこで、筆者は、"Arbeit macht Frei" との偽りのスローガンの掲げられている広き門に背を向け、「真理はあなたを自由にする」という聖書の御言葉の掲げられた狭き門を入って行く。

キリスト者である筆者は、「不信者とのつり合わないくびき」を負うことを拒否し、自力で罪を贖うために、罪人と共に底なしの罪の連帯責任を負わされることを避け、神に逆らうバベルの塔建設の計画に加担せず、労働によって自由を目指すのではなく、真理によって自由を獲得し、二度と人の奴隷とされることなく、また、自分の貴重な労働の成果を、悪者にかすめ取られたり、怠け者の利益に還元されたり、強欲な雇用主を富ませるために利用されることなく、自分の労働の成果が、天に蓄えられ、真に自分自身に還元されるような生き方を目指す。

これは、信者に無限の献金や奉仕を要求する強欲なカルト宗教からのエクソダスにとてもよく似ていて、気づくのが早ければ早いほど、被害が少ないと言える。

さて、呪われたバビロン経済を脱し、真に正しい神の国の霊的秩序に生きるためには、キリスト者は御言葉の奉仕人でなければならない。詩人が詩人であることをやめて、労働者になっても何の役にも立たないのと同じように、キリスト者は、神の国のために働く奉仕人であり、「天職」に生きるべき人々である。

天に収穫をもたらすことこそ、我々の職業であり、我々の仕事は「人間を漁る漁師」であって、その職は地上のすべての職を超える。キリスト者は地の塩としての役目を果たさなければ、外の暗闇に投げ捨てられ、踏みつけられるだけである。

地上の経済は、キリストの復活の命の統治に服さねばならない。神の霊的な秩序はこの世の秩序よりも優先する。その順序は決して入れ替わることはない。従って、神の国の霊的秩序に生きる人々のために、地上の経済は仕える立場に置かれるのである。

牧師でさえ言う、御言葉の働きのために報酬をもらうのは当然であると。そして彼らは地上の職業から遠ざかっているではないか。

だとすれば、まして真にキリストに従う奉仕者たちのためには、神が必ず天に報酬を備えておいて下さる。蒔くことも、刈ることもしない空の鳥や野の花のために、神がすべての必要を備えて彼らを養って下さっているのだから、キリスト者が、自分で自分を養うために、奴隷的強制労働などに従事せねばならない筋合いはないのである。

そういうわけで、未だ勤労の精神を説いたり、人の目に認められようと、お国のために役立つ人間になろうと努力しているカルト被害者救済活動の支持者らは、大変な思い違いをしているのである。

彼らが仕えている地上の国は、彼らを滅ぼすだけで、決して幸福にしない。また、彼らが誇っている地上の「まっとうな職業」も、糞土にも値しないものであって、人を滅びにしか導かないものであることは、やがて多くの人の目に明白になるだろう。

欺かれてはならない。狭き門から入る人は幸いである。

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。

あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができおうか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:25-34)

2018年2月24日 (土)

十字架の死と復活の原則―キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている―

暗闇の勢力に立ち向かう事件は相当に進展している。聖書の裁判官とやもめのたとえのごとく、世にはしつこく訴え続けることで、初めて真実が取り上げられる事柄も多数、存在するのだと、筆者は、これまでの様々な戦いを通じて痛感して来た。

できるなら、聖書に登場するやもめのように、神をも畏れぬ裁判官を延々と説得したいとは思わない。それはあまりにも骨の折れる仕事だからだ。だが、高慢な役人、冷血な裁判官、あくどい弁護士、冷酷な上司、事なかれ主義の従業員・・・、ここに列挙できないほど、実にほとほと嫌になるような性格の人々を相手にしながら、筆者はこれまで幾度も自らの主張を訴えて、戦って来た。

その過程で、重要なことが見えて来た。相手がどんな性格の人間であれ、とことん真実を訴えて成果を引き出す秘訣が分かり始めたのである。

ところで、主イエスが語られた不正な裁判官とやもめのたとえを思い出す際、常に筆者の脳裏に思い起こされるのが、あるウクライナのおばあちゃんである。

筆者がウクライナの首都を旅行していた時のこと、我々の一行はまだ明るいうちに街の目抜き通りで警官に呼び止められた。パスポートを出せと言われ、出すと居住登録の書類に不備があるとけちをつけて来る。これは元共産主義国ではよくある言いがかりで、暗黙の賄賂の請求である。我々が抗議しても全く言うことを聞いてくれない。

ところが、その時、我々の一行と共にいた小柄で物静かなおばあちゃんが、突如、体全体から振り絞るような声をあげて、ものすごい剣幕で警官に食ってかかったのだった。

「あんたたち、恥を知らないの? 神をも畏れず、白昼堂々、こんな街中で、市民に何という言いがかりをつけるのよ! この人たちは私の大切な客人なのよ! まだ学生なのよ! 私たちの国の文化を学ぶためにやって来た大切な客人なのよ! 私たちはちゃんと役所に行って手続きもしたのよ! 書類に不備なんてないわ! 私の客人に、あんたたちに指一本、触れさせやしないわよ! 全く恐ろしい、世も末だわ! あんたたちみたいなならず者が、自分の小遣い稼ぎのために、白昼堂々、こんなコソ泥みたいな真似して、貧しい市民や学生に言いがかりをつけて最後のなけなしのお金まで奪い取ろうっていうの? 神はすべてをご存じだわよ! あんたらに良心の呵責はないの! こんな卑怯な真似していないで、さっさと自分のやるべき仕事を果たしなさいよ!」

・・・これは筆者の想像で、実際にはウクライナ語のため、おばあちゃんが叫んでいる内容は、ほとんど分からなかった。だが、それでも心は伝わる。ちょうど大斎期のシーズンで、おばあちゃんは水と黒パンしか口にしておらず、精進の最中だった。色々と宗教的な言い分がちりばめられていたことは分かった。

警官らは、おばあちゃんの圧倒的な剣幕にたじたじとなり、青ざめながら、後ずさりして、「いいか、今度、同じようなことがあったらな・・・」という捨て台詞を残して、我々から手を引いて、立ち去って行った。

おばあちゃんの圧倒的な勝利だった。

だが、何事も執拗に訴えさえすれば、成就するということはない。嘘も百回言えば真実になるということは決してなく、そういう考えは誤りである。真実でなければ、訴えても、嘘の岩盤を貫き通す強度がない。だが、もし訴えの内容が真実であるならば、あきらめず何度もとことん訴えれば、いずれ固い岩盤をも通過する。 

さて、今は事件の関係で詳しく記すことはしないものの、筆者はある記事を思い出している。

それは、筆者に長年敵対しているカルト被害者救済活動の支持者の一人が書いた「干潟は水が腐っているわけではない」という記事である。

残念なことに、この記事の著者は、その後、記事の中で自ら言わんとしていたことのはかり知れない重要性に気づくことなく、思索を途中でやめて、むしろその内容を否定して、180度、違う道を歩み始めてしまった。

しかし、筆者は今ここで、この記事の重要性に改めて言及しておきたいのである。

記事の著者は言う、干潟は、泥沼のように見えるため、外観が悪く、世間には全く有用性がないかのように誤解されがちだが、事実は全く逆で、干潟では、神秘的、奇跡的なほどまでに、環境浄化の作用が働いており、自然界の恵みある有用な働きがなされているのだという。

九州地方には世界的にも珍しい大きな干潟がたくさんある。その歴史的な発生の過程については今は省略するが、当時、この自然界の恵み豊かな由緒ある干潟を根こそぎ破壊しようとしていたのが、農水省が強行している大規模公共事業であり、その公共事業には、巨大利権を巡って、官僚、政治家、様々な業者などが群がっているという。

と、記事の著者はここでいきなり話題を変えて、プロテスタントのアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密氏の記事に言及し、村上氏の主張を批判する。

村上氏は、自らの記事の中で、公共事業によって、水が腐った地帯に過ぎない干潟が開拓されて、人工的に河川が造られ、水はけが改良され、穀倉地帯ができたことを素晴らしい成果であると述べて、干潟の悪水を抜くことを、人間の心の中にある悪水を抜くことになぞらえて評価する。

しかし、こうした村上氏の主張を引き合いに出しながら、記事の著者は、これを完全に的外れで不適切なたとえとして、痛烈に批判しているのである。

つまり、この記事の著者に言わせれば、干潟は水の腐った地帯などではなく、むしろ、生態系にとっては極めて有用な作用をもたらすものであり、このように長い時をかけて作られた歴史ある自然界の恵みをただ単に「無用なもの」と決めつけて破壊することで、根こそぎの環境破壊にいそしんでいる政府の公共事業の方が、実際ははるかに有害なのである。

記事の著者は、こうして「干潟=悪(旧体制)」、「政府の公共事業=善(新体制)」と決めつける村上氏のあまりにも短絡的で浅はかな理屈を完全に論破し、覆してしまう。そして、一見、人の目には無益かつ無用に見える見栄えの悪い干潟の中に、整然として人目を引き、有用そうに見える公共事業には全く太刀打ちできないほどに神秘的・驚異的な効用があることを訴えるのである。

その記事の著者が「権力」におもねることなく、また、見かけ倒しの成果に欺かれることなく、一見、力のない、不器用で、見栄えも悪い、見捨てられつつある、もの言わぬ「干潟」の側に立ってこれを擁護しているわけだから、胸のすくような主張である。

ところが、残念なことに、この記事の著者は、村上氏が、干潟の開拓の必要性を述べることで、それを人の心の問題(クリスチャンの心の問題)になぞらえていることを理解しつつも、自らの論理を最後まで推し進めて、干潟の有用性についての議論を、村上氏の主張に具体的に適用して、村上氏の主張の根本的な誤りや危険性に言及することとしなかった。

それどころか、この記事の著者は、この記事に対して早速、村上氏から抗議を受けたことを機に、あっさりとその抗議を受け入れ、自分には村上氏に対する敵意があったと反省の言葉を残して、この記事で始めていたはずの極めて重要な考察を自ら放棄・封印してしまい、むしろ、その後は、まるで村上氏の代弁者か、同氏の活動の宣伝広報係のようになって、それまでとは正反対とも言える道を歩んでしまったのである。

暗闇の勢力は、こうして人の心に芽生えた重要な気づきを常に邪魔するものである。その後は、ご存知の通りであり、この人物は、カルト被害者救済活動の支持者の一人として筆者にも深刻に対立・敵対するに至っている。筆者から見れば、村上氏にいいように利用された上、すべての責任を一身に負わされて、切りすてられようとしているのである。

だが、この人物の見解がどうあれ、筆者はその記事で始められた考察のしっぽを取り上げて、それを当ブログでさらに推し進め、その当時、口にされることのなかった結論を明らかにしたいと考えている。

一つ前の記事でも述べたことであるが、干潟についての以上の議論は、聖書における苦しみの効用というテーマとぴったり重なるのである。

村上氏は公共事業による干潟の開拓を肯定的に評価しながら、それを人の心になぞらえて言う。

「人の心も同じだと思います。悩み苦しみが心の中に流れ込み、行き先を失って、潟になっています。悩み苦しみが心の中に溜まったままだと、悪水ぬきが必要です。話を親身になって聞いてくれる人は溝や堀のような存在です。悪水のはけ口になってくれるからです。良くない聞き手は、悪水を逆流させます。悪水をぬけば、悩み苦しみも心の肥やしになり、その人の心を沃野にします。」

だが、本当にそうだろうか? 村上氏のこの記述はあまりにも浅薄に過ぎないだろうか。

何よりも、村上氏の言うように、人間の「悩み苦しみ」は、本当に人の心の中に溜まった無用な「悪水」でしかないのだろうか? しかも、「話を親身になって聞いてくれる」良き聞き手が現れることによってしか、その「悪水」のはけ口はないというのか?

いや、聖書は決してそのようなことは言っていない。

聖書には、神のために苦しんだ無数の霊的先人たちの生き様が記されている。だが、彼らは、周りに一人の理解者も、同情者もなく、ただ神だけが自分の苦悩を理解して、これを受け止めて下さるという境地を一人で切り抜けねばならなかった。

たとえば、正しい礼拝をしたのに、嫉妬のゆえに兄カインに殺された弟アベル、兄弟たちに妬まれ、エジプトに売られ、ポテパルの家でも苦難を受け、長く投獄されたヨセフ、一人で箱舟を建設し続けたノア、イサクを得るまで長い間、サラと共に忍耐せねばならなかったアブラハム、パロの家を捨てて民を率いてエジプトを脱出したモーセ、義人にも関わらず苦しめられたヨブ、ペニンナに苦しめられ、祭司エリにまで酒に酔っていると思われてたしなめられた不妊の女ハンナ、自分の息子にも裏切られ、数多くの苦難を耐えたダビデ・・・

主イエスご自身も、十字架に向かわれる時には、群衆に裏切られ、弟子たちにまで見捨てられ、神の御前にただお一人で苦難を背負われた。

それから、パウロの投獄、ステパノの殉教、その他、その他…、今ここで列挙することが不可能なほど、信仰者たちはみな神のために苦しんだのである。

一体、誰が彼らの苦悩の「良き聞き手」になって「悪水のはけ口」の役割を果たしてくれたというのであろうか?

そのようなことがおできになる方は、神以外には誰もいない。

聖書は、信者の悩み苦しみについて、決して村上氏のような主張をしておらず、むしろ、逆のことを言っている。

「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。

そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。」(ローマ5:1-5)

「つまり、あなたがたには、
キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」(フィリピ1:29)

「今やわたしは、
あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」(コロサイ1:24)

以上の御言葉は、まさしく「苦しみの効能」と言って良いものではないだろうか。

そして、聖書がこのようにキリストのために苦しむことを奨励しているにも関わらず、村上氏が、人間(信者)の悩み苦しみ(≒干潟の水)を、何かあるまじきもの、無用なもの、人の心に溜まった「悪水」のようなものとしてしかとらえず、それを「良き聞き手」(≒公共事業)が話を聞いてやり、心の外に吐き出させることで、「悪水を抜く」ことができるかのように考えている誤りこそ、同氏の誤ったカルト被害者救済活動のベースをなす考え方ではないかと筆者は思う。

このことは、カルト被害者の悩み苦しみをどのように扱うかという村上氏の手法の基礎をもなしている考え方である。

しかし、件の人物も、上記の記事の中で言う、干潟に溜まった水は、決して抜かなければならないような腐った「悪水」ではなく、見かけは泥水のように見えても、干潟の水の中では活発な光合成が行われ、浄化作用が起きているのだと。

同様に、筆者に言わせれば、人間の心の悩み苦しみも、心に溜まった悪水などでは決してなく、その凝縮された苦しみの中でこそ、活発な霊的浄化作用が起きているのである。

むろん、苦しみそのものが人間の魂を浄化できるわけではない。キリスト者の霊と魂を清めることができるのは聖霊だけである。しかしながら、それでも、苦しみがなければ、人間は誰しもすべての逆境を自力で切り抜けることができるかのような高慢な錯覚に陥り、真剣に神を尋ね求めることもなく、祈ることも、信じることもないであろう。

従って、自己過信に陥ることなく、神に従い、自分自身の力によって立つのではなく、真実、信仰によって、神の憐れみと助けによって生きることを学ぶためには、信者はどうしても苦難の中を通ることを避けては通れないのである。

目に見えるカウンセラーや、牧師や、教師たちに、安易に悩みを打ち明けたり、話を聞いてもらい、自分を理解し、慰めてもらおうと願わず、ただ神にのみ、自分の心のすべてを打ち明け、どんなに理不尽な出来事を通過しても、すべてを神の正しい裁きに委ねる時に、信者の苦悩が、神の直接のねぎらい、慰めによって報いられるのである。

誰にも打ち明けることのできない苦しみの中で、信者の魂が練られ、練達が生まれ、希望が生まれるのである。

筆者は一つ前の記事の中で、疑わしい教えを唱えるキリスト教系の団体を通過して来たことを決して後悔するつもりはないと書いた。

異端の教えというものは、空中をうごめく病原菌のようなもので、生きている限り、根絶することはできないが、免疫抵抗力を持つ健康な人にとっては、害にはならない。健康な人も、このような病原菌と共に生きることによってしか、免疫抵抗力をつけることができない。

信者は誰しも了解しているはずだが、我々はこの地上で堕落した肉体を持っている限り、完全に聖なる人となることはできない。クリスチャンの完全な聖化は、復活の時を待たねばならない。従って、完全なキリストの花嫁たるエクレシアは霊的には存在するものの、この恵みの時代(教会時代)に、目に見える形としては、決して存在することはできない。

そこで、我々がどんなに100%純粋で正しい教えを唱える教会や兄弟姉妹を熱心に探し求めたとしても、そのような存在を地上で見いだすことは、100%無理であると断言できる。我々はこの地上にいる限り、誤りやすく、未熟で、不確かな考えの兄弟姉妹や、教会にしか出会うことはできないのである。エクレシアはこの迷いやすく愚かで未熟な地上的な人々を通して、彼らの心の中にある純粋で熱心で揺るぎない信仰を通じて霊的に体現される。

我々クリスチャンは生きている限り、誤謬や、逸脱や、失敗から解放されることがない。そこに我々の悩み苦しみもある。むろん、このことは決して失敗や誤謬の言い訳とされるべきではない。だが、義のために苦しむこともあれば、自分自身の限界から来る失敗や弱さのゆえに、神に従いたいという願いとの間で葛藤し苦しむこともある。神の完全、神の聖を追い求め、どこまでも真実で正しい生き方を追い求め続けるべきではあっても、同時に、地上の不完全な存在であるがゆえに、神の願っておられる完全に至り着けない苦悩も存在する。

異端の教えに深刻な被害を受けるまで接触する必要はなく、そのようなことを勧めるつもりも筆者にはない。以下で記す通り、筆者がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団から離れたように、誤った教えを唱えていると分かった団体からは、離れ去ることを勧める。が、だからと言って、我々が疑わしい教えを100%避けて、完全に正しい教えだけを受けて生きることも、地上にある限り、不可能な相談なのだ。

このことは、カルト被害者にも当てはまる。カルト被害者と呼ばれている人たちは、神を求める過程で、知らずに誤った教えに触れて、深刻な被害を受けた人々である。その人々の苦しみを自業自得と考え、自分ならばそのような愚かな失敗はしないと考えて笑う人々もあろう。

しかしながら、筆者は思うのだが、事の大小の違いはあれど、我々はみなカルト被害者と同じような失敗を通してしか、何が正しい教えであり、何が誤った教えであるのかを学ぶことはできず、正しい教えを識別する機会もなければ、判断力を養うきっかけも得られないのである。

だから、筆者は、そのように多くの痛みを経験しながら歩んで来た人々が、自らその痛み苦しみを恥じるがごとくに「被害者」と名乗る必要はなく、また、そうした苦悩を教会のせいであるかのように考えて、神に従おうと願った自分の信仰までも恥じる必要はない。むしろ、彼らが負った悩み苦しみは、信仰に立ち続けさえするならば、非常に有益な教訓として生かされうるものであり、何ら恥ずべきものでもなければ、あるまじきものでもない。

カルト被害者のみならず、信者の負った悩み苦しみにはどれも深い意義が存在する。問題は、カルト被害者救済活動に携わる人々が、被害者を募り、彼らが教会で受けた悩み苦しみを「あるまじきこと」のようにとらえさせることにより、神を求めて教会を訪れたことを後悔させ、信仰まで捨てさせようとしている点である。

誤解のないように断っておけば、筆者は決して我々が率先して苦しむべきだと言っているのではない。深刻な被害を負う前にきちんと対処すべき事柄は多くあり、打つべき手さえ打たずにただ悪魔のなすがままに翻弄されて苦しめられるべきと言いたいわけではない。

だが、人には自分でコントロール不可能な状況下で苦しみが与えられることもある。

たとえば、筆者は子供時代に、自分では決断することのできない状況で、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に関わることになり、その後、この教団の理念が誤っていると見抜いてこれを離れる際にも、多大なる苦しみを経験した。

だが、今、筆者は、自分の人生を自力で操縦できなかったような子供時代に、この教団に関わったことまでも、まるで自己責任であるかのように考えたりはしない。

神はその当時から、筆者には分からない方法と、深いご計画を持って、筆者をご自分の民として召し、選んで下さっていたのである。そのことは、筆者だけでなく、筆者が子供時代に所属していた教会までもが、後々、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団から離れた事実を見ても、よく分かるように思う。

筆者が子供時代に洗礼を受けると決断した時、家庭内では大きな波乱があり、筆者は大きな苦難に遭遇した。その時、筆者の苦しみを理解する者は、家庭の中にさえ一人もいなかった。それにも関わらず、筆者の神に従いたいという決意は変わらず、それは決して牧師や家族から教えられた結果でもなければ、誰から強制されたものでもなかった。

このように、どの教団教派、どのような組織に属しているかといった問題を完全に超えて、筆者は自分の意志で、目に見える万物を造られた唯一の創造主である聖書の神に従って生きることを決意したのである。

今でも、その決意のことを考えると、感動とも何とも表現しがたい思いがこみ上げて来る。

その当時から、筆者の内心には、自分の人生がどのような終わり方をするのか、筆者の人生は神のために捧げられるのだというおぼろげながらの予感があった。子供時代から、筆者は幾度かそのことを口にしたものである。

筆者には、神のために負わねばならない多くの苦難があることが分かっており、実際にそれを負って来た。世人と変わらない生活を送っていた時代もあったが、それでも、筆者の人生はかならず、神の御前の単独者へと引き戻された。

神は筆者が子供時代から御名のために負って来た代償をことごとくご存じであると今も確信している。筆者自身にはコントロールできない、手の届かないところで起きたすべての事件についても、神がご存じであると思う。そうした事情のゆえに、筆者の受けた苦悩について、筆者を直接、慰め、ねぎらうことができる存在はただ神のみである。

神ご自身しか、そうした出来事が何のためにあったのか、何のために必要なことだったのか、判断できるお方はいないのである。

にも関わらず、村上氏は言う、

「悩み苦しみが心の中に溜まったままだと、悪水ぬきが必要です。話を親身になって聞いてくれる人は溝や堀のような存在です。悪水のはけ口になってくれるからです。良くない聞き手は、悪水を逆流させます。悪水をぬけば、悩み苦しみも心の肥やしになり、その人の心を沃野にします。」


この言葉は、村上氏が自分は「良い聞き手」だと自負しているがゆえに述べている言葉であろう。ある意味で、大した自信だと言える。

だが、その言葉とは裏腹に、村上氏は職務上、知り得た牧師や信徒の個人情報を、あまりにも軽率に取り扱っており、あまりにも口の軽すぎる、信頼できない牧師・相談相手として、カルト被害者の間でさえ有名である。

村上氏はかつて自身のもとに相談にやって来たカルト被害者らの個人情報を加害者サイドの牧師に転送してしまい、それが発覚して、被害者から絶縁を言い渡されたこともあると、筆者は関係者から聞かされている。

また、村上氏は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を離脱した鳴尾教会の山田晃美牧師が、「統一教会に入信していた経歴がある」かのように自身のブログで吹聴しているが、鳴尾教会の公式ブログを読めば、山田牧師に統一教会への入信歴がないことは一目瞭然である。

にも関わらず。なぜ村上氏がそのような虚偽の情報を流布しているのかと言えば、鳴尾教会のブログによると、山田牧師が神学生時代に、(うっかり)身の上話として村上氏に統一教会の話をしたことがきっかけであるという。その際、村上氏の方から、山田氏の話を聞いて、「統一教会に入信していたことにはならないですね」と返答したにも関わらず、村上氏はその時に知り得た同僚の牧師の個人情報を歪曲する形で、デマの流布に及んでいるのである。

それは筆者に関しても同様である。本来、牧師は、自分の教会を訪れた信徒の個人情報を決して口外してはならないはずである。そのようなことは、カトリックの司祭が告解で聞いた信徒の情報を外へ漏らすのと同じくらい重大な職務上の倫理に抵触する行為である。

たとえ信徒が牧師と対立して教会を去ったとしても、牧師は信徒の幸福のために祈るべきであって、自分に歯向かった信徒に報復を果たすために、信徒の中傷を言いふらすような行為は断じて許されるものではない。

にも関わらず、村上氏は、自身の教会に一度でも訪れたことのある筆者に関しても、作り話を公然と流布しており、さらに、上記の記事の著者である件の人物にも、筆者に関する歪曲された情報を提供して、筆者を中傷させることに一役買っていると見られる。

なぜなら、件の人物が公然と流布している作り話の中には、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の中でただ一人、村上氏以外にはそんな思い込みに満ちた誤った情報を作り上げることが誰もできないと分かっている不確かな情報が、数多く含まれているためである(この点については、いつかそれらの誤謬をまとめて記事にする時が来るのを待たれたい。)

もちろん、筆者に対して悪意を抱いていることが明白な人物に対して、故意に筆者の個人情報を提供したりするような人間が、通常のクリスチャンの中にいるはずがないことは明白である。

さらに言えば、聖書において、キリストが長血の女を癒されたり、足の不自由な人を立ち上がらせたり、悪霊につかれた人を解放されたりしたことが明白であるのに、病に陥ってもいない人間に向かって、おまえは人格障害だと宣言し、人格障害は生涯、治らない不治の病だなどと豪語するような人間が、クリスチャンでないことも明白である。そういう人間は、自分にとっては病こそが動かせない永遠のリアリティで、神の癒しなどは信じられず、信仰はかけらも自分にはありませんと白状しているだけなのである。

クリスチャンという存在は、たとえ自分がどんな病にり患することがあったとしても、神の癒しを信じることのできる人々であるが、それ以前に、病にかからないように守って下さる力が神にあることも当然ながら信じている。
 
話を戻せば、村上氏が、筆者に関する事柄のみならず、他の人々との関係においても、職務上知り得た同僚の牧師や信徒らの個人情報を、あまりにも軽率に公共の場所で言いふらしては、自分に好意的でない関係者の信用を貶めるために歪曲して用いている様子を見れば、果たして、このような人物が、「話を親身になって聞いてくれる良い聞き手」と言えようかという疑問が生まれるのは当然である。

むしろ、親身になって話を聞いてくれそうだという外見に欺かれないことの方が重要である。こうした怪しげな牧師や教師やカウンセラーに、「親身になって話を聞いてもらった」結果として、受けた苦悩に対する恨みばかりをより一層、深め、自分はダメな人間だからこんな誤りに陥ったのだなどとくよくよと考えて自分を恥じ、世人と同じようにそつなく生きることだけを目標として自己改善にいそしみ、神を求めて歩んで来た自らの人生の行程を恥じて、やがて信仰までも捨て去るようになるのでは、元も子もない。

このようにして、筆者は、人間の悩み苦しみは、村上氏の言うように、外へ吐き出すことによって浄化される「悪水」では決してないと考える。

人間の悩み苦しみは、そもそも「悪水」になどたとえられるべきものではない。悩み苦しみが心の中に凝縮される中でも、我々が、神を仰ぎ、御言葉の光に照らされて、霊的「光合成」を行うならば、その悩み苦しみの最中から、見事な霊と魂の浄化作用が働き、恵み豊かな神の御業を常に見ることができる。

そして、我々の魂の真の理解者、真の慰め主、ワンダフル・カウンセラーは、キリストのみである。にも関わらず、村上氏の言うように、キリスト以外の目に見える人間の中に、「話を親身になって聞いてくれそうな聞き手」を絶えず探しまわり、そうしてキリストを押しのけながら、あちらの教師からこちらの教師へと、まるで浮草のように移動し、一見、外側だけはきらびやかで有用そうな人間に安易に心を打ち明けようとして欺かれ続けることの方が、はるかに有害で危険である。

繰り返すが、信者の悩み苦しみは、腐った水などでは断じてない。悩み苦しみの中でも、キリストにすべてを打ち明け、御言葉の光に照らされて生きることさえできれば、心はいくらでも肥沃になり得る。悩み苦しみを持って生きることを不格好だと考え、見栄えが悪いがゆえに、そのような生き方は有害で無意味だと決めつける短絡的な考え方をこそ、見当外れな思い込みとして警戒しなければならない。

カルト被害者と称する人々の悩み苦しみについても同様である。一刻も早く悩み苦しみの外に出ることだけを目指している人は多いが、解決は、悩み苦しみそのものをあるまじきことと考えて退けるところにはない。

我々は自ら苦しみを望んだり、その中にとどまり続けようと願う必要はないが、自分にどうすることもできない理由で起きた苦しみまでも、自分の責任で起きたことのように考えて、何とかして自力でそれを解決しようと各種の試行錯誤を重ねたり、それを恥じたりする必要はない。

神に従う過程で、一人一人のキリスト者が歩んで来た道については、神がすべてをご存じである。そして、神は我々が地上で受けた損失を、補って余りあるほどの慰めを与えて下さることのできる方である。

「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩編110:71)とある通りである。(共同訳では「卑しめられた」となっている。)

筆者は、干潟の驚くべき効用と同じように、苦しみのもたらす効用を言葉を尽くして説明することはできない。だが、筆者が苦しみを無用なものと決して思わないのは、そこに十字架の死と復活の原則さえ働くならば、苦しんだことをはるかに上回る慰めと喜びが用意されていることを知っているからだ。

神はキリストを信じて喜ぶことだけでなく、キリストのゆえに苦しむことも、私たちに恵みとして許して下さったのであり、一人一人のクリスチャンの苦難の中の従順を重んじて下さる。そうした従順を通して、キリストの苦しみの欠けたところが補われ、全教会のために豊な浄化作用が働くのである。

よって、筆者はキリストのゆえに苦しむことを恥じるどころか、それを喜びたいと思っている。むろん、世の中にははっきりさせなければならないことがたくさんあり、誤りは誤りとして明白にされるべきである。だが、本当の誤りは、疑わしい教えを吟味しながら、神に従おうとして来たクリスチャンの側にあるのではなく、そうしたクリスチャンの歩みを恥ずべきものであるかのように断罪し、信仰のゆえ、御名のゆえの信徒の苦難を無益で無様で不格好なものとして嘲笑しながら退けようとするカルト被害者救済活動の側にある。

筆者は、主の御名のために歩んできた道と、御名のために負った苦難に、何一つ恥じるべきところはないと確信している。そのために天には豊かな慰めと褒賞が待ち受けていることをも疑わない。

2018年2月14日 (水)

十字架の死と復活の原則―裁きの時には一つの罪でも有罪となるが、恵みが働く時には、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下される

オースチン-スパークスの論説を読むと、キリスト者の中には、神から特別に厳しい訓練を課される者たちがいることが記されている。

そういう者たちは、端から見れば、信じがたいほど絶え間なく困難に見舞われているように見えるだろう。しかも、苦難の規模が通常人をはるかに上回っているため、なぜそこまで苦しまねばならないのか、周りの人々には理解できない。中には自業自得と誤解して責める者もあるかも知れない。

だが、そうした患難には神の深遠なご計画がある。

困難が次々と起きるからと言って、それだけを見て決して落胆する必要はないと言えるのは、これまで幾度となく繰り返して来たように、神がクリスチャンに地上で苦しみを許される時には、必ず、それと同時に天に慰めも用意されているからだ。

つい数日前、筆者はブログを更新していない間に、一つの思いがけない喪失を経験したが、ほぼ同時に、神は大きな慰めを用意して下さっていた。筆者が探してみると、ただちに失ったものを上回るほどの稀有な新しい宝を得ることができたのである。良い人と出会うことができ、受けた損失を補うほどの価値のあるものを得ることができた。

そこで、求めなさい、そうすれば与えられます、叩きなさい、そうすれば開かれます、あるいは、罪が増し加わるところには恵みも増し加わる、と聖書に書いてある通り、どのような出来事が起きても、キリスト者は、落胆することなく、死から命へ、苦しみから慰めへ、天に備えられている恵みだけをまっすぐに見上げ、それを実際にすべく具体的な行動を起こすなら、そうして信仰によって踏み出すと同時に、苦しみの時は束の間に過ぎ去り、豊かな恵みと慰めが待ち受けていることをすぐに確認できるだろう。

繰り返すが、キリスト者には、苦しみもあるが、同時に、その苦しみを補って余りあるほどの豊かな慰めが必ず天に備えられている。だから、クリスチャンの中のある人々が絶えずひっきりなしに困難な状況に見舞われているように見えたとしても、その人には、受けた苦難と比べものにならないような慰めが天に同時に用意されていることをも思った方が良い。そういう人生を送ることは、非常に希少な幸福であると言えるかも知れない。

イエスは言われたのである。

「わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」(マルコ10:29-30)

クリスチャンが地上で福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てて、主に従わざるを得ない瞬間に、失ったものの百倍を受ける時が来るというこの御言葉を思い返しても、信じがたい気持ちになるだけであろう。そういうことが起きる度に、心は悲しみにふさがれ、孤独に苛まれるかも知れない。

実際に、神の御手の中で訓練を受けているクリスチャンが、苦しみの渦中にある時、慰めの方向へ目を向けることは難しい。見えるものに従って歩んでいるわけではない、とどんなに口では言っても、目の前に嵐のような目まぐるしい状況が展開するときに、その出来事に注目しないことは難しい。

さらに、以前にも書いたように、クリスチャンが霊的に巨大なエクソダスを遂げる直前には、特に大きな激動が起きるものだ。キリストと共なる十字架の死を経て、命へと移される直前には、極めてドラマチックな展開があることが稀ではない。だが、その中をくぐりぬける当人にとっては、それは少しも「ドラマチック」などと言って笑っていられる状況ではなく、全世界が自分に敵対しているかのような、まさに生きるか死ぬかのような体験に感じられることだろう。

そのような状況の中でも、失望や落胆に沈むことなく、どんなことが起きても、あるいはそれが自分の過失や、不注意や、愚かさによって起きた取り返しのつかない損失のように見える時でさえ、決して自分自身の不完全さに拘泥することなく、神の憐れみや恵み深さにのみ目を留め、どんな瞬間にも、神を信頼し、天に備えられた希望だけを見つめ続ける姿勢が必要である。そのような姿勢が保たれていて初めて、苦しみと同時に天に用意されている慰めに到達することができる。

だが、クリスチャンの信仰の歩みの中で最も難しいのが、以上の姿勢を保つことではないかと筆者は思う。つまり、どんなことが起きても、決して失望落胆することなく、絶えず自分の不完全さから目を離し、キリストの完全さだけを見つめ続け、自分自身ではなく、キリストに依拠して、神の完全が自分自身に適用されることを求め続ける姿勢である。

さて、聖書には裁判官とやもめの有名なたとえ話がある。

イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。

ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとはしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』

それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(ルカ18:1-8)

このたとえ話は、クリスチャンが神に正しい裁きを求める権利を有していることをよく示している。

もちろん、地上ではすべての市民に裁判を受ける権利がある。世にはスラップ訴訟なども存在し、司法が悪用される危険もないとは言えないが、裁判それ自体が悪ではないことは、誰しも認めることであろう。

上記の聖書箇所における地上における裁判官の描写は、クリスチャンが神に正しい裁きを求めて祈ることのたとえとして描かれている。

だが、その御言葉は、幾分かは地上の裁判にも当てはまるであろう。筆者はこれまで、地上の裁判に対する考え方を少しずつ変えて来た。教会に関わる事柄は依然としてこの世の裁判にかけるべきでないと考えているが、この世に関する事柄は別である。

筆者は、暗闇の勢力がいかに人の正当な訴えを邪魔し、正しい主張を封じ込めようとするかを、幾度にも渡り、見せられて来た。人が自分に保障された正当な権利を取り戻そうとして主張する前に、主張すること自体を諦めさせようとするのが彼らの手口である、と言って良い。

たとえば、ブラック企業が従業員の正当な訴えを封じ込めようとする手口を考えてみると良いのだ。世に言うブラック企業には、往々にして、専属の悪徳社労士や悪徳弁護士が雇われている。彼らは企業が従業員に対して定められた賃金を支払わなかったり、不当解雇を行ったりして、様々な不正かつ不当な措置に出る時、常に企業の味方となって、従業員を黙らせる役割を担っている。この人々は、いわば、口封じのために雇用されている「専門家」だと言っても過言ではない。

このような「専門家」がブラック企業についている場合には、彼らは、企業によって不当な措置を受けた従業員が、決して裁判に訴えて自らの権利を取り戻したりしないよう、事前に様々な文書を送りつけては、訴えを封じ込めようとする。訴えるよりも前から、訴えてもどうせ結果は変わらないので諦めた方が良いと、あの手この手で主張を放棄させようとするのである。

むろん、そのようなことは、社労士や弁護士でなくともできるのだが、強欲な依頼主の要望に従って、そのようなむなしい目的のために自分の専門知識を活用している人々が存在する。本来、そのような人たちは、専門家と呼ぶにも値しないが、彼らはうわべだけは、自分たちが本来の道理を曲げていることを悟られないよう、まことしやかな文書を書き記すものだ。

従業員はそれを見たとき、考えなければならない。本当に、自分が何をしても結果は変わらないのか、それとも、それはそう思わせるためのうわべだけの工作に過ぎないのか。自分に何の責任もないにも関わらず、不当な措置を黙って受け入れ、その結果を自分で身に背負うべきか、それとも、そのような事態は、自分のせいで起きたことではないと、公然と主張して、不当な結果は、不当な措置を行った張本人にお返しして、彼らに背負っていただくのか。

主張するか、しないかによって、人生の結末そのものが変わって来ると言って良い。その争いは、法廷などに持ち出されるよりもはるか前に、従業員の心の中で始まっている。その従業員が、専門家を名乗る連中からやって来る様々な脅しのテクニックにまんまと乗せられて、失望落胆して、自分の権利をみすみす諦め、主張せずに終わるのか、それとも、最後まで不当な決定に抵抗して、正々堂々と自分の主張を打ち出して、権利を取り戻すのか。すべては従業員の心次第である。

多くの人々は、主張することの重要性を考えてみない。専属の弁護士がいるかどうかや、書類が自分で上手に書けるかどうかや、要するに、人数やテクニックの問題ばかりに目を留めて、初めから自分には分が悪すぎると諦めている人が多いものと思う。

だが、本当の戦いは、そのような表面的な事柄にはなく、最も弱い、不利な立場に立たされた本人の心の中から始まる。明らかに不当と分かっている主張に遭遇した時、人がどのような態度を取るか、最後まで勇気を持って抵抗するのか、それとも、脅されれば簡単に諦めるのかどうかにすべてがかかっている。

ある人々は、これまでクリスチャンを提訴して法廷に引き出すことに何のためらいもなかったにも関わらず、筆者にはあたかも彼らと同じように市民としての権利を行使することが全く許されないかのように主張している。

その人々は、筆者がまだ何一つ手続きもしていないうちから、まるで今しも自分が筆者に提訴されるのではないかとでも言うような勢いで、筆者を含む数々のクリスチャンが、彼らに対してスラップ訴訟に及ぼうとしているかのように非難して来た。

だが、彼らの主張を見ても分かることは、彼らは、よほどクリスチャンから訴えを起こされることを常日頃から恐れているに違いないということだけである。

彼らは、何とかして自分が訴えられることを阻止し、自分の主張の不当さが、公然と世人の前に知れ渡るのを避けるために、筆者一人だけでなく、彼らを訴える可能性のありそうなすべてのクリスチャンをさんざんに罵倒したり、脅しつけたりせずにいられないのであろう。

そのような彼らの行動は、自分が罪を犯していることを、内心ではよく知っているがゆえの本能的な自己防衛の心理に基づくものだと言える。

なぜなら、身の潔白を信じている人々は、誰かから不当な訴えを出される可能性があると分かっても、決して慌てないからである。不当な訴えには、ただ毅然と立ち向かえば良いだけであり、訴えられる前から自分を懸命に弁護したり、自分を訴える可能性のある人間を片端から攻撃・非難したりする必要もしない。そのような行動を取る人間は、訴えられれば必ず負けると分かっていて、恐れの心(本質的には罪の意識)に支配されているのである。

筆者は、自分の運命を振り返って、よくよく数奇な歩みだと思わずにいられない。

筆者は、初めの内こそ、教会のカルト化はあってはならないという立場に立ち、カルト化の疑いをかけられた牧師や教会を非難しても構わないという考えを持っていた。にも関わらず、筆者の運命は、その後、それとは全く逆の方向へ転換し、カルト化の疑いをかけられた教会よりも、むしろ、カルトを撲滅すると自ら主張している人間の方がはるかに重大な危険であることが分かった。そこで、前者ではなく、後者にこそ、筆者は立ち向かってもの申さなければならないことが判明したのである。

筆者はキリスト教界の堕落を否定するつもりはない。筆者自身が、当ブログにおいて、プロテスタントの諸団体の中に怪しげな理念のものが数多くあることについて書いて来た。

今ここでは詳しく繰り返さないが、そうした例の中には、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団(および聖霊派の主張)の誤りや、ゴットホルト・ベック氏の集会の理念の問題性や、Kingdom Fellowship Churchの問題もあった。

筆者はこうした集会の理念について、具体的な問題点を挙げ、それを聖書の御言葉と対比しながら、何が問題であるかについて説明して来た。

筆者自身は、教会に牧師制度を導入することに反対である。牧師制度というものは、本来、対等であるべき信徒間に差別をもうけ、信徒の献金で養われる特権階級を作り出すものでしかない。

多くの霊的先人が、この制度が間違いであることを指摘し、ゴットホルト・ベック氏の集会や、KFCなども、表向きは、公然と牧師制度を否定している。こうした集会は、牧師制度を取っていることを理由の一つとしてキリスト教界と訣別している。

ところが、上記の団体は、一方では、牧師制度を否定しながら、他方では、牧師制度とほとんど変わらない固定的な指導者制度を置いている。そこで、これらの集会の現実は、表向きに掲げている理念とは正反対であり、大きな自己矛盾をはらんでいることを指摘し、筆者はこれらの集会の理念と行動の首尾一貫性のなさを非難して来た。

だが、筆者が当ブログにおいて、以上のような見地から、これらの集会の理念と活動を疑問視する発言を行ったからと言って、こうした団体から、筆者に抗議が送られて来たことは、これまで一度もない。対立関係が起きたこともない。筆者の記したブログ記事内容について、彼らの側から教義論争が起こされたり、反対意見が寄せられて来たことも一度もなかった。

そして、このことは、これらの団体が筆者の主張を初めから誤謬とみなして相手にしていないためではなく、もともとこうした団体は、筆者が彼らに関わるよりはるかに以前から、数多くの批判にさらされて来た過去があるためであると見られる。

以下にも記すように、こうした団体は、過去に巨大な分裂、大規模な離反などの騒動を繰り返し経験して来ている。そこで、彼らは批判や離反には相当に慣れているだけでなく、批判者や離脱者を執念深く追いかけては取り戻そうとして脅しつけたり、論争をしかけるようなことをしないのである。

たとえば、ベック氏の集会は、もともと争いを嫌う平和的な性格の団体であり、さらに教養人が数多く集まっているせいもあって、集会の雰囲気そのものが温和で上品で寛容である。兄弟姉妹の間で意見が割れたからと言って、口汚い論争が発生することはほぼなく、兄弟姉妹は、離脱者に対しても寛容で、筆者が彼らと異なる考えを持って集会を離れた後でも、いつでも交わりはウェルカムという態度を崩さない。

つい先日も、知り合いの兄弟が召されたから祈って欲しいという連絡が、その集会の一人の姉妹から来た。そのリクエストの是非はともかく、こうしたことからも、時が経っても、依然として、彼らが筆者を兄弟姉妹の一人に数えている様子が分かる。

残念ながら、筆者はそうした接触を機に、集会に戻ろうとは思わないが、そのような連絡が未だにやって来ること自体が、この集会にいる兄弟姉妹の誰一人として、筆者に憤りを持っておらず、筆者を憎んでもおらず、筆者の考えをあるまじきものとみなして、筆者が考えを改めない限り、二度と受け入れるつもりはない、などという狭量な考えを持っていないことをよく示している。

そして、彼らがそのような考えに立っている理由は、この集会の成りたちを考えてもすぐに分かる。

ベック氏の集会は、もともとキリスト教界に失望幻滅してそこを去って来たクリスチャンが大半を占める。ベック氏のメッセージの中心的テーマの一つにも、キリスト教界には決して行ってはいけないということがある。そして、こうしたメッセージ内容は、ベック氏が独自に編み出したものではなく、古くはハドソン・テイラーや、オースチン-スパークス、ウォッチマン・ニーなどを含め、地上の組織や団体としての教会の欺瞞性を悟り、組織としての教会から離脱し、エクレシアが地上の団体ではなく天的な共同体であるという事実を知って、本来のエクレシアのあり方を追い求めた霊的先人たちから部分的に受け継がれたものである。

こうして、この集会には、キリスト教界を離脱した人々が数多く集まっているため、この集会の信徒たちの多くが、かつて何かの苦い対立や、深刻な失望を味わって、教会組織を出た経験を持つ。それゆえ、彼らは、信徒が牧師や指導者の意向に逆らって、時には悪魔扱いさえされながら、組織と対立し、組織を離脱することの難しさや、苦しみをよく理解している。

こうした背景があるので、この集会の信徒らは、一人の信徒が彼らの集会にやって来るまでの間に、どれだけ数多くの団体で苦い経験を味わったか、どれだけの団体を遍歴したかなどの事実を追及し、あげつらっては、これを非難や嘲笑の材料としたり、あるいは、彼らの集会を離れた信徒をいつまでも悪しざまに言うことをしない。

彼らにとってはキリスト教界は出るべきところであって、教会組織を離れる行為を悪とみなすような考え方は彼らにはない。

むろん、そうは言っても、それでも、彼らが自ら立てた指導者にだけは従うべきと考えていることは自己矛盾なのであるが、だからと言って、この集会が、筆者が集会を去ったことを、指導者に対する下剋上のようにみなして非難して来ることもない。まして、筆者を追いかけて来てまで、戻るよう説得した者もいない。

筆者がその集会を立ち去る前に、筆者を引き留めようとして色々とお説教めいた忠告をして来た兄弟姉妹からは、そのすぐ後に、お詫びと理解して差し支えない内容の手紙が届いた。そこには、彼らとは根本的に考えの異なる筆者を異端者扱いして退けるどころか、依然として、筆者を兄弟姉妹の一人とみなしていることが分かる内容が書かれていた。

このように、この集会の信徒らは、基本的には非常に情の篤い、世話好きで、もてなし上手で、人間的にも好感の持てる純朴な人々である。彼らの信仰のあり方は、日本の戦後間もない開拓時代を思わせるような、極めて単純で素朴なものである。筆者は彼らがクリスチャンでないなどと決して言うつもりはなく、筆者と同じ信仰が彼らの中には全く見られないとも考えていない。

だが、そのように、彼らが極めて好感の持てる人々で、筆者と幾分かは信仰も共有している兄弟姉妹であるという事実と、その集会の理念が持つ問題性は、別個の問題なのである。

筆者はすでに述べた通り、エクレシアにはいかなる固定的な指導者をも置く必要がないと確信している。そこで、この集会が自ら牧師制度を否定しているのであれば、牧師制度に類するいかなる制度をも置くべきでなく、にも関わらず、一人の指導者を祀り上げているのは自己矛盾でしかない。

筆者は、牧師という名であろうと、その他の名称であろうと、人間に過ぎない者を師として仰ぎ、その指導者が教会を管理するようになれば、組織が腐敗することは避けられないと考えている。ただ腐敗するだけでなく、その指導者は、キリストに代わって信者の心と生活を支配するようになるため、反キリストに等しい存在となる。そこで、牧師制度という名称であろうとそうでなかろうと、階級制度としての教職制度自体が教会にはあってはならない、というのが筆者の見解である。

また、以上の集会が家族ぐるみで信徒を取り込もうとすることに対しても、筆者は非常に懐疑的である。なぜなら、聖書は地上における肉の家族の絆がそのまま霊的な神の家族を形成するとは全く述べていないからである。むしろ、地上における肉の家族は、往々にして福音には敵対する誘惑となる。

このように、筆者がとらえている聖書のエクレシアの理念と、以上の集会の理念とは、多くの点で著しい相違がある。このような理念の相違こそが、筆者がこの集会を去った理由であり、人間的な対立は起きていない。起きたとしても、すでに解消されており、そのようなことが本質的原因ではないのである。

にも関わらず、筆者がその団体を去ったことを人間関係の問題に置き換え、すべての問題を、常に聖書との対比において検証しようとせず、ただ人間関係の相克といった低い次元のドラマに置き換えようとする人々は、そのようにして、筆者が組織を離脱した根本的な原因をすり替えることで、牧師制度そのものが根本的に誤っているという、筆者が提起している重大な議論の本質をごまかしているのである。

さらに言えば、その人々は信者を再び人間の支配(組織のヒエラルキー)に従わせ、人間(指導者)の奴隷としたいだけなのである。

そういう人々の理屈は、たとえるならば、ブラック企業を辞めようとしている社員に向かって、「社長の言うことには従うべきだ。権威には従いなさい」と説教するようなものである。社員が過重労働のために死の寸前まで追い込まれても、それでも社長という権威に逆らうことや、組織を離脱することは悪だと教え、人間関係を損なうべきではない(和を乱すべきではない)などという口実で、社員が命を守るために逃げ出すことさえ禁止して、自由を奪おうとするのである。

そのようなやり方で、信者一人一人が、何が聖書の理念に照らし合わせて正しいことであるのか、自分自身で判断して行動する自由を妨げ、人間(指導者)の思惑や支配に盲信的に従わせようとすることこそ、まさにカルトの手口と言って差し支えない。

カルト化した組織では、すべての物事の是非が、聖書の御言葉に照らし合わせて検証・吟味されず、ただ指導者の思惑や、組織のヒエラルキーに従って解釈される。人間の立てた権威や秩序に逆らわずに黙って従うことが、聖書の御言葉に従うことよりも優先される。聖書の理念が、人間の作り上げた指導者制度を支えるための添え物として利用されているのである。

こうして、何が正しく、何が間違っているかという価値判断を、信者自身が行うことを阻止し、人間に過ぎない指導者が代わって行い、その指導者の意向に信者を盲信的に従わせるのがカルトである。

笑止千万なのは、カルトに立ち向かうと豪語しているカルト被害者救済活動の支持者が述べている言葉が、まさにカルトのマインドコントロールの手口そっくりになりつつある点である。

彼らは、筆者が様々な団体を離脱したことを悪であるかのように非難する。しかし、もしそれらの団体が聖書の御言葉に従っていないならば、筆者がそれらの団体を離脱したことは何ら悪でないどころか、離脱しなければ正しい信仰生活を送れないのだから、離脱して正解なのである。

にも関わらず、カルト被害者救済活動の支持者らは、決して聖書の理念に照らし合わせて物事を考えようとはせず、ただ筆者が人間の立てた権威や秩序に従わず、組織のヒエラルキーに従わず、団体内で波風立てる行動に及んで(団体の理念に異議を唱えて)そこを離脱したことを理由に、筆者があたかもそれらの団体であるまじき対立関係を引き起こした(「和を乱した」)かのように筆者を非難している。

そのような彼らの主張には、どこにもクリスチャンらしい判断基準はない。聖書は、「和をもって貴しとなす」という価値観とは正反対の理念に貫かれている。

聖書は、人間の作った地上的な組織の秩序の中で、「波風立てずに行動する」ことを正しい信仰生活のあり方として教えていない。むしろ、多くの点で、聖書の御言葉は、この世の人間関係に「波風立てる」ものばかりであり、地上のすべての権威や支配を超える霊的な秩序を唱えているのである。

従って、彼らが、筆者が地上的な団体を離脱したことを下剋上のようにみなして非難しているのは、彼らが内心では、筆者を人間の立てた権威や制度に盲信的に従わせ、人間の奴隷にしようと目論んでいたことを表しているに過ぎない。

しかも、彼らは、筆者とは異なり、以上の団体に通ったことが一度もなく、それらの団体の実情を少しも知らず、筆者の行動を見て知っているわけでもなく、兄弟姉妹の心中も知らないにも関わらず、ただ筆者がいくつかの団体を去って来たというだけで、その離脱が「悪」であるかのように非難しているのである。

彼らは結局、筆者が人間に過ぎない指導者たちの意向に盲信的に従わず、自分自身で物事の是非を判断して行動したことが気に食わないために、筆者を非難しているだけなのである。結局、彼らの言い分は、筆者は牧師制度の前にひざまずくべきであり、指導者の意向に従うべきであった、ということに尽きる。

これは、組織内で波風立てずに行動することを至上の価値のように唱えるこの世的な価値観そのものであり、もっと言えば、指導者に対する絶対服従を要求するカルト的思考である。

こうして、カルト被害者救済活動の支持者らは、筆者に指導者への絶対服従を要求しているのであり、彼らの思考こそ、笑止千万なことに、どんなカルトよりも、より一層ひどいカルト的思考に陥っているのである。
 
さらに、追記しておけば、ベック氏の集会では、対立など全く珍しいことではなく、筆者が立ち寄る以前から、ベック氏の後継問題を機に巨大な分裂騒動が起きていた。筆者がこの集会を訪れた頃は、かつて一つだった集会が真っ二つに分裂し、互いに論争を続けながら、別々の場所で集会を開いていた。

だが、この集会はもともとかなり平和的な性格の団体であるため、集会が分裂したからと言って、両者の間で、あからさまな中傷合戦や、政治的駆け引き、教会財産の争奪戦のような、あまりにも次元の低い争いが起きることはなかった(と見られる)。分裂した二つの集会は、できるだけ衝突や対立を避けながら、独自に平穏な集まりを続けており、さらに、筆者が驚いたことには、深刻な対立があったにも関わらず、両方の集会を行き来しながら楽しんでいる信徒もいるという始末だった。

このように、元来がジメジメした対立や論争を嫌う、根の明るい性格の団体であるから、筆者がそこを去った後でも、「深刻な対立」やら「相克」は起きようがなかった。

KFCも然りである。KFCもそのほとんどはキリスト教界を去ったクリスチャンから成るため、ここにも、指導者に絶対服従を説いたり、組織や教団を離脱することを「悪」とみなす考え方はほぼ見られない。ウォッチマン・ニーなどを一時しきりに教本のごとくメッセージの土台としていた様子を見ても、地上の組織や団体に信者を縛りつけて従わせようとする考え方には根本的に否定的であると言える。

この団体も会員制度がなく、さらに、時期によってメッセージ内容があまりに大きく変化していることもあり、信徒の入れ替わりが非常に激しい。一時はメッセージに共感していた信徒も、ある時期を過ぎると、着いて行けなくなり、去って行くという具合で、大きな離散があり、古参のメッセンジャーもほぼいなくなって現在に至っている。

こうして、もともと信徒を管理し、団体に縛りつけようとする制度自体がない上に、様々な離反や騒動を経験し、信徒の入れ替わりが激しい以上、その団体に失望幻滅して去る信徒が出たからと言って、それは全く珍しいことではなく、去った信徒がいつまでも悪しざまに言われることもない。

中にいるうちは色々言われるかも知れないが(しかも、外野のようなメンバーを中心に)、むしろ、出てしまえばすっきりしたもので、去った信徒を追いかけてまで嫌がらせを加えるような陰湿さは全くないし、そんなことに携わっていられるほど余裕があって執念深い人間もいないと言える。

特に、KFCには、昔から相当に数多くの批判者がいた。もともとキリスト教界への辛辣な批判を定番としており、キリスト教界側の人々には恨みも買っていたであろうし、彼らに言わせれば、「どこの教会からも落ちこぼれた信徒しか集まっていない」と言われるほどに「異端児的」な団体であるため、筆者が当ブログでKFCの理念に対して相当に深く切り込んだ批判を述べたからと言って、そのようなことはKFCにとって何ら目新しいことでなく、誰一人としてその内容に反駁して来た信者もいない。この団体に残っている人々と筆者との間で対立や論争が起きたことは一度もない(その理由には、この団体の信者の平均年齢が、筆者とは全く異なるため、そもそも共通の理解さえ成り立たないということもあったかも知れない)。

今になって考えてみると、KFCという団体は、筆者の子供時代にTVで放映されていた「ジミー・スワガート・アワー」にも似たような、聖書の教義の中核に迫る議論からはおおよそ外れた、興業的な意味合いの強い集会であったように思われる。もっと卑近なたとえでは、七色に光るイミテーションのガラス玉か、3分で完成するエスニックの即席麺のようなもので、たくさんの香味は効いているが、本質となるべき中核を欠いているのである。ウォッチマン・ニーやその他の先人の教えを数多く引き合いに出していたとはいえ、それもうわべだけの装飾でしかなく、すべては単なるパフォーマンスとして見るべきもので、真面目に論じるだけ時間の無駄であったかも知れない。

また、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団について言えば、この教団は「しるし・不思議・奇跡」を求め、常軌を逸するほど聖霊を強調する過激な集会のあり方のせいで、長らくプロテスタントの中でも、異端視され、排除されて来た過去があることは周知の事実である。この教団がプロテスタントの一部であるかのように公然と認められるようになったのは、比較的最近のことであり、それもキリスト教人口が一向に増加しない中、大衆受けする集会のあり方が功を奏して、この教団の人口の成長率がプロテスタントの他の教団と比べても著しかったためでしかない。

教義面では、依然として、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、聖書研究に重きを置く福音派などの伝統的な教団教派からは、あまりにも思慮分別の足りない「体育会系」に偏りすぎた教団とみなされ、半ば軽蔑気味に退けられる傾向が強い。

そのことは、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を出てから、他の福音派の教団に行って、実際に、評判に耳を傾けてみればすぐに分かることである。だが、そうした評判を待つまでもなく、事実、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、聖書に基づく深い理念の考察を怠り、現象・活動にばかり熱中して来た歴史があるため、もともとしっかりした教義というものが存在しないも同然である。

そこで、伝統的な福音派から見れば、このように聖書研究が考えられないほどにお粗末で幼稚なレベルにとどまっているにも関わらず、異言を語ることや、しるしにばかり重点を置いて、それがないことで、他のクリスチャンを見下し、自分たちが優位に立っているかのように思い込んでいる態度が気に食わないと、半ば軽蔑ぎみに批判されるのも仕方がない。そして、その批判は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団もそれなりに理解しており、昨今は、以前はトレードマークのようであった過激な礼拝のあり方を自粛する教会も増えている。

このように、この教団は、長きに渡り、プロテスタントの中でも異端視されて来た歴史があるので(教義の面から見ても、異端視されて当然の理由(重大な欠陥)があったと筆者は考えるが、今はその問題には触れない)、批判には慣れており、教団を去ったクリスチャンが批判を口にしたからと言って、いちいち目くじら立てることもなく、まして去った信徒を追いかけてまで口封じしようと嫌がらせに及んで来ることもない。

そのようなわけで、筆者はいくつかのプロテスタントの団体を束の間、通過した過去があるとはいえ、現在に至るまで、それらの団体と筆者との間で、対立や論争が続いている例は一つもない。

現在に至るまで、筆者との間で長年、対立関係を深め、筆者の考えを改めさせない限り決して許さないと尽きせぬ執念を燃やして筆者に論争をしかけている存在があるとすれば、それはただカルト被害者救済活動の支持者だけである。

そして、これは極めて重要な事実である。つまり、色々と問題を抱えて欠点が多く異端視されても仕方がない数多くの教会は、筆者を決して中傷したり、論争をしかけて来ないし、打ち負かそうと挑んでくることもない。むしろ、そういうことをして来るのは、正義の旗を掲げて「カルトを取り締まる」と主張している陣営だけなのである。

だから、そのことを見るにつけても、筆者は、牧師制度には反対を唱えないわけには行かず、教義面で多くの問題を抱える教会が数多く存在することも疑わず、地上の組織や団体としてのキリスト教界を擁護するつもりは微塵もないにも関わらず、だからと言って、そのような疑わしい教えを唱える教会がすべて筆者と敵対関係にあるとは思わないし、そこにいるクリスチャンが、ことごとく筆者の兄弟姉妹ではないと言うわけでもない。

ここに、クリスチャンに対峙することの非常な難しさがある。クリスチャンは外見的には、全員が、途方もなく多くの欠点を抱えた、とりわけ未熟な人々ばかりである。この世の人々と引き比べても、何一つ長所が見いだせないどころか、むしろ、格段に劣っているとさえ言える場合が少なくない。何しろ、何かのきっかけで自分の限界を思い知らされなければ、教会になど足を運ぶことはなかったであろうし、神を求めることはなかった。そういう意味で、クリスチャンは、世の人々と比べても、圧倒的に弱々しく、生きるのに不利となる様々な厄介事や困難や弱さを抱えた人々ばかりであり、とりわけ見劣りのする不器用な連中から成っていると言っても過言ではないだろう。

その上、聖書の御言葉への理解や、信仰の成長という点でも、全く芳しくない人々が99%以上を占めるのである。こうなっては世人からは、弁護の言葉もほとんど出て来ないであろう。

ところが、そのように、外面的には極めて弱々しく、不器用で、ぱっとしない、見栄えの悪い人々、そして内面的にも、極めて未熟で、欠点だらけの、愚かな人々に、この世の不信者以上に、神の愛と憐れみが信仰によって及び、義認が行き届いているのが現実なのである。

クリスチャンとは、自分自身の優れた長所によらず、立派で正しい心がけによらず、ただ信仰によって神に受け入れられた人々である。そうである以上、たとえ彼らが未熟であって、その行動が欠点や誤りに満ちており、さらに理念の面でも愚かさと誤りが明白であって、危ない道を歩んでいるようにしか見えなかったとしても、彼らの心の内に、もし真摯に神を信じ、すがり続ける信仰が少しでも残っているならば、その限りにおいて、ただ彼らが未熟で欠点だらけであるという理由だけで、兄弟姉妹ですらないと全否定することは難しく、また、すべきでもないのである。

筆者は、すでに書いて来たように、兄弟姉妹を名乗っている人々に裏切られた回数は数知れず、二度と関わりたくないと嫌気が差した人々や、その高慢さにうんざりした人々も存在する。そういう思いを味わえば、彼らをクリスチャンだとは一切認めたくない気持ちになることも人間としては往々にしてあると言える。いっそ自分は正しく、彼らはみな異端者だと決めつけてしまえば、気も楽になるであろう。

だが、誰がクリスチャンで、誰がそうでないのか、その線引きは、筆者がすることではなく、その線引きは非常に難しく、判断は極めて慎重でなければならないと思う。たとえあるクリスチャンの欠点や非が明々白々であって、また、そのクリスチャンが筆者を再三に渡って裏切り、打撃を加えて来たような場合であっても、もし筆者が彼らを全否定すれば、それによって神を敵に回してしまう危険性が十分にありうるためである。

それだからこそ、筆者は、特定の人物をその人格の未熟さや行動の欠点を取り上げて非難することをできるだけ避け、むしろ、その人物の主張の内容や、特定の集団に流れる思想・理念の問題を洗い出し、理論面からの批判にとどめるように心がけているのである。そして、ほとんどの場合、理論面から問題を洗い出すと、そこに異端思想の共通構造が隠されていることが分かって来るのである。

つまり、敵はあれやこれやの人間ではなく、神に敵対する思想なのである。そして、悪魔から来る思想の基本構造とでも言うべき、異端の型というものが存在することを、筆者は当ブログで再三に渡り、繰り返して来た。

そのようなわけで、あれやこれやの危うい歩みをしているクリスチャンを敵のようにみなして非難することによっては、何ら異端の問題は解決しないのである。そのような方法は、まるで病原菌を根絶するために、感染した人間を全員殺しましょうと言っているのと同じほどナンセンスである。

つまり、教会の堕落は看過すべきでない問題であるとしても、一部の堕落のために、エクレシア全体を否定することは避けねばならず、そのような極端な議論を容認すると、恐るべき結果が生まれるのである。

見かけ上は肉的であり、堕落そのものにしか見えない教会であっても、そこに信仰によって霊的なエクレシアの成分がわずかでもあるとすれば、すべてを否定するわけには行かないのである。たとえ神社に油をまくようなクリスチャンや教会が出て来たとしても、そのような恐るべき行動に及ぶ人々も、やはり教会の末端に位置する以上、そこには、嘘と真実、信仰と不信仰が混じり合い、本物も少しは紛れ込んでいる可能性があり、それにも関わらず、行動があまりにも未熟かつ異常だからと言って、一概にすべてを異端と決めつけて退けてしまうと、本物のエクレシアの成分さえも否定することになってしまうという難しさが存在するのである。

かつて教会の迫害者であり、クリスチャンを断罪して殺すことに加担していたパウロでさえ、あのような回心を遂げたわけであるから、神に対する熱心さのあまり、逸脱を犯している信者らについては、判断は慎重でなければならない。

神社に油をまくことが、神の国に奉仕することでないことは、聖書的観点から見て明白であり、そのような行為は、この世的な観点から見れば、言語道断でしかないであろうが、それでも、そのような行動を本気で正しいと信じるクリスチャンの中にも、1%でも純粋な信仰があるならば、我々は、その行為の表面的な愚かさと迷惑さ加減だけを取って、彼らをクリスチャン失格であるかのように決めつけることができないのである。もちろん、そうした行動は正されるべきではあるが、それはあくまで同胞としての忠告によって是正を試みるにとどめるべきであろう。

このようなわけで、筆者の目から見れば、最も重大な危険は、未熟さや愚かさや過ちがあまりにも明白すぎるために、誰からも「カルトの疑いがある」と名指しで非難されているクリスチャンにはなく、むしろ、自分だけは正しく、決して誤らないという根拠のない自己過信に陥って、指導者然と、自分以外の数多くのクリスチャンの「非行」をあげつらっては裁き、「カルトを撲滅する」と主張している人々の方にあるのである。

繰り返すが、クリスチャンはどの人間も未熟であり、自分は神に従っていると思いながら、実際には、間違いを繰り返しながら生きている人々でしかない。間違いは、それが大きなものであれ、小さなものであれ、神の目から見て、同じように逸脱であり、不従順であるという点で、すべては五十歩百歩である。神社に油をまくことを非常識だと笑うクリスチャンも、毎日、何かの行動において、神の願っておられる水準に達せず、神の聖霊を悲しませながら生きている。

そういうことが全くないと胸を張って言える信者は、地上に一人も存在しないことであろう。それでも、神の愛や憐れみ、義と聖と贖いは、その愚かなクリスチャンにも、信仰によって十分に及んでいるのである。だとすれば、一体、表面的な行動だけをあげつらって、クリスチャンを断罪できる存在がどこにあるのだろうか?

我々が警戒しなければならないのは、愚かな間違いを犯して、クリスチャンの村社会の中でもの笑いのたねにされることではなく、むしろ、「私は完全に正しい」という思い上がりに陥って、自己反省の余地を全く失って、自分が神のようになって、自分以外の信者を裁くようになることである。

異端に関する教義論争はいくらでも行われるべきであるし、構造面から異端を明るみに出す作業には意義がある。だが、ある人間がクリスチャンと呼ぶに相応しいかどうかを判断する基準は、決して特定の人間に委ねられるべきでなく、その判断に当たっては、極めて慎重な吟味がなされなければならない。

クリスチャンであるかどうか、クリスチャンとしての要件を満たしているかどうかは、この世の価値観によっておしはかることはできず、それにも関わらず、この世から見て、常識的に振る舞い、世人に受け入れられる条件を満たしているかどうか、まして社会的に成功しているかどうかとかいった基準で、クリスチャンが判断され、裁かれるべきではない。

むしろ、信者は、クリスチャンであるがゆえに、世人から見てどんなに失格者の烙印を押されようとも、神の尽きない愛と憐れみにあずかって、その弱さを神の強さによって覆われているのであり、この世の価値観に従って判断されることから解放されているのである。

クリスチャンとは、そのようにして、信仰によって神の特別な寵愛(恩寵)を受けている人々であり、そうである以上、クリスチャンの価値は決してこの世的な判断基準でおしはかることはできないのである。

筆者はこのことを開き直りの材料として使っているわけではないが、それほどまでに信じる者への神の恵みが深いのは事実である。

そこで、我々は、あるクリスチャンの人間的な欠点や、未熟さ、あるいは、誤った熱心さが行き着いた愚かで非常識な行動だけをとって、彼らがクリスチャンに相応しいかどうかを外側から判断すべきではない。ただし、誤った理念がこの先も、他のクリスチャンらをそうした行動に駆り立てる危険性が十分にあるため、異端を糾弾したいのであれば、行動面だけにスポットライトを当てることをやめ、他の信者の愚かで非常識な行動をあげつらっては、これを一方的に上から非難・断罪して終わりとするのではなく、何よりも信者をそうした行動に及ばせる原因となった思想・理念が何であるかを地道に検証しながら、その誤謬を証明する作業を行っていかねばならない。

時に、筆者は、異端の教えというものは、空中をうごめく病原菌のようなものかも知れないと思う。病原菌は、体力の弱った人々には重大な感染の脅威となり、存在しないに越したことはないかも知れないが、それがない限り、人の免疫抵抗力も育たない。

仮にクリスチャンが、一切の異端とは無縁の、完全に純粋で正しい教えだけを受け取り、その中で成長することができるとしても、もしその人が誤りとは何かを知らなければ、それはあたかも無菌室の中で育つ人生のようになってしまうだろう。

霊的無菌室だけしか知らずに育った人間は、その部屋を一歩でも外に出れば、たちまち生きる力を失って死んでしまうだろう。悪に対する免疫抵抗力がないためである。

そこで、信者は地上に生きている限り、数多くの疑わしい教えに出会い、その嘘を自力で見抜き、識別し、退けて行く力を養わなければ、信仰は育たず、従順も育たない。神への従順を証明するためには、不従順を選ぶことが可能な状況が前提としてなければならない。信者が誤った道を選ぼうと思えば選べる状況で、自ら正しい道を見分けて、偽りを退け、神に従うことを自ら選ぶのでなければ、その信者には、判断力も、自己決定権も育つはずがない。

だから、信者が多くの誤った教えを見聞きした上で、その誤りを自ら識別する力を養うことが大切であり、その意味で、誤謬と出会うことは何ら恥でないどころか、それこそ、信者の霊と魂の成長のために、避けて通れない不可欠な過程(訓練)ではないかと筆者は思う。

そういう意味で、筆者はこれまでに通過して来た団体や集会を振り返り、そこを訪れたことを後悔するつもりは微塵もない。そうした団体の理念に疑わしいところがあるというだけの理由で、そこに行ったのは時間の無駄であったとか、そこで出会ったクリスチャンのすべてが兄弟姉妹ではないと否定するつもりもない。

むろん、ある団体で唱えられている理念に、聖書に合致しない点がないかどうか、吟味することは重要であり、もし聖書い合致しないと分かったならば、分かった瞬間から、筆者はそこにとどまるべきではないだろう。だが、だからと言って、その中に残っているすべての人々が、みな異端者であるとか、非クリスチャンであるなどと筆者は考えてもおらず、そこで見聞きした経験のすべてが無駄であるとも思わない。

筆者はその団体にいる兄弟姉妹が、筆者と同じようにその団体の理念を疑わないからと言って、彼らに自分の見解を押しつけるつもりはない。筆者が理解している内容を彼らに向かって述べたとしても、それが彼らに理解されるかどうかは分からない。すべては信者自身の中の「時」による。今日気づかなくとも、明日気づく人も出て来るかも知れない。気づかせて下さるのは神である。

筆者の義務は、自分で理解した事柄に忠実であることであり、他の人々がどう行動するかまでは、筆者の責任ではない。ただし、筆者は、誤りだと分かっているものに接触を続けるわけにはいかないため、忠告しても聞き入れない人々からは離れるのみである。

カルト被害者救済活動の支持者らの盲点は、自分の欠点や未熟さには目を向けようともせず、常に他者の欠点や未熟さばかりをあげつらい、神ご自身を退けて、神になり代わって、自分がクリスチャンの内心や生き様に対する裁き主になり、周囲の人々がまだ理解する時期が来ていないかも知れない事柄についてまで、何の資格もなしに、強制介入・干渉して行き、聖霊になり代わって信者を教え、信者の内心や行動を正し、支配しようとしている点にある。

異端は教義面から明らかにしなければ意味がないにも関わらず、彼らは信者の行動の欠点や、外側の出来事ばかりを中心に据えて、この世の観点から信者の行動の是非を論じ、信者を裁こうとする。

だが、そのような観点からは、決してこの先も正しい教義論争は生まれて来ないであろう。それどころか、彼らは何をよりどころにして他者を裁いているのか、その土台をますます見失って行くだけである。聖書は何と言っているか。

「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。

この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。


裁きの場合は、一つ一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。

そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。

律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」(ローマ5:15-21)

クリスチャンを裁くことに躍起になっているカルト被害者救済活動の支持者らは、信者の行動の非をあげつらったところで、自分自身の罪から逃れられるわけではないことを知らないのだろうか。彼らは無罪とされるためには、完全に罪なき人でなくてはならず、自分の内にわずかに一つの罪でも見いだされれば、たちまち有罪を宣告されることを知らないのだろうか。

他方、クリスチャンは、キリストのゆえに、「いかに多くの罪があっても、無罪の判決」を受けた人々である。罪が増し加わるところには恵みはなお一層増し加わるというのは、クリスチャンにこそ誰よりも当てはまる。クリスチャンがいかに欠点が多く、多くの罪を犯して来たとしても、キリストにあって、神はそのクリスチャンのすべての非をすでに血潮で覆って下さっているのである。クリスチャンが世人に比べ、いかに絶大な特権を持つ者であるか、いくら認識してもし足りない。

だから、誰かがこの世的な観点に立って、一人一人のクリスチャンを、見かけの貧相さや、行動の不器用さや、未熟さ、愚かさや、弱さのゆえに、非難したり、断罪するのは、非常に容易であろうが、そんなことはやめておいた方が良い。むしろ、クリスチャンが弱々しそうに見えれば見えるほど、その弱さが神の憐れみに満ちた強さによって特別に覆われていることを考えてみるべきなのである。その事実を見ずしてクリスチャンの表面的な弱さだけを見て、これをあげつらって非難・説教・嘲笑していれば、いずれ神ご自身を敵に回すことになる。聖書には次のように警告されている。

「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」(マタイ18:10)

2018年2月 7日 (水)

十字架の死と復活の原則―敵のあらゆる力に打ち勝つ御名の絶大な権威を行使し、サタンを天から投げ落とし、イエスの命を体に現す―

ひとつのミッションが大詰めを迎えている。
長年、待ち望んだことが、少しずつ実現しているのだ。

クリスチャンを脅しつけては牢に閉じ込め、自由を奪い、逃げ出すことさえ禁じて来た悪の要塞が、エリコの城壁のように音を立てて崩れ去る瞬間まで、筆者は何事にも容赦する気はない。

「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」(コロサイ2:13-15)

キリストの十字架の贖いにより罪赦されたクリスチャンを、再び人間的な観点やこの世的な価値観に従って訴え、有罪を宣告しようと企むような者は、かえって自らこそすべての権威と武装を解除され、キリストの凱旋の行列に捕虜として加えられ、さらしものにされるだけである。

悪魔は、自分こそクリスチャンを苦しめ、訴え、さらしものにする権利があると考えていることであろうが、事実は全く逆である。暗闇の軍勢とそれに仕えた者たちこそ、キリストの凱旋の行列の中でさらしものとされる。

だから、これから起きることをよく見ているよう読者に勧める。

筆者は、地上の教会組織に様々な堕落や問題があることは否定しないが、だからと言って、神のエクレシアまでも否定して、福音に敵し、教会に敵対した者たちがどうなって行くか、その悲惨な末路は、公然と世に示されなければならないと考える。

何度も述べて来たことであるが、実際に自分自身が体験した事実に基づき、地上の教会組織の堕落を憂慮し、御言葉に立ち戻るよう、兄弟姉妹に勧めることと、「教会のカルト化を憂う」ということを口実に、自分が所属もしていない、通ったことすらもない教会組織に対してまで、何の正当な権限にも基づかずに、教会の規則すらも無視して介入して行き、教会をスキャンダルの暴露の脅しで威圧して支配し、自分が裁き主であるかのように君臨しようとすることは全く訳が違う。

筆者は当ブログにおいて、自分が苦しみや喜びを持って体験・通過して来た事柄や、自分自身が生きて関わって来た人々についてしか触れておらず、そこで信者の実名も挙げておらず、筆者が書いた内容が、誰を指しているのかも特定できない人々がほとんどである。そして、そのことで筆者に対立して来るクリスチャンもいない。(対立しているのはカルト被害者救済活動の担い手だけである。)

にも関わらず、彼らは、自分が所属もしておらず、見たことも聞いたこともなく、関わったこともない教会やクリスチャンたちの非をあげつらっては、他教会の人事に公然と介入し、無関係なクリスチャンに争いをしかける。まるで通りすがりに因縁をつけるヤクザと同じように、一つの争いが起きると、その輪を広げて、次々とクリスチャンを争いに巻き込んで行こうとするのである。

彼らにお聞きしよう、筆者は自分自身が遭遇し、直接身をもって体験したことしか書いていないし、その体験談の中には、誰一人、一介の信者の本当の名も登場していないが、一体、あなたたちは、何の権限があって、自分が体験したこともなく、見聞きもしてもいない、自分に全く関係のない、被害すら受けたことのない教会の内情に干渉して行き、自分と無関係な人間の生き様までも、さらしものにしながら、裁いたり、非をあげつらっては、お説教する資格があるのかと。

要するに、「教会のカルト化」は、彼らが自分たちが所属もしておらず、通ったことすらない教会の内情に干渉し、支配権を握るための口実でしかない。このようなことこそ、教会の乗っ取りであり、強奪である。

神社に油をまくことが正しい福音伝道のあり方だなどと筆者は全く言うつもりもない。だが、もっと恐ろしいのは、そうした事件を針小棒大に取り上げては教会のスキャンダルに関する情報を振りまき、常日頃から秘密裏に教会に不利な情報を集め続けて、教会を脅しつけるチャンスを伺いながら、何者かがプロテスタントの教会の堕落をきっかけに、自分とは何の関係もない諸教会に介入する権限を握ろうとしていることなのである。

彼らの目的は、信者の弱みを握ることで、教会を思い通りに操ることにこそある。一度でも、誰か信者が、心弱くなって、彼らのもとを訪れ、相談を打ち明ければ、彼らはその信者の弱みを握り、それを盾に取って、いつまでも信者を脅しつけて、彼らの傘下から逃げ出せなくなるように仕向けるだけである。それでも、信者が彼らのもとを逃げ出そうとすれば、彼らは信者から質に取った情報を言いふらすことで、信者を中傷し、傷つける。そのことが筆者自身への彼らの仕業を通して実際に明白に証明されているではないか。

筆者は、地上的な教会組織がどうなろうとも構わないが、彼らの真の目的が、地上の教会組織を圧迫することよりも、むしろ、自由な共同体としてのエクレシアを圧迫することにあると知っているためにこそ、これに猛反対しているのである。

彼らが、どの教会組織にも属していない筆者を、どんな組織や団体よりも激しく圧迫・攻撃している事実は、彼らの真の目的が、もともと地上の教会組織に介入することにはなく、天的な共同体としてのエクレシアに介入し、これを蹂躙、強奪、支配することにある事実をよくよく物語っている。

こんな人々が正義の担い手であるはずがないことは、誰の目にも明白である。

だから、筆者は、神の神聖なる教会が、悪魔的な思想の担い手である暴徒のような人々によって蹂躙され、脅しつけられていることに対して、決して黙っていることはできないし、黙っていようとも考えないのである。御言葉が現実となって、これらの人々がエクレシアに手を触れることができなくなるまで、手を緩めることはしないし、このような人々を哀れんだり、惜しんだりもしない。

神の義と聖と贖いは、人間の正義を振りかざして、各教会にカルト化の疑いをかけてはクリスチャンの恥をさらし、教会の権威を貶めようとする者たちにはなく、キリストの御身体なる天的な共同体であるエクレシアにこそある。筆者はこの天的な聖なる構成体の一員として、彼らの暴言に立ち向かうのである。結末がどうなるのかは注視してもらいたい。

さて、これまで筆者は、様々な霊的な戦いを経て、それに勝利する秘訣を少しずつ学んで来た。

どれもこれも難しい戦いばかりであり、通り抜けるのは容易ではなく、当初はそれも神から来た懲らしめにも似た教育訓練に思われたが、どれも大きな価値ある戦いであった。霊的な幼子から、大人へと成長するために、信者はこのような訓練を避けては通れないものと思う。

その戦いの中で、筆者は、暗闇の勢力が、どのようにして、自分たちの劣勢を隠すために虚勢を張り、本当は負けることが最初から分かっている不利な戦いで、あたかも自分たちに勝ち目があるかのように見せかけるか、また、彼らは、本当は仲間内でさえ、互いに分裂しており、統制が取れず、意見はバラバラで、常に孤独であって、真の味方もいないのに、どのようにうわべだけ、あたかも全世界が自分の味方であって揺るぎない連帯があるかのように見せかけるか、どれだけ彼らが人数を水増ししたりしながら自分たちが優勢にあるかのように見せかけるのを得意とするか、また、信者の団結の勢いを削ぐために、どんなに卑劣な工作や心理戦をしかけて、信者同士を分裂させて裏切らせようとするか、筆者はこれまでかなり詳しく目にして学習を積むことができた。

むろん、まだまだ十分な量の学習に達したとは言わないが、現実にそうした工作を見、心理作戦をしかけられる中で、敵の狡猾さ卑劣さを知り、

「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」(マタイ10:16)

という言葉の意味を思い知る。敵のやり方から学ぶことは多くある。たとえば、負けているのに最後の最後まで勝っているかのように見せかけて、虚勢を張ろうとする姿勢には、クリスチャンもその執念に負けないまでの執拗さで、キリストの勝利を確信してやまない不動の決意が必要だと思い知らされる。

こうして、神と共に二人三脚で戦いを戦い抜くことを、繰り返し繰り返し学んでいると、次第に、暗闇の勢力による激しい心理作戦に惑わされたり揺るがされることなく、勝利をおさめる秘訣が分かって来るのだ。

以前にも、以下の詩編を引用し、これは霊的な戦いのことだと述べたことがある。クリスチャンが霊的な戦いにおいて熟練した強い兵士となるように、神自らが戦いの技を教えて下さる。

主のほかに神はいない。
 神のほかに我らの神はいない。
 神はわたしに力を帯びさせ
 わたしの道を完全にし
 わたしの足を鹿のように速くし
 高い所に立たせ
 手に戦いの技を教え
 腕に青銅の弓を引く力を帯びさせてくださる。

 あなたは救いの盾をわたしに授け
 右の御手で支えてくださる。
 あなたは、自ら降り
 わたしを強い者としてくださる。

 わたしの足は大きく踏み出し
 くるぶしはよろめくことがない。
 敵を見、敵に追いつき
 滅ぼすまで引き返さず
 彼らを打ち、再び立つことを許さない。
 彼らはわたしの足元に倒れ伏す。
 
 あなたは戦う力をわたしの身に帯びさせ
 刃向う者を屈服させ
 敵の首筋を踏ませてくださる。
 わたしを憎む者をわたしは滅ぼす。

 彼らは叫ぶが、助ける者は現れず
 主に向かって叫んでも、答えはない。
 わたしは彼らを風の前の塵と見なし
 野の土くれのようにむなしいものとする。
 
 あなたはわたしを民の争いから解き放ち
 国々の頭としてくださる。
 わたしの知らぬ民もわたしに仕え
 わたしのことを耳にしてわたしに聞き従い
 敵の民は憐れみを乞う。
 敵の民は力を失い、おののいて砦を出る。

 主は命の神。
 わたしの岩をたたえよ。
 わたしの救いの神をあがめよ。
 わたしのために報復してくださる神よ。
 諸国の民をわたしに従わせてください。
 敵からわたしを救い
 刃向う者よりも高く上げ
 不法の者から助け出してください。
 
 主よ、国々の中で
 わたしはあなたに感謝をささげ
 御名をほめ歌う。
 
 主は勝利を与えて王を大いなる者とし
 油注がれた人を、ダビデとその子孫を
 とこしえまで
 慈しみのうちにおかれる。」(詩編18:32-51)

歴史上、これまでクリスチャンの民の間には絶えざる争いが起こって来た。しかし、主はご自分に従うキリスト者を舌の争いから解き放ち、自由にして下さるであろう。

筆者もダビデが書き記したように、暗闇の勢力を追いかけ、彼らを打ちすえ、彼らの首筋を踏み、二度と立ち上がって口をきけないまでに追い詰めるまで、その戦いから手を引くことはない。彼らが叫んでも、誰も憐れむ者もなく、彼らが風の前の塵のようにむなしいものとして吹き去られるまで、手を引かないし、彼らが去っても、二度と振り返ることはない。

「わたしを憎む者をわたしは滅ぼす」

この御言葉を実現するためには、信者は神の御前で自分自身をどれほど潔癖に保たねばならないであろうか。

霊的戦いに勝利するための秘訣は、決して神から来たのではないものを受け入れないこと、そうしたものをそばに置かないこと、まことしやかに味方を装い、助けを申し出て来る不要な助言者をすべて退け、肝心な時に裏切る不誠実な仲間と決して連帯しないことである。

ただ神だけをよりどころとして、他のすべてのよりどころを排除し、預言者エリヤのように、神の御前に単独者として立つ。そうすれば、戦いはもう7~8割方終わったようなものだ。

あとは大胆に一歩を踏み出すだけ。

「わたしの足は大きく踏み出し
 くるぶしはよろめくことがない。」

弱ったひざと、よろめくくるぶしでは、そう遠くまで歩いて行くことはできない。

ロトはソドムを脱出する際、御使いたちに山まで逃げるよう言われたのに、力不足のゆえに、遠くまで逃げられず、近くの低地の街までしか行けないと御使いに懇願した。神はロトの願いを聞き入れては下さったが、ロトは自らの力不足ゆえに、神の最善を退けたので、その後で困難な状況に見舞われることになる。

キリスト者は、霊的に高く、遠くまで行くことが求められている。そのためには、まっすぐなひざ、よろめくことのないくるぶし、走ってもたゆまず、歩いても疲れない体が必要だ。わしのように翼をかって、天高く舞い上がることが必要となる。

キリスト者にあっては、内側の霊の高度が、御名による支配権の行使と密接に関係している。クリスチャン一人一人にはこの世を超越する天的な支配権(キリストの御名による超越的な支配)が与えられているが、これを十分に行使するためには、クリスチャン一人一人が、心の内側で、霊的な高度を保っていることが必要なのである。

王は玉座から支配権を行使すが、クリスチャンは、キリストと共に御座につき、そこから天的な支配権を行使する。

だがもしクリスチャンの内側での霊的な状態が、御座に就いている状態からほど遠ければ、大胆に御名の権威を行使することができない。霊が圧迫されて極度の不安に陥っていたり、地上のものに心惹かれて低地をさまよっていたり、目を覚ましておらず、敵の不意の襲来に用意ができていなかったりすれば、御座から簡単に撃ち落とされてしまい、大胆に権威を行使することができない。

「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。

あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロサイ3:1-4)


霊的な高度、すなわち、天の御座の高さに自分自身の霊を保つためには、信者には心の平安、平静、および、天的なものにのみ心を留める関心の高さがどうしても必要である。地上のものに心を留めず、絶えず目を覚まして、上にあるものを思い、神の御心や、あらゆる状況に注意散漫でなく、信者の関心を絶え間なく地上のものへと引きずりおろそうとする暗闇の勢力の作戦に対抗し、悪しき力にしっかりと抵抗して打ち勝っていること、御言葉を現実に適用することで、天的な富を地に引き下ろす秘訣を知っていること、滅びゆく肉体を持った人間であるにも関わらず、自分の肉なる人としての弱さを、神の力の強さによって覆う方法を知っていること…などが必要となる。

このことは決してクリスチャンが一朝一夕に学べることではなく、何度も、何度も、困難な戦いを経て、失敗を繰り返して、初めて習得する事柄である。そうなるまでには、信者は自分の心に激しい戦いをしかけて、信者の霊を天の高度から地上に打ち落とそうとする悪しき勢力が存在することを知り、どうやってこれに抵抗するかを学び、また、自分自身の弱さに目を留めると常に目指していた目的地まで到達できなくなることを知って、どうやって霊を奮い立たせて、この弱さを神の強さによって補強してもらうのか絶えず学び続けねばらない。これは長い学びの過程である。

さて、最近、筆者は、目に見える兄弟姉妹と地上的な連帯があるかどうかに関係なく、エクレシアは常に霊的に機能する共同体であると思うようになった。ここで言うエクレシア(教会)とは、地上的な組織や団体としての教会のことを指すのではない。

聖書には、キリストのみからだなる教会は、一つのからだであって、その一部が弱ったり、痛んだりすれば、からだ全体が共に痛み、その弱った部分を助けると記されている。

だが、我々は現実の目に見える人間としての兄弟姉妹と常に物理的接触があるわけではないし、信者には誰にも口に言い表すことのできない多くの問題がある。信者はそのような問題をただ神の御許へ持って行き、神との間で解決するが、その時、エクレシアはどうなっているのであろうか。

もしも信者が他の兄弟姉妹と現実に物理的な接触を持っていなければ、その人は、エクレシアからの助けを受けられないのであろうか?

答えはNOである。

もしエクレシアがそのようにこの世の物理法則にとらわれるものであったなら、パウロが投獄された時、彼はエクレシアから切り離されかかっていたことになろう。ガイオン夫人などはどういう状態にあったことになるだろうか。

しかし、現実には、クリスチャンがたとえ迫害されて牢に入れられて他の兄弟姉妹と会うこともできなくなっているような時でさえ、そのクリスチャンはれっきとして天的な共同体としてのエクレシアの一員をなしており、この共同体には、絶えずキリストの復活の命が流れ、霊的供給が行き巡っているのである。

「こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。」(エペソ3:10-11)

エクレシアの目的の一つは、天上の支配や権威に対して、多種多様な神の知恵を知らせることにある。エペソ書には、「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エペソ6:12)と記されており、天上には悪しき霊も存在することが分かる。

悪しき諸霊は、何とかして信者の霊を天の高度から地に引きずりおろし、撃ち落とそうとするが、逆に、信者の方が、悪しき諸霊を天から撃ち落とさなければならない。

「七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。

イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。

しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカ10:17-20)


以上の御言葉から、イエスに遣わされた者たちが、悪霊を屈服させ、追い払ったことにより、「サタンが稲妻のように天から落ちた」ことが分かる。老いた蛇である悪魔が最終的に火の池に投げ落とされるまでには、まだ時を待たねばならないが、そうなるまでの間にも、幾度となく、その予行演習のような戦いが行われ、悪の諸霊が天から転落するのである。そうすることがクリスチャンの使命である。

エクレシアの使命とは、天にいる悪の諸霊も含め、天上のあらゆる支配や権威に対して、神の知恵と力のどんなに豊かであるかを見せつけ、知らしめることにこそある。

「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示の霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。

神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。

神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エペソ1:17-23)

この御言葉は、人間の理解力を超えているため、説明し直すこともできないが、要するに、エクレシアとは、すべてを満たすキリストご自身が満ち満ちている場であり、そこには、すべての支配、権威、勢力、主権を超えて、来るべき世においてさえも、すべての名にまさる名であるキリストの御名の絶大な権威が付与されており、神の多様な知恵が働き、神の召しにこめられた絶大な希望があり、キリストある無尽蔵の富と豊かな栄光が宿り、キリストを死からよみがえらせた神の偉大な力が働いているのである。

エクレシアは時代を超え物理的制約を超えて、キリストに連なり、御子の復活の命にあずかる一人一人の者たちから構成されている。それはクリスチャン一人一人のことでもあるし、キリストの成分にあずかる者たち全体の、時代を超えた集合体のことでもある。

クリスチャンは、キリストの御体の一部として、絶えずキリストの命の供給を受けることができる立場にあり、弱り果てたときには強くなって立ち上がるための力を受け、困難に直面した際には解決のための知恵を供給され、どんな境遇にも対処することのできる知恵と力を「すべてのすべて」であられる方ご自身から供給される。

そこで、時にクリスチャンはこの世から憎まれ、追い詰められ、完全に孤立し、死にかかってさえいるように見えることもあるかも知れないが、真の現実は、それとはさかさまであり、クリスチャンこそ、すべてに勝利する秘訣を知っているのである。

それは、主イエスが次のように言われたことを思い出すだけで良い。

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)

パウロは次のように言った、

わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてを所有しています。」(Ⅰコリント6:8-10)

以上の言葉は、クリスチャンの宣べ伝えていることが、人々から嘘だと疑われて罵られたり、悪口を言われて貶められたり、あらぬ罪を着せられて罰せられる寸前まで行ったり、あるいは殺されかかったり、さまざまな苦難に見舞われて悲しんだり、貧しさの中を通らせられたりすることがあるにも関わらず、そのすべてにクリスチャンが勝利をおさめることが可能であることを伝えている。

この世の有様がどんなものであれ、また、クリスチャン自身の肉なる人がどんなに弱くとも、信者がそうした地上の制約にとらわれず、決してあきらめることなく、御名の権威を行使して、信仰によって御言葉が実際になることを要求し続ければ、嘘に過ぎない地上的な現実は後退して行き、キリストにある天的支配がリアリティとして実際に地に適用されるのである。

堕落したこの世の君は、自分たちの秩序こそ、永遠の動かせない現実であるかのように見せかけようとするが、現実はその逆なのだ。

筆者がこれまでに向き合って来た暗闇の軍勢の一部の様子を見れば、誰にでもすぐに分かることであるが、悪しき諸霊に導かれ、神のエクレシアに戦いを挑んでいる人たちの心の内は、自分たちの罪を暴かれ、責任を追及されることへの恐怖で満ちている。

彼らは、キリスト者にこそ、神の教会への彼らの乱暴狼藉に対し、厳正な処罰を求める権限があることを最初から知っているので、キリスト者が正当な権限を行使して、彼らに対してその罪の償いを要求し、彼らを駆逐することを恐れ続けて来たのである。

筆者は、彼らと出会った頃には、まだそういう結果になることを知らず、何より、この人々が神の敵の霊に導かれ、神の教会に敵する思想の持主であることさえ知らなかった。しかし、悪霊たちは、クリスチャン自身が自覚しているよりも、もっとはっきりと、最初から、クリスチャンの内側にある神の霊の偉大な強さを知っているのである。最初から、自分たちがどうなるのか、最後の結末を知っているのである。

そのことは、イエスが、悪霊につかれて凶暴化した二人の人間に出会って、その人たちから悪霊を追い出し、豚の群れに入るよう命じたという、聖書の有名なくだりを読めば分かる。

そのくだりには、悪霊たちは、イエスが近づいて来るのを見ただけで、イエスが自分たちに対してどのような権限を持っているか、自分たちの運命がどうなるのかががすぐに分かり、イエスを恐れて哀れみを乞うて叫んだことが分かる。

イエスが向こう岸のカダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。

二人は非常に凶暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった突然、彼らは叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここにきて、我々を苦しめるのか。」


はるかかなたに多くの豚の群れがえさをあさっていた。そこで、悪霊どもはイエスに、「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と願った。イエスが、「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。

豚使いたちは逃げ出し、町に行って、悪霊に取りつかれた者たのことなど、一切を知らせた。すると、町中の者がイエスに会おうとしてやって来た。そして、イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った。」(マタイ8:28-34)


筆者が向き合って来た暗闇の軍勢もどこかしらこれとよく似ている。聖書に記された以上の悪霊どもは、とりついた人間を誰の手にも負えないほどに凶暴化させて、その人間を通して街の住人を脅しつけていたが、今、暗闇の勢力に動かされ、神の教会に立ち向かう人々も、これとそっくりな有様ではないか。

彼らは、当初、筆者や筆者の知り合いたちが彼らの狼藉に抗議を申し入れたときから、自分たちが駆逐される運命にあることをはっきりと知っていたのであろう。そこで、クリスチャンがそのような行動に出ることを全力で阻止しようと、まだ起きてさえいなかった戦いに反撃を開始し、あらん限りの罵詈雑言と共に、自分たちを訴え、罰しようとしているクリスチャンたちを罵り始めたのである。

彼らがそうしたのは、本当はクリスチャンこそ、彼らを神に訴え、取り押さえ、彼らの口を封じて、しかるべき場所に送る権限を持っていることを最初から知っていたためである。今も、そうされること怖さに、何とかしてクリスチャンを思いとどまらせようと、罵詈雑言を吐き続けているのである。

しかし、私たちは、このことから逆に、私たちに与えられた御名の権威が、どれほど絶大なものであって、彼らを天から投げ落とし、駆逐するに足るものであるか、彼らの敗北がどれほど最初から確定済みの事項であるかを伺い知ることができる。彼らの恐怖と、それを隠すための卑劣な工作を見るだけで、この人々が敗北することは必至だと知ることができる。

ただ、クリスチャンは正当な権限を自らの意志で行使しなければならない。その行使の時を遅らせるために、彼らはひたすらクリスチャンを脅しつけているのである。

さて、上記の聖書のくだりを読むと、悪霊に憑りつかれて乱暴狼藉を繰り返す人間も脅威であったとはいえ、街の住人たちも、五十歩百歩だったように思われてならない。

主イエスは、長年に渡り、悪霊にとらわれていた二人を解放されただけでなく、それによって、街の住人たちをも、悪霊の脅威から解放された。ところが、その街の住人たちは、その光景を見て喜ばなかったどころか、イエスに街から出て行ってくれと懇願したのである。

豚使いたちは、自分たちの商売道具が台無しになったことを惜しんでイエスを責めたのであろうし、他の住人たちは、イエスが一瞬で行われた解放の御業を見て、それを悪霊たちが長年かけて彼らに行って来た乱暴狼藉よりも、もっと恐るべき「秩序騒乱」とみなし、街の秩序がこれ以上、揺るがされないために、イエスに街から出て行ってくれと懇願したのである。

結局、その街の住人は、墓場に住む悪霊の乱暴狼藉にずっと苦しめられていた方が、イエスがその悪霊たちを瞬時に豚の群れの中に追放するのを見るよりは、ずっと良かったと言いたかったのである。彼らはそれほどまでに悪霊の支配に慣らされてしまい、抵抗する力を失っていただけでなく、自分たちの理解をはるかに超えた事態が起きたこと自体が耐え難かったのである。

つまり、街の住人でもなく、そこにひと時立ち寄っただけの「よそ者」である(はずの)イエスが、自分たちの街の長年に渡る秩序を瞬時に根底からひっくり返し、新しい秩序を打ち立てるほどまでに絶大な権威を持っていることを、決して認めたくなかったのである。

おそらく、今日もそれと同じ現象が起きているのではないだろうか。キリスト教界は、墓場に住む凶暴な悪霊に圧迫され、脅しつけられることにあまりにも慣らされ、自らそれに同意するまでに至っている。そこで、「サタンが天から稲妻のように投げ落とされる」光景をたとえ見たとしても、どれだけがその価値を理解して喜ぶかは疑問である。

それでも、信者は「サタンを天から投げ落とす」ことに貢献すべきである。そのためにこそ、地上に遣わされているのだから。

私たちは、目に見える地上の有様にとらわれず、聖書の御言葉にある通り、キリストの御名を用いて、神の喜ばれる天の支配をこの地に適用し続ける。そして、神がキリストにあってお与え下さった自由や解放をどこまでも追求してやまない。神がキリストの命の代価を通して私たちにお与え下さった義と聖と贖いを、どうして再び侵害されねばならない理由があるだろうか。

こうして決して二度と再び人の奴隷とならず、神だけにより頼んで信仰に立ち続けるその過程で、堕落したこの世の有様が、負けじと自己主張して来ることであろうが、彼らは御言葉によって天から投げ落とされることが確定している。へびやさそりやまむしを足の下に踏みつける権威は、クリスチャンにこそ与えられているのである。

「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。

わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。」(Ⅱコリント4:7-10)

2018年2月 5日 (月)

十字架の死と復活の原則―束の間の軽い患難と引き換えに与えられる永遠の重い栄光―

「ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。

ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。

人の子が現れる日にも、同じことが起こる。

その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。

ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。」(ルカ17:26-33)

その時、かのふたりは手を伸べてロトを家の内に引き入れ、戸を閉じた。
そして家の入口におる人々を、老若の別なく打って目をくらましたので、彼らは入口を捜すのに疲れた。 」(創世記19:10-11)


このところ、筆者はひたひたと良くないものがこの街に迫って来ていることを感じ、エクソダスの時が近いと感じる。ここに残ったり、定着する選択肢はない。エクソダスできるか、できないか、それが人の生死を分けると感じている。

このような時だから、以前のような牧歌的な記事を書くことは決してできない。人の耳に心地よい言葉を一切並べることはできないし、もっともらしい説教のような告白や、人の歓心を買うための記事など断じて書くことはできない。

さて、クリスチャンは考えてみたことがあるだろうか?

もしも自分の住んでいる街が、ソドムとゴモラであったなら?

ソドムとゴモラの住人との間に、平和な隣人関係や、愛や友情を育めるだろうか? そこで住人に受け入れられ、身内のようにみなされることは可能だろうか?

ノアが箱舟を建てていた時、ノアと同じ街に住んでいた住人や知り合いの誰一人として、彼が何をしているのか理解できなかったであろうし、ノアは彼らの嘲りに直面し、孤独だったろう。

同じように、ソドムにあるロトの家に神の御使いがやって来たとき、ソドムの住人たちがロトの家に押しかけて何を要求したかを思い出せば良い。

その街で、ロトは以前からずっと孤独ではなかったろうか。ソドムの住人たちは、ロトの家にやって来た御使いたちを凌辱する目的で、ロトに向かって彼らの引き渡しを求め、彼らの要求に従わないロトに押し迫ってこう言ったのだ、「この男は渡ってきたよそ者であるのに、いつも、さばきびとになろうとする。それで、われわれは彼らに加えるよりも、おまえに多くの害を加えよう」(創世記19:9)

ソドムの住人たちは、常日頃からまるで不良集団のように、いきりたって「獲物」を求め、街を徘徊していたと思われる。ロトがどんなに彼らをいさめても、「よそ者が何を思い上がって俺たちに尊大な態度で説教するか!」と、自分に忠告して来たロトにかえって危害を加えようとするだけであったほど、彼らは常日頃からまともではなかった。

そして、こういう住人は、ソドムでは例外ではなく、むしろ標準だったのではないかと思われる。何しろ、聖書をよく読むと、ロトの家に押し寄せたソドムの住人たちの中には、老いも若きもいて、かなりの大規模な集団をなしていたと思われるのである。決して一部の不良少年のような集団ではなかったことが分かる。また、そこにいない他の住人たちも、みなこの集団を恐れてものが言えなくなり、彼らが何をしてもとがめることなく、ただ目立たぬよう陰に引っ込んでいるだけだったのではないだろうか。もしかすると、この集団は、不良集団どころか、ソドムの自警団を名乗っていた可能性さえも考えられる。

ロトの娘たちの中で、ソドムの住人のもとに嫁に行った者たちは、誰もが婿の言いなりになってソドムの気質に汚染され、脱出のチャンスが与えられても、これを活かすことができなかった。

ロトがソドムから連れ出すことができたのは、ただ未婚の娘たちだけである。未婚というのは、その地に定着していないことを意味する。

ロトの妻でさえ、脱出がかなわなかったことを考えると、まさに配偶者の存在そのものが、財産と同じように、重荷となった可能性がある。ロトの妻が、ソドム脱出の際、ソドムの富に惹かれ、後ろを振り向いて、塩の柱になったことを考えれば、妻という存在が、ロトにとって、それ以前から、ひそかな心の重荷となっていた可能性さえある。

おそらく、ソドム脱出の前から、ロトは妻と信念を分かち合うことができなくなり、孤独であったのではないだろうか?

ロトの心を支配する価値観、何よりもロトの持っていた神への信仰は、おそらく、その地においては、誰からも理解されていなかったのではないだろうか。家族にさえも、理解者がいなかった可能性がある。そして、当のロトでさえ、ソドムに住んでいたくらいだから、聖書では「義人」と称され、かろうじて助かったとはいえ、かなりの程度、ソドムの価値観の汚染を受け、危うい状態にあった様子が、聖書の様々な記述から伺えるのである。

「兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。」(Ⅰコリント7:29-31)

こうして、聖書は、配偶者であれ、家であれ、喜びであれ、悲しみであれ、家財道具であれ、飲んだり、食べたりすることであれ、どんなものも、キリスト者の主要な関心事になってはいけないと教える。地上にある限り、我々はそういう事柄に一切、関わらないわけにはいかないとはいえ、それらを行う時にも、ないがごとくに振る舞い、心を置いてはいけないと聖書は言うのだ。

筆者はロトの物語を教訓として振り返りながら、ますますそういう思いを強めている。

筆者は、首都圏に、また、この街に、これから何が起きようとしているのか知らず、筆者がここを出て行ったからと言って、まさかその日に天から火と硫黄が降って来るなどと言いたいわけではない。

ただもうここにいてはいけないということが分かるのみである。複数の筋から「出なさい」という忠告を受けた。

何より、筆者は、この街の住人の気質が、どんどん悪くなって行っていることを感じている。むろん、この街に限ったことではない。それは首都圏全域かもしれないし、もっと広範囲を含んでいるかも知れない。

いずれにせよ、「ソドムとゴモラ化」とでも言うべき現象が起き、洪水が少しずつ足元から押し寄せるように、じわじわと人を飲み込んで行くのを感じる。

「その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。」

脱出の日には、全く後ろを振り返ることなく、地上のものへのすべての未練を一瞬で断ち切り、ただ前だけを向いて進んで行かなければならない。

だが、現代という時代には、たとえ神が脱出させて下さるにせよ、ロトと同じように、身一つで街を逃げ出すということはおそらくないであろうと筆者は思う。それでも、地に属するものには決して未練を持ってはいけないということはいつの時代も変わらない。

筆者は、この地に定着せず、この地の住人の歓心を得ようとすることなく、この地の人々の評価を受けたいと願わず、ここに住み着いて穏便にやって行くことを目的に生きて来なかったことを、誇りに思いこそすれ、いささかも恥とは思わない。それどころか、ソドムの社会に受容され、そこに定住して、一切の孤独とは無縁で、人々と「うまくやれる」人がいたとしたら、その人は明らかにおかしいのだと確信している。その人は我が身に滅びを招いているだけなのである。

だが、筆者がこのように言ったからとて、決して筆者がこの街を馬鹿にしているなどとは思わないで欲しい。この街に比べて、他の街ならマシだとか、どこならばよりよく暮らせるか、といった比較の次元で話しているのではない。これは霊的な文脈である。

だが、脱出する前に、まだひと仕事ある。ペリシテ人の神殿を崩壊させ、宮から商売人たちを追い出し、不信者とのつり合わないくびきを根こそぎ打ち砕いて、真に自分を自由の身とし、誰の奴隷にもならずに出て行くという最後の仕事が残っている。天の大掃除である。

話が変わるようだが、筆者はこれまで、主として、思想面から異端思想の構造を明らかにし、糾弾して来た。悪魔の思想というものが、この世にあることを指摘し、それらに共通する構造を明らかにして来た(グノーシス主義の構造)。

すなわち、悪魔の思想には、聖書の神だけが神であるという地位を奪って、生まれながらの人間を神として掲げ、キリストの十字架の贖いを否定し、キリストの花嫁たる教会に敵対するという特徴があるということを告げて来た。

多くの場合、こうした異常な思想を信じる人々が「神聖な要素」であるかのように主張するのは、人間の弱さ(生まれながらの自己)である。

カルト被害者救済活動もこうした思想の一つであるが、彼らは「被害者性」という人間の弱点を、あたかも神聖なものであるかのように掲げる。だからこそ、「被害者が冒涜された」などと主張しているのである。

彼らがこうして「被害者性」という「弱さ」を聖なる要素であるかのように掲げるのは、マザー・テレサが「貧しい人たちの中にキリストがおられる」と表現したのと同じ理由からである。彼らは要するに神でないものを神としているのであり、本当は、貧しさも、弱さも、被害者意識も、神聖とは何の関係もない、ただの堕落した人間の一部に過ぎない。

ところが、マルクス主義もそうなのだが、虐げられた人々が集まって、自らの弱さをあたかも神聖な要素であるかのように掲げ、それを軸にして連帯すると、強者と弱者の関係を覆し、自らの弱者性をバネに神にまで至ろうとする思想が生まれる。

これが社会主義思想くらいの程度にとどまっていればまだ良いのだが、本当に神の教会に敵対することを目的とする思想になってしまうことがある。それが、カルト被害者救済活動である。この思想の極めて悪質なところは、神聖な方は、聖書の神ご自身であり、また、キリストの十字架の贖いを受け入れ、御子を信じて救われた信者によって構成される神の教会こそ、その聖にあずかっている存在のはずなのに、彼らは「教会で被害を受けたという人の弱さ(被害者性、弱者性、自己)」を神聖な要素とはき違え、教会を悪者として訴えながら、自分自身が教会の裁き主となろうとし、教会を押しのけて、あたかも自分こそ神聖な存在(宮)であるかのように主張している点なのである。

むろん、今日、組織としてのキリスト教会には様々な堕落が起きて、神の御心から離れていることは事実である。だが、そのことを内側から憂慮し、御言葉に立ち戻ることで是正していくことと、堕落しつつある一部の教会のために、教会全体を敵に回して告発することはわけが違う。

後者の思想・運動は悪魔的な構造を持つものなので、これに関わって行くうちに、人々は悪霊に深く憑りつかれて正気を失い、無実のクリスチャンに対する迫害・弾圧に及ぶことになる。筆者はこれまでに幾度もそう警告して来た。そして実際にその通りのことが起きているのである。

にも関わらず、大勢のクリスチャンを名乗る人々が、この思想に貫かれてクリスチャンを弾圧する者どもらの勢いに気圧されて、沈黙してしまった。あるいは、脅しつけられて、黙ってしまった。ちょうどソドムとゴモラの中で、ロトが住人たちに押し迫られていた時、他の住人たちはどこにいたのかも分からず、ロトの家族でさえ、一切抵抗できずに口をつぐんでいたのと同じである。

しかし、突如、話が変わるように思われるかもしれないが、筆者は次の言葉が好きである。

ソドムの住人たちが、ロトの家に御使いの引き渡しを求めて押し迫った時、御使いたちがソドムの住人たちの目をくらませたので、彼らは大勢であったにも関わらず、ロトの家に押し入ることができなかった。

もう一度言うが、筆者はこの言葉がとても好きである。

「彼らは入口を捜すのに疲れた。」

聖書を読むと、悪霊たちは、人間を宿として、人の中に住もうと絶えず願っていることが分かる。

「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになるだろう。」(マタイ12:43-45)

悪霊に入られないための秘訣は、家を「空き家」にしないことだ。もしキリストが住んでさえおられるならば、悪霊はそこに入ることができない。ソドムの住人たちがロトの家に押し寄せて来たとき、ロトの家の中には御使いたちがいた。そこで、御使いたちは、住人たちがどんなに大量であっても、彼らの目をことごとく打ってくらませ、入り口が見つからないようにさせたのである。

住人たちはそんなに大きくもないと思われるロトの家の周りをぐるぐるぐる行き巡ったが、入り口が見つからず、疲れ果てて帰ったというのだから、筆者はこの場面を想像すると、思わず笑ってしまう。

だが、現代のキリスト者もこれと同じで、キリストが内に住んでさえおられるならば、悪魔に入り口を自ら指し示したりすることはないのだ。

しかし、もしキリストが住んでおられなければ、悪魔にとっては入り口を見つけるのは容易であろう。

今は、カルト被害者救済活動の思想的な構造について言及することはしない。ただ、この悪魔的な思想に憑りつかれてしまった人たちが、筆者を攻略するために、すさまじい呪いと中傷を筆者に投げかけていることだけを述べて糾弾しておきたい。

筆者の周りにいるクリスチャンたちは、これに抵抗できず、自らが罵倒されているにも関わらず、立ち向かうどころか、彼らの軍門に下ってしまった。今や彼らを公然と糾弾しているのは、ただ一人筆者しかいない(もちろん、彼らを非難している人たちはいるのだが、立ち向かうという点では、筆者一人のように思われる)。

だからこそ、彼らは何とかして筆者の証をも地上から取り去りたいと業を煮やしていればこそ、筆者にすさまじい呪いと迫害と中傷を加えているのである。

彼らの言い分の中核は、「おまえはこのソドムの街でうまくやれず、ソドムに定着もできず、ソドムに受け入れられず、ソドムで生計を立てることに失敗した情けない落伍者だ。このソドムの住人は、誰もおまえの存在を喜んでいないし、おまえの証にうんざりしている。あとから来たよそ者のくせに、おまえは自分が俺たちに受け入れられなかったからと言って、まるで俺たちのさばきつかさのように尊大に振る舞い、俺たちに上から目線で説教しようとした。そんな高慢な態度は許せない。だから、カルト化教会の道を踏み外したどんな牧師よりも、おまえをもっとひどい目に遭わせてやる」ということに尽きる。

まさにロトに対してソドムの住人たちが述べた言葉と同じである。

それに対する筆者の反論はすでに記した通り。ソドムに受容され、ソドムで孤独を感じず、ソドムに定着する人間の方が全くどうかしているのだ。筆者は一度たりともそんな人間になりたいと考えたことはなく、彼らに「落伍者」であるかのように罵られても、それをむしろ当然であると思う。

むろん、筆者は彼らの呪いや中傷を放置する気はないし、彼らの思い通りになることもない。彼らの手から筆者自身を救い出す。二度と彼らが筆者を呪ったり、汚し言を言うことができないように。

だが、ひとこと断っておけば、この戦いは長期に渡り続いており、激しい迫害になっているとはいえ、そんなに次元の高い戦いではない。こうした人々によるネット上のクリスチャンに対する迫害は、現実生活においてまで、信者に危害を加えるレベルに達しておらず、また、影響の範囲も限られている。何より、きちんと手を打てば終結するし、このような低い次元の情報を鵜呑みにして信じる人々の数もごくわずかに限られている。

学者にとっては自分の主張の論拠をどこから引っ張って来るのかが大切であり、誰も自らの論文で三流・四流のゴシップ新聞の記事を引用したりしないのと同じように、あまりに低い次元の誹謗中傷などを大真面目に信じて吹聴していれば、その人の人間性が疑われるだけである。

だから、一定の洞察力を持っている人は、誰もこういう低次元の情報に振り回されることはない。

しかし、この度、筆者は、そうしたものを超える、もっと高度な迫害が現実にありうることを述べておきたい。それは歴代のクリスチャンがずっと耐え抜いて来た、本当の迫害のことである。

再び、話が変わるように思われるかも知れないが、悪霊は人間を宿としてその中に入り込み、その人間を思うがまま操るが、人間の中に悪魔自身が入ることがありうることを、聖書ははっきり教えている。

「しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。」(ルカ22:4-6)

これはイエスを売り渡す行為が、決して下級の悪霊にはできない仕事だったことをよく表している。だからこそ、サタン自身がそれを遂行するために、ユダの中に入ったのである。そして、注目したいのが、ユダに悪魔が入ったのはいつなのか、ということである。

「イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。

弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。シモン・ペテロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。

その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。

それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。

座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」(ヨハネ13:21-30)

前にも書いたことがあるが、神はクリスチャンに代価を要求される時、決して本人の承諾なしに何かを強制的に剥ぎ取ったりはなさらない。たとえば、殉教を願っていないクリスチャンに殉教を強制されるようなことは決してない。

クリスチャンが神に従う過程で、何を手放すかは、神とその信者との間で合意があった上で、決められる。そして、神は決定的に重要な事項は、信者が目を覚ましてさえいるならば、前もって知らせて下さる。大きな迫害が迫っている時や、危機が訪れようとしている時、もし信者が御霊に聞く姿勢さえ失っていなければ、必ず知らせて下さる。

だから、もし何の前触れもなしに、不意にとてつもなく悪しき出来事が起きてそれに翻弄されるようなことがあれば、その時は、クリスチャンが目を覚ましていなかった可能性が高い。

主イエスは、ご自分が父なる神に従うために、命を投げ出さなければならないことを、以上に挙げた場面で、すでに知っておられた。それが避けがたい召しであることも知っておられた。そして、神との間で、命を投げ出すことにすでに同意されていたのである。

主イエスが、その召しに承諾してから、初めて、サタンは動くことができた。いわば、サタンは、イエスの許可なく、ユダを使ってイエスを裏切ることができなかったのだと言える。そこで、イエスが「今こそ、その時だ」と、指示した時、初めてサタンがユダに入った。イエスは裏切られることを前もって知っており、ご自分が死に渡されなければならないことをすでに承諾しておられたからである。

我々クリスチャンの人生にも、似たようなことが起きる。

悪魔がどんなに猛威を振るうように見える時でも、最終的に見れば、それは神の支配下で許された範囲内でしかないのである。たとえば、クリスチャンには、兄弟姉妹を名乗る人たちによる手ひどい裏切りが起こることも稀ではないが、そのようなことは、ある日、突然、起きるものではない。あるいは、肉親にまで裏切られることもあろうが、そういうことは、必ず、神ご自身が信者に教えて下さる。我々はすべての兆候から、そうなることを前もって予測できるのである。むろん、心の準備も可能である、目を覚ましてさえいるならば。

クリスチャンを罵るくらいのことは、下級の悪霊のレベルでも可能であろうが、クリスチャンに手をかけて命を取るような危害を加えるというようなところまで行くと、これはサタン自身の仕事である。サタンの霊を受けた人間しか、そのようなことを大規模に実行できる人間はいない。だが、心配しなくて良い。そのような迫害は、それを受けるクリスチャン自身が、神との間で、前もって同意しない限り、その人の身に起こりはしない。

聖書は言う、

「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。

しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。

あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(ルカ21:10-19)

筆者は今まで幾度も殉教について述べて来た。最終的には、すべてのクリスチャンは殉教を目指すべきであると思う。だが、筆者について言えば、今はまだその時ではない。これは殉教を恐れるがゆえに言うのではなく、すべての物事に時があることをただ述べているだけだ。だが、上記の御言葉の実に多くの部分はすでに筆者の人生で成就している。戦いはかなり深いレベルにまで達した。

これから先、クリスチャンに対する迫害は、時をかけて、より一層、巧妙に、深化して行くであろうし、ついに最後には殺意のレベルへまでも進行して行くであろうと予想する。そうなるためには、まだしばらく時があり、時代の状況そのものが変わることであろうが、すでにその戦いが始められようとしていることを筆者は知っている。

この地へやって来たときとは正反対である。やって来たときには、筆者はキリスト者の純粋な交わりを求めて、それに憧れ、心躍らせていたが、牧歌的な時代は終わったのである。

そして、筆者は心の中で神に向かって言う、「いいでしょう。同意します。私にはあなた以外で価値あるものは何もありません。」と。「たとえ兄弟姉妹であろうと、ソドムの住人であろうと、誰であろうと、あるいは物であろうと、家であろうと、何であろうと、あなた以外のもので、私が自分の心の中心として据えるものは何もありません。私はあなたが私に望んでおられる道を生きることに同意します。ただその道において、あなたが束の間の苦難と引き換えに、はかりしれない重い栄光をすでに天に用意しておられることも私は知っており、その褒賞を見上げ、それに至り着きたいと願っているのです。どうか私があなたの栄光に入り損なうことがありませんように。」

2018年2月 3日 (土)

キリストの十字架の死と復活の原則―死ぬべきものが命に飲み込まれるために、天から与えられる住処を上に着たいと願う―

わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。

わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。

それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。

死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として”霊”を与えて下さったのです。」(Ⅱコリント5:1-5)

筆者は様々な文書をこれまで作って来たが、文書にはいつもある程度の完成度というものがある。公式な文書であれば、当然ながら時間をかけて推敲し、誤字脱字もすべて修正せねばならない。字数制限がある場合もある。

ブログとなると、誤字や誤表現にそこまで気を使わなくても良い。間違いに気づけば後から訂正すれば良いし、気に入らなければ、全面的な書き直しも許される。

だが、どんな文書であれ、いつも思うように推敲の時間が取れるわけではなく、形式については、どうしてもある程度のところで手を引かざるを得ない。

その代わり、妥協できないのが内容だ。内容のない文書など書くだけ意味がないのだから。

そして、内容については、最初から書きたい内容がすべて目に見えているわけではない。ほとんどの場合、書いているちに内容が掘り出されて来る。

筆者はどのような公式文書よりもブログの価値を重く見ている。

ブログでは、自分の書いた内容について、何年も何年も経ってから、当時、言わんとしていたことの重さが分かって来ることが多い。自分でも気づかないうちに、そこにある種の予言的な意味合いが込められていたことに、後になってから気づく。

御霊はクリスチャンに来るべき事柄を教える。私たちは心の奥深くで、未来がどうなるのかを知っている。そしてその未来とは、究極的には、神の勝利の計画の成就である。

ここしばらくの間、筆者は、このブログの題名を「私ではなくキリスト」とつけたことは、間違いなかったと感じている。今回はその理由を述べたい。

筆者の子供時代、家の近所に川があり、よく遊びに行っていた。その河川敷に、おかしな鳩がやって来たことがあった。

川の橋げたには、いつもたくさんの鳩が群れとまっていたが、ある時、そこにとまろうとしてやって来た一組の鳩の様子がおかしい。

二羽がまるで団子のようにくっついて飛んでいるのだ。よく見ると、その二羽は、鉄線か何かで足がからまり、離れられなくなって、二人三脚のような状態で、一緒に飛んでいるらしい。

しかも、一羽目が上にしきりに飛び立とうとしているのに、二羽目は下へ下へと落ちて行く。

子供だった筆者は、それを見て、何とか助けてやれないものだろうか、と哀れに思った。あの絡まった鉄線をほどいてやれさえすれば、二羽とも自由になれるのに、と。

そこで、近づいて助けるチャンスはないだろうか、と、しばらく様子を伺っていた。

しかし、橋げたにとまることがどうしてもできずに、とまることをあきらめた鳩が、水面すれすれにまで降りて来て、筆者の前を飛び去った時、筆者にははっきり分かった。二羽目はもう死んでいるのだと。

生きている鳩が、死んだ鳩と鉄線でつながれたまま、死んだ鳩をぶら下げて、飛んでいるのだ。

その鳩は、死体の重みで下へ下へと引っ張られながらも、何とか上へ飛び立とうともがきつつ、そのまま筆者の目を通り過ぎ、飛び去って行った。

筆者は、子供心にも、何とも醜悪でグロテスクなものを見せられた気分になり、衝撃を受け、言葉を失って、家に帰った。

その光景を、筆者は今でも、時折、思い出すことがある。

だが、その光景は、現在、筆者の中で、当時とは全く異なる新しい意味合いを持っている。

それは、その光景が十字架において罰せられたアダムとキリストへと重なるからだ。

筆者の中では、あの死んだ鳩は、罪人として罰せられた人類の姿に重なる。

キリストの十字架は、罪なく永遠の命を持つキリストと、罪を犯して滅びゆく人類が一緒に罰せられた場所である。

もちろん、信仰のない人にとっては、キリストの十字架は、あくまでキリストだけが罰せられた場所であり、その死は、自分の死ではなく、それは自分の十字架でもない。

そこで、そのような不信者の中には、「キリストさんは、可哀想だなあ。無実だったのに、弟子に裏切られ、罪を着せられて、殺されたんだからなあ」などと、他人事のように哀れんでいる人もあるかも知れないし、キリストは新しい宗教の開祖で、誤解のゆえに殺された犠牲者だと思っている人もいるかも知れない。

しかし、信仰に立つ者は、ゴルゴタで、神の独り子なるキリストの死と、自分の死とが一つになっていることを知っている。

そこで、信じる者にとって、ゴルゴタは、「無実にも関わらず、裏切られて売り渡された哀れな犠牲者としてのキリストが罰せられた場所」では決してないのだ。

そこは何よりも「十字架刑に処されて当然であった「私」(=アダム=人類=人間の自己)が罰せられて死んだ場所」である。そして、そのように御子を罰することは、人類を救うための神の深遠なご計画だったのである。

罪なくして罰せられたキリストは、十字架においてさえその尊厳を失われなかった。どんなに鞭打たれ、あざけられ、唾を吐きかけられても、最後までご自分の尊厳を保ち、父なる神に従われた。

しかし、滅びゆく人類は別である。滅びゆく人間は、まさに罰せられて当然の存在であった。

もし十字架において罰せられた「アダム(「私」=人類=生まれながらの人の自己)」の姿を実際に見ることができるとすれば、それは誰もが目をそむけたくなるほどに醜悪で、まさに嘲りと罵りと鞭打ちと拷問に値する存在であると言えたであろう。

それほど残酷に罰せられてさえ、己が罪を認めず、キリストを見下げて罵り、嘲っていたかも知れない。ゴルゴタでキリストと一緒に木にかけられたあの強盗の一人のように。

筆者は思う、子供の頃に見た、あの死んでしまった鳩でさえ、あれほどグロテスクで醜悪な印象を醸し出していたのだから、十字架においてキリストと共に罰せられた人類(人間、アダム、生まれながらの人の自己)を見ることができるとすれば、それはどんなに目を背けたくなるほどに醜悪な姿であろうか、と。

だが、そのことを思うと同時に、筆者は平安を感じるのだ。それは「心配要りません。あなたの裁きはもう終わりました。」と、神は筆者に言って下さるという確信を心に持つことができるからだ。

「カルバリでの御子の死が自分の死であることを認め、その裁きを心に受け入れさえするならば、あなたが再び罰せられることは決してありません」と、神は言われるからだ。

だが、信仰によってキリストと自分が一つであることを認めても、やはり、信じる者は、地上での生活において、一歩一歩、十字架の死と復活を背負うことが必要となる。

筆者はこの度、キリストの十字架を嘲り続ける者を、この世の諸手続きによって暗闇に引き渡そうとしている。だが、これは筆者の生まれながらの自己の義憤から出た行動ではないことを予め断っておきたい。

筆者は多分、このブログに自らの地上の名を記すことは最後までないだろうと思う。それは、多くの人々が考えているような理由からではなく、以前にも述べたように、このブログによって栄光を受けないためである。

多くのクリスチャンが、牧師や教師や指導者となって、自分の名を公然と世に掲げて著書を出し、ミニストリーを開き、献金を集め、CDを売った。

「偉大な霊の器」などの触れ込みのもと、何千人も収容できるスタジアムを借りて集会を開いたりもした。

だが、筆者は決してそのようなことをせず、このブログを有料化もしない。

無料だからと言って、自分の名を売るために、利用することもしない。それをミニストリー扱いするつもりもない。何よりも、筆者は決して人を上から教える立場に立たない。

だから、最後まで無名の「ヴィオロンさん」のままで良いのである。

多分、何年も後になれば、すべての記憶が風化し、「ヴィオロンさん? それって一体、誰なの? 現実にいる人なの?」ということになって終わるだろう。

「ヴィオロンさん」は、牧師でもなく、教師でもなく、指導者でもない。神学博士でもなければ、キリスト教社会主義の政治家でもない。無学な人間なのか、偉い人なのか、一体、何者なのかも分からないまま、ただの名もない人間として、風のように現われ、風のように過ぎ去って行くだけである。

だが、現実の筆者の名は、市民権を持っている。社会生活がある。筆者に連なる人々も同様である。そこで、現実の筆者を貶める行為に及べば、当然ながら、その者は報いを受けなければならない。

それはこの世の法則である。

いわば、筆者はその時をずっと待っていたのだとも言える。

上手く説明できる自信はないが、筆者にとっては、「ヴィオロンさん」こそ、生きた鳩であり、この世で生きる筆者は、ゴルゴタの十字架でキリストと共にすでに死に渡されており、あの醜悪な死んだ鳩も同然なのである。

この二つは切り離せないものとして一体である。

生きている鳩とは、信仰によってよみがえらされ、生かされた「新しい人」としての筆者である。

多くの人々にとっては、驚くべきことであろうが、筆者から見れば、死んだのは地上における筆者(アダムとしての筆者)なのである。

その意味で、筆者の目に映る「現実」は、多くの人が見ている光景とはさかさまである。

筆者の地上における名は、決して天の栄光と結びつけるつもりはない。むろん、地上における名も何かを為すことくらいはあるかも知れないが、その栄誉は束の間で、これは絶えず十字架で死に渡されているアダムである。

ゴルゴタにおけるアダムの死が絶えず筆者に適用されることによって、逆説的に、信仰によって復活の命が働くのである。

あの河川敷にいた鳩は、いつまでも死体と結びついていたのでは、生きるのは難しいであろうが、キリスト者は、信仰によって絶えずキリストと共なる死と復活を経ていなければ、進んで行くことができない。

筆者には、ここで訴えている内容が、決して自己の利益のためではなく、神の国の権益に関わるものであることを証明するために、代価を払ってそれを証することが、どうしても必要なのである。

なぜなら、代価を払わなければ、天の褒賞を得ることができないためである。

その意味において、地上における筆者が何かの犠牲を払わされることになることを決して厭うつもりはないし、脅しつけられたからいって黙るつもりもないのである。

それは神がご自分のために要求されている代価を支払うことなしに、神に従うことが不可能であり、エクレシアはこの代価を払って神に従うことで、神に栄光を帰するために召された存在だと知っているからである。

人々はあざ笑うであろう、「あなたには色んな才能があり、それを有用に用いれば、もっと社会的に成功できたはずなのに、いつまでこんな無料ブログに『命をかける』だなんて寝言を言ってるんですか。なんて馬鹿げているの。それこそ人生の浪費、犬死でしょう。

いいですから、たかがペンネームのブログごときのために、現実のあなたが社会的地位を失う必要はありませんよ。そんなのはもったいない。あなたはもっと人類に奉仕できるはずの存在じゃありませんか。今からでも遅くありません。何が本当に価値あることか見極めて、こんなブログはお遊びとしてうっちゃって、もっと自分のためになることをおやりなさい。決して真剣に命がけでここに文章を書こうなんて思っちゃダメですよ。幼稚な喧嘩をわざわざ買って出る必要はありません。茶番劇は放っておきなさい」と。

なるほど極めてもっともらしい説得である。だが、筆者は言う、「そうではありません。私はあなたがおっしゃるようなものは、もうすべて後にして捨てて来ました。私が目指しているのは、あなたが考えているような『社会的成功』ではありませんし、『名声』でも、『地位』でもありません。

いいですか、私の信じる神は、そんなものをいつでもいくらでも私のために用意することができるんです。実際に、信じる者のためには天に莫大な富が蓄えられていて、私たちはいつでもそういうものは引き出せるんです。

でも、私は神の目に、私が何を第一として生きているのかをまずは証明しなければならないんですよ。

私は自分の利益や、人の目に認められることを目指しているのではありません。人の目にどう映るかを恐れているのではなく、神の目にどう映るかを恐れているのです。私は信仰の証しを述べたことにより、自分が痛めつけられたり、脅しつけられたりすることを恐れてはいません。聖書の神の御言葉が曲げられ、神の国の権益が侵されていることを憂慮しているがゆえに、叫んでいるのです。

もし聖書の神が冒涜されているのに、私たちが立ち上がらなければ、世の人々はどうして私たちが神を信じていることを知り得ますか。脅かされればすぐに黙ってしまうような信仰なら、最初からない方がましでしょう。

私はすでに死んだのです。ですから、何度、死んでいるという事実を突きつけられても、ビクともしません。この地上の我が国でも、死者には名誉という概念がありませんが、それと同じですよ。 死者には人権もないのです。死者が冒涜されているなどととんなに言っても、死者には法的権利がないんですよ。

でも、本当の意味での死者とは、私のことではなく、滅びに定められたこの地上にいるすべての人たちのことなのですよ。

そして、本当の生者とは、神がキリストを通してよみがえらせて下さったすべての信者のことなのです。ですから、それは私のことでもあるのです。

ある人々は、「カルト被害者が冒涜された」などと言って騒いでいますが、神聖な存在は「カルト被害者」ではありません。神聖な存在は、聖書の神ただお一人です。さらに言えば、神聖なのは、神がキリストと共に死に渡され、よみがえらせて下さった神の子供たち一人一人ですから、それはすなわち、私たちのことなのです。

キリストが内に住んで下さっている信者の一人一人が、神の神聖な教会なのですよ。

ですから、あの人たちが言っていることはすべてさかさまなのです。彼らは自分たちが「冒涜された」と叫んでいるけれども、彼らこそ、神聖な神の宮を冒涜しているんですよ。

私たちは、一方では、滅びゆくアダムに過ぎませんが、他方では、信仰によってよみがえらされた新しい人、聖なる人なのです。私たちのアダムに十字架の死が適用されている以上、真の私たちとは、キリストと同じ性質で覆われた、神の満足される、聖なる新しい人なのですよ。

ですから、信仰のないあの人たちが、自分たちを神聖であるかのように主張しているのは間違っています。もし彼らがそう言うなら、なおさら、私たちこそ、真に神聖な神の宮なんです。

それが現実なんですよ。

ですから、あの人たちは、神の聖を奪い取って、あたかも自分たちが神聖な存在であるかのように主張したいだけなのです。だからこそ、彼らは神の宮である教会をしきりに乗っ取っては、破壊しようとするのですよ。

でも、本当は彼らこそ、何も主張できない死体に過ぎないのです。死んだはずのものが、どうしてゾンビのようによみがえって、生きている人を脅かしたりできますか。彼らは超えてはならい境界を踏み越えました。死者と生者の境界を踏み越え、しかも、神がよみがえらされた人々の権益を脅かしているのですから、これこそ神聖の冒涜ではありませんか。

死体にはまっすぐに墓にお帰りいただかなくてはいけません。死者が立ち上がって生者に狼藉を加えるなど許されることではありません。

ですから、私はこうして荒野で叫んでいるのです。そして、あの人々は、私の訴えていることが真実であるからこそ、自分の罪が暴かれない為に、私を殺そうとしているんですよ。

アダムとしての私に攻撃を加えることはいくらでも可能でしょうし、私はそれに甘んじましょうし、そんなことではビクともしません。でも、今の世で、ステパノの証が聞くに耐えられないからと、ステパノを石打にして殺せば、その人たちが殺人罪に問われるのは当然でしょうね。たとえステパノが死んで口がきけなくなっていたとしても、殺した人たちは罪人として連行されるのが当然でしょうね。それはこの世がこの世の秩序を守るために、放っておいても自らするような仕事なのですよ。

何度も言いますが、キリストと共なる十字架で、私はすでに死んでいるのですから、私には惜しむべきものはありません。でも、だからと言って、誰かが地上に生きている私を本当に殺してしまえば、殺した人たちが罪に問われるのは当然ですね。侮辱を加えれば、罪に問われるのも、仕方がないですよね。

いいですか、私はこの地上にある限り、まだまだ「死んでしまった鳩」とのくびきを断ち切るわけにはいかないんです。処刑されたアダムも、まだこの地上での仮の宿としてのつとめがありますから、やってもらわねばならないことが色々残っているんです。

いくら仮の宿とは言っても、その内側に神聖な神の霊が宿っている以上、アダムに攻撃を加えた人間は、神聖な宮の入れ物となるべきものの破壊行為について、罪に問われることになりますよ。でも、それはアダムに属する事柄ですから、あくまでこの世の法によって裁かれるのがふさわしいのです。

恐れるべきは、それよりももっと厳しい裁きが天に存在することです。「聖霊を穢す者は赦されない」と聖書に書いてある通りです。彼らは神聖なものを冒涜したことの報いとして、この地上だけでなく、永遠に至るまで、引き渡されます。それが彼らの避けようのない運命です。

私はどんなにそうならずに済むなら、その方が良いと願ったでしょう。しかし、彼らはついに私たちが与えた最後の和解のチャンスまで踏みにじり、罵り、嘲ったのですよ。ですから、もう彼らに猶予は残されていません。

私は彼らを「サタンに引き渡す」と以前に書きましたが、そう書いた後、まさに予告した通りのことが起きたのです。彼らの宿主である悪魔が、彼らを本当の破滅に引き渡したのです。

私は言いましたね、悪魔の法則は使い捨てだと。

ひと時、悪魔は手下となってくれる人たちを使って、すさまじい乱暴狼藉を繰り返します。その勢いは破滅的で、誰も止めることができないと思うほどです。しかし、それは疫病のように、いつまでもは続かず、時が来れば、たちまち勢いを失って行きます。そして、その後は、悪魔の宿主とされた人々は、責任を問われ、地上での人生を失って行くんです。

聖書に書いてある通り、悪人たちは、ひと時、雑草のように生い茂っても、振り返れば、彼らはもういない。痕跡もとどめず、思い出そうと思っても、思い出せない。跡形もなく消し去られてしまうんですよ。それに引き換え、主に従った者たちの名は命の署に記され、永遠に残ります。

あるクリスチャンが私の前でこう言ったことを思い出します、

「悪魔は本当に愚かです。キリストを殺しさえしなければ、地上には、復活した人間は一人もいなかったはずなんです。悪魔がキリストを殺せば、復活という、悪魔が最も恐れていたことが起きてしまい、悪魔がどうやっても手出しのできない領域が生じてしまうことが、悪魔自身にも、予め分かっていたんです。

(悪魔が支配することができるのは、旧創造だけである。復活の領域には、悪魔は指一本、触れることができない。)

なのに、悪魔は抑えがたい欲望から、キリストへの殺意に燃え、どうあってもキリストを十字架にかけて殺さずにはいられなかったんです。殺せば、よみがえりが生じる。自分にとって最も恐ろしい、不利なことが起きる。それが分かっているのに、悪魔はわざわざそれをやってしまったんです。これがいつの時代も変わらない悪魔の愚かさです、悪魔は自分にとって最も不利なことをやり続けているのです!」」

まさにその通り。それこそが悪魔の法則というもの。

だから、筆者は「サタンに引き渡す」と書いたのである。その結果、何が起きるかは、天と地の前で証明されることであろう。

筆者は彼らを憐れまないし、惜しまない。

彼らが決してクリスチャンの言うことに耳を傾けないことは分かっているので、筆者は彼らを罠にかける。彼らがその愚かさによって自らつまずくように。自らしかけた罠に落ちるように。筆者は旧創造としての自分をも憐れまずに十字架に引き渡すが、自分以外の旧創造をも憐れまない。彼らを弁護もしないし、救おうともしない。

生きた鳩と死んだ鳩を一緒に救うことはできないのだ。

だが、生きた鳩は、どんなに死体の重みに引っ張られても、自力で上へ上へと飛び立って行くだろう。そうこうしているうちに、鉄線は古くなり、いつか重みで断ち切れる。気づくと、鳩は自分が自由に、軽やかになっていることが分かる。

あの死体はどこへ行ったのだろう。分からない。しかし、そんなことはどうでもいい、鳩は自由になったのだ。鳩は軽々と天へ羽ばたいて行く。

私たちの地上の幕屋はいつか壊れる。地上的名声や地位は束の間である。

しかし、神に従ったことから得られる褒賞は、永遠である。

その永遠のものが、死すべきものを飲み込む時が来る。天の永遠の栄誉が、滅びゆく無価値な地上の栄誉を飲み込んで行く。こうして、死んで滅びたはずのものさえ、命に飲み込まれて、新しくされる時が来るのだ。

アダムの死は過去となり、気づくと、新しい人が立っている。私ではなくキリスト。

私たちは地上の幕屋を負ってうめきつつ、天から与えられる新しい幕屋を上から着る時を待ち望んでいる。新しい天と地を喜びを持って迎える時を待ち望んでいる。

私たちの希望は決して失望には終わらない。神はご自分を頼る者を決して見捨てられることがないからだ。

十字架の死と復活の原則―律法による罪定めから解放され、御霊によって生きる天の自由人へ―

比較的最近のことであるが、あるレストランで食事をしていると、近くの席に老夫婦がやって来て座った。

聞くともなしに、聞こえて来る会話を通して、その老夫婦がクリスチャンらしいことが判明した。彼らは食前の祈りを捧げていたのである。

「この食事を感謝します。あなたがこの食事を通して、私たちの体を健やかにして、癒して下さると信じます。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。」

そんな祈りだった。

筆者は長いこと食前の祈りというものを耳にしていなかったので、彼らの敬虔そうな様子と、懐かしい祈りの言葉に、はっと目を覚まさせられる思いになった。自分が食前の祈りをせずに、食事を取っていたことに、バツの悪い思いさえ味わいながら、その夫婦のその後の会話に耳を傾けた。

筆者はキリスト教会を離れて久しく、全ての形式的な儀式から遠ざかっていたので、そばでクリスチャンが祈るのを聞くことも新鮮で、そういう時には、心から捧げられる祈りであるのが当然だと思っていた。

筆者は真実な交わりを求めて教会を離れて後、心からの祈りしか聞いたことがなかったので、いかにも敬虔そうなその老夫婦の祈りが、単なる形式的な祈りでしかないことが、すぐには分からなかったのである。

そこで、筆者は、その老夫婦がきっと本物のクリスチャンなのに違いないという思いで、何か新鮮な信仰の息吹が得られることを期待して、彼らの会話に耳を澄ました。

すると、その祈りの後にただちに彼らの口から出て来たのは、子供たちへの愚痴や不満であった。

「あの子はねえ、自分の部屋も片付けてないのに、自立なんて無理だと思うんだよね。働いて一人で下宿するとか、結婚するとか、そんなことばっかり言ってるけど、今のあんたには無理だって、この前も言って聞かせたんだよ」
「まずは自分の部屋を片付けることから始めなさいって、言っておいたよ」

そんな言葉が筆者の耳に入って来ると同時に、老夫婦はウェイターを呼びつけ、

「あのね、スープバー代わりに取って来て。私たち自分で歩けないから」

と言って、壁に立てかけた杖を顎で指し示したのであった。

筆者は、あまりのことに驚き、心の中で憤慨さえした。老夫婦がいかにも敬虔そうな態度で食前の祈りを捧げていた時の様子と、その祈りが終わるや否や、始まった会話は、まるで正反対であった。夫婦は、自分が祈った内容が、舌の根も乾かないうちから、まるですべて嘘だったとでも言うかのように、ただちに世俗の会話に明け暮れ、我が子と思われる人物についての不平不満を二人で語り始めた上、自分たちは病人だと言って、ウェイターに代わりにスープバーを取って来るよう指示したのであった。

筆者は、主イエスが「人前で見せるために祈るな」と警告したことを思い出し、あんなにも素朴で敬虔そうに聞こえた祈りが、全く無内容だったことを理解したのであった。問題は、うわべだけ敬虔な信者らしく、食前の祈りを人前で捧げるかどうかではないのである。

しかし、何より筆者が憤慨したのは、老夫婦が癒しを求めて祈ったのに、何一つ、自らの信仰を実践しないことだった。もし筆者が、「主よ、あなたが私たちの体を癒して下さることを信じます」と祈ったならば、ただちに杖を捨てて立ち上がることを考えるだろう。そうでなければ、そんな祈りはしない方が良い。

神は、本当に人の病を癒すことがおできになる方である。筆者はそのことを確信している。だから、「癒して下さい」と祈るなら、神に一方的に懇願して終わりにするのではなく、ただちに自らの信仰が嘘ではないことを表明した方が良い。その行動による表明を通して、信仰は生きて働くのだ。

ちなみに、話が脱線するが、神は人の病を癒すことができるだけでなく、機械の故障も直すことができる。筆者は、色々な機械の故障を修理によらずに直して来た。

その初めは院生の頃、下宿でパソコンにコーヒーをぶっかけ、それを御名によって復活させたことだった。

今では、何かが壊れたからと言って、祈ることはしない。ただ、機械は故障したのだという事実を、心の中で静かに拒否するだけである。

わずか一週間ほど前に、筆者の家では、電化製品を同時に使いすぎたせいで、ブレーカーが飛んで、電気を復旧させると、つけっぱなしだったCDデッキがカタカタ言い始め、CDを再生できなくなった。

CDデッキは買ってから年数が経っており、保証期間も過ぎており、修理はかなり高額になり、預ければしばらく帰って来ず、修理のために預ける心当たりの業者もなかった。

そういう面倒な事柄が脳裏をよぎったが、ついさっきまで普通に動いていたのだから、ブレーカーが飛んだくらいのことで、おかしくなるはずはないと思い直し、CDデッキは壊れてしまったのだという考えを心の中で拒否した。

そして試行錯誤すること15分程度、機械を開けたりも何もしていないのに、CDは普通にデッキにスルスル入って行き、何事もなかったかのように再生が始まった。それ以来、一度たりともヘンな様子は見られない。

さらに、以前にいた家では、レンジフードが故障し、付属の電球がつかなくなり、お湯が出なくなるということが起きた。お湯が出ないんなんて、ロシアじゃあるまいしと思いながら、しぶしぶ修理の見積もりに来てもらうと、老朽化により復旧は不可能と言われ、大規模な工事をするしかないとのことであった。その際、業者が付属の電気だけは復旧させて行った。

大規模な工事にはなかなか予定がつかず、筆者は修理を数ヶ月、先送りした。しばらく、ぬるま湯しか出なかったが、冬場、これでは困るなと思っていると、どんどんお湯の温度が上がって行き、ほとんど普通にまでなった。しばらく経って工事はしたが、とても老朽化により復旧不可能と言われた機械とは思えないほど普通に稼働してくれた。

そんなわけで、筆者は神と二人三脚の生活では、すべてが間に合うことを実際に身を持って体験して来たのである。健康が備えられるだけではない。経済的にも、物質的にも、あらゆるものが間に合うのである。これは人生に何も困ったことが起きないという意味では決してなく、どんなことが起きても、神と信じる者との二人三脚ですべてに間に合うということなのである。

だから、何かが起きる度に、ああ、どうしよう、取り返しのつかないことが起きた、どうやって対応しようか、と思って慌てふためき、自分でその責任を負おうとしてもがき、悩み続けるのか、それとも、悪魔がしでかしたいたずらの責任は、悪魔自身に負ってもらうかどうかは、その人の決断次第である。

こんなことを書けば、笑われるかも知れないが、筆者はあらゆる霊的な負債を悪魔自身に負わせ、自分では負わないことを学んだ。地に属する事柄についての責任は、最終的に地にある。機械が壊れたという事実を拒否することも、その一つである。

アダムの堕落という人類の地滑り以来、人類史はずっと絶え間ない「放浪」と「紆余曲折」の連続だ。どこにも進歩などない。それなのに、自分の人生だけには進歩があると思っている人があるならば、その人は偽善者である。笑止千万である。そんなのは思い込みであって、事実ではない。

人間の義は、みな不潔なボロ切れのようなものだと、聖書に書いてある。クリスチャンの進歩は、天的な歩みによってしか保障されない。

さて、老夫婦に話を戻せば、長い長いこと筆者はキリスト教界に属する信者たちを見ていなかったので、彼らがどういう種族であるかを忘れていたが、そう言えば、キリスト教界というところは、こんな人たちばかりだったな、とやっと思い出したのである。

「学習性無気力」という言葉がある。

長期にわたってストレスの回避困難な環境に置かれた人や動物が、その環境に慣らされたあまり、その状況から逃れようとする努力すらももはや行わなくなるという現象である。

これは家庭内暴力などを受け続けた人によく当てはまる。たとえば、毎日、毎日、夫から暴力を振るわれ、「お前は何もできないクズだ!」などと罵倒されている妻がいたとすれば、その妻は、夫の暴力と暴言が一定の限度を超えると、無気力状態に陥り、ついには本当に自分は何もできないクズなのだと考えるようになり、その夫から逃げる気力さえ失ってしまう。

それでも妻が渾身の気力を振り絞って、その夫のもとから脱走しようとすれば、夫は全力で妻に打撃を加え、立ち上がれないようにし、再び、家の中に監禁してしまう。そういうことを何度も、何度も繰り返せば、妻はついに最後は逃げ出すことをあきらめるしかなくなる。最終的には、死へ向かって行くのであろう。

筆者は、キリスト教界というところは、早い話が、信者に学習性無気力を植えつけることで、教会組織から逃げられないように囲い込んで行く恐ろしいDV組織であると考えている。

神の健やかな教会ではない。DVが蔓延する機能不全の家庭である。

以上の老夫婦の会話を聞いて、筆者はそのことを改めて思い出したのだった。

彼らの短い会話から理解できたことは(それほど長い間、聞いていなかった)、彼らの子供は、多分、自立したい、親元を離れたい、結婚したい、と思っているということであった。年齢がいくつなのかは分からないが、子供ならば、当然に願う事柄だろう。

ところが、老夫婦は、そういう子供の願いを聞いているにも関わらず、子供の願いを質に取って嘲笑うかのように、「おまえにはまだ無理だよ。そんなことができるくらいなら、まず自分の部屋をちゃんと片づけられるはずだ。目の前のこともできない人間が、どうして将来、もっと大きなことができるんだ」と、議論をすり替えることで、子供の未来への願いまで否定し、奪い去ってしまうのだ。彼らは真顔でそういう態度が正しいと思い込み、上から目線で子供を説教し、断罪しているのである。

子供は、そういう親のメッセージを聞いて、「おまえには無理だよ」と否定された言葉だけを記憶する。自分の願いが親には受け入れられておらず、後押しされてもいないという悲しみと、親から逃れたくても逃れられない焦燥感と、部屋の片づけが十分でないということで、またもや責められたという罪悪感だけが残る。

こうして、子供は、自立して家を出ようとする度に、「今のおまえにはそんなのは無理だ。そんなことを考えるくらいならまず・・・・」というお説教(ディスカウント)を延々と聞かされ続けなければならない。

子供がこういう機能不全家庭から脱出するためには、親が植えつけて来る罪悪感、無力感と戦ってきっぱり訣別しなければならない。

たとえば、「部屋の片づけができていないから自立なんてできるはずがない」というロジックには、

「私はもっといい家に住んで、気に入った部屋を確保してから、片づける。こんな貧乏な家では、片づけする気にもならないのは当たり前。部屋の片づけをちゃんとやるためにも、私はこの家を出るんだ」とでも何とでも、適当な理屈をつけて、撃退すれば良いだけなのだ。

以下の記事で触れたホームレス伝道もそうなのであるが、キリスト教界は、何かのトラブルを抱えて困っている人々が、そのトラブルをきっかけに、助けを求めて教会にやって来たことを機に、その人の精神的な弱点を握り、これを質に取って、あたかも困っている人を助けてやっているように見せかけながら、その教会から半永久的に「自立」できないようにさせてしまう恐ろしい組織である。

人々に罪悪感、無力感を植えつけることで、その教会の支えがなければ、決して自分だけでは生きていけないかのように思い込ませるのである。

そのために利用されるのが、「信仰の証」と称する懺悔の儀式である。

「証(あかし)」と称して、信者は、過去に犯した罪を、何度も、何度も、繰り返し、人前で「自白」させられ、そうして自分で自分を卑しめ、蔑み、負のイメージを抱え、挫折感や、劣等感をずっと持ち続けることを強要される。罪赦されるために教会に来たはずなのに、これではちっとも過去と訣別できない。

そうして自分を蔑み、貶めることと引き換えに、人々は教会を持ち上げることを要求される。あんなにも恐ろしい罪人だった自分が、今こうしてあるのは牧師のおかげだ、指導者のおかげだ、信徒のおかげだ、教会のおかげだ、と感謝を強要される。

そういうことをずっと繰り返していると、その信者は、本当に、自分は一人では何もできない、どうしようもなく無力で愚かな罪人なのだと思い込むようになる。そして、誰から要求されなくとも、牧師や信徒のもとを離れると、悪魔の虜にされるだけだと考え、自分からその場所にとどまるようになる。

学習性無気力である。もう教会から離脱する気力はその信者にはない。

要するに、部屋の片づけが出来ないことを親に責められ続け、自立の気力を奪われている子供と同じである。

筆者は、あらゆる組織は人間のためにあるのであって、人間が組織のためにあるのではないと信じている。教会や職場なども、これと同じである。合わなくなったら、出れば良いだけの話だ。

自分が成長して、今まで着ていた服のサイズが合わなくなったら、さっさとそれを脱ぎすてて新しい服を着れば良いだけである。愛着のある古い服をごみ箱に捨てることは、確かにちょっとためらわれるかも知れないが、だからと言って、サイズが合わない服をいつまでも着続けて、何の良いことがあろう。

ところが、人間社会では、多くの人々がこれとは反対の考え方をしており、人間のために組織があるのではなく、組織のために人間があると思い込んでいる。そこで、人々は、自分が成長して、服がきつくなっても、とりかえようともせず、血まみれになりながら、その服を着て出勤しているような有様である。

筆者から見れば、こんなのはあまりに馬鹿げたことである。

自分が成長したという事実は、本当はとてもめでたい話のはずなのに、人々は成長したという事実をひた隠しにしながら、何事もなかったかのように古いユニフォームを着続ける。

古い革袋を持ち続けたまま、教会に出席したり、職場に出勤したりしているのだ。

もしその人がすでに成長して古い服がもう合わなくなっていることが周囲にバレたら、早速、人々からお説教が始まる。

「あんた、もしかして転職を考えてるんじゃないでしょうね」
「きみ、まさかここを出て別の教会に行くつもりじゃないだろうね」
「どれだけそんな風にいい加減な放浪を続けたら気がすむんだ」

「あんたが自分の考えを持つなんて百年早いんだよ」
「ここでうまくやれない人が、次でうまくやれるはずがない」
「不平不満を並べる前に、まず自分の欠点をちゃんと直したら」
「自己過信して、独りよがりな生き方をするようになったら、正しい信仰から逸れて行くだけだよ。私たちには霊的な指導者が必要なんだ」

等々。早速、ディスカウントによる引き留め&囲い込み作戦が始まる。

それはまこしやかに助言や忠告の形を取って発せられる言葉の数々だが、要は、親切を装いながら、霊的に中間搾取できる奴隷を逃がしたくないがために言われていることだ。

こうして、キリスト教界も、ブラック企業も同様に、一旦、人を中に取り込んだら、弱みにつけこんで、容易には二度と外へ逃がさない閉鎖的な場所になっているのである。

逃げ出すことが不可能になるように、常日頃から人の自尊心を打ち砕き、罪悪感や劣等感、無力感を植えつけるための数々の儀式や説教を行うのである。自分一人でものを考える暇を与えず、常に偉い人たちの忠告に従い、自分の心の本当の願いを否定するよう教えられる。

少しでも自立しようとのそぶりを見せると、周りにいるエージェントたちがワッと押し寄せ、たくさんのお説教で圧力を加え、逃がさないように袋叩きにして閉じ込める。

DVが蔓延する機能不全の家のようなものである。

カルト被害者救済活動など、その最たるものである。

この活動を主導しているリーダーたちは、この活動の虚偽性を見抜いて、そこから逃げようとしている筆者を、まるでDV夫のように執拗に追いかけては、バッシングを加え、「おまえごときにこの俺様から逃げる力なんてあるはずがない! このクズめが!」と叫んでいる。

そこで、まるで三流ドラマのようだが、カルト被害者救済活動を「DV夫」にたとえ、「妻」の立場からもの申すとすれば、こんな風な会話になるのではないだろうか。

「ちょっと、あんたねえ、私をクズ呼ばわりする前に、あんたは私に今まで何をしてくれたのか言いなさいよ。見なさい、あんたが用意した、このひどいボロ家! 私以外の人たちはみんなとうにこんな家、見捨てて出てったわよ。

それをさ、あんたは私が不満だって言ってるのに、私を脅しつけてこの家に監禁したんだよね。あんたは未だに自分が家長だから、俺様に従えって威張り散らして私に命令して、私に従順が足りない、頭が高い、仕事が足りないとかってケチつけてるけど、こんな貧相なあばら屋しか私のために用意できなかった甲斐性のないあんたに、誰が本気で着いて行って奉仕なんかすると思ってるの? 鏡を見てからものを言いなさいよね。今さら、そんなあんたが、私に何を要求しようっていうの?

あんたがもし自分の口で言ってるほど偉い人間なら、一時でも、あんたのもとに身を寄せた私は、今はもう女王様みたいなご身分になってておかしくないはずだよね? 食事も自分で作らず、家の掃除もせず、お手伝いさんが何人もいて、かしづいてくれて、あんたにこんなに偉そうに上から目線で命令なんかされてないはずだよね? 

あんた、自分に甲斐性がなくて、自分の周りの人間を誰も幸せにしてあげられなかったからって、なんで自分を責めずに、全部を私のせいにするわけ?

私にガミガミ要求する前に、まずあんたが私にどんな良いことを今までしてしてくれたのか、それを列挙してみなさいよね? 私を幸福にするために、あんたがどんな具体的な手助けをしてくれたのか、言いなさいよね。私、何一つとしてあんたが私のためにしてくれたことについて、記憶がないんだけど。何か一つでも自信を持って言えることがあんたにあるの?

私の稼ぎが少ないから、私はクズだって、あんたはあざ笑ってるけど、それじゃあ、あんたは一体、いくら稼いでいるのか、白状しなさいよね。私に友達が少ないとか、社会から認められていないとか言って、人を蔑んだり、あざ笑ったりする前に、あんたには今一体、何人の友達がいて、どれだけ社会に奉仕して、どのくらい認められてるのか、そもそも給料はいくらなのか、それをまず言いなさいよ!

そしたら、多分、あんたよりもっと偉い人たちがぞろぞろ出て来て、あんたが威張ってるのには根拠なんてないってすぐに分かると思うよ。

どうせあんたが見栄で設立した会社だって、今は幽霊会社になってるんでしょ。自分の事業も成功させられなくて、毎日、毎日、宮仕えに出ないと生きていけない、しがないサラリーマンのくせに、それがまっとうな職業だってほんとに思ってるわけ? そんなのただの囚人じゃない・・・。

私はね、このどうしようもないボロ屋と暴力と暴言と貧しい食事しか用意できないくせに、毎日、毎日、自己反省もなく、弱い私を一方的に責め続けるだけの卑怯なあんたとさっさと別れて、天の特権階級として生きることに決めたのよ。

天の特権階級になれば、職歴なんて要らないの。「権勢によらず、能力によらず、神の霊によって」て書いてあるでしょ。宮仕えとかも必要ないの。だって、私たちが宮であって、神が共に住んで下さって、どこにも仕える必要なんかないんだから。その宮は、大きな都で、そこでは太陽が沈むことなく、ずっと明るく照らされてるの。

そこには、貧しさも、悲しみも、悲鳴も、涙も、叫びもないの。何てらくちんかつ幸せな生き方! そういう生き方を私にさせてあげるって言う人が、今、私を迎えに来て、扉の外に立って、戸を叩いてるの。だから、私、あんたと暮らすのはもうやめることにしたわ。ここであんたに虐げられ、暴力振るわれてるより、そっちのがどう見ても、絶対、幸せじゃん。

多分さ、今、ここで私があんたの部屋の押入れを開ければ、あんたが今まで殺して来た妻たちの白骨死体が見つかると思うんだよね。あんたってさ、私には隠してたけど、多分、初婚じゃないよね。その上、愛人とかもいっぱいいるよね。今までもずっと私に隠しながら、私にしているようなことを、他の弱い女たちにもして来たはずだよね。

言いなさいよ、私の前に何人妻を殺したの? 何人の可哀想な人たちを、弱みにつけこんでこの家に引き入れては精神的にいたぶって殺したの?

押入れを開ければ、真実が見えるよね。でもさ、私は、そういうグロテスクなものは見たくないんだ。だから、あんたはどこからどう見ても怪しすぎるってことで、さっさと110番しといたわ。あんたは私の頭がイカれてるって言ってごまかそうとするんだろうけど、あんたが私につけたこの生傷を見せてあげれば、どこの誰だって、どんなにあんたが自己弁明しても、私の言っていることが嘘じゃないって、分かるはずだと思うよ。

「宮詣でする前に兄弟から反感を持たれていることが分かったなら、捧げものを置いて、早く和解しなさい」って書いてあるのに、あんた、自分が殺した妻たちの悲鳴に耳を塞いで、彼女たちと和解もしないで宮詣でを優先するっていうんだから、心底、呪われた生き方だよね。あんたって、ほんとに、うわべだけの見かけ倒しの中身のない男だよね。でも、そんなにまでして懸命に宮詣でしても、それって全部、カインの捧げものになって罪に定められるだけだよ。

「罪人の富は義人のために蓄えられる」って書いてあるの、忘れたの?

ところで、あんたの祈りってさ、ほんとうわべだけで、「主よ、私はこの取税人のようでないことを感謝します」って、あのパリサイ人と一緒じゃん。

私と一緒に教会に行ってもさ、あんたって、どうせ心の中では、「主よ、私はこんなクズ女とは別人であることを感謝します」とかって祈ってるんでしょ。

そんな男、行く先はもう見えてるよね。憐れむ価値もない。せいぜい外の暗闇に閉じ込められて歯ぎしりしながら、自分のして来たことを振り返るがいいわ。

そういや、あんたの両親って、私、今まで一度も会ったことなかったけど、父は悪魔で、母は大淫婦バビロンなんでしょ。大した家系でないどころか、誰よりもひどい生まれのくせに、よくも今まで偉そうに上からものが言えたわけだよね…。

あんたなんて、私とはあまりにも不釣り合いで、あんたなんかに、私がもったいない。よくもこれまで一瞬たりともあんたに我慢できたものだわ。よくよく私も幼かったのね。でも、もう分かったのよ、あんたの言うことなんて、隅から隅まで嘘だって。脅しても無駄。あんたのマインドコントロールはもう二度と、効かないよ!」

これ以上、何も言う必要はないと思う。

「カルト被害者救済活動」が「元被害者」をいついつまでも学習性無気力状態に追いやるために絶えず投げかける呪いと罪定めとディスカウント、これが要するにキリスト教界の言い分の総括であり、集大成なのだと筆者は思う。

こんな「家」にいつまでもとどまっている筋合いは誰にもない。

これは「家」ではない。牢獄だ。

出ることを考える前に、さっさと部屋の片づけをしろ?

独房の片づけは、囚人の仕事ではない。普段から人を囚人として監禁した上に、監禁した独房の清掃まで要求するとは、どこまで厚かましいのだろうか。しかも、筆者は囚人ではなく、自由の身だ。もとよりこんなところに監禁されている理由はないため、さっさとお暇します。

でも、本当の「家」が用意された暁には、部屋の片づけなんてことも、考えてあげてもいいかも知れない。ただし、覚えておいた方がいい、独房の清掃は、「部屋の片づけ」とは呼ばないんだ。こんな業界からは、本当にエクソダスあるのみだ。

2018年1月30日 (火)

十字架の死と復活の原則―小羊の血と証の言葉により、サタンの要塞を打ち壊す―

わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(Ⅱコリント10:4-6)

この御言葉が心に迫って来る。これは、私たちの述べる証の言葉が、敵の要塞を打ち砕く力を持っていることの力強い証明である。

兄弟たちは、小羊の血と自分たちの証しの言葉とで、彼に打ち勝った。
彼らは、死に至るまでも命を惜しまなかった。
このゆえに、もろもろの天と、その中に住む者たちよ、喜べ。
地と海とは不幸である。
悪魔は怒りに燃えて、
お前たちのところへ降って行った。
のこされた時が少ないのを知ったからである。」(黙示12:11-12)

これから激しい戦いが起きようとしている。

それは、キリスト者が証しの言葉を守り抜くための決戦である。
天の大掃除と言っても良いかも知れない。

このブログに対する暗闇の勢力からの激しい攻撃があることは、周知の通りである。何しろ、その戦いが始まって以来、もはや8年間にもなろうとしているのだ。

神によらない、人間による救済を唱える人々が、このブログを敵視し、根絶しなければ気が済まないというほどの執念を持って追いかけ、逐一因縁をつけ、著者である筆者に対しても、もはや筆者の人生そのものを潰そうと考えているとしか思えない、まさに呪いと言って差し支えない敵意と執念を燃やしている。

考えてみると、彼らが投げつけて来る言葉の一つ一つは、まさに「呪い」としか言いようのないレベルに達している。

だが、筆者が思わず可笑しいと思ってしまうのは、筆者のブログは、最盛期でさえ、一日に50人ほどが読んでいただけの小規模なものであったことである。いや、もっと多くても、100人を超えたことはなかった。さらに筆者自身も、有名な政治家でもなければ、大学教授でもない。牧師でもなければ、指導者でもない。

一体、人生をかけて執念を燃やし、追い続けるほどの価値がどこにあるのだろうかと、思わず首をかしげ、苦笑してしまう。

ところが、暗闇の勢力にとっては実際にそれだけの価値があるのだ。だからこそ、これほど激しく筆者の証しを地上から取り去ろうとしている。この戦いは、人間的な血肉のレベルのものではない、とはっきり分かる。

そこで、筆者は「ほえたけるしし」を捕獲する作戦に出ねばならないと思う。
しかも、ゴリアテに立ち向かったダビデのように、石つぶてだけを持って。

筆者は気楽な性格なので、暗闇の勢力を捕獲するための条件が完全に揃ったことを今まで知らなかった。前々から色んな下調べをしていたのだが、パズルの最後のピースがぴったりはまる時をずっと待っていたのだ。

今は詳細を記すことはしない。どうせまた大言壮語していると思わせておけば良いのだ。肉を切らせて骨を断つ、とでも言うべきか? 

筆者がとても残念に思うのは、キリスト教界の中から今まで誰一人として、この「ほえたけるしし」に敢然と立ち向かう者が出なかったことだ。そればかりか、筆者の知っている立派な年配者のクリスチャンたちは、自分だけは決して厄介な問題に巻き込まれまいと、そそくさとブログをやめたり、非公開にしたり、信仰告白を開かれた場所に発表し続けることをやめて、逃げ去って行ってしまった。

彼らにはきっと、このような激しい妨害に敢然と立ち向かって、神に対する証を立派に守り抜くことは、多分、初めからどうでも良いことだったのだと言わざるを得ない。殉教したクリスチャンの事を涙ながらに語りながら、誰一人として、汚し言を言う口に毅然と立ち向かって口を封じ、神の真理を公然と世に輝かせることをしなかったのだ。

だからこそ、筆者のような人間が、キーパーソンになってしまっているのである。他に立ち向かう者がいないからだ。

だが、証の言葉は、様々な圧迫に屈せず、それに立ち向かって発表し続けていればこそ、価値がある。なぜなら、代価を払って神に従わなければ、その従順には価値がないからだ。

筆者がこれまで払い続けて来た代価については、神ご自身が知っておられる。筆者は人間的な利益や地上的な名誉を捨てても、神に従うことを選んだのであり、これから生きている限り、もそうし続ける。

ブログは、ただそのことの表明なのである。

ある時、筆者のブログを読んで、クリスチャンを名乗っていた人が言った。「あなたの文才は、何か困っている人たちの権利の主張のために用いられるかも知れないわね。たとえば、弁護士を頼めない人たちのために、代理で文書を書くとかね・・・」

それは慈善事業の好きなクリスチャンであった。いつも困った人たちを見つけ出して来ては、かいがいしく世話にいそしんでいる、同情好きな人であった。クリスチャンの中にはそういう人たちがたくさんいる。ホームレス伝道、その他、その他、常に彼らはどこからか自分よりも「困った人たち」を見つけ出して来ては熱心に世話を焼く。社会的弱者への彼らの関心は尽きない。

だが、彼女のその言葉を聞いて、筆者は、何かが違うと強烈に心に違和感を覚えたのを思い出す。そして、今になってもやはり、筆者がブログを書いているのは、そのような目的のためではないと思わずにいられないのだ。

むしろ、筆者が当ブログで何度も訴えて来たのは、彼女の言葉とは正反対のことばかりであった。常に自分よりも弱く、困っていそうな人たちばかりを周りに集めては、しきりに人助けに邁進し、人を教えたがるような人間(信者でなくてもだが)は、誰よりも信用ならない、油断できない偽善者である、ということである。

一見、そういう人々は、とても心優しく、思いやり深く、親切そうな人に見えるかも知れない。だが、神の福音と慈善事業は違うのだ。物質的支援を最優先するこの世の人たちでも十分に可能な人助けと、神の目に見えない御言葉を第一優先とする信仰生活は全く異なる。

キリスト教の中に慈善事業が押し寄せて入り込んで来た結果、クリスチャンの主要な活動は、神の福音伝道ではなくなり、かえって物質的支援に福音を添え物とするような内容に堕落して行って行った。

思い出すが、筆者はかつてある時、教会関係者らによって、横浜のホームレスの街、寿町界隈にある教会に、ホームレス伝道の見学に連れられて行ったことがある。今となっては、名も覚えていない教会であるが、関係者には知られていた。

筆者は、当時、教会指導者たちの仲間の一人として、彼らの客のようにして現場に連れられて行き、初めてホームレス伝道の様子を観察したのであった。

時間になると、公園に舞台が用意され、そこで讃美歌が謳われ、説教が始まる。
数多くのホームレスたちは、いつ教会関係者がやって来て、給食が受けられるかを事前に知っており、どこからともなくぞろぞろ集まって来る。

筆者は、ベンチもない公園のコンクリートの床に、座ったり、立ったまま、讃美歌を聞いているホームレスたちの中に混じって、現場に佇んでいた。

やがて説教が終わり、給食が始まった。ホームレスたちは一人一人列に並び、コンビニの弁当を少しばかり小さくしたような軽食を受け取って自分の場所へ戻って来る。

筆者はその時、ふと自分が空腹であることに気づいた。すると、どういうわけか、ホームレスの一人が、まるで筆者の空腹を察知したかのように、筆者に向かって自分の弁当を差し出したのである。ニコニコ笑って、筆者に自分の弁当をくれると言う。

自分は要らないのか、と尋ねると、筆者はお客さんだから、もてなしてやりたいのだと言う。構わず食べてくれと勧める。

ホームレスの中にはこういう人たちがいるのだ。もしかしたら、彼はすでにクリスチャンだったのかも知れないが、自分が給食を受け取りに来ているにも関わらず、自分がもらったものに全く無欲かつ無頓着なのである。所有物だとかいう意識はなく、自分がもらったものの価値も分からず、親切心から、それを簡単に人にやってしまったりすることがあるのだ。

ところが、筆者の所有意識のなさは、彼らを上回っていた。そこで筆者は、その時、年配のホームレスが筆者に見せてくれた「親切」や「もてなし」が、単純に嬉しかったので、その給食を受け取ったのである。

すると、その時、教会関係者らが、どんなに奇異の眼差しで筆者を見つめていたことだろう。

彼らは、心の中で、何ということだ、この人は一体何をしにここへやって来たんだろうか、とでも思っていたに違いない様子で、筆者を振り返っていた。

その時の教会関係者らの、鳩が豆鉄砲を食らったような、何とも表現しがたい眼差しを覚えている。

今から思えば、筆者は暗黙のうちに、何かのタブーを踏み越えてしまったに違いなかった。筆者の行動は、「もてなす側」と「もてなされる側」、「救う側」と「救われる側」、「施す側」と「施される側」との関係性を逆転するものだったのだ。

筆者は教会関係者と一緒に、伝道の有様を見学するためにやって来たのだから、筆者はあくまで「施す側」に立っているはずであった。筆者の空腹を満たすことなどは、もとより見学の目的ではない。それなのに、教会関係者が、突如、ホームレスに「もてなされ」、「施される側」に回ってしまったのだ…。

筆者は、ただホームレスの「親切」を喜んで受けただけだったのだが、そのようにして差し出された弁当を一口食べた途端、瞬時にすべてを理解した。

そこでホームレスの置かれている状況が、どんなものであるか、ホームレス伝道とは何であるか、その実態が、筆者に突如、鮮明に理解できたのである。

それは、筆者が自分自身も、まるでホームレスの一人のようになって、彼らと同じ目線で、彼らと同じ立場で、その給食を受け取って食べなければ、決して分からなかったであろう感覚であった。

一言で言えば、その給食を口にした途端、ものすごい侘しさと惨めさが体を吹き抜けて行ったのである。

椅子もテーブルもない公園で、知り合いも友達もおらず、当然、家族などの語り合える身内も誰一人いない中、まるでエサを求めて集まって来る鳩のように、ホームレスばかりの群れの中で、コンクリートの床に、立ったまま、もしくは、座って、慌ただしく弁当を食べる。

しかも、短い伝道集会が終わらないうちに、早く食べ終えなければならない。

こうして、ただ食べ物にありつくためだけに、お約束事のように、時間になると、ぞろぞろと公園にやって来ては、囚人のように配給の列に並び、上からのありがたい親切としての給食を受け取る。当然、その食事と引き換えに、牧師のありがたい説教にも耳を傾け、讃美歌も歌わねばならない。すべてはお約束事だ。

そういう事柄を、この人たちは、食べ物をもらっているのだから当然だと思って、受け入れているのかも知れない。多分、全く疑問を持たないのだろう。

だが、筆者の心には、何ということだという思いがこみ上げて来た。こうして、食べ物とワンセットになった福音、自由意志によって、人が自ら探求するのではなく、人々の弱さを利用して、有無を言わさず、上から受け取らざるを得ないように用意された福音に、やむせなさが込み上げ、さらに、何とも言えない寂しさと侘しさしが感じられない食事に、失望がこみあげて来た。

もしこれを「伝道」だ「支援」だと本当に思っているならば、そんなものは、クリスチャンの側からの自己満足でしかないだろう。

だが、筆者は、客として案内してもらっている立場なので、そのような思いを表に出すわけにも行かず、違和感を心の中にしまい込んだ。

それから次に、教会に連れて行かれ、そこで回心した元ホームレスの「あかし」を聞かされた。

筆者はそれを聞いていると、ますます耐えられない思いになって、逃げ出すように部屋をそっと何度も抜け出た。なぜかと言えば、それは到底、元ホームレス自身が、自らの言葉で語っているとは、思えないような不自然に出来すぎた「あかし」だったからだ。

もっとはっきり言ってしまえば、その証は、「ホームレス伝道の稀有な成功事例」を来賓にアピールすることを目的として用意されたことが、あまりにも明白だったのである。

ホームレスになるような人々には、概して、それほど高い教養を受けた人々はいない。何事であれ、自分自身の言葉で、立て板に水のように、流暢かつ論理的に話すことのできる人は少なく、まして、幼い頃からの信者でもないのに、信仰の証など簡単に語れるはずがない。なのに、その回心した元ホームレスは、型通りの「立派な証」を語っている。

筆者には、それがすべて予め準備された「舞台」のようなものだということが分かってしまった。しかも、その内容は、よく聞いてみれば、回心する前、いかに彼が罪深く、堕落した人間であったか、いかに地獄へ堕ちて当然の人間が、教会によって助けられたことがありがたい奇跡であったか、いかに今後は心を入れ替えて、真人間になって、伝道に邁進するか…などと言った、まさに定番と言って良い内容で、要するに、過去の自分自身を貶めることで自分を助けてくれた教会を持ち上げ、教会に感謝し、牧師に感謝し、人間に栄光を帰しながら、これからはクリスチャンとして、牧師の望むような人生を「まっとうに」生きて行くと述べた回心の証であった。

しかも、元ホームレスということで、その証には、過去の罪に対する反省が、通常のクリスチャンよりも、とりわけ熱心にちりばめられていた。だが、筆者には、そのような証は、彼が自分で考え出したとは到底、思えず、ただ牧師から教えられたことを、そのまま受け売りして、それが正しいと信じ込んで語っているのだとしか思えなかったのである。おそらく、疑うことさえできずに…。

筆者には、元ホームレスが、教会と出会う前の自分の人生が、どんなに悪く、悲惨で、滅びに向かっているだけの、目も当てられないものであったか、ということを、繰り返し語るのを聞きながら、「もうやめて下さい、これ以上、謝らないで下さい!」と言いたい思いに駆られた。

「あなたの罪はすでに赦されたんじゃありませんか。神は『緋のように赤くても、雪のように白くなる』とおっしゃっているじゃありませんか。福音とはそういうものですよ。あなたの罪は赦されたんですから、もうそんな風に、過去のことを何度も何度も思い出しては、人前に自分を責め、貶めながら、懺悔し反省し続けることは、あなたには必要ないんです!」

思わずそう言いたくなったが、ぐっとこらえた。だが、その証を聞いていることは、まるで捏造された裁判で、無理矢理自白を強要させられ、懺悔を迫られた囚人の証言を見せつけられているようで、耐えがたい思いになるだけだったので、筆者は黙ってその部屋を抜け出した。

指導者たちは、まるで模範的な「回心事例」だとでも言うかのように、満足そうに頷きながら、その証を聞いている。拒否反応を覚えた者は誰もいないらしかった。

筆者はその部屋をそっと抜け出して、元ホームレスのクリスチャンたちが共同生活を送っているという部屋に行こうとして、廊下に出た。公園にいた時のように、ざっくばらんに、率直に語り合ってみようかと思ったのだ。

だが、筆者が廊下から扉のノブに手をかけた瞬間、ガチャリと音がして、中から鍵が閉められた。何一つ予告の言葉もなしに、筆者が扉の外までやって来たことを察知した途端、中から鍵が閉められたのである。むろん、鍵をかけたのは、元ホームレスの信徒ではなく、教会関係者の誰かであった。

まるで共産主国を旅行していて、自由に写真を撮ろうとすると、警官に呼び止められた旅行者のような気分であった。その時、筆者は、ああ、こんなところに来てはいけなかったんだな、ここは筆者には立ち入ってはいけない場所だったのだな、と分かったが、それと同時に、筆者がこれまで見せられたすべての風景は、来賓のために用意された「見せても良い部分」だけだったことが分かった。

筆者は、それまで見て来たものが完全に「舞台」であることを理解したのだった。

もちろん、寿町が近ければ、色々と物騒な事件も起きる。ヤクザの抗争などもあれば、死体が見つかったりもするという。だから、そういうところにある教会が、初めてやって来た人にすべてを見せるというわけにはいかないのは当然ながら理解できる。

だが、その時、筆者が感じた違和感は、そういう種類のものではなかったのである。

その伝道現場を後にする頃には、筆者は「作られた結構づくめの人工的な雰囲気」に調子を合わせることに、すっかり疲れ、参ってしまっていた。

どんなに美しい風景であっても、それが不自然で人工的な統制のもとに、人の自由を奪い取って成り立ったものだと分かれば、げんなりしてしまう。

筆者は、帰りがけに、そこに連れて行ってくれた教会指導者に向かい、「こんな伝道は伝道ではないと思います」と率直に感想を述べた。今となってはどんな言葉を述べたのかも分からないが、多分、次のような内容ではなかったかと思う。

「これでは、伝道というより、ただ彼らの無知と弱さを利用して、自分たちの思い通りの型にはめて、それでこの人々は回心した、再教育が成功した、と思い込んでいるだけです。全然、彼ら一人一人の人格を取り戻したり、自由に生きさせるどころか、まるでみんなコピーみたいに、教会の付属物にしてしまっているだけじゃありませんか。

食事だって、あんな侘しい食事では、人としての尊厳を取り戻したことにはならないでしょう。なのに、こんな食事で、彼らを助けてやっているとか、必要なものを与えてあげていると思っているなんて、驕りもいいところです。それはまだ許せるとしても、それと引き換えに福音を押しつけるなんて…。

これじゃあ、地上の食事を餌にして、彼らをおびき寄せ、福音の名のもとに、かえって彼らを束縛し、自由から遠ざけながら、パンと引き換えに、自分の信念を押しつけているだけではないでしょうか。人の弱みにつけ込んで説教を聞かせていることにしかならないのでは? しかも、あの人たちには、教えられた内容を自分で疑ってみる力もなく、吟味することもできないのだとしたら、人の弱さと引き換えに、そういう形で福音を受け入れさせるのは、フェアじゃないと思います…」

筆者はこうして「ホームレス伝道」なるものは、自分には決して賛成できない、という感想を述べた。ホームレス伝道への案内をしてもらうことは、筆者のリクエストで始まったことではなかったので、義理立てせずに、感想を言うことくらいのことはできた。

だが、その指導者は、筆者が何を言っているのか、全く分からないらしかった。怪訝そうな顔をして肩をすくめ、一体、あの素晴らしい伝道の何がそんなにまでいけなく、不満なのか、彼らは至極善良なことをしているだけなのに…、という面持ちで、筆者を見るだけであった。今から考えれば、当然なのだ、この人も指導者だったのだから。この人の会衆はホームレスではなかったにせよ、この人も、結局は、講壇に立って、自分も人々に全く同じことをしているのだ。どうしてそのような伝道のあり方を自ら疑うことができようか。

話を最初に戻そう。他者の考えはともかく、筆者は、以上のような弱者救済事業が、教会の主要な活動であるとは、今になっても全く考えていない。さらに、筆者自身も、自分の言葉を、決して貧しい人たちへの物質的支援を生み出すための道具とするつもりもない。

世間には、未だに筆者がこのブログを「人の歓心を買うため」、「人に受け入れられるため」、「人間に奉仕するため」に書いていると誤解している人がいるようだが、事実は全くそうではないのだ。たとえ「人助け」という名目であっても、筆者は生まれながらの人間の利益に奉仕することを目的としてこのブログを書いているわけではなく、人との関わりを目的として書いているわけでも全くない。

筆者がブログを書く理由は、人の心を掴むためではなく、神の歓心を得るためであり、人間の利益のためでなく、神の利益のためであり、教会と呼ばれている人間の作った地上の集団を賛美するためではなく、ただ神を見上げ、自ら信仰に立って生きるためなのだ。

クリスチャンは他者などを助けている場合ではない、と筆者は思う。自分が他者を助けられると思うこと自体が、一種の思い上がりであり、高慢であると言っても良い。まずは自分自身がしっかり御言葉に立ち、神をしっかり見上げて、失格者になることなく歩むことに専念した方が良い。

さらに、筆者がこのブログを書くのは、血肉によらない、霊的な戦いのためである。この戦いの中で、自分の立ち位置をはっきりさせるためである。

天と地の前で、筆者が一体、誰の権益を守るためにここに立っているのかを、はっきりさせるために書いているのである。

筆者が守ろうとしている権益とは、地上の滅びゆく生まれながらの人間の権益ではないのだ。

ある人々には、こうした事柄が全く理解できない。彼らには、貧しい人たちが物質的な利益を得るのを支援するために文章を書くことならば、いくらでも理解できるし、賞賛もできようが、血肉によらない霊的な戦いで勝利を得るために、神と悪魔の前で、キリスト者が霊的な主張文を書くことの意味が、全く分からないのだ。

こうした過程で、筆者は、ますます生まれながらの人間のサイドを離れなければならないと思うようになった。

この度、筆者は二つの主張を提起するつもりでいるが、多分、それは生まれながらの人間にとっては、今まで以上に厳しい、聞きたくもない内容となろう。そして、それを機に、筆者は、すべての地上の人間に対する未練や執着を断ち切り、旧創造への一切の憐れみとしらがみを断ち切り、今までよりもさらに一層、地上の人間の仲間としてではなく、ただキリストのによって上から生まれた人間として、新しい人間として、生まれながらの人間のそばからは離れて生きるだろうと思う。

筆者はこうして、人間でありながら、人間自身の利益を守るためではなく、神の利益を守るために、御国の権益の側に立つのである。それは、かつて旧約聖書において、レビ人が、神を裏切った兄弟たちを剣にかけて殺してでも、ただ神の側だけに立ったがゆえに、祭司にふさわしい種族として認められたのと同じである。

クリスチャンとは、世から贖い出された者、世から聖別され、神のために召し出された者、神を満足させるために、生まれながらの人間の中から、贖い出され、取り分けられた者である。世から分離され、神に聖別されたという特徴を失っては、もはや神の民とは呼べない。

そこで、筆者は、人間の利益を守ること、人間の感情に寄り添うこと、人間の歓心や理解を得ることを第一として生きるつもりは今もこれからもなく、それよりも、聖書の神が何を第一に求めておられ、神が何を人間に要求しておられるかの方を、はるかに優先事項として生きる。

そうして信仰によって歩む過程で、生まれながらの人間が、筆者から離反し、むしろ、敵対する側に回って行ったとしても、それは当然のことであり、皇帝ネロの時代にクリスチャンたちが迫害を受けたのも、まさにそういう理由からなのである。

肉に従って歩んでいる者は、霊の事柄をわきまえることはできず、霊の事柄に激しく敵対する。そういう中で、我々は、生まれながらの人類の側に立つのか、それとも、これと分離して、神の側に立ち、神によって生まれた新しい人類の側に立つのか、その選択を迫られているのである。

人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方とすべきです。
「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、裁きを受けるとき、勝利を得られる
と書いてあるとおりです。」(ローマ3:4)

これまで筆者は生まれながらの「人類」に対する必要のない憐れみを持ちすぎたのだと思っている。それは筆者の人間的な感情であり、地上の出自から来る、習慣的な思いであった。

だが、その「旧創造への憐れみ」を、今、ここで、レビ人の剣にかけて絶ち滅ぼし、かつて自分の兄弟姉妹と思われたものでも、神の御心にかなわないならば、それにきっぱりと背を向けよう。

筆者の「兄弟姉妹」とは、神の御心を行い、神の御言葉に従って生きる人々のことであり、それ以外の人々を指すのではない。それ以外の人々は、肉にある親族であれ、あるいはこの世の友人・知人であれ、あるいはクリスチャンを名乗っている人々であっても、「兄弟姉妹」ではないのだ。従って、その人々に筆者が義理立てしなければならない一切の理由はない。

もし家族でないのに、まるで家族の一員のような顔をして家に乗り込み、俺の言うことを聞けと命令して来る人間がいたとすれば、それは強盗や、詐欺師や、殺人者だけである。

なぜ、クリスチャンが、そのような者の顔色を伺い、彼らの命令に従い、彼らが自分の家の居間やリビングを泥靴で荒らしまわっても、ただ「やめて下さいませんか」と優しく懇願するだけで、この人々が一向に出て行かないのを見ながら、彼らが捕えられてしかるべき場所へ連行されるために必要な措置を何も講じないのか。

そのようなものは「愛」とも「憐れみ」とも呼べない。「愛」や「憐れみ」は神の家族に対して向けられるべきであって、このような狼藉者に対して向けられるべきものではない。

にも関わらず、キリスト教界はあまりにも深くこの世と結びついて、世の歓心を買うことを第一にしてしまったので、こうした者たちが単なる狼藉者であって、教会の一員ではなく、そもそも教会に手を触れる資格すらもなく、まして教会について論じる資格などなく、彼らはただ人里に降りて餌を探し回る獣のように、クリスチャンを獲物として教会を荒らしまわっているだけで、野獣のように捕獲されてふさわしい扱いを受けるのが当然であることをすら、公然と主張することができなくなってしまっているのだ。

このような有様だから、筆者以外には、誰も動こうとする者もないであろう。

それでも構わないのだ。むしろ、それだからこそ、この仕事に意味があるのだと言える。筆者は霊の剣である御言葉を取り、神の聖なる神殿を守るために毅然と立ち上がり、そして、主イエスが商売人たちを憤りを持って宮から駆逐されたように、神の宮を泥靴で荒らしまわる狼藉者を排除し、駆逐する。

そうして、聖なるものと、俗なるものとの区別を明白にし、何が神の宮であるか、その境界をはっきりさせて、自分自身が神が選ばれ、義と認められた「信仰による義人」であることを明白にする。神が義とされた以上、筆者を罪定めできる人間は誰もいないし、罵ることができる人間もいないのだ。そのことが公然と世に示されなければならない。

筆者は、神が義とされた以外のものを決して宮の中に持ち込むことはしない。

このことが、神の御心にかなうことだと確信するがゆえに、筆者はそうするのである。神は教会の聖を愛しておられ、ご自分の聖なる性質が教会の中に保たれることを何より願っておられるはずである。

そのために筆者は誰とも提携せず、この作業を神と筆者との二人三脚で行う。エリヤが450人のバアルの預言者の前に立ったとき、見た目の様子からは、誰一人として、エリヤに神がついておられると判断する者はなかったであろう。450人のバアルの預言者に真理があるように見えていたに違いない。奴隷になったサムソンが神殿に手をかけた時、人々はサムソンは疲れているだけであると考え、彼のやろうとしていることがたとえ分かったとしても、世迷いごとだとしか思わなかったに違いない。

だが、悪魔がこれほど激しくクリスチャンを糾弾するのは、実際には、クリスチャンこそ、悪魔を神に訴える資格を持っているからなのである。そして、我々の訴えは永遠性を持つほどに強力である。世はクリスチャンのさばきの下にすでに罪に定められている。我々は御名によって手にしている絶大な権限をきちんと行使すべきなのである。

前々から述べているように、もしも「兄弟姉妹」に対して接する場合ならば、それは教会の事柄として扱うのが当然であるから、この世に持ち出すべきではないだろう。だが、「兄弟姉妹」でない人々にまで、教会の方法を通して近づく必要はない。彼らに適用されるのは、この世の諸手続きだけで十分である。彼らには、天の国籍、天の市民であることよりも、地上の市民であることの方が大切なのだから、彼らの流儀で応答すれば良いだけである。

あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとべリアルに何の調和がありますか。信仰と不信仰にどんな一致がありますか。

わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。

「『わたしたちは彼らの間に住み、巡り歩く。
 そして、彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せになる。
 「そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。
 全能の主はこう仰せられる。」
 

愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」(Ⅱコリント6:14-7:1)

アーメンである。神の子供たちが自ら汚れた者に触れないのは当然だが、それでも汚れた者が神の宮に侵入して、神の子供たちに手をかけようとするならば、その者が追い払わるのは当然である。もし神の宮を自称しながら、そうしない者があるなら、その者は自分自身が神の宮であることを自ら否定して世に同化しているも同然であろう。

悪魔には毅然と立ち向かいさえすれば、必ず、逃げ去って行く。暗闇の勢力は、兄弟たちの振りかざす小羊の血と、証の言葉によって、天から投げ落とされる。ただし、その代わり、地は悲惨なことになるかも知れない。なぜなら、暗闇の勢力はまた別な獲物を求めて、地に下って行くだけだからである。「ほえたけるしし」と我が身を公然と分離しようとしない者は災いである。

2018年1月29日 (月)

十字架の死と復活の原則―神の相続人―キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受ける―

「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。

この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを明かししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ローマ8:12-17)

「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ12:1-2)


もしもこのブログを読んでいる人々の中に、力の強い人間の顔色を伺い、権力者の思惑を忖度して行動している人がいるなら、そんな生き方はやめて、一刻も早く、神の顔色を伺った方が良い。

筆者はよくサムソンの最期を思い出す。このブログでサムソンに触れたのは、今回が初めてではない。

信者は、地上の人間である限り、神の義と神の国を第一にして生きると言いながらも、それでも、心は常に地上のものによろめき、容易に逸脱を繰り返す危なっかしさを持っている。筆者も、そうした弱さを持つ人間の一人として、自分の心が真に重要なものから逸れかけていると気づく時、はっとサムソンのことを教訓として思い出すのだ。

もちろん、神の霊が内に住んでおられる信者が、デリラの誘惑に屈したりすることはない。むろん、信者がサムソンのような最期を遂げる必要もない。この地上にいる信者たちが誰しもサムソンのような最期を遂げていたのでは、御国の前進もないだろう。

とはいえ、サムソンの生涯は、そのものが私たちにとって大きな教訓である。

信者は目を覚まして、地上のものに心惹かれることに警戒し、何が真に重要なことであるか、常に見極めようとしなければ、霊的視力は容易に曇らされてしまい、天の宝を失ってしまうという教訓なのである。

そうして目を覚まさせられる瞬間、筆者はサムソンのことを思う。そして、考えるのだ。どうすれば、神の目に本当に喜ばれる奉仕を成し遂げることができるのか。そして、そうだ、まだやり残したことがあった、と思う。ペリシテ人の神殿を崩壊させる仕事が残っているではないか、と心に思うのだ。

このように、筆者が渾身の力を振り絞って「ペリシテ人の神殿」を崩壊させて来たことが、これまでに何度かある。その戦いは、周りから見れば、ありふれた出来事でしかなかったかも知れないが、そこには大きな心理的なドラマがあり、予行演習があった。

デリラの誘惑に引きずられたために、罠に陥れられ、神から与えられた賜物としての力と輝きを失ったサムソン。両手を鎖につながれ、両眼をえぐり出され、奴隷的苦役に従事させられ、ついにはペリシテ人の余興として辱められるために、見世物として宴席に引き出されたサムソンが、最期の力をふりしぼって、ペリシテ人の神殿の柱に手をかけた。

サムソン最期の神への奉仕だ。

彼は何もかも剥ぎ取られた人生最期の瞬間に、自分のすべてをかけて、地上のものへの未練を振り切り、神の権益に寄与した。その瞬間、ペリシテ人の奴隷になっていたサムソンに怪力が戻った。異教の神殿は音を立てて崩壊し、宴席に連なって酔いしれていたペリシテ人たちは、奴隷のサムソンにまさかそんな力があるとは思わず、完全に油断し切って慢心し、欲望にふけり、酔いしれていたので、逃げ出す暇もなく、壊れた神殿の下敷きになって死んだ。

サムソンの場合は、気づくのが、ちょっと遅すぎたのではないか、と筆者は思う。本当は、これほどまでにすべてを剥ぎ取られる前に、信者が神に立ち返ることは十分に可能だ。だが、同時に、パウロが「あなたがたは罪と戦って、血を流すまでに抵抗したことがない」と信者を叱咤したように、人間の心に潜む堕落の深さを、まだ十分に知らないがゆえに、甘く見てはいけない部分もある。

ある信者たちは、ダビデとバテシェバの物語を聞いて、ダビデの心の弱さを嘲笑する。何と愚かな人間だろう、自分であれば、そんな過ちは絶対に犯しはしないのに、と笑うのだ。だが、人間と人間の魂の間には、各自の感情や思惑をはるかに超えた、何かしらの絶大な本能的な力が働くことがある。魔がさすとでも言うのか、とてもではないが自力では太刀打ちうちできないような強力な誘惑が人生に起きて来ることも時にはあるのだ。

それが、人間の堕落した魂と肉体に働く悪魔的な力である。

そして、信者らは、この堕落した魂と肉体に働く力を、常にキリストと共なる十字架の死へともたらし、神の霊の働きによって体の働きを殺す。これは人の力で成し遂げられることではない。キリストが十字架で勝利されたからこそ、適用することのできる力なのである。

キリスト者は神の神殿であり、サムソンも旧約聖書に登場するすべての信仰の先人同様に、神の神殿の型である。ナジル人の風習として、サムソンが髪の毛に剃刀を当てないことは、サムソンが神の神殿としてこの世から聖別された地位を保つという意味を持っていた。頭の毛を切ることは、神殿とこの世を隔てている覆いを取り払い、神の神聖を自ら捨ててこの世と同化することと同義だったのである。

このような文脈で見ると、ナジル人のサムソンは神に対して霊的に女性である人類を代表していたと言えるかも知れない。パウロは言う、女性の長い髪は頭の覆いのためであり、その意味で髪は女性の栄光であると。人類という被造物は、創造主である神に対して霊的に女性の立場にある、この意味では、髪に覆いをかけることで聖別を保ったサムソンと人類とは重なるのかも知れない。

キリスト者の支配は、心の中から始まる。神と悪魔との戦いは、いわば、信者の心の中心の争奪戦でもある。信者が何を第一として生きるのか、神を第一として生きているのか、それとも、それ以外のものを第一として生きているのか、その激しい主導権争いが信者の心の中から始まるのだ。

信者が霊的な戦いに勝つためには、信者が自らの心の中で、ただ神だけを中心に据え、他の何者にも決して頼らない状態を作り出さなければならない。心の中からすべての「デリラ」を追い出し、「アカンの外套」を捨て去り、神以外のどんなものも心の中に中心として据えるものがない状態にしておかねばならない。

決してどんな地上の人間にも頼らず、神だけが栄光を受けられる状況を自ら作り出すのだ。

さらに、もしできるならば、エリヤがしたように、戦いをより一層、難しいものとするために、神の栄光が人の目によりはっきりと現れるために、祭壇に何度も水をかけ、火がつきにくいようにしておけば良い。
神がついておられなければ、勝利などあり得ない状況にしておくのだ。

それさえできれば、戦いの勝利は確定したも同然である。あとは柱に手をかけ、一歩を踏み出すだけだ。待ち望みの時は過ぎた。髪の毛は十分に伸びている。神がついておられるならば、誰が信者に敵することができようか。

さて、今回は長い記事は書かない。

はっきり告げておきたいのは、筆者の書いた多くの内容には、筆者でさえ書いた当時は理解していなかったような予言的な意味が込められていることが、後になってから分かることがよくあることだ。これは自慢話ではなく、キリスト者の歩みに、何一つ偶然はないことを示している。

筆者は、以前、剣を取る者は剣で滅びるように、裁判に訴える者は裁判で滅びると書いた。

神が怒られるのが遅く、その憤りは長く続かないと聖書にあるように、筆者もかなり気は長い方だ。むしろ、怒るべき時に怒らないのでチャンスを逃していると叱咤されてもおかしくない。

それでも、そんな筆者も、サムソンがその怪力によって何人もの敵を倒したように、自らの主張だけで、いくつもの「ペリシテ人の神殿」を倒した。予行演習としてはもう十分であろう。随分、時間がかかってしまったが、そろそろ本番が待っている。

筆者は一つ前の記事に、新居に来て後、しばらく家具を選ぶことに熱中していたと書いた。それは無価値なこの世的な興味関心であったかも知れないが、そのことからも、学んだ教訓はある。それは、完全なものを得るために、信者は決して妥協してはならないということである。

時に、ベターはベストの不倶戴天の敵となる。次善にも、それなりの長所があり、輝きがある。だが、次善が、最善であるかのように振る舞った時、次善はただちに悪となる。それは悪しき腐敗した虚偽として、取り除かれねばならないものになって行くのである。

ガラス玉もイミテーションとして楽しむうちは無害であろう。だが、ガラス玉が自分はダイヤモンドだと言い始めた時に、それは悪の権化、罪の化身となる。山登りをする人が、初めから自分は5合目までしか目指していなかったから、途中で山を下りたと言えば、嘘にはならない。だが、もともと山頂まで上るはずだった人が、4合目、5合目で疲れて立ち止まり、下山したにも関わらず、自分は登頂したと宣言すれば、それは大嘘である。

問題は、キリスト者は常に神が満足される完全を目指さなければならないのに、そこにこそ、神と私たちの心を完全に満足させる天の栄光に満ちた相続財産があるのに、多くの人たちが、次善で満足した上、それがあたかも最善であり、完全であるかのように見せかけようとすることにある。

筆者はこれまで「カルト被害者救済活動」の何が間違っているかについて述べて来たが、この活動も、神の最善に悪質に立ち向かう「次善」である。神ではない人間による救済事業は、うわべだけは善良そうに見えるが、真理に立ち向かう悪質な虚偽だからである。

聖書の真理は、神ご自身にしか、人間を救済することはできず、苦しむ人々を「救済」する仕事は、ただ神だけのものであって、人間自身には人間の救済はできないというものだ。神の助けを受けることこそ、我ら人間にとって完全な道であり、最善の道である。我らの救い主として栄光を受けるべき方は、神ただお一人しかいない。

にも関わらず、この地上では、牧師や、教師や、カウンセラーや、助言者たちが、あたかも自分たちが人間を苦しみから救う力を持っているかのように、親切で善良そうな言葉を振りまき、耳元でささやく。まして、神の教会で起きたトラブルを、自分たちには解決できる力があると言う不遜な人たちまでいる。そして、彼らは、神の教会や信者の欠点や弱点をさかんに噂し合いながら、教会を貶め、悪しき教会から人々を助け出すと言っては、心弱く自信のない大勢の人たちを惑わして行く。

だが、これはしょせんAチームBチームの戦いでしかないのだ。神になり代わって指導者として信者に君臨する中間搾取者が、自ら他の中間搾取者を訴え、取り締まっているだけで、「あの先生」と「この先生」の間の戦いを行き巡っている限り、決して信者が自由になれる日は来ない。

このような偽りの「指導者たち」の唱える「救い」が完全に偽物であることは、彼らが筆者に対して行って来たすべての仕業からすでにはっきりと明らかである。彼らは、信者たちの弱さにつけこみ、問題につけこみ、それを解決してやるように見せかけながら、実際には、「偽物の救い」という、デリラの甘い誘いでがんじがらめにし、信者に本当の神の力を決して味わわせないように、信者の聖別を奪い取って、捕虜として連れて行くだけなのである。

彼らが望んでいるのは、ただ自らが神の代理となって、信者の心を支配し、神がお与えになった信者の自由を奪い、信者を道具として自分の利益のために搾取し、それにも関わらず、自分はあたかも人前に人助けをしている善人であるかのように振る舞い、神から栄光を奪い取って、自分自身が栄光を受けることだけなのである。彼らにとって、弱さのゆえに自分を頼って来た信者は、いわば、獲物である。

このような活動は、神の救いに真っ向から対立する悪質な虚偽である。だが、そのことは幾度となく述べて来たのでここでは繰り返さない。

キリスト者は、すべてにおいて、完全を目指さなければならず、それ以下のもので決して満足して立ち止まってはならない。たとえどんなに優しく親切そうな人間が現われ、困っている時に、助力を申し出て来たとしても、それが人間であって、神ご自身ではないという事実が持つ重大な意味を、信者は決して忘れるべきでないのだ。そして、次善を最善以上に高く掲げるという過ちを決して犯すべきではなく、神以外のものに栄光を帰してはいけない。次善の誘惑に屈しないために、そのような偽りの助けは最初から拒むのがよかろう。

繰り返すが、我らの救い主は天にも地にもただお一人であり、救済者は神しかいない。だが、キリスト者はその真理に従うために戦いを迫られる。あらゆる面で、神の完全を追求するために、あらゆる次善を拒否する戦いを最後まで立派に戦い抜かねばならない。

そこで、信者には、肉なる腕(人間)から来るすべての助けを、悪しき堕落した誘惑として拒否しなければならない時が来るのだ。だが、自分が救済者をきどりたい人たちは、「次善」呼ばわりされ、自分たちの助けの手は必要ないと言われると、プライドを傷つけられたと感じて怒り出す。その瞬間に、彼らの化けの皮がはがれる。

彼らは、苦しむ人々を救済すると口ではあんなに親切そうにうそぶいていたのに、いざ、自分たちの本質を見抜かれると、それを見抜いて去って行った人々に猛烈に石を投げ、殺意に至るほどの敵意を持って追いかけ、真実を訴えさせまいと、口を封じようとする。

このような凶暴な人々の本質が、救済者ではないどころか、むしろ、人殺しであることは、今や誰の目にも明白である。

主イエスが言われた言葉を思い出そう。

「彼らが答えて、「私たちの父はアブラハムです。」と言うと、イエスは言われた。
アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。ところが、いま、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことをしなかった。あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。

そこで彼らが、「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です。」と言うと、イエスは言われた、

「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。<…>あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころにしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。」(ヨハネ8:39-44)

このところ、有名人の不倫騒動が世間を騒がしており、この世の法に照らし合わせても罪に相当するはずのない事柄が、あたかも重大な罪のように取りざたされ、そのために人々が互いに石を投げ、断罪し合っているが、それを見ても思う。世の裁きは何と神の裁きに比べて、憐れみも容赦もないことだろうかと。

いつもそうだが、人間による裁き(人間による救済と同じ)は、最初こそ、人の目に優しく、親切そうに、正義のように見える。ところが、人間による裁きは、最後には、どんな宗教でさえ考えつかなかったほどの、とてつもなく厳しい行き過ぎた制裁となり、ついには法にも常識にも基づかないデタラメな私刑へと落ち込んで行くのである。

こうして、悪魔(この世)が悪魔(この世)を厳しく裁き、取り締まるというのだから、思わず笑ってしまう。だが、人間による救済は、このように、必ず救済どころか、とてつもなく厳しい裁きにしかならないことが、途中で明らかになる。そのことが、「カルト被害者救済活動」の暴走の過程でも、完全に裏づけられていると言える。

私たちは神の憐れみに満ちた裁きにすがるのか、憐れみのない人間の裁きにすがるのか、常にどちらかの選択を迫られている。

「自分たちはアブラハムの子孫だ」と言いながら、主イエスに対する敵意に燃え、イエスを救い主として受け入れず、十字架にかけて殺した人々は、自らよりどころにしていた律法によって容赦なく裁かれることになった。

今日も同じである。神が義とされた教会やクリスチャンに、この世の法の裁きを適用し、クリスチャンを有罪に追い込むことで、正義を実現しようと考えるような人々は、結局、自分自身がよりどころとしているこの世の法によって最も容赦なく罪に定められるだけである。

彼らを裁くのは、御霊ではなく、主イエスでもなく、御言葉ではない。彼らには神の憐れみに満ちた裁きが適用されず、彼らを裁くのは、彼らが信じて頼みとしているこの世の法である。そして、悪魔の悪魔に対する裁きはいかなる容赦もないものであり、彼らが他者に対してふりかざした厳しい基準がそのまま彼らに当てはまることになる。律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい」(ルカ16:17)のだ。

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。

だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」(マタイ5:21-26)


悪魔はあたかも自分にこそクリスチャンを訴える権利と資格があるかのように振る舞うだろう。聖書によれば、悪魔は「日夜、兄弟たちを訴える者」であるから、常にクリスチャンを自分から先に告発しようと躍起になっている。

だが、聖書の御言葉を参照するなら、どうだろう。むろん、神に義とされた者を再び罪に定めることのできる存在はおらず、悪魔の訴えはむなしく退けられるばかりか、兄弟(クリスチャン)を罵倒し、傷つける者こそ、特別に厳しい裁きを受けることが聖書にははっきりと示されているのだ。

そういう者たちは、最後の1コドランスまで支払って、和解しない限り、牢から出て来ることはできない。これは、この世の裁きのことだけを指しているのではなく、むろん、地獄の永遠の裁きのことをも指している。恐ろしいことである。神の贖いによって義とされたクリスチャンを罵倒し、罪に定めようとすることが、どんなに恐ろしい罪であり、永遠の厳しい裁きに価するかがよく示されていると言えよう。

十字架の死と復活の原則―天に備えられた故郷を熱望しつつ、上にあるものを求める―

全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」(マルコ16:15-16)

わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。

人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証をすることになる。

引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。

兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。」(マタイ10:16-23)

* * *
以上の御言葉が、以前よりもはっきり、切実なものとして筆者に迫って来る。
これらのことは、考えてみると、すべて筆者の身の上に成就して来たことばかりである。

「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」
これも全くその通りである。

筆者が住んでいる街は、やって来た時には、大きな喜びがあったが、今やソドムとゴモラに近い場所になって来ていると感じる。その理由は前の記事に書いた。暮らしが快適でなくなったという意味ではない。霊的に衰退・退廃してしまったのだ。

筆者は、首都圏全体が、これから大きな苦難に見舞われようとしていることを感じている。

もっとも、このようなことを書いたからと言って、いたずらに人々を脅かしているとは思わないでもらいたい。新聞雑誌で報道されている通り、この先、30年間のうちに首都圏に関東大震災に匹敵する災害が起きる確率は70%以上である。中でも、横浜はとりわけ大きな被害に見舞われると予測されている。

その危険だけを取っても、こうした中で、あえて首都圏にとどまるかどうかは、重い決断である。筆者は阪神大震災、東日本大震災を経験した。幸いなことに、どちらの場合も、筆者自身も、周りにいた関係者も、それほど大きな被害を受けなかったが、次に来るであろう震災については、今までと同じように考えるわけにいかないのだ。

さらに、震災だけではない。戦争の危険が迫っている。このことについてはまた別の機会に書きたい。

だが、筆者は今回、震災や戦争を恐れて逃げ出そうとしているのではない。そのような噂を聞いても慌てるなと聖書に書いてある通りである。

むしろ、筆者は神ご自身から、ここを出るべきだという教訓を与えられたと感じている。
そして、その確信は、筆者が新しい快適な住居に来てからわずか数ヶ月でやって来た。

それはまだ筆者がお気に入りの家具を色々取り揃えている最中のことであった。筆者は信仰告白のブログを更新することよりも、カーテンのサイズをはかり、お気に入りの布を選び、照明器具を物色することに熱心であった。

それから、ピアノを猛特訓していた。ラフマニノフの美しいプレリュードの数々に取り組み、ピアノ・コンチェルトを弾いた。ヴァイオリンに熱中し、セザール・フランクのソナタをそれなりに弾けるようになって来た。実は、以前に記事でも書いた通り、このフランクのソナタが、この地と筆者との最初の挨拶の曲であり、また、別れの曲になってしまったのだが…。

こうして、ようやく落ち着いて楽器が弾けるようになり、気に入った家具を自分の好みに合わせて用意し、大好きな動物たちとゆっくり暮らせると思った矢先、

「あなたが熱中している生活は、私の心にかなうものではありません。」

と、神から示されたのだ。

いや、神からだけでなく、悪魔の側からさえ、皮肉な質問が向けられた、「ヴィオロンさん、あなたはいつからそんな風に、どこにでもいるただの普通の人になったんですか。いまだにこんなところでぐずぐずしてるんですか。まさか本気でここに定住する気じゃないでしょうね。」(そのメッセージはこの世の人々のごく些細な言葉を通してやって来た。)

筆者ははっとした。だが、そのような発想は、筆者の考えを超えていたので、筆者はなかなかその結論を受け入れられず、神と争っていたと言っても良い。

「主よ、私がこれまでどんな生活を送って来たか、あなたはご存じではありませんか。今まで一度だって、私は自分の生活に落ち着いて目を向けられたことはありませんでした。私は今まで照明器具のことでこんなに悩んだことはありません。この自由が悪だというのでしょうか。」

「あなたはどうしてしまったんですか。今あなたが物色している照明器具などよりも、はるかにまさったものを、私がいくらでもあなたのために天から用意できるということを、あなたは忘れてしまったんですか。あなたのための宝は、すべて私が天に備えていることをもう忘れたんですか。あなたは地上のものにばかり気を取られ、天の宝に対する憧れをもう持っていないのですか。あなたが今、夢中になって握りしめている地上のすべてのものが、本当に神の国のために本質的に重要だとあなたは思っているのですか。」

「でも、これはあなたが恵みによって私に与えて下さったものではありませんか…」

「いいですか、たとえ与えられた時には恵みであったとしても、あなたがそれを握りしめるなら、たちまちそれは腐敗します。あなたがもしもこの先も、今と同じように、この世の事柄に没頭し続けるなら、あなたは地の塩ではなくなるため、私はあなたを捨てざるを得ません。私は私への信仰によって成ったもの以外の生活を守ったり、保障することはできません。」

「待って下さい、主よ、それでは困ります。そんなことになるくらいなら、私は何もかも捨てます。あなたがすべてを剥ぎ取られる時、それがどういう形になるのか、私はこれまでの人生で痛いほど知っています。剥ぎ取られるよりも前に、私は喜んですべてを捨てます。何も握りしめたりしません。」

もちろん、このような対話が実際にあったわけではない。これは筆者の霊的な気づきの要約でしかない。ただ筆者は、やっと快適な生活が送れて、自分の趣味に没頭できると喜んでいた矢先、自分が心を砕いている生活が、神にとっては全く本質的に重要でなく、神が願っておられるものは、もっとはるかに高いところにあることを痛烈に思い知らされたのだ。

その時、筆者は考えた。平穏な生活の何と危険なことであろう。快適な住居で神を忘れるよりは、狭い不便な住居の中にいても、ただまっすぐに神を見上げていた方がはるかにましであると。

それ以来、筆者は自分の目を楽しませてくれたすべてのものを、パウロが言ったように、損と思い、厭うようになった。家具を物色することに時間を費やすのをやめたのはもちろんである。これは決して生活に必要なものまで放棄することを決めたという意味ではない。そのようなものに熱心に心を砕くのをやめたということである。

いつもそうなのだが、筆者は牧歌的な性格なのか、あまりにも楽観的に過ぎるのか、ちょっとした生活の平穏が与えられると、すぐに戦いをやめてしまう。これは人間の生まれつきの傾向であろう、ちょっとでも平和がやって来ると、自分の周りで起きているあまりにも激しい霊的な戦いから目を背け、神の権益を忘れ、自分自身の平和に安住しようとしてしまう。

筆者の心には、これまで「普通の人として穏やかに暮らしたい」という願望が根強く残っていた。できるなら、もう二度とあのような苦しく激しい戦いを戦うことなく、このまま立ち上がらず、穏やかに座ったまま暮らしたいという願いがこみあげて来る。

筆者は神に問う、「主よ、今、少しだけ、このまま立ち止まらせて下さいませんか。楽器を弾きたいんです。他にも色々と考えていることがあるんです。これまで私に一般人としての普通の暮らしという贅沢が、いつ与えられたことがあったでしょうか」と。

しかし、神は、それではだめなのだ、と言われる。楽器を弾くことが罪なのではない。ただ、神の御心にかなう生活は、決して「一般人としての普通の暮らし」などではないのだ。神は、神の御思いは人間の思いよりも高く、神のスタンダードは人間のスタンダードをはるかに上回り、神の考えは、筆者の考えよりもはるかに大きく、広い、と言われる。

筆者が価値だと思っているものよりも、はるかに大きな価値を、神は筆者のために用意しておられ、 「口を大きく開けよ、私がそれを満たそう」と言われるのだ。

なのに、筆者があまりにも小さくしか口を開けず、あまりにも少しの宝で有頂天になってしまうため、せっかく用意された天の宝が届かないのである。

要するに、神は、いつでも常に筆者の狭い考えを打ち壊される。筆者がどんなに最善を願っているつもりであっても、まだそれでは低い、と神は言われるのである。

それを示される度に、筆者は、神の恵みと憐れみの深さに、瞠目せざるを得なくなる。そして、やはり、神は神なのであり、人間に過ぎない筆者のちっぽけな思惑になど、とらわれる方ではないと、改めて畏れを覚えるのである。

気をつけておかねばならない。人生に次々と苦難が襲いかかって来るような時には、放っておいても、誰しも必死に神に助けを求めるであろう。油断がならないのは、平和な時である。

神のために召し出された者が、この世の人々と全く同じような生き方を目指していたのでは、塩気を失った塩として捨てられるだけである。

「人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証をすることになる。」

さて、以上の御言葉も、全くその通りであることを筆者は知った。筆者はこの地にやって来た時、キリスト者の交わりを求めてやって来たが、当時、筆者が「兄弟姉妹」だと考えていた人々は、ことごとくクリスチャンらしさを失って行った。というより、手ひどい裏切りや中傷といった争いも起きたのだ。

にも関わらず、筆者はごくわずかな心あるキリスト者との交わりを続けていた。だが、ついに筆者が交わっていた心あるキリスト者の夫婦が地上を去ったというニュースをその親族から聞いた。見渡せば、この地にはもはや筆者が兄弟姉妹の交わりを求めてやって来た頃の痕跡は何も残っていなかった。

筆者が交わりを望んで来たクリスチャンらの堕落については、もはや述べる言葉がない。この世の人々がこの世の事柄に没入し、神に敵対して歩んでいるのであれば、まだ分かるが、かつて筆者が兄弟姉妹であると考えていた人々の実に多くが、ロトの日のように、娶り、嫁ぎ、食べ、飲み、売り、買い、この世のことに邁進しながら、本当に地に安住してしまうか、あるいは、イエスを売り渡したユダのように、兄弟を売って恥じないまでになってしまった。

また、首都圏はあまりにも不法と搾取に満ちており、腐敗して未来のない不毛の土地になりつつあるように感じられる。筆者はこれまで、地上の裁判などには一切関わることなく生きていきたいと願っていたが、それでも、この悪しき世の中で、暗闇の勢力からの激しい挑戦を受けて、やむなく一人で裁判官らの前に立ったことが数度ある。四人の弁護士に、筆者一人で対峙し、勝利をおさめたこともある。

筆者はこれを手柄や自慢話として書いているのではない。誰しも戦いなど望まないからだ。こうした争いは純粋にこの世の事柄であったが、長い間、いかなる争い事も、決してこの世の法廷に持ち出したくないと考えていた筆者も、それを機に立ち上がることを迫られた。最近では、正しい主張ならば、公然と人前で主張せねばならない事柄も多くあるのだということが分かった。

クリスチャンがこの世の裁判を通して、王や総督の前に引き出され、この世の人々に対して神を証することがある、という聖書の御言葉の正しさを知ったのである。そして、公然と主張すべき事柄を主張すれば、必ず、神が味方して正義を実現して下さると分かったのである。

そのようにして、物事にはきちんと決着をつけておくべき時がある。そのことが、もっと前に分かっていたなら、筆者は色々なことを曖昧なままにしておかず、公然と立ち向かって、早くに終止符を打てたはずのことが数多くある。そのことが今は分かる。だが、何事にも生きている限り、遅すぎることはないだろう。

さて、こうした戦いの過程で、筆者が学んだ何より重要な教訓は、どのような戦いの最中にある時にも、決して弁護人をつけず、神ご自身だけを弁護者として、全ての圧迫に自分で立ち向かって勝利をおさめる秘訣であった。

これまでどんな紛争が起きても、筆者は一切、弁護人をつけなかった。すべての主張をこのブログに記しているのと同じように、自分自身の言葉で書き記し、誰の力をも一切借りることなく、自分自身で不当な主張に立ち向かい、勝利して来たのである。

こうして、神と共に一人ですべてに立ち向かうことこそ、この地に来てから筆者が最も学ばねばならなかった教訓である。それを学ぶのにどれほどの時間を要したであろうか。筆者の戦いたくないという牧歌的で楽観的な考えや、常に誰か有力な人間を頼ろうとする少女的な考えの甘さは、その戦いの過程で相当に削ぎ落とされて行ったと言える。

どんなことが起きても、神と筆者の二人三脚で切り抜けることが可能だと、自信がついたのである。

戦いは難しければ難しいほど面白い。

これは好奇心で言うのではない。神の栄光が現れるためには、人間の力は強くなくて良いのだ。

預言者エリヤは450人のバアルの預言者に、たった一人で立ち向かった。それに比べれば、筆者の通過して来た出来事など、ほんの序の口だと言える。

我々には、最強の弁護者である神ご自身がついておられる。聖霊が我々と共にいて弁護して下さる。だから、我々は神以外のどんな存在にもより頼む必要はない。それなのに、心の弱さに負けて、肉なる腕に頼ろうとすれば、無用な苦しみが待っているだけである。

話が脱線するようだが、弁護士という職業は、自分の経済的利益のために、他人の争いを利用して成り立っている。弁護士は、依頼人が裁判に勝っても負けても、どちらの場合でも、自分には食いはぐれがないよう契約しているので、結果はどちらでも構わないのだ。できれば勝ちたいとは願うであろうが、紛争当事者のように、命がけで法廷に立つことは、弁護士には決してないのだ。

さらに、弁護士は時間に応じて報酬を受け取っているので、依頼人の争いがすぐに決着してしまうと損になる。従って、弁護士が、紛争の早期解決に努めることはまずなく、むしろ、紛争がもつれにもつれ、長引いた方が、彼らにとって得なのである。そんな職業である弁護士が、本気になって紛争当事者を助けてくれる理由がどこにあるだろう。
 
普通の人々は、弁護士を大勢つければ、勝算の見込みが上がると考えるのかも知れない。だが、筆者の目から見れば、事実はまるで逆である。

弁護士を大勢つけて戦いに臨むと、「船頭多くして船山に登る」式に、自分の主張に整合性が取れなくなって、勝ち目が薄くなって行くだけである。実際に、何人もの弁護士の書いた答弁書を読めば、まるでつぎだらけの布のように、主張内容に辻褄が合わない場所が多くあり、よく読めば、どの段落から新しい弁護士が担当したのかさえ、明らかになってしまうような有様である。

そこで、このように無責任かつ当事者意識の薄い人々にわざわざ法外に高い謝礼を払ってまでアドバイスを求めることは、賢明とは言えない。さらに、キリスト者がそのようなことをすれば、弁護士の一言一言が足手まといとなり、成るものも成らなくなるだけであろうと思う。

極めつけの問題は、弁護士自身が法を守らない、というお決まりの逸脱にある。弁護士の目的は、他人に法を守らせることであっても、自分自身が法を守り、法に従うことにはない。むしろ、数多くの弁護士が最も得意としているのは、「ああ言えばこう言う」式に、法をどれほど上手にかいくぐり、自分サイドに都合よく解釈して、自分たちだけが自由の幅を広げるかであり、そのような意識が高じると、ついに自分自身が法の上に立って、法を曲げ、支配するというところまで行ってしまう。

その究極の形が、改憲である。

世間は安倍首相の戦前回帰の思想やそれに基づく改憲の野望のことは批判するが、筆者が見たところでは、日本の政治家のほとんどは、与野党を問わず、改憲派である。

たとえば、立憲民主党の枝野代表もまた弁護士出身であり、同氏はかつて憲法9条に関する私的改憲案を自らの論文として出していたことで知られる(現在はその案を放棄しているそうだが)。

このように、立憲民主党の代表がかつて自ら9条の私的改憲案を出していたことは、大きな自己矛盾であり、皮肉であるとさえ言えるかも知れない。日本という国が、成立してこの方、一度も憲法をきちんと守ったことがないのに、すでに現状を優先して憲法を変えるべきだと、政治家は言うのである。

野党の代表でさえ、この始末であるから、一体、誰に期待できるのであろうか。このことは、立憲民主党が護憲政党では全くないことをよく表している。

こうしたことから容易に推し量れるのは、弁護士という職業が、紛争に巻き込まれた人々の弱さや苦しみに寄り添うように見せかけながらも、他者の争いを糧に生きる職業であるのと同様に、与野党の攻防などは、しょせん、国民の弱さや苦しみを糧にして生きる「政治家」という中間搾取層の隠れ蓑でしかなく、AチームBチームの戦いに過ぎないということだ。

話を戻せば、こうして、改憲案の内容には違いがあれど、結局、改憲それ自体は、ほとんどの政治家が目指している共通のゴールであるだけでなく、弁護士にとっても、何かしら最終目的のように見えているのではないかと思われてならない。
 
弁護士でさえ、法を守ろうとは考えておらず、憲法を現状に照らし合わせてズレのあるもの、時代遅れなものとみなし、現状に合わせて法の文言を買えるべきと考えている。彼らは、法よりも(彼らの目から見た)リアリティを優先する人々なのである。

あるいは、もっと言い換えれば、「自ら最高法規である憲法に手をつける」ことが、この国では、政治家だけでなく、多くの弁護士にとっても、悲願なのかも知れない。

もっとも、弁護士のすべてがそういう思いを持っていると言うつもりはない。だが、今、多くの人々の目には、憲法は、そのようにしか映っておらず、野党でさえ、来るべき改憲の日の準備のために、もっと憲法について国民の間で活発な議論がなされるべきだと考え、特に若者の意見を聞くことが必要だ、などと述べたり、誰でももっと気軽に改憲論議に参加できるようにすべきであって、憲法カフェのようなものを作ったらどうだろうか…、などと提案し、お手軽な憲法改正の地ならしをしているのだ。

彼らは筆者のように現状を法に合わせて修正すべきだとは考えていない。従って、彼らにとっては、(目に見える)現実の支配が法の支配よりも上位にあるのだ。これではどうやって法の精神を現実に適用することができようか。

従って、こうした事実から見えて来るのは、弁護士という職業は、概して、表向きに多くの人たちがそうに違いないと考えているように、法を敬い、法を遵守することを目的に生きている人々ではない、ということだ。極端な言い方をすれば、法に寄生することで、いかに法から自分の旨味を引き出し、首尾よく中間搾取を成し遂げるかが、弁護士という職業の醍醐味であるのだとも言える。

従って、こうした人々には、自らこそが、法の守り手であり、庶民に比べて、自分たちは法の精神に精通しているという誇りやプライドはあるかも知れないが、そのような自負が強ければ強いほど、かえって彼らは、自ら法に手を付けることも辞さない(自分自身を法の上位に置く)ほどの不遜さを同時に持ち合わせているのである。

厳しい表現を使えば、このような弁護士の不遜さは、パリサイ人や律法学者たちの不遜さに通じるものがあるのではないか、と筆者は思う。主イエスが地上におられた頃の律法学者やパリサイ人たちは、律法のことなら何でも自分たちにおまかせあれと言えるほどに勉強熱心であり、それゆえ、当時の庶民からは、立派な教師のごとく尊敬されていた。だが、主イエスが糾弾された通り、彼らは律法の教師を自認しながら、自分自身は律法を守っていなかったのである。

今日の牧師やいわゆる「御言葉の教師たち」もそれと同じである。講壇から信徒の上に立って、自分はあたかもすべての物事を理解したかのような調子で信徒に説教するが、人を教えながら自分自身を教えず、自分は聖書の御言葉に従って生きていないのである。

筆者はこれまで、牧師や「御言葉の教師」を名乗る人たちは、弁護士と同じように、信者の心の弱さに寄生して生きる霊的中間搾取階級である、と述べて来た。彼らは、自分一人では立てず、霊的な戦いを一人では戦い抜けないと考える心弱い信者を呼び寄せて、彼らの弱さや自信のなさにつけこんで、それを自己の利益や金もうけの手段に変えているのである。

だから、教会のカルト化など憂う前に、クリスチャンは、あちらの先生、こちらの先生へと浮草のように頼るべき存在を求めて放浪することをまずやめ、そもそも牧師という職業が万民祭司の時代には不要であることをきちんと認め、主イエスが教えられた通り、キリスト以外の誰をも教師とせず、ただ神だけを頼りとして一人で立つという気概とプライドがどうしても必要なのである。

弁護士からアドバイスを受ければ、足手まといになるが、「御言葉の教師」を自負する牧師や教師たちのアドバイスは、それよりももっとはるかに有害である。

「<…>いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。」(Ⅰヨハネ2:27)

聖書の御言葉がこのように命じているのだから、人間に過ぎない者に頼り、人間に栄光を帰そうとすれば、どのような悲惨な結果が待ち受けているかは明白である。

筆者はこの地へ来てから、「兄弟姉妹の交わり」と称する目に見える人間関係に、再三、欺かれて来た。そのことは、「兄弟姉妹の交わり」と呼ばれているものでさえ、目に見えるもの、地上的な、堕落した人間関係になりうることをよく示している。

勇者サムソンは、異教徒の娘デリラの誘惑に負けなければ、神から来る力を失うことはなかった。今日、デリラとは、弁護士や、教師や、牧師など、人の弱さを利用して、優しさや、思いやりや、助言を装って親切そうに近づいて来る、すべての霊的中間搾取者を指すと言っても差し支えないと筆者は考えている。

デリラと心の鎖でつながれたことによって、サムソンの力は絶たれた。自分一人ならば、どんな強力な鎖でも、彼は瞬時に断ち切ることができたのに、デリラという存在を受け入れてしまった瞬間に、完全に身動き取れず、がんじがらめになって鎖につながれ、自由を失い、さらに霊的視力を失って、両眼をえぐり出されて盲目にされ、奴隷にまで転落してしまったのである。

この警告を、我々は慎重に受け止める必要があるものと思う。デリラとは特に魅惑的な一部の若い女性のことだけを指すなどと矮小化してとらえるべきではない。デリラとは、この地のもの、滅びゆくもの、堕落した被造物全体を象徴していると言ってよく、そこには当然ながら、人間全般も含まれているのである。

我々が警戒しなければならないことは、兄弟姉妹の交わりを求めると言いながら、目に見える人間関係にしがみつき、束縛され、その結果として、見栄や競争意識や義理人情や欲望の渦巻く人間のしがらみの中に、がんじがらめにされて行き、御霊の自由を失うことである。

地上の宗教組織としての教会がそういう場所になってしまっていることについては幾度も論じて来たので、ここでは再び言及しない。今、筆者が述べたいのは、地上の教会組織に幻滅したと言いながらも、依然として、教会をキリストよりも上位に置こうとする誘惑がクリスチャンに強く働いていることである。

以前に、筆者は「エクレシア崇拝」に陥る危険性について警告したことがあった。キリストだけを純粋に慕い求めるエクレシア(教会)を探求するというのは、なるほど大変、美しい表現である。かつて筆者も、きっとどこかに初代教会のように純粋な兄弟姉妹の交わりがあるに違いなく、また、そうしたものを自分たちの交わりを通して実現したいと考えていたこともあった。

地上の宗教団体として堕落してしまった教会への幻滅がひどければひどいほど、初代教会のような交わりを求める気持ちは信者の心に強く働くだろう。

だが、実際には、初代教会が我々の追い求めるべき目標ではないし、理想的な兄弟姉妹の交わりを追い求めることが、クリスチャンの生きる目的でもない。そもそも我々が追い求めるべき対象は、エクレシアではなく、キリストなのである。にも関わらず、エクレシア(教会)に力点を置き、人間の作り出す甘美な交わりのうちに理想を模索したり、あるいは、自分たちの交わりを理想であるかのように賛美することは、結局、キリストを退けて、自己を見つめ、自己(人間)を栄光化することへつながって行く。

特に、自分たちの交わりことそ、まことの教会だと自負している人々や、「家々の教会」を主張している人たちに、この警告は有効であろう。筆者は、長い間、家庭集会などとは無縁の環境に生きていたので、さほど危険を感じなかったが、地上の家や、自分の家で行われる集会をそのまま教会と同一視することは、限りなく危険である。

確かに、主の御名によって、二、三人が集まるところに、主も共におられ、主は兄弟姉妹を通して大いに働いて下さることがある。だが、そういうことが一度や二度あったからと言って、その目に見える交わり、目に見える集会がただちに教会というわけでは決してないのだ。

エクレシアとは決して我々が地上に固定化することができず、これだという形式を探し出して、それにあてはめて定義できるものでもない。それは束の間、地上に現れたように見えるかも知れないが、決して地上的な要素に限定されたり、とらわれることのない、変幻自在で、永遠性を持つものなのである。エクレシアを支配しているのはキリストだけであって、神ご自身以外の者には、決してそれを掴み、私物化したり、エクレシアによって栄光を受けることはできないのである。

もしも誰かがエクレシアをこの手で掴もうとし、コントロールしようとし始めれば、たちまちそれは腐敗し、崩壊して行く。

この記事の冒頭で、筆者が最後にこの地で交わっていた善良なクリスチャン夫婦が亡くなった、ということを書いた。夫人が先に亡くなり、続いて夫が亡くなったが、彼らが祈りによって与えられたという美しい家に、筆者は夫人が亡くなる数か月前にお邪魔したことがある。そのことも記事でも触れた。

ノアの箱舟と同じ寸法だというその家には、夫人が選び抜いて設置したセンスの良い家具に囲まれた、清潔で美しい居間があり、そこには、白いアップライト・ピアノが置いてあった。そこで、筆者がピアノを弾き、夫人が讃美歌を歌った。夫人は、本当に筆者を愛してくれたので、涙を流して喜んでくれたほどである。壁には伝道の書の聖句を記した額縁がかけられ、屋上には、静かな森を見下ろしながら、誰にも遠慮することなく長時間祈れるルーフバルコニーがあった。

今でもよく覚えているが、その夫人はどれほど心を尽くして筆者をもてなしてくれただろうか。共に祈り、語らったひと時はどんなに美しい思い出になっているだろうか。

「ヴィオロンさん、私があなたをここへお招きしたのは、祈れば誰でもこれは(こういう家が)手に入ることをあなたに知らせたかったからなのよ」と、夫人は言った。

当時、家庭集会などとは無縁の、暮らすだけがやっとの家に住んでいた筆者は、夫人の言葉に、皮肉気に肩をすくめて笑った。そんな忠告、私にはまだ早いですよ、と思ったのだ。彼女に家の自慢をされたとは思わないが、筆者が家のことについて考えるのは、まだまだ先のことなので、忠告はただ心に留めて置く、と心の中で思った。

当時、筆者の目には、その夫人の家の素晴らしさよりも、誰にも知られず、そこで開かれる二、三人の交わりの方がはるかに素晴らしく映った。その美しい交わりの思い出は、まるで奇跡のように筆者の脳裏に刻まれた。

だが、そのようにしてキリスト者らが交わった家も、その夫婦の死後、すっかりがらんどうにされ、売却される予定だと知らされた。夫婦の親族さえも日本にはいなくなり、もはやその夫婦がこの地上に暮らしていたことを思い出す人々も、筆者の周りにはいなくなった。むろん、夫人が筆者のために何度も横浜にやって来ては、横浜駅の混雑の中で待っていてくれたことなど、誰も覚えてはいない。

その夫婦が亡くなったという知らせもショックであったが、あれほど豊かな交わりのひと時が持たれた美しい家、筆者の目には、神聖な場所も同然に見えていたその家が、すでに当時の面影をとどめておらず、家具もすべて運び出され、空っぽになり、ついには信仰とは一切無縁のこの世の人の手に渡るであろうというニュースは、もっと衝撃的であった。

まるで神聖な思い出が、踏みにじられ、無残に破壊されて行くような寂しさを心に覚えた。

だが、このニュースを、筆者はとても教訓的なものとして心に留めた。筆者はおそらくかなり鋭い感受性を持ち、すべての出来事を豊かな感性で受け止め、鮮明に心に記憶する。そうして記憶した事柄を、何度も思い返しては、分析を加え、書き記す。思い出はどのようなものであれ――良いものであれ、悪いものであれ――筆者の中で生きた記憶であり、まるで筆者自身の一部のようで、その記憶こそが、筆者という人間を形成しているように思われることがある。

さらに、キリスト者の交わりは、ただの思い出ではない。あの時、この場所で、あの兄弟姉妹たちとの交わりの中で、神が力強く働いて下さった、とか、神が私たちの存在を覚え、心に留めて下さった、という記憶は、どれほど人にとって光栄なものであろうか。

ところが、どんなに美しく大切な思い出であっても、主は、「それを手放しなさい、そこに真実があるわけではないのだから」と筆者に言われているように思うのだ。

クリスチャンの道のりは、見知った過去にあるのではなく、常にまだ見ぬ地へと、未来へ向かって行く。だから、主は警告されるのだ、「あなたの目を過去から離しなさい。悪い思い出だけを忘れるべきなのではありません。美しく良い思い出も同様なのです。どんなにそれが美しく心を誘う良き思い出であっても、どんなにそれが美しい交わりの記憶であっても、決してそれを理想化してはなりません。あなたの目標はいつでも、常にまだ見ぬ未来に、これから起きることの中にあるのです。あなたの心は、いつもこの先、私があなたのために天に用意している宝にこそ、向かっていなければならないことを心に留めなさい…。」

仮に過去にどんなに優れた、完全に近い兄弟姉妹の交わりがあったとしても、それは、筆者がこの手で掴もうとした瞬間に、幻のように消えて行く。主ご自身が、それが偶像となって筆者の心を支配する前に、これを地上から取り去られ、壊されるのだ。

思い出の場所が壊されて行き、痕跡をとどめなくなることは筆者にはつらい。だが、それでも、信仰の先人たちは、はるかにまさった都を目指して、常にまだ見ぬ地へと出て行ったのである、行き先を知らずに――。

だから、この先、地上でどんなに良い交わりを得たとしても、筆者は二度とそれに拘泥することはないだろうと思う。過去にあったのと同じものを再現しようと考えたり、過去にあった交わりを神聖なものであるかのように惜しんだりもしない。

地上に現れるものはすべて不完全であって、幻影のようなものである。神のエクレシアは決して地上に現れた諸現象によって定義できないし、とらえることもできない。

そのようなわけで、未来に何が待ち受けているのかなど、想像もつかず、知らない土地へ行くとなれば、想像の目安となるものさえもない。だが、それでも、どこへ向かうのか、行き先を知らないまま、出て行くのがキリスト者の役目なのだ。

キリスト者は、こうして、最初は弱くとも、次第に、一切の地上的なものを頼りとせず、どんな困難の最中でも、神と自分だけですべてを切り抜ける秘訣を必ず習得することになる。それができないと、前に進んでいくことはできない。

地上のものに頼らないとは、兄弟姉妹の存在にも一切頼らないということである。

だが、多くの信者は、この学課に耐えられないことだろうと筆者は思う。彼らにはほんのわずかな瞬間でさえ、自分一人だけで神と共に取り残されることが、耐えがたい孤独のように映るのだ。だから、人間の温もりから切り離されるくらいならば、いっそ信仰の前進をあきらめて、途中でリタイアしてしまう。

だが、筆者は横浜へやって来た当初の目的を決して忘れてはいない。それは、牧師や教師といった霊的中間搾取階級の存在しない、キリスト者の対等な交わりを得るためであった。

万民祭司の時代にふさわしく、信者一人一人がキリストから直接教えを受け、聖書から直接学び、御言葉の教師を自称しているだけの人間に過ぎない者たちに、二度と栄光を掠め取られたり、搾取されたり、支配されることのない、霊的中間搾取者のいない、対等なキリスト者の交わりに連なるべく、筆者はすべての組織及び牧師たちを離れて、この地にやって来たのである。

たとえ、筆者の周りのクリスチャンたちが、口ではキリストだけに頼ると言いながら、結局は、自分たちの好みのリーダーをてんでんばらばらに担ぎ上げ、あるいは、自分自身がリーダーとなって他の信者に君臨し、そうした地上的な人間関係のしがらみを少しも手放すつもりもなく、自らそこに束縛され、地上的な組織を作り上げてはそれをエクレシアと呼び、そこに安住することを考えていたとしても、筆者はそこを出て行かなければならないのである。

むしろ、筆者がそのような人々の中途半端さを疑問に思いながらも、これを退けることもせず、長年、彼らを信仰の敵と考えることもなく、同じ場所に佇んでいたことこそ、大きな停滞の原因であった。

筆者は、当初、キリスト者の自由な交わりを求めて来たはずなのに、自由のない交わりしか目にすることができず、かなり長い間、訳が分からず当惑していた。中途半端にも関わらず、その人間関係をきっぱりと断ち切る決断がつかなかったことが、大きな災いの源だったのである。

キリスト者の歩みは、戦って前進するか、それとも後退するか、そのどちらかしかない。もしキリスト者が勇敢に前進せずに、同じ地点に佇んで足踏みしていたなら、早速、紅海で溺れ死んだはずのエジプト軍が、ゾンビのように背後から襲いかかり、たちまちキリスト者をとうに後にして来たはずのエジプトへ、奴隷として引き戻そうとするであろう。

世の惑わしは、人間関係を通じて最も強力に働く。その中には、当然、クリスチャンを名乗る人々とのしがらみも含まれている。暗闇の勢力は、デリラの誘惑も同然の、「人間関係のしがらみ」を通じて、筆者に対して最も強力に働きかけたのである。

一見、聖なるものを装った、地上的な人間関係のしがらみが、決定的な瞬間に、クリスチャンを身動き取れなくさせる「デリラの罠」として機能するのである。筆者が立ち向かうべきものに毅然と立ち向かわねばならない瞬間に、気づくと、たくさんのデリラたちが、がっちりと筆者を両脇から取り押さえ、抵抗できなくさせてしまうだけでなく、やって来るエジプト軍に喜んで筆者を差し出し、彼らに捕虜として連行させてしまうのである。

だから、筆者の霊的な戦いは、まずは裏切り者のデリラたちにつけいる隙を与えない、ということから始まった。牧師、教師、弁護人、助言者、親切な助力者を装ってやって来る、すべての肉なる腕を排除するところから、戦いは始まった。クリスチャンについても同じである。

ああ、この人々はバビロンの手先でしかなかったのだと、筆者が心から気づいたのは、彼らと知り合って、もう何年も経ってからのことだった。しかも、そうなるまで、一体、何度、筆者はこの人々に裏切られては売り渡されたか、その回数ははかり知れない。

こうした学習を積まなければ、神に対する貞潔さを守り抜くために何が必要か、人間に対する未練が、神に従う上でどんなに重大な障害物となるか、分からなかったのである。

それに気づくためには、手痛い経験が幾度も必要であった。

キリスト者の歩みは、神の目にどう映るかよりも、人の目にどう映るのかを気にし始めた瞬間に、天から地上に転落する。だが、この移行(天から地への移行・転落)は、本人がほとんど気づかないほど些細な逸脱から始まるのだ。

さて、もう一度、話を戻すと、「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり…」
これもまた然りである。

これはクリスチャンの兄弟姉妹だけでなく、筆者の親族についても、ことごとく当てはまる。そのことを筆者は予感するがゆえに、二度と地上の故郷を振り返らないと決意しつつ、地上の故郷を出て来たのである。

だが、筆者にも地上の人間としての記憶があるため、懐かしい記憶から、あるいは人間的な感情から、ふと彼らを振り返ろうとすることが度々あった。だが、その度に、ロトの妻に降りかかったような厄災が、猛烈に降りかかって来るのである。

かなり長い間、筆者はその厄災が何のせいで起きているのか分からず、信仰生活を送りながらも、地上の人間的な絆を維持することができると考えていた。ところが、それも誤りであった。

主イエスのために、父、母、娘、息子、家、田畑、仕事、およそ地上の人間のすべての絆を捨てねばならないというのは、本当のことだ。もちろん、地上的な名誉や地位もそこには含まれている。

もっと言えば、被造物全般への愛着を心の中からかなぐり捨てて、地上の一切の人間や事物への未練を断ち切り、ついには自分自身が地上の人間であることさえ否定して、キリストによって、上から生まれた人間として、完全に異なるアイデンティティを持たねばならないのだ。

「誰でもキリストにあるなら、その人は、新しく造られた者…」

実は、筆者の研究テーマは、この「新しい人間」にこそある。神と出会うまで、筆者はその当時、自分がどこへ導かれているのか、何を目指しているのか、自分で知らなかったが、筆者が最初に研究発表を行った時に語ったのが、この「新しい人間」というテーマについてであった。

つまり、筆者の生涯の研究テーマは、新創造なのである。新創造とは、すなわち、キリストである。

私たちはエクレシアを目指しているのではなく、キリストを目指している。そして、「もはや私が生きているのではない」という境地――、キリストが私を通して生きて下さっているという境地を絶えず目指している。

キリストが、もはや分かちがたいほどに私たちと一つとなって下さり、我々の全てがキリストの性質で覆われることを望んでいるのである。地上にある限り、見た目はただの弱々しく平凡な人間に過ぎないが、それでも、信仰によって、神はすでに信じる者と一つであると力強く約束して下さっているのだ。

「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。」

そうなのだ。イスラエルの町々を全部回りきらないうちに、人の子が来ると主イエスは言われたのに、筆者はあまりにも長い間、一つの街にとどまっていた。迫害があっても、なお、出て行くことを考えなかった。何という呆れるほどの気づきの遅さであろうか。

要するに、筆者はとうに別の町へ去るべき時期に来ていたのだが、その事実が今まで見えていなかったのである。そして、今、ある予感が筆者をとらえている。それはかつてあの夫人が筆者に述べた言葉は、来るべき場所にて実現するだろうという予感だ。

聖書は何と言っているだろうか。アブラハムは行き先を知らないまま出て行ったが、その行く先に彼が財産として受け継ぐことになる土地があったと言っている。もちろん、私たちの最終的な財産は天にある。受け継ぐのは天の御国である。しかしながら、そこに行き着くまでの仮の宿としての地上の財産(家)も、神は当然ながら、用意して下さるであろう。

「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」(ヘブライ11:8)

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、それを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥とはなさいません神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブル11:13-16)

«十字架の死と復活の原則ー地に安住せず、さらにすぐれた故郷、天の故郷だけを目指して歩むー

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