2019年9月 8日 (日)

神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。

「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。

だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。

つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるのです。わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。

キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(Ⅱコリント5:16-21)

上記の御言葉において、「キリストと結ばれる(新創造とされること=キリストと教会との結婚)」ことと、神との和解が、同じ文脈で語られていることの深い意味を改めて思わされる。

前回、二つの対照的な手続きについて書いたが、先日、出された死の宣告と言って差し支えない宣言も、それから間もなく、新たな命に至る宣告によって上書きされた。

もちろん、これらは本当は何の関連性もない別個の手続きであるから、それぞれがお互いを打ち消すわけではないし、上書きされることもない。

とはいえ、手続きの受け手は、共に筆者という一人の人間であるから、受け止める者の感覚としては、一つの試練のあとに、豊かな慰めが与えられた、という感覚である。やはり、何事も思い悩んではならないという聖書の御言葉は正しく、キリストの御身体には、何か一つの苦しみが生じても、こんなにも早く、新たな回復の力が働く。

だから、筆者はディスカウントの宣言を信じず、それを打ち消すために、再び歩いて行くのみである。

その日、決して晴れがましい席ではないところに、筆者が呼んだのではない、たくさんの人たちが来ていた。結婚式にも似て、厳かな宣言がなされ、見知らぬすべての人たちが、筆者と共に命と安息を得たことを、共に喜び、祝福してくれているようであった。

こうして、初めて出会う人たちとの間でも、隔てなく喜びと悲しみを分け合う、そういう不思議な関係が地上にありうるのだと筆者は知って、何か厳かな感動が込み上げて来た。

聖書において、冒頭に引用した通り、人が完全に罪から贖われて、神と和解し、神と一つとされることは、キリストと教会の結婚の奥義である。

従って、神と和解すること、人がキリストに結ばれ、新しく造られた人になることは、同じ意味なのである。

だとすれば、神と人だけでなく、人と人とが和解し、人の間で、すべての敵意と隔てが取り除かれて、新しい関係性が打ち立てられることも、どこかしら、神と人との和解によって、一人の「新しい人」が造られる過程に似ている。

見ず知らずの人々であっても、全員が一つに和合し、まるで一人の新しい人のように、新たな関係性の中に入れられるのである。

結婚があれば、家ができる。新しい家族が生まれる。それと同じように、主にあって、和合した人々は、新しいコミュニティの一員となる。

そのようにして、筆者は、新たな関係性が誕生する瞬間に立ち会わされたような気がした。

その場面が、想像していた以上に、素敵で、そして、味わい深い、感動の伴うものであり、筆者を大いなる尊厳で覆ってくれたがゆえに、筆者はさまざまなことについて、考えを新たにせざるを得なかった。

おそらく、天の御座において、神の御前に立たされるときには、きっと、このような光景が見られるのではないかと感じた。そこには、見知らぬ「雲のような証人」たちがこうして立ち合い、神と共に、筆者の労をねぎらってくれるだろう。

「あなたはよくやりました。ここでは、誰も恥を受ける必要はありません。あなたもこれ以上、奮闘する必要はありません。これがあなたの報いであり、あなたの慰めであり、安息です。どうぞ、自分の報いを受け取りなさい」

そう言って、筆者の地上での労苦をねぎらい、祝福の言葉で包んでくれるのではないだろうか。
 
いつの間にやら、筆者はもはや一人ではなくなり、大勢の人たちに、助けられ、支えられながら、共に進んでいたことが分かった。

味方ではないと思っていた人たちまでが、味方となり、呪いは解除され、すべての人たちが生かされる正しい決断が下され、新たな命の力が、筆者に注ぎ込まれた。

そこには、誰も筆者を憎んでいる者もおらず、嘲る者も、見下す者もおらず、筆者自身も、もはやこれまでのように、怯えながら、自分よりも強い誰かにしがみつき、助けを求めるだけの存在ではなくなって、自分自身で、命に至る水を見つけ、これを汲み出し、それを人々と分かち合う方法を、学び始めたのである。

そうなったのも、多くの人たちが、正しい結論へ至りつけるように、根気強く筆者を導いてくれたおかげである。

その語りかけに気づき、これに耳を傾けたおかげで、筆者は、当ブログを巡る裁判の結審がそうであったように、心砕かれ、へりくだった人でなければ、決して立ち入ることができない、非常に神聖で、厳粛な場へと導かれたのである。

それは本当に、結婚式に似ていた。当ブログを巡る訴訟の時の結審の時にも、筆者は泣いておらず、むしろ、こうなるのが当然と言わんばかりに、単純に喜んでおり、落ち着いていたのに、今はその時に分からなかった多くのことが分かるようになったおかげで、さらに深い感動を味わうことになった。

それは、誰も罪に問われないことが持つ深い解放の意義を知ったからである。すべての人々が解放され、自由になることの意味を理解し、その再生の瞬間に立ち会ったことにより、筆者は自分が罪に問われているわけでもないのに、まるで自分を罪に問うた債務証書が、目の前で破り捨てられるのを見たのと同じくらいの感動を受けた。

人と人との関係性が修正され、生まれ変わって、新たなものにされることには、それくらいの衝撃がある。マイナスだったものが、プラスに変えられ、無益だった関係が、有益なものに生まれ変わり、憎み合い、責め合うだけであった関係が、慰めといたわりに満ちた、互いを生かし合う関係に変えられる。

断絶ではなく、敵意でもなく、和合と、新しい始まり――その劇的な変化が、目の前で進行しているのを見たとき、まるで自分が死地から救われたような感動を覚え、涙が込み上げて来た。

それは確かに、あの訴訟の結審の時に似ていた。筆者は、あの時、あれが本当の終わりになるのだと思っていたし、それにふさわしい見事な終わり方だったと、今になっても思う。

当ブログを巡る裁判は、未だ続いているとはいえ、正直に言って、これから始まる戦いが、一審以上のものになると、筆者は思っていないし、間違いなく、この訴訟の主役は、当事者3人と、一審を担当した裁判官だったように感じている。この訴訟は、本当は、あの結審の時に、実に調和のとれた形で、すでに終わっているのだ、という気さえしないわけではない。

これは、筆者が主張を放棄して争いをやめるとか、その後、書かれた判決が間違っていたなどと言うわけでは決してない。しかし、正直に言って、訴訟で下される法的な結論と、当事者や関係者すべての思いとの間には、大きなずれがあるのが普通なのである。

訴訟における法的な決着は、必ずしも、事実に沿ったものとはならないし、すべての人にとって望ましく、ふさわしい解決にもならない。これは当ブログに関わる裁判とは関係のない話だが、世には、まるで嫌がらせのような決定や判決を書く不正な裁判官も存在するため、必ずしも、正しい判決が下されない場合も、多々あるし、どんなに理不尽でも、法的には責任を追及できない事件なども膨大な数、存在する。

証拠がないゆえに、どんなにひどい仕打ちを受けても、立証できない被害もないわけではないし、法そのものにも、抜け穴や、欠陥があり、時代の進歩が遅れているがゆえに、整備されていない部分がある。

さらに、たとえ判決が100%正しいと言える場合であっても、これを動かせない結論として突きつけられた人が、それに従うとは限らない。

少しでも疑いがあれば、当然ながら、紛争は長引くこととなり、また、強制的な判決によって、力づくでそれに従わされた者がそれに納得せず、新たなリベンジを思いつくような場合さえ、ないわけではない。

だからこそ、判決以外にも、紛争そのものをおさめるための解決方法が存在するのであり、それは裁判官だけが作り上げるものではなく、当事者全員が作り上げて行く全員参加型のものなのである。

そのことが、時を遡って、あの結審の日に、おぼろげながら、見えたのではあるまいか、という気がした。もちろん、筆者は、あの時に提案された不公平な和解案なるものを、受け入れれば良かったと言うわけではない。あの時には、判決を得ることこそ最善策であり、それがあってこそ、今の筆者の解放が得られたのである。

だが、それにも関わらず、結審の時には、それ以上に非常に大切な何かが、今現在手にしている成果をはるかに超える何かが、見えていたような気がしている。

あの時、まだ筆者は、助けは他者から、筆者よりも賢明で、強い誰かからやって来るのだと考え、裁判官に助けを求め、裁判官の中に存在している筆者のための自由を引き出さなければならないと思っていた。

だが、その後、必ずしも、自由と解放は、常に他者の決断の中にあるわけでないことが、徐々に分かって来たのである。むろん、あの時、裁判官が判決を書いてくれたことの意義は非常に大きい。それは筆者が望んだことであり、完全でないとはいえ、多くものがそれによって達成された。

とはいえ、裁判官はもともと事件の当事者ではないから、起きた出来事を詳細に知り尽くしているわけでもなく、証拠があったからと言って、必ずしも、公平で正しく物事を判断できるわけでもない。だから、判決はどんなものであれ、100%完全にはならず、また、100%完全になる日は、どんなに待っても来ないかも知れないという気がする。

その代わり、裁判官には、事件の当事者を仲裁する優れた能力と経験がある。それをフルに活用しながら、当事者自らが、何が正しい解決なのかを、自分自身の力で絶え間なく考え、それを作り上げて行くために努力を払うことの方が、裁判官にすべてを任せるよりも、有益な場合があるのではないかと。
 
だが、それを生み出し、選び取るためには、相当な力と知恵がいる。何よりも、自分のイニシアティブで物事を進めるための強い決意と勇気と覚悟と自信が必要となる。あの頃、筆者にはまだそれがなかった。決めるのは自分ではないと考え、誰かに判断を委ねることで、安全が確保できると思っていた。

だが、あの時、すでに見えかけていたものが、時と共によりはっきりとした形になって、さらに優れたアイディアとなって、現れて来たのである。

それは、誰も罪に問われず、なおかつ、誰もが争いから手を引き、しかるべき償いがなされて、紛争が終結するという奇跡的方法である。

その可能性が、おぼろげであっても、見えていたからこそ、当ブログを巡る訴訟の一審において、最も神聖な瞬間は、今も筆者の目には、法廷で言い渡された結審の時のように見えているのではないかと思う。

争いの終結と、平和の到来、それが、あの時におぼろげに見えていたものの正体なのである。不法行為は、不法行為として確かに裁かれなければならないが、それにも関わらず、それを超えた領域にあるさらに正しい結論が存在する。その時に見えていたかすかな可能性、そこに込められている奇跡的な再生の力を、筆者は、全く関係のない別の出来事を通して、より具体的な形で、理解したような気がする。

だが、それに到達するためには、何よりも、へりくだりと、謝罪や償いといったすべてのプロセスがなくてはならず、さらに、それは、ふさわしくない人間には、立ち会うこともできない、神聖な瞬間、場所である。

私たちが命に至るためには、らくだが針の穴を通るようなへりくだりが必要で、それがなければ、人間関係が再生されることもなければ、紛争に終止符が打たれることもない。

だから、筆者は今回、二つの手続きが、正反対の結末へと導かれたことには、深い意味があると思っている。人々との関係を真に再生に至らせるためには、自分がそれにふさわしく身を清めねばならず、誰でもそういう場を作り出し、もうけることができるわけではない。

そこで、一方の手続きがきちんと終了に至らず、筆者にとっても、他の人々にとっても、非常にまずい不本意な結果に至り着いていることは、決して偶然ではないと筆者は考えている。

なぜなら、そこには、本当に意味での信頼関係が存在しなかったことが、後になって分かったためである。何よりも、そこでは、筆者に対する信頼というものが、土台から存在しなかった。

そのような状態で、関係する全員が喜びと悲しみを共有し、全会一致で同じ結論に至りつき、互いにへりくだって、互いを自分よりも尊い優れた存在として認め、互いに手を差し伸べ合い、和合することは、決して無理な相談であったろうと思う。

だから、信頼関係のないところでは、ふさわしい解決が与えられないことは、むしろ当然なのである。それゆえ、そうした手続きには、やがてふさわしい別な人々が現れて、解決へと導かれるのを待つことになろう。
  
だが、もう一方の場においては、それが成就するだけの素地が、初めから整っていた。そこでは、すべての人々が、筆者を殺してはならないと決意し、筆者を生かすために、立ち止まって、筆者の応答を真剣に根気強く待ってくれたのである。

それを見ても、やはり、他者のために苦しみを担い、人を生かす仕事を成し遂げることができる力は、女性よりも、男性の方にはるかに多く備わっていると思わずにいられない。

女性は苦しみを厭い、自分の美が人前で割かれ、栄光を失うことにほとんど耐えられず、手間を省き、楽をすることを願い、何が自分にとって得であり、損であるかという自分中心の考え方を離れることができないが、男性たちには、自分を離れて、大局的に物事を見、自分の損になってでも、他者を救うために深く苦悩を負う能力が備わっている。

危険な場所にでも飛び込んで行って、自分よりも弱い者たちを救い出し、辱められた人たちを尊厳の衣で覆い、彼らの痛み苦しみを我が事のように担い、自分よりも弱い者たちに命を与えるために、自分を犠牲にしてはばからず、忍耐することができる力がある。

前にも書いた通り、そういう力は、女性にはほとんどないものである。そして、そういう性質は、どんなに利己的な男性であっても、男性である限り、どこかしら存在の根本に流れているものであって、それは、筆者の目から見ると、神聖さは失って、非常にかすかなものとなっているとはいえ、キリストが花嫁なる教会のために恥をも厭わず、ご自分の命を投げ出して、十字架に赴き、罪に背いた人々を救おうとされた、神の救済者としての性質に由来するものなのである。

そうして、他者に命や解放を与える役割こそ、男性の栄光であり、存在意義そのものなのではないかと筆者は思っている。
 
だから、筆者の人生において、筆者に害を与えず、有益な決断を下してくれた人々の名を列挙しようとすると、そこにほとんど女性の名は残らない。全くいないわけではないが、女性は多くの場合、嫉妬や競争のためなのか、何のせいであるのかは知らないが、至る所で、助けを求めた筆者をかえって疑い、辱め、残酷に引き裂くような決断を平然と下し続けている。

女性が女性に対して極度に残酷になり、自ら女性を束縛の中に閉じ込め、それゆえ、他の女性を解放しないだけでなく、自分自身も、解放から遠のいて行く場面というのは、幾度となく見せられて来た。

それはやはり、女性はどんな女性であれ、常に自分が助けられる(救われる)側に立ちたいと願い、他者を助ける(救う)側に立つことが、極めて難しいからだと思わざるを得ない。自分自身が常に解放を求め、救われることを求め続けているがゆえに、他者を救う力がないし、場合によっては、それを喜ぶことさえできないのである。それが、筆者の目から見ると、女性が単独では完全になれない虚無性、女性が存在の根本に抱えている不完全性、理不尽性なのである。
  
とはいえ、筆者も、もはや強い指導者や権威者を探しては、彼らに一方的に支えられ、かばわれるだけの弱い立場ではなくなり、自分よりも強そうな他者に自己決定権を委ねるのではなく、自分自身の判断で、正しい結論に至り着くことができるよう学習を促されている。

こうして、結婚の儀式にも似た短い手続きが、平和に、静かに終わった後で、これまでになかった全く新しい関係性――和合――が生まれ、何かしら巨大な解放に満ちた変化が、筆者の中に生まれたような気がした。

それまでに起きたすべての事は、嘘のように過ぎ去り、洪水は去り、筆者は新しい大地に足を踏み出した。

そこには、新しい生き方、新し関係性、新しい領域があり、すべての争いや対立や敵意が終了した、新たな世界が始まっていたのである。

多分、それが、当ブログを巡る訴訟の結審の日に、おぼろげながら見えていた神聖な光景なのだろうと思う。

まだまだ多くの未解決の問題があって、筆者は奮闘を続けなければならないが、筆者にはようやく分かった。解決は、裁判官や、筆者よりも強そうに見える様々な指導者、権威者から来るのではなく、他でもない筆者自身の中にあるのだと。

誰一人、筆者以上に、筆者が辿って来た人生や、遭遇した出来事について、正しい認識と判断を打ち立てられる者はおらず、他者に判断を委ねるよりも、自分自身で、結論を導き出して行くことの方が、はるかに有益であり、確実な解決なのだと。
 
当ブログを巡る訴訟では、担当してくれた裁判官は、筆者の主張を疑わず、信じてくれて、可能な限りの解決を模索してくれたが、その解決の最高の形態は、全員が協力して紛争を終わらせるという同じ目的へ向かった、あの日に見えた何かなのかも知れないと思わされる。

それゆえ、筆者には、結審の日が、神聖な儀式のように尊いものに感じられるのであって、だとしたら、その時に得た教訓を、今度は、筆者自身が判断する側に立つことによって、活かさねばならない。
   
こうして、干潟は、いつの間にか、筆者自身の内側に移行し、筆者自身が、人々を生かすための判断を下すべき立場に立たされていた。
 
このように、立ち上がって、自ら判断することができるはずだという気づきを得たのも、それが起きるまで、忍耐強く筆者を待っていてくれた人々がいるためである。
  
筆者が黙っていると、筆者の意見などないも同然とばかりに、自分にとってのみ都合の良い結論を押しつけようと、筆者を無視して、筆者の取り分を勝手に分け合い、あるいは、筆者をさらに黙らせようと、脅しつけたりすることなく、あるいは、筆者を置き去りにして、さっさと先に進んで行こうとしない人たちがいてくれたおかげで、協力して互いを生かし合う関係を打ち立てるという最善の策へと至り着くことが可能となったのである。

何より、すべての人々にへりくだりがあればこそ、そうしたことが可能となったのであろう。
 
気づくと、ないないづくしの制約だらけの環境で、互いに責め合い、罵り合う関係は、はるか後ろに、逃げるように消え去り、筆者を喜んで迎え、尊厳によって包んでくれる、新たな社会、新たな関係性が出現していた。

そこには、貧しさもなく、侮辱もなく、傷つけ合いも、否定もなく、その代わりに、豊かさと、いたわりあいと、完全性があった。

筆者は、新たに踏み出した一歩が、巨大な祝宴へと続く道であり、その道は、天のエルサレムにおける「我が家」にまで、はるかにつながっていることを思う。人々は孤児のようであった筆者を着飾って、栄光に満ちた花嫁のように、新たな家に向かって送り出してくれた。

主イエスは弟子たちに向かって、こう言われた。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」

「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」(ヨハネ14:1-4, 12-14)

主イエスは、私たちのために、まことの父なる神の御許に行って、天に住まいをもうけるために、十字架へ赴かれた。主は今も私たちのための住まいを天において準備中である。

だから、私たちも、地上において、神の住まいにふさわしく整えられるために、訓練を受け、神の家として建設されている最中である。
 
私たちの願うこと――それは、私たちのすべてが、孤児とされず、豊かな住まいを得、誰も貧しさや、悲しみや、死に脅かされることなく、十分な豊かさにあずかり、神がまことの主人となって、私たちの守り主となり、私たちを配偶あるものとして、美しく飾って、ご自身の身許に迎えられることである。

その日、その時、すべての戦いが止むだろう。私たちは恥を尊厳で覆われて、安息の中に導き入れられる。すべての罪の痕跡は取り除かれ、死の苦しみはなくなり、罪の債務証書はことごとく破り捨てられ、涙は拭われ、苦しんだ痕跡さえもなくなる。

失敗も、悲しみも、挫折もなく、嘆きも、叫びも聞かれない。もはや、いかなるディスカウントの言葉も発せられない、贖われた完全な新しい人、新しい天と地、新しい社会が出現する。

そこには、一切の罪の痕跡のない、聖なるキリストの花嫁なる教会だけが用意されていて、私たちは欠点のない者として、神に迎えられる。

私たちは、そういう日に向かっており、その日が近く、確かにそば近くまで、やって来ていることを感じる。そして、そのようにして贖われるのは、筆者だけではなく、数えきれない大群のような人々なのである。

それは、筆者の理解を超える出来事である。筆者はこれから起ころうとしていることのスケールを垣間見せられ、それに驚かされている。

暗闇の軍勢の手に渡り、決して解放されることはないであろうと思った人々、二度と取り戻されることなく、再生されることもなく、断絶し、廃棄する以外に方法がないであろうとあきらめた関係に、新たな命が注ぎ込まれる。負であった記憶が、正に塗り替えられ、断絶と離反ではなく、和合と新たな関係性の出発が生まれる。

これまで、筆者だけが自分の手に握りしめていた解放の宣言は、筆者の手からもぎ取られるようにして、他の人々に渡された。それを待っていた多くの人たちがおり、その人々が、筆者の前で、筆者と同じように、まるで神に贖われるように、人としての尊厳を回復されて、新たに造り変えられて、完全な者として筆者の目の前に立たされるのを見た。
 
そこには、敵はもういない。紛争もなければ、サタンとの終わりなき論争、嘘や詭弁、不当な死の宣言、騙しや、ディスカウントの言葉はない。

そこには、人をディスカウントするものは何もなく、ただ罪から贖われ、清められ、完全とされて、神と和合したただ一人の人がいるだけである。
 
筆者は、そのような世界が、手の届くほど近くに見えていること、筆者さえ了承すれば、それがすぐにやって来ること、しかし、そこへ至るためには、非常に多くの苦しみと、へりくだりを経なければならないこと、自分を低くした者だけが、そこへ至り着くことを知らされ、贖われて取り戻された人たちが、どれほど美しいものであるかを見て、言葉を失っている。

これがおそらく干潟の効果なのであろう。筆者だけが、自由になり、解放を得て、花嫁のように飾られるのではなく、人々も同じように、花嫁のように飾られて、新たにされる時がやって来た。告発や、罪のなすり付け合い、断罪、断絶、離反から一切解放されて、自由になった人々の美しさを見るとき、筆者はそこに働く解放のわざの大きさに心を打たれずにはいられない。

自分のためだけではなく、人々が解放されたことの喜びの前に、えも言われぬ感動を覚えたのである。

それが、新しい関係性の始まりであった。

神は最も無用で、役に立たない、廃棄するしかない材料を用いて、新たな尊い器を作られる。その砕けた破片とは、筆者自身のことでもある。

己が罪のために打たれて、粉々に砕け散り、互いに全く役に立たなくなった者同士が、互いを傷つけ合い、罵り合い、否定し合っているのが、いわば、人類社会だと言えよう。

だが、神は人が息に過ぎず、その人生が一瞬で過ぎ去るに過ぎないことを知っておられ、人間が自力では罪を贖うこともできず、命にもたどり着けないという、途方もない苦しみを負っていることも知っておられ、それゆえ、神は人の罪を人自身に負わせることをよしとされず、砕けた器の破片を丹念に綴り合せて、新たに命を吹き込み、尊い役に立つ器へと造り変えるために、その手に取られた。

筆者が造り変えられることができるなら、同じ恵みにあずからない存在があるはずもない。筆者が取り戻されることを信じて、根気強く待ち続けてくれた人々の存在があることを知ったとき、筆者自身も、人々が自分と同じように取り戻され、回復されるために労しなければならないことを知った。それこそが、筆者の下すべき正しい判断であり、筆者の仕事であり、そこに命の法則が働くことを知らされたのである。
 
「あなたの罪は赦された。安心して行きなさい」との宣告は、筆者に向けられた言葉であるばかりでなく、筆者自身も、他の人々に同じ解放の宣言を告げて、人を自由にする力を持っていることが分かったのである。
 
だから、間もなく、もはやこれまでのように、誰か強そうな人たちを探して来ては、彼らに物事を決めてもらわなくても良い時が来るだろう。そして、私たちは、手を携えて、同じ祝宴に向かう。いつしかそれはしゅろの葉を手に持ち、白い衣を着た大群衆となる。

人を罪から救い出し、死の力から解放し、すべての敵意の隔てを取り除く宣言の、いかに絶大なものであるか。その最高の形は、カルバリの十字架であるが、地上で行われるささやかな宣言であっても、そのひな型となるものは、神聖と言って良いものであり、筆者の小さな人生のスケールを打ち破って、圧倒的な解放の力を発揮する。
 
その宣告は、他でもない筆者自身が作り出すものなのである。地上では、取るに足りない、忘れられ、かえりみられもしない筆者のような人間が、何を赦し、何を赦さないでおくかが、それほどまでに重要な深い意味を持ち、人々の心を束縛から解放し、尊厳を回復するかどうかの鍵を握っている。

人が罪から解放され、告発から解放されて、自由とされ、尊厳に覆われる瞬間を見、また、その圧倒的な効果が、筆者自身にも波及して、筆者の尊厳をも回復するのが分かったとき、何か非常に新しい、とてつもないことが、これから筆者の人生で始まろうとしているのを、感じないわけにいかなかった。
 
以前から述べている第二の人生、第二のミッションが本格的に始まったのである。人を命に至らせるための法則性が分かった以上、これまでと同じような堂々巡りや、失敗は、もはや起きて来ることはないだろう。パイプラインは、確かに稼働し始め、解放の宣言は、筆者だけのものではなく、多くの人たちに共有され始めたのである。

「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」

2019年9月 2日 (月)

何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。

「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞切れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。」(ヨハネ一5:13-15)

ここ一週間、曇天と雨が続き、それに合わせて、心を曇らせる出来事が山のように起きた。

だが、同時に、誰かが筆者のために、非常に心を砕いて心配してくれていることも、ひしひしと伝わって来た。

そういうことは、これまでにも幾度かあった。 筆者の身を案じてくれているのが、誰なのか分からないこともある。もしかしたら、御使いなのかも知れない。

それでも、苦難がやって来るときに、錯覚とはとても思えないリアルな感覚として、本当に筆者のために心を悩ませてくれている人がいることが伝わって来る。誰であれ、そういう人がいると分かると、心が慰められるし、立ち上がって、圧迫を粉砕するため、何度でも奮闘しようとの力が湧いてくる。

昨朝、目覚めた際、懐かしい知人が、まるで顔を覗き込み、「ヴィオロンさん、大丈夫ですか 私はあなたの味方ですからね」と、幾度も語りかけているように感じられた。

何をそんなに心配されねばならないような理由があるのかと、その時は思ったが、理由はあとになって分かった。その慰めは、しばらく経った今も続いている。これは主から来た慰めなのか、それとも、人から来たものなのか、御使いによるものか、知らない。だが、至る所で、特別な配慮に満ちた励ましをそば近くに感じる。

だから、筆者は出来事に振り回されることはなく、また、人の思いとは一切関係なく、静まって、内なる気力を養い、虚偽と、不当な制約と、死の宣告を打ち破るために、何が必要なのかを神に知らせて下さいと願うのみである。

サタンからは、絶え間なく、筆者のもとに「あなたは値しない」という証書が届く。

「あなたが望んでいることは、あなたに値しない」「あなたの言い分は、あなたに値しない」「あなたの願いは、あなたには値しないから、あきらめなさい」「あなたが抱えている不自由と苦しみと制約こそ、あなたが選んだ、あなたにふさわしいものである」

しかし、筆者は、その証書を破り捨て、サタンの言い分は粉砕し、さらなる自由と解放を求めて、神が望んでおられる道を歩いて行くために必要な知恵と手立てが与えられるように天に願う。
 
突飛な話と感じられるかも知れないが、このようなことについて考える時、筆者はどうしても、人を生かす力は、女性にはなく、男性からやって来る、と思わざるを得ない。

このところ、筆者に関わる全く同じような手続きを、女性と男性の二人の権威者が、違ったやり方で成し遂げるのを筆者は見させられた。

その結果、この二つのケースにおいて、ほとんど同じ状況で、180度異なる結論が出たのである。

女性は、筆者に自由や解放を与えず、困難を乗り越えて信頼を維持し、手続きを成功裏に導くことができなかった。それだけでなく、筆者に疑いを抱き、大きなダメージを与える結果をもたらしたが、他方、男性は、そういう困難を打破して、根気強く、誰もが生きられるような結論を導き出すことができた。

この二人が相手にしたのは、筆者という同じ人間である。この二つのケースがあったおかげで、筆者は、何もかもが自分の選択の結末ではなく、誰を相手にするかによって全く結論が変わって来ることを思い知らされた。

女性は早々に筆者に向かって、信頼を手放し、望みをあきらめるよう釘を刺したが、男性はそのようにはしなかった。だとすれば、信頼を維持できないことは、必ずしも筆者の側の責任ではないことが分かる。
 
筆者の目には、女性には、困難を根気強く乗り越えながら、互いに信頼を維持し、願っている自由へ向かって、あきらめることなく、手を携えて進んで行く能力が、そしてそのために苦しみを負う能力が、男性に比べ、極度に不足しているように見えてならない。

だから、女性との連帯は、困難が来るとすぐにあっけなく壊れ、かえって女性が女性を束縛し、死に導くという結果が起きてしまいがちなのである。

こうした出来事を筆者はこれまで山のように見せられて来た。職場でも、それ以外の場所でも、女性に自分の決断を委ねようとすると、なぜか命に至り着くどころか、束縛と、死の宣告を受け、死に触れることになるのである。

最近、その傾向がますます強まっており、女性が筆者にもたらす死の力は、何かしらものすごいものとなっているように見受けられるため、一体、これは何なのだろうかと、どうしたらそのような影響を防げるのかと、筆者は考えさせられている。

虚無に服した被造物全体を象徴する女性が、非常に美しい笑顔で笑いながら、死神のように、サタンが作った債務証書を筆者に突きつける。

「あなたにはこの限界がふさわしい。いい加減、あきらめてそれが自分の運命だと悟りなさい。私もあなたと同族で、大きな制約を負って生きてきたのです。なぜあなたは自分だけがそこから逃れられるなどと思うのですか。そんなのはわがままです」

だが、筆者はそれでも首を振り、限界と死の宣告を受け入れない、という意思表示を行う。不可能事を望んでいると言われても、構わない。見えない領域に向かって、その証書を突き返し、改めて死の力ではなく、生きた命をもたらすことのできる人々へ担当者の交替を願い出る。

筆者は死神など呼んだ覚えはなく、神の御言葉に沿って正しい解放をもたらすことのできる存在を呼んだのである。
 
当ブログでは、繰り返し、聖書によれば、男性が先に創造され、女性は男性から後になって造られたという順序があり、男女の秩序は決して覆せないものであるということを述べて来た。

男性は、主イエス(救済者)のひな型であり、女性は、教会(被造物)のひな型である。もちろん、人類は男性も女性も含め、神の神殿であり、宮なのだが、とりわけ象徴的には、男性は神を象徴し、女性は被造物全体を象徴している。

そうである限り、男性には、誰であれ、またどんなにそれがかすかなものとなっていようとも、人を困難から救い出し、追い詰められている人を解放し、自分の命を投げ出してでも、弱い他者を救うことを、己が使命とするキリストの面影が宿っているように見える。

男性には、男性である限り、誰であれ、救済者になろうとする願望がある。それはしばしば誤った形で発揮されることも多いが、いずれにしても、その性質の中には、神ご自身が持っておられる他者を生かす力が、受け継がれていると筆者は見ている。

だが、女性にはそうした性質がない。女性は憐れむことはできるが、それは自分を投げ出してでも、他者のために命を与えることとは、別の種類のものである。

教会は宮であり、あくまで主がなければむなしい存在であるから、女性は単独では虚無であり、解放者ではなく解放される側に立ち、空っぽで満たされるのを待っている器である。それゆえ、単独では、制約と、死を象徴する。

このようなことを言い始めると、たちまち差別だと誤解する人たちも出て来るかも知れないが、あくまでそういう文脈ではないことを断っておきたい。

以上のようなわけで、女性は、筆者から見ると、その存在自体に、単独では「理不尽」と書きこまれていると言って良い存在である。だからこそ、その存在に触れるとき、理不尽に触れてしまうことになり、死の力が及ぶのである。女性は、自分だけでは、その理不尽を打ち破ることができず、その中に閉じ込められているからこそ、他の女性を解放することもできないのである。
 
そこで、筆者はこの先、被造物の象徴としての女性の受けている死の圧迫を避け、その制約から自由になるために通るべき道を知らねばならないと思わされている。

さしあたり、筆者を生かすことのできる人々を天に向かってオーダーすることしかできないが、一体、この問題に終止符を打つために具体的に何が必要なのであろうか、と考えさせられる。
 
* * *

とはいえ、女性同士の間でも、痛みを分け合いながら、共に進んでいくことのできる人たちがいる。

人生が落ち着いたときに、時折、互いに身の上話をして来た友人と久々に会話したところ、その人は、筆者に向かって、いつになく確信に満ちた断固たる口調で、早いうちにボーナスや退職金が支給される環境に行かなければならない、そうでなくては、生涯の賃金格差を決して乗り越えることができない、と切々と説いた。

その言葉は、いつになく切迫した重要な助言のように響いた。なぜなら、ちょうど筆者の感じていた危機感と一致していたからである。

筆者は雇用契約書に目を通す際、育児休暇・産前産後休暇、介護休暇に賃金が支払われるのかどうかを気にしている。さしあたり、そうした休暇をすぐに取る予定があるわけでないのに、それに注意を払うのは、もしもそれらの休暇が、無給であれば、その職場は、真に人を人間として育てて行こうとの意識がないところだから、そう長くは続けられない、と認識して構わないからである。

社員を労働力としてしか見ず、人として豊かな生活を送るために、必要な余裕を与えない職場では、社員が幸福を求めて行動を起こすと、大きな障壁にぶつかる可能性が高い。

それは身長の高い人が、天井の低い家に住むようなもので、人間の身の丈に合っておらず、窮屈な生活の中で、幾度、頭を鴨居にぶちつけて痛い思いをするか分からないのを分かって、あえてその家に住もうとするのは愚かである。

もちろん、短期の派遣の雇用や、契約社員の雇用に、そのような恵まれた条件があるはずもなく、通勤交通費さえ支給されない職場に、有給の産前産後休暇や介護休暇を望むのは愚かである。

そういうものは、屋根も壊れて雨漏りのする家のようなものであって、それが家だと思っている限り、その人には安全な暮らしさえ保証されない。

筆者は、人が人らしく生活を営むことと、働くことが両立しうるような雇用体系の中に身を置かない限り、その人の勤めている職場は、結局、人を使い潰すことしかできない、という法則性は変わらないという結論を得ている。

そのことを明白に悟ったとき、筆者は、これまでの自分が、あまりにも微小なものしか求めず、ほんのわずかな条件の向上を見ただけで、天から救済者が現れたかのように喜び、本当の意味で、自分の身の丈にあったものが何であるのかを、知らず、それを探し求め、得る道があることを十分には知っていなかったことを思い知らされた。

たとえるならば、カビの生えたパンを毎日食べながら、これが食事だと思い込み、雨漏りのする家に住みながら、これが家だと思い込んでいるような具合で、本当の食事とは、本当の家とは、決してそのようなものではない、ということを漠然と感じながらも、では、一体、自分の探し求めているものは何なのかを具体的に知ることなく、ただ一体、なぜ自分はこんなに窮屈で不快な思いをしながら毎日を苦しんで暮らさねばならないのだろうか、これが本当に人の生活というものだろうかと思い悩んでいたような具合である。

自分の望む真の食事とは、真の家とは何なのかを見極め、見極めたならば、それが自分に値することを信じなければならない。

そういうわけで、筆者は、限界と制約と死の象徴である死神が、どんなに限界だらけの証書を筆者のもとに届けても、それが筆者にふさわしい最終宣告であると受け入れる気はないのである。

「あなたには、雨漏りのする家と、カビの生えたパンで十分である。あなたは自らそれを望み、知っていて、それを選んだのだ。だから、それがあなたの人生にふさわしい応酬だ。それを不満に思い、それをあなたに与えた者を、騙したなどと言って、非難する資格はあなたにはない」

などと言われても、筆者は言う、

「そんな馬鹿なことはない。私は雨漏りのしない本当の家らしい家と、カビに悩まされることなどない食事に憧れ、それを探し求めてあらゆる場所の門戸を叩いた。その結果、知りもしないうちに、雨漏りのする家をつかまされ、カビの生えたパンを口に押し込まれたとしても、それが自ら招いた選択であり、私の望んだ結果であり、私にふさわしい結末であったなどとは、決して認めない。私はこういうものを、家とも、食事とも思っていないし、そんなものを求めた覚えもないし、そんなものしかないなどという話も聞かされていない。にも関わらず、これが私に値するものだとどうして言えるのか。制約よ、引きさがりなさい。」

実りをもたらさない干からびた大地をいつまでも耕し続け、貧しい家の中で、こんなにも収穫がないのは誰のせいなのだと言って互いを責め合うのは、愚かな所業であり、そんな場所からは、離れるべきなのである。必ず、実りをもたらす大地が存在するはずである。

筆者と久方ぶりに話した知人は、前途洋々たる20代、30代の中に、多額の借金を抱えている人たちが非常に増えていることを話してくれた。筆者よりも年下の世代の中に、筆者の世代よりもさらなる困難の中に投げ入れられている人々がいることが分かった。

私たちの世代も大きな困難の中に長い間、助けなく放置されて来たが、それより下の世代は、無知と無防備につけこまれ、さらにもっと大きな抑圧の中に置かれている様子が垣間見えた。

誰がこの人たちの抱えている苦難に目を留め、彼らのために自由を用意し、貧しさの連鎖が生まれないように手立てを打つのであろうか。それは大人たちが考えてやらねばならないことではないだろうか。

こんなことでは、貧しい農村から、若者を身売りさせ、騙してひどい職業に従事させたり、特攻に送り出していた戦前・戦中と何が違うのだろうかとため息をつきたくなる。

しかし、知人は、そういう悲しい出来事ばかりを毎日のように見聞きする状況を離れ、貧しさではなく、豊かさを求めねばならないこと、働くことが苦痛でしかない環境を去り、喜びを感じられる仕事を選んだこと、筆者にも、あきらめて制約を受け入れるのではなく、飽くことなく自由を探し求めるよう、改めて背中を押してくれた。

その時、筆者の目の前には、今見ているものより、はるかに遠く、もっともっと先にある目的がおぼろげながら思い浮かんだ。

雨漏りのしない本当の家――貧しさや、限界や、不幸に追い詰められ、絶えず家族のメンバーがいがみ合い、争うような不幸な家ではなく――生きるために馬車馬のように働き、休息も取れず、不意の事態にも対応できないような生き方ではなく――家族が集まって、安心して団らんのできる、幸福な家、笑顔の溢れる家――安息に満ちた生き方――それは絶対にあるはずだし、筆者はそれをこそ絶え間なく探し求めて来たはずである。

何度、騙されかけ、何度、あきらめるよう求められ、何度、制約の中に閉じ込められ、何度、それがあなたの選んだ選択であって、それ以上のものにあなたは値しないと言われたとしても、決して、それが筆者の動かせない結論であるとは認めない。

もちろん、ここで言う家とは、あらゆる環境条件のことである。そこには、雇用条件や、それ以外のあらゆる条件も含まれる。

雨漏りのしない堅固な家を願うなら、それは必ず、存在し、手に入れることが可能であり、また、自分はそれに値するという確信を持つ必要がある。あなたはそれに値しないという、サタンの死の宣告を破り捨て、これを無効化する、新たな命に満ちた証文で上書きしなければいけない。

たとえ荒野の中を通されていても、そこが永住の地ではないことを、私たちは信じている。乳と蜜の流れる土地へ向かって、長い長い道のりかも知れない。だが、その約束の地がなぜ遠く、長い道のりに感じられるのかと言えば、私たち自身が、それが自分に値することを、まだ十分には知っておらず、信じる力が十分に達していないためである。

しかし、神は私たちを根気強く教えて下さる。

主は、日々起こる波乱のような出来事の中で、瞬間、瞬間、こう言って下さる。

「私はどんなことがあっても、あなたの味方であり、あなたを見捨てません。私があなたを教え、あなたを平安に導きます。だから、どんなことがあっても、落胆せず、私に従って来なさい。私は必ずあなたを安息の地に導くことができます。それがあなたのための私の約束なのです。」

筆者はその約束を信じている。だから、試練があるときにこそ、慰めは深く、解放も近いということを、常に思わされている。

2019年8月25日 (日)

わたしを信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れるようになる。

「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。

 あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。
 あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。

 聖書にこう書いてあるからです。

 「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。
 これを信じる者は、決して失望することはない。」

 従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、

「家を建てる者の捨てた石、
 これが隅の親石となった」

 のであり、また、
 「つまずきの石、
 妨げの岩」
 なのです。

 彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。
 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。

 あなたがたは、
「かつては神の民ではなかったが、
 今は神の民であり、
 憐れみを受けなかったが、
 今は憐れみを受けている」
のです。」(ペトロの手紙一2:1-10)

* * *

まだ8月も終わっていないというのに、蝉の声がめっきり減って、すっかり秋の気配が感じられるようになった。駆け足で冬がやって来ようとしている。あまりに早すぎる時の流れに、困惑を覚えずにいられないほどである。

さて、前回に引き続き、「重荷を跳ね返す」ことの重要性について書くことから始めたい。これは正しくは、サタンから来た重荷をサタンに跳ね返す、という意味だ。

このテーマを書くに当たり、類似した内容を書いている人が他にいないか探してみたが、見つからなかった。
 
この問題は、注目されていないようだが、キリスト者にとって極めて重要であると筆者は思わずにいられない。

私たちは、日々の十字架として、主から来た重荷を担うべき時がある。その中には、信仰ゆえの試練もあれば、恐怖に打ち勝って前進することが必要な場合もある。

しかし、時に、私たちが負うべきでない重荷が、敵から押しつけられる場合がある。そのとき、私たちは不当な圧迫をもたらす策略を事前に見抜き、その重荷が私たちの手に押しつけられる前に、罠を粉砕して、そこから抜け出すようにしなければならない。

それができないと、人生において長期に渡り、不当な重荷に苦しめられ続けることになる可能性がある。

サタンは責任転嫁の達人である。人をターゲットとして、自己の罪を他人に押しつけ、重荷を押しつけられた人が、あたかもそれを自分のものであるかのように考えて、自らそれを背負い込むよう仕向ける。一旦、背負い込んだら、ますますその荷を重くし、その重荷から二度と抜け出せないように仕向ける。

また、サタンは他人の成果を横取りする達人でもある。私たちが勝ち取った苦労の結果を、まるで我が物であるかのように、栄光をかすめ取ろうとする。

しかしながら、前回、述べた通り、神から来た重荷は、そのような性質のものではない。

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)

だから、私たちは、一口に重荷と言っても、その中には、神が私たちを成長させるために許されて起きた試練と、人を不当に苦しめ、栄光をかすめ取り、人生を停滞させようとして悪魔がもたらした重荷の2種類が存在することに気づき、後者の重荷については、これを受け取り拒否して、サタンにお返しする方法を学ぶ必要がある。

自分の人生にやって来る様々な困難を、どんなものであっても、すべて神から与えられたものとして受け取っていてはいけない。その出所をきちんと見分け、敵から来たものは、敵に担っていただくのが一番なのである。

* * *

 筆者はこれまで長い間、書類作成の仕事をして来たため、書面を作り上げることはまるで苦にならないと思い、訴訟や、各種の法的手続きのために時間を費やすことを、損と思うこともなく進めて来た。

しかし、そうは言っても、今年は、昨年と違い、審理や各種の手続きのために要する時間を、できるだけ省略する方法を考えなくてはならないと思うようになった。

それは特に、相手方が常に締め切りに遅れ、証拠もない支離滅裂な内容の書面を提出して来るのを見て、このような無意味な主張に、いつまでも膨大な手間暇を割いて反論していてはいけないと思わされたためでもある。

それに、筆者の人生が、訴訟から解放されなければならない必要性があることにもようやく気づいた。

訴訟を提起してからというもの、筆者の人生は、ずっと訴訟を中心として成り立って来た。筆者は、裁判所の仕事に心から敬意を払っているものの、今や審理と同じほど重要な仕事ができた以上、今までのように、準備書面を作成するために、仕事を脇に置くことはできない。仕事だけでなく、自分の人生の時間をきちんと守るため、訴訟に割ける時間を配分しなければならない。

とはいえ、それによって、訴訟において成し遂げなければならない事柄を省略するわけにも行かないため、この先の歩みには、神の助けと知恵が必要である。

それにしても、筆者が新たに選んだ仕事は、本当に、主がこれを与えて下さったのだと思わずにいられない貴重なものである。

そのことは、職場で日々起きてくる様々な難題に、筆者が正しい答えを見つけようと努力しさえすれば、常に問題が解消されて行くことを見ても分かる。
 
時に、働いていると、私たちの仕事の成果を、その本来の意味から全くかけ離れたものへと変えてしまおうとする悪しき圧力がかかることがある。真面目に働く気のない人間が、真面目に働く人たちの努力の成果を、自己の怠慢を覆い隠し、他者の栄光をかすめ取る目的のために、横領するように吸い上げ、利用しようとすることがある。

筆者はこれまでの職場においては、そうした理不尽に、立ち向かう術はないとあきらめていた。

なぜなら、日本の多くの営利企業では、労働の成果が個人に還元されず、集団の成果とされるため、そこでは、働けば働くほど、その者が、働かない者の怠慢をカバーすることになるような理不尽な仕組みがもとから存在するためである。

共産主義社会のようなものである。そこでは、無責任で何もしない人間が、最も軽い荷を負い、高い能力を持ち、責任感も強く、会社の行く末を案じ、周囲に気配りができる、最も誠実な人間が、人一倍、重い荷を負わされることになる。

もっと言えば、1人の優秀な社員の目覚ましい働きに、怠け者の5人の社員がたかり、怠け者が、働き者の仕事の成果をかすめとって自己の怠慢を隠すための集団が、始めから作り上げられていると言っても良い状況がある。そして、働き者は、働かない者の怠慢をカバーするために雇用されると言っても良いほどの仕組みがある。

筆者はそのような労働は、真に社会に役立つことはなく、呪われた罪の連帯責任のように、負債を分かち合うことにしかつながらないと考え、これと訣別すべく、「バビロン体系」を脱したのであった。

その後、筆者が携わっている仕事は、もはや以上のようなものではない。だから、筆者は、他人の労働の成果を我が物としてかすめ取ろうとする人々の不当な干渉が起きたとき、これをきちんと排除し、重荷はこれを考えついた本人に跳ね返すことが可能であることに、ようやく気づいた。

そのようなことが可能となったのも、筆者の行う仕事が、基本的に、筆者自身の裁量に委ねられており、他者からの干渉を受けずに、独立した判断を下すことができるためである。

筆者には、裁判官の仕事にどこかしら似た性質を持つ仕事が与えられたと書いた。裁判官の仕事は、独立しており、合議審を除き、単独審では、一人の裁判官の判断によって判決が下されるし、合議審の場合であっても、裁判官一人一人の判断は、独立しているはずである。

その独立性を保つためにも、裁判官は3年くらいのスパンで全国各地を異動している。地域とのしがらみや癒着が生じて、公平な判断が下せなくなることを阻止するためだという。

筆者がかつて属していた宗教団体の教団でも、同じような制度が存在したと聞かされている。牧師が一つの教会にとどまりつづけると、様々なしがらみが生じるため、それは良くないということで、数年間で、教会を転任するという制度が存在したのである。

ところが、今やその仕組みは崩れ、牧師たちは一つの教会に長年、堂々ととどまるようになり、さらにその息子や娘までが、その教会の跡を継ぐようにまでなった。しかし、裁判官が異動している世の中で、牧師たちが転任を拒む理由は、ないという気がしてならない。
 
わずか3年で全国各地を異動して行くのでは、どこにも定着できない寄留者のような感覚も生じるだろう。家族がいても、単身赴任になることもあろうし、子供たちも、学校を転校するなど、荷を負わなくてはならない。全く新たな見知らぬ土地に行って、その日から、何事もなかったように、日常生活を開始することもできまい。

それでも、あえてそのような制度をもうけることで、市民の訴えに対し、公平性が保たれるよう配慮がなされているのである。
 
筆者は、神から与えられた召しに基づき、信仰によって、この地にやって来たため、果たすべき役割がまだ終わっていないうちに、よその土地に移されることはないであろうと考えている。実際に、筆者自身がよその土地に移ろうと試みたことも何度もあったのだが、その試みはすべて頓挫して終わった。

筆者は、こうして異動こそしていないが、これまで仕事に就くときには、一切、コネを利用せず、常にアウトサイダーとして新たな組織の中に入って来た。
 
その原則は、ずっと前から同じである。どんな時にも、すべてを天に任せ、正攻法で、表玄関を通過して来た。さらに、最近は、複数の応募を同時に行うこともやめて、不実な企業に騙されるリスクがあっても、本命一本だけで勝負するようになった。そこで、勝負の全うさは、以前よりも増し加わっていると言えよう。

筆者の人生の原則は、ただ一つの真実だけを追求するというものであり、それは、神との関係、人との関係だけでなく、あらゆる場所において、貫かねばならない原則であると考える。

そこで、職場を選ぶにも、唯一無二の相思相愛の関係が成立しないような場所に赴く必要はないと考えて、不実な応募はしないことに決めた。相手が不実だから、自分も不実であることが許されると思うのは間違いであって、騙す側に回るくらいならば、騙される側に立つ方がましなのである。

その原則が、間違っていたと証明されたことは一度もない。

そこで、第一審が終わり、筆者が裁判所の近くにとどまり、紛争処理を生きるフィールドに定めようと決意したときにも、当然のごとく、筆者はたった一つの仕事にしか応募しなかった。

しかも、その時、筆者は審理の準備のために、数ヶ月も仕事を辞めていたので、無職となっていた。それまでの筆者ならば、そういう状況で、また新たに就職活動を行わねばならないことを非常に苦痛に思い、不利なスタートとして恐れを感じたであろう。

しかし、筆者にはその時、全く恐れがなかった。それだけでなく、生き方を根本的に変え、目指す方向性を変えようという考えがあったので、それはちょうど良い新たな門出にしか感じられなかった。

さらに、筆者の人生には、財布の中身を決して勘定しないという、もう一つの原則がある。ダビデが王になって人口を数えたことが、罪であると聖書に書いてあるように、筆者は自分の財産を数えないことに決めている。

そこで、いつ何をして働くべきかも、すべて天の采配による。明日のことをあれやこれやと思いめぐらし、懸命に自分の残りの財産を勘定して、損がないように立ち回るなどの計算は全くしない。

だが、歴代の宣教師たちの多くが、そうして自分の生計をすべて主に委ねながら、未開の地に赴き、伝道して来たことを思えば、これは何ら例外的な原則でも、不思議な方法でもない。

神の国とその義を第一にして生きるなら、すべての必要は添えて与えられるのであって、何をして生きるべきか、どうやって日々の糧を得るべきかという問題が、私たちにとって心を悩ませるべき第一義的課題ではないのである。

とはいえ、筆者がバビロン体系の中で生きているうちは、常に嘘や、搾取などといった問題から解放されることはなく、それゆえ、絶えざる困難に悩まされたため、筆者は熟慮の末に、バビロン体系そのものを離れることにした。

そうして、判決を手に新たな任務を探し、新たな場所へ赴き、そこで筆者の裁判を担当してくれた裁判官に、どこかしら似た経歴を持つ上司が、筆者を面接し、その場でただちに内定を受けたのであった。

判決が、まるですべての扉を自動で開けるための鍵のようになって、今までには筆者がどんなに努力をしても、得られることのなかった成果として、新たな進路をもたらしてくれた。

筆者は即日にして、これまでに最長の契約期間を得て、給与の額さえ、自己申告するよう求められた。その上司は、筆者の見栄えのしない履歴書に対し、ディスカウントの言葉を発することは全くなかった。

だが、それでも、筆者はこれを最高の満足とはとらえておらず、すべてはまだ始まったばかりで、この現状で満足してしまっているようでは、前進もないと考えている。さらなる自由、さらなる豊かさを勝ち取るために、進んで行かなくてはならない。

バビロン体系と訣別した以上、筆者の仕事の目的は、もはや自己実現、自己顕示にはない。そういう意味で、この干潟は、筆者にとって休息の場所であり、これまでのように忙しない、生きるためにやむを得ず、馬車馬のごとく働くための「労働」の場所ではない。

筆者は、この干潟のはしくれのような職場にたどり着いてから、一見、頼りなさそうに見える小舟に乗って、そこで船頭の一人のようになって、見張り人の役目を果たしている。舟が危ない岩にぶつかりそうになれば、その都度、警告を発するようにしている。

舟は、筆者の警告を聞き入れて、危険を回避している。こうして、筆者にも、何がしかの役目が与えられ、必要とされていることが分かっているうちは、そこを離れようとは夢にも思わない。

筆者の役目は、自分の労働の成果を誇示して、輝かしい栄達を遂げ、誰かを圧倒することにはない。ちょうど主イエスが、嵐が荒れ狂って、舟に乗った弟子たちが安全確保のために狂奔しているときに、船底で熟睡されていたように、誰からも存在すらも気取られないようなさりげない自然な方法で、舟の安全を守ることにある。

このような働き方は、これまでの筆者の人生にはなかったものである。

労働でありながら、それは安息であって、自分にも、他人にも、安息をもたらす働きである。

他者からの不当な干渉を排除し、自分自身の判断の独立性を保ちながら、自己の望む、真に正しいと信じる事柄を成し遂げるために働く。

徒党を組まず、不誠実な試みには加担せず、独立不羈を貫きながら、それでも、自分一人ではなく、仲間の存在がある。

そのような生き方が成り立つためには、他者と連帯せずに、独立して仕事を進められる自由がなくてはならない。しかも、そこに、仕事そのものが持つ深い意味づけ、筆者の判断が生かされる余地、真実を追求することに価値が見いだされなくてはならない。

さらに職場そのものが、そのような追求に価値を見いだし、これを評価できるところでなくてはならない。

そうした希少な条件が揃った「干潟」が、筆者の人生に出現した。それはまだ完成に至っておらず、本領も発揮しておらず、真の姿には至り着いておらず、船出したばかりであるが、完成体を表す萌芽のようなものが、はっきりと見出され、そこには、筆者と似たような理念、似たような価値観を持つ人々が集まっている。

だから、筆者は彼らと同じ船に乗って、この船の向かう方向性に期待をかけて、そこにとどまっている。おそらくは、一生のつきあいになる可能性もあるのではないかと見ている。

このようなことは、筆者の人生にはこれまで起きたことがなかった。一審で得た判決が、筆者を呪いの言葉から解放し、目に見えない宝を与え、新たな扉を開くための手形のようになってくれたのである。

こうして、筆者の目指す命の川の流れが少しずつ出現している。これはこの先、何年間もかかって完成に至る大型プロジェクトの始まりであって、筆者は地下から大量の生ける水を汲み出すための目に見えない大型パイプラインを建設している最中である。

その生ける水は、筆者が訴訟の最中、裁判所の地下に流れていることを偶然にも発見したものである。訴訟において、筆者は小さな井戸を掘っただけであったが、それだけでも、確かにそこに生ける水が流れていること、これを地上に汲み上げる方法があることが分かった。そこで、筆者は、裁判所の飛び地になっている干潟を探して、これを中継し、地下から地上にこの水を大規模に汲み出すためのパイプラインを作り始めたのである。

もちろん、これは比喩であるとはいえ、比喩とは言い切れない部分がある。判決には人を解放する力があり、人々の切なる訴えが集積している裁判所は、天に向かって人の訴えが届いている場所でもある。人間に過ぎない裁判官も、人々の悲痛な訴えに耳を貸し、自由と解放を与える判決を書くが、神もそれをお聞きになっていることを筆者は疑わない。
 
筆者の抱える訴訟においては、まだ第二審の最初の期日も開かれていないが、筆者の主要な関心は、もはや個人的な係争にはない。警察における手続きも、控訴審の行く末も、筆者の新たな仕事も、やがてはすべてがパズルのピースのように絶妙に組み合わさって、今までになかった新たな形が生まれて来るだろうという気がしている。

今はまだそれがどういう形で起きるのか分からないが、少なくとも筆者は、これまでのように、返済してもしても埋め合わせることのできない負債を返すというむなしい働きのために生きているのではない。ゼロからプラスを構築し、真に正しいと信じられる目的の実現のために働いている。

こうして、干潟に流れるうたかたのように、泥水の中に身を横たえて、上から光を当てられる瞬間をただ待っていただけの、影に過ぎない存在であった筆者が、今や干潟に光を当てて、神秘的作用を自ら引き起こす側に回ろうとしている。

どうしてそんな役目が筆者に回って来たのかは分からない、だが、これはとても光栄な働きであって、何かしら途方もないことが、これから起きようとしていると感じる。筆者はその瞬間に向かって、一人ではなく、他の人々と共に手を携えて進んでいる。

* * *

筆者は10年ほど前、夜行バスに乗って、横浜の街を幾度か訪れた時のことを思う。その頃、この街は、筆者にとって、まさに生ける水が泉となってわき出すために用意された特別な街のようであった。

早朝になって、窓から外の景色を覗くと、窓を開けたわけでもないのに、命の水の流れが、地下だけでなく、地上においても、大気の中に溶け込み、新鮮な空気となって、上から降り注いでいるように感じられた。

駅を歩くだけでも、筆者はこの泉の気配を感じずにいられないほどであった。その頃、筆者は、キリスト者の集会の中に、命の流れの源があるのだと思っていた。兄弟姉妹と共に、手を携えて、これからその泉を地上に流し出す仕事をするのだと考えていた。

その読みは、誤ってはいなかったのかも知れない。だが、その命の流れは、間もなくせき止められ、バリケードで塞がれ、これを受け継ぐ仕事は、筆者にバトンタッチされた。筆者は彼らの舟から失格者のように降ろされたにも関わらず、その仕事は、まさに筆者に受け継がれたのである。

それから何年も経ち、主イエスがスカルの井戸でサマリヤの女に出会われた時のように、筆者は誰も見向きもしないみすぼらしい干潟のほとりで、再び、この泉を発見した。その時、筆者には分かった。生ける命の水の泉を発見する秘訣は、へりくだりにあるのだと。

私たちが、人に捨てられ、誰からも見向きもされず、関心も持たれず、徹底的に侮られ、嘲られ、踏みつけにされ、孤独と、悲しみに暮れて、真のへりくだりに達しないことには、主イエスも、私たちの前に、姿を現すこともできないし、私たちを救うことも、手を差し伸べることもできない。

なぜなら、私たちはあまりにも強すぎて、自信満々で、独りよがりに陥り過ぎていて、常に自己過信し、自己充足し過ぎているためである。その自己過信が取り去られ、自己充足が打ち破られて、私たちが心から本当に主を求めないことには、神でさえ、人をどうすることもできない。

筆者が裁判所から離れたくないと思うのは、いつまでも訴訟にとらわれ、争いを続けたいがためではない。そこで学んだへりくだりから離れたくないためである。自分が最も低くされ、孤独であり、寄る辺なく、助けがなかった時に、神が筆者を見捨てられず、筆者の訴えを取り上げて下さり、筆者を迎える場所を用意し、必要な措置をすべて講じて下さったことの恵みを、片時も忘れたくないためである。

地上の裁判官は、人として束の間、この事件を担当してくれ、一瞬の出会いがあったに過ぎず、地上で筆者が得た判決文の文字も、完全なものであるわけでもない。それゆえ、係争は終わっておらず、判決の約束さえ、未だ完全な実現を見ていない。だが、そんなこととは一切関係なく、神ご自身が、この出来事を通して、筆者の前を通り過ぎて行かれたことを、筆者は忘れたくないし、その感謝に満ちた出来事を、終わらせたいとも、思っていない。

パイプラインの建設が完成に至るためには、おそらくは筆者自身が、第一審が開かれていた時と同じように、絶えず自己を無の立場に置いて、低めることが必要になろう。それは、筆者がただ神にのみ希望を見いだし、自分の何もかもを脇に置いて、この街にやって来た時と同じ心境である。

その頃の筆者は知らなかったが、そのようにして筆者がこの地に招かれたのは、その後、筆者が人の目に偉大な事業を成し遂げるためではなく、その後も、同じへりくだりの中にとどまり続けるためであった。

だから、現在、筆者は、自分が解放されたからと言って、これまで通過して来た大いなる試練を忘れたいとは思わない。最も重要なのは、筆者が解放されたことそれ自体ではなく、筆者を解放しようとして、あらゆる手を尽くしてくれた人々が存在すること、また、彼らの配慮を通して、神の豊かで憐れみに満ちた采配が、今も筆者に降り注いでいることなのである。

だから、筆者は、そのことを心に刻みつけておくために、あえてこの思い出深い場所を離れたくないと考えている。人が苦難の中に、いつまでもとどまり続ける必要は全くないが、人の心の泉は、苦難によって、人の魂に刻みつけられた裂け目から、流れ出す。神に出会うためには、私たち自身が、神と同じほど己を低くすることが必要で、それがなければ、私たちが飽くことなく求めている幸いも、自由も、解放も、決して私たちの人生に真にもたらされることはないのである。

渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れるようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)

2019年8月18日 (日)

わたしが、あなたと争う者と争い わたしが、あなたの子らを救う。

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)

「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。

『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。
 そして、彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せになる。

 『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。』
 全能の主はこう仰せられる。」

 愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」(Ⅱコリント6:14-18,7:1)

* * *

8月15日を境に秋の気配が漂うようになった。夏が去ってしまうことが名残惜しい。

今年の前半はほとんど審理の準備に費やされたが、筆者の人生はそれによって停滞することなく、実人生においても、これまでにない大きな前進と収穫があった。

裁判で学んだ様々な有益な教訓を活かして、人々を助けるために、社会との新たな接点や、新たなミッションが与えられたからである。

一審判決が言い渡された時には、地球上にたった一人の裁判官以外には、筆者の主張を認める人もないかのように見えたが、たった一人であっても、信頼と協力を打ち立てることのできる人間が現れたことの意味は大きく、これを突破口のようにして、その後、援護者、協力者が増えつつある。

今や様々な人々と円滑な協力関係を築きながら、事件の解決へ向けて、物事を進められるようになった。気軽な世間話のように、この事件の行く末に関して論じ合うことのできる日も、そう遠くはないであろう。

それは世の人たちであって、信仰者ではないが、筆者はこの地にやって来た時から、ここを生ける水の川々の流れ出す場所にしたいという願いを持っていたので、人々との間で、真実で偽りのない信頼関係、協力関係が築かれつつある有様を見ると、その願いが、少しずつであるが、実現していると思わずにいられない。

紛争は、筆者を絶望に追いやることなく、かえって、一見、厭わしく、みすぼらしく、無益のように見えるこの「干潟」を中心に、そこから流れ出す命の泉が、確実に周囲を潤し、人々の心の思いや、関係を変えて行くようになった。紛争を機に、静かに、そして人目にはつかない形で、確実に社会のあり方が変わって行くのである。

控訴審が開かれるのは、秋になろうが、昨年に比べ、筆者の荷は軽い。相手方が遅れに遅れて出した書面も非常に軽いが、それだけではなく、今や筆者は、様々な重荷を自分の手から離し、その本来の持ち主にお返しする方法を学び始めた。

重荷を減らすためには、これを本当の持ち主に返還するのが一番である。主イエスは、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われたのであるから、負うことが困難なほどに重い荷がやって来れば、それは主から来たものではないものとして、持ち主をよく調べて、真の受取人にお返しすべきである。

控訴審の荷が軽いのは、主がすべてを筆者に負えるよう采配して下さっていることはもちろんのこと、判決が守りの盾となっているからでもある。

一般に、法律家でもない素人が、新たな証拠もなく、判決を覆すのは、まず無理だと言って差し支えない。だから、判決を不服として控訴する者は、判決と戦っているのであって、事件の当事者と直接、戦っているわけではない。

その上、筆者は、キリスト者を訴えられる者は誰もいないという聖書の御言葉を繰り返し引用しているのであるから、そのバリアを破ろうとする不遜な試みは、聖書の御言葉そのものに逆らい、これを破ろうとすることを意味するわけで、神を相手に戦いを挑んでいるようなものである。

そういう試みの結果、生じる途方もない重荷は、その本人のみが負えば良いものであって、他の人たちには関係がない。アナニヤとサッピラが、聖霊が定めた境界を欺きによって乗り越えようとして、エクレシアの戸口で神に討たれて死んだように、不遜な試みは、ただ失敗に終わるだけではなく、必ず、何かの恐るべき報いを伴うこととなる。

筆者はそのようなことが起きないように、モーセが燃える芝の前で靴を脱いだように、自分の超えてはならない分を超えて、立ち入るべきでない領域に足を踏み入れないよう、聖なる領域の前で、心の靴を脱ぐ。

筆者自身も、判決の変更を求めている部分があるが、筆者は、裁判官の下した判断と戦うのではなく、むしろ、判決と筆者の主張の両方を土台に、新たな共同作品を打ち立てるつもりでいる。

そのために一審において言い尽くせなかった新たな主張を加え、新たな証拠を提出し、数ヶ月間を費やし、書面を作成した。ちなみに、高裁では、裁判所ではなく、「裁判体」という言葉が多く聞かれるが、複数の裁判官が事件を裁くわけであるから、その意味でも、新たな判決は共同作品となる。

だが、筆者にとって、一審判決は、まだ筆者の主張に味方する者も、これを公に認める者も、助けの手を差し伸べてくれる者も、ほぼ皆無に近かった頃に下されたものであるという意味で、一人の善良な裁判官の残してくれた、忘れ形見のように、かけがえのないものである。唯一無二の「オーダーメイド」の判決と言ってもよく、これを無に帰するようなことは決してしたくはない。

聖書にはこうある。

「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。

「死は勝利にのみ込まれた。
 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
 死よ、お前のとげはどこにあるのか。」

死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」(一コリント15:54-57)

この御言葉は不思議である。なぜなら、朽ちるものと、朽ちないものとの間には、接点はなく、それはどこまで行っても、異質なもののはずである。ところが、聖書は、朽ちるものの上に、朽ちないものが着せられ、死は勝利に「のみ込まれた」と言う。

ここに、筆者の言う「上書き」の原則もある。

一審判決には、幾分か、死の棘がまだ残っている。この小骨のような棘を、敵の主張と共に飲み込み、上書きする過程で、取り除いて行くのである。

それはちょうど壁に塗られたペンキの剥げた部分を丁寧に塗り直しながら、壁全体を新たな色に塗り替えて行くようなものである。

筆者の主張の中で、欠けている部分を補い、古いもの、過ぎ去るべきものを、新しいもので上書きし、覆い、造り変える。

それによって、判決にも新鮮な生きた新しい命を吹き込み、新しい命が、古いものを覆い尽くし、みすぼらしい部分、恥となる部分、瑕疵となる部分は消えて、見栄えのする部分、光栄な部分、完全な部分に変えられる。

どうしても造り変えを拒むようなものも、新たな命に飲み込まれ、覆われて消える。

このように、自らの主張と判決とを合わせて補強・上書きし、さらに新鮮な命の通うものにして行くことができると筆者は信じている。

だが、そうこうしているうちに、おそらくやがて紛争自体が、命によって飲み込まれ、上書きされ、消えて行くだろう。

たとえば、昨年は、筆者は審理を進めることを第一目的として仕事をしていたが、今年は、仕事も審理と同じほど重要になったので、これを守りながら、審理を進めて行くこととなる。そのことは、次第に、紛争が筆者の人生に占める割合が減って来ていることを意味する。これが進むと、やがて実人生の方が、紛争よりもはるかに重いものとなる。
 
そうなる頃には、判決も、筆者の書面も、何もかもが、もはや過ぎ去ったものとして、足の下となり、人生が紛争から解放されることとなる。論敵の主張などは、無かったもの同然に忘れ去られ、消え去ることであろう。

だが、そうなっても、この事件に生きて関わってくれた多くの人々の存在は、筆者の中で、かけがえのない貴重な財産として残るに違いない。

「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイ10:40-42)

筆者を受け入れ、助けてくれる人たちは、神の御前に覚えられ、筆者と同じ報いを受ける(=似たような性質が分与される)。また、筆者自身も、彼らから何がしかの性質を受け、そこで「命の交換」が行われる。

筆者が紛争を通して裁判所や警察に関わり、それによって彼らの仕事の内容を知り、それが筆者の血肉のようになって、紛争が終わっても、そこを立ち去ることなく、筆者の生きるフィールドに定めたいと願ったように、筆者に関わった人々も、信仰者でなくとも、筆者から何か大切なものを受ける。(むろん、筆者の与えられる最高のものは、キリストご自身である。)

このようにして、何がきっかけであるにせよ、新たな命の通う、真実で、良き関係を築くことは可能なのである。

今や筆者は紛争の当事者という立場を離れ、これを天高くから、まことの裁き主と一緒に、見下ろす立場に立とうとしている。天の御座に就いておられる方が、地上におけるすべての物事をはるか足の下に見下ろすことができる視野を与えて下さる。

だから、筆者は自分の人生を、紛争から徐々に解放すると同時に、より自分自身という一人の限界ある人間の立場を離れて、物事を見るよう促されている。少しずつではあるが、筆者はこれまで絶え間なく行って来た「モーセの書」の作成とそのための議論から解かれ、膨大な書面からも解かれて、顔を上げる。

その時、私たちは、サタンの訴えの前に必死になって自己弁護を行う当事者の立場を離れ、むしろ、モーセの書を事件ファイルのように手にしながら、まことの裁き主なる神と共に、地上のすべてのものを足の下に治め、敵(サタン)を目の前に、私たち信じる者には勝利を、敵には敗北を力強く宣告することになる。

そうなるまでの間、筆者はこの紛争から、学べるだけのものを学び、これを糧として吸収し、その教訓を活かして、自分以外の人々にも利益をもたらす秘訣を探ろうとしている。それができるようになった頃、この紛争はすっかり終結して、誰にも用のない抜け殻のようになって、消えて行くことになろう。

紛争によって筆者に重荷をもたらそうとした者たち、また、その渦中で筆者を見捨てて行った者たちが、その頃、どこでどうなっているか、筆者は知らない。可能な限り、筆者はそうした人々をも、敵に引き渡すことなく、取り返したいと願っているが、仮に彼らが戻って来なかったとしても、その代わりに、新しい人たちが筆者の人生を占め、にぎわせるだろう。

筆者が以下の御言葉を引用したのは、2018年2月のブログ記事「十字架の死と復活の原則―敵のあらゆる力に打ち勝つ御名の絶大な権威を行使し、サタンを天から投げ落とし、イエスの命を体に現す―」のことである。

それから今まで、筆者は猛特訓を受けて、勇気と力を与えられた。筆者の人生においては、以下の御言葉における多くの事柄が成就したものと思う。

「主のほかに神はいない。
 神のほかに我らの神はいない。

 神はわたしに力を帯びさせ
 わたしの道を完全にし
 わたしの足を鹿のように速くし
 高い所に立たせ
 手に戦いの技を教え
 腕に青銅の弓を引く力を帯びさせてくださる。

 あなたは救いの盾をわたしに授け
 右の御手で支えてくださる。
 あなたは、自ら降り
 わたしを強い者としてくださる。

 わたしの足は大きく踏み出し
 くるぶしはよろめくことがない。
 敵を見、敵に追いつき
 滅ぼすまで引き返さず
 彼らを打ち、再び立つことを許さない。
 彼らはわたしの足元に倒れ伏す。
 
 あなたは戦う力をわたしの身に帯びさせ
 刃向う者を屈服させ
 敵の首筋を踏ませてくださる。
 わたしを憎む者をわたしは滅ぼす。

 彼らは叫ぶが、助ける者は現れず
 主に向かって叫んでも、答えはない。
 わたしは彼らを風の前の塵と見なし
 野の土くれのようにむなしいものとする。
 
 あなたはわたしを民の争いから解き放ち
 国々の頭としてくださる。
 わたしの知らぬ民もわたしに仕え
 わたしのことを耳にしてわたしに聞き従い
 敵の民は憐れみを乞う。
 敵の民は力を失い、おののいて砦を出る。

 主は命の神。
 わたしの岩をたたえよ。
 わたしの救いの神をあがめよ。

 わたしのために報復してくださる神よ。
 諸国の民をわたしに従わせてください。
 敵からわたしを救い
 刃向う者よりも高く上げ
 不法の者から助け出してください。
 
 主よ、国々の中で
 わたしはあなたに感謝をささげ
 御名をほめ歌う。
 
 主は勝利を与えて王を大いなる者とし
 油注がれた人を、ダビデとその子孫を
 とこしえまで
 慈しみのうちにおかれる。」(詩編18:32-51)

以上の御言葉の後半はこれから成就しようとしている。報復の時、敵に対する裁き、敵の敗北、そして、キリスト者の完全な勝利は、これからもたらされる。

だが、それと同様に、筆者の心の中にはいつも次の聖句がある。テーマは「失われたものの回復」である。

「島々よ、わたしに聞け
 遠い国々よ、耳を傾けよ。
 主は母の胎にあるわたしを呼び
 母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。

 わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き
 わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して
 わたしに言われた

 あなたはわたしの僕、イスラエル
 あなたによってわたしの輝きは現れる、と。

 わたしは思った
 わたしはいたずらに骨折り
 うつろに、空しく、力を使い果たした、と。

 しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり
 働きに報いてくださるのもわたしの神である。

 主の御目にわたしは重んじられている。
 わたしの神こそ、わたしの力。

 今や、主は言われる。
 ヤコブを御もとに立ち帰らせ
 イスラエルを集めるために

 母の胎にあったわたしを
 御自分の僕として形づくられた主はこう言われる。

 わたしはあなたを僕として
 ヤコブの諸部族を立ち上がらせ
 イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。

 だがそれにもまして
 わたしはあなたを国々の光とし
 わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。

 イスラエルを贖う聖なる神、主は
 人に侮られ、国々に忌むべき者とされ
 支配者らの僕とされた者に向かって、言われる。

 王たちは見て立ち上がり、君侯はひれ伏す。
 真実にいますイスラエルの聖なる神、主が
 あなたを選ばれたのを見て。

 主はこう言われる。
 わたしは恵みの時にあなたに答え
 救いの日にあなたを助けた。
 わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて
 民の契約とし、国を再興して
 荒廃した嗣業の地を継がせる。

 捕らわれ人には、出でよと
 闇に住む者には身を現せ、と命じる。

 彼らは家畜を飼いつつ道を行き
 荒れ地はすべて牧草地となる。

 彼らは飢えることなく、渇くこともない。
 太陽も熱風も彼らを打つことはない。
 憐れみ深い方が彼らを導き
 湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。

 わたしはすべての山に道をひらき
  広い道を高く通す。

 見よ、遠くから来る
 見よ、人々が北から、西から
 また、シニムの地から来る。

 天よ、喜び歌え、地よ、喜び躍れ。
 山々よ、歓声をあげよ。
 主は御自分の民を慰め
 その貧しい人々を憐れんでくださった。

 シオンは言う。主はわたしを見捨てられた
 わたしの主はわたしを忘れられた、と。

 女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
 母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
 たとえ、女たちが忘れようとも
 わたしがあなたを忘れることは決してない。

 見よ、わたしはあなたを
 わたしの手のひらに刻みつける。
   あなたの城壁は常にわたしの前にある。

 あなたを破壊した者は速やかに来たが
 あなたを建てる者は更に速やかに来る。
 あなたを廃虚とした者はあなたを去る。

 目を上げて、見渡すがよい。
 彼らはすべて集められ、あなたのもとに来る。
 わたしは生きている、と主は言われる。
 あなたは彼らのすべてを飾りのように身にまとい
 花嫁の帯のように結ぶであろう。

 破壊され、廃虚となり、
 荒れ果てたあなたの地は
 彼らを住まわせるには狭くなる。
 あなたを征服した者は、遠くへ去った。

 あなたが失ったと思った子らは
 再びあなたの耳に言うであろう
 場所が狭すぎます、住む所を与えてください、と。

 あなたは心に言うであろう
 誰がこの子らを産んでわたしに与えてくれたのか
 わたしは子を失い、もはや子を産めない身で
 捕らえられ、追放された者なのに
 誰がこれらの子を育ててくれたのか
 見よ、わたしはただひとり残されていたのに
 この子らはどこにいたのか、と。

 主なる神はこう言われる。
 見よ、わたしが国々に向かって手を上げ
 諸国の民に向かって旗を揚げると
 彼らはあなたの息子たちをふところに抱き
 あなたの娘たちを肩に背負って、連れて来る。

 王たちがあなたのために彼らの養父となり
 王妃たちは彼らの乳母となる。
 彼らは顔を地につけてあなたにひれ伏し
 あなたの足の塵をなめるであろう。

 そのとき、あなたは知るようになる
 わたしは主であり
 わたしに望みをおく者は恥を受けることがない、と。

 勇士からとりこを取り返せるであろうか。
 暴君から捕らわれ人を救い出せるであろうか。

 主はこう言われる。
 捕らわれ人が勇士から取り返され
 とりこが暴君から救い出される。
 わたしが、あなたと争う者と争い
 わたしが、あなたの子らを救う。

 あなたを虐げる者に自らの肉を食わせ
 新しい酒に酔うように自らの血に酔わせる。
 すべて肉なる者は知るようになる
 わたしは主、あなたを救い、あなたを贖う
 ヤコブの力ある者であることを。 」(イザヤ書第49章)


実際に、神は力強い助け主として、筆者と共にいて下さり、多くの人々を筆者の前に連れて来て下さっている。筆者はこれらの人々を花嫁の帯の飾りのようにつなぎ合わせながら、心に思う、「私は助けのない状態に、一人で置かれていたはずなのに、この人々はどこから現れたのか」と。

さらに筆者はいつか周囲を見渡してこう思うだろう、「私たちにはもっと広い場所が必要だ。ここは住むには狭すぎる」と。その願いは筆者の内にすでに生まれている。

主がどのような形で、今後、信じる者の人生を豊かに満たして下さるかは分からないが、筆者はすでに泉のほとりに導かれた。判決が守りの盾になるように、まして神の御言葉は、私たちの揺るぎない強固な防衛の砦であって、これにより頼む者と争う人は、主ご自身と争うのである。

だから、そのような争いには主ご自身が応えて下さり、私たちはその重荷を負わなくて済む。

改めて、筆者はこの年の後半、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」という御言葉の意味を知りたいと願っている。
  
「書類から人へ」のシフトは、ゆっくりではあるが、確かに進行中で、干潟に流れるうたかたのように、紛争もゆっくりと終わりに向かっている。
 
神に望みを置く者が恥を受け、敗北に終わることはない。その御言葉は、真実であるから、主が筆者の人生をどのように豊かな宝で満たし、飾って下さるのか、楽しみにしている。  

2019年8月11日 (日)

何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。

人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。

実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それならば、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。

権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。

あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。」(ローマ13:1-7)
 
奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい

あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです。

主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。」(エフェソ6:5-9)

奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。

あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。不義を行う者は、その不義の報いを受けるでしょう。そこには分け隔てはありません。

主人たち、奴隷を正しく、公平に扱いなさい。知ってのとおり、あなたがたにも主人が天におられるのです。」(コロサイ3:22-25,4:1)


* * *

前回、「顔を上げて主をまっすぐに見る」必要性について書いた。

聖書には「目を上げて・・・を見よ」というフレーズが幾度も登場している。

該当する聖書箇所を探そうと検索すると、以下のコラムが見つかった。特定の教会の宣伝のためではなく、これまでの記事内容に重なる非常にタイムリーな内容として、あえて引用しておきたい。

目を上げて遠くを見よ」(キリストの栄光教会 2015 年 4 月 25 日)

「聖書には、「目を上げて、見る」という表現がたびたび出てきます。

ヨシュアがヨルダン川を渡り、未知の敵地カナンに踏み込んだとき、偉大なる主の軍の将に出会ったのは、「彼が目を上げて見る」ことによってでした(ヨシュア 5:13)。その方は「抜き身の剣を手に持って」ヨシュアの前方に立っておられました。下を向いたり、自分を見つめたりしても、強大な敵と戦う力は受けられません。不安になるだけです。

詩篇の作者は歌いました。「あなたに向かって、私は目を上げます。天の御座に着いておられる方よ」(詩 123:1)。「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る」(詩 121:1)


なぜ高くそびえる山があり、広大な海があり、突き抜ける空があり、月星の世界があるのか。それは、私たちが目を上げ、遠くを見るためです。


アランというペンネームで知られるフランスの思想家エミール=オーギュスト・シャルティエがこう語っています。「抑うつ病にかかっている人に、わたしの言いたいことは、ただ一つしかない。『遠くを見よ』・・・人間の目というものは、書物との間の距離のような短い距離に合うようには作られてはいない。広々とした空間のなかで憩うものなのだ。星や水平線をながめていれば、目はすっかり安らいでいる。目が安らいでいれば、頭は自由になり、足どりもしっかりしてくる。身体全体がくつろいで、内臓までがしなやかになる。・・・自分のことを考えるな。遠くを見よ」(『幸福論』社会思想社)。


地上のことで悩むより、目を上げて、はるか遠くを見よ。今が苦しいのなら、天にある国籍を思え。やがて私たちのために完成され、住むことになる永遠の神の国に思いを馳せよ。日常のさまざまな出来事の只中にあって、目を上げ、主を見よ。そうすれば、何が大切かそうでないかが分かってきます。過ぎ行く事々に振り回されず、まず永遠を見つめましょう。」


 
* * *

前回、「書類から人へ」の移行が、筆者の人生に徐々に起きつつあることを書いた。

先日、仕事中、書類とパソコン画面に見入っていると、現場を巡回していた上司が、さりげなく筆者の様子を気にかけて、声をかけて行った。

筆者が目を上げて書類から人へ視線を移し、自分の上に立てられた権威者を見上げる瞬間である。

滅多に会えるわけではない上司であるが、この人とも、第一審において、裁判所がくれた判決が筆者を出会わせてくれたのである。

その人は、一審を担当した裁判官と、どこかしらよく似た雰囲気と経歴を持つ人物であり、決して人を脅かしたり、上から権威を振りかざして人を威圧することなく、誰をも辱めることなく、誰に対しても、穏やかに、明朗に接することのできる不思議な能力を持っていた。

人の心の痛みをよく知る、砕かれて謙虚な心を持つがゆえに、そのようなことができるのだろうと感じさせられる。

こうして、会うたびに、この人に着いて来て良かったと思える上司は、存在自体が稀有であり、そのような出会いは、人生における大きな財産であると言えよう。
  
上司は、短い言葉で、筆者に向かって、仕事の様子を尋ねたが、言外にこう述べているかのようであった。

「今はすべてが過渡的な段階にあるため、あなたには環境に様々な制約があるように感じられることもあるかも知れません。でも、私はあなたに、自分で自分に制約をもうけないで欲しいのです。あなたにはすべての状況を乗り越える力があると信じています。あなたには私たちの期待に応えるだけの力があります。だから、できないとは言わないで下さい。私たちにはあなたの協力が必要なのです。私たちを信じて着いて来てくれますね?」
 
筆者はそれに頷いて言外に答える。「もちろんです。私はあなたの目指す方向を信じて、それに従いたいと思って、ここに来ることを望み、呼ばれて来たのです。ですから、環境の制約に目を留めることはもうしません。環境は、時間が経てば整うでしょう。でも、もしも初めからすべてが整っていれば、そこには私のいるべき場所はなく、果たすべき役割もなかったかも知れません。私はあなたを失望させないために、ここに置かれたのですから、あなた方に着いて行き、自分の役目を果たします」

むろん、以上のような受け答えが、文字通り、あったわけではなく、実際には、ただ二、三の短い言葉を通して、筆者の心が改めて問われたのであった。困難に遭遇したとき、どのような態度を取るか。権威に対して、どう接するか。自分のために、権威者にすべてを提供してもらうことだけを望むのか、それとも、彼らが望むことに従い、共に協力してすべてを作り上げて行くのか。穏やかで優しい問いかけではあっても、そこには深い意味が込められていたように思う。

筆者は、一審の最中、自分の上に立てられた権威である裁判官を信頼し、正しい裁きが得られることを信じて、その采配に身を委ねられるかどうかを試された。様々な波乱が起き、望ましくない出来事が次々と起きる中、信頼関係を断ち切られることなく、協力して物事を前に進めることの大いなる意味を学ばされたのである。

今はそうして得た判決を携えてやって来た新たな場所で、地上の権威としての上司を敬い、困難の中でも、彼らに従い、協力してすべてを成し遂げられるかを試されている。

聖書が教える通り、地上における権威者は、天におられる権威者を象徴している。だから、地上の主人に対して、僕である私たちが、真心を込めて従うかどうかは、非常に重要な選択であって、地上の主人に対し、様々な不満を心に抱えつつ、神に対してだけは、従順に従うということは、無理な相談であろうと筆者は思う。

職場に限らず、私たちは、この世に生きる限り、あらゆる場所で、実に多くの制約を負う。実に多くの、自分の願いとは合致しない、理想からはほど遠い、混乱した状況、あるいは、理不尽と見える状況にも遭遇する。

だが、そうして望ましくない状況に遭遇する時にも、そこに神の采配が働いていることを信じられるか、目に見える状況がどうあれ、神のご計画には、いささかの理不尽も、狂いもないことを信じ、上に立てられた権威を通して、主の御手が自分に働いていることを理解し、その采配に従うことができるかどうかを、私たちは常に試されている。

筆者の心は、いかなる不合理な事件に遭っても、いつも穏やかで、一切揺るがされないなどとは言い切れるものでないが、それでも、常に神の采配が万全であり、完全であることを信じ、主に従って歩みたいと願わされている。間違っても、状況の理不尽さだけに目を留めて、自分を犠牲者のように考えたいとは思わない。
 
だが、もしも私たちが、目の前にある制約や、望ましくない不合理な条件だけに目を留めて、神や、上に立てられた権威者は、自分に理不尽かつ不可能なことばかりを求めていると感じ、自分を不憫に思って、彼らに不信感を抱いて、彼らに従うことをやめ、前進をやめれば、そこで、主が私たちをそこに配置して下さり、始めようとしておられたすべてのプロジェクトも、終わってしまう。

私たちの心がそのような状態になって、自分の限界でいっぱいになってしまうと、地上における協力関係は断ち切れ、私たちを配置した権威者にも、もはやどうすることもできない。

むろん、権威に従うとは、私たちが自分の判断を一切放棄して、権威者の言うことにただ盲従することを意味せず、理不尽な命令にまで黙って従って、自分をいたずらにすり減らすことをも意味しない。あくまで判断は、私たち一人一人が自分でせねばならないのであり、誰からの指示や命令を受けた時であれ、限度を超えて、何かを行うようなことをしてはならない。

しかし、決して誰かの言い分にロボットのように従うのではなく、あくまで自分自身の判断を保なちながらも、様々な制約に直面しても、決してあきらめることなく、上に立てられた権威を心から敬い、主に仕えるように、真心からその人たちに仕え、彼らの指示や命令に従いながら、彼らと手を携えて、共に協力して困難を打破して、前に進んで行くことは可能なのである。

そうした協力関係が打ち立てられる時、そこからは、ただ単に何か自分の願うことを達成したと言うだけにはとどまらない、不思議な関係と効果が生まれて来る。山上の垂訓がまさに地上に引き下ろされ、神の御心がこの地に実現したと言う他のない、命の水の流れが生まれ、周囲が潤される。

困難に直面したとき、自分の限界から目を背けるために、不都合な事実から目を背け、互いに重荷を押しつけ合い、責任をなすりつけあって、責め合って終わるのか。それとも、様々な限界を背負ったままで、互いを信頼し、協力しながら、進んで行くことができるのか、どちらを選ぶかによって、人生は大きく変わる。

本当は、そのような協力関係を打ち立てるためにこそ、筆者は仕事をしている。ただ労働を提供することが、働くことの真の目的なのではなく、その働きを通して、あるべき秩序が打ち立てられて、人々が解放されることこそ、真の目的なのである。だから、筆者が人々に与えられる最大の成果は、労務を超えたところにあると、筆者は確信している。筆者が人々に提供できる最高のものは、正しく、価値ある尊い目的意識を共有し、そこに共に手を携えて向かって行くというビジョンである。

もしも裁判官が正しい裁きを象徴し、上司が部下に最高のねぎらいを与えてくれる主人を象徴するならば、筆者は、彼らの裁きと命令に従順に従い、その権威に服し、彼らの心を満たすことで、栄光を帰する僕を象徴する者であると言えよう。

僕の最高の役目は、主人に栄光を帰することにあり、その役目を果たし、正しい秩序に服し、あるべき関係をもたらすことこそ、筆者の本当の意味での「労務」なのかも知れないと思う。

つまり、筆者は、何かしら人々を圧倒するような輝かしい労働の成果を個人的に求められたがゆえに、ここに配置されているわけではなく、ただ僕としての役目を心から全うすることで、主人に仕え、主人の心を満たし、人々との間にあるべき秩序と関係をもたらすために、呼ばれて来たのである。それを果たすことこそ、真の意味で、筆者に与えられた「労務」なのであろうと思わずにいられない。
   
* * *
 
さて、法廷に入廷した当事者たちは、裁判官が法廷に入って来て開廷を宣言する瞬間を、沈黙のうちに待ち望む。そして、裁判官の姿を見ると、立ち上がって礼をし、裁判官が法壇に就いて事件ファイルを開き、発言し始めるのを一心に待つ。

当事者は、自分たちに下される裁きを気にかけていればこそ、裁判官から目を離すことができない。

裁判官は、法廷においては、一人の人間であるというより、裁きそのものの生ける象徴である。正しい裁きを恐れなく待ち望む者にとっては、切に待ち焦がれた解放の宣言の体現者であり、他方、己が悪事を明るみに出され、不利な裁きが下されることを恐怖する者にとっては、恐るべき権威者である。

むろん、地上における法廷は、信仰とは関係がないとはいえ、筆者は、正しい裁きが下されることを切に待ち望む者の一人として、地上の法廷に、天的な裁きの絵図を見いだし、地上の裁判官の姿に、まことの正しい裁き主の姿を重ね、判決を支える法にも、神の揺るぎない掟である御言葉を見ないわけにいかない。それゆえ、地上の法廷に、尽きせぬ畏敬の念を抱かずにいられない。

以前からずっと書いているように、筆者の思いは、この地上に正しい裁きをもたらす神秘的な干潟としての法廷に魅了されてしまい、審理が開かれていない間も、そこから思いが離れられなくなった。筆者の心の中心には、常に見えない法廷が置かれ、筆者の思いも、正しい裁きとそれをもたらす法の周りを常に行き巡っているような有様である。

そのような筆者の思いは、ダビデが詩編に綴っている思いとどこかしら重なる部分があると感じる。
 
私たちが今、この地上に生きている一瞬一瞬のすべては、あたかも天におられるまことの裁き主に対して、私たちが申し開きのために書き記している目に見えない「準備書面」や「陳述書」のようなものである。
 
詩編には、随所で、神の正しい裁きを願う作者の思いが綴られているが、私たちも、自分が人生で置かれている見えない法廷において、神に対して常に正しい裁きを願い求め、また、自分なりの申し開きをしている。

正しい裁きをもたらすために必要なものは、言うまでもなく、正しい掟、すなわち、神の御言葉であり、神を愛する心と、神の掟である御言葉を守り、それに従って生きたいと願う心は、一つである。

私たちは、神を信じると言っても、ただ漠然と知りもしないものを信じているのではなく、神の御言葉を信じ、これに従って生きていればこそ、神も私たちを裁きの時に擁護して下さる。それは、裁判官が、法を守らない当事者を、全く擁護できないのと同じで、正しい掟を守っていればこそ、正しい裁きを求め、それを受けることができると信じられる。
   
詩編第1編は、次の有名な言葉で始まっている。

「いかに幸いなことか
 神に逆らう者の計らいに従って歩まず
 罪ある者の道にとどまらず
 主の教えを愛し
 その教えを昼も夜も口ずさむ人。
 その人は流れのほとりに植えられた木。
 ときが巡り来れば実を結び
 葉もしおれることがない。
 その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」
 
ダビデは、神を愛し、神の正しい裁きを待ち焦がれるがゆえに、昼も夜も、神の掟である御言葉に思いを馳せて、その教えから片時も注意を逸らしたくないと考えていた。

主の教え(神の掟、御言葉)とは、律法を指すが、今日の言葉に置き換えれば、法にたとえても良いかも知れない。

むろん、この世の法には、いかなる宗教的な意味合いもなく、それは神から発せられた御言葉そのものでもないが、この世の法もまた、神の掟の絵図であり、神の御言葉を守って生きることは、この世の法に従って生きることと決して矛盾しない。
 
そして重要なのは、うわべだけ法律の条文に精通して、自分を専門家のように見せかけることではく、その掟を生み出した精神そのものを愛し、正しい定めに従って生きることである。

正しい掟に従って生きるとは、命の水の湧き出る泉のほとりに住むのと同じで、必ず、その人の人生を潤し、繁栄をもたらしてくれる。正しい掟を守って生きている人が、悪人と一緒に、いたずらに罰せられ、死に定められることは決してない。

ダビデは、生涯を神の掟に従って生き、死ではなく、命を見たいと願い、そのことだけを日々思い続け、神の掟から逸れることがないよう、「むなしいものを見ようとすることから わたしのまなざしを移してください。と主に願った。

詩編第119編の中盤にはこうある。

「主よ、あなたの掟に従う道を示してください。
 最後までそれを守らせてください。
 あなたの律法を理解させ、保たせてください。
 わたしは心を尽くしてそれを守ります。
 あなたの戒めに従う道にお導きください。
 わたしはその道を愛しています。

 不当な利益にではなく
 あなたの定めに心を傾けるようにしてください。
 むなしいものを見ようとすることから
 わたしのまなざしを移してください。

 あなたの道に従って

 命を得ることができますように。

 あなたの僕に対して、仰せを成就してください。

 わたしはあなたを畏れ敬います。
 わたしの恐れる辱めが
 わたしを避けて行くようにしてください。

 あなたは良い裁きをなさいます。

 御覧ください
 わたしはあなたの命令を望み続けています。
 恵みの御業によって
 命を得させてください。」(詩編119:33-40)

これはダビデの必死の懇願のように感じられる。彼は、主の教えを守り、そこから逸れることさえなければ、神がやがて来られて正しい裁きをなし、正しい命令を発して下さるときに、自分は必ず、すべての災いから救い出され、命と幸いを得ることができると信じ、それゆえ、昼も夜も、神の正しい掟と、その裁きに思いを馳せて、地上にありながら、神の御思いと一つになって、その只中を生きたいと願い続けた。

そのダビデの思いは、筆者にとっては、法廷において、当事者が何とかして裁判官の心の内を知り、その心をとらえたいと願い、その裁きによって生かされたいと願う思いを思い起こさせる。裁判官は、法の体現者であり、正しい裁きの象徴であるから、その裁判官の心を探ろうとすることは、当事者自身が法によって守られ、生かされようとすることと同じなのである。

筆者は判決を得ただけでは満足せず、もっと法そのもに近づき、より(まことの)裁き主の心を知りたいと考え、そのために、見えない裁き主の姿を追い、片時も正しい掟のそばを離れずにいられるように、法律の世界に足を踏み入れた。そうした筆者の願いは、神を愛し、昼も夜も主の教えを思い、これと一つになって生きようと願ったダビデの心と、共通する部分があると感じられる。

ダビデは、主の教えを追い求めつつ、一つの願いを心に抱く。それは、神の住まう家を建てるため、神殿を築きたいという願いである。

その神殿建設の夢は、神の願いに合致しており、神の御心を、非常に大きなスケールでとらえたビジョンであった。すなわち、地上の建物を建てることが、彼の終局的な目的なのではなく、ダビデは神が真に望んでおられることは、人がやがて完全に贖われて、神の住まう聖なる幕屋となり、神が人と共に住まい、神と人とが完全な一致に至ることであると、知っていたのである。その神の願いを地上において表現したものが、神殿建設であった。

その神殿は、ダビデの代で完成することはなかったが、神はダビデが絶えず自分の主人の心を探り、主人の心と一つになって生きたいと願っていたことを知っておられ、僕としての彼の思いを評価され、その存在を重んじられた。

さて、聖書には、キリストと人との合一、すなわち、人が完全に贖われて神の御心を満足させる新しい人とされ、神が人の内に住まわれ、花婿なるキリストと花嫁なる教会が、完全に一致の中に入れられるという、永遠の合一が予告されている一方で、それとは異なる、もう一つの「合一」がある。

それは、神を介さない、人間同士の偽りの集団的合一である。先の合一は、永遠性を持つが、後者の合一は、束の間でしかなく、やがて分裂に至り、跡形もなく消え去る偽りである。

「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。

「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。」
(創世記. 11:1-9)

バベルの塔を建設した人々は、神の掟には思いを馳せず、自分たちの主人の栄光を求めるのではなく、僕に過ぎない自分たちの栄光を築き上げるために、一致団結して、天まで届く(永遠の不滅の)家を建てようと試み、一代でそれを築こうとした。

言い換えれば、彼らは自分自身を神として、自分のための神殿建設をしようとした試みたのである。彼らの連帯は強固であり、その作業は万全であった。

ところが、まことの主人の思いを抜きにした彼らの連帯は、分裂によって崩され、意思疎通が不可能になり、建設は途上に終わることとなる。
 
この二種類の建設の違いは何だろうか?

バベルの塔の建設に向かった人々は、うわべは連帯しているように見えたであろうが、実際には、最初から、めいめいがてんでんばらばらな願望を抱いて、その塔に自分勝手な欲望を重ねるために集まっていたに過ぎない、烏合の衆であったものと筆者は思う。

その塔の建設は、自己満足、自己義認、自己肯定、自己充足など、すべて神を抜きにして、人類が自分で自分の欲望を満たすための自己実現の試みでしかなく、人が大勢集まっているがゆえに、そこには孤独はなく、勢いがあるように見えたかも知れないが、実際には、そこにはただ人の思いがあるだけで、神からの承認はなく、人々の間でも、真実な連帯も、協力も、相互理解も、助け合いも、存在しなかったのである。

おそらく、信仰を持たない地球上の多くの人たちは、今でも、自分たちの思い、感覚、意志こそが、すべてに勝るリアリティだと考え、そこから一歩たりとも外へ出ることなく暮らしているものと思う。彼らは、自分たちが傷つけられた時の痛みには、非常に敏感で、神でさえ、彼らの言い分に耳を傾けるべきであると確信し、自分たちが力強く前進しているときには、その成果には、神も目を留めて下さり、よくやったとねぎらって下さらねばならないと確信している。

要するに、何をするにも、考えるにも、彼らの思いは自分を中心としており、神に対して何かを願うときにも、あくまで自分の願いが中心にあって、神は彼らの願いを承認するために、お飾りのように存在しているものに過ぎない。

もしも人の判断と、神の判断にズレがあることが分かったとしても、彼らは、自分たちには、神をさえ説得することが可能であると思い込み、神が自分たちの言い分に耳を傾けて下さらないと分かるや否や、そんな神は要らないと、神を踏みつけにして、自分たちの思いを遂げるために、めいめい好き勝手な方向へ前進して行くことであろう。

筆者が何を言いたいのかと言えば、人間は生まれながらに、自信満々で、常に自己充足しており、喜んでいる時も、悲しみ、打ちのめされ、失望落胆している時でさえ、常に自分の感情だけで、心をいっぱいにし、それを中心にして、自己充足しながら生きているのであって、神を必要としておらず、間違っても、自分たちが「誰かを待っている存在」であり、「誰かがやって来て、命を吹き込んでくれなければ、決して完全にはならない、他者の承認を待つだけの、命の通わない、空っぽで、死んだ存在」であるとは考えていないということである。

この人たちにとっては、自分の思い、行動、感情がすべてであり、自分こそが、リアリティであり、神は自分たちの言い分を権威付けしてくれるための添え物でしかない。そこで、彼らは、たとえ神の名を語っているように見える瞬間があっても、本当は、心の中で、神など全く必要としていない。

筆者はそういう生き方の無意味なることを知っていたが、第一審の最中、改めてそうした自己充足の殻の中から、外に連れ出され、自分自身から目を離し、自分を生かすことのできるまことの権威者だけを信頼して見つめるよう促されたのであった。
  
私たちの移ろいゆく思いの中には、リアリティはなく、私たちが確かな存在を見つめる時にだけ、私たちの存在も、確かなものになる。

だから、自分から目を離し、むなしいものを見つめるのをやめ、敵対者の言い分や、心を煩わせる様々な事象に惑わされることをやめて、揺るぎない信頼の中で、自分を生かすことのできるまことの主人だけを見つめるよう、絶え間なく促されたのである。

ほとんどの人たちは、おそらく、自分の人生の主役は、自分自身であると確信していることであろうが、実はそれさえも事実ではない。
  
人間の思い、感情、考えは、人から見れば、それこそがまさしく現実のように感じられるであろうが、それらは実際には、裁判官から認定されるのを待ってうず高く積み上げられている書面のようなもので、光が当てられて、まことの主人から認められなければ、その一切の思いはむなしく、リアリティを持たない、移ろいゆく影のようなものに過ぎない。

闇の中に咲く花は、朝日が昇らない限り、人々の鑑賞の対象となることはなく、存在していることさえ、誰にも気づかれないように、まことの主人がやって来られて、私たちの存在を認めて下さらなければ、私たちは存在そのものが、むなしく、闇でしかない。どんなに人が渾身の訴えを作り上げ、どれほど人としての思いを吐露しても、その感覚も、思いも、存在も、すべてがむなしく、生かされることなく、始めから無かったもののように、空中に消えて行くものでしかない。
 
神が私たちの訴えを取り上げて下さるからこそ、私たちの主張や存在が生きるのであって、それなしに自分で自分を是認することは、私たちにはできない相談なのである。

つまり、法廷の主が、当事者ではなく、裁判官であり、法廷に入って来た裁判官が、審理の場を完全に支配してしまうように、筆者が人生において呼び出されている目に見えない法廷の主役も、筆者ではなく、筆者を超える権威者が存在する。

その権威者の眼差しが、徐々に筆者をとらえ、筆者の存在を、自分中心から、まことの主人を中心とするものへと変えて行った。その時、筆者が頼みとし、よすがとしていた様々な力も、単独ではすべてむなしいことが判明したのである。
   
被造物の存在は、目に見えないまことの主人に認められ、評価されるためにこそある。そこで、まことの主人とのパートナーシップが成り立たないのに、被造物だけが単独で何を訴え、何を成し遂げたとしても、それは誰からも認められず、生きた現実とならないむなしいものでしかない。

私たちの人生は、まことの主人である見えない神に仕え、この方の権威に服し、その方を喜ばせるために与えられている。そのまことの権威者から是認されずして、私たちの存在が、リアリティを帯び、満たされ、生かされることはないのである。

そのことを、筆者は自分では知っていると思っていたが、審理を通して、改めて教えられた。すなわち、人は外側からの承認(神からの承認)を受けなければ、決して自力では完全になれない存在であり、それが被造物の変えることのできない性質であり、ある意味で、「女性性」と呼んでも良い性質であり、限界なのだと。
 
そうして、筆者は、自分の存在が影に過ぎないことを知らされたのであるが、それは決して、悲しんだり、落胆すべき出来事ではなく、むしろ、それは筆者に被造物たる人間の本質を、そして、私たちには、まことの主を待ち望むという使命が存在すること、主が来られたときにこそ、私たちの存在が完全になるという喜ばしい事実を、改めて教えてくれた。

それが分かったときに、筆者は自分の超えることのできない被造物としての限界が、とても喜ばしいものであって、筆者のまことの主人に栄光を帰するものであるという不思議が分かったのである。

僕は、僕であればこそ、主人に栄光を帰することができる。僕が主人のようになり、主人を超えようとすることには、何の意味もない。

時折、職場にやって来る上司は、裁判官と同じように、筆者は自分のために生きているのではなく、自分の上に立てられたまことの主人たる権威者の思いを体現し、その主人を喜ばせるために生きているという事実を思い起こさせてくれる。

これまで、自分のために働き、自分の望みに従って生きていた筆者は、自分の人生が、自分自身のためにあるのではないということが分かったときに、方向性を大きく転換した。

もちろん、筆者は信仰者として、死んでよみがえって下さった方のために生きていることを信じてはいたが、それでも筆者の人生には、まだ真の意味で、他者というものが訪れたことがなく、天におられるまことの主人を喜ばせるために、地上生活を送るとは、どういうことなのかを、具体的に知らされていなかったのである。

訴訟における審理が、早くとも月1回程度のペースでしか開かれず、裁判官に会うことも少なく、その時間も短いように、筆者に最初にミッションを与えてくれた上司が、職場に稀にしかやって来ないことにも、何か意味があるように思われてならない。
  
それは、主人の姿が見えないと、僕たちの心が一層、露わにされるからである。主人に観察されることを望まず、何事も自分の思い通りにしたいと望んでいる僕にとっては、主人の到着は、全く喜ばしい出来事ではなく、来ない方が良い瞬間である。

しかし、常日頃から、主人に仕えるために、心を砕いている僕にとって、主人の到来は、喜ばしい訪れであり、その眼差しは、決して厳しいものでも、不快なものでもない。

その主人は、私たちが用意もできていない時に、私たちを辱め、恐れさせるために、不意にやって来るのではないし、主人から目を留められ、働きを報告するよう求められることは、僕の労苦がようやく報われることを意味するから、忠実な僕にとっては、何ら戸惑うべきことではなく、むしろ、待ち望む瞬間である。

その方は、気づくと、もう私たちの心の戸口に立って、扉を叩いている。私たちがその求めに応じて、戸を開けるなら、彼は私たちの口から、嬉しい報告を聞くことを期待しつつ、静かに私たちのそばに立ち、笑顔で声をかけて、苦労をねぎらってくれる。
 
私たちが困難の只中にあることが分かれば、「私が着いているのだから、あなたにはきっとできるはずだ」と力づけ、励ましてくれる。

「あなたがたには世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20) 
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(コリントニ12:9)

 
こうして、目には見えずとも、私たちには、決して私たちを置き去りにしていくことのない真の主人が着いておられる。だから、僕としての限界、制約は、私たちにとって重荷とはならない。この方に仕え、その眼差しをとらえ、評価を受けようとして生きることが、どうして光栄でないはずがあろうか。

それに引き換え、ただ自分で自分を肯定するために、誰にも仕えず、誰にも承認されることのない、終わりなき一方的な自己主張を繰り広げながら、自己充足のために、自分で自分を栄光化する建物の建設を続ける作業は、大変、むなしく、報われない孤独な奮闘である。

自分のためにどんなに立派な神殿を建てても、そこに住まうのが、自分一人であれば、それは家と呼ぶべき場所ではなく、また、光栄であるはずもない。自分で自分をどんなに肯定してみたところで、そこから何が生まれて来るのだろうか。そびえたつ絶壁と、高い塔は、一見、人間にとっては、孤独とは無縁の、栄光に満ちた住まい、強固な守りの砦であるように見えるかも知れないが、それはどこまで行っても、人類の独りよがりでしかない、家とは呼べない、断崖のような孤独な住まいであり、そこで行われるすべての営みも、人類の自己満足に過ぎないものとして、誰からも認められることなく、やがて塔が崩れ去るときに、始めから無かったもののように、忘れ去られて終わるだけである。もともと自分しか認められない人間が、地上からいなくなったとて、誰がその人間を思い出してくれるのだろうか。
 
被造物は、神を抜きにして、決して完成に至ることはなく、人類だけでどんなに団結しようと、神からの承認がなければ、人の一切の営みは無意味である。

だから、筆者は目を上げて、自分自身の思いと、移ろいゆく地上の有様から目を離し、ただ一人の目に見えないまことの主人の到来を思いつつ、それを待ち望む。花嫁なる教会が、花婿なるキリストを待つように、天におられる方を仰ぎ望み、こう言わずにはいられない。「来たりませ」と。

その方が来られるとき、私たちには真の慰めと、栄光が与えられ、すべての労苦はねぎらわれ、豊かな満たしがある。

地上における日々は、見えない主人の到来を待ち望むために与えられた貴重な訓練期間である。
 
* * *
 
最後に、使徒パウロが、コリント人への手紙の中で、教会内で起きた紛争をこの世の法廷に持ち出し、この世の裁判官に裁きを委ねることに反対した背景には、キリスト教とは完全に異質な異教の神々への信仰を土台とするローマ法という特殊事情があることについて書いておきたい。

これを「特殊事情」と呼ぶのは、今日の我々の生きている時代の法と、パウロ存命当時のローマ法とは、その土台となる理念も概念も異なるためである。

当時、ユダヤ人たちは、ローマ帝国の中でも一定の自治を保っていたようであり、その自治は、宗教的にも、ある程度認められていたものと見られる。それでも、ユダヤ人たちが、もしくは、異邦人も含め、教会内にいる信者たちが、自分たちの間で起きた紛争に対する裁きを、この世の法廷に訴え出れば、その紛争は当然、ローマ法に従って裁かれることになる。しかし、多神教への信仰を理念とするローマ法に従って、どうしてキリスト教会内で起きた紛争を裁けるのか。

しかも、以下で示す、パウロがコリントの信者たちに宛てて書いた忠告では、当時、教会内の信者たちが、およそ信仰とは関係のない日常的な事柄を巡って、争い事を起こし――たとえば、土地や、所有物や、金銭や、日用品や、食べ物などを巡って――多数のトラブルが発生し、そうしたこの世的な些末な争い事を、教会内では仲裁できる者もなく、誰もがこれを放置した挙句、結局、仕方がないから、その争いを世の法廷に持ち出し、そこでおさめてもらおうと、信者たちがこの世の裁判において、紛争を起こそうとししていた様子が分かる。

パウロはそうした争いのみっともなさ、矛盾を指して、そんな争い事を世に持ち出すことは、信徒の名折れであり、教会を辱めるものであり、それ自体が敗北以外の何物でもない、ということを述べたのである。

「あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。あなたがたは知らないのですか。

聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。

それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。

兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。

なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。」(コリント人への手紙一6:1-9)


今日、私たちは異教の神々を信奉する理念のもとに作られた法体系の中を生きているわけではなく、また、筆者は日常的な争い事をおさめるために、兄弟と呼ばれる教会の信者との争い事を、この世の法廷に持ち出しているわけでもないから、以上のくだりと、筆者の提起した訴訟との間には、多くの相違点があることは言うまでもない。
 
さらに、筆者は、この世の裁判所の人々は、私たちと同じ信仰者ではなくとも、同時に、異教の神々を信奉し、その理念に基づいて人々を裁く者でもないから、私たちは彼らを上に立てられた権威として尊重し、服すべきであるとみなしている。もちろん、裁判所のみならず、この世のすべての権威は、同様に敬うべきであると考えている。

とはいえ、以前にも書いたように、パウロはここで、キリスト者一人一人が「世を裁く者」、「天使たちをさえ裁く者」であると告げていることは重要であり、これは、信仰によって、想像を超えた絶大な権威が、私たち一人一人信じる者に与えられていることを意味する。

主の御名は、すべての名に勝る絶大な権威であるから、この方の御名の権威を与えられている私たちキリスト者一人一人も、地上のすべての物事を超越する存在なのである。この世のどんな為政者も、権力者も、私たちの中にあるまことの命を否定することはできないし、これを消滅させることもできない。地上のすべての物事は、一見、権威ある人々の発する命令から始まるように見えても、実際には、私たちが信仰によって抱く望みによって始まり、信仰によって完成させられる。
 
だが、そのように絶大な御名の権威を託されているからと言って、私たちはこれを人々に対して居丈高に振りかざし、他の人々の上に立って、彼らを威圧し、支配するようなことを決してせず、むしろ、主がそうされたように、僕として、己をむなしくして、この世の権威に服する。

パウロが殉教に向かったのは、異教の神々を信奉するローマ帝国内で、正しくない裁きが行われた場合であっても、この世の権威に逆らわず、それに服することで、十字架の死に赴かれたキリストにならうためであったろう。
 
今日の政治情勢下で、私たちが不当な裁きによって殉教を命じられるようなことはまずあり得ないことは幾度も述べたが、それでも、私たちには、日々、耐え忍ぶべき小さな十字架がある。

以下の御言葉は、信者に与えられた忠告ではあると同時に、幾分か、この世の人々との関係においても当てはまるものである。なぜなら、そこには,教会だけでなく、この世においても、私たちの権威や、栄光が、自分で自分を高く掲げることから来るのではなく、互いに自分をむなしくして、僕として仕え合うことから来るという原則が表れているためである。

自分一人だけが、他の人々に先んじて、知識を蓄え、他者を凌駕して、優位に立ったり、他者を圧倒するような力を身に着け、誰かを押しのけ、隅に追いやることで、栄光が得られるわけではない。

何度も言うように、被造物は、それ自体のために造られたのではなく、造った方を喜ばせるために存在しているのであって、その本来的な努めをまっとうするところにこそ、私たちの幸福がある。それにも関わらず、被造物同士が、互いに比べ合い、押しのけ合い、君臨し合い、凌駕し合い、優劣をつけ合うことによって、どんな栄光にもたどり着けるわけではないし、それによって自分の訴えの正しさや、優位性が認められて、他者に勝るリアリティを獲得できるわけでもない。
 
ただ私たちを選び、立てて下さった方からの承認だけが、私たちを生かす力なのであり、そして、その方に評価され、栄光を受けるための道は、十字架を通ることにしかない。ヨルダン川の川底に立ち、人々が安全に川を渡り終えるまで、契約の箱を支えて立つ、その仕事にしかない。

だから、己を低くして、互いに仕え合いなさい、とイエスは弟子たちに幾度も言われたのである。パウロも、信者が何か奥義的な知識を身に着けたとして、それを他の信者に対して吹聴することを戒めている。

そうして仕え合う関係は、信者が教会の人々に対して取るべき態度だけでなく、すべての人々に対して取るべき態度を表している。栄光は、人々に君臨し、圧倒し、支配することから来るのではなく、仕えることから来る。その原則は、いかなる場所においても、変わらない。主の御前で、主にならって、自分を低くする者が、高くされるのである。
   
「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、”霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げられ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ2:1-11)

2019年8月 4日 (日)

自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです。

「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」(ヤコブ4:6)

「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、 ただあなたの御名にのみ帰してください。」(詩編151:1)

「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです。<略>
わたしたちは、他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません。ただ、わたしたちが希望しているのは、あなたがたの信仰が成長し、あなたがたの間でわたしたちの働きが定められた範囲内でますます増大すること、あなたがたを超えた他の地域にまで福音が告げ知らされるようになること、わたしたちが他の人々の領域で成し遂げられた活動を誇らないことです。

「誇る者は主を誇れ。」自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです。」(二コリント10:12-17)

 とある用事を終えて人と別れ、東神奈川の駅に続く高架橋の階段を上った途端、ダイナミックな花火が始まった。大勢の人たちが足を止めて夜空を見上げ、スマホで撮影していた。筆者も足を止めて、ビルの合間から、夜空に万華鏡のように映し出される光景に見惚れた。週末に向けて、天からの思いがけない特別なプレゼントを受け取ったような気分である。

キリスト者の人生は、神とその人との共同の歩みであり、そこで起きる出来事に偶然はない。主はまことにすべての出来事を、信じる者のために絶妙なタイミングで計らって下さり、ご自分に聞き従う人たちのために、良い出来事も、悪い出来事も、何もかも最終的に益になるようにとりはからって下さる。
 
さて、今日のテーマは「顔を上げて主をまっすぐに見る」必要性である。

これまで筆者にとって、書類の束は、人生には欠かせない道連れのようであった。仕事でも、それ以外の場所でも、果てしない時間を、書類とのおつきあいに費やして来たのである。

しかし、このところ「書類から人へ」のシフトが起きつつある。

それが起き始めたのは、皮肉なことに、当ブログを巡る裁判の第一審の最中であった。

ちょうど約一年前、最初の期日に出廷した際のことは今でもよく覚えている。

その日、筆者は人生最初の裁判に臨むために、百ページを超える訴状を携えて、被告が出廷するよりもかなり前に、法廷に入って着席していた。それは筆者にとって初めて法廷を見る機会であったが、およそすべてが常識から外れたこの事件では、何もかもが通常通りではなかった。

遮蔽の措置を願い出ていた原告の席は、被告席とも、傍聴席とも、囲いで隔てられ、顔を合わせるのは裁判官のみであった。

書記官に案内されて、その衝立で囲まれた席に着席した後、筆者は表情をこわばらせたまま、机の上に訴状を置いて、開廷の時を待った。裁判官が法廷に入って来て着座したが、それでも被告はまだ来なかった。

非常に長く感じられる沈黙の数分間が過ぎたが、裁判官が、その間、まじまじと筆者を見つめているのが分かった。一体、このような非凡な事件を提起したのはどういう人間なのか、今、原告は何を考えているのか、心の中まで観察されているようであった。

法廷の主は、裁判官ただ一人であり、そこで裁判官の意思を妨げるものは何もない。

だが、被告と対面せずに審理を進める手続きが取られた時点で、裁判官は、筆者の危惧を真剣に受け止めてくれていることが分かっていたため、裁判官は決して筆者に悪意を持っておらず、筆者の敵でもない、ということは分かっていた。

そこで、裁判官から観察されていることは、筆者にとって、不快な印象ではなかったが、筆者はあえてそれに気づかないふりをして、緊張気味に、手元の訴状に視線を落とした。

それが、筆者と法廷との最初の出会いであったが、こうして人生最初の裁判の期日において、法廷に最初に登場して来たのが、裁判官であったこと、一審の最初から最後まで、筆者が対面したのも、裁判官と書記官だけであったというのは、何かしら非常に印象的かつ象徴的な出来事であった。

筆者は以前にも書いた。対面することは、知り合うことを意味し、関係性が深まって行くことを意味するのだと。この審理において、筆者は被告とは知り合わず、全世界に対して、自分を閉ざしていた代わりに、ただ一方向に向かってのみ、裁判所の人々に対してのみ、心を開いていた。

そのため、この審理の間に学んだことも、被告に対してどう答えるかということではなく、むしろ、裁判官の言動の一つ一つに注意を払うことの重要性であり、控訴するに当たっても、判決文を読んで、自分の主張の足りないところを学ぶことが必要となった。

裁判官の書いた判決と争うのではなく、それを読んで、自分の論理にどう足りない部分があったのかを学んだのである。
 
これは裁判というもの自体に対する筆者の見方を変えた。筆者はそれまで裁判とは、主に被告に反論するための場所だと考えていたが、実際には、裁判において注意を払うべき相手は、被告ではないこと、また、以前にも書いた通り、裁判官と心が通わないまま、被告との議論に誘い出されて行き、それに溺れることが、いかに重大な危険であるかを知らされた。

さらに、裁判官は決して筆者に言葉で注意を促したことはなかったが、筆者が裁判官の話している最中に気もそぞろであったり、うつむいたり、わき見していたりすると、やや苛立たし気に、自分に注意を向けるよう、暗黙のうちに促していたように思われた。

そうして裁判官に注意を向けることには、ただ裁判の進行から目を離さないとか、自分に有利な結果を得たいがために、裁判官の心を自分に向けさせるといった目的とは異なる、より深い意味があったように思う。

なぜなら、その頃、筆者の勤めていた会社でも、上司がさかんに同じようなことを筆者に求めていたからである。

その当時の筆者に必要なのは、自分を生かし、解放することのできる権威者から、片時も目を離さず、その人間のそばを離れず、その陰に隠れ、一人で危険や死へ赴かないために、絶えずその人間に注意を注ぎ続けることであったように思う。

それまで何事も自分で判断し、自分で決断して歩み続けて来て、それに不足はないと考えていた筆者にとって、それは新しい学びであった。

とはいえ、それは裁判官や、あるいは上司の判断を鵜呑みにして、自分自身では何も判断しないということとは異なる。他者へ依存することをも意味しない。それだからこそ、判決を得ても、筆者の判断で、審理はまだ続いているのである。

とにもかくにも、このようにして、筆者が書き上げて来た膨大な書面に、注意深く耳を傾ける者が現れ、権威を持って事件を裁く者が現れたおかげで、筆者の作り上げた書面は、一方通行ではなくなり、裁判をきっかけに、筆者の注意は、「書類から人間へ」シフトし始めた。

当初は高みから筆者を観察していた裁判官は、次に筆者のそばへやって来て、同じ目線で語り合い、やがて筆者の眼差しをとらえ、筆者の関心をとらえた。

そうして、筆者が果てしない時を費やして積み上げて来た膨大な書類に生きた光が当てられ、それに見えない承認印が押され、現実に大きな変化をもたらす効果的な宣言が下された。だが、そのように解放的な宣言を受けたこと以上に、筆者は、不思議な「干潟」に働く作用に何より心を奪われたのであった。

だからこそ、筆者は一審が終わった後も、このフィールドに尽きせぬ関心を寄せて、そこにとどまり続けて、そこから、自分だけでなく、他者のためにも、不思議なエネルギーを汲み出す方法を開発しているのである。

ところで、「顔と顔を合わせて『知り合う』」ということは、ただ面識が出来て互いが何者であるかを知ること以上の意味がある。

聖書において、キリストと人とが顔を合わせるのは、人の贖いの完成の瞬間のことであり、顔と顔を合わせた者は、似た者同士になる。

「このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは”霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。

わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(二コリント3:15-18)


これまで当ブログでは、聖書をさかさまにした偽りの悪魔的教えであるグノーシス主義の構造の分析に、多くの紙面を費やしてきたが、「鏡」とは、グノーシス主義において、極めて重要なシンボルとして利用されていることをも示した。

グノーシス主義における「鏡」とは、弱い者が、強い者の性質を盗み取る(簒奪する)ために使うトリックである。

映画"MISHIMA"の分析シリーズでそのことはすでに示したので、詳しく繰り返さないが、「神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画"MISHIMA"から③」などを読んでいただければ、そのトリックがよく分かるものと思う。

グノーシス主義においては、被造物は「神々」であり、そこには無限のヒエラルキーがあり、その頂点に君臨する至高神とされている「神」は、「鏡」にたとえられる。
 
グノーシス主義では、神を「鏡」にたとえることにより、神があたかも被造物によって「見られる存在」、「知られる存在」(=対象)であるかのように置き換え(貶め)、被造物の誕生は、神が造物主として自らの意思で被造物を創造したことによるのではなく、至高神という「鏡」に、神の意思とは関係なく、神の姿が似像(映像)として乱反射するように映し出されることによって、そこに映し出された映像が、「存在の流出」として、「神々」すなわち被造物を誕生させたのだという。

このような概念の「鏡」は、神の概念を骨抜きにするものであり、被造物が何らかの方法で神を盗撮することにより、神の意思とは関係なく、神の聖なる性質を盗み取って、自己を栄光化したと言った方が良く、聖書における創造とは正反対である。

上記のコリント人への手紙を読めば、聖書において「鏡」とは、神ではなく、むしろ、被造物を指していることが分かるはずである。
 
鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。」というフレーズによく表れているように、私たち信じる者たち一人一人が、神の栄光を、鏡のように映し出すことにより、主の似姿に変えられて行く存在なのである。

つまり、神が被造物の栄光を映し出す「鏡」なのではなく、被造物である私たち人間こそが、神の栄光を反映するための鏡なのである。だから、グノーシス主義はこの点で、聖書とはさかさまであり、神と被造物との関係性を逆転させていることがはっきり分かる。

さて、神と人との関係は、どこまで行っても、神は「知る者」であり、人間は「知られる者」であるという秩序から出ることはない。とはいえ、神と人とが対面して知り合うことによって、むなしい鏡に過ぎない被造物に、神の聖なる性質が光のように反映するのである。

このことは、人間が宮であり、神殿として創造されたことと密接な関係がある。

「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」(一コリント3:16-17)

人間は誰であれ、信仰の有無に関わらず、神を迎えるための宮として造られている。神に見捨てられ、神が不在となった宮は、単なる空っぽな入れ物に過ぎず、何の価値も持たず、聖なる場所でもない。

神が不在である宮は、灯りをともされない真っ暗な建物にもよく似て、そこに光が当てられない限り、どんな機能があって、どんな構造になっているのか、誰にも分からない。しかも、宮として造られた建物は、通常の住居としても使えないので、どんな優れた装飾が施されていようと、神がやって来られて使用されなければ、何の役にも立たない無用の長物でしかない。

同じように、鏡は、映し出すべき対象がなければ、誰に対しても役目を果たさない。そのことは、私たち人間が、自己の力では、自分を知ることさえできないことをよく表している。

私たち被造物という「鏡」には、私たちが目にするもの、心に注意を向けるものが映し出される。

だが、その「鏡」に映し出されるのは、誰なのか、何なのか。この世の移ろいゆく事象か、自分自身の思いか、それとも、サタンの姿なのか、神の姿なのか・・・。

私たち自身が誰に目を向け、何に心を留めるかによって、私たちが心の鏡に映し出す映像が変わる。だが、その映像の如何によっては、その鏡は、ナルシスが覗き込んだ水面のように、「虚無の深淵」となって、私たち自身を吸い込んで終わるだろう。

なぜなら、鏡それ自体には、何も創造する力もなければ、自力で映し出すべき対象を見つけることもできず、映し出した対象に命を与えることもできないからだ。ただ鏡の持ち主がやって来て、自分の姿をそこに移し出すとき、初めて、鏡の役割が全うされるのである。

そのことは、被造物それ自体は、罪に堕落した瞬間から、滅びに定められ、虚無に服しているため、被造物の栄光は、ただお一人の神に目を向けることからしかやって来ず、人間は、自分では何も生きたものを生むことのできない虚無であることをよく物語っている。

人間の知識は、無限の鏡と、そこに映し出された果てしない自己の映像の中を生き巡っているだけで、どんなに鏡の中に自己の姿を映し出しても、そこから真実は見えて来ず、永遠の堂々巡りというトートロジーに陥るだけである。
 
そこから解放される手段は、私たちのまことの主であるただお一人の、生きておられる神に目を向けることだけである。

モーセの書は、何も映し出さない鏡のようなものである。それは、筆者が書き上げた膨大な訴状や、準備書面にも似て、そこには、意味のない事柄が書き連ねられているわけではないが、事件を裁く者が誰もいなければ、それは誰からも認定されることのない、正しいのかどうかも分からない、命が与えられることもない、一方的な主張に過ぎない。

モーセの書は、人間の違反を宣告するものであり、人間には自力で神の聖に到達する手段がないことを告げ知らせるだけの、人を生かす力のない「死んだ文字」である。その書のどこを探しても、終わりなき善悪の議論が展開しているだけで、そこから人間を救い出し、人にまことの命を与えるために、キリストが来られる必要があったのである。

第一審の開始当初、筆者の鏡には、まだ自分のモーセの書しか映し出されるものはなかったが、裁き主はすでに登場していた。

筆者はこの審理の最中、自分の心の鏡に「被告(ここでは象徴的にサタンとする)」を映し出すことをやめねばならないことに気づかされた。対面せずとも、心の鏡に映し出された対象と、筆者は向き合っているのと同じだからである。
 
そこで筆者は、自分の心の鏡には、真に価値あるものしか映してはいけないということに徐々に気づかされた。映し出された者と、筆者とは、鏡を通して「知り合う」こととなり、その鏡を通して、映し出された者の性質が、筆者に命として分け与えられる。
 
それは簒奪によるのではない、善意と自由意志と責務に基づく真実な分与である。

もしも筆者よりも弱い者が、鏡を使って筆者の映像を盗み取ろうとするならば、筆者はそれによって力を奪われ、卑しめられるであろう。しかし、筆者よりも強い者が、筆者を解放するためにやって来て、その鏡に自分の姿を映し出すならば、それによって、その者の強さが、筆者に分与されるのである。
 
不思議なことに、判決を通して、裁判官の持っていた性質が、幾分か、筆者にも付与された。裁判官の書いてくれた判決は、筆者に法的な世界へ扉を開いてくれる目に見えない紹介状となり、その紹介状を持って、新たな場所へ向かったところ、利害の異なる、対立する人々の言い分をジャッジするという、裁判官の仕事にどこかしら似た、新たな任務が与えられた。

これが命の分与の結果であった。筆者は判決を通して、ただ自分が訴状において求めていた解放を幾分か得たというだけにとどまらず、裁判官から分与された目に見えない命を通して、裁判官の行っていた仕事の性質を、幾分か分け与えられたのである。

こんなことは、およそ信じがたい、ファンタジーのような話だと思われるのは結構である。幻想と言われようと、そうなったことは変わらない事実である。

筆者の心には、自分に解放的な宣言を与えてくれた人にならって、自分も他者に同じように解放を与えることのできる仕事をしたいという願いが生まれ、その願いに応じて行動した時、次なる出来事が起きたのである。
 
* * *

さて、ある日、仕事に従事している最中、同様の作業に従事する人たち全員に一人一枚の「抽選券」が配られた。

そこには、仕事の奥義を学びたい、とりわけ熱意あるえりすぐりの有志たちに向けて、ある学習会が提案されていた。

誰もが参加できるわけではないが、申し込みは誰でも可能だというので、筆者は浅はかにも、学習を積む良い機会だと思って、行列ができる前に、応募してみた。

ところが、その抽選は極めて当たる確率が低く、しかも、学習会は、建設中の「バベルの塔」の中で行われることが判明した。
 
申し込んだ後で、当選の条件も変更された。学習会へ招かれるためには、まずは分厚い学習書として、モーセの書を自費で購入した上、それに精通し、ピラトの階段をひざで上り、今いるよりも上層のヒエラルキーまで昇格せねばならないことが知らされた。

だが、モーセの書は高価で、通常の書店に売っていない上、分厚く、とてもではないが、その勉強は、学習会の開催に間に合いそうにもなかった。しかも、ピラトの階段は、人がようやく登れる程度の幅しかなく、大変な高所にあるため、登っている最中に落ちて死んだ人が後を絶たないのだという。

筆者はピラトの階段に挑戦しようとしたが、一段、登ろうと、上の段に手をかけた途端、背中のリュックに入れていたモーセの書が、途方もない重さになって体にのしかかり、思わずよろめいた。

その瞬間、筆者の後から階段を上って来ていた同僚の誰かが「大丈夫ですか?」と親切そうに声をかけ、手を差し出してくれたので、筆者がその手につかまろうとしたところ、その同僚は、筆者の手を思い切りつかんで、筆者を下に引きずりおろし、筆者を押しのけて、さっさと上段に登って行った。その際、聞こえよがしに「身の程知らず」とささやいて行った。

こうして、階段を上るどころか、早々にひきずりおろされた筆者は、学習会と書いた旗が、はるか階段の上方にひらめいているのを見て、これは何かしら人間を愚弄するとてつもない罠のような話だから、そのような提案には乗らない方が賢明だとようやく理解した。

さて、見学会を率いる隊長は、ピラトの階段どころか、断崖絶壁を膝でよじ上るのが趣味で、すでにいくつもの奥義的な知識を身に着け、誰よりも上層のヒエラルキーに到達しているという噂であった。その人自身が、「ラビ」と呼ばれ、まるで断崖絶壁のような性格であった。親切そうに、謙虚そうに振る舞ってはいたが、人を容易には寄せつけず、また、彼の後を追って、ピラトの階段を登って行く人たちは、みな彼と同じような性格の人たちばかりであった。

いつの間にか、筆者を笑顔で階段から蹴落とした誰かが、当選者になっているという話も聞こえて来た。

筆者は、少数精鋭の当選者の集団が、バベルの塔で開かれる特別な奥義的知識を得るための学習会に向けて出発した後で、彼らが捨てて行った抽選券を拾い上げてみた。すると、そこには、誰が書いたのか、赤文字で、「クーデター。盗んだ水は甘く、ひそかに食べるパンはうまい。高ぶりは倒れに先立つ。バビロンから遠ざかれ。塔の崩壊に巻き込まれるな」と書き込まれてあった。

その時、筆者のもとには、紹介状に形を変えた判決文があったので、それを見ると、そこには、「あなたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたを選んだ。権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によって。わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さの中に完全に発揮される。」との文章が書き加えられていた。

筆者はそれを見て、塔の見学は高ぶりへの道だったことに気づき、このような抽選には申し込んではならなかったのであり、行かなかったことも、幸いだったと知った。そして、今一度、偽りの知識をためこむ生活から離れ、手元にあるモーセの書から目を離し、まことの主人に向かって目を上げなければならないと気づいた。

バベルの塔とは、別名を善悪知識の塔と言い、そこには、人が獲得した知識の程度に応じて、無数のヒエラルキーがあることを示す、果てしのないピラトの階段が、まるで塔にからまるツタのように、周りをらせん状に取り巻いている。その上層部には、あらゆる学者、宗教学者、数々の「専門家」らが名を連ね、彼らには絶大な富と、栄光が約束されている。

だが、筆者は、その塔が人に約束している幸福を与えず、彼らの独占する知識が、人を解放にも導かないことを知っていた。筆者自身が、専門家という呼称がいかにむなしいものでしかないかを思い知らされて来たのである。

しかも、このヒエラルキーがよすがとしている知識とは、昔々、サタンがエデンの園で、蛇の形を取って人類の前に現れ、この知識を身に着ければ、あなたは神のようになれると嘘を吹き込んだ、偽りの知識に由来するものである。

それは人を高慢にする知識であり、それをサタンから伝授された日以来、人類は果てしなく天に至るまでの塔を建設し続け、ピラトの階段をひざでよじ登り続け、互いに分裂と争いを続けている。

だが、筆者に与えられたミッションは、他でもないバベルの塔建設や、ピラトの階段を上る最中に、不幸な目に遭った人たちを助けることにあり、そこで筆者の課題は、人を不幸に追いやるピラトの階段のヒエラルキーを承認するのではなく、かえって、そこから零れ落ちた人々を助けることにあった。

この塔がためこんでいる知識は、どこまで行っても、人間を生かさない、独りよがりの閉ざされた知識であり、その知識を追求する限り、その人の人生に、他者というものは、一人も現れて来ない。

どんな家庭を築こうと、どんなに友達を増やそうと、どれほどの権威を身に着けようと、その知識を追求する人間にとっては、すべての人間が競争者であるから、彼は徹底的に孤独であり、人を信頼することができないのである。

筆者は、目の前に置かれたモーセの書を見ながら、法廷で訴状を前に、緊張しつつ、裁判官に見つめられていた瞬間のことを思い出した。

その時、筆者を取り囲んでいた囲いは、筆者が八方塞がりの状況にあること、解放は、ただ裁判官だけから来ることを告げていた。

だが、その時、筆者はまだ目の前に置いていたモーセの書にすがりつくように、これを一心に見つめ、裁判官でさえも、筆者の人生に、まだ生きた人間として、受け入れられていたわけではなかった。

その書面は、筆者の精いっぱいの自己防衛の手段であり、他者に自分を理解してもらうための唯一の説明であったが、筆者はその頃、他者とは誰かということさえ分かっておらず、裁判官でさえ、きっとこのような事件は、理解できまいと、心の中で考えていたのであった。

そこで、筆者は、自分で自分を肯定するために作り上げた書面を、唯一の武装手段のように思い、それが他者から承認されることなくして、生きたものとならないという現実――それゆえの他者の重要性――を、まだ十分に分かっておらず、事件の解決は、自分の努力によるものであって、他者からの助けは要らないかのように考えていたのである。

モーセの書は、人間の目に、あたかも正しい知識や、身を守るための理論武装の方法を教えてくれる武具のように見える。それは知識による人間の自己防衛の手段である。

だが、それを手に入れるために、人はどれほど果てしない苦労を費やさねばならないだろうか。筆者も、自分なりの書面を作り上げるために、どれほどの月日を費やしたかを思い出すが、その時、目の前に置かれていた訴状は、今でもまだ筆者の人生に形を変えては現れている。

裁判官は、筆者の作り上げた書を隅から隅まで読み、何度もそれを読み返し、その作成の苦労を知りつつも、その後、時間をかけて、筆者がモーセの書から目を離し、そこから解放されるように仕向けた。

裁判官は、筆者の作成した命の通わない書物に光を当てて、これを蘇生させた上で、共同作品のような宣言を作り上げたが、最も重要なのは、そこに書かれていた理屈ではなかった。

重要なのは、筆者の命の通わない訴えに、他者が命を吹き込んだということなのである。それによって、筆者に新たなミッションが与えられ、裁判官の任務の重要な性質の一部が、筆者の人生に分与され、それまで一方の当事者の立場にしか立つことのできなかった筆者に、自分を離れて、物事を俯瞰する新たな視点が与えられた。

こうして、筆者が一方の当事者である自分の立場だけから、すべての物事を見、主張し、判断するという制約から解き放たれたことは、おそらく筆者の人生を根本的に変えてしまうほどの大きな転換であって、これから先、徐々に筆者を取り巻くすべての人間関係に波及していく絶大な効果を持つ出来事なのだろうと予想する。

さらに、それまでモーセの書の研究という果てしなく孤独な作業に従事していた筆者が、そこから解放されて、生きた関係性の中に入れられたのである。

何か大きな逆転現象が起き、筆者がピラトの階段から、訣別宣言を突きつけられたのを機に、筆者と入れ替わるように、それまでモーセの書になどほとんど縁もゆかりもなかったと思われる大勢の人々が、筆者を押しのけるようにして、その階段に殺到して行った。

筆者は未だ手元の書面から、完全に目を離したわけでなく、そこから完全に解放されたわけでもないが、それでも、モーセの書をよすがに生きる人生を離れ始めた。

筆者のためのまことの裁き主は、常に筆者のそばにいてくれ、筆者に目を注ぎ、筆者の訴えを精査して、筆者の苦労を隅々まで分かち合いながら、常に筆者のために、弁護人となってくれ、知恵を与えてくれると同時に、筆者に対し、自分自身から目を離し、主ご自身に目を向けるよう、いつも教えてくれている。

「わたしを見なさい。わたしこそが、あなたにとって道であり、真理であり、命なのです。あなたの思いをわたしにすべて分かち合いなさい。わたしこそが、あなたの知恵であり、豊かさであり、あなたのための解放であり、安息なのです。わたしを見なさい。」

筆者は以前に、女性とはなぜ絶えず愚痴ばかりをこぼし続けている存在なのだろうかと書いたことがあった。このようなことを言えば、フェミニストが早速、抗議して来るかも知れないが、女性の話す内容に耳を傾けてみれば、その8割から9割は、愚痴と不満から成り立っており、残りの1~2割が自慢話と他愛のない雑談である。

古来から、異教の宗教では、女性は命を生み出す者として、豊饒のシンボルとして扱われて来たが、筆者はそうは考えない。聖書的な観点から見れば、命は女性から始まるのではなく、あくまで男性から始まる。その性質は、あらゆる場所に波及しており、フェミニストは、女性は男性と対等であるべきと言うが、筆者から見れば、女性には、男性と対等であれるだけの資質が初めから備わっていない。女性の働きは、どこまで行っても、陰のようである。

とはいえ、女性がその弱さを男性に対して率直に打ち明けるならば、男性は大いに彼女をかばい、守るであろうし、己が力を誇示して優位に立とうとは考えず、むしろ、彼女を助けることを光栄に思うだろう。

ただし、どういうわけか、そういう結果になることは少ない。弱いにも関わらず、女性が男性に君臨し、支配するというケースは至る所で見られる。多くの家庭ではそうなっているらしい。だが、もしも筆者の見立てが正しく、女性が本質的に虚無であるとすれば、女性による支配は、決して功を奏することはないだろう。

それでも、例外的に、女性の中には、女性の抱える弱さの制約を超えて、男性と同じような働きを成し遂げる人々がいないわけではない。だが、その場合でも、女性の抱える制約は、男性に比べて、圧倒的に強い束縛となると筆者は考えている。それは社会の進歩が遅れているせいではなく、生来の特徴から来るものである。

もしもそうした制約から完全に逃れたいと思うならば、条件はただ一つ、神に直結し、キリストに結ばれることである。そうすれば、その人は性別に関係なく、この世のすべての人々を超越することになる。
  
だが、そうした場合を除き、筆者から見ると、女性とは、限界ある被造物の象徴のようである。女性の弱さと限界は、被造物が、造物主なくしては、虚無でしかないことをよく表している。従って、女性が絶え間なく口にし続けている愚痴と不満も、とどのつまり、「私は単独では虚無である」ということを述べているに過ぎない。そこで、この虚無の中をどんなに探しても、正しい答えは見つからない。
 
この話は、性別の問題を論じるために持ち出したものではないし、女性差別の観点から主張しているわけでもない。

筆者はただ、女性の弱さと限界は、神の助け手として造られた人類が、神の御前で抱えている弱さと限界を象徴的に表している、ということを述べているだけである。

男であろうと女であろうと、人類が神の御前でしたためた書面には、自己の弱さと、限界と、苦悩の跡と、愚痴と不満しか書かれていない。誰であれ、神の御前では、弱さ以外に主張するものはないからである。

だが、神は人間が切なる訴えを抱えて、ご自分の御前に進み出るとき、決してこれを軽く扱うことはされないし、もちろん、人間の弱さを嘲笑うこともされない。

神の御前で全被造物は虚無であり、神は私たちの弱さ、限界、それゆえの惨めさをよく知っておられる。徹底的に心の中を探られても、私たち自身の内には、いかなる善も見つからないことも、予め知っておられる。

しかし、神はキリストのゆえに、私たちのすべての訴えに承認印を押して下さり、私たちの泣き言にも、十分に耳を傾け、疲れ切った私たちに新しい力を与え、罪に堕落し虚無に服した被造物を、御子のゆえに、洗い清め、義とし、新たな命を与え、生かして下さる。

それだけでなく、弱く、限界ある、堕落した、朽ちゆく卑しい存在であったはずの人間を、神の栄光を受けて、これを反映させる新たな高貴な人へと造り変え、万物を御子と共に統治する権威者、天の無尽蔵の富を受け継ぐ御国の相続人へと引き上げて下さる。

そこで、神と人とはもはや対立し、支配し合う関係ではなくなり、どちらかと言えば、パートナーのようになる。あれほど人間が求めてやまなかった神の聖、神の義、贖いが、すでに恵みによって、信じる者には約束されており、幾分か、実現してさえいる。もはや人間は、見捨てられて、弱く、孤独で、卑しい、寄る辺ない、蔑まれるべき存在ではない。

とはいえ、それはあくまで神の側からの恵み(恩寵)によるのであって、この恵みを受けるためには、人間の側でも、自己の限界を率直に認め、その恵みを求め、受け入れる姿勢が必要となる。

人間が、自分に弱さはなく、限界もないと言い張り、自分は神の助けを受ける必要はないと、自分を取り繕い、自力で神に等しい存在になろうと自己を鍛え、学習を積んでいるうちは、神の恵みはその人に注がれることはないであろう。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。」(ヨハネ15:16-17)

そこで、筆者は改めて、自己推薦によってえりすぐりの集団に属するのではなく、神の推薦によって選ばれる人になりたいと願う。神ご自身が、ご自分の尊い性質を、私たちに分け与えようと自ら願って下さり、私たちを引き上げて下さる瞬間を待ちたいと思う。自力でピラトの階段を這い上り、自ら神の聖に到達しようとして、そこから転落して不幸になる道は御免である。

そこで、誰にも安息を与えることなく、高ぶりだけをもたらす偽りのヒエラルキーには背を向け、人の目に尊ばれるのでなく、恵みによって、神に選ばれ、生ける石となる道を行くことこそ、最高の安全策であることを思う。

そういうわけで、実に緩慢な変化であるとはいえ、筆者は手元の書類から徐々に目を離し始めた。書類は、これまで筆者にとって唯一の救命ボートのように見えており、武装手段でもあったが、力強い援護者が現れた以上、もはやそれにしがみつく価値はなくなったのである。

このことは、筆者が今後、訴訟を起こすことはないとか、書面を作成することはないという意味ではない。だが、モーセの書は高価な上、あまりにも重すぎて抱えきれず、救命道具どころか、大変な重荷となって、筆者の前進を阻んで来た。
 
ピラトの階段に別れを告げると、いつの間にか、主が筆者のそばにやって来て、筆者の手からこの重荷を取り上げ、代わりに持ち運んでくれるようになったのである。

今や筆者の人生には、様々な人々がやって来て、「あなたがこのような荷物を運ぶ必要はありません。私に任せなさい」と言って、筆者の手から重荷を取り上げて行く。そうでなければ、その重荷がまるで貴重な宝であるかのように、率先してそれを筆者から奪い取って行く人たちが現れる。
 
これは不思議な現象である。これまでの筆者は何でも自分でやってみたいと考え、挑戦するのが好きであり、苦労を苦労とも考えていなかったので、自分から断崖絶壁を登っていたのであり、その際、重荷を持ち運んでいるという自覚すらもなかったが、確かに、考えてみれば、このような重すぎる書物を自力で持ち運ぼうとすることは、それ自体が「身の程知らず」な行為だったと言える。

そういう意味で、バベルの塔へと続くピラトの階段の最初の一段目で、筆者が階段側から拒否されてこの道を離れたことは、まことに正しい結果だったと言えよう。それはまさに人にとって負い切れない重荷を担う苦行にしかならないからである。

今でも、目に見える地上の多くの教会には、まるで標語のように、以下の聖句が掲げられているが、筆者は、これを標語としてではなく、真実として受け止め、重荷を主に任せ、神によりかかって、安らぎのうちに歩きたいと願う。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)
  
この道は、筆者が始めたものではなく、神ご自身が始められ、筆者を任命されたものであるから、その行程を歩き通す力も、筆者自身に由来するのではなく、神が与えて下さるものでなくてはいけない。イザヤ書(40:25-31)にはこうある。

「お前たちはわたしを誰に似せ
 誰に比べようとするのか、
 と聖なる神は言われる。 

  目を高く上げ、
 誰が天の万象を創造したかを見よ。

 それらを数えて、引き出された方
 それぞれの名を呼ばれる方の
 力の強さ、激しい勢いから逃れうるものはない。

 ヤコブよ、なぜ言うのか
 イスラエルよ、なぜ断言するのか
 わたしの道は主に隠されている、と
 わたしの裁きは神に忘れられた、と。

 あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。
 主は、とこしえにいます神
 地の果てに及ぶすべてのものの造り主。
 倦むことなく、疲れることなく
 その英知は究めがたい。

 疲れた者に力を与え
 勢いを失っている者に大きな力を与えられる。

 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
 主に望みをおく人は新たな力を得
 鷲のように翼を張って上る。
 走っても弱ることなく、
 歩いても疲れない。」

筆者に与えられた新たなミッションは、鳥のように天高く舞い上がり、そこから、地上のすべてを俯瞰するというものである。バベルの塔がどんなに高くとも、その高度はさらにそれを上回る。

筆者は天的な法廷に招かれ、そこで安全な囲いの中に入れられ、正しい裁きを宣告された。筆者の訴えは忘れられておらず、神ご自身が、筆者に正しい訴えを提起するための知恵を授けられたのである。
 
このように、神の側には、常に信じる者がすべての出来事に対処するに十分な備えがあり、神はへりくだった方であるから、へりくだった人を助けて下さる。そして、神は弱い人間を助けることを、心から光栄に思って下さる。人間が神の助け手として造られたにも関わらず、神は喜んで私たちを助けて下さり、またそうしたいと常に願って下さる。

だから、何事も主に相談し、すべての重荷を神ご自身と分かち合い、主に委ねよう。そうして、主と共に進むならば、私たちの荷は軽くされる。そして、自己の生来の限界と弱さにも関わらず、私たちは疲れることなく、立ち止まることもなく、常に軽い足取りで、心に喜びを絶やさず前進して行くことができるだろう。

走っても弱らず、歩いても疲れないだけでなく、翼をかって天高く舞い昇り、この世のすべてを天的な高度から見下ろし、平安のうちに統べ治めることができる。

2019年7月28日 (日)

主は計らい、あなたの正しさを光のように、あなたのための裁きを真昼の光のように輝かせてくださる。

悪事を謀る者のことでいら立つな。
 不正を行う者をうらやむな。
 彼らは草のように瞬く間に枯れる。
 青草のようにすぐにしおれる。
 
 主に信頼し、正義を行え。
 この地に住み着き、信仰を糧とせよ。
 主に自らをゆだねよ
 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

 あなたの道を主にまかせよ。
 信頼せよ、主は計らい
 あなたの正しさを光のように
 あなたのための裁きを
 真昼の光のように輝かせてくださる。

 沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。
 繁栄の道を行く者や
 悪だくみをする者のことでいら立つな。
 怒りを解き、憤りを捨てよ。
 自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。
 
 悪事を謀る者は断たれ
 主に望みをおく人は、地を継ぐ。
 しばらくすれば、主に逆らう者は消え去る。
 彼のいた所を調べてみよ、彼は消え去っている。

 貧しい人は地を継ぎ
 豊かな平和に自らをゆだねるであろう。
 
 主に従う人に向かって
 主に逆らう者はたくらみ、牙をむくが
 主は彼を笑われる。
 彼に定めの日が来るのを見ておられるから。

 主に逆らう者は剣を抜き、弓を引き絞り
 貧しい人、乏しい人を倒そうとし
 まっすぐに歩む人を屠ろうとするが
 その剣はかえって自分の胸を貫き
 弓は折れるであろう。

 主に従う人が持っている物は僅かでも
 主に逆らう者、権力のある者の富にまさる。

 主は御自分に逆らう者の腕を折り
 従う人を支えてくださる。
 無垢な人の生涯を
 主は知っていてくださる。
 彼らはとこしえに嗣業を持つであろう。
 
 災いがふりかかっても、うろたえることなく
 飢饉が起こっても飽き足りていられる。
 しかし、主に逆らい敵対する者は必ず滅びる。
 捧げ物の小羊が焼き尽くされて煙となるように。

 主に逆らう者は、借りたものも返さない。
 主に従う人は憐れんで施す。
 神の祝福を受けた人は地を継ぐ。
 神の呪いを受けた者は断たれる。

 主は人の一歩一歩を定め
 御旨にかなう道を備えてくださる。
 人は倒れても、打ち捨てられるのではない。
 主がその手をとらえていてくださる。

 若いときにも老いた今も、わたしは見ていない
 主に従う人が捨てられ
 子孫がパンを乞うのを。
 生涯、憐れんで貸し与えた人には
 祝福がその子孫に及ぶ。
 悪を避け、善を行えば
 とこしえに、住み続けることができる。

 主は正義を愛される。

 主の慈しみに生きる人を見捨てることなく
 とこしえに見守り
 主に逆らう者の子孫を断たれる。
 主に従う人は地を継ぎ
 いつまでも、そこに住み続ける。

 主に従う人は、口に知恵の言葉があり
 その舌は正義を語る。
 神の教えを心に抱き
 よろめくことなく歩む。

 主に逆らう者は待ち構えて
 主に従う人を殺そうとする。
 主は御自分に従う人がその手中に陥って裁かれ
 罪に定められることをお許しにならない。
 
 主に望みをおき、主の道を守れ。
 主はあなたを高く上げて
 地を継がせてくださる。
 あなたは逆らう者が断たれるのを見るであろう。

 主に逆らう者が横暴を極め
 野生の木のように勢いよくはびこるのを
 わたしは見た。
 しかし、時がたてば彼は消えうせ
 探しても、見いだすことはできないであろう。

 無垢であろうと努め、まっすぐに見ようとせよ。
 平和な人には未来がある。
 背く者はことごとく滅ぼされ
 主に逆らう者の未来は断たれる。
 
 主に従う人の救いは主のもとから来る
 災いがふりかかるとき
 砦となってくださる方のもとから。
 主は彼を助け、逃れさせてくださる。
 主に逆らう者から逃れさせてくださる。
 主を避けどころとする人を、主は救ってくださる。」(詩編第37編)

* * *

さて、以前にも、なぜ使徒行伝には、使徒たちの殉教の場面が書かれていないのかということについて書いた。

本来ならば、使徒たちの殉教は、信仰の道を貫くためのクライマックスであるから、物語としては、これが描かれていた方が、ドラマチックで完成しているように見える。

それに引き換え、現存の聖書66巻に含められている使徒行伝では、使徒の殉教は随所で示唆されてはいるものの、実際にその場面の描写はなく、むしろ、使徒たちおよびクリスチャンが迫害に耐え抜いて、信仰を宣べ伝え、各地の教会が紆余曲折を経ながら成長して行く過程が重点的に描写されている。

使徒行伝の締めくくりにはこうある、「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」(使徒行伝録28:30)

ここには、パウロがいずれ殉教するのだという悲壮感は全くない。むしろ、神の国を告げる福音が拡大して行き、これからエクレシアは完成へ向かって行くのだという期待感が感じられる。

これは中途半端とも見えるような、未完成を思わせる終わり方である。花嫁エクレシアはまだ幼く、婚礼の支度にも入っていないが、もっと後になれば、物語のクライマックスがやって来る。しかし、それはこの時代にはまだ起きていない事柄であるから、描かれていないだけであって、真に重要な出来事は、これから始まる、まさにあなたたちの生きる時代に起きるのですよ・・・、とでも言いたげな期待感を込めたニュアンスが伝わって来るように思う。

つまり、使徒行伝は終わっておらず、今日の時代までずっとこの物語は続いていているのであり、パウロの生活から、一歩、前へ足を踏み出せば、そこに私たちの時代があって、私たちもその続きを生きているのだ、と言いたげな終わり方に感じられる。

とにもかくにも、エクレシアが完成に向かうというテーマに比べると、使徒たちが殉教して生涯を終えるということは、取るに足りない事であるかのように扱われているような気がしてならない。

さらに、使徒たちの殉教の描写が聖書にないのは、それがローマ帝国という多神教の異教的世界観を土台とした政治状況の中で起きた出来事だからこそであると、筆者はかつて書いた。

もしも使徒行伝の中に使徒たちの殉教の場面が描かれていたならば、おそらく、それを読んだ後世の人々は、彼らの生涯の終わりを模範のように考えるようになり、信者は誰しもそのようにして、時の政治権力と対立関係に陥り、迫害されて、非業の死を遂げるのが理想だとさえ考えるようになるだろう。

しかし、聖書はもともと人類の罪を贖うためのキリストの死と復活を中心に据えており、最初から最後まで、被造物の代表・初穂として贖われ、ただ一人神の目にかなう「完成された人」であるキリストについて語っているのであり、政治問題には全く主眼を置いていない。時の政権による信仰に対する迫害というテーマは、聖書のメインテーマから外れている。さらに、聖書はこの世において立てられた権威に逆らうようにとは信者に全く教えていない。従って、聖書は、信者を政権に対して刃向かうように、政治闘争へ赴くように焚き付けることを全く目的としていない。

しかも、使徒たちの殉教は、ローマ帝国が多神教の神話を建国の理念とし、キリスト教を公認していなかった時代という、一定の政治・時代状況を背景にしてこそ、起き得たものなのであって、今日の民主主義に基づく政治体制において、同様の現象が再び、繰り返されうるかと考えれば、それは(独裁体制やら共産主義国などの特殊な政治形態を除き)考えにくい。

そこで、そのように特殊な政治状況、時代状況のもとにしか起き得ない現象を、あたかも普遍的な事象(もしくは信者のあるべき模範)であるかのように描くという混乱が起きないために、また、キリスト教徒を政治権力との無用な対立関係に陥らせたり、使徒を迫害したこの世の政治権力に対する反感をいたずらに信者たちに抱かせるという結果が起きないよう、あえて聖書には、使徒たちの殉教の描写が省かれているのではないかと筆者は考えるのである。
 
ところで、「ルカによる福音書」と「使徒行伝」はともに同じ著者による二巻の書物であるが、どちらもが、パウロの死後十数年以上が経過してから書かれたものであるとみなされている。つまり、使徒行伝は、パウロの殉教後に書かれたものであって、まだ事件が起きていなかったために、この書物にパウロの殉教の描写がないというわけでは決してない。

さらに、パウロの殉教後に書かれている以上、これらの2つのルカによる書物が、パウロが裁判において有利な結果を得られるよう援護射撃として書かれたとみなす理由は存在しない。

ルカの2巻の書物が目的としているのは、パウロの運命を左右するために何らかの手立てを講じることではなく、あくまでキリストがどのような方であるかを宣べ伝えることにある。
 
さらに、パウロが上訴したカエサルとは、今日、キリスト教徒の迫害者として知られている悪名高い皇帝ネロである。その時代、ネロはまだキリスト教徒に対する大迫害に及んでいなかったが、パウロがカエサルに上訴したことによって、裁判において有利な立場に立ったとか、勝訴判決を得たといった記述は、聖書の中では全く見受けられない。

パウロがネロに上訴したことによって、いかなる結果が起きたのか、また、パウロが殉教に至った理由と、パウロがそれまでに受けた裁判との間にどのような関連性があるのか、具体的なことは不明である。

とはいえ、パウロは皇帝ネロの命により、斬首されて処刑されたとも言われている。パウロの殉教は、暴徒による襲撃などの結果ではなく、為政者から有罪とみなされたがゆえの処刑であったことは、ほぼ定説である。

このように、パウロがキリストの復活の命にあずかり、神からの力強い義認を受けていたにも関わらず、なぜ異教的世界観の支配するこの世の不正な裁判によって罰せられたり、不正な君主によって死をもって処罰されるようなことが起き得たのかという問題は、聖書では取り上げられていない。このことは他の聖書箇所と対比して、大いなるパラドックスに見えるかも知れない。

なぜなら、もし神が私たちの味方であるならば、だれが私たちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義として下さるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」(ローマ8:31-34)

というあの力強い神の義認に関する宣言は、他ならぬパウロ自身の記述だからである。このように書いたパウロが、ユダヤ人からの讒言に基づき、裁判で有罪を宣告されるか、もしくは皇帝から不当な判決を受けて処刑されたりするようなことがどうして起き得ようか。

聖書はこのパラドックスを説明していないが、筆者の目から見ると、それはやはり、ギリシア・ローマ神話の多神教の世界観に基づくローマ帝国という特殊な政治・時代背景と関係があるように感じられる。つまり、パウロの殉教という出来事は、異教的な世界の中で、その時代状況に限定して起きた出来事だったからこそ、聖書はあえてパウロの殉教を「キリスト者の模範」のように描くことなく、むしろ、「例外」のごとく扱い、パラドックスとして説明することもなく、通り過ごしているように思えてならないのである。

確かに、聖書には多くの殉教者が存在することが記されている。殉教そのものは、キリスト教徒の召しの中で非常に重い価値のあるものである。ステパノの殉教の時と同じように、使徒たちの殉教が土台となればこそ、その後、福音の広がりがあり、ローマ帝国へのキリスト教の浸透という出来事も起きたのであろうと見られる。今日我々が享受している信教の自由も、そうした犠牲の上に獲得された権利であると言えるかも知れない。

しかしながら、使徒たちの殉教は、教会の最初の礎が築かれたことを意味しているに過ぎず、今日のキリスト教徒が、パウロや、他の使徒たちと同じ政治状況に生きていないのに、彼らと同じように、時の政権からの迫害と受難の末、殉教すべきであるという定式のようなものは、決して存在しないと筆者は見ている。

むしろ、今日の「殉教」のスタイルは様々であり、「日々の殉教」というものもありうるし、何よりも、信者が殉教を目的化して、自ら死を目指すようなことを、聖書は全く教えていない。特殊な政治情勢下における迫害が起きた場合を除いて、今日のキリスト教徒のために、神は死ではなく命を、罪定めではなく、小羊の血潮に基づく潔白を、圧迫ではなく、むしろ、大いなる自由を与えて下さり、主により頼んで生きるすべての人々に対し、様々な苦難はあれど、神は最終的には、冒頭に挙げたダビデの詩編のごとく、

「あなたの道を主にまかせよ。
 信頼せよ、主は計らい
 あなたの正しさを光のように
 あなたのための裁きを
 真昼の光のように輝かせてくださる。」

主は御自分に従う人がその手中に陥って裁かれ
 罪に定められることをお許しにならない。
 
 主に望みをおき、主の道を守れ。
 主はあなたを高く上げて
 地を継がせてくださる。
 あなたは逆らう者が断たれるのを見るであろう。

と記された通り、主により頼む信仰者が、不当な濡れ衣を着せられて恥をこうむり、罪に定められるようなことが決してないよう、キリストの義がそれにあずかる者にもたらす絶大な効果を、クリスチャンのみならず、この世の人々の前でも、真昼の光のように輝かせ、私たち信じる者を悪人たちによる謀略や、あらゆる虚偽の訴えから、守って下さるものと筆者は確信している。

だから、筆者自身も、真に信仰により頼んで生きるキリスト者が不当な判決を得て有罪に終わることなど全くあり得ないこととみなしており、

「もし神が私たちの味方であるならば、だれが私たちに敵対できますか。」

「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義として下さるのは神なのです。」

「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」


とのパウロの宣言を文字通り、心に確信している。パウロに起きた出来事は、あくまでローマ帝国でキリスト教が国教化される前の、帝国内にキリスト教が浸透しつつあり、教会が生まれたばかりで成長し始めていたその困難な状況の中で起きた出来事であり、今日の一人一人のクリスチャンがそれを模範や理想として生きるために起きた出来事ではないのである。

だから、我々が心がけるべきは、あらゆる理不尽な出来事が降りかかるように思われる時にも、虚偽の訴えや、謀略によって追い詰められるような時にも、心真直ぐに主を信頼し、神がふさわしい解決を与えて下さり、信じる者を義として下さることにいささかも疑いを抱かないで、憤りを捨て、心騒がせず、平安の中に座すことであろうと考えるのである。
 
「無垢であろうと努め、まっすぐに見ようとせよ。
 平和な人には未来がある。
 背く者はことごとく滅ぼされ
 主に逆らう者の未来は断たれる。
 
 主に従う人の救いは主のもとから来る
 災いがふりかかるとき
 砦となってくださる方のもとから。
 主は彼を助け、逃れさせてくださる。
 主に逆らう者から逃れさせてくださる。
 主を避けどころとする人を、主は救ってくださる。」

* * *

ところで、一旦、御言葉による確信に立ったならば、恐れや、不安や、疑いを抱かないことは重要である。なぜなら、これまでにも幾度も書いた通り、キリスト者にあっては、彼の霊の内側で起きることが、周囲の環境にそのまま影響するからである(霊的命が環境を創造する)。

「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:37)
 
イエスが言及された「生ける水の川」とは、御霊であり、復活の命であるキリストの霊の只中から生まれて来る命の流れであり、天的な秩序のことでもある。

 信仰によって、不正のあるところに正義をもたらし、嘘の只中に真実をもたらし、弱く貧し人たちを豊かさへと導き、悲しむ者に慰めを、とらわれ人を自由にすることのできる、天的な秩序をこの地に引き下ろすことのできる、清く純粋な命の泉は、信じる者の霊の内側にある。

その清い命の流れは、人の霊の内、心の只中から湧き出て来る。その流れを絶やさないようにし、周囲を潤すことのできる、清い心の泉を枯れさせないよう守るためには、信者が神と自分の心との間に、さえぎるものを置かないようにすることが重要である(それが無垢であることの意味である)。

我々の生活の中では、理不尽だと感じられる出来事は、絶え間なく起こる。それによって、心を曇らせ、霊を圧迫されて、命の流れをせき止めてしまうと、私たちの働きは止む。

様々な疑念、不満、悩み、理不尽であるという憤りなどが、どんどん心をにため込まれて行くと、それはやがてバリケードのようにうず高く積みあがり、命の流れを完全に塞いで、せき止めてしまう。

キリスト者の霊の内側から流れ出す命の流れは、その人の心が信仰によって抱く喜び、愛情、希望、信念等と密接な関係があり、心が重荷で塞がれて、意気阻喪していたり、憤りに満ちているときに、開放的な命の流れを生み出すことはできない。

だから、信者は絶え間なく、新しい創造を行って、大胆に主の御業の中を生きるためには、心に去来する様々な重荷や圧迫を手放し、投げ捨て、自分自身の霊(むろん心も)の状態を常に明朗に、清く、軽快に、開放的に保っておくことが必要なのである。

それは決して、ポジティブ・シンキングのような心のコントロールを意味するものではないし、あるいは、不当な状況の只中に置かれても、笑ってなすがままになれという意味ではないし、理不尽な出来事を、理不尽であると感じて憤ってもならず、そのように主張してもいけないという意味ではない。

以前にも書いた通り、理不尽な状況は理不尽であると主張して構わないのである。ただし、状況の理不尽さを打ち破るための最大の秘訣は、憤って自分で誰かに報復したりすることにはなく、ただまっすぐに主の救いを信頼し、これを砦とし、糧とし、よすがとして、喜びを持って歩み続ける信仰の姿勢を捨てないことにある。

だから、心を憤りでいっぱいにしてはならないのである。

私たちの心は、被告であるサタンに対して開かれていたのではいけない。しかし、憤りを持ち続けると、やがてそれは報復願望や、悪事の企みへとつながって行き、悪魔に対して心を開くことにつながりかねない。

だから、私たちは、理不尽な状況に遭遇したとき、敵対者に対する憤りを心に抱き続けるのではなく、むしろ、まことの裁き主である神に直接、その事件を訴え、私たちの力強い弁護者でもあ神に自分の言い分を聞いていただき、主が自らの言い分を私たちに向かって述べて下さるときを待ち望むべきなのである。

そうして、理不尽と見える様々な状況の中に置かれたときにも、その状況の理不尽さだけに目を留めることなく、むしろ、その状況の中に、神の御手が働いており、その状況さえも、私たちが自分の心を治める上で、必要不可欠な訓練として与えられているものであって、私たちがその訓練において学ぶべきことを真に習得しさえすれば、その状況は、早急に取り除かれることを思うべきなのである。

神が信者のために正しい裁きを輝かせて下さるのは、私たちがそれを理解した後の瞬間のことである。つまり、私たちは今この時代に、使徒たちのように殉教して命を捨てることを自ら願う必要はないにしても、「日々の殉教」は否が応にも与えられる。

私たちにとって、理不尽かつ苦難と感じられる出来事は日々起きて来る。その中には、私たちの感情を揺さぶり、圧迫し、怒りを抱かせるような、相当に困難と感じられる出来事も含まれているであろうが、すべての状況には意味があり、それも神の深い采配の下に与えられているのであって、信者がいかなる状況においても、主を信頼して心騒がせず、勝利の確信に立って、揺るがされない方法を学びさえすれば、信者を取り巻く状況は、劇的に改善する。

悪の軍勢はカルバリで打ち破られているため、本当は、私たちを取り巻く状況が真実なのではなく、私たちが何を信じるのかにすべてがかかっているのである。だから、私たちは自分の外で嵐のような出来事が荒れ狂う瞬間にも、心を穏やかに保ち、勝利はすでに主にあって取られているという確信に常に立てるようにならなければならない。それができるようになれば、状況はもはや信者の心に触れなくなり、悪しき様々な問題には終止符が打たれる。

すべての試練、困難な状況は、信じる者が、自分で自分の心を守り、そこから湧き出る価値ある命の流れを絶やさず、いかなる状況においても、注意を逸らされずに、自分のミッションを果たし続けることを学ぶためにこそ、与えられているものなのである。

だから、神に対して心を開き、その御言葉に従い、サタンの言い分には心を閉ざし、これを退けなさい。あなたの心を、敵の蒔く様々な悪しき思いから守り抜き、喜びを絶やさないで目的へ向かって進む方法をできるだけ早いうちに学びなさい。
 
「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。」(箴言4:23)

2019年7月20日 (土)

あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。

「また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。

あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」(ルカ22:24-30)


訴訟の判決が、出口のない堂々巡りのような問題に、待ち望まれていた新たな脱出口を与え、紛争当事者だけでなく、社会のあり方までも変えることが分かって以来、筆者は、裁判所という不思議な場所に魅了されてしまった。そこから、汲めども汲めども尽きることなく流れて来る命の泉のような流れに、日々、何かの形で関わりたい、もしくは、関わることができないかと願っている。

身近で日々、法律関係、裁判関係の用語を見聞きすることができるのは、筆者にとっては、まさに、演奏家が毎日、様々な楽曲の音色に耳を傾け、楽譜をめくっているような具合で、幸いである。

筆者の夢は、この地に召されてやって来たときから、いつかここから、生ける水の川々が尽きせぬ洪水のような流れとなって溢れ、流れ出ることにある。

これがいわば、筆者に与えられた「開拓伝道」である。これを馬鹿らしいファンタジーを語っていると笑いたい人がいれば、それはそれで結構である。

筆者の住んでいる県の名前は、全国で唯一、神の名がつけられている都道府県であるが、長年、命の川どころか、荒野しか見当たらない中で、敵の襲来や、かんばつに脅かされ、一体、初めに与えられたビジョンが、いつどういう形で実現するのか、分からない月日がずっと続いた。

もはや筆者に何かの召しがあったことさえ、人々はもちろん、筆者自身さえも忘れ去ろうとしていた頃、筆者は、裁判所という不思議な「干潟」を見つけ、そこから不思議な命の流れが湧き出ていることを発見した。

霊的大干ばつの最中のことである。裁判所には、人々が目を背け、耳を塞ぎ、足早に通り過ぎて行きたくなるような、こじれた訴えばかりが送りつけられ、うず高く積まれていた。それはまるで見栄えのしないヘドロや泥水ばかりがたまった何の役にも立たない「干潟」のようである。

筆者自身が、誰も見向きもしない訴えを抱えてそこにたどり着いた。その時は、誰一人として筆者を応援する者もなかった。しかし、筆者はそこに正しい裁きが存在するという噂を聞きつけ、最後の望みを持ってそこにたどり着いたのである。

やはり、噂は嘘ではなかった。その「干潟」にたどりつくと、そこにたまった「あぶく」の一つ一つに、不思議な光が当てられ、光合成が働き、それが神秘的な作用により、新たな命を生み出すエネルギー資源へと変えられていることが分かった。

干潟は単に水が腐った無用な地帯ではなく、そこには人手によらず、太古から続けられて来た途方もなく不思議な天然のエネルギー資源の循環があった・・・。そこで、筆者も自分の訴えに順番が回って来て、光が当てられるのを待った。実際に、その結果としてどういう現象が起きるのかを知ってから、この不思議な「干潟」に魅了されて、そのそばを離れられなくなったのである。

裁判所が扱う訴えの範囲は、とどまるところを知らない。たとえば、筆者は我が国に、行政職員を罷免する制度がないのは、本当に異常であると感じている。本来ならば、国家公務員に対して、国民は罷免権を持っているはずだが、行政の職員に対してはそれはない。

筆者は我が国で国家・地方公務員と呼ばれている人々は、憲法上定められた公務員の定義から外れており、これは戦前の遺物としての「官吏」の残存物のような、不明な位置づけにある集団だという考えを、他の人々の主張を踏まえ、提示して来たが、罷免権がないという意味でも、その考えは裏づけられているように思う。

本来ならば、公務員の選定と罷免は、国民固有の権利であるはずなのに、実際には、行政職員に対しては、市民は何もできない立場に置かれており、それゆえ、あまりにも行政の腐敗が進み過ぎたのである。

国家公務員の不祥事について、人事院は個別の要件を扱わず、関係省庁は苦情があったからと言って、何の対処の権限も実際にはほとんど行使しない。行政に関する苦情について、市民にはどこにも訴える場所がほぼないのが実状である。

だからこそ、今日の行政には決して自浄作用というものが全く期待できず、裁判所のように市民からの訴えを真剣に取り上げる場もほぼほぼなくなっているため(システムが形骸化してしまっている)、一旦、役所が腐敗すれば、その腐敗はとどめようもなく、仕事をしない役人がいたからと言って、これをクビにする方法も市民にはないといった状況が生まれる。

行政は、市民と直接、接しているにも関わらず、市民からの声を汲み上げづらい状況にあり、その乖離がますます進んでいるように見えてならない。
 
もちろん、行政といっても、ありとあらゆる分野が存在するわけで、すべてがすべて腐敗の危険の只中にあると言うつもりはないが、やはり、国民からの選定と罷免の権利が及ばないことには、それだけの大いなる暗闇が存在するものと筆者は思う。
 
ところが、裁判所はそうした用件であっても扱える。もちろん、裁判所が公務員を罷免するわけではないにせよ、事件を裁判所に持ち出すことによって得られる効果は絶大である。裁判所には、行政の決定さえも覆すだけの権威がある。そして、その原動力となるのは、やはり、取るに足りない弱い無名の市民からの一つ一つの訴えである。

紛争を起こすことは、一見、物事を紛糾させ、問題を深化させるだけの行為のように見えるかも知れないが、筆者は、その一つ一つの訴えには、はかりしれない意味があると考えている。

物事を丸くおさめ、自分が譲歩して、あるいは願いをあきらめて、穏便に早期に和解によって紛争を解決するのは、「美しい」決着のように見える。それに比べ、紛争を提起する行為自体が、和を乱す「美しくない」行為と見える。まして紛争を徹底的に戦い抜いて、白黒決着をつけるなどの行為は、なおさらそう見えるだろう。

だが、実際には、その見栄えの悪い、調和を壊すような「美しくない」訴えの数々の中から、はかりしれない価値が生み出されているのが現実なのである。リスクを覚悟で最後まで訴訟を戦い抜く人々がいなくては、画期的な判決が生まれることもなく、その分だけ、社会の進歩や、成果が、勝ち得られずに終わる。

そういう意味で、筆者は、当事者が戦い抜いて得た判決には、やはり決して社会全体がおざなりにできず、またそうしてはならない絶大な価値があるものと考えている。

賠償金がいくら払われるか、どうやって支払わせるのか、といった金銭的な問題だけがすべてではないのである。もちろん、債務名義は、強制執行を行うこともできる根拠となるが、そのことをさて置いても、裁判所がもたらす新たな判決は、それ自体が、新しい生命の息吹となり、社会の目に見える物事の正邪を切り分け、目に見える物事を超越した立場からこれに裁きを宣告し、実際に物事を是正し、変えて行くだけの力を持つものである。
 
筆者は、裁判所が持っている権威の大きさや、市民が起こす一つ一つの訴えの意義、そして裁判所の使命について、飽くことなく考えさせられている。

我が国における三権分立は、決して行政を司法の下に置くものではないにせよ、もしも腐敗した行政というものがあるとすれば、それはやがて裁判所の権威の下に是正されることになるだろうと筆者は思う。
  
ところで、当ブログに関する訴訟の第一審は、そのほとんどの部分が、法廷ではないところで、弁論準備手続きとして行われ、裁判官が法衣を着て現れたのも、全体で三度でしかなかった(開廷の時、弁論終結の時、判決言い渡しの時)。

さらに、今、事件は控訴審へ向かっているため、これからは三人の裁判官が事件を担当することになる(それも何かしら三位一体を象徴するようにも感じられる)。

しかし、筆者にとって、法廷のイメージとは、常に法衣をまとった一人の権威ある裁判官が、原告・被告の双方が揃っているところで、厳かに判決を言い渡すというものである。

ただ裁きに権威があるというだけでなく、裁判官は決して当事者と同じ目線に立たず、当事者を見下ろす法壇に立ち、そこから裁きを宣告するからこそ、より一層、厳粛に感じられるのである。

この法廷のイメージは、筆者の心の中で、神とサタンと人間とが相対してそれぞれの主張をぶつける天的な法廷の地上的な絵図のようである。

ところで、筆者は三権分立を、不正確なたとえとはいえ、霊、魂、体という聖書に登場する三部位に置き換えて考えてみる。

行政とは、いわば「からだ」であって、司法は「頭脳」である。
 
立法は「命令」そのものを考えて発令する部位であり、聖書にたとえるなら、「光あれ」といった命令が発せられるところである。筆者から見ると、この発令は、あたかも霊からすべてが始まることを予表するかのようである。

司法は、発せられた命令に基づき、目に見える物事が実際にあるべき秩序にかなっているかという是非を判断し、違反を是正する部位であるから、一旦、「光あれ」という命令が下されたなら、何が光であり、何が闇であるかを精査し、光と闇とが決して混ざることのないようにこれを切り分ける機能を持つ。

つまり、絶えず善悪の判断を行う魂の働きになぞらえられる。

行政は「からだ」であって、目に見える物事の世界で、命令されたことを実行する手足のような機関に当たる。

この世における三権分立に主従関係はないが、霊、魂、体はそれぞれ主従関係にあり、その中で、最も卑しい部位は体である。なぜなら、体はこの世(目に見える世界の物事)と接触する部位であって、自ら判断を行うわけではないからである。

筆者は以前に、ハンセン病者は、体に痛みを感じなくなることによって、自分で自分の体を傷つけても、それに気づけなくなり、それが原因となり、体の一部を失って、いびつな姿になって行くのだと書いた。

もしかすると、我が国の行政には、これと似たような病が起きているのかも知れないと筆者は思う。我が国の行政は「からだ」である。ところが、この「からだ」は、良心の機能から切り離されて、次第に、自己を統制する力を失いつつある。
 
行政が、国民に奉仕しながらも、国民の選定・罷免が及ばないことによって、ほぼ完全に閉ざされた自存それ自体を目的とする自己目的化した機関のようになっていることは書いた。そのために、これはあくまで比喩であるとはいえ、三権の中でも、行政は、司法からも、立法からも、抑制が及ばなくなって、「良心の機能」という痛みの感覚から切り離されて、自分で自分を傷つけても、あるいは他人を傷つけても、それが分からない状態に陥っているのではないかと感じられる。

そのために、体のあちこちをぶつけ、随分、歪んでいびつな姿になってもそれが分からず、国民からの監視も、選定も、罷免も行き届かないことにより、すでに壊死しているような部分も、たくさんぶらさがっているのではないだろうか。

その「からだ」とは、「頭脳」のコントロールが効かなくなり、「知性」から切り離されて、感覚麻痺した不気味な体である。

そこで、このような「からだ」の感覚鈍磨、もしくは麻痺状態を是正するためには、生命の通わなくなった部位を本体から切り離し、そこに新たな生命力をもった「細胞移植」が必要となる。

良心の働きを、すなわち、痛みの感覚を取り戻すために、死んだ細胞の代わりに、新たな細胞を移植し、体の働きに「頭脳」の指令がきちんと行き届くようにせねばならない。

むろん、筆者が「移植」を行うわけではない。それは筆者とは何の関係もない事柄である。

しかし、自然淘汰に近いような形で、実際には、どんどん「移植」が行われている。行政サービスの様々な分野は、民間企業やその他の様々な団体に移行(委託)されているが、このことは、裏を返せば、純粋に「行政」と言える機関には、もはやこれらの仕事を自ら遂行する力がなくなりつつあることを意味するのではないだろうか。

新たな発想、そして、優れたノウハウが生まれて来るために、もはや自己の力だけではどうしようもなく、外へ助けを求めざるを得ない状況が生まれているのである。

だが、そのようなことは、行政が「閉ざされた機関」ではなく「開かれた機関」であったなら、おそらく起きなかった現象であろうと筆者は考えている。役所から見れば、それは単なる外部委託に過ぎない事業であろうが、真の意味で、政府が(もしくは地方行政が)、長年に渡る業務遂行を通して、絶え間なく国民・市民からの直接の声を汲み上げることができていたならば、その間に、サービスの向上、多様化が進み、民間委託するしか方法がないという状態には陥らなかったことであろう。

むろん、委託によって新たな生命の息吹が注ぎ込まれることは、歓迎すべきことなのであるが、筆者はどうしても、そういう現象が起きていること自体に、行政の行き詰まりのようなものを感じずにいられない。
  
以上で、裁判所の権威とは、目に見える物事を超越した領域から、裁きを宣告することにあると書いた。そこで、三権分立には、主従関係はなく、それは互いに抑制し合い、働きを分散させたものに過ぎないとはいえ、そうはいえども、筆者の目から見ると、実はやはり、目に見える領域で働く「体」=「行政」は、最も知性からはほど遠い場所にあると言って差し支えなく、その意味で、これは、命令を実行する手足のような機関であり、かつ、裁きに服さねばならない、徹底して「仕えるため」にある部位であると考える。

にも関わらず、「体」が知性を凌駕し、頭脳との関係までも覆し、一人の人間の中で、王様になってしまうと、人間の本来的な秩序が転倒する。ところが、我が国では、半ばそれに類することが起きているのが現状ではないだろうかと筆者は考えざるを得ない。

今は問題提起の段階なので、これ以上のことは深く語れないが、筆者はそのように、たとえるならば、麻痺しかかったような状態にある「体」に、良心と生きた感覚の機能を取り戻させるために、いかなる方法(手術・治療)が必要であるのかについて、ずっと考え続けている。

冒頭に挙げた御言葉は、従来の聖書的な解釈によれば、当然ながら、一人一人の信者に適用されるものであるのだが、それと同時に、これは「からだ」の働きを持つすべての職に当てはまる。

人に仕える立場にあるはずのものが、王様のように君臨している状態は、明らかに異常であるから、そのような状態を是正するためにも、自然と、壊死した細胞を生きた細胞に取り替える必要が生じているのではないだろうか。罷免が及ばなくとも、必然的に、何かしらの淘汰や刷新に近いことが起きているのである。

筆者がいたずらに行政の無為を批判し、役立たずの役人を罷免する制度が欲しいと言いたいがために、こうした事柄を、決めつけで書いているとは考えないでもらいたい。国家・地方公務員の選定と罷免を国民の側から可能とすることは、何らかの方法で必要であろうと考えるが、その問題とは別に、まずは行政と司法との間で(筆者は立法府のことはまだ知らず、関わっていないため言及できない)、生きた橋渡しを行い、真に抑制し合う関係を打ち立てるために、今後、必要となることは何なのか、筆者は自分自身の置かれた立場から考え続けねばならないと述べているだけである。

* * *

最後に、いくつかの個人的な事柄について書いておきたい。以下の二つは、筆者が当ブログを巡る訴訟が行われている期間中に学んだ最大の教訓である。
 
➀物事は非常に困難な方法で取り組んでみることにこそ価値がある(望みうる最高の願いを決してあきらめずに、犠牲を払ってそれに向かうことに価値があること)。
②理不尽だという思いを捨てることこそ、すべての物事の解決の最短コースだということ。

➀について言えば、通常の感覚では、訴訟の提起そのものが著しい冒険であり、未知の分野への挑戦であったため、それにも関わらず、控訴審まで及ぼうとしていること自体が、途轍もない大いなる挑戦(もしくは無謀な冒険)と映ることであろう。

しかし、周りからどのような評価を得たとしても、筆者は、やはり、どうしてもこれだけは譲れないと考える望みに対しては、人は妥協なしに取り組まねばならないことをいつも思い知らされている。

筆者の目から見て、なぜ裁判所がそれほどまでに尊い場所に映るのかという理由もそこにあるのだ。それは、そこに人々の命がけの「望み」が託されているためである。

訴訟には一つ一つ、個人的な争いにはとどまらない社会的な価値があると、筆者は考えている。当ブログに関する訴訟では、特に、クリスチャンの側から、どうしても述べておかねばならない問題があった。強制脱会活動の違法性の問題である。

遅ればせながら、ようやく控訴審になってからこの問題に言及することが可能となったとはいえ、こうなったのは運命的な巡り合わせであり、かつ、これははかりしれない価値あるテーマだと筆者は考えている。

なぜなら、今までクリスチャンの側から、強制脱会活動の違法性を認め、こうした活動を批判したり、反省する発言が、公の場所で聞かれたことはほぼないと考えられるためである。しかし、筆者は、これをプロテスタントの恥ずべき歴史としてとらえており、そのことをプロテスタントの中から(これまでプロテスタントの信者であった者の側から)公式に認め、声明することには、非常に重い意味があると考えている。

筆者は牧師でもない一信者に過ぎず、そもそも訴訟では他者の不法行為を指摘しているのであって、自分自身が脱会活動に携わって来たわけではないが、当ブログでは、そもそもの初めから、強制脱会活動はプロテスタントの汚点であるということを指摘し続けて来た。

その意味で、筆者の訴えは、キリスト教徒の側から、異教徒に対して、反省し、懺悔せねばならない問題があることを公に宣言するという意味を持っていないわけではない。筆者の訴えは、統一教会とは何の関わりもないところで提起されているとはいえ、クリスチャンの側から、こうした脱会活動を強く非難する言葉を、公の場所で述べておくことはぜひとも必要であると考えている。

そのチャンスが巡って来たのは、やはりこの戦いを控訴審へ持ち込むことに、真に意義があったたことを表しているように思われてならない。
  
さらに、②の理不尽だと感じる思いを捨てることは、決して誰から何をされても一切異議申し立てをしないという口封じの圧力に屈することは訳が異なる。理不尽なことは、理不尽であると、むしろ、公然と訴えるべきなのである。だが、そのことと、許せないという感情をいつまでも持ち続けることは異なる。

筆者は、第一審が終わってから数ヶ月ほどたった時に、心の中で理不尽だという思いを手放しつつ、それでも、訴えを続行することは可能なのだということを学んだ。それは、真実を明るみに出し、きちんと事実関係と責任の所在を明らかにし、物事をあるべき所に是正して行くために、必要な措置だから、訴えを続けるというだけのことであり、相手を徹底的に追い込むとか、自分の思い通りの決着に従わせるために、何としても争いを続行するというものではない。

そのように個人的な感情を手放すことができた時、その訴えは、神ご自身が取り上げて下さり、人間の努力によらずとも、速やかにしかるべき解決が与えられることを筆者は学んで来た。

ただし、これは繰り返すが、うわべだけ謙虚さを装い、波風立てないことだけを第一として、相手の前にわざと自分の主張を放棄して折れて出るとか、望みをあきらめるということとは全く意味が異なる。筋を通さなければならない場面では、不本意な妥協や和解を退け、最後まで物事を公然と明らかにすることは必要である。だが、それを個人的な怒りや報復感情とは関係のないところで、真に物事があるべき姿を取り戻すためにこそ、行うことは可能だと学んだのである。
 
ところで、最後に蛇足ながらつけ加えておくと、政府の行う行政サービスの中に、国側が敗訴した国賠訴訟への対応というものもある。さすがに、この仕事は外部委託はできないため、半永久的に、政府自身が行わなくてはならないであろうが、その領域まで行くと、役所はもはや自己正当化ができなくなる。たとえば、先の大戦中に政府が犯して来た数々の過ちの償いの問題があるし、ハンセン病者とその家族への償いもあろうが、こうした問題を扱っている役人は、どうしても国民の前に「悪者として立つ」ことを避けられない。

その領域まで来て、初めて行政サービスに自己反省と自浄作用の余地が生まれる。(言い換えれば、それ以下の国賠訴訟で敗訴を味わったことのない下部の行政機関には、我がふりを自分で正すという自己反省の力がないということである。)

だが、それとて、市民たちが必死の覚悟で訴訟を戦い抜いたことの成果なのであって、行政自身の自然な自浄作用によって生まれた結果ではない。集団的な国賠訴訟が起こされなければ、行政が自ら過ちを認めることはなく、苦情の電話や書面といったレベルで対応がなされることも決してなかったであろうと筆者は確信する。

そういうことを考えても、筆者は、やはり、行政が今や決して自力で到達できなくなっている自己反省の部分を補うという意味でも、司法の働きの重要性を思わずにいられない。そして、司法には、人間の魂の最も重要な機能としての「良心」の働きがあるように感じられてならない。だからこそ、そこに筆者は尽きせぬ興味関心を抱くのである。
 
弱く無力で追い詰められた立場から、国を相手取ってでも、訴訟を戦い抜いて、判決を勝ち取った人々の努力と成果があってこそ、先の敗戦によって生じた様々な混乱の責任を含め、数々の過ちの責任を政府に追及することが可能となり、我が国の今日の様々な法と社会のあり方が打ち立てられているのであって、その訴訟がなければ、政府自身が己が過ちを認めることは決してなかったであろうことを考えると、それを起こした人々の努力にはやはり敬意を持たないわけには行かないと思うのである。

それと同時に、「体」に働く痛みの感覚とは、人の良心の働きであって、人が自己反省によって軌道修正して行く力そのものであろうが、それを失ったとき、人は他者を傷つけるだけでなく、自己をも傷つけることになることを思わされる。

自浄作用をなくした行政の腐敗という問題と、プロテスタントが繰り広げた強制脱会活動の問題とは、そういう意味で、筆者から見ると、何かしらの共通点を持っているような気がしてならない。「プロテスタントの教会に自浄作用が働くなったために、被害者は裁判を起こすしかない」と警告していた牧師自身が、強制脱会活動に関わって来たことはまるで運命の皮肉のような話である。

なぜプロテスタントはそのようにまで盲目的で自己反省のない状態に陥ったのか。なぜ自ら神を信じると豪語する人々が、それほどまでに良心を失い、自分自身を正義の担い手のように考えながらも、他者から裁判を起こされるまで、人々の悲鳴に耳を貸さなくなったのか。(さらにもっと言えば、裁判を起こされても、なお不都合な判決には耳を貸さなくなった。)信者はこの問題についてよく考えなければならないものと思う。

筆者は、そこに、数々の外注の業者や、末端の下々の職員を絶え間なく(内心では見下しながら)「選定」したり「クビ」にしながらも、自分たちだけは、決して誰からも「選定」されることもなく「罷免」されることもないという自己安堵に陥った行政役人の「驕り」と、自分たちは由緒正しい正統な信仰を維持するキリスト教徒であるから、救いを知らない(で地獄に落ちる)他の人たちとは全く異なると自負する信者の「驕り」という、何かしら非常に似通った心理的問題があるような気がしてならない。
 
とにかく、そこに共通する問題として、高慢さとその結果としての自分とは異質な他者に対する君臨というものが存在することは確かであろう。それだからこそ、筆者は、逆にキリスト教徒の側から、誰か一人でも、この問題について、自分たちの側に責任があることを認めて、異教徒の前に頭を下げる人間が現れることが必要ではないかと考えている。

そのために、筆者は、誰が当事者として耳を貸すわけではないとしても、また、筆者自身が、責任を負うわけではないにしても、少なくとも、信仰者を名乗る人間が、こうした問題が起きていることに、気づきもせず、神と人の前で、声をあげることもない鈍感さと良心の欠如は、実に恐るべき感覚麻痺であって、そのような状態を避けるためにも、この問題について、真実を公然と明らかにし、責任の所在を問うことは、必要な作業であると感じている。そして、そのチャンスが与えられたことは、光栄だと感じているのである。

人は自分自身が罪を犯したわけではなくとも、人々の代表として、頭を下げなくてはならない瞬間がある。そして、聖書が根本的に述べているのも、人は誰も義人ではなく、生まれながらに罪人であるから、誰もヒーローにはなれないということである。

救われて、キリストに似た者とされるとは、より一層、へりくだって仕える人になることをしか意味せず、尊大で他者を見下しながら、自分だけは特別だと己惚れる人間になることを意味しない。だから、たとえ自分に罪がなくとも、信者にはへりくだることが必要であり、そのために、自分の憤りを手放すことも必要であり、それがなされた時に初めて、我々の訴えは、神と人との前に義と認められて、速やかに聞き入れられるものとなるのではないかと感じている。

そのことを、筆者は自分自身の訴訟を通しても、日々の生活の中でも、毎回、毎回、繰り返し、思い知らされつつ、同時に、それでも手放すこともできず、あきらめることもできない切なる願いを、神と人とに訴え続けながら生きている。それだからこそ、それだけの言葉に言い尽くせない思いを通過しながら、学び、勝ち取られた成果としての判決には、そこに書かれている文字以上の価値があると思わないわけにはいかない。また、そうした人々の悲痛な思いが集積されているのが裁判所であることを思うと、その場所には、畏敬の念や、厳粛さと同時に、深い憧れや愛情にも似た特別な思い入れを抱かないわけにいかないのである。

2019年7月14日 (日)

わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。

さて、非常に意義ある一週間を過ごした。相変わらず、裁判所と警察と数多くの書類のやり取りを重ねており、その作業はこれからも続く。だが、控訴理由書を書き上げるために、主が特別に与えて下さった最後の自由時間が終わった。

数ヶ月をかけて書き上げた理由書が、ようやく筆者の手を離れると、主はたちまち新しい進路を筆者のために指し示された。

筆者が書類を自分で運んで行くことに決めて、霞が関駅へ向かっている最中、日比谷線の六本木駅あたりで、電話が鳴った。天はすべてを見ている。いつ筆者の仕事が終わったのか、いつのタイミングで新たな課題を与えるべきか、主はすべてご存じなのである。

こうして、御国への奉仕が一つ終わると、次の新たな仕事が与えられる。筆者は前回の記事で、自分の専門を去り、残る生涯を、見栄えのしない「干潟」としての紛争処理というフィールドにとどまり、この干潟から、可能な限りのエネルギーを汲み出して生きようと決意したと書いた。

これは決して筆者が法廷闘争に生きることを意味しない。裁判所で働こうとしているわけでもない。だが、筆者は、法律家ではない立場から、困っている人たちのために自分の経験を役立て、法律をパートナーに新たな人生を生きようと決意したのである。

かつての専門は、筆者とはついに相思相愛の関係にはならなかった。これは不幸な片想いの道で、このパートナーは、利己的で、横暴で、筆者に幸いを与えることもほとんどなかったが、新たな道連れは、どうやら非常に気前が良く、豊かで、何より正義と真実に溢れており、筆者を守ってくれることができるらしいと分かったのである。

そこで、筆者はこの新しく頼もしい道連れと、常に一緒にいられて、一瞬たりとも離れないで済むように、また、いつでもこのパートナーに頼んで、自分のみならず、他の人々のためにも、必要な命を汲み出すことができる働きをして生きることに決めたのである。

筆者には、まだまだこの「干潟」にとどまってなさねばならない仕事がたくさんある。

そうして、筆者が自分の興味関心ではなく、真に価値ある正しい目的のために、多くの人々を利する目的のために生きようと決意した途端、これまでとはうって変わって、ただちに生きる心配など全く無用な立場に置かれた。日常のために、あれやこれやと心を煩わせる心配もなくなったのである。

さらに、この一年間、筆者が取り組んでいた別の難問も、向こうから筆者を手放し、立ち去って行こうとしている。

筆者はこれらの問題について、どういう解決策を選ぶべきか、自分では分からず、まだまだ取り組む必要があるのかと覚悟を固めていた。しかし、自分だけの思いや判断で、誤った選択をしてしないように、神が願われる事柄が実現するよう、祈り求め、手探りで進んでいたところ、神は「もうよろしい。あなたの任務は終わりました」と言われるように、これらの問題に終止符を打たれたのである。

改めて、主の御心の中心は、当ブログを巡る訴訟――というより、筆者が最後まで、信仰の証しを守り通し、十字架上で約束された復活の命を通して、キリストにある新しい人として生きることを、どのくらい実現できるのか、というテーマにあるように感じられる。それ以外のすべての問題は、些末なものでしかなく、この戦いにおいて最後まで勝利をおさめるためにこそ、すべての時間と資金が采配されていると思わずにいられなかった。

だが、その戦いとは、要するに、筆者自身が、すべての恐れと圧迫に打ち勝って、神が約束された新しい人としての内なる尊厳を完全に取り返すための戦いなのである。

一審判決の前後、筆者に時間的余裕が与えられていたことには、非常に深い意味があった。この時に、ネット上で起きている事柄に注意を払っていなかったならば、当然ながら、控訴のタイミングも逸したであろうし、紛争は中途半端なまま終わっていただろう。

しかし、神はそのようなことが起きないよう、時間的余裕をもうけて下さっていた。その間、ネットで起きていた議論は、すべて控訴理由書の土台となるものであった。その当時に記事にしたためた内容を、正式な書面の形で書き表すために、数ヶ月を要した。

古書として破格の値段で入手した室井忠著『日本宗教の闇 強制棄教との戦いの軌跡』手元に届いたのは、理由書を提出しようとする前日であった。

今回、どうしても訴えねばならなかったのは、カルト被害者救済活動の中心には、こうしたプロテスタントの猛毒の副産物と言うべき強制脱会活動が脈々と流れているということである。

当ブログでは、カルトと反カルトは本質的に同じであって、どちらも牧師制度の悪から出て来るものだということを幾度も書いた。プロテスタントは、カトリックのような聖職者のヒエラルキーと、聖職者による聖書の独占という問題から、信徒を解放したものの、その解放は、牧師制度を残すことによって、不完全に、中途半端に終わっているのであり、今やプロテスタントからの「宗教改革」が必要とされているのである。

プロテスタントが、もはやかつてのような新鮮な御霊の息吹を失って、形骸化した歴史的遺物となり、さらに有害なものにさえなりつつあることが、様々な現象を通して、確認できるのが、今日という時代なのである。

そこで、この度、筆者はプロテスタントそのものを脱出することにした。

筆者のもらった判決は、見えない紅海を渡って、新たな復活の領域に到達するために、なくてはならない「エクソダス」の道を指し示すものであった。
 
数ヶ月前に、筆者は「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(1)」という記事を書き、そこで、バビロン王国を去り、エクレシア王国の住人になったと書いた。

そのエクソダスは、理由書を書き上げている数ヶ月の間にいつの間にか完了していた。

エクレシア王国は、復活の領域であるから、そこに生まれながらの自分自身(セルフ)から出たものは、何一つ持って入ることはできない。

そこで、筆者はバビロン王国を脱出し、エクレシア王国の永住権を得るに当たり、➀プロテスタント、②資本主義、③筆者のかつての専門、この三つを「セルフ」に属するものとして捨てねばならなかった。

さらに、筆者は営利を目的としないエクレシア会社(企業ではないので、エクレシア法人としておこう)に雇用されるに際して、最初の給与は、判決という名の手形として支払われるから、これを現金化する方法を学びなさいと、ただ一人の主人から命じられたと書いた。

筆者は、それはあたかも取立によって債権を回収しなさいという意味であるかのように考えていたが、実はそうではなく、判決は、天の尽きせぬ富を引き出すための手形であり、目に見えない「干潟」から利益を汲み出す方法を知りなさいという命令だったのである。

地上の判決は、被告に対しては、永遠の断絶を言い渡し、天から新たな宝を引き出すための根拠となるものであった。
 
だが、それは死んだ文字だけにとらわれていれば、決して見えて来ない事実であった。

そこで、筆者は、見えない法の世界への招待券に書いてある、目に見えない地図に従って、しかるべき団体に出向いた。すると、そこに実際に、筆者が地上で果たすべきミッションを示す契約の書類が用意されており、それに対する報酬も約束されたのである。

地上の判決には、まだ補うべき点が存在しているが、そこには、それ以上に、もっと深い、尽きせぬ霊的な意味が込められていた。それ自体が、汲んでも汲んでも汲み尽くせない命の泉のような、終わりなき「支払い」を筆者に約束する手形だったのである。

しかも、それは筆者のためだけに命を与えるものではなく、いつの間にか、他の人々に命を分け与えるためにも役立つものとなっており、それが、筆者の新たなミッションとされていたのである。

ただし、その支払いは、純粋に天から来るのであって、地上のものに依存しておらず、地上の被告とは関係がなく、地上の人々に対して行使するものでもなかったのである。

その手形を天に向かって行使することが、天の富を地上に引き下ろす方法であって、これが天のサラリーを「現金化」する方法だと初めて分かったのである。

もしも判決を地上的方法で行使していれば、そこに死んだ文字として書かれたもの以上のものは決して得られない。ところが、筆者が得た天の報いは、使えば尽きてしまうようなものではなく、終わりなき富であり、新たな世界での筆者の身分を保証するものであった。

このようなことをどう表現すれば良いかよく分からない。多分、比喩としてさえほとんど理解されないのではないかと危ぶむ。

筆者はかつて裁判所は家のようなものだと書いた。筆者の目から見ると、そこは正義の実行される場所、真実が何であるかが明らかにされる場所、虐げられて、弱り切った人たちが、ようやく正しい裁きを得て、休息と安堵にたどり着く場所であった。

むろん、これは筆者の理想化に過ぎないと考える人たちは多いだろう。この世には、裁判所に正義など見いだしておらず、むしろ、不当判決ばかりの世界だと考えている人たちもいるかもしれない。

しかし、筆者はそうは見ていなかった。筆者にとって、そこは要塞であり、砦であり、真実と、正しい裁きが生まれて来る場所であり、それが与えられると信じないことには、そもそもそこに助けを求めて近づくわけにもいかなかったのである。

そのような望みを抱いてやって来た筆者の目には、まるで裁判所の地下に、見えない命の泉があって、そこから、人々を生かし、潤す命の流れが、こんこんと湧き出ているようにさえ映った。

ところが、いざ自分が判決をもらってみると、いつの間にか、その泉は、筆者の内側に移行していた。筆者は、「あなたは解放された。自由になって生きなさい」との宣言を受けたが、気づくと、その自由は、筆者自身の内側に書き込まれ、根づき、筆者自身が、与えられた命を持ち運び、これを他の人々に分かち与える存在となっていたのである。

判決を通して、筆者に分与された不思議な命は、筆者が地上の債権を回収しようとむなしい取立を行っている最中も、日々刻々と生長し、いつの間にか、それなりの分量に達して、筆者自身の内側から外へ川のように流れ出して、周囲を潤すものへと変わっていた。
 
それはまだ小さな川なので、気づくか気づかないという程度であろう。だが、それがやがて大きな川となって流れ出す時が来る。それが筆者に地上で与えられた真のミッションなのである。

一体、どういうわけでそういうことが起きたのか知らないが、まるで蝋燭から蝋燭へ火が灯されるように、筆者が飽くことなく求めて来た正しい裁きは、筆者の中に種のように蒔かれ、気づかぬ間に発芽し、他の人たちに向かって、新たな命をもたらす小さな種として伝播するようになっていた・・・。

こうして目に見えない終わりなき命の連鎖が始まった。それは地上におけるいかなる人間関係にもよらない、それを飛び越えた領域で起きる不思議な命の伝授である。
 
そうした立場を得たことで、筆者は内側で、あるべき尊厳を回復し、自分が何者であるかを、よりはっきり自覚するきっかけを得た。筆者は、自分があるべき場所、果たすべき使命に相当に近づいたことを感じている。

人の高貴さは、その人が抱いているミッションの気高さと大いに関係がある。聖書に登場する霊的先人たちはすべて神の解放のみわざに従事し、民を自由に導こうとする主の御旨を体現する人々ばかりであった。ヨセフは幼い頃から、おぼろげながらに自分に与えられた使命の大きさを知っていた。だが、そこへ到達するためには、様々な苦い試練を味わい、徹底的にへりくだらされねばならなかったのである。

それが十字架の道である。すべての先人はその道を通った。だが、へりくだる人に神は恵みを注いで下さり、試練がその人の糧となり、ますます高貴で栄えあるミッションを与えてくれる。その栄光、高貴さは、生まれながらのその人自身から来るものではない。

「主は霊である。そして、主の霊のあるところには自由がある。わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」(Ⅱコリント3:18)

「顔の覆い」とは、罪による隔てを意味する。地上の判決は、被告との間に打ち立てられた「永遠の遮蔽の措置」であると書いた。
 
その隔ては、裁判官と原告との間にはない。これは、あたかもまことの裁き主なる神と、贖われた人との関係を指すかのようである。

これらはすべて予表である。

地上における判決は、カルバリの十字架において破り捨てられた私たちの罪の債務証書を予表している。それは悪魔によって、私たちに転嫁されていたあらゆる不当な責め言葉や呪いを断ち切って、これを負うべき者へと投げ返すものである。

カルバリの十字架における宣言を根拠に、私たちは顔の覆いなしに、何の隔てもなく、まことの裁き主である父なる神に、子として近づき、大祭司なる方の恵みの御座に大胆に進み出て、必要なものを何でも願い出ることができる。
 
同時に、「顔の覆いなしに」とは、花嫁のベールアウトの瞬間のようなものである。花嫁の顔を覆っていたベールが取り払われるのは、結婚式のことであり、そこで花婿と花嫁とが初めて「顔と顔を合わせる」。

以上の御言葉は、キリストとエクレシアとが、ついに婚礼によって顔と顔を合わせる、人の贖いの完成の瞬間を指したものである。その時、神と人との間には、すべての隔てが取り除かれる。罪による隔てが、完全に取り除かれる日が来る。こうして、隔てが取り除けられたとき、人は神の栄光を映す存在となり、人は創造の当初、神に似せて造られたその目的と使命を完全に回復する。

人は神の助け手として創造されたのであり、人の役目とは、神が宣言なさることに対し、「アーメン(その通りです)」と答えることにある。第一審判決に対しては、筆者はまだ完全に「その通りです」と言えない部分が残っているがために、それを補うために控訴に及んでいるものの、このことは、あたかも、人の贖いが、地上にあっては、まだすべては完成されていないことを指すかのようである。

私たちには、完全な約束が与えられているが、その贖いの完全な成就は、来るべき世を待たねばならない。

とはいえ、そのことは決して、この地上において、私たちが目的に近付けないことを意味しない。むしろ、逆であり、筆者は、その瞬間へ向かって、一歩一歩、あるべき姿を確かに取り戻している。

ただし、それは純粋に筆者の内なる尊厳の回復であって、外見のことを指すわけではない。筆者の滅びゆく地上の人としての外見は、年々、ますます取るに足りない、見栄えのしないものとなっていくだけであろうが、主の御手の下にへりくだらされた人は、まるで外なる人に反比例するがごとく、内側では、栄光と尊厳がますます増し加わって行く。

その高貴さ、尊厳は、やがて隠しようのない不思議な魅力、権威、力となって、その人の内側から外へ溢れ出し、かつ他の人たちにも分け与えられて行くことであろう。

十字架で一度限り永遠に下された判決は、私たちに一生、必要なものをすべて与え、さらなる自由を、尊厳を取り戻させてくれる。もはや後ろを振り返る必要はない。

第二審は、より完全な贖いの成就を予表するものとなり、キリストにある新しい人の出現を、さらにはっきりと約束してくれるものとなるだろうと筆者は見ている。だが、それと並行して、筆者には、それと同じくらい重要なミッションがあって、今や自分だけではない多くの人たちにも、自由に至るエクソダスの道があることを告げ知らせ、自分に与えられた解放を、他の人々のために役立てたいとの願いがある。

その成果が一定の分量に達したときに、さらに大きなミッションが与えられることになるだろうと筆者は前もって感じている。いずれにせよ、筆者はなさねばならない仕事、新たな課題の只中に置かれたのであり、それを果たせることは、筆者にとってはかりしれない光栄である。

2019年7月 6日 (土)

愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。

「神の言葉は生きていて、活動しており、どんな両刃の剣よりも鋭く、
  魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通して、
  心の思いと意図を素早く識別します。
 (ヘブル人への手紙4:12、改訂訳)

「はじめに神は天と地とを創造された。
 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。 」(創世記1:1-4 口語訳)

それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。

 汚れたものに触れないようにせよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 わたしはあなたがたの父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる、
 と全能の主が言われる。」(Ⅱコリント6:17-18 新改訳)

わたしの民がわたしに聞き従い、
 イスラエルがわたしの道に歩む者であったなら
 わたしはたちどころに彼らの敵を屈服させ
 彼らを苦しめる者の上に手を返すであろうに。

 主を憎む者が主に屈服し
 この運命が永劫に続くように。
 主は民を最良の小麦で養ってくださる。

 「わたしは岩から蜜を滴らせて
 あなたがたを飽かせるだろう。」(詩編81:14-17)

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)


* * *

今から何年も前のことだ。ある職場に勤め始めたとき、上司が「チサイに行ってくるね」と声をかけた。その頃、勤め始めたばかりだった筆者は、ぽかんとした顔で上司を見上げた。

「ああ、あなたはまだ入ったばかりだから分からないよね。チサイって、地裁のこと。東京地方裁判所のこと。」

地裁は職場から歩いて行けるところにあり、上司たちは連れ立って何度も訴訟に出かけていたのであった。筆者自身は、主に事務所の留守番をつとめ、一度も彼らと共に外出することはなかったが、その頃から、少しずつ、裁判所は筆者の人生に近づいて来ていたような気がする。

自分自身が裁判に臨んで、学んだことは無限にあった。汲み出しても、汲み出しても、まだ汲み尽くせないほど、そこには無限の学習があった。筆者はそこに、命の水の流れがあることを感じた。誰も見向きもしない、味気ない紛争のフィールドは、隠された命の宝庫のようであった。ここに、筆者だけでなく、多くの人たちを解放する秘訣があると、筆者は直観で悟ったのである。

筆者はその確信を胸に、二度とそのフィールドを離れないことに決めた。二度と生涯、専門家を名乗ることはないだろう。ただの無名の市民として、この泉のほとりにとどまり、これを自分の生きるフィールドと定め、可能な限りの命を汲み出してみようと決意したのである。

筆者は、プロテスタントと資本主義を離れることに決めたと幾度も書いた。詐欺と、搾取と、弱肉強食の横行する、人間を骨までしゃぶり尽くす過酷な競争の場と化した貪欲な金儲けの世界を永遠に離れ、自分の専門を離れ去り、今後は自分の満足のためでなく、真に人々の益になるよう生涯を捧げようと決意した。

すると、あれよあれよという間に、まるで天がずっと前からあなたをここで待っていたのだと言ってくれたような具合に、すべてが開けたのであった。

これまで、あれほど生きるために苦労していた心配は、何だったのであろうか。今までを振り返っても、これほどすべてが首尾よく運んだことなど一度もないというほど、すべてがビジョンの通りに運んだ。

ああ、これで本当に良かったんだなと思った。どうやら、筆者は運命的な出会いを見つけたらしい。この道は、これまでのように、筆者の片思いではないし、悲劇へと続く道でもない。相思相愛の道、豊かな報いが約束されている道だ。

どんよりとした陰気な曇り空の下、不安の中で踏み出した一歩だったが、物事は見た目ではなかった。紛争とよく似ている。見た目は非常に好ましくない、がっかりさせられるような味気ない外観の中に、永遠にまで至る、尽きせぬ喜びと感動が隠されている。

それは謙虚さや、低められることの意味を知っている人にしか、たどり着けない命の泉である。

さて、このところ、筆者が主に回答を委ねていた複数の問題があった。

この世には、妥協もできず、和解してはならない相手というものが存在する。人間的な思いでは、私たちは誰とも離反したくはないし、誰をも罪に定めたくないと思うだろう。しかし、DVを繰り返す人間が、許せば許すほど、ますます増長して行くだけであるように、許すことが有害な相手、和解してはならない相手というものも、この世には存在する。

もしも私たちがエジプトを真に去ったのならば、後ろを決して振り返ってはいけない。二度と元いた場所に戻ろうと思ってはいけない。だが、そのためには、エジプトと私たちとの間には、紅海という不可逆的な断絶が横たわらなくてはならない。

エクソダスである。御言葉による切り分けである。

そういう意味で、判決とは、相容れないものを永遠に断絶させて、物事の是非を切り分けるための宣言であることが分かった。

原告となって自ら訴訟を起こした多くの人たちは、判決を得ても、賠償が支払われないかも知れない恐れなどから、和解を選択する。判決を取れば、罪に定められた相手が反発し、賠償金を踏み倒すかも知れない。その上、控訴してくるかも知れないと恐れる。だが、和解ならば、きっと双方が自主的に選択した解決だから、誰もこれを踏みにじることはあるまいと考えるのだ。

彼らは思う、判決によって物事を永遠に切り分けるような「残酷な」措置を取るくらいなら、人の面目を潰さず、金銭的和解にとどめておいた方が「穏便な」解決であると。

ところが、筆者は考えてみればみるほど、実はそうではないことが分かって来る。

筆者の心の中で、判決に対して沸き起こる尽きせぬ畏敬の念、憧れのような感情は、一体、どこから来るのだろうか。なぜ筆者はこれほど正しい裁きを切望するのか。

この曲がった世の中で、どうしても、誰かが上から力強く裁きを宣言し、争いに終止符を打ってくれなくてはならない。誰の過失によって、このような事態が起きたのか、はっきりと白黒つけて、宣言してくれなければならない。誰かが力強い腕で、死にかかっている我々を泥沼から救い出し、引き上げてくれなくてはならない。

当事者同士の終わりなき話し合いでは、私たちは闇の中をさまよい続けることしかできず、決して光にたどり着くことができないのだ。

それは神なくして生きる被造物の真っ暗闇の世界に似ている。どれほど主張書面をうず高く積み上げようと、これを認定してくれる存在がなければ、私たちの訴えはむなしい。

もしも一度で正しい裁きが得られないなら、二度でも、三度でも、挑戦して構わない。自分の都合だけを認めてくれと叫ぶのではなく、とにかく光へ向かって、私たちを照らし出してくれる正しい光へ向かって、全力で走って行って、命を獲得しなくてはならないのである。

判決を得ることは、和解することに比べ、多大なる困難がつきものである。しかし、判決の最も大きな効力は、隔てられるべきものを永遠に隔てると宣言することにある。
 
もしも私たちがエジプトを真に去って来たならば、もはやエジプト軍との和解はあり得ないはずだ。追っ手を恐れてはならない。紅海で溺れ死ぬのはエジプト軍であって、我々ではない。

筆者は思う。神は私たちの心から、断ち切られるべきものが断ち切られることを、望んでおられるに違いないと。和解ではない。必要なのは隔てである。

神は十字架を通して、私たちを罪から永遠に断絶させ、永遠の隔てを置こうとなさっておられる・・・。

これまで一度も記したことがなかったが、当ブログを巡る訴訟では、筆者は遮蔽の措置というものを願い出た。

これは法廷で被告と対面しなくて良いための措置である。このような措置が認められるのかどうかは、大きな賭けであった。もしも認められなければ、我々は法廷で一同に会することになる。面識ができることになる。面識が出来るということは、知り合うということであり、関係性がより深まって行くことである。

訴訟が始まるまでの間、一体、この問題はどうなるのかと、筆者は不安に駆られていた。幸い、裁判官はこれを許可したが、被告は憤慨した。被告は筆者が彼らを過度に警戒し、危険人物扱いし、侮辱しているかのように主張していただけでなく、その後、裁判官がこの措置を認めたことまでも、裁判所の不法行為だと言い立てていたくらいである。

一審の最中、筆者は、この遮蔽の措置とは、神と人とを隔てる十字架の象徴であり、人の意思では決して取り除くことのできない、救われた者とそうでない者、聖なるものとそうでないものとを隔てる区別なのだと、準備書面に書いた。

被告がもし信仰によって結ばれた兄弟姉妹として、罪を認めて謝罪と償いができるならば、こんな隔ての壁は要らない。和解も可能なのに違いない。だが、もしも罪を認めないならば――それはただ筆者に犯して来た罪を認めないことを意味するだけでなく、人としての原罪までも否定する行為を意味し、神の救いに逆らっているのであって、彼は兄弟ではない。私たちは対面することができず、知り合うこともできず、神の怒りという遮蔽の措置によって、永遠に隔てられたままに終わるだろう。

こうして、我々は最初から最後まで、対面することがなかった。そして、判決が我々をさらに遠く永遠に隔てた。もう一人の被告は、一度たりとも法廷に出向くことはなかった。

ところが、こうして永遠の隔てが置かれているにも関わらず、それでも一審判決後、筆者は賠償金の取立のために、自らの意志で被告に会いに行こうとしていた。筆者は当初、それが自分の責務であるかのように考えていたのである。

ところが、それも成らなかった。被告は筆者が出向こうとしていることを憤怒して非難し、筆者も忠告を受けて計画を中止した。やはり、我々には、目に見えない霊的な領域において、どうしても乗り越えることのできない隔てがあるらしい。筆者がどう考えようと、会うことが「禁じられている」のだ。

それだけではない。賠償金の取立のための接触さえも、行ってはならないことが、だんだん分かって来た。筆者と被告とは、一切、無関係であり、ただ被告が筆者に対して負い目を負っているだけで、筆者の側から、被告に対してなすべきことはない。

訴訟における判決とは、人間の造り出した法的拘束力を伴う言葉である以上に、霊的な領域においても、隔てられるべきものを永遠に隔てる宣言であり、それ自体が、原告と被告との間に横たわる永遠の「遮蔽の措置」としての十字架だったのである。

二審では、それがもう一人の被告に対しても宣言されねばならない。それによって、呪いが完全に断ち切られるであろう。

これは考えるだに厳しい、峻厳な霊的原則であって、人間的な感情に基づいたものではなかった。

筆者が飽くことなく判決を求める願いはどこから来るのか、少し分かったような気がした。それは、事を荒立てたいという願いから来るのでもなく、誰かを罪に定めたいという願望からでもない。何が正しい事柄であり、何がそうでないのか、何が神に喜ばれる尊い事柄であって、何がそうでないのか、何が清い、聖なるものであって、何がそうでないのか、何が真実であって、何が偽りであるのか、何が正義であり、何が不法であるのか、筆者自身が、可能な限り、その区別を明らかにして、正しい裁きをなして欲しいという切なる心の叫び求めから来るのだと分かった。

たとえ筆者自身が罪人の一人として焼き尽くされ、無とされても良いから、神の喜ばれる正義が何であるか、真実が何であるかが明らかになって欲しい。もうこれ以上の嘘と不法はたくさんだという切なる願い求めがあった。

だが、キリストの十字架ある限り、筆者は、罪から救い出され、死から救われて生きるであろう。

「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。 「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、 雪のように白くなる。 たとい、紅のように赤くても、 羊の毛のようになる。」(イザ1:18)

これは言葉に言い尽くせない峻厳な「切り分け」である。私たちの罪が赦されるすべての根拠はキリストの十字架にある。これが私たちの唯一の防御の盾であり、装甲である。

だから、汚れたものと分離しなさい、と主は言われる。この点について、主の命令は厳しく、妥協なく、絶対的である。中途半端な分離というものはない。彼らを断ち切りなさい! 心の中からも、生活の中からも、一切を断ち切りなさい! 十字架の装甲の中に隠れなさい! 二度と彼らを振り返ってはいけないし、関わってもならない。対話してもいけないし、和解する余地は二度とない。

こうして、二度と後戻りできない断絶が宣言される、それが判決なのだということが、だんだん分かって来た。いや、それが訴訟というものなのである。

和解の問題を考える度に、心に沸き起こってくる厭わしさは、そのためだったのかと分かった。暗闇の余地を残してはならないし、グレーなままで終わりたくない。負うべきでない負い目を、これ以上、恐怖のために負わされたたくない。どんなにリスクが伴っても、正しい裁きへと至り着き、命に到達したいという願いをあきらめられないのだ。

これがエクソダスの原則なのである。エクソダスしたならば、二度と後ろを振り向いてはいけない。堕落したものとの分離において、中途半端な態度ではいけない。山頂に達した人が、そこに自分の旗を立てるように、私たち自身が自分の心に宣言しなければならないのだ。

脱出は完了した。裁きはカルバリにおいて下された。我々はこの十字架を通して、この世に対してはりつけにされ、この世も私たちに対してはりつけにされて死んだ。生きているのはもはや「わたし」ではない。世は私たちに触れることはできないし、重荷を負わせることもできない。

「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。」(ヘブライ12:1-3)

「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて」、私たちはどこへ向かって走るのか? もちろん、自由へ向かって、解放へ向かって、約束された天の都に向かって、復活の命の領域に向かってだ。後ろを振り返ってはいけない、ただ真直ぐに前だけを見なさい。真直ぐに天だけを見つめ、目的に向かって走り抜けなさい!

まるで霊的な目が開けたように、これは人情でどうにかできる世界ではない、と分かった。鳥肌が立つような厳粛さがそこにあった。もしも後ろを振り返るなら、不信者と共につりあわないくびきを負わされ、ソドムを振り返ったロトの妻のような運命が待ち受けているだけである。

訴訟というのは、分岐路である。もはやそこに来た以上、後戻りはできないのだ。あなたは一体、何を選ぶのか、何を望むのか、問われている。

筆者が慕い求めるべきは、エジプトでもなく、ソドムでもない。御言葉によって与えられた、まだ見ぬ約束である。それがまだ成就しておらずとも、いや、成就していないからこそ、私たちはこの約束を価値あるものとして握りしめ、これを慕い求め、その約束が成就する日を信じて待ち続け、忍耐しながら目的へ向かって走るのである。

その約束の真の意味は、キリストが私たちを迎えに来られることである。そして、私たちの完全な救い、完全な贖いが成就することである。その日のために、私たちはもう一度、自分自身を聖別し、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、自分が何者であり、誰のために捧げられた者であるのか、片時も忘れないように心を決める必要がある。

教会はただ一人の男子キリストのために捧げられた聖なる花嫁である。汚れた者はこれに触れることができない。もう一度、冒頭にも挙げた御言葉を引用しておこう。

あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。

「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。
 そして、彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せになる。

 『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。
 全能の主はこう仰せられる。」

 愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」(Ⅱコリント6:14-18,7:1)

«私ではなくキリスト―事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。(3)

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