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2009年12月16日 (水)

御霊に導かれて歩む(2)十字架と聖霊

「再生された信者は、霊が生かされ、聖霊が彼に内住していますが、依然として肉的な信者のままであり、霊が魂や体によってなおも抑圧されていることがあり得ます。再生された信者が、霊的になるのに成功するために特別に歩まなければならない道が、一つあります。

 簡単に言えば、一人の人には、彼の命において少なくとも二つの大きな変化があります。すなわち、滅びゆく罪人から救われた信者に変わることと、肉的な信者から霊的な信者に変わることです。ちょうど罪人が実際において信者となることができるのと同じように、肉的な信者も実際において霊的な信者となることができます。神は罪人を信者とならせ、ご自身の命を持たせることができます。神はまた、肉的な信者を霊的な信者とならせ、ご自身の命をもっと満ちあふれるほどまでに持たせることができます。<…>

 聖霊だけが、信者を霊的にすることができます。聖霊の働きは、人を霊的にすることです。神の贖いの方法の按配において、消極面では、十字架は破壊する働きを遂行し、アダムからのものすべてを滅ぼします聖霊は、積極面において、建設的な働きを遂行し、キリストからのものすべてを建て上げます

信者が霊的になることを可能にするのは十字架であり、信者を霊的にするのは聖霊です。霊的であることは、聖霊に属することを意味します。聖霊が人の霊を強めるのは、聖霊がその人全体を治めるようになるためです。ですから、もしわたしたちが霊的になることを追い求めるなら、わたしたちは聖霊を忘れるべきでなく、また十字架を脇へ置くべきでもありません。なぜなら、十字架と聖霊は、左右の手として働くからです。そのどちらも欠くことはできませんし、またこれら両者のどちらも単独で働きをすることはできません十字架は常に人を聖霊へと導き、聖霊は常に人を十字架へと導きます。霊的な信者は、自分の霊の中で聖霊と共にある経験を持たなければなりません。」(ウォッチマン・ニー著、『霊の人』、第二巻、p.24-25)


 この箇所を読んでいて、かねてよりの疑問が私の中で解けました。十字架は人の内のアダムからの命(旧創造)を滅ぼす働きをし、聖霊は人の内にキリストを建て上げる働きをします。十字架と聖霊は共に切り離すことができないものであり、どちらかのみが単独で働くことは決してあり得ません。ところが、今日、広まっている誤った教えの中では、多くの場合、この二つが全く切り離されています。健全な教えから外れてしまった教会では、信者たちは、十字架と聖霊とを全く別個のものに分けてしまい、これらが互いに無関係に、あたかも単独で働くことができるかのようにみなしているところに、重大な危険性があります。私たちも、もしも十字架と聖霊との関わりを見落とすならば、簡単に誤った教えに落ちてしまうでしょう。

 たとえば、信者が聖霊を抜きにして、十字架の破壊する働きだけに注目し、そのことばかり重視し始めると、それは信者に病的な破壊作用をもたらします。信者はどれくらい十字架を通して自分の自己が死んでいるかと自分をつぶさに振り返って、自己分析にふけったり、自己批判、他者批判に熱中したり、あるいは、自己を早く処分しようと自己破壊に熱中して、ついには精神に破綻をきたすことさえあり得ます。信仰の教師たちが、幼子のような信者に向かって、「神のためにあなたの自己を十字架上で早く捨てよ!」と、求めるようなことがあれば、それは信者に対するマインドコントロールとなり、それに基づいて支配や強制が生み出され、教会はカルト化し、信者は精神崩壊へと導かれるでしょう。

 私たちは、聖霊を抜きにしてやって来る偽りの「十字架」を拒否せねばなりません。御霊は、必ず、人の最も奥深いところから、その人自身の自主性を尊重する形で働かれます。ですから、御霊によって人が十字架へと導かれる時、十字架は確かにその人の内側で、古き人を壊すという意味では破壊的な働きをしますが、しかしそれによって、その人自身が自己崩壊に至ったりすることは決してありません。むしろ、十字架の働きが進めば進むほど、ますますその人自身は命に溢れ、調和の取れた人間へと変わっていくでしょう。それは御霊が新しい真の命としてその人の内側で建て上げる働きをするからです。

 ところが、御霊によらない、外側からの圧力としてやって来る偽りの「十字架」は、人の自主性を簡単に侵害し、人格を押しつぶすことができます。サタンはこうして、十字架の概念を悪用することによって、御霊によらない十字架を作り出して信者を惑わせ、外側から信者にマインドコントロールをかけ、破壊的な作用を及ぼすことができます。そこには聖霊がないので、信者の人格が(十字架を名目に)ただひたすら壊されていくだけで、新しい命を建て上げる働きは全くありません。もしも、その偽りを見抜けずに、そのような破壊的な作用に従うならば、最後には、信者は精神に破綻をきたすでしょう。私たちはこのような聖霊によらない十字架を警戒しなければなりません。

 さらに、十字架と無関係にやって来る偽りの「聖霊」というものも、私たちは警戒しなければなりません。今日、聖霊の名を語りながら、超自然現象へと信者を熱中させ、信者を恍惚状態や熱狂的陶酔に陥れたりして、それによって信者の人格と生活に破壊的作用を及ぼしている誤った教えがありますが、そこには、十字架が全くありません。十字架は常に人をへりくだらせ、私たちの天然の命を対処しますが、十字架と無関係に働く霊は、人を高慢にさせ、天然の命をさらに(異常に)増長させる効果を及ぼします。

 このような欺きに惑わされないために、十字架と聖霊とは左右の手のように切り離せないものであることを、私たちはしっかり覚えておく必要があります。

 さて、本題に戻りましょう。私たちはクリスチャンになった後も、ほとんど御霊の導きを内側で感じたことがないほどにまで、肉的・魂的な信者である場合が多いものです。どのようにして、私たちはそのような状態から抜け出し、御霊の導きを聞き分ける信徒となることができるのでしょうか。

「聖霊は信者の中におられますが、信者はそれを知らないか、あるいは聖霊に服従しないかのどちらかです。ですから、彼は自分に内住しておられる聖霊を知り、完全に聖霊に服従しなければなりません。

信者は、神の聖霊が一人のパースンであり、信者に内住し、教え、導き、キリストにある『実際』と真理を信者に与えることを、知らなければなりません。聖霊のこの働きは、信者が、自分の魂がいかに無知で鈍いかを認め、自分は愚かであっても喜んで教えを受けたいと決心してはじめてなされ得るのです。信者は、聖霊にすべてを支配していただき、真理を啓示していただくよう願わなければなりません。

信者が、神の聖霊は自分の存在の最も深い部分に、すなわち自分の霊の中に住んでいることを知り、彼の教えを待つ時、聖霊は働きをすることができます。わたしたちが自分では何も追い求めることをせず、完全に教えを受けることを願う時、聖霊はわたしたちに真理を、わたしたちの思いが消化できる方法で教えることができます。さもなければ、危険性が生じます。

わたしたちが、自分の内側には霊、すなわち神の至聖所があり、それは思いや感情よりも深いものであり、聖霊と交わることのできるものであることを知り、そこにおいて神の聖霊を待つ時、わたしたちは聖霊が真にわたしたちに内住しておられることを知ります。わたしたちが彼を告白し、彼を尊ぶ時、彼はご自身の力と働きを、わたしたちの内側の隠された所から現し、わたしたちの魂と知覚の命に彼の命を得させます。」(p.32-33)

 このことからも分かるのは、まず、信徒はクリスチャンとなった時からすでに自分の内なる霊の中に一人のパースンであられる聖霊をいただいていること(クリスチャンになった後に聖霊が与えられるのではないこと)、また、聖霊は、決して私たちの意志に反して、私たちの自主性をないがしろにするような働き方をしないこと(強制したり、脅かしたり、圧迫したりしないこと)、また、御霊は、私たちの知識や思いや感情の受けいれられる限度を超えて、私たちが自分をコントロールできなくなるような形では働かれないこと、御霊は私たちの限界を考慮して下さり、私たちの内で秩序を守ってくれること、決して、私たちの精神や肉体に破壊的作用を及ぼすような形では働かれないことです。

 聖霊は私たちの自主性を尊重して、私たち自身が信仰を働かせて、御霊に従って生きることを自ら選び取るのを待っています。もしも私たちが、聖霊に教えを受けたいと願わなければ、聖霊は私たちに教えることはありません。もしも私たちが聖霊に支配していたきたいと願わないならば、私たちは御霊によって支配されることは決してありません。そして聖霊は、外からの刺激や圧迫を通じて私たちに働くのではなく、また、外から私たちに何らかの賜物として分け与えられるのでもなく、私たちが内におられる聖霊を信じて待つ時、御霊は、私たちの内側の最も奥深くから、新しい命そのものとして、命の力として、現れ出るのです。私たちの古き人を砕くための十字架は、日々外的環境を通して整えられることはあるでしょうが、たとえそのような最中にあっても、御霊の命そのものは、必ず、私たちの最も奥深い内側から(私たち自身の霊を通じて)現れ出るのです。

<つづく>

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