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2009年11月 8日 (日)

神のために生きる

「わたしたちは認識する必要がありますが、神に自分自身をささげる力は神の現われを通して生じます。それは神の啓示から来ます。献身について語る人が必ずしも自分をささげているわけではありません。献身を宣べ伝える者、あるいは献身の教理を理解している者が必ずしも献身している人ではありません。神を見た人だけが献身した人なのです。

神はアブラハムに現れました。すると直ちにアブラハムは神に祭壇を築きました。主イエスがダマスコの途上でパウロに出会われると、パウロは直ちに尋ねました、『主よ、わたしは何をすべきでしょうか?』(使途二二・十)。

わたしたちの霊的生活の転換点は、神のために何かをしようと決心することから来るのではありません。それは神のためにあれこれ行う決心をした結果から来るのではなく、わたしたちが神に出会う時に来るのです。

わたしたちが神に出会う時、わたしたちの生活の中に根本的な変化が起こります。わたしたちはもはや過去に行ったことを行うことができません。わたしたちは神ご自身に出会う時に自分自身を否む力を持ちます。神に出会う時に自己を否まないわけにはいかなくなります。神の現われは、自分ではやっていけなくさせ、もはや自分自身によって生きられないようにするのです。

神の現われは無尽蔵の力をもたらします。そのような現われはあなたの一生の行程を変えてしまいます。クリスチャンが神のために生きる力は、神のビジョンに基づいているのです! 主に仕えることはわたしたちの決定ではありません。わたしたちを神に仕えさせてくださるのは主なのです。祭壇を築くのはわたしたちの意志ではありません。祭壇を築くのは神が人に来られる時なのです。

 主に感謝します。神は現れる時に何かを語る必要がありません。しかし、多くの時、神は現れる時に何か言葉があります。神はアブラハムに現れた時に言われました、『わたしはあなたの子孫に、この地を与える』(創十五・十八)。神の現われはわたしたちを一つの新しい嗣業の中へともたらします。聖霊はわたしたちが将来、完全に獲得する嗣業の一部分として与えられているのです。今日、わたしたちが聖霊の中で受けているものは、将来、完全にわたしたちのものとなるでしょう。神のご計画が成就される時、わたしたちは完全な嗣業の中に入ります。」(ウォッチマン・ニー著、『祭壇と天幕の生活』、p.5-6)


 ニー兄弟が書いているように、献身とは、決して、今日、一般的に考えられているように、クリスチャンが自ら望んで、自力で自分を神に捧げる行為のことを指すのではない。献身は、神の現われに応じて自然に起こるものである。
 神がある日、私たち自身にはっきりと分かる形で、私たちの人生を訪れられる。そのようにして、私たちが自分に死なされる日は、常に向こうからやって来る。神の現われは、私たちを自然と内面的に倒れさせてしまう。ちょうど、ダマスコ途上で強烈な光によって倒されたパウロのように、私たちは、神の現われを見せられる時、自分が罪ある者として死んだように無力にされたことを感じる。

 その死を経て、起き上がった時には、私たちは復活のイエスの新しい命によって生かされており、自分の人生が根本的に変えられてしまったことが分かる。なぜなら、私たちはもはや、かつてのようにエネルギッシュに自分の願いや欲望の達成を目指して生きることができなくなってしまうからだ。あれほど活発であった自己は無力化されて、自己実現、自己満足、そういった類の、己を満たすための活動や、願いが、全て味気なく、魅力を失ってしまう。そういう事柄を思い浮かべるだけでも、むなしく感じられるほどである。

 そしてその代わりに、ただ神のために生きたいという、消えない願いが心に芽生える。主よ、どうかあなたご自身に、私を仕えさせて下さい。あなたと共に生涯を過ごさせて下さい! あなたのために、私はこの地上で何をすれば良いのか、教えて下さい。私の計画などもう要りません! あなたが教えて下さるのでなければ、あなたが許して下さるのでなければ、何事もいたしません。あなたからの答えがあるまで、私は一歩も動きません! 御心を示して下さい、あなたのためならば、私は命を失っても構わないのです! そういう祈りが自然に出て来る。それが、私たちに新しい嗣業が与えられたことの証である。

 新しい嗣業とは何か。アブラハムは目に見える約束の地での祝福を受けたが、今の時代において、私たちが受けるのは、「見えない約束の地」である「神の国」をキリストの御霊によって建設し、やがてキリストとともに支配し、天に朽ちない宝を積むという、はてしなく栄誉ある永遠へと続く仕事である。この約束の中で、最も輝かしい希望は、復活の体を持って再び来られるキリストである。この嗣業を受けた時から、私たちはその達成のために生きるようになる。

 だが、具体的には、一体、私たちが神の国にどのようにして貢献するのだろうか。もちろん、主が与えて下さるのでなければ、私たちは自分から何一つとして活動できないが、御国のための種まきの仕事は、時代によって、少しずつ、その形態と内容が異なるのではないだろうか、と私は思う。今日、そのような重要な話を、私はあるキリスト者とともにしていた。

 今日、一般的に、献身や召命の本質は、依然として、主に、活動内容にあると誤解されているが、実際にはそうではない。多くの人たちが、神に仕えるとは、何か特別な、見える働きをすること、特別な栄えある働きに従事することであると考え、それに参加しようと、積極的に志願している。あらゆる教団教派が、数え切れないくらいの国に、海外宣教師を競うように派遣している。どこの国に行っても、何らかのキリスト教的慈善団体が活動している。しかし、そんな事情のためにこそ、今日ほど、神の召しの本質がゆがめられている時代もないと言えるだろうと思う。

 たとえば、19世紀に献身し、中国伝道に生涯を捧げた英国人、ハドソン・テイラーがいる。彼はある時、神に出会い、そして、中国伝道への召しを与えられた。中国との国交もままならぬ時代、船での渡航、宣教は命の危険を伴うものであった。この時代には、多くの犠牲を払って、彼が中国へ到達することが本当に必要であった。彼はこの召しが心に与えられた時から、自分の生活が、宣教に耐えうるものであるように、訓練を開始した…。

 だが、現在、海外宣教をとりまく状況は、テイラーの当時とはあまりに異なっている。「ユビキタス・ネットワーク」がますます整備され、コミュニケーションの手段がますます時空間に制限されなくなった今の時代、海外宣教でなくとも、福音を宣べ伝えることそのものの意味も変わってしまっている。

 テイラーの当時は、宣教師が目的地へ行って、どれだけその地を実際に歩き回り、どれだけ多くの人々に聖書やトラクトを直接、手渡し、どれほど大勢の人々に向かって、直接、福音を語り聞かせることができるかが、宣教の決め手であった。それは常に命懸けの仕事であり、意義のある仕事であった。
 しかし、今は、便利なツールを通じて、24時間、あらゆる説教が世界中に配信されており、文明から置き去りにされたような非常に貧しい地域などの例外を除いて、ある意味、福音はすでに全世界に宣べ伝えられつつあると言える。さらに、大規模集会、クルセード、リバイバル集会、聖会といったものが各地で開かれ、海外宣教には、多くの惑わしも入り込んでいる。

 このようにして、福音に対する世界的なニーズの変化、聖書的に見た時代の変化、(さらに言うならば、背教の広がりのために起こった伝道の変質という事情)に伴い、今日、私たちが神の国のために種蒔く仕事が、100年以上も前の時代とは、いささか異なる内容になっていたとしても、不思議ではないものと思う。

 このように考えられないだろうか。今日ほど、私たちの「活動」ではなく、私たちの「死」が早急に求められている時代は、他にないのではないだろうか、と。今日ほど、私たちが何らかの外側の栄えある働きや、名誉ある地位に誘惑されずに、つまり、見える形での自己の達成を求めずに、ただ神の中に隠された命として生きること、神のためだけに生き、この世に死んでいくこと、見えるもの全てを拒絶して、見えない神の国をリアリティとして生きることが、御前に求められている時代はないのではないだろうか。

 私たちはとかく活動したがる。それが私たちの自己の本質から来る欲求だからである。私たちは片時もじっとしていられず、何らかの公的な立場や、立派な活動がなくては気が済まない。人が聞いて納得してくれるような仕事がなくては落ちつかない。そして、この世は私たちのそのような欲望を叶える手段には事欠かない。

 だが、実際には、そのような活動のほとんどは、(たとえ神のため、という名目であっても)、私たちの自己を殺すよりも、むしろ、延命させ、より活発化させることに貢献している。そこで結局、活動すればするほど、私たちの魂と肉が強められ、ますます神から遠ざかって行くという結果にならざるを得ない。従って、そのような栄えある数々の活動を求めるよりも前に、私たちはまず、神の御前での静まった生活(この世に死んだ生活)、神のために隠された生活、すなわち、神の御前で自分が全焼のいけにえとして死んでしまう暮らしを、徹底的に求めなければならない。祭壇とは、神のために、祭司が全焼のいけにえを捧げる場所である。そして、今日、全焼のいけにえとは、私たち自身のことである。

「全焼のささげ物が祭壇の上に置かれた目的は何でしょうか? それは完全に焼かれるためでした。わたしたちの多くは、自分を神にささげたのは神のためにあれこれ行うためであると思っていますが、神がわたしたちに求めておられるのは焼かれることです。

神は神のために畑を耕す雄牛を必要とされません。神は祭壇の上で焼かれる雄牛を欲しておられるのです。神はわたしたちの働きではなく、わたしたち自身を求めておられるのです。神はわたしたちが自分自身を神にささげて、神のために焼かれることを望まれます。

祭壇は神のために何事かを行うことを表徴するのでなく、神のために生きることを表徴します。祭壇は多忙な活動を持つことでなく、神のために生活することを意味します。どのような活動や働きも祭壇に置き換わることはできません。祭壇は完全に神のための生活です。

新約のささげ物は、完全に焼かれた旧約のささげ物のようでなく、ローマ人への手紙第十二章で言われているように生きた犠牲として体をささげることです。わたしたちは日々祭壇の上で焼かれますが、日々生きています。わたしたちは生きていますが、焼き尽くされます。これが新約のささげ物です。」(p.7)


 ウォッチマン・ニーは、上記の言葉を偽ることなく、実行して生きた。もしもニー兄弟が、人生の後半を、世界を忙しく飛び回る伝道者、宣教師として過ごしていたならば、極めて有能な人材になっていただろうことを疑う人はない。多くの魂が、彼のメッセージを通して、直接、救われたかもしれない。

 しかし、彼が選んだのは、それとはまるで正反対の道であり、福音を伝えるには、一見、極めて非合理的な方法だった。彼は活動を選ばなかった。彼はただ神のために焼かれ、神のためにこの世から隠されることだけを願った。そして20年間の獄中生活を通して、全焼のいけにえとして自分自身を捧げきった。たった一人の家族からも引き離され、福音を語ることもできず、食事も満足に取れず、所有物も制限され、外界と接触することもできない、極めて不自由な監獄と収容所の囲いの中で、死に際しても、無実の罪のために拘束されたまま、釈放されず、看取ってくれる者もないままで、有望な人生の極めて重要な月日を、外面的にはただむだに過ごしながら、神にだけ捧げきった。彼の地上での天幕の中には、死に際して、所有物はほとんど一つも残らなかっただろう。彼は自分に死んで、徹底的にこの世を否んだが、それによって、見えないリアリティであるキリストを得た。彼は見えない御国の中に、見える自分の宝を全て移し変えたのだとも言える。彼の献身と召しとを完成させているのは、彼の活動ではなく、彼の不断の死である。

 私たちが今日、献身や召命のイメージを思い浮かべる時、それは、きらびやかに注目されて、大々的に活躍する宣教師や、伝道者や、牧者のイメージではなく、まさに獄中に閉じ込められたニー兄弟のイメージであるべきだろう。神のために生きるとは、私たち自身が、神のために全焼のいけにえとして焼かれるために、自分自身を差し出すことに他ならならない。

「主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。」(Ⅰペテロ2:4-5)


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