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2018年5月10日 (木)

肉のものと霊とのものを区別する必要性~キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋的神秘主義の危険⑩~

KFCのDr.Lukeの近年のメッセージは、ニューエイジの神秘主義思想から強い影響を受けたものであり、完全に聖書に基づく正しいキリスト教の信仰からは外れているが、Dr.Luke自身、自らのメッセージが、ニューエイジの着想に大いにヒントを得たものであることを否定していない。

以下の記事に見るように、彼は今日のキリスト教界においては霊的息吹を失った形骸化した教えがあるだけであり、その代わりに、ニューエイジには「人が神になる」という変容(覚醒)という「肉汁たっぷりのステーキ」が保存されており、キリスト教界では失われているその「肉汁」の部分を、自分たちは「取り返さねばならない」と主張する。

Dr.Lukeは常にそうであったように、徹底的なキリスト教界への侮蔑と敵視に立って、形骸化したキリスト教界を凌駕するためならば、どんなものでも取り入れると言わんばかりに、ニューエイジという神秘主義思想の「神髄」となるべき核心部分を、自分たちは教えの中に取り込んだと告白するのである。

そこで、Dr.Lukeが、堕落した「肉」と深く関係する「肉汁」という言葉を使っていることは興味深い。その「肉汁」こそが、実のところ、「割礼を受けない人間の生来の本能的なパワー」を指すのであって、「蛇」の力にによって、人が肉的なパワーを肥大化させて、超能力を得ようとするニューエイジの「アセンション」に通じるのである。

これまで、「気」とは、人間の堕落した肉に働く悪魔的なパワーだと述べて来たが、Dr.LukeやEden Mediaの語る「マインド」は、ちょうど「気」の言い換えである。

彼らの言う「マインド」は、「思念」などと呼びかえることもできようが、それは要するに、理知的な思考のことではなく、より本能的で情意的な「思い」を意味し、人間の堕落した魂の働きである。神秘主義やニューエイジにおいては、この「思念」は、肉体の限界を超える、超能力を発揮するエネルギーとなるものである。もちろん「マインド」は「霊(Sprit)」とは別物であり、神の聖霊とは何の関係もない、霊に由来しない、魂的・肉的な力である。

Dr.Lukeは、以下に挙げる記事において、「私たちのマインドには創造する力がある」と述べて、真の霊的創造は「霊(Sprit)」から始まるという事実を無視・否定しているだけでなく、その根拠として、何と驚くべきことに、聖書のバベルの塔の記述を引き合いに出す。それを通しても、彼の主張する「マインドの創造力」なるものが、神の聖霊に由来するものでなく、反キリスト的なパワーであることは明らかである。

また、Dr.Lukeが、人類のエスタブリッシュメントは爬虫類人種だと述べているデイヴィッド・アイクの名を上げて、その説を荒唐無稽として全否定するどころか、興味深いものとして引き合いに出し、半ば肯定する文脈で、「人間とは意識であり、それは孤立してものではなく、大海の一滴のようにすべての人類の意識とひとつである(ONENESS)」などとして、人はバラバラの個人個人では意味をなさず、個々人が「人類の集合意識」にアクセスし、これを通じて「さらに高次元の霊的な存在」と接続して初めて高次の存在になれるかのように述べていることも、彼がどれほどニューエイジ思想から深い影響を受けているかを伺わせる。この「ONENESS]なるものこそ、実質的な「和の精神」のことである。

Dr.Lukeがしきりに主張する「波動」も、ニューエイジの思想では至る所に見られる概念である。ニューエイジの神秘主義者らは、「松果体」の活性化や「覚醒」のために特定の周波数を聴いたり、以下に示す「エロヒム」から「波動」を受けることが有益だと説いたりしている。

しかし、前にも説明したが、「波動」というのは、この世の物理的時空間の中でしか起き得ない物理現象であって、聖書における霊的な世界には、そもそも時空間がないため、波動など起きようがないのである。従って「波動」という言葉が出て来た時点で、それは霊に属する事柄を、この世の物理現象の話にすり換えているとすぐに判断できるのである。

従って、こうした事実から、Dr.Lukeの唱えている以上のような説は、すべて「肉的(物質的)な領域に造り出された霊の偽物」だということが明らかとなる。

Dr.Lukeの唱える「マインドのトランスフォーメーション」は事実上、ニューエイジの「覚醒」(アセンション)と同じものであり、彼はすべてのペンテコステ運動の指導者と同様に、人間の堕落した本能的な力を、キリストの十字架において否む必要を主張するどころか、それをあたかも神の神聖な霊の働きであるかのように装いながら、その堕落したパワーを増幅し、肥大化させることで、人類の超人化(アセンション)を促しているのである。

クリスチャニティとニューエイジ 
投稿者: drluke 投稿日: 2017-12-02

投稿者: drluke 投稿日: 2017-12-02「(このふたつ表向きは実によく似ている。が、本質的にはニューエイジはキリストの否定。しかし、神学オツムで空回りするキリスト教徒よりは霊的世界との触れ方は深い。キリスト教徒は肉汁の抜けた筋張ったステーキを食わされているが、ジューシーな部分はニューエイジに取られている。われわれはそれをゲットバックする必要がある1) コチコチなオツムの人はただ「ニューエイジは危険だ、危険だ」とヒステリックに叫ぶだけだが、きちんとした見極めが必要。そう言ってるあなたのオツムはどうなのよ、と言いたいわけ。

さて、David Ickeなる人物を知っている人は、最近ではけっこう多いと思う。英国人、サッカー選手に憧れるもリューマチで挫折。その後BBCキャスターとして活躍するが、原稿を読まされるだけの仕事に飽き飽き。緑の党の広告塔となり、BBCを解雇され、90年代の初期に霊的覚醒を経験。

その後、世界を巡る間に爬虫類伝説が各地にあることに気づき、世界のエシュタブリッシュメントはスメールの子孫である爬虫類人類(レプタリアン)であると指摘。彼らがいわゆるシェイプシフトする動画などもYouTubeにはころがっている。日本では大田龍氏と親交が深かった。一時は故小石泉牧師とも交流があった模様。

彼の論はきわめて興味深い。いわく、人間とは意識であり、それは孤立してものではなく、大海の一滴のようにすべての人類の意識とひとつである(ONENESS)。この大海の意識はさらに高次元の霊的なエンティティとつながっている。

ところがこの肉体の中に閉じ込められている間に五感によって作られた偽りのリアリティーのカプセルの中に束縛されている。人は恐れによって自分の中に閉じ篭っているのだ。それが場を作り、そこにはある種のエネルギーが存在する。

それを生み出すのが爬虫類脳、つまり私の言うところの大脳辺縁系だ。ここを刺激されると人間は弱くされる。自己保存するための闘争が世では繰り広げられているが、それはこの爬虫類脳を刺激されて、マニュピレートされた結果だ。彼はここでマニュピレートする存在をイルミナティとかメーソンと言うわけ。

レプテリアンが存在するかどうかはわからないが、これはきわめて面白い。ある意味私が指摘しているとおりなのだ。人は欺かれている2) 誰に?Ickeの言うようなエスタブリッシュメントというよりは、霊的な存在による(Eph 2:2)。そのヘッドであるサタンは全人類を欺く存在である(Rev 12:9)。人は爬虫類脳である大脳辺縁系を刺激され、恐れや情欲によって振り回されているのだ。

内的な世界モデルは自分の内面を投影したものであり(☞鏡像原理)、よって人により世界をどう把握するかはテンデンバラバラ。一応その最大公約数的な部分が常識とされるわけだが、この常識というやつが危ない。特にニッポンのものはやばい。さらに危ないのがニッポンキリスト教のそれだ。<略>

われわれがある種の霊的なオーラを発していることは明らか。真に御霊に満たされているクリスチャンの醸す雰囲気は普通とは異なる。その霊的な場に人々が引き寄せられることは当然。イエスも多くの、特に虐げられた人々を吸引した。

また私たちのマインドには創造する力があることはバベルの塔の件で神が証言している。彼らが思い巡らすことは妨げられることはないと(Gen 11:6)。そして言葉にもその力があることは何度も書いている。

われわれはこの物理的世界と霊的世界の狭間に生きている。神と悪魔と人は三角関係のダイナミックスに置かれている。諸霊の影響を受けているのが世の中の人々、そしてオツムだけのキリスト教徒だ。彼らは霊の世界、あるいは霊の場を知らない。その場の振動(波動)がこの物理的世界に現出するのだ。

中東情勢も、個人の経験も、みな原則はひとつ。われわれのフェイスによる言葉はその霊の場に波動を起こす。フェイスによって霊の場の波動、すなわちサブスタンスをこの世界に現出させる(Heb 11:1)。

イエスは内にいます父の言葉をご自身の霊の波動としてとらえ、それを語り出された。これが死者を生かし、水をワインに変え、癒しやしるし・不思議をなしたのだ。物質界も場の波動であり、霊的世界も場の波動。そのふたつの領域を結ぶのがわれわれの言葉だ。内なる霊の波動による言葉を語り出すとき、それは何かを生じる。

Ickeも言っている、マインドのトランスフォーメーションこそが鍵だ、と。目の前の世界、現象を変えるのではなく、自分の内が変われば自ずと世界も変わると。まことにそのとおり。小さな自分というカプセルから飛び出せ!船から水面に一歩を踏み出したペテロのように。神のレーマがあれば水面も固体化するのだ!
 
「自分の内が変われば自ずと世界も変わる」などと言って、神に目を向けさせず、ひたすら「自分の内」に目を向けさせていくのは、グノーシス主義者の常套手段である。グノーシス主義者はもともと神を人間と同一とみなしているため、神を見いだすためには、人が自己を見つめることが必要だと言って、自分自身に目を向けさせる。それはどこまで行っても、被造物だけしかおらず、まことの神が不在の世界である。そこでは、「神」は人間の認識を通してしか得られないものとされ、あたかも被造物の付属物のごとく貶められ、被造物に存在を乗っ取られているからである。

Eden Mediaは、神秘主義の独自の概念である「松果体」や「サードアイ」に、まるで聖書に起源があるかのように見せかけながら、人類超人化計画を推進しようとする。あまりにも荒唐無稽なため、あえて紙面を割いて分析する必要もないようには思うが、以下では、笑い出したくなるような、こじつけとしか言えない語呂合わせが展開されている。

聖書における「松果体」について…

古代人は松果体(PINEAL GLAND)を知ってた。
マインドとの繋がりを。
それは難解だった。
実際、聖書も触れてるくらいだ。

それでは、聖書に松果体(PINEAL GLAND)が登場する
節句を挙げていこう。
「創世記 32章30節」

ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、
なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)
と名付けた。

ペヌエル=Peniel="Pineal Gland"(松果体)」


だが、ここで語られているのは、単なる語呂合わせだけではなく、聖書において、ヤコブがヤボクの渡しで神と格闘した際、「もものつがい」を外され、「顔と顔とを合わせて神を見た」ことを、Eden Mediaはグノーシス主義の立場に立って、これを「覚醒」による「真の自己の発見」と結びつけようとしているのである。

本来のキリスト教の解釈では、ペヌエルで神との格闘の中でヤコブの「もものつがいが外された」ことは、ヤコブの中で、生まれながらの古き人が、主と共なる十字架につけられて霊的に死んだことを意味する。もちろん、それが起きたのは、キリストの十字架よりも前の時代であるから、ヤコブに起きたことは、キリストの十字架の霊的予表である。

「もものつがい」が外された時、ヤコブの生まれ持った天然のエネルギーの中で、最も強靭で手に負えなかったアダムの堕落した命に由来する本能的な力が、神の力によって「デス・タッチ」を受けて、霊的に死を経たのである。

ヤコブという人物が、かなりわがままで狡猾な策略家で、自分が望んだものは何が何でも手に入れるまで絶対に後には引かないというタイプだったことは、聖書の色々な記述から明らかである。だが、そんな性格ゆえに、ヤコブの人生には様々な苦難が連続して起こった。

むろん、そうしたヤコブの強い性格の中には、神への信仰を決してあきらめないという長所も含まれていたが、同時に、それはヤコブ自身が自分ではどうすることもできない、彼らの頑なで手に負えない天然の内なる自己をも意味していた。

しかし、ペヌエルでは、それまでのヤコブの人生に絶えず働いていた肉的なエネルギーに、神の側からの霊的死が適用されて、そのエネルギーが死んで無効化されたのである。神との格闘の中で、十字架の霊的死に触れられた後で、ヤコブは足をひきずるようになった。そのことは、ヤコブの人生にそれまでずっと働いていた強力な肉的エネルギーが死んだことを意味し、その時から、ヤコブはそれまでのように生まれながらの「古き人」に生きるのではなく、キリストの十字架の死とよみがえりを経た「新しい人」に生きるようになった。すると、それまで、彼の人生に絶え間なく襲いかかっていた困難や試練が徐々に取り去られて行き、神の祝福は、以前よりももっと滞りなく豊かにヤコブの上に流れ出るようになったのである。

キリスト教の正統な解釈では、ペヌエルは「キリストの十字架におけるアダムの自己の死」を象徴する場所である。すなわち、人間の堕落した生来の肉的なエネルギーがすべて神によって触れられて死ぬ場所である。神を見るためには、人は生まれながらの自己に対する死を経なければならないのである。

ところが、グノーシス主義者は、このようなペヌエルの正統な意味をまるで逆にしてしまう。彼らは、ペヌエルで、ヤコブは「鏡」の中に映る自己を見つめてこれを「神」だと認識し、天然の自己を保存してこれに死ぬことなく、肉的なエネルギーの中で「覚醒」して、自ら神に到達したと、話の趣旨を捻じ曲げてしまうのである、

Eden Mediaでは、ペヌエルのエピソードは、ヤコブが十字架の霊的死によって自己を否んだ結果として、神との出会いと祝福の中に入れられたことを意味するのではなく、むしろ、ヤコブが自ら自分は神であるという認識に達して、ヤコブの内側で「アセンション」が起き、彼は超人的な能力を手にして神からの祝福に与り、自ら神と同じものになった、という正反対のとんでもない解釈を施されているのである。
 

「”ペヌエル”で何が起きていたか説明すると、
ヤコブは夜明け前になっても起きてたんだ。
そんな彼は最高神の天使と格闘中だった。
それは”YAH”(ヤハウェ)の天使だ。
ヤコブが最高神の化身の天使と格闘していると
ヤコブはももの関節をはずしてしまう。

それでも、ヤコブは最高神から
祝福をもらうのに必死で
「祝福するまでは離さない」と言った。
すると、最高神は彼に祝福を与え、彼の名前を
”イスラエル”に変えた。

ヤコブは「顔と顔とを合わせて神を見たので、
その場所を”ペヌエル”と名付けた。
「面と向かって、神を見たため…」



さらに、ここで、Eden Mediaの解説者が、「神(God)」と呼ばずに、最高神(Most High)」などという聞きなれない名を持ち出していることにも注意したい。もちろん、「最高神」などという呼び名は、聖書の神が、唯一の神であることを否定する立場に立っていなければ、出て来るはずのない言葉である。

「最高神」という存在は、他にも「下級神」がいて、神は一人ではないという前提なしには生まれない呼び名である。そこで、Eden Mediaが「最高神」と呼んでいるのは、グノーシス主義における「真の至高者」だということがすぐに分かる。つまり、彼らの言う「神」とは、聖書の唯一の神ではなく、グノーシス主義の「至高者(=鏡=虚無の深淵)」のことなのである。

このことは、Dr.Lukeが近年、「神」という呼び名を使わずに、やたらと「エロヒム」という言葉を多用している事実をも思い起こさせる。「エロヒム」とは、以下にも記すように、スピリチュアリズムの世界では、極めて広く使われている独自の概念なのである。



Dr.Lukeの出しているポスター。エロヒム(神々)とはKFCの「覚醒」した信者らを指す。


以下は、Dr.Lukeが2016年7月4日に書いた「あなたがたはエロヒムだ!」と題する記事。これはKFCの事実上の「覚醒宣言」であった。

今週のメッセはいわゆるキリスト教(特にニッポンキリスト教)の神学オツムにはかなり刺激的だと思う。あるいは挑発的か。われわれの真のアイデンティティーに覚醒せよ! われわれは神の新創造、ニュークリーチャー、新生命体、スーパーヒューマン、そしてエロヒムである! WOW! 

そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々(エロヒム)である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。-John 10:34-35



ニッポンキリスト教や英語圏キリスト教のマトリックスから解かれよ!エロヒム・ヤハヴェはエロヒムの会議で裁定するのだから。知ろうとせず、闇の中を行き来する、ことのないように!<後略>



むろん、以上で述べられているようなDr.Lukeの聖書解釈は、完全に荒唐無稽で成立し得ないものであることは、別の記事の中で、すでに説明したので繰り返さない。以上で、Dr.Lukeが「われわれの真のアイデンティティーに覚醒せよ! われわれは神の新創造、ニュークリーチャー、新生命体、スーパーヒューマン、そしてエロヒムである! WOW!」などと述べているのは、間違いなく、ニューエイジの「アセンション」と同一の「超人化」を指しており、KFCの信徒らが「覚醒」に至り、自らを「神々」とみなし始めたことを宣言したものである。

スピリチュアリズムにおいても、「エロヒム」の概念は広く使われているが、それが何を意味するのかを見てみよう。以下の記事では、「エロヒムとは天使だ」と言われてはいるものの、そこで言う「天使」とは、「最高神」から直接、創造され、「最高神」のパワーを受けとる「被造物」もしくは「下級神」といったような意味合いである。

また、スピリチュアリズムでは、「エロヒムは高い、効果的な波動を持つ強力な存在」などと言われていることも興味深い。やはり、「霊の波動」などという怪しげな概念を強調するDr.Lukeのメッセージと非常に重なる部分が多く、Dr.Lukeがこのような従来のキリスト教とは全く無縁の用語を強調し始めた理由が、ニューエイジやスピリチュアリズムの影響にあったことが推察される。





Eden Mediaは、神秘主義者の言う「アセンション」に、あたかも聖書的な根拠があるかのような虚偽の説明を続ける。

次は「マタイ6章22節」
読み上げると「体のともし火は目である」
「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが…」

Yehushua(イエス・キリスト)…
”人の子”と呼ばれる方
または、罪の贖いのために死んだ方は、
目を”単数形”で話す。

しかし、我々には”二つの目”が…
となると、Yehushuaが話した”目”は
違う目だったはずだ。
”一つの目”と言うからね。

彼は”マインドの目”を語ってた。
それは人間に洞察力を与える目のことだよ。
だから、この”光”…この”目”が…

Yehushuaが話していた
この一つの目が濁っていると…
そして閉じていると、
あなたの身体は全身暗い。
Yehushuaは松果体の存在を知っていただろう。

なぜかって?
彼は最高神”YAH”の息子で、
人間を自分自身に摸って
デザインしたわけだからね。
だから、最高神に摸って、人間をデザインしたということは、
その体の器官やその機能を知った上で創造し―
それらが”身体”と”魂”に与える
影響を知っていたはずだからね。



だが、以上のような記述も、真っ先に「聖書は神による人間の取扱説明書」などと主張していたDr.Lukeの記述を思い起こさせる。Dr.Lukeは、自らのブログの解説を、次のように記していた。

「Dr.Lukeのキングダム・フェローシップ・ブログ。聖書を宗教から解放すべく自然科学者の視点から解き明かす。聖書は神による人間の「取り扱い説明書」であり、物理的世界と霊的世界の関係を啓示しており、スーパーナチュラル。WHOも「霊的健康」なる概念を提唱するが、『霊精神身体医学』を開拓する。



しかし、これはどこから見てもツッコミどころ満載のデタラメな記述である。その根拠として、まず、第一に、聖書は「自然の人は神の霊に関する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。」(Ⅰコリント2:14)と述べており、霊の事柄は霊によってしか解釈できず、魂で理解することはできないと教えているため、Dr.Lukeの言うように、「自然科学者の視点から聖書を解き明かす」ことは絶対に無理であることがすぐに分かる。なぜなら、自然科学は、人間の魂による探求によって生まれたものであり、神の霊とは無関係であり、必ずしも信仰に基づかないからである。

また、聖書は、神が人間に与えられた約束(契約)であり、人間の側でも神に対して守るべき義務を定めている。聖書は神と人間との間に結ばれる契約であって、決して、Dr.Lukeの言うように、人間の「取扱説明書」ではない。聖書を人間の「取扱説明書」とみなすDr.Lukeの考えの中からは、人間本位の考えが読み取れるだけであって、聖書の中心は、人間ではなく、まことの神ご自身であり、聖書はキリストを中心とする物語であるという概念が抜け落ちている。やはり、ここでも、被造物しか存在しないグノーシス主義の世界観を見て取れるのである。

さらに、仮に聖書が「物理的世界と霊的世界の関係を啓示している」としても、聖書が一環して述べていることは、物理的世界と霊的世界との接点は、十字架で死なれたキリストという、ただ一人の「神と人との仲介者」(Ⅰテモテ2:5)なしには絶対に成立しないということである。このキリストの十字架の死と一つとなって、人が古き自己に死ぬことなくして、人が神に受け入れられ、神の霊と一つとされることは絶対にないという点が完全に抜け落ちている。

さらに、Dr.Lukeの引き合いに出す「霊的健康」なる概念を唱えるWHOは、以下の通りの紋章を使っている。これを見れば、WHOの唱える「霊的健康」なる概念が、どういうものであるかがよく理解できるのではないかと思う。このようなシンボルに従って行けば、霊的健康どころか、霊的病以外には待ち受けているものはないだろう。

 

世界保健機関(WHO)で使われている「アクレピオスの杖」

救急車で使われている「アクレピオスの杖」


以上のWHOや救急車で使われているシンボルは、「アスクレピオスの杖」と呼ばれ、ギリシア神話で名医とされるアスクレピオスが持っていたと蛇の巻きついた杖を指す。むろん、聖書とは何の関係もない概念である。しかし、今日、この「蛇」のからみついた「杖」のマークが、医療・医術の象徴として世界的に広く用いられている。

この杖は、『龍の正体』でウィルソンの昇進の儀式の際に師匠が持ち出して来た魔術師の杖を思い出される。もちろん、シャーマンの杖に、蛇はいない。なぜなら、そこに絡みついている蛇は、悪魔に由来する見えない邪悪なエネルギー(=「気」)を指しているからである。



このような事を考え合わせても、Dr.Lukeが唱えている「霊精神身体医学」なるものは、邪悪な霊的パワーによって人体を変容させる内丹術とほとんど変わらない、非科学的かつ非聖書的な偽りの概念であると言えよう。

彼が目指しているのは、グノーシス主義者と同じように、邪悪な起源を持つ人間の堕落した魂の世界や、堕落した肉的なパワーを、神の御霊と「融合」させるという身体的錬金術なのである。

そして、Dr.Lukeと同じように、Eden Mediaも、本来は、霊によって解釈することしかできない事柄を、この世の物質的世界の諸現象に置き換え、霊に属する概念を、肉に属する概念にすり替えて行く。

むろん、以下のマタイ第6章22節の記述も、「サードアイ」や「松果体」のことを指しているのでは全くないが、Eden Mediaはそれも文脈を捻じ曲げて解釈してしまう。

「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」(マタイ6:22)

以上の御言葉は、神の霊が人の内に住んで、御言葉の意味を啓示し、それによって光(正しい知識)を与えることがなければ、人間は自分だけでは何事も正しく理解し、判断することができないということを示したている。確かに、ここで言われている「目」とは、霊の目のことなのだが、それは、キリストの霊と一つになった人間の霊が、霊の中の直覚において、御霊を通して、神の啓示を受けて、何が神の喜ばれることで、何がそうでないかをわきまえる(見る)ことを示している。

一言で言えば、「目が澄んでいる」とは、信者が神の聖霊から御言葉を通して霊的啓示を受けることを指しているのであり、「松果体」やら「松果体を流れるエネルギー」やら「サードアイ」なる概念とは全く何の関係もない話である。そうしたものは、たとえ百歩譲って、作り話ではなく実在すると仮定したとしても、徹頭徹尾、この世の物質世界における物理現象の域を出ない、霊的な事柄とは何の関係もない話である。

しかし、Eden Mediaは、本来、神の「霊(Sprit)」によってしか見極められないはずの事柄を、肉に属する「思念(mind)」の話にすり替え、ひたすら、人間の生まれながらの自己の内側で、すべてを自己完結させて、神に至り着く道を切り開こうとする。そして、「ヤコブはペヌエルで最高神から松果体を開いてもらい、超能力に目覚めたのだから、あなたもそれに倣うべきだ」などと、とんでもない解釈を語り出すのである。

「だから、松果体をデザインした時
主はその明確な役割を知っていたんだ。
”セロトニン”や”メロトニン”
といったホルモンを分泌する
この松果体という小さな器官は―
人間に”夢”や”幻想”をもたらす機能も果たすんだ。

だから人々は鮮明なイメージをマインドで見れるわけだ。
その場で体験しているかのように…。
実際は睡眠中なのにね。スゴイ。

両目は閉じてるのに、

鮮明なイメージが見れるんだ。

例えば、数年前に亡くなった親族が
鮮明に浮かび上がったりする。
または学校のイジメっ子が
現れることもあったり―
そんな彼と遭遇してしまう
恐怖を感じたりする。

(注:こうして死者に言及したり、やたら不気味で不快なイメージばかりを描くところに、Eden Mediaの悪趣味がよく表れている。そんなイメージしか見られない「第三の目」など、開眼する必要は全くないものである。)

あるいはあなたのマインドで創造される
不思議でアブストラクトなイメージを見れたりもする。
それは実際、存在しないが、
あなたはそれを両目が閉じた状態で見れるんだ。

最高神はヤコブを祝福し、彼の松果体を開いた。
そうだ、その通り。
”最高神”が…彼の松果体を開いた。

要するに…あなたは自分の部屋でヨガのポーズをとり
サードアイを開こうとしてはならない。
それは違う。
そんなことすると、あらゆる悪質な存在に隙を与え、
精神分裂症になるだけだからな。
自分で開こうとするならな。

そうでなく、あなたは最高神に集中し、

彼を賛美し、
最高神のガイダンスに従い、
彼に開いてもらうべきなんだ。
それが正しいやり方だ。

では、あなたが、最高神の霊に

身体を引き渡すなら何が起きると思う?
その魂は?
神の息吹(ルアク)は?
聖書によると、”神の息吹(ルアク)”は何をもたらすと?
それはあなたを完ぺきな真理へと
導いてくれると教える。
洞察力を与える。

だから、こうした奇妙なモノは必要ない。
ヨガ、メデイテーション、マントラやら…
周波数やら、トーンやら、
松果体を開くにはね…
最高神に集中すれば、彼が開いてくれる。 

Eden Mediaは、「最高神(=グノーシス主義における真の至高者)」を賛美していれば、自然と、「真の至高者」が「松果体」の開き方を教えてくれて、「サードアイ」が開眼するのだと言っていることは、Dr.Lukeの唱えている「セレブレーション」の内容を思い起こさせる。要するに、KFCの「セレブ」は、ニューエイジが考える「霊的覚醒(=アセンション)」を呼び起こし、「人が神になる」ための場なのだと見て良いだろう。



以上の記述において、Eden Mediaはいつもの例にならって、一方では、「ヨガや、瞑想や、マントラや、周波数や、波動やらは要らない」と言いながら、他方では、「彼らが言うことは必ずしも嘘ではない」と真逆の結論を述べ、それらを肯定する。そして、「サードアイ」やら「松果体」やらと言った概念は、オカルト的・魔術的・悪魔的なものではなく、使い方次第によっては十分に有益なものとなるため、ニューエイジの思想の価値を「見直す」べきだ、などと人々に訴え、悪魔的起源を有する呪われたものを、クリスチャンが信仰生活の中に積極的に取り入れるよう促していくのである。その主張は、Dr.Lukeとほとんど変わらない。

「言った通り、古代人は松果体を知ってた。
世界中の文化を見渡せばわかる。
それが古代インドだったり、ヒンドゥーだね。
あとは古代中国や…日本もそうだ。
古代エジプト、古代マヤ。
どこ行こうが、皆、松果体を知ってた。

どっかのヨギーが、ヨガを通して、
サードアイの開き方を教えてるからと言って…
彼らは最高神と繋がりを持たない未熟な形で
開こうとしているかもしれないが、
彼らが言うことは、必ずしも嘘ではない。

要は、サタンは何でも悪用できる。
例えば、火を使って、放火することも出来れば、
調理することもできる。
それは、あなたとその意図次第。

では”サードアイ”や”松果体”と言うコンセプトは
本当に悪質でオカルトと言い切れるのか?
”悪魔”で”魔術的”だと…
考えるべきだ。」 


先に述べたDr.Lukeの主張と、Eden Mediaと驚くほどそっくりである。彼らは「ニューエイジは危険だ」とか「サードアイや松果体などはオカルト的だ」と決めつけず、もう一度、本当にそれらが間違っているのか、考え直すべきであり、ヒステリックに拒否反応するのではなく、「きちんとした見極めが必要」だ、などと言うのである。

これは、かつて蛇がエデンの園で、次のように人類に尋ねたことの繰り返しである。

「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。

今日も、蛇は人類に語り掛ける、「ほんとうに神はあなたにそれを禁じられたのですか? ニューエイジは危険だ、魔術だ、オカルトだから、関わってはならないと、神がほんとうに言われたのですか? 

いや、あなたはもう一度、それについて考え直してみるべきです…。あなたはヒステリックな思い込みに陥っているだけです。きちんとした見極めさえできれば、ニューエイジだろうと、オカルトだろうと、神秘主義だろうと、実に無害で、有益なものなんですよ…。あなたが考えているような危険なものじゃありません。あなたはせっかくのチャンスを、自分の狭い了見のせいで、台無しにしているんですよ…」


このような主張に、決してクリスチャンは耳を傾けるべきではない。Dr.Lukeは「聖書を宗教から解放しなければならない」などと述べて、聖書を「キリスト教」の枠組みからも取り出さなければならないなどと主張するが、その結果、起きるのは、あらゆる忌むべき思想と聖書との「混合」である。

もしDr.Lukeの言うように「オツム」が崩壊して滅びに至るような人々が出現するとすれば、それはキリスト教徒ではなく、むしろ、クリスチャンを名乗りながらも、「二度目の林檎」を取って食べ、ニューエイジの神秘主義思想を内に取り入れた人々である。なぜなら、神を畏れることを捨て、真理を捨てた者が、正常な意識を保つことはなく、蛇の言うことは常に嘘だからである。

「そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:4-5)

ニューエイジの思想に従って、「人類の集合意識」にアクセスし、これと融け合い、さらなる「高次の霊的意識(=虚無の深淵)」と融合するために、「アセンション」を経ることは、「この世の君」であるサタンの意識に直接アクセスする権限を得るのと同じことであるから、そのような「覚醒」が、もし信者の内で起きれば、その信者は、サタンのための開かれた通路となり、もはや二度と聖書の神への正しい信仰に立ち戻ることはできまい。

前回の記事の冒頭で、黙示録に登場する「獣の刻印」に関する御言葉を引き合いに出したが、そこでは、獣を拝む者には「すべての者にその右手か額に刻印を押させた。」と記されている。この獣の刻印なるものが、具体的に何であるのかは定かではないが、今、分かっていることは、この獣の刻印が押される場所が、「額」すなわち、「サードアイ」と同一の場所であるか、もしくは、ヒンドゥー教で、「聖なる手」とみなされている右手だということである。

このことは、獣の刻印が、悪魔の支配の印であるにも関わらず、あたかも聖なる刻印であるかのようにみなされて、彼らが「聖なる体の部位」だと主張するところに選んで押されるということである。

むろん、獣の刻印が何であるかは分からないとはいえ、神秘主義思想家らの言う「サードアイ」とは、それ自体が、獣の刻印の予表のようなものだと筆者には思われてならない。

そこで、KFCの「セレブレーション」も含めて、ペンテコステ運動の集会や、それに関わる信者たち、Eden Mediaの言う「超越瞑想者の集会」や「サードアイの開眼」など、「クンダリーニ覚醒」によって「蛇」の邪悪なエネルギーを呼び覚まし、サタンに通じる「集合意識」にアクセスして、暗闇の勢力に扉を開く手段には、決して関わらないようにと勧められるのみである。

そのような「覚醒」は、聖書のまことの神への礼拝や賛美とは何の関わりもなく、そのような悪魔的礼拝に関われば、クリスチャンはもはや神の子供ではなくなり、命の書から名前を削られ、救いからも除外されて、神の敵となり、真実なクリスチャンに戦いを挑む暗闇の兵士とされた上、外の暗闇に打ち捨てられるであろう。

このような忌むべきオカルト思想に関わりながら、クリスチャンが同時に神の民であり続けることは不可能である。汚れたものとは分離せよ、という聖書の原則を厳に守らねばならない。

「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとべリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。

神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。

「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。
 そして、彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せになる。

「そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。』
 全能の主は仰せられる。」(Ⅱコリント6:14-18)

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