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2009年12月14日 (月)

十字架に戻れ!(5)

再び補足:十字架の間違った取り扱い方について

最近、気づかされたことがあります。それは、十字架の概念が度々、交わりの中で、誤用されている現実があるということでした。この危険性は、私たちが気づかないうちに忍び寄って来ます。たとえば、人が人に身勝手な要求を突きつけ、思い通りにならない人を責めたり、あるいは、厄介払いするための根拠として、「十字架」が使われている場合があり、それが意識もせずに行われ、キリストの御身体に損傷をもたらしている場合があります。

日々の十字架は、人が上からの光に照らされて、自主的に選び、負うべきものであって、いかなる理由があろうとも、人が人にそれを当然のごとく負わせるべきではありません。たとえば、私たちがある人に向かって、「あなたのその汚れた思いや感情という、古い自己を、さっさと十字架につけて下さい!」と命令するのは正しいことでしょうか。間違っています。

あるいは、仮に私たちが耐えられないほど嫌な人間に出会ったとしましょう。それでも、「あなたのその古い人を早く十字架で対処してください! 私があなたとつきあうのはそれからです」と、相手に求めてよいでしょうか。いいえ。私たちには、正直に、自分の思いを相手に告げて、つきあいが困難である人から離れ去ることは許されるでしょう。しかし、自分の嫌悪感を正当化する根拠として、御言葉を利用し、「その人の古き人が十字架で対処されていない」問題を持ち出すのは間違っています。

十字架がある人の人生において、どの程度、具体的経験として理解されているかは、人によって違いがあります。クリスチャンは、日々、十字架をより深く理解し、経験することをすすんで追い求めるべきです。いつまでも信仰の幼子のようであって良いと考えるのは間違っているでしょう。ですが、だからといって、そのことが他人への当然の要求や、強制となってはいけません。

私たちは、ある人が、まだ経験したことのない十字架の深い意義を、無理にでも、その人に経験させようと強いるべきではありませんし、また、その経験のなさを、非難したりすべきでもありません。

また、人が人に何かの負担を強いることの口実として、「自己を捨てる」よう要求したり、「十字架で自己を死に渡す」よう求めたりしてはなりません。それは十字架の概念の悪用です。人が自分の愛の足りなさ、寛容のなさ、利己主義を覆い隠すための口実として、他人にとって不利な負担を「十字架」としてすすんで耐え忍ぶよう要求したりしてはいけません。人から要求される「十字架」(多くの場合、圧迫や非難としてやって来る)には、常に注意が必要です。それは実に多くの場合、十字架の誤った取り扱い方に基づいているからです。

主は「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われました(マタイ11:30)。また、「…日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(ルカ9:23)とも、言われました。神は常に人の自由意志を尊重して働かれます。私たちが強制されてではなく、自分の意志で、神が望まれる日々の十字架を選び取ることを、主は願っておられます。御霊は常に人の決定を待っていてくださり、人の意志を無視して働かれません。ですから、私たちは、御霊でないものから、十字架を強制的に負わされる必要はありませんし、十字架を理由に人から支配されたりしてはなりません。私たちはただ主から十字架を受け取れば良いのであって、人からそれを強制される必要は全くありません。

人が人に十字架を無理にでも負わせようとすることは、人が神に代わろうとする越権行為です。人が御霊の働きを越えて、他人に対して、「古き人が死ぬこと」や、「自分の命を捨てること」や、「十字架を負うこと」を求めるべきではありません。十字架はあくまで人の完全な自主性に基づいて選び取られなければなりません。また、人が十字架をすすんで負うためには、まず、その人の内側で、上からの聖霊による照らしと導きがなければなりません。人は御霊によって、日々、キリストの十字架へと導かれるのでなければなりません。もしそうでなければ、十字架の意味は全くありません。私たちは十字架について人に語り、勧めることは許されるでしょう。けれども、その人自身がまだ主から示されていない問題を、まるで当然のごとく、理解するよう人に要求してはいけません。また、苦手な人を排除する理由として十字架や古き人の問題を持ち出してはなりません。もしも、人の自主性を無視して、人から人への強制として押し付けられる十字架があるならば、それはたやすくカルトへと結びつくでしょう。

信仰暦の長さに関係なく、私たちは、御霊の働きを妨げるそのような越権行為を他人に対して気づかずにしてしまう場合があります。ある時は、私たちは、高慢ゆえに、主より先走って、人に犠牲を求めていながら、それを「十字架」という言葉で正当化している場合があるかも知れません。または、自分では気づかずに、自分に有利な状況を作り出すために、他人に「十字架」を課そうとしている場合があるかも知れません。私たち人間には、そのようにして十字架の概念を利己的に歪め、他人を支配する口実として用いる危険性が十分にあることをいつも覚えておく必要があります。そのような危険性の中に、気づかずに足を踏み入れてはいないか、自分を振り返る必要があります。

私たちは、決して、主の働きを越えてまで、その人の自主性を侵害してまで、あるいは、御言葉の本来の意図を外れてまで、自分勝手な理由で、人に十字架を強制することがないよう常に気をつけるべきです。十字架は、キリストが私たちに与えて下さった最も尊い御業です。十字架は、キリストの命の最高の表現であり、私たちに与えられている最大の恵みです。それは神と人との和解の場であり、人と人との和解の場でもあります。私たちを新しい人としてくれる唯一の通路が、十字架です。にも関わらず、尊い十字架を、私たちが互いに裁き合ったり、責め合ったり、排除し合ったり、利己主義をかなえたりする道具として使うことがないように、常に気をつけていなければなりません。

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