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2009年12月17日 (木)

御霊に導かれて歩む(3)ゴルゴタとペンテコステ

もしわたしたちが力を受けて、キリストのために証しをし、サタンと戦うことを欲するなら、聖霊で満たされる経験を求めないわけには行きません。確かに、今日、聖霊の満たしを尋ね求める人は日ごとに多くなっています。しかし、彼らが聖霊で満たされることと霊的力を受けることを尋ね求める目的は、何のためでしょうか? 

どれだけ多くの人が、見せびらかすために力を尋ね求めているでしょうか? 自己の肉をさらに輝かしいものにするための人が、どれだけ多くいることでしょうか? 人々を自分の前に倒れさせ、尋ね求めて戦うための活力を彼らから奪ったりするような力を、受けることを望んでいる人が、どれだけ多くいることでしょうか?

わたしたちは、霊的力を受けることにおけるわたしたちの動機が何であるかを、はっきりと見なければなりません。もしわたしたちの動機が神にしたがっておらず、また神から出たものでないなら、わたしたちはそれを受けることはないでしょう神の聖霊は、人の『肉』の上にはとどまられません。彼のとどまられる所は、神が新しく創造された霊だけです。

これは、わたしたちが外なる人(肉)を生きさせておきながら、神にわたしたちの内なる人(霊)を聖霊の中でバプテスマしてくださるよう求めることではありません。もし肉が対処を経過していないなら、神の霊は人の霊の上に下られません。なぜなら、肉的な人に力を与えることは、彼を高ぶらせ、さらに肉的にさえさせるほか、何の結果も生じないからです。」(ウォッチマン・ニー著、『霊の人』、第二巻、p.49-50)

クリスチャンが御霊に導かれて生きる人となることは、神の御心にかなったことです。主イエスは、真理の御霊であり、助け主である聖霊が、いつまでもクリスチャンと共にいて下さることを約束してくださっています(ヨハネ一四・一六―一七)。クリスチャンは主を信じた時に、御霊によって新しく生まれており、御霊がすでにその人の内に宿っています。たとえそのような実感がなくとも、主を信じている人は自分が聖霊をすでに内にいただいていることを信じるべきです。

ですが、それにとどまらず、クリスチャンはさらに聖霊に満たされ、聖霊によって力づけられる必要があります。ペンテコステの日に、信徒たちが聖霊によって力づけられたように、私たちも聖霊の力を受けて強められ、また日々、神の命の力によって強められることができます。そうなる時に、信徒は、聖霊によって内なる霊を強められ、神の御心を深く知り、大胆に御言葉を宣言し、サタンに対抗し、御心を実際に実行する「霊の人」となり、御国のために有用な働き人となることができます。

聖霊は、「命を与える霊」(Ⅰコリント十五・四五)であり、クリスチャンはこの聖霊の命の力を経験することなしには、神のまことの命を実際に生きることは決してできません。聖霊は、まことの命そのものだからです。また、真理の御霊を通さなければ、信徒は御言葉の意味が何であるかを理解できず、神の御心が何であるかを適時に知ることはできません。聖霊の導きによらずには、信徒は御心にかなった祈りを一つも捧げることができません。聖霊が力を与える時だけに、信徒は臆することなく神の御心を実践する人へと変えられます。

しかしながら、私たちは、十字架の働きを抜きにして、聖霊の力だけを追い求めるようなことをしてはいけません。今日、御霊の満たしを受けるためには、まず信徒自身の肉が十字架で対処されていなければならないことを真に知っている人がどれほどいるでしょうか。御霊は、高慢で高ぶった肉的な人と共に働くことは決してできません。「なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは、肉に反するから」です(ガラテヤ五・十七)。ところが、今日、多くのクリスチャンが聖霊を求めている動機は、限りなく肉的であることが疑わしい場合が多いのです。

実に多くの人たちが、自己の栄光のために、自分の肉をさらに飾り立てるために、自分をさらに魅力的な人間にするために、聖霊を求めています。すでにあれやこれやの才能や、持ち物を持ち、自己を誇っている人が、さらに特殊な霊力で身を飾り、あるいは魅力的な自己を作り出そうとして、聖霊の満たしを願っている場合があります。しかし、そのような間違った動機から捧げられる願いが、神に聞き届けられることはありません。(「求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。」(ヤコブ四・三)

にも関わらず、十字架で肉が対処されていない人々が、何らかの超自然的な力を誇っている場合がありますが、私たちはこのような力の源を警戒せねばなりません。御霊は決して個人に名誉や成功をもたらすことを目的として働かれません。聖霊が人の肉を強めたり、人を高ぶらせたり、自己中心にしたり、高慢にさせたり、理性を失わせたり、無秩序状態に陥れたりする形で働かれることは決してありません。明らかに聖書は告げています。神の霊の他に、「この世の霊」(Ⅰコリント二・十二)があり、サタンとそれに従う邪悪なもろもろの霊たちが存在していると。

また、「聖書はわたしたちに告げていますが、聖なる注ぎ油のほかに、それに『似たような』(出三〇・三三、原文)注ぎ油があるのです。それは同じように調合されますが、聖なる注ぎ油ではありません。」(p.52)私たちは混合物としての霊があること、聖霊に似て非なる霊があることを知って、そのようなものを警戒し、ただ純粋に混じりけのない、神から来た聖霊を願い求めるべきです。

聖霊は必ず人を十字架へと導きます。聖霊は、主イエスが達成された十字架を、私たちが人生においてより深く経験するように導きます。

「人の再生の時、人の霊は神の命を受け、生かされるようになります。この働きを活発に達成するのは聖霊です。罪、義、裁きについて人を責めるのは、聖霊です。聖霊は人の心を備え、主イエスを救い主として信じるようにと願わせます。十字架の働きは、主イエスによって達成されます。しかしながら、これを罪人の上に、また罪人の心の中へと適用するのは、聖霊です。

わたしたちは、キリストの十字架と聖霊の働きとの関係を理解しなければなりません。十字架はすでにすべてのことを達成しましたが、聖霊はすでに達成されたことを人の中で達成するのです。十字架は人に地位を得させますが、聖霊は人にその経験を持たせるのです。十字架は神のために『事実』を成し遂げますが、聖霊は人にその経験を与えるのです。」(p.12)

聖霊は信徒が生涯、十字架のより深い働きを実際に経験するのを助けます。それによって信徒は、神の御前に、よりくだかれた、へりくだった魂となり、罪と分離し、肉の情と欲を捨て、自己の天然の命を否み、混じりけのない、純粋な、清い霊によって支配される人へと変えられていくでしょう。聖霊が肉なる人の上に注がれることはありません。ですから、聖霊の満たしを受け、聖霊によって力づけられたいと願う人は誰でも、まず、ゴルゴタを経て、自分自身の肉が主イエスと共に十字架につけられて、死に渡されるという経験を経ている必要があります。

「わたしたちは何度も言ってきましたが、十字架はペンテコステの前にやってきます。聖霊は、まだ十字架を経過していない男女には力を与えられません。ゴルゴタこそ、エルサレムの屋上の間へと至る唯一の道です。この模範に従う者だけが、聖霊の力を受ける可能性を持つのです。神の言葉は言います、『これは……聖なる注ぎ油であって、常の人の身にこれを注いではならない』(出三〇・三一―三二)

最も汚れた肉であろうと、最も教養のある肉であろうと、神の聖霊はその上に下ることはできません。十字架の釘跡がなければ、聖霊の注ぎ油はあり得ません。主イエスの死が、アダムにあるすべての人に対する神の判断です。すなわち、『すべてのものは死ななければならない』のです。

神は、主イエスが死なれるまで待たれました。その時はじめて、神は聖霊を遣わされました。同様に、もし信者が主イエスの死を経験することがなく、また旧創造に属するすべてのものに対して死んだことがないなら、彼は聖霊の力を見ることを望むことはできません。歴史上のペンテコステは、ゴルゴタの後にやってきました。霊的経験における聖霊の満たしもやはり、十字架を担った後にやってきます。」(p.50-51)


肉が十字架につけられるという経験は、決して、私たちの内にある、人の目から見て否定的で不愉快な性質だけが死に渡されなければならないということをさしているのではありません。たとえ人の目にどれほど善良に見える性質であろうとも、崇高に見える性質であろうとも、宗教的に見える性質であろうと、立派な知識、才能、美徳、人から賞賛される資質、魅力的な性格などであろうとも、それが肉から来たものであり、天然の命から来た性質であるならば、それは神の御前に全て死ななければならないのです。私たちの肉そのものが神の御前に死ななければならないのです。そのために、神は御子を十字架につけられました。この十字架の死を通して、信者の肉の古い命が死に渡されます。新しい命そのものである聖霊は、その死の後に初めて、復活の命として与えられ、信徒を内側から生かし、力づけ、立ち上がらせるのです。

「肉は神の前で永遠に罪定めされています。神はそれが死ぬことを望まれます。信者は、肉が死ぬのを望まず、反対に聖霊を受けて肉を飾り、肉にさらに多くの力を備えさせて、神のために働かせようとするかもしれません(もちろん、これは絶対的に不可能です)。このことすべてにおけるわたしたちの動機は何でしょうか? わたしたちの動機は、個人的な魅力、名声、人の歓迎、霊的な信者からの賞賛、成功、人に受け入れられること、自己を建て上げることでしょうか? 

清くない動機、すなわち『二心』の動機を持った者たちは、聖霊のバプテスマを受けることはできません。わたしたちは、自分の動機はとても清いと考えるかもしれません。しかし、わたしたちの大祭司は環境を通してわたしたちに、わたしたちの動機が真に清いかどうかを知らせてくださいます。わたしたちの現在の働きが完全に失敗し、人々がわたしたちの名を悪いものとみなし、わたしたちを軽んじ、拒絶する点にまで至らなければ、わたしたちの動機が完全に神のためであるかどうかを知ることは、とても困難でしょう。主によって真に用いられた人はすべて、この道を歩みました。いつであれ十字架がその働きを達成する時、その瞬間、わたしたちは聖霊の力を受けます。」(p.51)

私たちは自分の古き人が十字架で対処されることをさえ、自己の栄光や、人からの賞賛を受けるために求めるという過ちを犯すことがあります。周りにいる信者たちから、「霊的」であるとみなされたいばかりに、聖霊の力をさらに求めようとするという誤りを犯すことがあります。さらに、私たちは、可能な限り、楽をして、自分に痛みが少ない方法で、手っ取り早く、成長を遂げて、素晴らしい「霊の人」になれればよいと思っていないでしょうか? 霊的な人になりたいという私たちの動機は、一体、どこにあるでしょうか? 

神は私たちの動機が肉的でなく、純粋に御心に沿ったものとなるまで、ずっと環境を通して私たちを練られます。私たちの動機の中から自己目的が取り除かれ、私たちの動機が、神の願いと一致する時が来ない限り、神が私たちに聖霊の力を付与されることは決してないと思って差し支えないでしょう。私たちは覚悟する必要があります。神は私たちが、たゆみない成功の中で、賞賛の嵐の中で、人からの歓迎や注目の中で、快感と享楽の中で、順風満帆で何不自由のない生活の中で、聖霊の力をますます増し与えられ、力づけられて、大胆に進んでいくようなことはまずなさいません(それではあまりにも私たちを高慢にさせるだけに終わることは目に見えています)。

むしろ、それどころか、聖霊の力が与えられる前に私たちが経ていなければならない十字架は、私たちにとって極めて不快かつ、負いたくないような、痛みの伴うものであるかもしれません。神は、私たちの働きがことごとく失敗に終わり、私たちが人から見捨てられ、悪しざまに言われ、軽んじられ、誤解され、疎んじられ、拒絶され、敗者としての烙印を押され、「霊的なクリスチャン」として賞賛を浴びるどころか、クリスチャンの風上にも置けない人間との評価を受けて、孤独の内に、たった一人、見捨てられて、魂が微塵に打ち砕かれるような経験をまずお求めになるかも知れません。たとえそうなったとしても、私たちはただ神のみをまっすぐ見上げて、自分の肉と魂の欲求のすべてを脇において、それを捨てて、その願いに死んで、まず、御心だけを第一に求めることができるでしょうか? 自分自身が完全に絶望であるとの認識に立ち、見える評価の一切を拒み、ただキリストだけを見上げて、自分の栄光のためでなく、神の栄光のためだけに、聖霊によって力づけて、立ち上がらせて下さいと求めることができるでしょうか?

どうか、大祭司なる主イエスが、私たちの隠れた動機を明らかにして下さいますように。私たちの願いを御心に沿ったものへと練り清めて下さいますように。

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