2019年3月25日 (月)

主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。

「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。

これは知恵と諭しをわきまえ
分別ある言葉を理解するため

諭しを受け入れて
正義と裁きと公平に目覚めるため。

未熟な者に熟慮を教え
若者に知識と慎重さを与えるため。

これに聞き従えば、賢人もなお説得力を加え
聡明な人も指導力を増すであろう。

また、格言、寓話
賢人らの言葉と謎を理解するため。

「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。

これは知恵と諭しをわきまえ
分別ある言葉を理解するため

諭しを受け入れて
正義と裁きと公平に目覚めるため。

未熟な者に熟慮を教え
若者に知識と慎重さを与えるため。

これに聞き従えば、賢人もなお説得力を加え
聡明な人も指導力を増すであろう。

また、格言、寓話
賢人らの言葉と謎を理解するため。

主を畏れることは知恵の初め。
無知な者は知恵をも諭しをも侮る。

わが子よ、父の諭しに聞き従え。
母の教えをおろそかにするな。

それらは頭に戴く優雅な冠
首にかける飾りとなる。

わが子よ ならず者があなたを誘惑しても
くみしてはならない。

彼らはこう言うだろう。

「一緒に来い。待ち伏せして、血を流してやろう。
罪もない者をだれかれかまわず隠れて待ち
陰府のように、生きながらひと呑みにし
丸呑みにして、墓穴に沈めてやろう。

金目の物は何ひとつ見落とさず
奪った物で家をいっぱいにしよう。
我々と運命を共にせよ。
財布もひとつにしようではないか。」

わが子よ
彼らの道を共に歩いてはならない。
その道に足を踏み入れるな。

彼らの足は悪事に向かって走り
流血をたくらんで急ぐ。

翼あるものは見ている。
網を仕掛けるのは徒労だ。

待ち伏せて流すのは自分の血。
隠れて待っても、落とすのは自分の命。

これが不当な利益を求める者の末路。
奪われるのは自分の命だ。

知恵は巷に呼ばわり
広場に声をあげる。

雑踏の街角で呼びかけ
城門の脇の通路で語りかける。

「いつまで
浅はかな者は浅はかであることに愛着をもち
不遜な者は不遜であることを好み
愚か者は知ることをいとうのか。

立ち帰って、わたしの懲らしめを受け入れるなら
見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ
わたしの言葉を示そう。

しかし、わたしが呼びかけても拒み
手を伸べても意に介せず

わたしの勧めをことごとくなおざりにし
懲らしめを受け入れないなら

あなたたちが災いに遭うとき、わたしは笑い
恐怖に襲われるとき、嘲笑うであろう。

恐怖が嵐のように襲い
災いがつむじ風のように起こり
苦難と苦悩があなたたちを襲うとき。」

そのときになって
彼らがわたしを呼んでもわたしは答えず
捜し求めても
わたしを見いだすことはできない。

彼らは知ることをいとい
主を畏れることを選ばず
わたしの勧めに従わず
懲らしめをすべてないがしろにした。

だから、自分たちの道が結んだ実を食べ
自分たちの意見に飽き足りるがよい。

浅はかな者は座して死に至り
愚か者は無為の内に滅びる。

わたしに聞き従う人は確かな住まいを得
災難を恐れることなく平穏に暮らす。 」(箴言第一章)

* * *

当ブログが始まった頃から述べて来たスローガンの一つに、「主を畏れることは知識の初め」という箴言1:7の御言葉がある。

この御言葉は、裏を返せば、「主を畏れないことは精神崩壊の始まり」となる。

あらゆる異端思想は、必ず、聖書の御言葉を歪曲するものであり、そのようにして御言葉を曲げ、これに逆らった人は、必ず、知性を狂わされ、精神の正常性を保てなくなり、やがては破滅に落ち込んで行った。

そのことが、今日、インターネットで、当ブログに敵対・挑戦して来た人々の人生において、確実に証明されつつあると言えよう。

ある人々は、かねてより、当ブログの主張を精神異常の産物であるかのように声高に非難して来たが、今日、そのような人々が、いかなる犯罪行為に手を染めているかを見れば、彼らがすでに正常な思考を狂わされてしまっていることは、誰の目にも明白である。

もしも彼らの非難している対象が、当ブログだけであったならば、そのような結果にはならなかったに違いない。だが、彼らは、当ブログを非難する際に、当ブログの背後に存在する聖書の御言葉につまずいた。それだからこそ、これらの人々はこのようにまで健全な思考を失って、犯罪行為にまで手を染めるに至ったのである。

私たちのまことの命は、御言葉なるお方であるキリストただお一人である。この方が私たちのすべてのすべてであり、生きるために必要なすべてを供給して下さる方である。

御言葉は、私たちの安全を確保するための最強の装甲であり、堅固な砦である。その外に出れば、私たちの命も、平安も、安全も、無事に保たれるものは何もない。

そこで、御言葉にあからさまに躓いた人々の結末は、とても悲惨なものとなる。彼らは、ただ信仰を失うだけでは済まされず、世人よりもはるかに悪い罪人となって、人生を破滅で終えることになる。そのような例に倣ってはいけない。

さて、当ブログでは、先週も掲示板で行われた犯罪行為について、警察署に告訴状を提出したばかりだが、本日も、ちょうど新たな分厚い告訴状を追加で警察署に送ったところである。これも週が明ければ間もなく受理されるだろう。

掲示板における犯罪的なコメントは、すでに30件以上、告訴対象に含まれている。著作権侵害だけでこれであるから、その他の罪状を含めれば、被告訴人の数は50名以上には達するものと見られる(同一犯の可能性はあるが)。

これが、当ブログの信仰の証しを、精神異常の産物であるかのように、非難し続けた人々の末路である。彼らは、自分たちの行っている行為が、犯罪であるという認識さえも失っているが、そのような事態は恐るべきことであり、彼らが当ブログに投げつけた精神異常との悪罵の言葉が、まさに彼ら自身に跳ね返ったことをよく表している。

筆者はこの犯罪ネットワークの全容を解明するために、これから約1年間ほどの月日が必要であろうと考え、そのために必要な時間と労力を提供するつもりでいる。警察署にも、犯罪行為が完全に終了するまでの間、随時、告訴状を追加で提出する旨を説明し、了承を得ている。

筆者は、ただ当ブログに対する権利侵害を明らかにするという以上に、こうした仕事は誰かが必ずせねばならないことだと考えている。
 
今回の裁判では、この犯罪ネットワークは、まだ全容が解明されていないうちに、判決を迎えることになる。だが、ちょうど裁判の終結間近に、掲示板における犯罪行為がここまで大々的に明るみに出て、誰もの目に触れたことには、非常に意義があったと言えるだろう。

おそらく暗闇の勢力は、判決言い渡し直前の「駆け込み」として権利侵害に及んだのかも知れないが、残念ながら、そうした行為によって、筆者が不利になることもなければ、筆者が信仰の証しをやめることもない。かえって、筆者が本訴訟において訴えていた事実が、ますます裏づけられるだけである。

さて、先の記事で、筆者は、今回の裁判を、非常に良心的で、事件に深い理解のある裁判官が担当してくれた旨を感謝しつつ書いた。これは主の采配である。被告らにとっても、裁判官が相当な努力を払って進めていた電話会議の様子はまだ記憶に新しく、おそらく、裁判所のすべての関係者の誰一人として、悪印象を与えなかったろうと思う。

だが、万が一、被告らがこれらの人々の労にあだで報い、これから言い渡される判決に不服を覚え、控訴などを考えるならば、当ブログでは、その際には、これまで被告らが送付して来たすべての書面をただちに公開する用意があることを改めて断っておく。

これまで当ブログで被告らの書面を公開しなかったのは、裁判官が静かに判決を考える邪魔をしたくなかったからであり、世論の風を味方につけることで、有利な判決を得ようとするような真似をしたくなかったためだ。(筆者は支持者の数によって有利な判決を得ようとは全く願っていない。)

だが、判決が言い渡されれば、被告らの書面の公開の妨げになるものは何もない。

さらに、もしも被告らが良心的な裁判官の公平な判決に不服を覚えて、一信徒を控訴審に引きずり出したいなどと考えるならば、被告らの活動は、完全に世間の理解を失って一貫の終わりとなるだろうと断っておく。

なぜなら、もしもどこかの牧師が、自分のところへ相談にやって来た一信徒を、ブログで批判されたからと言って、10年間もの間、インターネットで名指しでバッシングしただけでは飽き足らず、控訴審(場合によっては最高裁)まで引きずり出して争おうとするならば――そんな牧師の説教を、誰も聞きたいとは願わないであろうし、そんな恐ろしい牧師のもとに、身の上相談に行く信徒は、絶えていなくなることは明白だからだ。

被告らはかねてより、控訴審に争いが持ち込まれた場合には、弁護士に依頼すると予告していたが、そうなった場合には、弁護士費用は三桁に達する可能性もあり、一審と違って、冷酷無慈悲な裁判官が事件を担当して、訴えが棄却されれば、その費用はまさにドブに捨てることになるだろう。

また、控訴すれば、その間に、刑事事件の捜査も進展し、取り調べも進行するであろうし、掲示板において現在、おびただしく行われている犯罪行為への関与なども疑われたりすれば、さらに罪状も増える可能性がないとは言えない。

このように、控訴は誰にとっても何のメリットもなく、今回は、良心的な裁判官が、奇跡的なスケジュール上の都合で、最初から一年以外に判決の言い渡しを予定してくれていたことは、当事者の誰もにとって、極めて幸いな出来事なのだということを関係者は心に刻みつけるべきである。

特に、当ブログに対して行われた権利侵害が、約10年間の長きにも渡っている事実や、今回、原告側から提出された書面の尋常ならぬ膨大な分量を裁判官が考慮する手間、そして、あらゆる訴訟は一年以上長引くことが決して珍しくないなどの事情を考慮すれば、当ブログを巡る訴訟が、一年にも達しないうちに終了することは、まさに奇跡的とも言える幸運なのだということを、当事者はよくよく覚えておく必要があろう。

原告側には、事件の全容が解明されていないうちに審理を終結することに、デメリットがないわけではない。しかし、筆者は、この訴訟においては、努力の限りを尽くして、すべての論証作業を終えたと考えており、何一つ思い残すことなく、その上、神の憐れみに満ちた采配が大いに働いて、信仰を証しするチャンスも与えられたことに、とても満足している。

このように、一切の心残りなく、判決を迎えられることは、この上ない幸いであって、筆者は裁判官を信頼しており、不服を述べるつもりは一切なく、今、自分自身も判決に服する一人として、厳粛な気持ちで、深く頭を垂れるのみである。

今回の事件を通じて、神が信じる者にとって、どれほど憐れみ深い方で、真実で公正な方であるか、そして、地上においても、公正な裁きを見せて下さるか、それを多くの人々が知ることができればと筆者は願っている。

また、悪者にはしたたかな報いがあることが、明らかにされるべきだと筆者は考えている。

筆者はこれまで、悪者に懲罰を加えることや、強制的な判決によって、人の心を縛ることに大きな躊躇があった。

だが、その躊躇が、事態の一層の深刻化を招いた事実や、それから現在に至るまで、当ブログに対する尽きせぬ憎悪を持つ人々が、これほど執拗かつ激しい権利侵害を繰り返しているのを目にし、筆者は、考えを変えざるを得なくなった。すなわち、信仰を捨てた人々の中には、まるで騾馬のごとく、轡をかけられる以外の方法では、決して行動を変えられない人々が存在するのだと思わされたのである。

とはいえ、筆者は決して、自分自身の手で報復しない。ただ正当な法的手段を用いて、悪者への懲罰という仕事は、しかるべき権限をもった人々に委ねるのみである。

信仰を持った人々に対する裁きは、教会の外に持ち出されるべきではないと、筆者は今でも考えている。だが、信者に偽装しながら、御言葉の真実性を否定する人々は、この世によって裁かれても、何の不思議もない。この世のことは、この世が裁くのだから、当然である。

いずれにしても、神は今日も生きておられ、ご自分に頼る人々を決して見捨てられることはないという確固たる事実を、間もなく、多くの人々が知る結果となるだろうことを、筆者は心から確信している。

* * *

当ブログが始まった頃から述べて来たスローガンの一つに、「主を畏れることは知識の初め」という箴言1:7の御言葉がある。

この御言葉は、裏を返せば、「主を畏れないことは精神崩壊の始まり」となる。

あらゆる異端思想は、必ず、聖書の御言葉を歪曲するものであり、そのようにして御言葉を曲げ、これに逆らった人は、必ず、知性を狂わされ、精神の正常性を保てなくなり、やがては破滅に落ち込んで行った。

そのことが、今日、インターネットで、当ブログに敵対・挑戦して来た人々の人生において、確実に証明されつつあると言えよう。

ある人々は、かねてより、当ブログの主張を精神異常の産物であるかのように声高に非難して来たが、今日、そのような人々が、いかなる犯罪行為に手を染めているかを見れば、彼らがすでに正常な思考を狂わされてしまっていることは、誰の目にも明白である。

もしも彼らの非難している対象が、当ブログだけであったならば、そのような結果にはならなかったに違いない。だが、彼らは、当ブログを非難する際に、当ブログの背後に存在する聖書の御言葉につまずいた。それだからこそ、これらの人々はこのようにまで健全な思考を失って、犯罪行為にまで手を染めるに至ったのである。

私たちのまことの命は、御言葉なるお方であるキリストただお一人である。この方が私たちのすべてのすべてであり、生きるために必要なすべてを供給して下さる方である。

御言葉は、私たちの安全を確保するための最強の装甲であり、堅固な砦である。その外に出れば、私たちの命も、平安も、安全も、無事に保たれるものは何もない。

そこで、御言葉にあからさまに躓いた人々の結末は、とても悲惨なものとなる。彼らは、ただ信仰を失うだけでは済まされず、世人よりもはるかに悪い罪人となって、人生を破滅で終えることになる。そのような例に倣ってはいけない。

さて、当ブログでは、先週も掲示板で行われた犯罪行為について、警察署に告訴状を提出したばかりだが、本日も、ちょうど新たな分厚い告訴状を追加で警察署に送ったところである。これも週が明ければ間もなく受理されるだろう。

掲示板における犯罪的なコメントは、すでに30件以上、告訴対象に含まれている。著作権侵害だけでこれであるから、その他の罪状を含めれば、被告訴人の数は50名以上には達するものと見られる(同一犯の可能性はあるが)。

これが、当ブログの信仰の証しを、精神異常の産物であるかのように、非難し続けた人々の末路である。彼らは、自分たちの行っている行為が、犯罪であるという認識さえも失っているが、そのような事態は恐るべきことであり、彼らが当ブログに投げつけた精神異常との悪罵の言葉が、まさに彼ら自身に跳ね返ったことをよく表している。

筆者はこの犯罪ネットワークの全容を解明するために、これから約1年間ほどの月日が必要であろうと考え、そのために必要な時間と労力を提供するつもりでいる。警察署にも、犯罪行為が完全に終了するまでの間、随時、告訴状を追加で提出する旨を説明し、了承を得ている。

筆者は、ただ当ブログに対する権利侵害を明らかにするという以上に、こうした仕事は誰かが必ずせねばならないことだと考えている。
 
今回の裁判では、この犯罪ネットワークは、まだ全容が解明されていないうちに、判決を迎えることになる。だが、ちょうど裁判の終結間近に、掲示板における犯罪行為がここまで大々的に明るみに出て、誰もの目に触れたことには、非常に意義があったと言えるだろう。

おそらく暗闇の勢力は、判決言い渡し直前の「駆け込み」として権利侵害に及んだのかも知れないが、残念ながら、そうした行為によって、筆者が不利になることもなければ、筆者が信仰の証しをやめることもない。かえって、筆者が本訴訟において訴えていた事実が、ますます裏づけられるだけである。

さて、先の記事で、筆者は、今回の裁判を、非常に良心的で、事件に深い理解のある裁判官が担当してくれた旨を感謝しつつ書いた。これは主の采配である。被告らにとっても、裁判官が相当な努力を払って進めていた電話会議の様子はまだ記憶に新しく、おそらく、裁判所のすべての関係者の誰一人として、悪印象を与えなかったろうと思う。

だが、万が一、被告らがこれらの人々の労にあだで報い、これから言い渡される判決に不服を覚え、控訴などを考えるならば、当ブログでは、その際には、これまで被告らが送付して来たすべての書面をただちに公開する用意があることを改めて断っておく。

これまで当ブログで被告らの書面を公開しなかったのは、裁判官が静かに判決を考える邪魔をしたくなかったからであり、世論の風を味方につけることで、有利な判決を得ようとするような真似をしたくなかったためだ。(筆者は支持者の数によって有利な判決を得ようとは全く願っていない。)

だが、判決が言い渡されれば、被告らの書面の公開の妨げになるものは何もない。

さらに、もしも被告らが良心的な裁判官の公平な判決に不服を覚えて、一信徒を控訴審に引きずり出したいなどと考えるならば、被告らの活動は、完全に世間の理解を失って一貫の終わりとなるだろうと断っておく。

なぜなら、もしもどこかの牧師が、自分のところへ相談にやって来た一信徒を、ブログで批判されたからと言って、10年間もの間、インターネットで名指しでバッシングしただけでは飽き足らず、控訴審(場合によっては最高裁)まで引きずり出して争おうとするならば――そんな牧師の説教を、誰も聞きたいとは願わないであろうし、そんな恐ろしい牧師のもとに、身の上相談に行く信徒は、絶えていなくなることは明白だからだ。

被告らはかねてより、控訴審に争いが持ち込まれた場合には、弁護士に依頼すると予告していたが、そうなった場合には、弁護士費用は三桁に達する可能性もあり、一審と違って、冷酷無慈悲な裁判官が事件を担当して、訴えが棄却されれば、その費用はまさにドブに捨てることになるだろう。

また、控訴すれば、その間に、刑事事件の捜査も進展し、取り調べも進行するであろうし、掲示板において現在、おびただしく行われている犯罪行為への関与なども疑われたりすれば、さらに罪状も増える可能性がないとは言えない。

このように、控訴は誰にとっても何のメリットもなく、今回は、良心的な裁判官が、奇跡的なスケジュール上の都合で、最初から一年以外に判決の言い渡しを予定してくれていたことは、当事者の誰もにとって、極めて幸いな出来事なのだということを関係者は心に刻みつけるべきである。

特に、当ブログに対して行われた権利侵害が、約10年間の長きにも渡っている事実や、今回、原告側から提出された書面の尋常ならぬ膨大な分量を裁判官が考慮する手間、そして、あらゆる訴訟は一年以上長引くことが決して珍しくないなどの事情を考慮すれば、当ブログを巡る訴訟が、一年にも達しないうちに終了することは、まさに奇跡的とも言える幸運なのだということを、当事者はよくよく覚えておく必要があろう。

原告側には、事件の全容が解明されていないうちに審理を終結することに、デメリットがないわけではない。しかし、筆者は、この訴訟においては、努力の限りを尽くして、すべての論証作業を終えたと考えており、何一つ思い残すことなく、その上、神の憐れみに満ちた采配が大いに働いて、信仰を証しするチャンスも与えられたことに、とても満足している。

このように、一切の心残りなく、判決を迎えられることは、この上ない幸いであって、筆者は裁判官を信頼しており、不服を述べるつもりは一切なく、今、自分自身も判決に服する一人として、厳粛な気持ちで、深く頭を垂れるのみである。

今回の事件を通じて、神が信じる者にとって、どれほど憐れみ深い方で、真実で公正な方であるか、そして、地上においても、公正な裁きを見せて下さるか、それを多くの人々が知ることができればと筆者は願っている。

また、悪者にはしたたかな報いがあることが、明らかにされるべきだと筆者は考えている。

筆者はこれまで、悪者に懲罰を加えることや、強制的な判決によって、人の心を縛ることに大きな躊躇があった。

だが、その躊躇が、事態の一層の深刻化を招いた事実や、それから現在に至るまで、当ブログに対する尽きせぬ憎悪を持つ人々が、これほど執拗かつ激しい権利侵害を繰り返しているのを目にし、筆者は、考えを変えざるを得なくなった。すなわち、信仰を捨てた人々の中には、まるで騾馬のごとく、轡をかけられる以外の方法では、決して行動を変えられない人々が存在するのだと思わされたのである。

とはいえ、筆者は決して、自分自身の手で報復しない。ただ正当な法的手段を用いて、悪者への懲罰という仕事は、しかるべき権限をもった人々に委ねるのみである。

信仰を持った人々に対する裁きは、教会の外に持ち出されるべきではないと、筆者は今でも考えている。だが、信者に偽装しながら、御言葉の真実性を否定する人々は、この世によって裁かれても、何の不思議もない。この世のことは、この世が裁くのだから、当然である。

いずれにしても、神は今日も生きておられ、ご自分に頼る人々を決して見捨てられることはないという確固たる事実を、間もなく、多くの人々が知る結果となるだろうことを、筆者は心から確信している。

2019年3月23日 (土)

生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。

わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。

わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」(ガラテヤ2:19-21)

さて、判決を思うと言い知れない喜びが込みあげてくる。あまりにも嬉しくて、同じ言葉しか書けない。おそらく、判決を受け取った後も、生涯に渡り、この喜びは続き、忘れ得ぬ出来事として心に刻まれるであろう。予め関係者に幾度も深く感謝を述べておきたい。

このようにすがすがしい気持ちで、決着を迎えられることは、本当に神の恵みである。

筆者はこの戦いを立派に戦い抜いて、すべての責務を果たした。必要な努力はすべて払った。協力してくれたある人は、「そんな素敵な裁判があるんだね」と、顛末を聞いて感心していた。

だが、今回の戦いにおいて真に問われたのは、当ブログが標題に掲げている通り、筆者が「私」に立つのか、それとも「キリスト」に立つのか、という事実であった。

当ブログは2008年に始まり、2009年に暗闇の勢力から激しい争いをしかけられ、それ以来、ずっと戦いの最中にある。その間、暗闇の勢力は、筆者の名誉を傷つけ、筆者の様々な個人的権利を侵害し、かつ、侵害すると脅すことで、筆者が自分自身を惜しみ、「私」の利益を守るために、この信仰の戦いを途中で投げ出して退却するよう、再三に渡り促して来た。

もしもこのブログがただ筆者の趣味の披露が目的で開設されたものであれば、筆者が「私」を擁護して立ったところで、それは罪にはならなかったであろうし、このような迫害に立ち向かってまで続行する意味もなかったはずだ。

だが、当ブログは聖書の御言葉の正しさを公然と世に証しし、神の国の権益を擁護するために存在しているわけであるから、人の生まれながらの肉なる要素に頼るわけにはいかない。

自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(ヨハネ12:25-26)

もしも筆者が自分の命を愛するのであれば、様々な脅しや権利侵害に立ち向かって、信仰の証しを続けることなど、到底、不可能であり、困難や、迫害が起きれば、早々に退却するしかない。だが、そうして途中で退却して、神を捨てるくらいならば、初めから何もしない方が良いと筆者は確信している。

今、筆者がどんなことよりも望むことは、父なる神のおられる聖所で、主と共に過ごし、神を礼拝する幸いな人生を送ることである。この世の人々からの頼りなくはかない賞賛や栄誉と引き換えにそれを捨てることなど、断じてできない。

そこで、筆者は肉を頼みとすることを徹底的に拒み、バアルの預言者の前に立ったエリヤと同じく、今でも祭壇に何度も水をかけ、「あえて事を難しく」している。

筆者は人前に、聖人のような人間としてではなく、罪人の代表格として立ち、かつ、神の御前にも、敗れ口に立って執り成す者として進み出たいのだ。

そして、イエスが門の外で辱めを受けられたように、今日の背信の教会が向けられるべき非難と蔑みの言葉を身に背負い、営所の外で苦しみを受けつつ、見えない都へ向かって進んでいく。

これは義人ヨブが神の御前で、「私は塵灰の中で悔い改めます」と述べたのと同じ姿勢である。ヨブに悔い改めねばならない罪があったわけではない。だが、神はヨブに人類の代表として、信仰者の代表として、神の御前にへりくだり、全被造物が塵に過ぎないことをあえて告白し、ただ神にのみ栄光が帰されるよう、己の義を完全に投げ捨てるよう求められた。

アブラハムとサラが百歳になってからようやく与えられた約束の子イサクも、一度、燔祭の犠牲として、霊的に屠られ、死をくぐらなければならなかった。

信仰の先人たちはみなこの十字架の死と復活という同じ過程を辿ったのである。

だから、筆者も、祭壇に自分を横たえ、通常人が誇りとし、頼みとするすべてのものが無価値とされ、死に渡されることに同意し、「私」にまつわるすべての利益を、完全に主と共なる十字架で投げ捨てる。

その結果として、そこに死と復活の原則が働き、失われた「私」の代わりに、「キリスト」が生きて下さる。この方は義なる方であって、決して罪に定められることがない。

神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられた良い香りです。

滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。

わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。」(Ⅱコリント2:14-17)

神は、私たちをいつもキリストの勝利の行進に加えて下さり、私たちを通じて、至るところに、キリストを知る知識の香りを漂わせて下さる――この霊的事実は、今回の争いの決着にも現れるだろう。

表向きには、司法の争いは、すべて個人の人権を擁護するために起こされるものであるが、筆者は己の命を擁護するために、この争いを起こしたわけではなく、神の御前に己を完全に投げ捨てることによって、逆説的に、再び命を得て、勝利を勝ち取ろうとしている。

今回、こうした信仰的な議論を深く理解できる裁判官が、この事件を担当してくれたことにも、神の大きな采配が働いている。以前にも書いたように、市民は訴えを出すに当たり、裁判官を選ぶことはできない。だが、神は、人の知恵や思惑を超えたところで、この事件に最もふさわしい人を采配して下さったと信じている。

これまで当ブログには、裁判官の書いたものとして、被告からの移送申立が却下された書面を掲載しているが、それを読んでも、この裁判官が、この世の人でありながら、いかにこの事件の核心部分を的確にとらえているかが読者にもよく分かるはずだ。

筆者はこの文章を読み、そして、口頭弁論の進め方などを見て、この裁判官ならば、間違いなくこの紛争を正しい結論に導くことができるという確信を、かなり早い段階で心に得ていた。その確信があればこそ、あらゆる困難に立ち向かい、また、反訴や控訴の脅しに屈さず、不本意な和解を退けて、判決にたどり着くまで、根気強く戦い通すことができたのである。

ただし、掲示板に対する捜査や、その他の刑事事件は今回の裁判結果には反映していないため、こうした事件の解決はまだまだこれからである。
 
読者も知っている通り、元来、当ブログでは、信仰に関する議論を、信仰のない人々の前に持ち出すことには反対であったので、それにも関わらず、このような争いを起こさねばならなくなったことは、それ自体が極めて不本意であると言う他ない。

だが、今回の裁判では、筆者は予想だにしていなかった大きな喜びに満ちた収穫を得ることができた。この紛争は、繰り返し述べて来たように、最初から最後まで、すべてが信仰の証しに満ちており、関わる人々の心に、神が直接、働きかけて、ご自分の偉大さを現して下さったからである。

そこでは、筆者の生まれながらの人としての誇りではなく、ただ神の栄光だけが証しされた。このことに筆者は本当に満足している。

なぜなら、私たちは、自分自身を証ししているのではないからだ。この方だけが――この見えないお方だけが、我々の希望であって、栄光を受けられるべき唯一の方であり、私たちはこの方の栄光、この方の利益のために、世から召し出され、贖い出された民なのである。

だから、筆者はキリストと共に喜んで十字架で自分を死に渡し、もはや生きているのは私ではない、と宣言する――。

こうして、世の人々の前で、聖書の御言葉の正しさを証明し、そして、神が筆者を愛して下さった、その愛の大きさを、証明することができたことは、他のどんなことにも代えられない恵みである。

今、筆者はこの訴えを出したがために、以前にもまして様々な権利侵害と中傷をこうむっているが、そのことに一切、筆者は落胆しておらず、読者もまた落胆などする必要がないことを述べておきたい。

神はすべての事柄を見ておられ、ご自分の子供たちを擁護するために必要な措置をなして下さる。神は間もなく、ヨブのために失われたすべてを回復して下さったと同様に、筆者の失われた利益をも余すところなく回復し、花嫁の帯の飾りのように、以前にもまして多くの宝で飾って下さるであろう。

従って、筆者を蔑んだ人々は、裁判結果もさることながら、そうした事態の成り行きを見て、唖然とすることであろうと予想する。それによって、また改めて私たちの主イエス・キリストの偉大さと、愛の深さが証明されることになる。

この紛争を通して、もう一つ明らかにされたことは、今日の目に見える教会というところが、いかに信仰を持たない人々の危険な運動によって占拠され、聖書の正しい信仰に立脚しなくなり、この世の人々から見ても、近寄ることが危険な場所になりつつあるかということである。

筆者はキリスト教徒であり、聖書の教えが正しいことを、揺るぎない確信と共に、公然と証しており、これからもその証を続けるつもりであるが、読者には、当ブログに降りかかった数々の出来事をよく見て、目に見える教会や、目に見える宗教指導者には、これからも決して近づかないように改めて警告したい。

そして、改めて、目に見えるものでなく、見えないお方に目を注いで歩むよう読者に勧める。また、私たちがこうむっている艱難を見て、落胆などしないでもらいたい。それは非常に一時的で軽いものでしかなく、私たちには、これを耐え忍んだことの報いとして、比べものにならない重い永遠の栄光がすでに用意されているからである。

だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほどの重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。

わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(Ⅱコリント4:16-18)

2019年3月21日 (木)

どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

「さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。

イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女な
のに」と思った。

そこでイエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。

イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」

シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。

だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。

そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。」(ルカ36:-50)

* *  *

  
「あなたの信仰があなたを救った。さあ、安心して行きなさい。」

イエスのこの言葉を筆者はどれほど待ち望んでいることだろう。もちろん、筆者はイエスがすでに筆者を贖って下さり、自分が救われていることも知っている。

だが、改めて、どうしても今一度おっしゃっていただきたいと願わずにいられないのだ。

「生きよ」と。

全被造物は、罪のゆえに堕落し、神から切り離されて、まるで本体を失った影も同然となって、虚無の中をさまようしかなくなった。

それゆえに、全被造物は、自分自身の内には虚無以外には何も見いだすことができず、ただひたすら、その影の持ち主である本体に見出され、神の御言葉の光に照らされることで、もう一度、新たに生かされる瞬間を待ち望んでいる。

自分だけでは生きられない、ものを言うことも、存在を証明することもできない「影」。

ここに、被造物としての私たちの嘆き、呻き、苦しみがあり、悲しいまでの「女性性」がある・・・。
 
* * * 

ラザロは、もの言わぬ死者となって、墓に横たわりながらも、きっとそこでイエスが来られるときを待ち望んでいただろう。自分の愛する方がそばに来られ、「ラザロよ、出てきなさい」と力強く命じられる瞬間を。

その時こそ、死者はよみがえらされて立ち上がり、喜びと感謝に溢れて愛する者たちのところに駆けつける。地上の多くの人々は、生きていると思っているが、自分がラザロ同然に、実は死んで墓に横たわっていることを知らないのだ。

パリサイ人たちからは、屑のように蔑まれ、社会から排除されていた罪の女も、ただイエスに出会いさえすれば、必ず自分のすべての罪が赦され、あらゆる汚れから清められて、彼に似た、貴い、聖なる姿に変えられるはずだとひたすら信じて、イエスを見た時、わき目もふらずに御許にかけつけ、その足元に身を投げ出して、泣き伏さずにいられなかった。

彼女は信じていた、自分自身がそれまでどのように生きて来たかなど関係ない、ただ御姿を見て、イエスを見つめられさえすれば、そうすれば、彼女は救われて、変えられると・・・。

38年間、ベテスダの池のほとりで病の癒しを待ち続けた男も、同じように、心の中で、イエスを待ち続けていた。イエスの衣に触りさえすれば、病は癒されると信じた長血の女も、「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」(マタイ8:8)と述べた百卒長も、みなイエスに出会って、その声を聞き、その言葉を聞きさえすれば、失われた存在であった自分たちは見いだされ、命にあずかり、完全に回復されると信じ続けたのである・・・。

「主よ、お言葉を下さい。そうすれば、僕(しもべ)は生きます」

これは、筆者の懇願であると同時に、虚無に服しながら、完全な贖いを求める全被造物の切なる叫びだ。

主よ、ただあなたの一言を下さい、あなたの一瞥だけで良いのです。この塵に過ぎない者に、一言、お命じ下さい。「立ち帰って生きよ」と・・・。そうすれば、僕は生きましょう・・・。

「人の子よ、イスラエルの家に言いなさい。お前たちはこう言っている。『我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか』と。

彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。 」(エゼキエル33:11-12)


とこしえに生きておられる方。「わたしはある」と言われる方。すべてにまさるリアリティである方が、虚無に過ぎない私たちに向かって、その眼差しを注ぎ、声をかけて言われる。

「立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んで良かろうか。」

私たちはすでに罪赦されて贖われた民であるが、なお、罪と死の痕跡の一切を取り除かれて、自分たちを縛っている死の縄目から完全に自由とされる日を待ち望んでいる。

まるで草花が夜の闇の中で静まりつつ、朝日が昇って、光の中で存分に身を伸ばす瞬間を待ち焦がれるように、全被造物が、虚無に服しながら、主イエスの言葉がかけられるのを待っている。

「立ち帰って生きよ。あなたの信仰があなたを救った。女(被造物)よ、あなたは完全に買い戻された。安心して行きなさい…」
 
私たちがイエスを待ち望むのは、彼(御子)こそ、失われた「影」としての私たちの「本体」であり、私たち被造物のまことの命であり、私たちの全ての全てだからである。

どうして影が本体を離れて、影だけで存在できようか。影だけの存在に、一体、何の価値があろうか。私たちは自分自身の内に何も見いださない。

どんなに声を張り上げて自分の言い分を述べ、あるいは、どれほど優れて美しい姿をしていたとしても、影はただ影でしかなく、本体が来られ、私たちを照らして下さらない限り、何の意味も持たない闇でしかないのだ。

かくて影はどこまでも本体を慕い求める。まことのリアリティの到来を待ち望む。暗闇でしかない自分自身から目を離し、ただ光なるお方を見つめ、ひたすら、本体である真実なお方から見出され、贖われ、再び一つとされる時を待ち望んでいる・・・。

* * *

創世記に「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。 」(創世記2:7)とあるように、神は最初の人間であるアダムを、塵の中から造られた。

アダムが塵から造られたことは、彼が被造物として、神を離れては無価値であり、虚無でしかないことをよく表している。

神が息を吹きかけられたとき、アダムは生きた人間となった。ここで言う「息」とは、神から与えられた霊であり、また、人を生かす神の御言葉のことでもある。

「神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(創世記:26-27)

聖書は、人類は「神にかたどって」創造されたと言う。だが、「神にかたどって(神のかたちに)」造られたとは、人類の外見を指すものではないだろう。塵から造られたアダムの外見に、神の栄光に満ちた「かたち」が表れているわけではないからだ。

むしろ、これは人類の役割のことである。

アダムの役割は、神の御言葉を守り、神に与えられた霊によって生かされることで、神の栄光を表すことにあった。アダムに与えられていた霊は、聖霊ではない。だが、御言葉が光となって彼を照らすことで、塵に過ぎないアダムに、神の栄光が反映していた。

こうして、神の御思いを体現し、鏡に映し出すように、神の栄光を反映し、神を誉め讃えて生きることが、アダムの役目であり、こうして神に栄光を帰して生きることこそ、被造物に与えられた栄光に満ちたつとめであり、それが被造物の表す「神のかたち」だったのである。

次に、神はアダムの肋骨からエバを造られた。

「主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」

主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。

主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。 そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。

主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそ わたしの骨の骨 わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう まさに、男(イシュ)から取られたものだから。

こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。 」(創世記2:18-25)


神はご自分の助け手として、ご自分の栄光を表す、ご自分に似た者として、アダムを創造されたが、次に、アダムのためにも、アダムに似た者として、助け手となる存在を用意された。

それがエバである。アダムが死のような深い眠りに落ち、再び、目覚めたとき、そこにアダムの性質をそっくり受け継ぎ、かつ、彼の栄光を表す者であるエバがいた。

アダムは彼女を見たとき、彼女が自分自身から出来ており、自分の栄光であることがすぐに分かったので、たちまち、自分を愛するように、彼女を愛した。

神は塵から造ったアダムに、息を吹き入れて、アダムをご自分の栄光を映し出す者とされたように、アダムの成分を使って造られたエバを、アダムのために、アダムの栄光を表す者とされた。

助手は、助手だけでは存在できない。必ず自分が仕えている主人が存在するはずである。もしもアダムが、神のかたちにかたどられた、影のような存在だとするならば、エバも、アダムのかたちにかたどられた、アダムの影のような存在であった。

そして、悲劇は、本体の栄光を表すために造られたはずの「影」が、本体から離反して、罪の堕落のゆえに、死を宣告されて、影だけで絶望の中をさまよわなくてはならなくなったことである。

人が神の御言葉を捨てて、罪を犯したとき、人の霊は死に、人の栄光は消え去った。彼を照らしていた御言葉の光は消え去り、人は真っ暗闇となって、自分自身の存在意義を見失ったまま、やがて消滅するのを待ちつつ、暗闇をさまようことしかできなくなった。

全被造物は、堕落によって神から切り離され、それ以後、自分の主人となるべき神を見いだせなくなり、己の堕落した虚無の世界を、ひたすら絶望のうちに堂々巡りせざるを得なくなったのである。

だが、被造物には、絶望の中でも、神を思う思いが与えられている。そこで、ひたすら、嘆き悲しみ、苦しみの中でも、自分を造られたただお一人のまことの神を思い、まことの神に見出され、贖われ、もう一度、息を吹きかけられて、神の栄光を表すものとして、御前に立たされる時を、切に待ち望んでいる。

主よ、もう一度、我ら全体におっしゃっていただきたいのです、立ち帰って生きよと、そうすれば、僕は生きましょう・・・。
 
主よ、あなたこそ私たちを造られた方、私たちの栄光なる望み、私たちは皆あなたによって、あなたの栄光のために、造られた者です。私たちはあなたの影、あなたは私たちの主、どうして私たちがあなたを離されて、存在し続けられましょうか。
 
主よ、お帰り下さい。お帰り下さい。そして、お言葉を下さい。このすべての世界は、あなたのために、あなたの栄光のために造られたのです・・・。

* * *

預言者ホセアは、神によって、姦淫の女を娶り、彼女の生んだ淫行の子らを引き取るようにと命じられた。

「主がホセアに語られたことの初め。主はホセアに言われた。「行け、淫行の女をめとり 淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」 」(ホセア1:2)

神の預言は、ホセアの結婚が悲惨な過程を辿ることを始めから予告していた。

ホセアは、自分に忠実な汚れのない女性を妻に迎えたはずであったが、ホセアが娶った妻ゴメルは、神に逆らい続けるイスラエルの民を象徴する女であって、彼女は、ただ一人の主人だけを愛するには、最初からあまりにも心が多すぎた。

彼女はホセアと結婚して後、すぐに、彼を捨てて、子供たちと共に、愛人のもとへ去った。むろん、彼女が生んだ子らは、ホセアの子ではない。あまりにも気が多すぎる彼女は、やがて愛人にも捨てられて、ついには身を落として奴隷にまでなった。

それでも、ゴメルはなかなか自分の主人のもとに立ち帰ろうとはしなかった。

こんな「妻」から、誰がどんな良いものを見いだせようか。いや、こんな女を誰が「妻」と呼べようか。また、どうして彼女の子供を「我が子」と呼べようか。

この汚れた「母」を告発せよ――。

裏切られたホセアの嘆きは、神の嘆きにそのまま重なる。

このゴメルは、神の御言葉に従うことを捨て、奴隷に身を落とし、バビロンと化した今日の教会そのものである。欲に誘われるまま生き、時期尚早に多くの子を産みはするが、そこには、何一つ本当のものがない。彼女の勢いは束の間でしかなく、その幸福は不実で、何一つ永遠に残るものがない。

この汚れた「母」を告発せよ――。

その叫びに応えるようにして、剣を持った残忍な軍隊のような、獰猛な野獣のような勢力が彼女に押しかけ、教会という教会に対し、告発を重ね、多くの神の宮が、土足で踏み荒らされた。

それでも、彼女はいまだ着飾って、晴れやかな祝祭日を楽しみ、祝うことをやめない。そこで豪奢な食卓を用意しては、己が富や権勢を誇り、自分たちの慕う目に見える指導者らを拝んでは、我が幸福は永遠なりと豪語している。

彼女たちは、自分たちが拝んでいるものが、偶像であることにも気づかず、己が誇っている富が、これらの偶像によってではなく、ただお一人のまことの主なる神が与えられたものであることにも気づかない。

それゆえ、野獣の牙は、より一層、残忍に彼女に噛みつき、彼女を食い荒らし、蹴散らして、その富と栄光を奪い去り、彼女の恥を露わにして、彼女を壊滅にまで追い込む。

告発せよ、お前たちの母を告発せよ。
彼女はもはやわたしの妻ではなく
わたしは彼女の夫ではない。

彼女の顔から淫行を 乳房の間から姦淫を取り除かせよ。
さもなければ、わたしが衣をはぎ取って裸にし
生まれた日の姿にして、さらしものにする。

また、彼女を荒れ野のように
乾いた地のように干上がらせ
彼女を渇きで死なせる。

わたしはその子らを憐れまない。
淫行による子らだから。

その母は淫行にふけり
彼らを身ごもった者は恥ずべきことを行った。
彼女は言う。「愛人たちについて行こう。
パンと水、羊毛と麻
オリーブ油と飲み物をくれるのは彼らだ。」

それゆえ、わたしは彼女の行く道を茨でふさぎ
石垣で遮り 道を見いだせないようにする。

彼女は愛人の後を追っても追いつけず
尋ね求めても見いだせない。

そのとき、彼女は言う。
「初めの夫のもとに帰ろう
あのときは、今よりも幸せだった」と。

彼女は知らないのだ。
穀物、新しい酒、オリーブ油を与え
バアル像を造った金銀を、豊かに得させたのは
わたしだということを。

それゆえ、わたしは刈り入れのときに穀物を
取り入れのときに新しい酒を取り戻す。

また、彼女の裸を覆っている
わたしの羊毛と麻とを奪い取る。

こうして、彼女の恥を愛人たちの目の前にさらす。
この手から彼女を救い出す者はだれもない。

わたしは彼女の楽しみをすべて絶ち
祭り、新月祭、安息日などの祝いを
すべてやめさせる。

また、彼女のぶどうといちじくの園を荒らす。

「これは愛人たちの贈り物だ」と
彼女は言っているが
わたしはそれを茂みに変え
野の獣がそれを食い荒らす。
バアルを祝って過ごした日々について

わたしは彼女を罰する。

彼女はバアルに香をたき
鼻輪や首飾りで身を飾り
愛人の後について行き
わたしを忘れ去った、と主は言われる。

野獣に食い荒らされたゴメルの「ぶどう園」とは、あの強盗のような農夫たちに占拠されたぶどう園と同じだ。悪い農夫たちが、彼女のぶどう園を強奪し、その収穫を我が物としてかすめ取って来たが、そのぶどう園は、神の圧倒的な御怒りの前に、踏み荒らされて廃墟となり、破壊される。

ゴメルは罰せられ、彼女が生んだ、誰を父としているとも知れない子らも、罰せられ、神に討たれて、駆逐された。

神はゴメル(神に背いた教会)を依然、愛しておられるが、彼女を罪あるままで、受け入れることは決してできない。そのため、ゴメルは罰せられねばならない。偶像崇拝によって生まれた子らは、消し去られなければならない。

だが、ゴメルは貧しさと死の苦しみの中で、ホセアのことを思い出した。

一体、それはゴメルにとって、どれほど遠い記憶だったであろうか。何人の愛人が、彼女を通り過ぎて行ったことだろうか。しかも、今彼女を支配しているのは、彼女を奴隷として酷使する横暴な主であって、もはや愛人ですらない。

ゴメルには昔の美しさは見る影もなく、自由であった頃の面影もなく、今はただ貧しく蔑まれ、見捨てられて、やつれ果てた奴隷の女でしかない。

だが、彼女には、昔、確かにホセアという主人がいた。彼女は自由の身であった時があった。彼女はホセアを思い出したとき、ようやく自分を今まで支配してきたすべての者たちが、残忍で、嘘つきで、強盗で、人殺しである事実に気づき、これらの者どもを一切、自分から断ち切り、生き方を改めることを決意した。

彼女はホセアの名を呼んだ。だが、もう手遅れだ、遅すぎる、こんなにまで身を落として、どうして彼に助けを求められようか。どうして彼を夫と呼べようか。
 
ところが、ホセアは彼女の呼び声に応えた。ホセアは、奴隷に身を落としたゴメルを買い戻すために走った。海の向こうから、山々の向こうから、はるかな道のりを辿り、地の果てのようなところまでたどり着いて、見失われ、忘れられ、変わり果てた我が妻を探し出し、彼女を説得して家に連れ戻した。

イスラエルは、神の栄光を映し出すために造られた器。どうして神がこれを忘れられようか。神は手のひらを返して、見捨てられたゴメルのために報復される。彼女を蹂躙し、傷つけた者どもにしたたかに報復されて、追い払われる。

「島々よ、わたしに聞け
 遠い国々よ、耳を傾けよ。
 主は母の胎にあるわたしを呼び
 母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。

 わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き
 わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して
 わたしに言われた

 あなたはわたしの僕、イスラエル
 あなたによってわたしの輝きは現れる、と。

 わたしは思った
 わたしはいたずらに骨折り
 うつろに、空しく、力を使い果たした、と。

 しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり
 働きに報いてくださるのもわたしの神である。

 主の御目にわたしは重んじられている。
 わたしの神こそ、わたしの力。

 今や、主は言われる。
 ヤコブを御もとに立ち帰らせ
 イスラエルを集めるために

 母の胎にあったわたしを
 御自分の僕として形づくられた主はこう言われる。

 わたしはあなたを僕として
 ヤコブの諸部族を立ち上がらせ
 イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。

 だがそれにもまして
 わたしはあなたを国々の光とし
 わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。

 イスラエルを贖う聖なる神、主は
 人に侮られ、国々に忌むべき者とされ
 支配者らの僕とされた者に向かって、言われる。

 
王たちは見て立ち上がり、君侯はひれ伏す。
 真実にいますイスラエルの聖なる神、主が
 あなたを選ばれたのを見て。

 主はこう言われる。
 わたしは恵みの時にあなたに答え
 救いの日にあなたを助けた。
 わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて
 民の契約とし、国を再興して
 荒廃した嗣業の地を継がせる。

 捕らわれ人には、出でよと
 闇に住む者には身を現せ、と命じる。
 彼らは家畜を飼いつつ道を行き
 荒れ地はすべて牧草地となる。

 彼らは飢えることなく、渇くこともない。
 太陽も熱風も彼らを打つことはない。
 憐れみ深い方が彼らを導き
 湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。

 わたしはすべての山に道をひらき
 広い道を高く通す。

 見よ、遠くから来る
 見よ、人々が北から、西から
 また、シニムの地から来る。

 天よ、喜び歌え、地よ、喜び躍れ。
 山々よ、歓声をあげよ。
 主は御自分の民を慰め
 その貧しい人々を憐れんでくださった。

 シオンは言う。主はわたしを見捨てられた
 わたしの主はわたしを忘れられた、と。

 女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
 母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
 たとえ、女たちが忘れようとも
 わたしがあなたを忘れることは決してない。

 見よ、わたしはあなたを
 わたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある。

 あなたを破壊した者は速やかに来たが
 あなたを建てる者は更に速やかに来る。
 あなたを廃虚とした者はあなたを去る。

 目を上げて、見渡すがよい。
 彼らはすべて集められ、あなたのもとに来る。
 わたしは生きている、と主は言われる。
 あなたは彼らのすべてを飾りのように身にまとい
 花嫁の帯のように結ぶであろう。

 破壊され、廃虚となり、
 荒れ果てたあなたの地は
 彼らを住まわせるには狭くなる。
 あなたを征服した者は、遠くへ去った。

 あなたが失ったと思った子らは
 再びあなたの耳に言うであろう
 場所が狭すぎます、住む所を与えてください、と。

 あなたは心に言うであろう
 誰がこの子らを産んでわたしに与えてくれたのか
 わたしは子を失い、もはや子を産めない身で
 捕らえられ、追放された者なのに
 誰がこれらの子を育ててくれたのか
 見よ、わたしはただひとり残されていたのに
 この子らはどこにいたのか、と。

 主なる神はこう言われる。
 見よ、わたしが国々に向かって手を上げ
 諸国の民に向かって旗を揚げると
 彼らはあなたの息子たちをふところに抱き
 あなたの娘たちを肩に背負って、連れて来る。

 王たちがあなたのために彼らの養父となり
 王妃たちは彼らの乳母となる。
 彼らは顔を地につけてあなたにひれ伏し
 あなたの足の塵をなめるであろう。

 そのとき、あなたは知るようになる
 わたしは主であり
 わたしに望みをおく者は恥を受けることがない、と。

 勇士からとりこを取り返せるであろうか。
 暴君から捕らわれ人を救い出せるであろうか。

 主はこう言われる。
 捕らわれ人が勇士から取り返され
 とりこが暴君から救い出される。
 わたしが、あなたと争う者と争い
 わたしが、あなたの子らを救う。

 あなたを虐げる者に自らの肉を食わせ
 新しい酒に酔うように自らの血に酔わせる。
 すべて肉なる者は知るようになる
 わたしは主、あなたを救い、あなたを贖う
 ヤコブの力ある者であることを。 」(イザヤ書第49章)


 * * *

神はこうして背信に背信を重ねて、完全に見失われた存在となったご自分の民を、彼らの内にごくわずかに残った、あるかなきかの信仰だけを頼りに、地の果てまで探しに行かれた。

そして、ご自分の呼び声に応答する者を一人でも見つけると、その者を家に連れ戻し、汚れた着物を脱がせ、一切の罪の汚れを水の洗いで清められ、真っ白な新しい服を与え、再び、ご自分の栄光を表すための、しみもしわもない、聖なる栄光の花嫁なる教会として、ご自分の前に立たせられた。

心の定まらなかったゴメルは、もういない。そこにいるのは、心の中から偶像を取り除かれて、ただ一人の主人だけを愛するようになった、忠実な妻である。彼女の罪は一切、消し去られ、痕跡すらも残らなくなり、ホセアとゴメルとの結婚は回復される。そして、彼らは祝福されて、その子らは海の砂のように、数えきれないほどになる。

その子らとは、天のエルサレムを母とする、サラの汚れのない子供たちである。この一家には神の慈しみと憐れみとが注がれ、彼らは神の栄光を表す器となる。もう誰も収穫を得られないのに労苦することはない。

「初めの愛」が回復されて、恋人に語らうように、主はご自分の花嫁なる教会に向かって優しく語りかけられる。

「それゆえ、わたしは彼女をいざなって
荒れ野に導き、その心に語りかけよう。

そのところで、わたしはぶどう園を与え
アコル(苦悩)の谷を希望の門として与える。

そこで、彼女はわたしにこたえる。
おとめであったとき
エジプトの地から上ってきた日のように。

その日が来れば
と 主は言われる。

あなたはわたしを、「わが夫」と呼び
もはや、「わが主人(バアル)」とは呼ばない。

わたしは、どのバアルの名をも
彼女の口から取り除く。
もはやその名が唱えられることはない。

その日には、わたしは彼らのために
野の獣、空の鳥、土を這うものと契約を結ぶ。
弓も剣も戦いもこの地から絶ち
彼らを安らかに憩わせる。

わたしは、あなたととこしえの契りを結ぶ。
わたしは、あなたと契りを結び
正義と公平を与え、慈しみ憐れむ。

わたしはあなたとまことの契りを結ぶ。
あなたは主を知るようになる。

その日が来れば、わたしはこたえると
主は言われる。
わたしは天にこたえ
天は地にこたえる。

地は、穀物と新しい酒とオリーブ油にこたえ
それらはイズレエル(神が種を蒔く)にこたえる。

わたしは彼女を地に蒔き
ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)を憐れみ
ロ・アンミ(わが民でない者)に向かって
「あなたはアンミ(わが民)」と言う。
彼は、「わが神よ」とこたえる。 」(ホセア2:16-25)

「イスラエルの人々は、その数を増し 海の砂のようになり 量ることも、数えることもできなくなる。彼らは 「あなたたちは、ロ・アンミ(わが民でない者)」と 言われるかわりに「生ける神の子ら」と言われるようになる。

ユダの人々とイスラエルの人々は ひとつに集められ 一人の頭を立てて、その地から上って来る。イズレエルの日は栄光に満たされる。あなたたちは兄弟に向かって 「アンミ(わが民)」と言え。あなたたちは姉妹に向かって 「ルハマ(憐れまれる者)」と言え。」(ホセア2:1-3)


 * * *

神の裁きは正しく、神はご自分のもとに立ち帰るすべての民を回復される。

「わたしは神が宣言なさるのを聞きます。
 主は平和を宣言されます
 御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に
 彼らが愚かなふるまいに戻らないように。

 主を畏れる人に救いは近く
 栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
 慈しみとまことは出会い
 正義と平和は口づけし
 まことは地から萌えいで
 正義は天から注がれます。

 主は必ず良いものをお与えになり
 わたしたちの地は実りをもたらします。

 正義は御前を行き
 主の進まれる道を備えます。」(詩編85:9-14)

* * *

創世記におけるアダムとエバの愛に満ちた関わりも、ホセアとゴメルの愛の回復も、すべてキリストと教会の愛の交わりの回復の予表である。

エクレシア(教会)は、十字架で死なれたキリストのわき腹から、水と血と霊によって生まれた聖なるエバである。それはキリストの肉の肉、骨の骨から生まれ出て、彼の息によって御霊を受けて生まれた、新しい生きた女(被造物)だ。

イエスは十字架にかかられた後、弟子たちのもとに現れて、ご自分の手とわき腹を見せて、ご自分が確かに死なれ、復活されたことを示された。そして、弟子たちに息をふきかけて、聖霊を受けよ、と言われた。

「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

そう言って、手とわき腹とをお店になった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

そう言ってから、彼らに息をふきかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネ20:19-23)

ここに、聖なるエクレシアの誕生がある。本体なる神から切り離され、虚無の中をさまようことしかできなくなった、失われた影である被造物が、神に立ち帰り、イエスの十字架の死と復活にあずかり、彼のわき腹から新しく生まれ、彼のよみがえりの命によって生かされる、新しい聖なる女(被造物―人類)とされた。

その時、イエスが十字架にかかられたことに、はかり知れないショックを受けて、ただ恐怖の中に閉じこもり、ユダヤ人たちを避けて逃げ隠れることしかできなかった弟子たちは、再び喜びに満たされ、勇気づけられ、そして、地の果てまで、イエスの復活の証人となった。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1:8)

かつて神が失われた民を、地の果てまで探しに行かれたように、今度は、見出された民が、地の果てまで、主の復活の証人となる。私たちの神が、私たちを愛し、私たちのために先に命を捨てられたように、今度は、私たちが、ただお一人の神を愛し、神のために、死に至るまでも命を惜しまず、自分を残らず注ぎだして従うことができるようになるのだ。

聖霊を受けた弟子たちは、主の死と復活にあずかることで、主と同じ霊にあずかり、それゆえ、彼らには主イエスが持っておられたのと同じ、御名の権威が与えられた。病人を癒し、蛇を踏みつけ、毒を飲んでも害を受けず、人の罪を赦す権限も、赦さないでおく権限も与えられた。

弟子たちに吹きかけられた息―聖霊は、アダムと生かした霊とは異なる、死と復活を経たキリストの霊、永遠の命であり、「臆病の霊」ではなく、「力と愛と思慮分別の霊」である。

それは信じる者を、どんな苦難や試練に耐え抜いてでも、最後まで、固く御言葉に立たせ、あらゆる敵の嘘による惑わしを打ち破る知恵を与え、死に至るまでも、主の復活の証人とすることのできる霊である。

パウロは言う。

神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。
だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを耐え忍んでください。

神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。

この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。

キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。

というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。

キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。」(Ⅱテモテ1:7-14)


キリストのために受ける苦しみを、恥じてはならない。失われていたものが見いだされ、死んでいた者が生き返り、神が大いなる喜びを持って、ご自分に立ち帰る民を迎えられるためならば、自分は何を耐え忍んでも構わない、パウロはそう語る。

今、神の御思いの中心にあるのは、被造物の完全な回復である。神は、立ち帰った民の罪を赦されるだけでなく、これらの民を、堕落した一切の痕跡のない、しみもしわもない、キリストの栄光に輝く花嫁なる教会として完成されようとしておられる。

死んでいた者が生き返り、いなくなっていた者が見いだされることへの神の喜び。放蕩息子の帰還を喜ぶ父の言葉は、ご自分の民を迎える父なる神の喜びである。

「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。そして、祝宴を始めた。」(ルカ15:22-24)

キリストがエクレシア(教会)を愛されるのは、エクレシアが、キリストの成分から成る、彼の栄光を表す器だからである。アダムがエバを見たときに、これこそ自分の肉の肉、骨の骨と叫んだように、主はご自分の前に立つ花嫁なる教会を見て、そこにご自分の死と復活を見、ご自分の聖なる性質を見、ご自分の栄光の反映を見て、心から満足される。

エクレシアは、キリストにとって自分自身のような愛の対象であり、エクレシアにとっても、キリストは自分自身のような愛の対象である。この二つは一つであって、互いに呼応し合って、離れることがない。

「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会をご自分の前に立たせるためでした。

そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。わたしたちはキリストの体の一部なのです。

それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。」(エフェソ15:22-33)

* * *

さて、今日、ホセアとゴメルの失われたはずの子ら、サラとアブラハムに約束された数えきれない子どもたちとは、一体、誰を指すのだろうか。

それは、黙示録に記されている、あの白い衣を着た数えきれない大群衆のことではないかと思う。つまり、キリストによって贖われ、新しく生まれた神の子供たち、主のものとされ、死から贖い出された者たち、それが、私たちが産みの苦しみを味わいつつ、労苦していることの実なのではないかと思う。

だが、それはただ数えきれない大群衆という、数の問題ではない。被造物が、この地上にある間に、どれくらいキリストのご性質にあずかり、彼に似た者とされるかという、贖いの成就の程度と、完成の問題である。

すべての被造物の贖いの完全な成就――これこそ、神の御思いの中心にあるテーマであり、それこそが、キリストの花嫁なる栄光に輝く教会の完成なのである。その完成のためにこそ、現在、私たち神の子供たちは、すべての被造物と共に、産みの苦しみに呻きつつ、御言葉の光によって照らし出されて、ますます主の栄光を反映させて、主の似姿とされるために、試練を耐えて労苦している。

現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。

つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、”霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。」(ローマ8:18-24)

私たちには、罪赦されて贖われただけでは終わらない希望がある。それは、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられ、神の栄光を完全に映し出す器とされることである。

「しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは、”霊”のことですが、主の霊のおられるところには自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを取り除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Ⅱコリント3:16-18)

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められたました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光を与えになったのです。」(ローマ8:28-30)

こうして、私たちが栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられるとき、私たちは、神の栄光を完全に表し、ご自分の造られた者への神の愛の深さを余すところなく証明する者とされる。私たちの存在そのものが、神の愛の深さ、その偉大さの証明となる。それが被造物に与えられた役割なのである。
 
「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。


「わたしたちは、あなたのために
 一日中死にさらされ、
 屠られる羊のように見られている」

 と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:35-39)

* * *


2019年3月18日 (月)

全能者である神、主よ、あなたの道は正しく、真実なもの。だれがあなたの名を畏れず、たたえずにおられましょうか。

「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。
 主はこの地を圧倒される。

 地の果てまで、戦いを断ち
 弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。
 
力を捨てよ、知れ
 わたしは神。
 国々にあがめられ、この地であがめられる。

 万軍の主はわたしたちとともにいます。
 ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。」(詩編46:9-12)

さて、判決が近づくに連れて、言い知れない喜びが心に込み上げて来る。そして、心静まって、これを厳かに待ちたいと願わずにいられない。神が私たちのためになして下さった勝利と解放のみわざが、どれほど偉大なものであるか、神がご自分を愛してその約束を忠実に待ち望む民に、どれほど不思議で驚くべき方法で応えて下さるか、生きてこの目で確かめ、その喜びを心に迎えるめに、自分自身を整えたいと思わずにいられないのだ。

上記の御言葉の11節は、口語訳では「静まって、わたしこそ神であることを知れ」とあり、こちらの訳は、全被造物が、神の偉大な裁きの前に、静まり、沈黙せねばならないことをよく表しているようで、筆者には耳慣れて、気に入っているフレーズである。

私たちの神は、偉大な神、力ある神、真実で、正義を実行される方、正しい者を力強い御手で苦難から救い出し、悪人には容赦のない裁きを宣告される方である。

今回の訴訟の決着には、主イエスの御言葉の正しさが、神の国の権益がかかっているわけであるから、どうして神がこの紛争をご覧にならず、これを心に留めず、見捨てて通り過ぎて行かれるようなことがあろうか。

そこで、筆者は、心から神を信頼して待ちつつも、まず筆者自身が、その大いなる正しい裁きに服する者として、深く頭を垂れて、厳粛に判決を待ちたいと思うのだ。

筆者は地上の裁判官の善良で情け深く親切な側面しか知らない。警察官についても同様で、筆者は彼らと常に市民として関わって来た。どんなにやきもきする瞬間があっても、彼らは筆者の目には、常に市民の権利を守る側に立っていたのであり、筆者は自分の思いのたけを彼らに告げることが許されており、彼らは筆者を威嚇したり、筆者の権利を否定し、これを取り上げて、追い払ったりするような恐ろしい人々ではなかった。

だが、権威を行使するということには、もう一つの恐ろしい側面が確かに存在する。筆者は彼らの手に、悪人どもへの裁きと報復を委ねた以上、これらの人々が、ふさわしい人々に向かって処罰を下すという恐るべき権限を行使することを願い出、かつ許したのである。

そこで、今、筆者は、改めて神の御前に心静まり、私たちの信じている神が、偉大な裁き主であって、恐るべき権威を持ち、しかるべき刑罰を下すことのできる方であることを思う。

もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです。

モーセの律法を破る者は、二、三人の証言に基づいて、情け容赦なく死刑に処せられます。まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。

復讐はわたしのすること、
 わたしが報復する
と言い、また、
主はその民を裁かれる
 と言われた方を、わたしたちは知っています。生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです。」(ヘブライ10:26-31)

もしかすると、今回の訴訟の最も大きな収穫の一つは、それであったかも知れない。つまり、これまで筆者は、この事件を自分自身で持ち運び、可能な限りの策を自分で講じ、また、悪事を働く者どもに対しては、その報いが、正しい裁きが確かに存在することを警告して来たのだが、今や、その裁きは他の人々の手に委ねられたのだ。

従って、筆者が受けた仕打ちのために誰よりも憤り、筆者の名誉を守るために毅然と立ち上がり、そして、筆者に害を加えた悪人どもに対して、容赦のない裁きの宣告を下す存在は、筆者自身ではないのである。

少し前の記事で、筆者は、私たちに加えられた攻撃が、キリストに加えられた攻撃とみなされるほどまでに、私たちとキリストとは一つにならなければならない、と書いた。

ただ個人が攻撃されているというだけでは、神は立ち上がって下さらない。神が本当に立ち上がって、これ以上、悪事を見逃しておくことはできないと、怒りに満ちて天から裁きの宣告を下されるためには、神の国の権益に触れる事態が起きていなければならないのである。

そこで、そうなるまでに、キリストの十字架は、私たちの肉を深く貫通していなければならない。私たちのセルフは死んで、それ以上に深い攻撃がなされ、もはや、私ではなく、キリストに対する攻撃がなされ、神の国の権益が害されていると言えるだけの根拠が必要になる。

そこで、今回、白昼堂々、掲示板で犯罪行為が行われたことには、おそらくは深い意味があるに違いないだろうと思う。こうしたことは、何年も前から行われて来たことなのだが、やっと今になって、誰もが知りうる客観的事実として明るみに出され、ようやく彼らに処罰されるだけの根拠が整った。

だが、同時にそれは、いわばこの訴訟の最後の総仕上げであって、この訴訟が、筆者のセルフ(生まれながらの古き自己)を擁護する目的のためでないことが、公然と証明されるために必要な段階でもあった。

つまり、これから読み上げられる判決は、筆者のセルフを擁護するためであってはならず、また、筆者が、自分の弁論の巧みさや、もしくは、生まれながらの頭脳や、知性、受けた教育、社会的地位などの優位性によって、勝ち取ったものであってはならず、それはただ純粋に、神の御言葉の正しさを擁護するためのものであり、また、御言葉に立脚するがゆえの正しい裁きでなくてはならないのである。

そこで、この訴訟において、栄光を受けるのが、微塵も、筆者の生まれながらの自己であってはならない。そのために、筆者の自己はさらに深く徹底的に主と共に十字架で死に渡され、いかなる肉的な要素も有利にならず、また、主の他には、誇るべきものが何もないという地点へともたらされることが必要だった。

そして、この段階まで来たからこそ、神が筆者を擁護して下さること、これから筆者に起きることが、神の御言葉の正しさを公然と証するものであって、神の誉めたたえられるべき栄光に満ちたみわざであって、断じて筆者の力によるものではないと言えるのである。

このように、真に神に味方していただきたいと願うならば、私たちは、もはや自分の生まれながらの自己には、何の弁明の余地もなく、それによって状況を有利に変える見込みが全くなく、ただ神に対する全身全霊の信頼と希望以外には、何一つ頼るべきものがないという地点まで、もたらされなければならない。

そうなったとき、神は初めて私たちを擁護するために、天を引き裂いて降りて来られ、大胆に力強く私たちを苦難から救い出し、私たちのために勝利を宣言して、汚れたものの一切の痕跡を、私たちから断ち切り、私たちの涙を拭い去って、滅びの縄目から完全に解放して下さるだろう。

さて、筆者はこれから判決言い渡しまでの間にも、作成せねばならない新たな書面がいくつもあるが、今回の民事訴訟においても、次の御言葉を引用して、いずれ掲示板で行われているような犯罪ネットワークの全貌が、万人の前に明らかにされる日が来るだろうと予告して来た。

人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(マタイ10:26-31)

今回、民事訴訟に関わってくれた人々も、おそらくは今起きている騒ぎを知って、筆者が訴訟において訴えていた事実を、より深く知ることになっただろうと思う。そこで、このタイミングでこうした出来事が明るみに出されたことは、決して偶然ではなかったと思うが、今後も、筆者はこの訴訟に関わってくれたすべての人々に向けて、さらに事実を明らかにし続けていきたいと考えている。

聖書においては、神は隠れたことをみておられる」(マタイ6:6)方であると記されている。

また、「そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。」(ローマ2:16)とある通り、裁きの日には、神は人々の隠し事を明るみに出され、イエスを通して裁かれると予告しておられる。

だが、「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」というのは、何も終わりの日のことだけを指しているわけではない。

今日、神をも畏れず、御言葉への反逆を続けている人々は、自分たちが暗闇の中で行っていることは、常に自分たちしか知らず、決して人々に知れ渡ることはないと高をくくっているのであろうが、そのような者に対する宣告は、次に記す通りである。

あなたは言った、「わたしは、とこしえに女王となる」と。そして、あなたはこれらの事を心にとめず、またその終りを思わなかった。 楽しみにふけり、安らかにおり、心のうちに「ただわたしだけで、わたしのほかにだれもなく、わたしは寡婦となることはない、また子を失うことはない」と言う者よ、今この事を聞け。

これらの二つの事は一日のうちに、またたくまにあなたに臨む。すなわち子を失い、寡婦となる事はたといあなたが多くの魔術を行い、魔法の大いなる力をもってしてもことごとくあなたに臨む。
あなたは自分の悪に寄り頼んで言う、「わたしを見る者はない」と。あなたの知恵と、あなたの知識とはあなたを惑わした。あなたは心のうちに言った、「ただわたしだけで、わたしのほかにだれもない」と。
しかし、わざわいが、あなたに臨む、あなたは、それをあがなうことができない。なやみが、あなたを襲う、あなたは、それをつぐなうことができない。滅びが、にわかにあなたに臨む、あなたは、それについて何も知らない。 」(イザヤ47:7-11)

バビロンは、自分を神以上の存在であると思い上がって、「わたしは、とこしえに女王となる」と心に思っただけでなく、「わたしを見る者はない」とつぶやいて、自分の悪事が誰にも知られておらず、暴かれることは決してないと考えた。

だが、神は彼女の悪事を確かに見ておられ、しかも、その報いを彼女に二倍にして返すと宣言された。しかも、その日は盗人のように思いがけない形でやって来ると言われている。

さて、筆者はこれまでの記事で、暗闇の勢力からの言いがかりに対抗するための弁論を、ほぼ言い尽くして終了したと思うが、今言い足すことがあるとすれば、ごくわずかに次の通りである。

パウロはコリントの信徒への手紙で、「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。」、「未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。」(Ⅰコリント7:7-8)と記し、あくまで主のために生涯を捧げるのが最善であって、娶ったり嫁いだりすることは、積極的には勧められないという考えを示している。

だが、すでに結婚している信者に対しては、「妻は夫と別れてはいけない」「また、夫は妻を離縁してはいけない」。」(Ⅰコリント7:10-11)と述べて、夫と妻が別れることを禁じた。だが、これにも例外がもうけられている。

「しかし、信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい。こうした場合に信者は、夫であろうと、妻であろうと、結婚に縛られてはいません。平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです。妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか。」(Ⅰコリント7:15-16)

信者であると言いながら、イエス・キリストが神の独り子であることを否定したり、あるいは、御言葉にそぐわない異端の教説を信じている者が、後者に当てはまるのは当然であろう。

このように、パウロは地上における結婚に全く積極的でなかったどころか、むしろ、それを地上的な移ろいゆく些末な事柄として奨励せず、それよりも、信仰にあって救いを保ち続けることの方が、はるかに重要であるとみなしていた。地上のどんな関係にも、信者の救いを失わせたりするほどまでの価値はないと彼は断言していたのである。

そこで、今、筆者は、地上の目に見える富や、自分を取り巻く擁護者の人数でなく、私たちのために天に用意されている恵みに満ちた栄光を思いつつ、次の御言葉を思う。

「しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。」(ヘブライ12:22-24)

むろん、筆者はまだこれらの言葉の具体的な成就を見ておらず、シオンの山も、無数の天使たちの祝宴も、長子たちの集会も、見たことはない。だが、それでも、自分が近づいている生ける神の都である天のエルサレムを思う度に、言い知れない喜びが込み上げて来る。その晴れやかな祝宴には、一体、どれほどの栄光、喜び、感謝が満ち溢れていることであろうか。

「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。更に、私たちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませか。約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。」(ヘブライ10:19-23)

前から幾度も書いている通り、地上の法廷は、天におけるまことの裁き主なる神の御座の絵図である。

そこで、筆者は、王妃エステルがすべての覚悟を決めて、王の前に進み出た時のように、塵と灰を被り、さらに入念にイエスの死を身に帯びて、王の王、万軍の主なる神の御前に進み出る。

前よりも随分、大きな苦難をかぶったために、やつれたかも知れないが、その分だけ、喜びも大きくなり、「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」(黙示7:14)と言われる殉教者らの道に、また一歩近づいたと言えるだろう。

こうして、イエスがご自分を割いて開いて下さった「新しい生きた道」を通って、筆者は聖なる裁きの御座に進み出る。そこには、白い衣を身に着けた人々の大群衆はあっても、「我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者」(黙示12:10)の姿はない。そこは聖なる場所であって、汚れた者はそこに立ち入れず、彼らのための余地は全くないのだ。

こうして、心は清められ、もはや良心のとがめはなく、体は清い水で洗われて、ただ神を信頼しきって、真心から、御前に進み出て、こう言うことができる。

全能者である神、主よ、
 あなたの業は偉大で、
 驚くべきもの。
 諸国の民の王よ、
 あなたの道は正しく、また、真実なもの。
 主よ、だれがあなたの名を畏れず、
 たたえずにおられましょうか。

 聖なる方は、あなただけ。
 すべての国民が、来て、
 あなたの前にひれ伏すでしょう。
 あなたの正しい裁きが、
 明らかになったからです。」(黙示15:3-4)

「この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。

救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。

 また、天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、こう言った。

 「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉、力、威力が、
 世よ限りなくわたしたちの神にありますように、アーメン。」

 すると、長老の一人がわたしに問いかけた。「この白い衣を来た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。
 そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。

彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。


 それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、
 昼も夜もその神殿で神に仕える。
 玉座に座っておられる方が、
 この者たちの上に幕屋を張る。
 彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、
 太陽も、どのような暑さも、
 彼らを襲うことはない。
 玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、
 命の水の泉へ導き、
 神が彼らの目から涙をことごとく
 ぬぐわれるからである。」(黙示7:9-17)

我が主よ、あなたは正しい方、真実で、偉大な誉めたたえられるべき方。ご自分の約束を忠実に守り、あなたに頼る民を決して見捨てず、心砕かれた者を軽んじず、卑しめられた者を蔑まれない方です。あなたは永遠に変わらない、確かなお方であって、あなたを信じる民は、決して恥をこうむることなく、失望に終わることがありません。

ハレルヤ。主よ、来たりませ。私たちは喜びを持ってあなたを迎えます。栄光はとこしえにあなたのもの。力と威光と尊厳もあなたのもの。私たちの誉れと賛美はとこしえにあなただけに、ただあなたお一人だけに捧げられます。

我が主よ、あなたは私たちにとってどれほど偉大な喜びであり、かつ希望でしょうか。あなたはとこしえに私たちの主、そして私たちはあなたの民です。

2019年3月16日 (土)

霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。(2)

「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」(マタイ19:11)

わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。」(マタイ19:29)

* * *

さて、掲示板での騒ぎのために心痛めている人があるかも知れないので、一言書いておきたい。我々信じる者を巡って起きる対立は、人間的な対立ではない。その背後には、神の霊とそれに逆らう汚れた霊の対立がある。聖書には、次のように書かれている通りである。

「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。ですから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」(エフェソ6:10-13)

私たちが敵としているのは、目に見える肉なる人間ではなく、彼らを導いている悪の諸霊であり、暗闇の世界の支配者、それが率いるもろもろの支配と権威である。
 
はっきり言えば、私たちが敵としているのは、目に見える人間ではなく、彼らの吹き込む嘘偽りの教えである。

人間はたかだか100年ほどしか生きないが、おそらく霊には寿命というものがないのではないと思われる。創世記で蛇の姿をしていたサタンが、黙示録では、年老いた竜になっているところを見ると、サタンと暗闇の勢力にも、年を取るということはあるのかも知れないが、彼らには体がないので、寿命が来て死ぬことはなく、従って、世の終わりが来て、神の永遠の刑罰が彼らに下され、彼らが己が悪行の報いとして、火の池に投げ込まれるときまで、この諸霊どもは生き続けるものと見られる。

つまり、暗闇の勢力に属する悪の諸霊は、神の天地創造からこの方、ずっと変わり映えのしないメンバーで、人類を欺き、惑わし続けているのであって、彼らは自分の体を持たないために、常に宿主となる人間を探し出しては、その人間を通じて、堕落した惑わしの力を行使しようと、この人間を要塞として利用して来たのであって、悪の諸霊の吹き込む嘘を受け入れた人々が、その宿主となって来たのである。

従って、もう一度言うが、私たちが無力化して粉砕すべき対象は、目に見える人間ではなく、また、悪の諸霊それ自体でもなく、その霊どもが、人間を要塞化してそこから宣べ続けている「偽りの教え」である。

悪の諸霊は、人間の手によって根絶されることはない。これを最終的に裁かれるのは神である。従って、私たちの戦いの目的は、悪霊そのものを対処するというよりも、悪の諸霊の述べる嘘に満ちた偽りの教えを粉砕して、彼らの脅しを無効化することにあるということを、いつも覚えておかなければならない。

私たちが目にしている人間的な対立の背後には、必ず、霊的な対立が存在する。そこで、もしも我々信者の証しを否定するために、立ち向かって来る人間があるとすれば、その人は自分の考えを述べているのではなく、彼らを導く悪霊の考えを述べているのであって、その究極の目的は、聖書の御言葉を否定することにあると理解しなければならない。
 
私たちは、どのような相手であれ、人に向き合うに当たり、彼らの述べている思想がどのようなものであるかを把握することによって、彼らがどのような霊に導かれて生きているのかを見分けることができる。

聖書が次のように教える通りである。

愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊は、すべて、神から出ていません。これは反キリストの霊です。」(Ⅰヨハネ4:1-3)
 
  さて、当ブログでこれまでずっとグノーシス主義の構造を明らかにして来たのは、それが悪霊の教えの基本形だからである。基本形と言っても、これは聖書をさかさまにしたものであるから、悪霊にオリジナルの教えがあるわけではない。とはいえ、この基本形を知ってさえいれば、悪の諸霊が時代を超えて作り出すすべての思想は、すべてそのバリエーションに過ぎないことが理解できる。

たとえば、長年、当ブログに激しい攻撃を加え続けているカルト被害者救済活動の支持者の一人は、キリスト教徒を名乗っているにも関わらず、自らのブログで、聖書は神の霊感を受けて書かれた書物ではなく、人間が書いたものに過ぎないとか、悪魔もなければ、暗闇の勢力も存在せず、エデンの園で悪魔が蛇の姿を取って現れて人類を惑わせたなどのことは事実でなく、ノアの洪水もなく、聖書の記述を文字通りに信じるなど、精神異常の産物であって馬鹿げている、という見解を公然と述べている。

当ブログでは、そのような見解からは、必然的に、乙女マリヤが御霊によって身ごもってイエス・キリストを生んだという聖書の記述などは、すべて「馬鹿げた作り話」という結論しか導き出せず、従って、このような人々は、うわべだけはキリスト教徒を名乗りながらも、結局、イエス・キリストが神の独り子であって、人類の救い主であることを否定しているのだと示した。

このことから、彼らを導いているのは、反キリストの霊であると言える。そして、このように、彼らが、聖書が神の霊感を受けて書かれた書物であることを否定し、イエスが神の独り子なることを否定していることを理解した上で、改めて彼らが当ブログに投げつけている悪罵の言葉を見れば、その内容が、ほとんど彼らが聖書を非難している言葉とほぼそっくりであることも、すぐに分かるはずだと指摘した。

つまり、彼らは聖書が「嘘に満ちた作り話」であると確信していればこそ、当ブログの信仰の証しが「妄想の産物」であるかのようにみなして攻撃・中傷しているのであって、当ブログに向けられた非難は、それを通して、彼らが聖書の御言葉を否定し、聖書の神に敵対するための手段なのである。

さらに、彼らが「聖書の記述は嘘だ」と主張していることに加えて、彼らが何より広めたい第二番目の主張は、「神は唯一でない」ということである。

当ブログは、「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただお一人なのです。」(Ⅰテモテ2:5)の御言葉に基づき、聖書のただお一人の神以外の「神々」など存在せず、牧師などの指導者は、とどのつまり、キリストになり代わって信者の心を支配しようとしている偶像に過ぎないと主張して来た。

この主張こそ、彼らにとって最も許しがたいものなのである。なぜなら、この主張は、宗教指導者の権威を否定するのみならず、それに属する彼ら自身が、「神々」であることを否定するものだからである。

上記のような人々が、すでに心の内で、自分たちを「神々だ」と宣言していることは、これらの人々の一人が「神々の風景」という題名のブログを開設していたことや、当ブログにもかつて書き込みをしことのあるある集会の指導者が、今や「自分たちはエロヒム(神々)だ」と公言している様子を見てもわかる。これは決して偶然ではない。

彼らが言いたいのは、結局、「俺たちは神々だ! それを否定して、神は唯一だなどと宣言する輩は、俺たちの『神聖』を『冒涜』しているのであって、許せない」ということであり、自分たちこそ「神々である」と宣言するためにこそ、彼らは、彼らの考えに大いに水を差す当ブログを、何とかこの世から駆逐しようと、あれやこれやの言いがかりをつけては、当ブログの信仰の証しを否定しているだけなのである。

だが、恐れないでもらいたい。今、掲示板で馬鹿騒ぎを繰り広げている連中は、筆者に指一本触れることはできない(そのようなことは、彼らには許されていない)。彼らにできることは、彼らの偽りの教えを否定し、真実な信仰の証しを続けるクリスチャンに、あらん限りの罵詈雑言を投げつけることで、聖書に基づく信仰の証しを公然と続けることは、ためにならず、危険なことであるかのように多くの人たちに思わせ、信者を威嚇することだけなのである。

そこで、筆者は、このような卑劣な脅しには断じて屈しないようにと人々に呼びかけておく。

これまで幾度も書いて来たように、クリスチャンが信仰のために主に献げるものは、すべて前もって、神と信者との間で了承のもとに取り去られるものに限られている。従って、今起きていることは、将来起きることの予表ではあるにせよ、彼らは決して神が許した限度を超えて、クリスチャンに手をかけることは許されていないのである。
 
イエスが何を言われたか、思い出してもらいたい。

「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。
しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や楼に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。

それはなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。

あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(ルカ21:10-19)


このように、クリスチャンが世から憎まれ、迫害を受けるのは、人々の前で立派に信仰を証する目的のためである、と主イエスははっきり言われた。

従って、私たちが迫害を受けたとき、せねばならないことは、人々の前で敵の嘘や詭弁に満ちた主張を、対抗弁論によって毅然かつ堂々と打ち破ることであって、彼らの脅しを恐れて退却することではない。

なぜなら、すでに述べた通り、私たちが向き合っているのは、あれやこれやの人間ではなく、悪の諸霊が吹き込む偽りの教えそのものであって、私たちがなすべきことは、すでに述べた通り、彼らの嘘を指摘し、聖書の御言葉が真実であることを公然と証明することで、大勢の人々に対して行使されている彼らの嘘による脅しと、惑わしの力を、無効化することだからである。

それが、「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく」という言葉の意味なのである。

* * *

さて、今回は、「聖書の記述は嘘だ」という彼らの第一の言いがかりに加えて、「我々は神々である」という彼らの第二の嘘が意味するところについて、重点的に考えてみたい。

なぜなら、聖書のまことの神である唯一の神を否定して、自分たちが「神々である」と詐称することこそ、グノーシス主義思想の最大の目的だからだ。

福音書には、ぶどう園をあずかった悪い農夫たちのたとえ話が複数個所、登場する。

むろん、誰でも知っているように、この悪い農夫たちは、直接的には、ユダヤ人を指す。ユダヤ人たちは、神が自分たちのために遣わされた預言者たちを迫害して殺し、神が独り子なる救い主を遣わされたのに、これをかえって十字架につけて殺した。

そこで、救いはユダヤ人から取り上げられて、異邦人に与えられ、それだけでなく、主イエスを拒んだユダヤ人の都エルサレムは、やがてローマの進軍により滅ぼされ、神殿は石組一つも残らないほど徹底的に壊滅した。

実は、グノーシス主義の構造とは、まさにこの悪い農夫たちの策略そのものであると言える。そして、恐るべきことに、今日、目に見える教会には、まさに神と人とが主客転倒したグノーシス主義の教えが広まり、まさにこのぶどう園の有様が広がっているのである。

今回は、マタイによる福音書からそのたとえ話を引用しよう。

「ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。

さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受けとるために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で撃ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。

そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。


さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。

イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。


『家を建てる者の捨てた石、
 これが隅の親石となった。
 これは、主がなさったことで、
 わたしたちの目には不思議に見える。』

 だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。

 祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。」(マタイ21:33-46)

私たちは、このたとえを読んで、首をかしげるだろう。一体、なぜこの悪い農夫どもは、ぶどう園の主人の跡取り息子を殺したからと言って、農園が自分たちのものになると考えたのだろうかと。殺人によって所有権を奪うことなどできるはずもないのにと。

全くその通りで、そんな考えが荒唐無稽であることは言うまでもない。しかし、暗闇の勢力は、有史以来、殺人によって神の国(神への礼拝)を正しい人々の手から奪い取ろうとして来たのであって、カインはアベルを殺すことで、神への礼拝を奪い取れると考え、ユダヤ人たちも、キリストを殺せば、自分たちの教えだけが、正しいものとして残ると考え、自分たちが本当は神に受け入れられておらず、全くの罪人でしかないという事実を誰からも暴かれずに済むと思ったのである。

要するに、これらの人々は、本物を駆逐しさえすれば、誰にも本物と偽物との区別がつかなくなり、偽物である自分たちが、正体を暴かれることなく、公然と本物を名乗れるかのように考えたのである。

ここに、「唯一の神から、神であることを奪って、自分たちが神になりかわりたい」というグノーシス主義の究極的な願望が込められていると言える。

当ブログにおいては、グノーシス主義とは、被造物が主体となって、自らの創造主を客体に貶め、被造物が創造主の神聖を盗み出して自ら「神々」になろうとする「模倣と簒奪の思想」であると述べて来た。

要するに、グノーシス主義は、聖書の神と人とを主客転倒した「さかさまの思想」であって、神によって罪に定められ、神聖から排除された、堕落した生まれながらの人類が、自分たちを罪に定めた聖書の神に反逆し、神に復讐を遂げることを正当化するために造り出された思想なのである。そして、もちろん、その起源は、創世記において、人類を誘惑した蛇の教えにある。

グノーシス主義思想が、「擬制(フィクション)としての父の物語」だと言われるのもそのためで、この思想の持ち主は、神の国の後継者ではないのに、後継者であると詐称して、まことの神から、神であることを奪って、己を神としたいからこそ、彼らにとって「父なる神」はフィクションでなければならないのである。なぜなら、本当の父というものがあれば、彼らの嘘がすぐにバレてしまい、彼らは父の圧倒的な権威によって、家を追われることになるためである。

聖書において、父なる神は、「わたしは有る」(出エジプト3:14)と力強く宣言される方であって、断じてフィクションなどではない。

お前はわたしの子
 今日、わたしはお前を生んだ。
 求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし
 地の果てまで、お前の領土とする。
 お前は鉄の杖で彼らを打ち
 陶工が器を砕くように砕く。」(詩編2:7-9)

この箇所は、キリストを指したものであるが、父なる神が聖霊によって独り子なるキリストを生んだように、私たちクリスチャンも、バプテスマを通して下からの出自に死んで、御霊を通してキリストによって上から生まれた者たちである。

私たちはこうしてキリストによって、父なる神から生まれていればこそ、この父に、子として何でも願い求めることができるのであり、もしも私たちが「父が分からない」子だとするならば、私たちは信仰によって、何一つ神に願い出る資格を持たない者となる。

「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。

神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。

もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ローマ8:12-17)

と書かれてある通りである。

ここでは、神の子供であることを見分けるために、いくつかの条件が提示されている。まず、「神の霊」によって導かれていること。そして、その霊とは、人を恐怖によって奴隷とする霊ではなく、私たちが神の子であることを証する霊であること。

次に、私たちが神の子であるならば、キリストと共に「共同相続人」でもあること。これは私たちが、やがて来るべき新しい天と地で栄光に満ちた贖いに預かることを指している。

さらに、私たちがキリストと共に苦しみを受けることによって、栄光を受けることが出来ること。これはクリスチャンが地上で主の御名のゆえに負わねばならない苦難を指す。

また、非常に重要なこととして、神の霊によって導かれて生きるためには、「肉に従って生き」ず、かえって「霊によって体の仕業を絶つ」ことが必要になる。これは主と共なる十字架の死の効果が、信者の肉に対して絶えず及んでいることを意味するが、このことについては後述する。
   
ところが、被造物を主とするグノーシス主義は、「父なる神」をもの言わぬ「虚無の深淵」や「鏡」に貶め、「存在の流出」という考えにより、あたかも天地万物のすべての被造物は、父なる神の意志によらず、自動的に流出したかのように述べる。

幾度も述べた通り、ここには、父の意志というものが介在しないため、「お前はわたしの子 今日、わたしはお前を生んだ。」という父から子への明白な承認が全くない。それどころか、もの言わぬ「父」は、いるかどうかも分からない存在へと追いやられている。

このようにグノーシス主義は、「父なる神」から発言権を奪った上で、神の姿が水面に映って乱反射した映像から流出して出来たとされる被造物を「神々」として誉め讃えるのである。

このように、まことの神を骨抜きにして、その神から神聖なるリアリティを盗むがごとくに生まれた被造物を「神々」として賛美するという人類の自己満足、自己賛美のために造られた思想が、グノーシス主義である。

どこまでも人類の自己満足、自己賛美の思想であって、それを力強く承認してくれる者の存在がないからこそ、この思想には、この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。と言える「神の子とする霊」「証」の存在はなく、ただひたすら「俺たちの父祖は神だ!俺たちは神の子孫であって、神々だ!」という「自称」の世界が広がっているだけなのである。

しかし、彼らの自己満足にも、決定的に水を差す存在がある。それが、ソフィアの失敗作と生まれたヤルダバオートである。

グノーシス主義においては、地上を支配する醜い悪神ヤルダバオート(デーミウルゴス)は、アイオーンたちのヒエラルキーを飛び超えて、単独で神の神聖を盗もうとして失敗したソフィアの過失の結果、生まれた悲劇の産物であるとされる。そして、これが聖書の創造主(ヤハウェ)と同一視されて、徹底的に悪罵と嘲笑の対象とされるのである。

私たちは、グノーシス主義とは、聖書の唯一の神を徹底的に憎悪し、悪罵・嘲笑することを目的に生まれた思想であることを覚えておく必要がある。

グノーシス主義がヤルダバオートを憎むのは、まず彼の存在そのものが、母としてのソフィアの企ての失敗(被造物の失敗)を示すものであることに加え、彼の外見が、自分たちは美しいと思って自画自賛しているアイオーンたちから見て醜く見え、さらに、何よりも、ヤルダバオートが「わたしの他に神はない」と宣言しているためである。

もちろん、ヤルダバオートのこの宣言は、「わたしは主である。わたしのほかに神はない、ひとりもない。」(イザヤ45:5)などの聖書の神の宣言を、グノーシス主義者が皮肉り、嘲笑するために悪用したものである。

つまり、「神々」なるアイオーンたちから見れば、自分一人だけが神であるかのように宣言し、他の「神々」の存在を頑なに認めないヤルダバオートは、「高慢」で「無知」で「愚か」な悪神であって、許せない存在と見えるのである。

それゆえ、グノーシス主義の思想は、至る所で、ヤルダバオートに聖書の唯一の神を重ねて、これを高慢で無知で愚かな神として、徹底的に嫌悪し、嘲笑の対象とするのである。

このように、グノーシス主義が最も憎んでいるのは、神は唯一であって、他に神はいないと述べている聖書の真理なのであって、この思想の持主の目的は、神が唯一であることを否定して、その代わりに、被造物を「神々」に据えることにこそある。

先に結論から述べるならば、掲示板において当ブログに盛んに悪罵の言葉を向けている人々が、当ブログの主張を「高慢」で「狭量」で「僭越」なものであるかのようにみなしているのも、同じ理由からである。

当ブログの信仰の証しを「妄想」や「精神異常の産物」として罵っている人々は、聖書の記述をも、人間に精神異常をもたらすだけの「作り話」だとみなして否定しているだけでなく、当ブログの信仰の証しを「高慢」だと罵ることにより、自分たちこそ「神々」であるとして、唯一の神を否定しているのである。

もちろん、彼らが神の独り子なるイエス・キリストの十字架の贖いも認めていないことはすでに述べた。だとしたら、ただ一人の救い主を信じないのに、自分たちが救われていると自称している彼らは、自分たちが生まれながらにして「神々」だと詐称しているに過ぎない。

こうした悪罵の背景には、太古から続いて来た、聖書の神に反逆する思想があるということを、私たちは覚えておく必要がある。

グノーシス主義というのは、初代教会の時代に名付けられた呼び名に過ぎず、この思想それ自体は、もっと前から存在している。その起源は、創世記で人類をそそのかした蛇にさかのぼり、いわば、蛇の教えを体系化したものが、グノーシス主義なのであって、それが多くのバリエーションを作って、世界の宗教、哲学、政治思想などに受け継がれている。

結局のところ、世界の思想は、根本的に大別すると、キリスト教と非キリスト教(グノーシス主義)の二つしかないのであって、聖書の御言葉が真理であることを認めない思想は、すべてグノーシス主義のバリエーションとして分類することができるのである。

私たちは、このように、太古から、聖書の唯一神を徹底的に悪罵、憎悪し、神を誹謗中傷の対象として来た悪魔的思想というものが存在し、それが悪の諸霊によって、現代にも、惑わされた人々に連綿と受け継がれていることを理解しておく必要がある。

だから、掲示板における人々の当ブログに対する非難の根底には、グノーシス主義が存在しているのであって、当ブログがこの偽りの教えの嘘を体系的に明るみに出していればこそ、彼らの非難は苛烈を極めるのである。

とはいえ、私たちの神ご自身が罵られ、嘲られている時に、私たちがキリストの苦しみにあずかるのは当然であって、それによって、私たちは来るべき世において、主と共に栄光を受けることができるであろう。約束の相続人であるからこそ、キリストと共に苦しむという栄誉も与えられているのである。

わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたよりも前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:11-12)

話を戻せば、グノーシス主義には、もの言わぬ「虚無の深淵」とされているとはいえ、一応、形ばかりは「父なる神」が存在している。これは「神々」の誕生にほんのわずかなりとも口実を与えるために造り出された、骨抜きにされた沈黙する神であって、すでにフィクションのような存在である。

だが、東洋思想においては、このようにフィクションによって抜け殻と化した「父なる神」すらもなく、万物の生命の源は、公然と「母なる神」(神秘なる混沌)にあるとして、女性原理が神聖なものであるかのように誉め讃えられる。

この「母なる神」(老子によれば玄牝)は、言い換えれば、人間の肉の情欲そのもののである。詳しくは省略するが、東洋思想では、天地万物は、「神秘なる母胎」なるものから、情欲の交わりによって誕生したのだとされ、東洋思想の根本には、堕落した肉の情欲をあたかも神聖なものであるかのように誉め讃える思想がある。

幾度も述べて来た通り、このような思想は、ペンテコステ運動の中にも、「母なる聖霊」論などという荒唐無稽な形を取って入り込み、キリスト教の「父なる神」を骨抜きにし、堕落させようとして侵入しているのは言うまでもない。

このようなものは、要するに、唯一の神を否定して、「父なる神」の戒めなど完全に無視して、己の肉の欲望のままに、あらゆるものと奔放に交わり、無責任に子を生み出し続ける、忌むべき「母」バビロンのことである。

女は紫と赤の衣を来て、金と宝石と真珠で身を飾り、忌まわしいものや、自分のみだらな行いの汚れで満ちた金の杯を手に持っていた。その額には、秘められた意味の名が記されていたが、それは、「大バビロン、みだらな女たちや、地上の忌まわしい者たちの母」という名である。わたしは、この女が聖なる者たちの血と、イエスの証人たちの血に酔いしれているのを見た。」(黙示17:4-6)

(ちなみに、今日、このバビロンが堕落した肉欲の象徴であり、偽りの教えの総体であることを否定する信者はほとんどいないであろう。そして、バビロンがどれほど豪奢に着飾っているかの描写が、次のパウロの言葉といかに対極にあるかもよく分かるはずだ。

「婦人はつつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべきであり、髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたりしてはなりません。むしろ、良い業で身を飾るのが、髪を敬うと公言する婦人にふさわしいことです。」(Ⅰテモテ2:9-11)

ところが、今日、ある人々は当ブログを非難して、このくだりの「婦人」とは、象徴を指すものではなく、文字通りの意味だと主張している。そして、「婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。」(Ⅰテモテ2:12)という続くパウロの言葉を文字通りに解釈し、これを実行すべきだと述べて、彼らの教会の講壇に立っているわけでもない当ブログの記事が、ただ女性執筆者によるものだというだけの理由で、許せないなどと支離滅裂な非難を展開している。

だが、バビロンとの対比によっても、この「婦人」が象徴であることは明らかであり、そうでないと主張したい人は、まずは自分たちの教会の講壇から女性説教者をすべて追放すれば良かろう。そして、自分たちの娘にも、いかなる結婚式やその他の宴会でも、決して高価な着物を着させず、生まれてから一度も髪を編まず、金や真珠を一切、身に着けるのをやめさせると良いのである。そして、教会に足を踏み入れてから立ち去るまで、彼女たちには一言も口を利かないように教えるがよい。それが以上の御言葉を文字通りに受け取ることの意味なのだから、この人々は、まずは自分たちが信じるところを忠実に実践すべきなのである。)

このように、グノーシス主義における「神々(被造物)」とは、本質的にバビロンと同じく、堕落した被造物のうちに働く生まれながらの肉の欲望を「神聖なる女性原理」として誉め讃えたものであり、彼女の行いが悪いからこそ、グノーシス主義者は、「父なる神」には沈黙しておいてもらわなくてはならないのである。

彼らは「父」の戒めに従っていないからこそ、彼らにとって「父」はフィクションである方が都合が良く、むろん、バビロンの姦淫によって生まれた「子ら」にとっても、父が誰かなどといった問題は、タブーであって、放っておいてもらわなくてはならない問題なのである。

このような思想の特徴は、肉に対する霊的死がなく、心に割礼を受けていないという一言に尽きる。

だが、先の御言葉でも、正統な神の国の後継者には、「霊によって体の働きを殺す」という「一つの義務」が課せられている。

「わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。

これが、罪に対する赦しとは別の、キリストの十字架のもう一つの側面である。私たちの旧創造に属する堕落した肉を霊的に死に渡すことのできる絶大な十字架の効力である。

だが、グノーシス主義においては、罪もなければ、十字架もないため、この思想は、人間の肉欲を聖なるものであるかのように褒めたたえるだけで、それに対するいかなる処方箋も提示しない。

グノーシス主義では、天地万物の創造は、真の至高者が、水面に自分の姿を映し出すことによって、そこから「神々」の存在が、映像のごとく「流出」して生まれたとされる。

だが、この筋書きも、人間の自己愛の産物であって、ちょうどギリシア神話に登場するナルシス(ナルキッソス)が、水面に映った自分の映像に恋い焦がれて死んだのと原則は同じである。

ナルシスの悲劇は、「本体ではなく、映像こそが真のリアリティだ!」と宣言して、主客転倒して、本体からオリジナリティを強奪しようとするグノーシス主義者の願望をよく表していると言えよう(だからこそ、しばしばグノーシス主義の研究者らはこの物語に言及する)。

だが、ここで言う「映像」とは、堕落した被造物全体を指すだけでなく、人の肉の欲望そのもののことなのである。

ナルシスは、水面という鏡に自分を吸い取られることによって、本体は虚無であって、映像こそがまことのリアリティだという転倒したものの見方を提示し、その恐るべき思想の至り着く当然の結末として、自分を失って死んだのであるが、ここには、神は虚無であって、被造物こそがまことのリアリティだという転倒した思想が表れているだけでなく、被造物も、肉に対する霊的死など帯びる必要がなく、思う存分、肉欲に翻弄されて生きた結果、肉欲を「主」として、その持ち主たる人間(自分)を「従」として、肉欲に自分を吸い取られることにより、いずれ神にまで至れるとする完全に転倒したグノーシス主義の考え方がよく表れている(むろん、そんなことが起きるはずもなく、彼らを待ち構えている結論は、死だけである)。

ギリシア神話では、あくまで物語の主役は、まだナルシスにあったが、グノーシス主義は、そこからより進んで、主役(至高者)を完全に沈黙に追い込んだ上、ナルシスの自己愛を、水面に乱反射させるようにして「神々」という形で結実させる。そして、この「神々」の動向の方に巧妙に物語の中心を移していく。そして、東洋思想になると、形骸化して沈黙する「父」もいなくなり、被造物(「母」)だけが勝ち誇っている。

無限とも言えるほどにたくさんの鏡、数えきれない映像、それらがせめぎ合って、みな本体を押しのけては、自分たちこそ本体だと、真のリアリティだと叫ぶ――これは、東洋における八百万の神にも通じる考えであって、グノーシス主義のアイオーンたちの形成する世界と同じものであり、現在、掲示板で起きている現象そのものであると言える(彼らは無数の鏡を作り、そこに当ブログについても悪意ある歪んだ映像を作り出し、それがリアリティであるかのように叫んでいる)。

これらの「神々」は、すべて時期尚早に結ばれた肉の実、「ハガルーイシマエルーバビロン」の系統に属する、心の割礼を受けない堕落した人類の欲望を表している。

自己愛というのは、自己保存願望と同じである。そこで、「神々」などと言っても、結局、グノーシス主義における「神々」の正体は、煩悩とでも呼んだ方がふさわしい、数えきれない欲望を表しているだけなのである。それらの欲望の中で最たるものが、人類が自力で子孫を残し、自己保存することによって、神の永遠にまで至り着きたいという願望である。

その欲望が、老子の言う玄牝であり、東洋思想の神秘なる混沌であり、グノーシス主義における最初の被造物にして万物の母なるバルベーローであり、これらはすべて人類の肉の欲望の総体である「ハガル」を象徴し、最終的には「大淫婦バビロン」に至り着くものである。

旧約聖書におけるサラは、アブラハムの妻であったにも関わらず、自分に子が生まれないことに悩み、このままアブラハムの家の子孫が絶えては困るという考えで、肉なる力によって、アブラハムの血統を保存しようと、自分の代わりに奴隷のハガルをアブラハムに差し出した。

この時点では、サラは神の御言葉の成就を待てず、「霊によって体の働きを殺す」どころか、肉の思いによって、早々に実を結ばせようと、奴隷を主人に差し出して、苦しみを招いてしまう。

だが、ここで言う奴隷のハガルとは、罪と死の奴隷となって、絶えず死の恐怖に追い立てられている人類の肉欲そのものであって、何とかして死に至る前に、自力で死に打ち勝って、永遠に至り着きたいという、人類の焦り、恐怖を指している。

つまり、「ハガル」とは、罪と死の法則によって支配され、「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊」の象徴であると言えよう。

人類の肉の欲望は、何であれ、すべて究極的には、死の恐怖に追い立てられて生まれる自己保存願望である。

そこで、グノーシス主義とは、心に割礼を受けていない、人を奴隷として恐怖によって支配する霊、堕落した肉欲の実を結ばせようと願う「ハガル」という母胎を、あたかも神聖なものであるかのように誉め讃え、ハガルの生み出す肉の実によって、神に喜ばれる信仰によって生まれる聖なる約束の子を駆逐し、消失させようという思想であると言える。

そこで、ぶどう園の悪い農夫たちは、みな「ハガル」の子孫である、と言えよう。彼らは、アブラハムの正式な妻であるサラから生まれた約束の子を殺して、奴隷のハガルから時期尚早に生まれた子を跡継ぎに据えれば、神の国を強奪できるだろうと考えた。

彼らの言いたいのは、こういうことである、「本物を殺して、コピーだけを残せ。そうすれば、俺達がコピーであって模造品に過ぎないとは、誰にも分からなくなり、俺たちの犯罪行為はかき消される。」

「本物の信仰の証しを地上から消し去り、神の子供たちをインターネットから駆逐しろ。そうすれば、何が本物で、何が偽物かなどと、誰にも分からなくなる。本物の神の子供たちを教会から追い出せば、神の国の後継者を名乗れるのは、俺たちだけだ。俺たちは神々であって、神聖で侵すべからざる存在だ。俺たちを冒涜する者は、誰でも同じ苦しみに遭わせてやれ。」

それが、この悪い農夫たちの悪質な企みであり、いわば、悪魔の教えの根幹であると言えよう。そして、このような盗人・人殺しによって支配されるぶどう園の行く末がどうなるのかは、聖書に書かれている通りである。

今日、無数の「ハガルの子孫たち」が現れて、自分たちは神の国の後継者だと詐称しては、聖書のまことの神に反逆し、キリストに連なる神の子供たちを教会から追い出し、彼らに憎しみを燃やして迫害を繰り返している。そして、すでに地上の目に見える教会は、これらの詐称者によって占拠されてしまった。だからこそ、このような場所からはエクソダスせねばならないし、彼らの偽りの教えに加担してはならないと言うのである。

* * *

霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。」(ガラテヤ5:16-17)

霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制である。これらを禁じる掟はありません。」(ガラテヤ5:22)

キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」(ガラテヤ5:16-25)



「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。
 そして、彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せられる。
 
 『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。』
 全能の主はこう仰せられる。

 愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」(Ⅱコリント6:14-18,7:1)

* * *

最後に、冒頭に挙げた御言葉は、私たちが神に従う上で、肉による下からの生まれに死ぬのみならず、肉による絆、魂の愛情にも死なねばならない時があることをよく示している。

あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。<略>また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。」とある通り、時には、親族や、兄弟や、友人からさえも、迫害されて、厳しい試練を通過せねばならない場合がありうることが予告されている。

だが、それゆえに、イエスは
「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。」(マタイ19:29)と言われ、迫害に耐え抜いたことに対して、大きな栄光があることを約束されたのである。

だが、ここには、妻と夫との関係だけは含まれていない。それは、妻と夫の関係は、血縁によるものではなく、キリストと教会を予表するものであるため、信仰による迫害によって捨てなければならないものの中に含まれていないのである。

しかしながら、冒頭に挙げた通り、「
天の国のために結婚しない者もいる。」と、主イエスははっきりと述べ、それを受け入れられる心のある人は、そうした心構えで生きるようにと勧められた。パウロも、これに準ずる考えを述べている。

ところで、夫と妻との関係を論じるに当たり、ある人々は、
「不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」(マタイ19:9)というイエスの御言葉を取り上げて、聖書は絶対的に離婚を禁じていると主張しているが、「不法な結婚でもないのに」とある通り、イエスはそこに例外をもうけられたことに注意が必要であろう。

このことについて、終わりのない愚かしい議論を繰り返している人間どもがいるため、そういう彼らには、サドカイ派の人たちの質問を裏返しにして、お尋ねしたい。

たとえば、カルト被害者救済活動の指導者は、カルト宗教で、指導者が信者に「神の啓示」として命じた結婚は、解消しても構わないと触れ回っているが、それはイエスの言われた
「不法な結婚」に相当するのか、しないのか。

さらに、ある人が結婚して、二人か三人の子供をもうけた後に、自ら家族を捨てて、しばらく経ってから、誰か別の、誰とも結婚したことのない若い人をつかまえて、その人の無知と弱みにつけこんで、結婚したと仮定しよう。しばらく経ってから、その人は、その若い伴侶を捨てて、さらに別の若い人を見つけて結婚したとしよう。そうして、七度、その人は、家庭を築き、その度毎に、子をもうけるか、もしくはもうけないで、伴侶を捨てて、ついには独身になった。そのような場合に、その人が地上で築いた七つの家庭のうち、その人が離婚を禁じられた伴侶とは、誰(何人)を指すのか。

この質問にきちんと答えられる人が、他者に向かって石を投げつければ良いのである。だが、果たして、これに答えられる人間が、目に見える教会や指導者にしがみつき、それを己が神聖の根拠であるかのように主張している信者の中にいるのかと疑問に思う。

要するに、愚かでむなしい議論にははまらないことである。

エクレシアのまことの伴侶はキリストであるから、信者は地上の移ろい行くものに心を留めないで、真っすぐに神の国を見上げて生きるのが、最も賢明な策であることは、誰にも否定できない事実であろう。

2019年3月15日 (金)

正義と平和は口づけし、まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます。

「そこで、わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい。そして、多くの証人の面前でわたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい。キリスト・イエスの立派な兵士として、わたしと共に苦しみを忍びなさい

兵役に服している者は生計を立てるための仕事に煩わされず、自分を招集した者の気に入ろうとします。また、競技に参加する者は、規則に従って競技をしないならば、栄冠を受けることができません。労苦している農夫こそ、最初の収穫の分け前にあずかるべきです。わたしの言うことをよく考えてみなさい。主は、あなたがすべてのことを理解できるようにしてくださるからです。

イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。

しかし、神の言葉はつながれていません。だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。次の言葉は真実です。

わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、
 キリストと共に生きるようになる。

 耐え忍ぶなら、
 キリストと共に支配するようになる。

 キリストを否むなら、
 キリストもわたしたちを否まれる。

 わたしたちが誠実でなくても、
 キリストは常に真実であられる。

 キリストは御自分を
 否むことができないからである。」(Ⅱテモテ2:1-13)

この御言葉は、まさに詩のように響く。

徴兵された者がどうして世俗の仕事を営めようか。競技に参加する者がどうして訓練をおざなりにして出稼ぎに出られようか。農夫がどうして自分の畑の収穫をすべて地主に与えてしまってよかろうか。

もしも私たちが本当に神によってこの世から召されたならば、神は必ず、私たちが自分で自分の命を維持するために、馬車馬のように労苦して暮らさなければならないような生き方から解放して下さり、心に平安を保つ秘訣を教えて下さるはずだ。

そこで、パウロが述べている言葉は、まさに筆者自身に対する個人的な語りかけのように響く。

たとえ私たちが不誠実であっても、主は誠実な方であって、ご自分の約束を否むことがおできにならない。だから、私たちが神を信じて待ち望むことをやめないならば、必ず、神は私たちを失望に終わらせず、速やかに助けの手を差し伸べて下さる。

だから、勇気を出しなさい、神の子供たちよ! 主にあって、強くなりなさい! イエス・キリストのために召された兵士として、主人を喜ばせるために、あらゆる苦難を立派に耐え忍び、栄光に満ちた褒賞にあずかる覚悟を固めなさい! あなたを召して下さった方が、あなたたがそのすべての訓練に耐えられるだけの必要を満たして下さいます…。

* * *

裁判所は筆者にとって特別な場所で、目に見える建物に近づく度に、見えない大地の奥底から、こんこんと命の泉が湧き出て、周囲を潤しているように思われる。

そこは、まさに「干潟」だ。人が目を背け、誰もが耳を傾けたくない、泥水のような紛糾した訴えが、毎日のように届けられる場所。虐げられ、踏みにじられ、かえりみられなかった人々の叫びが、あぶくのように、うず高く積み重なり、処理されるのを待って溜まっている場所。

いや、泥水は溜まっているように見えるが、それだけではない。ゆっくりだが、流れているのだ。毎日、裁判官らが紛糾した事件簿を人知れぬ法廷で紐解き、書記官らが新たな訴えを受理し、原告被告らが目を合わせずに廊下や待合室ですれちがう・・・。

誰も事件番号さえ知らない山のような訴えが、毎日のように人知れず処理され、当事者が誰も来ない法廷で、判決文が読み上げられる・・・。

この見栄えのしない、誰もができるだけ近づきたくないと思っている「干潟」を見る度に、筆者は、そこに注がれる神の正義の眼差しを思わずにいられない。

この世には不正な裁判官もいれば、不正な裁判もある。だが、そんなことは筆者にはどうでもよいし、関係もないことだ。この世に一つでもいいから、虐げられた者が、その訴えを届けられ、正義の実現を待ち望むための場所が残っていること自体、どれほど大きな恵みであるか分からないのだ。

どういうわけか、裁判所へ近づく度に、筆者はそこが、まるで生きた法の泉から、目に見えない命の流れが汲み出されている場所であるように思わずにいられない。

だが、この世の法体系よりも、さらに深いところに、我々の信じる神の御言葉の泉がある。そこにあるものは、この世のどんな法よりももっと完全な掟である。

だから、まことの命の流れを汲み出したければ、深く、深く、井戸を掘りなさい、神の御言葉の泉の前に、自分の心を注ぎだしなさい。

そこから汲み上げることができれば、それはこの世の法の基準も、御言葉の求める基準もすべて満たし、見えない神の御心に触れる訴えを作り上げることができる。あなたの心の叫びを、天におられる神のみもとへ届けることができる。

そのために、筆者は深い深い井戸を掘り、本当の命の泉の水脈に到達し、そこから水を汲み上げようとしている。それは、最初は汲み出せても、わずかな流れに過ぎないかも知れないが、次第に水量が増し、いつかは洪水のように溢れ出すはずだ・・・。

それは筆者の周辺だけでなく、もっともっと広域を潤すようになり、県内全域を覆うようになる。目には見えずとも、きっといつかは、この日本のすべての地域のうちで、唯一、神の名のついたこの都道府県から、果てしない広域に及ぶことであろう・・・。

この「干潟」は、筆者にとって不思議なエネルギー資源の採掘場だ。

泥水のようにしか見えない数々の訴えに、命の水が流れ込み、そこに上から光が当たって、神秘的な光合成が起きる。そして、汚水のようにしか見えなかったものが、神の光に当てられて、人間を生かし、潤す糧となって行く・・・。

筆者はその変化をまだ一度もこの目で見たことがないが、やがて来るべき変化を思うだけで、深い感動を覚えずにいられない。こんなにも深いスケールの戦いは、これまで見たこともなかったが、それだけに、その解決のためには、他のどんな恵みとも代えがたい、特別な答えが与えられると信じている。

筆者は初めて真の戦いと呼べるものの始まりに立っている。この戦いを通して、筆者は、この地に正義が実現されるためならば、筆者自身、どれほどの代価を払い、どれほど長い間、待ち望んでも、惜しくないと思った。

義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」(マタイ4:6)と主イエスが言われた通り、この地に正義がなされ、悲しむ者が慰めを得、義に飢え渇く者が心飽かされ、心の清い者が神を見、「正義と平和は口づけし」(詩編85:11)、正義が天から注がれるのを見るためならば、筆者は幾度、自分を完全に投げ出しても惜しくない。

それほど、神の義というものを、生きてこの目で見たいと熱望したのだ。

だから、筆者は、自分が待ち望んでいる判決を、まだ見てもいないうちから、喜びを持って迎えている。むろん、筆者の訴えはこれでは終わらず、まだすべては始まりに過ぎないのだが、筆者は己が人生で初めて受けとる判決を、神聖なもののように厳かに、そして、喜びを持ってすでに心に迎えている。

神の御心にかなう決定に、心厳かに、深い感動をもって、思いを馳せる。そして、その感動はきっと、生きている間中、なくならず、心に思い返す度に、主の恵みに満ちた御業を思い起こしては、感謝するものとなるのではないかという気がする。

山上の垂訓をもう一度引用してみよう。

心の貧しい人々は、幸いである、
 天の国はその人たちのものである。

 悲しむ人々は、幸いである、
 その人たちは慰められる。

 柔和な人々は、幸いである、
 その人たちは地を受け継ぐ。

 義に飢え渇く人々は、幸いである、
 その人たちは満たされる。

 憐れみ深い人は、幸いである、
 その人たちは憐れみを受ける。

 心の清い人々は、幸いである、
 その人たちは神を見る。

 平和を実現する人々は、幸いである、
 その人たちは神の子と呼ばれる。

 義のために迫害される人々は、幸いである、
 天の国はその人たちのものである。
 
 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたよりも前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:3-12)

この目に見えない神の国の秩序がこの地に信仰によって引き下ろされることを、どれほど筆者は強く心に待ち望んでいることか。むろん、これは地上の法廷における判決のことだけではない。やがて来るべき神の完全な宣言に、どれほどまでに強く思いを馳せ、それを今から待ち焦がれていることだろう。

わたしは神が宣言なさるのを聞きます。
 主は平和を宣言されます。
 御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に
 彼らが愚かなふるまいに戻らないように。

 主を畏れる人に救いは近く
 栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
 慈しみとまことは出会い
 正義と平和は口づけし
 まことは地から萌えいで
 正義は天から注がれます。

 主は必ず良いものをお与えになり
 わたしたちの地は実りをもたらします。
 正義は御前を行き
 主の進まれる道を備えます。」(詩編85:9-14)
 
我が神よ、悪人どもが、私について何を言っているか、あなたはご存じですね。
彼らは、私の神は、もの言わぬ、私を助け得ない神であって、
私はむなしいものにより頼み、いたずらに期待をかけて、
強がっているだけだと言って、私を嘲笑っているのです。

でも、私は知っています。
あなたは決して私を失望させる方ではないと。

主よ、あなたがどんな方であるか、私は生きてこれまでずっと確かめて来ました。
あなたは偉大な神であって、恐るべき方であると知っています。

あなたが私に下された自由の決定を覆すことのできる人は誰もいません。
あなたは正義と真実と平和を愛される方。
寄る辺なく、打ち捨てられた者の悲しみを慰め
虐げられた者を決して蔑まれることのない方。

主よ、あなたご自身が正義であり、真実であり、平和であり、
すべての問題に対する解決なのです。

ですから、この地のすべての生きとし生ける者の前で、
あなたの正義を現して下さい。

私は喜びを持ってあなたを迎えます。
見えないものを、見ているもののように、すべての苦しみを忍び通して、
あなたの解放のみわざを慕い求め、信じて待ち望むのです。

主よ、あなたはご自分を頼みとするすべての人々を
決して見捨てず、失望に終わらせない方です。
私はそれを固く心に信じており、かつ知っています。

来たりませ、主よ、
私たちはどんなにかあなたの義を慕い求め、
あなたの下さる平和を待ち望んでいることでしょう。

義に飢え渇いた民は、あなたの正しい裁きを知って、
ご自分の民のために、十字架で命を捨てて下さったあなたのはかり知れない愛に、
深く頭を垂れて、御名を讃え、とこしえに賛美し、感謝するでしょう。


* * *


「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会をご自分の前に立たせるためでした。そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。」
(エフェソ5:25-28)

パウロの言葉には多くの比喩がある。いや、比喩というよりも、二重の意味が込められている。先に挙げた「婦人」(Ⅱテモテ2:8-15)に関する箇所もそうであるし、以上のくだりも、夫婦に向けられたものである以上に、キリストと教会との関係を指す。

そのことは、パウロが次のように述べている通りである。

「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。」(エフェソ5:31)

自分が独身でありながら、パウロがこのように語っていたとは、驚くべきことのようだが、地上の夫婦は単なる絵図に過ぎず、真のリアリティは、キリストと教会にあるのだから、それを知っていたパウロが、このように述べたのは、不思議ではない。

キリストと教会との関係は、自己満足のためでない、肉の堕落が一切入り込む余地のない、清い愛の結びつきである。

それは神が先に独り子なるキリストを地上に送って、私たちの贖いのために十字架につけ、命を捨てて下さったその愛に、私たちの側からも、命をかけて応答する愛の結びつきである。

このような愛の中で、信じる者がキリストに固く結ばれ、離れることなく一つにされ、キリストの愛の中を生きることが、「しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会」であり、それこそが、まさに私たちのテーマである、小羊の婚礼のために整えられた花嫁エクレシアの姿を指すのだ。

キリストはすでにみわざを成就されて、神の右に御座に座しておられる。次はエクレシアが信仰によって地上でキリストに応答してわざをなし、それによって、天に収穫をもたらし、天的な喜びの中で、主と共に生き、そして栄光の内に入れられる秘訣を学ぶべき時なのだ。

「しみやしわやそのたぐいのものは何一つない」というのは、どういうことだろうか。

それは、罪の痕跡が一切なく、堕落して、汚れた、古き肉の痕跡の一切がない、全く清められ、聖なるものとされて、神の目に完成した花嫁のことである。

今、すべての被造物が、虚無に服し、産みの苦しみの中にあるのは、このように神の目に全く聖なるものとして完全に贖われるときを待っているからである。

黙示録には、新しい天と地が到来し、花婿なるキリストが教会を花嫁として迎えられ、その時には、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示21:4)とある。

だが、これはただ単に、私たちが空を見上げて待ってさえいれば、いつか主が天から降りて来て、私たちのためにすべての不幸を拭い去って下さる、というような受け身の意味ではない。

これは、私たちの側からの、贖いの成就に向けた信仰の前進によって勝ち取られるものなのだ。教会が、信者が、完全に贖われて、罪の痕跡がなくなり、すべてが新創造とされ、キリストの性質で満ちあふれるためには、私たち自身が、戦い抜いて、試練をくぐり抜け、大胆に前進して行かねばならないのである。

その程度に伴い、神は教会をご自分と同じ性質にあずかるものへと変えて下さるであろう。そのようにしてすべてが新しくされればこそ、サタンのわざが打ち壊され、この世を覆っている悲惨、不幸、災い、嘆きが取り除かれ、年老いた蛇が、天から投げ落とされ、私たちの自由の喜びが満ち溢れるのだ。

その新しい秩序は、すでに信じる者一人一人の中に来ている。だが、その贖いがどれくらい前進して完成に近づくかは、あくまで私たちの信仰にかかっている。

「でも、ヴィオロンさん、主は私たちのためにすでにすべてをなして下さったのではないですか?」と問われるだろう。

もちろん、そうだ。すべては主が私たちのためになして下さったことであって、私たちの側の努力によるものではない。だが、主がなして下さったことを、私たちは自分の手を伸ばし、自分の意志と行動によって、受け取る必要がある。

神の恵みを、御言葉の確かさを、自分の人生でどれだけ生きて実際として経験できるのかは、あくまで私たちの信仰による応答にかかっているのだ。

もちろん、地上にいる間には、完全な聖化には誰も到達しないが、それでも、神が私たちのために用意して下さっている完全に、近づくことはできる。主が求めておられる、古きものの痕跡が何も残らない、純潔の花嫁なるエクレシアの姿に、神の喜ばれるキリストのご性質を備えた新しい人に、限りなく、近づこうとすることはできるのだ・・・。

だが、そのために必要なのは、信者に対するより深い十字架の死の働きである。信者の存在が、真にサタンに取って恐るべき脅威となるのは、信者の堕落した肉に、完全に主と共なる十字架の霊的死の効果が働き、サタンの足場となるものが、その人の内に完全になくなる時である。

肉はサタンの作業場である。従って、それが生きている限り、私たちには、あの忌むべき堕落の痕跡がつきまとい、罪と死の法則が働き、私たちはこれに振り回されて苦しまねばならない。信者の肉に対して十字架の死の働きが成就していないうちは、サタンはいくらでも信者を利用することができる。

だが、主の十字架の死が、私たちの自己、堕落した肉に真に完全に及ぶ時、私たちはその時こそ、大胆にキリストと一つになって、暗闇の勢力に対して、御言葉の衝撃力を存分に行使し、そして神のみわざを体現して生きることができるようになるだろう。

このように、信者がどれくらいキリストと一つになっているかが、信者が、神の御思いをどれくらい現して生き、かつ、キリストのために、その信者の受けた苦難が、神の目の前に、大いなる信仰の従順として尊ばれるかの基準なのである。

私たちが信仰によって、キリストと完全に一つであると、はっきりと確信を持って言える時に、サタンが我々に対してなした攻撃は、我々個人に対しての攻撃でなく、キリストに対する攻撃であると、神はご覧になる。それに対しては、私たちの側から防衛する前に、神御自身が応答される。

そこで、 「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」(フィリピ1:21)と大胆に言える程度にまで、つまり、生きるにも死ぬにも、すべての瞬間が、完全に主のためであると、はっきりと言えるほどまでに、私たちは、霊において彼と一つにならなければならないのである。

そんなことができるのだろうか。いや、信仰によって、そのことを、切に知りたいと願うならば、主は必ず私たちに知らせて下さるであろう。

もう一度、以下の御言葉を繰り返しておく。

霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。」(ガラテヤ5:16-17)

霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制である。これらを禁じる掟はありません。」(ガラテヤ5:22)

キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」(ガラテヤ5:16-25)

わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:19-20)


「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」(ガラテヤ6:14)

わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、
 キリストと共に生きるようになる。

 耐え忍ぶなら、

 キリストと共に支配するようになる。

 キリストを否むなら、
 キリストもわたしたちを否まれる。

 わたしたちが誠実でなくても、
 キリストは常に真実であられる。

 キリストは御自分を
 否むことができないからである。
(Ⅱテモテ2:11-13)

2019年3月14日 (木)

霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

さて、キリストとの合一というテーマがいかに重要なものであるかを示すために、オースチンスパークスの論説を改めて引用しておく。

キリストとの合一」第二章 彼の地位――御父の愛によって(7)

 この合一は役職的なものではありませんし、法的・形式的なものでもありません。それは愛情によります。ここで支配的なのは強制ではありません。強制しても愛は決して止まることはなく、常に進み続けて究極的可能性に至ります。

 キリストとの合一はこのような性格のものです。なぜなら、それは神の愛の中心だからです。もちろん、あなたはこれらすべてに関して静かな黙想を大いにしなければなりませんし、私たちがキリストに関して述べていることをすべてクリスチャン生活と関係づけなければなりません。

 「彼が愛する御子の王国の中に移して下さいました」(コロ一・一三)。この側面――「彼の愛する御子」――だけでも驚くほど素晴らしいですし豊かです。キリストとの合一は私たちをこの立場に、この領域の中にもたらします。

 ああ、まるで神の愛は彼が見い出される善の程度や悪の程度によって等級が分かれているかのように、この愛を等級付けして考えないようにしましょう。あなたや私に対する彼の愛は、彼が御子に対して抱いておられる愛です。これがその啓示です。キリストに結ばれることは、御父の愛する御子として彼が持っておられる御父との関係の完全な寸法の中に包まれることです。「まさに神として彼が持っておられる御父との関係の完全な寸法の中に」と私は述べていません。人として、御子イエス・キリストとしての彼について述べているのです。

   さて、牧師を介さずにキリストとの霊的合一に達するというテーマは、暗闇の勢力にとって、よほど致命的なウィークポイントのようである。

 なぜなら、この話題になると、とりわけ激しく入念な誹謗中傷が当ブログに向けられて来るからだ。かえってそのことにより、このテーマが神と悪魔との両方から見て、極めて見逃せない重要性を帯びた喫急の課題となっていることが分かる。

 しかし、それも当然である。なぜなら、神の眼差しは、キリストとエクレシアとの結婚、小羊の婚礼にこそ、注がれているからだ。だから、神の御思いの中心にあるテーマが、暗闇の勢力にとって衝撃とならないはずがない。

 ちなみに、当ブログに誹謗中傷を繰り返している人々(犯罪行為のため捜査中)の様子を見れば、どんなにキリスト教のことを知らない世間の人々でも、教会に所属している信者が、教団教派に属さない信者を、これほどまでに徹底的に攻撃・中傷している様子を見て、プロテスタントがいかに危機的状況に陥っているかを察知し、絶対にこのような人々が集まっている教会になど足を向けたくないと考えるようになるものと思う。

 この人々は、当ブログの内容に同意できないならば、読まずに放置していれば良いだけなのであるが、同じ教会に属している訳でもなく、顔を合わせたこともない人間の執筆するこのブログに対して、これほど執拗に権利侵害を繰り返さざるを得ないのは、彼らがどうしても、キリスト教信者を、牧師や司祭といった目に見える宗教指導者に隷従させて自由を与えず、そこから出ようとする人間に徹底的な妨害を加えずにはおかないカルトと化しているためである。

 筆者は訴訟を通して、今日のプロテスンタントの諸教会が、いかにカルト被害者救済活動の側から多数の訴訟をしかけられて、制圧され、陥落されて行ったかという過程に詳しく触れた。もはや公然と抵抗しているのは、当ブログだけとなりつつあることも述べた。その後、実際に、プロテスタントは恫喝されて完全に陥落されたも同然の陥っている。

 しかし、こうして当ブログが最後まで信仰の証しを持ち続けている以上、カルト被害者救済活動という反キリスト的勢力が、どのような方法を用いて、プロテスタントの諸教会や信者を恫喝し、彼らの証しを地上から取り去り、自らの支配下に置いて制圧して来たかという証拠は、公然と記録として残され、白日の下に晒されることになる。

 掲示板においても、当ブログに関する中傷を広めているのは、間違いなく、この勢力である。彼らはまさに黙示録に登場する「獣」の霊に導かれた人々であると言えよう。彼らは、本質的に人殺しである。今までにも、多くの人々を助けると見せかけながら、精神的殺人を繰り返し、死へ追いやって来たのであろうが、何とかして当ブログに対しても、信仰の証しを取り去るきっかけ掴みたいと欲望と執念を燃やし、執拗な言いがかりを繰り返しているのである。

 だが、神は竜に追いかけられた女を荒野へ逃がされたように、汚れた霊の持ち主どもによる迫害から、筆者を助け出されるであろう。

 さて、キリスト教以外の宗教にも、巫女などを含め、神に仕えることだけを職業とする人々が存在する。また、昔の仏教では、多くの僧侶に妻帯が禁じられていた。もちろん、キリスト教でも、昔の宣教師の多くは、神に身を捧げて奉仕に専念して生きるために、あえて伴侶をもうけず、自分の家庭を持たなかった。
 
 ところが、今日、キリスト教の目に見える教団教派では、教会は牧師一家(妻だけでなく子供や孫に至るまで!)を金銭的に支えるための手段と化し、信者らは牧師一家を養うために重い献金を課されてあえいでいる。

 そして、当ブログのような場所で、既存の教団教派に属さず、宗教指導者に頼らず、ただ見えない神にのみ仕えて生きると宣言すると、正体不明の信者らが、そんな考えは絶対に許せない、トラウマの産物だ、精神病だと叫び、憎しみに燃えて、既存の教団教派とその指導者を擁護すべく、引きずりおろそうと押し寄せて来るのである。

 こういう現象が起きているのは、キリスト教の既存の教団教派が、目に見える宗教指導者に信者を縛りつける危険なカルトと化しているためで、これまでは、思想面から、そのことを詳しく論じて来たが、現実に起きている出来事を見れば、それ以上に説得力のある材料はないことであろう。

 それはかつて天皇皇后を現人神とみなし、これを拝まない人々を、国民同士で攻撃し合って排除していたのと構図は同じである。庶民はその当時、天皇など見たこともなく、全く関わりのないところで暮らしていたにも関わらず、「天皇は神である」と思い込むことによって、自分自身も「神々の子孫」であると己惚れ、己を誇ることができたのである。

 そこで、天皇崇拝に陥った人々は、高慢になって、天皇を拝まない人を見ると、自分が否定されているかのように怒りを燃やし、密告したり、特高警察に売ったりして、率先して集団的に弾圧・排除した。その直接の動機は、「神国日本」のルーツを否定する者は、神聖なる臣民の一人である「俺様」を否定しているのだから許せない、という、自分が面子を潰され、プライドを否定されたことへの憎しみと怒りであったろう。

 これと同じように、今日のプロテスタントおよびカトリックでは、聖職者(司祭や牧師)が、信者のルーツを神聖に見せかけるための偶像と化している現状がある。かねてより、「牧師先生と呼ばれないと怒り出す牧師がいる」と言って呆れていた人がいたが、今やインターネットが普及して、牧師を拝まない「不届きな信者」は、牧師の下手人である無数の信者たちが、掲示板で匿名で集団リンチして葬り去ってくれる便利な時代となった。牧師はこうして気に入らない信徒を自分の手を汚さずに葬り去れるのだから、何と楽な時代だろうか。

 こういうわけで、宗教指導者という偶像に頼らず、真に聖書を自分で紐解いて理解し、なおかつ、キリストとの真実な霊的な交わりに入れられ、神を知りたいと熱心に願い、そのために、自分の身をフルタイムで捧げ、生涯を投じようとする信者が現れると、サタンにとっては耐えられない脅威となるようで、猛攻撃をせねば居ても立っても居られなくなるようなのだ。

 おそらく、筆者が神学校に行くと宣言しても、誰一人バッシングするものはないであろうが、宗教指導者に頼らずに信仰に生きようと宣言すると、それによって傷つけられる人間など、誰一人いないのに、何の利害関係にもない人々から、考えられないようなバッシングが起きて来るわけなのである。

 それはなぜかと言えば、まず第一に、一人一人の信者が、直接、キリストに連なり、真理を知るようになると、聖職者だけが真理を知って、これを信者に正しく伝えることができるという彼らが築いて来た幻想が崩れてしまうからだ。さらに、この指導者たちが、実は神を知らないのに、知っているかのように偽って、信仰に生きていないのに、篤い信仰を持っているかのように見せかけて来た実態が明らかになってしまう。
 
 もちろん、信者が誰でも直接、御霊に教えられて、神の御言葉を学ぶようになると、当然ながら、聖職者と呼ばれる人々は、献金を払ってくれる信者たちに去られて、失業することも免れられない。何よりも、彼らの権威が否定される。

 だが、指導者たちが失業すること以上に、悪魔にとって脅威なのは、目に見える人間を拝むことは、人類が、霊的割礼を受けたことのない、自分の生まれながらの肉的なパワーを拝んでいるのと同じなのだということを、多くの信者たちが知ってしまうことである。

 今日のプロテスタントのほとんどの教会では、十字架はただ人類の罪の悔い改めのためとしか教えられず、人間の生まれながらの肉の堕落については、語られることもない。肉に対する十字架の死の必要性などまず教えられない。

 数多くの異教では、人類の堕落した生まれながらの肉的な力を、子孫繁栄をもたらす力だと言って、美化し、誉め讃えている。しかし、他方では、この力が、制御できない粗野で荒々しい自己保存・自己拡大の欲望として、終わりなき戦争、殺戮、暴力、虐待に利用され、弱い者たちが踏みにじられて、言い知れない苦悩をこうむっている。

 聖書の神は、人類が堕落した肉的な生まれながらのパワーに生きているままでは、罪と死の法則に支配されているだけで、決して神に受け入れられ、神に喜ばれる聖なる子供たちとはなれないことを知っておられた。

 そこで、神はご自分の選ばれた人々に、堕落した人間の肉なるパワーに対する霊的死の宣告として、割礼を命じられたのである。それは、人類が、己の誇り、頼みとしている力が、汚れた悪しき力であって、彼らがその堕落した生まれながらの力に死んで、神によって上から与えられた清い力によって生かされることにより、神の民とされるためであった。

 主イエスが地上に来られて、十字架にかかられて死なれたことにより、肉に対する霊的死は完成に達した。そこで、もはやキリスト教信者は今日、割礼を受ける必要はないが、その代わりに、絶えず主と共なる十字架の死に自分を同形化し、自分自身の古き肉の情欲を十字架で死に渡す必要がある。その霊的死を帯びた時、初めて十字架の復活の命が、その信者の中に働くのである。

 このように、聖書の原則は、まずは信者が己が肉的な力に対して、霊的死を帯びるところから始まる。男であれ、女であれ、自分の生まれながらのセルフに対して死なねば、復活の命にあずかることはできない。

 しかし、目に見える指導者を立てている教会は、信者に見えないキリストを礼拝しているように見せかけながら、こっそりと目に見えるものを拝ませることで、本質的には、キリストの十字架を否定して、生まれながらの肉的な力、十字架の霊的死を経ていない、滅びゆく目に見える被造物の堕落したパワーを、あたかもそのまま神聖なものであるかのように、誉め讃えさせ、拝ませているのである。

 プロテスタントの諸教会が、カルト被害者救済活動に屈してしまったのは、結局、諸教会の目に見える指導者が、この運動の支持者らと同じように、堕落したアダムの命から来る自己保存願望を究極の目的とし、十字架の死を経由しておらず、霊的割礼を受けておらず、目に見える生来の自己の力により頼んで、神の聖に達しようとしていたからなのである。

 このように、今日、目に見える指導者に信者を依存させ、それに緊縛するプロテスタントの制度(牧師制度、教会籍)は、見えないキリストの支配に悪質に敵対するものとなってしまった。当ブログは十年ほど前からそのことを指摘しているが、この十年間の間に、これらの制度にしがみつく人々の堕落は、あまりにも目に余るものとなっていることが誰の目にも明白である。

 だが、新約聖書の原則は、一人一人の信者が直接、キリストに連なり、御霊から教わるというものであるから、信者が宗教指導者に属さないで信仰生活を送ることは、奇妙でないどころか、むしろ、当然である。

 そこで、読者には、カトリックであろうと、プロテスタントであろうと、目に見える指導者のいる教会に、これから先、決して所属しないことを勧める。当ブログに起きていることを、目を開いてよく見てみることだ。そうすれば、当ブログにバッシングを加えている人々が、絶対に敬虔な信仰を持つ主の民ではあり得ないことが分かり、このような人々が占めている目に見える建物の中で、まことの神を礼拝できるなどという考えは消え去るであろう。

 彼らが拝んでいるものは、聖書の神ではなく、むしろ、悪魔であり、彼らの指導者は、先生というより、獣と呼ばれる方がふさわしい。そこで、もちろんのこと、カルト問題を扱っている様々な「専門家」を名乗る宗教指導者にも、悩み相談など、絶対にしないことを勧める。なぜなら、そこであなたが話した内容は、あなたがその団体を去ろうとする時に、当ブログが受けたのと同じような形で、陰湿なバッシングのために徹底利用されるからだ。

 ちょうど派遣会社が外国人技能実習生を劣悪な環境と考えられないほどの低賃金で働かせるために、パスポートをあずかって逃げられないようにするのと同じく、情報は信者を人質にするための手段なのである。

 さて、もう話してしまったという人もいるかも知れない。すでに所属している信者はどうすれば良いのかという問いもあろう。これに対する聖書の答えは、後ろを振り返るな、上着を取りに戻ろうとするな、というものだ。

 もしも、イエスの次の御言葉を、現代にも通じるものとして受け取るならば、「荒らす憎むべき者が聖なる場所に立っている」今、このように汚れた者どもに占領された神殿に、自分の荷物を取りに戻ろうとすることは、百害あって一利ない。

 彼らの元から出て行き、一切の関わりを断つことである。その上で、主だけを仰いで生きることである。

 すなわち、反キリストに属する不法の子らが占領した目に見える礼拝堂になど、いかなる未練も持たず、エジプトに置いて来た宝になど一切目もくれず、一目散に、前へ向かって走ることだ。ひたすら、上にあるものを求め、目に見える都ではなく、天の都を目指して走ることである。

 キリストに受け入れられるための方法は、主と共なる十字架を経て、心に割礼を受け、この世と自分自身と悪魔に対して死んで、らくだが針の穴を通るように、御言葉への信仰以外には何も持たずに、貧しいやもめのように、主の辱めを身に負って、宿所の外に出て、彼のみもとへ行くことである。この世に未練を持てば、待っているのは、ロトの妻の運命だけである。

わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:19-20)

「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。

 しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っていおいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。

 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」(ガラテヤ5:16-25)

「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」(ガラテヤ6:14)

2019年3月13日 (水)

私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを待っています。

先の記事でウェーバーを取り上げたとき、彼はその著書で、社会は、宗教すなわちキリスト教の最先端の信仰の運動が原動力となって動かされていることを指摘したのだと書いた。

ウェーバーは、マルクスのように下部構造(見えるもの)が上部構造(見えないもの)を規定すると考えることなく、むしろ、その逆に、見えないものこそ、見えるものを規定するのであって、その決定的要素となるものが、キリスト教であるとみなしたのである。

その考えはおおむね聖書の原則に合致している。現代人のほとんどは、宗教と社会の動きや、国際情勢は別物であって、キリスト教の最先端の信仰回復運動が社会を動かしているなどとは考えていないであろう。

しかし、聖書の原則は、すべてのものは、神の御言葉によって創造され、また御子によって支えられているのであり、目に見えるものは、見えないものから出来たのであって、見えるものが見えるものを生んだのではないというものだ。

「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(ヘブライ11:3)

すべての聖書に基づかない宗教や、あらゆる詐欺師・錬金術師も、毎日、何とかして少しでも労苦せず、無から有を生み出し、濡れ手に粟式に富が手に入らないかと考えを巡らせていることであろうが、私たちを真に命の豊かさに至らせる秘訣は、まことの命である聖書の正しい御言葉にしかない。

そこで、もしも私たちが、真に今、世界で起きていることは何なのか知りたいと願い、また真に無から有を生み出すような豊かで生産的な人生を送りたいと願うならば、まず第一に、聖書の神の御言葉をよく研究してこれを理解し、神の御心(関心事)がどこにあるのかをとらえることが必要となる。

そうして、私たちの関心が、神御自身の関心と重なるならば、次の御言葉が私たちの人生の上に成就して、どれほど多くの錬金術師・魔法使いが束になっても、彼らには絶対に生み出すことのできない本当の命の豊かさに、私たちはあずかって生きることができるだろう。

「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:31-34)

神の命の豊かさに支えられて、平安のうちに生きる秘訣は、神の国の秩序を飽くことなく追い求めて生きることにのみある。

先の記事で、終末へ向けての神の関心事は、小羊の婚礼にこそあると書いた。それはエクレシアが完成に向かい、人がキリストのための花嫁なる教会として整えられることである。

だが、イエスのたとえでは、婚礼に招かれたほとんどの人々は、自分の生活の心配、自分の命の心配であまりにも心がいっぱいだったので、神の関心事にはまるで注意を払わず、神に招かれていたのに、祝宴に出かけず、その喜びと栄光に共にあずかる機会を逸し、悪い場合には、神の使いに反逆して滅ぼされ、あるいは、準備が出来ていないのに婚礼に出席しようとして、外の暗闇に追い出されてしまった。

このように、神の関心事に全く心が及ばない人々が、御心の外を、計画の外を歩いていて、祝福にあずかるわけもない。だから、真に祝福を受けようと思うなら、信者は神の関心事の中に入り込まなければならない。

先の記事で、イエスが幼子だったとき、イエスの両親が彼を長子として主に献げる儀式を行うため、エルサレムの神殿に入ったとき、シメオンとアンナが出迎えたことを書いた。シメオンはもちろんのこと、アンナも、シメオンがイエスを腕に抱いて神を誉め讃えているのを見て、幼子がメシアであることをすぐに悟って、人々にその到来を告げに行った。

彼女について書かれたくだりは、次の通りである。

「また、アシェル続のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。」(ルカ2:36-38)

筆者は「彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」というフレーズがとても好きである。この箇所は、ダビデの詩編の次の箇所を思い出させる。

ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。
 命のある限り、主の家に宿り
 主を仰ぎ望んで喜びを得
 その宮で朝を迎えることを。

 災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ
 幕屋の奥深くに隠してくださる。
 岩の上に立たせ
 群がる敵の上に頭を高く上げさせてくださる。
 わたしは主の幕屋でいけにえをささげ、歓声をあげ
 主に向かって賛美の歌をうたう。」(詩編27:4-6)

ダビデが願ったように、私たちも命のある限り、主の家に住むこと、すなわち、夜も昼も、神に仕え、神を賛美し、その御心を尋ね求めて生きことができる。

そのようにして、主の御心の中に入り込み、主の関心事が何であるのかを第一に追い求めて生きるならば、シメオンとアンナが幼子イエスを見た瞬間に、それがメシアであることが分かったように、私たちも、神のなさることの一つ一つの意味を、誰から説明を受けずとも、分かるようになるに違いない。

あらゆる宗教には、大抵、その宗教の聖典の研究だけに従事して生きる人々がいる。その人々は、一切、世俗の仕事をしないで、神の宮に仕えることだけを己が職業としている。
 
もしも私たちが真に願うならば、私たちも、自分を完全に主に捧げて、神の御心のためだけに自分を注ぎだして生きる人となることができるであろう。神はそのようにして御自分を待ち望む民を、これまでにも用意して来られたのであるが、これからも、そうした心意気の信者を歓迎して下さることを筆者は信じて疑わない。

これが、筆者がプロテスタントと資本主義を離れると言っていることの意味内容である。つまり、御言葉の奉仕者として、神に直接、養われて生きることは、いつの時代にも可能なのであって、その願いを持つ者は、ぜひそうすべきである。プロテスタントを離れる必要性については後述する。

* *  *

さて、聖書は、万物は、御子によって、御子のために造られたとしている。

御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。

御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一となられたのです。

神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」(コロサイ1:15-20)

神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座におつきになりました。」(ヘブライ1:3)

このように、御子は万物が創造される前からおられ、さらに、万物は御子によって、御子のために創造されたのであり、今でも、御子によって支えられているのだと分かる。

筆者は訴訟を進めるに当たり、法体系を調べた。その際に行った作業は、たとえるならば、まるでこの世という巨大な高層ビルの裏側に入り込み、人々が行き交う美しいエントランスや清潔なエレベーターではなく、誰も目にしない、立ち入ることもできないような、暗く、埃っぽい地下に降りて、むきだしのコンクリートの壁や、頑丈な鉄骨にじかに手を触れ、ビル全体の基礎構造を確かめているような具合であった。

人々は美しく整えられたビルの表面しか知らないので、その裏側や、ビルを支えている構造がどうなっているのかを知らない。法体系は、この世を支えている見えない秩序であって、いわば、ビルの基礎構造のようなものである。

むろん、この世では必ずしも定められた秩序の通りにすべてが動いているわけではないが、それでも、法は生きていて、この世に起きる諸事情を規定し、修正し、違反を罰することもできる。

だから、筆者は自らの訴えを書くに当たり、まずはその構造を調べに行き、その中に入り込んで、この基礎構造を支えとして自分の主張を作り上げた。そうすると、それはもはや単なる一個人の意見や主張のレベルではなくなり、しっかりとした基礎の裏づけに支えられる頑丈なものとなるのである。
 
この世の法体系は、世界を構成している見えない霊的秩序の絵図のようなものである。聖書は、イエスは神の御言葉そのものであって、万物はこの方によって生まれ、この方によって支えられていると言う。御言葉は、この世を規定している見えない秩序であるだけでなく、やがて来るべき秩序でもある。

そこで、私たちがこの世を生きるに当たり、自分の主張や生き様を、真に確かなものとしたいと願うならば、永遠にまで変わることのない、御言葉の堅固な基礎構造によりかかり、その裏づけを得て、これと一体化して、自分の歩みを進めるのが一番安全なのである。

私たち自身は、弱い被造物に過ぎないかも知れないが、御言葉と一つになることによって、それが私たちの強さとなり、力となり、私たちの主張が、神の御前に正しいと認められるために必要なすべての根拠を提供してくれる。神の御言葉こそ、全世界を成り立たせている基礎構造であり、私たちの個々の人生の中でも、基礎構造をなすべきものである。

しかし、万物は御子によって創造されたにも関わらず、アダムの堕落と共に、サタンに引き渡されて堕落していまった。それゆえ、現在の目に見える被造物全体は「虚無に服して」(ローマ8:20)いる。だが、神は被造物をこの虚無から救い出し、復活の輝かしい栄光の中に入れようとなさっておられるのである。

このことについて、オースチンスパークスの今日の論説は非常に興味深いので引用しておきたい。

 

「キリストとの合一」第二章 彼の地位――御父の愛によって(6)

 さて、これはとても実際的なことです。イエス・キリストを経ないまま神に至ろう、とあなたは思っていますか?御父の定めでは、すべてが御子と共にあります。さて、これは包括的であって、被造物全体を網羅します。彼の中で、彼を通して、彼に至るよう、万物は創造されました。それゆえ、被造物全体についての神の定めは御子と共にありました。すなわち、神は御子という立場に基づいて、創造された万物に対応されるのです。

さて、被造物がその最初の君主であるアダムを通して神の御子の諸々の王権を破り、それらを敵対者であるサタンに手渡した時、神は何をされたでしょう?パウロの素晴らしい言葉によると、神はただちに、全被造物のまさに中心に、「失望」を書き込まれたのです。御子の嗣業に対する彼の妬むほどの情熱は、彼は御子の外の敵対者や反逆をご覧にならないことを意味します。パウロは「被造物は虚無に服した」(ロマ八・二〇)と述べています。

そしてその瞬間から、被造物の中心に失望があります。これは人にも言えます。人のいかなる達成、成功、偉業、発明にもかかわらず、最後の結末は失望です。私たちの周囲の被造物の中に魅力的で美しいものがあったとしても、それはそこそこ進んだ後、色あせて死んでしまいます。すべてが死と腐敗に服しています。これは失望です。定めは破られました。

栄光、豊かさ、究極的完成は、御子に対して定められました。御子の外側では、そのように定められておらず、すべてが失望です。そうではないでしょうか?どうして人々にはこれが分からないのでしょう?他の誰も知らなくても、私たちクリスチャンはそれを知っています。

しかし、神はほむべきかな、私たちは神の定めに戻って、この失望は一掃されました。神は私たちのもとに、御子における定めに、キリストとの合一に戻って来て下さいました。


  聖書は言う、すべての被造物は、贖われるときを待ち望んで、産みの苦しみを味わっていると。

「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。

被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、”霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。


見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ローマ8:18-25)

以上のくだりは、先の記事でも触れたパウロの言葉、「しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。」(Ⅰテモテ2:15)とも重なる。

ここで「婦人」とは人類を象徴していることを説明したが、パウロがこのくだりで、「子を産むことによって救われます」と指しているのは、人類がすべての被造物と共に、体の贖いにあずかり、完全に滅びの縄目から完全に解放されて、主と共に栄光に輝く復活の自由に達すること、また、そうなるまでの間、「産みの苦しみ」が存在することを表していると言えよう。
   
従って、ここでは、「産みの苦しみ」を耐え忍んでいるのも人類(全被造物)ならば、その苦しみの結果として、新しく生まれて来るのも人類(全被造物)なのだと言える。これは新創造が生み出されるまでに、全被造物が耐え忍ばねばならない産みの苦しみであって、そうして、すべてが新しくされる時には、人はさらにキリストに似た者とされて、彼と共に栄光にあずかる神の国の共同相続人とされている。

「このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは”霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Ⅱコリント3:15-18)

そこで、現在、全被造物が味わっている「産みの苦しみ」は、被造物が完全に贖われてキリストと同じ姿に、主の栄光を映し出すものへと変えられるための過程なのであり、そのときには、もはや人類(被造物)は虚無に服するものではなくなり、本体なるキリストと同じ姿を持ち、同じ栄光を持つ者とされる。

今日でも、私たちはキリストにあって霊による一致の中に入れられているが、その時には、さらにこの一致が完全なものとなる。

かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」(ヨハネ14:20-21)

この約束を通して、どれほど神が人を愛し、人を重んじて下さっているかが分かるはずである。人はあくまで造られた被造物に過ぎないにも関わらず、神はキリストを通して、人に、ご自分を知ることのできる方法を備えて下さり、キリストはご自分を愛する人々に、御自身を現して下さり、ご自分に似た者となる道を開いていて下さるのである。

ここには、創世記で蛇が人類をそそのかしてささやいた、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」(創世記3:4-5)という、神の御言葉を排除して、人が神の性質を盗み取ることでしか、神に至りつけないという発想の入り込む余地が全くない。



図1 聖書における神と人との主従関係
 
これに対し、依然として、蛇(サタン)が人類をそそのかすにあたり、述べたように、神は故意に、人をご自分よりも劣った卑しい存在として創造され、たのだから、人がこの劣った性質を克服するためには、神の意志に反してでも、神の神聖な性質を盗み取るしかないという考え(神に対するコンプレックス)に基づき、人が神の御言葉によらず、自分自身の意志と力で、神の性質を盗み、神と置き換わろうとしているのが、グノーシス主義だと言えよう。

グノーシス主義には一応、「原父(プロパテール)」という存在があり、聖書の父なる神に似たような存在が設定されている(真の至高者と同一)が、これはほとんど存在しないも同然の、形骸化した「お飾りの神」のようなものである。

すでに述べた通り、この至高者は、物言わぬ「鏡」であり、「虚無の深淵」であり、自らの意思によって力強く万物を生み出す存在ではなく、むしろ、被造物に受動的に自らの姿を映しとられて、自らの意思とは関係なく、信的存在を「流出」させることを、制御することもできない「神」である。

これは父としての権威と力を持たない「沈黙する神」と呼んでも良いだろう。この「沈黙する神」は、初めから他者から模倣され、自らのリアリティを侵害されて、神聖を簒奪されており、それに抵抗できない。

この思想では、「父なる神」が自らの意志に基づき、人を自分に似せた存在に創造したのではなく、神(至高神)の性質が「流出」(コピー)されることによって被造物が誕生している。すでに述べた通り、まだ「神々」なる被造物の誕生当初の段階では、この「流出」は「簒奪」と呼べるほどの故意性がなかったにせよ、それでも、誕生の段階から、すでに被造物の側からの至高神への浸食・侵害が起きていたことは確かなのである。

このことを見れば、グノーシス主義の思想の本当の主役は、神にあるのではなく、被造物の方にあるのだと分かる。つまり、これは「違法コピーを正当化し、偽物をオリジナルと置き換えるために造られたさかさまの思想」と言って良く、至高神の性質を盗み取るようにして生まれて来たあまたの被造物の存在を正当化するために造られた思想なのである。
 
グノーシス主義でも、原父(創造主―オリジナル)は父性原理を、被造物(被造物―コピー)は女性原理を代表するものとみなせるが、この思想は、母性原理(被造物―コピー)を「主」として、父性原理(創造主―オリジナル)を「従」とする、一言で言ってしまえば、神と人との主従関係を逆転して、目に見えるものを目に見えないものの根源に置き換える唯物論である。

これと同じ特徴が、万物を生み出す命の源は、女性原理にあるとみなして、女性原理を神とするすべての思想に流れており、むろん、「神秘なる混沌」「母なるもの」(女性原理)をすべての生命の源とみなす東洋思想にも、同じ発想が流れている。

従って、女性原理をすべての生命の源であると掲げているすべての思想は、要するに、見えるものを見えないものの根源としているのであり、根本的には唯物論だと言えるのである。

グノーシス主義では、至高者が「虚無の深淵」とされていること、すでに見て来たが、ここにも、神と被造物との関係を逆転させようとする聖書とは真逆の原則が表れている。聖書においては、被造物こそが堕落して虚無に服しているのであって、グノーシス主義はこれをさかさまにして、父なる神を虚無に服させたのである。

さらに、存在の流出に加えて、よりはっきりした形で、被造物が至高神の意志を無視・侵害して、神の神聖を模倣・簒奪したのが「ソフィアの過失」である。この事件は、ちょうどエバがエデンの園で、「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われた」(創世記3:6)木の実を取って食べて、自ら神のようになろうとしたのと同様に、被造物が、己が情と欲に基づいて、自らの感覚を喜ばせることによって、神のようになろうとした企てとみなせる。

以上で確認した通り、聖書における「産みの苦しみ」とは、被造物の贖いが完成するまでのプロセスを指すため、これを考慮するならば、グノーシス主義のプロットにおいて、ソフィアが単独で子を産もうとした行為は、「被造物が、神(の意志)を抜きに、単独で己が贖いを完成しようとした」試みを指すことは明白となる。

ひとことで言ってしまえば、ソフィアの行為は、堕落した被造物が自分で自分を義とし、贖おうとしたこと、つまり、コピーに過ぎないものが、自らの力で本物のオリジナルに置き換わり、被造物であることをやめて、神の完全に達しようとした企てを意味する。

そして、グノーシス主義では、ソフィアの企てが、失敗に終わった後も、そのミッションは人類に受け継がれ、「母の過ち」を修正することが、人類の使命とされるのである。



図2.グノーシス主義における神と人との主従関係の転倒
 
こうして、グノーシス主義は、その骨組みだけを取り出せば、人が己の肉の情欲を満足させることによって、神へと至り着こうとする、聖書とは真逆の思想なのであって、そのために、この思想は、被造物の側から、創造主に対して、果てしない「模倣と簒奪」を繰り返すことを正当化するのである。

そこには、人類の罪も堕落もなければ、肉に対する十字架の死もない。だから、この思想に生きる人は、己が欲するままに生きた挙句、神の神聖に至りつけるかのように考えるが、それによって生み出されるのは、神とは似ても似つかない失敗作だけである。

このようなものが、女性原理を万物の生命の源とみなす思想の根本に存在するのであり、さらに極言すれば、そこには、人が己が情欲を「神」とする思想があるのだと言えよう。そのことを指して、パウロは次のように言った。

「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」(フィリピ3:18-19)

「腹を神」としているとは、肉と欲を神としているという意味であり、「恥ずべきものを誇りとし」とは、罪に生きることをあたかも正しいことであるかのように唱道していること、「この世のことしか考えていません」とは、己の欲を満たしてくれそうな、目に見えるものだけにより頼んで生きていることを指す。

だが、パウロは、これに続けて、私たちキリスト者が目指しているのは、そのようなものでは断じてなく、私たちは、主と共なる十字架において、この世に対してははりつけにされて死に、自分自身の肉に対しても死に、罪と死の法則に従ってではなく、命の御霊の法則に従い、目に見える都ではなく、あくまで見えない都、見えない天を目指していると述べる。

私たちは、そこからキリストが再び来られ、最終的に、私たちが完全に贖われて、もはや二度と堕落した肉に支配されることのない、キリストと同じ栄光の体へ変えられることを待ち望んでいる。

「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリピ3:20-21)

そこで、結論として、これまで繰り返して来たように、今日、キリスト教における神への礼拝は、目に見える指導者、目に見える場所から解放される必要がある。

プロテスタントの牧師制度は、カトリックの聖職者制度や、荘厳で立派な礼拝堂を建設するための献金集めとしての免罪符の支払いから信者を解放した代わりに、今度は、目に見えないキリストを、目に見える指導者(牧師)に置き換え、聖書の御言葉を、信者がキリストではなく牧師を介在して受けとらざるを得ない状態にとどめたことで、改革を中途半端に終わらせただけでなく、最終的には、目に見える被造物(母性原理)を、創造主なる父なる神(父性原理)以上に高く掲げるという唯物論的逆転に陥ってしまった。プロテスタントの礼拝が、特定の教会の礼拝堂に固定化されていることも、同様の原則に基づく。

これでは結局、イスラエルの建国を促し、地上のエルサレムに再びユダヤ教の神殿を建設することで、キリストの再臨が促されると言っている人々と、原則はまるで同じである。

「目に見えるもの」が、贖いの完成へとつながる神聖な要素であるかのようにみなし、その発展を促すことで、人類の贖いが成就するかのように思い込んでいるという点で、これらはグノーシス主義と同じ、さかさまの理論であり、プロテスタントは牧師制度や教会籍制度を固定化することで、そこへ落ち込んでしまったと言える。

こうした「さかさまの理論」を主張し始めた人々は、「目が開け」るどころか、その顔に覆いがかかり、見えないキリストの栄光を映し出すことができなくなり、かえって、神を「虚無」に服させて、自分自身が神であるかのように錯覚するようになる。

そして、高慢になって、神の御名を自分たちの栄光を打ち立てるために利用し、己が肉の情欲を満たすことこそ、己が存在を神聖化する秘訣であるかのようにはき違えるようになる。

だからこそ、牧師制度からは離れなければならないのである。それはこの制度が、被造物を神と置き換えようとする思想の体現だからである。むろん、固定的な礼拝堂からも離れなければならない。その点で、カトリックからのみならず、プロテスタントからも脱出する必要があり、両者ともに信仰回復運動としての意義は失っている。

これを離れなければならないのは、そこにあるのが、被造物を父なる神以上に高く掲げ、目に見えるものを、目に見えないものの根源に置き換えようとする、本質的には唯物論と何ら変わらない聖書への反逆の思想だからである。

このような汚れた思想と分離せず、それを受け入れてしまうと、人は信仰によらず、己が情欲に従ってしか歩めなくなる。そして、このような転倒した教え、神不在の理論の中に身を置いていながら、同時に、まことの神を知りたいと願っても不可能なのである。

このことは、今日、当ブログが、目に見える指導者に従い、目に見える礼拝堂に通わないことを、恫喝と悪罵の言葉と共に非難し続けている人々が、どれほど常軌を逸した不法を働く者どもになり果てているか、その様子を見ても、よく分かると言えるだろう。

必至になって目に見えるもの(指導者、礼拝堂、儀式その他)を擁護し、あたかもそれが神聖であるかのように主張する彼らの姿は、いわば、目に見えるものを神とするプロテスタントの行き着く終着点なのである。今やプロテスタント全体が、このような不法の子らの恫喝を前に、抵抗する力を失ってしまったが、それはすでに述べた通り、プロテスタントが、教会がより本来的な姿へと回復されていく変遷の一過程でしかなく、その中には、過ぎ去らなければならない古き要素が含まれていたにも関わらず、これと訣別しなかったことの必然的な結果である。

今やプロテスタントの中の「目に見えるもの」(神への礼拝を目に見える牧師や礼拝堂の中に見いだそうとする制度)が、まことの神への礼拝の妨げとなっているのに、この宗派は、「目に見えるもの」を擁護して、これを神聖であるかのように保存しようとしたために、神の御言葉を退け、その結果として、上記のような不法の者たちと手を結び、行きつく先が同じとなってしまったのである。

プロテスタントであろうと、カトリックであろうと、神の御心から遠く離れたものを、あたかも神聖なものであるかのようにいつまでも擁護し続けていれば、誰しも、結局、サタンの虜となり、暗闇の勢力に引き渡されて行くのは仕方がない。


図3 キリストは神と人との唯一の仲保者であるから、エクレシア(教会)における兄弟姉妹はみな対等な関係にあるはずである。

図4 ところが、プロテスタントでは、牧師が神と人との唯一の仲保者であるキリストに置き換わってしまったために、神の栄光が反映しなくなり、神が無きに等しい者として形骸化した(唯物論的転倒)。

おそらくカトリックもプロテスタントも、ずっと前から、生きた信仰を見失って、目に見えるものを、目に見えないものに置き換える神不在の理論と化していたからこそ、その只中から、マザー・テレサや奥田牧師(もしくは遠藤周作)が唱えたような、人間を不条理の中に見捨てて「沈黙する神」のイメージが、発生して来たのだと言えよう。

このように人類の苦しみを見捨て、助けることもできないで、苦難の中に置き去りにして行くだけの、弱々しく沈黙する神は、聖書の神ではなく、御言葉からは、あまりにもかけ離れている。むしろ、これは人間が虚無に服させて自ら骨抜きにしてしまった神の姿であると言えよう。

しかし、人が目に見えるものの中だけを巡り続けている限り、まことのリアリティである神は決して見いだせない。その代わりに、このように人類を助ける力を全く持たない、無きに等しい神しか、見えて来るものはない。それは神というよりも、無力な人類が、自分自身の姿を、鏡に投影するようにして作り出した自己の似像に過ぎない。つまり、人間が自ら神を規定しようとした結果、彼らの神は、そのようにまで弱体化し、虚無にまで服してしまったのである。

だからこそ、こうした汚れた教えからは「エクソダス」せねばならない。そして、私たちは目に見えるものに従ってではなく、自分たちを本当に生かす力のある、目に見えない御言葉に従って、見えない都を目指して歩むのである。

わたしの民よ、彼女から離れ去れ。
 その罪に加わったり、
 その災いに巻き込まれたりしないようにせよ。
 彼女の罪は積み重なって天にまで届き、
 神はその不義を覚えておられるからである。」(黙示18:4-5)

あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。<略>神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。

「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。
 そして、彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せられる。
 
 『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。』
 全能の主はこう仰せられる。

 愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。
(Ⅱコリント6:14-18,7:1)

2019年3月12日 (火)

たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。(3)

* * *

さて、今回は、前回の続きとして、グノーシス主義および東洋思想といった、非キリスト教的異教の思想の中には、決まって「ハガル―シナイ山―バビロン」の原則が流れている、ということに触れておきたい。

ハンス・ヨナス教授が述べた通り、グノーシス主義思想とは、特定の時代に限定された特定の思想を指すものではなく、時代の様相が混迷を極め、人々の思いの中に悲観が広がり、政治的にも危機的状況となり、明白な希望が失われているような時代には、いつでもどこでも、発生しうるものであり、さらに、この思想は、独自の神話を持たないため、あらゆる宗教や思想の中にもぐりこみ、それを換骨奪胎しては、自分に都合よく変えてしまう性質がある。

グノーシス主義は、いわば、常に何かの思想や宗教哲学などを宿主として、そこに潜り込み、寄生して成り立つ模倣と簒奪の思想なのである。

グノーシス主義には、独自の神話はないが、一応、神話的なプロットの原型はあり、果てしない模倣と簒奪を正当化するためだけに存在しているこの思想では、その神話的プロットも、当然ながらその原則に沿ったものとなる。それが「存在の流出」という考え方である。

まず、グノーシス主義思想では、真の至高者なる神が存在するとされるが、その神はあまりにも神々しい存在であるため、(一部の説では「独り子」以外には)、誰も見たことのない「知られざる神」であるという。

それにも関わらず、どういうわけか、その「知られざる神」が、この思想では「虚無の深淵」や「鏡」にたとえられ、その深淵である「鏡」に至高者の姿が映し出されることによって、無数の神的存在(アイオーン)が流出したとされる。

だが、これは非常に奇怪千万な話である。至高者にも関わらず、グノーシス主義の神は、自分の存在が「流出」することを自分でコントロールできなかったというのだろうか。

このことから、グノーシス主義の「神々」(アイオーン)は、至高神自身の意志とは関係なく、至高神の存在を模倣・簒奪して、まるで神の神聖が盗み取られ、漏洩されるようにして「流出」したものであると言える。つまり、グノーシス主義のプロットの中では、至高者は、神であるにも関わらず、自己存在が、自己の意志と関係なく「流出」することを、自分で制御することができない存在なのである。

このことを考えると、グノーシス主義における「神々」(アイオーン)の誕生は、聖書の神が、被造物を創造された時のように、主体的で能動的な創造行為ではなく、むしろ、被造物の側から、至高者の存在を盗み取り、これを模倣して自らを生んだも同然のものであるとしか言えない。

その点で、グノーシス主義の「神」は、至高神という名とは裏腹に、最初から自己存在を他の被造物によって見られ、知られ、盗み取られる受け身の神であって、主体ではなく、客体なのだと言えよう。

こうして、グノーシス主義の「神」は、最初から客体として、他の被造物に存在を盗み取られ、侵害されているのであって、神と呼ばれるにはふさわしくない存在である。その受動性、沈黙、弱さ、非独立性は、聖書における神が、「わたしはある」と言われ、自らの意思によって被造物を創造し、被造物が神に背いて堕落した際には、被造物を追放したり、滅びに定めることのできる、強い権限を持ち、人格と意志を持った能動的存在であることとはまさに逆である。

グノーシス主義の「至高神」は、たとえるならば、「御真影」のようもの言わぬ神であって、無数の「神々」であるアイオーンの存在に神的位置づけを与えるためのアリバイ、もしくは、お飾りのような存在に過ぎないと言えよう。

この点で、グノーシス主義は、最初から、神と被造物との関係を逆転し、至高神という神を規定しながらも、その神を「知られざる神」とすることによって、至高神に「リアリティ」があるのではなく、むしろ、至高神の神聖を映し取って生まれた模造品である被造物なるアイオーンの方に、「リアリティ」が存在するとして、神と被造物の関係性を逆転していると言えるのである。

結局のところ、グノーシス主義とは、本体である至高神から、その神聖を流出させて、模倣・簒奪して、無数の影のようなアイオーンたち(模倣者たち)を作り出すことを正当化するために生まれた思想であると言える。(ちなみに、アイオーンの間にもヒエラルキーがあって、至高者から遠ざかるに連れて、質の悪いコピーのようになって行く。)

そういう意味で、グノーシス主義とは、終わりなき質の悪いコピペを正当化する模倣と簒奪の思想なのであって、本来ならば、万物の創造主でなければならない神に主体性を持たせず、かえって神を客体として、被造物の方に主体性を与える「さかさまの思想」だと言えるのである。

さらに、グノーシス主義思想において、当初のアイオーンの流出は、アイオーンの側から至高者の神聖を盗み出すために意図的に起こされた反乱ではなかったが、この思想においては、その後、「ソフィアの過失」というさらに決定的な出来事が起きる。

グノーシス主義の神的世界では、すべてのアイオーンは男性名詞と女性名詞のペアとなっており、そのペアからしか子供は生まれないとされているにも関わらず、最下位の女性人格のアイオーンであるソフィアが、単独で子を産もうと欲して、何かしらの禁じ手を使って、おそらくは至高者なる神を「知り」、その「過失」の結果として、醜い悪神ヤルダバオート(デーミウルゴス)という子を生んで、この子を下界に投げ捨て、この悪神が、下界(地上)の支配者となって、悲劇と混乱に満ちた暗闇の世界がそこに創造され、悪神の子孫として人類が生まれたというのである。

ここで、ソフィアが単独で子を生んだことは、至高者の側からの願いに基づくものではなく、ソフィアの側からの意識的な反逆として、彼女が至高者の神聖を盗み取って、故意に流出させたものであるとみなせる。

このように、グノーシス主義の神話的プロットにおいては、繰り返し、神の神聖が、被造物の側から盗み取られていることが分かる。そして、後になるほど、その盗みは、より意図的で、より悲劇的で、より悪意あるものとなって行く。

そして、そのように、至高神の意志を介在せずに、被造物の側からの違反によって、神の神聖が不当に盗み出された結果、グノーシス主義では、人類が誕生したとされているのであって、父を不明として、ソフィアの過失をきっかけとして生まれた人類は、初めから悲劇を運命づけられている。

それでも、この思想においては、どういうわけか、父不明のはずの人類には、至高者のものである「神聖な霊の欠片」が宿っているため、人類は、自分の直接的な父である悪神よりも知恵があり、悪神を否定的に超えて、真の至高者へ立ち戻ることができ、それによって、「母の過ち」を修正することができるとされている。

グノーシス主義では、悪神ヤルダバオートが、聖書の創造主(ヤハウェ)と同一視されるため、この思想では、聖書の神を徹底的に愚弄して、これを出し抜くことが、あたかも人類の正しい使命であって、人類を真の神に回帰させることにつながるかのようにみなされるのである。

だが、ここで人類の母とされているソフィアが、どうやって単独で子を生んだのかがはっきりしない以上、グノーシス主義においける人類が、真に至高神から神聖な霊の欠片を受け継いでいるとする客観的な根拠は何もない。何よりも、グノーシス主義思想それ自体において、至高神は、人類を己が子孫と認める発言を行ってないのである。

それにも関わらず、人類が、自分は至高神の子孫であると名乗り出て、自分を天界に認知せよと求めただけで、至高神に連なる者となれるとしていること自体が、これまたこの思想のどうしようもない模倣と盗みの原則をよく表していると言え、グノーシス主義の世界観の中では、誰かが「自称」しさえすれば、何ら客観的な根拠がなくとも、それが真実であるかのようにまかり通ることをよく示している。

このように、グノーシス主義思想とは、初めから、誰かが自分よりも優れた他者の性質を模倣し、盗み取り、本体を映したおぼろげな映像に過ぎないものを、本体と置き換える盗みと反逆を正当化する思想なのであって、そこには、神に逆らって堕落した人類が、不当に神の性質を盗み、これを模倣・簒奪することにより、聖書の神を否定して、自ら神であると宣言して、神と置き換わろうとする悪魔的思想が流れていると言えるのである。

ところで、この悪魔的思想の「模倣と簒奪の原則」は、インターネットの掲示板でも、顕著に見て取れよう。今日、掲示板は、そこに集まった悪意ある人々が、現実世界に存在する様々な事物の姿を歪めて映し出しては、存在を流出させてディスカウントするための「鏡」となっている。

そこで、悪意ある人々は、掲示板で、この世の事物をターゲットとして映し出し、そこで自分たちが盗み取って流出させた歪んだ映像の方が、本体を凌ぐリアリティであるかのように言いふらし、自分たちにこそ、本体を見定める資格があると主張して、本体のオリジナリティを侵害し続けている。

さらに、そうして存在を盗み取られた人々の一部も、ヴァーチャルリアリティである掲示板の方に、あたかも「リアリティ」があるかのような虚偽を信じ、掲示板に書かれた誹謗中傷を苦にして、自殺に追いやられたりまでしている。

こうして、本体とその歪んだ映像に過ぎないものの主従関係を逆転し、本体の質の悪いコピーに過ぎず、影に過ぎないものを、本体であるかのように偽り、出来そこないのコピーの大量作成によって、本体を凌駕し、駆逐することを狙っている点で、掲示板は、本質的に、グノーシス主義と同じ、見えない悪意による「模倣と簒奪の原則」に基づいて成り立っていると言えるのである。

さらに、グノーシス主義における、人類の悲劇の誕生は、先の記事で触れたハガルとイシマエルの運命にも重なる。

ハガルは、女主人であるサラの考えによって、アブラハムに子をもうけるために与えられた奴隷であるから、自ら反逆として、アブラハムをサラから奪ったのではなかった。

とはいえ、アブラハムはハガルの夫ではなかったわけであるから、やはり、ハガルの行為は一種の盗みのようなもので、なおかつ彼女が子を産んでから、奴隷であるにも関わらず、自らが女主人であるかのように思い上がって、サラを見下げるようになったことは、主人らに対する反逆であったと言えないこともない。

また、ハガルが子を生んだことは、肉の働きであっても、信仰によるものではなかったわけであるから、その点でも、ハガルの行為は、本来は至高者を知る権限がなかったにも関わらず、己が欲望に基づき、至高者の子を欲したソフィアの過失に極めて近いものであったと言える。

さらに、ソフィアがその「過失」ゆえに天界から転落しかかり、その子であるヤルダバオートが下界に投げ落とされたように、ハガルとイシマエルは、アブラハムの家から追放されて、父のいない母子家庭になったという点も似ている。

そして、彼らは自分たちが行ったことが罪であって、自分たちが神の御心にかなわない不完全啞存在であるとは決して認めたくないがゆえに、その後も、自分たちは神の家の正統な後継者であるかのように偽って、約束の子らを迫害し続けるのである。

このように見て行くと、グノーシス主義では、「信仰によらず、己が肉の力によって、神を知り、その実としての子を生みたい。」という、人類の肉の欲望を肯定する思想が、一貫して流れているのだと言えよう。

従って、これは一貫して、人類が自らの下からの生まれを、あたかも神聖なルーツであるかのように偽り、自らを神とする、聖書における大淫婦バビロンを肯定する思想だと言えるのである。

グノーシス主義は、どんな思想や宗教の中にでも入り込むものであるから、その発生は洋の東西も問わず、東洋思想において「母が脅かされている」とする考え方の中にも、これと本質的に全く同じものが流れていると言える。

東洋思想においても、万物を生み出す源は「神秘なる混沌」という母性原理にあるとされており、万物の生命の源は、「父」ではなく「母」にあるとされる。そこに我々は、被造物(女性原理=人類)と、創造主(父性原理=父なる神)との主従関係の逆転が起きている様子を見て取れる。

ちなみに、グノーシス主義思想の研究者である大田俊寛氏は、このような思想の発生を、古代社会においては、DNA鑑定もなく、母が誰であるかは明白であるが、父が誰であるかを確かめる術がなかったことに見いだし、「擬制(フィクション)としての父」という考えを提示している。

それに基づき、大田氏は、古代社会から家父長制から現代に至るまで、人類が父によって支配されるという考え方は、「フィクション」に過ぎないのだとし、そこから、聖書の父なる神もフィクションに過ぎないという考えを導き出すのである。

このことは、むろん、「父なる神」をフィクションどころか、「わたしはある」という絶対的なリアリティであると定義する聖書の真理に悪質に反する虚偽であることは明白であるが、グノーシス主義の核心を表すたとえとしては、言い得て妙である。

グノーシス主義では、ソフィアの過失が、具体的にどんな事件であったのかが全く明らかにされていないことを見ても分かるように、要するに、この思想においては、何らかの形で「子」が生まれさえすれば良いのであって、本当の父が誰であるかは、さして重要ではないのである。
 
もちろん、グノーシス主義は、このような考えが、聖書の唯一の神である「父なる神」を否定し、キリストと教会の関係に基づく一夫一婦制を否定するものであることを知っていればこそ、己が思想が、本質的に、キリスト教における、揺るぎないリアリティであるまことの父なる神に対する裏切り、反逆であり、キリスト教に悪質に敵対するものであることを無意識的に知っており、そうであればこそ、この思想の中には、潜在的にキリスト教(の「父なる神」)に対する恐怖、すなわち、いつか自分たちがキリスト教の「父なる神」によって罰せられることになるという恐怖が内包されているのである。

そのため、この思想には、父のいない母子家庭に生まれ、父からの正当な承認がないのに、神聖な神の子孫を自称(詐称)する人類が、いつか「父なる神」から罰せられることになるため、その御怒りから自分たちを守らなければならないという、自己防衛と被害者意識による連帯願望が流れていると言えるのである。

なお、東洋思想においては、この自己防衛の思想が「禅」という形で結晶化し、また、手段としての自己防衛は、「武士道(武術)」という形で結実した。武士道の根底にあるものは、人類を楽園から追放し、滅びに定めた聖書の神に対する怒りと憎しみの感情であって、それは神の御怒りに満ちた裁きから身を避けようとする人類の自己防衛の手段であり、永遠から切り離されて滅びに定められた者たちの生んだ悲痛な「死の美学」であることも、すでに確認した通りである。

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 (上二つの画像は、映画『龍の正体』から)

筆者はこれと同じ自己保存・自己防衛の願望を、戦前・戦中の日本の国体思想に、またユダヤ教メシアニズムにも、見出さずにいられない。

第二次大戦中の日本の沖縄戦における集団自決、そして、マサダの集団自決などに流れる思想は、根本的に全く同じものであると筆者はみなしている。つまり、それは、まことの父なる神の承認によらず、父なる神を避けて、人類という「母子」が、自らの力で自分たちのルーツを浄化して、神からの恵みと承認によらず、自力で神の神聖に至り着くことができるかのように主張して、自己防御しようとした結果、必然的に行きついた悲惨な滅びなのである。

そこには、己の力で神に達しようとする者が、霊的に罰せられずには終わらないというバベルの塔と同じ原則が働いている。

おそらく今日、ホロコーストを生き延びたユダヤ人によって建設されたイスラエルでも、自己防衛のための団結の願望は、以前にもまして強いものとなっていることが予想される。それがパレスチナ住民たちに対する攻撃の激しさの中にも現れているのだろう。

なお、プロテスタントの宗教改革の指導者であったマルチン・ルターは、ユダヤ人をキリスト教に改宗させることができると望んでいた間は、ユダヤ人を擁護していたが、それが不可能であることが分かってからは、ユダヤ人を激しく批判したことも知られている。今日、ルターのそうした言説は、反ユダヤ主義を促すものとして非難の対象となることもあるが、いずれにしても、人は神の恵みによって、信仰によってしか救われないとするキリスト教の信仰が、人は律法を守ることによって救われるとしているユダヤ教の理念と相容れないことは確かであるから、ルターによるユダヤ人への批判の中には、不思議とは言えない部分がある。

こうしてキリストを拒んだがゆえに、都を破壊されて失い、さらにプロテスタントのキリスト教徒からも激しい非難と迫害を受け、全世界に散らされた歴史的過去は、今日のユダヤ人には、トラウマに近い感情を残しているのではないかと想像される。それだからこそ、その悲痛な歴史的記憶の只中から、より一層、強固な自己保存、自己防御の感情が生まれて来るのであり、それが彼らのメシア待望という、聖書の神に最終的に逆らう終末の反キリストを生み出す原動力となって行くのではないかと考えられるのである。

人は信仰によって何かを獲得するためには、神が定められた約束の時まで、忍耐強く御言葉の成就を待つことが必要とされる。それは、あくまで神の決定としての御言葉の成就であって、人間の側からの欲望に基づく思いつきではなく、その約束を成就して下さるのも神である。そして、神がご自分の約束の成就される時、それは決して人間の肉欲を満足させる形で成し遂げられることはない。

だが、人は肉の情欲によって、神の約束を待つことができず、性急に自分で自分を保存しようとする。そして、常に感覚的満足(快楽)を欲し、己が力で成果を勝ち取ることで、神を喜ばせることができると考える。

しかし、どんなにそこに悲痛なまでの幸福への希求の思いが込められていたとしても、神の御言葉に立脚しないものは、すべて真のリアリティを持たず、永続性がない。だからこそ、肉によって生まれる子は、霊によって(信仰によって)生まれる子よりも、先に勢力を増して勝ち誇るがものの、その勢いは、ほんの一時的でしかなく、肉によって生まれたものは、神の計画によらないため、初めから滅びを運命づけられ、すぐに消えて行くのである。

「人は皆、草のようで、
 その華やかさはすべて、草の花のようだ。
 草は枯れ、
 花は散る。
 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」(Ⅰペテロ1:24-25)

そこで、当ブログでも、己が肉の力を誇り、この世の栄耀栄華を誇るクリスチャンに偽装する指導者らの唱える幸福が、草のようにしおれ、消失して行くのは当然だと主張している。

当ブログでは、とある宗教指導者の家庭に降りかかった様々な不幸のことにも言及したが、これもまさに、以上で述べた通りのバビロンに働く聖書の原則が成就したものに過ぎず、筆者が述べている個人的な見解ではない。

これに対する唯一の処方箋は、悔い改めて神に立ち帰ることである。

「それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはあなたがたを、おのおのそのおこないに従ってさばくと、主なる神は言われる。悔い改めて、あなたがたのすべてのとがを離れよ。さもないと悪はあなたがたを滅ぼす。 あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」。 」(エゼキエル18:30-32)

かつてイスラエルの家が責められているように、今、プロテスタントの神の家と呼ばれる教会やその牧者たちも責められているのである。

だが、彼らが依然として、悔い改めを退け、己が富、権勢、支持者の人数、家庭、所属団体の規模、安楽な生活などを誇り、貧しい主の民を蔑み、嘲笑し続ける限り、彼らの繁栄は束の間の風のように過ぎ去るであろう。

主イエスが地上の都エルサレムに対して下された宣告と、その後のエルサレムの歴史、そして人類の肉に対する滅びの宣告を、私たちは思い出すべきである。

肉の思いは死であり、霊の思いは命と平安であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。」(ローマ8:6-8)
 
だが、何一つ絶望する必要がないのは、エクレシアは最終的に、「夫ある女よりも多くの子を生む」と言われており、バビロンの栄耀栄華をはるかに超えて、永遠に至る栄光を約束されているからである。

だからこそ、私たちは地上にある間、己が権勢や、能力を誇らず、より一層、神の御前に「夫を持たない女」「やもめ」「子を生まない女」として、キリストだけを待ち望んで生きるつつましい純潔の花嫁、聖なる天の都を目指したいと願うのである。

たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。(2)

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じなければならないからです。」(ヘブライ11:6)

神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、
 決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。
 だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます。
 
 「主はわたしの助け手。
 わたしは恐れない。
 人はわたしに何ができるだろう。
 
 あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。
 彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見習いなさい。
 イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。
 いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません。」(ヘブライ13:5-8)

* * *
   
神の国の権益を真に確保しようとするクリスチャンが、誰であれ迫害を受けることは、イエスが聖書の随所で予告しておられることである。

暗闇の勢力による神の子供たちへの理由なき激しい憎しみは、地獄から来る。悪魔は人殺しであるから、最終的には、悪魔は神の子供たちを殺害しようとする。それが許されない間にも、悪魔と暗闇の勢力は日々、正しい人々に対して精神的殺人を繰り返している。

だが、私たちはこのような地獄の軍勢の激しい憎しみを恐れたり、その前にたじろぐべきではない。主の御名のために犠牲を払うことは、貴い価値あることであり、そして、神は御自分を呼び求める民を決して孤独の中に打ち捨てておかれることはないから、私たちは御名のゆえに悪しざまに言われることを決して恐れることなく、これを大いに喜ぶべきであろう。天での報いは大きいからである。
 
オリーブ園の連載でも、オースチンスパークスの次のような記事が掲載されている通りである。

「キリストとの合一」第二章 彼の地位――御父の愛によって(4) から抜粋

キリストの権益の前進を目的とするものはみな、それが何であろうと、ただちに邪悪な嫉妬、疑い、憎しみ、偏見、そしてもし可能なら殺害の対象となります。この反対は、人々に関する限り、何の理由もなく生じます。取り調べや調査もせずに生じます。それはたやすく、自動的に生じます。そして、それは極めて理不尽で非合理的な姿勢で取り囲まれます。そういった姿勢の多くは公正な調査で破綻します。しかし、それは存在します。どうして人々はこの手のものに捕われてしまうのか、という疑問が依然として残ります。しかし、それがどこから来るのか、私たちはよく知っています。そして、それは御子に関する神のあらゆる働きに対する愛とは正反対なのです。



さて、今回は、エルサレム問題の根底にある思想的対立を考えるに当たって、極めて重要な鍵となる、聖書に登場する「二人の女」について触れたい。もちろん、ここで言う「女」とは、象徴であって、二種類の人類のことを指す。

おそらくこのテーマは、今日、ほとんどの教会で語られることがないものであろう。なぜなら、こうしたテーマは、多くの女性にとって、あまりにもデリケートな問題をはらんでおり、ともすれば、誤解を持って受け止められかねないためだ。

だが、これが聖書において極めて重要なテーマである以上、私たちはこのテーマを避けて通ることはできない。そして、当ブログではこれを題材として書くに当たり、今ほどそれに適したタイミングはないものと思う。

当ブログにおいては、人類は神の助け手として造られた霊的な女性であるということを、繰り返し述べて来た。

創世記では、神は最初の人類であるアダム(男)からエバ(女性)を創造された際、次のように述べられた、「また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。 」(創世記2:18)

以上のフレーズを指して、これはアダムからエバが造られたことを意味するだけでなく、神がご自分のための助け手として人類を創造されたことを指しており、その意味で、「神の独り言」であると述べた人もある。

つまり、このフレーズには、アダム(男性)の助け手としてエバ(女性)が造られたというだけでなく、神がご自分の聖なる独り子のために、助け手、花嫁として、人類を創造されたという意味が込められているのである。

そこで、神の助け手として造られた人類は、霊的には女性である。そして、人類がどのような「女」として生きるのかは、一人一人にとって非常に重要である。

さて、聖書に登場する一人目の「女」は、神の恵みによって救われて、聖なる花婿なるキリストを忠実に待つエクレシア(教会)を指す。

しかし、彼女は花婿なるキリストがまだ目に見える形で現れていないがゆえに、「未婚の女」、「夫に捨てられた女」、「やもめ」などと呼ばれ、かつ、「子供を産まない女」として蔑まれる。以下のガラテヤ人の手紙に引用されている箇所は、エクレシアを指したものである。

「喜べ、子を産まない不妊の女よ、
 喜びの声をあげて叫べ、
 産みの苦しみを知らない女よ。
 一人取り残された女が夫ある女よりも、
 多くの子を産むから。」(ガラテヤ4:27)

他方、もう一人の「女」とは、エクレシアとは対照的に、神の恵みによって救われるのではなく、自力で神に至り着こうと、神の御言葉を捨て、手っ取り早く、己の情欲に身を委ねる、堕落した教会、バビロンである。

バビロンは、キリストだけを孤独や試練の中で待ち続けることを嫌って、己の欲を満たすために、非常に多くの愛人(異端の教え)と霊的姦淫を重ね、忌むべき子を産み、それゆえ、黙示録では「大淫婦」という恥ずべき名で呼ばれる。また、富んでおり、貧しさや孤独を知らないことから、「女王」や「夫と子供のある女」にたとえられる。

「彼女は心の中でこう言っているからである。『わたしは女王の座に着いており、やもめなどではない。決して悲しい目に遭いはしない。」(黙示18:7)

あなたは言った、「わたしは、とこしえに女王となる」と。そして、あなたはこれらの事を心にとめず、またその終りを思わなかった。 楽しみにふけり、安らかにおり、心のうちに「ただわたしだけで、わたしのほかにだれもなく、わたしは寡婦となることはない、また子を失うことはない」と言う者よ、今この事を聞け。」(イザヤ47:7-8)

バビロンは、見た目には富んでいて悲しみを知らず、幸福の絶頂にあるように見えても、情欲のままに生きる、堕落した人類として、その末路は厳しいものとなる。

それは、彼女が罪に生き、主と共なる十字架を通して己が情欲に対して死んでキリストだけをを待ち望むエクレシアの孤独と貧しさを蔑み、神の聖なる御心を成就する新しい人類を憎み、迫害し、神の御言葉を退けたからである。

ちなみに、かつて当ブログでは、バビロンが「混ぜ合わせた杯」を持っていることに触れたが、この言葉は、共同訳では「彼女が注いだ杯」(黙示18:6)となっており、この言葉に、異なる性質のものを混合するという意味は特に込められていないようである。

だが、バビロンはそれ自体が、混合の教えである。ぜなら、バビロンはキリストを知らないがゆえに罪に生きる人類を指すのではなく、キリストの教えを知っていながら、これを受け入れず、うわべだけ神の教えで身を飾り、内実は、堕落した生き方を続けるキリスト教と異教的要素が合体して生まれる背教を指しているからである。

従って、バビロンが持っている杯には、混合物が注がれていることは容易に想像がつくが、同時に、それは彼女が聖徒らを迫害に酔いしれながら流した血や彼らの苦悩を混ぜ合わせた杯であると考えられるのである。

聖書のプロットは、ある意味、最初から最後まで、この「二人の女」の相克と、最終的なエクレシアの勝利を描いたものであると言うことができよう。

人類最初の女であるエバは、系統としてはバビロンに属する。彼女は、エデンの園で、神が、それを食べれば死ぬから食べてはいけないと禁じた善悪を知る木の実について、あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」(創世記3:4-5)と言った蛇の誘惑に負けて、己の力で、神のようになろうとして、神の掟を捨てて、その罪のゆえに堕落して、夫と共に楽園から追放された。

「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。 」(創世記3:6)とある通り、エバは自分を喜ばせてくれる感覚に身を委ね、己の情欲に従って生き、それによって神に到達しようとして、堕落したのである。

以来、人間の堕落した肉は、罪と死の法則に支配され、神に従い得ないものとして、滅びに定められた。そのため、すべての人類は、生まれながらに滅びゆく神の御怒りの子となったのである。

肉の思いは死であり、霊の思いは命と平安であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。」(ローマ8:6-8)

エバは夫と共に子供を産むが、生まれた子供の間では、早くも人類最初の殺人が起きた。

兄であるカインは、地の産物を得る者、すなわち、肉の欲望のままに生きて神に反逆する民を象徴していた。他方、弟アベルは羊を飼う者、すなわち、まことの羊飼いなるキリストおよびキリストに連なる民を象徴する者であった。

カインは地の産物を神に捧げものとして供えたが、弟アベルは、動物のういごの犠牲を神に捧た。そして、カインは、弟の供え物だけが神に受け入れられたのを見て、弟アベルを激しく妬んで、野原に連れ出して殺害した。

こうして、最初の人類の子であるカインとアベルの中にも、早くも「バビロン」と「エクレシア」につながる二つの系統の人類が、象徴的に現れているのを見て取れる。

むろん、誰もが知っている通り、アベルが理由なき憎しみによって殺されたのは、やがてキリストが堕落した人類の憎しみにより、罪なくして十字架にかかって殺されることの予表であった。

今日も、当ブログの証しが十字架の死に基づいているために、これに理由なき憎しみを燃やしている人々がいるが、冒頭でオースチンスパークスの論説に挙げたように、このようなことが、太古から今日まで、神への礼拝を巡って起きているのであり、神の御言葉を守る子供たちが肉によって生まれた子らに迫害されることは、歴史始まって以来絶え間なく続いている現象である。

この二系統の人類すなわち「二人の女」は、旧約聖書と、以下に引用するガラテヤ人への手紙の中で、アブラハムを巡る「二人の女」すなわち、ハガルとサラとして、よりはっきりした対比の中で描かれている。

ここでは、ハガルは、性急で、神が定められた時まで忍耐して待つことができず、何とかして自分の力で死を回避して、自己保存して生き残り、神に到達して永遠にまで至ろうとする人類の肉的な力とその情欲を象徴している。

他方、サラは、忍耐強く神の御言葉の成就を待ち望み、その信仰が認められて、ついに恵みによって、約束の永遠の命を得る忠実な神の子供たち(教会)を象徴する。

彼女たちを巡る話はよく知られている。アブラハムとサラは、百歳になっても子供が生まれなかったため、サラは夫アブラハムのために何とかして子孫を残そうと、己が知恵に頼って、自分の侍女(奴隷)を夫に差し出す。

ハガルはアブラハムのためにイシマエルを生んだが、自分が女主人よりも先に子供を生んだことで、高慢になって、サラを見下げるようになった。

さらに、ハガルが子を生んだ後で、サラとアブラハムは、高齢で子を産む能力を完全に失っていたにも関わらず、信仰によって、御言葉の成就として、「約束の子」であるイサクが与えられた。

その後、ハガルとサラの間には、壮絶な女の戦いが起きるようになり、さらにハガルの子イシマエルも、母にならって、サラの子イサクをいじめるようになった。

アブラハムは、ハガルとサラの板挟みになり、悩んだ末、神の御心を問い、その結果、肉の力によって生まれた母子であるハガルとイシマエルは、奴隷の出自であって、神の御心にかなわず、アブラハムの家の正統な後継者の資格を持たないため、二人を家から追放するしかないという結論に至った。

こうして、肉の力によって生まれた母子は、アブラハムの家から追放されて、約束の相続人としての地位から正式に排除されたのである。

さて、ガラテヤ書において、パウロは、ハガルとサラという二人の女が、霊的な比喩であるとみなして、次のようにその意味を解説している。

ここでは、ハガルは、人類が律法を守り抜くことで、自らの力で義とされ、神の聖にあずかることができると信じる「地上のエルサレム」、すなわち、ユダヤ教の教え全体を指している。

他方、サラは、人は律法を守ることによっては罪に定められるだけで、決して救われることはなく、救われるには、キリストの十字架の贖いを信じて受け入れることによって、神の恵みによって義とされるしかない、という信仰によって生きる「天のエルサレム」(教会)を指している。

「わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。

アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。

これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。

他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。なぜなら、次のように書いてあるからです。


「喜べ、子を産まない不妊の女よ、
 喜びの声をあげて叫べ、
 産みの苦しみを知らない女よ。
 一人取り残された女が夫ある女よりも
 多くの子を産むから。」

ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あなとき、肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じことが行われています。

しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。


この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。
」(ガラテヤ4:21-31,5:1)


ここでは、肉の力によって子を産み、早々に孤独とは無縁になった女奴隷ハガル(地上のエルサレム)が、約束の子を忍耐して待ち続けるサラ、(天のエルサレム)を、「子を産まない不妊の女」、「産みの苦しみを知らない女」、「一人取り残された女」、「やもめ」、「夫を持たない女」などと呼んで、罵り、蔑んだ様子がよく分かる。

ちなみに、旧約聖書におけるサラは、イサクを生んだことにより、「産みの苦しみを知らない女」ではなくなったし、アブラハムという夫があったので、厳密に言えば、以上の定義には当てはまらない。

それにも関わらず、サラがこのように呼ばれているのは、サラに生まれた子供が、信仰によって、神の恵みによって与えられた子であり、アブラハムとサラの肉的な力によって生まれた子でなかったことを指している。そういう意味で、サラは「夫のない女」と呼ばれているのである。

天のエルサレムが「夫のない女」と呼ばれているのも、彼女が、人間の生まれながらの肉的な力に頼って、収穫を得ようとすることがなく、ただ御霊によってのみ、永遠に残る実を生み出すという、神の教会の聖なる性質を表している。

このようにして、肉の力を誇る者は、早々に繁栄して孤独ではなくなり、幸福を勝ち取ったように見えるものの、それは永遠に残る実ではないため、神の御国では排除されて、忌むべきものとして滅びに定められ、かえって、孤独を耐え忍んで、神の約束の成就を待ち望んだ者が、約束の成就として、御国の後継者となる、という原則が示される。

この原則は、その後、聖霊によって乙女マリヤがイエスを生んだことで完全に成就する。

マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ結婚していないうちに、聖霊によってイエスを身ごもり、救い主が生まれた。イエスは、聖霊によって生まれたという意味で、人間の生まれながらの肉の力とは何の関係もなく、一切の罪による汚れや堕落と無縁の、神の聖なる独り子であった。

マリヤがキリストを生んだとき、「夫を持たない女」であったことは、キリストの生誕には、人の生来の肉の力が働く余地がなかったことを指している。

イサクが生まれるためには、アブラハムの介在が必要であったが、マリヤがキリストを生むに当たり、ヨセフの存在は、ないがごとくに影が薄くなっている。ヨセフは確かに悩んだ末に、御使いに示されて、マリヤを離縁せず、彼女の身の安全を守るためにベツレヘムまで付い、その後、イエスが生まれた後で、彼女の夫になったが、キリストが生まれたことには、ヨセフは何の関与もなかった。

こうして、聖霊によりキリストを生んだマリヤは、やがて御霊の実を結んで多くの収穫をもたらすエクレシア(教会)を予表している。

また、肉の力によらず、聖霊によって生まれた神の独り子なるイエスの出自は、私たちクリスチャンが、バプテスマを受けて地上の肉なる生まれ(下からの出自)に死んで、水と霊によって新しく上から生まれた出自を代表している。

クリスチャンは、キリストを信じ、水と御霊を通して、上から新しく生まれ、さらに、キリストの死と復活にあずかって、聖なる民とされているのであり、このように、キリスト者が、上から御霊によって生まれた者であることを指して、パウロは、「天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。」と述べているのである。

下から生まれた者は、肉の力によって生まれたのであり、罪と死の奴隷である。上から生まれた者だけが、御霊によって、命と平安の自由の中を歩むことができ。

とはいえ、私たちキリスト者も、贖われた者であるとはいえ、その贖いは、地上にあるうちには、まだ完成していない。

私たちの内で贖われているのは霊であって、堕落した魂と肉体は、依然として「罪と死の法則」に支配される旧創造(肉)に属する。それゆえ、信者が地上にいる間、古き肉の情欲に支配されないためには、肉に対して、主と共なる十字架の霊的死の働きが絶えず必要になるのである。

黙示録第12章には、竜(サタン)に追われながら、身ごもって男の子を産む「女」が登場する。これを何の比喩ととらえるのかは諸説別れるが、少なくとも、この女の子孫の残りの者たちが、「神の掟を守り、イエスの証しをまもりとおしている者たち」(黙示12:17)と呼ばれていることを見れば、この「女」は、天のエルサレムに属する者であることが分かる。

このくだりには、女とこれを迫害する竜(サタン)がいるだけで、女の夫たる者の影はない。この時点では、聖徒らを生み出すために、人間の肉なる力が全く必要とされておらず、人類にはまことの主人としてキリストが備えられているため、目に見える「夫」の存在が必要なくなっているためだと見られる。

このように、人類が肉の力で己が子孫を残すという「系図」の意味は、キリストが生まれた時点で終わったのだと言えよう。それ以降、神が注目しておられるのは、人類がどのような者を父母として、どんな系図によって生まれたのかではなく、その者が、果たして、御霊によって上から(キリストから)生まれたのか、それとも、肉なる力によって人類から生まれた堕落した人類に過ぎないのかということだけである。

地上に子孫を残さねばならないという考えは、人間が死ぬことを前提としてのみ成り立っている。一つの世代が死ぬからこそ、自分の命を次世代につなげようとするのであり、これは種としての人類が、自己保存の願望に基づき、世代が連続して続いて行くことによって、あたかもそこに永遠性が保たれているかのように見せかけるトリックのようなものに過ぎない。

だが、キリストによって新しく生まれた人類は、永遠の命を内にいただいているため、この自己保存の願望に支配される理由がないのである。イエスはこのことを指して、サドカイ派の人々と次のような問答をされた。

「復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。

「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけなければならない』と。
 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。

 イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の箇所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」」(マルコ12:18-27)

もちろん、この問答は、サドカイ派の人々が、復活を否定するために、イエスを陥れようとしてしかけた論争であったが、イエスの答えを見るならば、復活の時、すなわち、やがて来るべき神の国、新しい天と地においては、人類にはもはや死はないため、人類のうちに、夫も妻も存在しないことが分かるだろう。

強いて言うならば、その時には、キリストが人類の夫であり、人類がその花嫁なのである。ヨハネの黙示録に、

「更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。
そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。」(黙示21:3)

と書かれている通りである。つまり、この時こそ、神の助け手として、霊的に女性として創造された人類が、まさにあるべき地位について、幕屋としての責務を果たすのである。

だが、そうして新しい天と地が到来する前から、御霊を内にいただいているクリスチャンの内側には、神の国がすでに到来しており、従って、その者はすでに永遠の命にあずかっているわけであるから、死に追い立てられて、子孫を残さねばならないという切迫した生存本能からは解放されているだけでなく、その者にとっての第一義的責務は、地上で滅びゆく子孫を生み出すことではなく、滅びることのない永遠の実を結ぶこと(神の国の権益を増し加え、キリストに連なる者を信仰によって生み出すこと)である。

そのことを指して、パウロは、「今危機が迫っている状態にあるので、こうするのがよいとわたしは考えます。人は現状にとどまっているのがよいのです。妻と結ばれているなら、そのつながりを解こうとせず、妻と結ばれていないなら妻を求めてはいけない。」(Ⅰコリント7:26-27)と述べたのである。

このように、「めとったり嫁いだり」する行為は、人が有限なる肉体を維持するために、食べたり飲んだりするのと同じく、滅びゆく肉の古き情欲に支配されて起きる、この世の移ろいゆく有様に過ぎず、永遠とは何の関係もないものであり、そのことを、主イエスも次のように示されたのである。

「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。人の子が現れる日にも、同じことが起こる。」(ルカ17:26-30)

従って、終末の時代、すなわち、キリストの再臨が近づくに連れて、人が古き肉の情欲に従って、自己保存の願望に突き動かされて生きるのか、それとも、キリストにあって永遠の命によって生まれた者として、神の国の新しい法則(命の御霊の法則)によって生きるのかは、人の生死を分ける決定的な分かれ目になることを知るべきである。

キリストが近づいているにも関わらず、依然として、罪と死の法則に支配されて己が情欲に生きる者は、時が来ているのにそれが分からないまま、この世の些事に没頭しているうちに、滅ぼされてしまう危険があると警告されているのだ。このように、神の御心に反し、それをとらえることに失敗する人々の没頭しているこの世の些事に「めとったり嫁いだり」という行為が含まれていることは、見逃すことのできない事実である。

すでに示した通り、黙示録の終わりには、小羊なるキリストと、聖なる花嫁なる天のエルサレムとの婚礼が描かれており、神の目から見て、最も重要な「婚礼」は、ここにある。

婚礼の祝宴に招かれているのに、それに注意を払わず、己の命の心配だけに心を費やしている人々は、みな神の御心が分からず、役に立たない僕として、滅ぼされるか、外の暗闇に追い出されてしまうのである。

「イエスは、また、たとえを用いて語られた。
天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。
 そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』

しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、その人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。


そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。

 王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。その者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」(マタイ22:1-14)

むろん、このたとえは、直接的には、まずはユダヤ人に救いが伝えられたのに、選ばれた民が、キリストを救い主として受け入れることを拒んだので、かえって異邦人たちに福音が伝えられたことを指している。

ルカによる福音書1第14章7-24節でも、同様のたとえが記されており、そこでは、祝宴に招かれたにも関わらず、出席を断った人々は、口々に「畑を買ったので、身に行かねばなりません。どうか、失礼させてください。」とか、「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください」とか、「妻を迎えたばかりなので、行くことができません。などという理由で、これを辞退する。

まさに、売ったり買ったり、嫁いだりめとったりして、己の欲に突き動かされて、個人的な生活に没頭していたことが、小羊の婚礼に彼らが全く注意を払わない理由だったのである。

このように、時代が終わりにさしかかるに連れて、神はますます人類の肉なる力には注目されなくなり、滅びゆく人類が、己が力で子孫を残すことは、何の重要性もなくなるどころか、神の御旨に悪質に対立する行為にさえなり、その代わりとして、目に見えない花婿キリストが、花嫁として準備が整ったエクレシアを迎える真の婚礼の喜びに、誰があずかれるのかという問題が、クローズアップされる。

なお、聖書では、終末が近づくに連れて、すべてのもののスケールが拡大している。創世記では、蛇であったサタンは、「巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者」(黙示12:9)と呼ばれている。

そして、バビロンは、大いなる都として発展しており、おそらくは堕落した世界的な規模の一大宗教勢力にまで拡大している。

すでに述べた通り、バビロンは、うわべだけキリスト教の装いをしているが、異教と混合した堕落した疑似キリスト教である。そして、「彼女の罪は積み重なって天にまで届き、神はその不義を覚えておられるからである。」(黙示18:5)とある通り、バビロンは高慢になって、おそらく己が力で天にまで到達しようと、天にまで達するほどの罪をうず高く積み重ねたのである。

これに対して、エクレシアに連なる人々は、獣およびバビロンからの様々な迫害を受けて散らされ、荒れ野に逃げたり、殉教したりしているものと見られるが、バビロンの倒壊後には、聖なる都エルサレムとして姿を現す。これも巨大な都であり、二度と主から離れることのない、聖なる永遠の都として確立する。

このように、主の民は、バビロンと獣からの迫害の中、巨大な試練を受けて、徹底的な弱さの中で、信仰によって、神の力だけによって強められることを知って、すべての試練に勝利をおさめた後で、花婿なるキリストを迎える準備を整えた純潔の花嫁として姿を現すのである。

* * *

さて、以上に挙げたような聖書のくだりを見ても、地上の目に見える都であるエルサレムは、本質的に堕落した都バビロンに通じるものではあっても、贖われた民からなる聖なるエルサレムとは、何の関係もないことがすぐに分かる。

聖書の御言葉のどこを見ても、現在、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の三大宗教の聖地とされている地上のエルサレムが、キリストの再臨と大いなる関係を持つ神聖な都であるなどという事実は全く見いだせない。

「また、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っており、小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた。」(黙示14:1)という黙示録の記述をも、額面通りに受け止めて、キリストが再臨されるのはシオンの山だ、などと言うことはできないであろう。

なぜなら、聖書が一貫して私たちに告げていることは、私たちの目指している都は、地上の都ではなく、「天の故郷」だということだからである。

こうして天のふるさとに達するためにこそ、私たちは目に見えるものに目を留めず、この世的な富、己が欲望を満たすことに心を砕かず、この世に深入りすることなく、かえって、イエスの負われた辱めを身に受けて、宿営(目に見える神殿)の外に出て、みもとへ行こうとしているのである。

「それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに行こうではありませんか。
わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです。」(ヘブライ13:12-14)

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。

もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブル11:13-16)


このように、私たちが求めているものが「天の故郷」であると聖書が告げているのに、どうしてキリスト者が地上の国であるイスラエルの建国や、エルサレムにおける神殿建設などに注目する理由があろうか。

むしろ、救い主であるキリストが来られたのに、これを受け入れず、十字架につけて殺したユダヤ人たちが、聖なる場所として尊んでいた地上の都エルサレムに向かって、主イエスが、どのように厳しい宣告をなされたかを思い出すべきである。

「「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。

イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはできない。」(マタイ23:37-39.24:1-2)

主イエスの言葉は、西暦70年に成就して、エルサレムはローマ軍の進軍によって陥落した。エルサレム神殿はその時に滅ぼされて壊滅し、神殿に入れば安全だと考え、そこにたてこもっていたユダヤ人は殺害され、ローマの進軍を避けてマサダに逃げたユダヤ人たちは、そこで集団自決を遂げた。マサダとは「要塞」の意味であり、この要塞へ続く道が「蛇の道」と呼ばれていたことも、偶然とは思えないような話である。

そのとき、「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。」(マタイ24:15)との主イエスの警告も成就したと解釈されるのである。

だが、今日、プロテスタントの信者の一部(キリスト教シオニズムに影響を受けた人々)は、この御言葉には、将来的に起きることを告げる二重の意味があって、やがてエルサレムにユダヤ教の神殿が建設され、そこに反キリストが立つことを預言したものであるとみなし、こうした出来事が成就するのを手助けすることによって、キリストの再臨を早めることができるなどと主張する。

だが、それではまるで反キリストを目に見える都の神殿に立たせることで、キリストの再臨を促そうと言っているのと同じであり、そのためにイスラエルを支援するなどというのは、ほとんど荒唐無稽と言う他ない。

むしろ、こうした状況を吟味すれば、推測できる結論はただ一つであって、反キリストは、異邦人の中からではなく、まさにユダヤ教徒が待望する「メシア」を名乗って、地上の都エルサレムに登場して来るだろうということである。そして、欺かれた一部のキリスト教徒らが、これを聖書預言の成就のため、キリストの再臨のためと称して、イスラエルの諸政策に賛同することで、今からバックアップしようとしているだけなのである。


従って、こうした考えの中には、ユダヤ教とキリスト教の混合という恐るべき発想が込められていることを見なければならない。トランプ米大統領も、娘夫婦がともにユダヤ教徒であり、ユダヤ教の強い影響を受けていると見られるし、トランプの支持層とされるプロテスタントの信者らも、シオニズムが、聖書に合致するものであるかのように思い込むことで、その実、ユダヤ教からの影響力を取り込み、ひどく欺かれているだけであることに気づいていないのである。

だが、日本のプロテスタントも、こうした欺きとどこまで無縁であれるのかは疑わしい。日本のプロテスタントは、米国プロテスタントにあまりにも大きな影響を受けており、さらに、日ユ同祖論などの荒唐無稽な説も流布されており、それを信じて、日本人の生まれながらのルーツを神聖なものとみなそうとする信者すらも現れている。

そのため、日本のプロテスタントにも、イスラエルの行っていることを聖書の御言葉を結びつけて正当化しようという考えがかなり広く普及している。日本が第二次世界大戦中にナチス・ドイツと同盟国であったなどの歴史的過去への罪悪感も、それに影響を与えていることであろう。

こうして、地上のイスラエルという国を、あたかもメシアを生み出すための神聖な母体であるかのようにみなす思想が、プロテスタントの中にも、まことしやかにキリスト教の仮面をつけて入って来ているのであり、こうした動きはすべて、筆者には、目に見える宗派としてのプロテスタントが、反キリストの到来へと整えられつつあることの現れであるように見受けられる。

だが、もちろん、このようなキリスト教シオニズムは、聖書の記述を文字通りに真理であると信じる信仰とは何の関係もない考えであるから、それは聖書信仰に基づく思想ではあり得ないこと、むろん、当ブログの見解とも何の関係もないことを、何度でも断っておかなければならない。

* * *

さて、パウロの言葉の中で、今日、信者の間で多くの議論を呼んでいる箇所がある。それはテモテへの手紙第一の中で、パウロが次のように述べていることである。

「婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。この言葉は真実です。」(テモテ一2:12-15,3:1)

今日、ほとんどの教会は、これを文字通りの原則として取り入れるようなことはしていない。

私たちは、主イエスが地上でまだ幼子だったとき、エルサレムの神殿で、長子を神に捧げるための儀式を行うに当たり、シメオンとアンナが彼を出迎えたことを知っている(ルカによる福音書第2章)。そのうち、アンナは八十四歳になったやもめの女預言者であった。

このように、この時点でも、神殿には女預言者が仕えていたのであり、今日のプロテスタントにも、多数の女性牧師や説教者がおり、今日のプロテスタントでも、女性が教会では黙っていなければならないとか、女性が子を産むことによって救われるなどという教説を教えている教会はまずない。

なお、ローマ帝国においては、女性には基本的に市民権が与えられておらず、政治参与が認められておらず、その点でローマの女性たちの教養がひどく低かった可能性は考えられ、パウロが、そうした事情の下で、以上の言葉を、文字通りの意味で使っていた可能性も全く考えられないとは言えないものの、それがパウロの勧めという域を超えて、聖書の原則に合致するものであると言えるかと問えば、答えは否であろう。

なぜなら、以上の言葉は、パウロ自身がガラテヤ書で、天のエルサレムを「夫のない女」「子を産まない女」にたとえていることと、全く矛盾するからである。

さらに、イエスがスカルの井戸で出会われ、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:14)と告げられ、かつ、「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。<略>まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:21-24)と告げられた女も、ユダヤ人からは蔑まれているサマリヤの女であり、しかも、かつては五人の夫があったのに、イエスと出会った時には、夫ではない者と連れ添っている女であった。

このように、聖書の原則は、強い者ではなく弱い者、高ぶる者ではなくへりくだる者、人に認められて評価される者ではなく蔑まれる者、選ばれた者ではなく見捨てられた者、人の目から見て取るに足りない者、無に等しい者を、神は常に用いられるというものである。

従って、以上に挙げたパウロの言葉も、一種の比喩としてとらえられる。つまり、ここで言われている「婦人」とは、エクレシア全体すなわち人類を指しており、男から女が造られたように、人類は神の助け手として、神に仕えるために創造されたのであって、その意味で、神と人類、キリストとエクレシアとの主従関係は、逆転されてはならないものである。

人類には神に言い逆らうことはできず、御言葉に従わなければない。だが、エバが蛇に最初にそそのかされたように、人類は神に背いて堕落したのであって、もともと罪になびきやすい性質があるゆえ、イエスの御言葉に従うためには、自分の堕落した肉の力である情欲に対して、絶えず十字架の霊的死を帯びていなければならない。そして、偽りの教えに惑わされず、固く信仰に立ち続けて、たゆみなく善を行うならば、高ぶって滅びゆく肉の子孫を誇るのではなく、キリストに連なる永遠に至る収穫をもたらし、神に喜ばれることができるだろう。

「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。」(ガラテヤ6:7-10)

従って、神が人類に求めておられるのは、どこまでも肉の力によらず、信仰によって、永遠に至る実を結ぶことなのであり、己の欲により目に見える成果を残すことではない、ということが分かるだろう。

そういう意味で、今日のキリスト教の礼拝は、ますます目に見えるものから解放される必要に迫られていると言える。すでに述べたように、プロテスタントは、神への礼拝を教会の目に見える様々な装飾からくる感覚刺激から解放し、信者をより深い御言葉への知的理解へ向かわせた点で、大きな信仰の回復を成し遂げたが、今日、私たちは、神への礼拝をさらに目に見える指導者や、目に見える礼拝堂からも解放して、「この山でもエルサレムでもない所で」、より一層、見えないキリストを通して父なる神にのみ捧げる必要に迫られている。

そこで、目に見える既存の教団教派が、今後、ますますバビロン化へ向かう一方で、御霊の働きは、地上では何も持たないつつましい「やもめ」として、目に見える団体や指導者にではなく、見えないキリストだけに頼って歩む、エクレシアの各々の信者の中に受け継がれて行くであろう。

«たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。(1)