2017年12月10日 (日)

神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。

空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。


あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができるようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどに着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。

信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられるだから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:25-34)

さて、 今回は、憲法に定められた居住移転職業選択の自由について、また、聖書において信仰者に与えられている自由について、この二つの話題を関連付けながら書きたい。

もっとはっきり言えば、聖書の御言葉を信仰によってこの地上に具現化することが可能であるならば、なおさらのこと、我々信仰者にとっては、憲法に保障された自由を具現化することくらいは、朝飯前だ、という話題について書いておきたいのだ。

ところで、冒頭から物騒な話を書くようだが、筆者は、籠池泰典氏夫妻が逮捕されたのと同じ今年の7月31日に、ブラック企業から突如としてクビを言い渡されそうになり、その是非についてしばらく争うという事件があった。

ちょうど引っ越して間もない頃だったので、筆者には、悪魔がこの出来事を通して企んでいる事柄が手に取るように理解できた(悪の軍勢は前々から筆者をこの土地から追い払いたく思っており、筆者の生活が少しでも豊かになったり、幸福になったりすると許せない思いで、妨害せずにいられないのである。)

もうはるかに昔のことではあるが、過去に筆者は一度だけ、自分で生計を立てることに自信がなくなり、お気に入りの家財をただ同然で売り払い、気に入っていた家をも手放して、よその土地に移ったことがあった。その頃の筆者は、まだ悪魔の策略に一人で敢然と立ち向かうなどということはおよそ考えたこともなく、聖書の御言葉の力なども全く知らない、無自覚で未熟な若いクリスチャンの一人に過ぎなかった。当時の筆者は、信仰者としては精神的に未熟で、いつも自分以外の誰かに心の支えを求めていたし、たくさんの思いがけないネガティブな出来事が、まるで洪水のように不意に積み重なって押し寄せて来る時に、それにどうやって一人で立ち向かうべきかなどと考える知恵もなく、その勇気もなく、立ち向かう前に、さっさと諦めて退却する道を選んでしまっているような臆病な信者であった。そして、それが暗闇の軍勢に対するあまりにも情けない敗北であることにさえ気づいていなかった。

その当時に起こった様々な出来事は、筆者の心にはかりしれない衝撃を与え、トラウマにも近い悲しみを呼んだ。その家を去るよりも前に、まず親族が住み慣れた家を離れて郷里に帰ってしまっていたので、まるで家が二つなくなったかのような衝撃や喪失感をも受けたのであった。

だが、その時の苦い経験を経て、また、その後、聖書の神との力強い本当の出会いを経て、今や、筆者はそういった人間を苦しめ、追い詰め、絶望に至らせようとする数々の出来事が、決して偶然ではないこと、その実に多くが、悪魔に由来する攻撃であり、信者が信仰によって立ち向かわなければならない苦難なのだということをはっきりと理解するようになったのである。

筆者はそうした喪失の後で、神の御言葉に基づき、再びすべての必要を不思議な形で満たされて立ち上がり、移住を遂げた上、今度こそ自分の力によらず、信仰によって、以前にもまさる幸福な生活を打ち立て、徐々にそれを拡張して来たのであった。それと同時に、そのようにして信仰によって上から与えられた生活を、信仰によって今もこれからも自分が守り抜かねばならない責任を負っていることをも知らされたのである。

そのような過程を経た現在、筆者は、たとえ悪魔がブラック企業のような団体を通して馬鹿げた宣告を言い渡して来たとしても、そんな内容を真に受けて、神がせっかく与えて下さった自由や解放をみすみすと手放していたのでは、この先、到底、生きていけないことを、とうに理解していた。むろん、筆者も人間なので、理不尽な事件に出会えば憤慨もすれば、嘆きもするが、かといって、自分のせいで起きたわけでもないことを、まるで自分の責任ように負って、不当な苦しみを黙って耐えているようであっては、神の名折れであり、信者の風上にも置けないことくらいは承知していた。

そういう時には、クリスチャンは、悪魔の策略に知恵を駆使して立ち向かい、暗闇の軍勢の当てが外れて、彼らが恥をかかされねばならなくなるように、首尾よく戦うべきなのである。

きちんと立ち向かうと、嘘の霧はさっさと晴れるものだ。抜群のタイミングで問題は解決し、筆者の不敗記録はまたしても更新され、それによって、筆者の信仰および聖書の神の正しさがまたしても暁の光のようにはっきり現れた。

筆者はクビにされず、かといって、労働の義務も免除されたので、結局、「空の鳥のように、野の花のように、蒔くことも刈ることもしないで、神が生活を保障して下さる」という、筆者が今まで唱え続けて来た生き方が、またしても現実になったのである。悪魔が振り上げた斧が、かえって悪魔自身に打撃となって跳ね返るのを見せつけられたような恰好である。

このようなことは、今までにも、幾度も実現して来たが、筆者の目から見て、このようなことは決して偶然に起きることではなかった。筆者はいつもいつもアダムの呪われた苦役としての労働には加担しなくて良いと放免されるのである。

これまで再三、ブログで書いて来たことであるが、筆者の目から見て、この地上における労働とは、罪ある人間が自分で自分の罪を贖おうとする達成不可能な努力のことを指す。

つまり、今や地上における労働とは、人が単に生計を支えるための、もしくは他者の必要に応えるための働きのことではなくなり、本質的に、人類が自分で自分の罪を贖うための自己救済の試み、神に逆らうバベルの塔建設の試みになってしまっているのである。

筆者はこれまで、自分の生活を自己の努力によって拡張したことは今まで一度もない。筆者の人生に劇的な展開(飛翔・拡張)がもたらされたのは、いつも筆者が、信仰によって、聖書の御言葉の実現を求めたときのことであった。それに引き換え、筆者が懸命に働いて、自己の労働によって自分を養い、支えようとし始めると、途端に物事は悪い方へ転がっていくのである。

毎日、すし詰めの満員電車に乗って阿鼻叫喚の地獄のような混乱の中を通勤し、上司の覚えめでたい部下となるために、粉骨砕身して夜遅くまでサービス残業したり、休日を返上までして働き、そうして自分の涙ぐましいまでの努力によって、自分をひとかどの人間として世間に認めてもらおうとする人生は、神の目にはまさに呪われていると言って良い、と筆者は考えている。

そのような努力は、決してまっとうな労働とは呼べず、勤労の義務という概念からも外れており、どんなに繰り返しても、人の幸福にも安定にもつながらないどころか、人をますます追い詰めていくだけである。それは、そのような(今日において当たり前のようにみなされている歪んだ)労働の概念が、本質的に、人類の自己救済の願望から来るものだからであると筆者は考えている。

昨今、この世における人類の労働という概念は、ますます人が自分で自分を義としようとする神に対する反逆を意味するものになりつつあって、今回も、その結論がまた裏づけられる結果となったのだと筆者は考えている。

このような経験を幾度も味わった結果として、筆者が今考えることは、もしかすると、旧創造(神によって贖われない、滅びゆくもの)を維持する責任は、旧創造自身にあるのかも知れない、ということである。

冒頭に挙げた御言葉からも分かるように、神は、クリスチャンに対し、神の国と神の義をまず第一として生き、衣食住のことで思い煩うな、と命じている。

信者にも、生きている限り、衣食住の問題はつきまとう。にも関わらず、神は聖書を通して、そのような問題は二義的であるから、クリスチャンは衣食住のことで悩まず、まずは神の国と神の義に注意を向けなさいと教える。

だとすれば、筆者が信者として一義的な問題に心を砕くのは良いとして、筆者の二義的問題を解決する責任は誰が負うのであろうか?

実は、その責任はこの世が負うのではないだろうかと筆者は考えている。

むろん、直接的には、クリスチャンを養うことは、神の仕事である。クリスチャンは「日々の糧を与えて下さい」と神に向かって祈ることができるが、しかし、そのような訴えを延々と繰り返さずとも、神は自然に信者に必要なものを送って下さる。そして、その多くが、この世から不思議な形で提供されるのである。

もっとはっきり言えば、この世にはクリスチャンを支えなければならない義務と責任があるのではないだろうかとさえ、筆者は思うのである。(この世はこれを聞いて憤慨するであろう。だが、実際に、神の国と神の義を第一にして生きるなら、信者は、いつもこの世が自らの富をすすんでクリスチャンに明け渡す結果にならざるを得ないことを痛感するのではないだろうか。)

さて、話題を戻すと、本日は、居住移転職業選択の自由、というのがテーマなので、聖書と憲法をからめて語りたい。

筆者の世代は、これまで労働市場において全く有利とは言えない数々のハンディキャップを負わされて来た。だが、それにも関わらず、我らが憲法は、「職業選択の自由」を国民に約束している。

この言葉の意味は絶大である。

なぜなら、それは「雇用主が労働者を選ぶ自由」ではなく、労働者たる「国民が自ら職業を選ぶ自由」を保障するからだ。

筆者はこれまで繰り返し、記事の中で、キリスト教の信仰者として、聖書の御言葉の記述をリアリティとして地上に引き出すことが可能であることについて記してきたが、それに比べれば、人間が造ったことばに過ぎない憲法の文言を具現化するくらいのことは、非常にたやすいことなのだ。

というより、憲法が国民の権利として保障している程度の内容ならば、それは最低限度の条件として、ほとんどすべてが聖書の約束の中に含まれているとも言えるかも知れない。

しかし、残念なことに、今日、多くの国民にとって、憲法の文言は単なる絵空事でしかない。

それは労基法が、多くの雇用主ばかりか、労働者にとっても、絵空事であるのと同様である。

多くの労働者は、残業代を受け取る権利が自分にあっても、雇用主から「それはあんたが勝手に行ったサービス残業だから、残業代を支払うつもりはない」と言われれば、あっさりとあきらめてしまう。

それどころか、雇用主から、ある日、「おまえはクビだ!」と言われれば、それがどんなに不当な理由でも、さっさとあきらめてしまう者も少なくない。

だが、不当な結論を黙って受け入れるのは、悪魔の不当な言いがかりをすべて真に受けて、自分が悪かったと全面的に降伏するのと同じである。自分の側に落ち度がないならば、そんなことをしてはならず、不当な主張とは戦って、身の潔白を主張し、権利を取り返さなければならない。権利は行使しなければ、失われてしまうのは仕方がない。

この時、権利を主張するための正当な根拠となるものが、法である。

憲法は法の中でも最高法規である。

この最高法規に基づいて、日本国民は自分の望みを自分の当然の権利として主張し、「要求する」ことができる。

このようにして、法的根拠に基づいて自らの権利を主張することで、論敵の不当な言い分を退けるという論戦は、基本的に、聖書の神を信じるクリスチャンが、聖書の御言葉を自分に対する神の変わらない約束として受け止め、それを根拠に、神に対してその約束の実現を求め、同時に悪魔の不当な言いがかりに対して立ち向かう論戦と、基本的にルールは同じである。

さて、国民はどのようにして「職業選択の自由」を現実にすることができるのだろうか?

それを考えるに当たり、まず、今日、我々がまるで当たり前であるかのように思い込まされている状況が、どんなに理不尽な嘘であるかを理解しなければならない。

憲法は「職業選択の自由」という、素晴らしい権利を国民に保障するに当たり、国民を「学歴」や「職歴」によって分け隔てしているだろうか?

たとえば、途切れ途切れの短い職歴しかない人間や、転職回数の多い人間は、まっとうな就職はできず、ひどい仕事にしか就ける見込みはない、などと言っているだろうか?

転職回数が5回を超えれば、もう正規雇用の道は閉ざされたも同然だ、とか、前職でクビにされたり、前職を自己都合で退職したら、次にはろくな仕事が待っていないぞ、などと脅したり、勤続年数が少ないから、まともな仕事に就けない、などと言っているだろうか? あるいは、正社員になれるのは、ほんの一握りの人たちだけであり、それ以外の人間は、もういい加減にあきらめるべきだ、などと言っているだろうか?

そんな条件は全くつけられていない。

制限となるのはただ一つ、「公共の福祉に反しない限り」という一言だけである。

日本国憲法第22条第1項

何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する

この権利保障には、職業選択の自由だけでなく、居住移転の自由も含まれている。

そして、職業選択の自由の場合と同じように、居住移転の自由を保障するに当たっても、憲法は、「立派な職業がなければ、立派な家に住めませんよ」とは言っておらず、「大家さんのご機嫌を損ねたら、退去させられます」とか、「かれこれの年収がない人には、引っ越し自体が土台無理です」とか、「職歴のない人間には、家は借りられません」とか、「住みたいところに住むためには、まずあなたの年収を上げる努力をしなければ」などの条件をつけていないのである。

このように、居住移転、職業選択の自由は、大家や、雇用主の自由を保障するものではなく、あくまで国民一人一人に与えられた選択の自由である。

もう一度、目を凝らして読んでみよう。

そこには、「雇用主が、自らの都合や好みに従って、労働者を選ぶ自由」ではなく、「国民が、自分の都合や好みに従って、職業を選ぶ自由」がある。

だが、もし選択肢が一つもなければ、そんなものは自由とは呼べないだろう。従って、職業選択の自由の中には、選択肢が豊富にあるということが、前提として含まれているはずである。

それならば、求職者が現実にありったけの求人広告を目を皿のように探しても、何一つ希望する条件に合致するものが見当たらなかったり、どんな仕事に応募しても門前払いを食らわされたりするのは、どういうわけなのだろうか?

憲法が間違っているのか?

いや、そうではない。憲法に矛盾する現実がおかしいのである。

さて、ここからが勝負所である。

ここで、国民一人一人が選択するのである。法の支配を現実として受け取るのか、それとも、法の支配にそぐわない、それに反する現実を「現実」として受け取り、約束された自由をみすみすあきらめるのか。

あきらめたくない人は、どんなに法に反する「現実」がまことしやかに、当たり前のように広がり、人々に常識のごとく受け入れられていたとしても、その「現実」こそが異常なのだという点で譲ってはならない。

分かる人には、筆者の言いたいことはすでに理解できたであろうから、あまり長々と論証することは必要ないと思われる。これは憲法にまつわる話といえども、ほとんど信仰の領域にも等しい内容である。

筆者は、最近、「居住移転の自由」を自らの権利として行使し、約束の保障を具現化するということをやってみたのだが、その際、年収だとか、ローンだとか、頭金の額だとか、いわゆる普通に家を移り住む時に必要となるすべての条件をほとんど筆者は度外視して(そうした条件にほとんどとらわれず)、願いを実現に移したのであった。

筆者はそれまで何年間もの間、「移転」の方法を模索して来たのだが、以上に挙げたような、好条件をすべて持っていたわけではなく、それらがすべてそろう展望があるわけでもなく、それにも関わらず、そうした条件がすべてそろわなければ、「移転」は不可能だとは信じず、しかも、妥協することによって自らの願いの水準を引き下げるのでもなく、自らの願いを実現する方法が必ずあるはずだと信じ続け、そして実際にその通りに、道を開いたのである。

だからこそ、その経験に立って言うが、憲法に保障された居住移転の自由を、絵空事でなしに実現できるなら、職業選択の自由を行使することも、できないはずがない。

このように、法の支配を、それと矛盾するように見える現実を打ち破って実現し、現実を見えない法の支配に従わせることは、信仰を持たない人間の地上生活レベルでも実現可能なのである。多くの人は、それを実行に移すよりも前から、現実を見て、法の支配を行使することをあきらめ、自らに約束された保障をあきらめ、手放してしまうが、それは正しくないのである。

このように、人間が造った法規に過ぎない地上の憲法でさえ、これだけの自由を人に保障してくれているのだから、まして、絶対的に正しい聖書の神が、被造物である人間のために悪法を定められるはずがなく、信じる者の望みをいたずらに制限したり、無碍に扱われるはずもない。

聖書の御言葉はどれも神から信者への変わらない約束であり、信仰によって実現することが可能なのである。憲法に書かれた文言が、国民にとって単なる絵空事で終わらないように、聖書の御言葉は、信者にとって、目に見える現実を超越して支配する見えないリアリティなのである。

そのことは、この先の時代、ますますはっきりと証明されるだろうと筆者は考えている。

今でも、多くの人々は、働いて収入を増やすことによってのみ、自己の自由の範囲を拡大することができると考えているが、実際には、そのような考えは根本的に間違っていると言える。

実際には、人間の自由と労働との間には、何の関連性もないのである。労働を通して収入を増やすことによってのみ、自由の範囲が拡大するという考えは、憲法にも反しており、聖書の御言葉のリアリティにも反する悪質な虚偽であると言える。

ところが、世間では、今になってもまだ、労働して己を支えて生きることこそ、まっとうな生き方であるとみなされている。そういう人々には、ブラック企業で不当解雇されたり、サービス残業を強制されたり、果ては賃金さえ払われず、長時間残業のために過労死するなどのことは、自分には決して起こるはずのない他人事に見えているのであろう。

だが、筆者は、自己の労働を頼りとする生き方は、この先、ますます絶望に落ち込んで行くだけだと考えている。それは、国民全体に勤労の義務を課すことで、社会全体の負債を国民に分かち合わせるという考え方自体が、本質的に、共産主義思想につながるからである。

話が飛躍していると思われるかも知れないが、前にも書いたように、筆者の目から見ると、現在の日本社会は、ソビエト体制に非常によく似た歴史的経過を辿っており、この国は、表向きの体制や法体系とは別に、本質的に社会主義国なのではないかと考えずにいられない。

1928-29年にソビエトで強制集団化がなされた。

この時、農民・労働者にそれまでの税金の水準に照らし合わせて、思いもかけない高額な税金の納付書が届き、家畜にも重税が課され、家畜のと殺も罪とされた。

そこで、自身の税のみならず、家畜の税が払えず、家畜も没収の上、強制収容所送りになるような人々も出た。払いきれない法外な税金を何とかしてくれとソビエト国民が閣僚に泣きついた数多くの嘆願書が残されている。

さらに、農民を対象として政府による穀物徴発などが行なわれるようになり、農家が屋根裏に隠していた穀物までも国家財産として強制的に取り上げられた。

こうして、レーニン死後、それまでソ連が戦後の荒廃から立ち直るために、比較的自由な経済活動が許されていたネップの時代が終わり、ネップの時代にようやく少しばかりの財産を築いた農民や労働者が「富農」として非難され、彼らからの強制的な取り立てが始まったのである。

赤い貴族とも揶揄された政府要職にある一部の特権階級も同然の裕福な人々を除き、圧倒的多数のソビエト国民が極貧の生活を耐え忍ばねばならない時代が始まったのである。

こうして、文字通り、すべての私有財産が廃止されるという共産主義の理念が実行に移されたわけであるが、しかし、廃止された私有財産は国民のものとはならず、その代わりに、すべての財産が国有化された。国民の勤労の成果も、すべて国の財産として没収されたのである。

こうして、すべての財産が、人類の未来社会に共産主義というユートピアを生み出すための母体である国家のものとされたため、ソビエト国民は、自分が飢えて死なないために、コルホーズからジャガイモ一個盗んでも、国家財産の窃盗として死刑に処されるようになった。それだけではなく、そんな恐ろしい生活から逃げるために国外亡命しようとすることさえ、国家に対する裏切りとして死刑に価する罪とされた。こんな恐ろしい国から逃げる自由さえなくなったのである。

こうして、労働者・農民の天国を作ることを目的としていたはずのソビエト政権が、労働者・農民に対する恐ろしい収奪、抑圧を実行に移し始めた。やがてそれは労働者・農民の財産の没収、労働の収奪(搾取)だけには終わらず、やがて無差別的で大規模な思想弾圧の実行に結びつき、その結果として、特に、大粛清と呼ばれる36-38年の時代には、数えきれないソビエト国民が無実にも関わらず逮捕され、投獄されたり、銃殺されたり、強制収容所で強制労働させられたりすることになった。

強制集団化から大粛清の時期までに、約10年近い時が経過しているが、今、日本は、強制集団化の時点に差しかかっているのだと筆者が考えていることは、別な記事でも書いた。

今、サラリーマンや、自営業者や、その他の、これまで普通に働いて、己を支えて生きて来た国民(立憲民主党の枝野氏の言葉によれば、かつては「分厚い中間層」を形成していたような国民)が、国家によって強制的な収奪の対象とされ、貧困に突き落とされ、やがては死の淵にまで追いやられるような時代が近づいていると、筆者は感じている。

ちなみに、立憲民主党は、「分厚い中間層を取り戻す」ことを公約に掲げているが、筆者の予測では、この先の歴史は決してそのようにはならない。筆者の予感が的中していればの話だが、今、我が国で起きていることは、「雇用情勢の破壊」でもなければ、「中間層の没落」でもなく、「下流老人の増加」でもない。

これは目に見えない形での、一般国民の私有財産の段階的な廃止なのである。

なぜ過労死などといった問題が起きるのか、なぜ労働市場においては残業代が支払われない方向へ向かっているのか。マイナンバーとは何なのか。これらの問題は、この国がすでに実質的な社会主義国であり、徐々に「共産主義」社会へ向かっているという理解なくしては解明できない。

それはとどのつまり、今のこの国では、社会そのものを存続させるために、すべての国民に、平等に負担を負わせようとする政策が推し進められていることを意味する。

すべての国民に平等に(社会を維持するための)負担を負ってもらうために、報われない労働にもどんどん従事してもらい、どんどん財産を没収しましょうという目に見えない政策が進行中なのである。

この国に革命は起きておらず、表向き、資本主義国であることに変化はないが、それでも、見えない革命が起きたも同然に、この国の最上層部は、すでにクーデターによって取り替えられ、社会の仕組みは以前とは全く異なっているのだと言える。

今の安倍政権は、第一次の投げ出しに終わった安倍政権とは本質的に全く異なり、今現在、この国が向かっている先にあるものは、「富はすべて国のもの(土地や財産の国有化)」、「すべての負債は国民のもの」(労働の義務及び私有財産の廃止)という、ソビエト体制とほとんど変わらないような負債の連帯責任の社会なのである。

社会主義国では、私有財産制度が廃止されているので、労働者が働いても働いても、その成果が給与に反映されることはなく、店の売り上げがどんなに伸びても、それが労働者の賃金になって跳ね返って来ないので、言ってみれば、そんな社会では、働く意味自体がないに等しい。

怠け者が少ししか働かなくても、勤労者が大きな働きをしても、どちらも同じ報いしか受けないような社会では、労働意欲に溢れている人間ほど、搾り取られるだけに終わるのは目に見えている。

我が国では、名目上、私有財産制は廃止されていないものの、実質的には、それにかなり近い状態が進行している。

労働者の給与は、残業代の固定化、もしくは廃止、あるいは労働時間にとらわれない裁量労働制が広がることにより、個人が働いても働いても、その成果が労働者にますます還元されにくく、かえって一人一人の労働の成果が、会社の共有財産のように分配される時代が近づいている。

安倍政権になってから、貯蓄ゼロ世帯が増えたが、貯蓄がゼロということは、他の財産もほとんど無いに等しい状態を意味する。

若者の車離れも進んでおり、土地もなければ、家もなく、あるとすれば負債だけで、学費すらも、奨学金という負債を抱えなければ捻出できない。そういう世帯が増えているということだ。

このようなことは、目に見えない形で国民の間で私有財産制度の廃止が進んでいることを意味すると言えないだろうか? ほんの一握りの莫大な富を有する富裕層を除き、それ以外の90%以上を占める下層民(そこにはかつて中間層と呼ばれた人々も含む)は、働いても働いてもその成果が何ら給与に反映されず、豊かになれる見込みもなく、貯蓄も減って行く一方で、ほとんど私有財産がなくなるまでに貧困化が進むという事態が、国家の政策レベルで進行中なのだ。

筆者の考えでは、これは目に見えない、段階的な、下層民の間での私有財産制度の廃止そのものであり、この先、ますます、このような傾向は深刻化して行くことになると思われる。

政府がサラリーマンからも自営業者からも所得税や年金の取り立て額を引き上げるというニュースがネットを巡っているが、それもこうした流れの中で起きていることであり、いずれその徴収額は考えられないほどにべらぼうな金額にまで引き上げられ、働いてもほぼ意味がないほどまでになって行くものと考えられる。

また、現時点では、共謀罪で死刑とされた人はいないが、これから10年ほどが経つ間に、税の取り立てなどの労働者への収奪がより深刻化すれば、それに伴い、ソビエト政権下で起きたような政府に対する反乱を未然に防ぐための思想弾圧が、この国でも大々的に起きる可能性がないとは言えず、共謀罪はその布石なのだと考えることは十分に可能である。

このようなことは、この国がもはや資本主義国ではなく、社会主義国である、という観点に立たなければ、その意味が本当には理解できないのではないかと筆者は考えている。

この国がどこかの時点で、完全に方向転換して、安倍政権の唱える「この道」(それは安倍晋三自身が考えついて提唱しているだけのものではなく、その背後に存在する勢力と理念がある)を拒否しないならば、必ず、そのような末路にまで行き着くであろう。

さて、共産主義とは、文字通り、すべての人が幸福社会の実現のために平等に働く社会のことである。

概念上では、その幸福社会には何でも豊かにそろっており、商品やサービスをお金で買う必要もないので、私有財産などもとから必要ないのである。

しかし、結論から先に言ってしまえば、そういう社会を理想とする思想の最大の問題点は、そんな社会が到来することが本当にあるのかという一点に尽きる。

むしろ、理想社会の到来を口実にして、人々の財産と労働の成果を不法に収奪することが、その思想を土台に作られる社会の本当の目的となってはしまいかという点にある。

誰もが平等に労働することによって、本当に幸福社会が到来するのならば良いが、もしその幸福社会の実現が、絵に描いた餅でしかなく、人々をタダ働きさせるための口実にしかならないならば、そんな呪われた「幸福社会」の到来を額面通りに信じて、その到来のために真面目に労働する人たちが最も馬鹿を見させられることになる。

「いつか人類の幸福社会が実現して、モノが豊かに溢れ、格差がなくなり、誰も貧しさに苛まれることのない、豊かで幸福な世の中が来ます。そして、その時には、あなたも好きなものをよりどりみどり、何でも自由に取って楽しめるのです。ですから、あなたはそういう社会の到来を信じ、その時が一刻でも早まるよう、粉骨砕身して労働し、今は雀の涙のような少ない給料や、ただ働きにも黙って耐えて我慢しなさい」

などと言われれば、

「えっ、それって、要するに、詐欺ですよね?」とただちに問い返すべきである。

「間もなく日本は戦争に勝利するのですから、その時は、何でも欲しいものが自由に手に入ります。ですから、勝つまでは、欲しがりません、と言って、みんなで貧しさに耐え、お国のためにすべてのものを差し出しましょう」などと言われれば、「いや、それって詐欺ですよね。私たちからすべてのものを身ぐるみ巻き上げた国が戦争に勝つ時なんて、絶対に来ないと思いますよ。そもそも戦争に勝てる力があるなら、こんなことをやる必要もないと思います」と即座に切り返さなければならないのである。

「どうせ約束した共産主義のバラ色の未来なんて、初めから嘘っぱちでやって来ないんでしょう。そのバラ色の未来を口実にして、今、国民からあらゆる権利を、財産を、労働の成果を取り上げることだけが、あなた方の本当の目的なんでしょう? 嘘はいけませんよ、私は信じませんし、応じませんからね」と返答し、そんな不当な契約は悪魔に突き返すべきである。

「未来の幸福社会」などというあるはずもない謳い文句を口実に、実際に、結ばされるのは、ひたすら赤字や負債だけを山分けするという不利な契約だけだからである。

そういうわけで、現在の日本社会においては、今までと同じように、国民一人一人が頑張って働きさえすれば、社会全体が底上げされて、みんなで豊かになれるという前提が、もう幻想も同然に、存在していないのである。そのような時代は過ぎたのであり、今となっては「神話」である。

そもそも日本がかつてのような経済的繁栄を取り戻せるという発想自体が幻想なのだが、その幻想の中には、アベノミクスという「神話」だけでなく、残念ながら、立憲民主党の主張している「分厚い中間層を取り戻す」という「神話」も含まれると筆者は考える。

現実には、国民一人一人が頑張って働けば、社会が底上げされるどころか、少子高齢化及び原発事故等々のツケをその一人一人がみな連帯責任のごとく負わされることになるだけであり、しかも、労働できる世代や人口自体が限られている以上、一人一人がどんなに頑張って働いても、社会全体を今まで通りの水準に維持することはほぼ不可能であり、そのために負わなければならない負担が、天文学的な額にまで上っており、そのような理不尽な状況下では、むしろ、真面目な人々が努力して働けば働くほど、働かない人々がその努力に便乗して利益をむさぼるので、真面目な人々の負担は重くなって行く一方であり、どんな努力を持ってしても、この理不尽な状況を変えることは誰にもできないという時代が来ていることは明白なのである。

この事態の深刻さを直視せず、今まで通りの勤労の概念に踊らされて、従来通りに労働していれば、あたかも社会全体がますます豊かになるかのような幻想を抱いていれば、その人間は、その浅はかさを誰かに都合よく利用され、負いきれない(社会全体の)負債を連帯責任として負わされて、死が待っているだけである。

過労死も、サービス残業も、すべてこの社会が慢性的に負わされている負債を、最も弱い末端の労働者にまで連帯責任のごとく負わせようという考えから起きていることである。

その負債の中には、むろん、デフレや、少子高齢化や、福島原発事故の後始末など、あらん限りのマイナス要素が含まれるであろうが、広義では、その負債は、最終的には、人類の罪そのものを指す。

人類が絶対に自己の力で贖うことのできない罪を、己の力で贖い、何とかしてみんなで己が失敗を償って幸福な社会を自力で打ち立てようという目的で働いていればこそ、どんなに働いても、その労働に終わりが来ることはないばかりか、むしろ、働けば働くほど、要求が過剰なものに引き上げられ、人は永遠の蟻地獄の中でもがき続けるしかないのである。

そのような文脈における労働には希望がない。それは人がどんなに力を尽くして頑張っても、しょせん、返せるはずもない、底なしの負債を、社会のメンバー全員で分け合うことで、あたかも返せるかのように見せかける幻想でしかないからだ。

そこで、そんな試みは決して成功に終わることはないだけでなく、もしそのような仕組みの嘘を見抜けず、その罪の連帯責任に同意してしまったなら、やる気のある人間は、死に至るまでとことん割に合わない条件で働かされるのみである。

そこで、正しい答えは、そのような呪われた労働システムからは、一刻も早く、外に出るべきだ、ということに尽きる。

我々は、義務としての労働ではなく、自由としての労働をどこまでも目指すべきなのである。

国民の勤労の義務を説くにしても、それは「職業選択の自由」があって初めて成り立つのであり、それがないのに、勤労の義務だけを説けば、苦役を課しているのも同然になる。

そして、義務としての労働ではなく、自由としての職業選択の自由を本当に実現するためには、憲法という概念よりも、もっと大きなスケールにおいて、死の恐怖によって人を虜にしている罪の強制収容所の囚人であることをやめるための絶大な効力を持った証書が必要となる。

つまり、社会全体を没落させないという、死の恐怖から逃れるという目的のためではなく、自分自身の望みに従って、完全な自由の中で労働するという新たな文脈が必要なのである。

そのような自由を人に与える効力を持つ証書は、全宇宙にただ一つしかなく、それは死の力を持つ悪魔を十字架において滅ぼしたキリストの贖いだけである。

この十字架における贖いの証書だけが、人を死の恐怖及び罪を贖うための終わりなき苦役としての労働から解き放つことができる。

筆者は、この先、この十字架発の証書を握りしめて進んで行くことだけが、来らんとしている強制集団化と大粛清の中を無傷で生き残る鍵であろうと考えている。読者は、ソビエト時代の社会と現在の日本社会を重ねている筆者の想像を笑うかも知れないが、それでも、筆者の予想は、非常に厳しいものであり、この先、日本にかつてのような平和な時代が取り戻されるというものではない。

そして、聖書の御言葉への信仰に立って、与えられた自由を確固として行使し続けることが、どんな過酷な時代にあっても、無傷で生き残るだけでなく、一回限りの人生で、真に価値ある労苦によって、見えない栄光を掴むための秘訣なのである。

最後に、もう一つのことを書いておきたい。

聖書の神を心から信じるクリスチャンは、神に似た者として振る舞うべきではないかと、最近、筆者は思うのだが、(これは最近はやりの、「人が神になる」というアセンションを意味しない。人間が何かとんでもない神々しい存在になるという種類の自己高揚の話ではない。)果たして、クリスチャンが神に似た者として振る舞うとはどういうことなのかを思うとき、聖書の次なる文句が思い出されてならない。

たとえ飢えることがあろうとも
お前に言いはしない。
世界とそこに満ちているものは
すべてわたしのものだ。」(詩編50:12)

世界とそこに満ちているすべてのものを所有しておられるただお一人の神には、不足というものが全くない。にも関わらず、「たとえ飢えることがあっても」という表現が出て来るのは、一見、パラドックスのようにも思われる。

神が飢えるなどということは、想像することもできない。むろん、それは肉体的な飢餓のことを言っているのではなかろう。ここで言われている「飢え」とは、あれやこれやの具体的な話ではなく、欠乏全般を指すものだと考えるのが妥当であろうと筆者は思う。

つまり、この表現が意味するものは、「どんなことについても、神は決して欠乏を口にせず、ご自分以外の者を頼りとされない。なぜなら、神はすべての必要をご自分で満たすことのできる方だから」ということに尽きると思うのだ。

神は全知全能であるから、ご自分以外のものを決して頼りとされる必要がない方である。神は完全であればこそ、不足や欠乏に直面してご自分以外の者に助けを求めることを余儀なくされるという状況自体が、決して起きない方なのである。言い換えれば、どんな欠乏が生じても、それをご自身で満たすことのできる方なのである。

そこで、神がもしそのような方なのであれば、その神に贖われ、神のものとされ、神の子供とされたクリスチャンも、神に似た者として、同じように振る舞うべきではないだろうか?と筆者は考える。

つまり、クリスチャンは、ただ神だけに信頼を置いていればこそ、安易に神以外の者に向かって、欠乏を口にすべきではないし、誰にも助けを乞うべきではないと言えるのではないだろうか? 

筆者はそのことを今回も再び学ばされたように考えている。

我々は生きている限り、多くの苦しみや、時には窮地にも遭遇することがあろう。そのような中で、心弱くなり、ふと誰かに優しい言葉をかけてもらいたいとか、同情してもらいたいと思ったり、あるいは、人に支援を乞いたい不安に駆られることがあるかも知れない。

あともう少しのところで、誰かに心細さや欠乏を打ち明ける寸前だった、というところへ追い込まれることもあるかも知れない。

だが、それでも、クリスチャンであれば、私たちが助けを乞うべき相手は、肉なる人間ではないことを思うべきであり、欠乏に取り囲まれているように感じられる時こそ、あえて以上の原則を思い起こし、神以外の何者にも助けを乞わないという姿勢を貫き通すべきなのである。

そうすれば、万物の造り主なる方、全宇宙をつかさどる方、全知全能の神、死を打ち破られた方が、信者のすべての必要を本当に知っておられ、気遣って下さるので、私たちは、滅びゆくこの世の者に助けを求めないで済むのだということが、実際に分かるであろう。

クリスチャンがこの世に助けを乞うのではなく、むしろ、この世の方が、クリスチャンが持っているはかりしれない権威と力のゆえに、自らクリスチャンを支える義務を負っているのだとさえ言えるのではないかと思う。

クリスチャンは、この世のあらゆる欠乏からすでに十字架における勝利によって解き放たれており、従って、この世のどんな事象にも縛られず、人の思惑に振り回されることなく、むしろ、それらをはるかに超えて、神と共にこの全宇宙を治める側に立つことができる。そのようにこの世を超越した立ち位置にこそ、キリスト者の自由が存在するのである。

これが、憲法という地上のレベルをはるかに超えて、聖書の御言葉が壮大なスケールで信者に与えてくれている自由である。地上の憲法は、場合によっては書き変えられることがあり得るかもい知れないが、聖書の御言葉にはそれはない。

聖書の御言葉により、死を打ち破った復活の命によって生かされていればこそ、クリスチャンは地上で様々な困難が持ち上がって来る時にも、右往左往して世に助けを乞うのでなく、むしろ、現実の事象に対して権威を持って命じることができる。

すなわち、現実が御言葉に従うまで、天的な権利の行使を貫徹し、命じ、戦うのである。その時、聖書の御言葉に基づく目に見えない支配が、目に見える事象すべてを上回る圧倒的な支配力であることが実際に証明されて、私たちは自分たちの信じている神が、神と呼ばれるにまさにふさわしいお方であることを痛感することになる。

2017年9月16日 (土)

汚職まみれの東京オリンピックは関係者を奈落のどん底に追いやるだけで幻に終わる

さて、久々にオリンピックの話題を。

「原発事故(による汚染)はコントロールされている」という安倍首相の虚言に始まり、「世界一金のかからないオリンピック」を主張していた猪瀬知事の政治スキャンダルによる辞任、それから一転して「世界一金のかかる五輪」への変貌、さらに、佐野研二郎のデザインしたエンブレムに生じた盗作疑惑と決定後の使用中止、ザハ・ハディド氏のデザインに決定していた新国立競技場の設計案の白紙撤回、その後の国立競技場建設労働者の過労自殺…。

東京オリンピックはもはや不正疑惑のデパートとなり、この事業に関わった人々は、栄光の高みから一転して奈落のどん底へ突き落されるということが続いている。利権まみれの呪われた薄汚いオリンピック、関わる人々を不幸に追いやるだけと言って良い。ここに来て、決定打とも言える情報が出た。

ブラジル当局、東京・リオ五輪で買収と結論 英紙報道 
 
日本経済新聞 2017/9/14 23:32

 【ロンドン=共同】2016年リオデジャネイロ五輪と20年東京五輪招致の不正疑惑を巡り、ブラジル司法当局が両五輪の招致委員会から、当時国際オリンピック委員会(IOC)委員で国際陸連会長だったラミン・ディアク氏(セネガル)を父に持つパパマッサタ・ディアク氏に対し、多額の金銭が渡った可能性があると結論づけたことが分かった。英紙ガーディアン(電子版)が13日、報じた。

 フランス当局の捜査を基に書類をまとめたブラジルの当局は、IOC内で特別な影響力があったラミン・ディアク氏を買収する意図があったとしている。両五輪の開催都市が決まった前後に、疑惑の渦中にあるパパマッサタ・ディアク氏がフランスで高額の時計や宝石を購入した際の支払いや口座の記録も確認されたとしている。

 ガーディアンは昨年、同氏と関連のある業者の口座に東京招致委から多額の送金があった事実を報じた。東京側は不正を否定している。

なるほど、リオ五輪の閉会式で安倍首相がマリオに扮して登場したのは、「汚職と買収で成立したリオ五輪の不正行為を、東京もしっかりと継承して行きましょう!」という強い意志表示の現われだったのかと考えると納得する。

買収を除いても、華やかなオリンピックには常に大きな暗い影がつきまとう。リオ五輪でも、貧しい地元住民たちが強制的に立ち退かされ、反対運動も起きた。オリンピックのために建設される巨大スタジアムなどは、開催後、用途がなく、採算が取れずに、廃墟化する例も後を絶たない。

安倍首相は、誰より東京オリンピック開催に強いこだわりを持っていたことは明らかだ。招致の実現が、安倍首相の手柄のように報道されただけでなく、安倍氏が、主催者でもないにも関わらず、自分自身の公務を置き去りにしてまで、リオの閉会式にしゃしゃり出、JOCや小池知事をもさしおいて、自分一人、はしゃぎ回ってパフォーマンスを繰り広げたのは記憶に新しい。思い入れの強さを示す事実であろう。

そのパフォーマンスも、一部の金持ちを楽しませるためだけの見世物を、貧しい人々を排除し犠牲にし、買収してでもいいから、開催しようという不正のボールを、リオから継承するために行われたのだ。

今回の東京へのオリンピック招致は、かつて幻に終わった1940年の東京五輪と引き比べられることが多いが、筆者もその文脈に立ち、今回のオリンピックは決して開催されないだろうと確信し続けている。

LITERAの記事がこの二つのオリンピックの共通点を端的に挙げているが、その指摘は時を追うごとに、ますます現実味を帯びて来ている。少々長いが、該当部分を抜粋しておきたい。

共通点➀ 震災との関連性
   ② 独裁者に国際協力を依頼した
   ③ メインスタジアムの問題
   ④ きな臭い政治情勢(軍国主義化が進む)

東京五輪がなくなる? 1940年の幻の東京五輪と2020東京五輪が恐ろしいほど似ている!(LITERA 2015.09.06.)から抜粋

 まず、似ているのが震災との関係だ。2020年の東京オリンピックは2011年の東日本大震災からの復興をテーマの一つに掲げているが、1940年の東京五輪もその17年前に関東大震災が起きていて、そこからの復興をアピールする意図があった。

 また、招致への国際的協力をとりつける経緯も似ている。40年の東京オリンピック招致には独裁者・ヒトラーとムッソリーニの協力があった。36年のベルリンオリンピックではヒトラーの人種差別政策に反対してボイコットの動きがあったが、日本は参加を表明。もともと日本との軍事的連携を狙っていたヒトラーはこれに応えるように、東京オリンピック招致に全面協力。ベルギー出身のIOC会長バイエ=ラトゥールに日本を支持するように圧力をかけた。この関係が後の日独防共協定、日独伊三国同盟につながっていく。

 ムッソリーニも同様で、エチオピア侵攻によって国際連盟を脱退したことから、同じく国際連盟を脱退した日本に接近。東京と招致を争っていたローマを立候補から辞退させた。

 一方、2020年の東京オリンピック招致はプーチン大統領の積極的支持が勝因の一つと言われている。ロシアでは14年ソチ五輪が開かれたが、プーチンはこの少し前、同性愛差別発言をして欧米各国からボイコットの動きが起きていた。しかし、日本はこうした動きとは距離を置き、13年9月、ロシアのサンクトペテルブルクで開かれたG20サミットで、安倍首相がプーチン大統領に協力を要請。プーチンから「投票権を持つ ロシアのIOC委員、友人のIOC委員に東京を支持するよう説得した」という答えを得たとされる。

 ようするに、1940年も2020年も日本は国際社会で批判を受ける独裁者に協力を仰いで、開催支持をとりつけているのだ。

 さらに、この2つオリンピックはメインスタジアムで問題が起きたことまで共通している。2020年東京五輪の国立競技場問題は今さら説明するまでもないが、1940年の幻の東京五輪でも、当初は隅田川河口の月島埋立地を利用する計画だったが、風が強すぎるという問題で変更しなければいけなくなった。

 続いて候補に挙がった明治神宮外苑は、神社局長から大規模開発を反対され、挫折。その後も、二転三転。最終的には駒沢ゴルフ場跡地になったが、招致決定から半年たっても競技場が未定のまま、第7候補地までもつれこむ事態はIOC会長からも批判された。

 しかし、1940年の五輪と2020年の五輪の類似性はなんといっても、招致決定前後のキナ臭い政治状況だろう。

 1940年の東京五輪では、関東大震災の2年後の25年に治安維持法が制定され、日本は急速に軍国主義化その10年後に前述したように日中戦争に突入していく。そして、2020年に東京五輪を控える今の日本も同じ道をたどっているように見えるのだ。東日本大震災の2年後に“現代の治安維持法”と呼ばれる特定秘密保護法が成立。さらに安倍政権は集団的自衛権を容認し、今、安保法制を強行しており、戦争のできる国づくりが着々と進められている。

 つまり、2020年の五輪も近いうちに日中戦争が起きて、開催を返上。1940年の東京五輪と同じように、幻に終わるのではないか、というのだ。

この記述に加えて、さらに、重要な⑤番目の柱として、LITERAが触れていない共通点をもう一つつけ加えたい。それは、日本政府にとって、この二つのオリンピックは、誤った政治的イデオロギーの宣伝のための絶好の機会だという点である。

1940年の幻に終わった東京オリンピックを、日本政府は国家神道のイデオロギーに基づき、「皇紀二千六百年」を祝賀し、「皇国」としての栄光と威信を全世界に見せつける機会として利用しようとした。このオリンピックが開催されずに終わったのは、直接的には様々な情勢の変化のためということであるかも知れないが、本質的には、まさにこのオリンピックを導く根本的な誤った理念(別な言葉で言えば、オリンピックを正当化する大義の欠如)が招いた必然的な結果だったと言っても良いのではないかと筆者は考えている。

現在も、我が国政府及び国会議員のほとんどは、戦前回帰を唱道する日本会議のメンバーでほぼすべてが占められている。教育勅語を暗唱させる塚本幼稚園の問題などが明るみに出てきたのもその流れの中で起きたことであり、2020年の東京オリンピックは、日本会議メンバーらにとっては、1940年とほぼ同様の意味合いを持つものであると見えているだろうと想像される。つまり、その点で、今回も、東京オリンピックを支える理念そのものが完全に誤っていることは間違いないと言える。そこでこれもかつてと同じ道を辿り、時を追うごとに、開催の意義が全くないことだけが露呈し、様々な障害を乗り越えられずに結局、頓挫するであろうと筆者は予想している。
 
今では「共謀罪」も通過し、お国の命令に逆らう「非国民」を根こそぎ根絶やしにした治安維持法の復活、「戦争ができる国づくり」が完成しつつある。

きな臭いと言えば、近く日中戦争が勃発するのではとのLITERAの予想とは少し違い、当面、日本政府が危機を煽りまくっているのは、今に始まったわけでもない北朝鮮のミサイル発射である。

日本政府は、宇宙空間を飛び去っただけの北のミサイルが、まるで日本本土に向けられているかのように、Jアラートなどで国民の恐怖を煽りまくり、小学生やお年寄りに何の効果もない原始的な避難訓練などをさせることで、政権に従順な思想を植えつけようとしているだけでなく、近い将来彼らが引き起こすつもりであると思われる「朝鮮半島における有事」の勃発に向けて、国民にそれが不可避であることを刷り込むための洗脳を施している。

ちなみに、冒頭で紹介した、ブラジル当局が東京五輪の招致を買収によるものと結論づけたという日経新聞の記事が発表されたのも、9月14日の深夜であるが、このように不都合なニュースがこっそりと発表された翌日には、まるでそこから国民の目を早く逸らさせようとするかのように、早朝から北のミサイル騒ぎが煽りに煽られていた。

こうして、政府にとって不都合な記事は、深夜にこっそり公表される一方で、翌日にはまるで今しも戦争が勃発するかもしれないとでも言うかのように、根拠のない不安が煽られ、政府に不都合な事実には、徹底して国民の目が向かないように仕向けられる。

北のミサイル発射は、森友、加計アベ友疑惑(安倍首相による国家戦略特区などを利用した国家私物化問題)の影響により下がった支持率を回復したい安倍首相が、この問題から国民の目をそらし、政権にしがみつかせるため、国民に恐怖を植えつけるために、北朝鮮に自ら頼み込んで行っている国際的出来レースだという噂がささやかれて久しい。

もしそうでなければ、なぜ普段は官邸に宿泊しない安倍首相が、ミサイル発射の前日だけは官邸に泊まっているのか。なぜ公務員が出勤しているはずのない早朝に、大臣等が執務室にいるのか。なぜマスコミは発射のタイミングに遅れることなく速やかに報道ができるのか。説明がつかない。唯一、筋の通った説明は、すべては出来レースだ、ということだけである。

筆者の予想では、政府がこのように危機を煽りまくっているのは、それを現実にしたい者たちがいるからであり、彼らが思い描いている筋書きでは、いずれ朝鮮半島では有事が勃発し、米軍により、日本は戦争に参加することをやむなく求められることになっていると見られる。彼らの狙いは、それを好機として自衛隊を国防軍に昇格し、自衛隊を軍隊として容認する憲法の改正が不可避であるかのようなキャンペーンを行い、改憲へと世論を誘導することにある。最終的には核武装することが悲願なのだと考えられる。

だが、これは大きな自己矛盾である。彼らがこのように政情の悪化を織り込むシナリオを描けば描くほど、オリンピックなどはその情勢不安から完全に吹き飛ぶだけでなく、別な記事で書く通り、北方領土や極東シベリアにおける日ロの経済協力なども、無に帰することになる。

筆者はこれまでにもずっと、金儲けを第一として極東シベリアに進出した日本企業が、かつて大陸進出を目指してサハリンに渡った移民同様に、戦禍に巻き込まれ、数々の災いをこうむるだけで、我が国に戻って来られなくなるだろうという暗い予想を述べて来た。

特に有事がなくとも、日ロのビジネスに携わる企業で、これまで真に発展した企業を筆者は一つも見たことがない。日ロビジネスがいつまでもじり貧のまま決して発展しない主要な原因の一つは、ロシアのインフラ整備の遅れや、法外に煩雑な諸手続きなど、ロシアという国家そのものが持つ前近代的な要素に加え、元来、米国と同盟を結ぶ日本が、ロシアにとって潜在的に仮想敵国も同然であるという事実にある。

ロシアは日本企業を自国の利益のために利用することはしても、いつ米軍と組んで敵方に翻るか分からない日本の企業を、決して信用し、発展させることはしないだろう。奇しくも今年、ロシアのスプートニクが、本来ならば、北方領土の一部(歯舞、色丹)はフルシチョフ時代に日本に返還されていておかしくなかったが、安倍首相の祖父である岸信介首相のもとで、日米安保条約が結ばれたことが、その可能性を完全に葬り去ったのだと述べている。

元KGB長官の回顧録:日本との領土交渉の新事実が明らかに!」(Sputnik 2017年03月04日 17:23 アンドレイ イルヤシェンコ)

このような宿命的な事実に照らし合わせても、また、今日、解釈改憲がなされ、安保法制が成立し、地球の裏側までも米軍と自衛隊がさらに緊密な連携のもとで軍事活動に携わるべく態勢が構築されつつあるという事情に鑑みても、現在、岸信介の孫である安倍首相のもとで、我が国とロシアとの平和条約が締結される見込みはまずないと言って良い。

こうして、領土問題、シベリア抑留問題、その他の外交上のあまたの問題を棚上げしたまま、日本が政府を挙げてゼニカネのためにロシアとの民間経済協力に走っても、その基盤はいずれ脆く崩れるであろうことは容易に想像がつく。

何より、そもそも他国との経済協力は、政府が主導して推進すべき性質のものではなく、民間企業のイニシアティブによって発展すべきものであると言える。政府がどんなに企業のお尻を叩いても、儲けがないビジネスに企業が乗るはずもない。なぜロシアとのビジネスがこれまで発展して来なかったのか、その要因を分析し、取り除くことなしに、政府が民間企業に声をかけても、企業はその提案には乗らないであろう。

さらに、政治的にも多数の未解決の問題を棚上げし、シベリアからほど遠くない朝鮮半島の政治情勢も落ち着いていない中、たとえ欲に目がくらんで、本質的に重要な問題から目をそらして安易に儲け話に乗る企業が出るとしても、待っているのは破滅だけである。筆者に言わせれば、日ロ経済協力による日本側のメリットは長期的に見るとゼロなのである。

そのことが前もって分かっているので、日ロ経済協力などという世迷いごとに、筆者は参加しないことを決めている。いや、仕事を通して何度もやむなく参加しかけたのだが、その度ごとに、このような中途半端なプランは決して成功しないだろうという手ごたえ以外に得るものはなかったと言える。

さらに、オリンピックなどには関心もなく、ミサイル狂想曲にも踊らされたくないので、安眠を妨げられないよう、Jアラートも切っている。今回、首都圏には警報は鳴らなかったそうだが、仮に鳴っていたとしても、筆者はそれに耳を傾けるつもりはない。ましてや、避難訓練などには決して参加するつもりはない。

支持率回復のために、外敵の恐怖を煽ることで、恐怖や憎しみや怒りによって国民を団結させようとするか、さもなくば歴史的な様々な軋轢や未解決の諸問題をも無視して、信頼関係ができていない国々と安易に手を結ぼうとするような政権からは、極力遠ざかるのみだ。

2017年8月14日 (月)

十字架の死と復活の原則ー地上の実りなき死んだ労働を離れて、天に永遠の収穫をもたらす労働に生きる(2)ー

「主のほかに神はない。
神のほかに我らの岩はない。
神はわたしに力を帯びさせ
わたしの道を完全にし
わたしの足を鹿のように速くし
高いところに立たせ
手に戦いの技を教え腕に青銅の弓を引く力を帯びさせてくださる。

あなたは救いの盾をわたしに授け
右の御手で支えてくださる。
あなたは、自ら降り
わたしを強い者としてくださる。

わたしの足は大きく踏み出し
くるぶしはよろめくことがない。
敵を追い、敵に追いつき
滅ぼすまで引き返さず
彼らを打ち、再び立つことを許さない。
彼らはわたしの足もとに倒れ伏す。

あなたは戦う力をわたしに帯びさせ
刃向う者を屈服させ
敵の首筋を踏ませてくださる。
わたしを憎む者をわたしは滅ぼす。

彼らは叫ぶが、助ける者は現れず、
主に向かって叫んでも答えはない。
わたしは彼らを風の前の塵と見なし
野の土くれのようにむなしいものとする。

あなたはわたしを民の争いから解き放ち
国々の頭としてくださる。
わたしの知らぬ民もわたしに仕え
わたしのことを耳にしてわたしに聞き従い
敵の民は憐れみを乞う。
敵の民は力を失い、おののいて砦を出る。

主は命の神。
わたしの岩をたたえよ。
わたしの救いの神をあがめよ。
わたしのために報復してくださる神よ
諸国の民をわたしに従わせてください。
敵からわたしを救い
刃向う者よりも高く上げ
不法の者から助け出してください。

主よ、国々の中で
わたしはあなたに感謝をささげ
御名をほめ歌う。

主は勝利を与えて王を大いなる者とし
油注がれた人を、ダビデとその子孫を
とこしえまで
慈しみのうちにおかれる。」(詩編第18篇32-51)

快適な環境で秋を待つ。夏祭りのシーズンには、例年には見えなかった花火を窓から楽しみ、夜になると虫の音が耳に心地よい。わずか数日間の風邪が去った後には、いつものように、ショパンのソナタを最後の楽章まで弾き通すことができるほどに体力が回復した。疲れた足腰も元気を取り戻し、少しの間触れていなかったヴァイオリンの再開も間近である。

筆者にとって、土曜日、日曜日は、信仰によるエネルギー・チャージの時間である。日曜日は何もしないという意味での安息日ではなく、むしろ、神の御心を行う日である。当然ながら、この日には特に念入りに戦いの準備に余念がない。

戦いと言っても、具体的にそれが何を指すのかを詳しく記せないことも多いが、この不法のはびこる地上にあって、キリスト者の人生は絶えざる戦いの連続である。

筆者がこれまでに通り抜けて来た戦いは実に数多く、あざける者たち、嘘つき、悪党、ならず者、不法者、自己愛者、異端者など、終わりの時代に登場する神に敵対する者たちの名称は尽きない。しかし、たとえ彼らが大群となって遅いかかって来たとしても、信者にはかなわない。敵がどれほどの言いがかりをつけようとも、信者はこれに御言葉をもって立ち向かい、勝利をおさめることができる。その勝利とは、信者自身の力ではなく、キリストの血によるものなのである。

私たちは、生きているうちに様々な悪に遭遇する。しかし、悪事を放っておかず、黙ってその犠牲者になることもせず、きちんと敵の罠を見抜いて、その嘘に毅然と立ち向かいさえすれば、勝利をおさめるのはそう難しいことではない。この戦いは、この世の権力や武器を用いるものではなく、無駄な非難の応酬や、終わりなき報復合戦を意味するのでもない。ただ公然と御言葉を掲げ、御言葉に従い、真実に生き、正義を曲げずに主張し続けることによる。

信者が邪悪な日に、一歩も退かずに御言葉に基づいて公然と正義を主張し続けるだけで、悪が恐れおののいて敗退することを知っている人は少ないだろう。信者の中にも、そのような戦いを実際に経験して来た人は少なく、ほとんどの人は、そのようなことをしても無駄だと最初からあきらめている。だが、そうではないことを筆者は何度も試し、自ら経験して来たのである。

こうした戦いの末に、筆者の力はますます磨かれて、冒頭で引用したダビデの詩編のように、熟練した兵士のようになりつつある。

このようなことを筆者が言うと、たちまち気分を害する「信者」たちがいるかも知れない。そのような人たちは、筆者が不遜におごり高ぶって自慢話に興じているだけで、悪魔との戦いなど、しょせんカルト信者の妄想や戯言に過ぎないと言ってあざ笑う。

余談かも知れないが、キリスト者を名乗っている人々の中には、悪魔との戦いというテーマそのものに拒否反応を示す一群もいる。だが、その人たちが、一体、なぜこのテーマを毛嫌いし、拒否反応を示すのか、理由をよくよく調べて行くと、彼らは結局のところ、自分たちを神に属する信仰による義人ではなく、むしろ悪魔の一味のようにみなし、悪魔が攻撃される度に、自分の後ろ暗さが暴かれるように感じて、自分と悪魔を一緒にかばおうと、このテーマ自体を封印しにかかっているのだということが分かって来る。

こういう「信者」たちは、筆者のような信者が本気で御言葉に基づき、悪魔の嘘に対抗するために、悪の軍勢に宣戦布告する言葉を聞くと、一体、どういうわけか、居ても立ってもいられない気持ちになって、悪魔の嘘や悪事が暴かれることを何とかして阻もうと、憎しみを燃やして信者を攻撃にしにかかって来るのである。

彼らは、悪魔に立ち向かうなど、気が触れたカルト信者の言い分だとあざ笑うだけでは足りず、それをまるで「自分たちに対する攻撃」であるかのようにみなして、「自分たちは被害を受けた」などと言って絡んで来ることさえある。

当ブログの古くからの読者は、このような愚かしい事態が実際に幾度も起きてている事実であることをよく知っているであろう。そのような信者とも思えぬ「(自称)信者」の中には、稀にではあるが、本当に自分自身を悪魔と同一視して、悪魔への宣戦布告を、自分自身に対する宣戦布告と受け止める「自称クリスチャン」さえいる始末だ。

一体、どこをどうすれば、聖書の神を信じているはずの「クリスチャン」が、そのような考えに至るのか、ただ首をかしげるばかりである。その信者は教会生活で何を学んだのだろうか。そんなヘンテコかつ異常な信念を「信者」に植えつける教会があるのだとすれば、それは限りなくおかしな団体としか言いようがない。

そのような「信者」たちが、見ず知らずの通りすがりの存在であればまだ良いのだが、最も激しい拒否反応が、筆者を身近で見て知っている「自称信者」から来る場合もないとは言えない。預言者は故郷では敬われないと言うが、筆者の人物を実際に目で見て知っており、筆者の外見の平凡さや弱々しさゆえに、常日頃から筆者を取るに足りない人間と決めつけて、心の中で見下げていたような人々が、筆者が「悪魔に立ち向かう」というテーマを大胆に語っているのを聞くと、「あんな小娘ごときが、何を思い上がって、自分を何様だと己惚れているのだ。一つ思い知らせてやろう」などといわれなき憎しみに駆られて、かつての仲間を売り渡したり、裏切ったり、攻撃する側に回るということも起きるのである。

筆者はそういう対立の背後には、霊的な理由が存在することを疑わない。クリスチャンの信仰生活は、この点でとても厳しいものである。誰かがあなたに近づいて来て、「私はあなたの友ですよ」とか「助力者です」とか「信仰仲間です」と親しげにささやいても、その言葉を、むやみに信じるわけにはいかないのだ。こういう人々を仲間だと誤解すれば、やがてしたたかに裏切られるだけである。

クリスチャン生活では、誰かと相性が良いからとか、年齢が近いからとか、境遇が似ているとか、見た目が好ましいとかいった理由で、他人と徒党を組んで進んで行くことはできない。自分の好みで仲間を選別することができない。他者と信頼が築けるかどうかは、その人が神に対して、御言葉に対して、どのくらい忠実に歩んでいるかによってしか判断できない。どんなに人柄がよく、外見が麗しく、人物像が好みに合致していても、神に従わず、御言葉に忠実でない人間をそばに近づけると、災いが降りかかるだけである。

さて、話を戻せば、そもそも聖書の神を信じると告白している信者でありながら、クリスチャンの信仰生活が絶えざる戦いであることを否定するような者は、聖書が次のように告げている御言葉そのものを無視しているのだ。

「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身につけなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。

だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

立って、真理の帯を腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。・・・」(エフェソ6:10-17)

これまで幾度となく述べて来たように、クリスチャンの戦いは、霊的な論戦であって、目に見える誰かを力によって打倒することが目的ではない。それはディベートのような、主張と主張のぶつかり合いであり、聖書の神に敵対する者たちが、この世の様々な人間や事象を操りながら、信者たちにぶつけてくる、ありとあらゆる支離滅裂で嘘に満ちた言いがかりに対して、信者が確固として御言葉に立脚して応戦し、キリストの贖いゆえの自身の潔白と、敵に対するキリストの勝利、神が敵に定められた地獄の刑罰を主張して、敵の屁理屈を打ち破り、これを粉砕して、退け、その言いがかりを無効化することが、信者の勝利なのである。

この戦いにおいて、御言葉が剣のような武器になることが、はっきりと聖書に示されている。我々信じる者たちは、聖書の御言葉を揺るぎない正しい理屈として握りしめ、この理屈を用いて敵の嘘に満ちた屁理屈を論破するのである。まさに硬い岩盤をドリルで粉砕するように、御言葉を鋭い剣のように貫き通すことによって、分厚い層のように積みあがった敵の嘘を破壊し、木っ端みじんに打ち砕くのである。ダイヤモンドとガラスでは勝負にならないように、御言葉の強度の前に、嘘は敗北して道を譲らないわけにいかない。

以下の御言葉の中では、悪の軍勢との間に繰り広げられるこの激しい論戦の中で、信者は、御言葉を駆使することによって、敵の要塞をも打ち砕くことができることが示されている。

「わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞をも破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(ニコリント10:3-6)

以上の御言葉から分かるのは、敵の使う武器にも色々種類があって、単なる屁理屈や、こじつけ、論理のすり替え、ごまかし、歪曲、捏造、隠蔽などの単純工作から始まって、分厚い壁のように積みあがった嘘、バリケードのように堆積した嘘、ついには要塞のように塗り固められた嘘なども存在するということである。

敵の「要塞」とは、単なる屁理屈の域を超えた、もはや「思想の領域に入った嘘」とでも言うべきものである。嘘の中でもとりわけ洗練されて完成された嘘(嘘に完成というものがあるとすればの話だが)、端的には、偽りの思想そのものであると筆者は考えている。

そのように敵の要塞と呼ぶにふさわしい偽りの思想こそ、太古から存在するグノーシス主義なのであり、それは元を辿れば、最初の人類アダムとエバに、サタンが蛇の姿を取って吹き込もうとした「神の知恵に逆らう高慢な偽りの知恵」そのものである。

聖書の御言葉は、このような悪の要塞と化した偽りの思想を、完全に論破し、破壊することができる。御言葉はその意味で「世界最強の武器」である。我々はこの最強の理屈で理論武装することによって、敵に対峙し、敵の嘘、敵の罠を見抜き、これを退け、粉砕するのである。

クリスチャンたちがこの戦いに熟練して完全な者とされ、(クリスチャンの目に見えない集合体としての)教会が、完全に御言葉に従順な者とされる時に、この恵みの時代が終わり、敵の高慢な思想に従う不従順な者たちがいよいよ本格的に罰せられる最後の時が訪れるのである。

しかしながら、すでに述べたように、このような激しい論戦にとりわけ嫌悪を示す者たちがいる。中には、クリスチャンでありながら、「悪魔に立ち向かう」というテーマの一切をカルト思想と決めつけ、耳を塞ぐ者もいる。そのような人々は、まさに敵の思想に従っていればこそ、このテーマに激しい拒否反応や嫌悪感を示すのである。

東洋思想には、理屈対理屈の勝負によって、物事の是非をはっきりさせることを非常に嫌う性質がある。東洋世界においては、物事の是非を究極まで追求すること自体が、まるで悪なる所業であって、「和」の精神に逆らう、「和」を乱す悪い行為であるかのようにみなされる傾向が強い。

この「和」という正体不明の言葉によく表れているように、東洋世界では、すべての物事を曖昧にしたまま、誰をも罪に定めず、誰にとっても脅威とならないような、人に優しく無難な結論を出すことで、「すべてを丸くおさめる」ことこそ、人間の美徳であって、正しい行ないであるかのように奨励される。

このように、物事の白黒をつけることを嫌い、善と悪をごちゃまぜにして、事の是非を曖昧にしたまま、ただ波風立てずに話をおさめることを至高の解決方法とするような、性善説に基づく「和」の精神が土台にあってこそ、我が国では、今になっても、学校ぐるみでいじめが隠蔽されたり、企業が内部告発者に不当な制裁を加えたり、社会の中で悪事を糾弾して真相を究明しようとする人間が、集団的に排斥されて、かえって濡れ衣を着せられたりする伝統があるのだと言える。

このようなことは、ただ単に悪事を暴かれては困る人間たちが、自己の保身や報復のために行っている行為であるばかりではない。そもそも、東洋思想が、人間の罪や悪というものを認めず、物事の是非をはっきりさせること自体を「波風立てる行為」「和を乱す行為」とみなして、空気に従って物事を丸くおさめることを至上の価値としているがゆえに、このような思想的・文化的土壌で育てられた人間は、無意識のうちにそれに従って、善悪を切り分ける人間を悪者扱いして、闇に葬ろうとする衝動に駆られるのである。

このような東洋思想の「和」の精神の忌まわしさが、究極の形で現れたのが、我が国の軍国主義の時代であった。そこでは偽りの概念である「和」の実現を名目として、社会に隣組が形成され、国民同士が監視し合い、密告し合い、天皇崇拝や戦争へ協力しない国民は「非国民」として排斥され、村八分にされ、投獄され、殺されたのである。

このように、見かけは情緒的で美しい「和」の精神は、その大義名分のもとで、この精神に従わない人間を暴力によって社会から排斥し、殺しさえして来た。このような非道な暴力を駆使して打ち立てられる「和」が、その言葉の通り美しいものであるはずがなく、恐ろしい嘘に過ぎないことは、今日、誰の目にも明白である。

我が国は戦争に負け、東洋思想の嘘は暴かれ、我が国が理想のごとく唱えていた「和」の精神も、幻想として崩れ去った。東洋思想が西洋思想に対して、とりわけキリスト教に対して、何ら優位性も持つものではなく、人類の理想にもなり得ない事実が公然と明らかになったはずであった。それにも関わらず、今になっても、大蛇のごとく、すべての理屈を絡め取って曖昧化しながら丸ごと飲み込んで行く、あるいはすべてを丸呑みして腹の中におさめてしまう巨大な子宮のような、この得体の知れない「和」の精神は、我が国では未だに健在であり、それがゆえに、この国では未だに、物事の真相を暴き、何が悪であり、何が善であるかをはっきりさせようとすること自体がタブー視され、そのようなことに着手する人間は、有形無形の暴力にさらされ、あらぬ罪を着せられ、排斥され続けているのである。

こうした文脈で、上記したように、「神に従い、悪魔に立ち向かう」という聖書の御言葉を持ち出すだけでも、「信者」を名乗る人々が拒否反応を示すことがあり得る。それはクリスチャンを名乗る人々の中にも、東洋思想が浸透していることの何よりの証である。

クリスチャンが聖書に記されている「血肉によるものではない」霊的な戦いがれっきとして存在することや、この戦いの重要性をきちんと理解するためには、まず日本人(を含む東洋人)の目を鱗のように覆っている東洋思想のバイアスを取り払わなければならないと筆者は思う。

東洋世界の価値観は、聖書と真逆であり、聖書では善悪の切り分けは根本的に重要であるが、東洋世界においては、「理屈を駆使して、人の嘘を暴き、悪事を立証しようとする行為」自体が、非常な高慢であり、悪でさえあるかのようにみなされている。また、東洋人には、ことに女性が理屈を振りかざして男性を論破することを非常に嫌う傾向がある。

だが、こうした傾向は、結局、東洋思想の「和」というものが、弱者を強者に従わせ、強者の罪を覆い隠して正当化するための都合の良い目隠しの役割を果たしていることをよく表している。「和」というのは、結局、権力者の罪が暴かれないための、また、弱者たちが搾取や不法に気づいてそこから抜け出さないようにするための都合の良いマインドコントロールの言葉なのである。

東洋思想の「和」の精神は、よくよく見れば、結局、社会の強者だけに都合よく作られていることが分かるであろう。弱い者には黙って強い者に従うことを求め、間違っても、弱者が強者の誤りを指摘したり、これを暴露して、強者に恥をかかせるなどという「不遜な考え」を持つことを許さず、そんなことを試みる者は間違いなく村八分になるとほのめかす、暗黙の脅しに満ちた思想である。

この思想が、一体、何のために、物事の是非をはっきりさせることを嫌うのかと言えば、結局、それは強い者たちによる横暴を見逃し、弱い者が強者の支配から抜け出ることを阻止するためである。つまり、人をいついつまでも奴隷のままにしておくためにこそ、この思想は、人間一人一人が自分自身の力で善悪を判断し、それを明るみに出すことを嫌うのである。

こうして、「和」の精神は、世間に波風立てないことを至高の価値とすることによって、人間一人一人の内側に確固として存在する善悪の判断(良心の声)を眠らせ、ただ時の権力者の言い分に黙って逆らわずに従うように促しながら、強者による悪事を隠し、弱肉強食を正当化する偽りの美徳、偽りの思想である。

筆者はここで弱者救済を唱えているわけでも、フェミニズムを推奨しているわけでもない。ただ、物事の是非や善悪を自ら判断する力は、男女や年齢を問わず、すべての人間に備わっているものであって、それは人の人生の方向性を決めて行くコンパスのようなものであり、自分の良心の声を眠らせて、これを放棄して、他人に判断を委ねてしまうなら、その時点で、人は自分の人生の自立と自由を失って、他人の支配下に置かれるのだと警告しているのである。

何が正しく、何が間違っているのかを、人の言い分に流されずに、自分自身で判断し、自己の生き方を決めて行く力は、人間の自由と尊厳とに密接に関わっている。この力(自主性、自己決定権)を奪われると、人は他人の思うがままに操られ、利用され、欺かれ、人生を犠牲にする結果にしかならないのである。

従って、私たちは、決して「和」などという表面的な美辞麗句に踊らされることなく、はっきりと物事の真相を見て、「和」という偽りのスローガンの向こうにある忌まわしい実態を見なければならない。こんな屁理屈のために、善悪を判断する力を少しでも鈍らせたり、眠らせたりしてはならない。

善悪を切り分け、見抜く力は、人が自由になるために欠かせないものであり、他人の奴隷となって犠牲者とされないためには、この判断力を眠らせて放棄させようとする一切の悪しきマインドコントロールを打ち破らなければならない。

先の記事でも書いた通り、筆者は、「和をもって貴しとなす」という考えは、東洋思想に基づく非聖書的な、悪魔的な思想であると考えている。「和」とは、実際には実在するはずのない、悪魔の嘘なのであるが、もっと踏み込んで言えば、それはバベルの塔にまで遡る人類の偽りの知恵を指すのである。

そもそも「和」という言葉自体が、「バベル(分裂)」の反意語としての意味を持つ。「和」とは、人類の和合を意味し、究極的には、人類の幸福社会のことである。この語は、旧約聖書の時代に、人類が神に逆らって知恵を結集し、バベルの塔を建設することによって、神を凌駕して打ち立てようと企んでいた調和に満ちた幸福社会(ユートピア)に端を発する。

その時に人類を神に敵対して結集させた反逆的な知恵が、その後、(西洋キリスト教の中では異端として駆逐されたがゆえに)、東洋思想の中に潜入し、東洋世界を通じて今日にまで達しているのである。

それだからこそ、筆者は、終末のバビロンとは、キリスト教と東洋思想の合体によって生まれる異端の混合宗教であると、再三に渡り、警告している。聖書の中で、終わりの時代に現れることが記されている大淫婦バビロンとは、バベルの塔が巨大化して完成体に近づいたものであるが、その根底に流れる思想は、東洋思想とキリスト教との「婚姻(姦淫)」によって出来上がった巨大な統一的な異端の宗教なのである。

今日、バビロンの思想はまだ完成にまでは至っていないが、ペンテコステ運動などは、まさにこうした混合宗教のはしりであると言える。ペンテコステ運動の理念は、「西洋的な父性による切り分け」を残酷なものとして否定し、これに「東洋的な母性による受容」のエッセンスを加えることによって、「父性」と「母性」をドッキングさせて、聖書の御言葉による切り分けを曖昧化した、「人に優しい(人に残酷でない)新たなキリスト教」を生むことである。このような思想の中には、まさに東洋思想と西洋的キリスト教の混合物としての偽りの宗教、バビロンにつながる異端思想が表れている。

さて、このように見て行くと、「和」という概念は、クリスチャンにとって、過ぎ去った時代の思想ではなく、それは今日まで連綿と続いている、人類が自らの力で神の聖に至りつき、自らの努力によって天的な調和を地上の人類社会にもたらそうとする、神の知恵に逆らう悪魔的願望を言い表しているのであり、人類による神に対する反逆そのものを象徴する恐ろしい単語であることが分かる。

だが、このようにして人類が自力で「和(調和)」を打ち立て、社会に理想状態をもたらそうとする誤った欲望には、神がすでにバベルの塔の分裂という形で制裁を加えられた。この法則は今日でも少しも変わらず、人類がどんなに自力で「和」を打ち立てようと追求したとしても、結果としてもたらされるのは、「分裂」だけである。人類は、自分自身の力によって平和に生きる術を知らない。このことは、我が国が引き起こした先の戦争がどんなに悲惨な終わり方をしたかを振り返るだけで十分であろう。もし「和」の精神が正しいものであるなら、そのような悲惨な終わりはなかったはずである。

さて、この恐ろしい偽りである「和」の精神に関連して、一つ前の記事で筆者は、我が国がすでに共産主義国であり、我が国で唱えられる経済発展の夢も、ソビエト体制が唱えた共産主義ユートピアと同じく、決して叶わぬ悪魔的な偽りの夢であって、この偽りの夢に仕えるために地上で行われるすべての労働は、ソビエトの強制収容所における囚人労働と同じく、むなしく呪われた所業であって、人に幸福をも実りをもたらさないと書いた。

つまり、我が国で奨励されている労働は、単なる労働ではなく、かつてソビエト政権が目指したのと同じような、歪んで誤ったイデオロギーに基づく、全体主義を完成させるための手段なのである。

そうである以上、目的が誤っているのに、目的達成のための手段だけが正しいということは決してあり得ない。だからこそ、今の我が国では、(まさにソビエトの強制収容所と同じように!)人がどんなに真面目に働いても、決して豊かになる見込みがないどころか、かえってその真面目な労働があだになるような呪われた悪循環が生じているのである。

「一億総活躍」などという言葉は、かつて天皇を中心とする「神の国」を世界的に建設するために行われた国家総動員体制と何ら変わらず、要するに、バベルの塔建設のための人員の徴用なのである。今日ではあからさまに「天皇のために」とは言われないかも知れないが、戦前回帰主義者はこの点でもかつての体制に逆戻ることを夢見ているわけであるし、たとえ天皇を持ち出さなくとも、「人類の社会の幸福と発展のため」という名目で、決して訪れることのない偽りのユートピアのために国民を無駄に使役している実情は変わらないのである。

かつて作家ドストエフスキーは、パリで開かれた万国博覧会を見学して、そこで水晶宮(クリスタル・パレス)を見た。科学の英知を結集し、粋を凝らして造られたこの精緻な建造物を見たとき、キリスト教徒としてのドストエフスキーは直観的に、この建造物に未来のバビロンを予見した。この作家は、科学の発展の結果、人類社会にやがて巨大なバビロンが構築されること、終末の時代に異端のキリスト教が統一的な宗教として人類を悪魔的な知恵によって支配することを予見していたのである。

この作家は、『地下室の手記』の主人公の言葉を借りて、人類の未来社会に現れるバビロンたる水晶宮に、思い切り非難と嘲笑の言葉を浴びせて、訣別宣言を下した。すなわち、人類の英知を結集して、人類の未来に作られるクリスタル・パレス(幸福社会)が、どんなに結構づくめの美しく素晴らしい世界であっても、その幸福社会なるものは、その住人に一切の批判を許さない、恐ろしい全体主義のディストピアになるであろうから、自分は決してその住人になりたくないし、そのような恐ろしい社会を誉めたたえる気もない、というのである。何もかもが数値化されて、規則づくめで成り立つ一分の隙もないクリスタル・パレスに、物陰からあっかんべーをしてこれをあざ笑う自由を失わないために、自分は、未来の幸福社会の一員としてふさわしくない劣った人間の烙印を押されても良いから、惨めな地下室に引きこもって不幸な人生を送る方を選ぶというのである。その方がこんな偽りの牢獄たるディストピアに閉じ込められて生きるよりも、はるかにマシだと豪語するのである。

面白いことに、ドストエフスキーはこの主人公に、こんな広大なアパート(クリスタル・パレス)のために自分は煉瓦一つ運びたくない、と言わせている。水晶宮なのに、煉瓦運びとはなぜなのか?という疑問が生まれよう。この比喩は決して誤りでも偶然でもなく、煉瓦には深い霊的な意義があることを、クリスチャンならばよく知っている。

聖書では、神の力である御言葉は「石」にたとえられる。キリストは「人手によらず切り出された石」(ダニエル書2:34)である。つまり、キリストは人の力が一切加えられない、人工的な要素を全く持たない、純粋に神の力だけによって生まれた、神の御心にかなう聖なる完全な人である。これに対し、「煉瓦」は、人間が自分で粘土をこね上げて、焼いて作り上げるものであり、つまり人間が神の力を模倣して、人手によって(自己の努力によって)人工的に作り上げる産物を象徴する。

人類の涙ぐましいまでの努力の結晶たるバベルの塔の建設に「煉瓦」が必要とされるのは当然である。その意味で、水晶宮の建設に煉瓦運びが必要となるというのは、比喩として正しい。この比喩からも、ドストエフスキーが水晶宮をバビロンを暗示する象徴として描いていたことがはっきりと分かる。つまり、水晶宮は、神の知恵に逆らう悪魔的な思想の化身であり、悪の要塞の権化なのである。

さて、話を戻すと、現在、日本政府が「一億総活躍」の名で推奨し、国民が実質的に強いられている労働とは、まさに「水晶宮のための煉瓦運び」であり、そうである以上、このような文脈での労働は、神に喜ばれる勤労ではなく、むしろ、神の目に呪われた、決して永遠に実を結ぶことのないむなしい所業である、と筆者は断言せざるを得ない。

煉瓦造りも、煉瓦運びも、それ自体は、他愛のない行為に見えるかも知れないが、もしそれが人類の偽りの幸福社会の建設という忌まわしい目的のために行われるのであれば、泥棒の片棒を担ぎ、悪魔の共犯者になるも同然の自殺行為である。

このことに気づいた時、筆者は、これまでどの職業においても、必ずと言っていいほど見られた甚だしい理不尽の意味がすっかり分かってしまった。一体なぜ、ほとんどの企業や団体では、正義が曲げられ、真実が闇に葬られ、善人が罪に定められ、悪人が大きな顔をして悪事を隠蔽して居場所を占めているのか。その風景はまるで、まことの信者が無実にも関わらず「悪魔の手下」のレッテルを貼られて、牧師とその手先となった(極悪)信者らによって教会の外に追い出され、その一方で、聖書の御言葉から最も程遠い極悪な「(自称)信者」だけが、大きな顔をして教会の座席を占めている地上の偽りの宗教団体と何も変わらなかった。

このことに気づいた時、筆者は、国のGDPを上げるために、強欲な経営者の手先となって、地上で労働にいそしみ、就職戦争を勝ち抜いて、富を築き上げて生き残ろうとすることが、神の忌み嫌われる悪であると知り、先の記事で引用したソビエトの強制収容所の物語を読んだときと同じような慄然とした感覚を覚えた。

誤解のないように言っておけば、筆者は勤労の精神を教えられて育った世代の一員であり、働くことを好まない人間ではない。筆者の人生には、受験競争もあれば、就職戦線もあり、より良い暮らしを得るために、人は努力することが必要だと常に教えられて来た世代である。

しかし、その教え込みは、聖書に反し、神の目に完全に誤っているのである。実際に、筆者がいかに勤労の精神に満ち、いかに優秀に働き、どれほどの功績を打ち立てたとしても、この社会では、その勤労は悪用されるばかりで、手柄は筆者のものにならない。圧倒的大多数の国民は、熱心に働いても裕福にはならず、むしろ、働けば働くほど、悪党が栄え、悪魔が喜ぶだけの仕組みが出来上がっている。

この世の経済がバビロン化し、国民の勤労が悪用されて、国民の富とはならず、ただ収奪されるだけになっている明白な証拠として、政府は現在、年金支給開始年齢を75歳(できればそれ以上)に引き上げて、国民が働いても働いても、定年にさえ至りつけず、死ぬまで労働から解放され得ないような、恐ろしい仕組みを作ろうとしている。

国家公務員の給与だけが年々引き上げられる一方で、国民から徴収される社会保険料はますます重くなり、民間企業の給与水準は一向に上がらず、国民は死ぬまで休みなく馬車馬のように働いて、貧しい中から政府に税金をおさめ、死によってしかこの泥沼のような労働から抜け出せない、まるで家畜のような存在とみなされているのだ。

このような中で、「一億総活躍」などという馬鹿馬鹿しいスローガンに踊らされて馬車馬のように働き続けることが、果たして人にとって善だと言えようか? そのような行為が人に何の幸福をもたらすであろうか? 断じて否である。それはただ悪党どもに死ぬまで使役され、搾取され、狡賢い他人の餌食となって、犠牲となるだけの人生である。今日は生き残れても、明日はないであろう。そのことは、クリスチャンでなくとも、ほとんどの人々が異論なく認めるものと筆者は思う。

このような意味での労働は、甚だしく歪んでおり、社会の発展にも個人の幸福にも決して寄与せず、人間をただ不幸に追いやるだけである。

だとすれば、正しい結論は、このような呪われたバビロン経済の仕組みの中で働くことをきっぱりやめて、水晶宮の完成のための煉瓦運びを手伝う作業から身を引くことである。そのようなことからは一刻も早く足を洗い、このような文脈での労働とは全く違った労働によって身を立てることを考えるべきであり、それこそ善であり、幸福への道だという結論となる。

しかし、もう一度、問題提起するなら、呪われた労働と手を切って、正しい労働によって生きるとは、具体的に何を意味するのであろうか。

それはニートになることや、物乞いになることや、親の富にすがって生きることや、生活保護に頼って生きることや、自己破産することを意味しない。はたまた、人々の恐怖心につけ入る何かのいかがわしい詐欺的なセミナーを開いて、参加者から金を徴収したり、いかがわしい新たな宗教の開祖となって、信者の献金に頼って生きたり、学生を食い物とする学校法人ビジネス、あるいは社会でつまづいた人々を食い物にする弱者救済ビジネスに手を染めることによって、講習料や、授業料や、寄付金や、献金や、支援金などの名目で、心弱い人々から金をむしり取って、他人に寄生して生きることを意味しない。

筆者に言わせれば、以上のような方法での集金活動は全て「煉瓦運び」の域を出ないものである。これに対し、真に望ましい形での正しい「労働」とは、御言葉に従い、真実に生き、あくまで正しいことを主張し、その行動の対価として相応の報酬を得ながら、自立を失わず、他人の支配を受けず(人の奴隷とならず)自由を保って生きることを意味する。その最善の形は、この世の労働によらずに「天の糧」によって生きることである、と筆者は疑わない。

数年前から筆者は、呪われたバビロン建設作業から抜け出て「天の糧」によって生きる方法を模索し、その実現のためにこそ、数々の戦いを戦い抜いて生きて来た。

筆者はこれまで様々な職業を経験したが、筆者がどんな職業に就いても、分かったことは、神は筆者がただ金儲けのために己を奴隷として差し出し、悪事に目をつむり、正義を曲げて生きることを決して望んでおられないということであった。

神が望んでおられるのは、神を信じて自由にされたはずの信者が、まるで働き蟻か馬車馬のように、再び強欲な他人の奴隷となって、自分をないがしろにし、犠牲にしながら生きることではなく、神に信頼しつつ、より自由に、より安息して、自分の望みに従って生きることなのである。

そのように自由で解放的な生き方ができるようにと、神は信者のために、いつでも天に宝を備えて下さっている。だが、この天的な富を地上に引き下ろすには、条件がある。「神の国と神の義をまず第一に求めなさい」という優先順位を守るときに、初めてそれが可能になるのである。

強欲な雇用者のどんな金儲け願望も、あるいは国家が打ち出す「一億総活躍」のスローガンも、生活の不安も、地震も、災害も、戦争も、どんなものも、決してその優先順位を変えることはできない。神の国と神の義を第一として生きることは、人が己を養うために行うどんなもがきよりも、はるかに優先されるべき課題なのである。

「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたなの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:31-34)


この御言葉を根拠に、ある時点を境に筆者は明日の不安を投げ捨て、ただ命をつなぐために今日を馬車馬のように働くむなしい人生と完全に手を切って、空の鳥のように、自分自身を完全に天に委ね切った。だが、それは信仰の戦いを抜きにして成り立つ人生ではなく、自分自身の力によらず、ただ全身全霊で神の御言葉だけに頼って生きる生活を意味した。

地上の労働についても、筆者はこれまで一度たりとも、縁故に頼って就職を試みたことはない。すべては地上的には何の保証もないところから、筆者がただ信仰だけを頼りに切り開いて来た道であった。また、筆者は大学時代にも、指導教官のコネを頼って就職を目指したことはなく、教官の力を使って返済不要の助成金を得たこともなかった(そのような提案がなかったわけではないが、筆者はこれを受けなかった)。また就職先の団体の力で奨学金を返済不要にするなどの特別な利得も受けていない。

このブログについても、昨今、多くのブロガーが有料メルマガなどを発行して日々の糧を稼いでいる中、有料化するという案を筆者が一度も考えなかったわけではない。特に、どんな記事を書いても、返って来るのが、ただ読者の悪罵と、憎しみと、脅しだけであったような時期には、ブログを続けて何の益があろうかという思いが心に去来しなかったわけではなかった。

それにも関わらず、筆者は信仰告白を無意味なものとは思わず、決してやめなかったし、記事の有料化もしなかった。どんなに敵対的な反応が返って来ても、採算が取れないと考えて、信仰告白を売り物にするようなことはしなかった。それは超えてはならない一線であるという認識が筆者にはあったからである。もしそのようなことをすれば、キリスト教を売り物にして、信者から献金を巻き上げて生きる牧師たちと一体、何の違いがあろうか。どうして彼らを非難することができよう。信仰告白を金もうけの手段に変えるなら、このブログは単なるビジネスに堕し、筆者の告白は純粋さを失い、筆者はまことの命なる方を見失って、ブログも早々に立ち行かなくなるだけであろう。

実際に、記事を有料にしたからと言って、採算が取れる保証は全くない。世の中全体が窮乏化している状況で、有料記事を発行しているブロガーが、この先、どれほど長くそのやり方を保てるかは疑問である。

このようなわけで、筆者はこのブログの信仰告白のために、一銭のカネも受け取らず、(詐欺師による心にもない嘘を除き)一言の賞賛の言葉も受けなかったが、それを実に結構と考えている。また、筆者が地上の生活を生きるに当たって、どんな有力者のコネも、推薦の言葉も不要であり、ましてや強欲な雇用主に媚びるために、悪魔に魂を売ってまで、搾取や不法に加担しながら、職場での地位の安泰をはかることは必要ないと考えている。

そのように信念を曲げないやり方で、このブログが存続し(まして告訴の脅しさえも受けながら!)、筆者の人生が成り立つのかどうかは、信仰による賭けであった。しかし、筆者には勝算があった。筆者は、利得のために、また地上で己が命を保つために、悪魔に魂を売って、正義と真実を売り払い、信仰の道を曲げる生き方を良しとしなかった。

この世の人々から見れば、こうしたことは、実にまずい、不器用かつお人好しな人生、割に合わない、不採算な、もっと言えば、可哀想な人生にさえ見えるに違いない。どんなに真実だの正義だの言ってみたところで、たった一人での抵抗など、どうせ長くは続かず、どこかで悪党にしたたかにやられて、悲劇となって幕を閉じるだけだろうと思われていたことであろう。

ところが、悪党には非常に残念なことに、決してそうはならなかった。ブログも健在であり、筆者も健在である。むろん、そうなるために、戦いが水面下であったことは否めないが、その戦いを信仰によって最後まで忍び通し、勝ち抜くことにより、こうした結果が生まれているのである。

筆者は外見的には未だ頼りなく弱々しく見え、「かろうじて生きている」だけに見えるかも知れないが、筆者の内側には、死を打ち破ったキリストの復活の命が、生きて力強く働いている。それゆえ、筆者はどんなに追い詰められているように見える時にも、決して「かろうじて生きている」だけには終わらず、圧倒的な勝利を掴む秘訣を知っているのである。

だから、世の中がどんなに不況に転じても、筆者が絶体絶命に追い込まれることはなく、明らかに、年々、生活水準が向上し、ますます望みに従った自由な生き方が可能になりつつある。それは一足飛びの解放というわけには行かないが、一段ずつ階段を昇って行くように、解放を勝ち取るのである。そして、このように自由になるための戦いの中で、ますます勇気と力が与えられ、戦略が磨かれて、熟練した兵士のようになって行くのである。

戦いが始まったばかりの頃は、筆者はまだどこにでもいるありふれた控えめで頼りない小娘のような一人に過ぎず、御言葉だけに頼ることに不安を覚え、助力者となってくれそうな誰かを探し求めたこともあったかも知れない。しかし、今はもうキリスト以外に誰にも教えを乞う必要のない、他人の助けを必要としない熟練した兵士へと近づき、敵が近づいてくるのを見るや一目散に戦場から逃げ去る臆病な一兵卒などでは決してないのである。

さて、筆者がこれまで各種の戦いに勝ち抜くために、最も重要な教訓として学んだのは、神の御言葉に信頼して自分の全存在を委ね切って生きるには、決して「人の助言に頼らないこと」、「世間の顔色を伺わないこと」が重要という秘訣であった。この「世間」の中には、当然ながら、クリスチャンの世間も含まれる。

聖書の原則は、「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。」(ローマ3:4)というものであり、この原則を守り抜くことができなければ、信者は敗北する。どんなに立派で、どんなに頼りがいがあるように見える人間も、実態はことごとく「偽り者」でしかなく、キリスト以外に頼るべきお方はいないのである。

従って、「和を乱さない」などのうわべだけの綺麗事のために、権威者を名乗る人々や、「世間」の思惑に流されて生きるようになれば、信者が神に従い、真実に正しく生きることはもはや不可能である。

筆者が知っている限り、信仰の破船に遭ったクリスチャンの8~9割が、世間での自分の評判を愛し、惜しんだために、神に従うのではなく、人に従う人生を選び、信仰の道から逸れて行った。彼らがかえりみた世間とは、不信者の世間ではなく、クリスチャンの世間であった。それを見つつも、筆者には、はっきりと言えるのだが、もしも信者が、ほんのわずかでも、世間での自分の評判を惜しみ、世間から後ろ指さされたくないとか、軽蔑や嘲笑や非難を受けたくないとか、つまはじきにされたくないという恐れから、世間の思惑や動向を気にし、少しでも人々に良く見られようと、自分の見てくれに気を使い、人々の意見や評価や流行に自分を合わせようとし始めると、そのとたんに、その信者はもう自由を失って、人の思惑の奴隷へと転落し、神の御心を全うすることができなくなるのである。

そのようにして、信者が自分の人生の主導権を「世間」などという正体不明の存在に乗っ取られれば、その船は、正しく舵を取る者がいなくなり、転覆は間近である。牧師や教師や信仰の先人を名乗る人々の顔色を伺うことも、これと全く同じ効果をもたらす。それは人生の主導権を他人に乗っ取られることを意味する。

そこで、クリスチャン生活における戦いの中で、とりわけ常に重要なポイントは、たとえこの地上の目に見える世界において、誰からも理解されず、誰からの支援も賞賛も後押しもなくても、たった一人でも、聖書の御言葉の正しさを心から確信し、御言葉に立脚して、どんなに御言葉に矛盾する現実があるように見えても、その約束から一歩も逸れず、信仰の確信に最後まで立ち仰せられるかという点にある。このような孤独な道を一度も通らずに、一度も試されることなしに、信仰の戦いを立派に戦い抜いて勝利をおさめることのできるクリスチャンは一人もいないと、筆者は心から確信している。

もしも信者が、いつも数多くの理解者や支援者に取り囲まれて、ひっきりなしに人からの慰めや励ましや賞賛の言葉を受けていたら、たとえ試練の日にその信者が何かの重大な信仰告白を成し遂げたとしても、一体、どこまでが本人の確信で、どこからが他人の影響力や受け売りによる「補強」なのか、誰にも分からないであろう。

そこで、神はこのような「取り巻き」による影響力をすべて剥ぎ取られ、信者を他の人々から切り離して、孤独な場所に置かれる。そして、誰もいないところで、信者の心を個人的に極みまで探り、試される。また、信者が神に従うことが、決して信者本人にとって何の栄誉ともならず、何の快楽ももたらさず、むしろ、信者にとって不利であって、苦しみが伴い、損と映るような状況をあえて用意される。このような過程を通して、信者が自分自身の利益のためではなく、御言葉の正しさへの確信、神の栄光のために、神に従うという境地まで導かれることなくして、信者の信仰告白は決して本物にならず、御言葉が信者の内側に生きて造り込まれることもないのである。

このような苦しみの伴う不快な過程をすべて耐え抜いて、それでも信者が御言葉へ従順であり続けることができるのは、ただひとえに地上における軽い苦難の先に待っている重い天の永遠の栄光を見据えているためである。

ヘブル書第12章2節は、口語訳では、「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」となっており、共同訳ではこの箇所は、「このイエスは、ご自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」とある。かなり文脈が異なっており、筆者はおそらく共同訳の方が原文に近いのではないかと思うが、口語訳も誤りではないと言えると思う。なぜなら、主イエスは、十字架の苦難の向こうに、はかりしれない栄光が待っていることを実際に知っておられたのであり、それと同じ文脈を以下の御言葉にも見て取れるからである。

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。」(ヘブル11:13-14)

信者は、信仰の戦いを戦い抜くことによって初めて御言葉の確かさを実際に知り、御言葉と深く一体化して、その約束の中を実際に生きることができる。全世界の誰一人、信者の確信を理解せず、目に見えるすべてが絶望的で、頼りなく、聖書の約束を否定するように見える状況の中でも、信者が「目に見えない方を見ているようにして、耐え忍」び(ヘブル11:27)、御言葉に従って、神のみを信頼して、揺るがされることなく平安の中を生きるならば、幾度も述べたように、たとえ生きているうちに天の都に到達することはないとしても、天に溢れるばかりに備えられている重い栄光の一端を、地上に生きているうちに垣間見ることができる。

地上での苦難は、信者を訓練するために神が許されて与えられるものであるが、その小さな訓練をも耐え抜けば、相当の褒賞が待っている。多くの場合、その褒賞は、ただ目に見えない約束であるだけでなく、その一端が、信者の地上生活に、(呪われた水晶宮への煉瓦運びの労働とは比べものにもならない)豊かな富や自由となってもたらされるのである。天の糧を得るとは、天の父なる神の御心を行って生きることである。その道を行くとき、信者の生存に必要なすべてを、神自らが備えられる。

「わたしの民がわたしに聞き従い、
 イスラエルがわたしの道に歩む者であったなら
 わたしはたちどころに彼らの敵を屈服させ
 彼らを苦しめる者の上に手を返すであろうに。

 主を憎む者が主に屈服し
 この運命が永劫に続くように。
 主は民を最良の小麦で養ってくださる。

 「わたしは岩から蜜を滴らせて
 あなたがたを飽かせるだろう。」(詩編81:14-17)

2017年8月 6日 (日)

十字架の死と復活の原則ー地上の実りなき死んだ労働を離れて、天に永遠の収穫をもたらす労働に生きるー

さて、梅雨に逆戻りしたかのように雨がちな一週間が過ぎたが、その間、エアコンを通常通りに回していると、風邪を引きかけた。しかもそれは単なる風邪でなく、悪寒と共に身体中の関節が痛み出すという厄介な風邪であった。筆者には長年眠っている腰痛があるのだが、もしこれが再発したら二週間は起きられなくなっていただろう。

だが、そんなことは決して起きないという確信があった。幸い数日の養生ですっかり元通りになった。健康の秘訣はよく食べること、よく眠ること。それから、どんな時も神の御守りと御助けを確信し、目標をまっすぐに見つめて、そこから目をそらさないこと。何よりも無駄に心を悩ませないことである。この記事を書き終えた頃には、全ての症状が消し飛び、引きかけた風邪は嘘のようにおさまっていた。

さて、これまでの人生経験から、筆者には、ヨブに与えられた試練のように、悪魔は信者の大胆な信仰告白を聞いた後には、必ず信者の信仰を試しにやって来るものと分かっている。

たとえば、もしあなたがある日、長年苦しめられた大きな圧迫やしがらみから、聖書の御言葉の約束に基づき、神の力によって、信仰によって、大胆に脱出を宣言し、また奇跡的な脱出を遂げたとしよう。あるいは貧しさから、搾取から、束縛からの脱出であり、あるいは悪習慣から、他人の支配から、不幸から、あるいは病から、他の何でもいいが、明らかに悪だと分かっているものと手を切って、そこから解放されたのだとしよう。すると、あなたが解放を喜んでいるのも束の間、悪魔は必ず、あなたに忍び寄り、あなたに去って来た環境をもう一度振り向かせ、もう一度、束縛の中に連れ戻そうと、あなたの心を揺さぶって来る。あなたに起きた解放がまるで嘘のように感じられるような環境の激変を引き起こしたり、その異変に、親しい人たちの裏切りなどといった非常に心痛める事件を加えたりなどして、あらゆる不快事を引き起こしながら、一体、あの解放は何だったのだろうかとあなたに思わせようとする。それによって、あなたがいったん握ったはずの自由の確信が揺るがされ、あなたが受けたはずの神の助けを疑い、あなたが自分は信仰によって御言葉に基づいて解放されたのではなく、たた自分勝手にとんでもない冒険を遂行しているだけで、そこに真理は存在しないのだという疑いを生じさせるのが悪魔の狙いなのである。

こうした体験を筆者は数え切れないほど通過してきたので、今となっては、何か一つの解放が起きる度に、悪魔は再び以前の圧迫をよみがえらせようとするのだと、それを当たり前の通過儀礼のようにしか思わず、ほとんど動かされることもない。栄光から栄光へ、キリストの似姿とされるために、名実共に心身の全てにおいて自由とされるために、信仰によって目的を目指して歩み続ける秘訣はここにある。つまり、どれほどの圧迫や異変が周りで起きようと、内側で一度掴んだ確信を確固として手放さず、ただ前だけを向いて、真っ直ぐに進んで行くことである。

例を挙げれば、筆者が過去に牧師崇拝という罪に堕した偽りのキリスト教と手を切った後、この束縛に満ちた似非宗教にもう一度筆者を引き戻そうと、どんなにひどい圧迫が起きてきたかは周知の通りである。それは筆者がどうしても去らなければならない、筆者の居てはならない、神の御怒りのとどまる忌むべき場所であったが、そこからエクソダスするに当たっては、苦しみが伴い、信仰による代償が必要だった。この代価を全て払い切って、勇気と確信を持って前に進んで行かなければ、まことの神とは誰か、本当の信仰とは何かを筆者が生きて知ることはできなかったのである。

こうした体験を通して、筆者は、いったん、クリスチャンが神の忌み嫌われるものと手を切り、そこからエクソダスを果たし、自由になろうとしたならば、必ず、次の瞬間、悪魔はあなたの信仰が本物かどうかを試すために、あなたの心に揺さぶりをかける事象を引き起こしてくることを知った。悪魔のなすことはどれもこれもえげつなく、とんでもない事件を引き起こしてはあなたを驚かし、苦しめようとして来ることも稀ではない。

だが、驚くなかれ! そこにも神の御手が働いており、そうした患難の中にこそ十字架の死と復活の法則が大いに働く余地があるのだ! あなたはエクソダスを決意した瞬間に、すでに復活の予表を見た。あなたの目の先には、自由と解放が見えており、あなたの心はもうそれを掴んでいる。今度は、心の中ですでに見えているこの復活の確信を、死の影の谷を通り抜けて、その先に自らの手で掴み取り、揺るぎない現実としなければならない。信仰によって戦って解放を得て、確信を現実に勝ち取らねばならないのだ。

そのために、あなたは、自分の心の確信が試されていることと、すでに勝利が約束されていることを知り、周りで何が起きようと、そこに注意を払わず、心をぐらつかされないようにすべきである。あなたの確信を奪い取るために用意された外側の圧迫がどんなに激しくとも、それを打ち破る復活の命があなたの中にすでにあることを信じ、神が必ず最後まであなたを解放へと導いて下さることを信じ、この確信を固く握り締め、守らなければならない。つまり、一度信仰によって掴んだ確信を決して手放さず、決して後ろを振り向かず、以前の圧迫に戻るしかないと考えて心を翻すことなく、一心に前だけを向いて、追い迫る地獄の全軍を全力で振り切り、撃退しつつ、ゴールへ向かってひた走らねばならない。思い切りアクセルを踏み込み、とにかく全力で前進するのである。

これに成功した時、初めて、あなたは、あなたを再び奴隷にしようと追い迫るエジプトの軍勢が溺れ死に、あなたの内側て確信として与えられた復活の命の確証が揺るぎないものとなって、あなたを取り巻く環境に及んで実際となるのを見るであろう。つまり、環境をコントロールするキリストの命の支配力が、あなた自身から外に流れ出て、現実に力強く及んで行くのを知るのである。もはや圧迫があなたをコントロールすることはなく、環境の主導権はあなたにある。その時、あなたは大胆に命じることができる、嵐よ、静まれと。

キリストの復活の命には、この世の気象条件、経済条件、物流など、この世の諸条件を治める力がある。しばしば神を知らない人の心さえ動かす力がある。なぜなら、この神の命は、統治する命であり、この世の全ての事象を超越する支配力を持つからである。しかし、このように絶大な威力を持つキリストの命の権威と力を行使する秘訣を信者が知るためには、まず信者の信仰が試されなければならない。信者自身が十字架の死と復活の法則を体験しながら、しばしば極限まで試され、苦難を通して、主の死を自分自身の死として負うことなくして、この超自然的な神の命の働きを、生きて実際に知ることはできないのである。

信仰が試されることには苦難がつきものであり、それゆえ、信者の信仰の生長は苦しみを経ることなくしては得られない。時にその戦いは想像をはるかに超えたスケールの圧迫を伴う。しかし、信仰の観点から見れば、それは軽い艱難に過ぎず、注意に値するものでもない。その苦しみに勝利することによって得られる天の栄光に満ちた収穫の大きさは、束の間の試練がもたらす痛みとは比べることもできないものである。

ヨブのたとえを引き合いに出したように、その戦いに勝利した暁には、信者は以前の二倍の恵みを手にするかも知れない。苦難を乗り越えて忍耐によって試された信仰は、試される前よりももっと大きな祝福を引き出す秘訣を学んでいることだろう。

さて、これから先、筆者が述べることは、多くの人には全く理解できないか、理解したくもない内容に感じられるであろうが、これは本当のことである。筆者はここ数年、人間の地上での労働は、罪の報酬として与えられた、ただ不毛なものであるばかりか、ことごとく共産主義につながるのだという事実に気づき始めた。

日本人の多くは、幼い頃から学校教育などで勤労の精神を叩き込まれているので、経済活動に従事することを全て良いことだと思って疑わず、低賃金で実り少ない労働に従事させられてもそれに疑問も持たないかも知れない。だが、働いても働いても豊かにならないような労働は悪でしかなく、全く推奨されるべき行いではなく、正しい勤労の概念にも該当しない。それは歪んだ搾取、不法以外の何物でもなく、その中にとどまっていても、誰も幸福にはならず、ましてキリスト者は悪魔のもたらす呪いと圧迫と束縛以外の何物も受けることはできない。従って、信者はそのような歪んだむなしい労働からは、エクソダスしなければならないのである。カルト宗教の中にいても幸福になれないのと同じように、不法と搾取の中にとどまっていながら、神の望んでおられる自由な生き方を遂げることは無理なのである。

しかし、ここで疑問が生まれよう。地上の労働で搾取と無縁のものが果たしてあるのか、一体、神の御心にかなう正しい労働とは何なのか、それはどうやって信者に遂行可能なのか、という疑問だ。

この疑問にはおいおい答えて行くとして、まず、地上の労働の何がおかしいのかを見てみよう。すでに述べたように、聖書によれば、人の地上における労働全般は、アダムが犯した罪の報いとして人類に科せられた呪われた刑罰のようなものである。人類の罪のゆえに、人が地を耕しても、耕しても、地は実を結ばなくなり、その労苦の果てに、人は自分の築き上げた全財産を他人に譲って、塵に帰るしかなくなったのである。

こんな不毛な労働は呪われているとしか言いようがないが、その次には、人間は、この労働から解放されるための安息の日にさえも、どうやって安息を守るかについて果てしない議論を起こし、安息さえも苦役に変えてしまった。だが、今そのことは脇に置いておこう。このような呪われた不毛な労働は、一切が無意味であり、この堂々巡りの路線でどんなに努力しても、何も生まれない。それは「肉から生まれるものは肉である」ことを象徴しており、人間の生まれもった生存本能から出た努力によっては、それがどんなに必死の努力であっても、永遠に至るものは何も生まれないということの証拠だ。だが、絶望するのはまだ早い。なぜなら、これに代わって、天において永遠の収穫をもたらす労働というものが別に存在するからだ。その内容について後ほど述べることにしたい。

さて、地上における一般的な労働の呪われて無駄であることを示すために、別な表現をすると、すでに述べたように、筆者の考えでは、地上の経済を発展させる名目で行われる人間の労働というものは、国が資本主義の形態を取っていようと、社会主義であろうと、うわべの政治体制に関わらず、およそ全てが本質的に共産主義に通じるのである。

ある人々はこういう話の展開に着いて行けず、「ヴィオロンは気が狂っているに違いない」とあざ笑うかも知れないが、その前にまずは腰を据えてよく考えてもらいたいものである。

共産主義とは、要するに、人類社会の幸福と発展のために、全ての人々が平等に労働の責任を負う(みんなで働けば共産主義ユートピアが到来する)という発想であるが、実際には、もちろん、そんなユートピアは決して到来せず、これは嘘の約束であるばかりか、悪党どもは、決して最初から真面目に働く気などさらさらなく、ただ労働の重荷を騙されやすい善良な人々に押しつけ、自分たちは彼らを搾取することによって新たな貴族階級になるために、方便としてこうした思想を利用しているに過ぎない。

そもそも労働の成果が私有財産という形で個人に還元されない仕組みの中では、誰も労働しようとの意欲を持たないであろう。働けば働くほど怠け者を助けるだけのシステムの中で、誰が真面目に働きたいと願うだろうか。

従って、共産主義とは、平等の概念の下、誠実な者たちの真面目な労働を、強欲な怠け者たちの利益のために掠め取り、悪党が善人を収奪し、虐げることを正当化するための経済体系のことであると言える。「みんなで国を豊かにするために、みんなで同じ夢を目指して、平等に働こう」などと表向きにどんなに謳っても、そんな平等は決して実現しない。そのスローガンに踊らされるのは馬鹿だけである。悪党どもは決して自分の手を汚し、汗水流して真面目に働こうとはせず、かえってそのスローガンを利用して、真面目な人間を、己を富ませるための歯車としてこき使うのである。

しかしながら、こうした話は社会主義国だけのことでなく、我が国の現状も似たり寄ったりである。上を見れば世襲議員がとんでもない高額な報酬をもらって遊び暮らし、連日目も当てられない退廃的な活動に耽っているかと思えば、下は貧しい者はますます貧しくなり、死者からも国家が税金をむしり取ろうとする有様だ。ブラック企業は労働者の健康と生き血を絶え間なく吸って富んでいる。まさに善人の労働が悪人たちの利益のために搾取され、働く者たちの誠実な苦労の実が、働かない者たちを富ませる手段になっているのだ。このような転倒したバビロン経済をさらに推し進めようと、アベノミクスなどが性懲りもなく打ち出され、一億総出で経済活動に邁進すれば、バブル期の夢よ再びで、ユートピアが到来するかのような偽りの夢が恥知らずにも未だ公然と語られている。(いつになったら、それが嘘の約束でしかないことに国民全体が気づくのであろうか。)

その上、このように善人を踏み台にして悪人を生き永らえさせるための転倒した経済を今ばかりか永遠に支えるために、もっとバビロン経済の盲信的で忠実な奴隷になってくれそうな無知で愚かな次世代の人材を全社会をあげて育てようというのである。そのためには人文科学などは邪魔にしかならないので、大学には不要なのだそうである。余計な知性は要らないから、自分の頭で考えることなどやめて、政府や企業や組織の言い分を大人しく聞いて、彼らの利益のために、疑うことなく黙って命令に従ってくれる従順で愚かな働き者のロボットかモルモットのような人間をだけを優秀な人材として生産しようというのである。

こうした傾向が行き着くところまで行きつけば、いずれ我が国も、家畜的労働を推進するだけでは飽き足らなくなって、ソビエト政府のように、共謀罪を利用して、反政府的な思想の持ち主はみな強制収容所にぶち込んで「労働による再教育」を受けさせるなどというとんでもない発想に至りかねない。

陰謀論や国際金融資本などといったものを持ち出すまでもなく、聖書によれば、この世は悪しき者の支配下にある。従って、この世の経済も、悪しき者の配下にあって、悪しき者(だけ)の利益になるよう作られているのは当然である。

そのため、キリスト者が真に神の御心を満足させる正しい労働に従事して生きようと願うなら、まず第一に、どうしてもこのように歪んでバビロン化した悪や不法の温床になるだけの経済の仕組みの外に出ることが必要になる。それは信者がこの世の経済そのものから完全に身を切り離して隠遁生活を送ることを意味せず、信者がこの世に身を置きながらも、この世の経済の支配体系の奴隷とならず、その限られた貴重な例外となって、この世とは別の、この世を超越した異なる正しい支配体系をそこにもたらすことを意味する。そのために、クリスチャンはまず、この世がいわゆる「常識」として定めている考え方に盲信的に従って、自分の良心を眠らせながら、「人類の幸福社会の実現」を口実とするこの世のバビロン経済の発展(バベルの塔建設)に仕える盲目的な歯車になって生きることをやめなければならない。

この地上のほとんどの人々は、たとえ信仰があっても、ことごとく盲信的にバビロン体系の奴隷となって生きている。だが、聖書のまことの神に仕えて生きることと、マモンの神(悪魔)に仕えることは両立しないのである。 「不信者と釣り合わないくびきを一緒につけてはいけません」という聖書の御言葉は、神に贖われて自由とされたはずの信者たちが、悪魔の推奨するバビロンの偽りの調和や偽りの福祉のために、不信者と同じように奴隷的労働に従事させられて、割の合わない人生を送ってはいけません、という警告でもある。

「空中の権を持つ者」とは悪魔のことであり、悪魔は、いわば空気を支配する王である。どんなことでもそうだが、もし人が自分の頭を使って自ら主体的に考えることをやめて、ただぼんやりと「良さそうなもの」に見境なく飛びつき、「世間がみなそうしているから」とか、「周りがみんなこれが正しいと言うから」とか、「習慣だから」、「波風立てたくないから」、「仲間外れにされなくないから」、「ひとかどの人間として認められたいから」などといった諸々の動機で、村八分にされるのを恐れ、「空気」に流されて行動するようになると、その人はすでに思考停止状態に陥り、生きた人間というよりは、バビロン建設のための単なる歯車、ロボットに成り果てているのである。そのように有無を言わせず大勢を同じ方向に追いやり、同じ価値観の奴隷としようとする「空気」こそまず第一に疑ってかからねばならない曲者である。

悪魔は、悪事を働くに当たって、決して悪しき動機を公然と語ったりしない。むしろ、悪魔が悪事を働くに当たり、最も好んで使うのが、「人類社会の幸福や平和や発展のため」という美しい大義名分である。「和をもって貴しとなす」という大義名分は、昔から悪魔の大好きな常套句で、彼らはこれを印籠のように振りかざしては、不都合な人間を異分子として排除し、黙らせ、人々を思考停止させて従順な奴隷に変えるために用いて来た。すなわち、「和」にそぐわない人間は「協調性がない」、「愛国心がない」などの名目で罪に定め、実力行使で強制排除して行けば良い。そのことによって、表向きは「和」が保たれているかのように見せかけ、偽りの安心感を人々に与え、良心を眠らせるのだ。しかし、その「和」とは、一体、具体的に何を指すのかと問えば、シャボン玉のように実体のない、ぼんやりしてフワフワした宙ぶらりんの抽象概念でしかない。しかも、この美しい大義名分の向こう側に隠されているのは恐ろしい全体主義であり、そこでは、全体の利益のために個人が持てるすべてを供出せよと迫られ、犠牲にされ、裸にされ、殺されている。異分子を排除するとの名目で、圧倒的多数の人々が罪に定められて排除されている。それは結局、ありもしない「和」という綺麗事の陰で、人間を奴隷化して使役し、権力者にとって不都合な人間を排除するだけの残酷なシステムであり、そんな残酷な「和」に最終的に適合しうる人間は誰もいない。それは恐怖政治であり、どんなに人がそれに熱心に仕えても、そのシステムは個人の必死の努力に決して正当に報いず、約束した平和をもたらさない。あるのは絶えざる流血、絶えざる排除、絶えざる罪定め、いわれなき村八分だけで、「和」から締め出され、村八分にされたくないと恐れて、それに仕えれば仕えるほど、人はますます恐怖にがんじがらめにされ、苦役から逃れられなくなって行く。それは自分のために果てしない奉仕を人間に要求する高慢で冷たくて恐ろしく非人間的な「和」である。

そのような価値観に支配される世界では、表向きの美名とは裏腹に、無秩序が横行し、全ての価値観が裏返しとなる。正しい人が罪に定められ、悪人が大手を振って無罪放免される。たとえ人が無実の罪で強制収容所に連れて行かれ、「再教育」を受けさせられたとしても、そこでは罪の償いさえままならず、刑期は減るどころかますます追加されて伸びて行くだけである。何もかもが転倒している。だが、我が国はもうほとんどそこへ近づいており、その混沌とした世界まであともう一歩である。極めて危うい崖っぷちに立っていると言えよう。

結論から言えば、これが堕落したバビロン経済の転倒した価値観であり、バビロンの本質は全て共産主義なのである。そこでは最も誠実でお人好しの働き者が誰よりも虐げられ、あざ笑われ、最も卑劣な怠け者が左団扇で暮らしている。悪人を生き永らえさせるために善人が罪を着せられ、虐げられている。繰り返すが、神に贖われた信者は、この転倒した価値観から逃げ出さなければならない。その奴隷となって、バビロンを富ませるための労働力となってはいけないのである。

さて、共産主義の思想に仕えて生きることがどんなに無益な生き方であるかを念押しするために、蛇足かも知れないが、ソビエト時代の強制収容所に関する物語の中で、あるストーリーのあらすじを引用しておこう。うろ覚えなので正確でない可能性があるが、これはソビエトの強制労働収容所の日常の風景の一コマを題材とする創作物語である。

普段は飢えと過重な労働のために死の淵で金鉱採掘労働に従事させられていた囚人たちが三人ほど収容所当局に呼び出され、数日間の森林伐採を命じられた。普段の金鉱労働では、囚人たちは仕事のノルマの達成量に応じてしか食料の配給をもらえない(ノルマは並の人間ではおよそ達成できないような途方もない数字である)ため、ノルマ未達の囚人たちは、少ない配給しかもらえず、飢えて死ぬか、骨と皮だけになってかろうじて生き延びるしかない。しかし、森林伐採のために呼び出された囚人たちには、予め手弁当が配給された。囚人たちにとって、これは絶大な意味を持つ出来事であった。なぜなら、食料が配給されたことは、この数日間は全く労働せずとも生き延びられる保証を意味するからだ。囚人たちの腹は決まっていた。

囚人たちにとって、森林伐採は死の鉱山労働から逃れるための休暇であった。ここは仕事するふりだけして、みんなでこの休暇から最大限の自由と休息を引き出そう。どうせ真面目に働いてもノルマなど達成できず、待っているのは罰だけなのだ。明日のことなど明日考えればいい。

ところが、囚人たちの中に一人だけ真面目な共産主義者がいて、彼だけは、今までの過酷な収容所生活にも関わらず、なおソビエト政権と共産主義イデオロギーの正しさを心から確信してやまなかった。彼は収容所当局が定めるノルマが、始めから非人間的な、達成不可能なものなどとは信じようとせず、サボタージュなどせず真面目に働くべきだと言って、労働の意義をみんなに力説するのだった。

他の囚人たちはこれを聞いて呆れつつも、それでもこの「同志」があまりにも純粋で熱意に溢れており、憎めない人間なので、その説得にほだされて、また、彼に真実を思い知らせてやろうという気持ちから、仕方なくノルマ達成のために一緒に働いてみることにする。その労働の結果を見れば、さしもの「同志」も当局の課したノルマがどんなに最初からメチャクチャであったかが分かって、ソビエト政権のイデオロギーの無意味さを悟り、自らの誤りを認めるだろうとの予想からであった。

ところが、そうしてみんなで協力して真面目に働いてみると、最初はサボタージュしか願っていなかった囚人たちにも、だんだん仕事が面白くなって来る。チームプレーを通して互いに連帯感が生まれ、普段の囚人生活では生まれ得ない友情のようなものまで育まれた。あながち「同志」の言い分も間違いではなく、働くことにはそれなりの楽しさや意義も確かにあった。彼らのチームプレーは素晴らしかったが、それでも、三日間かけて彼らが達成したものはノルマの三分の一にも満たなかった。

その結果を見た「同志」はなんと自殺して果ててしまう。だが、すでに仲間意識も芽生えて、彼を友人のように思っていた他の囚人たちは、彼の自殺を知って、今までよりもなお一層、ソビエト当局に対する憎しみに燃える。もとから達成不可能なノルマを課して、人間を愚弄し、この「同志」のように騙されやすい人間に嘘の希望を吹き込み、絶望へ至るまでこき使い、この恐るべきむなしい思想のために心中までさせるとは…

ストーリー解説はこのくらいにしておくとして、最近、この話が何かにつけて、筆者には思い起こされるのである。

これは私たちが生きている今の世の中とさほど変わらない描写ではないだろうか。ここはソビエト政権下ではないし、我が国の経済はそこまで極端な歪みではないかも知れないが、それにも関わらず、この地上における労働は、上記の収容所における囚人労働とほとんど変わらないどころか、本質的には全く同じものだと筆者は思うのである。

それはプロテスタントの教会における奉仕と献金の義務にもとてもよく似ている。信徒たちは日曜礼拝に足しげく通い、多額の献金を払い、教会のために様々な奉仕を積み重ね、牧師の説教をよく聞いて、牧師の覚えめでたい人間となることで、神に仕え、正しい生き方をし、聖なる者に近づけると思い込んでいる。ところが、そんな信徒の苦労をあざ笑うかのように、奉仕と献金を積み重ねれば重ねるほど、信徒のくびきはますます重くなり、ますます多くの奉仕、ますます多額の献金が要求されるようになる。信徒は聖くなったと感じるどころか、牧師や教会の要求に応え切れない自分自身に罪悪感を覚えるだけである。こんな風に、やればやるほど罪の意識が増し加わるだけのむなしい奉仕が、「信徒の義務」とみなされ、神に近づく手段のようにみなされ、それをやめれば、信徒はたちまち正しい信仰の道から逸れて悪魔の虜となり、救いを失って地獄へ一直線に落ちていくだけ…、などと真面目な信徒は本気で思い込まされている笑止千万な場所である。

こういう文脈での教会への奉仕と献金の義務は、聖書の信仰にカモフラージュした極めて悪質な罠であり、それによって神に近づけるなどと信じている信者は、ソビエト政権のイデオロギーを信じるあまり、死ぬまで収容所でこき使われた囚人たちや、ブラック企業に酷使されながら、自分が何をされているのか分からないで過労死して行く愚かな労働者と変わりはしない。そのような歪んだ労働(搾取の肯定)を通して、人類社会の発展に貢献できるという考えは嘘であり、そんな労働を通じて人間性を改造でき、ユートピア社会をもたらせるなどのことはあるはずもない。そんな労働は、やればやるほどますます世の中をヘンテコな場所へ、異常で転倒した世界へと変えて行くだけで、人類に不幸を増し加え、人間性を貶めるだけなのである。

このような不法で歪んだあるまじき労働によって、人間を改造できるかのような嘘は、元を辿れば、グノーシス主義から来ている。グノーシス主義とは、幾度も述べて来たように、もとは人が自分自身の努力によって、自己を改造し、神の聖にまで至れるとする偽りの神秘主義思想であり、この異常な思想ではそのような嘘の希望を信じることが、「知性」を獲得することだとされる。今日のキリスト教も、全ての異端の根源であるこの思想の侵入や攻撃を受け続けているが、この偽りの思想では、「知性」に目覚めた人間が、それぞれ努力によって達した段階に応じて無限の霊性のヒエラルキーがあることになっているので、この思想の影響を受けた信者たちは、霊性のさらなる高みに上るために、勉学や奉仕や精進を積み重ねるのである。だが、神の高みに上るためには、人は生きているうちばかりか、死後も永遠に修行を続けなければいけないとこの思想は言う。早い話が、ソビエト当局が囚人に課した達成できない労働のノルマと同様に、グノーシス主義は、一方では、人は己の精進の努力次第で、霊性の階段を上って、神の高みにまで達することができると言いながら、もう一方では、それができた人間は今まで地球上に一人もおらず、その修行は人の全存在をかけてもまだ足りないので、どんな偉人も今もって修行中である、と言うのである。結局、これを聞いて分かるのは、どんな嘘をや方便を使っても、神と人との合一は、人間側の努力によってはおよそ達成できず、それを人間側の努力によって成し遂げようとすると、それはただ人間にとって負い切れない重荷になって跳ね返って来るだけだという自明の理しか証明できない事実である。

悪党どもはまさかこんな嘘っばちな思想を初めから信じてはいない。そこで、この手の思想は、悪党が、騙されやすくおめでたい人間を都合良くこき使い、うんと搾取するための方便として利用されるに過ぎない。多くの牧師たちは、信徒たちが教会に奉仕し献金したくらいのことでは、決して神に近づけないことを知っている。それが証拠に、彼らは教会のために一銭の献金も奉仕もせず、神を全く信じないで死んだ不届きな不信者たちをも、信者たちと同じように、気前良く平等に教会で葬ってやる。こうして彼らは、信者たちが都合良く騙されているだけであることを親切に身を持って示してやっているのである。彼らは教会に奉仕と献金を捧げることと神に仕えることが全くズレていることをよく知っていながら、それでも己の栄誉と権勢拡大のために、愚かな信徒の労働を搾取しているのである。その曲がった利己的な動機を覆い隠すために、神の国だの聖化だのと言って新たなセミナーを開いているだけである。それと同じ究極の騙しのテクニックが、ソビエト政権による囚人労働であった。無実の人間にあらぬ罪を着せて大量に強制収容所に放り込み、そこで奴隷的囚人労働に従事させて搾取しながらも、それをソビエト当局は「共産主義ユートピアを到来させるため、労働による再教育、人間改造の試み」であるとしたのである。囚人を利用した奴隷労働は、ソビエト政府による人間の再教育の模範的な成功事例として世界に宣伝された。

こういうものは全て、追い詰められた悪党どもが、苦し紛れに無から有を生み出すために、人間をただ働きさせ、さらなる収奪を合法化しようと作り出したシステムに過ぎない。しかし、その悪事を人類社会の発展やら幸福やらと言った大義名分のもとに誤魔化し、公然と正当化しようとするところに、その根底に流れるイデオロギーの忌まわしさがよく表れている。

「人類社会の幸福」や、「公共の秩序」や「和」などといった概念の実体は、しょせん、このようなものなのだ。そんな曖昧模糊とした情緒的で不確かな概念が、現実の個人の権利や自由を縛り、犠牲にする正当な言い訳となったことなど一度もない。こんなもののために、個人の人権を犠牲にする思想は、全て呪われた全体主義から出て来たものと言って差し支えない。 (元を辿れば、グノーシス主義。)

グノーシス主義とは、端的に言えば、「神が救済し損なった哀れな人類を、人類が己が力で救済しようとする似非救済思想」と言えるのではないだろうか?何度も述べて来た通り、このキリスト教の異端思想は、ヨーロッパで駆逐された後も、東洋思想の中に温存されて来た。「和を以て貴しとなす」という考えの中にその思想の形がよく表れている。ここて言う「和」とは、空気のことであり、さらには、自然を含む万物を生み出す母性の象徴であり、引いてはその母性の中には人間も含まれており、この母性とは、人類の自己崇拝の思想だとも言える。結局、「和」とは何かと言えば、それはいわば、へその緒が切断される前の母子の一体化した状態であり、母子がそのような原初的な一体性を取り戻すことによって、人間の孤独を埋め、完全性を得ようとする原初回帰の願望なのである。もっと言い換えれば、歴史を逆行して、人類が神の子宮にまで逆戻る(神が人類を創造する前の状態に人類が自力で回帰する)ことによって、人が自ら神の地位を「取り戻そう」(奪おう)とする極めて愚かで不遜な試みのことである。

(ちなみに、神の子宮などというものはないのだが、この思想は、聖書の父なる神を否定して、神を女性化することによって、また、目に見える万物を聖なる母体であるかのようにみなすことによって、この屁理屈を正当化する。裏を返せば、このような子宮回帰願望は、人が一生、母の子宮から出られず、母の胎内に閉じ込められた状態を理想とする恐るべき思想である。全体主義の全体が、母に当たるのであり、これは母と子の分離を認めない、母子一体となった赤ん坊返りの思想である。それゆえに、この「和」の思想を信じた者は例外なく精神的に大人になることができず、「母」の精神的子宮に閉じ込められたまま、マザコンとして終わって行くのである。「和」というのは、離脱を認めない母性による永久支配を意味し、怨念を持つ母が、父に対する復讐心から、我が子を一生自立させないで己が欲望を満たす道具として支配するために、へその緒で自分に縛り付け、いつまでもコントロールすることの言い訳でしかない。そのような恐るべき思想に喜んで身を委ねる「子」もどうかしているが、こうして、この思想は、他者の自立を決して認めず、全ての人間を「母」(組織や国家などの容れ物を含む)に縛りつけ、強い者が弱い者を自分の付属物のごとく支配し、決して一個の自立した人格として認めない暴力に満ちた冷たい思想であり、その残酷な支配が、「和」という情念を込めた言葉で美化され、曖昧化され、誤魔化されているのである。)

さて、以上のような文脈で、全体主義に仕えるための悪なる労働に、クリスチャンは従事してはいけないし、それがクリスチャンの使命でもない。それはやればやるほど人を不幸にするシステムであり、そのような呪われた文脈で不毛な労働に関わることがクリスチャンの召しではないのだ。

それでは、もう一度、問うてみよう、永遠に至る実を結ぶために、人はどんな労働に従事すれば良いのか?一体、真に実を結ぶ正しい労働とはどういうものなのか?

このことについて、聖書を頼りに判断するならば、第一に「人の奴隷になってはいけない」ことが分かる。つまり、真に正しい労働とは、不正な人間、悪党、怠け者、強欲な詐欺師どもなど、この世の不正な悪人たちの利益のために、クリスチャンが彼らの身代わりになって苦しみ、その悪事の片棒を担ぎ、彼らの不正の尻拭いをすることではない、と分かる。クリスチャンはそのような不正な仕事からは一切手を引くべきであり、そのような仕事をどんなに懸命に果たしても、悪魔の喜びを増し加えるだけで、自由にも解放にも至ることはない。

むしろ、クリスチャンはこれらの悪人どもに対し、公然と正義と真実を突きつけ、彼らの嘘と悪事を白日の下に晒し、彼らに償いを要求し、悪事を終わらせるべきなのである。その戦いを一歩も退かずに行うべきである。

しかし、ここで大抵の人々は言うだろう、「またそう来ましたか。でもね、ヴィオロンさん、その方法では、我々はきっと犠牲にされるだけですよ。正論を述べたからと言って、誰が力のない者を相手にしますか。報復されて潰されるだけですよ。あなたは未だにそれが分からないんですか。あなたが引き合いに出すソビエト政権でも、あまりにも多くの人々が、当局に歯向かったために殺されたり、収容所送りになったんじゃありませんかね。空気に歯向かって、権力に歯向かって、どうやって生き残れるんですか。もっとひどい犠牲にされるだけです。それくらいなら、私たちはまだ搾取されていた方がマシです。」

言っておくが、こんなにも臆病でやる気のない人々は、初めから説得するだけ無駄である。どうせいつまでも永遠に搾取されるしかないだろう。筆者はその運命に反対しないし、彼らの意気地なさに指一本責任を負うつもりもない。彼らは言うだろう、抵抗して殺されるよりは、いつまでも搾取されている方がまだマシだと。しかし、その搾取でさえ、明日はもう持ちこたえられないかも知れないのだ。貧しさの極みまで収奪され、明日には命さえ奪われるかも知れないのだ。あるいは、悪党どもの悪事の全責任を身代わりに負わされて、全ての名誉を失い、トカゲの尻尾切りで、自由を失うかも知れないのだ。それでも、その方が公然と抵抗して反撃を受けるよりはまだマシだと、この人々は本気で言うつもりなのであろうか?自分だけはそうならないと言いたいのであろうか?どこまでも愚劣で甘すぎる予想だと筆者は言わざるを得ない。

もしこの人々の中に自分はクリスチャンだと思っている人間があるなら、言っておかねばならないが、クリスチャンに対する悪魔の攻撃は、世人に対するものよりもはるかに激しいものがあるのだ。もしクリスチャンが悪魔に抵抗せずにまんまとその言いなりになるなら、世人には生き延びられる可能性があっても、クリスチャンだけにはその術は決して与えられないだろう。もしクリスチャンが悪魔の拷問に抵抗せずに身を任せれば、世人の三分の一の時間で死に絶えるだろう。クリスチャンは一般的にもともと世の中で最も無力な部類の者たちから成っているのであり、そんな人間が、武装を自ら解いて悪魔の毒牙にかかれば、二度と戻って来る術はない。悪魔はとりわけ激しい憎悪を込めて、自分の作った収容所全体への見せしめとして、真っ先にクリスチャンを血祭りに上げ、憎しみの限りを尽くして痛めつけるであろう。

従って、クリスチャンには「長いものに巻かれて」、不正に身を委ね、心を悪魔に売り渡して生き延びられる選択肢など初めから存在しないことをよくよく言っておかねばならない。悪魔との妥協などもあり得ない選択肢だ。全ての要求を飲んで敗北して死ぬか、徹底的に抵抗して立ち向かって命を勝ち取るか、二つに一つしか道はないのだ。クリスチャンは神に仕えるために召し出された一群であり、それ以外の生き方は許されない。塩が塩気を失えば、人からだけでなく、神からも見捨てられる。そこで、クリスチャンが無事に命を保っていられる道はただ一つしかない、たとえ全世界の否定に出くわしたとしても、神に従い、悪魔に抵抗すること、すなわち、自分の全存在をかけて、常に真理の側に立ち、命がけでこれを守り抜き、あざける者の座に座らず、悪党の仲間にならず、正義に立ち、虚偽を退け、真実に生きることである。虐げや、不法や、搾取からは全力て遠ざかり、身の潔白を保つことである。自分が悪を行わないだけでなく、悪事の犠牲になってもいけない。

もしこのような文脈で、悪魔に立ち向かうという原則を本気で実践すれば、その過程で、おそらく、信者は誰しも戦い方が分かって来るであろう。この戦いは、最初から完全な勝利というわけに行かないかも知れないが、信仰が残っている限り、方法論を磨くことができ、反撃によって潰されることもない。なぜなら、どんな凄まじい反撃によっても潰されないだけの圧倒的な命の力を、信者はすでにキリストを通して内側に持っているからである。そこで、この世の人間にはできないことが、キリスト者にはできる。中途半端な抵抗では勝てないかも知れないが、勇気を持って、徹底的な抵抗をすれば、必ず、勝つことができる。なぜなら、我々に与えられている御名の権威、我々に行使するよう委ねられた御名の権威は、この世の全ての権威を超えるからである。取り組めば取り組むほど、この戦いに勝利するコツが分かるはずである。

このことは、筆者が表向きクリスチャンを名乗っている偽善者どもの悪意ある中傷や脅しに遭遇した時、御言葉をどのように用いて戦ったか、また、どのように信仰によって確信に立ち、その告白によって、敵の嘘を打破したか、筆者がどのように彼らが筆者になすりつけようとした嘘の罪状書きを退けたか、などを思い出してもらえば分かるはずである。筆者はこれらの戦いで決してやられっぱなしになったことはなく、覚えている限り、全ての戦いで勝利をおさめてきた。

敵の咆哮は、現実に差し迫った脅威のように感じられるかも知れないが、御言葉によって徹底的に立ち向かい、その嘘を木っ端微塵に粉砕すれば、しょせんその脅しは実体のない空虚なものに過ぎなかったことが証明される。それが証明されるまで、真実を貫き通すことである。それを貫徹すれば、敵の撒き散らす嘘や脅しは、当初どんなに大きく見えても、真実の前に到底立ち仰せる力のない、実体のない弱々しいものであり、恐れを持つ者にしか効果を持たないことが分かるだろう。他方、その嘘の軽薄さに比べ、御言葉は、永遠に揺るぎない神の重い約束であり、大砲のような威力で嘘を粉砕し、物事の真実なありようを暴露する。御言葉は、神に贖われた者はもはや罪ゆえの恐れを感じなくて良いことを教えてくれる。小羊の血に立脚することで、勇敢に戦って、敵の嘘を暴き、全ての恐れを退けることが可能になるのである。正しい道を守るためならば、どんな犠牲を払うことも厭わないし、どんな反撃をも恐れないと言える心境に至るまで、あなたの戦いを突き進みなさい。そうすれば、嘘は必ず力を失い、嘘て塗り固めた敵の要塞は崩れる。

さて、そろそろのこの記事を締めくくる時が来たが、この世のバビロン経済は、ソビエトの強制収容所と同じように、あなたに囚人番号(マイナンバー)の烙印を押し、いついつまでもあなたを囚人として、収奪の対象とすべく、脅し、不当な命令を下し、逃げようとすれば、長い罪状書きを持って、あなたを罰しようと追いかけて来るであろう。それはちょうどカルト宗教が金づるとなる信者を逃がすまいと、手ひどい恫喝によって逃げ道を塞ごうと囲い込む時と同じである。

しかし、あなたはこの恐るべき負債だけから成る汚れ切った世界から足を洗うことを決めたのだ。だとすれば、この決意を貫徹せねばならない。追っ手に対して、あなたはキリストの十字架の上で無効とされて破り捨てられた罪の債務証書を突きつける。あなたは神に贖われた聖なる者なので、彼らにはもはやあなたを罪に定める権限がなく、あなたを奴隷として使役する権限もないことを高らかに宣言する。あなたにはもはや世人と同じように罪の奴隷として収容所に拘束されて実りなき不毛な苦役に従事させられるいわれは全くなく、悪党どものやりたい放題やった後片付けや悪事の尻拭いを身代わりに負わされる筋合いもない。そのような理不尽な重荷をあなたに課したことで、むしろ彼らこそあなたに謝罪と償いをせねばならない。

つまり、罪に定められるべきはあなたではなく、あなたを収容所に閉じ込めようとした彼らの方なのだ。その事実を宣告して、彼らの前ではっきりさせねばならない。彼らが強欲にもあなたを収奪の対象とし、犠牲者にしようとした魂胆が悪であることを明白にせねばならない。この結論を、彼らが認めるまで、恥じ入るまで、その目的を諦めて撤回するまで、貫き通さねばならない。あなたは彼らの奴隷ではないことを思い知らせなければならない。そうして敵に目的を諦めさせ、償いをさせ、あなたが自由と高貴さを取り戻した後に、そうして敵から得られた戦利品を手に、あなたはこの呪われた実りなき労働にさよならを告げて、もっと有益な人生を生きるために、堂々と収容所を出て行くのである。そこから先、あなたは二度と自分の労働の成果を悪党に掠め取られないよう注意しなければならない。共産主義は終わったのである。あなたの勤労の実は、あなたを栄えさせるためのものであり、怠け者や悪党のために用意される助けではない。あなたは自分の仕事の成果がきちんと自分のものとされる職業を選ばなくてはいけない。

繰り返すが、あなたがクリスチャンである限り、あなたには強制収容所の中で囚人となっていては生き延びられる術はない。他の囚人には生き延びられても、あなたにだけは無理だろう。あなたがもし生きたければ、収容所当局に従うのをやめて、彼らを断罪し、屈服させて、戦利品を持って、娑婆にでることしかない。彼らとは違った秩序に生きるしか方法はないのだ。収容所がどんなにあなたを罪に定め、刑期を増し加えようと追って来ても、あなたはこれに勝つことができる。そのためにこそ、他の囚人にはない恐るべき御名の権威が、血による贖いが、死を打ち破った復活の命が、あなたに与えられているのだ。それはどんな獄屋の扉をも開けられる自由の鍵である。この約束の確信に立っている限り、あなたさえ怖じけづいたり、退却しようなどと願わなければ、戦いに負けることはない。もしあなたが真に贖われているなら、あなたは自由人であって、囚人ではないのだから、むしろ、収容所があなたの言い分によって揺り動かされ、震え上がらねばならない。あなたには彼らの罪を指摘する権威も与えられている。そこで、あなたがこの正当な権利を行使さえすれば、大魚がヨナを陸に吐き出したように、罪による収容所はあなたを収容し切れなくなって、これ以上我々を苦しめないでくれと懇願しながら、あなたを外に吐き出すであろう。

このようにして戦いに勝利し、敵の要塞を打ち壊す秘訣を知れば、あなたは、天に永遠の実りをもたらす労働とは何だったのかが分かるだろう。つまり、「悪魔のわざを打ち壊すこと」、「敵の仕掛けた罠を見抜き、敵の要塞を破壊すること」、「敵の嘘の圧迫や支配を無効にすること」そのものが、天の父なる神の御心にかなう「労働」なのであり、そのような信仰による激しい戦いに勝利することで、実際に敵の城が陥落し、それに伴って必ず地上の富も何らかの形で明け渡され、収穫がもたらされることが分かるであろう。

こうしてキリスト者は、全宇宙の中心であるキリストを内にいただきながら、全てのものをキリストに従わせ、地に御心を打ち立てるのに貢献する。それが、キリスト者の役目なのである。これ以外の方法で、キリスト者がこの地上を治めることはできない。

そして、その戦いは、地上の権力者におもねることや、人の生まれ持った資質や手練手管にはよらず、また、地上の権力によって権力を倒すことにもよらない。その統治は、嘘をついたり、収奪したり、盗んだり、卑劣な方法で他人を騙して支配することにはよらず、あくまで真実を貫き通し、それに従う人々を増やすことによるのである。力づくで敵を倒すことによって、敵を支配するのでなく、何が真実であるかを暴露し、宣言し続けることにより、敵がやがて自ら作り出した嘘を放棄して、恥じ入り、かつ恐れ、退散せざるを得なくなるまで追い詰めるのである。

こうして戦う目的は、キリスト者自身がさらなる自由、さらなる解放、さらなる豊かさへと達し、それによって喜びに溢れて天の神を誉めたたえ、神に栄光を帰するためである。それは霊性の階段を上って行くこととは違うが、キリスト者の解放は一挙には訪れない。キリスト者の地上の歩みは、絶えざるエクソダスの連続であり、復活の原則は、必ず死の原則とセットになって働く。時に圧迫は想像を超えるものにもなるが、キリスト者が霊の内側で獲得した自由を失わずに掴んで、それを真っ直ぐに見つめて進むなら、実際に、それに反する全ての外側の現実が打破され、圧迫は消え去り、信者は内側の解放の確信が現実になるのを見るだろう。こうして、クリスチャンは主の十字架の死と復活に絶え間なく同形化されながら、栄光から栄光へと、主の似姿へ変えられて行く。栄光から栄光へと変えられる秘訣は、死の圧迫の只中にあっても、まことの命だけを見つめ続けることにある。これは信者の外側の解放であると同時に内側の解放であり、試練の只中で、命の冠をもたらす信仰が増し加わって行く過程である。

2017年7月17日 (月)

今日が恵みの時、今日が救いの日ーー栄光から栄光へ、主の似姿に変えられて行く

最後の記事から随分日が空いたが、この間にヴィオロンの人生には実に大きな進展があった。

まず、耐え難く狭苦しく感じられるようになった住居を脱出して、広いところへ移った。さらに仕事も新しくなり、かつての専門の道に戻りつつある。

こうしたことが成就したプロセスがまた素晴らしかった。それは全てが私の力というより、神のみわざとしか言えない方法だったからである。

まるでイザヤ書第59章のみことばがまさに私の身の上に成就したかのようであった。

横浜に来ることが決まった直前、以下の みことばを噛み締めていたことを思い出す。

「海沿いの国々よ、わたしに聞け。
遠いところのもろもろの民よ、耳を傾けよ。
主はわたしを生れ出た時から召し、
母の胎を出た時からわが名を語り告げられた。
主はわが口を鋭利なつるぎとなし、
わたしをみ手の陰にかくし、
とぎすました矢となして、
箙にわたしを隠された。
また、わたしに言われた、

「あなたはわがしもべ、
わが栄光をあらわすべきイスラエルである」と。

しかし、わたしは言った、
「わたしはいたずらに働き、
益なく、むなしく力を費した。
しかもなお、まことにわが正しきは主と共にあり、
わが報いはわが神と共にある」と。

ヤコブをおのれに帰らせ、
イスラエルをおのれのもとに集めるために、
わたしを腹の中からつくって
そのしもべとされた主は言われる。
(わたしは主の前に尊ばれ、
わが神はわが力となられた)
主は言われる、
「あなたがわがしもべとなって、
ヤコブのもろもろの部族をおこし、
イスラエルのうちの残った者を帰らせることは、
いとも軽い事である。
わたしはあなたを、もろもろの国びとの光となして、
わが救を地の果にまでいたらせよう」と。

イスラエルのあがない主、
イスラエルの聖者なる主は、
人に侮られる者、民に忌みきらわれる者、
つかさたちのしもべにむかってこう言われる、
「もろもろの王は見て、立ちあがり、
もろもろの君は立って、拝する。
これは真実なる主、イスラエルの聖者が、
あなたを選ばれたゆえである」。

主はこう言われる、
「わたしは恵みの時に、あなたに答え、
救の日にあなたを助けた。
わたしはあなたを守り、
あなたを与えて民の契約とし、
国を興し、荒れすたれた地を嗣業として継がせる。
わたしは捕えられた人に『出よ』と言い、
暗きにおる者に『あらわれよ』と言う。
彼らは道すがら食べることができ、
すべての裸の山にも牧草を得る。
彼らは飢えることがなく、かわくこともない。
また熱い風も、太陽も彼らを撃つことはない。
彼らをあわれむ者が彼らを導き、
泉のほとりに彼らを導かれるからだ。
わたしは、わがもろもろの山を道とし、
わが大路を高くする。

見よ、人々は遠くから来る。
見よ、人々は北から西から、
またスエネの地から来る」。

天よ、歌え、地よ、喜べ。
もろもろの山よ、声を放って歌え。
主はその民を慰め、
その苦しむ者をあわれまれるからだ。

しかしシオンは言った、
「主はわたしを捨て、主はわたしを忘れられた」と。

「女がその乳のみ子を忘れて、
その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。
たとい彼らが忘れるようなことがあっても、
わたしは、あなたを忘れることはない。
見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。
あなたの石がきは常にわが前にある。
あなたを建てる者は、あなたをこわす者を追い越し、
あなたを荒した者は、あなたから出て行く。

あなたの目をあげて見まわせ。
彼らは皆集まって、あなたのもとに来る。
主は言われる、わたしは生きている、
あなたは彼らを皆、飾りとして身につけ、
花嫁の帯のようにこれを結ぶ。
あなたの荒れ、かつすたれた所、こわされた地は、
住む人の多いために狭くなり、
あなたを、のみつくした者は、はるかに離れ去る。
あなたが子を失った後に生れた子らは、 なおあなたの耳に言う、
『この所はわたしには狭すぎる、
わたしのために住むべき所を得させよ』と。

その時あなたは心のうちに言う、
『だれがわたしのためにこれらの者を産んだのか。
わたしは子を失って、子をもたない。
わたしは捕われ、かつ追いやられた。
だれがこれらの者を育てたのか。
見よ、わたしはひとり残された。
これらの者はどこから来たのか』と」。

主なる神はこう言われる、
「見よ、わたしは手をもろもろの国にむかってあげ、
旗をもろもろの民にむかって立てる。
彼らはそのふところにあなたの子らを携え、
その肩にあなたの娘たちを載せて来る。
もろもろの王は、あなたの養父となり、
その王妃たちは、あなたの乳母となり、
彼らはその顔を地につけて、あなたにひれ伏し、
あなたの足のちりをなめる。
こうして、あなたはわたしが主であることを知る。
わたしを待ち望む者は恥をこうむることがない」。

勇士が奪った獲物を
どうして取り返すことができようか。
暴君がかすめた捕虜を
どうして救い出すことができようか。

しかし主はこう言われる、
「勇士がかすめた捕虜も取り返され、
暴君が奪った獲物も救い出される。
わたしはあなたと争う者と争い、
あなたの子らを救うからである。
わたしはあなたをしえたげる者にその肉を食わせ、
その血を新しい酒のように飲ませて酔わせる。
こうして、すべての人はわたしが主であって、
あなたの救主、またあなたのあがない主、
ヤコブの全能者であることを知るようになる」。


長い引用であったが、ここにはヤコブ(イスラエル)がこうむった苦難と損失の深さと、神にあって与えられた回復の大きさの見事なコントラストがよく見て取れる。そして、その回復は、ヤコブが世間で強く、尊敬される者であったから成し遂げられたのではなく、むしろ、ヤコブが弱く、侮られ、蔑まれていた時に、神がその恵みに満ちた選びによってこれを救われたのである。

さて、筆者の今回の「エクソダス」は、横浜へ初めてやって来た時とは少し違った。かの時は、筆者が人と交渉して何も要求せずとも、神が全てを整えて下さったが、今回ははっきりと交渉し、要求することが必要だったからである。しかも、自分が不当にこうむった損失の数々を取り返すために、立ち上がり、主張することが必要だった。それはある意味では、「悪魔に奪われたもの」の数々を列挙して、このひどく不当な損失、不当に苦しんだ月日の補填のために、悪魔を責め、悪魔に請求書を出し、これを最後まで支払わせる、という霊的なプロセスを踏むことを要した。むろん、これは比喩であるが、現実を動かすには、霊的秩序を踏むことが必要であり、結果を出すためにたゆみない交渉をし続け、実際に「悪魔を非難し、悪魔の加えた理不尽な打撃の補填のために悪魔に請求する」ことが可能であることを知ったのである。

これは信仰における大きな前進であった、と言える。今までは、ただ神に望みを申し上げるだけで、執拗に戦ってまで結果を出すということに、どちらかと言えば消極的だったが、ここに来て、筆者は自分が今までどれほど悪魔の嘘を吹き込まれ、本当はとうにみことばにより解放されてしかるべきものを理不尽を不当に耐え忍ぶよう、欺かれてきたかに目が開かれたのである。そして、このことを不信仰として嘆き、反省するのもさることながら、何よりも人を欺いた張本人である悪魔を糾弾し、失われた月日を補填させることをしなければならないと気づいたのである。

たとえば、あまりにも多くの人たちが、私の周りで、あまりにも苦痛に満ちた、自由も望みもない仕事に従事している。彼らの仕事内容とは、交通費も支給されず、毎日の労働時間も自分の希望通りにならず、土日も祝日も休むことができず、雇用主のご機嫌次第でいつ解雇されても文句も言えず、しかも労働契約は一ヶ月未満で、その先は保証の限りではない、というような仕事である。その他の劣悪な条件は推して知るべしで、仕事内容のほとんどは不誠実な企業や団体や上司の引き起こしたトラブルの後始末であり、その仕事のみじめさ、やりがいのなさには言及する価値もない。

ところが、それでも彼らはその仕事を辞めれば、自分は路頭に迷うしかなく、代わりはないと思い込み、何があっても黙って耐え忍びつつ、その仕事にしがみつくのである。たたしがみつくだけでなく、辞めて行く者を引き止め、裏切り者扱いしさえする。しかし、このことはすでに何度も書いたが、筆者は自分の経験から、そのような仕事には代わりはいくらでもあって、もっと幅広い選択の自由が存在することを知っていた。特に、キリスト者には、選択の自由がないはずがない。

そこで私は実際に、まるでわらしべ長者の物語のように、これまでに仕事を変わる度に、一歩、一歩、極度の制限の中から、信仰によって自由を獲得して来たのであった。たとえば、たった数ヶ月の契約は年単位の契約に置き変え(ついには終身雇用になるであろうが)、日曜日は当然、休みとし、勤務時間は固定し、残業代が支払われないよう違法労働は当然ながら拒否、さらに交通費は全額支給が当然(できれば数ヶ月分の前払い。通えば通うだけ損になるような仕事に何の価値があろうか)などなど。むろん、ただ生きるためだけに専門外の仕事をすることも、ある時期を境に完全にやめたのであった。

以上のような世界を筆者が去って来たのはとうの昔のことであるが、しかし、これら全ては、こんなに当たり前のように些細なことでさえ、信仰のない人から見れば、無謀な冒険にしか見えなかったろうし、わがままとさえ断じられたであろう。その言い分に耳を貸していたならば、筆者自身の境遇も以前と何一つ変わらず、当然ながら、生活を拡張するの無理な相談に終わったはずだ。

だが、こうして、信仰によって天に直談判し、悪魔に請求書を出し続ける過程で、ヴィオロンはふと高校時代の学友を思い出した。彼女は私に触発されてのことか、高校生になってからピアノを始めたが、そのうち、何が何でもピアニストになるのだと言い出し、音大受験に挑むと決めた。私は彼女の熱中ぶりがあまりにも凄じかったので、幾分か距離を置いて、冷ややかな眼差しで他人事のようにその挑戦を見守っていた。

その頃、筆者も本当は音楽にはかなりの熱意があったので、音楽の道に進むことを考えてはみたものの、隣で彼女があまりにも熱意を込めてピアニストになるのだと言い張っているさまを見て、何だか先を越されたというか、気がそがれた感じで、同じように挑戦して音楽家になろうとは決して思わなかった。彼女は音大の短大に合格し、それから四大に編入するのだと言って頑張っていたところまでを知っている。

だが、音大生になってからの彼女は、再会すると以前よりもさらに変わっており、今度は好きな人が出来たと言っていた。が、その人にはすでに彼女がおり、片思いなのだが、その彼女は彼に相応しい人間ではないと言って、何が何でも彼を彼女から奪い取りたいのだと言うのである。

私はそれを聞いて、彼女の凄まじいまでの熱意にまたもや興ざめになり、その恋愛を応援する気にもならず、人から横取りしてでも自分の望むものを手に入れようとしている彼女の態度にうんざりしてしまった。そして、その時を限りに、彼女に会ったことはない。彼女はピアニストになるのだと言い張っていた時と同じように、今度は好きな人を手に入れたいと望み、望みに従って行動することの何が悪いのだと言って私を非難したのであった。

時を経て、彼女はおそらく意中の人の心を得ることに成功したのであろう。結婚して、子供も生まれたことを風の便りに知った。一見、めでたしめでたしである。結婚してしまえば、それが最初は横恋慕であろうと、何であろうと、非難されることはないであろう。

だが、音楽はどうだろう? 音楽もそのような熱意で手に入れられるものであろうか?

音大というところは、過酷な競争の世界で、高校生からピアノを始めた人を好意的に受け入れるような環境では決してない。神学校では信仰を学べないのとよく似て、おそらく音大では音楽の真髄は学べず、学歴としての価値はあっても、打ちのめされ、大きな壁にぶつかることになったのではないかと思う。

そういうことの影響があったのかどうかは知らないが、彼女はその後、純粋なクラシックの世界からは幾分か遠ざかり、あえてそれに背を向けて、純粋に楽しめるもっと庶民的な音楽の方向へ舵を切ったように見える。というより、クラシックの世界は、裕福でなければ、あるいはコネがなければ、コンサート一つも簡単に開けず、熱意と努力だけではどうすることもできない世界だ。彼女はその世界に居場所を見出せなかったのではないか。そういうこともあってか、子供のための音楽や、民族音楽などの方向へ、関心が変わって行ったようである。

だが、ヴィオロンは、そこでも、めでたしめでたし、とも思わないのである。自分が若くて小さな子供がいるうちは、子供向けのコンサートを開くのも良いだろう。しかし、年を取り、自分の人生にそれなりの深みが出て来なければならない年代にさしかかったとき、誰を対象として、何を訴えるために演奏するのかという課題に、誰しもぶち当たるであろう。憧れや、楽しい気分だけでは、もはや進んで行けない時が来る。特に、年老いて来た時、彼女が何を原動力として進み続けるのか、それは筆者の目から見れば(余計なお世話ではあろうが、かなり)疑問である。

私から見ると、この彼女は、いつも何か欲しいものがあって、(しかも大抵、それはもとは他人が持っていたものなのだが)、他人に触発されて、自分も同じように欲しいものを得て、望みの自分像になるために、頑張ってアプローチして生きてきた人だった。たしかに、望みへ到達するための努力は大変なものであったろう。しかし、芸術というものは、もともと自分自身の中にあるものが外側に湧き出て来て表現されるものであって、努力して到達するものではない。努力するのはただ表現力を磨くためでしかない。

カラオケでも上手な人は本物の歌手そっくりに歌うことができるが、クラシック音楽も、努力すれば、素人でもそれなりの域に達することはできる。音大に入ることさえそう難しくはない。だが、それで音楽家になったと言うのは早すぎる。そもそも、自分自身の中に湧き出てくる泉のように、表現の源、核となるものがなければ、どんなに練習を積んでみたところで、それは他人の真似事にすぎないのだ。偉大な作曲家の優れた楽曲をうまく演奏すれば、誰でも「ひとかどの人間」に自分を見せることはできるが、それでも、真似事だけでは決して進んで行けない、より深い動機が必要とされる時が必ず来るのだ…。

ただ単にピアニストという職業が醸し出す、煌びやかで崇高そうな雰囲気、俳優のように自分の演技を人に見せて観客と一緒に酔いしれることのできる陶酔感、自己満足だけが目的だったのであれば、それだけでは、進んでは行けない時が来よう。特に、金やコネで占められている、あらゆる汚辱の存在を知っていながら、それでもそれなりの苦い代償を支払って、それでもあえてクラシック音楽にとどまるのは無理であろう。

これらの苦い代価の全てを支払ってでも、自分のうちに音楽を通してどうしても表現せずにいられない何かがあって、そのために演奏家にとどまっているのか、それとも、ただ自分が舞台の主役となって、美しい音楽を奏で、心地良い注目を浴びて、聴衆と共に満足したいがためだけに演奏家を続けているのか、試される時が必ず来るであろう。

さて、しかし、今ここでその彼女のことを引用したのは、彼女を批判するためだけではなかった。むしろ、長年、私は彼女の猪突猛進型の熱意に、ある種の恐れを抱き、それを自己中心だと思って、敬遠してきたが、今考えてみると、その態度にさえも、何かしら学ぶところもあったものと思う。

ヴィオロンは、他人から何かを奪い取ってまで手に入れようとは決して思わないし、なりふり構わず、己の欲望に突き進むことを賞賛するつもりも全くないが、しかし、本当に心から望む(理にかなった正しい)目的のためならば、人はどんな困難があろうと決して諦めずに前進し続けるだけの揺るがない決意と情熱が必要であると思う。その意味においてのみ、彼女の態度にも学ぶべきものはあると感じる。今までを振り返り、私にはいささかそのなりふり構わぬしぶとさ、図太さ、粘り強さ、自己中心なほどに諦めないしつこさ、といったものがかけていたのかも知れないと思わないこともない。もっと言えば、かけていたのは、どれほどの障害にぶち当ろうとも、何が何でも信念を貫き通すために必要な、不動の自信と勇気、決意だったかも知れない。

だが、これは信仰の文脈で言うことであって、神の栄光、みことばの正しさを証明するためにこそ、人は自分の全てをかけて戦う価値があるのであって、自分勝手に望みのままになりふり構わず突進して生きよと言っているのではないのだ。そのようなあきらめることのない熱意は、人やモノに向けられる前に、まず神にこそ向けられるべきである、とヴィオロンは思う。どんな些細な願いも、まずは神のみ元にこそ持って行き、しつこく交渉してみるべきなのである。

だから、私はこの度、ちょっと実験してみることにしたのだ。前述の彼女のしつこさには及ばないにせよ、自分の望みを、困難がやってきたからと決して簡単にあきらめることなく、天の扉を叩くことに使ってみようと思ったのである。

その結果、実際に生活を向上させ、仕事を変えることができた。こうしたことは、前述のピアニスト志望の学友の望みのように、世間からは、わがままだと非難されることもあるかも知れないし、博打のような冒険とみなされることもあろうが、誰に何と言われようとも、私はこれ以上、もう一歩も退却したくないし、この望みをあきらめるわけにも行かない、というほど、にっちもさっちも行かないところまで追いこまれたのである。現状のままでは、何が何でも我慢できないうという思いが到来したのである。そして、しつこく天に直談判してみた結果、扉が開いたのであった…

家庭集会などは開くつもりはないが、家庭集会が夢のまた夢だと言わねばならないような環境からは抜け出ることができ、ほっと一息ついて、神の恵みに感謝することができるようになった。

さて、こうした飛躍や進展と思われる事柄も、代償なしに与えられたものではなく、以前、書いたように、もしヴィオロンが、地上の生まれ故郷にとどまって、地上の親族への義務感や情愛から、「死人を葬ること」に熱中していたならば、決して達成できなかったろうと言える。

最後の記事で触れた件の親族は、病床についてから一ヶ月半という比較的短い期間で亡くなったので、その苦しみはそんなにも深刻重大ではなかったかも知れない。というより、筆者はその最期の様子を知らない。だが、それでも、この故人は、人生の最期になって、「私は何も悪いことはしていないのに、なぜこんなに苦しまねばならないのだろう」とこぼしていたというから、悔い改めは、まさに神が信仰によって人にお与えにならなければ、誰も決してすることのできない奇跡なのだと言うしかない。

ヴィオロンは、この親族の最期の時に、枕元で、人間の原罪と、人が救われるためには悔い改めて神に立ち返る必要性があることについて語った。しかし、おそらく、上記の言葉が、この促しに対する故人の偽らざる返答だったのであろう。つまり、故人は、己に罪を認めず、悔い改めの必要性をも認めなかったのだ。何しろ、生長の家は、人間はみな生まれながらにして神の子であり、人に罪はないと教える。そして、神の子である人間を脅かしうるものは地上に何もなく、病も幻想に過ぎないのだと言うのだ。

しかし、彼らの信念によれば、神であるはずの人間が、病に打ち勝つこともできずに亡くなった。だとすれば、悪いのは誰なのか。生長の家の教えが間違っているのか? それとも、罪なき人間をいわれなく罰したもう神が悪いのか? 生長の家の教えだと、きっと暗黙のうちに後者ににならざるを得ないだろう。何しろ、彼らによれば、人間は正しいのだ。正しいから、苦しめられるはずはないのだ。それならば、正しいはずの人間を苦しめる何者かが存在するのであり、その人間以上の存在ーー本当の神は、悪神ということになろう。この問題は彼らの狭い教義からはもはや外にはみ出ているが、彼らは悪魔の存在をもきっと認めないであろうから、きっと人間を理不尽に苦しめている悪神が存在するということにならざるを得ないだろう…。決してそのようなことを教義としては主張すまいが、結局、その教えの根底にあるのは、人間の自己義認と、人を罪に定める聖書の神に対する敵意なのである。

こうして、苦しみを通して、神の力強い御手の下にへりくだるどころか、苦しみにあって、ますます自分は悪くないという思いに凝り固まり、自分以外のところに悪の源を探そうとする人たちが現れる。福音を聞いた時に、人の態度が試されるのである。そして、自分は悪くないのに不当に苦しめられているという思いが最後に行き着くものは、ずっと今まで書いて来たように、神に対する恨みと敵意なのである。

私は、こういう話を聞いて改めて、私がこのような考え方に至らず、自分がキリストの十字架の贖いによらなければ、救われ得ない罪人であることを知って、自分が救いを必要とする罪人であることを素直に認めて、この贖いを受け入れて救いにあずかったことを感謝し、これが私の努力によるものでなく、神の側からの恵みであり、奇跡なのだと痛感するのである。

故人は若い時分に戦争があった他は、平穏な人生を送り、不自由はほとんどなかった。人の目から見れば、幸福であろうし、孤独でもない人生であった。就職氷河期に見舞われたり、女手一つで必死に働いてなお半人前のように言われたり、寡婦となったり、子供に死なれたりすることもなく、平凡な家庭の主婦となり、家長としてごくごく世間並みの人生を生きた。まさに世間から見れば、何も後ろ指さされることのない平穏無事な人生であり、お勤めを果たしたことになろう。病に伏した期間も九十二年という健康な人生の最後の一ヶ月程度でしかないのだから、限りなく恵まれていたと言える。

しかし、その見栄えの良さはあくまで表向きの話でしかない。私は、この人の死を前にして、私の人生はこの人と比べればたとえようもない苦難や紆余曲折に満ちていたかも知れないが、神に対して自分は正しいと言い張って心頑なにしたまま死んで行くことなく、神の御子による永遠の十字架の贖いの事実を認め、受け入れることができている自分の人生に、今更ながら、途方もなく安堵するのである。

このように述べると、肉親の情からは、故人にはいささかすまない気持ちにもなるが、正直に言って、この親族が亡くなったことを機に、筆者の名前も含め、一族全員の名前をあげて、夜な夜な仏壇に向かってお祈りする人間がいなくなったことに、筆者はどこかしらホッとする思いを隠せないのである。人間としての筆者は、誰の死をも喜ばないし、寂しい気持ちを禁じ得ない。だが、それとは別に、この故人が生前、筆者には自分の神様がいるから筆者のために仏壇に向かって祈ってくれるなとどんなに言っても、自らの祈りを善意と確信して、決して筆者の願いを聞き入れることなく得体の知れない対象に祈り続けていたその祈りがもはや聞かれなくなったことに、筆者はどこかしらホッとするのである。家長であった人の死と共に、親族全体に及んでいた一つの強固なイデオロギー的支配力が消失したことをも感じるのである。

この親族が亡くなる前に、筆者は故人の考えを変えることはできないことを感じつつ、自分自身の決意表明として、自分がこのような価値観の支配する地上の家の一員ではないことを証するために去った。むろん、異教の儀式としての葬儀にも参列していない。

それはある人々の目には奇異に映るかも知れないが、筆者の曲げられない信念であり、信仰告白なのである。だが、それは代償なしに行われた行動ではなく、その行動が筆者にとっては決意を要したのは言うまでもない。だが、今回、その信仰による行動がなければ、おそらくそれに続く筆者の人生の進展もなかったのではないかと想像する。もっと言うならば、地上の故郷を振り返ることすら、本当はすべきではなかった。怪我をした小鳥は順調に回復して今はすっかり日常生活に戻っているものの、故郷への大移動がなければ、そうしたことも避けられていたであろう。

こうして、地上の生まれや故郷がどうあれ、我々が見るべきお方、その歓心を得るために心を砕くべきお方は、天にも地にも、たった一人であることを思う。私はたとえ全世界から否定されようとも、その方から是認されることをのみ望んでいる。そして、その是認(義認)あればこそ、どんな困難があっても望みを失うことなく進んで行けるのである。このお方は、信仰によって、私の内側に住んで下さり、今すでに我々は一つであると言って下さる。御名によって願いなさいと言って下さる。願いが成就するまでにそんなに長い月日を耐える必要はない。信じる者にとっては、今日が恵みの時、救いの日なのである。

2017年5月14日 (日)

十字架の死と復活の原則―日々の十字架を代価として払って主に従う―「私に従って来なさい、死人を葬るのは死人に任せなさい」―

以前にも、「死人を葬るのは死人に任せなさい」という趣旨の記事に書いた通り、肉の絆に対する十字架の取り扱いは相当に厳しいものである。それは自分で分かっているつもりの領域を超えて、なお、生まれながらの人間の情に鋭くメスを入れ、これを断ち切る。

幾度も書いて来たことであるが、肉による情をキリストの死の向こう側の復活の領域にそのまま持ち込むことは許されない。たとえば、家人だから、親族だから、親しい友人だから、自分にとって身近な大切な人だから、長くつきあった仲間だから、肉の情愛に結ばれたまま、手をつないで、天国の門をくぐりたい、この地上で別れても、永遠の世界で再び出会いたい…などとどんなに願ったとしても、そのような願いを神が聞き届けられることはない。

むしろ、そのような肉の思いこそ、徹底的に十字架の死に渡されなければならないであろう。

なぜならば、人が真に救われるためには、まず、水と御霊によって生まれなければならないからだ。(信仰仲間との連帯であっても、肉による情のすべては十字架において死に渡されなければないのだが、今回は、まず生まれながらの肉による情や絆について書いておきたい。)

何よりも、神が唯一であり、神の独り子である主イエス・キリストが人類の罪のために十字架で死なれ、よみがえられたこと、信じる者のために永遠の贖いとなられたことを信じ、この救いを受け入れないのに、天国に入れる者は誰一人としていない。

だが、ニコデモがそうであったように、水と霊によって再び生まれなければ、誰も神の国に入ることはできないというイエスの御言葉を聞いて、それを即座に素直に信じて受け入れることのできる人は、ごくごく限られており、非常に少ないであろうと思う。

筆者は、90歳を超える親族が病の床に着いた知らせを聞いたとき、自分の書いた記事を思い出し、この親族が救われて神に至ることを願いつつ、帰郷した。

しかしながら、しばらくの間、この親族を観察してよく分かったことは、この親族は、二十年以上の歳月をかけて、生長の家の信者を続けており、病床で残されたわずかな時をさえ、生長の家の説教テープを聞くことに費やしていたことである。その姿は、筆者には、衰えゆく自分自身への不安を紛らし、過去から目をそらし、現実から目をそらし、死の恐怖から目をそらすためとしか見えなかった。

それにしても、この老いた親族が病床から起きられなくなってから、生長の家で親しくしていたはずの信者たちはどこへ消えたのか、誰一人姿を見かけることもなく、訪問して来ることもなかった。

それもそのはずであろう。生長の家は、人間は生まれながらにしてみな神の子であって、神の威厳と大能を帯びて、金色のオーラに包まれており、病や邪念などはみな影や幻想に過ぎないものであって、人間に触れて害することはできないと教えているからだ。

この偽りの宗教は、人間は生まれながらにしてみな神の子であると嘘を教えて、キリストの十字架の贖いを介さなければ、誰も神の国に入れないという聖書の事実を否定している。そして、生まれながらに神の子である人間はみな、神の体、神の命を持っていると、偽りを教えている。

ところが、生まれながらにして神であるはずの信者を、影に過ぎないはず、幻想に過ぎないはずの病が脅かし、病の床に臥させ、信者を今や死の恐怖をもって脅かしているのだ。この現実に対し、彼らはどう言い訳できようか。それでも彼らは、実相の世界においては、人間の霊魂は不滅なのだから、病に冒された肉体も幻想なのだと言って、矛盾のすべてをごまかすのであろうか。

彼らがどんなに多くの詭弁を用意していたとしても、そのような虚しく空々しい言葉が、厳しい現実を前に通用するはずもない。死を目前に見ている病人に真の安心を与えるはずもない。そこで、この宗教の信者たちが、この親族が元気なうちには、徹底的に偽りの教えによって献金を巻き上げた上、不都合な事態が起きると、寄り付きもしなくなり、姿を消すのは当たり前であると思う。

だが、それにしても、90を超える老人にも、家族の反対を押し切ってまで、献金をまきあげるように捧げさせていたこの宗教には、恐るべしと言うほかない。その献金のために、この親族はわざわざ新札まで用意していたというから、そこまでさせていたこの宗教に、呆れ、憤慨するだけだ。だが、さすがにそのお布施は、家族が反対してようやくやめさせるに至ったようである。

家族の理解も得られないまま、長年、周囲に反対されつつ、多額の献金と奉仕を費やして、この宗教にはまり続けて来たのである。今更、説得して、どんな効果があるのか、とまずは思わざるを得ない。そんな風にして、家庭から長年に渡り、家族の成員の心と体を奪って行ったこの宗教の欺瞞を、まずは糾弾せずにいられない。

生長の家は、アッラー、仏陀、キリスト、その他のどんな神々を信じようとも、最終的にはみな救いに至れると教えており、一言で言えば、あらゆる宗教の「いいとこどり」だけで出来あがった混合物である。

しかしながら、こうした生長の家のいいとこどりの教えは、汎神論や、原始宗教の名残のような、八百万の「神々」への信仰心の残る日本の精神風土にはなじみやすいものである。伝統的な日本の土着の宗教は多神教だからである。

さらに、「人間は生まれながらにしてみな神の子である」という、生長の家の偽りの教えは、人の自尊心やエゴを巧みにくすぐって、人間の心をおだてあげる。自分自身を「神である」と思わせるのである。この親族は、特に、家長であったから、自分自身がもともと家全体のシンボルであり、長年、先祖供養などを通して、いずれは自分も子孫として、(神や仏となって)その家系に連なるのだという自覚を養われていたことであろう。

さて、筆者が上記の記事を書いた時には、まだ筆者はこの親族の病のことを全く知らなかったので、何の関連性もなくこの記事を書いたのであった。

だが、人間は知らないことも、神だけでなく、悪霊どもも知っている。そして、筆者は、親族の病という不幸を聞いて、たとえ回想であっても、こんな不吉な記事を書くものではないと当初は考えたが、むしろ、現実はその逆であったと言えよう。

筆者は、肉親の情から、この親族の病を哀れんだが、逆に、この親族の内にいる(キリストを知らない)霊は、肉親の情や絆に訴えかけることで、筆者との取引を願っていたのだと思われてならない。

なぜなら、すでに書いた通り、この親族は、筆者を呼び寄せて、開口一番、こう言ったからである。「苦しまなくて済むように、キリストさんに祈って欲しい」と。

この親族は、自分の病名も知らず、この先、自分がどうなるのかも知らなかったが、直観的に、死が近いことを感じていたのであろう。最期が苦しくないものとなるように願って、筆者に助力を求めたのであった。その時、親族は、体力はそれなりに衰えていたので、寝ていなければならない状態であったが、まだ自分で行動することもでき、会話も可能で、それほど重大な苦しみには直面していなかった。

そこで、親族からの求めに対し、筆者は、筆者だけが代わりに祈っても意味がないこと、何より、そう願っている本人が、自分でまことの神を信じて祈らなければ効果がないことを述べた。それは、果たして、この親族に、キリストを心から信じる気持ちがあるのかどうかかをはっきりさせるためにあえて問うた内容であった。

しかし、このようなやり取りがあったこと自体が、実に不思議なことであった。何しろ、この親族は90歳という高齢で、人生の大先輩であり、かつ肉においては先祖に当たり、筆者などはまだほんの小娘に過ぎない。かつて信仰について論争した時にも、この人は筆者の助言や忠告など何も必要としていなかった。しかし、「キリストさんに祈って欲しい」とわざわざ依頼して来たところに、自分の力ではもはや太刀打ちできない深刻な事態が起きているという切迫感があるのだろうかと思わされた。

この際、きっかけが何であれ、構わない。たとえそれが苦しみたくないという利己的な願いからであれ、あるいは死の恐怖から逃れたい願いであったとしても、どのようなことがきっかけでも良いから、何が何でも、まことの神に至りつき、真理を知って平安を得たいという心さえあれば、神は聞いて下さると筆者は信じてやまないので、その助けになれないかと筆者は考えた。

筆者自身も、窮地にあって、何度、神に助けを求めたり、率直に願いを祈り求めたか知れない。そして、その祈りの中に、利己的な動機が微塵も含まれていなかったとは言えない。自分が楽になりたいという気持ちが微塵も含まれていなかった、とか、すべては自分自身のためだけではなかった、などとは言えず、言うつもりもない。

だが、それでも、筆者の多くの祈りを、願いを、実際に、神は御言葉に応じてかなえて下さった。神は私たち人間の地上における弱さ、脆さ、儚さを十分に知っておられ、その弱さの中で強さとなって下さる方である。聖書の神が、我々の肉体の限界から来る悩み、苦しみに、耳を傾けて下さらない方だとは、筆者は思っていない。

だが、神の助けを受けるためには、条件がある。それは、他の神々を捨てねばならないこと、そして、自分がまことの神をおざなりにして来たならば、そのことを罪として悔い改めねばならないことだ。その罪に対する赦しとして、キリストの贖いがあることを信じねばならないことだ。

だが、それは、人は生まれながらにして神の子ではなく、生まれながらにはただの罪人でしかないと認めることを意味する。自力で、つまり、地上の生まれ持った出自によって、血統によって、永遠に至ろうとするのではなく、神の一方的な恵みとしてのキリストの十字架の贖いを受け入れることによって、神の国に至ることを意味する。それがこの親族に出来るだろうか?

重要なのは、ただ単に人の苦しみが軽減されることではなく、人の魂が救われることである。そこで、たとえ筆者が代わりに祈ってみたところで、この親族の魂が根本的に救われなければ、すべては何の意味もないのだ。だからこそ、この点(自分でキリストを信じることができるかどうか)は極めて重要な争点であると筆者は考えた。

しかしながら、観察すればするほど、親族が願っているのは、そういうことではない、ということが分かって来た。何よりも、二十年以上(あるいは三十年以上か?)生長の家の教えを受け続けて来た影響は相当に根深いものがある。その教え込みを打破して、誤りに気づいてもらうこと自体が、至難の技である。しかも、90歳という高齢者を前にして、そのようなことを、50歳以上の年の差がある小娘が行おうとしているのだ。不遜だと思われても仕方がないだけではない。この親族に関しては、死後についてもすっかりレールが敷かれており、葬儀の依頼先や、墓までも決まっていることが分かった。もちろん、一切、キリスト教とは関係のない、義理の世界の話である。

このような状況の中で、この親族が、キリスト者になることを、誰が望み、受け入れられるであろうか? そして肝心の本人は、この点をどう思っているのか。もし本人が、それでも何が何でも、病床で本当の神を求め、信じると宣言すれば、誰もその内心の決定には立ち入れないであろう。だが、本人がこの点についてはっきりしないのでは、筆者としてはできることがない。

親族がキリストを信じられると言う中には、明らかに、生長の家が、あらゆる神々を奉じており、その中の一人にキリストをも含めているということがあった。つまり、他の神々を捨ててまでキリストを信じるという告白ではないのである。

そこで、こうした対話の中で、筆者が感じたことは、この親族(本人の魂というよりも、その内にいる霊)が筆者に、ある種の取引を持ちかけているのではないか、ということであった。

むろん、これは誰にも証明することのできない話なので、筆者の印象と言われても仕方がないであろうが、その(キリストを知らない)霊は、筆者が記事に書いた内容を知っているのであろうと予感せざるを得なかった。

筆者は以上の記事の中で、特定の病においては、死に様が非常に苦しみに満ちたものとならざるを得ないこと、特に、神を信じていない者の苦しみは逃れ難いもので見るにも忍びないものであり、特定の不信者の最期が筆者の目にどのように見えたかを描いた。

おそらく、親族の内にいる(キリストに属さない)霊は、時空間を超えて、その内容を察知し、そこから、自分の未来に起こり得る事態を予想し、そのような結果が自分の身に降りかからないようにと、筆者を通して神に懇願しようとしているのだとしか思えなかったのである。

もしもその人が自らキリストを信じることさえできれば、神ご自身がその人を確かに守って下さるであろう。だが、筆者が「自分で信じて祈らなくちゃね」と切り返しても、親族の反応はなかった。

幾度かそのような対話があって、その霊が望んでいることは、やはり、キリストを信じて、唯一の神に栄光を帰することではなく、あくまでただ自分の苦しみが軽減されることだけなのであろうと感じられた。唯一の神としての聖書の神、神の独り子としてのキリストの贖いを信じないままでも、どうにかして、その憐れみにあずかることができないかと考え、そのルートとして、筆者を頼ったのである。

もちろん、この身内は筆者に決してそうは言わないが、筆者にとっては、一種の脅しめいた心理状況が展開された。

要するに、敵は筆者に向かってこのようにささやくのである、「おまえはこの人間の身内なんだろう。この状況を見て、おまえはこの病人を可哀想だと思わないのか。こんな状況でも、おまえはこの身内のために、この人の苦しみが少しでも少なくなるよう、おまえの神に祈ってやる気はないのか。この身内にキリストへの信仰がないからと言って、おまえはその懇願まで突っぱね、拒否するのか。おまえには何と情がなく、おまえらの宗教は何と残酷なのか」

しかし、どう脅されようとも、そこには、筆者がどうしても譲れない厳格な線引きが存在するのであった。

おぼろげながらに記憶しているが、筆者はまだ10歳にも満たない頃、この親族の家で、先祖が祀られた仏壇を拝むよう求められ、それを拒否して立ち去ったことがあった。筆者は、その際、子供ながらに、「私にとっての神様は一人しかいないので、他の神様にお祈りするわけにはいかないの」と言って立ち去ったようである。

だが、その場に立ち会っていた(当時)無神論者の父は、子供のこの思いがけない行動に驚き、「キリスト教とは何と礼儀しらずで排他的な宗教か。先祖に対する無礼だ」としか感じなかったようで、後で(筆者にではないが)文句を言っていたようである。その後、様々な話し合いによって、筆者の聖書の神への信仰のあり方を知って、父も現在はもはやかつてと同じようには考えておらず、仏壇を拝むよう筆者に求めて来ることはまずないであろうと思うが、そんなはるか昔から、筆者の中で、すでに信仰による戦いは始まっていたのである。

その戦いとは、この世界を造ったのは「神々」なのか、それとも「唯一の神」なのか、人間は「生まれながらにして神」なのか、それとも「恵みによらなければ救われない」のか、という論戦である。

この論戦は、この世が終わるまでずっと神と悪魔との間で続く激しい戦いである。そして、我々は一体、どっちの側につくのか、絶えず、回答を求められている。筆者は、「神々」の側には決してつかないことを、子供の頃からはっきりと決意していたのであった。その頃は、単に教会の日曜学校で教えられた通りの教えに従っていただけであったかも知れない。その教会も、日曜学校も、まことに誤りの多い組織でしかなかったので、結局、その誤りはすべて後々、気づいて修正しなければならなくなるのだが、たとえそうであったとしても、筆者の中には、その頃から、ただ聖書の御言葉だけに基づいて、唯一の神だけを神とし、「神々を拝む」ことへの拒否感が、親族への情愛や礼節以上に強く、重んじるべきことであり、仏壇を拝むことはやってはいけないというはっきりした認識があったのだ。

その当時、筆者が拝むよう求められた仏壇は、筆者の先祖が祀られている場所であり、もしも筆者にキリストへの信仰がなければ、筆者は何のためらいもなく、先祖への感謝と畏敬の念からそれに手を合わせ、そして、何のためらいも不思議もなく、いずれ筆者自身も「神々」の一人となって、その仏壇に加えられ、代々、家系を守る者となり、子孫から手を合わせられるのだということを受け入れていたかも知れない。

(想像でしかないが)そうして筆者が仏壇に祀られる頃には、筆者にはもはや己の肉体もなくなって、食べることも、飲むことも、見ることもできなくなっているのに、毎日、毎日、子孫によって、位牌の前に、菓子やら、花やら、米やら、色々な供え物を置かれ、それを筆者はあの世から見て、ああ、もう一度、人生をやり直して、あの美味しそうな菓子を食べられたらなあ、とか、何よりも、生きているうちに、神の救いをちゃんと受け入れておくのだった…、キリストを受け入れなければ、行き先は地獄しかないと、地獄の釜の蓋が開いて、年に一度だけ家に戻れるという盆の時にでもいいから、子孫に警告できたら…などと思っていたかも知れない。

いずれにしても、キリストへの信仰がなければ、筆者は何の疑うこともなく、「生まれながらにして神」と信じる「神々の家系」の一人として祀られることになっていたであろう。

だが、そのようにして血統がものを言う「家」と一体となって、「生まれながらにして神聖」な存在として祀り上げられる人生から、筆者は様々な巡り合わせによって、完全に「ドロップアウト」したのであった。

物心ついた頃から、筆者の目から見ると、そのような価値観は、あまりにも変なのであった。こんなにも誤りやすい、未熟で、愚かな人間たちが、「生まれながらにして神」などということは、筆者から見ても、絶対にあり得なかった。むしろ、筆者が早くから求めていたのは、このような限界ある弱く愚かな人間たちの一切の思惑や行動を超えて、もっと高いところから、すべての被造物を正確に把握し、間違いなく治め、裁くことのできる、まことの神の存在であった。

このように、聖書の神への筆者の信仰は、ただたまたまキリスト教会なるところに、子供時代に関わったことによって生まれたものではなく、早くから、目に見えるこの世の一切の矛盾や不条理を超えて、また、人間の弱さや、愚かさや、罪深さを超えて、それらのすべての目に見える世の矛盾を克服することのできる絶対的な正義がどこかにあるはずだ、という確信に基づくものであり、もしそのような文脈で、神がおられるのでなければ、この地上を生きる意味そのものが存在しないという、筆者自身の切なる確信と求めがきっかけだったのである。

そして、その道は単純ではなく、筆者が今も聖書の神をまことと信じているとはいっても、子供時代にキリスト教会で受けた誤った教え込みから脱して、純粋に聖書の御言葉を自分自身で学び、知り、まことの神ご自身、キリストに直接、出会うために、どのような道を通らねばならなかったかも、すでに書いた通りである。

筆者は、自分が努力によって神に到達したとは言わない。これだけ苦しんだから、神に達する資格や権利があると言うつもりもない。苦行を通して神に達することができるという考えは誤りである。

苦しみがありさえすれば信仰が生まれるということは決してない。だが、信仰が生まれ、深められるために、苦しみが存在せねばならない場合は存在するのである。

聖書の信仰の先人たちのほとんどすべては、生涯を通して、苦しみによって信仰を練られた人々ばかりである。もしも彼らが、人生の初めからすべてが順風満帆で、幸せいっぱいで、何一つ思い悩むこともなく、立ち向かうべき問題も持たず、挫折もしなかったなら、彼らには信仰そのものが生まれなかったか、あったとしても、全く成長しないままに終わったであろう。

このように、救いも、信仰も、人間の努力によって達成されるものでなく、神の側から与えられる恵みであるとはいえ、神を求める気持ちが全くない人間に、神がご自身を啓示して下さることは絶対にない。人の中に、神を切に呼び求める願いがなければ、神はその人に自分自身を現さず、信じることのできる力もお与えにならない。

だが、神を切に呼び求める気持ちが人の心に生まれるためにこそ、しばしば、人は逆境や、苦しみの中を通らされねばならないのである。

さて、筆者は、「生まれながらにして神」という高みに祀り上げられる人生の歩みから、早々にドロップアウトしたが、それをとても幸運に思っている。なぜなら、自らその歩みからおいとましたからこそ、キリストの救いにあずかることができたのだと思うからだ。その両方を取ることは絶対に無理であったと確信する。

どういうわけかは全く分からないが、筆者には、子供の頃から、地上の「家」に思いを寄せつつも、そこが自分の最終的な「家」には決してならないという確信が存在していた。先祖から子孫に至るまで、家の人間がみな神々のように祀られている風景を見て、自分もそこに連なるのだという意識は持てなかった。むしろ、そのような自画自賛的な、自己肯定的な、自己顕示的な有様に対して、相当な違和感か、もしくは、拒絶感しか覚えるものはなかった。

それは単なる思想信条上の違いにはとどまらず、実際に、年月が過ぎるに連れて、ますます大きな考え方の差異を生んで行ったのである。年月が過ぎるに連れて、ますます、筆者は自分がその「家」の一員ではないという感じを強くして行ったのであった。

これはその土地が住みにくいとか、人々と気質が合わなかったとか、そんな皮相なレベルの問題ではない。むしろ、筆者はその土地が気に入っており、親族にもいたく心を寄せて、家に対する思い入れも存在したのである。あるいは、筆者が、その家を継ぐ者になるという可能性もないわけではなかった。

にも関わらず、そのような肉の情や絆は、決して筆者がその土着の宗教と一体化した家の一員となる決定的な要因とはならなかった。むしろ、それを断ち切ってでも、獲得せねばならない、より高度で重要な課題が現れ、筆者は彼らのもとを立ち去らねばならなくなったのである。

そして、今、「家」を代表する人が、筆者の目の前で、衰えて、子孫に道を譲ろうという段階になって、その人が、筆者に頼みごとをして来ている。だが、筆者は、それを簡単に受けるわけにはいかない。

肉における地上的存在としての筆者への頼み事なら、情によって引き受けることは可能であろう。しかしながら、主の御名を使って、キリストを通して神に願うとなれば、それは安易に受けるわけにはいかないのだ。

筆者が神に願うことができるのは、人の魂が救われて神に至ることであり、それ以前のどんなレベルの要求でもない。そして、人が救われて神に至るためには、しばしば、らくだが針の穴を通るように、その人が苦境を通らねばならないことを筆者は知っている。苦しみを軽減してほしいという人間の願いがどんなに大きなものであっても、しばしば、神はあえて人の信仰を試すために苦しみを用いられることを、筆者は実際に幾度も経験して知っている。

だから、主イエスが祈られたように、「できれば苦しみを私に与えないで下さい。けれども、たとえ苦しみがあっても、私は本当の神と出会うこと、本当の神がご自身を私に示して下さることを願います」というのであれば、それは筆者にはとてもよく分かる祈りであって、協力することは可能であり、そのような祈りを神が聞いて下さらないことはないと思うのだ。

人が神を知るために、地上で何の思い煩いも悩みも苦しみもなく、孤独にも迫害にも対立にも遭遇せず、本当の神を知りたいという祈りも探求心も持つことなく、ただ自分にとって喜ばしく心地よいことだけを体験しながら、何一つ地上的利益を手放すことなく、同時に、真理を知って神に至ることができるとは、筆者は全く考えていない。そのような救い、そのような信仰があると言う人がいたとしても、それを本当だとも思わない。

まことの神に至りつくために、苦労があるだけではない。まことの神を知れば知ったで、そこから、この神だけに従うための戦いも始まる。

その代価を自ら支払っていない、もしくは、支払うつもりのない人間に対して、救いだけを安易に投げて寄越す(約束する)ことは、神を軽んじることであり、神の救いを曲げることであり、筆者には、それは決してできない相談なのであった。

だが、死を間近にして、苦しみを逃れたいと懇願する人に、そのように返答すること自体、「おまえの宗教は何と残酷なのか」と受け取られるきっかけになりかねない。地上の肉親の情や絆だけをすべてとする人々には、この言い分は容易には理解できないであろう。そのように誤解される危険を十分に理解した上で、それでもなお、そのようにしか返答できないのである。

それは、筆者自身が、この神に従うために、この神だけに従うために、払い続けて来た代償を知っていればこそであった。他の「神々」にすがりながら、同時に、キリストの救いや慰めも欲しいと主張するのは、心の分裂でしかない。それは、夫以外、妻以外の幾人もの愛人と浮気を重ねながら、夫の愛、妻の愛も欲しい、私は伴侶を愛しているとあくまで言い張るのとさほど変わらず、神への貞潔さが欠けているのだ。だから、どうしても、まことの神に至りつくためには、その人の心の中に、激しいまでの純粋な願い求め、「正真正銘、本当のことだけを私は知りたい。嘘はもうたくさんだ」という思いが、なくてはならないのである。

筆者は、親族の抱える内心の問題を、親族が直接、神に願い求めるよう促し、まことの神はただ一人しかおらず、「神々」は存在しないのだという事実を告げた。そして、厳しいようだが、もし生長の家の教えが真実だったならば、今の現実(病)そのものが存在していないはずなのだから、この結果を見れば、この宗教の教えに、人を救う力がないことは明白ではないかと告げた。だから、もし救いを与える力がないのであれば、その教えは間違いであったことを認めて、本当の神を知りたいと望み、悔い改めて神に立ち返りさえすれば、神ご自身がその願いに応えて下さるはずだと。

キリスト者になったから、死なないと言うつもりはない。だが、私たちは、病を幻想として否定して、死を否定するのではなく、死と正面から向き合った上で、キリストがすでにこの最終的な敵である死を滅ぼされてことを信じている。キリストと共に死ぬならば、キリストと共に復活することを信じている。もしキリストの贖いを信じれば、その人は永遠の命を受けることができ、その命によって、死んでも、主と共によみがえって生きることができるのだ。
 
だが、筆者は、それ以上の説得を行わなかった。後は神と本人との対話である。たとえ苦しみを軽減したいという願いがきっかけであったとしても、他の神々のすべてを捨ててでも、本当の神に願い求めたいという強い気持ちが、本人に生まれるのならば、神が応えて下さるであろう。だが、今までの人生を振り返って、自分がすがり続けて来たものに、自分を救う力はなかったという現実に直面する勇気が本人にあるかどうか、自らまことの神を探し求める気持ちがあるかどうか、それは本人の意志と選択なのであって、もし本人にその希求がなければ、これはどんなに理屈が揃っていても、他者が強要したり、説得したりできるものではない。

そして筆者は、あまりにも親族が色々なものにがんじがらめにされているのを傍観しながら、もしそのようなこと(キリストへの信仰)が仮に親族の中に生まれたとしても、それはきっと想像を絶するほどに激しい戦いを巻き起こすだろうと思わずにいられなかった。

だから、筆者は、それ以上の領域に踏み込み、立ち入ってまで、本人の望まないことを、説得によって押しつけることで、人の意志を無理やり変えようとは思わない。だが、そのような状況で、筆者がずっとそこにとどまっていれば、かえって押しつけないという立場を悪用されて、筆者は情にほだされ、人が苦しまなくて済むことだけを最高の価値とする人間本位な教えに仕えさせられて行き、いずれ「死人を葬る」ことに助力させられてしまうであろう。しまいには、地縁・血縁の支配する土地で、他の神々を拝むことをも余儀なくさせられかねない。そうこうしているうちに、すでに後にしてきたはずのものに、すっかりからめとられ、引き戻されてしまうであろう。
 
おそらくは、キリストに属さない「霊」の狙いはこの点にこそこそにあるのだと思わないわけにはいかなかった。つまり、肉の情や義理を口実として、キリスト者をキリスト以外のものにがんじがらめにして行き、キリスト者の探求をやめさせることである。

だが、そんなことが今になってできるくらいなら、筆者はもともとこの土地を離れて移住することもなく、幼い頃から今に至るまで、この土地で何の問題もなく、親族らと共に、平和に幸福に満足して暮らしていたことであろう。自分も死んでいずれ仏壇に祀られ、神々の一人のごとく子孫に拝まれる対象となるという考えに何の違和感も持たなかったであろう。それらをすべて拒否して後にしてでも、向かわなければならない先があったのである。そこで一体何が打ち立てられたのか、どんな成果があるのか、未だ何もないではないか、と問われても、それでも目指さなければならない地が存在するのである。最終的には、それは見えない天の都である。
   
だが、そうはいっても、感覚的に慣れ親しんだ地上の故郷を後にするのは、人間的には常に断腸の思いであり、今回ほど、それが強く激しかったこともない。何しろ、客観的な判断としては、今の状況では、親族が他の神々を捨てて、まことの神の救いを心から求める可能性は極めて低いと言わざるを得ず、親族の救いを見ないまま、その地を後にすることがためらわれるだけでなく、筆者自身が、この血脈に支配される人間関係の中で、自分が決定的に「異質な存在」になってしまったことを強く感じるからだ。本当は、それはとうの昔に始まっていたことなのだが、それでも、筆者はまだ彼らにそれなりに受け入れられ、情による絆が強く残っていたため、この両者の間に横たわる決定的な違いを、筆者自身がそれほど体感していなかったのである。それが今、何かしら大きな節目を迎え、霊的な領域において、何かが断ち切られ、後戻りの道が閉ざされた。つまり、地上の故郷というものの欺瞞性が、もはや無視できないほどにまではっきりと筆者の目に見え、情による絆に、未だかつてない鋭いメスが入れられ、終止符が打たれたのである。

たとえどんなに長年の絆や、歴史があったとしても、どんなに強い情や義理で堅く結ばれていても、個人の救いというものは、他者がどうすることもできないほどまでに、極めて内心の厳粛な問題である。さらに、土着の宗教や地縁が深くものを言う社会で、このしがらみを脱することには非常に大きな犠牲が要求される。地上の肉による社会から受けられるすべてのメリットを捨て、そこから来る対立をすべて乗り越えるほどの強い信仰がなければ、このような環境で、キリストへの信仰は生まれようがなく、維持することも不可能なのだ。それは奇跡であり、人間の側からの激しい願い求めと、神の側からの強い介入なくしては決して生まれ得ない奇跡である。
 
さらに、筆者が思うことは、筆者が誰かにキリストの救いを語り、十字架の死と復活を語る時、筆者の心に溢れる感動や、喜びは、あくまで筆者自身のものなのであって、他の誰のものではないということだ。

筆者がかつて関東に移住し、エクレシアに連なりたいと願って、それを神に願い求め、神がこの願いを不思議な方法で聞き届けて下さった時、筆者の心には大きな喜びがあり、すぐさま信仰仲間とその喜びを分かち合えるのではないかという期待感があった。だが、それはあくまで筆者の信仰に、神が直接、応えて下さっただけのことであって、他者とは関係ないのであった。それは関東にいた信者たちがとりわけ素晴らしく、彼らが親交に値するから、筆者を彼らの中に投入することで、何かを学ばせようと、神がそういう出来事を起こされたわけでもなかった。ただ、筆者の心に生まれた願いがそれほどまでに強く、諦められないものであり、純粋な願い求めだったので、御言葉に基づいて、神がそれを叶えて下さった、というだけのことである。一言で言えば、その後、起きて来ることについても、その時と同じほどの強い決意を持って、探求を続けねばならないのであって、何もせず待っていさえすれば、何か素晴らしいことが起きるということは、絶対にないのであった。

筆者はしばしば、自分が感じている喜びや感動を、他者とも分かち合うことができるのではないかと期待する。神が筆者に与えて下さった素晴らしい恵みを、他者と分かち合おうと考える。あるいは、神が出会せて下さったキリスト者なのだから、これはきっと素晴らしい信仰仲間なのに違いない、などと安易に考える。ところが、神は、それは違う、とはっきり示される。

「私はあなたが私に求めたから、あなたが私を信じているから、それに応えているのであって、そこに他の人は一切関係ないのです。他者にはほとんどの場合、あなたが考えていることがほぼ全く理解できませんし、あなたと同じ恵みを分かち合うこともできません。どんなにあなたが喜びに溢れ、天に昇るほどの感動を覚え、御言葉の意味を悟り、この恵みをぜひとも他の人に伝えたい、他の人にも同じように解放されて欲しい、などと切に願っていたとしても、ほとんどの場合、それを受けとることができる人々の数は、あまりにも限られており、他者の心の状況はあなたとは全く違うのです。

たとえその人がキリスト者であっても、信仰があるから、あなたと同じ理解を共有できるということも、ほぼあり得ません。この点で、あなたに求められていることは非常に厳粛です。あなたはどんな時でも、他者の理解や共感や賛同を一切当てにせず、ただ私だけに聞き従い、私だけを見て、私の考えだけを探るべきであって、一瞬たりとも、他者との関係で自分をとらえ、他者の心の中で起きることに足を取られて、他者の顔色を伺うようになって、思うように良好な関係が生まれないと言っては自分を振り返り、後悔や反省に明け暮れたりして、自由を奪われるべきではないのです。

あなたが私の名による福音を語っても、人々が聞かず、あなたが手を差し伸べても、人々が拒絶し、あなたが仲良くなろうとしても、嘲笑や拒絶だけがかえってくることは往々にしてあります。さらには、ようやく純粋な信仰仲間に出会えたと思った瞬間に、その人が地上から取り去られるということもあるでしょう。

その時、あなたはいぶかしむでしょう、『このミッションは、神に祈り、願い、神が許されて起きたはずなのに、どうしてこんな不本意な結果にしかならないのか。私がどこでどう間違ったから、このような結果に至ったのか』

それを不本意だと思う必要はありません。もちろん、そのような結果にならないよう、願い求めることは有益です。しかし、動かせない結果が出たなら、それが人々の応答であり、また彼らの選んだ結末なのです。あなたを誰かが拒絶したとしても、それをあなたがまるで自分の責任のように感じる必要もありません。聖書の預言者のすべては、人々からそのように扱われたことを思い出しなさい。私の名で語れば、いつも人々から友好的な反応が得られ、私の名で語れば、人々に通じるということはまず絶対にないと思って差し支えありません。むしろ、人々は様々な地上的な理由づけを持ち出して反対して来るでしょう。しかし、あなたは人々の反応がどんなであれ、ただ私だけに従って来なければなりません。もし人々との間で望ましい結果が出るとしても、それはあなたが人々に良好で望ましい態度で関与をしたからではなく、ただあなたが私との間で自分の召しとして与えられた探求を決して諦めずに遂行し続けた結果でしかありません。」

2017年5月 9日 (火)

十字架における死と復活の原則―神の御前での単独者としての厳粛かつ孤独な歩みを決して忘れるな―

前回、キリストにある新しい人(栄光から栄光へ主の似姿に変えられて行くこと、復活の命による統治、命の御霊の法則)というテーマについて語る際、法則性はない、と書いたが、この点について改めて訂正もしくは補足をしておきたい。これまで繰り返し書いて来たことだが、「主と共に十字架の死と復活にとどまる以外には法則性はない」と。

なぜなら、ゴルゴタを離れること、キリストと共なる十字架の死の重要性から少しでも目を背け、これを過小評価したり、言及せずに通り過ぎることは、たちまち、クリスチャンを別な道へ逸らせる大きな危険性であることを、改めて思わされるからだ。

筆者にも、クリスチャンが低められること、主と共に苦しみを負うことについて、長々と語りたくないという衝動が生じることがある。そのようなネガティブな話題からは、いい加減、目を背けてもいい頃合いではないかと。しかしながら、そうした衝動や願望にははかりしれない危険がある。

主と共なる死からクリスチャンが卒業できる日など来ることは決してなく、キリストの十字架は、来るべき世においても永遠の偉業として打ち立てられている。だから、クリスチャンが、主と共なる栄光は欲しいが、死は負いたくないという衝動に安易に身を任せて、十字架の死について沈黙し、復活という側面だけを語ろうとすることは、極めて重大な危険としての背教に陥る最初の一歩なのである。

主と共に栄光を受けたいならば、主と共に苦難をも受けるべきである。高められたいならば、低められることにも甘んじねばならない。キリストと共なる復活の側面だけを重視して、死の必要性を少しでも過小評価することは、たちまち、我々キリスト者を違った教えへと逸らせる要因にしかならない。

実際に、幾度も書いて来たように、筆者の知っている多くのキリスト者たちが道を誤ったのは、彼らがキリストと共なる死の中にとどまることをやめて、ゴルゴタの装甲の外に飛び出し、主と共なる輝かしい復活の要素だけにあずかろうと願ったためである。そのために、彼らは自画自賛、自己顕示、自己宣伝、セルフを建て上げる道へと逸れて行ったのである。その結果、ついにはセルフを神とし、自分への恵みを受けるためだけにキリストを利用し、主イエス・キリストを否定するまでに至っている。

そのような誤りに陥らないために、たとえ生活の何もかもが順風満帆で、思わぬ苦しみや不幸のように見える出来事に全く遭遇することなく、自分の名誉が望まずして傷つけられたり、恥を負わされたりすることがなかったとしても、あえてゴルゴタの死の中にとどまろうとする姿勢がどれほど重要であるかを思う。

特に、人に誉めそやされたり、ありがたがられたり、重宝されるようなことがあれば、特別な用心が必要であり、そうしたどこから来たのかも分からない流れに持ち上げられ、流されることなく、主と共なる死の中に自らとどまろうとする姿勢は非常に重要である。

ゴルゴタは我々にとって最も堅固な要塞であり、装甲のようなものである。そこから一歩でも外へ出ることは、神の守りの外へ自ら出ることを意味し、その結果として、自分を守ることができなくなる。人前に、キリスト者ゆえの苦難を受けることを厭い、他人からのお世辞やお追従を好み、自画自賛や、自慢話に明け暮れ、自分を喜ばせる快楽(目の欲、肉の欲、持ち物の誇り)を好んだ人の中に、正常な信仰を維持しえた人間は、これまで一人もいない。そういう人間は、信仰を持たない世でも忌み嫌われるが、まして信仰者としては完全な失格者となる他ない。だから、我々はどんなに神の恵みが雨のように降り注がれたとしても、決してそのような道を行かないことを宣言する。

さて、筆者の家人や親族への義務はあらかた終わったことを思う。筆者は、束の間、地上の故郷に帰って来たが、それは地上の肉の絆を確かめ合うことが目的ではなかった。

キリストは公生涯の間、家を持たず、地上における職業を持たず、御霊の導きのままに歩まれた。だから、主がそうであれらたのだから、筆者は、地上の故郷を故郷と呼ぶことはもうないだろう。ここは伝道のために立ち寄った地の一つに過ぎず、そこが筆者にとっての真の故郷ではないからだ。
 
『ギルバート・グレイブ』という映画を知っている人は覚えていると思うがが、そこに、地上の家を離れることができないまま生涯を終えた主人公の母親が登場する。彼女の悲劇は、家から一歩も外出ができないほどまでに太ってしまった点にあるのか、それとも家から離れられなかった結果そうなったのか、どちらが先かを論じても仕方がないが、少なくとも家がもたらす精神的束縛(もしくは現実逃避)こそ、そのような結果を招いたことは間違いない。

地上の家というものは、多かれ少なかれ、そういうものだ。肉親の情愛はどんなに美しく飾られていたとしても、最終的には、人間を縛りつけ、また、現実逃避のための砦や繭となってしまう。

地上の故郷や、肉の絆にしがみつく人々は、家族や親子の情愛という麗しいヴェールで、生まれながらの自分自身の弱さを覆い隠そうとしているに過ぎない。それは、堕落した人間の自己欺瞞の手段であり、さかのぼれば、創世記において、罪を犯したがゆえのアダムとエバが、自分が裸であることを知って、己の恥を隠そうとして編んだイチヂクの葉に由来する(それがイチヂクだったのかどうかは定かではないが、筆者はこれを便宜上「イチヂクの葉」と呼んでいる。)また、弟アベルを嫉妬ゆえに殺して神から逃避するに至ったカインが、自分や一族を復讐の脅威から守るために築き上げた都市(要塞、城壁)に由来する。

筆者は、地上における家というものは、霊的には、このイチヂクの葉、カインの城壁と密接につながっており、それはすなわち、人間の滅びゆく命の防衛の砦としての地上の肉体の幕屋そのものを象徴しているように思えてならない。

人間の肉体は、その人自身の一部であると同時に、その人の脆くはかないアダムの命を持ち運び、これを守るための砦(幕屋、宮)である。

この宮は命を守るために存在する。しかしながら、人間の肉体は、朽ちゆくものであるから、宮を守る使命とは裏腹に、命を守るにはあまりにも不十分であり、脆く、弱い砦でしかなくい。宮だけでなく、肉体という宮によって守られている命そのものも、有限で儚いものである。そのような人間の命の弱さ、脆さ、限界は、罪から来るものであり、最終的には、罪の報酬である死が命全体を滅ぼし、奪い去ってしまう。

だが、そのように人間の命が脆く有限であるにも関わらず、生まれながらの人間は、己の罪を認めず、己の罪のもたらす当然の結果である己の有限性、弱さ、脆さを認めず、最終的には、死をも認めようとしない。

たとえば、三島由紀夫は、自らの肉体を鍛え上げることで、己の精神的弱さやコンプレックスを隠し、そこから目を背けようと試みた。三島由紀夫の人生においては、マッチョイズムによる自己からの逃避は、私営の軍隊の創設、盾の会といったより高度な形へと発展して行く。そして、最後には、自己を守るための「殉死」(結局は自己破壊)という、パラドックスに満ちた究極の結末へと至りつく。そこには、天皇を守るためという大義名分がついていたが、その根底にあるのは、生まれながらの人間の有限なる命への絶望感と、己の罪を否定して、己を永遠の存在に高めようとする願望であった。

天皇を現人神とみなすことで、三島が何とかして信じようとしていたのは、生まれながらの自己の命の永遠性である。天皇を神とみなし、それに殉ずることで、三島が永遠の存在へと高めようとしていたのは、他ならぬ自分自身であった。

三島は、生まれながらの人間とその美を愛するあまり、生まれながらの人間が朽ちゆくもろく儚い、滅びゆく存在に過ぎないという事実が認められなかった。彼は朽ちゆく人間の命を惜しみ、己の肉体を鍛えることや、目に見える人間を賛美することで、人間の命が滅びゆくものであるという事実そのものを、人類への冒涜とみなして否定し、アダムの命とそれを守るための砦としての人間を永遠とみなそうとした。肉体を鍛え、軍隊を創ることは、人間の有限性という事実を否定する手段であり、最終的には、自分自身を理想化し、これを永遠の存在として保存するために、自死という最期を遂げたのである。

さて、地上における肉による絆だけによって築き上げられる「家」というものも、筆者には、上記と全く同じ文脈で、人が地上の朽ちゆく有限な命と、その幕屋としての肉体を永遠とみなそうとする自己欺瞞の思想の象徴であるように感じられてならない。

すでに別な記事で幾度も論じたように、万世一系という神話を作り出し、天皇と臣民を一つの家になぞらえ、「家」を守るために、個人が自己の命を捧げることが、人の最高の使命であるかのように教え、親のために子が命を捨て、指導者のために部下が命を捨て、天皇のために臣民が命を捨てて、こうして、「家」を存続させることによって、人類が己の「神聖な」命を存続できるかのように教える考えは、結局、人が生まれながらのアダムの命の有限性を否定して、自らを永遠とみなそうとする偽りの思想から出て来たものに他ならない。

そうした文脈における「家」とは、通常の文脈におけるただの家を指すのではなく、偽りの神話に基づいて、生まれながらの人間の家系(=アダムに属する人類の血統)を神聖視・絶対視するために作り出された要塞であり、かつ神話である。人間には明らかな寿命があるため、人間の命が永遠でないことは、誰の目にも明白な事実であるにも関わらず、子孫が先祖に仕え、代々、家を守ることが人間の使命であるかのように説くことによって、この思想は、人間の命を血統になぞらえて不滅のもののようにみなし、アダムの命の有限性から目を背けて、人類という堕落した血統を神聖で永遠のものであるかのように讃えようとしているのである。

そのような考えで、もし個人を「家」を守るための手段とするならば、その時、その個人はもはや個人ではなくなり、実際には存在しない「神聖な家」の附属物か、もっと言えば、家の象徴のようなものへと変えられて行く。

そのようにして「家」と一体化した個人は、自らの意志を奪われた、偽りの神話の象徴となり、束縛された奴隷も同然になってしまう。万世一系などといった神話でどんなに飾りたて、どんなに不滅のもののように見せかけ、誉め讃えても、この偽りの思想は、その虜となった人間を滅ぼしてしまうだけなのだ。

『ギルバート・グレイプ』に存在する母親のように、人が自らの弱さ、脆さを隠すために築き上げる要塞としての家に束縛されてしまうと、その人間は、その偽りの安全から外に出て、現実に直面する勇気を失って、家と一体化してその象徴と化してしまう。その家は、人間の弱さや脆さと直面することを拒否する、同情や優しさに見せかけた様々な偽りの情に塗り固められて美化されてはいるが、実際には、人を縛りつける場所にしかならず、誰をも自由にはせず、幸せにもしない。

筆者は、今、我が国は曲がり角に来ており、大きな過渡期にあるものと思う。すなわち、敗戦後、我が国は、天皇を現人神とみなすことをやめ、象徴天皇制に移行した。官吏は天皇に仕える僕ではなくなり、公務員は国民の公僕とされた。しかしながら、この改革は非常に中途半端なもので、数多くの矛盾を抱え、数多くの点で、ミイラのような過去の残存物を内に抱えている。

すでに書いたように、憲法上の真の公務員の定義は、官僚を指すものではなく、選挙で選ばれた政治家を指すものであって、現在の官僚は、本当の意味での公務員ではなく、戦前の官吏の影のような残存物であって、勝手に公務員を詐称しているに過ぎない。さらに、天皇が国民の象徴として存続し続けることの矛盾は、天皇自身が退位を望んだという事実に何よりも明白に表れている。

筆者は、神と人とがつながるために、キリスト以外のどんな仲介者もあってはならず、牧師という役職は不要であると再三に渡り、述べて来たが、それと全く同様に、国民の象徴としての天皇という存在も必要ないと考えている。

すでに説明したように、カトリックのような、法王を中心とする聖職者階級を否定して、聖書の真理をすべての人々に解放すべく行われたプロテスタントの宗教改革は、結局、牧師を中心とする教職者制度を残したことによって、非常に中途半端で、かつ、矛盾だらけの改革に終わった。そして、当然のごとく、このように中途半端に教職者制度を肯定したことは、悪魔に口実を与えるきっかけとなり、その結果、牧師夫妻を「霊の父・霊の母」として崇めるような、全く聖書に反する異端の思想が、公然とプロテスタントに侵入して来る契機を作ったのである。

日本国憲法も、結局はプロテスタントに起きた現象と同じような、中途半端な過渡的改革を示している。敗戦後、天皇を神として崇める思想は否定されたものの、天皇制そのものは廃止されず、これが国民の「象徴」として残されたことによって、依然として、主権在民が完全に実現しないまま、改革は中途半端に終わったのだ。国民一人一人が完全に個人としての自覚や責任を持つには大きな妨げが残ったのである。

そして、天皇が「象徴」として残されたことによって、ただ未来への前進が中途半端に妨げられただけでなく、さらに、過去に立ち戻ろうとする動きにも口実を与えることとなり、戦前回帰などという愚かな潮流の出現も手助けされているのである。

そこで、以前も述べた通り、次なる時代が到来するためには、筆者は、プロテスタントもそうであるが、我が国の体制そのものも、この中途半端な「象徴」を取り除き、一人一人が完全な主権を取り戻し、個人が個人として生きられるような形式を整えるしかないと考えている。今はそのための過渡期・移行期であって、歴史を逆行して、天皇を再び現人神とすることによって、後退することが必要とされているのではなく、むしろ、天皇制を廃して、完全なる国民主権を実現することで、未来へ前進することこそ必要なのであり、もしも憲法を改正するならば、そのような前進の文脈でこそ、初めて意義が生まれるのである。

皇族や、国民の象徴という言葉は、いかにも偉大な響きを帯びてはいるが、実際には、天皇の任務は、考えられているほど尊いものでもなければ、美しいものでもない。そのことが、天皇の退位という問題をきっかけに、今になってようやく多くの人々に広く認識されるようになった。

象徴天皇制は、天皇自身に人権すら与えずに、一生、生まれながらに選択の自由もなく、象徴としての義務に縛りつけるような、残酷な束縛の枷にしかなっていない。

天皇自身がその矛盾に気づいており、象徴であり続けることに疑問を感じているにも関わらず、そんな制度をありがたがり、天皇の気遣いを受けることで、自分が満たされ、高められるかのように錯覚している国民がいるとすれば、その国民の方も、(まるで牧師の気遣いに依存する信徒同様に)全くどうかしていると言わざるを得ない。

他人に犠牲を強いることによってしか、自己の価s値を十全に感じられないというならば、その充足感は偽りである。たとえ高齢の天皇が退き、若い世代に道を譲る事で、新たな天皇を立てたとしても、生きた人間を「象徴」的存在に閉じ込め、自由な意志選択や自己決定権を奪うことの忌まわしさは何一つ変わるものではない。

それなのに、なぜ人間は、まるで金の子牛像を拝むようにして、常に自分の偉大さを証明してくれる、目に見える象徴を求め、目に見える自分以外の人間からの賞賛や支援や同情や激励の言葉を求めずにいられないのか。

そういう浅はか弱々しく自己本位な願望と訣別すべき時が来ているのである。にも関わらず、もしこれから先も、我が国の国民が、他者からの賞賛や激励や同情といったものを求め続けるならば、その美しい言葉を口実に、どんどん自らの自由と権利をかすめ取られて行くだけであろう。

そのような文脈での「象徴」としての任務が、光栄な務めであって、偉大な使命であると考えるのは間違っている。それは人間の依存心を助長し、自立を妨げ、無用な束縛を増し加えるだけである。

さて、話を戻せば、偽りの思想における「家」というものの欺瞞性に、筆者が言及したのも、以上と同じ文脈である。家系を代々、絶やさないことによって、家を守ることを人の最高の使命とし、それによって、人類の血統を永遠のものに高めようとする思想は、非常に忌まわしいものでしかなく、そのような文脈によって生まれる「家」というものも、何ら美しい存在ではない。

また、『ギルバート・グレイプ』の映画に登場する母親のように、分厚いたるんだ脂肪に包まれているだけの人間も、三島由紀夫のように、自らの肉体を鍛え上げることで、肉体美・筋肉美を誇る人間も、外見はまるで正反対のように見えたとしても、本質的には全く同じであり、両者ともに、生まれながらの人間の自己を神格化し、その考えに基づいて、人類という「家」を守るためのカインの城壁にしがみつき、束縛されているだけなのだ、という事実に気づく人は少ないだろう。

結局、この両者は、己の肉体にしがみつくことで、どちらもが地上の故郷である「家」へしがみつき、執着しているのである。象徴としての「家」を絶対視・神聖視し、それに自ら束縛されることで、己の有限性、弱さ、罪を否定して、現実から目を背けて、堕落した人類には存在しないはずの永遠に思いをはせているのである。その偽りの思想は、個人に個人として生きることを許さず、秩序を転倒させ、最終的には、個人を滅ぼしてしまう。

その結果、本来、家というものは、家族の成員を守るための屋根のようなものに過ぎないのに、この屋根を守るために、家族が命を捨てるという本末転倒な結果が生まれるのである。あるいは、肉体は、命を守るための砦に過ぎないのに、その砦を不滅のものとするために、人が自己の命そのものを滅ぼすという結果になる。こうした考え方を延長して行くと、牧師のために、あるいは教会組織のために、信徒が命を捧げ、企業を守るために社員が命を捨て、象徴天皇制を守るために、国民が犠牲を払い、あるいは天皇のために、もしくは国のために、再び国民は命を捨てよという思想が生まれる。

このような思想においては、何もかもがさかさまである。人間のために家があるのに、家のために人間が存在することにされ、人間のために肉体があるのに、肉体のために人間が存在することにされ、人間のために組織があるのに、組織ために人間があることにされ、国民のために国があり、天皇が存在するのに、天皇のために、国のために国民が存在することにされてしまう。

最終的には、そのようなさかさまの思想は、神と人との秩序を転覆させる。聖書によれば、本来、人間は、神に仕える宮であるのに、その宮に過ぎない者、被造物に過ぎない者が、主人である神を超えて、自らを永遠の存在として誇るという秩序転倒に至る。宮が主を超えてしまうのである。

その結果、パラドックスに満ちた現象が起きる。自らが神聖でないのに、神聖の領域に不法侵入した者が、打ち滅ぼされる。 自らが永遠でないのに、自らを永遠と宣言した者が、己を滅ぼし、それによって、自らが永遠でないことを逆説的に立証するのである。天皇のために「殉死」した三島もそうであったし、滅んだ「皇軍」もそうであり、家と一体化したまま死んだ母親もそうだが、結局は自殺としか言えない結末に至るのである。

こうして、腐敗した朽ちゆくアダムの命を神聖視し、滅びゆく不完全な地上の幕屋としての肉体にしがみつき、人間を滅びに導くだけの肉欲にしがみつき、朽ちるものに執着し、それに同情の涙を注ぐことによって、滅びゆく自分の堕落や弱さから目を背けて、自己を保存しようとする人間の自己防衛の試みは、究極的に、自己破壊という結果に至りつくだけなのである。

だから、家を自分の弱さから逃避するための手段として用いる人々もまた、自己の罪を隠すためのイチヂクの葉により頼んで生きているだけなのだと言える。地上の組織の強化や拡大にこだわる人間もすべてこれと同じである。

家にしがみつく人間も、企業の繁栄や、宗教団体の繁栄や拡大にこだわり、あるいは国家の強化や、軍備の増強を唱える人間は、すべて同一線上に立っている。それは決して十字架の死を経ることのない、アダムに属する人間の、生まれながらの自己(セルフ)を建て上げ、永遠に肯定したいという欲望の言い換えに過ぎないのである。

生まれながらのセルフの腐敗・堕落を隠すために、彼らはその覆いとしての宮(肉体、家、組織、国家)を賛美し、そうすることで、神に背いた人類の堕落した本質を隠しながら、被造物に過ぎない自分自身を、造物主以上に掲げて、神と宣言しているのである。

このように、神を口実にしながら、結局、神の地位をのっとることで、己を高め、神格化しようとするこの思想の傲慢さ、忌まわしさは、三島の「殉死」が、彼が最も崇めたはずの他でもない天皇の意志を無視して単独で行われたことにもよく表れている。どんなに天皇を口実に掲げていても、三島の最期は、現実の天皇の意志をまるで無視して行われた独りよがりなパフォーマンスに過ぎず、結局、三島が望んだのは、天皇を口実に持ち出すことで、自らを神格化することだけだったのである。

今、戦前回帰を持ち出して天皇を担ぎ上げ、讃えている人々がしていることも、全く同じである。天皇をありがたがる人々ほど、実際には、天皇自身の意志や人格などまるで尊重してはおらず、単に自己を高める口実として、他者を利用しているに過ぎない。

そして、プロテスタントの信者が牧師や教会組織にこだわる理由もこれと同じである。彼らは、自分たちの属する教会やリーダーを絶対視し、誉めそやすことで、結局、自分を偉大な存在に祀り上げようとしているだけなのである。家や家系を絶対視する人々もそれと同じであり、その根底にあるのは、常に自己を偉大な存在とする口実が欲しいという「セルフの神格化」の願望だけである。

真のキリスト者の願いや、目指す目的は、決して、以上のような人々と同じものではない。キリスト者の目的は、地上的な様々な象徴によって自己を強化し、武装し、己を高めて、神聖視し、それによって、自己の抱える本当の弱さ、愚かさ、罪深さから目を背けて、自分を偉大に美しく見せかけることにはない。我々にとって、真により頼むべきものは、そうした地上的なものではない。

だから、冒頭のテーマへ話を戻すと、もしもクリスチャンが、主と共なる十字架の死にとどまることの重大な意味を忘れ、主と共なる復活、栄光だけを願い始めるなら、その人はたちまち、自分では神に従っていると錯覚しながら、実際には、生まれながらの己を神として祀り上げる誤った方向へ逸れて行くであろう。

また、少しでも、神との直接的な交わりではなく、地上の人間たちとの横のつながり、人間との絆や連帯を賞賛し、もしくは自分の帰属集団などに価値を見いだし、栄光を帰そうとするなら、たちまち以上のような誤った思想へ逸れて行くであろう。

多くのクリスチャン(と称する人々)が実際にそうなったのであり、筆者はまさにそれゆえに、地上における家にこだわり、地上的な情愛にとらわれることへの重大な危険を思い、また、それを警戒している。

もしもこうした要素を信仰生活に少しでも混ぜ込むならば、たちまち、神への純粋な従順も失われてしまうであろう。

確かに、「主イエスを信じなさい、そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」という御言葉には重大な意義があるが、それは、決して、我々が肉の情愛を神聖視し、それにしがみつき、埋没するための口実ではないのだ。

人は、地上における自分の家や、勤め先の企業や団体、もしくは宗教団体や、国家といった組織を隠れ蓑のように利用して、その中に埋没することで、己の罪や弱さや限界から目を背けるのではなく、常に個人として、一人分の重荷を負って生きねばならない。その生き様は、集団の中に自分の居場所を求め、地上への帰属を誇ることで、個人としての孤独や自分独自の使命を忘れ、自己の本質から目をそらそうとする衝動や生き様とは正反対である。

集団に埋没することの中には、自己忘却の誘惑としての安楽が常にあるが、それはキリスト者の道ではない。

人はもともと集団を維持するための道具として生まれているのではなく、個人として生きており、それゆえ、個人としての意志や、独立性を生まれ持っている。他の誰のコピーや附属物でもない、オリジナルな、他から独立した、個人として生きており、それゆえ、個人としての尊厳や、諸権利が生じるのであり、個人の尊厳は、決して、帰属集団によって担保されたり、定義されるものではない。誰のコピーでもないオリジナルであるがゆえ、その使命も人と同じではなく、独自の重荷を負わねばならない。ましてキリスト者はそうであり、キリスト者は、「日々の十字架」として、一人分の重荷、一人分の孤独、一人分の十字架を常に負う任務があることを筆者は疑わない。地上では寄留者として、どこにも最終的に定住することなく、つつましく歩み、常に神の御前の単独者としての孤独を負い続けねばならない。

だが、多くのクリスチャンを名乗る信者たちが、まさにつまずき、脱落して行ったのは、この点であった。

彼らを堕落させたのは、自分は絶対に一人になりたくない、孤独を負いたくない、人間の絆から切り離されたくない、人間の絆から生じる温もりや、連帯を失いたくないという願望であった。その思いが、彼らが十字架の死を経ない、アダムの命によって生じる生温かい情に身を委ね、集団の中に安易に埋没して、神の御前での単独者として、自分独自の重荷、自分独自の孤独、自分独自の十字架を負うことを拒ませるきっかけとなり、その孤独な歩みを忘れさせたのである。そのような信者たちは、その後、まるで営利企業や、軍事力の強化に走る国家も同然に、自分たちの連帯を神聖視し、賛美しながら、自分たちの属する宗教団体の権威や威光を誇示し、これを強化・拡大することを至高の目的として、完全に誤った道へと逸れて行った。

筆者は、彼らと同じ道を決して行くまいと決意している。だが、そのためには、神の御前で、どんな時も、キリスト者が自分一人分の孤独を自ら背負い続ける姿勢が、極めて重要なのだと思わずにいられない。その任務は、人の目には、孤独で悩み多きもののように見えても、地上における人間たちのどんな種類の連帯にもまさる意義を持つと確信している。

つまり、神に満たしていただくためには、神が来られる前に、信者である人間が、すでに満たされてしまっていては駄目なのだ。神の御許にだけ、我々が携えて行かねばならない一人分の孤独、弱さ、限界、飢え渇きがどうしても必要なのである。神の御前で、人間が、すでに満たされてしまっておらず、孤独で、飢え渇いていることが必要なのである。

ところが、人間が、自分自身の弱さを恥として否定すべく、自分で自分を強め、孤独を忘れるために、自分を慰め、励ましてくれる象徴を自ら作り出し、人間の温もりと連帯の中に安易に身を埋めると、本来は、神に向けるべき、一人分の飢え渇きが、あまりにも簡単にあっけなく失われてしまう。そして、もはや以前のように、悩みや苦しみの中でも、心の底から神を求め、信じて見上げるだけの純粋な信仰、純粋な叫び、祈り、求めが曇らされ、なくなってしまう。最終的には、そのような人間にとっては、ただ神にのみ自分のすべてを委ねて生きることよりも、悩みや苦しみから手っ取り早く目を背けて、自己の弱さを忘れることおの方が、はるかに重要課となり、まるで中毒患者のように、現実の自分自の弱さから目を背けるために、自己に慰めをもたらすものに依存し、それを手放せなくなる。それが家であったり、家族であったり、偉大に見える指導者であったり、企業や宗教団体であったり、または国家になったりするのである。

そのような状態こそ、筆者は恐れるのだ。人間的な観点からは、まことに幸福そうで、問題がなく、強そうで、理想的で、満たされているように見えたとしても、神を語りながら、実際には、まるで神を必要としないという、人間側の独りよがりな状態以上に、忌むべき状態があろうか。しかも、キリストが来られるよりも前に、信者の側がすでに満たされてしまい、自己陶酔、自己満悦、自画自賛に陥っていることほど、神の目に忌むべきことはないと思われてならない。我々にそのような錯覚としての偽りの満足をもたらすものは何であれ、早々に手放し、ゴルゴタの死へ戻るのが最善である。

2017年5月 7日 (日)

十字架の死と復活の原則―死よ、おまえの棘はどこにあるのか。死を打ち破り、よみがえられたキリストの御業―

さて、記事では、これからずっと、キリストにある新しい人(栄光から栄光へ主の似姿に変えられて行くこと、復活の命による統治、命の御霊の法則)というテーマを追って行きたいと考えているが、このテーマについて、何かしら方法論めいたものを記すのは土台、無理であるばかりか、避けるべきことだと考えている。

なぜなら、こうした問題には決まった方法論というものは存在しないと思うからだ。筆者が考えているのは、信者が何かしら偉大な宣教者や、偉大な人格者となったり、超人的な力を発揮して生きるための方法論を見つけることではない。

もちろん、筆者は、キリストの復活の命が、父なる神の御心にかなった天的な統治そのものであり、そうである以上、この命によって生かされるキリスト者には、様々な不思議が起きることを否定しない。だが、それでも、キリストにある新しい人とは、決して超人めいた存在を意味するのではなく、むしろ、ごくごく自然で素朴な人間なのである。それは、信者がキリストにあって、神が本来かくあれかしと意図してその人を創造された通りの、のびのびとして誰にも似ていない自然な個性を生きることであり、主ご自身がそうであられたように、調和の取れたあるべき人間として、地上を生きることであると考えている。

だが、調和の取れたあるべき人間と言っても、それは決して、どんな苦難や挫折や失敗とも無縁の、何かしら偉大で理想的な人間の標準や鋳型を意味するのではない。そもそも、信者になったとたんに、信者の人格が突如として高められ、すべての心の葛藤がなくなって、どんな困難や苦しみにも直面せずに生きられるようになると考えるのは、大きな間違いである。

むしろ、信者になればこそ、起きて来る葛藤もある。ジョージ・ミュラーやハドソン・テイラーなどの信仰者の伝記を読んでもすぐに分かることだが、信者になって改めて生じる罪との闘い、聖潔への願いなど、キリスト者にならなければ起きない葛藤というものも存在する。また、信仰ゆえの苦難や迫害なども起きて来る。

だが、そのような戦いから来る葛藤をさて置いても、筆者は、キリストにある信者の内的刷新とは、一直線に高みへと昇って行くというような、非常に分かりやすい単純な変化の過程を辿るとは思わない。ワインにも熟成期間があるように、信者の人生には、ただがむしゃらに前進するだけではなく、一見、何のためにあるのかも分からないような「遅延」や「停滞」の時期も必要なのではないかと思う。

これは筆者の自己弁護のために作り出した詭弁ではない。もしそうでなければ、何のために、アブラハムとサラは、待望の息子イサクの誕生をあれほど長い間、待ち望まねばならなかったのか? なぜヤコブはラケルを得る前にレアを娶らねばならなかったのか? なぜヨセフは兄弟に裏切られ、エジプトへ売られねばならなかったのか?そもそも、なぜキリストは十字架にかけれられ、死を経ねばならなかったのか?

信者が意識していなくとも、神は、天然の命から来る衝動が死に絶えるまで、信者の人生に「停滞」や「遅延」のように見える期間を許される。それは神ご自身が用意されるものであって、信者が自ら望んで獲得するものではないが、ある意味、十字架の死の象徴であり、霊的な葬りの期間である。

さて、前回の続きとなるが、筆者はある商人からヴァイオリンを買った。それはそれほどまでに大した楽器ではないので、帰郷の際に、子供の頃から練習していたヴァイオリンを家人に借りてみると、そちらの方が良い音がするように思われた上、体にもよくなじんでいた。むろん、どちらの楽器にも良さはあるのだが、弾き続けた楽器以上のものはない。そして、このなじみ深い楽器を手に取って数週間が過ぎると、子供の頃に練習していた曲がいくつも自然と思い起こされるのだった。

世間では、楽器をマスターするには、15歳頃から、どんなに遅くとも20歳を迎える頃までに、技術的に完成の域に達していないと、一流の水準に達するには遅すぎるものと考えられている。つまり、成人するまでの間に、完全なテクニックをものにできなければ、その後は、どんなにやっても、しょせんプロの水準とはならず、生涯、アマチュアの域を出ないと考えられている。そういうわけで、当然ながら、プロの音楽家を目指す人々は、物心ついたその時からずっと楽器を弾き続ける。10代後半で技術的完成の域に達し、その後、60歳、70歳を迎え、死ぬまでずっと楽器を弾き続けるのである。

しかしながら、以上に記した通り、十代ですでに完成の域に達していなければ、その後はどんなにやっても、しょせん、お楽しみ程度にしかならないという考えは、多くの人々が音楽に取り組むにあたって、あまりにも深い、無意味な絶望感と無力感を与える障壁となっているように筆者は思う。筆者には、果たして、このような考えは本当に正しいのだろうかと首をかしげざるを得ない部分がある。

筆者は、ピアノを弾くにあたって、幾度も、何年間ものブランクを経験したが、不思議なことに、かなり長い間、ピアノの鍵盤に触れずにいても、ある時、ふと練習を再開してみると、最後に弾き辞めた時から、まるでほとんど歳月が経っていないかのように、最後に弾いた時の曲のイメージがそっくり鮮やかに眼前に出現するということが多々起きた。もちろん、忘却や、運動能力の低下が全く起きないわけではないが、それでも、一旦、ある程度の水準に達したものは、そうそう簡単に忘れ去られたりするものではない。むしろ、黙って「寝かせていた」期間に、さらなる熟成を遂げていたと判明することもある(これはブランクなしに弾き続けている時でさえ起きる。三日、四日ほど、取り組んでいる曲をあえて「寝かせておく」と、もう一度弾いた時に、最後に弾いたときよりも圧倒的に曲の完成度があがっていることはよくある。)

このように、音楽には、寝かせておいても、演奏家の人格の成長と共に、沈黙のうちに熟成する可能性があるのだ、と筆者は確信している。その熟成期間が、一日、二日程度でなく、なんと十年以上に渡ることもありうるものと思う。日々、楽器や鍵盤に触れて、がむしゃらに練習し続けることだけが全てではない。演奏家が自分の人生を通して得たすべての経験が総合的に作用して、曲のイメージが完成するのである。その意味では、人が生きれば生きるほど、演奏に深みが増して来るのは当然であり、十代前半の子供たちをまるで神童のごとくもてはやし、若い時期を過ぎてしまえば、すでに演奏家としてのデビューの時期も通り過ぎ、演奏の価値もその後は落ちていくだけであるかのように思い込む風潮は、完全に間違っていると言わざるを得ない。

確かに、語学と同じように、音楽にも、若いうちに基礎を習得してしまわねば、後からのつけ足しが極めて困難な部分が存在することは否めないとはいえ、単に基礎を習得しただけでは、どんなに優れた技術があろうとも、機械仕掛けの人形とほとんど変わらない。さらに、演奏は漬物のように、時間をかけて弾きこまなければ、決してその人のものにはならず、良い味は出て来ない。

筆者は楽譜を読むのは遅い方ではないが、それでも、一つの曲を本当に自分のものにしたいと願うなら、どんなに少なくとも、一カ月以上の時間をかけて、弾きこむことがどうしても必要となる。楽譜通りに弾くだけが目標であれば、場合によっては初見か、数日もあれば十分という曲もたくさんあろう。しかし、それでは、間違いなく弾いたとしても、しょせん「楽譜通り」でしかない。曲に込められた情感、イメージ、思想、芸術性といったものを読み込んで、自分なりの形を完成し、それを思うように表現できるようになるためには、どうしても、一定の時間が必要である。その期間が、一カ月では、あまりに短すぎると言えるだろう。

この「熟成期間」には、必ずしも自分でその曲を弾きこむだけでなく、優れた演奏家の演奏を聴いたり、楽譜を読み直しながら、新たなインスピレーションを受けて、頭の中で曲のイメージを練り直したりすることが有益である。散歩中に思索を巡らしているうちに、それまで何度も聴き、弾いて来た曲のイメージが、突如として「分かった」ということもよくある。

こうして、セールスマンが足しげく営業に通いながら、自分のセールストークを磨いて行くように、曲想を練り上げ、それを完全に自分のものとし、自分自身の言葉として表現するためには、一定の期間がどうしても必要なのである。それはただ間違いなく指を動かして楽器を正しく演奏するために必要な期間ではなく、自分が何を表現しようとしているのか、その全体像を掴むための期間である。

話を戻すと、筆者は、信者の人生にも、このような時期があるかも知れないと思う。人から見れば、一体、何のために必要なのかも分からない、成果からはほど遠いように見える、「無駄な時間」である。同じパッセージをうんざりするほど繰り返しているだけのような時もあれば、まるで演奏など放棄したかのように、楽器から遠ざかり、黙って思索を巡らしているだけの時もあろう。全く何もしていない、という時さえ多く存在するかも知れない。だが、たとえそうであっても、その人の心の内側に深い探求があり、どれだけ多くの困難、どれだけ多くの障害、どれだけ長い遅延や停滞があったとしても、あるいは、生きているうちに達成不可能であるとか、手遅れであると宣告されても、なお諦めきれないほどの切なる希求が存在するのであれば、それは「何もしていない期間」ではないのだ。

その希求とは、ただ優れた楽曲を譜面通りに弾けるようになりたいという程度の浅薄な願いではない。曲の向こう側にあるもの、曲を作り出す源となる壮大な深みに手を伸ばし、何とかしてそこに至りつき、一つになりたいという願いなのである。

このように、筆者は、音楽の場合と同じように、キリストにある新しい人をも、信者が自らの努力によって獲得するのは不可能であると考えている。探求する努力は必要であるとはいえ、それは努力だけによって到達できるものではない。信者の側には、追い求めたいとの切なる希求があるきりで、それを達成させて下さるのはあくまで神である。そして、それは決して、若ければ若いほど良いといったような安直な歩みではなく、人の目には実に不思議な、しばしば逆説的な形で達成されるような気がしてならない。

さて、筆者がこの度、地上のふるさとに戻って来たのは、郷里にある親族を見舞うためであったが、この親族はすでに90歳を超えており、病床にあるため、この年齢から察するに、そろそろ生涯の終わりに来ているのではないかと見られる。しかし、長年、他宗教の信者であったので、帰郷の際、筆者はどちらかと言えば、気が重かった。もっと前に、この親族が健康な時期に、信仰について長く話し合ったが、共通理解に達しなかった記憶も残っている。

そこで、帰省前、筆者は、自分で書いた「死人のことは死人に任せなさい」という記事を思い出し、まるでその記事が不吉な予言となって、今回、別な親族のための思わぬ帰郷を招いたかのように感じたりもした。またもや、筆者は、キリストを受け入れないまま、親族を見送らねばならないのだろうか? そのために帰郷することにどんな意味があるのだろうか?という、敗北感のような感情にも襲われた。

しかしながら、筆者は、その無力感や敗北感にも似た悪しき感情を撃退し、悪魔に恥をかかせ、神に栄光を帰することだけに集中しようと決めたのであった。このところ、筆者はずっと、そういった「いかにもそれらしく感じられる」、「現実はすでに決定済みで、悪しき結末は動かせないものであるかのような感覚」、しかも、「その悪い出来事が、まるでキリスト者のせいで起きたものであるかのように、信者に罪悪感を呼び起こそうとする感覚」に、徹底的に抗って、願いを獲得するまでしぶとく諦めないで神に懇願し続ける姿勢が、信者にとっていかに重要なものであるかを学習させられていた。

そこで、筆者は、長年、他宗教の信者であったからと言って、この親族が聖書の神による救いを拒んだまま亡くなるかも知れない、という予想に、徹底的に抗うことに決めたのであった。筆者が見舞った時、この親族は、まだそれなりに元気ではあるが、他宗教の説教の録音テープを握りしめるようにして聞いており、それを心の安定剤にしようとしているように見えた。そして、残された元気を、食べることや、飲むことや、体の調子を向上させることだけに費やしており、周囲もそれを手助けしており、そこに伝道の余地など微塵も残されているように見えなかった。また、そのチャンスもめぐって来なかった。それゆえ、筆者の心は絶望感に覆われかけた。

が、しかし、数日経って、病床にある親族の様子が少し変わって来た。このまま話すチャンスもないままに別れが来るのであろうかと予想されるほど、コンディションに浮き沈みが見られたとき、筆者は、伝道のチャンスを、改めて神に願い求めた。すると、その機会が少しずつ巡って来たのである。

筆者は、この親族が、出会い頭に、筆者に向かって、「苦しまなくていいように、キリストさんに祈ってもらえるか」と尋ねて来たことをとりあげて、筆者だけが代わりに祈っても、本人に信仰がなければ、神に聞き届けられず、ほとんど意味がないことを話した。そして、自分でキリストを信じるように勧めた。そして、多神教の誤りを指摘し、夫と妻が一対一であるように、人間を救うことのできる神は唯一であり、キリストの十字架以外に救いはなく、他の神々を捨ててでも、この唯一の神だけを信じて祈るべきことを、親族に語った。罪の赦しと、死とよみがえり、永遠の命について話した。すると、かつては信仰を巡って論争めいたやり取りもあったこの親族は抵抗感を示さず、「分かる?」、「信じられる?」との筆者の問いに、素直に頷くのである。

調子の悪い時には、話しかけても反応すらも返さないのが、多神教を否定する筆者の言い分を、抵抗もなく受け入れる姿勢を示したのであった。筆者は、長年、ずっと考えが合わないまま、全く違う世界で生きて来た親族に、まるで火事場泥棒のごとく、残された時間がわずかとなってから駆けつけて伝道している自分自身の無理を思いながらも、それでも、この反応を見たとき、非常に厳粛な気持ちと深い感動に襲われずにいられなかった。こうしなければならない、こうでなければならない、という感じがしたのである。

これとどこかしら似たような現象が、筆者の連れて来た小鳥にも起きた。物音に驚いた小鳥が、鳥かごの金網に自ら足を引っかけて複雑骨折に至り、発見した時には、多量の出血と、足の指に血が通わないことにより、指が紫色になっていたのである。その状態を見た時には、筆者は、正直、足の指が持たないのではないかと恐れを感じた。医者に診てもらうと、解放骨折なので、治るかどうか分からず、もし足の指が壊死すれば、ただ単に足が不自由になるだけでなく、全身に毒素が回って致命的な影響を及ぼすことさえありうると言われた。

筆者はこの状況に対し、心の中で、猛抗議した。何か取り返しのつかない事態が起きて、すでに手遅れとなっているかのような印象と感覚を全身全霊で拒否し、死んだ息子のために預言者エリヤに抗議した女のように、神に願い求めたのであった。すると、医者に連れて行ってから二日ほどで足に再び血色が戻った。骨折が治癒するには時間がかかり、解放骨折となるとさらに治癒に困難が生じると言われているにも関わらず、それから現在に至るまで、小鳥はほぼ完全に近い形で治癒するだろうと思われるほどの驚異的な回復を遂げている。

こうした出来事は筆者に、神の守りが動物一匹に至るまで家族全体に及んでいることと、神には手遅れだとか、不可能はないのだと、改めて感じさせた。いや、どんな状況でも、悪魔のささやきに負けて、御言葉に反する負の結果をたやすく受け入れたりせず、神に心のうちをすべてさらけ出して、しぶとく諦めず、神に直談判するがごとくに懇願し続け、結果を獲得するまでに退かない態度が必要な場合が多々あることを、改めて思い知らされたのであった。

むろん、どんなに健康であっても、人間同士には地上でいつか別れが来るとはいえ、人間にとって最も克服しがたい、いや、生まれながらの人間には克服不可能である死をも、キリストは打ち破られて、よみがえられたのだから、我々は一体、何を恐れる必要があろうか?

このことを、つまり、十字架の死と復活の原則を、筆者は知っているつもりではあっても、それを自分自身の信仰告白として改めて自分の言葉で表現し、その告白が現実となって、目の前で主のみわざを見せられるとき、それによって、神の御心が何であるかを知らされるとき(神の御心は、人を罪に定めることにはなく、赦すことにあり、人を滅ぼすことにはなく、生かすことにこそある)、自分の信仰のスケールを改めて急速に押し広げられるような、厳粛で感動的な気持ちにさせられる。悪魔のささやきに簡単に耳を貸して敗北を受け入れることの無意味さと、御言葉に反対するものに、最後まで、固く立って抵抗し続けることの重要性、そして、神が我々一人一人の信仰に、どんなに真摯に耳を傾けて下さり、これを喜んで下さる方であるかを思うのである。

他人に向かって信仰の証を語っている時でさえ、筆者自身が、御前に畏れかしこんでひざまずき、「神よ、あなたこそ、我ら人間のただ一人の救い主です」と告白し、瞠目と感動のうちに、神を崇めずにいられないのである。

十字架の死と復活の原則―燔祭として神に捧げられ、死んでよみがえらされ、神の手から返された新しい人―

このところ、都会のすべての喧騒を離れ、キリストにある自由と平安を満喫している。空気は清浄で、食べ物は美味しく、親族を見舞うという名目ではあるが、人生の中で、久方ぶりに与えられた平穏な休暇である。

さて、生ける水を流し出す秘訣は、キリスト者自身にある。自分の中にある新しい命を解放する秘訣を知れば、信仰による創造はそんなにも難しいことではない、と筆者は確信する。

時には良いことだけでなく、人の目には失敗のように見えることも起きるが、そんな中でさえ、神の同情、慈しみと憐れみが、雨のように筆者に注がれている。人からの同情など要りはしないが、神からの同情や憐れみならば、どんな時でも、あればあるほど嬉しい。もし神が筆者に注意を払って下さるならば、どんなにわずかな瞬間であっても良い、その瞬間を何とかしてもっと増し加え、主との交わりの時を増やしたいと切に思う。

まさにダビデが詩編に書いたように、筆者も言う、主よ、奴隷が主人の命令を待って、主人をまっすぐに見つめるように、私の目は、あなたを見つめるのです、ほんの少しでも、あなたの関心を、あなたの慈しみを、憐れみを、祝福を得たいと思って、神よ、私はずっとあなたを見つめ続けるのです…。私の心はあなたがご存知です、お言葉を、命令を、戒めを、あなたの御思いを、私に教えて下さい…。

以前から書いていることだが、主イエスは地上で公生涯を生きられた間、ご自分の職業を持たず、養ってくれる家族を持たず、スケジュール表を持たず、ただ御霊の促しのままに、誰にも相談することなく、御父の御旨だけに従ってすべての物事を決定して生きられた。

主イエスがどのようにして日々の糧を得、どのようにして助け導くべき人々を見分けられ、ご自分の使命を知られたのか、聖書に具体的には示されていないことが多い。しかし、エルサレム入場のために用意されていた子ろばのように、主イエスの召しに必要なものは、すべて天の父が備えられた。それはすべて人知によらず、御霊によって告げられ、理解され、達成される事柄であった。主イエスは、御父の命じることを御霊によって識別することで、父なる神の御心のままに行動されたのである。

前回、筆者は記事において、自然界の動物に生存のための知恵が本能として備わっているように、命というものには、おのずから生きるための法則性が組み込まれており、神がキリストを通して信じる人々にお与えになった新しい命にも、命の御霊の法則性が組み込まれていると考えていることを書いた。天然の命に法則性があるならば、いわんや、キリストの復活の命には、新しい法則が備わっているはずである。そして、それが、御霊の油塗がすべてを教えるということの意味であると筆者は理解している。つまり、天然の命においては、本能という不完全なナビしか設定されていないが、復活の命においては、御霊自身が真実を教えるナビゲータの役割を果たすのである。

とはいえ、御霊の導きに生きるとは、人が機械的に何かの命令に従って自分の意志を放棄して生きることを意味せず、あるいは、信者が説教者になったり、牧師や伝道者になることを最高の到達点と考えて、いわゆる模範的なクリスチャンの生き方を目指して、何かの型に当てはまろうとすることを意味しない。

御霊の導きに従って生きることに、特定の型はなく、それは人の作り出したどんな固定概念にもおさまるものではないと筆者は確信する。神は人それぞれの個性を尊重されるため、それはあくまで神と人との同労によって作り出される生き様なのである。

キリスト者の人生とは、信じる人の個性と、その人の内に住んで下さるキリストの人格とが、何の矛盾もなく、調和の取れた同労を成し遂げて形作られるものである、と筆者は確信している。神は決して人の個性を無理やり押し潰したり、人の意志を否定して、何かを力づくで押しつけ、強制なさることはない。神が信じる者の内で生きて働かれる時には、むしろ、神はその人の意志を最大限に尊重されて、その人の人格と調和の中で同労を成し遂げられる。そのため、そのような生き様においては、信じる者の個性も、圧迫されるどころか、極めて自然に生かされる。

神は信じる者の個性を尊重して、その人と同労することがおできになるのだ。だから、信者の生き様には、ただ神がどんなに偉大で憐れみに満ちたお方であるかという、神の御言葉の真実、神のご性質が様々な形で証されるだけでなく、キリストと共に死んでよみがえらされた信じる者自身の個性も、生き生きとした形で、表現されるはずである。

このように、キリスト者の人生とは、信者がキリストの生涯を真似て、地上でそのコピーになろうとすることとは全く異なる。あるいは、誰か偉大な説教者や、信仰の偉人などの先人たちを手本に、模範的なクリスチャンになろうとすることをも意味しない。

それは、誰の生き様の模倣でもなく、その人自身の人格と、キリストの人格との同労によって作り出される、誰にも似ていない、新しいオリジナルの人生である。ナビゲータは御霊であるが、御霊が力づくで信者をどこかの方向へ引っ張って行くということもない。信者と御霊とが平和的に共存・同労を成し遂げるのである。

だから、筆者は、御霊に従って生きることに、定義というものはおよそ存在しないのだと思っている。おそらく、その生き様は、人知によって外から定義づけをしたり、何かのものさしで推し量って理解したりすることが極めて難しい事柄であろうと思う。

そして、何よりも、その人生には自由がある。それは、こうせねばならない、ああせねばならないという数々の義務や、人間の作り出した常識や、規則によってがんじがらめにされる人生ではなく、また、己の生存を必死になって自力で支えねばならないという恐怖によるものでもない。

共産主義者の定義とは全く違った意味で、それは必然の王国ではなく、自由の王国の生活である。だが、自由といっても、放縦とは違うので、当然ながら、節度や限度はある。その範囲内であれば、信者は自分自身の個性を存分に生かして生きることが許される。

さて、筆者は何年も前に、今身を置いている地上の故郷から新天地を目指して旅立って行ったのだが、長い間、なぜ神は、筆者が関東へ移住することを許して下さり、その条件を気前よく備えて下さったのだろうかと思いめぐらしていた。

当初、筆者は、この移住は、エクレシアに連なるため、信頼できる信仰の仲間に出会い、彼らの交わりに加わるためであったと解釈していたため、その期待が潰えた後には、一体、この移住に何の意味があったのだろうかとしばらく考えざるを得なかった。

そして、もし信頼できる信者の交わりというものがないとしたら、主は、筆者に一体、どんなミッションをお与えになっておられるがゆえに、この地に筆者を呼び出されたのだろうかと思いめぐらしたものである。

だが、最近になって、筆者が思い至るのは、神はただ筆者が御名により心から願い求めたから、ご自分の愛する子供の一人として、筆者の願いを気前よく叶えて下さっただけだ、ということである。

つまり、この移住は、エクレシアに連なるための手段ではなかったのである。いや、どんなことの手段でもなく、それ自体が、筆者の願いに対する神の応答だったのである。あれやこれやの目的の手段として、移住を促されたのではなく、ただ筆者が信仰により願い求めたものに、神が応えて下さったということである。

筆者はこれまで、この移住の他にも、実に沢山のものを、信仰により神に注文し(注文という言葉は、まるでい神を手段とするかのような、いささか不適切な表現のように響くが、これには、願いが成就するまで譲らず懇願し続けるという強い意味合いも含まれる)、信仰によって地上に引き下ろして来た。たとえば、一番多く引き下ろしたものは、仕事であろう。筆者が、目下、従事している仕事にどうしても満足できなくなって、もっと違う仕事をやりたいと切望するようになった時、神は、実に不思議な形で、筆者の願いにかなう新しい仕事を用意して下さったのである。

この他、友人や知人が、祈りを通し与えられたこともあれば、筆者が受けた悲しみに、神が思いもかけない豊かな慰めを用意して下さったこともあった。

しかしながら、一つだけ、筆者がこれまでどんなに願っても、実際に呼び出すことができなかったものがあった。全く不思議なことであるが、それが、信頼できる信仰の仲間との恒常的な交わりなのである。エクレシアに連なり、エクレシアの建設のために、移住までしたはずなのに、なぜそんな結果になるのかと、当初は、まことに不思議でならなかったのだが、筆者が共に教会を建て上げる目的で接近したキリスト者(らしき)人々は、ことごとく、交わりの途中で、信仰の道から逸れて行った。彼らがどのようにおかしくなって、聖書に反する考えへとあからさまに移り変わって行ったかといった過程の詳細は、すでに再三、書いて来た通りなので繰り返さない。

筆者は、ある人々に対しては、その変節を実際に詳細に知る前に、これ以上接触すべきでないと直感的に理解したので、交わりから退いた。そして、それ以外の誠実な信者は、亡くなったりするなどして、早々に別れがやって来たのである。

そんなこんなで、ついに筆者には、関東方面で、心にかなう信仰仲間が一人もいなくなった。そして、今やそのような人間を探そうとも思っていないほどである。ただ一つとても嬉しいことは、それ以外では、家人も含め、親族の誰も、地上の組織としての教会にこだわる人々がいなくなったことである。以前には、宗教団体としての教会に拘泥していた親族も、今や全くそのようなものに未練を持たず、むしろ、組織を離れた信仰を模索するようになった。

筆者は、こうして、かつてはエクレシアの一員と思った人々の中から多くの離反者が出て、もはやエクレシアだと確信を持って呼べる、信頼できる信仰仲間の存在が身近になくなってから、かえって、これは非常に自然で有益な結果だったのではないかと思うようになった。なぜなら、おかしな方向に逸れて行った信者たちは、みな目に見える地上の組織や、仲良しサークルのような目に見える仲間との人間関係やつながりを重視して、仲間を失うまいと、人間の絆に必死にしがみついて、人々からの承認や賛同を求めていたからである。

彼らは依然として、宗教団体としか呼べない地上組織を建て上げることに腐心しており、目に見えるリーダーを崇め、目に見える組織を神聖視しており、目に見える団体に所属していることが、自分の聖を信じる根拠になってしまっており、そのような生き方に、筆者は全く真実な信仰のかけらも見いだすことはできなかった。

こうして、筆者が観察しているうちに、かつてこれこそまことのキリスト教であると豪語して、いかにもクリスチャンの交わりを装っていた、目に見えるつながりがことごとく偽りであると判明し、当初は信頼できると考えていた信者たちの中にも、嘘や不誠実さが見い出され、彼らが信頼に値しなかったことだけが判明し、交わりと思っていたものは離散したのである。

こうして、何か目に見えるサークルの一員になることによって、教会を建て上げることができるという発想自体が、ことごとくナンセンスなものと判明し、筆者は、教会を建て上げるという概念を、以前とは全く違ったものとしてとらえざるを得なくなった。

筆者は、何年も前の当時は、信頼できる信仰の仲間と手を携えてエクレシアを建て上げることができると考え、それに関心を寄せていたものであるが、今はひょっとすると、そのような考え方にこそ、以上のような人々の犯した過ちに通じる、目に見えるものの神格化という、危険極まりない要素が含まれていたのではないかと考えるようになった。

つまり、エクレシア賛美、エクレシア崇拝の危険性である。目に見える人間同士の連帯、目に見える人的ネットワーク、五感で確かめ合うことのできるつながりを賛美し、そこに神聖を見いだそうとする考え方の罠や、深い危険性を思うのである。

エクレシアという単語には、信者にとって、何かしらとても耳に心地よい、甘く、理想的な響きがある。だが、その響きの甘さに陶酔することの中には、キリスト以上に信者が自分自身を聖なる存在として掲げたいという誤った欲望、間違った自己崇拝、信者の自己神格化の危険が潜んでいるのではないかと危惧されてならない。

いわゆる教会組織と呼ばれている地上の目に見える宗教団体や組織にこだわる信者ほど、この誤った自己崇拝、自己神格化の度合いが非常に深いように思われてならないのはそのためである。

だから、筆者は今、エクレシアを賛美しようという考えは全くもっておらず、これに憧れ、建て上げることが自分の使命であると言うつもりもない。もしそういうミッションがあるとしても、それは日々、自分自身が主と共に死と復活を経ること、自分の十字架を負ってキリストに従うことだけにしかよらないのだ。仲良しごっこのような交わりを通して達成できることなど何一つありはしない。そもそも、我々が見るべきお方はキリストだけであり、キリスト以上に教会を高く掲げ、これを関心の対象とすること自体が、非常に危険なことではないかと思わずにいられない。

今までの経験から言えることは、教会が建て上げられ、発展する方法は、多くの人たちが想像するように大人数がひと所に「集まる」ことよりも、むしろ「散らされる」ことにあり、大勢が集まって自分たちの存在を世間にアピールし、「自分たちの名を地上で高く掲げる」こととは正反対なのだと思わずにいられない。人が成功し、有名になったり、地位を築き上げて、安直な手柄を立て、自分をアピールすることではなく、むしろ、低められ、砕かれ、無化され、苦しみを通過しながら、人格が練られることの方にこそあるのだと思わずにいられない。

何よりも、もし我々がただキリストだけに目を注ぎ、この方だけに栄光を帰し、この方だけに従って生きていれば、教会を建て上げることに特別な関心など寄せずとも、エクレシアが何なのかは自然に分かって来るのではないかと思われてならない。

すでに一度は書いたような気がするが、筆者が今でも覚えている体験の中に、筆者が横浜に来る前、当初、筆者がエクレシアだと考えていた人々の、幸福そうな集まりの様子を遠くからネットで眺め、何か分厚いガラスの隔たりでもあるかのように、彼らと自分自身との間に決定的な距離を感じ、心に鈍い悲しみを覚えたということがあった。

その時、感じた悲しみや失望が何だったのか、その理由は、実際に彼らと接触してみて分かった。その集まりは、聖書的な交わりを装ってはいたが、結局のところ、いわゆる内輪の知り合い同士の仲良しサークルの域を一歩たりとも出てはいなかったのである。それは互いに誉めそやし合い、自画自賛し合うための、エクレシアに似て非なる集まり、単なる自己満悦のごっこ遊びのようなものに過ぎなかったのである。そこで、結局、筆者はその仲良しサークルを観察しては見たが、その一員には決してなることなく、その交わり(と呼ばれていた偽物)を通り過ぎただけであった。

今、筆者はそのようなものがエクレシアだとは露ほども考えておらず、彼らのように、自分が心許せると考えた仲間内だけで、徒党を組むことで、キリスト者の交わりを確立できるとも思っていない。そのようにして、仲良しサークルを拡大したり、自分たちの交わりこそ本物であると、世間に誇らしげにアピールしようとする試みを一切無視して、もっと言えば、そもそも人に良く見られ、誤解なしに受け入れられたいという衝動そのものとも訣別し、エクレシアというものを、まるで同時代人のサークルのような、人間の目に見えるネットワークに見いだそうとする考えを完全に捨てて、ただ神の御前の単独者として御言葉に従って真実に歩むことだけを目指す生き方を貫くことに決めたのである。

そうこうしている中でも、筆者のもとには、その時々に、神が率直に語り合うことのできる誠実な信仰者を友として送って下さることがあった。だが、その友情や連携は、固い結びつきになって、同志的な関係が生まれる前に、かなり早い段階で、強化されるどころか、分解されるのが常であった。

そんなことからも、筆者は、エクレシアを建て上げるという名目で、人々が寄り集まって自画自賛に明け暮れ、自己陶酔に浸ることは、全く神の御心でないばかりか、むしろ、大きな危険性が伴うだけだと考えるようになり、教会を建て上げるとは、気の合ったクリスチャン者同士が、お手手つないで、みんなで仲良く一緒に天国の門をくぐりましょうといった子供騙しのような願望とは全く異なる事柄で、もっともっと厳しい側面を含んでいる、と思わずにいられなくなった。その厳しさの中では、共に手を携えて歩める仲間が現れることの方が少ないほどである。そして、それゆえ、信仰者の歩みの基本は、やはり、神の御前の単独者としての信仰の歩みにしかないと確信している。

たとえ信者であっても、人間と人間との間で結ばれる絆や友情は、決して永久的なものとはならず、人は時と共に変化し、あるいは簡単に道から逸れてしまい、固いように見えた絆も取り去られる。だから、どんな時にも、信者は人を当てにせず、まずは神との間で、確固たる信仰による交わりを維持することに心を砕くべきであって、それ以外のものにほんの少しでも価値を置き、期待をかけ、栄光を帰したい衝動が芽生えると、それはたちまち腐敗したものとしてあっけなく失われるのだと思わずにいられない。

キリストだけに変わらない価値を置いて、この方にすべてを委ねて生きようと決意するときにこそ、それ以外のものが、必要に応じて与えられる。生活の様々な必要だけでなく、信仰の仲間でさえ、そうなのである。その意味で、キリストとエクレシアとの優先順位は、絶対に逆にされることがあってはならないのではないかと筆者は考える。

さて、以上の内容から、話が再び変わるようだが、筆者は、最近、とある商人からヴァイオリンを買った。どうにもこうにも、ヴァイオリンを弾くべきだと思えてならない時が来たせいである。一年ほど前から、ピアノの特訓を再開していたが、どうにもピアノだけでは物足りなく思えるようになった。

実は、筆者のペンネームは、ヴァイオリンから取られたものなのだが、筆者自身がヴァイオリンを弾けるのかと言えば、子供の頃、我が家に人から譲り受けた分数ヴァイオリンがあったが、本格的なレッスンを始めるに至らず、学校時代に基礎を習ったが、ヴァイオリニストのように自由に弾けるようになる手前で習い辞め、今、暗譜している曲はほんの二曲ほどしかない。それでも、長年に渡り、ヴァイオリンへの情熱は消えず、身近で他人の演奏を聴き続けたりした記憶の蓄積がついに飽和状態に達し、自分で弾かねばならないと思うに至った。

全くの余談に聞こえるかも知れないが、そう思ったきっかけは、ピアノだけに熱心に取り組むことに何かしらの限界を感じたせいでもあった。筆者は一時期、仕事に熱中して、ピアノをうっちゃっていたせいで、ほとんどピアノが弾けなくなってしまった時期があり、そのブランクを挽回しようとしているうちに、どうにもピアノという楽器には、何かしら根本的に、人になじみにくい要素があるのではないかと思い始めたのだった。

これは決して愚痴や泣き言ではなく、真剣に取り組めばこそ、思うことなのである。物心ついてすぐに最初に習い始めた楽器がピアノだったので、今までこのようなことを考えたこともなく、ピアノという楽器の難解さを感じても、常にそれは自分の技量の足りなさのせいだとしか思いもしなかったが、何しろ、ピアノには88鍵ものキイがある。隅から隅までこの楽器を使いこなすには、両手をいっぱいに広げねばならず、それだけでも大変な移動距離である。そして、ピアノ曲は旋律だけのものはほとんど皆無で、旋律も伴奏も一台の楽器で全部やってしまうのが通常であり、それゆえ、一度に奏さねばならない音がとにかく多く、その点で、他の楽器に比べても、極めて楽譜も複雑になりがちである。最も重大な注意点は、楽器が巨大なので、持ち運びが利かず、自分用に調整された楽器を演奏会用に準備することもできないことだ。どこへ行っても、コンディションの異なる備え付けのピアノに、奏者が自分自身をなじませるしかない。さらに、楽器が巨大ゆえ、人との間に拭い難い距離感があって、人が楽器と完全に一体になって共鳴することがやりづらい。

そんな楽器にも関わらず、ピアノ奏者は全世界で他の楽器にくらべてもとりわけ多く、音楽界における競争は他のどんな楽器に比べても一層過酷だ。そのような条件は、演奏家に非常に大きな負担を強いるものではないだろうか。

これと比べると、ヴァイオリンという楽器は、ピアノに比べれば、運指のための移動範囲もそれほどでなく、ピアノのように、鍵盤を押しさえすれば、それらしき音が鳴るということもなく、まずは自分で音を作るところから始めねばならないが、その方が楽器としては、はるかに自然な気がしてならない。ピアノは一音が消えるまでの時間が早いため、音を持続させるために、比較的早く次の音へ移行せねばならないが、ヴァイオリンは、弓を上手に使えば、少なくとも、一音をピアノよりはるかに長く持続させることが可能であり、その間に音の強弱も変えられる。

何よりも、ヴァイオリンという楽器の最も自然なところは、奏でる音質が人間の音声に近いことだろう。だから、ちょうど歌を歌うのにも似た感覚で、楽器を演奏することができる。しかも、楽器が人の腕の中にすっぽり入ってしまうくらいの大きさなので、人との距離感がさほどでなく、接触している部分も多く、楽器の共鳴が人体にそのまま伝わる。人の体と楽器がまさに一体となって音楽を奏でているという感覚を持ちやすい。

それに引き換え、ピアノと人体との直接の接点は、指先と、ペダルを踏む足先くらいであろう。だから、ピアノの音の振動は、人間の体で直接、体感する部分が少なく、基本的には、耳で聴いて音を感知するしかない。しかも、ピアノの音は、人間の声にさほど似ていない。

世の中にはピアノとヴァイオリンの他にも無数の楽器が存在するので、この二つだけを比べて論じることには無理があると思うが、それにしても、ヴァイオリンに比べると、いかにピアノが人工的で不自然な楽器かという気がしてならないのである。ピアノが親しみやすい楽器だと錯覚できるのは、子供に初歩を習わせる時くらいのことではないだろうか。

もともとヴァイオリンは、民衆のための楽器であり、クラシックの世界で、ヴァイオリニストたちが、楽器の値段や価値を競い合い、また難解なテクニックを競い合って、激しい競争が行われるようになって、一流ヴァイオリニストが、スター同然にもてはやされたりするようになったのは、ごく最近のことであろう。

そうなるまでのヴァイオリンは、オーケストラや室内楽だけでなく、民衆の祭りなどでも普通に駆り出されるような、庶民にもごくごく身近な楽器であったはずだと思う。肩当てや、顎当てさえ、比較的最近になって普及したのだと言われるように、もともとは非常に単純な楽器である。そんな楽器に、人間が逆立ちしなければ、達成できないような複雑怪奇な操作は、必要とされていないはずで、もともとこれはそんなアクロバットを当て込んで作られた楽器ではないはずだ。だから、本来のヴァイオリンとは、人を寄せつけないほど難解ではない、単純素朴な楽器のはずだと思うのである(だが、ヴァイオリニストはこれを聞いて、異議を唱えるかも知れない。単純なものが全く複雑化されてしまうところは、宗教もクラシック音楽界もどこか似ている。)

もちろん、ピアノにはピアノの良さがあり、ピアノという楽器を知っているがゆえに得られる喜びや満足は非常に大きいと言える。そもそも音楽の基礎を学ぶのに、この楽器を避けて通ることはできず、ピアノ曲には偉大な作曲家の豊富なレパートリーの取り揃えがあるので、一生を費やしても時間が足りないほどの楽しみが満載であると言うことはできる。だが、そうは言っても、ピアノには備わっていない別な要素を、ヴァイオリンのような別の楽器で学び、これをピアノに応用することで、ピアノの人工的で不自然な部分を補うことができないだろうかと筆者は考えているところだ。その実験の最たる目的は、どうすれば、人間の音声からかなり離れたピアノを、人の歌声のように自然に歌わせ、響かせることができるかというところにある。

一体、この実験と信仰に何の関係があるのか?と問われそうだ。まるでこじつけのようにしか聞こえないかも知れないが、これも筆者が神に願って与えられた機会なのである。

筆者はかつて非常に音楽に熱中していた時期があったが、一旦、これを神にお返しした。筆者の専門もこれと同じことで、かつて自分自身の思いで熱心に探求し、愛でていたすべてのものを、どこかの時点で、筆者はすべて手放し、一旦、神に返却することになった。

それゆえ、筆者は多年に渡り、音楽からも、自分の専門からも離れた時期が存在する。一見、その時期は、全くの無駄な紆余曲折のようにしか見えないことだろう。だが、そうして神にお返ししたものは、まるで燔祭に捧げられたイサクのように、一度、死んでよみがえって生かされたものとして、主の御手からもう一度、受け取ることができる。そうすれば、今度こそ、何のためらいもなく、信仰に反しない、聖別されて、祝福されたわざとして用いることができるのだ。

もし離れていた時期がなく、幼い頃から、両方の楽器を真剣にやっていれば、今、与えられている楽しみが、どんなに大きなものとなっていたろうと、ふと考えることがないわけではないが、幼い頃には、理解しようと思っても、分からないことの方が大きい。そんなわけで、筆者はブランクの時期を振り返って後悔するということはない。

その当時、筆者を教えてくれた教師たちは、真面目に練習していないがゆえに、抜けの多い筆者の演奏をも、素質があると誉めてくれ、その道に進めばどうかと助言してくれたこともあったが、それでも、当時、筆者の探求心は違ったことに向いていた。どちらかと言えば、筆者には、言葉の方に関心があったのである。

だが、幾年もの月日を経て、言葉への探求と、音楽への探求が、互いに矛盾しないものとして、一つにつながる時がやって来た。さらに、それらは死を経てよみがえらされたことにより、信仰とも全く矛盾しないものとなったのである。

もっと言うならば、言葉になる前の言葉と、音楽になる前の音が、信仰により、信者と一体になる時が来たのだと言っても良いかも知れない。

地上で音楽を奏でるということには、絶えざる格闘がある。なぜなら、プロの演奏者でさえ、思っているような演奏がなかなかできないからだ。コンディションの悪さが、常に演奏を邪魔し、自分が理想として追い求めるイメージと、現実に発せられる音との間に、絶えず開きを生む。自分がとらえよう、獲得しよう、達成しようと思っているものをどんなに真剣に追いかけても、すでにとらえたから、もう満足だという日は来ない。

だが、それでも、奏者は心の中に理想として持ち続けているイメージといつか自分が一体となり、音楽と自分との距離がなくなることを目指して、ひたすら弾き続ける。そこには、聴衆を含めた世界全体が一体となる時を目指すことも含まれている。

また、詩人は、演奏家とはまた違った形で、自らの言葉を通して世界と一体になろうとしている。いや、もっと正確に言えば、有限な言葉を通して、言葉になる前の無限の世界を追い求めていると言って良い。

詩人にとっては、どんなに素晴らしい詩を書いてみたところで、言葉を通して表現されるものが全てではない。言葉の先にある、言葉を生み出す源となるインスピレーション、霊感そのものをとらえようとして追い求めているのである。音楽家もある意味ではこれと同じである。音を通して表現しようとしているものは、音が生まれる以前の何か、音を生み出す源となるものなのである。

鈴木大拙が「神が光あれと言われる前の世界」への回帰を唱えたことを、筆者は別の記事で触れたが、人間が探求しているのは、まさにその霊感の世界なのであろう。だが、筆者は、禅者ではなく、あくまで聖書の神を信じるキリスト者であるから、「神が光あれと言われる前の世界」への回帰を目指さず、むしろ、「神が光あれと言われた後の世界で、光を造られた神と一つとして生きる」ことを目指している。

音楽家や詩人が、音や言葉の生まれる前の、それらを生み出す源となるものと一体化して、これを表現しようとしているならば、筆者は、信仰によって、この地上に実際の事物が生まれる前の、それらを生み出す源となる命そのものと一つになりたいと願っているのだ。

だが、筆者は、歴史を逆行して、神と人(被造物)とが分かたれる前の世界に回帰することで、その一体性を得ようとは思わない。むしろ、創造主と被造物の両者の間には距離があること、その距離が、我々が地上にいる間には、決して完全には克服できないものであること、それゆえ地上では、人の苦悩があることを分かりつつ、それでも、自分の力によらず、ただ一人、この断絶を乗り越えることのできるキリストの十字架の御業によって、朽ちない命に与り、この方と一つとして生きることを目指しているのである。

これは決して人が神を獲得することを意味しない。人が人の分際を超えて、神から神である地位と性質を奪おうとする試みでもない。人間の側からの神の詐称でもない。私たちは、神を心から敬い、この方を慕い求め、かつ崇め、誉め讃え、自分が被造物に過ぎないことを十分にわきまえて、畏れかしこみながら、同時に、この方に愛され、受け入れられて、子とされて、一つとされて生きることを心から願っているのである。

信じる者がキリストとの間で、完全な一致を地上にいるうちに獲得できないことを知りつつも、それでも、この方が信じる者のうちに住んで下さり、生きて働いて下さり、この方と共に共同統治者とされることを信じながら、私たちは神を喜び、神を尊び、神を愛して生きているのである。

聖書に書いてある通り、私たちはキリストをこの目で見たことはなく、実際に生きてお会いしたわけでもない。その声を聞いたこともなく、手で触れたわけでもない。神を五感でとらえることはできない。にも関わらず、この見えない方を見るようにして信じ、かつ、愛してさえいる。敬い、崇め、慕い、賛美するが、その賛美は、何よりも、神への愛から来るものなのである。

その愛は、この新しい命、朽ちないまことの命は、我々が自力で獲得したのではなく、神の側から一方的な恵みとして与えられたのだという認識から来る。神がまず私たちを愛して下さり、すべてを与えて下さったがゆえに、私たちも神を愛さずにいられないのである。

こうして、神の方を向くならば、人の心の覆いは取り除かれる。自分自身を完全に神に捧げ、かつては自分で握りしめようとしていたものも、今は神に委ねているからこそ、筆者も、キリストにあって再統合された自分自身を、ためらいなく受け入れ、生きることができるのだと言える。

古きは過ぎ去った以上、信じる者の個性そのものが、今やキリストにあって、神に聖別された新しい人として、神の手から信者の手に返されている。そこにはもはや恥じるべきものは何一つなく、隠すべきものもなく、死の宣告を受けたものを、まるで聖別されないものであるかのように思い返して、恥じたり、修正したり、変えようとする必要はない。信者の過去も、人格も、個性も、すべてがキリストにあって新しく生かされていることを信じれば良いのである。

筆者は、前途有望と言われた時期に、自分に与えられた様々な可能性を、自分の人生の成功を掴むためには利用しなかった。今となっては、遅すぎると言う人もあろう。たとえば、筆者は、職業音楽家になるにはいささか遅すぎるし、研究者として功績を残すにもやや遅れ気味であり、その他、遅すぎると言われても不思議ではないチャレンジがいくつもある。

だが、筆者はこの「遅延」を嘆くどころか、むしろ喜び、楽しんでいる。地中に眠っている種が、発芽して根を下ろすまでに、長い時がかかることがあるように、他人にどう見えようとも、筆者にとっては遅いということはなく、今がまさにその時なのである。もしもっと前に、有望と期待されている時に、もっと真剣に取り組んでいれば、今以上の結果が出たであろうか? 決して、そうは思わない。その時には、分かっているようで、何も分かってはいなかったのであり、何事にも今と同じ姿勢を到底、持ちようがなかったであろう。

今、筆者に与えられているすべての可能性は、筆者が自力で自分の名誉、地位、成功を築き上げるための手段として与えられているものではなく、そういうものを獲得せねばならないという焦りや義務感や恐怖とも、筆者は無縁である。そういった無用な気負いがないからこそ、平安のうちに、純粋に喜び、楽しむことができるのだと考えている。

今、筆者に与えられているものは、筆者が人生を喜び、楽しんで生き、神に栄光を帰するために、恵みとして与えられたものであって、それ以上の意味はない。自己顕示のための手段でもなければ、地位を築き上げるためのものでもない。音楽であれ、言語であれ、詩であれ、もはやどんなものも、筆者の心の偶像にはなり得ない。たとえ熱心に取り組んだとしても、自分を見失うまで熱中したり、あるいは憑りつかれているのではないかと言われるような取り組み方は決してしないのである。

さて、最後に、再び、話が飛ぶと思われるかも知れないが、多くのプロテスタントのクリスチャンをいたずらに苦しめ、恐怖に追いやっているカルヴァンの予定説の何が間違っているのかについて、筆者の考えを少し書いておきたい。

この説の決定的な誤りは、人類(人間一般)という定義の中に、古い人類と新しい人類とを一緒くたに混同していることにあるのではないかと筆者は考えている。決して一緒にしてはならない二つのものを、無理やり同じ土俵で一緒くたに論じればこそ、クリスチャンとなった後でも、誰が真実救われているのかは、信者が死後、神の御前でさばきの座に立たされる時まで本当には分からないなどといった、全く恐ろしい絶望的で不毛な結論が生じるのではないだろうか。

それはまるでチンパンジーとオランウータンを同じ種族と断定して、どれがチンパンジーであってどれがオランウータンなのかは、DNA鑑定をしてみないことには分からないと言っているのと同じくらいのナンセンスに感じられる。

パウロは、ローマ人への手紙で、一人の人(アダム)によって罪と死が人類に入り込んだように、一人の人(キリスト)によって多くの者が義とされ、命を得ることを述べている。この二つの系列の種族は、決して同列に論じられるべきものではない、全く別の種類である。

外見が同じように「人類」に見えるからと言って、アダムの古き命に生きる者と、キリストの新しい命によって生かされる者とを、「人間一般」という定義でひとくくりにするのは全く望ましくない。いや、望ましくないだけでなく、これは誤った定義であり、事実誤認である。外見だけによって、本来、一緒にしてはならないものを一緒にするから、救われた人間と、そうでない人間を、内的確信によって区別することが不可能だとする荒唐無稽が生じるのである。

さて、キリストと共に十字架の死にあずかり、共に復活した者は、自分がすべての面において完全に新しくされ、すべての面において聖別されたことを信ずべきである(ただし、これは決してその信者が地上において、すでに罪なき完全に聖なる存在となったことを意味しない)。我々は地上にあっては、依然として、欠けの多い、誤りやすい、不完全な存在にしか見えず、多くの期待はむなしく潰え、もはや手遅れに思われることも多く、キリストご自身との間には、相当な距離があり、達しようと目指しているものとの間には、はるかに遠大な距離があるかのように感じられることだろう。その距離は、我々を打ちのめして、失意や悲しみをもたらしかねないほどのものであり、それゆえ、我々はこの不完全な地上の幕屋の中で絶えず呻いている。

それにも関わらず、我々はその感覚を否定して、呻きの中から、完全に贖われる日を待ち望み、それを信じ、これに達しようとしている。信仰によってそれが事実であることを先取りして、すでにその贖いと一つであること、キリストと一つとされていることを信じ、宣言する。つまり、飲むにも、食べるにも、移動するにも、学ぶにも、演奏するにも、書くにしても、何をするときも、生きることはキリストだと宣言する。たとえ現実がどれほどそこから遠いように見えても、目指しているものが、生きているうちに到達不可能であるように見えても、それでも、生きることそのものが、我々の存在そのものが、地上での限りある一瞬一瞬が、キリストと一つとして生かされており、そうであるがゆえに、この方に栄光を帰するものとなるようにと願い、信仰によってそれを宣言し、待ち望むのである。

このことは、我々が外見的にどんな風に見え、どれくらいの見込みが残されていると想定されるかには全く関係ない。我々の望みは、目に見えるものにあるのではなく、見えないものにこそ置かれているからだ。我々は御言葉により、自分をすでに死んだものとみなし、死者をよみがえらせ、無から有を引き出し、不可能を可能とすることのできる神の御業を信じて、贖いの完成を待ち望んでいるのである。

だから、状況が見込み薄のように見え、嘆かわしく見える時ほど、信じ、待ち望む甲斐があるのだ。主にあって、一度手放したものを、再び返されて、この手に取り上げる時には、常に死の厳粛さと、よみがえりの喜びを思わずにいられない。筆者がこの手に握っているものは、もはや筆者のものではなく、神の所有なのである。

多くの人々は、若いうちに、つまり、自分にたくさんの可能性があるように見え、たくさんの期待を寄せられているうちに、早々に何かを達成してしまうことこそ、人生の成功であると思い込んでいる。そして、失敗や遅延を無意味なものとして、できる限り避けながら、ただ成功だけを手にして前進したいと考えるのかも知れないが、筆者は決してそうは思わないのだ。

人が若くてエネルギッシュで生命力に溢れ、前途有望と誰からも期待されているうちに、持ち前の生命力によって、何かを成し遂げることには、何の不思議もありはしない。そこにはただ天然の命の生まれ持った本能があるだけで、何の奇跡もなければ、瞠目すべき要素もない。

もし死を経るという過程、死んで葬られるという過程がなければ、筆者のすべてのわざは、非常に皮相で、軽薄な、むなしい価値しか持たなかったであろう。筆者は、軽薄で皮相なものを全く欲していないし、そのようなものが自分の人生の本当の麗しい飾りになるとも思っていない。そのようなもので他人を満足させたり、深い感動を与えることができるとも思わない。

神の目から見て、天然の命に属するものが何一つとして価値を持たないように、人の目にも、長年かけて熟成され、正真正銘、試練や、苦しみや、呻きの中で、練られ、洗練たものでなければ、賞賛に値する価値は見いだせない。神の目はごまかせないが、人間の目なら簡単に欺けると考えるのも間違っている。皮相で軽薄なもので人の関心を引き、人目を欺けるとしても、それはほんの一時しのぎでしかない。真に価値を持たないものは、いずれにせよ、短期間で馬脚を現し、長続きしないと相場は決まっている。そのようなものを追って生きても、全くむなしいだけで、一体、何の甲斐があろうか。

2017年5月 2日 (火)

十字架の死と復活の原則―栄光から栄光へ―主と同じかたちに姿を変えられて行く (2)

「しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。
かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。

しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:14-18)


何年ぶりかに、700キロの走行距離を経て、久々に郷里の美味しい空気を味わうことができた。

不思議なことだが、筆者が天に直接、養われる生活を始めてからは、神に向かうために自由な時間が圧迫されるようなことがあると、それから間もなくして、神ご自身が、信じる者のために、暇(いとま)を用意して下さることが頻繁に起きるようになった。

たとえば、このところ、しばらくブログ更新が滞っていたが、このように、日常生活で、神に向かうことが難しくなるほどの多忙状況に陥ったり、何かの出来事で過度に心を煩わされるような時が続くと、必ずと言って良いほど、立ち止まる機会が与えられる。信じる者は、心煩わせる全ての出来事の渦中から高く引き上げられて、安息を取り戻すための平穏な場所に置かれる。しかも、その移行がとても自然な形で、誰にとっても無理のない形で起きるのだ。

このように、神の国とその義とを第一に生きてさえいれば、信者には、ただ生きるためだけの様々な心配は無用である。これは確かな事実であり、法則でもある。だが、筆者は、こう言うことによって、信者が自分の生活に必要な様々な措置を自分で何も講じなくて良いと言っているのではない。やるべきことやらねばならない。ただ、どうやって生きようかとあれやこれやと心を悩ませ、煩わせる必要がなくなるのである。

もし信者が本当に神の国とのその義の何たるかを知っており、あるいは心から探求しており、神にさえ心の照準を合わせているならば、多くの人々が毎日、胃が痛むほどに悩んでいる食べ物、飲み物、着物の心配を含めたあらゆる日常生活の心配事、仕事や生計を立てることに関する心配事は、何もかも完全に神の御手に任せてしまうのが一番良い。神が信者の生活を心配して下さるからだ。

もし信者が仕事で成功したり、立身出世などといったことに少しでも興味があるなら、そうした一切のことがらも、すべて神にお任せすることをお勧めする。

これは信者が「すべてを神に任せる」という口実で、自己放棄し、自分では一切何もしなくなるという意味ではない。また、望みを捨て去るという意味でもない。自分で何かを獲得しようともがき、必死の努力を重ねる代わりに、望みのすべてを正直に神に打ち明け、神にそれを承認していただけるかどうかを尋ね、もし神との間に争いがないならば、神の御手から改めて承認された自分の願いを受けとって、その実現に生きることが一番確かで自然な方法だという意味である。

筆者はこれまでにも幾度か述べて来たように、ある時期から、自分の人生を完全に天に委ねてしまった。つまり、神の恵みにより、天の経済によって生かされるようになり、どう生きるかということについて、あれこれ心配をしなくなったのである。

だが、それは決して、筆者の人生に何一つ心配に値する出来事が起きなくなったという意味ではない。何の波乱も、一つの事件も起きなくなったという意味ではない。そうした事柄に心が触れられなくなり、何が起きても、一切、心を騒がせず、静かに落ち着いて最善の解決を見いだし、そこへ向かう方法が分かって来たという意味である。

これは子供が自転車の乗り方を覚えるのにもよく似て、最初は何かしらとてつもない無謀な実験のように、もしくは無責任な考えのようにすら感じられるだろう。普通の人々は、仕事や家族のことで何と心を煩わせていることか! そして、まるで心煩わせることこそ、義務を果たすことであるかのように思い込んでいる。生活環境が変わり、仕事内容が変わったり、勤務地が変わったり、居住地を変えたり、家族に変化が起きたりすれば、その度ごとに、ほとんどの人は、これからの自分の人生は一体、どうなるのだろうかと不安を抱かずにいられないであろう。

この不安定な時代には、多くの人々はただ生計を維持するだけでも大変な苦労を負わされており、さらに、その不安に追い討ちをかけるように、しばしば情勢の不安が生じ、または心根の悪い人たちに遭遇して、裏切られたり、騙される寸前のところに追い込まれたり、あるいは、思わぬ負の事件をもいくつもくぐり抜けねばならない。そうした中でも、その出来事について思い煩わず、圧倒的な平安の中に座し、神の守りを確信し、心を悩ませずに、すべての出来事にふさわしい解決を見いだすというのは、並大抵のわざではない。いや、それは人の努力によってできることではない。

だから、筆者がこの法則を体得するにも、多少の時間はかかった。だが、それを通しても分かるのは、人にとって何よりも時間がかかるのは、自分の生存を自力で支えるためのあれやこれやの手練手管や方策を獲得しようともがくことではなく、どのような状況の中でも平安の中にとどまる秘訣を知ることなのだ。多分、この秘訣を知っている人はほとんどいないだろう。なぜなら、そのような平安は、人の力で獲得できるものではなく、神から来るものだからである。

だが、それでも言えるのは、御言葉への信仰に基づき、一切の思い煩いを捨てて、神に自分自身を委ね切ることは、そんなにも難しいことではなく、慣れてしまうと全く困難ではないということだ。それは天の法則に従って生きることを意味する。

さて、ここで筆者の言う「天の法則に従って生き、どんな状況においても平安に座する秘訣」とは、外見的にいかにもハッピーで、悩みがなさそうで、喜びに満ちて、常に笑顔を絶やさず生きている理想的なクリスチャンの姿、などといった皮相で軽薄な印象の次元の話ではない。これは、外側から判断して、その人が他人にどう見えるかという問題とは全く関係なく、信者が内面において天の法則(命の御霊の法則)を知っており、その確信に基づいて生きているかどうかを指す。

この地上にも、自然界の法則がある。たとえば、野生の動物たちは、一体、どうやって食糧のありかを自分で見つけられるのだろうか。道端にいる猫や犬やカラスや雀たちは、どうやって自分を養っているのか。どうしてかは分からないが、彼らは生きるための法則を自ら知っており、神は彼らに自分の命をつなぐために必要な知恵を、彼らの命の中に組み込む形でお与えになった。それならば、まして人間が、しかも、キリストを信じて、その復活の命によって生かされている人間が、自分を生かす天の法則を知らないはずがない。

多くの信者は、神に向かって、自分が直面している当面の問題を解決するためのふさわしい知恵を下さいと言って、延々と長い祈りを捧げるが、筆者はこう言いたい、天の法則は、キリストが十字架の死を経て信じる者にお与えになった復活の命の中にすでに組み込まれていると。つまり、もしも信者が、真にキリストを知って、アダムの古い命ではなく、キリストの新しい復活の命によって生かされているならば、その信者は、自分を生かす新しい法則を自ら知っているはずであり、その鍵は御言葉の中にある。信者は御言葉を通じて、あらゆる問題解決に必要な知恵を自分で探り出し、体得する秘訣をすでに持っているのだと。

それが、キリストが信者の中に住んで下さることの意味である。つまり、神がキリストを通して信者に与えられた新しい命(命の御霊)が、信者がどう生きるべきかをおのずから信者に教えてくれるのである。

だから、信者は余計な思い煩いを一切捨てて、心静かに御言葉を探り、御言葉に従い、神がお与え下さった新しい法則に従って生きるだけで良いのである。そして、その新しい法則は、人間に苦役ではなく、自由をもたらすものであり、もはや信者はかつてのように、恐れや義務感にとらわれて生きるのではなく、心の本当の願いに従って生きることができる。

キリストの復活の命は、人がただ生存するためだけに、耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶように求めるような、残酷な性質のものではなく、御名によって、信者が心に願うことを率直に神に求めることを許してくれる。つまり、絶大な自由を信者に与えてくれる。だから、神との間に争いがなく、良心に咎めがないならば、信者は御名によって、大胆に、自分の心の願いを神に申し上げ、その実現を願い求めれば良いのである! 求めたならば、落ち着いて、その実現を信じ、それに向けて、ごく普通に、必要な新しい一歩を踏み出せば良いだけである。そこには、困難で複雑なことは何もない。

こうして、何重にも重い衣装をまとっていた人が、それを一つ一つ脱ぎ捨てて、軽快な服装に着替えるように、信者はかつて自分を縛っていた様々な心の重荷から解放されて、自由になって行く。かつてのように、地上の残酷な法則に縛られ、翻弄されて生きるよりも、天の新しい法則に従って生きる方が、はるかに自然であることが分かって来る。

信者が、天の新しい法則に従って生きるために、特に必要なことは、後ろを振り返らないこと(過去に未練や執着をもたないこと、自分で自分の過去を裁いて失敗に悩んだり、これを修正しようとして見てくれに拘泥しないこと)、自分の心の願いに正直であること(自分の心を神の御前に偽らないこと)、神の忌み嫌われる汚れたものとは分離することである。

最後の項目の中には、明らかに反聖書的な考えや教えを持つ人や団体と訣別することだけでなく、信者が自分自身の心に思い浮かぶ恐怖や、悪しき想像、思念と訣別することも含まれる。この課題は極めて重要である。

筆者はこれまで、信仰による創造というテーマについて幾度か書いたが、信者は、自分で自覚していようといまいと、自分の思念と言葉によって、絶えず信仰的に何かを創造しているのである。だが、その創造は、必ずしも、神の御心に合致せず、むしろ、悪魔のささやきに耳を貸すようなものである場合もある。なぜなら、信者自身が、自分は一体、何を本当だと信じるのか、御言葉に合致する事実を選び取るのか、そうでない事実を選ぶのか、選択を迫られているからである。

信者が、もし神の御心に合致した調和の取れた生き様を願うならば、自分の思いを統制し、御言葉にかなわない、自分にふさわしくない、神を喜ばせない、キリストに従わない思念を撃退して自分の外に追い払わなければならない。自分の身に呪いや滅びを招くような悪しき思念とは訣別しなければならない。そして、この課題は、信者の生活が順風満帆であるときにはたやすく達成できると思われるかも知れないが、逆境にある時にも、同じようにせねばならない。

信者は、人からの呪いの言葉を聞いたとしても、それを決して自分の中に取り入れるべきではなく、まして信じてはならないし、ネガティブな事件がどれほど身近に起きたとしても、それに注意を払うべきではなく、それを最終的な現実として受け入れるべきでもなく、御言葉に逆らう状況に徹底的に立ち向かいながら、ただ神が定めて下さった目的地(キリストにある新しい人、復活の領域にある自由と解放)だけを求めてまっすぐに見つめ続けねばならない。

信者が何を現実と認めるかによって、信者の歩みは全く変わってしまうのである。道に横たわって進路を妨げる障害物を現実だと思うならば、一歩たりとも前に進んで行くことはできなくなる。だが、悪しき思念は、必ずしも、他人の言動や、不意の望まない出来事を通してやって来るとは限らず、まるで自分の思いであるかのように、信者の心に思い浮かぶこともある。それでも、信者はこれを自分の思いであると錯覚せずに、その出所を識別して、御名によってその思いを拒絶し、これを虚偽として立ち向かわなければならないのである。

筆者はまだ天の法則を十分に知ったとは言わないが、これまでの年月、一日、一日、神がどんな状況においても、信じる者を支え、導いて下さる方であることを確かめて来たため、その一日、一日が、神がどんなに信頼できる方であるかということの確証となって、筆者の確信を補強している。

さて、すでに書いた通り、今回も、天の不思議な采配により、久々に郷里の空気を吸う機会を得たが、こうしている間にも、十字架の死と復活の原則は、生きて信じる者の人生に確かに働くことを筆者は経験し続けている。

たとえば、この道中に連れて来た小鳥が、到着後に不意に重大な怪我をするという事件も起きたが、神に助けを求めると、良い獣医を見つけて、早期に適切な治療を施すことができ、そのおかげで、小鳥も順調に回復を遂げるに至った。

場合によっては命に関わるほどのリスクを伴っておかしくない重大事故であったが、今やほとんど元通りに健康を回復しつつあり、これにも、死の中に働く確かな命の法則を見る。

さて、これから先の記事では、十字架の死だけでなく、復活の側面に大きくスポットライトを当てたいと筆者は考えている。前回までの記事では、筆者はキリスト者が低められることの重要性について幾度も触れたが、ここから先は、栄光から栄光へと、キリストの似姿に変えられて行くことに重点を置いて話を続けたいと考えている。

その本題に入る前に断っておきたいのは、筆者が、信者が低められる必要があると述べるのは、決して信者が自分から低い地位を求めるべきという意味ではないことだ。これは自虐の勧めではないからだ。しかし、信者が束の間、意に反して、卑しめられたり、低められたり、注目されず、無化されたかのような立場に置かれるということは、しばしば起きうる。そして、その訓練の間に、信者が呻きや嘆きを通して、神の御前にそこからの解放を願い出るならば、それは間もなく叶えられる。

そのため、もし信者が、束の間、低められることがあれば、その後には、高くされることが続くと思って差し支えない。それは、信仰者には、主にあって御名のゆえに遭遇した束の間の苦しみの後に、常に休息の時がやって来るのと同じである。

たとえば、この時代の状況もあって、筆者はこれまで、個人的に、長い間、自分が並大抵でない苦労の連続の中を生きて来た自覚があり、それは筆者の周囲の人々も共通して認めているところであったが、しかしながら、そうした苦労にも終止符が打たれ、次第に、人生が自由と解放へとシフトして来ているのを感じる。

つまり、筆者自身の歩みが、栄光から栄光へと、キリストの似姿へ変えられて行くという局面に移り変わって来ているのだ。

かつて、アブラハム型、イサク型、ヤコブ型、どの人生に自分が一番近いかを問う質問を聞いたことがあるが、筆者の歩みは、どこかしらヤコブの人生にも似ている。開けた広い場所へ出るまでの間は、ラクダが針の穴を通るように、狭苦しい窮屈な通路を長々と通過せねばならない時期がある。だが、それもいつかは終わり、大路へ達する。あるいは、ヨセフの人生にも少し似ているかも知れない。他の人々が遭遇することがないようなスケールの劇的な苦難にも度々遭遇して来ているからだ。

筆者は、これまでの人生に絶えまない格闘があったので、ヤコブのように、自分の「もものつがい」が外されるために、何か特別に劇的な格闘があったのかどうかも分からないが、気づくと、もものつがいも外れ、これまでさんざんそこから脱出しようとして苦しんだり悩んだりする原因になった出来事が、全く古い出来事として過ぎ去り、とうに自分の心に触れなくなっているのを知るのである。

それどころか、そうした出来事が人間の心を翻弄するカラクリが、あまりにもはっきり分かってしまうので、その悪しき装置の仕掛けを見抜いて、これを事前に打ち壊すことさえ可能になる。そのようなことがあらゆる場面で起きて来る。

それはちょうどいじめられっ子が、成長して、いじめっ子の挑発にびくともしなくなるのにもよく似ている。敵はクリスチャンを苦しめる目的で、絶えず悪しき活動を続ける。ところが、クリスチャンの方では、そうした次元の事柄に、全く自分が反応しなくなるのが分かるのである。レベル1の敵と対戦して負けては、悔しい思いをしていたのは大昔の話になり、今立ち向かうべき相手は、レベル10は超えている。仮に取っ組み合って立ち向かい、格闘する対戦が訪れるにしても、その時々にふさわしい相手を見分けられるようになる。レベル1の敵が活発に蠢いているのを見たとしても、脅威にも思わず、全く動じることもなく、相手にもせず、素通りするだけなのである。

一つの例を挙げれば、かつてもブログ記事に書いたことであるが、筆者は何年もかなり前に、大手で有名ではあるが、モラルの欠ける劣悪な人材派遣会社のもとから、同じほどモラルの欠落した劣悪な派遣先に遣わされ、そこでいわれのない理由で、一方的に契約を短縮させられそうになり、交渉の末にようやくその措置を免れるという出来事に遭遇したことがあった。

その当時は、何も理由が分からずに遭遇した出来事だったため、この事件に、筆者は衝撃を受け、愚かしい長々とした交渉に消耗もしたが、その後、人材派遣業そのものがブラックな業界だと言われる中でも、派遣会社にはピンからキリまであって、上記に比べ、はるかにましで良心的な会社も存在しており、良心的な会社は、同じような状況が持ち上がっても、決して以上のような措置を取らないことを知った。

つまり、その時、筆者が関わった会社は、大手にも関わらず、あらゆる派遣会社の中でも、とりわけモラルがなく、レベルが低かったのだと言えるのである。後になって分かったことは、問題となった派遣会社は、当時から、他の派遣会社がさじを投げ、すでに派遣を中止して撤退したような、劣悪な環境の職場に積極的に乗り込んで行っては、ブラック企業を食い漁るようにして、シェアを伸ばしていたということであった。

筆者がその当時、派遣された職場も、他の派遣会社が送り込んだ人材への扱いが相当にひどかったため、他社が度重なるクレームをつけたにも関わらず改善がなく、他社がすでに手を引いた職場だったことを、筆者はまさにその当時、職場にいた同僚から聞かされた。他の会社が撤退するほど悪い環境に、積極的に乗り込んで行くのだから、そんな環境で、問題に巻き込まれないことの方がおかしい。

しかし、そうなっても、派遣会社の方は派遣先と連携して、何が起きても、ただ労働者に一方的な責任を負わせる形で幕引きを図ろうとするのが通常だったと見られる。その派遣会社は、近年も、有名企業に正社員を対象とするいわゆる首切りマニュアルなるものを提供してリストラを促し、社員の退職を機に人材派遣のチャンスを増やして、自らの儲けの手段としていたことを、TVでも特集として報道され、世間に問題視されるに至っているほどだ。いわば、他者の不幸を自分の儲け話に変える手法が、社風として定着してしまっているのである。(しかも、その劣悪な派遣会社が、当時、筆者を派遣した先が、政府の事業の下請け企業であった。政府の下請けという立場もまたとりわけ悲哀に満ちた環境が生まれる元凶である。)

さて、当記事は労働環境について論じることを目的としていないので、本題に戻るが、上記のような事件は、筆者には、遭遇した当時は、いきさつを全く知らなかったため、それなりに衝撃的に感じられたものであるが、その後の月日で、すっかりその人材派遣会社のレベルの低さとモラルの欠如が見えてしまい、その事件が起きたカラクリも分かってしまい、なおかつ、比較的良心的でましな会社が他にいくらでも存在していることや、派遣であろうとなかろうと、会社を選ぶ権利は誰にでもあり、起きた出来事も、見る人から見れば、最初から予測できた当然の結果でしかなく、少しも筆者の個人的な責任に帰されるべきものでないことが分かったので、今はこのような出来事にはまるで心を動かすことなく、振り返って憤ることもなく、ただ取り合う価値もない出来事として呆れながら、素通りして行くだけである。

この世の中には、残念ながら、ハイエナやハゲタカのような企業や宗教や人間も存在しており、空中に蠢くウィルスを根絶できないように、それらを駆逐することは誰にもできない相談である。だが、人が健康であればウィルスに感染しないのと同様、そのような低いレベルの対象を見抜くことさえできれば、これを相手にせず、関わらないことによって、害を受けず、関わったとしてもその害を最小限度にとどめることは誰にでも可能なのである。

以上の体験談は、労働問題を論じるためでなく、信仰の生長について語るための一種の比喩として持ち出したものである。つまり、人生で一時的に、耐え難いほど心を悩ませる問題が起きて来ることがあっても、人が生長すれば、その事件を通り過ぎることができる。そして、もっとはるかに高度な問題に取り組むようになる。卑劣な人間や組織ほど、活発に自己主張するため、他者を押しのけて、人の不幸を踏み台にしてでも、貪欲に自己の利益拡大をはかるかも知れないが、そうした人々の厚顔不遜さに影響されることも減って行き、そばで誰がどのような生き様をしていようとも、落ち着いて自分の歩みを進めつつ、卑劣漢にその後、何が起きるのかを、冷静に観察できるようになる。つまり、理不尽な状況や有様を見ても、義憤に駆られて、自分の手で誰かに報復したり、自分の手で正義を実現しようなどと思うこともなく、すべての問題にふさわしい結果が現れることを確信して、穏やかでいることができ、心を悩ませる価値もないような問題や人々のために、人生の貴重な時間を膨大に浪費することはなくなるのだ。

この世に人材派遣会社が数えきれないほどあって、仕事を探している人間の側で、いくらでも選択が可能であるのと同様に、人はどんな対象と付き合う際にも、自分にふさわしレベルの相手を見分けて選ぶことができる。

つまり、誰でも相手をよく観察し、本心を見分ける術を心得て、関わる相手の性質やレベルを自分で見抜いて、これを定め、選びさえすれば、自分を守ることができる。そのための観察眼や洞察力を磨くべきなのである。(何よりも霊的洞察力・識別力を持つべきである。)だが、もし比較材料が全くなければ、学習を積む機会もないであろう。もしある人の人生に苦しみも悩みも全くないならば、その人には、さらなる自由や解放を求める機会自体が訪れないであろう。

人生に起きる出来事はすべてこのようなものである。一時的に卑劣な人間や劣悪な組織に出会ったとしても、全く絶望する必要がないのは、それよりももっと良心的な人間や組織が必ず存在するからである。つまり、人は何があっても、決して諦めることなく、より純粋なもの、より誠実なもの、より良心的なもの、より真実なもの、より完全なものを探し求め続けるべきであって、さらなる望みを持ち続けるべきなのである。最終的には、完全に真実な方は、神ご自身のみであることを忘れず、神にすべての望みをかけているなら、人生において、真実で誠実なものを求め続ける信者の願いを、神は笑われたりはしない。すべてのものについて、より真実で完全なものを求める願いがあって初めて、人は虚偽を脱し、不完全さと訣別し、より完全に近いレベルに到達することができる。地上における人の人生に完全はないが、それでも、信者は完成に向かって、絶えず歩み続ける。神と出会ったと言っているクリスチャンでも、決して信仰によって一足飛びにすべてを得ることはできない。自分の望みに従って一歩ずつ踏み出して行くしかないのである。

今となっては、筆者は人材派遣会社などに関わろうとは思わないが、かつてはなぜ派遣会社などを利用するのかとよく聞かれたものだ。それだけではない。なぜこんな条件に黙って応じているのか。なぜこんなに短い契約期間なのか。なぜこんな仕事内容なのか。あなたほどの人が、なぜ…。だが、他者がどんなに忠告しても、本人がそれを心から理不尽だと感じて、その束縛を脱することを全身全霊で望まないことには、脱出の道も現われない。そのことは、筆者が他の人たちを観察して常に感じて来たことだ。残念ながら、何と多くの人たちが、本来は、とうに脱しているべき劣悪な環境に自らとどまろうとすることか。多くの人たちは、束縛を振り払って自由になることよりも、かえって束縛に自分を合わせて自分の願いを切り取ることを願う。

信仰の成長も基本的にはそれと同じである。自分を悩ませたり、苦しめたり、束縛している問題に、一つ一つ、根気強く向き合って、神が約束しておられる自由と解放とは何なのかを思い巡らし、ふさわしい解決、ふさわしい解放、ふさわしい達成を自ら願い求めて、より完全なものへ向かって、一歩、一歩、階段を上るようにして、そこへ到達して行こうとする試みなしには、一足飛びにいきなり何かしら高度な達成へ至りつくことは決してない。自分が不当に束縛されているのに、それを束縛とも思わず、他者の同情を得る手段として利用したり、解放される必要があるのに、自分はすでに自由だなどと豪語して、問題と向き合うことなく、自分を偽っていれば、そこから一歩たりとも成長しないのは当然である。

かつて、ある信者が筆者に向かってこう言ったのを思い出す、「ヴィオロンさん、私があなたについて評価するのは、あなたの望みの高さです。現状だけを見て比べれば、今、あなたよりもはるかにましな状態、ましな環境にあり、はるかに成功しているように見える人たちはたくさんいるでしょう。でも、私が、あなたが他の人たちと違うと思うところは、あなたの望みの高さなのです。望みこそ、人の最終的な到達点を決めるものであって、現状がどうあるかは関係ありません。あなたには非常に高い望みがある。誰にも見られないほどの高い望みがある。だから、私はあなたに期待するのです。」

筆者は今、神以外の誰からも「期待している」と言われて喜ぶことはきっとないだろうと思う。人の評価ほど当てにならないものはなく、他人の期待に応えることが筆者の責務でもないからだ。だが、それでも、以上のような意見には、依然として耳を貸すべき部分があって、誰しも望みは高く持つべきだと考えている。特に、信仰者はそうだ。我らの望みは、キリストなのだから、まさに最高の最高の望みである。この最高の方を信じ、その方が共におられるにも関わらず、どうして我々が自分の人生について望みを高く持っていけない理由があるだろうか。そして、神がその願いを喜んで下さると信じない理由があるだろうか。

人は何を望み、何を現実だと思い、何を信じるかによって、その歩みは全く変わってしまう。不誠実な友に満足し、束縛があっても束縛とも思わず、モラルの欠ける状況に自ら甘んじたり、受けた苦難のゆえに、ただ苦々しい思いだけを心に抱いて、憤りや失意や悲しみに暮れて生きるのは容易である。自分は被害者だと主張して、途方に暮れたり、他者を責め続けるのも容易である。しかしながら、どんな出来事であれ、遭遇した出来事を、さらに高い到達点を目指すきっかけとし、より真実なもの、より確かなもの、より完全なものを見いだし、決して失われることのない希望と栄光に達するきっかけとしたいと心から願い、実際に、その栄光に至りつくことも可能なのだと、筆者は信じてやまない。なぜなら、より良い環境、より良い条件、より良い対象に出会いたいという願い、より真実な、決して変わることのない完全なもの、最良のものに出会いたいという人の願いを、神は決して笑うことなく、常に重んじて下さるからだ。神は筆者を常にその願いに従って、実際に願いの実現へと導いて下さったのであり、最善、最良のものを願い続ける人の望みは、最終的には、人を必ず神に向かわせる。神はご自分が完全な方であられるがゆえに、完全を求める人の願いをも重んじて下さるのである。

もう一度書いておくと、キリスト者には、しばしば自分を低めることに同意すべき時があるが、それは決して信者が自分で自分を卑しめるべきということではない。むしろ、信者はどんな限界や束縛の中にあっても、御言葉に基づいて、常に大胆に自由を目指すべきであり、神がキリストにあって約束して下さっている絶大な自由の価値を決して忘れるべきではない。謙虚さと卑屈さとは全く異なる別の事柄である。信者は、心の望みは、どんなことがあっても、決して自ら低めてはいけない。現状がどうあれ、信者の人生は、信仰を通して、心の望みに従って、形作られて行くからである。 「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)と聖書に書かれている通りである。

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