« この道から一歩逸れるだけで… | トップページ | 十字架に戻れ!(1) »

2009年12月 1日 (火)

キリストを着なさい

「わたしは耐え忍んで主を待ち望んだ。
主は耳を傾けて、わたしの叫びを聞かれた。
主はわたしを滅びの穴から、泥の沼から引きあげて、
わたしの足を岩の上におき、
わたしの歩みをたしかにされた。

主は新しい歌をわたしの口に授け、
われらの神に捧げるさんびの歌を
わたしの口に授けられた。
多くの人はこれを見て恐れ、
かつ主に信頼するであろう。

主をおのが頼みとする人、
高ぶる者にたよらず、
偽りの神に迷う者にたよらない人はさいわいである。
わが神、主よ、あなたのくすしきみわざと、
われらを思うみおもいとは多くて、
くらべうるものはない。」(詩篇40:1-5)


自分の力では絶対に這い上がれないほどの深い深い滅びの穴、罪の汚辱と汚泥の沼に落ちて、そこでもがき苦しみ、悲しみ、打ち砕かれ、絶望した経験のない人には、この箇所を心から理解することは難しいかも知れません。
しかし、神のご計画に従って召された者のために、万事を益として下さる神は、私たちがもしへりくだって、心から主に助けを叫び求め、己に頼らず、主に信頼し、主を信じて従うならば、どんなに深い罪の泥沼からでも、私たちを引き上げてくださり、どんなに取り返しのつかない失敗、どんなに赦されないほどの罪をも、御子の十字架を通して赦し、御子の御血によって私たちを罪から清め、愛によって私たちの恥を覆い、どうにもならない過去でさえ、主の栄光を証する機会へと変えてくださいます。

そして、御霊が私たちの内に宿り、働くようになる時、主は私たちの足取りを確かなものに変えて下さいます。私たちの歩みは、それまでのように、一歩、二歩、歩いては、またすぐに暗闇の中でけつまずいて、罪の泥沼に転落していくような、頼りないものではなくなり、まことの岩なるイエスをしっかりと土台とし、地ではなく、天をまっすぐ見上げて、サタンが足元にしかける罠を見抜いて進んで行けるほどに、堅固にされます。

御霊によって、私たちには新しい思いが与えられます。それまでのように、暇さえあれば、自分を憐れんで愚痴や不平不満を言い、心ふさぎ込んで悲しみに暮れ、あるいは、他人への妬みや陰口に明け暮れていたような汚れた思いが取り除かれ、主を思う新しい清い心が与えられます。
それと同時に、私たちの言葉も清められます。もはや以前のように日がな汚れた言葉ばかりを口にすることはできません。御霊が、私たちに神を賛美する新しい歌を授け、私たちに与えられた新しい心が、その歌を口ずさむよう促すのです。私たちは自分の心が、どういうわけか、いつも主への賛美へと戻って行くのを見て、自ら驚くでしょう。

そして私たちの周囲にいる人も、私たちを見て驚くのです。私たちの治りようのない欠点をよく知っており、私たちを見て、すでにあきらめていた人々、このような人間だけは、神でさえも、変えることはできないと、心ひそかに思っていた人々でさえ、私たちの思いや行動が、全く清められていくのを見て、目を見張り、神が確かに生きておられるのを知って驚くのです。

私たちは復活の主の証人です。私たちの口にする言葉、私たちの思い、私たちの人格、歩み、生きざまそのものが、十字架の死を経て、新しくされていなければ、それはクリスチャンの本当の歩みではありません。もしどの点から見ても、私たちが世人と何ら変わりなく、私たちの内に十字架の死の跡がなく、全く独りよがりな考えに導かれて歩んでいるだけだとすれば、そのような生活は明らかにキリストにならうものではありません。

しかし、私たちの古き人が対処され、私たちが内側から新しくされることは、決して、一瞬で済まされる事柄ではありません。回心は、ひょっとすると、一瞬で起こったかも知れません。しかし、私たちの古き人が対処されるためには、私たちが、生涯かけて続いていく十字架の深い働きに従わなければなりません。
私たちは、主を信じ、罪の汚れから救い出された後でも、自分が多くの点で、まだ古き人の特徴を引きずっていることに、きっと気づくでしょう。私たちは性急で、自分勝手で、主に従おうと思っても、少しもできないことを知り、苦闘します。主に従うと言いながら、その内実は、自分を喜ばせるために生きているだけであることを知って、落胆します。私たちの心の内に、汚れたぼろ服のような古き人にとらわれている自分自身に対する不満と、それを脱ぎ捨てて、キリストにふさわしい新しい人になりたいという切なる願いが起こらなければなりません。しかし、自力で自分を新しくすることはできないために苦しむのです。

私たちは、深いうめきをもって、主によって新しくされることを願わなければなりません。私たちがもしも、現在の自分の中には神への反逆となる要素は何もないと考え、少しも嘆くこともなく、自分に満足していられるのだとしたら、そこには神が働かれる余地は全くありません。ですが、もしも私たちが、心から、古き人から解放されて、キリストを着た新しい人となることを切に願い求めるなら、そして、そのために必要なもの全てを喜んで捧げ、主に従う決意を固めるならば、神はそこから本当に、私たちを新しくするための働きを開始されるでしょう。

私たちが喜んで従いさえするならば、十字架は、生涯、私たちの中で根気強く働き続けます。神の子供たちは、十字架を通して、永遠の命を受け取っただけに終わらず、十字架のさらなる深い働きを通して、肉体という幕屋の中にあるこの地上の歩みにおいても、主によって新しくされることを経験できます。地上にある間、この死の身体から完全に解放されることはできませんが、それでも、あなたがたはキリストを着なさいと、御言葉が教えているのですから、私たちはそれが十分に可能であると信じ、熱心に神に願い求めて良いのです。

世の多くの人たちでさえ、人間の自己があまりにも惨めなものであることを知って、何とかして自己から解き放たれ、自己を超越する方法がないかと探し求めています。古き自己から解放された、新しい人間たちの理想郷を作るために、人類は様々な社会理論をさえ考案しました。しかしそれらのものは一度たりとも人間を改良したり、新しくすることに成功したためしがありません。
キリストにある私たちは、古き人は改良することも、超越することも不可能であり、古き人はただキリストと共に十字架上で死に渡されなければならないことを知っています。私たちは、自己を改良することや、自己を超越することを求めているのではありません。キリストの死によって古き人が死に、キリストの復活の命によって新しく生まれるのでなければ、人間は誰一人、新しくされることは不可能であることをクリスチャンは知っています。

クリスチャンは、十字架の働きを生涯に渡って経験し続けるべきです。それによって、この地上にいる間にも、私たちが新しくされることが十分に可能であり、またそれが憐れみに満ちた神の御心によって、クリスチャン一人ひとりに与えられている大いなる特権であることを知るべきです。古き人を取り除くことは、神の働きです。私たちは主に信頼して、我が身を祭壇に横たえ、大祭司であられる主イエスが、御言葉の剣によって、私たちの肉と魂を刺し通し、私たちの内で、御霊を閉じ込め、御霊の妨げとなっている古き性質を徹底的に取り除かれることを願い求めなければなりません。そうすれば、日々、私たちは何が取り除かれねばならない古きものであるか、それが神に従うことのどれほどの妨げとなっているかを、御霊によって教えられ、それらのものから、一つ一つ、十字架を通して解放されていくでしょう。そうして古き人が十字架で死に渡されるごとに、私たちの内から、まことの命なるキリストの芳しい香りが外に向かって放たれるのです。
どうか、私たちが日々、この十字架の働きを経験することができますように! 私たちの中で十字架の働きがやむことがありませんように! 

「…あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しい人を着るべきである。」(エペソ4:22-23)

「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。」(ローマ13:14)

« この道から一歩逸れるだけで… | トップページ | 十字架に戻れ!(1) »

キリストと共なる十字架」カテゴリの記事

最近の記事

無料ブログはココログ