2017年3月20日 (月)

十字架の死と復活の原則―カルバリに住む―権勢によらず、能力によらず、ただ神の霊によって生きる―

愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃え盛る火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。

もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。」(Ⅰペテロ4:12-14)

* * *

キリスト者は荒野の中で泉を探して地中を深く掘り続けているうちに、ついに願っているものに達した。神が信じる者のために用意して下さった尽きることのない命の水脈を発見したのである。

そこで、次なる課題は、灌漑設備を作り、命の水を荒れ果てた大地に広く流れさせ、土地を潤し、再生させるための装置を建設することにある。

生ける水の川々が流れだす秘訣は、十字架の死と復活にこそある。

キリスト者が自己を否んで十字架を負う時、そこに復活の法則が働く。信者は束の間、低められても、それがまるで嘘だったかのように、高く引き上げられ、重い栄光に満ちた瞬間を見る。

日々、主にあって、ほんの少しの軽い患難を負い、自分が低められることや、誤解されたり、栄光を奪われることに同意し、常に何者かでありたいと願って、人前に栄誉を受けようとする自己の願望を退け、十字架の死を負うならば、信者が自分自身で「何者かになろう」と努力する代わりに、主が信じる者を高く引き上げて、願っておられるところに到達させて下さる。人間の願いではなく、神が願っておられることが何であるかを見せて、実現して下さる。その時、多くの場合、信者一人だけでなく、信者を通して、多くの人々が潤されることになる。

この復活の命の現われこそ、御座から流れる生ける水の川々である。

* * *

ウォッチマン・ニーは、クリスチャンが生ける水を流し出す秘訣を「血の高速道路」と呼んだ。

血の高速道路とは、何ともすさまじい表現ではないだろうか。十字架が、文字通り、剣のように、クリスチャンの自己を貫き通し、刺し通すという意味である。つまり、主にあって真に祝福を得たいと願い、主と共に栄光を見たいと思うなら、その信者は、主と共に十字架を負い、自分が低められることに同意しなければならない。キリスト者の自己が裂かれた分だけ、生ける命の水の川々が、そのキリスト者自身から流れ出すのである。

その血がにじむほどの、いや、血が噴き出るほどの苦しみが、高速道路と表現されているのである。おそらく、それは他者がそのキリスト者の栄光を奪い、彼を踏みつけて、その上を走って行くことにも同意せよ、という意味であろう。

これはある意味、キリスト者が主にあって負うべき苦しみの極致を示していると言える。最終的には殉教を指している。

しかしながら、クリスチャンは殉教といった巨大なスケールに達するよりも前に、これをもっとごく小さなスケールで繰り返して生きており、日々、信者が神の国の義のために、神への愛のために、他者への愛のために、人知れず自分を裂き、注ぎだした分だけ、そこに命の法則が働くというのは確かな法則なのである。

ところで、殉教といった言葉を聞くと、必ず、反発する人たちが現れる。そういう考えはカルト思考だというのである。しかしながら、聖書の神は、願ってもいない人たちに、殉教を強制されるようなことは絶対にない。だから、クリスチャンが神のために死を強いられているなどといった考えは全く正しいものではない。たとえば、かつての日本がそうであったように、皇国史観に基づいて天皇のために国民に強制された死と、クリスチャンの殉教を並べて論じるのは正しいことではない。

キリスト者が日々、主と共に負っている十字架は、あくまで霊的な文脈であり、信仰によって、信者が自主的に同意して成るものである。そして、キリストを信じる者にとって、十字架の死は、決して死で終わることなく、復活という、実に栄光に満ちた事実と分かちがたく一つである。人間に過ぎない君主のために命を捧げても、何の見返りもないであろうし、それは人情の観点からは讃えられても、何も生み出すことのない無駄な犠牲でしかない。

だが、キリストはまだ我々が罪人であり、背く者であった時に、我々のために十字架でご自分の命を与えて下さったのであり、我々はそのまことの、永遠の命にあずかり、その命をこの地上に流し出し、主と共に天で永遠の栄光を受けるためにこそ、カルバリの十字架に自分を重ね、日々、主と共に自分が死んだことを認め、彼の死に自分を同形化するのである。

クリスチャンは、こうして日々、主と共に死を負うことにより、苦しみが苦しみで終わらず、患難が患難で終わらず、死が死で終わらず、御名のゆえに負った苦難には、どんな小さなものであれ、必ず、絶大な命の法則が働くことを実際の体験を通して知っている。

筆者もまた十字架の死と復活の法則が確かなものであることを、日々、自分の意志によって試しており、そこに相応の成果を見ているので、このやり方に間違いはないと確信している。

信仰の初歩においては、信者は殉教などといったテーマを考えることなく、日々の小さな十字架から始めるのが良いだろう。そうしているうちに、最終的にもっと大きなスケールの試練にも耐えうる力が養われる。

だが、信仰者にとって、一体、何が主の御名のゆえに負う「十字架」であるのか、一体、何が後々、天の栄光に満ちた益をもたらす土台となりうる苦難なのかは、人間的な観点からは、はっきりとは分からず、見分けがたいとしか言いようがない。

たとえば、人の目から見て、空振りや、無駄でしかないと見える様々な事柄、もっとうまくやりさえすれば、時間を短縮して、浪費を少なく出来たはずなのにと後悔するような出来事であっても、あるいは、みっともない恥だ、失敗だ、と思われるような出来事さえも、信仰の観点からは、損失でないばかりか、後々、えもいわれぬ大きな収穫を生み出す土台となることもあり得るのだ。おそらく、神の観点から見て、信者が御名によって耐えた全ての試練に、無駄というものはないのではないかと思われてならない。

たとえば、筆者は、ある年末年始の休日に、歯痛に襲われ(実際には一時的なストレスから来るもので病気ではなかったのだが)診療所を探して行ってみた。すると、祝日にも関わらず、待合室は大混雑して、長蛇の列ができており、待ち時間が一時間以上に渡り、パイプ椅子が並べられていたにも関わらず、数が足りず、子連れの親も数多く来て騒がしかった上に、診療それ自体も、決して良い雰囲気ではなく、結局、大した治療もできず、しかも病気でもないことが判明し、筆者は疲労だけを手に完全な無駄足だったと思いながら帰途に着いたという出来事があった。

ところが、その後まもなく、実に不思議ないきさつで、その診療所のすぐ近くに拠点を構えるある企業に仕事上でお世話になる機会を得たのであった。筆者が無駄足だったと思いながら、疲れて帰途に着いている時には、そのような縁が生まれることを予測せず、地上で誰一人、そのようなことが起きると知る者もなく、筆者自身も、その会社組織の存在さえ知らなかったが、今となっては、歯科医を探してその場所へ赴いたこと自体が、まるで未来へ向けての下見のようであった。神はそのような全くの無駄に見える出来事の中にさえ、しっかり働いておられ、不思議な形で、この出来事を新たな有効な出会いへと結びつけて下さり、筆者と共に生きて働いて下さっていたのである。この話には後日談もあるのだが、それはまたの機会にしよう。

さて、筆者は、キリストの復活の命に生きるために、何年も前にこの土地へやって来たのだが、長い間、悪魔の巧妙な策略のために、生ける水の川々を流れさせる法則をうまく掴めないでいた。

それは、かつて筆者の周りにいたクリスチャンたちの間では、主のために信者がすすんで負うべき苦しみについて、ほとんど語られなかったせいでもある。あるいは、語られることはあっても、実践されなかったのである。

その当時、筆者を取り巻いていた交わりでは、信仰者が主のために苦しむこと、いわれなき苦難を負うこと、主のために損失や、恥や、無駄を負うことについては、何か時代遅れの気まずい話題のように避けられ、信者が神を信じたことによって得られる祝福や恵みばかりが強調されていた。

信者たちは、仲間内で、自分が神に愛されている者として、他の人々には与えられない優れた祝福にあずかり、どれほど幸福に生きているかというイメージを演出することを、一種のお約束事のようにしていた。そうすることで、彼らは自分たちが他の信者たちの及ばない霊的高みに達している証拠のように誇示していたのである。

だが、筆者はこれにいたく疑問を感じていた。筆者はもともと世故に長けて器用に立ち回ることによって、己が力で人生の成功者となりうるような才覚の持ち主ではなく(もしそんな才覚が生まれつきあれば、自己過信して、神を求めることもなく、キリストに出会うこともなく、信仰を持つこともなかったであろうから、そのような手練手管を持たなかったのは、極めて幸いなことであり、また、それが神の筆者への特別なはからいであり、愛に満ちた恵みであることを疑わないが)、さらに、確固たる信仰を持つよりも前から、筆者はそのような地上的な成功を目指して生きることに、何の意味をも感じていなかったので、人生の成功だけを全ての価値のようにみなすこの世の不信者の社会においてならばともかく、信仰者の社会においてまで、自分が「上手に器用に立ち回って失敗を避け、そつなく生きている成功者」であり、「霊的勝ち組」であるかのようなイメージを演出して自己の成功を誇る空気には、全く同意できなかった。

そのため、仲間内で器用に立ち回って賞賛を浴び、他人の名誉が傷つけられても一向に平気であるにも関わらず、自分の名誉が傷つけられることだけには敏感で、それが起きないように先手を打ち、あるいは自分に歯向かう者には策謀を巡らして徹底的に報復し、自分だけは人と違って高みにいて幸福だと豪語して、他者の苦しみを高慢に見下す周りのクリスチャンたち(?)(おそらく彼らはクリスチャンとは呼べまいが)のあからさまな自慢話を聞かされる度に、筆者は首をかしげ、悩まされ、苦しめられていた。

幾度か、彼らのあまりの自画自賛のひどさに耐えきれず、それとなく間違いを指摘してみたこともあったが、しかしながら、いかなる説得によっても、彼らの強烈な思い込みを変えることは無理であった。

ついに最後には、筆者と彼らとの生き様や信仰的な立場の違いは、否定しようにも否定し得ないほどの大きな溝となり、彼らから見れば、筆者の存在自体が、彼らのままごと遊びのようなお楽しみの括弧つきの「信仰生活」に水を差すもの、彼らの虚飾の栄誉をいたく傷つけるものでしかないと感じられたのだろう。彼らは、すでに上流階級の特権的社交界クラブと化していた彼らの偽りのソサエティから、筆者を似つかわしくないメンバーとして除外したのであった。(ただ除外しただけでなく、相当な報復をも加えたのである。)

筆者は、彼らの進んでいる方向が、根本的に聖書に相違する間違ったものであることを随分前からよく分かっていたので、そのような結末に至ることを予想済みであったが、何とかその結末を食い止めて、彼らを真実な道に立ち戻らせることができないかと当時は思っていたので、その願いにも関わらず、目の前にいる生きた人間から排斥され、残念と思われる結果に至ったことに、何の痛みも感じなかったわけではない。

だが、その体験は、主にあって、筆者の人生でまことに幸いな実を結び、大きな恵みを受けることへとつながった。それからほどなくして、筆者は自分が神に出会って後、心から正しいと確信していた通りの、聖書に基づく、純粋で素朴な信仰生活に何の妨げもなく平穏に立ち戻ることができただけでなく、まがいものの交わりの代わりに、もっと親しく愛情に満ちた豊かな交わりに加えられ、人生の別な方面においても、収穫を得たのである。

その後も、色々なところで、類似した出来事が繰り返された。誤解や、非難や、対立や、排斥といった出来事は、往々にして起きて来るものであり、クリスチャンと呼ばれる人々の中では、特に、激しい戦いが常に起こるものであるが(なぜなら、真に聖書の御言葉を実践して、神に忠実に従う信者は、クリスチャンを名乗る者の中にも、極めて稀だからである)、今、思うことは、信者がそういった何かしらの尋常でない苦しみや痛みを伴う事件に遭遇し、人の誤解や、非難や、嘲笑、排斥に遭遇し、慣れ親しんだコミュニティを離れることがあったとしても、そのような出来事のせいで、傷ついたり、落胆する必要は全くないということである。

むしろ、信者が地上において、主に忠実に従うがゆえに、人からの拒絶を受ける時には、常にほどなくして、それに相応する天の栄光が待ち構えていると言って良いから、それを待ち望むくらいでちょうど良いのである。信者が主に従う過程で負った苦しみには、どんなものであれ、必ず、天での報いが伴う。

だから、信者は、人間に過ぎない者たちの言い分や、人の思惑に振り回される必要がなく、また、自分の地上生活における苦しみだけに注目して、落胆したりする必要もなく、それとセットになって天に備えられている絶大な栄光に思いを馳せ、神が地上の軽い患難と引き換えにどのような大きな喜びをもたらされるのか、それだけを心に留めて進んで行くべきなのである。

繰り返すが、信者が地上でいわれなき苦難を黙って身に背負うとき、神はその信者の態度をよく見て下さり、信者のどんな些細な苦しみに対しても、予想だにしない大きな祝福を備えて待っていて下さる。

むしろ、そのようにして、自分が地上で低められ、恥を負うことによって、十字架の死を負う態度がなければ、信者はキリストの死に同形化されることができず、キリストの死に同形化されていない者が、キリストの復活に同形化されることは決してない。

つまり、信者が主と共に十字架を負うことに同意しない限り、その者に神の復活の命の現われが見出されることもないのである。主の死を共に負わない信者が、キリストと一つであると豪語するのは、嘘であり、悪魔の罠でしかない。主の死に同形化されずに、主の復活にあずかろうとする者は、神に従うどころか、逆に悪魔と同じ高慢さに落ちて行くことになる。これは大変恐ろしい罠である。

聖書ははっきりと告げている、「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:14)。これは世人のみならず、まさにクリスチャンを名乗る人々にも同様に当てはまる事柄である。

いのちに至るための小さな門、狭い道とは、主と共なる十字架の死のことである。主と共に、人前に蔑みや、排斥や、そしりを負い、自分で自分を高く掲げないことである。もし神の御前で高くされたいなら、その人は、まず低くされることに同意しなければならない。神と人との前に真に賞賛に値する者とされたいならば、まず、人前に低められ、誤解されたり、そしられたり、嘲られたり、のけ者にされたり、拒まれ、栄光を奪われ、無とされることに同意しなければならない。その経緯を辿って初めて、天の栄光にあずかることができるのである。

筆者がしばらくの間、生ける命の水の川々を流し出す秘訣を十分に知らずにいたのは、この絶えざる十字架の死こそ、復活の命の現われであると、まだはっきりと気づいていなかったためである。信者の信仰生活につきものである苦難を驚き怪しむどころかこれを積極的にキリストの苦しみにあずかる機会として用い、御名のゆえに、自己を余すところなく十字架の死に渡すことが、どれほど絶大な喜びへとつながるか、まだ具体的に十分には知ってはいなかったためである。
 
クリスチャンになってまで、主のための苦しみを避け、自分が人生の成功者であり、失敗や痛み苦しみとは一切無縁であるというイメージを醸し出しては、それを神の恵みと称して、人前に誇っているような人々は、ただ自分の生まれ持った肉の力を誇っているだけである。だが、人が生まれ持った人間的な手練手管によっては、誰も、神が信じる者のために備えて下さっている天の栄光にあずかることはできない。

旧約聖書に登場するヤコブは、自分の手練手管により、兄であるエサウを出し抜いて、長子の権を奪うことには成功したが、その後、彼より上手だったラバンからしたたかに利用され、つらい様々な紆余曲折を経なければならなかった。ヨセフは、父のお気に入りの息子として、他の兄弟たちにまさって親の愛を受け、自分が将来、兄たちの上に立つ支配者になることを幼い頃から予感していたが、その栄光に満ちた召しへたどり着くためには、兄弟たちに裏切られて、奴隷として売られ、家からも親の愛からも遠く引き離されねばならず、さらには使用人として仕えていた家でも、主人の妻の偽りの証言がもとになって、いわれなく投獄されたり、相当につらい体験を味わわなければならなかった。モーセも、エジプトの王子として育てられ、言葉にもわざにも力があったが、イスラエルの民をくびきから解放するという光栄な召しを果たすために、神によって指導者として立たされるまで、長い間の失意の逃亡生活を耐えなければならなかった。

待望の息子が生まれるまでに肉の力が尽きるまで待たされたアブラハムとサラは言うに及ばず、このようにして、天の栄光が信者に現れるためには、必ず、信者が地上で低められるという過程がなければならない。それによって、信者が生まれ持った肉の力が尽き、どんなに生まれつき才覚のある人間でも、もはや自分自身の力で自分を高く上げることができなくなったときに、信仰によって、神の力がその人に臨み、人間の努力や才覚によらず、ただ神の霊により、神の御言葉により、その信者を通して、神のご計画が成就し、信じる者がキリストと共に高く上げられるということが起きるのである。

筆者は、20世紀に地上の人間として生まれ、人間としての常識を持っているために、さまざまな問題が持ち上がる時、人間的な観点から、常識に従って、その解決方法を考えないわけではない。時には、専門家と呼ばれる人々に助けを求めたことがなかったわけではない。ヨセフがポテパルの妻の讒言が災いして投獄されていた時、一刻も早く釈放されたい願いから、他の囚人に助けを求めたように、人間の助言や力に頼ろうとしたこともないわけではない。だが、そういう方法では、決まって問題が解決せず、かえってこじれることの方が多いということを、筆者は思い知らされて来た。

つまり、神が信者のために供えられた苦難に対しては、神が定められた方法でしか、解決が与えられないのである。そして、その解決とは、人間の力によらず、ただ神の御言葉から来る。

人間は、自分の体に不調があれば、医者にかかれば治ると思うかも知れない。それがこの世の常識である。だが、結局、医者ができることなど限られており、人間の体を健康に戻す最大の力とは、その人の生命それ自体に備わった自然の治癒力にこそある。そして、しばしば医者の助言は、患者にとって極めて有害なものともなりうる。たとえ大手術をしても、手術が患者を救うのではなく、その手術から回復する力がなければ、むしろ、手術自体が命取りになりかねない。そして、本当に必要な手術でない手術も、病院では「治療」と称して極めて多く行われている。

人間が生まれ持ったアダムの命の治癒力には限界があるが、この治癒力を他のどんなものよりも効果的かつ完全に発揮できるのは、キリストの復活の命である。そこで、キリストの復活の命を持っているということは、その信者が、あらゆる問題を、主と共に、自らの力で解決することができる立場に立っていることを意味する。

同様のことは、病気だけでなく、人間が遭遇するあらゆる問題に共通する。何かしらのこじれた問題が起きれば、人は弁護士のもとを尋ねたり、裁判所に赴いたり、警察に赴いたりすれば、解決が早まると信じるかも知れない。だが、その問題を解決する力は、そのような識者や専門家にはなく、その人自身の霊的な状態と思考力、その人自身の判断力、交渉力、決断力にこそある。

だから、筆者は、今となっては、様々な問題が発生する時に、その解決を、この世のどんな「専門家」に委ねようとも思わない。そのような人々に接近して、自分の問題解決を委ねた信者たちがいることは知っているが、彼らの末路は決して明るいものではなかったとはっきり言える。

幾度も述べて来たように、医者に頼る者は、不安を煽られて、切除しなくても良い臓器まで切り取られて健康を失い、裁判に頼る者、警察に頼る者は、信仰の道から逸れて、人間のプライドを立てるためだけの終わりなき闘争に引きずり込まれて行った。

神は筆者に対して、そのような方法を決してお許しにならなかった。そこには何か目に見えない線引きがあって、他の人たちにはできることが、筆者には許されず、神ご自身がはっきりとそれ以上、その道を進んで行ってはならないと、ストップをかけられるのである。つまり、人間的な力を用いて、自分の名誉や権利を力づくで取り返そうとすることを、神は決して筆者にはお許しにならない。これは極めて厳粛な線引きである。そして、このような神の知恵と守りがなければ、信仰の道から脱落した他の信者たちと同様、筆者も誤った道に容易に足を取られていたであろう。

神は筆者に対してこのように語られる、「ある人々は、自分の名誉が傷つけられれば、徹底的に相手に報復することで、自分が潔白であると主張しようとするでしょう。そのためならば、他人に濡れ衣を着せて告発したり、有罪に追い込み、悪口を触れ回ることをも辞さないでしょう。しかし、あなたはそのような人たちが、自己を守るために引き起こしている絶え間ない争いを見て、それを美しいと思うでしょうか。そこに栄光を見るでしょうか。むしろ、その反対ではないでしょうか。

クリスチャンとは、人を罪に定めるために召された存在ではなく、神の和解と赦しを勧めるために召されたのです。人を告発し、罪に定める仕事よりも、人に罪の赦しを宣べ伝え、解放を告げる召しの方が、どれほど栄光に満ちた、名誉ある、感謝される仕事であると思いますか。どちらがあなたに栄光をもたらす仕事だと思いますか。あの不正な管理人のたとえ(ルカ16:1~13)を思い出しなさい。

だからこそ、信者には、この召しの実行のために、人前に甘んじて不義を受けるという態度が必要なのです。私があなたの義である限り、あなたの潔白はゆるぎません。誰もあなたを再び罪に定めることのできる存在はありません。しかし、私はあえて私の愛と栄光を、信じる者たちを通して地上に現したいのですよ。そのために、あなた方に、反抗する罪人たちに、終日手を差し伸べる者となって、私の耐えた苦しみを、あなた方にも共に背負ってもらいたいのです。私が神であるにも関わらず、その栄光を捨てて地上に弱い人間として生き、その中でも最大の恥辱を負って十字架にかけられることを辞さなかったように、その愛にあなた方もならって、地上で自分を低くすることで得られる天の栄誉の大きさをを共に知ってもらいたいのです。それによってしか、私の栄光をあなた方が共に得ることはできないのです。」

だから、信者は、どんな瞬間にも、自分は主と共にすでに死んでいることを思い、日々、人生に起きて来る、ごく些細な苦しみに同意して、神の御前に自分を低めることによって、ただ神だけがなしうる不思議な方法で、その些細な苦しみと引き換えに、それとは比べものにならないほどの、絶大な天の栄光が与えられるのを確認するのである。

信者にとって真のリアリティは、苦しみではなく、それと引き換えにもたらされる天の栄光である。地上的な試練は、ほんの束の間に過ぎ去るものでしかない。たとえば、車の運転をするときに、障害物だけを見つめて運転していたのでは危険であろう。また、障害物が現れたからと言って、それを迂回せず、無理やりどけてから進むという者はいないだろう。そんなやり方では1mも前進はできない。

同じように、信者の信仰生活には、様々な「試練」や「苦難」や「障害物」が現れて来るが、信者はそれを見つめず、あくまで進むべき進路だけを見つめ、道の先に待っているもの、目指している目的地だけをまっすぐに見つめるのである。それが天の都、信者が主と共にあずかるはかりしれない永遠の重い栄光である。

多くの信者たちは、障害物がリアリティだと思い込んでしまうので、そこでつまずいて前に進めなくなってしまう。自分が傷つけられ、栄誉を奪われれば、取り返さねばならないと思い、目の前に何か大きな障害が立ちはだかって、前進が妨げられているように見えるときには、その問題を解決しない限り、前に進めないと思い、主と共に解決を落ち着いて考えようともせずに、苦しみから早く逃れようと、不安を煽られて、専門家のもとを闇雲に走り回り、無用な忠告を受けて道に迷わされ、さらに問題をこじらせてしまう。人間的な力で物事を正そうとするがゆえに、御言葉を退け、十字架につまずいて、前に進めなくなってしまう。そして、もっと悪いことには、それをきっかけに、信仰から逸れて行ってしまう者も多い。

覚えておかなければならないのは、信者の人生に、主と共に信者が自分で乗り越えられないような障害物は、地上に何一つ存在しないということである。障害物を絶やすことは、信者の力ではできず、それらをすべて力づくで除去することもできない。必要なのは、障害物は進路ではなく、注意を払うべき対象でもなく、さらには現実でもないことを認識して、真にリアリティである方から目をそらさずに、まっすぐに前だけを見て進む方法を見つけることである。間違っても、障害物を除去するまでは前進できないなどと誤解してはならない。

信者が障害物を乗り越える方法は、その時々によって様々である。人間的な手練手管によって、上手に迂回することはほとんどの場合は無理である。むしろ、人間的な力や策謀によらない、実に不思議な方法によって、神はそれを乗り越える方法を信者に示して下さる。それが、御言葉が信者の人生において実際になるということである。障害物は、最初は巨大な壁のように見えても、信仰によって進んで行くうちに、いつの間にか、それは全くリアリティではないこと、すでにキリストによって打ち破られて、効力を失っており、注目に値しないことが分かる。信者に障害物だけを見させて、前進を忘れさせるのが、悪魔の目的なのである。

地上にどんなに障害物が多く現れても、キリスト者にとって、道がなくなることはない。道とはキリストである。この方だけが真のリアリティである。だから、信者はこの方だけを見つめ、他のものから目をそらすのである。すべてのすべてであられる方が自分と共におられ、すべての解決であられる方が、自分の内に住んで下さっていることを確信し、地上で何が起ころうと、それに心を留めず、自分の目の前に置かれた喜びだけをまっすぐに見つめて、天の栄光だけを信じてまっすぐに進むのである。

「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」(マルコ5:34)と、主イエスが言われたように、信者が信仰によって目を注ぎ、心に思い、それがリアリティだと思って見つめるものが、現実になるのである。あなたにとっての現実とは何だろうか。病が現実なのであろうか。障害が現実なのであろうか。苦難が現実なのであろうか。はたまた、不幸な過去や、嘆かわしい生い立ちや、過去の失敗や、恥や、不完全な自分自身や、人の身勝手な思惑や、いわれなき讒言や、迫害や、傷つけられた自己の名誉やプライドが現実なのであろうか。

仮にそういうものがどれほど数多くあったとしても、神はあなたにとってそういうものを解決できないほどまでに弱々しい存在なのであろうか。あなたは一体、何を現実として選び取るのか。人の弱さや不完全さの中にこそ、神の強さと完全が生きて働くという幸いな事実を見ることができるだろうか。信者が地上において御名のゆえに負うすべての苦しみは、信者を通して、神の栄光が現されるためのほんの些細なきっかけでしかないという幸いな事実を見ることができるであろうか。

「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。
患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。


「あなたのために、私たちは一日中、

死に定められている。
私たちは、ほふられる羊とみなされた。」
と書いてあるとおりです。」

しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威あるものも、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:35-39)
   
    

2017年3月 5日 (日)

十字架の死のと復活の原則――信者のからだの命でもあるキリスト――ただキリストの復活の命によってすべての必要を満たされて生きる

ですから、私はあなたがたに、食事をとることを勧めます。これであなたがたは助かることになるのです。あなたがたの頭から髪一筋も失われることはありません。」(使徒27:34)

「しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕えて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。

それはあなたがたのあかしをする機会となります。
それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。
どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。

しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もあり、わたしの名のために、みなの者に憎まれます。
しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。
あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。」(ルカ21:12-18)

かつて巨大なエクソダスが起き、筆者が初めてキリストの十字架の死と復活に同形化されることの意味を知った時の出来事を思い返している。というのは、それとほぼよく似た体験をつい最近もしたばかりだからである。

一つ前の記事において、神から信者への御言葉による光の照らしを筆者はレントゲン写真にたとえたが、これは少しばかり不適切なたとえかも知れないと思う。なぜなら、神による照らしは、レントゲンのように有害な放射線によらず、また、我々が自分を吟味していただくお方も、あくまで神であって、目に見える誰か人間に向かって客観的に自分の状態を確認してもらうことが目的ではないからである。

以前、筆者は、獣医の誤診によってさんざん無益な狂奔をさせられた事件について書いたことがあるが、医者という存在は、どこかしら牧師にもよく似ていて、もしも自分の体のことを自分で管理できない不安を抱く患者が安易に助けを求めるならば、医師たちは、そのような患者をあたかも問題から助けてやるかのように見せかけながら、さらにその問題を悪化させ、よりひどい依存状態へとがんじがらめにして行くということが、全くないわけではない。

だから、キリスト者が頼るべきは、人間の医師ではなく、まことの医師たるキリストであって、キリスト者を生かす命は、人間による外科治療や薬による外的影響力ではなく、内側から働くキリストのまことの命なのである。キリスト者が受けるべき検査は、人体に有害な人工的な光の外側からの照射による検査ではなく、神の無害な御言葉の光の内側からの照射による検査である。

前回の記事で、筆者は『キリスト者の標準』を引用しながら、ウォッチマン・ニーが憔悴状態にあった時の体験に触れたが、彼には何かしらの持病があったらしく、それが悪化した際に、一度は重篤な状態に陥り、兄弟姉妹からも命を危ぶまれ、診察した医師からも、余命いくばくもないと宣告されたことがあるそうである。その体験を、筆者は別な著書で読んだ。だが、ニーはその時、息も絶え絶えの病の床で、医師から受けた死の宣告を、信仰によって拒否し、そして、実際に彼は奇跡的な回復を遂げるのだが、それからしばらく経って、たまたま読んだ新聞の死亡欄に、自分を診察した医師の名前を見つけ、神は生きておられると痛感した、というくだりがあったと記憶している。

筆者もそれにかなりの部分で同意する。筆者は、信者が医学的な治療や、薬や、検査を一切拒否すべきとまで言うつもりはないが、極力、そのようなものは受けないに越したことはないと考える。そういったものに頼って自分の健康を維持しようとすることは常に失敗に終わる。

たとえば、誰しも分かるように、薬などによって症状が抑えられるのは、ほんの一時的な間でしかない。たとえどんなに小さな傷であっても、患者の体自身に受けたダメージから根本的に治癒する力がなければ、患者が薬を飲み辞めた時点で、また症状が再発するだけなのだ。そのように外側からの影響力に頼って、人間が自分の状態をごまかそうとすることは、回復というよりも、目くらましに近い。薬のせいで、傷があるという事実が忘れられ、さらに、傷が治らないか、あるいは治る見込みが薄ければ、今度は、外科治療によって体の部位ごと切除しましょうという話になる。医師たちから見れば、それこそ「治療」である。だが、もし患者がそれに同意すれば、患者は最初に受けたダメージよりも、はるかに大きなものを永久に失わなければならなくなる。体に必要な部位を切除すれば、体に必要な器官がなくなるわけだから、その悪影響は、何年後かにまた必ず現れて来る。一つの症状は治まっても、今度は体の部位がなくなったことから来る弊害のための「治療」が必要になるのである。

だから、信者は、このような無限ループのようなごまかしに近い療法で満足するのではなく、根本的な原因は何かというところに目を向けて、目くらましの治療ではごまかせないもっと深いレベルまでで、人間ではなく、神によって根本的な治療をしていただかなければならない。人間は常に外からの影響力に頼って問題の本質をごまかし、なおかつ、人間の肉眼で見える証拠しか採用しないので、しばしば判断を間違うが、神はキリストを通して、人間を内側から生かすことのできるまことの命をお与えになっているのであって、その診断は決して間違うことなく、その命は、患者をいかなる外的影響力にも依存させずに自ら立ち直らせる力のあるものである。

キリスト者には、地上で様々な圧迫や苦しみが起きて来ること自体は避けられない。どんなにすべての思い煩いを神に委ねているとしても、色々な出来事に対処を求められる過程で、また特にサタンによって引き起こされる様々な問題に立ち向かう上で、極度の憔悴や、疲労困憊に追い込まれることは実際にないとは言えない。だが、信者がそのような圧迫によって起きた状態を、「取り返しのつかない現実」であると考えて、死や、損失を、避けがたいものとして受け入れるか、もしくはそれに信仰に立って徹底的に抵抗して、信仰によってその損失を拒否し、命を選び取るかどうかは、あくまで本人の選択による。

キリスト者はその生だけでなく、死によっても、神を証すべき存在であり、殉教と、サタンの攻撃や不摂生の結果として起きただけの病死や、もしくは老衰などによる死は、決して同列に論じるべき事柄ではない。アブラハムや、モーセがそうであったように、信者は老いてもますます神の命によって支えられ、輝かされるくらいでなければ普通とは言えない。病についても同じことが言える。信者の歩む道は自然の法則によるものではないのである。

だから、もし抵抗できるなら、信者は最後の瞬間まで、病や、圧迫や、死を拒んで、いのちを選び取るべきなのである。それはただ自分が苦しみたくないとか、死にたくないといった自己中心な利益を求めてなされる抵抗ではなく、もしキリストの御名のためならば、いつでも死を辞さない覚悟はあるが、それでも、キリストの死を打ち破った命が、人間をすべての圧迫から救い出すことができ、神は人に死ではなく命を与えるためにこそ人を創造されたのだと、天地の前で生きて証明するために堅く信仰に立って抵抗し続けるのである。

キリストのまことの命が信者を生かすようになると、信者の内側に未だかつてない新たな確信が生まれると共に、信者の滅びゆく肉体の幕屋にも新たなエネルギーが注がれる。

キリストの十字架の死と復活に信者があずかることは、信者の生涯で決して一度では終わらない体験であり、この原則は、信者の人生に極めてダイナミックな出来事の形を通して適用されることもあれば、そうでないもっと些細な出来事によって適用されることもある。

だが、表面的な見え方がどのように違えど、地上におけるごくごく軽い患難を通して、永遠の重い栄光にあずかることは、信者の生涯に渡る絶え間ない体験である。 文字通り、自分が地上で受けるすべての悩み苦しみについて、信者はこの原則を適用することができるのである。

ごくごく最近も似たような体験をしたばかりなので、改めて書いておくと、筆者が、2009年当時に初めてキリストの復活の新しい命が自分を生かしていることを知った時に、真っ先に感じたことは、このまことの命は、たとえ地球が七回核爆弾で滅んでも、それでも滅びないほどまでにとてつもない力を持つ命だ、ということであった。 つまり、この物質世界で起きるどんな脅威をも打ち破るほどの、何かしらのとてつもないエネルギーをもたらす新たな強力な命が、自分自身の力には全くよらずに、自分の内側に存在することを感じたのである。

次に、理解できたのは、こうして信仰によって新しく与えられた御子の復活の命が、筆者自身の脆く弱く朽ちゆくはかない有限な肉体の幕屋にも、絶えずエネルギーを送り込む主電源となっている、ということであった。

当時を思い返すと、十字架の死が霊的に適用されるまでの間に起きた様々な圧迫のせいで、筆者はかなり憔悴していた。その当時はまだ、十字架の死と復活が信者に適用される直前には、多々そのような予期せぬ圧迫が起こることを知らなかったので、多くの出来事が不意打ちのように感じられ、そのために翻弄され、悲しんだり、悩んだりしたせいで、心身が極度に憔悴していたのである。

ところが、主の死に霊的に同形化され、よみがえりにも同形化されると、キリストの復活の命が、はっきりと自分自身の中で働きを始めたのが分かり、そして、その瞬間を境に、それまで死に向かって処刑台を行進させられる囚人のように憔悴の一途を辿っていた心身が解放され、肉体は強められて健康に回復され、疲弊していた魂は新たなエネルギーを得て生き生きとし、生きた人間として自分がまるごと刷新され、活性化されたのが分かるのである。

サタンの圧迫によって苦しめられたり意気消沈していた魂はたちまち健康を取り戻し、体には食欲の増進が起き、あらゆる食べ物が極めて美味に感じられ、体がそれまでの霊的死のために通らねばならなかった疲労状態から回復するために、急速にエネルギーを回復している様子が分かった。だが、それは決して病的な傾向ではなく、真に健康であるがゆえに、食事を楽しむことができるという幸福なのである。そして、採った食べ物が、どんなストレスにも妨げられることなく、体を生かすための栄養源になるという幸福な状態なのである。

幾度も書いている通り、信者の人生には、しばしば、十字架の死と復活の原則が適用されるために、思いもかけない激しい戦いのような出来事が起きることがある。十字架の死を迎える瞬間までは、信者はまさに死のクライマックスに向かって自分が行進をさせられているかのように感じ、まるでこの世全体が自分にスクラムを組んで敵対しているのではないかとさえ感じるであろう。

しかし、それが、何ら予期せぬ出来事でもなく、思いもかけない不審な事柄でもなく、ただキリストと共なる霊的死にあずかるために、信者が避けて通れない軽い患難、小さな杯であることが分かれば、信者は、そういう事柄に心を煩わせる必要が全くないことを理解するであろう。それは、自分の信仰が試されているだけであり、その苦しみの先には、はかり知れない栄光が待ち受けていることを、まだその苦しみが終わらないうちから、大胆に確信でき、天の褒賞にあずかる喜びを楽しみにさえすることができるようになる。そして、実際に信者が御子の復活に同形化されると、かつての苦しみによって受けたすべての損失が嘘のようにそれを補って余りあるほどの回復、祝福にとって代わる幸いを見ることができる。

苦しみによってダメージを受けた心や体が回復されるだけでなく、さらに、失われたこの世の富も、回復されるであろう。信者に与えられた新しい神の命は、すべてを統治・支配する命であるから、信者のために必要な全てを(肉体のエネルギー源のみならず、生活の必要の全て、また信者の心の願いを)自然な形で供給することができると分かるはずである。

キリストは地上におられた時、何も財産を所有しておらず、職業を持っておらず、生計を立てるための具体的手段を持っておられなかった。それにも関わらず、神の国の宣教は、信仰によってのみ支えられたのである。こうして、今日、キリストだけでなく、信者自身も、持って生まれた権勢、自己の力で築き上げた権勢によらず、生まれつきの才覚や、後天的に獲得した優れた能力によらず、職業的な専門技術によらず、親族や知人のコネに頼らず、神への信仰を生きて働かせることだけによって、すべての必要を神に供給していただくのである。

キリストはご自分も肉体を持っておられ、人としての弱さを知っておられたにも関わらず、決してご自身の必要のためだけに人々に関わられたり、懇願されることはなく、むしろ、常に人々に豊かに与える側に回っておられた。そのキリストが信者の内側に住んで下さることは、キリストが地上におられた時にすべての必要をただ信仰を通して神によって供給していただいたのと同じ法則性が、信者の内に生きて働くことを意味する。

だから、 「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じて、バプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」(マルコ16:15)という命令を実行する力と条件を信者に与えるのは、神の側の仕事なのである。信者はただ信仰を働かせ、すべての必要をイエスの御名によって父なる神にかなえていただくのであり、それを実際に可能にするのが、信者の内に住んでおられるキリストの支配する命である。

また、その命は霊であり、その中に神と信者との交わりの中心がある。そこで、信者はキリストの復活の命を知ると、それまでのように、神との交わりを求めて自分の外をさまよい、神を知るためにあれやこれやの指導者を訪ね歩く不安に満ちた生活から、ただ自分自身のうちに住んでおられるキリストへと平安のうちに関心を転換することができる。

どんな時にも、信者は自分は心の内側で、聖なる御座へ進み出て、誰をも介さず、神に直接、全てを願い求め、祈り、交わることができる。自分の霊の内側に祭壇があって、そこで、いつでもキリストを通して、どんな問題についても、父なる神に直接、祈り、相談し、求めることが可能になるのである。神はもはやどことも知れない遠くにおられて、自分をいつでも見捨るかも知れないような不確かなお方ではなく、たとえ目で見られず、耳で聞こえず、肌で感知できずとも、生涯の終わりまで、共にいて下さり、信じる者を力強く守って下さり、すべての必要を満たして下さる方であり、信者は、祈る時にはいつでも天に直結してその願いが聞き届けられていることを知る。

だが、このような命が信者に与えられているのは、ただ信者一人だけの満足のためではない。信者は自分自身がキリストの復活の証人として世に出て行く使命を負っているのであり、そのためにこそ、主と共に死からよみがえらされて証人として立たされているのである。

キリスト者が伝道するのは、多くの信者たちが誤解しているように、教会組織の人数や権勢を拡大するために、神を求めていない人の関心をあの手この手で引こうとすることとは断じて関係がない。キリスト者が人々に奉仕する意味も、自己変革によって神に到達するための精進などでは決してない。すでに、全ての全てであられる方を内に得ているのに、何のために自己変革などするのか。信者がもし自己変革などを目指すとすれば、それはただ地上において、軽い患難を耐え忍ぶことを通して、重い天の栄光があることをより深く知り、より深くキリストの十字架の死と復活に同形化されて、内に住んでおられるキリストと深く交わり、この方への愛を深め、御子に似せられて行くことのためだけである。だが、それは信者が何かしら偉大な人格者へと変えられることにより、世から賞賛を受けることとは何の関係もない事柄である。

キリスト者が世に出て行くのは、世に自分の欠乏をかなえてもらうためではなく、世の欠乏をかなえるためでもなく、むしろ、惜しみなく与えることを願うキリストの命を注ぎだすことにより、神の召しに応え、神の愛を全うするためなのである。

こうして、信者が自分自身を注ぎだすのは、まず第一に神のためであり、信者がまだ反抗的な罪人であった時に、信者のためにすべてを捨てて下さった方の愛に応えるために、自分自身も彼にならって、この方にすべてを捧げるのである。だが、それが成就した時に、実に不思議な形で、信者自身の地上的な必要も満たされ、また、多くの場合、信者をとりまく人々の必要も満たされるのを信者は知るであろう。その順序は決して逆にはならない。

もし信者が神のために一切のものを留保せずに惜しみなく捧げ切ることができれば、この地上で信者が神を証して生きるために必要なその他の一切は、すべて自然に与えられる。まるでそうしたものは、全く取るに足りない付属物に過ぎないもののように、軽やかに、ごく自然に、悩みなく与えられ、成就するのである。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

2017年2月28日 (火)

十字架の死と復活の原則――自分を低くする者が高くされる――ただ神のために自分を注ぎ出すことによってのみ結ばれる永遠に朽ちない実

「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。私たちは、この務めがそしられないために、どんなことにも人につまずきを与えないようにと、あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しているのです。

すなわち非常な忍耐と、悩みと、嘆きの中で、また、むち打たれるときにも、入獄にも、暴動にも、労役にも、徹夜にも、断食にも
また、純潔と知識と、寛容と親切と、聖霊と偽りのない愛と、真理のことばと神の力とにより、また、左右の手に持っている義の武器により、また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。

私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。」(
コリント6:2-10)

ここ最近、キリスト者が苦難を通して得られる天の栄光があることについて、連続して記事を書いているが、上記の御言葉もそれにぴったり重なる。

パウロが耐え忍んだ「非常な忍耐、悩み、嘆き、鞭打ち、投獄、暴動、労役、徹夜、断食」などの話を聞くと、不信者は、そんな信仰の試練は御免こうむるとばかりに一目散に逃げて行くかも知れない。

だが、信者にとって、キリストの御名のゆえに受ける苦難は、恥でもなければ、災いでもない。パウロはこうした苦難をものともせず、別な箇所では次のようにも述べている。

「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
あなたのために、私たちは一日中、
死に定められている。
私たちは、ほふられる羊とみなされた。」
と書いてあるとおりです。」(ローマ8:35-36)

人類の罪のために永遠にほふられた小羊なるお方は、もちろん、キリストただお一人である。しかしながら、キリストの十字架の死と復活に信仰を通してあずかる主の弟子たちもまた、イエスと同じように「一日中、死に定められている」のである。

不信者はこういう話を聞いて、ますます疑念を深めて言うだろう、「私にはそんな信仰は理解しかねます。あなたの信仰はあまりにも偏っています。あなたの話すことを聞いていると、クリスチャンがどんなに神のために苦しまなければならないか、そんな話題ばかりではありませんか。私はそんな信仰は嫌です。御免こうむります。」

このような考えの人をあえて説得しようとは思わないが、何度も述べて来たように、キリスト者の人生にはただ苦しみしかなく、幸福は伴わないなどと勝手に誤解されては困る。

さらに、言っておかなくてはならないのは、クリスチャンが主の御名のゆえに地上で受ける苦しみは、ただ贖われた信者から成る教会のためであるばかりか、まさに以上のような不信者たちのためでもあるということだ。

なぜなら、自分が損なわれることにより、地に落ちて実を結ぶことが、初穂として贖われた者たちの役目だからである。

むろん、世は信者たちの受ける苦難が自分たちのためだとは少しも思っていない。そこで、キリスト者が受ける試練のことで、世が感謝したり理解を示すことは決してないと言えよう。

そのようなことは世に告げ知らせる必要もないことであり、世は、預言者たちを迫害して殺し、主イエスを十字架につけて殺し、主イエスの弟子たちをも迫害して命を奪った時から今に至るまで、その悪しき性質は寸分たりとも変わっていない。

だが、それにも関わらず、主イエスご自身がそうされたように、主イエスの弟子たちもまた、教会のため、自分自身のためだけではなく、神の愛のゆえに、福音に敵対し、神に反抗し続ける世人のためにも、自分自身を注ぎだし、それによって神の僕としての道を全うするのである。キリスト者が世から拒絶され、憎まれ、嘲られ、低められることによって受ける苦難を通してしか結ばれることのない実が存在し、このようにして神の国が拡大する法則は今も変わらない。

こうしてキリストの僕たちが、自分を拒絶する世の罪人らの反抗をものともせず、彼らをも救いへの道に招き入れるために福音を語り続けることができたのは、そこに人間の思惑によらない、神の無条件の愛があったためであり、彼らは自分自身の利益をはるかに超えるもっと大きなものにとらえられていたからこそ、自分たちを拒絶し、あるいは殺そうとまでする人々のために苦しみを受けることを辞さずに、神の国の権益拡大に向かって進んだのである。

だから、キリストの僕たちが地上で受ける苦しみは、ただ単に彼ら自身の信仰の成長のため、彼らが受ける天での栄光のため、あるいはすでに贖われた者たちの栄光のためだけではないのである。たとえ世が理解せずとも、彼らがそのように自分自身を注ぎだすことができたのは、神のためであると同時に、人々のためでもあり、世人のためでもあった、と言える。そして彼らの苦しみを通して教会が大きな前進を遂げて行ったのである。

さて、今回の記事では、殉教というスケールの大きな試練は脇に置いて、むしろ、それに至るまでの、もう少し小さな日常生活のスケールにおいて、信者が信仰ゆえに受ける「苦しみ」に必ず「栄光」が伴うこと、また、そのようにして、キリストの十字架の死と復活に同形化されることによってのみ、信者は多くの実を結び、「栄光から栄光へ」主の似姿に変えられて行くことができるということについて、引き続き書いていきたい。

すでに述べた通り、信者がもしも主の御名のゆえにいかなる苦しみをも試練をも受けないならば、その人の信仰は何かがおかしいと言える。だが、同時に、信者の地上生活が絶えず苦しみだけに満たされ、試練を勇気を持って耐え忍んだことへの報いとしての、天の喜びに満ちた栄光を何一つ経験しないならば、そのような信仰生活も、やはり何かがおかしいのである。

信者の正常な信仰生活においては、信者が地上で主のために受ける苦しみには、必ず報いが伴う。それは天の重い栄光の前触れとしてもたらされていることが、多くの場合、信者自身にも分かる。そして、多くの場合、実際に、試練を耐え忍んだことへの報いとして、天の父なる神から与えられる栄光を、信者は自分自身でも確認できるのである。

もちろん、信者が耐え忍んだ苦しみのゆえに、地上でどんな実が結ばれたのかは、最後まで分からないこともある。そして、「主の御名のゆえの苦しみ」と言っても、それは必ずしも、信仰に対する迫害だけでなく、信者が地上で耐え忍ぶあらゆる圧迫を含んでいる。信者は地上で受ける全ての苦しみを「御名のゆえに」甘んじて受けるのである。そして、多くの場合、信者はそのような出来事を通して働く十字架の死と復活の原則を、自分の人生で生きて実際に知ることができる。

だから、クリスチャンの生活が絶え間なく苦しみに満たされているだけで、喜びも勝利も栄光もないのだと考えることは大きな間違いである。信者は、地上で受けるあらゆる圧迫や制限、人として生まれ持った愚かさや限界にも関わらず、そこに神の偉大な力が働いて、巨大な勝利がもたらされるというパラドックスを味わうことができる。

だから、もしクリスチャンの中に、十字架の死と復活の原則が人生でどのように働くのか知らないという人があるなら、実際に自分の生活を使ってこの法則を試してみることをお勧めする。つまり、主の御名によって、信者が己を低くして、小さな苦難を信仰によって耐え忍ぶことにより、どんなに大きな栄光がもたされるのか、日々の生活のごく些細な事柄を通して、誰しも十分すぎるほどに確かめられる。

だが、これは先に述べた通り、信者がただ悪魔の虜となって苦難にいたずらに翻弄される消極的で受け身の生き方や、信者が無用な苦しみを自分から好んで招くような自虐的な生き方を意味しない。信者は現在、自分が望まずして、自分の生活に働くあらゆる制限、圧迫、束縛、予期せずして起きて来る迫害や苦難を、主のために耐え忍ぶのであり、そうした弱さが弱さで終わらず、時が来れば必ず、神がその出来事の解決となって、ご自分の栄光をそこに現して下さり、信者をも共に高く引き上げて下さることを確信して、その時を勇気と確信を持って大胆に待ち望むのである。

信者は、ただ自分が一刻も早く楽になり、不快な思いをしたくないから、また、自分の名誉が傷つけられたくないから、といった利己的な動機で、苦難が長引かないように神に願うのではない。その苦しみを通して、神に栄光が帰されることだけを願って、自分のためでなく、神の栄光のために、神の御心が地上に成るようよう願い求め、神を信じて待ち望む者が、地上で忍耐することによって、ふさわさしい時に助けを得て、神自らが信者の弁護者になって下さり、信者をあらゆる苦難から確かに力強く救い出して下さる助け主であることを天地の前で証明し、それによって、主の御名がほめたたえられることを願うのである。つまり、神が栄光を受けられる機会として、自分の苦難があることを信じるのである。ダビデが次のように詠った通りである。

私たちにではなく、主よ、私たちにではなく
あなたの恵みとまことのために
栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください」(詩編115:1)

信者は「御名のために」地上におけるすべての苦しみを耐え、「御名のゆえに」神がその苦しみを栄光に変えて下さることを信じるのである。信者が、あらゆる苦難を信仰によって堅く勝利の確信のうちに耐え忍ぶ秘訣を学びさえすれば、苦しみは多くの場合、急速に取り去られる。たとえそうでなくとも、信者の内なる人が強められることにより、信者は地上で経験する苦しみによって圧迫されたり、心悩まされ、悲しみに打ちひしがれたりすることがなくなり、むしろ、そこに復活の命が働くことを信じて期待できるようになる。

だが、苦難を通して受ける天の栄光を逃さないためには、信者は自分が何を主の御名のゆえに耐え忍んでいるのか、人にはあまり触れ回らない方が良いであろう。「私は神のためにかれこれの巨大な苦しみを耐え忍びました。すでに殉教をも辞さない覚悟です」などと人前で言うのは、やめておいた方が良い。そのような決意表明は失敗に終わる可能性が高い。

もしどうしても信者が受けた苦難について語りたいならば、苦難をいわゆるお涙頂戴の物語に変えて多くの人々の関心を引きつける材料としたり、自己宣伝の材料として用いたりするのでなく神だけが栄光を受けられるように、聖書の神が信じる者をどんな状況においても見捨てられることのない確かなお方であることを世が知ることができるように語るべきである。

とはいえ、主が本当に信者の苦しみを喜びに変え、御業を成して下さる時には、人はどんなに黙っていようと思っても、黙っていられないほどの喜びに突き動かされることは確かなのだが。

このように、信者は大きなことから小さなことまで、神と信者とだけが知っている日常のごく隠れた様々な出来事を通して、信仰による訓練を絶え間なく重ねて行くことにより、その先に初めて殉教などの極めて大きなスケールの試練にも十分に耐えうるだけの力が養われる。つまり、信者に地上で与えられる試練は、各人の信仰の成長段階に応じて与えられるのであって、決して一足飛びのものではなく、戦いの初心者がいきなり熟練者しか勝利できないような困難な戦いに直面することは絶対にないと言える。

そして、何度も書いているように、キリスト者が地上で受けるあらゆる試練は、どんなに些細なものであっても、神の御前に覚えられており、予想だにしない大きな栄光が伴うのであり、その栄光は、信者がこの地上に実際に生きている間に、あらゆる生活場面で確認することができる。

聖書の神は、信者に与える恵みを出し惜しみされるような方ではなく、また、信者を無駄に追い詰めたり、苦しめる残酷な主人でもない。信者がこの地上に生きる間、良きものを惜しみなく与えて下さり、あらゆる祝福で満たして下さる方である。だから、信者が地上で人としての生活を送るために必要なすべてを十分に備えて下さらないことはない。

だが、だからと言って、信者は恵みが与えられるがゆえに神に従うのではなく、地上の一切の利益にも増して、神ご自身を愛するがゆえに従うことを、絶えず告白し続けるのである。そして、信者は地上で必要な一切のものを、この世の手練手管によらず、ただ信仰によって地上に引き下ろす。それによって、神こそすべてのものの造り主であり、すべての供給者であり、キリストの命の中にこそ、あらゆるものを支配し、供給する力があることを知るのである。

キリストの復活の命は、支配する命である。この命が信者の内にあることによって、信者は外見的にはこの世の有限な滅びゆく弱い存在に過ぎないが、その内側に、この世を打ち破る圧倒的な勝利の法則性を確かに有していることが分かるのである。そこで、信者自身が地上で抱える生まれ持った人間としての様々な弱さとは対極的に、彼の内にある死を打ち破った支配する命によって、外からやって来るすべての圧迫に翻弄されることなく勝利する秘訣を学ぶのである。

***

さて、次に、信者に対する神からの吟味、光による照らし、検査というテーマについても少し書いておきたい。

神のさばき、神の吟味というものは、レントゲン写真の撮影にもどこかしら似た、神から人間への吟味である。そして、しばしば、神は試練を通して、信じる者の心の内を吟味される。

人間は生まれつき自分を試されることや、自分自身を吟味され、検査されることを望まない。人間には光の照射によって自分の本質が明らかにされることを拒む本能があり、それはレントゲン写真を撮られるような時でさえそうだ。

たとえば、私たちは、肺や手足のレントゲン写真といった、首から下の写真ならば、健康診断でよく見慣れているであろうが、首から上のレントゲン写真を見慣れている人はどれくらいいるであろうか?

特に、頭がい骨の写真を、真正面でも横からでない別な角度から撮られたりすると、死人のように目も鼻も空洞化した自分の顔の写真を見て、一体、これが生きた自分自身を少しでも反映した写真なのだろうかと改めて驚かされる。

レントゲン写真はすべてグロテスクなものであるが、それは病気や歪みを早期に発見するために撮られたものだから、撮影される人間が、カメラの前でポーズを取るようにして、必死に自分のグロテスクさを取り繕ろうとするのは無駄なことである。
 
余計な肉が排除され、取り繕いが通用しないからこそ、正確な写真が撮れるのであり、仮に異常が発見されても、落胆するどころか、むしろ、不調の原因はこれだったのか、早期発見できてよかったと安堵するのである。

ところが、今日、多くの信者たちは、全くこれとは逆の道を歩んでいる。彼らは神に認められるためには、まず、神の御前に正直に取り繕わない自分自身の姿を見せなければならないのだということが、どうしても認められないのである。

彼らは、神に受け入れられるためには、相当に立派な行いが信者の側になければならないという巨大な錯誤の中にあって、いわゆる教会生活を通して、神の目に認められるための善行を必死になって積み上げている。

彼らは、いわば、神のさばきに耐えるためには、人間の側で満たさなければならない高度な要件があって、信仰の「優等生」になるための努力を毎日続けねばならないと思い込んでいるのである。

だが、このような考え方は極めて深刻な自己欺瞞の罠である。そんな彼らの努力は、まるでレントゲン写真を撮るに当たって、少しでも美しい「自分の骨の写真」を取ってもらおうと、医者に向かって懸命にせがみ、撮影された自分の写真が気に入らないと注文を付けては、あれこれとポーズを取って撮り直しを要求し、取り繕いを重ねる患者の姿にも似ている。

この種類の「患者たち」は、自分の病気や弱いところが何であるかを知るために、少しでも正確な写真を撮ってもらうことにはいささかも関心がなく、むしろ、少しでも自分の恥や弱さが暴かれないで済むように、自分を可能な限り飾り、健康に見せかけるために、どれだけ本当の自分を偽って、外面を取り繕い、裸の恥を撮影されることを免れられるかに腐心しているのである。

だが、神にはそういう人間の取り繕いは一切通用しない。神が人間をご覧になるまなざしは、レントゲン写真よりももっとはるかに正確で、人間の側では、小骨一本のごくごくわずかな歪みまで、どんな小さな病巣まで、隠しおおせるものはなく、どんな心の弱さであろうと、信者の過去であろうと、現在であろうと、未来であろうと、隠蔽できるものは何もない。神の目にすべては明らかで、裸であり、人間の取り繕いが全く功を奏さないのである。

だから、来るべき日に神のさばきの御座の前に立たされる時に向けて、信者が、常日頃から、この地上生活においても、神の御前で自分自身を探られ、申し開きを求められる場面でも、信者が神に対して自分を取り繕ったり、ごまかすことは一切通用しないし、それは有害である。

むしろ、信者がそこで果たすべき義務があるとすれば、ただ正直であることだけである。現在の自分の状態がどうあろうとも、どれほど合格基準に満たない、惨めなものに思われても、信者は神の側から行われるすべての吟味に対して、ただ自分を隠し立てなく明らかにして、正直に差し出すのである。

つまり、信者はレントゲン写真を撮る時に、自分を取り繕わずにあるがままの自分を撮ってもらうのを目的とするのと同じように、あるいは、ナビを設定する際に自分の現在地を偽って目的地を設定したりしないのと同じように、現在の自分にどんな弱さがあって、どんな欠点があり、どれほど過去に取り返しのつかない失敗を犯し、人生がいかなる損傷を受けているように思えようとも、自分の歩んで来た過去、現在のすべてを恥じることなく、隠し立てなく、神の光の照射に委ね、こうして自分が一切を神の御手に委ねていること、また、信者が受けた損失が何のせいであるにせよ、神がそれらの損失を豊かに補って余りある方であると信じていることを態度で表明するのである。

だから、信者は、人の目から見て、恥や、不完全さ、弱さ、欠陥、失敗と映る事柄についても、決して自己を飾るために、自分の過去を自力で修正しようとせず、自分自身の存在がまるごと神に委ねられており、神がすべての問題に正しい処置を施し、信者をあるべき状態へと導くことのできる唯一の方であると信頼して、この神に自分を委ねるのである。

このようにして、信者が神に明け渡すことにより、神の光によって照らされた信者の心の領域だけが、漂白された布のように罪から清められ、神の力に覆われて、新たにされて行く。信者が神に明け渡そうとしさない領域には、神の力は働かず、それどころか、それは長い間、施錠されたままの暗い地下室の倉庫のようなもので、そこにどれほど蜘蛛の巣が張り、埃が分厚い層のようにたまり、そこに蓄えられていたはずの宝がすでに錆び、朽ちていたとしても、信者がこの部屋を自分で開錠して大掃除に了承しない限り、誰もどうすることもできないのだ。

多くの信者たちは、神と人の前に自分を取り繕うために、自分の心に開かずの間を作り、そこに自分の見たくないあらゆるものを押し込んでいる。そして、そこに自分の弱さが集中して隠されていることを無意識に知っているので、それを恥じて、そのような開かずの間が自分の心の中にあること自体を自分にも隠し、外にも隠し、神にも隠しながら、自己を対外的に粉飾し、虚勢を張り続けるのである。だが、このように、信者が神の吟味に明け渡そうとしない心の暗い領域が罪の温床となって行くのである。

従って、信者の神への明け渡し、清め、従順は、信者が自分の行動をどれだけ律して「神の合格基準」に達するように外面的に整えたかによるのではなく、むしろ、信者が現状の自分をどれほど不完全で未熟に感じていたとしても、信者がその自分をありのままを神に探られることに同意し、自己の見たくないすべての欠点を隠そうとしたりせず、自分の全てを神によって吟味され、照らされ、明らかにされることに了承し、その痛みに耐えつつ、自らの弱さに対して神がもたらされる力強い解決に信頼して自分を委ねることができたか、その程度によると言っても良い。
 
信者がそのようにして神に自分を照らされる時に感じるごくごくわずかな痛み、ごくごくわずかな恥を耐え忍んで、自分の限界を正直に、あるがまま、恥じることも、隠すことも、取り繕うこともなく、従順に神の御手に委ね、自分の弱さの中に、神が力強く働いて下さることを信じさえするならば、信者の弱さは、たちまち神の憐れみに満ちた強さによって覆われ、信者は自分の無力や限界の中に、キリストが生き生きと働いて下さるのを知り、「もはや私ではなく、キリスト」が生きておられることを知るのである。

開かずの間は大掃除されて明るく清潔な小部屋になり、骨しか見えない白黒のレントゲン写真には肉や目鼻がついて生き生きとした色彩と表情が生まれ、死人がよみがえって、生きた者とされるのを見ることができるのである。

信者の生活は、片方では、地上の滅びゆく人間に過ぎない自分自身が、もう片方では、まことの生きた人であるキリストにしっかりと結ばれることにより、共に生かされているようなものである。片方は滅びゆく人間というよりも、すでに死人である。自分では何もすることはできず、まして実を結ぶ善行を行う力などない。だが、その人間の死が、信仰によって、キリストの死に結ばれているがゆえに、死んだはずの腐敗した人間が、キリストの復活にあずかって、清められ、彼の豊かな命によって生かされ、生き生きと輝いて、この両者が一人の新しい人の中で平和裏に結合・共存しているのである。

だから、信者は、自分の抱えるあらゆる弱さや限界に限らず、自分の存在そのものが、まるごとキリストと共に十字架で「すでに死んでいる」こと、それと同時に、十字架で共によみがえらされ、「神の中に隠されて生きている」ことを確信し、それゆえに、自らの死を帯びた圧倒的な弱さの中でも、大胆に神の命の強さを信じて前進して行くことができるのである。

このようにして、信者は地上で受けるあらゆる苦難を通して、絶えず神に自分を探られることに同意しつつ、より深く、より一層、自分の弱さを含めて、自分自身の全てを神に明け渡し、自分の処遇の一切を神に委ねることにより、死の中に生きて働く神の復活の力を知り、天の恵みを地上に引き下ろし、天の父なる神から栄光を受けることができるのである。

こうした法則があることを知っていたからこそ、預言者たちも、使徒たちも、みなキリストのゆえに受ける苦しみをものともせずに、喜んで苦難に甘んじることができたのである。

だから、信者の歩むべき道は、自分の力で必死に自分の外面を取り繕い、あらゆる努力を払って、信仰の「優等生」であろうとして、人目にそのように認められようと努力することとは真逆なのである。

むしろ、すべての真に「優秀な」イエスの弟子たちは、そうした自己宣伝とは無縁であり、むしろ、地上生活において、辱めや、苦難や、恥や、悪評や、そしりに耐えたのであり、決して地上の生涯において、偉大な宗教的権威者のように高められ、誉めたたえられることを目指したりはしなかった。

キリスト者の信仰の前進は、自分で自分を優秀な人間として人前に推薦したり、自分で自分を飾り、偉大にみせかけることによって、自分で自分を救おうとする努力とどこまで手を切って、自分の価値ではなく、キリストの価値だけにすべての信頼を置いて、ただキリストのみを頼りとして生きるのか、それによって決まるのである。

「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。」(マタイ6:1)

「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」(マタイ5:10-12)

「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に表れるからである。」と言われたのです。

ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さ誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじていますなぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」(Ⅱコリント12:9-10)

 
  * * *
 
さて今、思い起こされるのは、ウォッチマン•ニーの『キリスト者の標準』の次の一節である。

「一九ニ九年に、私は上海から故郷の福州に帰りました。ある日私は、健康を害したため、非常に衰弱したからだを杖で支えつつ道を歩いていましたが、途中大学時代の教授に会いました。

教授は私を喫茶店につれて行き、私たちは席につきました。彼は私を頭のてっぺんからつま先まで眺め、次につま先から頭のてっぺんまでを眺めてこう言いました。

「ねえ、きみ、きみの学生時代には、われわれはきみにずい分期待をかけていたし、きみが何か偉大なことを成し遂げるだろうと望みをかけていた。きみは 今この有様が、きみのあるべき姿であるとでも言うのかね。」

彼は私を射抜くようなまなざしで、この質問を発したのです。正直なところ、私はそれを耳にした時、くずおれて泣き出したい衝動にかられました。私の生涯、健康、すべてのすべてが消え去ってしまったのです。しかも大学で法律を教えた教授が今ここにいて、「きみは成功もせず、進歩もなく、なんら取り立てて示すものも持たずに、いぜんとしてこんな状態でいるのか」と尋ねているのです。

しかし、次の瞬間ーーそれは私にとって、始めての経験でしたがーー私は自分の上に臨む「栄光の御霊」とはどのようなものであるかを、真に知ったのです。自分のいのちを主のために注ぎ尽くすことができるという思いが、栄光をもって私の魂に溢れました。そのとき、栄光の御霊そのものが私に臨んだのです。

私は目を上げ、ためらうことなく言うことができました。「主よ、あなたを讃えます。これこそ望み得る最善のことです。私の選んだ道は正しい道でした。」私の旧師にとっては、主に仕えることが全くのむだであると思えたのです。しかし、福音の目的は、私たちをして主の価値を真に自覚させるためにあるのです。」『キリスト者の標準』、ウォッチマン・ニー著、斎藤一訳、いのちのことば社、pp.306-307 、下線は筆者による、本文では点による強調。)

ウォッチマン•ニーは今日、彼の名がつけられて残されている著書の文章を通しても理解できるように、かなり研究者肌の知性の持ち主だったようで、霊的な事柄についてこれほどまでに知的・論理的に分析を試みた信仰者は他に類を見ないように思う。

若い時分には、聖書注解者になることをも夢見ていたようだが、それも頷ける話で、知的分析、論証は彼の天与の才であり、以上の引用からも、学生時代から彼は同期に抜きん出て将来を嘱望されていた様子が伺える。

少しでも学術研究に関わったことのある人間ならば、ニーの文章が知的好奇心旺盛な人間にとってどれほど魅力的に映るかも分かるであろう。 ところが、ニーはその才能を主のために放棄し、「浪費してしまった」のである。

それは、大学の恩師にとってはさぞかし手痛い損失に見えたものと思う。もし研究者を目指していたならば、権威として大成していたのは間違いないからである。そうでなくとも、新しい発見によって社会を揺るがし、変革する人物になるだけの資質は十分に備わっていた。だからこそ、期待を裏切られた恩師は、この久方ぶりの邂逅の場面で、ニーの衰弱して落ちぶれた「惨めな姿」に痛烈な皮肉を浴びせたのである。

しかも、それだけではない。ニーは聖書注解者として名を残すことをさえも断念した。そして、彼がどんな最期を遂げたのかは知られている通りである。

一体、この人は自分に与えられた大きな才能を何に使ったのか? 神のためにとは言うが、ただ自虐的に自分を苦しめ、人生を浪費しただではないのか? という疑問も生まれて来よう。

彼がもし聖書注解を書いていれば、今の時代になっても、並ぶもののない書を残せたであろう。我々にとってもそれは興味深い内容だったに違いない。だが、それすらもしなかったのはなぜなのか。今日ニーの著書とされているもののほとんどは同時代人の速記録の書き起こしによるもので、色々な人々の思惑がつけ加わり、偽りの宗教によって書き換えられ、改ざんされ、ただで利用され、宗教的権威にしたて上げられ、ニー自身がどんな人だったのかすらも、粉飾されて分からなくなり、純粋にニーの作品と言い切れるものがどれだけあるのかも不明だ。もし自分の名を冠した著書を発行してさえいれば、そうしたことは避けられたはずである。

にも関わらず、彼がそうしなかったのは、自分のためでなく、この世の人々のためでもなく、社会の発展のためでもなく、ただ神のためにだけ自分を注ぎ出し、地上では完全に無名の、いかなる権威とも無縁の人間として生きるためであったと見られる。もし願いさえすれば、自らの得意とする分野で、様々な成功を手にする事ができたであろうが、人前に栄光を受けないために、それをあえて望まなかったのである。

学術研究の分野に身を置くことは、「先生」と呼ばれる立場に立つことと密接に結びついている。それは自分自身を学問的権威者として他人に推薦する行為である。また、その探求はどこまで行っても、神を抜きにした人間の魂による終わらない探求であり、人間の天然の知的好奇心を満たすためだけに行われる活動である。そうである以上、そのような探求は、人間の堕落した魂の働きを活性化させ、肥大化させることはあっても、純粋な霊的な活動には本質的に対立する、信仰に基づく行動ではないのではないかと筆者は推測する。

知識欲に限らず、人間の魂が持って生まれた欲というのは、情であれ、他の何であれ、どれもこれも、人間の目にどんなに美しく優れた性質のように映っても、すべて堕落に陥る可能性を持つ。それは、人間の魂そのものが罪によって腐敗・堕落しているせいである。そこで、天与の才を発揮して生きるという、人の耳にはまことに無難そうに、もっともらしく、良さそうに聞こえる言葉でも、一歩間違えば、己の欲に好きなだけ邁進して生きよという貪欲の奨励になりかねない危険が存在するのである。

ただ神だけが、人間の天然の魂の衝動から生まれて来る腐敗した活動と、純粋に霊的な活動を正しく切り分けることができる。前者はどんなに人の目に立派に、良さそうに見えても、あくまで人間の探求に過ぎない腐敗した活動であって、永遠に神に向くことがなく、永遠に残る実を結ぶこともない。

ウォッチマン・ニーはどこかの時点でそれを悟り、知的研究の分野から身を引いたのであろう。聖書注解者になることの中にさえ、神から来たのでない人間の魂の探求が紛れ込む可能性を悟り、自分はそのような方法で神に仕え、人々に仕えることはふさわしくないと理解したのであろう。彼が自分の可能性や才能を脇に置いて、これらを捨てても、御国への奉仕を優先したのは、主に仕えるためであり、神への献身のためだったのだが、同時に、それが教会に対する奉仕でもあり、人々に対する奉仕でもあったことを筆者は疑わない。

だが、もしも仮にそこで彼が身を引かず、知的研究に携わり続けた場合、この人の身の上に何が起きただろうか? 彼はおそらく学問的権威者となって、多くの弟子を従えて、立派な先生として、新調の服を着て巷を歩くことができ、自分について何一つ引け目も感じず、情けなく思うこともなく、まして若くして衰弱したからだで、よろめきながら杖をついて歩いたり、その格好のせいで、人に哀れまれたり、蔑まれたりもしなくて良かったであろう。

だが、そうして得た社会的成功と引き換えに、彼を待ち受けるものは何だったろうか? サタンの誘惑だけだったのではあるまいか? 彼はそのようにして地上で自分が栄光を受け切ってしまうことよりも、神としての栄光を自ら捨てて十字架の死にまでご自分を渡されたキリストにならって、自分も自分を高くせず、人からの栄誉ではなく神から栄誉を受けることの方を潔しとしたのである。

このようなことは、人の目から見れば、あまりにも馬鹿げた損失に過ぎないものと映るであろう。色々な才覚が与えられていたのに、それを十分に活用しないまま世を去るとは、何と愚かな無駄であろうかと人々は思うだけであろう。人は、この世において頭角を現し、ひとかどの人間として認められ、名を残すことを成功と考え、自分の才能や活動意欲を余すところなく発揮できる場を求め、なおかつ、著書や、目に見える様々な功績を手柄として残すことを願う。それが自分のためであると同時に、他者のためにもなるのだと信じて疑わない。そして、自らの名を残すことができなければ、地上に生きている意味もないと考えるのであろう。

だが、神の評価は、人の評価とは多くの場合、正反対であり、まさに裏返しである。地上で自分で自分を高くしようとする者が、神の御前に賞賛を受けることは絶対にできない。神は、世から徹底的に憎まれ、蔑まれ、退けられたキリストの苦難に、信者がどれほど自分もあずかることに同意し、キリストの死に自分を同形化したか、その度合いによって、信者が天で受ける栄光をお決めになる。

だから、信者が地上で人前に栄光を受けながら、同時に、天の神からも栄光を受けようとすることはできない相談なのである。そして、何が本当に主の御名のために信者が耐え忍んだ苦難であるのかは、ただ神だけがご存知である。

ニーに限らず、キリストに従う者は、地上で自らいかなる権威になることもなく、最後まで無名の知られざる信徒として、人の目にではなく、ただ神の御前にのみ覚えられ、認められることを目指して生き続けるべきであると筆者は考えている。

信者が主のために自分を低くされ、苦しみを受ける時、ニーが書いているように、栄光の御霊が力強く自分に臨む瞬間を、信者が必ずしも常に経験するわけではない。だが、たとえ主の臨在が、信者に実感を伴う形で感じられない場合にも、信者は、この地上で自分が低められることによってしか働くことのない天の法則と栄光が確かにあること、それによってしか結ばれない実が確かにあること、それはまさに神が願っておられる事柄であると、人生のあらゆる場面で知ることができる。そして、信者がそのように神の御前で低められ、無に徹することを耐え忍ぶと、神はその労苦を特別に重んじて下さり、特別な恵みによって報いて下さるのを、実際に多くの場面で見ることができるのである。

だから、信者が一時的に陥った苦しみだけを見て、落胆するには全く及ばない。ヨブがそうであったように、多くの場合、信者が主のために失った様々な富は、時が来れば、前よりも一層、豊かにされて信者の手に返される。それが死後になってしか起きないことは決してない。この地上に生きている間に、信者は、十字架の死と共に働く復活の原則を、キリストの命にある絶大な権威や力を、信者のために神が天に蓄えて下さっている無尽蔵の富や栄光の大きさを、十分に伺い知ることができる。

そのような歩みを主と共に地道に続けて行った最後の段階になって、ようやく殉教というテーマが信者の目の前に現れて来る。信者が十字架の死と復活の原則をほとんど知らないうちに、一足飛びにそのような事柄が求められることはまずない。そして、その段階になると、信者はそれまでの人生を通して、すでに神の恵み深さ、憐れみ深さ、誠実さ、愛の深さを十分に知っているので、もはや自分の内には神のために留保するものは何一つありませんと、ためらいなく応答する心の準備ができているのである。

2017年2月22日 (水)

十字架の死と復活の原則―栄光から栄光へ―鏡のように主の栄光を反映させながら、主と同じかたちに姿を変えられて行く

偽りの宗教からのエクソダスが完了し、悪しき霊どもを除霊し、地獄の軍勢にもと来たところへ帰るように命じ、原点に立ち戻って、生ける水の水脈を見つける。

追いすがるファラオの追手を振り切って、その軍隊がことごとく水に沈むのを見届けて、この地にやって来た時に見えていた、新たなすがすがしい展望を取り戻す。

キリスト者が立っている土地は、悪しき軍勢に占領され、踏みにじられたために、荒廃している。この土地に、彼はキリストの復活の旗を立てて、御子の統治を宣言する。

キリスト者は、はるかに天の都を仰ぎ見つつ、前途に神が信じる者のために備えて下さった豊かな約束の地を見据える。そこで天の無尽蔵の豊かな富と、永遠の栄光がキリスト者を待ち受けている。

そう、御子の復活の命の統治は、信じる者の内ですでに始まっているのだが、信者が自分の内でそれを知ったことで、すべてが終わるのではない。キリスト者にはまだまだこれから獲得せねばならない土地がある。つまり、自分自身の内にある統治を外へ流れ出さなければならないのだ。

信じる者の足元では、荒れ果てた大地の割れ目から、澄んだ泉が湧き出すように、復活の命の統治を通して、清らかな水が流れ出ている。それはまだ少量の流れだが、いずれは大河になって、荒廃した大地全体を潤し、よみがえらせるはずだ。これは、主イエスが信じる者たちにただで受けよと言われた生ける水、疲れた人々を癒し、病んでいる人を立ち上がらせ、死んだものを生き返らせ、サタンに支配されていた人々を解放する力のある命の流れである。

御座の統治から流れ出す生ける水の川々である。

長年に渡り、深く深く井戸を掘り続けてきたキリスト者は、ようやく水脈に達したという確かな手ごたえを感じて、安堵する。飢え渇きと共に飽くことなく井戸を掘り続けて来た彼は、ようやく荷を降ろし、喜びのうちに安堵して、額を拭う。やはり、神は信じる者の呼び声に応えて下さったのだ。求め続けるうちに、天の資源にようやく達した。そうなれば、工事はあらかた終わったようなもので、あとはこの水を汲み出し、絶え間なく流れさせるための設備を整えなければならない。

さて、前回の記事では、キリスト者にとっての苦しみと栄光の不思議な関係について述べた。

キリスト者が神の御前に栄光を受けようと思えば、地上で苦しみをも受けなければならないことを書いた。この二つは密接に結びついており、苦しみがキリスト者の体を通過することによってしか得られない栄光がある。

クリスチャンは世から召し出された者たちであるが、御国の働き人であり、神の兵士でもある以上、ただ自分自身の幸福と平和と繁栄のためだけに召されたのではなく、神の国の権益を守る兵士として、神の利益のために召し出されたのである。そうである以上、キリスト者は、神の軍隊の兵士として、地獄の軍勢との激しい戦いを戦い抜いて勝利をおさめることなしに、神からの褒め言葉にあずかることは決してできない。そして、戦いはどんなものであっても、命がけであり、自分自身のためだけでなく、自分を召して下さった方の栄光のために、あらゆる障害を乗り越えてでも、勝利したいとの強い願いがないなら、むしろ、初めから臨まない方がましである。

だから、クリスチャンには、地上で人前に栄光を受けて、拍手喝采を浴びて、安楽に生き、自分自身だけを楽しませながら、なおかつ、神の御前にも栄光を受けようなどという生き方は成り立たないのである。むしろ、神の御前にどれだけ己を低くして地上における患難を耐え抜いたかが、来るべき日において、キリスト者が神の御前で受ける栄光の度合いを決める。

今回は苦難がもたらす栄光というテーマをさらに発展させて、「栄光から栄光へ」というテーマを語りたい。

「しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。
かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。

しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:14-18)

古い契約、それはキリスト者が去って来た世界、すでに水に沈んでいる世界であるが、それは何も律法や、ユダヤ教のことだけを指すのではない。今日、聖書に従う信仰に見せかけた偽りの宗教においては人が敬虔な信者を装うために勝手に作り出した様々な規則や掟が存在する。日曜礼拝を遵守することや、奉仕や献金を行うこともそれに含まれ、そのような定めを数多く守って、人の目に正しい行いをしていると認められることこそ、敬虔な信者のあるべき姿だと説かれる。

しかし、そのようにして、各種の規則で自分を縛り、自分自身の立派な行動を通して、人前に義を得ようとすることは、どこまで行っても終わらない偽りの霊性を得るための偽りの精進である。どれほど人が善行を積んでも、そのことによって、「私はここまで達したのだから、もう義人となった。これ以上、誰からも後ろ指をさされることなく、何も要求されることはない。もう大丈夫だ」と言える日は来ない。また、世が信者が学びや精進によって高みに到達しようとする必死の努力を認めてくれて、「あなたはここまで努力を払ったのだから、合格水準に達しました。もうこれ以上何も要求しません」と言ってくれる日も来ない。

むしろ、人が努力すればするほど、ますます深く泥沼にはまって行くかのように、要求だけが加算される。どれほど人が善行を積んでも、心に「もう大丈夫だ」という確信と平安はやって来ないばかりか、彼に対する期待と要求がさらに増し加わる。だから、そのように自分自身の善行や努力によって義を得ようとする人は、自分自身の心の消えない不安を覆い隠すために、永遠に終わらない努力を重ねているのであり、その行為は、人が義とされるために行っているというよりは、むしろ、心の内なる罪悪感を薄め、本当の自分自身の惨めな姿から目を背け、これを覆い隠すために行われる自己欺瞞であり、キリストによらない人類の偽りの贖罪行為なのである。

このような努力を人がどんなに重ねても、ちょうど巨額の負債を抱えて苦しむ人が、返済しても、返済しても、利子がますます膨らんで行くことにより負債の額が減らないように、人類がどんなに自分で自分を義としようと努力しても、罪悪感はますます膨らみ、義とされることはなく、神に到達することはない。魂のあがないしろは高価で、人は自分で自分の罪を贖うことはできないからである。

そのような人たちは、心に覆いがかかり、思いが鈍くされており、神の義が分からなくなってしまっているのである。彼らは自分では神を信じていると思っているかも知れないが、彼らの悲痛なまでの努力の根底にあるのは、神への信頼や、愛ではなく、むしろ、神に対しての虚勢、演技、取り繕いであり、なおかつ、彼らの心の根底にあるのは、「どうして神は我々に対して、こんなにも重い返済不可能な罪の負債を負わせたのだ」という憤り、恨みである。そして、彼らは「神によって不当に負わされた罪の債務証書」を帳消しにするために、それほどまでに悲痛な努力を払っているのだから、神もそれを認めざるを得ないと考えて、神ご自身を否定して、神の御心を退けて、神の御怒りから身を避けて、自分自身を守るための偽りのレンガの塔(バベルの塔)を建設し続けているのである。

だが、そのように人が己が力では到底、返しきれない罪の負債を人類に負わせたのは、神ではなく、サタンである。だから、サタンを打ち破ることによってしか、人がその負債から解放される術はない。そして、神はそれをすでに成し遂げて下さったのであり、神はキリストの十字架を通して、すでに人間の罪の債務証書を無効にする道を開いて下さっているのである。だから、人がこの「罪の債務証書」を自力で返済する必要はなく、また、そのことで神を恨みに思う必要もなく、むしろ、糾弾されるべきは悪魔であって、神はキリストを通して彼に打ち勝たれたことを確信し、それを宣言し、喜び、現実に適用するだけで良いのである。

ただ上記のような人々はそれが分からず、自分に負わされた途方もない負い目を返済し続けることにより、自分たちは神に仕えているのだと誤解しており、彼らが仕えている相手は、神ではなく、彼らをまさに罪の負債地獄に突き落とした地獄の看守たる悪魔であるということが分からないのである。

しかし、人が真にキリストご自身の方を向くならば、この救いようない古い契約でがんじがらめにされた泥沼の状態から、誰しも自由にされることができる。それだけではない、その人の内側が新たにされ、主の御姿へと変えられて行く。

しかしながら、栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を変えられて行くことは、やはり、信じる者が己を低くして苦難を甘んじて受け、キリストの遜りにあずかることにしかないのである。だから、キリスト者が「いいとこどり」の人生を送ることはできない。神から喜びや恵みと平安だけを頂戴し、苦しみは一切御免だと言うことはできない。

しかし、誤解してはならないのは、信者が無駄に虐げられ、抑圧の中にとどまり、悪魔の圧迫の虜とされ続けることが、神が栄光をお受けになる手段ではないことである。むしろ、信者はそうしたすべての圧迫の中で、これに勝利する力を信仰によって得なければならないのである。

信者にとって地上の苦しみとは何なのかと問えば、それは、苦しみを通して信者に突きつけられる地上的な限界のことだとも言えよう。信者は患難を通り抜けることによって、恐れや、不安や、自分自身の限界を痛切に感じる。しばしば、自分自身の人生を照らされ、自分の誤りの多い選択を振り返り、もしかしてこれは避けることので来た苦しみではなかったかと考える。

しかし、信者は自分の抱えるあらゆる限界や愚かさにも関わらず、それに対して自分の力によってではなく、ただ信仰に立って、キリストにより、絶え間なく、この限界に「NO」を突きつけるのである。つまり、信者は、「自分にはできないが、神にはできる」という確信に立って、迫りくるすべての苦難に立ち向かい、それを乗り越えるのである。信者はこの地上で圧迫を受け、苦しめられ、追い詰められもし、そのような出来事が起きた原因がどこにあるのかさえ分からないことが多いが、絶え間なく、これらの地上の圧迫に対し、地上の限界ある人間としての自分自身に基づいてではなく、天的な人である「キリスト」によって、立ち向かい続けるのである。その時、そのパラドックスの中に、神のはかり知れない力が働く。

従って、信者が患難を通過することによって得られる天の栄光とは、信者が苦しみに翻弄され、悪魔に圧迫され続ける立場に受け身に立つことを意味せず、自虐的的で、自縄自縛の立場に身を置くことを意味せず、むしろ、それとは反対に、信仰によってそれらの圧迫を内面的に打ち破り、これに勝利する秘訣を学ぶことにある。信者の人生には、絶え間なく外側で様々な事件が起き続けるであろう、しかし、信者が苦難に勝利する力を学ぶと、それらの出来事が、信者の内面に影響を及ぼさないようになる。いかなる現象が起きようとも、どのように自分自身を脅かされようとも、信者が大胆な確信に基づいて、キリストの復活を宣べ伝えることが可能になるのである。

パウロは書いている、

「しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。

私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。

ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する賞賛が届くのです。」(Ⅰコリント4:3-5)

パウロは神の力ある使徒であったにも関わらず、兄弟姉妹と呼ばれた人々からも中傷されたり、あらぬ疑いをかけられたりもし、兄弟姉妹ではないこの世の人々からは、まして誤解され、憎まれ、迫害され、しばしばあらぬ罪を着せられて法廷にも立たされ、弁明を求められたりした。

このような迫害を使徒たちも経験したというのに、今日、キリスト者がこうした誤解や偏見や対立や苦難を全て避けて通ることができると考えるのは大きな間違いであろう。もしそのようにいかなる対立も迫害も生じないのだとしたら、その信者の信仰生活は何かがおかしいのだとはっきり言える。

しかしながら、パウロは、この世の目線に立って、人間の見地から、自分に対して下される評価や「人間による判決」をものともせず、「私は自分で自分をさばくことさえしません」と述べた。パウロはかつては熱心なユダヤ教徒であり、教会の迫害者であり、それゆえ、クリスチャンからは回心当初は恐れられもし、疑いもかけられもしたが、そのような過去でさえ、パウロは神の御前に死んだものとして一切ないがごとくに自分の手から放し、すべてを神の御手に委ね、自分自身では全く過去に拘泥せず、それに限らず、回心後に起きたどんな事柄についても、自分で自分を振り返って犯した過ちとキリストへの従順を勘定して、自分がどの程度義人であるかをはかるようなことをしなかった。

パウロは人前に立たされて弁明を求められる時、自分自身により頼まず、ただ彼を贖い出されたキリストの御名、キリストの義と聖と贖いだけに頼って立ったのであった。それだけが自分を守る防御の盾であることを彼は知っていたからである。彼は、神がいずれ自分を裁かれることを知っているが、神の裁きをも恐れてはいない。神の裁きについて大胆に述べることができたのも、彼が人間の裁きから身を避ける口実として、神の裁きを持ち出していたからではなく、人間の裁きよりもはるかに正確で決して間違いのない、すべてをご存知である神のさばきの前に立たされる時でさえ、確信を持って進み出ることができるという自負を持っていたためである。

その確信に満ちた自負は、地上の人であるパウロ自身から生まれるものではなく、パウロを通して働かれるキリストによるものであった。全身全霊でキリストに従い通しているがゆえに、パウロは、この方が、自分自身を力強く弁護して下さり、義として下さり、神は信じる者の信頼に応えて下さるという確信がったのである。

それだけではなく、パウロは、神の裁きの前に立たされる時、自分が罪に定められることがなく、義とされるばかりか、朽ちない栄冠を受けるであろうことを確信していた。信仰者はただキリストの贖いを信じて神の目に義とされただけでは十分ではない。それだけでは、罪赦されて、ただスタートラインに立っただけのことである。それ以上に、神からの栄誉にあずかるために、地上で勝利を持って試練を通過せねばならないのである。

兵士が戦いを経ずして勲章をもらうことはできず、スポーツ選手が試合を経ないのに賞を勝ち取ることができないように、信者には、この地上において患難を忍び抜くことによってしか、得られない天の栄誉がある。苦しみや圧迫を通して、信仰が試され、すべての試練に勝利する秘訣を学び、キリストにあって、完全に「おとな」にならない限り、神の朽ちない栄冠を得ることはできないことを、パウロは知っていた。だからこそ、救われた後の地上における生涯を、彼はこの朽ちない「神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走る」ことに費やしたのである。

つまり、天で用意されている「神の栄冠」という栄誉を得るために、信者は、この世における苦しみを通され、それを通して、キリストの十字架の死に同形化され、より深く復活の命にあずかるのである。この死を土台とした復活の命の増し加わりこそ、教会の成長の秘訣なのである。

「私たちは、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくさる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。」(ピリピ3:12-14)

ヤコブも同じように、試練、患難、苦しみを信仰によって忍び通すことによってのみ、信者は「何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者とな」ることを書いている。

私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブ1:2-4)

試練に耐える人は幸いです。耐え抜いてよしと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」(ヤコブ1:12)

以上の事から、私たちは、どうすれば信者がキリストに似た者とされるのか、どうすれば、「鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行」くことができるのか、どうすれば、「キリストの身丈まで成長し、完全なおとなとなる」ことができるのか、その秘訣を学ぶことができる。

エペソ書4章11節から16節には、キリストのからだを建て上げるために、信者それぞれに与えられた賜物に従い、教会には役割分担があることが語られると同時に、そうして信者一人一人が賜物に応じて互いに仕え合うことが、信じる者たちが「キリストの満ち満ちた身丈」にまで成長し、「完全におとなになって」、もはや人間の言い伝えに過ぎない偽りの教えに騙されたり、弄ばれたりすることなく、真理のうちにとどまり、キリストに従い抜いて成長するためであることが語られている。

しかしながら、多くのプロテスタントの教会においては、エペソ書のこの箇所は、組織としての教会内の信者の役割分担を示すものと解釈して、教会に牧師制度を置く根拠とさえみなしている。だが、筆者はそのような文脈でこの聖書箇所を引用しない。筆者はそもそも教会というものを、地上の組織としては見ておらず、教会内に町内会やらPTAやら、はたまた学習塾のような、様々な固定化された役割分担を置くことにより、教会の成長を促すことができるとも考えていない。

むしろ、筆者自身の経験に立って言えば、キリストのみからだなるエクレシアの働きは、決して、地上的な組織としての役割分担や、まして教団教派や組織の枠組みにとらわれるものではなく、むしろ、そのような地上的な疑似教会組織と無関係になった時点で、初めてキリストの生きた働きが信者に見えて来るのである。神は人間が人間の意志によって立てた地上の組織のネットワークを通さず、人の思いによらず、人知を超えた不思議な方法で、互いに知らない信者たちをも時宜に応じて引き合わせ、しばしば、予期せぬ形で、塩気を失って死んだこの世の地上組織としての教会の代わりに、この世の不信者からの圧迫でさえも、エクレシアを建て上げる機会として用いられる。

これは、決して不信者が教会の一部となって、教会のために奉仕していると言うのではない。不信者はあくまで教会の外にいて、教会を建て上げる目的でその働きに関わっていないのだが、それにも関わらず、この世の不信者からの迫害や圧迫を、神は教会を建て上げる手段として用いておられるのである。

前回、ステパノの殉教の場面に触れたが、イエスの復活後、このような形でユダヤ教徒による教会への迫害が強まるまでは、弟子たちの宣教によって、神の御言葉を受け入れる人々が地上に増え広がり、神の教会に加えられる兄弟姉妹が増加していた。人の目には、あたかも、そのようにして信者数が地上で増加し、教会が地上で権勢拡大し続けることこそ、教会の「成長」を指すように見えるであろう。

ところが、神は教会の成長を、決して、そのような規模や人数や組織力によってはかられないのである。むしろ、神は、サウロによる教会への迫害、ステパノの殉教などの出来事を許されて、教会が地上で勢力を増して人間的な力の結集する場所となって、強大な組織が建設され、弟子たちが多くの信者たちを従えて宗教的権威となるよりも前に、信者たちを迫害によって散らされ、教会を離散させられたのである。

教会の成長は常にこのように、世からの激しい迫害や苦難と背中合わせで、人間の目から見た繁栄や成功とは真逆の方向性を向いており、真にキリストに従う弟子たちが、大勢の人びとから敬われ、かしずかれ、立派な教師、宗教的権威者として崇められることはない。神の望んでおられる「教会成長」は、これとは全く正反対で、地上における迫害や苦しみや誤解や偏見とは一切無縁の、地上で歓迎され、安泰な地位を築き上げることのできる強力な組織力を意味しないのである。むしろ、神から見た教会の成長とは、量や規模といった、外側から見て誰しもすぐに分かるような基準でおしはかられることはなく、より深く内面的な基準によってはかられ、量よりも質を指していると言えよう。つまり、信者があらゆる苦しみの中を通され、代価を払って、ただキリストだけに従い抜く過程で生まれて来る洗練された従順、献身、信者がキリストの死と復活に同形化されたその程度の増し加わり、神への燃えるような愛の増し加わりを意味するのである。

このようなわけで、筆者は、エクレシアが何であるのかを、信者が肉眼でとらえて理解することはできず、エクレシアというものを、人が地上の組織の中に限定・固定化することもできず、また、エクレシアをキリストにふさわしく建て上げ、成長させるために、神がどのような方法を用いられるのかを、決して人知でははかりしることができない、という考えに立っている。

神がエクレシアを成長させられる手段は、この世の人々が組織を成長させるために考え出すような手練手管とはむしろ反対なのである。この世の人々は、教会に学習塾のような役割分担を設け、専門家による教育訓練を充実させ、入塾した者たちを鍛えれば、それによって教会全体の信仰を成長させることができると思うかも知れない。だが、神は決してエクレシアの成長のためにそんなな方法を用いられることはない。

先の記事でも触れた通り、パウロが述べたのは、むしろ、教会に栄光がもたらされるのは、キリスト者が投獄されたり、迫害されたり、誤解され、排斥され、苦しみを受けるなど、人間の目には決して好ましくない、心地よくない様々な出来事を通してだということであった。そのようにして、一人のキリスト者が苦しむのは、教会全体のためであり、教会全体の利益にかなっていると、彼は述べたのである。

これはまさに人が肉眼で見て、組織を成長させ、発展させる方法とは真逆である。人間の目には、苦しみや、迫害や、組織を弱体化させるものにしか映らないであろう。このような逆説的な方法を用いて、神が教会を成長させておられるとは、信仰者でさえ、信仰によらなければ、理解することはできないであろう。

しかしながら、たとえ人知ではかることができずとも、このような形で、キリスト者が不思議な形で互いに仕え合うことによって、教会が成長して行くのである。信者たちが互いにお世辞を述べあって、互いを誉めそやし、互いに栄光を受け合い、苦しみとは無縁の、人間にとって心地よく安全な共同体を地上に確固として築き上げることで、教会が成長するのではなく、むしろ一人一人が自分の代価を払って、試練を忍び通しながら、キリストに従い抜くその過程で、初めて互いが仕え合うことが可能になるのである。そのようにして、信者一人一人が「完全におとなになってキリストの満ち満ちた身丈にまで達する」のである。

「それが、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。<…>

 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」(エペソ4:12-16)

果たして、今日、キリスト教と呼ばれる宗教が、すっかり人間の安楽と現世利益のためだけの疑似宗教と化している中、このように主のための試練をも甘んじて受け、この世からの迫害や誤解や偏見や危難をも勇敢にくぐり抜け、様々な訓練を通して、神の御手に懲らしめられながら、それでも己を低くしてそれに耐え、苦難を忍び通して信仰を成長させ、キリストの死と復活により深く同形化され、朽ちない神の栄冠にあずかりたいと、心から願う信者は、どのくらい存在するのであろうか? 

そういう信者がどのくらいいるのかいないのか、それは筆者の知るところではないが、苦難と栄光の深い関わりについてのテーマは、この後の記事でもさらに続行して行く。

2017年2月17日 (金)

十字架の死と復活の原則―患難が生み出す栄光―後ろのものを忘れ、ひたすら前のものに向かって進み、キリストが上に召して下さる神の栄冠を得るべく、目標を目指して一心に走る

「なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ14:11)

「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。


 
今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:16-18)

巨大なエクソダスが完了して、不思議なほど心が平安に満たされている。

一つ前の記事で、「キリストに従うことに、そんなにも多くの代償が伴うなら、信じることに何の意味がありますか。キリストを信じたゆえに、世からの理解を失い、迫害されるなら、生きることが前より苦しくなるだけで、信じることにどんなメリットがあるのでしょうか」という不信者の問いを取り上げた。

確かにキリストに従うことには代償が伴い、多くの患難がつきものである。不信者のほとんどはそれを聞いただけで、踵を返すことであろう。ちょうどイエスのために全財産を捨てることをためらった金持ちの青年のように。

だが、キリスト者は、イエスに従うことに伴う代償だけに注目して、恐れ、失望したりはしない。なぜなら、地上における患難が、むなしい代償では終わらず、永遠の重い栄光をもたらすことを知っているからである。

今回は、キリスト者にとっての苦しみと栄光との不思議な関係について、つまり、十字架の死と復活の原則について、信じる者が代価を支払ってキリストに従うことに伴う恵みが、どれほどはかりしれないものであるかについて、少しばかり書いておきたいと思う。

さて、冒頭からまたもや突飛な展開だと言われるかも知れないが、今、筆者が思い出すのは、次の聖書箇所である。これは筆者が好んで使っている箇所なので、以前にも幾度か引用したかも知れない。

「ところが、アンテオケとイコニオムからユダヤ人たちが来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引きずり出した
しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町にはいって行った。その翌日、彼はバルナバとともにデルベに向かった。

彼らはその町で、福音を宣べ、多くの人を弟子としてから、ルステラとイコニオムとアンテオケとに引き返して、弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」と言った」(使徒14:19-22)

パウロは、かつては熱心なユダヤ教徒であったが、主イエスに出会って、十字架の贖いを知り、福音の使徒とされてから、かつては仲間であったユダヤ人や律法学者から激しく憎まれ、妬まれ、執拗に命をつけ狙われ、迫害されるようになった。

上記は、ユダヤ人たちに扇動された群衆に取り囲まれたパウロが、石打ちに遭い、あわや命を失う寸前まで追い込まれる場面である。当時の石打ちは、死罪を宣告する行為であり、つまり、ユダヤ人たちは、個人的にパウロの働きを妬んでいただけでなく、パウロがユダヤ教の教えに基づく律法による義を捨てたことを深く恨みに思っていたので、何の罪も犯してなかったパウロを、勝手に死刑にしようと狙っていたのである。

その恨みと憎しみの背後には、キリストの十字架によって人類が贖われ、罪赦されるという、律法によらない、信仰による義そのものが、決して認められない、というユダヤ人たちの思いがあった。

それは、人が自分の努力によらず、神の一方的な恵みを信じることによって、信仰によって義とされる道が開かれてしまうと、ユダヤ人たちが日々熱心に律法を守って、落ち度なく立派に行動することによって、自分で自分を善人とし、義としている一切の努力が水泡に帰するからである。そこで、ユダヤ人たちは、パウロの宣教によって、自分たちの教えそのものが危機に晒されていると感じ、自分たちの必死の涙ぐましいまでの努力が無にならないために、パウロの宣べ伝えるキリストの信仰による義を何とかして否定しようと、パウロをつけ狙い、迫害し、神が罪赦された聖徒であるパウロをあわよくば再び罪に定めて、自分たちの手で処刑して死に追いやろうと執拗に試みていたのである。

しかしながら、群衆が獣のごとき暴行に満足して、パウロはすでに死んだものと思い込んで立ち去った後、パウロはまるで何事もなかったかのように起き上がり、自分で歩いて町に入って行った。そして、その後、危篤状態に陥ることもなく、入院することもなく、翌日にはもう別の町に向かって出発し、そこで福音を宣べ伝えて多くの人々を悔い改めに導き、キリストの弟子とした。

パウロの身に起きたことは、多くの信者たちを驚かせたと同時に、勇気づけた。すなわち、パウロは、キリスト者には、地上での生涯を終えて、完全に神の国に入るまでの間に、多くの苦難が残っているが、それだからと言って、決して信者が失望する必要はなく、勇気を出しなさいと勧めたのである。なぜなら、神はキリスト者に、地上で受ける全ての患難を乗り越えるに十分な力をお与えになっているだけでなく、信者が地上で失ったものの代償として、天で栄光に満ちたはかりしれない重い褒賞を用意して下さるからである。だから、たとえ地上で予想外の事柄が起き、人々の思わぬ反対に直面し、物事が順調に行かないように思われる時にも、勇気を失うことなく、むしろ、あらゆる患難には死を打ち破ったキリストの復活の命が働くことによって、信者にはいかなる損失も生じず、天の御国に収穫がもたらされることを知って、勇気を出してしっかりとこの道にとどまり、信仰を捨てないようにと勧めたのである。

聖書の他の箇所を見ても、御霊を通してパウロの内に住んで下さったキリストは、パウロの内なる人を通して、彼の外側の限界ある肉体をも強め、人知では考えられない力を与えていたことが分かる。

キリストと共に十字架の死を経ると、その信者を生かしている命は、滅びゆくアダムの命から、死を打ち破ったキリストの復活の命へと変えられる。その復活の命は、キリスト者が地上で使命を終えるまで、信者のすべての必要を供給し、信者がこの世で受ける全ての圧迫を超えて、神から受けた召しを果たす力を与える。

贖われた人々は、自分を生かす命が、キリストの新たな命となったことを知った瞬間から、神の超自然的な命の力が自分を支えていると同時に、悪魔と地獄の全軍勢の尽きせぬ憎悪の前に、自分がキリストの復活の証人として立たされていることを知る。この人間のものではない、超自然的な、神の非受造の命のゆえに、キリスト者を巡っては、暗闇の勢力からの激しい陰謀や妨害を含む、途方もない規模の霊的対立が起きるのである。

信者が主と共に十字架の死と復活に同形化されると、信者の意志とは関係なく、信者を巡って、常識では考えられないような極めて異常で極端な出来事が起きるようになる。だが、それは信者にとっては当たり前のことで、驚くには値しない。逆に言えば、もし信者に地獄の軍勢の憎しみに直面している自覚がなく、何らの激しい対立や圧迫も起きないならば、その人が本当にキリストのものとされているかどうかは極めて怪しい、と言えよう。

さて、筆者は、偽りの宗教体系を含めて、信者が訣別すべきこの世の教えの体系からエクソダスを果たす際には、多くの圧迫や激変が起きることを書いた。そうした圧迫は、人間の目には、無用な苦しみでしかないように見えるかも知れないが、信じる者にとっては、大きな栄光の前触れである。冒頭で挙げた御言葉の通り、キリスト者が受ける苦難には、すべて後々報いが伴うのである。

人間は生まれつき試されることを喜ばないので、神の手から与えられる患難や試練を忍耐強く乗り越え、これを喜んで受けることを学ぶまでには、少しばかり時間がかかる。だが、聖書の御言葉は真実であり、キリスト者が地上で受ける苦難は、どんな種類のものであっても、すべて「軽い患難」に過ぎない一方、これを耐え忍んだ対価として与えられるのは、天での「測り知れない、重い永遠の栄光」である。

だが、不信者は言うだろう、「いや、ちょっと待って下さい。ユダヤ人に憎まれ、扇動された群衆にあらぬ罪を着せられ、石打ちになって殺されそうになることのどこが、「軽い患難」なのでしょう。しかも、パウロは生涯に渡って、ずっとそういう迫害に直面していたのでしょう。」それでも、筆者は言う、そういうものはみな軽い患難でしかないと。たとえ、信者が殉教に至り、地上の肉体の幕屋を破壊されたとしても、それもすべて軽い患難でしかないと。

重要なのは、そのような一つ一つの患難に対して、神はそれをただ耐え忍ぶのみならず、勝利を持って乗り越える力を信者にお与えになり、多くの場合、信者のこの地上での人生がまだ終わらないうちに、それに対する報いとしての天の栄光を垣間見せて下さり、それによって信者が十字架の死と復活の法則が信じる者の内に生きて力強く働いていることを知ることなのである。

「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」という御言葉が意味するのも、同じことなのである。もしキリスト者が、地上では苦難しか味わえず、敵意や、辱めや、嘲笑や、迫害にしか遭遇することなく、その報いとして与えられる栄光や喜びは、すべて死後になってしかやって来ない、などと考えるなら、それはあまりにも大きな間違いである。信者が地上で受ける全ての苦しみは、信者が自分を低くするために与えられるものだが、日々の十字架を耐え忍んだ代価として与えられる栄光を、信者は生きているうちにも、日々見ることができる。

多くの場合、信者が地上で受ける苦しみは、神が信じる者を高く上げて下さることの前触れである。信者は、神が大きな解放の御業をなし遂げて下さろうとしている時には、ほとんど決まって、人の目から見ると苦しみとしか思われない事柄が前もって起きて来るのを理解するようになる。だが、その苦しみは栄光の前触れでしかなく、信者が心騒がせずに神を信頼してこれを受けるならば、そこに、天の法則が働いて、人の思いもかけない解放が起こり、神が願っておられる通りに天の栄光がもたらされる。

キリスト者は、この地上にありながら、内にキリストをいただいていることにより、すでに来るべき世の統治の中に入れられているのであり、天の支配下に生きているのである。そこで、死後を待たずとも、キリスト者の内には、絶えず天的法則が働いて、御言葉が実際として成就する。だから、こう書いてある。「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらす」と。

ここで「私たちのうちに働いて」と言われているのは、患難が「私たちキリスト者の内なる人を通過することによって」、重い栄光をもたらすと述べられているのと同じである。

つまり、キリスト者にとって、患難とは、それが自分の内なる人を通過することによって、そこに天の法則が働いて、測り知れない、重い永遠の栄光がもたらすきっかけでしかないのである。その証拠の一つに、石打にされそうになったパウロが、別の町で行った宣教の際に、新たな弟子たちが起こり、天に収穫がもたされたことがある。他にも色々な収穫があったかも知れないが、要するに、パウロが受けた苦難を通して、十字架の死と復活の法則が働いて、人々の魂が神に立ち返り、御国に大きな収穫がもたらされたのである。

このことは、キリスト者が地上で苦しみを受けることによってしか生まれ得ない天の栄光が存在することを教えてくれる。だが、誤解してはならないのは、これは決して信者が自ら苦しみを求めて良いという意味でなく、人が自分で自分を苦しめることとは全く異なる。信者の意志とは関係なく、神が許されて、地上で患難が与えられ、信者がそれを己を低くして信仰によって受け止める時、天で大きな報いが伴うのである。

さて、信者の「内なる人」とは、キリストと言い換えても良いかも知れない。確か、ウォッチマン・ニーがどこかの解説に書いていたように思うが、キリストの御霊が、信者の内側に住んで下さることによって、信者の内側では、御霊と信者の霊とが分かちがたく結びついている。

これはちょうど一人の人の中に二つの人格があるようなものだが、しかしながら、それは病的な二重人格ではなく、あるいは、ローカルチャーチの教えのように、「神と人とが混ざり合う」ことでもない。キリストと信者との結合は、ただ霊においてのみの結合だからである。

信者の内側で、キリストの人格と、信者の人格は、互いに分裂して押しのけ合ったり否定し合ったりすることなく、調和の取れた形で不思議に同居している。それが、キリストの人格が、御霊を通して、信者の内に住んで下さることの意味である。だが、それは自動的に達成される調和ではなく、信者の側からの協力が必要であり、信者にはキリストの人格を無視することもできるし、拒絶し、否定することもできる。もし信者がキリストの御声に聞き従うのをやめれば、キリストの人格は信者の中で働きをやめ、その状態が続けば、御霊はやがてその信者を去るだろう。

正常な状態の信者にあっては、信者の「内なる人」が、キリストの内住によって満たされ、強められているがゆえに、信者は外側ではこの世の滅びゆく肉体を持った有限な存在に過ぎず、魂においては、地上の人としての記憶や意識を持っているが、それでも、信者の内側には「キリストの成分」とでも呼ぶべきものがあって、それが信者の「内なる人」を形成するのである。つまり、信者の「内なる人」は、信者自身の霊と、キリストの御霊との結合から成り、この二つの人格を共に指していると言っても良い。

それゆえ、信者が地上で苦しみを受け、患難が鋭い矢のように信者の内側を通過してその存在を射るとき、その苦しみは、ただ信者という一人の人間を通過するだけでなく、信者の内におられるキリストをも通過するのである。それによって、ただ地上の滅びゆく有限なる存在としての人間が苦しめられただけでは、決して起き得ない現象が起きる。つまり、信者が受けた苦しみが、天ではキリストの受けられた苦しみに加算され、それが天の権益に関わる事柄として受け止められ、そこに天の法則が働いて、栄光に満ちた収穫がもたらされるのである。

パウロが「キリストの苦しみの欠けたところを満たしている」と言った言葉の意味はそこにある。キリストが十字架で受けられた苦難は、それ自体、完全であって、人間によって補わなければならない欠点はない。だから、信者が地上で苦しみを受けることで、キリストの御業に何かをつけ加えたりするわけではない。だが、それにも関わらず、神は地上において、あえてキリスト者一人一人が、主イエスに従う過程で苦しみを受けることをお許しになる。神はそれを通して、信者一人一人を練られ、ご自分にならう者として鍛え、その心を吟味されると同時に、さらに、その苦しみを通して、信者に栄光をお与えになり、何よりも教会に栄光をもたらされる。上記の御言葉は、前後を踏まえて引用すると次のようになる。

「ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです
私は、あなたがたのために神からゆだねられた努めに従って、教会に仕える者となりました神のことばを余すところなく伝えるためです。」(コロサイ1:24-25)

つまり、パウロが受けたような迫害は、キリストのからだなる教会のためだというのである。パウロは教会に仕える者として患難を受け、そこに天の法則が働いて、神の国に収穫がもたらされるのだというのである。

この死と復活の法則は、ステパノの殉教にも当てはまるだろう。パウロの回心という巨大な事件は、ステパノの殉教なしには起こらなかった出来事であると考えられる。

キリストの弟子とされた後、「ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行なっていた。」(使徒6:8)。つまり、ステパノは、イエスの力ある弟子であった。これに対し、その当時、パウロ(サウロ)はまだ青年で、キリストを知らず、熱心なユダヤ教徒として、教会を迫害する側に回っていた。サウロは個人的にステパノの石打に大いに賛成しており、群衆によるステパノ殺害の場面にも立ち会っていた。

しかし、当時は何のためらいもなく、確信を持って、ステパノを迫害する側に立っていたパウロが、ダマスコ途上で復活のキリストに出会って、キリストの僕に変えられる。この出来事は、直接的には、ステパノの死とは関係がないように見えるが、それでも、これは信仰者の目から見ると、ステパノが受けた患難なしには決して起き得ない収穫だったものと思われる。

ステパノが殉教した場面で、彼が群衆に向けて語った最後のメッセージの締めくくりと、群衆の反応を、ここに引用しておこう。ステパノは群衆に向かって言った、

かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです
あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか
彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。

あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。

人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした
しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、こう言った。
「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」

人々は大声で叫びながら耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。そして彼を町の外に追い出し、石で打ち殺した

証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。

こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。

「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。」(使徒7:51-60)

前の記事で引用したイザヤ書の預言の通りである。ユダヤ人たちは、福音を聞いても耳を塞ぎ、神の御言葉を携えてやって来たイエスの弟子たちを見ないために目を覆った。彼らは、自分たちは律法を守り、落ち度なく行動しているという自負のゆえに、信仰による義を認められず、福音を全くの有難迷惑として退けた。彼らは福音をただ受け入れなかっただけでなく、福音を語った神の僕にも、尽きせぬ憎しみを燃やし、迫害し、石で打ち殺すまでに至ったのである。

これは、決してユダヤ教対キリスト教などといった対立構造を示すものではなく、神の義対人類の義の霊的対決を示すものである。すなわち、ステパノが神の恵みとしての信仰による義を語って、人類が自らの力で神の義に達しようとしている必死の努力を否定したために、有史以来、常に自力で神に到達するためにバベルの塔建設に励んでいる人類が、人類の涙ぐましい努力を否定する神の福音を、人類を冒涜するものとして理解し、これを宣教することが、死罪に当たる「罪」であると考え、福音を聞かないために耳を塞いで、神の義を否定しながら、その証人である神の僕を迫害して殺したことを意味する。こうして、世は人類の存在しない「聖」や「尊厳」を守るために、常に神を冒涜し、神の御言葉を退け、神の僕をも退けるのである。

先に引用したパウロの石打ちの場面とは対照的に、ステパノはここで殉教して生涯を閉じる。しかし、これら二つの場面に共通しているのは、パウロが、ユダヤ人たちの憎しみによって内面的に全く影響を受けなかったのと同様、群衆の激しい憤りと殺意に直面したステパノも、その出来事によって全く魂を触れられなかったことである。

ステパノは群衆が福音を拒絶することや、悪意に満ちた反応を返すことを前もって完全に予測していた。彼は霊的に贖われない人々が福音に対してどういう反応を示すか、理解していたのである。だから、彼は群衆の反応に動じることもなければ、彼らの憤りの前に譲歩することもなかった。彼は憎まれることを承知で群衆の前に立ち、拒絶されることを知っていながら福音を語り、殺されることも覚悟の上で、あえて真理を宣べ伝える神の僕として、最後まで世の前に立ち続けたのである。

そして、群衆の激しい憤りに直面しても、ステパノの人格が傷一つ受けず、動揺することも、悲しみに暮れることも、怒りをかきたてられることもなく、彼の心が、群衆の反応とは一切無関係に、最後まで平静を保ち、外側の肉体の幕屋が傷つけられても、内側では全き平安のうちに、揺るぎなく真理の確信に立ち続けることができるように守ったのは、主イエスご自身であった。

このように、全世界から激しい憎しみと悪意を向けられ、ついには命さえ奪われても、それによって全く微動だにしないような、人知では説明のできない、圧倒的な内なる平安が、ステパノの全人格を覆っていた。それは、パウロも全く同様であった。

このように、神の福音は、これを信じて受け入れた人々を、世から完全に切り離し、神だけに全幅の信頼を置いて、神の僕として立たせる。使徒たちは、人に拒絶されても、誤解されても、否定されても、そのような世の反応によっては全く変わらず、揺るがされることのない、圧倒的な平安を伴う内なる満ちた確信を持っていた。それは、決して相手に見返りを求めない、神の無条件の愛から来るものであり、神の愛が、それに捕えられた人々をも、キリストと同じようにあらゆる苦しみに耐えられるよう励まし、力づけ、勇気づけるのである。

このように、人の目から見て苦難が最大になった時にも、信者がその中でなお真理の確信に立ってこれを力強く守り抜く力を与えるのは、神ご自身である。ステパノの殉教の後、回心したパウロも、やがてはキリストご自身や、多くの弟子たちにならって、殉教することになる。使徒行伝にパウロの殉教の場面は描かれていないが、彼は皇帝ネロによるキリスト教徒への大迫害の時代に、ペテロなどと共に殉教したと言われている。おそらくは、描写もはばかられるような形で非業の死を遂げたに違いないと想像するが、最後までキリストの僕として、喜びと確信に満ちて大胆に主を証しつつ、衝撃的でドラマチックな形で生涯を閉じたのであろう。

このような殉教の場面を、信者ならば理解することができる。人間の目にどのように見えようとも、どれほど多くの人たちが理解せずとも、もし代価を払って主イエスに従うことができるなら、それは言葉に言い尽くせない栄光だと感じるのである。もちろん、人間の努力によってはそんなことは達成できない。誰も自らの目に損失と見えることを願う者はない。だが、信者が代価を払うことに心から同意し、自分の全ての利益よりもキリストを優先することを願い、神に自分自身を完全に捧げるならば、神がふさわしい時に全ての機会を用意して下さり、何が起きても、最後まで動じず、確信に立ち続ける力を信者に与えて下さると、はっきり言うことができるのである。

だが、不信者はこのような話を聞けば、ますます疑念を深めるだろう、「私はそんな人生を送りたくありません。そんなのは狂信者の道ですよ。あなた方の神は、信じる人々にそんな重い代償を要求なさる神なのですか。苦難を与えた上に、命まで捨てて殉教までせよというのですか。一体、そんな人生のどこに「測り知れない、重い永遠の栄光」があるのですか?」

これを人に分かるように説明するのは難しく、以上のような意見の持ち主を説得するのは不可能であろう。ステパノの殉教と、パウロの回心を直接的に結びつけることができないように、どうやって信者の中で患難が栄光を生むのか、それは理屈によって説明できることではない。だが、それでも、「今の時の軽い患難」「測り知れない重い永遠の栄光」と一つに結びついている、というのは確かな御言葉だと言えるのである。地上での些細な苦しみさえそうなのだから、ましてパウロやステパノが辿った殉教がそうでなかったはずがないのである。

ダマスコ途上でパウロに現れた復活のキリストは、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(使徒9:5)と名乗られた。このことは前述した通り、キリストのものとされた信者たちの内側には、キリストが住んで下さっており、その意味で、彼らはただの地上の人間ではなく、彼らは「キリストのからだ」を構成しており、それゆえ、信者たちの内面を苦しみが通過する時、それは信者の中におられるキリストの人格をも通過することを意味する。だからこそ、信者たちが受けた苦しみを、神はキリストが受けられた苦しみと同じものと考えられ、イエスは、迫害されている教会が、ご自身であると言われたのである。

ここに、教会を迫害することの恐ろしさがある。今までにも書いて来たように、神に贖われてエクレシアとされたクリスチャンを迫害することは、あれやこれやの地上の人間を苦しめることだけを意味せず、キリストの御身体だを傷つけることを意味し、文字通り、「キリストを迫害する」ことと同義だからである。パウロの場合のように、その人々がまだ福音を知らず、回心する余地が残っていれば良いが、もっと恐ろしいのは、群衆を扇動した首謀者としてのユダヤ人や律法学者や、あるいは、福音を知り、キリストの弟子を名乗りながら、神を裏切ったような人々に、果たして、悔い改めの余地があるかどうか分からず、場合によっては、アナニヤとサッピラに降りかかったような報いが及びかねないことである。

パウロは書いている、「ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。その中には、ヒメナオとアレキサンデルがいます。私は、彼らをサタンに引き渡しました。それは、神をけがしてはならないことを、彼らに学ばせるためです。」(Ⅰテモテ1:20)

御使いたちをさえさばく権限を持っている教会は、信者を名乗りながらも信仰を捨て、御言葉を否定し、神を裏切った人々を「サタンに引き渡す」権限をも持っている。昔であれば、それは教会から信者を除名することと同義に解釈されたのであろうが、地上の教会がむしろ不信者によって占拠されている今の状況で、筆者は、これをそういう文脈では解釈しない。「サタンに引き渡す」とは、信者が御言葉を否定する者たちに向かって、その者が「神の家族でなく、兄弟姉妹でもなく、神の守りの外にいて、サタンの支配下に追いやられていることを公然と宣告する」といった意味である。もっと簡単に言えば、信者がある人たちに向かって、「この人たちは私たちと同じ神の家族には属していないよそ者であって、私たちは彼らを守りません。この先、悪魔が彼を好き勝手に翻弄して、彼らの魂を占領しても、私たちはそれに対して一切、責任を負いません」と宣言しているのと同じである。

パウロを通して教会からこういう宣告を受けた二人にどういう結末が降りかかったのかは分からない。彼らに悔い改めの余地があったのかなかったのかも分からない。しかしながら、教会が彼らを見捨てると同時に、彼らの魂が悪霊に引き渡されて、サタンの思うがままになり、その人生が尋常ならぬ破滅へと向かって行ったであろうことは予想がつく。

ステパノは自分を殺した群衆を罪には定めなかった。それは、多くの群衆は扇動されていただけであって、自分が何をしているかも理解していないことを知っていたからである。しかし、それはあくまでそれまで福音を聞いたことがなかった人々に対する神の憐れみであって、確信犯的に福音に敵対し、神の御言葉を闇に葬るために、群衆を扇動してでも、陰謀を巡らしていたような人々の中には、おそらく神の憐れみも届かない人々が含まれていたことであろう。ステパノを拒絶した群衆も、その後、どれだけの人々が悔い改めることができたのか分からない。悔い改めなければ、いずれにしても、罪の報いが降りかかるのである。

このように、クリスチャンは世の人々にとって重大な試金石であって、外見がどんなに無力に見えるありふれた地上の人間であっても、内側に、測り知れない神の力である御言葉を携えている以上、信者の存在を通して、御言葉が人々をふるい分けるのである。信者の内におられるキリストが人々をふるいわける。そのため、御言葉を宣べ伝える使者が現れる時、人々の心の内に隠されていた、人が思ってもみなかったような内面が明らかにされる。多くのパラドックスが生じ、人の目に賞賛されていたものの醜さが明るみに出され、人の目に正義と見えていたものが、むしろその逆であることが判明し、ある人々は、御言葉につまずいて、あからさまに福音の敵と化す。ここで、応答の方法を間違えると、その人の人生全体が、取り返しのつかない方向へ向かって転げ落ちて行きかねない怖さが存在する。

だが、クリスチャンはある人々を「サタンに引き渡す」ことまではしても、その人の命運に最後まで手を下すことはしない。それは神の領域だからである。そこで、暗闇の軍勢との激しい闘いの中にある時、信者は、どこまでその闘いに関与して良いかについて、その程度をも、神に教わる。

たとえば、かつては兄弟姉妹と呼ばれた信者の中から、福音を否定し、教会の迫害者となるような者たちが現れ、彼らに勧めても、説得しても、何の効果もない場合、ある時点を境に、信者は彼らを公然と「サタンに引き渡」し、その人間どもから手を引かねばならない。神に逆らう人々をいつまでも相手に語り続けることがキリスト者の使命ではないからである。

そして、「サタンに引き渡」されたその瞬間から、彼らの存在は、聖徒らの全く手の届かない領域に去る。すべてのつながりが断ち切られ、彼らに降りかかる一切の事柄の責任は、聖徒には及ばないものとなる。そうなると、聖徒らはもう二度と彼らの命運を気遣うことも、関わることもない。

最近、筆者は、そのようなことを経験したばかりである。ある出来事を通して、あたかも、神が御使いらと共にこう言われたかのようであった、「ヴィオロンさん、あなたはよくやりました。あなたはやれるところまで十分にやりました。しかし、もうこれ以上、この出来事にあなたが関与する必要はありません。ここから先は、私たちの領域です。心配することなく、私たちにすべてを任せなさい。」こうなると、この世的な観点から見れば、決着がついておらず、まだ打つ手が残っているように見える場合でも、信仰的観点から見て、信者はその出来事から手を引かねばならないのである。あとは神と御使いたちの出番となる。

信者は、天と地の前でキリストの復活を証する使命を負ってはいるが、信者の目的は、人間的な思いで人々を説得することにはなく、人間的な観点から見て、すべての人々と折り合いをつけることにもない。この世は、ちょうどソドムとゴモラの町のようなものであって、その町で、キリスト者と住人とがどんな「折り合い」や「決着」をつけることが可能だろうか。

だから、キリスト者の使命は、福音を拒絶する人々を力づくで説得することで、自分の正しさを論証することにはなく、世に向かって語りはしても、世と交渉もしないし、深入りしない。世の敵意に直面しても、世と交渉するうことで、これをやわらげようとはしない。もしも、世に向かって、信者が自己の正当性をどうしても分からせようと、あるいは、何とかして福音を受け取らせようと、御言葉に逆らう世人を説得したり、論争に熱中したりして、世に深入りして行くと、結局、信者は世人の思惑に翻弄され、信仰による義から逸れて行くことになる。

どんなに神の福音が正しいものであっても、それを受けとるかどうかはあくまで個人の自由な選択に委ねられており、御言葉を聞いても従わない人間の末路は、信者の責任の外にある。世は始まって以来、福音を拒絶し続け、神の僕を迫害し続け、キリストを十字架にかけて殺したのであり、今に至ってもその悪しき性質は寸分たりとも変わらず、これを変えることがキリスト者の使命でもない。

だから、信者は、決して世から受け入れられることを願うべきではなく、むしろ、主イエスが地上でどのような扱いを受けられたかを思い起こし、低められることの中に、十字架の死の原則が働くことを思い起こすべきなのである。ソドムとゴモラの住人と、人間的な観点から折り合いをつけたり、彼らから歓迎されたり、理解されることが可能だと思えば、とんでもない間違いに陥るであろう。むしろ、神の目から見て、有益な結果が結ばれるためには、必ず十字架の死をくぐらなければならないこと、誤解や、拒絶や、否定や、蔑みや、迫害があって初めて復活の原則が働くことを思うべきなのである。何より、人が自分を真に高くしたいならば、低くされることに甘んじねばならないのである。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」(ヘブル12:2-4)

主イエスが罪人たちの反抗を耐え忍ばれ、はずかしめをものともせずに十字架を忍ばれたのは、「ご自分の前に置かれた喜び」を見て、来るべき栄光を確信しておられたからであった。つまり、神はご自分に従う者を決して見捨てられず、辱めが辱めで終わらず、苦難が苦難で終わらず、死が死で終わらないことを、予め知っておられたからである。だから、我々聖徒たちも同じように、自分が低められ、卑しめられる時に、落胆するようなことはなく、むしろ、一つ一つの苦しみに対して、天でどんなに栄光に満ちた報いが待ち受けているかを確信しつつ、この天の褒賞をまっすぐに見つめて、喜ぶ。

信者は、キリストの新しい命が、地上で受けるどんな損失をも補って余りあるものであることを確信しており、地上で起きる苦難には目もくれず、天に備えられた栄冠が、すぐそこに見えており、すぐ手の届くところにあることを知って、それだけを見つめて喜ぶのである。

ある信徒は言った、「悪魔は本当に愚かです。悪魔は、キリストを殺せば、復活という、悪魔が最も恐れる出来事が起きてしまい、悪魔の最大の武器である死が打ち破られて、役に立たなくなることを知っていたのです。それにも関わらず、地獄の軍勢は、抑えがたい殺意によって、キリストを十字架につけて殺害しないことがどうしてもできなかったのです。彼は自分で自分にとって最も不利になることをやってしまったわけですね。」

これは信徒が遭遇するあらゆる患難に同じように当てはまるであろう。信者たちは、至る所で、憎しみや、反目や、敵意や、辱めや、殺意にまで遭遇する。地獄の軍勢は彼らを見て歯ぎしりし、聖徒らの背中を踏みつけて、「自分たちは勝った」と誇るであろう。しかしながら、その次の瞬間、思いもかけないことが起きる。聖徒らの受けた一つ一つの苦難の中に、「十字架の死と復活」の原則が働いて、暗闇の軍勢が駆逐され、天の収穫がもたらされるのである。暗闇の勢力が占拠していた地には、復活の旗が立てられ、すべての名に勝る名を持つ方が高く掲げられて、この方が、すべてのものを足の下に踏みつけられる。サタンは彼のかかとで踏みにじられ、聖徒らもこの方と共に高く上げられて栄光にあずかり、共に喜ぶのである。

もちろん、私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。」(コロサイ3:4)という御言葉が完全な形で成就するのは、キリストがやがて再び地上に来られる時である。だが、その時を待たずして、この地上で彼を待っている間にも、聖徒は様々な患難を通して主と共に栄光にあずかり、常に来るべき時代の栄光の前味を知ることができるのである。

この法則は、自分が低められることを拒み、ひたすら自分の正しさだけを主張して、人前に自分を義と認めさせようとしている世人や暗闇の勢力には決して理解できないものである。

今日、「人造のキリスト教」であるキリスト教界は、パウロやステパノのような弟子たちよりも、むしろ、彼らを迫害したユダヤ人や律法学者に似たものとなっている。そこにいる人々は、あらゆる努力を払って、人前に立派な善人と見られ、敬虔な信徒と認められようと、外見を飾り、熱心に奉仕に励み、自分の正しさを人前で主張することをやめられないでいる。彼らはあまりにも心頑ななので、人前に自分を折ることができず、己が罪を認めることもできず、熱心さの上にも熱心さを増し加え、ひたすら努力によって神に到達することが可能であると考えている。そして、彼らが神に至る手段だと思っている熱心な奉仕を否定する者が現れると、尽きせぬ憎悪をむき出しにし、教会から追い出し、迫害を加える。

だが、見落としてはならないのは、クリスチャンは一体、誰の目に義と認められる必要があるのか、という点である。私たちは、神の目に義と認められたいのか、それとも、神を知らない世間の目に認められたいのか、あるいは、クリスチャンの世間の目に認められたいのか、自分自身の目に正しい存在と認められたいのか。

外見的に自分を正しく見せかける能力に長けていることは、人にとって極めて不幸なことである、と筆者は思う。なぜなら、そのような能力が巧みであればあるほど、その人は十字架の死の意味が分からず、己を低くすることもできず、それゆえ、復活の命に至るチャンスが失われるからである。彼らは、自らの巧みな演技によって他者を欺くだけでなく、自分自身をも欺く。自分でイチヂクの葉で編んだ衣装、自らの手で建設した城壁に夢中になって、自分はこれほどまでに精進したのだから、すでにひとかどの人間になったはずだ、と思い込み、自分と同じように精進に励む仲間と一丸となって、人に対してだけでなく、神に対しても、自分たちを集団的に義と認めさせようと迫るのである。

だが、神はそのようにして人間の振りかざす義を退けられる。神が認められるのはキリストだけだからである。聖書にはこう書かれている、キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(ピリピ2:6-11)

ここに、キリストが神の御前に高く上げられたのは、まさに彼がご自分を徹底的に低められ、十字架の死にまで渡されるほど、低められたためであることが分かる。だから、今日、キリストにならって己を低くすることのできない者が、天の栄光にあずかることは絶対にない、と私たちは言える。

こう考えると、自分の義を人前で捨てることができない人間ほど、哀れな存在はない、と言えるだろう。神の御前で己の義を誇って罪に定められたパリサイ人に連なるよりは、そのパリサイ人に罪人と蔑まれ、神の御前で悔い改めて義とされた取税人に連なる方が、人にとっては幸いではないだろうか。自分の中にはいかなる義もないことを認めて、自力で自己を改造して神に達しようとの努力を一切放棄して、自分自身がどうあろうと、ただ恵みとして与えられた神の義にすがることである。キリストの義こそ自分にとっての義であることを信じて、自分自身の努力によらず、これを信仰によって受けとることである、

贖われてキリストのものとされた信者は、もはや決して人の目に自分がどう映るかという基準で、自分を見たり、規定したりしてはいけない。信者がクリスチャンの世間を気にして、人前に敬虔な信者として自分の見てくれを整えようとすることは、極めて大きな誘惑であり、罠である。贖われた人々であっても、その罠に陥ることはありうる。ひとたび、信者が、神が自分をどうご覧になるかという基準でなく、人の目に、世間の目に、自分がどう映るのかという基準で、自分自身を推し量り始めると、その瞬間に、信者は蜘蛛の巣のように錯綜するこの世の人々の思惑に捕えられて自由を失い、信者に与えられた神の完全な義は曇らされ、信者は恐れの念に駆られて、聖書が教える通りに、神の福音を正確に宣べ伝えることが不可能になってしまう。

だから、信者は、バプテスマを通してすでに水に沈んだものを振り返るべきでなく、死んだものの名誉を気遣うべきではないのである。振り返ってはならないものの中に、信者の過去、信者の自己も含まれている。死体のあるところにハゲタカが集まっていたとしても、そんなものは注意に値する現象ではない。死んだ者には名誉も利益も存在しないのである。キリスト者が真に目を注ぐべきは、バプテスマを通して、水から上がった時に、天から注がれた喜び、神から受けた義認、死を経ることによって内側に生まれた、キリストに連なる新しい人、ちょうどノアが洪水を経て初めて足を踏み出した新しい大地に感動し、紅海を渡ったイスラエルの民が感嘆を込めて約束の地を仰ぎ見たように、信仰の人たちが焦がれ、待ち望んだ天の都を、つまり、キリストご自身を、どこまでも追い求めるべきなのである。信者はこの地上における生涯において、肉体の幕屋の中にあって、絶えず呻きつつ、キリストの十字架の死と復活に同形化されて、軽い患難と引き換えに、天の永遠の重い栄光を得る。それを通して、世人には決して分からない不思議な方法で、御心が成就し、天の御国に収穫がもたらされ、信者自身も主と共に栄光と喜びにあずかる。それが、信者がこの地上で信仰によって患難を通過することの意味なのである。

私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。」(ピリピ1:21-22)

「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るため、目標を目指して一心に走っているのです」(ピリピ3:12-14)

これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです

 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています

 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのですそれゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥とはなさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(ヘブル11:5-16)

2017年2月15日 (水)

地上にあるものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(Ⅰペテロ1:8-9)

今ほど、この御言葉がしっくり感じられる瞬間はないような気がする。

少し前の記事で、筆者は「キリスト者の新しい時代の幕開け」と書いたが、この度、大きなエクソダスがまた一つ達成された。今や聖徒らが、差別と搾取に基づく牧師制度を肯定するプロテスタントと訣別し、キリスト以外にどんなリーダーもいない、信徒一人一人が直接、キリストにつながり、御霊を通して神ご自身から御言葉を教わり、信徒がみな対等な兄弟姉妹としてエクレシアに連なる万民祭司の理念がまさに実現しようとしているのである。

2009年、既存の教会組織に疑問を持ち、真実な信仰を求めて、神だけに従うために出発する多くのキリスト者が出現していた頃、彼らが一様に見ていたのは、まさにこのような展望であった。

つまり、しみもしわもないキリストの花嫁にふさわしいまことの教会の姿を、みな一心に追い求めていたのである。

2000年以上前に、主イエスが地上に来られ、十字架の死と復活を経験され、信じる者に御霊を与えて下さった時に、万民祭司の時代はすでに始まっていた。だが、それにも関わらず、地上に広がったキリスト教界の宗教組織は、常に人間的な思惑に基づき、この世との妥協を重ね、後退を繰り返して来た。

その結果、聖書の御言葉を通して、信じる者に与えられたとてつもない特権、キリストのものとされ、神の子供とされた信者たちが持つ絶大な特権が、常に骨抜きにされ、値引きされ、曖昧にされ、過小評価され、ごまかされ、水で薄められ、掠め取られ、否定され、悪魔に奪い取られて来たのである。地上のキリスト教組織は、いつの時代も、始まるや否や、もう聖書の御言葉から逸れ、御霊の息吹のない、聖書におけるエクレシアとは似ても似つかない、死んだ組織と変わり果てていた。だが、地上の宗教組織が、世と妥協を重ねる一方、そこから出て、聖書に立ち戻ろうとする新たな信仰復興運動も、常に生まれて来たのである。

プロテスタントも、当初は信仰復興運動として始まった。この運動はその名の通り、何よりもカトリックの堕落や腐敗に対する抗議運動として登場し、既存の宗教組織に対する強い疑念のもとに、聖書に立ち返ることを目指して始まった。プロテスタントは、聖書の各国語への翻訳などの事実にも見られるように、それまでカトリックでは聖職者だけが独占していた聖書の真理についての知識を、一般大衆に解放すべく努力し、世界の隅々まで伝道を繰り広げることにより、無学で貧しい人々を含めた世界中のあらゆる人々に福音を宣べ伝えることをその使命とした。プロテスタントは、その興隆の時期が資本主義の発展に重なることにも見るように、大衆向けの大規模伝道を繰り広げ、それによって来たるべきマスメディアの発展の基礎をも築いた。

プロテスタントの中には、義憤に基づく革命的な体制転換の試みと、すでに述べたように、労働に基づく人間の自己変革の試みや、さらに、大規模に大衆に訴えかけるマーケティングの手法などといった、資本主義のみならず、その後の社会主義思想の土台ともなる発想や、現代社会における様々な大衆向けの運動の土台となる発想が山のように込められていたと言えるかも知れない。

しかしながら、そのプロテスタントも時と共に腐敗し、もともとこの運動が持っていた地上的な要素の問題が明らかになった。既存の宗教組織に対する強い抗議の精神は、カトリックなどの別宗派に向けられるだけでなく、プロテスタント内の信者たちにも向けられて、教義や解釈の違いからくる様々な相克や分裂を引き起こした。その結果、プロテスタントの中には、それぞれ異なる教義を提唱する数えきれないほどの教団教派が生まれ、さらにそれらの組織が互いに反目し合って、時には同士討ち的な争いを繰り広げ、教会同士のいがみあい、対立が常態化した。また、マスメディアを用いた一般大衆向けの大規模伝道も腐敗して行き、ペンテコステ運動の指導者のようないかがわしいにわか伝道者たちが、一獲千金のために大衆を欺いて繰り広げる偽りのミニストリーにも、存分に活躍の機会を提供することになった。

プロテスタントは、カトリックが隆盛を極めた時代に、聖職者たちだけによって独占されていた聖書の真理を一般大衆向けに解放するという点では、確かに巨大な役割を果たしたが、その解放は、不完全なものであった。プロテスタントは、カトリックのように統一された強固な聖職者のヒエラルキーを持たなかったものの、牧師制度を肯定していたことにより、神と信者との間に、キリスト以外の目に見える人間を仲介者として置き、信者が直接、神から御言葉を教わるのではなく、牧師という目に見える人間の理解や解釈のフィルターを通して、聖書の真理に接触するようにし向けたのである。

プロテスタントの信者は、特定の牧師の牧会する教会に身を置いている限り、どんなに自分自身で聖書に触れて理解しようとしても、結局、牧師の限られた理解の範疇から出ることを許されず、常に牧師という親鳥が咀嚼してかみ砕いた乳のような餌を、口づてに与えられる幼鳥の立場を抜け出せなかった。信者は教会の中で、もしも聖書について、牧師の理解と異なる主張をすれば、即、異端者として教会を追放されるしかなかった。このような牧師制度が生み出した制約は、信者一人一人の信仰の自主的な成長を妨げ、信者がキリストの身丈にまで達することを著しく妨げる要因となった。

結局、プロテスタントにおいては、聖書の真理が、カトリックの聖職者の独占状態からは解放されたものの、今度は、牧師によって独占され、信徒一人一人が、直接、キリストに結びつき、御霊によって直接、御言葉を教わりながら、キリストにある成人にまで成長するという、聖書によればごく当たり前の真理が、制度的に妨げられたのである。こうして、万民祭司の理念は、謳い文句にとどまり、実現しなかった。

プロテスタントの持つこのような制度的な欠陥のゆえに、やがてプロテスタントという宗派そのものが、聖書の真理を持ち運ぶ宮というより、聖職者階級を支えるための母体と化してしまった。それと共に、プロテスタントの大規模伝道の形態も堕落して行き、それは聖書の真理を忠実に大衆に伝えるものよりも、信者を欺いてこの母体の中に閉じ込める手段と化した。

大衆への大規模伝道を繰り広げることにより、プロテスタントが、全世界の隅々にまで福音を宣べ伝えるという使命を果たした時、この宗派は、それと同時に役目を終えたのだと言えるかも知れない。今やインターネットも普及し、ごく限られた僻地や少数民族を除いて、世界のどの場所でも、非キリスト教国であっても、聖書の福音に触れることは難しくない。

こうして、全世界に福音が届けられた時、クリスチャンの信仰生活には、それまでとは異なる時代がやって来たのである。それは、今までのように、対象を選ばずに無差別的に誰にでも福音が語られる時代から、福音を聞いた者が、聞いた御言葉に従うかどうかによって、一人一人の内面が試されるという時代である。

既存のキリスト教界の組織から脱出する者たちが現れていた当時、一時、「御言葉の飢饉」という言葉がよく聞かれた。それは、フェイクと化した大衆向けの伝道ばかりが巷に溢れる中で、真実、神に従いたいと願う純粋な信者たちが、心から御言葉を宣べ伝える声がほとんど聞かれなくなったという嘆きでもある。

万人に無差別的に福音を宣べ伝える大衆向けの伝道は、全世界に福音が宣べ伝えられた時点で、使命を終えたのだと言えるのではないかと思う。大衆伝道は、福音を知らない地域にいる福音を知らない者たちを対象にしてこそ意味があるのであって、福音を何度、聞いても、真理に聞き従う気のない者たちを対象にするのでは意味がない。また、信者たちが「堅い食物」を自分で採るようになって、聖職者階級を必要としなくなることがないよう、いつまでも信者を霊的幼児にとどめおくために、この世的な舞台演出のちりばめられた各種のいかがわしい大衆向けのミニストリーに引きつけておくのでは意味がない。

こうして、すでに使命を終えたにも関わらず、依然として、続行される無差別的な大衆伝道という手法は、ただ時代遅れであるだけでなく、有害な結果を招くようになった。教会は本来、聖書の神の救いを個人的に信じて受け入れ、贖われた者のためにあるはずにも関わらず、大衆伝道の旗を掲げているうちに、いつの間にか、不信者にも門戸を開き、教会の奉仕の対象が、神から大衆へとすり替わって行ったのである。

大衆伝道の旗を降ろさないために、教会は、御言葉に従順でなく、教会にも福音にも理解を示さない、この世の不信者ら(しばしばカルト宗教の信者)にさえ、自ら歩み寄って、贖われない大衆の利益に積極的に仕えることで、彼らの心を引こうとした。そうした妥協の結果、教会には不信者も数多く入り込み、贖われた者とそうでない者との区別は消え、教会はこの世の人々に対するマーケティングのために、ますますこの世的な手段を公然と駆使するようになり、聖書から遠ざかり、ただ大衆を喜ばせるための単なる奉仕活動の場へと転落して行った。

こうして、プロテスタントの多くの教会からは、世に厳しく罪を指摘して悔い改めを迫るメッセージや、心飢え渇いた信者たちに真にキリストの御言葉の衝撃力を伝えるメッセージが消え、教会は、すべてのものの上に立つかしらであり、一切の権威をこえる権威であるキリストの権威と支配を自ら捨てて、堕落したこの世の支配に屈し、その結果、世の支配下で踏みしだかれて、塩気を失ってしまったのである。

このように聖書から離れて世の方を向き、キリストの香りを失ったプロテスタントの多くの教会に代わって、今や、聖書の真理を担う、新たな信仰復興運動が必要とされているわけだが、その形態は、どのようなものになるのか、少し考えてみたい。

当ブログでは幾度となく繰り返し引用して来たオースチン-スパークスの「私たちのいのちなるキリスト」の一部をもう一度引用したい。

時代が終末――キリストの現れ――に向かって進むにつれて、二つの特徴がますます明らかになるでしょう。

一方において、事物、人、運動、制度、組織などが優勢になり、大衆を引きつけ、群衆をとらえるでしょう。
他方、そうしたものへの失望と幻滅が増大し、少数の人々が主ご自身に立ち返り、彼だけが自分のいのちであることを見いだすでしょう。


こうしたことには三つの要素があるでしょう。

第一は、反キリストの原則の明確なる発展であり、それはキリストに取って代わるか、取って代わろうとするでしょう。

第二は、人造のキリスト教内のキリストご自身の代替物であり、自らの勢いで生成発展する偽りのいのちです

第三は、真実、真理、主ご自身を知る内なる知識を求める、深い純粋な探求です。

第一の場合、人間の力が崇拝され、ヒューマニズムが大いに氾濫し、人の驚異と栄光がたたえられるでしょう。第三の場合は、いのちであるキリストがすべてでしょう。

教え、伝統、制度、運動、人などの何物かにクリスチャンが帰属するなら、必ずいのちが制限される結果になるでしょう。そして、やがて混乱と幻滅が生じ、おそらくもっと悪いことになるでしょう。新約聖書がまごうことなく明らかにし、強調しているように、万物の運命は「キリストがすべてのすべて」となることです。

この短い引用文の中に、奇跡や、お涙頂戴の信仰の証や、名だたる宗教指導者や、ヒューマニズムに支えられる各種の救済事業などを売り物にして、大衆の心を引きつけ、牧師制度を通して、人間に栄光を帰するプロテスタントの大衆伝道のあり方が、今日の終末の時代においては、むしろ、反キリストの支配の手段とされつつある現状を見ることができる。

神に仕えることを第一とせず、聖職者階級と、この世の一般大衆(人間)に奉仕することを何より重んじ、この世の社会を発展させることを目的に、各種の支援活動を繰り広げるプロテスタントは、もはやそれ自体が「人造のキリスト教」と化して、キリストの命を失っているのであり、それ自体がフェイクと言って差し支えない体系になっているのである。そこで一般大衆に提供される「支援」は、神の救いからはほど遠い、地上的・物質的な利益に過ぎず、そこで信者たちが行う熱心な奉仕や学びも、「自らの勢いで生成発展する偽りのいのち」であって、「キリストのまことの命の代替物」でしかない。どんなに信者が奉仕と学びを重ね、鍛錬を積んでも、キリストの真の命とは全く無関係のまま、堕落した「セルフ」は十字架の死を経ることはなく、ますます神に逆らう堕落した人間の自己と欲望が高められ、人類に栄光が帰されて終わるだけであって、そこに神の栄光につながるものは何も存在しない。

このように神への反逆の殿堂と化した「人造のキリスト教」の中から、大衆を苦難から救う救世主を騙る反キリストが登場して来るまで、もうあとほんのわずかな期間を残すばかりである。

これ以上、「人造のキリスト教」についての描写を続けることは無用であろう。それよりも、今回の記事では、「そうしたものへの失望と幻滅が増大し、少数の人々が主ご自身に立ち返り、彼だけが自分のいのちであることを見いだ」し、「真実、真理、主ご自身を知る内なる知識を求める、深い純粋な探求」が生まれるという、後半部分に主眼を置いており、ここにこそ、限りない希望を見いだしている。腐敗した偽りの体系からはエクソダスして、真実、神ご自身を求める信仰者の群れが出現するのである。

信者の人生には、決定的に重要な霊的「エクソダス」の瞬間が幾度かある。それは信者が偽りと知らずに接触して来たこの世の体系からの分離の瞬間である。その「エクソダス」の中には、偽りの宗教体系からの脱出も含まれる。

信者は、キリストと共なる十字架の死を通して、この世に対して死ぬことを知った後も、世と深くつながっている堕落した偽りの体系に知らずに接触することがあり、そのような場合には、真にキリストだけに従いたいなら、偽りと気づいた瞬間に、そこから自らを分離せねばならない。この分離は、信者が神に逆らう全ての思想から自分自身を分離することを意味し、必ずしも物理的・地理的な脱出を伴うものではない。

筆者のこれまでの経験からも言えるのは、信者の「エクソダス」の瞬間には、嵐のような多くの激変や圧迫が観察されることである。偽りの体系は自らの奴隷を一人でも逃がすまいと追っ手を遣わし、信者の人生には、しばしば、未だかつて起きなかったような圧迫がもたらされる。だが、モーセが民を率いてエジプトを脱出する際に、どれほどの苦労を払わねばならなかったかを考えれば、それは全く不思議な現象ではなく、さらに、それは信者が心を騒がせるに値する事件でもない。信者を引き戻そうとする全ての圧迫にも関わらず、御言葉の真実のゆえに、信者を「マトリックス」につないでいたへその緒は全て断ち切られ、ファラオの軍隊は水に沈み、エクソダスは完了するのである。

さて、2009年当時は、日本各地に、代償を伴う厳しいエクソダスの過程を経て、キリストに贖われた信者たちが、まるで若々しい新芽のように、あちらこちらに出現していた。その後、激しい暴風雨と、生い茂るいばらとあざみと、荒らし回る獰猛な野獣の中で、この新芽が消え去ったのか、それとも、やがて来るべき豊かな実りに備えて、地中深く根を下ろしながら、時を待っているのか、今はまだはっきりとは分からない。だが、いずれにしても、筆者は思うのである、もし信者が一度、神のために自分の生涯を残らず捧げる決意をしたならば、その召しは決して変わることはなく、たとえ自分の召しが分からなくなったように思える時でも、その約束は、神が覚えて下さり、その使命を果たすために必要な条件を神ご自身が整えて下さるだろうと。

「私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください」」(イザヤ6:8)

すでに書いたように、キリストのものとして贖われ、救いの確信があるからと言って、その信者には、常に神が分かるわけではない。神は遠くにおられるように感じられることもあれば、沈黙しておられることもある。黙示録を書いたヨハネも、パトモス島にあって、絶えず啓示を受け続けていたわけではない。偉大な霊的啓示が絶えずひっきりなしに信者の人生に注がれると思うなら、それは間違いであり、多くの沈黙の時、待ち望みの時、忍耐の時がある。啓示によって明白に示された真理さえ、自分の内に失われたかのように感じられる時がある。そして、信者が神を知ることができるのは、ただ霊の内だけであり、それはしばしばかすかな御声であり、信者の肉的な思いがこれをかき消してしまう。信者の人間的な感覚は神から絶えず離れており、神を知るのには役立たない。

だが、それにも関わらず、主に贖われた者が、神から引き離されることはなく、主を知る知識を切に求め続ける信者の純粋な探求と、神がどこにおられるのか分からないと言って、自己の外に神を探し求める人々の探求には決定的な違いがあると言えるのである。

それは、我々、聖徒らの心の内深くに、神に対する尽きることのない愛が、絶えず存在していることからも言える。見たこともない方をどうして信じ、愛し、崇めることができるのか、それは人には説明できない事柄である。我々は、肉眼で見るようにキリストの姿を見たり、耳でその声を聞いたり、この手で触れたりするわけではない。だが、それにも関わらず、キリストに思いを向ける時、この方が確かに生きておられ、我々の救い主であり、力強い助け主であり、世の終わりまで共にいて下さり、決して我々を見放されることはないということが、自然な水の流れのように、信仰告白として口をついて出て来るのである。

「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(Ⅰペテロ1:8-9)

我々は、主を見ていないが、心から愛しており、再び地上に来られる姿を見ていないが、戻って来られることを信じており、主を待ち望むという召しに、心から光栄と喜びを感じている。

私たちは、自分の外に神を求めて探し回る必要はない。キリストは、信仰を通して、信じる者の内側に住んで下さり、御霊を通して、ご自身を現して下さるからである。そして、この方が信じる者に提供して下さっている完全な義、完全な贖い、完全な聖は、信仰を通じて確かに私たちのものであり、そして、やがて来るべき世で、神が私たちのために備えて下さっているはかり知れない相続財産のことをも、私たちは知っている。それらのはかり知れない恵みと、絶大な特権のゆえに、ただおそれかしこみつつ、喜びを持って、私たちは主を褒めたたえることをせずにいられないのである。

この尽きせぬ喜びと、賛美と、神に栄光を帰することが、私たちが確かに贖われた者であることを教えてくれる。神は我々にとって真にリアリティなるお方であり、まるで雛鳥が親鳥を見分けて鳴き、狐が自分の巣に帰るように、私たちは、喜びに満ちた確信を持って、この方こそ我々の創造主であると告白し、自分がこの方に確かに結ばれており、キリストのものとされていることを大胆に告白することができる。私たちは、すでにすべてのことを知ったなどとは言わない。キリストを十分に知ったとも言わない。ただキリストを知る知識をますます深く追い求めてはいるが、それでも、「神はどこにおられるのか」と言って、自分の外に神を探し求めたりはしないのである。

パウロは言った、「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。

それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。

私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それをちりあくたと思っています。

それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」(ピリピ3:7-9)

信者にとっては、キリストを知る知識の絶大な価値のゆえに、キリストを知る以前に持っていた全てのものは無価値となってしまう。キリスト以外の一切のものが「損」になるだけでなく、「無」にすらなる。これは、信者がキリスト以外のいっさいのものを「無だと感じている」とか、「無とみなそうとしている」ことを意味するのではなく、実際に「無になる(=無効化される、影響力を全く持たなくなる)」ことを意味する。

パウロは贖われる前に、人間的な観点から見れば、他の誰にもまして、誇るべきものを持っていた。生まれも、育ちも申し分なく、優れた業績や、落ち度のない立派な行いを誇ることができた。しかし、そのような「キリストを知る以前の自分自身」は、キリストと共に十字架につけられた時、一切合切、無いものとして墓の向こうへ追いやられたのである。

エクソダスの瞬間を超えたことがある信者ならば、きっと分かるであろうが、このようなことは、人が自分自身の力で達成できることではない。キリストと共なる十字架の死が適用されるまで、信者はあくまでこの世の人間であり、自分の生まれや、育ちや、知識や、経験や、能力や、業績や、世間からの評価や、地上的なつながりといった、ありとあらゆるこの世的な要素を引きずって、それらにより頼み、それらを心に留めて、そうした地上的な要素こそ、自分自身を形成するのだと思って生きている。それは、あまりにも深く慣れ親しんだ世界なので、それ以外の世界があり得るとは想像もできず、また、そこから自分自身の意志で脱出・分離するなど、到底、無理な相談である。

だが、信者に御言葉への信仰に基づいてキリスト共なる十字架における死が適用されると、それが実際となって成就した瞬間から、信者は、そのような地上的な要素が、自分に対して死んでいることを理解するのである。自分自身で何かを捨てようと努力するのではなく、かつて自分を構成していたこの世の要素が全て水に沈み、すでに完全に手の届かないところに去って、自分の思いや感情に触れなくなるのが分かるのである。

だから、信者がこの世においてかつてはあれほど大事にしていた地位、名誉、評判、業績、信者がこの世の人として持っていた過去の記憶や、この世の人々からの意見や評価や賛同などが、どんなものであれ、完全に「墓の向こう」へ行ってしまい、気にすべき事柄でなくなり、それがたとえ自分に関することであっても、信者の関心の対象でなくなり、聞かされても、思いに触れず、まるで他人事のように感じられるのである。

ちょうど死んで墓に入ってしまった故人が、自分についてこの世の人々の間でどんな会話が交わされていようと、一切、それを感じることも、注意を払うこともできないように、キリストと共に死んで神の内に隠されているキリスト者には、かつて自分自身であったものも含めて、この世の事象が触れることができなくなるのである。

そして、かつての地上的な出自に代わって、今度は、キリストにある者としての天的な出自が、信者にリアリティとして迫って来る。「もはや、私ではなくキリスト」となるのである。むろん、信者がキリストに変身するのではなく、信者の内に住んで下さっているキリストを、信者自身が見るわけでもない。それでも、信者の心の中に、もはや「私」はなく、キリストが住んで下さり、生きておられることを信じることができるのである。

信者は、たとえ復活の命の何たるかがまだよく分かっていなかったとしても、キリストの死を通して、自分に対する神の贖いが永遠に達成されており、自分がキリストのものとされていることが分かる。信者にはもはや「足りない」ということがなく、「取り返しがつかない」こともない。キリストにあって、信者はすべてに満たされている。だから、感謝を持って心に言うことができる。

主よ、あなたのためならば、私には何も惜しくはありません。
あなたのために、私が留保しているものはもう何もありません。
主よ、私の若い頃からの約束を覚えて、心に留めて下さい。
私は生涯、あなたのためだけに、捧げられた供え物であり、
もはや自分自身のために生きておりません。
あなたの栄光のために、私をお使い下さい。
私自身と、私の生涯は、残らずあなたのためにあり、
私は、あなたのものなのです。

信者は、命を投げ出して自分を贖って下さったキリストへの心からの応答として、愛を持って自分を捧げることができる。主と共なる十字架において自分に死んでしまえば、もはや留保しているものはなくなり、自分の生涯そのものを神への捧げものとして惜しむことなく差し出すことができる。

だが、それは決して人間的な思いに基づく情緒的な魂の愛の結びつきではないのである。その決意は、代償を伴うものであり、生涯に渡る御言葉への従順を通してしか達成できない。

イザヤ書では、「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」と応答した預言者に衝撃的な言葉が告げられる。神の言葉を携えて世に出て行く預言者が、高貴な存在として、大衆に歓呼して受け入れられることはない。大衆が預言者の言葉を聞いて悔い改め、素直に神に立ち返ることで、大きな喜びと収穫がもたらされるとは、神は言われなかった。むしろ、逆の事柄が告げられたのである。

「行って、この民に言え。
聞き続けよ。だが悟るな。
 見続けよ。だが知るな。』
 この民の心を肥え鈍らせ、
 その耳を遠くし、
 その目を堅く閉ざせ。
 自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。」(イザヤ6:9-10)

これは旧約の時代も、新約の時代も変わらず同じである。神の言葉を託されて世のもとへ遣わされた預言者を、世は受け入れない。神の独り子として世の罪を贖うために遣わされた尊い小羊を、世は拒み、十字架につけて殺したように、イエスの弟子たちをも拒み、迫害した。世は何度、福音を聞かされても、己が罪から目を背けるために、これを拒み、イエスの復活の証人たちを憎み、排斥したのである。そうしたことが、今日になったからと言って、変わることは決してない。

だから、世人に福音を告げるというのは、すべてのキリスト者にとって命がけの召しであり、何らその個人にとって感覚的に喜ばしい、栄誉をもたらす光栄な使命ではない。この事実を見るにつけても、キリスト者の道は、大規模大衆伝道を通して、大衆と一体化して、この世の人々と手を携えて歩むことには決してないと分かる。

キリスト者は、復活の証人として、イエスの復活を、また、自分自身も信仰を通してイエスと共に死と復活にあずかっていることを、大胆に世に向かって語り続ける。しかし、世はそれを信じず、受け入れもしない。

だから、キリスト者は、世へ理解を求めず、絶えず神に向かって行く。世が神の言葉を受け入れない分、なおさらのこと、ただ一心に神に向かって行くのである。神は、贖われたキリスト者を、二度と世の友、世の奴隷として遣わされることなく、むしろ、ご自分の器として民の間から聖別して取り分けられる。キリスト者と世との間には、十字架が、永遠に交わることのない隔たりとして立てられている。

このようなことを聞くと、世人は言うであろう、「一体、それは、何のための救い、何のための贖いなのでしょうか。キリストを信じたがために、世から拒まれ、理解されなくなり、迫害されるのでは、信じた後では、信じる前より、生きることがより一層、苦しくなるだけで、どこに信じることのメリットがあるんですか。その上、過去に積み上げ来た業績も無になるのでは、神のためにすべてを捨てたキリスト者には、一体、何が残るのでしょうか。そんな人生に、どんな満足があるのでしょうか。」

世人にどんなに分からなくとも、キリスト者には何も残らないのではなく、「私」ではなく「キリスト」が残るのである。そして、それこそが、キリスト者にとってのはかり知れない満足である。なぜなら、この方にこそすべてが満ちているからである。キリスト者は、もはや自分自身の満足のために生きておらず、神の満足のために、神の栄光のために召し出された者であり、主と共に十字架の死によって、すでに水の中に沈み、分離したものを取り返したいとは願わないのである。

神の御心は、やがて万物がすべてキリストに服すること、「イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられる」(ピリピ2:10-11)ことにこそある。

クリスチャンはすべてのものがキリストに服する来るべき世に向けて、「神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われた」(黙示14:4)者たちである。ここに「人々の中から」贖われたと書いてあり、「人々と共に」ではないことに注意したい。キリスト者は、世に対して死んだ者として、世人とは一線を画し、ただ神と小羊のためだけに、世から取り分けられて、召し出された人々である。だから、クリスチャンは福音を世に向かって語ることはしても、決して世と同化して、世人の利益に仕える僕とはならない。贖われた者はどこまでもただキリストの僕であって、もはや自分自身のものでさえないのである。

「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。

キリストはすべての支配と権威のかしらです。

<…>あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです」(コロサイ2:8-12)

こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。

あなたがたは地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
なたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです


私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。」(コロサイ3:1-4)

2017年2月14日 (火)

全信者をプロレタリア化してこの世の堕落したバビロン体系に仕える奴隷とするプロテスタントの誤った理念から、愛する御子キリストの支配の中へのエクソダス

さて、一つ前の記事では、「信者は世俗生活において労働を通じて社会貢献を果たし、自らの天職をまっとうすることで、神に奉仕でき、キリスト者としての召しを全うできる」というプロテスタント独特の考えが誤っていることを書いた。

プロテスタントにおける以上のような(天職としての)「労働」という概念は、社会への貢献や奉仕という、表向きの輝かしい名目とは裏腹に、その実、信者の奉仕の対象を、巧妙に神ご自身ではなく、人間社会(この世)にすり替えるものであり、すでに書いた通り、その労働が生み出される動機も、神への愛に基づくのではなく、むしろ、それは自分が神に救われているかどうかが分からないという状態にあるプロテスタントの信者が、自己の抱える不安や恐怖から目をそらそうとして生み出す現実逃避のトリックでしかない。そこで、そうした文脈における労働は、神からの逃避にはなっても、神のための奉仕として実を結ぶことはなく、信者の状態を真に変えて神へ近づけるきっかけともならないのである。

つまり、プロテスタントにおける以上のような労働の概念は、何かが決定的に狂っており、おかしいのだと言える。その労働は、信者の神への奉仕としてなされるものでもなければ、隣人愛からなされるものでもない。むしろ、「神が分からず、救いが分からない」という不安に苛まれている信者たちが、死後、神のさばきの座に立たされる瞬間まで、地上生活で感じるあらゆる不安や恐れを少しでも和らげようと、この世における人間社会の生活に埋没し、そこで人々に熱心に奉仕することによって、内心の救いの確信の欠如を、善行などの外側の立派な行動によって補い、神から承認を受けられない分を、この世の目に見える人間からの承認や賛同によって埋め合わせようとして行う、目くらましのような時間稼ぎであり、アリバイ工作のようなものでしかない。

そんなプロテスタントの信者にとっては、世俗生活における労働だけでなく、教会生活における奉仕と献金さえも、「自分は神に救われていないかも知れない恐怖」を紛らすために行われる。

本来、信者の地上の組織としての教会への所属は、外見的な要素に過ぎず、それはその信者が真実、救われて神に受け入れられているかどうか、天のいのちの書に名が記されているかどうかをはかるものさしとはならない。ところが、プロテスタントの多くの信者は、教会に所属し、牧師の説教を熱心に聞き、熱心に献金と奉仕を行なうことでしか、自らの信仰を維持できないと思い込んでおり、教会への所属を失えば、自分は道に迷って信仰を失い、救いから漏れ、神に見捨てられて悪魔の虜とされるだけであるかのように思って怯えている。

そのような転倒した考えがなぜ生まれるのかと言えば、プロテスタントの教義上の欠陥のせいで、この宗教の信者たちの大半には、もともと救いの確信が内側に無く、その得られない確信を、手っ取り早く他者(牧師や他の信徒たち)からの承認へと取り替え、一体、神が自分に何を願っておられるのか、神の御心が分からない分だけ、自分たちの熱心な奉仕活動によって、自分が救われた人間であることを、人前にアピールし、客観的に証明することで、埋め合わせようとしているからであり、教会をそのようにして自分の正しさを証明するための場としてとらえ、教会への所属を捨てられないからである。

このような信者たちにあっては、この世における労働も、教会における自己の正当性の主張と基本的に同じ動機で行われる。つまり、全ての奉仕は、信者たちが、自分は贖われた新しい人であることを世間にアピールすることで、自分の内に欠如している内的確信を、外側における自分の立派な行動と、世人からの承認によって補うために行われるのである。

こうした人々の中では、救いの確信について、完全に転倒したさかさまな思考が出来上がっていると言える。彼らは救いの確信を、人が信仰を通じて、個人的に心の内側に神に直接啓示されて得るものではなく、自分の行動や、人からの評価や承認などといった、外的な、地上的な要素によって確認可能なものであるかのように考えているのである。

彼らは、神の救いを、まるで企業が社員に配る社員証のように、教会などの団体に所属していることによって、集団的に保障されるものであるかのように思い込んでいるのである。

こうした信者たちは、教会への所属という外側から目に見えるバッジによって、内的確信の欠如を補うべく、熱心な奉仕活動(労働)を行い、自分に(偽物の)救いのバッジを与えてくれる団体に熱心に仕えようとする。だが、そのバッジは、聖書に記された神の真実な救いのように、信仰に基づいて、信者に一度限り永遠に与えられるものではなく、信者が熱心な奉仕活動を絶え間なく継続することによってしか貸し出されないものである。

そこで、プロテスタントの信者たちは、救いの確信がない不安を、人の目に正しいと認められる活動によって補おうと、教会の内・外に関係なく、どこにいても、自己の本質(不安や恐怖や罪悪感)を紛らすための奉仕活動にいそしまざるを得なくなる。だが、こうした動機からなされる彼らの労働は、自分自身の不安を覆い隠すために行われる自己欺瞞であって、神や人への奉仕ではないのである。

マックス・ウェーバーが書いたように、プロテスタント特有の現実逃避願望としての労働を奨励する思想が、本当に資本主義の発展に貢献したのだとすれば、そのような文脈における「発展」は、人間にとって真に望ましいものとは言えず、むしろ、資本主義そのものが、プロテスタントの信者の奉仕と同じように、人類全体が自己の恐怖から逃れ、自己の本質を偽るために生み出された壮大なフェイク、現実逃避のしかけでしかないということになろう。

クリスチャンであれば、この世の経済体系が、悪魔の支配下にある堕落したものであり、経済のみならず、文化的にも、この世の全ての体系が、堕落した複合的なバビロン体系であることは否定しないものと思うが、資本主義もその一部であり、それは人類の現実逃避願望から生まれて来た偽りの「マトリックス」であって、信者・非信者を問わず、真理から目を背けたい人々が互いに寄り集まって、神から遠く離れて堕落している自己の罪なる本質を覆い隠し、自己の惨めな姿から目を背け、自分は正しく立派な人間になろうと不断の努力をしている善人であるから、神も人も一目置かざるを得ないはずだと、互いに誇り合い、虚飾の外見を見せ合って、それをあたかも本物であるかのように承認し合い、慰め合うために作り出されたフェイクの体系なのである。

人類が飽くことのない経済発展を目指すのは、そのような偽りの努力の果てに、社会を向上させ、いつかは理想状態にたどり着き、神に至ることができるという驕りがその思いの根底に存在するからである。

このように、この世の偽りのバビロン体系は、人類が自らの努力によって社会に理想状態を来らせることができるかのような幻想に基づいて出来上がっており、そこで労働を通じてこの体系に仕える人間は、たとえるならば、フェイスブックのようなSNSに没頭する人間のようなものである。孤独な人間がある日、SNSを開設し、そこにとりわけ良く撮れた自分の写真や、耳障りの良い言葉の数々を並べて、面白い話題をちりばめて記事を作り、たくさんの「いいね!」をもらえば、何かしたような気になって、孤独も紛れる。だが、そのようにして飾り立てた写真は、本人の偏った不真実な姿しか示しておらず、耳障りの良い美しい言葉をどんなに並べても、それは人の内面を1ミリたりとも変える力とはならない。しかも、「いいね!」のほとんどは、義理で押されたお世辞の賞賛に過ぎず、「友達」の大半は、久しく現実生活でコンタクトも取っていない縁遠い人々であり、どこで出会ったかすらも思い出せないような人々も数多く含まれている。

SNSの内容が現実から乖離していることは、本人も重々承知であるが、それでも体裁を保つためには、果てしなく友達承認を続け、記事を書き続けるしかない。こうして、現実とは似ても似つかない、虚飾にまみれた、偏った、偽りの「マトリックス」が出来上がり、そこでは、誰もが自己の正しいイメージを見失って、虚像が独り歩きして行く。当初は人間が自己の満足のために始めたものであっても、途中からは、人前で自己の「有用性」や「幸福で理想的な状態」を絶え間なく証明しなければならないという強迫観念のせいで、やめたくてもやめられなくなり、最後にはすっかりSNSの奴隷状態となり、捏造してでも自慢話を披露して、「あらまほしき人間像」の演出を永遠に続けねばならない羽目に陥るのである。

プロテスタントにおける労働の奨励はこれによく似ている。ここで言う労働とは、ただ単に人が己を養うためだけに働くという単純な概念ではなく、家族を養ったり、自分の適している職業に従事することで幸福を得るというものでもなく、「天職を通じて神の召しを果たす」という、何やらよく分からない概念であり、そのような概念としての労働は、内容が規定されていないだけに、本人にとっても、とてつもない重荷になりかねない。

しかも、「神が分からない。救われているかどうかさえ分からない」という不安を抱える信者たちが、自己の不安を紛らすために、「天職を通じて神の召しを果たす」ことに励むのであるから、一体、そんなことがどうして可能だろうか。それではまるで現実生活の重荷から逃れて空想の中で気を紛らしたい人々が、SNSに集まって繰り広げる果てしない談話と同じく、神が分からず、自分が分からず、自己の本心と直面することを恐れ、自分に対する神の召しが何であるかすらも分からない人々が、ひたすら神を無視して、神を抜きにして、神を納得させるために行う、独りよがりな、自画自賛の、自己欺瞞の活動でしかなくなる。どんなに努力しても、そのような現実逃避的な動機からなされた奉仕や労働が、神の御心にかなう成果をもたらすことはなく、真に人類の幸福に寄与するものになることもないであろう。

筆者は個人的に、プロテスタントにおける労働奨励の理念を、「全信者のプロレタリア化の理想」と呼んで差し支えないのではないかと考えている。

プロテスタントの教義の中には、プロレタリアートという言葉こそ使われていないものの、もともと「労働を通じて社会貢献することで、人間は神の召しに応え、贖われた新しい人間としての生き方を提示できる」という発想があり、この宗教の中には、社会主義思想の登場以前に、「すべての信者をプロレタリアート化することで、神の国を到来させることが可能になる」という、発想がすでに提示されていたのであった。

一般に、プロテスタントの信者は、教会の中においては、聖職者階級を支えるための道具(労働力)として自分を差し出し、教会の外においても、社会を発展させるための道具(労働力)として自分を差し出す。

プロテスタントの信者は、このように、教会の内外を問わず、どこにいても熱心に労働や奉仕に励み、常に自己吟味を重ね、少しでも自分の目に、また、周りの人々の目に、自分をあるべき人間と認めさせるために必要な努力や学習を惜しまない。彼らはそういう努力が、神の召しに応える行為であって、神の国を地上に到来させる秘訣であるかのように思い込んでいる。

そして、このようなプロテスタントにおける「全信者のプロレタリア化」の精神こそ、資本主義の発展の原動力となったのであり、さらには、この精神を受け継いで、社会主義思想も生まれたのである。

共産主義ユートピアという発想は、それ自体、聖書における神の国の悪魔的模倣なのであるが、労働を通じて人間が自己を改造し、理想的な人間に近づけるという共産主義の理念は、もとを辿れば、その土台はプロテスタントの「天職を通じて神の召しを全うできる」という考えにあったのではないかと思われてならない。

ここで注意すべきは、筆者が、共産主義における労働の概念だけが間違っているのではなく、プロテスタントにおける労働の概念も同じほど非聖書的で間違っていると考えている点である。

筆者の見解では、労働を通じて人が自己改造して理想状態に近づくことができるという考えは、思想・宗教の形態を問わず、根本的に全て間違っている。なぜなら、労働を通じて自己改善できるという考えは、肉体改造を通じて人の自己を変革しようとするのと同じく、外側から人間を改造する試みであり、内側からの変革ではないからである。それゆえ、これは聖書の真理のベクトルとは完全に逆なのである。聖書の提示する人間の変革は、常に信仰を通じて、人間の自己の内側(霊)からなされるものであり、人間の外にある影響力を通してでなく、その人の内側で、神との個人的な交わりを通してなされるものだからである。

労働を通じて信者が神の召しに応答し、理想的人間に近付けるというプロテスタントの理念が誤っていることの証拠の一つとして、プロテスタントの「全信者のプロレタリア化」の理念は、教会の中においては、牧師制度のような聖職者階級のヒエラルキーをより一層、強化・固定化する材料となり、教会の外においても、バビロン化したこの世の経済体系の差別や格差を助長・固定化するのに大いに役立ったことが言えよう。熱心な奉仕や労働それ自体は、人の目にあたかも良いもののように見え、他者への愛や思いやりに基づいて行われるかのように見えるかも知れないが、それが結局、社会における差別や搾取をより一層、強固に固定化する要因になっているならば、果たして、そのような「労働」や「奉仕」が本当に社会に貢献していると言えるであろうか?

さらに、このような観点から、もしもクリスチャンは社会的弱者に対して冷酷だとか、差別を助長しているなどといった非難が浴びせられようものならば、プロテスタントの信者たちは、早速、今度は、その罪悪感を払拭するために、社会的マイノリティの救済のための各種の事業に乗り出して行く。

だが、こうした他者への奉仕が行われる動機は、全て信者が自己の内側に持っている拭い去れない不安や罪悪感をごまかすためであり、神との関係で救いの確信を持てない信者が、人との関係において自己の正しさを主張するために行われているのである。このような動機では、どんなに他者のための奉仕を装っていても、その労働は神への従順や、隣人愛から出た行動ではなく、すべては結局、自分のためであり、しかも信者が自己の本質から逃避するために生み出された自己欺瞞の活動でしかないのである。

だから、どんなにプロテスタントの信者が「天職」や「社会貢献」といった言葉で美化しようとしたとしても、こうした信者たちの行う奉仕や労働の目的は、本質的に、神からの逃避、自己からの逃避、自己の本質を偽ることにあり、そのような逃避行動に熱中すればするほど、その信者たちは、神に近づくどころか、ますます神から遠ざかり、本当の自分自身が分からなくなっていく。

プロテスタントの信者たちの世俗における労働だけではなく、彼らが作り上げる「教会」も、彼らの(贖われていない)魂の状態から来る心の不安や恐れを覆い隠すために作り出される現実逃避であり、巧妙な「マトリックス」の一環なのである。

こうした信者たちは、この世においても教会においても、自ら作り出した「マトリックス」に埋没し、そこで何らかの「役割」を演じることで、自分の真の姿から目を背ける。そして、自分は他者に奉仕しており、他者にとって「有用」な人間であるから、あるべき状態にあって、価値を持つ人間であると考え、これを救いの代替物として、自分は神の御前で単独では何者なのかという恐怖に満ちた問いと直面することを避けるのである。

信者は絶え間なく自己の外側での活動に熱中し、他者との関係に埋没することにより、神が分からないことからくる自己の不安、恐れ、罪悪感などから目を背け、そうした意識のせいで感じられなくなっている自己価値を、自分自身の善行や、他者からの承認や賛同といった外的な要素に置き換えるのである。

信者たちは教会や社会の中で、奉仕や労働を通じて「役割」を果たし、その役割を通して作られた自分のイメージを自分自身(もしくは自分に対する神の召し)にすり替え、自らが果たしている役割に他者からの承認や評価を受けることで、人の目から見た評価を、自己価値とすり替えるのである。こうして、他者との関係性の一切ない、ただ神と差し向かいで、神と自分しかいないところで、自分とは一体何者なのか、自分の価値とは何なのか、自分は本当に贖われているのか、神に受け入れられているのか、罪は赦されているのか、神は一体自分をどうご覧になり、自分に何を求めておられるのかといった一連の疑問と向き合うことを避けるのである。表向きには、神の召しに応じることを口実にしながらも、その実、ひたすら人間社会の生活に埋没することにより、神ご自身と向き合うことを避け続けていると言って良い。

こうして、プロテスタントは、信者が差し向かいで神とだけ向き合い、人間を通してではなく、ただ聖書の生けるまことの神ご自身を通して、聖書の御言葉の意味を理解し、キリストを内に啓示され、キリストの義と聖と贖いを、神が自分のために個人的に備えられた確かな恵みとして受け取るのではなく、むしろ、そのような揺るぎない救いの確信は、生きているうちに得られるものではないとして、信者が神と向き合わないために得られない救いの確信を、この世の人々に奉仕し、人から受ける承認や賛同によって埋め合わせることができるかのように教え、神と出会ってさえいない、贖われたかどうかも分からない信者が、熱心な奉仕や労働によって、あたかも神に近づけるかのような、偽りに満ちた教義を提示するのである。

だが、どんなに信者たちが行いによって自分を正そうと努力しても、外側の事柄は決して内側の事柄に取って代わらず、外側の目に見える人間の客観的な評価が、人の内的な自己価値を決めるわけでもない。どんなに人から承認を受け、社会で立派な役割を果たして、自他共に満足したとしても、その満足は麻酔薬のような束の間の効果しか持たず、人が内心で抱える根本的な恐怖や不安を寸分たりとも払拭する効力を持たない。真のリアリティは、信者の外側で起きることにはなく、内側で起きることにある。

しかしながら、プロテスタントの教義には、もともと神の御心をとらえがたいものとみなし、人間の価値を、神との関係性において規定されるものではなく、人間同士の関係性を通して規定されるものであるかのようにみなし、信者が神にとって有用な人間になることではなく、目に見える他者にとって有用な人間になることを、神の召しに応えることと同一視するという著しい概念のすり替えがあった。

その概念のすり替えこそ、プロテスタントの信者たちを誤謬に向かわせた最大原因なのであり、そのような転倒した文脈で信者に奨励される奉仕や労働は、結局、信者を人間の利益のために道具化する効果しか生まず、プロテスタントは、信者が人の目に有用と認められる奉仕を続けることにより、神の召しに応えられるかのような偽りを教えることで、信者の存在を、神の目に絶対的に尊い存在ではなくして、社会において役割を果たし、人間の目に有用性が認められることにより、相対的に信者としての価値が高まるかのようにみなし、こうして信者を人間の利益と欲望を叶えるための道具に貶めてしまったのである。その結果、教会の中にも外にも、神の召しや新しい人間などという言葉からはほど遠い、人間の欲望にまみれた現実逃避のマトリックスとしての一大バビロン体系が築き上げられたのである。

筆者は、このようなものが「信仰生活」であるとは考えていない。この生活の中には、ただ人類の利益だけがあって、神が不在である。

こうした文脈における労働の概念には、神の国とか、神の召しだとか言った高尚な言葉よりも、むしろ、囚人の懲罰労働のイメージの方がよく合っている。

自分が確かに救われて神に受け入れられていると信じることのできる人々は、神のさばきを恐れることなく、救いが失われるのではないかという不安や恐怖に苛まれることもなく、自分が他者に奉仕しているかどうか、他者から承認や賛同があるかないかに関係なく、安息していられる。自らの内心の恐怖から逃れるために、絶え間なく外側の活動に熱中して労働に従事したり、自らの努力によって、自分がいかに素晴らしい人間であるかを社会に言い聞かせる必要もない。

だが、自分が確かに救われているという確信がなく、キリストの贖いの完全性を信じられず、自分が罪赦され、神に受け入れられているという確信のない人間にとって、この世における生活は、自分に対する神の厳しい審判と罪の結果としての刑の執行を待つための恐怖に満ちた時間でしかない。そこで、神の恐るべき審判を待つための待合室でしかない地上での厄介で心苦しい時間をどうやってやり過ごすかということが課題になる。

救いの確信の欠如した人々は、この恐れを紛らすために、互いに寄り集まって、慰め合い、自己肯定し合うための各種のもっともらしい奉仕活動を生み出し、これを贖罪行為として、互いに仕え合うことで、自分は罪の償いを果たしたのだと自他に言い聞かせようとする。だが不思議なことに、その罪の意識は、決して真実、人の罪を赦す権限を持っておられる方には向かわず、むしろ、罪を赦す権限のない罪人同士の告白のし合い、傷の舐め合い、慰め合いという形で終わって行くのである。

こうして、互いに内心の恐怖を抱える人間同士が、神から逃避するために集まって慰め合うために行われる奉仕や労働は、神や隣人への奉仕にはならないどころか、それは人が自己の罪なる本質から目を背け、他者との関係性の中で偽りの自己像を作り出すことによって自己を欺き、内的な救いの確信がないのに、自分は贖われた正しい人間であると自己の正当性を主張しようとする「イチヂクの葉同盟」でしかなく、それは人類が神に逆らって、自力で自分を贖おうとする神の最も忌み嫌われる反逆的な「バベルの塔建設の試み」でしかないのである。

問題は、一体、信者は誰のための奉仕者、誰のための労働者なのか、という点にある。プロテスタントの信者が、牧師一家の生計を支えるために、あるいは組織としての教会の拡大のために、熱心に奉仕と献金に励むことと、信者が神の召しに応答し、神に仕えることは完全に別の事柄である。また、信者がこの世の不信者を助け、この世の社会を発展させるために熱心に労働に励むことと、神の召しに応答することは必ずしも同義ではない。何よりも、これらの奉仕の対象は、常に人間であって、神ではない。

パウロは自分自身を「キリストの奴隷」と呼んだが、今日のプロテスタントは、信者を「キリストの奴隷」よりも「教会組織の奴隷」、「聖職者の奴隷」、「社会の奴隷」、「この世の奴隷」に変えようとする各種の運動を生んでいる。

かつてプロテスタントには、ハドソン・テイラーのような宣教師や、ジョージ・ミュラーのような信仰の偉大な先人たちが存在し、そうした信仰者たちは、大衆を対象とする大規模な伝道や、困っている孤児たちを信仰によって養うという、一見、社会奉仕活動にも似た活動を行った。

だが、世が終わりに近づけば近づくほど、そのように大衆の心を動かして社会に変革をもたらす偉大な信仰者の時代は過ぎ去り、むしろ、大衆受けするものの中に潜む「セルフ」の堕落が、この上なく明らかになって、ますます「セルフかキリストか」の厳しい選択を信者一人一人が迫られることになっているように感じられてならない。

今日、一般大衆に大規模に影響力を及ぼそうとする全ての活動は、反聖書的で、堕落したものであり、たとえクリスチャンの活動であっても、大衆の心を掴むことを目的にし始めた時点で、神に向かう純粋な信仰から逸れてしまう。

さらに、目下、世界経済が行き詰まりを迎えていることは、誰も否定しない事実であり、そこで従来通りの考えで、大衆を喜ばせ、「社会を発展させる」ことを目的に労働に従事したとしても、かえってますます矛盾が深まるだけであることは、誰しも気づいていることであろう。現在の我が国において、年金制度は崩壊に向かい、税は正しく運用されず、国富はまるでATMのように米国へ注がれ、吸い取られている。マスコミや、大学や、政府からは、良心的な知識人が次々と排除され、権力を批判する言論は封殺され、人々の良心の声は踏みにじられ、犠牲とされている。この国はすでに社会主義国と何らか変わらない歪んだイデオロギーに基づく偽りの社会となっており、あたかも一般大衆の信任を得たかのように、公の場で繰り広げられる運動は、ことこどく虚偽と化しているという印象を受けざるを得ない。

このような現状で、人がただ社会の発展のために己を労働力として差し出して生きるだけでは、実際には何の社会貢献にもならず、そのようなことが決して人の使命ではなく、正しい生き方でもないということは、多くの人々がすでに理解しているところであろう。

むしろ、この状況下で、人がただ黙って労働に従事することは、バビロン体系とそのイデオロギーを延命させる措置にしかならず、それは「一億総プロレタリア社会を作り、労働を通じて自己改善することで、理想社会を到来させよう」という、神に逆らう人間中心の歪んだイデオロギーを、人が無意識に肯定し、自らをその「マトリックス」の発展の礎として捧げることにしかつながらない。

そんな奉仕や労働を通して、クリスチャンが神の召しに応えることはできないばかりか、それでは人間の幸福に寄与することもできず、社会貢献にもつながらないであろう。むしろ、社会をより不幸な場所とし、自分と他者を道具化して、より一層の不幸に追いやる原因を作るきっかけにしかならない。

キリスト者とは、本来、この世の君の支配する「マトリックス」としての世をエクソダスした人々である。キリスト者は、贖われていない人々の堕落した自己(セルフ)の集大成としてのこの世のバビロン体系を出て、御子の復活の命によって治められる領域に召し出された人々である。

この贖い出された新しい人々の目的は、すでに後にして来たエジプト・バビロンを振り返ってこれに仕えることにはなく、神に対して生き、御国の権益に仕え、神に栄光をもたらすことにこそある。そこで、キリスト者にあっては、人間を喜ばせ、自分自身を喜ばせ、滅びゆく地上の人々の欲望から成るこの世の社会をより一層、発展させるために、自らを奴隷のごとく差し出して仕えるという生き方はすでに終わっていると言って良い。

キリスト者は、人類の栄光のためではなく、神の栄光のために、キリストと共に死を経て、よみがえらされ、キリストの復活の証人として、この新しい命の領域の中で、神の国の統治を地上にもたらすための働き人として召し出されたのである。

だから、キリスト者はあくまで神のための働き人であって、この世や、この世の目に見える人間のための働き人ではないのである。たとえ他者に愛ゆえに奉仕するにしても、それは人間的な動機からなされるべき事柄ではなく、まして、神が分からない自己の不安や恐怖から逃避するために行われるのでは本末転倒である。だが、プロテスタントでは、この点において、極めて重要な争点がごまかされ、すり替えられており、御国のために召し出されたはずの人々を、再び、世の方を振り向かせ、信者が神からの承認を受けるのではなく、人(世)からの承認を受けるために生きるように唆す教えが語られている。そして、この教えは、信者が世人の前で自分自身の価値を自ら証明するよう促す。その手段が労働なのであり、己が労働を通じて、信者は天地の前に、自らの正当性を、自分が贖われた者であることを証明せよ、というわけなのである。

キリスト者がこのような無限ループのような悪魔的罠に、これ以上、はまっていてはならないと筆者は確信する。もしこのような偽りの囁きに耳を傾けるならば、クリスチャンは早速、ユダヤ教の時代に引き戻され、再び、律法の要求にがんじがらめになるだけであろう。社会の発展に貢献するとか、天職に邁進するとかいった、一見、もっともらしく聞こえる、美しい言葉に欺かれるべきでなく、そのようなところに自分の召しを置いてしまうと、その人は結局、見に見える人間や、この世の贖われていない人々の思いや、価値観、評価を通して、自分自身の価値を規定されてしまうことになる。

その結果、贖われた人々が、再び世の支配下に置かれることになるのである。世人は、信者がどんなに労働を通じて社会に貢献しても、「もう十分だ」とは決して言わず、「もっと寄越せ」、「まだまだ足りない」と言ってくるであろう。何しろ、人の魂の身代金は高すぎて、自分では払いきれず、人間が労働を通じて自己の罪を贖う試みは、永久に終わらないからだ。それはいつまで経っても登り切れないピラトの階段、グノーシス主義の果てしない偽りの霊性の梯子であり、信者が自分で自分を人の奴隷とすることと同じなのである。

神は、キリストを通して、信じる者のために必要なすべてをすでに備えて下さり、信者のために完全な贖いを提供して下さった。そこで、信者は、神の目に完全になるために、これ以上、自分の努力によって自分に何かをつけ加える必要はないのである。健全な労働は、自己を改造して理想状態に近づくために行われるものではない。絶えず他者との関係性において自分があるべき役割を果たしていることを確認することで、自己の正当性を主張するために行われるものでもない。

そのような文脈で、絶え間なく自己改造の努力にいそしまなくとも、神は信じる者をご覧になって、キリストをご覧になるのと同じように、「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ」と言って下さり、また、最初に創造された人類を見て満足されたのと同じように、信者を見て「甚だ良い」と言って下さる。

神が「甚だ良い」と言っておられるものを、何のためにそれ以上、信者が自己改造する必要があるのか。むしろ、キリスト者は、そういう不安を抱かせる世人の偽りの評価を、自分の心から完全に締め出し、絶え間ない奉仕を通して、自己を吟味し、自力で自己を改善することで、世人の批判を交わし、神の召しにも応じて、理想状態に近づけるかのような思い上がりを一切、捨て去るべきである。そして、自分の義と聖と贖いは、目に見えるどんな人間の評価にもよらず、ただキリストだけから来るものであり、自分は信仰を通じてそれをすでに受け取っている以上、自己改善は不要であることを認識し、キリストの贖いの完全性の確信に安んじると共に、絶え間なく社会の思惑を気にするのではなく、神は何を喜ばれ、何を自分に望んでおられるのか、それだけに関心を絞って生きるべきであろう。

信者の古き自己は、あらゆる点で不完全さしか想起させないであろうが、それはすでに水の中に沈んで、主と共に十字架で死んでいるのであり、もはや信者が注意を払うべき対象ではない。信者は、神の目に生きているのは、「もはや私ではない」ことを認識すべきなのである。そう、とてつもないことであるが、神はご自分の愛する子供たちを、キリストと同じ性質にあずかる者として見て下さるのである。だから、信者は自分自身を規定するものさしを、人間の評価や、社会の評価から、聖書の御言葉を通して注がれる神の変わらない眼差し、神の変わらない約束へと変えるべきなのである。そうしてこそ初めて、「私ではなくキリスト」が実現する。他者に仕えるにしても、全てはその次の段階の事柄であり、神との関係があるべき状態へ是正されて初めて、人への奉仕もなしうる。その順序は決して逆になってはならず、それが守られない時には、人間への奉仕が、結局、神への反逆へと結びつくのである。

たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは
あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。」(ローマ3:4)

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です」(ガラテヤ2:20-21)

» 続きを読む

2017年2月11日 (土)

人類の偽りの自己救済の努力としての労働の不毛性―一億総活躍社会という偽りの救済論と、プロテスタントにおける救いの代替物としての労働―

「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」(マタイ7:21)

最近、ある会話の中で、プロテスタントのキリスト教界は、神が全く喜ばれない、呪われた場所へと変わっているということが改めて話題となった。信仰を持たない人間から見てさえ、プロテスタントで起きている出来事は、異様に見えているのである。

多くの一般人は、キリスト教に対して、決して悪い印象は持っていない。だが、教会となると話は別だという人も多い。キリスト教には好感を持ち、聖書の神には一定の敬意を払っていても、教会組織にだけは属したくないと考えている人たちの数は相当数に上る。そういう人たちは、現在、キリスト教界で起きている出来事を見れば、こんな組織だけには絶対に属したくないと改めて願うことであろう。

杉本徳久のような人物は、プロテスタントなしには決して登場することのなかった人物であると筆者は思う。このような人間が現れたこと自体が、プロテスタントの終焉を何より物語っているが、同氏が、長年、数多くのクリスチャンに対する迫害に及び、聖徒らを次々と泥沼の裁判に引きずり込んでは、神が贖われた聖徒らに有罪を宣告することを願い、クリスチャンの平和で穏やかな信仰生活を妨害して来たことや、また、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師が、教会を訴え、牧師を訴えては、クリスチャンの平和な信仰生活を妨げている様子を見ても、プロテスタントからは、すでに聖書の御言葉に従う生命の息吹きが消え去り、キリストの香りが消え去り、その代わりに、全く別な異質な霊が持ち込まれ、以前とは全く異なる別の堕落した宗教へ変質しつつあることが明白である。

筆者は、村上密牧師や杉本徳久を率いるものは、まさに「プロテスタントの霊」ではないかと考えている。杉本は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の出身で、とうにプロテスタントを去っていると言われるが、それにも関わらず、自ら去ったはずの「プロテスタントの霊」と未だ訣別せず、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の弊害とも訣別することができないでいる。そのことは、杉本が村上牧師の行って来たカルト被害者救済活動との訣別宣言を出すことができない事実に最もよく表れている。

こうした事実を見ても、筆者に思い起こされるのは、キリスト教界への批判が高まっていた2009年当時、「カルト二世」と呼ばれる人々が、信者の中に数多く出現していた事実である。これは一般に多くが団塊の世代の子供たちの世代に属し、リーマンショックなども経験して、当時、生きづらさを抱えていた世代であるが、その中でも、たまたま親がキリスト教徒であったがために、幼少期から教会で宗教教育を受けさせられ、そこで受けた誤った宗教教育がもととなって、大人になってから社会に適合できなくなり、思想的にも生きづらさを抱えることになったと自ら告白する元信者たちが相当数、現れた現象を指す。

当時は、そのような生育歴を持つゆえに宗教教育の歪みを理解する人々が、インターネット等でキリスト教界の現状を語り、一体、自分が受けた教育のどこに問題があったのか、なぜその宗教教育が誤っていると言えるのかについて考察していた。当時は比較的、冷静な議論が多く、キリスト教界の諸問題について、かなりあけっぴろげで自由な議論が穏やかに交わされていた。キリスト教界を断罪するためでなく、その弊害から抜け出すために何が必要であるかが、多くの信徒たちによって、穏やかに厳粛に論じられていたのである。

杉本のような人物も、まさに「カルト二世」というカテゴリーに当てはまると言えるのではないかと思う。要するに、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団によって、人生の決定的に重要な時代に、誤った思想を植えつけられたがために、この教団を出てもなお、誤った思想に苦しめられ続けている一人である。そうであるがゆえに、当時、自身のブログにおいても、激しいキリスト教界への批判を繰り広げていたものと思われる。

しかしながら、誤った宗教教育のために生じた苦しい状態から解放されるかどうかは、あくまで本人が自分に植えつけられた思想の誤りにどれくらい気づき、それとどの程度、訣別することができるかによる。

冷静な考察や、穏やかな分析により、教え込みの誤りに気づいて離れられた人たちは幸いであるが、それができない人々もいる。後者は、たとえ自分たちを束縛する偽りの思想を憎み、告発したとしても、その思想と手を切るどころか、むしろ、より一層、深くその道具となって生きることになる。

杉本徳久の生涯を通して、我々が見ることができるのは、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の理念の恐ろしさだけでなく、幼少期や青春時代にこの教団に関わった人々が、その理念の間違いに気づき、この教団を脱したとしても、それだけでは問題は終わりにならないという事実である。たとえ教団を出たとしても、この教団の理念や、教団の牧師の活動に依然として積極的に関わり続ければ、その人は、教団から出たことにはならず、たとえ他の宗教団体に去っても、誤った思想を引きずり続けて、その思想の手先となって生きるしかないのである。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に限らず、人間は誤った理念を持つ団体に気づかず接触してしまうことはありうる。問題は、そういう事件を100%防ぐことにあるのではなく(100%防ぐことは誰にもできない相談である)、その団体が誤っていると気づいた時に、そこに接近した自分自身の誤り、その思想に身を委ねた自分自身の誤りを認めて、その悪しき理念と本心から訣別し、それと二度と関わらないことを誓って、新たな人生へ踏み出すことができるかどうか、その一点にかかっている。

筆者は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を出た人間が、いつまでもこのような教団に関わり続けることに全く意味はないと考えている。そこから離れたならば、思想的にも、この教団とは訣別し、人生を穏やかに再スタートさせた方が良いであろう。

しかし、杉本徳久については、残念なことであるが、多くの人たちが指摘していたように、すでに引き返せる橋をとうに超えてしまったようである。それは同氏が数多くのクリスチャンを断罪する作業に自ら手を染めた時点からすでに判明していたことであるが、現時点では、同氏においては、聖徒らとの和解はもはや永久に不可能となってしまったという印象を筆者は受けている。

これは非常に恐ろしい厳粛な現実でもある。人の肉眼で見える対立は、ただ単に人間的な確執のようにしか見えないかも知れないが、そこにクリスチャンが関わっている場合には、その人間的な対立の背後には、必ず、霊的な対立が存在する。そこで、聖徒らに対して一線を超える罪を犯してしまった人間は、この地上だけでなく、永遠の領域においても、罪を赦される可能性を失い、生きているうちに神に立ち戻る道が永久に絶たれ、不可能となってしまうことが実際にありうるのだという実例を、同氏の例を通して見ることが出来るように思う。どんなに聖徒らが憐れみをかけたとしても、本人の中にもはや立ち戻る道が絶たれてしまっているのである。

神が贖われた聖徒らに対してどういう態度をとるかは、その人が神に対してどういう態度を取っているのかをはかるための重要な指標である。聖書は、兄弟姉妹を愛せない人間が、神を愛することは絶対にできないと告げているからである。

「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」(Ⅰヨハネ4:20)

そこで、聖徒らを裁判に引きずり込んでは罪に定めることに血道を上げるような行為は、まさに、神に対する愛の全くない人間だけが取り得る行動であると言える。そのような願望を抱くこと自体が、キリストの御霊とは程遠い、神から来るのではない別な霊、しかも、クリスチャンを大々的に迫害した皇帝ネロの霊、「兄弟たちを訴える者」と同じ霊の持ち主だけが可能な行為である。

だから、そのような願望を積極的に抱く人間が、聖徒らとの和解の道を失い、ますますキリストの十字架に背を向けて、「キリスト教徒の迫害者」になって行くのは必然的な結果なのである。

そのような恐るべき欲望の持ち主は、キリスト教徒を罪に定めようとして、常に「クリスチャンが世を冒涜した、世人に対して脅威をもたらした」という口実を持ち出すが、聖徒らを罪に定めるための彼らの試みは決して成就せず、成功しない。

なぜなら、永遠に変わらない聖書の御言葉においては、世人の心証を害することが罪なのではなく、神の御言葉に逆らうことこそ、罪と定められているからである。

聖徒らは、キリストと共なる十字架を通して、バプテスマの水の中に沈み、世に対しても、悪魔に対しても、自分自身に対しても、死を帯びている存在である。聖徒を弁護するのは、キリストご自身である。

だから、我々、聖徒らに立ち向かう人間は、肉眼で見える我々自身という人間に立ち向かっているのではなく、神ご自身に立ち向かっているのである。聖徒を告発する者は、信じる者を贖われた神の義に自ら立ち向かっているのである。そうである以上、そのような人間は、永遠に神が変わらないものとして定められた契約である聖書の御言葉に逆らっているのであり、その結果として、必ず、キリストの十字架に敵対した報いとして、滅びだけが待ち受けている。彼らにはもはや弁護の余地は存在しない。

ところで、坂井能大氏、山谷少佐については、Dr.Lukeの支援を受けていたことが、彼らの致命的な弱点となったと筆者が理解していることはすでに述べた。

Dr.Lukeのキリスト教批判を聞いて、同氏が本心から、キリスト教界の制度的な腐敗を嘆き、これを糾弾し、訣別を唱えているのだと誤解した人々は多かったものと思う。しかし、同氏の批判は、結局は、村上密牧師の被害者活動と同じく、キリスト教界の繰り広げる出来レースの一環に過ぎなかった。

Dr.Lukeは自らパスタ―を名乗っていたのだから、牧師と同様の存在であり、その意味で、同氏率いるKFCは、どんなに口ではキリスト教界を批判していたとしても、実際には、牧師制度を取るキリスト教界の一端に位置する組織でしかなかったのである。

KFCは、信者たちに向かってキリスト教界からのエクソダスを唱えていたにも関わらず、自らがキリスト教界をエクソダスしていなかった。そこで、そのような二重性を帯びた立場から、キリスト教界を告発しても、それが真に迫真性を帯びた主張とはならず、そのような方法で、キリスト教界に戦いを挑んでも、勝利することが、土台、不可能なのは目に見えていた。

キリスト教界をエクソダスするとは、牧師制度と訣別することと同義である。KFCだけではない。ゴットホルト・ベック氏の集会のように、キリスト教界を批判しながらも、結局、特定のリーダーの下に強力な牧師制度を維持し、キリスト教界と根本的に変わらない組織を築いているのでは意味がない。それでは、キリスト教界を出たことには決してならず、彼らの唱えるエクソダスや、キリスト教界への批判も、結局は、有名無実のスローガンにしかならない。

筆者は、今やキリスト教界をエクソダスせよ、という表現ではなく、プロテスタントからエクソダスせよ、と言った方が正確ではないかと考えている。プロテスタントは、すでに霊的に終焉を迎えており、ここからはキリストの御霊に息吹かれた新たな信仰復興運動は、決してもう二度と出て来ることはないと確信している。

プロテスタントは当初、ペンテコステ運動のような過激な霊的運動を警戒していたが、ペンテコステ運動が拡大して信者が増えるにつれ、結局、これを受け入れざるを得なくなった。その上、エキュメニズムを通して他宗教にも寛容な理解の手を差し伸べており、こうして教義的に妥協に妥協を重ね、聖書から遠い理念を提唱する団体となった。

その上、自身が統一教会の出身者である村上密のような牧師たちが、統一教会からの信者の半強制的な脱会活動を行って、彼らをキリスト教に改宗させたことにより、プロテスタントには、統一教会からの信者たちが数多く流入し、異質な影響力がもたらされ、そのような活動も、ここ十数年の間で、教界の変質を加速化させる大きな要因となった。

牧師制度の弊害、教会成長論などに見えるような教義の誤り、異端化に加えて、カルト宗教からの信者奪還運動が繰り広げられたことにより、また、それと並行して、問題や悩みを抱えて行き場を失った社会的マイノリティへの支援活動に重きが置かれたことにより、プロテスタントには、カルト宗教の霊が公然と持ち込まれただけでなく、この世の諸問題も雪崩を打って押し寄せ、この宗教全体が、聖書に基づく、神を中心とした、平和な信仰生活の場ではなくなり、人間を中心とした、この世の諸問題に対処するための「病院」のようになり、あらゆる点で問題の宝庫となって、聖書からますます遠ざかり、聖書とは異質な宗教へと変質して行ったのである。

今となっては、この教界は立ち直り不可能であり、平穏な信仰生活を送るためには、信徒はここを出るしかない。牧師制度の中に身を置きながら、キリスト教界を批判しても無駄であり、平和な信仰生活を送るためには、信者は「アカンの外套」になりうる一切の持ち物、つながりを断ち切り、プロテスタントそのものを出るしかないのである。

* * *

筆者は最近、プロテスタントの以上のような問題点は、資本主義の弊害とも密接に関わっているのではないか、という確信を持つようになった。そして、この問題を考えるにつれて、プロテスタントとは、ひょっとすると、最初から、何か空恐ろしい、根本的に聖書に反する問題を内に含んでいたのではあるまいか、という疑念が生じてならないのである。

現在、世界各国においてだけでなく、日本においても、資本主義は末期状態に陥っており、日本の労働市場は閉塞感にまみれ、社会主義国であったソ連における強制集団化の時期のような悲惨な状態へと転落しつつある。

我が国の労働市場の現場は、悪化の一途を辿っており、搾取、騙し合いがますます横行し、人間性がますます失われ、人間を生かす場所ではなく、排除する場所、殺す場所へと変わって来ている。

我が国は、年長者が年少者を搾取し、食い物にするという形で、ようやくこれまでの繁栄を維持しているが、労働市場には、この悪しき弱肉強食の異常な関係が凝縮された究極の形で現れている。

日本の若年者たちは、学校を卒業して社会に出ても、正規雇用にありつけるのはほんの一握りであり、それが出来なかった者たちは、生涯、低賃金で将来の希望のない仕事をずっと続けるしかない状態に置かれている。若年者に限らず、非正規雇用の者たちはますます苦しい状況に置かれ、未来への展望が何も描けないでいる。外国人実習生のような人々は、奴隷制と呼んで差し支えない苦役にあえいでいる。最近では、政府は年金削減のために、老人を死ぬまで働かせることを考えており、生きている限り、国民が労働から解放されることがないような社会づくりに知恵を絞っている。

このように、我が国は、表向きは労働を賛美する社会主義国ではないにも関わらず、社会主義国と同じように、全国民に労働を強制する異常な思想に憑りつかれており、そのような文脈における労働の概念は、正しいものではなく、人間性を貶め、歪める誤った思想でしかない。

そのような意味で、我が国における労働は、もはやただ単に人が働いて身を立て、家族を養い、普通の暮らしを維持するために不可欠な活動ではなくなり、誤ったイデオロギーに基づく、人間同士の騙し合い、搾取のし合い、人間性の貶め合い、弱肉強食の肯定・強化という、極めて不健康で、悲劇的な、社会に地獄絵図をもたらすような恐ろしい概念へと変わり果てている。

そこで、なぜそのような現象が起きるのかという問題を追求していくと、結局、労働の本質とは何かという問題に突き当たらざるを得なくなり、筆者の分析においては、その問題は、そこからさらに進んで、プロテスタントのキリスト教界における奉仕と献金という問題につながり、最終的には、プロテスタントが本質的に抱える教義的な欠陥へと行き当たるように思われてならないのである。

マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、今でもこの点に関して、プロテスタントの本質に鋭い光を当てていると言えよう。

本書は信仰的な観点から書かれたものでないため、筆者はこれまであまりその論に注意を払わず、また、日本のような非キリスト教国に、上記の論理をどの程度、当てはめることが可能であるかについても、疑問であったが、最近、プロテスタントと資本主義との関係性を、批判的な文脈で振り返るに当たり、この書は実に多くの点で、謎解きのヒントを与えてくれており、考慮しないわけにいかないと思うようになった。

この書でも指摘されているように、プロテスタントにおける「救い」の概念は、非常に不確かな、非人間的と言っても良いほどまでに、不安定なものであり、プロテスタント独特のこの救済観が、資本主義の発展の原動力となったのだという指摘について、これを今日の我が国における労働との関係性にあてはめて、改めて考察してみる必要があるように思う。

ウェーバーが上記の書で言わんとしていることの中核部分は、かなり荒っぽく要約すれば、次のようになるだろう。

「プロテスタントにおける救いの概念は、一般的に、信者が、自分に対する神の救いが本当に確かなものであるのか、自分が本当に神に受け入れられ、救いを失っておらず、神の国の住人として、いのちの書に名が記されているのかどうか、死後の神のさばきの時が来るまで、信者本人にも本当には分からず、生きているうちに内的確信を得ることができないという、極めて不安定な概念である。

このような不安定で(非人間的な)救済観が、プロテスタントの信者たちに、自分は本当は救われておらず、神に拒まれているのではあるまいか、そもそも神が分からず、神の御心が何なのかも分からないという、生涯に渡る恐怖を抱かせるのは当然である。

そこで、プロテスタントの信者たちは、こうした恐怖から逃れるために、絶えず、行動に駆り立てられる。彼らは、自分が確かに救われているかどうか分からないからこそ、自分が救われた者であることを社会や自分自身に証明しようと、熱心に禁欲と労働に励み、贖われた人間にふさわしい模範的な生活を送る努力をしたのである(=絶えざる自己吟味と現世生活の合理化)。

この点において、カトリックとプロテスタントの間には隔たりがあり、カトリックにおいては、信者たちは、教会内で宗教行事に励んだり、聖職者に教わることで、自分が神に救われている者であることを証明しようと努力する一方、世俗の生活は(教会生活のつけ足しに過ぎないもののように)重視されなかったが、プロテスタントの信者たちは、教会を離れた世俗の生活にも、教会と同じほど重点を置き、世俗生活において禁欲と労働を通じて、天職を全うすることで、キリスト者の召しを積極的に果たすことができると考え、こうして、神に贖われた「新しい人」としての模範的生活を客観的に証明することが、信者の使命であるとみなしたのである。こうして、プロテスタントは、世俗における生活をも、教会生活と同じほど重要な信仰生活の実践の場ととらえ、熱心に労働に励み、利潤を生むことを、信仰生活と何ら対立しないものとみなした。

禁欲は、言い換えれば、世俗生活の合理化のことであるが、それは信者が自己を吟味することによって、神に喜ばれないあらゆる不徳なものを徹底的に自分の生活から捨てて行く一方で、神に与えられた召しに合致するものだけを残して行くことを意味する。

だが、信者にはそもそも自分が救われているかどうかがよく分からず、神の意志も分からないので、自己吟味とは、「おそらく自分は救われているのだろう」という前提のもと、「おそらく神が喜ばれないであろう」と想像されるものを自ら捨て、「おそらく神が召しておられるのだろう」と想像される職業に邁進することで、神に喜ばれようという努力を指す。

こうして、プロテスタントにおいては、信者が自己の(本当にあるかどうか分からない)救済を維持するために、絶えざる自己吟味と禁欲、社会奉仕活動による生活の合理化を行なうことが信仰生活の大前提のようになり、その結果、修道院生活の規範が、世俗の生活に公然ともたらされたような具合となった。

その結果、信者が内心の恐怖から逃れるために行った熱心な禁欲と労働が、資本主義の発展を促し、社会に経済発展がもたらされた。

つまり、極言すれば、「神が分からない。自分が本当に神に救われているのかどうかも分からない」というプロテスタントの信者たちの内心の恐怖と不安、そこから逃れるために、彼らが労働を通じて社会に奉仕し、自分が救われていることを客観的に証明せねばならないと考えた強迫観念が、資本主義の初期の発展の原動力となって行ったのである。」

筆者は、ここでカルヴァンの予定説などに深入りしてプロテスタントの救済観について詳しく議論するつもりはないが、実際に、プロテスタントの一般的な救済観は、今日に至っても、まだなお、ウェーバーが指摘した状態から大きく外れていないように思われる。

クリスチャンとは、本来、神を見いだした人々から成るものと考えられるため(筆者もそう考えている)、実は、神を見いだせず、自分が救われているかも分からない信者が、クリスチャンを名乗る人々の大半を占めるのだと聞けば、世人はさぞ驚くことであろう。
 
だが、それが実際なのであり、もしそうだとすれば、そのようなプロテスタントの救済観は、聖書の提唱する救いに本当に合致するのだろうか?という疑問が生まれる。 そのような不確かな救いの概念しか持たない者を、果たして、クリスチャンと呼ぶべきなのであろうか。

プロテスタントの信者であるかどうかを問わず、クリスチャンが、「自分は神が分からない。神に救われているかどうかも分からない」という状態に陥っているとしたら、それは極めて異常な事態であり、そのような人々を「クリスチャン」とみなすこと自体に、相当に無理があるのではないかと筆者は考えている。

「信者」と呼ぶからには、その人間に信仰がなくてはならないが、自分が救われているかも分からない人たちは、果たして、何を信じているかも分からない人々である。自分が神に救われているかどうかも分からない状態にある人々を、「信者」と呼ぶのは適当であろうか。

人間には、自分を本当に救ったかどうかも分からないような不確かな神を信じ、そんな不確かな救いしか提供できない「神」を生涯に渡り、心から愛し、仕えることが可能なのだとは、筆者にはどうにも信じられない。だから、自分の救いさえ、本当にあるかどうか分からない人々は、神を信じている人々の概念に該当せず、彼らの「神」と彼らが、何によってつながっているのかも不明である。 

しかしながら、プロテスタントでは、救いの確信が内側になく、「神が分からない。自分が神に救われているかどうかも分からない」という状態は、極めて信者にありがちな、一般的な状態なのであり、そういう事情は、今日になっても、変わらない。いや、むしろ、そのような異常状態にある信者こそ、プロテスタントの平均的な信者像であると言える。

だから、筆者はそのような不確かな確信しか信者に与えることのできないプロテスタントの救済観を、全く正常なものとはみなしておらず、そこで、ウェーバーが、そのようなプロテスタントの教義とそこから生まれる精神を、資本主義の発展と結びつけて論じているのは、結局、プロテスタントの誤った救済観が、資本主義の発展の最初の原動力となったと言っているのと同じであると理解している。

つまり、ヨーロッパ諸国における初期の資本主義の発展は、プロテスタントにおける誤った救済観がもたらした結果であり、そうである以上、その発展は、発展という言葉が持つ、一見、輝かしい、喜ばしい響きとは裏腹に、そこに流れる思想的弊害は、必ずや、何かの恐るべき形で実を結ばざるを得ないだろうと考える。それが、今日、労働の悪なる本質として現れていたとしても不思議ではないのである。

さて、上記の書から、筆者に理解できるのは、自分が本当に救われているかどうか分からないという不安ゆえに、プロテスタントの信者たちは、絶えず労働に邁進し、社会貢献することで、自分が善人であることを世にアピールせずにいられないという一種の強迫観念に陥っていたことである。

こうした事柄は、当ブログでずっと述べて来た問題と重なる。要するに、「神が分からない。自分が神に救われているかどうかも分からず、罪が赦された確信もない」という恐怖が根底にあればこそ、プロテスタントからは、カルト被害者救済活動やら、ホームレス伝道やら、マイノリティへの救済活動といった、各種の社会奉仕活動が登場して来たのである。

つまり、自分が救われているのかどうか分からない不安から逃れるために、プロテスタントの信者は労働に励み、数々の社会奉仕活動を生み出して来たのである。

こうして、プロテスタントが生んだ社会奉仕活動は、カトリックの慈善事業に見かけはよく似ているが、その動機が決定的に異なる。

筆者は再三に渡り、プロテスタントの諸教会が繰り広げる社会奉仕活動や、マイノリティへの支援活動は、隣人愛に基づく活動ではなく、そもそも自分自身が罪赦されたという実感を持てない「信者」たちが、自らの心の内側にある払拭されない罪悪感を解消するために行う贖罪行為であり、彼らは自分よりもはるかに哀れな境遇にある弱者を探して出して来ては、彼らの状態を改善することにより、その弱者の姿に自分自身を重ねて、彼らを救うことで、自己救済をはかろうとしているのだと述べて来た。

つまり、プロテスタントの社会奉仕活動は、根本的に救いの確信を得られない信者たちが繰り広げる終わりなき贖罪行為であり、彼らが自己の罪悪感、不安、恐怖から逃れようとして強迫観念に基づいて生み出す活動なのである。

だから、そのような社会奉仕活動に従事する信者たちが、さぞ立派な人々だろうと考えるのは間違いで、むしろ、そのようにして熱心な社会貢献を目指さざるを得ない信者たちのほとんどは、信者を名乗っているにも関わらず、教会の中で、神に出会うことができず、救われてもいない世人のもとで神を探すしかないほどまでに、救いの確信がなく、内心では絶望している人たちである。彼らは自分が贖われたという実感を持てないからこそ、不信者への奉仕活動を通して、自分の正しさをアピールし、不信者たちの間で神を見い出せない絶望感を薄め、自己を慰めることしかできないのである。

そのように、自己の救いの確信がないがゆえに、絶えず不安に脅かされる状態、自らの信仰生活の中で真の満足が得られず、教会の外の世においてしか、神を見いだせる希望を持てないという転倒した心理状態は、プロテスタントでは、一般の信徒のみならず、牧師にさえ見られる一般的な状態である。

そうした文脈で、以前にも引用したホームレス伝道に励む奥田知志牧師の文章を、改めて引用してみたい。

神はどこだ。どこにおられるのだ。」 こんなことを考えている人間が、牧師になることなどできるのか。しかし結局のところ、私が牧師になったのは、生涯を通じてこの問いの答えを探すためである、としか言いようがない。それが、牧師になった理由なのだ。答えは今もはっきりしないしかし、混迷がさらに深まる今日の社会において、「神はおられる。いてもらわないと困る」という思いはますます深まり、「神を探す」日々はより忙しくなっている。

牧師というものは、何かを悟った人ではないだろう。もちろん、すでに神を見いだしている人でもない信徒も牧師も厳しい現実のなかでもがいており、ただ聖書を頼りに神を探しているのだろう。「神はどこにおられる。」それは、私たちの人生そのものの問いであり叫びなのだ。生きている限りこの問いを、問い続けなければならない。」
(『もう、ひとりにさせない』奥田知志著、いのちのことば社、pp.28-29)


奥田牧師のこの記述の中には、「自分は神が分からない。自分が本当に救われているのどうかも分からない」というプロテスタントの信者に共通する心の不安(=叫び)がよく現れている。

神を見いだせない人たちが、それゆえに、生涯かけて、神とは何かということを探求するために、教会生活に足を踏み入れていき、牧師にまでなるのだというのである。

だが、このような形では、どれほど探求を重ねても、彼らが神に出会うことはできず、答えが出ることもないであろうと筆者は考える。ただ生涯、神を見いだすための探求だけが続き、救いの確信は、ついに得られないまま終わるのである。

そうなるのは、彼らが神に出会うために、決して神ご自身に向かおうとはせず、絶えず人間の方を向いて、世の不信者の方を向いて、人に向かって自分の正しさを主張し、不信者の間で神を見いだそうと、見当外れな方向を探し求めているせいである。

筆者は、プロテスタントの信者がこのような状態にとどめ置かれていること自体が、極めて異常な状態なのだと思わざるを得ない。そして、そのような人々が、本当のクリスチャンであるとも考えていない。

自分は救われているかどうかも分からない不安を抱える人々が、信者であるだけでなく、牧師にさえなって、福音を知らない、自分よりもはるかに哀れな状態にある社会的弱者に助けの手を差し伸べ、その人たちと一体化して、彼らの生活の向上に喜びと恵みを見いだし、彼ら弱者の中に「神」を見る、それが、果たして、正常なキリスト者の信仰生活と呼べるのか? 絶対に無理である。

そのような形で、「神を見いだせない」不安に駆られ、世の方を向いて行く信者たちの姿は、ウェーバーが著書において指摘したプロテスタントの信者が抱える不安とまさに一致するが、ウェーバーの著書が書かれた時代、そのような信者たちは、自己の不安を、職業訓練に振り向け、労働に励み、自分の職業に邁進することで解消しようとしていたが、それが今日の時代には、労働のみならず、各種の社会奉仕活動、マイノリティへの支援などに結びついている。

しかし、表面的にどんな形態を取っていようと、これらの社会貢献活動は、みな根本的に同じ動機から発生したものであり、それらはすべて「自分が救われているかどうか分からない」という内心の恐怖から、信者が逃れるために生み出された模索(現実逃避)の過程なのである。

その探求は、神を求めるために行われているというよりも、むしろ、神が分からないという恐怖を紛らすために行われるアリバイ工作のようなものだと言った方が良い。

もしも真実、それが神を求めるために行われている活動ならば、その活動は決して人の方を向かず、見えない神だけにすべてを求め、神ご自身から全ての答えを求めるというものであったろうが、プロテスタントの信者たちの「探求」は、常に世の方を向き、社会に対する貢献に重きを置いて、人からの承認や賛同の中に、自分たちの信仰の正しさを求めようとするものなのである。

こう考えると、一体、プロテスタントとは何なのか、そこで唱えられる救済は、本当に聖書の神が提供する救いと関係があるのだろうかという疑問にまで辿り着かざるを得なくなる。

何よりも、プロテスタントの信者が、本当に自己の救済を確かなものとして、個人的に救いの確信を得たいならば、なぜ、彼らは神ご自身に向かわず、絶えず人間にばかり奉仕し、あるいは自己吟味に没頭し、常に神の目から見た救いの合格ラインではなく、人間の目から見た合格ラインにこだわり続けるのか、疑問に思われてならないのである。

そこには、何かしら重大な概念のすり替えがある。本来、神と信者との間で、信仰に基づいて個人的に結ばれるものである救いの確信が、神を抜きにした、人間の目で見て確かめられる一般的な承認や賛同という代替物に取り替えられているのである。

早い話が、神が信者に信仰を通じて個人的に与える救いが、社会貢献という、救いとは似ても似つかない代替物にすり替えられているのである。

信者が自己を吟味し、禁欲と労働に励み、社会貢献を果たすことによって、世人に認められる模範的な生活を送ることは、信者が神に受け入れられることとは、直接的に何の関係もない。それはすべてこの世の観点、人間の観点から見た活動であって、神の視点というものが徹底的に欠落している。

天職や、社会貢献という言葉は、魔法のトリックのようなものであり、人間が自分自身の状態を見て自己安堵するために作り出された幻想に過ぎないと言うこともできよう。人間の必要を満たして、人の目に認められ、社会に貢献し、自分の目から見ても、自分に合格点を出せるようになりさえすれば、神もきっと納得して下さるだろう思うのは、人間の側の独りよがりでしかない。信者が人間社会にどれほど奉仕してみたところで、それは神がその信者をどうご覧になり、どう思われるのかをはかる基準にはならない。

神の御思いを知るためには、神に向かうしかないのであって、社会にお伺いを立てても無駄なのである。信者がどんなに人間社会に配慮を示しても、その信者の心が神に向かわないならば、信者の信仰生活は無である。

そして、神がご覧になるのは、人の立ち振る舞いのうわべの美しさではなく、信者の行動の真の動機である。人の目にどんなに立派な行いをしても、その労働や奉仕が、信者の恐怖から、信者の自己満足・自己肯定・自己安堵を目的として行われているのであれば、そのような自己中心な動機で、神を喜ばせることはできない。自分のために行われた奉仕は、神のためではなく、御心にかなわず、神のために実を結ぶこともない。

それにも関わらず、プロテスタントの信者は、徹底的に神ご自身だけに向き合って、神から回答を得ることで、自己の恐怖を克服しようとはせず、むしろ、「神が分からない、救われているかどうか分からない」からと、神からはさっさと目を背けて、分かりやすい人間社会の方を向いて、人間の中へ埋没して行き、人間の只中で承認や慰めや安堵を得、これを神からの承認や賛同と取り替えようとするのである。

こうなった時点で、それはすでに信仰生活からの著しい逸脱である。だが、プロテスタントは、教義的に、もともと救いに関して極めてあいまいな重大な欠陥を抱えているがゆえに、信者たちは、その弱点を補強するために、世の方を向かざるを得ないという悪循環が続いているのである。

このような教義は根本的におかしく。そもそも、救われているかどうかという信仰生活の根幹に関わる重大問題が、死後になってしか分からず、神のさばきの座に立たされるまで、本人に分からないというのでは、一体、信者の地上生活は何のためにあることになるのか、甚だ疑問である。それでは、その信者の地上生活は、ただ刑の執行を待っている囚人と変わらないことになる。

こうして、あるかなきか分からない救いの確信を補い、自分は本当は救われていないかも知れないという内心の恐怖を克服するために、信者たちは、刑の執行を待っている囚人が赦免を求めるように、世に対する奉仕をにいそしみ、お勤めに励むことで、不安から目をそらし、神に受け入れられていないかも知れないという恐怖を、世からの賛同や承認を得ることで埋めようとする。そして、自分はこんなにも善人として模範的に努力し、自分の利益を差し置いて社会に貢献しているのだから、その努力はきっと神も認めて下さるはずだと自己を慰める。

だが、そういう外側の努力が、内側の確信の欠如を補う日は決して来ない。神からの承認を、世からの承認に取り替える事は無理なのである。 

そのような信者の「社会貢献」は、救いとは何の関係もないものである。「義人は信仰によって生きる」という聖書の御言葉と、救いが本当か分からないがために地上の職業に邁進して社会貢献を果たすことで救いに近づこうという生き方は、まるで正反対である。

後者は、律法の義務を全うすることで神に受け入れられようとしたユダヤ教徒の努力と変わらず、贖われて、罪赦された人々の生き方ではなく、まさに罪ゆえに刑罰を待っている囚人が、自分の努力でわずかでも減刑されようと願う生活に他ならない。そんな地上生活は、神の召しを果たす場というよりも、囚人同士の慰め合いに近く、神のさばきに至るまでの地上の待合室で、恐怖から少しでも気を紛らしたいと考えている人たちが、互いに目くらましのために行う現実逃避に過ぎない。

だから、そのような観点から見るならば、プロテスタントの救済観は、初めから決定的に何かがおかしいのである。それゆえ、その決定的に異常な救済観がもたらす恐怖に基づいて生まれる各種の良さそうな社会貢献活動も、結局、決定的に異常な結果しかもたらさないのである。

筆者自身の経験について言えば、筆者が神とは何か、救いとは何かということを明確に理解したのは、プロテスタントの教会に関わるのをやめてからのことである。この教界を出て、教界とのつながりを絶って、誰の仲介もなしに、自ら聖書に接して、初めて、聖書の神ご自身がリアリティであること、キリストの贖いが永遠であること、信じる者に与えられた救いが永遠に変わらないこと、それがまさに自分自身に対する救いであることがクリアに見えたのである。そして、「神はどこにおられるのか」という問いは終結し、神はキリストを通して、信じる者の内側に住んで下さり、力強く御業を行なって下さり、必要な時に常に助け手となり、砦となって下さるということが分かったのである。

だが、だからと言って、信者は、確かにいつもいつも神の意志が自分に分かるわけではなく、神と直接結びついているという感覚的な実感を常に持っているわけでもない。感覚的には、パウロが、「ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。」(Ⅱコリント5:6)と述べている通り、人間の堕落した肉体の感覚は、常に人を神から引き離そうとする。信者は、地上で様々な問題が持ち上がる時などには特に、神が遠くにおられるように思ったり、神が何を願っておられるのか分からない時もあり、神に見捨てられたのではないかとさえ思われる瞬間もある。

だが、そういうものはあくまで信者の地上の幕屋としての肉体の感覚、この世の影響が感じさせることであって、信仰とは関係ない事柄である。信仰は、そのような表面的な感覚よりも、もっと深いところで感知されるものであって、一見、かすかな実感に過ぎないように思われても、信者の内側で、深く持続的な、変わらない確信をもたらす。だから、信者の心の内側では、外側で何が起きようとも、表面的な感覚や印象に関係なく、救いの確信は決してなくならず、神が生きておられ、自分を贖って下さったことへの確信は変わらないのである。信者は不安に駆られても、その不安の分だけ余計に、神に助けを求めて祈ることができ、神が確かに応答して下さることを信じて待つことができる。だから、この世で起きるどんな事象も、信者を神から引き離すものとはならない。

こうして、信仰に基づく自らの生涯を通じて、信者は神が確かに生きておられ、あらゆる場面で信者を守って下さり、自分が確かに神の愛する子供として神に受け入れられ、愛され、助けられていることを実践的に確かめることができるのである。どんな人生の嵐に見舞われようとも、いつまでも不安の中に取り残されることなく、まして、神が分からないとか、救われているかどうか分からないといった不安の中を堂々巡りしてさまよい続けることはないのである。

ところが、プロテスタントにおける救済観は、これとは全然違うものであって、そこにいるほとんどの信者たちは、自分が救われたかどうか、内的確信を持っておらず、どんなに教会生活を続けても、神に出会うことがない。ただ学校で教科を教わるように、キリスト教の教義を学ぶだけである。自分は神を信じている、とどんなに思っても、その信仰が、現実生活における力とはならず、信者を変える力ともならず、そして、ウェーバーが述べたように、信者たちは、自分が救われているかさえ分からないという不安ゆえに、社会において労働に励むだけでなく、教会生活をもそのような観点から行う。

自分が救われているかどうか分からないがために、信者たちは熱心に教会に通い、牧師の説教を聞いて自分の行動を正し、奉仕と献金に励むのである。そのような精進の果てに、自らの「霊性」を高め、神に近づくことができるかのように、彼らは錯覚している。そのような信者たちは、この世における労働も、教会に献金を払うために行う。彼らは、そうした熱心な努力によって、自分の信仰の正しさを客観的に証明することをやめて、教会を離れてしまえば、自分は悪魔の餌食となって、救いを失うだけだと思わされており、絶えず恐怖に駆られているのである。

このように、プロテスタントの信者は、禁欲と労働だけでなく、教会生活すらも、恐怖から行っている。救いの確信が内側にないからこそ、それを教会への所属という目に見える地上的な代替物に取り替えようとするのである。そして、教会への所属を失うことを、救いを失うことと同一視し、所属先を失いたくないがゆえに、熱心に世でも労働に励み、献金と奉仕の源を得る。だが、いつまで信者が努力し、奉仕と献金にいそしんでも、目に見える地上的な保証は、目に見えない天的な保証とはならない。地上の教団教派、教会組織に所属しているという信者の立場が、信者の内側で、救いの大胆な確信へとつながることは決してなく、どんなに牧師の説教を聞いて自己吟味し、いつまで奉仕を重ねても、自分は救われたのだという確信がやって来ることはなく、清められた実感もなく、様々な問題、思い煩いから解放されることもない。まして、新創造に達したなどという確信が生まれることはない。だから、信者はあるかなきかの救いを求めて、ハムスターが輪の中を走り続けるように、ずっと教会への所属にしがみつき、奉仕と献金に励み続けるしかないのである。

このようなものは、神の救いの概念を悪用しただけの、何か空恐ろしいトリックであり、救いの悪魔的代替物だとしか筆者には思えない。人の目の前に、救いという幻想をちらつかせておいて、それを求めてやって来た人々に、決して救いを与えず、その偽りの夢の代わりに、彼らを永遠に馬車馬のように走らせて、奉仕と献金を提供する道具とするために作り出された偽りのトリックでしかないものと思う。

このように、プロテスタントにおける救いの不確かさという恐るべき教義的欠陥が信者にもたらす恐怖は、資本主義という体制を通して、非キリスト教徒にも無意識のうちに及んでいるのではないかと筆者は想像する。

我が国では、まるでプロテスタントの信者たちがそうするのと同じように、非信者も、労働を通じて、自己の正当性や価値を証明しようと、勤務先に熱心に奉仕する一方で、労働から除外されて、働く場を失い、所属先がなくなり、「社会貢献」できなくなれば、自分は人間でさえなくなるかのように思い込まされ、恐怖におののいている。

このようにして、絶えず人目を気にし、自分が社会からどう思われているのか、模範的に義務を果たせているのか、社会に貢献しているのか、価値ある存在として認められているのか、人の思惑ばかりをおもんばかって、人に良く思われ、自分には所属先(居場所)があると誇って、自己安堵するために、終わりなき奉仕にいそしまざるを得なくなっているこの世の人々の姿は、まさに救いが分からないがゆえに教会への奉仕と献金をやめられなくなっているプロテスタントの信者の姿にぴったり重なる。

救いの確信がないがゆえに、それを教会籍と取り替え、存在しないかも知れない救いを維持するために、絶えず奉仕と献金を行なっていなければ安堵できない信者の姿と、自己価値が分からないがゆえに、企業や団体などの地上の所属先から承認を受け、その承認を維持するために絶えず奉仕を行なっていなければ落ち着かない世人の姿は重なる。

つまり、現代においても、信仰を持たない非キリスト教徒でさえ、プロテスタントと同様の精神に毒されており、労働は恐怖から行われるのであって、人々は、労働し続けることでしか自己の救いを担保できないかのような強迫観念に絶えず無意識に追い立てられているのである。

そのような文脈における労働は、根本的に異常であって、それは本当の意味での他者への奉仕ではなく、また本当の意味で本人の幸福につながるものともならない。

これまでずっと述べて来たように、我が国における労働は、単なる労働の概念に当てはまらず、より深い意味がある。そこで言う労働とは、神に逆らって行われる、人間の偽りの自己救済の努力であって、人間が人間の力で自己肯定し、理想状態に達しようという、カルト的な偽りのイデオロギーに基づく、決して報われることのない努力なのである。それだからこそ、そのような文脈における労働は、根本的に呪われており、何の実りもたらさず、人間をただ不幸に追いやる効果しか持たないのだと筆者は言うのである。

それはちょうど、沈没船に乗っている人たちが、互いに「私たちは大丈夫、死ぬはずはない」と言って慰め合う風景のようなものである。船はまだ沈んでおらず、沈む気配もそれほど感じられず、船の中ではまだ平穏な生活が維持されている。ある人は甲板を磨き、ある人は食事を作り、ある人たちは子供たちの世話をし、談話に明け暮れ、舵を取る。そうして皆が互いに心地よく過ごせるために配慮し合って、互いに奉仕し合い、一見、まことに美しい、思いやりに満ちた風景が広がっている。

だが、そのようにして人々が互いに配慮を示し合い、仕え合い、認め合うことの本当の目的が、船の沈没という決定的に覆せない未来の事実を覆い隠し、そこから目を背けることにあるとすれば、彼らのその涙ぐましい努力は一切が無意味であり、悪であるとさえ言える。彼らがどんなに努力して、そこに生活の向上と発展をもたらし、弱い人々を助け、他者の幸福を支え、善良に高潔に振る舞い、互いを受け入れ合っても、その船が決定的に壊れており、やがては沈むしかないことが明らかならば、彼らの労働や奉仕の成果はすべて無に帰するのである。彼らの自己肯定は、自己否定へとつながるのである。沈みゆく船の上で、互いへの愛や、社会貢献度を誇り合っても、むなしいだけである。

むしろ、沈没船から一刻も早く脱出することこそ、救済であり、善であり、社会貢献である。沈没船上での生活を維持することが善なのではなく、その生活から人々を解放し、自分も解放されて、沈没船によらない新たな永続的な生活を打ち立てることの方が、緊急課題である。

だが、どういうわけか、沈没船の中にいる人たちは、絶対にそこを出ることができないと思い込んでいる。彼らは自由になるために、船が沈む前に脱出することを自らの義務とはみなさず、むしろ、自らそこにとどまり、破滅を選びながら、それまで通りの生活を送り、さらに生活を向上させることができるという偽りの夢にしがみついている。そして、「神は私たちを見捨てるはずはない、神は私たちを哀れんで下さる。ほら、私たちはこんなに恵まれているし、こんなに努力している。私たちの善良な努力は神に覚えられている。私たちは神に受け入れられている」と言い続けているのである。

彼らは一度も神の方を向いたことがなく、ただ人間に奉仕しているだけなのに、自分たちの人類への奉仕活動、社会貢献の努力を、神も認めて下さるはずだと思い込み、自分たちの奉仕を指して、神が自分たちを見捨てるはずがない根拠だと言い続けているのである。

要するに、彼らは、自分たちの努力を振りかざして、これをもって自分たちを義と認めよと、神に迫っているのである。

人間が己が労働を通じて経済を上向かせ、社会を発展させ、理想状態に近づけることができるという考えは、筆者に言わせれば、それ自体、神に敵対するイデオロギーであり、結局、沈没船に乗っている人々が唱える実現するはずもないユートピア理論と同じなのである。

その労働や奉仕は何のためのものなのか? 結局、人間が恐怖から目を背け、自己安堵するためのものでしかない。もっと言えば、人間が自力で己が罪を克服して、自力で新創造に達して、神を抜きに、自力でユートピア的理想社会に至りつくために行うむなしい努力でしかない。

そこには徹頭徹尾、神が不在なのである。個人的な救いの確信がなく、神が分からず、神を見いだせない人々が、互いに寄り集まって支え合い、集団的に自己肯定しようという、イチヂクの葉同盟、バベルの塔の試みしか存在しないのである。神はそのような人類の自己救済の努力をこそ、最も忌み嫌われ、退けられる。

だから、我が国が推し進めている一億層活躍なる概念も、結局、プロテスタントの教会の信者たちと同様に、自分が本当に救われているという確信のない人たちが、罪の意識と恐怖から目を背けて、自己肯定するためのに作り出された嘘のカラクリに過ぎないのである。

そのような自己救済の努力としての労働や社会貢献を通じて、人が自己の正しさを客観的に世に証明し、あまつさえ、これを神にまで認めさせ、それによって自ら救いにあずかり、新創造へ至りつこうという考えは、完全な幻想に過ぎず、絶対に実現することはない。

その願望は嘘であり、恐怖に基づく現実逃避でしかないからこそ、そのような努力としての労働は、やればやるほどますます人間を悪くし、不幸を増し加えて行くだけなのである。

2017年2月 4日 (土)

死人を葬ることは死人に任せなさい―肉による情愛や、弱者救済を口実に、エクレシアにこの世を公然と持ち込むプロテスタントの偽牧師たち ―

・肉の情や、弱者救済を口実に、エクレシアにおける天的な秩序と地的な秩序を逆転させて、教会の主人をキリストからこの世(悪魔)へと変えようとするプロテスタントの偽りの牧師たち

一つ前の記事では、プロテスタントのキリスト教界が、牧師制度という人間崇拝の罪なる制度のゆえに、取り返しのつかない腐敗に陥っており、聖書に基づく正常な信仰生活を送りたい信者は、牧師制度と訣別し、キリスト教界を出るしかないという確信を述べた。

この確信は、当ブログ始まって以来、一貫して述べて来たものであるが、筆者がキリスト教界を出るべきと述べる最大の根拠の一つが、今日、教会の名で呼ばれるプロテスタントの教会組織では、「エクレシア(教会)とは、何を目的とする、誰のための、誰から構成される共同体なのか」という問題が、全く滅茶苦茶に扱われており、多くの牧師たちが、エクレシアの存在目的を完全にはき違え、これを神のために贖われた人々による構成体から、贖われない人々の利益に仕える共同体へと変えようとしている点にある。

聖書におけるエクレシアとは、「清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげ」られた(Ⅱコリント11:2)信者たちから成るものであって、教会は、キリスト以外のものに仕えるべきではない。だが、プロテスタントの牧師制度は、この時点で、すでに教会をキリストだけに捧げられたものではなく、牧師という人間に捧げられ、牧師の利益に奉仕する団体へと変えてしまうことによって、教会から貞潔を失わせ、教会を堕落させるのである。

こうした堕落によって、牧師たちは第一にキリストだけに捧げられたはずの花嫁なる教会を強奪し、己の利益のために私物化する。そして、さらなる段階として、強奪したエクレシアを、神の栄光のために仕える共同体から、人間の地的な欲望を満たすために、世人の利益に仕える共同体へと堕落させるべく、「この世の虐げられた弱者」や「マイノリティ」の存在を口実に、教会を拠点に、信仰を持たないこの世の人々を対象とする社会奉仕活動や、マイノリティ救済のための慈善事業を繰り広げるのである。

今日、プロテスタントの諸教会においては、マイノリティへの支援のための社会奉仕活動は、今やペンテコステ系の教団だけの専売特許ではなくなり、プロテスタント全体のトレンドのようにさえなっている。カルト被害者救済活動、ホームレス伝道、ヤクザや、病者、障害者などの社会的弱者を対象とする各種のお涙頂戴の支援活動が行われ、その上にさらに、フェミニズム運動、反原発運動、反安倍政権デモ、沖縄問題なども加わり、弱者救済のための社会活動、政治運動を、今や公然と教会の中心に据える牧師もいる。

カトリックが世俗化した結果、慈善事業に力を入れて、世の方を向いて行ったように、プロテスタントも、すっかり塩気を失った教会として、世に優しく、世のために奉仕する、世人のための、世俗的な宗教に成り果てているのである。

こうして、プロテスタントにおいては、世から召し出された人々から成るはずのエクレシアの天的な秩序が、地的な秩序に取って代わられ、社会活動に従事する牧師たちの教会では、贖われた信徒が教会から追い払われる一方、贖われない罪人が公然と教会に出入りし、教会からキリストの義と聖と贖いが消え去り、この世の他宗教と何ら変わりない、世俗化した世人の組織だけが残って行くのである。

* * *

以上のようなプロテスタントに蔓延するマイノリティの救済を口実とした教会世俗化の傾向は、たとえば、当ブログですでに批判的文脈で引用した「苫小牧福音教会 水草牧師のメモ帳」の執筆者である水草牧師の主張の中にも如実に表れている。

水草牧師が前掲の記事の中で、教会が不信者の葬儀に関わることに賛同していることについて、筆者は、それは聖書的見解ではないとして反対する趣旨を、記事「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。死人を葬るのは死人に任せなさい。」に記した。水草牧師は、筆者がこの記事で示した見解に対する反論として、前掲の記事に追記を記し、その中で、まず筆者を「匿名氏」と呼んで、筆者のペンネームを意図的に無視した上で、筆者がまるで得体の知れない不審人物であるかのように強調することで、筆者の提示した議論の信憑性を読者に見失わせようとすることから話を始めている。

水草牧師のこの発言は、明らかに、かつて杉本徳久が筆者を「匿名に隠れている」と言って、いわれなく非難して、筆者に名を明かせと強引に迫り、筆者がもしその要求に応じなければ、筆者の個人情報を無断で公開することで制裁を加えるなどと脅迫したことを念頭に置いており、要するに、この牧師は、そうした杉本の行為に暗に賛同の意を示して、筆者を非難する側に回っているのである。

だが、牧師が実名でブログを書くのは、自分の職業の一環として、報酬をもらって、公人の立場から行っていることであり、これを報酬も受けず、世で栄光を受けないために、あえてペンネームで信者が述べている信仰告白と、一緒にして論じること自体が、土台、ナンセンスな注文なのだが、そのことは、この人々には言っても分からないであろう。

公人に等しい牧師と、私人としての信徒の立場は異なるものであり、公開する情報に差が出るのは当然で、信徒が牧師と同じように個人情報を公開しないからと言って、信徒を責めるのは筋違いである。ましてそれに制裁を加えるために個人情報を探り出し、情報共有し、無断公開するなどは犯罪でしかない。

しかし、水草牧師は、筆者を「匿名氏」呼ばわりすることで、暗黙のうちに、筆者を脅した杉本の言い分に同調し、自分は、実名を明かしてブログを書いているので、自分の言い分には信憑性があり、筆者のような得体の知れない信徒の信憑性の疑わしい議論とは格が違うと、自分を誇っているのである。

こうして、自分への批判者が現れた際に、まずは論敵を侮辱したり、未熟者扱い、不審者扱い、果ては狂人扱いまでして、論敵の人格と印象を貶めることで、議論の本質を巧妙にごまかしながら、自分を高く掲げ、自分の結論だけが正しいかのように主張する手法は、村上密牧師やその支持者たちに不思議なほど共通する。

水草牧師の追記が書かれたのが、昨年の12月末であることを見ても、この時点では、杉本はまだ筆者を刑事告訴できると信じていた可能性があり、 筆者は、筆者を何が何でも有罪に追い込みたいと狙っていた同氏の計画と行動が、杉本という一人の人間だけによって行なわれて来たことだとは思っておらず、その背後に、キリスト教界の牧師制度を温存させたい勢力の思惑があったことを全く疑わない。

要するに、杉本のような思想が、一般的な牧師の精神なのである。そこから、いかに牧師という人種が、信徒を自分と対等の存在とみなさず、常に自分は信徒の一段上に立つ者と考えて、信徒を見下しながら、自分にはものが見えているかのように誇り、かつ、自分の活動に反対する信徒は、徹底的に正体を暴露し、あわよくば、制裁を加えても良いといった恐るべき考えの持ち主であるかが分かり、水草牧師の短い言葉を通しても、それは十分に伺い知ることができる。

だから、水草牧師がどんなに丁寧な語調を使っていても、それだけにより一層、「匿名氏」という一言で、この牧師が筆者に対して込めた皮肉と敵意、またその言葉に込められた高慢さが、はっきりと理解できるのである。

だから、筆者は、このような精神の持ち主ばかりが溢れる牧師たちに向かって、信徒が自分の個人情報を誰彼構わず無防備に開示することは、絶対にやめた方が良い危険行為として、全くお勧めしない。彼らが何のために信徒の情報を使うか分からないからである。この人々がどんなに信徒に向かって名を明かせ、個人情報を明かせと叫んだとしても、個人情報をどの程度まで公にするかは、あくまで本人の判断によるものであって、他人に指示されて行うべき事柄ではない。安易な情報開示は、自分や関係者を危険にさらすだけであるから、絶対にやめた方が良い。

さて、杉本の筆者に対する非難は、「匿名に隠れている」という非難も含め、ことごとく根拠なきものとして退けられ、告訴の材料にもならなかった。それによって、逆に、杉本が自分の実名、住所、電話番号を自らネットに公開していたことが、どんなに危険で推奨できない行為であるかが判明したと言っても良い。自分が個人情報を開示しているからと言って、他人にまで同じ行為を強要したり、個人情報を公開していないから他者の言い分に信憑性がないと主張するなどナンセンスでしかない。

さて、水草牧師のブログ内容は、反原発運動なども含め、福音伝道という教会の本来的な使命からは逸れた、社会活動家のような内容も多く、要するに、それらは、村上密や杉本徳久がこれまでそうして来たように、世の悪事に敏感で、不正を見逃せない人間が、「正義の味方」のように弱者を虐げる巨悪を糾弾するといった勧善懲悪の理屈に基づいている。

しかしながら、筆者がこれまで一貫して述べて来たのは、こうして自分があたかも世の虐げられた弱者の味方であって、世の悪事を正す正義の味方であるかのように振る舞いたがる人間、特に、教会を利用して、そのような世直し的な活動に乗り出し、それを自分の名と結びつけたがる人間ほど、その内心は、危険な思い込みに満ちており、その活動は、真に隣人への愛からでなく、彼ら自身の利益や名誉のために行われている可能性が高いということである。

この点で、水草牧師の活動にも、筆者は、これまで記事の中で幾度となく取り上げて来た、プロテスタントの数多くの教会で行われる、信仰に基づかない弱者支援の社会活動、たとえば、ホームレス支援を行う奥田知志牧師や、十字架行進を行うアーサー・ホーランド牧師、カルト被害者救済を唱える村上密牧師などの活動と根本的に共通する問題を見るのである。

記事の冒頭で述べた通り、こうした牧師たちの活動の危険は、彼らが「エクレシアの本質は何か」という問題を、完全にはき違えている点にこそある。

水草牧師は、反原発運動に関わっている事実からも分かるように、世の虐げられた弱者を支援するために、教会はその弱者に信仰があるかないかを問わず、積極的に彼らのために声をあげ、彼らに助けの手を差し伸べるべきという考えの持ち主であるらしいと推測される。そして、おそらくは、その文脈でこそ、教会が不信者の葬儀を行うことも、教会から世への奉仕の一環として認めているのだと考えられる。

つまり、水草牧師は、マイノリティへの社会的支援を教会活動の主軸に据える他のプロテスタントの牧師たちと同様に、教会は信者の利益だけでなく、この世の弱者を支援して、非信者である世人の利益にも仕えるべきとの見解を持ち、その考えの延長線上で、反原発運動を推進したり、不信者の葬儀を行うことを教会は拒むべきでないと考えたりしているものと思われる。

水草牧師が、世人に対する神の憐れみを強調して、クリスチャンがそれにならう行為として、教会が不信者の葬儀を執り行うことに賛同している様子は、同氏の記事内容から明白である。もう一度、同牧師の文章を引用する。

「聖書を啓示された神は、天地万物の創造主であり、宗教を問わず私たちすべての人間に生命を与えてくださったお方です。父なる神は御子キリストにあって万物を創造し、人間にいのちを与えました(ヨハネ福音書1:1-3、コロサイ1:15-17)。その意味で、真の神は、キリスト者の神であるだけでなく非キリスト者の神でもあります。 「 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。神が唯一ならばそうです。」(ローマ3:29,30)

 また、聖書によれば、人には一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっていて、人はみな「キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いをうけることになる」(2コリント5:10)のです。キリスト教徒はキリストのさばきを受け、仏教徒は閻魔大王のさばきを受け、イスラム教徒はアッラーのさばきを受け、無神論者はさばきを受けず無に帰するなどと聖書は教えていません。すべての人がキリストのさばきを受けます。

 このように、聖書によれば、非キリスト者も、真の神からいのちを受けてその地上の生涯を送り、死後はキリストのさばきを受けるのです。だとすれば、非キリスト者の葬にもキリスト教会がかかわるのは、当然ありうることであって、否定すべき筋のことではないでしょう。」

この文章のどこに問題があり、このような考え方の何が異常であって、なぜ反聖書的なのかを、以下で、丹念にさらって見て行くことにしたい。

まず、水草牧師は引用の冒頭部分で言う、「聖書を啓示された神は、天地万物の創造主であり、宗教を問わず私たちすべての人間に生命を与えてくださったお方です。父なる神は御子キリストにあって万物を創造し、人間にいのちを与えました(ヨハネ福音書1:1-3、コロサイ1:15-17)。その意味で、真の神は、キリスト者の神であるだけでなく非キリスト者の神でもあります

ここで同牧師は、神が「すべての人間に生命を与えてくださった」という事実を持ち出し、すべての命は、聖書の神に創造されたものであり、不信者の命も、元を辿れば、聖書の神に創造されたものであるから、その意味で、聖書の神は、非信者の神でもある、と結論づける。

だが、これは、牧師が自ら認めているように、すべて一般恩恵に関わる話でしかない。

一般恩恵とは、キリスト教用語で、聖書の神を信じず、救われていない罪人であっても、誰しも信仰の有無に関わらず、受けられる神の恵みを指す。たとえば、神の創造されたこの地球上で、人々がまことの神への信仰がなくとも、自然界から様々な恩恵を被って生きていることも、それに該当し、あるいは、この牧師が以上で述べているように、死ねば誰しも信仰の有無に関わらず、神の前でさばきを受けることも、(さばきが恩恵という言葉にふさわしいかどうかは別として)、広義で一般恩恵の概念に含まれると言えるかも知れない。

これに対して、特別恩恵とは、キリストの十字架の贖いを個人的に信じて受け入れた信者しか、受けることのできない神の恵みを指す。信者がキリストを自らの救い主と告白して、罪の赦しを得、魂が贖われ、永遠の命を受けて、神の国の相続人となり、その信者に聖霊を通してキリストが内住され、キリストが信者のために義と聖と贖いとなられること等々は、決して非キリスト者には与えられない恵みである。

問題の核心は、この点にある。要するに、水草牧師は、一般恩恵と特別恩恵の二つを同列に論じることで、「教会とは誰の権益に仕えるものであり、誰によって構成されるものか」という問いへの答えを巧妙にごまかし、すり替えているのである。

つまり、この世は、キリストの救いを信じず、贖われていない罪人のための場所でもあるため、世では罪人も恩恵を享受できる。だが、エクレシア(教会)は、キリストの救いを信じて贖われ、この世から召し出された、特別恩恵を受ける者たちだけから成る構成体であり、神の国の統治が及んでいる復活の領域であって、不信者のための場所ではない。教会は贖われていないこの世の不信者のための場所ではないのである。

主イエスは言われた、人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によて生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが知ったことを不思議に思ってはなりません。」(ヨハネ3:5-7)

「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:22-23)


このように、聖書におけるエクレシアなる教会は、ただキリストの贖いを受け入れ、水と霊によって新しく生まれ、キリストの戒めを守って御言葉にとどまり、キリストの頭首権に服し、神の国の相続人とされている、「キリストの花嫁」たる信者のみから構成される。

むろん、キリスト者は、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)という使命を与えられている以上、不信者のもとをも訪れるべきなのである。だが、その目的は、福音を宣べ伝えることにこそあり、不信者の日常生活のニーズに応えたり、マイノリティを支援することによって、世人の地上的な欲望を満たす助けとなることにはない。慈善事業、社会活動が目的ではないのである。

また、いわゆる大宣教命令と呼ばれる以上の御言葉のすぐ後で、主イエスが「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」(マルコ16:16)と続けられたように、たとえキリスト者が福音を宣べ伝えても、聞いた者がそれを信じないなら、その者は、救われず、神の教会の構成員ともならない。信じてバプテスマを受けた者だけが、神の教会に加えられるのである。

だから、聖書における教会の概念の中には、明らかに、一般恩恵しか受けておらず、朽ちゆくアダムの命しか持っていない、水と御霊により新しく生まれていない、永遠の命を持たない非キリスト者は含まれない。

ところが、水草牧師は、この重大な事実には言及せず、むしろ、一般恩恵が非キリスト者にも及んでいるという点だけを強調することによって、教会は、御霊を受けていない、アダムの朽ちゆく命しか持っていない、特別恩恵にあずからない、この世の不信者とは、本来的に何の関わりもないという聖書の動かせない事実を覆い隠すのである。

そして、教会は、信者だけでなく、不信者をも憐れみ深く扱って、不信者にも門戸を開き、不信者の利益のために仕えることを拒むできではないとの見解を述べるのである。

ここには、一般恩恵と特別恩恵との巧妙な混同による、ある種の作為的な、悪魔的とすら言える概念のすり替えが存在する。

つまり、天的なものと地的なものが意図的に混同されて、教会の本質がすり替えられているのである。非信者を生かしている動物的な生命(アダムの命)と、キリスト者を生かしている永遠の命とが、決定的に種類の異なるものであり、人間が誰しも持っている堕落した命だけでは、神の御国に入れず、教会の構成員ともならないという点が、巧妙に覆い隠されているのである。こうして、神の国に入るための境界線が曖昧にされることにより、永遠の命を持つエクレシアに、本来、入れるはずのない罪人が招かれ、信者が不信者に歩み寄って、不信者の利益に仕える必要が説かれるのである。

このような転倒した理屈を用いて、こうした牧師たちは、エクレシアが、特別恩恵を受けていない、この世の不信者とは全く無縁の共同体であるという聖書の事実を人々の目から覆い隠す。その当然の結果として、起きるのが、教会の堕落、世俗化である。

水草牧師は、自らの考えに批判があることを承知でこの記事を書いている。その証拠に、あえて次のような文章を初めから記事に入れている。

ある人たちは、キリスト教会が非キリスト者の葬にかかわることは世との妥協であると考え、それについて否定的でしょう。悔い改めてキリストを信じた者のみが、キリストにあって神の前における罪のゆるしと永遠のいのちに与るのであるから、キリスト教会が非キリスト者の葬儀に携わることはありえない、と考えるのであろうと思います。

従来のキリスト教界の教会は、水草牧師が書いている通り、不信者の葬儀を行うことに否定的であった。同牧師が述べているような見解は、その伝統の中では、当然ながら、世との妥協、さらにもっと進んで、教会の堕落として非難された。

そのような行為は、何が神の目に聖なるものであって、何がそうでないか、聖書における明確な区別を信者が廃して、キリストの十字架における罪人と贖われた者との分離を、巧妙に人の目から覆い隠し、教会の存在意義を失わせ、教会が自らの聖を失って、世(悪魔)に迎合することを助長するものであり、必ず、教会が堕落するきっかけとなる。

だが、水草牧師は、そうした批判を意に介さず、非信者も一般恩恵を受けているということだけを理由に、「真の神は、キリスト者の神であるだけでなく非キリスト者の神でもあります。 」と述べて、それを根拠に、教会は不信者の葬儀をも拒むべきではないと言って、教会が不信者の利益に仕えることを正当化するのである。

しかしながら、聖書ははっきりと、真理はその反対であることを告げている。不信者と、つりあわぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルに何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう」(Ⅱコリント6:14-15)

彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主は言われる。」(Ⅱコリント6:17-18)

このように、十字架は常にこの世と贖われた者たちとを分離する。世から召し出されたキリスト者の第一の使命は、神に聖別されたものと、そうでないものとを明確に区別し、自らの聖別の根拠を守ることにこそある。御言葉は、信者と不信者とを明白に切り分け、両者の間に、何の関わりもないことを、はっきり告げている。だが、それは信者が世から出て行くべきという意味ではなく、教会に世を持ち込まないことによって、教会の聖を守るべきと言う意味である。

非信者は、ただキリスト者と同じ神を信じていない、救われていない人々であるだけではない。彼らにはれっきとした「ほかの神々」が存在する。信じているものが、神と呼ばれていなかったとしても、非信者は例外なく、聖書のまことの神を敬わず、それ以外の何らかの他の対象を拝んでいる偶像崇拝者だと言って良い。

だから、この点を無視して、水草牧師のように、一般恩恵を受けているというだけの理由で、「真の神は、キリスト者の神であるだけでなく非キリスト者の神でもあります。 」と述べて、聖書の神を拒んで偶像を拝んでいる非キリスト者も、最終的にはキリスト者の神の支配下にあるかのように主張し、それを根拠に、「信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう」という聖書の御言葉を否定して、不信者の葬儀にも積極的に関わり、それを機に、教会に不信者のために門戸を開かせ、不信者の利益に仕えることを正当化することはナンセンスであり、聖書の教えに決して合致しない。

この世は非キリスト者の葬儀を行っても何の問題もないが、教会がこの世の不信者の葬儀に自ら関わることで、不信者の利益に仕えることは、教会がその不信者を通して、彼らの拝んでいる別な神に奉仕することと同じであって、それは聖書が認めている事柄ではない。
   
はっきり言っておくが、神の権益に仕えることと、世の権益に仕えることは、決して両立しない。貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。それとも、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。」という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。」(ヤコブ4:4-5)

キリスト者の神は、唯一の神であり、あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。<…>それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、妬む神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」(申命記5:7-10)と言われる神である。

だから、教会が世の不信者の利益に仕えることは、その不信者を通して教会がこの世の神(サタン)の利益に仕えることと同義なのである。人助けをしたいという人情に駆られて、あるいは弱者への憐れみから、それを許すなら、その信者はやがて必ず悪魔に魂を売ることになる。

水草牧師は、追記の中で、不信者の葬儀を執り行うことの必要性を「キリスト者の家族が未信者のまま亡くなり、そのキリスト者が他宗教式葬儀の喪主の立場にならざるをえない状況にある場合を念頭においてのことのことです。」という状況に限定し、宗教ビジネスとは関係ないと弁明する。

だが、ここにも、論理の大きなすり替えが二つほどある。

第一に、教会で行われるすべての葬儀(冠婚葬祭)には、事実上の謝礼金が支払われる以上、それがビジネスとしての要素を含むものであることは、どんなに牧師が否定したとしても、客観的には誰も否定できない事実が無視されている。

第二に、水草牧師は、「非キリスト者一般に教会で葬儀をするほど暇な牧師はいないでしょうね。偽牧師以外は。しかし、匿名氏がいうように、今後は、ブライダルのように、セレモニーホールのイミテーション牧師・司祭が出現する可能性はなくはないかもしれません。」と皮肉を込めた調子で、不信者の葬儀をブライダルのようにセレモニーとして行う牧師こそ、偽牧者であって、自分は、信者からの要請に基づき、極めて限定された機会に、限定された形で不信者の葬儀を教会で執り行うことを認めているだけだから、葬儀を売り物にする偽牧者には該当しないと、争点をずらして答えている。

だが、筆者が指摘した点は、そういうことではない。教会で非信者を対象とする葬儀が(ブライダルのように)どれほど大々的に、かつ、頻繁に行われるかどうかが問題なのではなく、そもそも不信者の葬儀を教会が行うこと自体が、聖書に根本的に反しており、そのような活動に謝礼金が支払われることも問題であり、こうしたことは、聖書の教えに反する、教会の堕落へとつながる深刻な行為だという点である。

葬儀がどれくらいセレモニー化して、どれくらい大量に教会で行われるかといった、数や規模の問題ではないのである。

この世の多くの葬儀屋は、他宗教式の葬儀だけでなく、キリスト教式の葬儀も受けつけているため、信者がこの世の葬儀屋に身内の葬儀を依頼したからと言って、それは必ずしも、信者が他宗教の葬儀の喪主になることを避けられないという状況には結びつかない。そうした状況自体が、極めて稀なケースであると言えるが、どのような事情があるにせよ、キリスト者が、信仰によらない肉に過ぎない家族関係を、公然と教会の中に持ち込むことで、肉の家族関係を御霊による家族関係と同列に置き、教会が不信者の利益に仕えることで、神の国を宣べ伝える使命から逸れて行くことの危険は、絶対に無視できないものである。

すでに述べたように、教会とは、贖われた者たちからなる構成体であり、信者がキリストに従うことや、御霊による神の家族の絆は、肉なる家族関係よりも優先される。その意味でこそ、主イエスは、弟子たちの前で、ご自分の母や兄弟たちを退けて、次のように言われたのである。

「イエスがまだ群衆に話しておられるときに、イエスの母と兄弟たちが、イエスに何か話そうとして、外に立っていた。すると、だれかが言った。「ご覧なさい。あなたのお母さんと兄弟たちが、あなたに話そうとして外に立っています。

しかし、イエスはそう言っている人に答えて言われた。「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」

それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」(マタイ12:46-50)

この箇所は、エクレシアにおいて、肉の家族の絆が、決して、御霊によって結ばれた神の家族の絆よりも優先されないことを、主イエスご自身が自らを手本として示されたものである。

肉の家族の絆にこだわり、これを御霊による家族よりも優先することが、主イエスに従う妨げとなりうることを、主は別の個所で、次のように示された。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:37-39)

この箇所は、一般恩恵に過ぎない、朽ちゆく魂の命によって結ばれただけの、肉的・地上的な家族の絆が、永遠の命なる御霊によって結ばれた家族関係に決して優らないこと、前者を後者より優先する者は神の国にふさわしくないことを述べたものである。

このテーマについては、水草牧師自身が、別の記事「平和でなく剣を」の中で触れており、そこで、「まずは主イエスを愛することです。まずは、自分自身がイエス様を信じて、永遠のいのちを与えられることを最優先にすべきです。」と述べて、親孝行も大切だが、それが決してキリスト者として神に従うことよりも優先されてはならないと述べている。

ところが、この牧師は、一方ではこのように言いながら、他方では、不信者の肉親の葬儀を教会で行うことが、信者が御霊による家族の絆を差し置いて、肉による家族の絆を優先することを意味し、その信者は、自分の肉の家族関係を教会に公然と持ち込むことによって、朽ちゆく魂の命を神の永遠の命よりも高く掲げ、教会を不信者の肉親の利益に仕えさせる場とすることにより、教会をこの世に仕えさせ、神の国のための働き人という使命を妨げているのだという認識を全く持たないのである。

さらに、水草牧師は、筆者が引用した、死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」(ルカ10:60)というくだりをも、「葬儀を中心とするテーマでなく、献身を中心としたテーマだ」と強調することで、論理をすりかえ、争点をごまかす。

まず、福音書から、該当の箇所をもう一度、引用してみよう。

「イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」

しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」

すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」」(ルカ10:59-60)


水草牧師は、この聖書箇所について、次のように追記している。

「→この「父を葬るまで」の箇所の意味は、伝道者として召された者が、献身を延期にする口実として「父を葬るまで」と言っていることに対して、神の国の宣教の緊急性を述べている箇所です。当時ユダヤ教では「父を葬る」ことは他の宗教的義務に最優先したので、こういう口実を設けたのです。葬儀を主題としている文脈ではありません。」
 
これは極めて理解しにくい難解な説明である。あえてこのような表現で、自分が何を言わんとしているか、はっきり結論を示さないこと自体が、巧妙なごまかしのトリックであると言える。

水草牧師が以上の説明を通して、言わんとしていることをあえて意訳するなら、次のようになろう。

この聖書箇所では、当時のユダヤ教の慣習においては、父を葬ることは、最も重んじられている義務的行事の一つであるという背景があり、この信者は、その慣習を持ち出して、身内としての義務を自分が全て果たすまで、主イエスへの献身は延期させてほしいと願い出たわけですが、主イエスは、それに対し、神の国を宣べ伝えることの緊急性はそれに優先することを示され、主イエスに従うことを願う伝道者が、この世の慣習や不信者の身内への義務を果たすことを口実に、献身を後回しにして延期すべきではなく、まずは信者が献身し、主に従ってから、その後、家族を葬れば良いという優先順位を示されたものです。

水草牧師の主張全体から察するに、この牧師は、明らかに、信者が献身した後でならば、不信者の葬儀に携わっても良い、と考えていることが推察される。もしそうでなければ、不信者の葬儀を教会で執り行うこと自体、許可するはずがないからである。

しかしながら、水草牧師は、「これは葬儀を主題としている文脈ではない」という口実の下、あえて下線を引いた後半部分を述べないことによって、自分の主張を曖昧にごまかしている。つまり、信者の献身は、神の国の宣教の緊急性に関わる事柄であるから、身内の葬儀などの全ての地上的な事柄よりも優先されるという前半部分だけを述べて、それでは、信者が献身した後でなら、不信者の身内を葬るために家族のもとへ戻ることを、主イエスはお許しになったのか? という後半部分の争点を覆い隠してしまうのである。

果たして、主イエスは、この聖書箇所を通して、この点について何を示されたのか?

ここに登場する信者が、実際に、父が死んで間もなく、早急に父を葬る必要性に迫られていたのか、それとも、父はあくまで健在であり、葬儀を早急に行う必要はなかったのに、身内としての義務を果たすことを口実に、主イエスに従うことを延期したいと申し出ただけなのか、詳しい事情は、聖書に書かれていないのでよく分からない。

だが、少なくとも、主イエスの台詞が、信者に肉親への愛情と、主イエスに従うことのどちらを優先すべきか、判断を迫るものであったことは、誰しも理解できる。そのことは、上記の御言葉のすぐ後に、別なたとえとして、「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」と申し出た別の信者が、「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」と、主イエスにいさめられたくだりを見ても分かる(ルカ9:61-62)

注意しなければならないのは、主イエスが、「まずわたしについて来なさい。その後でなら、不信者の家族を葬ってもよろしい。」などとは決して言われなかったことである。

むしろ、主イエスは「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」と言われたことにより、信者が不信者の家族の葬儀に携わりたいという願いそのものを無期限に延期し、事実上、却下された。これは、いとまごいに帰りたいと申し出た信者に対しても同様である。

つまり、信者はいつまで神の国を言い広めたら、不信者の家族のもとへ戻り、身内への義務を果たしても良いのか、その点について、主イエスは一言も言及されなかった。それどろこか、信者が肉親の情にとらわれ、家族への義務を優先することは、召し出されて去って来たはずの世界を未練がましく振り返り、「うしろを見る」行為だから、神の国にふさわしくないと言われたのである。

つまり、主イエスは、信者が肉親への情や義理人情を優先して家族のもとに帰ることと、主イエスに従うことは両立せず、信者はどちらか一方しか選択できず、どちらかを永久に捨てるしかないと選択を迫られたのである。

だからこそ、主イエスは、神の国や、御霊によって生まれた神の家族である兄弟姉妹の前に、ご自分の肉による家族の絆を無いも同然のごとく扱われ、「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」と言われ、また、「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」と言われたのである。

ここで言う「死人」とは、要するに、一般恩恵としての朽ちゆくアダムの命しか持たず、特別恩恵としての神の永遠の命を持たない不信者を指している。

救われておらず、永遠の命を持たない不信者は、神の目に真に生きていると言えず、エクレシアとも何の関係もない。だからこそ、主イエスは彼らを指して「死人」と呼ばれたのである。

そして、「死人」に過ぎない不信者たちの必要をかなえることは、教会の使命ではなく、神の国の到来を宣べ伝える宣教の緊急性に比べ、はるかに取るに足りない無益な事柄であるから、世から召し出されたクリスチャンが、そのような地上的・肉的な事柄にとらわれて時間を浪費し、宣教を後回しにするのはやめて、地上のことは地上の人たちに任せなさい、と忠告されたのである。

だから、この聖書箇所で主イエスの述べられた内容は、水草牧師が暗に述べているように、ただ信者の献身の緊急性だけを強調して、信者が献身した後でなら、不信者の身内の葬儀を教会で行っても構わない、ということではない。

むしろ、この箇所は、主イエスが、信者が主イエスに従い、神の国を宣べ伝え、天的な秩序をこの地上にもたらすために働くことは、常に第一優先すべき変わらない召しであって、神の国の秩序は、永遠にこの世的な秩序よりも優先されるべきで、この永遠に揺るぎない法則性を、信者の身内の葬儀という些細な出来事をきっかけに変えてはいけないと、示されたものに過ぎない。

召し出された者は、朽ちゆくもののためでなく、朽ちないもののために働くべきであり、「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」(マタイ22:32) とあるように、この世の事柄は、信者が心を砕くべき問題でなく、放っておいても、この世が適切に処理する。だから、信者は肉の家族や、地上的な事柄への思い煩いを一切手放し、ただ主イエスに従うことだけを念頭に置いて、それにのみ心を砕いて生きなさい、と示されたのである。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)とは、そういう意味である。

この箇所に限らず、聖書の御言葉は、朽ちないものが、朽ちるものに優先し、見えないものが、見えるものに優先し、御霊に属する命が、肉なる命に優先し、天的な秩序が、地的な秩序に優先するという秩序が、永遠に動かしがたいものであることを随所で示している。

つまり、御言葉によるもの、御言葉への信仰によるもの、十字架を基礎とするものだけが、信者にとって、永遠に続く真のリアリティであって、それ以外の、この世の滅びゆく事象は、たとえ肉親への情や義務であっても、すべて無きに等しい影のようなものに過ぎないのである。

だから、世から召し出され、特別恩恵にあずかる、水と霊によって新しく生まれた、神に聖別された信者からなる、キリストの花嫁たる教会は、キリストに服し、その御言葉に忠実に従うキリストの御身体として、また、ただ一人の花婿キリストだけに仕える貞淑な花嫁として、救いを受け入れず、贖われていない罪人とは一線を画し、この世の不信者の利益に仕える道具とならず、また、牧師という人間に過ぎない者に栄光を帰してキリストを裏切ることなく、ただキリストにのみ栄光を帰するために生きるべきなのである。

もしキリスト者が自らこの線引きを曖昧にして、召し出された者と、そうでない者との区別を曖昧にし、不信者をも積極的に教会に招き入れ、彼らに憐れみをかけ、彼らの利益に仕えるならば、その行為は、教会が自らの聖別の根拠を否定して、世の軍門に下ることを意味し、教会はその行為によってキリストへの貞潔を自ら捨てて、この世の人々の拝んでいる別な神に仕えるのである。その結果、その教会は堕落し、キリストの花嫁というより、大淫婦バビロンと呼ぶべきものへと変わって行くのである。

そのことの恐ろしさが、上記牧師を含め、多くのプロテスタントの牧師には、分からないのである。

そういうことが起きるのは、これらの牧師たちが、キリストを知らないからである。彼らは自分が救われておらず、贖われてもいないからこそ、常に救われていない世人に傾倒し、一般恩恵しか受けていない人々に寄り添い、彼らに同化して行くのである。

水草牧師の主張の危うさは、同牧師が、不信者の故人は救われていないのだから、葬儀の際、信者の故人とは明確に区別されなければならないと述べながらも、両者を区別する台詞として、次の点しか示していない点にもよく表れている。

「「故人は、心と言葉と手をもって行なった善悪のすべてをご承知の聖なる神の公正無比のさばきのもとにあります。」と伝えねばなりません。


神が故人に賜った一般恩恵を感謝し、死後に公正な神のさばきがあることを伝える、これば要点ということになるでしょう。」。

筆者は、教会で不信者の葬儀を取り扱う際には、不信者の故人の魂が救われておらず、それゆえ、故人を待ち受けるのは、神の裁きと、地獄における永遠の刑罰であるという事実を、どんなに残酷に感じられても、牧師は遺族や列席者の前ではっきりと伝えるべきであり、それができないならば、葬儀を執り行うべきでないと述べた。

これに対して、水草牧師は、信者の故人と、不信者の故人を区別することはあくまで必要としながらも、その区別を示すために、「死後に神の公正なさばきがあり、故人の行った善悪は、神が公平にさばいて下さいます」といった、聞いた人の思惑次第で、どのようにでも解釈可能な、極めて耳障りの良い言葉だけしか使わない。

罪や、地獄や、滅びや、永遠の刑罰と言った言葉は一切、使わず、ただマシュマロのように甘く響く、耳障りの良い、不信者にも優しい言葉だけを並べるのである。

一体、これでは、どうして牧師が信者と不信者の故人の区別を、人前で明白に行ったと言えるだろう。こんなことでは、どうして教会が、世から贖われた者として、天地の前で、何が神に受け入れられる聖なるものであり、何が神が忌み嫌われ、罪に定められるものであるか、その違いを明確に世人の前に区別して証言したと言えようか。

筆者は、不信者の葬儀を教会が引き受ける限り、必ず、こういうことになるとの見解を述べた。つまり、故人の尊厳を傷つけないために、教会は、聖なるものと、俗なるものとの区別について自ら沈黙し、言葉を濁し、神の愛や憐れみの概念を悪用して、救いに関する重要な線引きをごまかしながら、世人の利益に寄り添うことになるしかないと述べたが、まさにその通りである。

そのような教会の姿勢を見れば、悪魔と暗闇の軍勢は、天地の前で大いに教会を侮るだろう。神も、そのように自分が聖別された根拠を否定して、世人の利益にり添う教会を、もはやご自分の貞淑な花嫁たる教会とは全くみなされず、「地の塩」たる役目を失った、無用なゴミとして、口から吐き出され、枯れ枝のように焼かれるであろう。

だが、こうしたごまかし、曖昧化、トリックは、プロテスタントの数多くの牧師がごく普通に使っている詭弁であり、神の愛や憐れみを悪用した世への歩み寄りは、決して、水草牧師だけではなく、プロテスタント全体に広まる現象なのである。

こうして、天と地の秩序をひっくり返し、教会を世に仕えさせようとする牧師たちは、神の国の何たるか、教会の何たるかが分かっていないだけでなく、献身の意味すらも、理解していない。

牧師たちの考える「献身」の定義は、キリスト教界における一般的な献身の概念に基づいており、それは一般に、信者が、伝道者としての職に就くことと同一視される。

しかしながら、聖書における真の意味での献身は、信者が、伝道者を自称して、信徒たちからの奉仕と献金によって己を支える教職に就くこととは何の関係もない。

牧師や伝道師といった職業に就くことは、信者がキリストに従うこととは根本的に何の関係もない、地上的な、表面的な事柄に過ぎない。

水草牧師は、信徒が献身して牧師になりさえすれば、それで「神の国の宣教の緊急性」に応じたことになるから、その後であれば、教会で不信者の葬儀を執り行っても問題はないと考えるのであろう。

しかし、上記した通り、真の献身とは、信者が神の国の到来を宣べ伝えるキリストの僕となるために、文字通り、生涯、自分自身とこの世に対して死んで、主イエスに従うことを意味する。

だから、信者は、ある日、献身したからと言って、その後でなら、不信者の身内の葬儀のために心を砕いても良くなり、しかも、それを教会行事として行って良いということには、絶対にならないのである。

これは、信者がクリスチャンになると、肉親への思いやりを全て捨てねばならないと言っているのではない。信者が一旦、捨て去ったはずの地上的なしがらみを、後になって振り向き、これを取り戻して、まるでそれが教会の欠かせない使命の一つであるかのように、教会に公然と持ち込むべきでないと言っているだけである。

以上の事柄から結論として導き出されるのば、水草牧師や、その他の数多くのプロテスタントの牧師たちのように、この世の不信者の利益に仕えるための社会活動、支援活動を、教会活動の主軸に積極的に据える人々は、どんなにキリスト者を名乗っていても、罪赦されて救われた、神の国の住人にふさわしい人間ではない、ということである。

水草牧師が自ら書いているように、父を葬ることを至上の義務として重んじたユダヤ教の習慣は、主イエスが地上に来られて、それ以上にはるかに大切な事柄があることを示された時に、事実上、終わった。

それにも関わらず、水草牧師は、すでに終止符が打たれたはずのユダヤ教の慣習を、再び、取り戻す。信者は献身を優先して、主イエスに従うことを選ぶべきだ、と言いながら、その後でなら、捨て去ったはずの人間関係を取り戻しても良いと、こっそり後ろを振り返る。

肉親の情に基づく不信者の葬儀に加えて、反原発運動などの、この世の社会運動をも教会の中に公然と持ち込み、この世の虐げられた弱者の地上的な利益を確保するための支援活動を、公然と教会の活動に据え、これを神の国を宣べ伝える教会の本来的使命と取り替えて行くのである。

こういうことは、神の目に生きている神の国の住人でないからこそ、できることである。彼らは、自分自身が永遠の命によって生かされない「死者」であればこそ、この世の「死者」を重んじ、「死者を葬る」ことを優先し、「死者」の尊厳に配慮を示す一方で、悔い改めない罪人に対する神の裁きや、地獄における永遠の刑罰などといった、この世の人々の聞きたくもない、耳障りの悪い聖書の事実については、言葉を濁すか、沈黙し、キリストの十字架における救いの定義を、ますます曖昧にし、骨抜きにして行くのである。

そのような「死者」への思慕と寄り添いの果てに、キリスト教界には、サンダー・シングのような、霊界における死者の霊との交流などといった極めて怪しい話が、まことしやかにキリスト教の仮面をつけて登場して来る。そして、信者たちが、神は愛だから、罪人への刑罰はない、とか、永遠の滅びもない、などと公然と言うようになり、ついには、一般恩恵を口実に、「神はキリスト者の神であるだけでなく、非キリスト者の神でもあるから、統一教会の信者の神でもある。教会は彼らを拒むべきでない。」などと言うようになる。

こういう教師たちのもとへ群がっていたのでは、信者は真理から空想話へと逸れて、罪に罪を増し加え、神の御怒りの対象となるだけである。だから、救いを失いたくなければ、キリスト教界を出るしかないのである。

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。

というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集めて、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。

しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。」(Ⅱテモテ4:2-4)

2017年1月31日 (火)

兄弟たちを日夜訴える者の敗北――プロテスタントの終焉と、キリスト者の新しい時代の幕開け――

カルト被害者救済活動の自滅――兄弟たちを訴える者の敗北と、プロテスタントの時代の終焉――
 
「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためなのです」(Ⅱコリント5:20-21)

最近、筆者はキリストの義、キリストの贖いの完全性、永遠性というテーマを追求している。

キリストの贖いを通して、クリスチャンが受けた神の義は、この地上の生涯だけでなく、永遠にまで及ぶ。

キリストが十字架で達成された贖いの御業を通して、神が信じる者にお与えになった義は、この世のどんな事物や、どんな人間の思惑によっても、左右されず、信者の年齢、性別、能力、知識、経験などにも全く左右されない。

信者自身がこの尊い救いを自分自身で否定して退けでもしない限り、神が信者にお与え下さった義は、永遠に至るまで信者に適用されて、悪魔の側からのどんな訴えをも大胆に退ける根拠となる。

だから、たとえば、仮に共謀罪に類する法律が、この国で、100、200と制定され、訴える者たちが何百人、何千人集まって、信者を罪に定めようと協議しても、無駄なことである。

パウロは、キリスト者が神から受けた絶大な特権についてこう言った。

神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)

神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めて下さるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」(ローマ8:33-34)

「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。<…>

 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらのすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」(ローマ8:35-37)


「圧倒的な勝利者」。これは信者にとって、絵空事や空文句ではなく、揺るぎないリアリティなのである。

だが、信者は依然として、見かけは弱く、取るに足りない人間にしか見えないことであろう。しかし、信者を勝利させるのは、外見的な強さではなく、信仰にあって働く神の力である。

だから、神がキリストを通して信者にお与え下さった義が、永遠に変わらない完全なものであることがこの地上で証明されるためには、あえて戦いは難しい方が良い。ダビデがゴリアテの前に立った時のように、エリヤがバアルの預言者たちの前に立った時のように、信者には、敵の訴えの前に立つとき、信仰以外の肉の武器は、できるだけ少ない方が良い。

こうして、己の権勢にも、能力にも、知識にも頼らず、ただキリストの御霊だけに頼るいと小さき者が、御言葉への信仰だけによって、激しい戦いを勝ち抜いて、勝利をおさめるのを見る瞬間ほど、キリスト者にとって光栄かつ爽快な瞬間はない。

肉の腕により頼んで、己の勝利を確信してすっかり自己安堵していた人たちが敗北し、キリスト者の神が、永遠に生きておられ、正義を持って右の手を動かし、信者を力強くかばってすべての訴えを退け、あらゆる危難から救い出して下さる方であることを知って、茫然自失するのを見るのは、キリスト者としては言葉に尽くせない喜びであり、そういう瞬間には、ああ、やっぱり、私はキリスト者になって良かった、と思いながら、神の御言葉の確かさの前に、畏れかしこみ、心から神に感謝を捧げ、神に栄光を帰するのである。

そういう瞬間が、筆者の人生には増えつつあって、大きな楽しみとなっている。

我らの神は、その名を不思議と呼ばれる方、どんな時にも信者と共におられる力強い助け主。神には対処できない状況は何一つない。

だから、信者が自分をどんなに力不足のように感じたとしても、恐れることはないのである。キリストが、信者のために、神の知恵、義と、聖と、贖いになられるからである。

「なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

 しかし、神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。

 また、この世の取るに足りない者や、見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。

 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。
 まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。」(Ⅰコリント1:25-31)

さて、信者がいくつもの戦いを経験し、その中で、神への愛と信頼をより深め、キリストの義、キリストの聖、キリストの贖いを自分自身のものとして受け取れば受けとるほどに、信者の心からは、恐れから去って行く。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」(Ⅰヨハネ4:18)

恐れは、罪の意識から生じるものであって、人が自分の罪や、未熟さ、不完全さのゆえに、報いとして刑罰を受けねばらないという予感がその根源なのである。

だが、神の愛の中に確信をもってとどまる信者は、罪意識とは無縁であり、恐れることなく、心を雄々しく、強く持っていられる。そのような信者は、もはや「兄弟たちを訴える者」である悪魔からの挑戦や脅しの前に、揺るがされることなく、大胆な確信を持って、御言葉を証言することができる。その確信は、やがて来るべき日に信者が神の御前で受けるさばきの時にも、大胆に立ちおおせる力を与える。

このように、キリストにあって神の目に義とされたという確信は、信者が信仰の道を進めば進むほど、より確かなものとなって行く。それにも関わらず、神が義として下さった信者を再び罪に定め、訴え、陥れ、滅ぼそうとするような者は、信者個人に挑戦しているのではなく、信者を贖われた神ご自身に挑戦し、神の国の秩序に挑戦しているのであるから、その者は、自分こそ罪に定められて滅びるであろう。

神が義とされたクリスチャンを再び罪に定めるという、悪魔的挑戦は、どんなにやっても無駄な骨折り損で終わる。それは神の定められた永遠に変わらない秩序を覆そうとする試みであるから、続ければ続けるほど、当人にとって不利益をもたらすだけである。

ところで、主の御業は、早い時にはとても早い。

先日、武蔵野警察から連絡があった。当ブログの読者であれば、これが何の件に関するものであるかは、説明するまでもないと思う。この地球上に、武蔵野警察経由で、筆者に連絡を試みて来るような人間は、たった一人しかいない。

それはかつて筆者を警察に訴えると言って息巻いていた杉本徳久氏である。同氏がどれほど筆者を提訴することを強く望んでいたかは、杉本自身の書いた文章からはっきり感じられる。

上記の文章も、ゴールデンウイーク中に送られて来たことを思い出すと、同氏はこの年末年始も、またしてもこの件に夢中になっていた可能性があるように想像される。

だが、武蔵野警察は筆者にはっきりと言った、杉本氏からの筆者に対する告訴は事件として成立しないと。

これは筆者の読み通りであった。筆者は、長年、このような事件に巻き込まれたせいで、それなりの下調べを行ったので、どうせこういう結末になるだろうと予想していた。それは上記の杉本氏の文章に対する返答の中でも書いた通りである。

しかしながら、筆者のその確信は、冒頭に書いた通り、何よりも信仰に基づく確信であり、神がキリストを通して筆者に付与して下さった神の義が、こんな程度の事柄で動かされるようなことは絶対にないという確信に基づいていた。

信者が、こんな程度の事実無根の脅しを真に受けて、信仰告白を自ら放棄しているようでは、キリスト者の名がすたる。

こうした事件は、信者の信仰を試すために、神があえて許されて起きているのである。神は、信者が脅しを真に受けて、自ら信仰告白を断念するかどうか、ご覧になる。

もしも筆者の信仰告白が、見ず知らずの、信仰さえあるかどうかわからない第三者の、根拠もない恫喝によって、簡単に左右されたり、放棄されるほどに軽いものであるなら、そんな程度の証は、初めからしない方が良いであろうし、神の名折れにしかならないその信者は、信仰者を名乗らない方が良い。

それほど不確かな救いの確信しか持っていないなら、そんな信仰は、生涯の終わりを迎えるまでに吹き消されるだろう。

そんな風に、自分を危険にさらしたくないばかりに、不利な状況になればさっさと信仰告白をやめて、神の栄光のために、自分を惜しんで働くことを厭う、無精で自己中心で臆病な信者は、来るべき裁きの日に、神に叱責を受け、そして、人前でイエスを拒んだ罪の報いとして、主イエスからも拒まれて、御国から除外されるであろう。

聖書によれば、おくびょう者を待ち受ける分は、「第二の死である火と硫黄との燃える池だけである。臆病者は神の国に入れない(黙示21:8)

臆病者は、神が自分に与えて下さった贖いの完全さを信じないので、悪魔に脅されれば、自分が贖われた者であることをあっけなく否定して、犯してもいない犯罪の数々を喜んで自白して、自ら世の罪人の軍門に下って行くであろう。そんな信者が、神の国に受け入れられることはまずありえない。自分で告白した通りに、罪人のまま死ぬであろう。

悪魔の嘘は、いつも最大限に膨らました風船ガムのようなもので、どんなに大きく見えても、細い針でわずかな穴をあけただけで、音を立てて弾け飛ぶほど、脆く、はかないものでしかない。あるいは、ナメクジのようなもので、塩をかけておけば、そのうち溶けて消え去る。もっと美しい表現が好みなら、シャボン玉と言っても良い。七色の光彩を放って、一時的には美しく輝くかも知れないが、次の瞬間にはもう跡形もなく消えている。掴むこともできず、痕跡すらも残らない。そういうものを真に受けて、これを揺るぎないリアリティだと思い込むのは、子供か、よほどの愚者だけである。

だから、武蔵野警察には、この機をとらえて、むしろ、筆者を口封じしたいと思っていた連中が、長年に渡り、どんなに卑劣で陰湿な方法を用いて筆者を追い詰め、断筆させようと数々の不法な嫌がらせを行って来たか、かなり時間をかけて仔細に説明しておいた。

警察も、根拠のない訴えを真面目に取り上げたりすれば、自分自身が逆に訴えられ、害をこうむる可能性があることは知っている。虚偽の事実に基づいて刑事告訴に及んだりすれば、訴えた人間だけでなく、その訴えを取り上げた警察も、一緒になって名誉棄損で訴えられる危険が伴うのだ。

昨今、スラップ訴訟という言葉が世間に普及するに連れて、カネや権力や地位や人数にものを言わせて、ただ恫喝によって自分に不都合な言論を口封じすることだけを目的に、何らの確たる証拠もなしに、自分よりもはるかに弱い市民を、法廷闘争に引きずり出しては、痛めつけようとするような人間は、相応の社会的制裁を受けてしかるべきだという考えが、世間に常識として広まり、定着しつつあるように見受けられる。

折しもちょうど良い頃合いで、DHCという巨大企業から、企業に不都合な言論弾圧を目的に、6000万円という高額なスラップ訴訟を起こされて、被告とされながらも、この闘いを耐え抜いて勝訴した弁護士のブログ「澤藤統一郎の憲法日記」のつい最近の記事「「ヘイト・デマ ニュース番組」の元凶・DHCとの闘いにさらなるご支援をー「DHCスラップ訴訟」を許さない・第99弾」(1月28日)にも、スラップ訴訟をしかけるような人間に対しては、その逆の損害賠償の訴訟を起こすことで決着をつけねばならないことが書かれている。

この記事を通しても分かるように、不当な訴訟に巻き込まれた人々は、ただその訴訟に勝つだけでは不十分なのである。スラップ訴訟にただ勝訴しただけでは、いわれなく被告とされた人々が受けたダメージを消すことはできない。彼らは、不当な訴訟をふっかけられて被告とされた年月の間に傷つけられた社会的名誉、受けた精神的苦痛、訴訟への準備によって奪われた時間、気力、体力などの全ての損失を、原告側から取り返すべきなのである。

そうしない限り、スラップ訴訟自体が、悪であり、しかけた人間にも、とてつもない損となって跳ね返ることを思い知らせる方法はない。こうしない限り、カネや権力にものを言わせて、言論弾圧のために、司法の場を悪用して、悪意ある訴訟を起こしたい人々の思いに歯止めをかけることもできない。

杉本徳久氏は、村上密牧師が鳴尾教会にしかけた、初めから勝ち目のなかった、ただ恫喝だけを目的とする訴訟にも、かなり深く関わって、村上サイドを支援して来た。その経過は杉本氏のブログに記されている。

だが、初めから敗訴覚悟で恫喝目的の訴訟をふっかけることは、非常に大きなリスクを伴うことであり、その訴訟を支援した者も、不利益を受ける可能性がある。つまり、村上密だけでなく、村上サイドを支援して、根拠なきデマを広めた人々も、一緒になって賠償請求の対象とされる危険があるのだ。

教会やクリスチャンは、この世の人々と違って、訴えると言われれば、すぐに怯えてひっこむか、あるいは、反駁して、不当な訴訟に勝っても、受けたダメージを取り返すこともなく、何の反撃もして来ない、羊のようにおとなしい人々だと、思われているのかも知れない。もしそうだとしたら、それは事実ではないので、考えを改めてもらわないと困る。

聖書は、悪魔を「兄弟たちを訴える者」と呼んでいる。それは、悪魔がいわれのない罪をおびただしく着せては、クリスチャンを告発することを稼業にしていることを物語っている。あらゆるスラップ訴訟は、まさに悪魔の精神から来るものである。

だが、同時に、聖書は、「訴える者」である悪魔を「ほえたけるしし」にたとえ、この「しし」の咆哮(根拠なき訴え)に、信者はきちんと立ち向かうよう警告している。

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさいご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。」(Ⅰペテロ5:8-9)

ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」(ヤコブ4:7)

「ほえたけるしし」のごとく、獲物を求めて教会をさまよい、咆哮によって聖徒らを脅かし、聖徒らを獲物のように捕まえては、泥沼の裁判に引きずり込んで見世物にし、虚偽の訴えによって傷つけ、苦しめるような不届き者は、獣のごとく捕獲されて、教会の外に追い払われるべきである。だが、それだけでなく、そのような者は、聖徒らに不当な打撃を与え、神の国を宣べ伝える教会の使命を不当に遅延させた罪の報いとして、相応の償いを要求されてしかるべきである。

だから、「ほえたけるしし」に脅かされた人々は、牧師であれ、信徒であれ、いわれなくこうむった損害に対して、黙っておらず、きちんと物申した方が良いであろう。そうしなければ、このような連中は、決してその咆哮をやめないからだ。

箴言には次のような御言葉もある。

罪人の財宝は正しい者のためにたくわえられる。」(箴言13:22)

クリスチャンの使命は、悪魔の不当な訴えを反駁して退けることだけにあるのではない。悪魔に「立ち向かう」姿勢が必要なのである。それは、聖徒が、神の義によって、自分自身の潔白を主張するだけでなく、神が贖われた聖徒を訴えた悪魔の有罪性を指摘し、悪魔の不当な打撃によってこうむった損失について、悪魔に補てんを要求し、ダメージを取り返すことを含んでいる。

悪魔から財産を没収して、悪事を働く機会を奪い、これを教会財産として、福音伝道という目的のために用いることは、神の利益にかなっており、罪ではない。

このように、敗訴覚悟でスラップ訴訟を起こすことは、今の時代、自滅行為でしかないのだが、さらに、訴訟さえ成立するかどうかも分からない段階で、気に入らない相手を恫喝して、黙らせるためだけに、「訴えてやる」などと脅しをかけるのは、それに輪をかけてたとえようもなく愚かな行為である。

だが、武蔵野警察は、杉本徳久氏が、相も変わらず、筆者を憎み抜いて、打撃を与えるために、警察にせっついているのではないらしいこと、明らかに、筆者を告訴するなどといった荒唐無稽な脅しは霧消し、むしろ、今は同氏が「早期解決を望んでいる」らしいことを伝えて来た。

特に、筆者に感じられたのは、杉本氏が、もうこれ以上、村上密や、他の牧師たちの仲間とみなされたくないと考え、村上の活動から手を引きたいと願っているらしい様子であった。おそらくは、杉本氏自身が、こんなむなしい反キリストの悪魔的精神に貫かれた聖徒らの迫害運動に関わることに嫌気がさして、それが自分にとってどんなに限りなく不名誉な損失であるかを理解したのであろう。そして、この活動に関わった記録を消し去りたいと望んでいるのであろう。

もしそうだとすれば、それは大変、歓迎すべき事実であって、筆者には反対する理由もないのだが、ただし、筆者としては、できもしない告訴その他その他の脅かしにより、8年にも渡って、脅され続けた年月に対しては、相応の責任は取ってもらうことが条件となる。

杉本氏とのトラブルは、そもそも、2009年の秋に、筆者がたった一件の自分の手で杉本氏のブログに投稿したコメントを削除してほしいと申し出たことをきっかけに始まった。この何でもない依頼をきっかけに、杉本氏は削除に応じるどころか、見ず知らずの筆者に向かって、削除を要求した理由が我慢ならないと、不当な因縁をつけ、それ以来、自分にとって不都合な言論を筆者が発表する度に、中傷や脅しや嫌がらせによって、次々削除を要求して来たのである。こうして、筆者が脅され続けた年月は、なんと今年で8年目を迎える。

約8年間という長きに渡って、できもしない告訴をちらつかされたり、個人情報をばらすと言っては脅されたり、誹謗中傷の弾劾記事を次々と書かれて冷やかされ、病気でもないのに人格障害だと言われ、重症のマインドコントロールを受けているとか、カウンセリングを受けているとか、人間関係についても虚偽の事実を流布され、社会活動をも、執筆活動をも、妨害されて来たのだから、このような他人を深く傷つける行為には、相応の対処を求められて当然である。もし杉本氏に市民としての自覚や礼節の感覚がわずかでも残っているなら、彼は自分の行為に対して責任を取るべきである。

だが、それに応じさえするならば、筆者の側でも、和解は可能である。我らの神は、悔い改めた人の罪は二度と思い返されないと言われる方なので、一旦、書いた記述は取り消せないとは、筆者は考えていない。悪魔にも悪霊にも悔い改めの余地はないが、人間はそうではないのだ。人間は生きている限り、変わり得る存在であり、願わくば、良い方へ変わって、神の和解を受けるチャンスを逃さないことである。

「今日、もし御声を聞くならば、
 荒野で試みの日に
 御怒りを引き起こしたときのように、
 心をかたくなにしてはならない。」(ヘブル3:7-8)

警察は、以上のような思惑を告げると、民事には不介入だが、かといって、筆者の意見に反対するでもなく言った、「あなたの納得のいくようにして下さい」と。

まるで、いたずらでボールを投げて学校の窓を割った悪餓鬼中学生を、反省させるために、学校へ同伴して来た親のようであった。

こうして、筆者に対しては、スラップ告訴も成立しないうちに、杉本氏が筆者について訴えていた「罪状」なるものは、シャボン玉のように消し飛んだわけだが、このことは、筆者に対する神の贖いが正真正銘、完全であることをはっきりと物語っている。

聖書によれば、クリスチャンは、世によって罪に定められるような存在ではなく、まさにその逆であって、クリスチャンこそ、世をさばく存在なのである。

キリストと共なる十字架により、律法によって律法に死んで、神の御前に義とされたクリスチャンは、もはや、この世のどんな法によっても、罪に定められることのない、むしろ、世のすべての法体系を超える、超法的な存在なのである。

だからこそ、パウロは次のように言ったのである、あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえさばく力がないのですか。私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを知らないのですか。それならこの世のことは、言うまでもないではありませんか」(Ⅰコリント6:2-3)

もちろん、クリスチャンも、神の御前で申し開きを求められるので、自分の行動については、何が神が喜ばれることであるかをきちんとわきまえねばならないが、パウロは、クリスチャンは、世から罪に定められるどころか、世を超越し、世をさばく資格のある天的存在であり、さらに、御使いさえもさばく者であると言ったのである。

それほど絶大な権威をキリストにあって付与されて、天的な秩序の中に召されているクリスチャンを、村上密のような人々は、再び、世の支配下に置いて、世の法廷のさばきの下に引きずり出して、世人の目線によって罪定めしようと望んでいるわけだから、これは聖書の御言葉の完全な否定であり、まさに悪魔的発想から来るものとしか言えない。

筆者はこれまで、村上密の主張の根本的な異端性は、同氏の思考における、この世の秩序と、天的な秩序の逆転にあることを、再三に渡り、述べて来た。

つまり、この牧師が試みたように、神が罪赦されて義とされたクリスチャンを、世の法廷に引きずり出して、罪に定めようと試みることは、クリスチャンに適用された神の救いの御業を否定し、人類の罪を贖うために十字架で流されたキリストの血潮の価値を否定し、それによって我々信じる者に与えられたキリストの義を否定することであるから、それは到底、信仰のある者の取る行動でないが、そのような考えは、この世が教会の上に立ち、世が教会の裁き主となることを肯定するものであるから、天と地の秩序を逆転させて、教会におけるキリストの支配を否定して、教会を世の支配下(悪魔の支配下)に置き、悪魔を教会の主人に据えようとするのと同じであり、神に対する反逆の反キリスト的精神からでなければ、決して生まれ得ない発想であることを述べた。

そのようにして、神が贖われて世から召し出された者である教会に、恐れ知らずにも有罪判決を下そうと試み、教会を再び世の奴隷とし、世の支配下に置こうと企む者たちは、反キリストの精神に息吹かれたアイディアを提唱しているであり、しかも、このようなアイディアを、他ならぬキリスト教界の牧師が提唱し、その主張を他の牧師たちが、反対するどころか、黙認し、賛同さえしているのだから、その様子を見れば、キリスト教界というところが、どんなに聖書から遠い、悪魔的精神に毒された場所であるか、また、牧師という連中が、どういう異常な考えの持ち主であるか、おのずと知れようというものだ。

そもそも、この世の社会でも、自分に不都合な言論を繰り広げる人間に向かって、誰彼構わず告訴の脅しをかけまくるヤクザのような人間は、誰からも信用されないのが当たり前で、まして尊敬など受けるはずもない。そのような人間は、公衆の面前でナイフを振り回す幼児と同じく、気のふれた人間として、大人たちによって取り押さえられ、隔離されるだけである。

ところが一体、どうして、キリスト教界では、そんな人間が、いつまでも傍若無人に歩き回り、その乱暴狼藉を周りの人々が黙認し、あまつさえ、拍手を送っているのであろうか。

自分の教団や教会がありながら、教団や教会の規則を無視して、他教会の内政に首を突っ込み、他教会の信徒に密偵のごとく近づいて、他教会やその信徒を法廷闘争に引きり込んで教会を崩壊させるチャンスがないかどうか、弱点を探り出すために、密告を奨励し、チャンスがあれば、スラップ訴訟をしかけて教会に打撃を与え、リーダーを悪者扱いして追放し、信徒を分裂させて弱体化させ、こうして弱体化した教会を自分の教会に併合し、群れを乗っ取ることで、自分の教会を拡大して行く。これらすべてのことを「被害者救済」や「傷つけられたマイノリティへの支援」という正義の旗印のもとに行う。

こういう人間、こういう異常な牧師を、クリスチャンがどうして仲間とみなすことができるだろうか? こんな人間を、もしクリスチャンが「神の家族」の一員、「兄弟姉妹」として自分の教会に歓迎し、さらには、「牧師」として、リーダーとして敬意を払ったりすれば、その人たちの教会の行く末がどうなるか、分からないのであろうか?

以上のように教会を荒らし回る人間は、どこからどう見ても、牧者ではなく、ただ羊の群れに紛れ込み、羊を食い散らすためにやって来た凶暴な狼」(使徒20:29)でしかない。聖徒らを法廷闘争に引きずり込んで有罪を宣告することをライフワークとするような牧師は、牧師の名にすら値せず、私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」(黙示12:10)、「荒らす憎むべき者」(マタイ24:15)、「ほえたけるしし」(Ⅰペテロ5:8)などの名で呼ばれることこそふさわしい。

ところが、こんな似非キリスト者、もっと言えば、悪魔に息吹かれた反キリストの精神の持ち主としか言えない人間が、公然と教職者を名乗り、講壇から信徒に向かって教師として説教し、信徒の献金を集め、それによって自らの生計を立て、あまつさえ、その献金をキリスト教界に内紛を起こして、信徒同士を争わせるために用いている。そして、他の牧師たちがその活動の罪深さを指摘するどころか、同業者だからと、その罪をかばいだてし、喜んでその悪しき教会破壊活動を黙認している。これが、今日のプロテスタントのキリスト教界のあまりにもお粗末かつ悲惨な現状である。

結論から言えば、こんなキリスト教界は、もはや霊的に機能しておらず、とうに終わっている組織だと言って良い。

そういうことになるのは、この教界に君臨・支配している牧師たちのほとんどが、本当の牧者ではなく、むしろ、キリストの栄光を盗んで、自分が神の代理人(いや、本心を言えば神そのもの!)として栄光を受けることを願う、信徒を踏み台にして、自分の名を上げたいだけの偽牧者ばかりだからである。

プロテスタントの牧師制度は、以下に記す通り、根本的に聖書に反する誤った制度であり、このような誤った制度のもとで、教職者となっているほとんどの牧師たちは、残念ながら、羊のために心を砕く牧者から、最もほど遠い人たちで、信徒から収奪した献金と奉仕によって己を養う特権階級としての偽牧者に過ぎず、彼らは「羊の所有者でない雇い人」(ヨハネ10:12)である。彼らは、己の名誉、地位、俸給を目当てとして教会にやって来た、雇われサラリーマン牧者だから、もともと羊を守る気などさらさらなく、村上密のような牧師が現れて、他教会を泥沼の訴訟に引きずり込み始め、羊を中傷し、食い散らすのを見ても、「ほえたけるしし」の脅威から信徒を守るどころか、むしろ、獣の咆哮に喜んで同調し、獣の怒りをなだめるために、気に入らない信徒をいけにえに差し出し、信徒が食いちぎられる瞬間を見世物として楽しみ、獣による蛮行に自ら加わることで、自分も「兄弟たちを訴える者」となり、自ら獣と化すのである。

こうして、多くの牧師たちが、「ほえたけるしし」の咆哮に自ら同調したのは、彼らが村上密と同じように、自分自身を神に等しい存在であるとみなし、聖書の御言葉に逆らうことを罪とせず、教職者である牧師の意向に信徒が逆らうことを罪とみなし、自分に歯向かって来る信徒は、徹底攻撃して引き裂いても構わないという、村上密と全く同じ、恐るべき悪魔的思想の持ち主だったからである。

教会内で事実上の現人神と化した高慢な牧師たちにとって、村上密の繰り広げるカルト被害者救済活動は、何ら反対すべき性質のものでなく、むしろ、自分たちの特権的地位を脅かしうる、不都合な信徒を、自ら直接手を下さずに「始末」するのに非常に役立つ、手堅い運動であって、手放せない道具であった。

何しろ、この運動は、放っておいても、選ばれた特権階級としての牧師たちの地位を脅かすような告発をする「不心得な信徒」を、次々と泥沼の訴訟や、誹謗合戦に引き入れて、都合よく「始末」してくれるのである。しかも、牧師たちが争いの矢面に立って、自らの手を汚すことなく、信徒同士の争いという形で、この「始末」を成し遂げてくれるのである。

キリスト教界の不祥事が次々と暴かれ、被害者運動のようなものが拡大して行くことは、牧師たちにとっては、常に脅威であった。なぜなら、それはやがてキリスト教界全体への批判の高まりを招き、牧師全体に対する批判となって、キリスト教界全体が揺るがされる事態へと発展しかねない危険を秘めているからである。

そこで、牧師たちは、そのようなことが決して起きないように、一計を案じる必要があった。すなわち、キリスト教界への批判を骨抜きにして、キリスト教界(=牧師たちの特権的地位を守るための砦)を揺るがしうるような、本質を突く批判が、決して信徒の中から出て来ないように、まずはキリスト教界への批判者たちを、「カルト被害者救済活動」という、出来レースのような嘘っぱちの似非改革運動の旗のもとに集めて、牧師たちの監視下に置いておき、他方では、この活動に賛意を示さない信徒、あるいは、この運動から離脱する信徒には、暴徒のような被害者運動の支持者をけしかけて、誹謗中傷を浴びせ、信徒同士の同士討ちに陥れることで、口を封じようとしたのである。

こうして、牧師たちが被害者運動を自らの管理下に置いて、動向をつぶさに監視し、信徒同士を互いに争わせている限り、どこの教会でどんな牧師がどんな不祥事を起こうそうとも、キリスト教界全体が揺るがされることはない。出来レースに過ぎない被害者運動に、キリスト教界への批判を独占させている限り、牧師階級全体に非難の矛先が向くことは決してなく、牧師たちの地位は安泰である。キリスト教界の異端性を真に告発する信徒は、みなこの運動が「始末」してくれる。

こうして、自分たちの特権的地位を守るためにこそ、キリスト教界の牧師たちは、暗黙のうちに、村上密の運動と手を結んだのである。牧師たちは、「神に等しい」キリスト教界の聖職者たちの悪事を率先して暴いたり、牧師制度を否定したり、キリスト教界の欠点を指摘し、その教義に紛れ込んだ異端の要素を暴き出すような、分をわきまえない、小賢しく、不届きな信徒を、全員、抑圧・排除して、言論弾圧するための装置として、「カルト被害者救済運動」を大いに利用し、これを用いて、いついつまでも気に入らない信徒を辱め、脅すことを願ったのである。

こうして、信徒を食い物にして自分自身を養うだけの雇われ羊飼いたちの身の上には、「狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。」(ヨハネ10:12-13)という主イエスの御言葉が、文字通り、成就したのであった。

こうした牧師たちにとって大切なのは、羊(信徒)ではなく、教団や教会で得られる自分の地位、名誉、俸給だけである。それだからこそ、彼らは狼の脅威の前に羊をさっさと見捨て、狼の支配に喜んで屈し、羊を恐怖と暴力で支配し、教会の上に世(悪魔)を主人に据えることに同意したのである。こういう牧者たちの姿は、エゼキエル書で、神が糾弾された「羊を犠牲にして自分自身を養う牧者」たちの姿にそっくりである。

「神である主はこう仰せられる。ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。

弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力づくと暴力で彼らを支配した。

彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。<…>

それなのに、わたしの牧者たちは、わたしの羊を捜し求めず、かえって、牧者たちは自分自身を養い、わたしの羊を養わない。それゆえ、牧者たちよ、のことばを聞け。神である主はこう仰せられる。わたしは牧者たちに立ち向かい、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる。牧者たちは二度と自分自身を養えなくなる。わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らのえじきにさせない。」(エゼキエル34:2-10)

今日のキリスト教界にはびこる以上のように歪んだ偽牧者たちの姿は、主イエスが地上におられた時に、御子を最も激しく迫害した、律法学者やパリサイ人たちといった宗教的エリートの姿にぴったり重なる。

今日の多くの牧師たちは、自らが、律法学者、パリサイ人と変わらない、歪んだ宗教的エリートとなっていればこそ、自分たちの罪や、キリスト教界の闇が真に暴かれて、牧師階級全体が糾弾されて揺るがされることのないように、策謀を巡らせ、表向きには「キリスト教界で被害を受けた者たちの優しい支援者」を演じながら、その実、キリスト教界への不満分子をことごとく監視対象とし、弾圧することで、批判を骨抜きにし、批判者を駆逐して行ったのである。その際にも、この牧師たちは自分自身が訴えられないために、杉本徳久氏のような人物を、まことに都合の良い捨て駒のような存在として、自分の身代わりに全てのリスクを負わせて争いの矢面に立たせ、存分に利用するほどまでに卑怯・卑劣であった。

とはいえ、その杉本氏も、村上密の繰り広げるカルト被害者運動をすでに見放しているようだから、一時は疫病のように猛威を振るった村上の運動も、もはや事実上は、壊滅し、無と化していると言って良い。

こうして、己を神とみなすキリスト教界の教職者たちが、どんなに寄り集まって、陰謀を巡らして、気に入らない信徒を誹謗中傷し、引きずりおろして罪に定めようと試みても、その計画は成らなかった。今や、信徒はみな次々とこの悪魔的活動から手を引き、神が贖われた信者を再び罪に定めるような不届きな願いを抱いているのは、もはやキリスト教界の牧師たち以外にはいない。

筆者は、キリスト教界はそれ自体がフェイクであって、偽物の教会であることを、これまでずっと書いて来た。プロテスタントの牧師制度は、「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(Ⅰテモテ2:5) 「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。」(マタイ23:8)という聖書の真理に真っ向から逆らい、神と信徒との間に、キリストの他に、神の御言葉を取り継ぐための教師としての宗教指導者を、不可欠な存在として置くものであるから、聖書に根本的に反している。

牧師制度は万民祭司という新約の真理を否定する制度であり、制度自体が反キリストの精神の上に成立している以上、こういう制度によって生まれた牧師たちが、神が贖われた信徒を中傷したり、罪に定めようと策謀を巡らし、見世物にして食いちぎったとしても、全く不思議ではない。

牧師制度の忌まわしさは、この制度が搾取にまみれているという点からも、明らかである。プロテスタントでは、聖書の真理を否定して生まれた牧師という忌むべき聖職者階級全体を維持するために、信徒が献金と無償奉仕を続けて、牧師一家を養っている。牧師だけでなく、牧師の妻や子供までも養っている。退職金や、老後の世話までもする。中には、一週間、労働もせずにブラブラしている若い牧師を支えるために、信徒が夜の仕事をする例もある。信徒の奉仕はどれほど長い年月に渡って続けても無報酬だが、牧師だけは一年生でも報酬をもらう。こうした事実に照らし合わせても分かるように、牧師制度とは、結局、教会内の信徒間にもうけられた不当な差別であり、キリスト教の装いをしたカーストであって、牧師は事実上、信徒に君臨する特権階級、宗教貴族なのである。

結局、牧師制度とは、宗教に名を借りただけの、信徒からの搾取と差別の体系なのであり、カトリックの聖職者のヒエラルキーとはまた違った形で、信徒間に差別をもうける、神の御心にかなわない反聖書的な制度である。

さらに、プロテスタントの牧師職には、一体、どうして上記したように、神に逆らい、聖書の御言葉を否定して、信徒を食い物にし、恐怖と暴力によって羊を支配する、見栄と出世欲と自己保身の塊のような、人格的に未熟で、どうしようもない考えの持ち主がやって来るのかと言えば、それはただ牧師制度が間違っているだけでなく、牧師になるためのハードルも、あまりに低すぎるからである。

プロテスタントの牧師職に就くためには、一般的に、カトリックのような長い教育訓練は必要とはされない。人手不足や、大した俸給をもらえない事情も手伝って、候補者が少なく、誰でも志願すれば、簡単に牧師になれる。

特に、ペンテコステ運動に属する組織では、状況は他の教団教派と比べても呆れるほどひどく、すでに述べた通り、牧師になるための条件は、本人の熱意以外には、無きに等しいと言って良い。信仰歴も要求されず、場合によっては、神学校での教育さえ受けずに、名乗り出れば、明日からでも、誰でも「パスタ―」になれるというお手軽さである。

そのようなハードルの低い牧師職には、当然ながら、集まる人々の人格的・教養レベルも低くなりがちで、果ては神に出会ったこともなく、救いの確信もなく、神から召しを受けていないことが明々白々な、信仰さえあるか不明の人間が、ただ自分勝手な情熱だけで、献身して牧師になったりもする。あるいは、社会ではどこへ行っても通用しない、到底、教師やリーダーにふさわしくない未熟な人間が、手っ取り早く地位と名誉を求めて献身する。あるいは、カルト団体から強制脱会させられた人間が、マインドコントロールさえ解けていないのに、ただカルトの教義とキリスト教の教義を取り替えて献身する。家庭的に大きな不幸を抱える人間が、自らの抱える精神的問題が全く解決していないのに、問題解決を求める過程で献身したり、あるいは、プロテスタントの多くの教会が繰り広げるお涙頂戴の社会的弱者への支援の対象となったホームレスや、元ヤクザのような人々が、受けた恩義を返したい気持ちから人情によって献身する。あるいは、世襲制の寺のように、たまたま親や親族が牧師だったからと、その息子や娘が二世三世として献身して牧師になる。

神学校は、牧師の卵たちが、自分の将来に有力なコネとなってくれそうな牧師家庭の子女を物色するための結婚相談所も同然の存在に成り果てている。つまり、キリスト教界は、水と霊によって新しく生まれた信者が集まる場所どころか、この世の肉の絆や、血統がものを言う、完全に地上的で世俗的な宗教に成り果てているのである。

こういう得体の知れない不届きな動機で聖職に志願した人々が、社会で切磋琢磨して人格を練られることもなく、ほんのわずかな学びの年月を経ただけで、もうひとかどの教師となって、「先生」と呼ばれ、信徒にお説教を垂れ、信徒が汗水流して働いて得た献金で自分自身を養い、寄り集まって、自分の教会を互いに自慢し合い、ライバル牧師を凌ぐために、教会をどうやってもっと大きくして、献金額を増やすか、日々、思いを巡らせているのである。

一般に、プロテスタントでは、牧師同士の争いは相当にひどいと言われている。牧師たちは、自分の教会の礼拝堂の規模や、信徒や献身者の人数を巡って、絶えず競い合い、教団が事実上の献身者のノルマを課したりして、争いを煽っている。そこで、牧師たちは、互いの成功を妬み合い、陰で中傷し合って、足を引っ張り合うなどは日常茶飯事で、こんな場所で、エキュメニズム運動など、どんなに唱えてみたところで、互いに競い合う牧師たちの間に信頼関係や、協力関係が生まれることはない。

プロテスタントの「多重分裂病」(=牧師たちの争い、教会同士の争い)のひどさは、牧師たち自身も認めており、これこそプロテスタントの致命的な弱点であって、牧師たちの目指す「リバイバル」を不可能にしている最も深刻な原因であるということは、牧師たち自身が、認め、度々、説教などで反省材料として語るほどである。(人間的な確執に加えて、宗派や教義の違いから生じる絶えざる争いもある。)

このように、プロテスタントには、牧師たち自身が、教職者たちの間で争いがやまないことを憂慮している現状があり、インターネットで起きていることは、その反映に過ぎない。要するに、牧師たちの分裂闘争や、妬み合い、足の引っ張り合いが、信徒に飛び火しているだけなのである。インターネット上で、信徒をさらし者にし、中傷することで、誰よりも喜び、鬱憤を晴らしているのは、牧師たち自身なのである(村上密はその代表格に過ぎない)。

筆者は物心ついた時から、プロテスタントを観察して来たので、決して誇張した事実をここに書いているわけではないが、このような状況なので、人格的に高潔で、真実、信仰深い信徒は、どんなに主イエスに従う決意をしても、あくまで信徒のままにとどまり、決して牧師にはならない。謙虚な人間ほど、決して自分から名誉や高い地位を求めないものだが、さらに、聖書が「多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」(ヤコブ3:1)と述べている以上、多くの信者は、この警告に真摯に耳を貸して、自ら「先生」と呼ばれる立場に立って、格別きびしいさばきに自分をさらそうとは思わない。また、プロテスタントの多くの牧師たちがやっているように、自分の名を大々的に掲げて、正義の旗の下に、お涙頂戴の偽善的な弱者救済活動を繰り広げたり、福音伝道を口実に、奇抜な格好をして世界各国を練り歩き、神の恵みと言っては高価な車を乗り回したりはしない。カルト問題の専門家として、世間で有名になったりすることを目指したりもせず、こうしたすべてのことを売名行為として嫌悪し、忌避する。(筆者がこのブログをペンネームにしているのも、関係者を守るためと、自ら栄光を受けないためである。)

だが、牧師職は、神の目にのみ覚えられるように、隠れたところで奉仕を行う生き方とは正反対の生き方をする人たちが、積極的に手を挙げる職業であり、なおかつ、上記した通り、この職業は、それ自体が、信徒への搾取の上に成り立ち、見えない神ではなく、牧師という目に見える人間に栄光を帰するシステムであるから、この職に志願するために集まって来る人々が、お世辞にも謙虚とは言えない、信徒を踏み台にして出世することを願う名誉欲・出世欲・自己保身の塊のような卑しい人間であっても、何の不思議もないのである。

つまり、牧師制度という聖書に反する制度自体が、教会を腐敗させる根源となっているのである。

だから、村上密の訴えているような「教会のカルト化」は、一部の腐敗した牧師だけの専売特許ではなく、牧師制度そのものが結ぶ悪しき実なのだと、いい加減に、理解すべきなのである。牧師制度という、聖書に逆らい、キリストの栄光を奪って成り立つ、人間崇拝の罪にまみれた制度ある限り、カルト化はやまず、牧師制度そのものの持つ根本的な悪を見ずして、ただカルト化という現象だけをどんなに叩いても、トカゲのしっぽ切にしかならず、一切は無駄なのである。

しかも、牧師が牧師を取り締まることで、カルト化を抑えようという発想なのだから、呆れるようなマッチポンプ、プロレスごっこでしかなく、それは結局、教会のカルト化を取り締まることを口実に、村上密のような野心的な牧師が、他の牧師たちを抑えてキリスト教界の覇権を握りたいがために行われているだけの運動であって、そんな方法では、カルト化は防げないばかりか、教界は前よりもより一層悪くなり、もっと恐ろしいカルト的腐敗に落ち込んで行くだけである。

だから、こういう人々の行うカルト取締運動は、上記した通り、本当は牧師制度そのものを温存するために作り出された目くらましの運動であって、牧師階級に属する者たちの利益を守り抜くために作られた出来レースに過ぎないのである。

筆者の目から見れば、カルト被害者救済活動などというものが登場して来て、諸教会の腐敗が次々と明るみに出された時点で、これはプロテスタントが役目を終えて、霊的に終焉を迎えていることが、公然と世に示されたという事実を意味する。

かつてマルチン・ルターの登場と共に、ヨーロッパで隆盛を極めたカトリックの組織的腐敗が暴かれ、宗派としてのカトリックの信用が徐々に権威失墜して行き、これに代わって、プロテスタントに信仰復興運動のバトンが預けられたのと同じように、今また、プロテスタントの牧師制度の闇が暴かれ、教会成長論や、ペンテコステ・カリスマ運動のような、教界に蔓延する異端思想が明らかになったことにより、プロテスタントも存在意義を失って、霊的に終焉を迎えつつあるのである。

だから、今後、信徒が真剣に心を砕くべき課題は、プロテスタントの腐敗したキリスト教界をどう立ち直らせるかという問題ではなく、むしろ、このようにまで腐敗したキリスト教界を離れて、牧師制度のないところで、どのように神が贖われたエクレシアとして、神の国の権益に仕え、天的リアリティをこの地においても実際とし、キリストと共にこの地を治め、キリストにある成人になるまで、信仰を成長させるのかを模索することにある。

重ねて言うが、牧師制度という人間崇拝の罪と手を切らない限り、信者が見えないキリストだけに頼り、聖書に基づく信仰の本質に立ち返ることはできないであろう。この教界に身を置いていたのでは、信者は信仰の何たるかも分からないまま、ただ聖職者階級を養うための道具として生涯を終えるだけである。

牧師制度という、人間崇拝・指導者崇拝の罪なる制度を敷くキリスト教界の組織の中で、信者はまことの神に出会うことはできず、真にキリストに従うこともできない。だから、真実、主イエスに従いたいならば、信者は人間の指導者に従うことをやめて、キリスト教界を出て、御霊によって直接、御言葉を教わりながら、見えない神にだけ頼り、キリストだけに栄光を帰する生活に転換するしかないのである。

«統一教会に後押しされる安倍首相が推進する共謀罪が日本経済にもたらす破滅的な委縮効果

最近の記事

無料ブログはココログ