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2018年4月14日 (土)

神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画"MISHIMA"から⑤

・ウロボロスの輪と「和の大精神」に見る「二度目の林檎を食べる」という嘘
 
映画"MISHIMA"の終わりで三島は言う、「知性などをはるかに超えたもっと本質的に大切なものが、どこかにあるはずだ。芸術と行動を調和させる何かが。」

この言葉を通しても、私たちは三島が鈴木大拙とほぼ同一の見解に立って、人間の本質とは「知性」をはるかに超えたところにあるものと考え、「行」が「知」によって排除されることのない、全一的な世界を求めていたことを知ることができる。

三島は、「知と行」、「芸術と行動」、「精神と肉体」、「男と女」、「自己と他者」といった、あらゆるの隔ての壁をなくすことで、自分が何者によっても疎外・排除されることのない、完全性、永遠性を身に着けられるかのように考え、自分なりに、最初のエデンの「一段の進出」である「入不二法門の世界」へ入ろうとしたのである。

三島にとって、第二のエデンである全一的な世界は、日輪というシンボルで表される。日輪は、三島の美意識が無限大に拡大して行きついた最後の姿であり、かつて三島を外界に誘い出し、彼が肉体の衝動に従って生きることで、自ら肉体を縛っている制約を取り払い、自己疎外を終わらせられるかのように教えたギリシアやハワイで見た太陽と同じである。

三島はこの「日輪=太陽」というシンボルの中に、「すべての疎外が解消された隔てのない世界」を見、その「母なる神」の懐に飛び込むことで、自己存在を永遠と溶け合わせることができるかのように考えた。

その日輪が、天皇家の神話上の始祖とされる天照大神と同一であることは言うまでもない。それは慈悲によってすべてを包容する、決して人間を排除することなく、人間を罪に定めたり、楽園から追放したり、滅ぼしたりすることのない、東洋的な慈悲の神のシンボルであり、東洋思想の「神秘なる母性」の象徴である。

さらに、日輪は「輪」であるから「和」の精神をも指す。「和」とは、かつて『国体の本義』を通して確認したように、「神と人との隔てがなくなった状態」、あらゆる区分が取り払われ、すべてが一体となった全一的な世界を指す。

三島は、自分と世界との区別を取り払うことにより、自分が永遠の存在となるかのように考え、自ら日輪の懐に飛び込むことで、「肉体の牢獄から霊を解放する」という、グノーシス主義の最後の錬金術を達成しようとしたのである。


 


知性などをはるかに超えたもっと本質的に大切なものが、どこかにあるはずだ。芸術と行動を調和させる何かが。私はそれが死であると考えた。

地球は死に包まれている。上空には空気がない。
極めて純粋で単純な死がひしめいている。4万5千フィートの上空では、銀色の弾痕は裸になった光の中に見事な平衡を保って浮かんだ。

私の心はのびやかで、生き生きと思考していた。何一つ動きもなく、音も、記憶もない。機体の閉ざされた部屋と、外の開かれた世界とは、一人の人間の精神と肉体のようなものであった。

究極の行為の果てに、私が見るであろう光景が、今私の目の前にあった。雲も海も太陽も、すべてが私の一部であった。もう矛盾は一つもなかった。

精神と肉体も、芸術と行動も、男と女も、

あらゆる対極性を一つのものにしてしまう巨大な輪は、ゆっくりと地球の周りをまわった。それは死よりも大きな輪、これこそ、私の求めてやまぬ地点であった。
 

 

 
さて、私たちはここで、日輪という「輪」が、グノーシス主義のシンボルとしてのウロボロスの輪にもぴったり重なることを見いだす。

すでに見て来た通り、日輪は、対極にあるものの統合であり、それは被造物の究極の美を表すと同時に、被造物の限界としての死をも意味する。

ウロボロスの輪も、これと同様に、死と再生、破壊と創造のように、相反するもの、対極にあるものの統合の象徴であり、世界が本来的に一つであるという思想を表す。

つまり、「和の大精神」なるものも、ウロボロスの輪も、本質的に同一の概念を指しているのであり、それは三島が言った通り、「あらゆる対極性を一つのものにしてしまう巨大な輪」であり、永遠でありながら、同時に死の象徴なのである。
 
「あらゆる対極性を一つのものにしてしまう巨大な輪は、ゆっくりと地球の周りをまわった。それは死よりも大きな輪、これこそ、私の求めてやまぬ地点であった。」



このように解釈すると、『国体の本義』で説かれている、「すべて葛藤が終局ではなく、和が終局であり、破壊を以て終らず、成就によつて結ばれる。ここに我が国の大精神がある。」という記述内容は、まさにウロボロスの輪をそっくり体現したものであり、まさしくグノーシス主義の悲願としての「破壊」と「創造」の一体化による永遠性を指していることが分かる。

もう一度、『国体の本義』の中で、日輪(天照大神)がどのように永遠のシンボルとして描かれているかを見てみよう。
 

国体の本義
第一 大日本国体、一、肇国から抜粋


大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いてゐる。而してそれは、国家の発展と共に弥々鞏く、天壌と共に窮るところがない。我等は先づ我が肇国(てうこく)の事事の中に、この大本が如何に生き輝いてゐるかを知らねばならぬ。

我が肇国は、皇祖天照大神(あまてらすおほみかみ)が神勅を皇孫瓊瓊杵(ににぎ)ノ尊に授け給うて、豊葦原の瑞穂(みづほ)の国に降臨せしめ給うたときに存する。<略>

天照大神は日神又は大日孁貴とも申し上げ、「光華明彩しくして六合の内に照徹らせり」とある如く、その御稜威は宏大無辺であつて、万物を化育せられる。

 天照大紳は、この大御心・大御業を天壌と共に窮りなく弥栄えに発展せしめられるために、皇孫を降臨せしめられ、神勅を下し給うて君臣の大義を定め、我が国の祭祀と政治と教育との根本を確立し給うたのであつて、こゝに肇固の大業が成つたのである。我が国は、かゝる悠久深遠な肇国の事実に始つて、天壌と共に窮りなく生成発展するのであつて、まことに万邦に類を見ない一大盛事を現前してゐる。
<略>

 天壌無窮とは天地と共に窮りないことである。惟ふに、無窮といふことを単に時間的連続に於てのみ考へるのは、未だその意味を尽くしたものではない。普通、永遠とか無限とかいふ言葉は、単なる時間的連続に於ける永久性を意味してゐるのであるが、所謂天壌無窮は、更に一層深い意義をもつてゐる。即ち永遠を表すと同時に現在を意味してゐる。

現御神にまします天皇の大御心・大御業の中には皇祖皇宗の御心が拝せられ、又この中に我が国の無限の将来が生きてゐる。我が皇位が天壌無窮であるといふ意味は、実に過去も未来も今に於て一になり、我が国が永遠の生命を有し、無窮に発展することである。我が歴史は永遠の今の展開であり、我が歴史の根柢にはいつも永遠の今が流れてゐる。

 
こうした記述から、私たちは『国体の本義』で述べられている思想は、ただ単に天照大神を始祖とする「万世一系」の天皇家の神話に基づく建国神話といったレベルをはるかに超えた、もっと恐ろしい思想であることが分かる。

ここにおいて、日輪=天照大神とは、はっきりと「天壌無窮」すなわち永遠性のシンボルであると表明されており、そのシンボルのもとに統合される一大家族国家である日本の使命とは、「過去も未来も現在もすべてが一つとなって、永遠の生命を有し、『永遠の今』を生きる」ことにあるとされる。

つまり、「和の大精神」の目指すところは、一言で言えば、人間が自力で永遠の生命にたどり着き、「入不二不問の世界」「一段の進出」としての第二のエデン、神と人との一体化した究極の状態へとたどり着くことであり、それを実現することが、大日本帝国という(虚構の)「国体」の使命(本義)とされていたことが分かるのである。

国体の本義
四、和と「まこと」、
神と人との和 より抜粋

「更に我が国に於ては、神と人との和が見られる。これを西洋諸国の神人関係と比較する時は、そこに大なる差異を見出す。西洋の神話に現れた、神による追放、神による処罰、厳酷なる制裁の如きは、我が国の語事とは大いに相違するのてあつて、こゝに我が国の神と人との関係と、西洋諸国のそれとの間に大なる差異のあることを知る。このことは我が国の祭祀・祝詞等の中にも明らかに見えてゐるところであつて、我が国に於ては、神は恐しきものではなく、常に冥助を垂れ給ひ、敬愛感謝せられる神であつて、神と人との間は極めて親密である

 又この和は、人と自然との間の最も親しい関係にも見られる。我が国は海に囲まれ、山秀で水清く、春夏秋冬の季節の変化もあつて、他国には見られない美しい自然をなしてゐる。この美しい自然は、神々と共に天ッ神の生み給うたところのものであつて、親しむべきものでこそあれ、恐るべきものではない。そこに自然を愛する国民性が生まれ、人と自然との和が成り立つ。
<略>かゝる自然と人との親しい一体の関係も、亦人と自然とが同胞として相親しむ我が国本来の思想から生まれたのである。

 この和の精神は、広く国民生活の上にも実現せられる。我が国に於ては、特有の家族制度の下に親子・夫婦が相倚り相扶けて生活を共にしてゐる。「教育ニ関スル勅語」には「夫婦相和シ」と仰せられてある。而してこの夫婦の和は、やがて「父母ニ孝ニ」と一体に融け合はねばならぬ。即ち家は、親子関係による縦の和と、夫婦兄弟による横の和と相合したる、渾然たる一如一体の和の栄えるところである。

 更に進んで、この和は、如何なる集団生活の間にも実現せられねばならない。役所に勤めるもの、会社に働くもの、皆共々に和の道に従はねばならぬ。夫々の集団には、上に立つものがをり、下に働くものがある。それら各々が分を守ることによつて集団の和は得られる。分を守ることは、夫々の有する位置に於て、定まつた職分を最も忠実につとめることであつて、それによつて上は下に扶けられ、下は上に愛せられ、又同業互に相和して、そこに美しき和が現れ、創造が行はれる。

 このことは、又郷党に於ても国家に於ても同様である。国の和が実現せられるためには、国民各々がその分を竭くし、分を発揚するより外はない。身分の高いもの、低いもの、富んだもの、貧しいもの、朝野・公私その他農工商等、相互に自己に執著して対立をこととせず、一に和を以て本とすべきである。

 要するに我が国に於ては、夫々の立場による意見の対立、利害の相違も、大本を同じうするところより出づる特有の大和によつてよく一となる。すべて葛藤が終局ではなく、和が終局であり、破壊を以て終らず、成就によつて結ばれる。ここに我が国の大精神がある。而して我が国に現れるすべての進歩発展は、皆かくして成される。聖徳太子が憲法十七条に、
 和を以て貴しとなし、忤ふることなきを宗と為す。人皆党有り、亦達れる者少し。是を以て或は君父に順はずして、乍隣里に違ふ。然れども上和ぎ下睦びて、事を論はむに諧ひぬるときには、則ち事理自らに通ず。何等か成らざらむ。
と示し給うたのも、我が国のこの和の大精神を説かせられたものである。」

   
「和の大精神」がウロボロスの輪に重なるだけでなく、そこで描かれる社会のヒエラルキーもグノーシス主義に固有の概念であることについては、今は細かい説明はしないが、結論だけを述べるなら、一方では「すべてのものが一つに融合している」と言いながら、他方では、人間に貴賎をもうけ、差別的な身分制度を作り出し、「各々が分を守る」などという名目で、固定化された身分制度の中に人を閉じ込め、離脱を許さないのもグノーシス主義の特徴である。

  私たちは今日、この壮大な「和の精神」に基づく国家的神話が、我が国にどんな悲惨をもたらしたのかを知っており、三島がどういう形で生涯を閉じたのかも知っている。

『国体の本義』は、初めから「天皇の御ために身命を捧げることは<略>、小我を捨てて大いなる御稜威に生き、国民としての真生命を発揚する所以である。として、すべての「臣民」が、日輪の化身たる天皇のために命を捨てることこそ、「真生命の発揚」であると厚かましく要求していた。このようにして「死をもって永遠性に到達する」というグノーシス主義の究極目的が、狂信的な個人の中だけの願望にとどまらず、国家レベルですべての国民に要求されたのが、軍国主義時代の日本の歴史なのである。
 

第一 大日本国体、三、臣節、忠君愛国 より抜粋

我が国は、天照大神の御子孫であらせられる天皇を中心として成り立つてをり、我等の祖先及び我等は、その生命と流動の源を常に天皇に仰ぎ奉るのである。それ故に天皇に奉仕し、天皇の大御心を奉体することは、我等の歴史的生命を今に生かす所以であり、こゝに国民のすべての道徳の根源がある。

 忠は、天皇を中心とし奉り、天皇に絶対随順する道である。絶対随順は、我を捨て私を去り、ひたすら天皇に奉仕することである。この忠の道を行ずることが我等国民の唯一の生きる道であり、あらゆる力の源泉である。されば、天皇の御ために身命を捧げることは、所謂自己犠牲ではなくして、小我を捨てて大いなる御稜威に生き、国民としての真生命を発揚する所以である。

 
三島は、敗戦という過去の歴史を通して、以上のような思想が、実現不可能な虚偽でしかないことがすでに証明されたにも関わらず、それでも、時代に遅れて登場した人間として、過去に失敗に終わった思想を再び個人的な人生で再現しようと、同じ実験に着手し、第二のエデンの出現を目指して、当然の破滅に至ったのである。

三島が目指した「永遠の美」は、すでに述べたように、対極性のある二つの概念を一体化したものであり、美の極致、永遠の完成でありながら、同時に、死と、抑圧と、限界のシンボルでもある。いわば、それは虚無の深淵そのものである。

日輪は、被造物全体の究極の美を象徴すると同時に、被造物が持つ有限性や滅びそのものの象徴なのである。彼はそれが「死よりも大きな輪」であると言うが、そのようなものは現実には存在しない虚構の概念でしかない。

そうであるがゆえに、この日輪は、被造物の限界を表すだけでなく、永遠を目指しながら、決して自力でそれに到達することができず、永遠から疎外され、決して満たされることのない渇望を抱える被造物の呻き、怨念と呪詛をも意味するのである。

日輪は、いわば、滅びゆく被造物全体の無念の象徴であり、それゆえ、「母なるもの」すなわち被造物の怨念と呪詛による支配を象徴するのである。

三島作品には、人間存在を縛っている怨念や呪縛による支配が、常に影のようにつきまとう。そして、その怨念もまた、他のシンボルと同様に、晩年になるに連れて、個人的なスケールから国家的スケールへと昇華される。

たとえば、『鏡子』の家では、高利貸しの女の怨念が、主人公の俳優の人生を乗っ取り、俳優に憑依して心中へ追いやるが、『憂国』の主人公は、二・二六事件で銃殺された将校らの無念(怨念)に憑依されて、彼らの道連れとなるために、自ら死へと赴く。

さらに、『英霊の声』になると、その怨念は、二・二六事件で天皇を守ろうとして銃殺された青年将校らの無念に加えて、神風特攻隊として死んだ兵士らの怨念という形に「昇華」されている。

『英霊の声』では、霊媒師の川崎君が、「鏡」の役割を果たしている。川崎君は、非業の死を遂げて怨霊と化した死者の霊の発する声に一身に耳を傾け、これを代弁して言う、戦後の日本が我欲に邁進し、すっかり自堕落になり駄目になってしまったのは、天皇が人間宣言をしたからだと。それゆえ人々は心のよすがをなくし、自己の尊厳を失い、見当外れな欲望に邁進し、戦死者らの非業の死は全く浮かばれず、彼らは怨霊と化してさまよっているのだと。

川崎君は、「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」(=なぜ天皇は人間などになってしまわれたのか)という怨霊たちの呪詛の大合唱を浴びせられた結果、自ら天皇の身代わりとして怨霊たちの集中攻撃を浴びて呪い殺される。死んだとき、彼は自分の顔を失って、神とも人間ともつかぬ、何者か分からない曖昧な顔になっていたという。

これもまさにウロボロスの輪である。神であると同時に人間であるという相反する状態が、川崎君の死において実現したのである。結局、「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」という怨霊の叫びは、天皇についてのみ言われたのではなく、永遠に達したいと望みながら、永遠に到達することができず、どっちつかずの状態をさまよいながら、滅びへ向かう被造物全体の無念を象徴しているのである。

つまり、『英霊の声」においては、神になりたいと願いながら、神から切り離されて、永遠から疎外され、滅びに定められている人間全般の抱える無念が、怨霊の声という形で表されたのである。

ここまで来ると、三島作品の登場人物は、偽りの神話によって個性を失っただけでなく、体さえ失って、ついに霊だけになっている。

三島作品の主人公らは、『憂国』においてすでに肉体を脱ぎ捨てていたが、その結果、ついに肉体を失った霊だけの登場人物が現れるという、とんでもない展開が実現しているのである。

そして、このことを通して、私たちは、三島作品の真の主人公は、本当はあれやこれやの人物ではなく、疎外された者たちの怨念であったという事実が分かるのである。

グノーシス主義が、神に疎外された人間による復讐の哲学だと書いた理由はここにある。グノーシス主義はもともと宗教でもなく、独自の神話もないため、どのような宗教や思想の中にでも入り込み、それを換骨奪胎して自分に都合よく作り変えることができる。

ちょうど肉体を失った怨霊が別人に憑依するように、自らの母体を持たないグノーシス主義は、既存の宗教や思想にいくらでも寄生して、そこで自らを増殖・発展させる思想なのである。

三島作品は、ほとんどすべてが無意識のうちに、グノーシス主義的テーマを体現することだけを目的として書かれたものであると言って良く、さらに三島自身が、この思想を自ら体現するために生きたのだと言える。

そこで、三島が晩年に近づくに連れて、グノーシス主義という思想それ自体が、無限大に膨らんで、作品の登場人物や三島の人生を押しつぶし、彼らの人格の内側で、巨大なパン種のように膨らんで、本体を食い破ってしまうのである。

グノーシス主義は、被造物が自力で己が過ちを修正して神に疎外された状態を解消することを目指す思想であるため、これは、どこまで行っても、真実な神が登場しない、人間が自分に都合よく作り出した独りよがりな物語であると言える。

この思想における神のイメージは、被造物自身と言って良いほどに、被造物と瓜二つの被造物の似像であり、それゆえ、グノーシス主義の神は、被造物に都合よく作り変えられ、事実上、被造物に乗っ取られて、不在となっていると言えるのである。

そのためにこそ、この思想はどこまで行っても、人間にとって、「自分しかいない」独りよがりな物語であり、そうであるがゆえに、全くどこにも出口を見い出せない堂々巡りの思想なのである。

すでに見て来たように、人間が堕落したのは、エデンの園において、人が神の掟に背き、「知」を捨てて「行」を優先した結果であり、その堕落のゆえに、「行」はその美しさを失って、醜悪な恥ずべきものへと転落し、人間の中で精神と肉体が乖離し、肉体の疎外が起こった。

だとすれば、人間がその異常な状態を解消するためにできることがあるとすれば、それは人間がもう一度、神の言葉という「知」を見いだして、それに「行」を一致させることにしかない。

にも関わらず、グノーシス主義者は、人間が「知」の制約を嫌って、肉欲をほしいがままにしたことが、失楽園の原因となったという事実を全く認めようとはず、詭弁を弄することで、そのように転倒した状態のままで、人があたかも再び「知」と「行」を統合して、全一的な美しい自己の姿を取り戻し、永遠の存在となれるかのように教える。

このような錬金術・イカサマによって、堕落した肉に過ぎないものを、神聖な神の霊に属するもののように見せかけようとする結果、グノーシス主義者らは、自力で被造物としての限界を打ち破って、自らを永遠の存在に高め、神と融合するために、悲惨な自己破壊に赴くという悲劇に至るしかないのである。

こうして、これらの錬金術師たちの身の上に、肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。」(ローマ8:13)という聖書の御言葉の正しさが証明されるのである。

しかも、彼らに降りかかる死は、ただの死ではない。まるで偽りの思想に従って生きると、どのように救いようのない報いが降りかかるかを、全世界に教訓として見せつけるかのように、彼らは解放という名目で、死の中でも最も酷たらしい非業の死を自ら選択して行くのである。

私たちは、三島の死の介錯をした盾の会の会員や、『憂国』に登場する陸軍中尉の妻などが、ちょうど『ユダの福音書』におけるイスカリオテのユダと同じように、師の霊を肉体から解放する手助けをする弟子の役割を果たしていることに気づかないわけにいかない。

グノーシス主義とは、聖書の神の福音から疎外された人々が、キリストの十字架によらずに、自己の罪を自力で「修正」し、自力で神に到達しようとする偽りの福音であるため、これを信じた人々は、キリストの贖いの十字架を拒否する代わりに、自力で罪を贖うために、最も残酷で悲惨な十字架を再び地上に作り出し、自分自身を磔にすることを余儀なくされるのである。

(*以下の場面では、窓枠がグノーシス主義の歪曲された十字架を象徴していることに注意したい。)

 



 
 
 

『奔馬』の主人公は、社会正義のために人殺しを達成し、自殺を遂げる際に言う、「まさに、刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪はまぶたの裏に赫奕と上った。」と。

このようなものは、テロリストの思想としか言えないであろう。三島や三島作品の主人公らが自己破壊に至るのには、『奔馬』の主人公が、殺人によって社会を悪から浄化しようと考えるのと同じ原理に基づいている。

彼らは、罪を贖う内なる十字架を持たない代わりに、外なる十字架を作り出し、暴力によって己が理想を実現しようとするのである。それが他者の破壊を正当化するテロリズムの思想になると同時に、やがては自己の破壊という結果となって跳ね返るのである。

聖書によれば、このような教えに従って歩む人々は、まさにキリストの十字架の敵である。

彼らは、自分たちは、被造物が脅かされることのない、弱者に優しい美しい世界を目指しているのだと言うかも知れないが、聖書は、グノーシス主義の「神」とは、彼らの「腹」すなわち、人間の欲望であるとはっきり告げている。

「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。

何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、
キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです、彼らの行き着くところは滅びです。彼らは 腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。

キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に造り変えてくださるのです。」(フィリピ3:17-21)

肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子供なのです。」(ローマ8:13-14)

グノーシス主義者らが、自らの肉体を「美しいもの」として永遠の完成に導くことを目指しながらも、彼らが自分を神の神殿として建て上げるどころか、むしろ自己破壊によって自ら生命を絶つことで、神殿破壊という結果に至っていることは、極めて教訓的である。

聖書は、信仰のある者たちには、地上の卑しい体が贖われ、やがて復活の栄光の体で、本国である天に帰る日が来ることを示している。だが、その実現の方法は、グノーシス主義とは全く異なる。

キリスト教においては、神と人、男と女、精神と肉体、霊と肉は、決して「対」として混じり合うことのない概念であり、それらのものの間にある敵意を解消することも、キリストの十字架によってのみ可能である。

十字架なしに、人間が自力でこれらの概念に橋渡しをして、敵意を解消して、両者を統合することはできない。しかし、グノーシス主義者らは、十字架なしに、あらゆる対極性のあるものを統合し、あらゆる疎外を解消できると言いつつ、自己存在を、死によって全世界から疎外するという、究極の自己破壊・自己疎外に至るのである。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。

従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス後自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ2:14-22)

聖書の真理によれば、肉のものと霊のものは決して混じり合うことがないため、人がどんなに「鏡」を覗き込んでも、そこに彼らが探し求めている神の姿は見いだせない。映るのは、有限なる被造物自身の姿だけである。だが、グノーシス主義者らは、鏡に映る弱い被造物の姿を見て、そこに神の似像を見いだし、ひたすら自分自身の弱い像を抱きしめてこれに同情の涙を注ぎながら、自らの弱さを神聖な性質であるかのように誉めたたえ、「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」と叫ぶことによって、自分が滅びゆく被造物に過ぎない事実そのものに逆らい、自分で自分を救済しようとするのである。

このようなものは、神がキリストの十字架で廃棄を決定された旧創造に対する無用な自己憐憫と救済の物語であるから、その中をどんなに探し回っても、永遠が見出されることは決してない。そして、このようなイカサマ錬金術を用いて、人間が自己存在を永遠に高めようとすれば、人は持っていたものまで失い、永遠を生きるどころか、「今」さえ失って、最も悲惨な自己破壊で生涯を終えるだけである。

聖書においては、救済は徹頭徹尾、ただ神の側から、キリストによってのみ達成されるものであり、人間には神の言葉という真の「知性」に従おうとすることはできても、自力で救済を勝ち取ることはできない。

しかし、グノーシス主義は、「神の側からの介入」を認めず、ひたすら人間の側から、人が自力で神に至り、救済を手に入れることが可能であるかのように見せかける。しかも、人間が真の知性である神の言葉に逆らい、己が欲望に従って生きながら、それと同時に、自らの救済を成し遂げられるかのように教えるがゆえに、それはどこまで行っても、神不在の、人間の独りよがりな自己愛と自己憐憫に基づく虚偽の救済であり、人間に都合の良い「創作物語」でしかないのである。

ペンテコステ・カリスマ運動が、キリスト教を換骨奪胎したグノーシス主義であることは、当ブログでは幾度も述べて来た通りであるが、グノーシス主義にとりつかれた人々は、この運動の信奉者にとどまらず、みな知性に逆らい、肉欲をほしいがままにして、自分を甘やかして生きるために、そのうちに、すっかり理性を失って、精神的に退行・幼児化して行く。

彼らは美を追求し、自分自身を高めると言いながら、滅びへ向かって行く。彼らが最後まで大切に握りしめている自己愛さえも、ついに自己破壊という最も醜悪な形でかき消されるのである。

こうして、「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイ10:39)という聖書の御言葉が実現し、アダムの命を惜しみ、これを愛でて、この滅びゆく命を永遠にしたいと望む者は、ことごとくその命を失って行くことになる。

私たちは、三島由紀夫という一人の人物が、滅びゆく被造物を永遠の存在に高めたいというグノーシス主義のフィクションの目的の実現に全生涯を傾けた結果、ついに自分自身の存在を激しい苦しみの果てに、フィクションに飲み込まれて喪失したことを見て来た。

グノーシス主義というフィクションの教えを信じると、初めはあったように見えた実体さえも、このように幻となって消え失せるのである。なぜなら、そこにある美は、初めから幻想でしかなく、そこには完成も永遠も存在しないからである。

三島が作家であり、『鏡子の家』の主人公の一人も俳優であり、『憂国』の主人公にも、特にモデルがあるわけでもないと三島が述べていたことは興味深い。なぜなら、作家や俳優という職業は、どこかしら架空の登場人物や、肉体を失った怨霊たちや、死者の声を代弁しようとする霊媒師にも似ていて、その存在が初めから芝居がかっており、「何者か分からない曖昧な顔」をしているからである。

ところで、筆者は、牧師という職業も、基本的には、作家や俳優と変わらないものと考えている。当ブログでは、牧師制度の起源も、グノーシス主義にあることを述べて来た。グノーシス主義は、人間の間に貴賎の差別を設け、階層を設け、身分制度を固定化する思想であり、牧師制度は、グノーシス主義的な階層制という発想にならって、キリスト教界に作り出された身分制度である。そこで、牧師たちも、その本質は、霊媒師や巫女とほとんど同じく、実体のない架空の存在なのである。

牧師たちは、今日、問題を抱えた哀れな信徒のために涙を流し、彼らの問題に手を差し伸べ、人々の欲望と悲哀を一身に引き受けながら、人々の理想を代弁するために奔走る。彼らは会衆の心の慰めと満足のために講壇から福音を語り、「あなたがたはみな神の子供たちです。私たちはみな救われています」と語るかも知れない。人々の心の慰めのために、「貧しい人々のうちにキリストがおられる」と言い、そこからもっと進んで、「あなたがたは神だ!」(Dr.Luke)とさえ言うかもしれない。

だが、そうして人々の心の弱さを一身に引き受けて、被造物の有限性に熱い同情の涙を注ぎながら、救済者然と振る舞うこの人々は、一人の人間としての個性を失った、「何者か分からない曖昧な顔」をしている人々である。

そして、彼らは表向きには「神を知っている」かのように振る舞いながら、同時に、心の中では、「神はどこだ。どこにおられるのだ。」(奥田知志牧師、マザー・テレサ)と叫んでいる。

このように、今日、牧師たちの作り出す信仰告白は、どこまで行っても、グノーシス主義と同じように、神不在の、人間の側から作り出された自作自演劇でしかなく、彼らの信仰告白は、「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」と叫んだ怨霊たちと同じように、神に疎外されて、神を見いだせなくなった被造物たちの無念の叫びと同じなのである。

それだからこそ、このようなグノーシス主義的現人神の教えである牧師制度に貫かれるキリスト教界では、片方では「母なる聖霊」を受ければ、人が神のように高次の存在になれると教えるペンテコステ・カリスマ運動が登場して来て、各地の教会に悲劇的混乱を引き起こすかと思えば、もう一方では、カルト被害者救済活動のような恐るべき運動が出現し、教会に対する怨念を持つ人々を、教会に受け入れよと迫り、教会に争いをしかけることで、聖書の御言葉を忠実に守り、神に従って生きている兄弟姉妹を教会から追い出し、中傷しながら、「エクレシア殺し」にいそしみ、教会のメンバーを、キリストの復活の命に従って生きている兄弟姉妹から、被造物の有限性に対する怨念や被害者を抱える人々にすっかり取り替えようとしているのである。

そういう恐るべき倒錯現象は、今日のキリスト教界が、牧師制度という被造物崇拝を取り入れることにより、グノーシス主義に汚染され、これと合体したために起きたことである。当ブログでは、大淫婦バビロンとは、東洋思想とキリスト教との合体の結果、生まれるものであることを繰り返し説明して来た。今日のキリスト教界は、この混合の教えにすっかり占拠されているため、信者には、憎むべきバビロンの倒壊に巻き込まれないためには、このような恐るべき教えの偽りを見抜き、それに近寄らないことが求められる。

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