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2017年8月 6日 (日)

十字架の死と復活の原則ー地上の実りなき死んだ労働を離れて、天に永遠の収穫をもたらす労働に生きるー

さて、梅雨に逆戻りしたかのように雨がちな一週間が過ぎたが、その間、エアコンを通常通りに回していると、風邪を引きかけた。しかもそれは単なる風邪でなく、悪寒と共に身体中の関節が痛み出すという厄介な風邪であった。筆者には長年眠っている腰痛があるのだが、もしこれが再発したら二週間は起きられなくなっていただろう。

だが、そんなことは決して起きないという確信があった。幸い数日の養生ですっかり元通りになった。健康の秘訣はよく食べること、よく眠ること。それから、どんな時も神の御守りと御助けを確信し、目標をまっすぐに見つめて、そこから目をそらさないこと。何よりも無駄に心を悩ませないことである。この記事を書き終えた頃には、全ての症状が消し飛び、引きかけた風邪は嘘のようにおさまっていた。

さて、これまでの人生経験から、筆者には、ヨブに与えられた試練のように、悪魔は信者の大胆な信仰告白を聞いた後には、必ず信者の信仰を試しにやって来るものと分かっている。

たとえば、もしあなたがある日、長年苦しめられた大きな圧迫やしがらみから、聖書の御言葉の約束に基づき、神の力によって、信仰によって、大胆に脱出を宣言し、また奇跡的な脱出を遂げたとしよう。あるいは貧しさから、搾取から、束縛からの脱出であり、あるいは悪習慣から、他人の支配から、不幸から、あるいは病から、他の何でもいいが、明らかに悪だと分かっているものと手を切って、そこから解放されたのだとしよう。すると、あなたが解放を喜んでいるのも束の間、悪魔は必ず、あなたに忍び寄り、あなたに去って来た環境をもう一度振り向かせ、もう一度、束縛の中に連れ戻そうと、あなたの心を揺さぶって来る。あなたに起きた解放がまるで嘘のように感じられるような環境の激変を引き起こしたり、その異変に、親しい人たちの裏切りなどといった非常に心痛める事件を加えたりなどして、あらゆる不快事を引き起こしながら、一体、あの解放は何だったのだろうかとあなたに思わせようとする。それによって、あなたがいったん握ったはずの自由の確信が揺るがされ、あなたが受けたはずの神の助けを疑い、あなたが自分は信仰によって御言葉に基づいて解放されたのではなく、たた自分勝手にとんでもない冒険を遂行しているだけで、そこに真理は存在しないのだという疑いを生じさせるのが悪魔の狙いなのである。

こうした体験を筆者は数え切れないほど通過してきたので、今となっては、何か一つの解放が起きる度に、悪魔は再び以前の圧迫をよみがえらせようとするのだと、それを当たり前の通過儀礼のようにしか思わず、ほとんど動かされることもない。栄光から栄光へ、キリストの似姿とされるために、名実共に心身の全てにおいて自由とされるために、信仰によって目的を目指して歩み続ける秘訣はここにある。つまり、どれほどの圧迫や異変が周りで起きようと、内側で一度掴んだ確信を確固として手放さず、ただ前だけを向いて、真っ直ぐに進んで行くことである。

例を挙げれば、筆者が過去に牧師崇拝という罪に堕した偽りのキリスト教と手を切った後、この束縛に満ちた似非宗教にもう一度筆者を引き戻そうと、どんなにひどい圧迫が起きてきたかは周知の通りである。それは筆者がどうしても去らなければならない、筆者の居てはならない、神の御怒りのとどまる忌むべき場所であったが、そこからエクソダスするに当たっては、苦しみが伴い、信仰による代償が必要だった。この代価を全て払い切って、勇気と確信を持って前に進んで行かなければ、まことの神とは誰か、本当の信仰とは何かを筆者が生きて知ることはできなかったのである。

こうした体験を通して、筆者は、いったん、クリスチャンが神の忌み嫌われるものと手を切り、そこからエクソダスを果たし、自由になろうとしたならば、必ず、次の瞬間、悪魔はあなたの信仰が本物かどうかを試すために、あなたの心に揺さぶりをかける事象を引き起こしてくることを知った。悪魔のなすことはどれもこれもえげつなく、とんでもない事件を引き起こしてはあなたを驚かし、苦しめようとして来ることも稀ではない。

だが、驚くなかれ! そこにも神の御手が働いており、そうした患難の中にこそ十字架の死と復活の法則が大いに働く余地があるのだ! あなたはエクソダスを決意した瞬間に、すでに復活の予表を見た。あなたの目の先には、自由と解放が見えており、あなたの心はもうそれを掴んでいる。今度は、心の中ですでに見えているこの復活の確信を、死の影の谷を通り抜けて、その先に自らの手で掴み取り、揺るぎない現実としなければならない。信仰によって戦って解放を得て、確信を現実に勝ち取らねばならないのだ。

そのために、あなたは、自分の心の確信が試されていることと、すでに勝利が約束されていることを知り、周りで何が起きようと、そこに注意を払わず、心をぐらつかされないようにすべきである。あなたの確信を奪い取るために用意された外側の圧迫がどんなに激しくとも、それを打ち破る復活の命があなたの中にすでにあることを信じ、神が必ず最後まであなたを解放へと導いて下さることを信じ、この確信を固く握り締め、守らなければならない。つまり、一度信仰によって掴んだ確信を決して手放さず、決して後ろを振り向かず、以前の圧迫に戻るしかないと考えて心を翻すことなく、一心に前だけを向いて、追い迫る地獄の全軍を全力で振り切り、撃退しつつ、ゴールへ向かってひた走らねばならない。思い切りアクセルを踏み込み、とにかく全力で前進するのである。

これに成功した時、初めて、あなたは、あなたを再び奴隷にしようと追い迫るエジプトの軍勢が溺れ死に、あなたの内側て確信として与えられた復活の命の確証が揺るぎないものとなって、あなたを取り巻く環境に及んで実際となるのを見るであろう。つまり、環境をコントロールするキリストの命の支配力が、あなた自身から外に流れ出て、現実に力強く及んで行くのを知るのである。もはや圧迫があなたをコントロールすることはなく、環境の主導権はあなたにある。その時、あなたは大胆に命じることができる、嵐よ、静まれと。

キリストの復活の命には、この世の気象条件、経済条件、物流など、この世の諸条件を治める力がある。しばしば神を知らない人の心さえ動かす力がある。なぜなら、この神の命は、統治する命であり、この世の全ての事象を超越する支配力を持つからである。しかし、このように絶大な威力を持つキリストの命の権威と力を行使する秘訣を信者が知るためには、まず信者の信仰が試されなければならない。信者自身が十字架の死と復活の法則を体験しながら、しばしば極限まで試され、苦難を通して、主の死を自分自身の死として負うことなくして、この超自然的な神の命の働きを、生きて実際に知ることはできないのである。

信仰が試されることには苦難がつきものであり、それゆえ、信者の信仰の生長は苦しみを経ることなくしては得られない。時にその戦いは想像をはるかに超えたスケールの圧迫を伴う。しかし、信仰の観点から見れば、それは軽い艱難に過ぎず、注意に値するものでもない。その苦しみに勝利することによって得られる天の栄光に満ちた収穫の大きさは、束の間の試練がもたらす痛みとは比べることもできないものである。

ヨブのたとえを引き合いに出したように、その戦いに勝利した暁には、信者は以前の二倍の恵みを手にするかも知れない。苦難を乗り越えて忍耐によって試された信仰は、試される前よりももっと大きな祝福を引き出す秘訣を学んでいることだろう。

さて、これから先、筆者が述べることは、多くの人には全く理解できないか、理解したくもない内容に感じられるであろうが、これは本当のことである。筆者はここ数年、人間の地上での労働は、罪の報酬として与えられた、ただ不毛なものであるばかりか、ことごとく共産主義につながるのだという事実に気づき始めた。

日本人の多くは、幼い頃から学校教育などで勤労の精神を叩き込まれているので、経済活動に従事することを全て良いことだと思って疑わず、低賃金で実り少ない労働に従事させられてもそれに疑問も持たないかも知れない。だが、働いても働いても豊かにならないような労働は悪でしかなく、全く推奨されるべき行いではなく、正しい勤労の概念にも該当しない。それは歪んだ搾取、不法以外の何物でもなく、その中にとどまっていても、誰も幸福にはならず、ましてキリスト者は悪魔のもたらす呪いと圧迫と束縛以外の何物も受けることはできない。従って、信者はそのような歪んだむなしい労働からは、エクソダスしなければならないのである。カルト宗教の中にいても幸福になれないのと同じように、不法と搾取の中にとどまっていながら、神の望んでおられる自由な生き方を遂げることは無理なのである。

しかし、ここで疑問が生まれよう。地上の労働で搾取と無縁のものが果たしてあるのか、一体、神の御心にかなう正しい労働とは何なのか、それはどうやって信者に遂行可能なのか、という疑問だ。

この疑問にはおいおい答えて行くとして、まず、地上の労働の何がおかしいのかを見てみよう。すでに述べたように、聖書によれば、人の地上における労働全般は、アダムが犯した罪の報いとして人類に科せられた呪われた刑罰のようなものである。人類の罪のゆえに、人が地を耕しても、耕しても、地は実を結ばなくなり、その労苦の果てに、人は自分の築き上げた全財産を他人に譲って、塵に帰るしかなくなったのである。

こんな不毛な労働は呪われているとしか言いようがないが、その次には、人間は、この労働から解放されるための安息の日にさえも、どうやって安息を守るかについて果てしない議論を起こし、安息さえも苦役に変えてしまった。だが、今そのことは脇に置いておこう。このような呪われた不毛な労働は、一切が無意味であり、この堂々巡りの路線でどんなに努力しても、何も生まれない。それは「肉から生まれるものは肉である」ことを象徴しており、人間の生まれもった生存本能から出た努力によっては、それがどんなに必死の努力であっても、永遠に至るものは何も生まれないということの証拠だ。だが、絶望するのはまだ早い。なぜなら、これに代わって、天において永遠の収穫をもたらす労働というものが別に存在するからだ。その内容について後ほど述べることにしたい。

さて、地上における一般的な労働の呪われて無駄であることを示すために、別な表現をすると、すでに述べたように、筆者の考えでは、地上の経済を発展させる名目で行われる人間の労働というものは、国が資本主義の形態を取っていようと、社会主義であろうと、うわべの政治体制に関わらず、およそ全てが本質的に共産主義に通じるのである。

ある人々はこういう話の展開に着いて行けず、「ヴィオロンは気が狂っているに違いない」とあざ笑うかも知れないが、その前にまずは腰を据えてよく考えてもらいたいものである。

共産主義とは、要するに、人類社会の幸福と発展のために、全ての人々が平等に労働の責任を負う(みんなで働けば共産主義ユートピアが到来する)という発想であるが、実際には、もちろん、そんなユートピアは決して到来せず、これは嘘の約束であるばかりか、悪党どもは、決して最初から真面目に働く気などさらさらなく、ただ労働の重荷を騙されやすい善良な人々に押しつけ、自分たちは彼らを搾取することによって新たな貴族階級になるために、方便としてこうした思想を利用しているに過ぎない。

そもそも労働の成果が私有財産という形で個人に還元されない仕組みの中では、誰も労働しようとの意欲を持たないであろう。働けば働くほど怠け者を助けるだけのシステムの中で、誰が真面目に働きたいと願うだろうか。

従って、共産主義とは、平等の概念の下、誠実な者たちの真面目な労働を、強欲な怠け者たちの利益のために掠め取り、悪党が善人を収奪し、虐げることを正当化するための経済体系のことであると言える。「みんなで国を豊かにするために、みんなで同じ夢を目指して、平等に働こう」などと表向きにどんなに謳っても、そんな平等は決して実現しない。そのスローガンに踊らされるのは馬鹿だけである。悪党どもは決して自分の手を汚し、汗水流して真面目に働こうとはせず、かえってそのスローガンを利用して、真面目な人間を、己を富ませるための歯車としてこき使うのである。

しかしながら、こうした話は社会主義国だけのことでなく、我が国の現状も似たり寄ったりである。上を見れば世襲議員がとんでもない高額な報酬をもらって遊び暮らし、連日目も当てられない退廃的な活動に耽っているかと思えば、下は貧しい者はますます貧しくなり、死者からも国家が税金をむしり取ろうとする有様だ。ブラック企業は労働者の健康と生き血を絶え間なく吸って富んでいる。まさに善人の労働が悪人たちの利益のために搾取され、働く者たちの誠実な苦労の実が、働かない者たちを富ませる手段になっているのだ。このような転倒したバビロン経済をさらに推し進めようと、アベノミクスなどが性懲りもなく打ち出され、一億総出で経済活動に邁進すれば、バブル期の夢よ再びで、ユートピアが到来するかのような偽りの夢が恥知らずにも未だ公然と語られている。(いつになったら、それが嘘の約束でしかないことに国民全体が気づくのであろうか。)

その上、このように善人を踏み台にして悪人を生き永らえさせるための転倒した経済を今ばかりか永遠に支えるために、もっとバビロン経済の盲信的で忠実な奴隷になってくれそうな無知で愚かな次世代の人材を全社会をあげて育てようというのである。そのためには人文科学などは邪魔にしかならないので、大学には不要なのだそうである。余計な知性は要らないから、自分の頭で考えることなどやめて、政府や企業や組織の言い分を大人しく聞いて、彼らの利益のために、疑うことなく黙って命令に従ってくれる従順で愚かな働き者のロボットかモルモットのような人間をだけを優秀な人材として生産しようというのである。

こうした傾向が行き着くところまで行きつけば、いずれ我が国も、家畜的労働を推進するだけでは飽き足らなくなって、ソビエト政府のように、共謀罪を利用して、反政府的な思想の持ち主はみな強制収容所にぶち込んで「労働による再教育」を受けさせるなどというとんでもない発想に至りかねない。

陰謀論や国際金融資本などといったものを持ち出すまでもなく、聖書によれば、この世は悪しき者の支配下にある。従って、この世の経済も、悪しき者の配下にあって、悪しき者(だけ)の利益になるよう作られているのは当然である。

そのため、キリスト者が真に神の御心を満足させる正しい労働に従事して生きようと願うなら、まず第一に、どうしてもこのように歪んでバビロン化した悪や不法の温床になるだけの経済の仕組みの外に出ることが必要になる。それは信者がこの世の経済そのものから完全に身を切り離して隠遁生活を送ることを意味せず、信者がこの世に身を置きながらも、この世の経済の支配体系の奴隷とならず、その限られた貴重な例外となって、この世とは別の、この世を超越した異なる正しい支配体系をそこにもたらすことを意味する。そのために、クリスチャンはまず、この世がいわゆる「常識」として定めている考え方に盲信的に従って、自分の良心を眠らせながら、「人類の幸福社会の実現」を口実とするこの世のバビロン経済の発展(バベルの塔建設)に仕える盲目的な歯車になって生きることをやめなければならない。

この地上のほとんどの人々は、たとえ信仰があっても、ことごとく盲信的にバビロン体系の奴隷となって生きている。だが、聖書のまことの神に仕えて生きることと、マモンの神(悪魔)に仕えることは両立しないのである。 「不信者と釣り合わないくびきを一緒につけてはいけません」という聖書の御言葉は、神に贖われて自由とされたはずの信者たちが、悪魔の推奨するバビロンの偽りの調和や偽りの福祉のために、不信者と同じように奴隷的労働に従事させられて、割の合わない人生を送ってはいけません、という警告でもある。

「空中の権を持つ者」とは悪魔のことであり、悪魔は、いわば空気を支配する王である。どんなことでもそうだが、もし人が自分の頭を使って自ら主体的に考えることをやめて、ただぼんやりと「良さそうなもの」に見境なく飛びつき、「世間がみなそうしているから」とか、「周りがみんなこれが正しいと言うから」とか、「習慣だから」、「波風立てたくないから」、「仲間外れにされなくないから」、「ひとかどの人間として認められたいから」などといった諸々の動機で、村八分にされるのを恐れ、「空気」に流されて行動するようになると、その人はすでに思考停止状態に陥り、生きた人間というよりは、バビロン建設のための単なる歯車、ロボットに成り果てているのである。そのように有無を言わせず大勢を同じ方向に追いやり、同じ価値観の奴隷としようとする「空気」こそまず第一に疑ってかからねばならない曲者である。

悪魔は、悪事を働くに当たって、決して悪しき動機を公然と語ったりしない。むしろ、悪魔が悪事を働くに当たり、最も好んで使うのが、「人類社会の幸福や平和や発展のため」という美しい大義名分である。「和をもって貴しとなす」という大義名分は、昔から悪魔の大好きな常套句で、彼らはこれを印籠のように振りかざしては、不都合な人間を異分子として排除し、黙らせ、人々を思考停止させて従順な奴隷に変えるために用いて来た。すなわち、「和」にそぐわない人間は「協調性がない」、「愛国心がない」などの名目で罪に定め、実力行使で強制排除して行けば良い。そのことによって、表向きは「和」が保たれているかのように見せかけ、偽りの安心感を人々に与え、良心を眠らせるのだ。しかし、その「和」とは、一体、具体的に何を指すのかと問えば、シャボン玉のように実体のない、ぼんやりしてフワフワした宙ぶらりんの抽象概念でしかない。しかも、この美しい大義名分の向こう側に隠されているのは恐ろしい全体主義であり、そこでは、全体の利益のために個人が持てるすべてを供出せよと迫られ、犠牲にされ、裸にされ、殺されている。異分子を排除するとの名目で、圧倒的多数の人々が罪に定められて排除されている。それは結局、ありもしない「和」という綺麗事の陰で、人間を奴隷化して使役し、権力者にとって不都合な人間を排除するだけの残酷なシステムであり、そんな残酷な「和」に最終的に適合しうる人間は誰もいない。それは恐怖政治であり、どんなに人がそれに熱心に仕えても、そのシステムは個人の必死の努力に決して正当に報いず、約束した平和をもたらさない。あるのは絶えざる流血、絶えざる排除、絶えざる罪定め、いわれなき村八分だけで、「和」から締め出され、村八分にされたくないと恐れて、それに仕えれば仕えるほど、人はますます恐怖にがんじがらめにされ、苦役から逃れられなくなって行く。それは自分のために果てしない奉仕を人間に要求する高慢で冷たくて恐ろしく非人間的な「和」である。

そのような価値観に支配される世界では、表向きの美名とは裏腹に、無秩序が横行し、全ての価値観が裏返しとなる。正しい人が罪に定められ、悪人が大手を振って無罪放免される。たとえ人が無実の罪で強制収容所に連れて行かれ、「再教育」を受けさせられたとしても、そこでは罪の償いさえままならず、刑期は減るどころかますます追加されて伸びて行くだけである。何もかもが転倒している。だが、我が国はもうほとんどそこへ近づいており、その混沌とした世界まであともう一歩である。極めて危うい崖っぷちに立っていると言えよう。

結論から言えば、これが堕落したバビロン経済の転倒した価値観であり、バビロンの本質は全て共産主義なのである。そこでは最も誠実でお人好しの働き者が誰よりも虐げられ、あざ笑われ、最も卑劣な怠け者が左団扇で暮らしている。悪人を生き永らえさせるために善人が罪を着せられ、虐げられている。繰り返すが、神に贖われた信者は、この転倒した価値観から逃げ出さなければならない。その奴隷となって、バビロンを富ませるための労働力となってはいけないのである。

さて、共産主義の思想に仕えて生きることがどんなに無益な生き方であるかを念押しするために、蛇足かも知れないが、ソビエト時代の強制収容所に関する物語の中で、あるストーリーのあらすじを引用しておこう。うろ覚えなので正確でない可能性があるが、これはソビエトの強制労働収容所の日常の風景の一コマを題材とする創作物語である。

普段は飢えと過重な労働のために死の淵で金鉱採掘労働に従事させられていた囚人たちが三人ほど収容所当局に呼び出され、数日間の森林伐採を命じられた。普段の金鉱労働では、囚人たちは仕事のノルマの達成量に応じてしか食料の配給をもらえない(ノルマは並の人間ではおよそ達成できないような途方もない数字である)ため、ノルマ未達の囚人たちは、少ない配給しかもらえず、飢えて死ぬか、骨と皮だけになってかろうじて生き延びるしかない。しかし、森林伐採のために呼び出された囚人たちには、予め手弁当が配給された。囚人たちにとって、これは絶大な意味を持つ出来事であった。なぜなら、食料が配給されたことは、この数日間は全く労働せずとも生き延びられる保証を意味するからだ。囚人たちの腹は決まっていた。

囚人たちにとって、森林伐採は死の鉱山労働から逃れるための休暇であった。ここは仕事するふりだけして、みんなでこの休暇から最大限の自由と休息を引き出そう。どうせ真面目に働いてもノルマなど達成できず、待っているのは罰だけなのだ。明日のことなど明日考えればいい。

ところが、囚人たちの中に一人だけ真面目な共産主義者がいて、彼だけは、今までの過酷な収容所生活にも関わらず、なおソビエト政権と共産主義イデオロギーの正しさを心から確信してやまなかった。彼は収容所当局が定めるノルマが、始めから非人間的な、達成不可能なものなどとは信じようとせず、サボタージュなどせず真面目に働くべきだと言って、労働の意義をみんなに力説するのだった。

他の囚人たちはこれを聞いて呆れつつも、それでもこの「同志」があまりにも純粋で熱意に溢れており、憎めない人間なので、その説得にほだされて、また、彼に真実を思い知らせてやろうという気持ちから、仕方なくノルマ達成のために一緒に働いてみることにする。その労働の結果を見れば、さしもの「同志」も当局の課したノルマがどんなに最初からメチャクチャであったかが分かって、ソビエト政権のイデオロギーの無意味さを悟り、自らの誤りを認めるだろうとの予想からであった。

ところが、そうしてみんなで協力して真面目に働いてみると、最初はサボタージュしか願っていなかった囚人たちにも、だんだん仕事が面白くなって来る。チームプレーを通して互いに連帯感が生まれ、普段の囚人生活では生まれ得ない友情のようなものまで育まれた。あながち「同志」の言い分も間違いではなく、働くことにはそれなりの楽しさや意義も確かにあった。彼らのチームプレーは素晴らしかったが、それでも、三日間かけて彼らが達成したものはノルマの三分の一にも満たなかった。

その結果を見た「同志」はなんと自殺して果ててしまう。だが、すでに仲間意識も芽生えて、彼を友人のように思っていた他の囚人たちは、彼の自殺を知って、今までよりもなお一層、ソビエト当局に対する憎しみに燃える。もとから達成不可能なノルマを課して、人間を愚弄し、この「同志」のように騙されやすい人間に嘘の希望を吹き込み、絶望へ至るまでこき使い、この恐るべきむなしい思想のために心中までさせるとは…

ストーリー解説はこのくらいにしておくとして、最近、この話が何かにつけて、筆者には思い起こされるのである。

これは私たちが生きている今の世の中とさほど変わらない描写ではないだろうか。ここはソビエト政権下ではないし、我が国の経済はそこまで極端な歪みではないかも知れないが、それにも関わらず、この地上における労働は、上記の収容所における囚人労働とほとんど変わらないどころか、本質的には全く同じものだと筆者は思うのである。

それはプロテスタントの教会における奉仕と献金の義務にもとてもよく似ている。信徒たちは日曜礼拝に足しげく通い、多額の献金を払い、教会のために様々な奉仕を積み重ね、牧師の説教をよく聞いて、牧師の覚えめでたい人間となることで、神に仕え、正しい生き方をし、聖なる者に近づけると思い込んでいる。ところが、そんな信徒の苦労をあざ笑うかのように、奉仕と献金を積み重ねれば重ねるほど、信徒のくびきはますます重くなり、ますます多くの奉仕、ますます多額の献金が要求されるようになる。信徒は聖くなったと感じるどころか、牧師や教会の要求に応え切れない自分自身に罪悪感を覚えるだけである。こんな風に、やればやるほど罪の意識が増し加わるだけのむなしい奉仕が、「信徒の義務」とみなされ、神に近づく手段のようにみなされ、それをやめれば、信徒はたちまち正しい信仰の道から逸れて悪魔の虜となり、救いを失って地獄へ一直線に落ちていくだけ…、などと真面目な信徒は本気で思い込まされている笑止千万な場所である。

こういう文脈での教会への奉仕と献金の義務は、聖書の信仰にカモフラージュした極めて悪質な罠であり、それによって神に近づけるなどと信じている信者は、ソビエト政権のイデオロギーを信じるあまり、死ぬまで収容所でこき使われた囚人たちや、ブラック企業に酷使されながら、自分が何をされているのか分からないで過労死して行く愚かな労働者と変わりはしない。そのような歪んだ労働(搾取の肯定)を通して、人類社会の発展に貢献できるという考えは嘘であり、そんな労働を通じて人間性を改造でき、ユートピア社会をもたらせるなどのことはあるはずもない。そんな労働は、やればやるほどますます世の中をヘンテコな場所へ、異常で転倒した世界へと変えて行くだけで、人類に不幸を増し加え、人間性を貶めるだけなのである。

このような不法で歪んだあるまじき労働によって、人間を改造できるかのような嘘は、元を辿れば、グノーシス主義から来ている。グノーシス主義とは、幾度も述べて来たように、もとは人が自分自身の努力によって、自己を改造し、神の聖にまで至れるとする偽りの神秘主義思想であり、この異常な思想ではそのような嘘の希望を信じることが、「知性」を獲得することだとされる。今日のキリスト教も、全ての異端の根源であるこの思想の侵入や攻撃を受け続けているが、この偽りの思想では、「知性」に目覚めた人間が、それぞれ努力によって達した段階に応じて無限の霊性のヒエラルキーがあることになっているので、この思想の影響を受けた信者たちは、霊性のさらなる高みに上るために、勉学や奉仕や精進を積み重ねるのである。だが、神の高みに上るためには、人は生きているうちばかりか、死後も永遠に修行を続けなければいけないとこの思想は言う。早い話が、ソビエト当局が囚人に課した達成できない労働のノルマと同様に、グノーシス主義は、一方では、人は己の精進の努力次第で、霊性の階段を上って、神の高みにまで達することができると言いながら、もう一方では、それができた人間は今まで地球上に一人もおらず、その修行は人の全存在をかけてもまだ足りないので、どんな偉人も今もって修行中である、と言うのである。結局、これを聞いて分かるのは、どんな嘘をや方便を使っても、神と人との合一は、人間側の努力によってはおよそ達成できず、それを人間側の努力によって成し遂げようとすると、それはただ人間にとって負い切れない重荷になって跳ね返って来るだけだという自明の理しか証明できない事実である。

悪党どもはまさかこんな嘘っばちな思想を初めから信じてはいない。そこで、この手の思想は、悪党が、騙されやすくおめでたい人間を都合良くこき使い、うんと搾取するための方便として利用されるに過ぎない。多くの牧師たちは、信徒たちが教会に奉仕し献金したくらいのことでは、決して神に近づけないことを知っている。それが証拠に、彼らは教会のために一銭の献金も奉仕もせず、神を全く信じないで死んだ不届きな不信者たちをも、信者たちと同じように、気前良く平等に教会で葬ってやる。こうして彼らは、信者たちが都合良く騙されているだけであることを親切に身を持って示してやっているのである。彼らは教会に奉仕と献金を捧げることと神に仕えることが全くズレていることをよく知っていながら、それでも己の栄誉と権勢拡大のために、愚かな信徒の労働を搾取しているのである。その曲がった利己的な動機を覆い隠すために、神の国だの聖化だのと言って新たなセミナーを開いているだけである。それと同じ究極の騙しのテクニックが、ソビエト政権による囚人労働であった。無実の人間にあらぬ罪を着せて大量に強制収容所に放り込み、そこで奴隷的囚人労働に従事させて搾取しながらも、それをソビエト当局は「共産主義ユートピアを到来させるため、労働による再教育、人間改造の試み」であるとしたのである。囚人を利用した奴隷労働は、ソビエト政府による人間の再教育の模範的な成功事例として世界に宣伝された。

こういうものは全て、追い詰められた悪党どもが、苦し紛れに無から有を生み出すために、人間をただ働きさせ、さらなる収奪を合法化しようと作り出したシステムに過ぎない。しかし、その悪事を人類社会の発展やら幸福やらと言った大義名分のもとに誤魔化し、公然と正当化しようとするところに、その根底に流れるイデオロギーの忌まわしさがよく表れている。

「人類社会の幸福」や、「公共の秩序」や「和」などといった概念の実体は、しょせん、このようなものなのだ。そんな曖昧模糊とした情緒的で不確かな概念が、現実の個人の権利や自由を縛り、犠牲にする正当な言い訳となったことなど一度もない。こんなもののために、個人の人権を犠牲にする思想は、全て呪われた全体主義から出て来たものと言って差し支えない。 (元を辿れば、グノーシス主義。)

グノーシス主義とは、端的に言えば、「神が救済し損なった哀れな人類を、人類が己が力で救済しようとする似非救済思想」と言えるのではないだろうか?何度も述べて来た通り、このキリスト教の異端思想は、ヨーロッパで駆逐された後も、東洋思想の中に温存されて来た。「和を以て貴しとなす」という考えの中にその思想の形がよく表れている。ここて言う「和」とは、空気のことであり、さらには、自然を含む万物を生み出す母性の象徴であり、引いてはその母性の中には人間も含まれており、この母性とは、人類の自己崇拝の思想だとも言える。結局、「和」とは何かと言えば、それはいわば、へその緒が切断される前の母子の一体化した状態であり、母子がそのような原初的な一体性を取り戻すことによって、人間の孤独を埋め、完全性を得ようとする原初回帰の願望なのである。もっと言い換えれば、歴史を逆行して、人類が神の子宮にまで逆戻る(神が人類を創造する前の状態に人類が自力で回帰する)ことによって、人が自ら神の地位を「取り戻そう」(奪おう)とする極めて愚かで不遜な試みのことである。

(ちなみに、神の子宮などというものはないのだが、この思想は、聖書の父なる神を否定して、神を女性化することによって、また、目に見える万物を聖なる母体であるかのようにみなすことによって、この屁理屈を正当化する。裏を返せば、このような子宮回帰願望は、人が一生、母の子宮から出られず、母の胎内に閉じ込められた状態を理想とする恐るべき思想である。全体主義の全体が、母に当たるのであり、これは母と子の分離を認めない、母子一体となった赤ん坊返りの思想である。それゆえに、この「和」の思想を信じた者は例外なく精神的に大人になることができず、「母」の精神的子宮に閉じ込められたまま、マザコンとして終わって行くのである。「和」というのは、離脱を認めない母性による永久支配を意味し、怨念を持つ母が、父に対する復讐心から、我が子を一生自立させないで己が欲望を満たす道具として支配するために、へその緒で自分に縛り付け、いつまでもコントロールすることの言い訳でしかない。そのような恐るべき思想に喜んで身を委ねる「子」もどうかしているが、こうして、この思想は、他者の自立を決して認めず、全ての人間を「母」(組織や国家などの容れ物を含む)に縛りつけ、強い者が弱い者を自分の付属物のごとく支配し、決して一個の自立した人格として認めない暴力に満ちた冷たい思想であり、その残酷な支配が、「和」という情念を込めた言葉で美化され、曖昧化され、誤魔化されているのである。)

さて、以上のような文脈で、全体主義に仕えるための悪なる労働に、クリスチャンは従事してはいけないし、それがクリスチャンの使命でもない。それはやればやるほど人を不幸にするシステムであり、そのような呪われた文脈で不毛な労働に関わることがクリスチャンの召しではないのだ。

それでは、もう一度、問うてみよう、永遠に至る実を結ぶために、人はどんな労働に従事すれば良いのか?一体、真に実を結ぶ正しい労働とはどういうものなのか?

このことについて、聖書を頼りに判断するならば、第一に「人の奴隷になってはいけない」ことが分かる。つまり、真に正しい労働とは、不正な人間、悪党、怠け者、強欲な詐欺師どもなど、この世の不正な悪人たちの利益のために、クリスチャンが彼らの身代わりになって苦しみ、その悪事の片棒を担ぎ、彼らの不正の尻拭いをすることではない、と分かる。クリスチャンはそのような不正な仕事からは一切手を引くべきであり、そのような仕事をどんなに懸命に果たしても、悪魔の喜びを増し加えるだけで、自由にも解放にも至ることはない。

むしろ、クリスチャンはこれらの悪人どもに対し、公然と正義と真実を突きつけ、彼らの嘘と悪事を白日の下に晒し、彼らに償いを要求し、悪事を終わらせるべきなのである。その戦いを一歩も退かずに行うべきである。

しかし、ここで大抵の人々は言うだろう、「またそう来ましたか。でもね、ヴィオロンさん、その方法では、我々はきっと犠牲にされるだけですよ。正論を述べたからと言って、誰が力のない者を相手にしますか。報復されて潰されるだけですよ。あなたは未だにそれが分からないんですか。あなたが引き合いに出すソビエト政権でも、あまりにも多くの人々が、当局に歯向かったために殺されたり、収容所送りになったんじゃありませんかね。空気に歯向かって、権力に歯向かって、どうやって生き残れるんですか。もっとひどい犠牲にされるだけです。それくらいなら、私たちはまだ搾取されていた方がマシです。」

言っておくが、こんなにも臆病でやる気のない人々は、初めから説得するだけ無駄である。どうせいつまでも永遠に搾取されるしかないだろう。筆者はその運命に反対しないし、彼らの意気地なさに指一本責任を負うつもりもない。彼らは言うだろう、抵抗して殺されるよりは、いつまでも搾取されている方がまだマシだと。しかし、その搾取でさえ、明日はもう持ちこたえられないかも知れないのだ。貧しさの極みまで収奪され、明日には命さえ奪われるかも知れないのだ。あるいは、悪党どもの悪事の全責任を身代わりに負わされて、全ての名誉を失い、トカゲの尻尾切りで、自由を失うかも知れないのだ。それでも、その方が公然と抵抗して反撃を受けるよりはまだマシだと、この人々は本気で言うつもりなのであろうか?自分だけはそうならないと言いたいのであろうか?どこまでも愚劣で甘すぎる予想だと筆者は言わざるを得ない。

もしこの人々の中に自分はクリスチャンだと思っている人間があるなら、言っておかねばならないが、クリスチャンに対する悪魔の攻撃は、世人に対するものよりもはるかに激しいものがあるのだ。もしクリスチャンが悪魔に抵抗せずにまんまとその言いなりになるなら、世人には生き延びられる可能性があっても、クリスチャンだけにはその術は決して与えられないだろう。もしクリスチャンが悪魔の拷問に抵抗せずに身を任せれば、世人の三分の一の時間で死に絶えるだろう。クリスチャンは一般的にもともと世の中で最も無力な部類の者たちから成っているのであり、そんな人間が、武装を自ら解いて悪魔の毒牙にかかれば、二度と戻って来る術はない。悪魔はとりわけ激しい憎悪を込めて、自分の作った収容所全体への見せしめとして、真っ先にクリスチャンを血祭りに上げ、憎しみの限りを尽くして痛めつけるであろう。

従って、クリスチャンには「長いものに巻かれて」、不正に身を委ね、心を悪魔に売り渡して生き延びられる選択肢など初めから存在しないことをよくよく言っておかねばならない。悪魔との妥協などもあり得ない選択肢だ。全ての要求を飲んで敗北して死ぬか、徹底的に抵抗して立ち向かって命を勝ち取るか、二つに一つしか道はないのだ。クリスチャンは神に仕えるために召し出された一群であり、それ以外の生き方は許されない。塩が塩気を失えば、人からだけでなく、神からも見捨てられる。そこで、クリスチャンが無事に命を保っていられる道はただ一つしかない、たとえ全世界の否定に出くわしたとしても、神に従い、悪魔に抵抗すること、すなわち、自分の全存在をかけて、常に真理の側に立ち、命がけでこれを守り抜き、あざける者の座に座らず、悪党の仲間にならず、正義に立ち、虚偽を退け、真実に生きることである。虐げや、不法や、搾取からは全力て遠ざかり、身の潔白を保つことである。自分が悪を行わないだけでなく、悪事の犠牲になってもいけない。

もしこのような文脈で、悪魔に立ち向かうという原則を本気で実践すれば、その過程で、おそらく、信者は誰しも戦い方が分かって来るであろう。この戦いは、最初から完全な勝利というわけに行かないかも知れないが、信仰が残っている限り、方法論を磨くことができ、反撃によって潰されることもない。なぜなら、どんな凄まじい反撃によっても潰されないだけの圧倒的な命の力を、信者はすでにキリストを通して内側に持っているからである。そこで、この世の人間にはできないことが、キリスト者にはできる。中途半端な抵抗では勝てないかも知れないが、勇気を持って、徹底的な抵抗をすれば、必ず、勝つことができる。なぜなら、我々に与えられている御名の権威、我々に行使するよう委ねられた御名の権威は、この世の全ての権威を超えるからである。取り組めば取り組むほど、この戦いに勝利するコツが分かるはずである。

このことは、筆者が表向きクリスチャンを名乗っている偽善者どもの悪意ある中傷や脅しに遭遇した時、御言葉をどのように用いて戦ったか、また、どのように信仰によって確信に立ち、その告白によって、敵の嘘を打破したか、筆者がどのように彼らが筆者になすりつけようとした嘘の罪状書きを退けたか、などを思い出してもらえば分かるはずである。筆者はこれらの戦いで決してやられっぱなしになったことはなく、覚えている限り、全ての戦いで勝利をおさめてきた。

敵の咆哮は、現実に差し迫った脅威のように感じられるかも知れないが、御言葉によって徹底的に立ち向かい、その嘘を木っ端微塵に粉砕すれば、しょせんその脅しは実体のない空虚なものに過ぎなかったことが証明される。それが証明されるまで、真実を貫き通すことである。それを貫徹すれば、敵の撒き散らす嘘や脅しは、当初どんなに大きく見えても、真実の前に到底立ち仰せる力のない、実体のない弱々しいものであり、恐れを持つ者にしか効果を持たないことが分かるだろう。他方、その嘘の軽薄さに比べ、御言葉は、永遠に揺るぎない神の重い約束であり、大砲のような威力で嘘を粉砕し、物事の真実なありようを暴露する。御言葉は、神に贖われた者はもはや罪ゆえの恐れを感じなくて良いことを教えてくれる。小羊の血に立脚することで、勇敢に戦って、敵の嘘を暴き、全ての恐れを退けることが可能になるのである。正しい道を守るためならば、どんな犠牲を払うことも厭わないし、どんな反撃をも恐れないと言える心境に至るまで、あなたの戦いを突き進みなさい。そうすれば、嘘は必ず力を失い、嘘て塗り固めた敵の要塞は崩れる。

さて、そろそろのこの記事を締めくくる時が来たが、この世のバビロン経済は、ソビエトの強制収容所と同じように、あなたに囚人番号(マイナンバー)の烙印を押し、いついつまでもあなたを囚人として、収奪の対象とすべく、脅し、不当な命令を下し、逃げようとすれば、長い罪状書きを持って、あなたを罰しようと追いかけて来るであろう。それはちょうどカルト宗教が金づるとなる信者を逃がすまいと、手ひどい恫喝によって逃げ道を塞ごうと囲い込む時と同じである。

しかし、あなたはこの恐るべき負債だけから成る汚れ切った世界から足を洗うことを決めたのだ。だとすれば、この決意を貫徹せねばならない。追っ手に対して、あなたはキリストの十字架の上で無効とされて破り捨てられた罪の債務証書を突きつける。あなたは神に贖われた聖なる者なので、彼らにはもはやあなたを罪に定める権限がなく、あなたを奴隷として使役する権限もないことを高らかに宣言する。あなたにはもはや世人と同じように罪の奴隷として収容所に拘束されて実りなき不毛な苦役に従事させられるいわれは全くなく、悪党どものやりたい放題やった後片付けや悪事の尻拭いを身代わりに負わされる筋合いもない。そのような理不尽な重荷をあなたに課したことで、むしろ彼らこそあなたに謝罪と償いをせねばならない。

つまり、罪に定められるべきはあなたではなく、あなたを収容所に閉じ込めようとした彼らの方なのだ。その事実を宣告して、彼らの前ではっきりさせねばならない。彼らが強欲にもあなたを収奪の対象とし、犠牲者にしようとした魂胆が悪であることを明白にせねばならない。この結論を、彼らが認めるまで、恥じ入るまで、その目的を諦めて撤回するまで、貫き通さねばならない。あなたは彼らの奴隷ではないことを思い知らせなければならない。そうして敵に目的を諦めさせ、償いをさせ、あなたが自由と高貴さを取り戻した後に、そうして敵から得られた戦利品を手に、あなたはこの呪われた実りなき労働にさよならを告げて、もっと有益な人生を生きるために、堂々と収容所を出て行くのである。そこから先、あなたは二度と自分の労働の成果を悪党に掠め取られないよう注意しなければならない。共産主義は終わったのである。あなたの勤労の実は、あなたを栄えさせるためのものであり、怠け者や悪党のために用意される助けではない。あなたは自分の仕事の成果がきちんと自分のものとされる職業を選ばなくてはいけない。

繰り返すが、あなたがクリスチャンである限り、あなたには強制収容所の中で囚人となっていては生き延びられる術はない。他の囚人には生き延びられても、あなたにだけは無理だろう。あなたがもし生きたければ、収容所当局に従うのをやめて、彼らを断罪し、屈服させて、戦利品を持って、娑婆にでることしかない。彼らとは違った秩序に生きるしか方法はないのだ。収容所がどんなにあなたを罪に定め、刑期を増し加えようと追って来ても、あなたはこれに勝つことができる。そのためにこそ、他の囚人にはない恐るべき御名の権威が、血による贖いが、死を打ち破った復活の命が、あなたに与えられているのだ。それはどんな獄屋の扉をも開けられる自由の鍵である。この約束の確信に立っている限り、あなたさえ怖じけづいたり、退却しようなどと願わなければ、戦いに負けることはない。もしあなたが真に贖われているなら、あなたは自由人であって、囚人ではないのだから、むしろ、収容所があなたの言い分によって揺り動かされ、震え上がらねばならない。あなたには彼らの罪を指摘する権威も与えられている。そこで、あなたがこの正当な権利を行使さえすれば、大魚がヨナを陸に吐き出したように、罪による収容所はあなたを収容し切れなくなって、これ以上我々を苦しめないでくれと懇願しながら、あなたを外に吐き出すであろう。

このようにして戦いに勝利し、敵の要塞を打ち壊す秘訣を知れば、あなたは、天に永遠の実りをもたらす労働とは何だったのかが分かるだろう。つまり、「悪魔のわざを打ち壊すこと」、「敵の仕掛けた罠を見抜き、敵の要塞を破壊すること」、「敵の嘘の圧迫や支配を無効にすること」そのものが、天の父なる神の御心にかなう「労働」なのであり、そのような信仰による激しい戦いに勝利することで、実際に敵の城が陥落し、それに伴って必ず地上の富も何らかの形で明け渡され、収穫がもたらされることが分かるであろう。

こうしてキリスト者は、全宇宙の中心であるキリストを内にいただきながら、全てのものをキリストに従わせ、地に御心を打ち立てるのに貢献する。それが、キリスト者の役目なのである。これ以外の方法で、キリスト者がこの地上を治めることはできない。

そして、その戦いは、地上の権力者におもねることや、人の生まれ持った資質や手練手管にはよらず、また、地上の権力によって権力を倒すことにもよらない。その統治は、嘘をついたり、収奪したり、盗んだり、卑劣な方法で他人を騙して支配することにはよらず、あくまで真実を貫き通し、それに従う人々を増やすことによるのである。力づくで敵を倒すことによって、敵を支配するのでなく、何が真実であるかを暴露し、宣言し続けることにより、敵がやがて自ら作り出した嘘を放棄して、恥じ入り、かつ恐れ、退散せざるを得なくなるまで追い詰めるのである。

こうして戦う目的は、キリスト者自身がさらなる自由、さらなる解放、さらなる豊かさへと達し、それによって喜びに溢れて天の神を誉めたたえ、神に栄光を帰するためである。それは霊性の階段を上って行くこととは違うが、キリスト者の解放は一挙には訪れない。キリスト者の地上の歩みは、絶えざるエクソダスの連続であり、復活の原則は、必ず死の原則とセットになって働く。時に圧迫は想像を超えるものにもなるが、キリスト者が霊の内側で獲得した自由を失わずに掴んで、それを真っ直ぐに見つめて進むなら、実際に、それに反する全ての外側の現実が打破され、圧迫は消え去り、信者は内側の解放の確信が現実になるのを見るだろう。こうして、クリスチャンは主の十字架の死と復活に絶え間なく同形化されながら、栄光から栄光へと、主の似姿へ変えられて行く。栄光から栄光へと変えられる秘訣は、死の圧迫の只中にあっても、まことの命だけを見つめ続けることにある。これは信者の外側の解放であると同時に内側の解放であり、試練の只中で、命の冠をもたらす信仰が増し加わって行く過程である。

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