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2018年10月27日 (土)

御国が来ますように―天地の架け橋としてのキリストにある「新しい人」(4)



いつの間にか、横浜は紅葉して秋の美しい風情となっていた。
ついこの間まで、冷房が必要だったのに、今は動物たちのために暖房が必要である。

朝晩の寒暖の差が激しくなり、あやうく小鳥が体調を崩しそうになったので、遠赤外線ヒーターを小鳥のヒナたちのためにつけてやった。

言い尽くせない激戦の一年間であった今年も、もう終わりに近づいている。

懸命に走り抜けている間に、気づかぬうちにすっかり季節が変わっていた。
上は分厚い書類の束を抱えて幾度も訪れた裁判所の光景であるが、去り際に、思わず見事な銀杏に見とれた。

心の重荷は過ぎ去り、喜びと、平安とが訪れる。

我が人生の中で、類例のない大きな試練の年であったが、なすべきことを立派に成し遂げ、立ち向かうべきものに毅然と立ち向かい、守るべきものを守り通したという、形容しがたい平安と満足感が心に溢れている。

もちろん、まだ何も終了したわけではないが、それでも、本当に第一とすべきことを第一として生き、それによって、神の恵みの大きさを知り、神が愛する子供たちをどれほどはかりしれない配慮をもって守り、導いて下さるか、その一端を知ったというすがすがしい満足感があるのだ。やはり、神の国の前進のために生涯を捧げること以上に、有意義な生き方はなく、神と同労して生きる以上の満足は地上には決してないと自信を持って言える。

だが、そのために大きな犠牲が存在したことは言うまでもない。何しろ、手探りで前進し、一切、人間的な助けを受けずに、神だけを頼りとして、二人三脚で進んだのである。一人の不慣れな人間としては、言葉に言い尽くせない試練があったことは間違いない。

まさに「死の陰の谷」のような暗いトンネルを通過したと言っても良いだろう。

しかし、その間に生じた著しい犠牲さえも、神はただちに安息のうちに補償して下さった。「主が与え、主がとりたもう、主の御名は誉むべきかな」という姿勢を貫徹したときに、失われたものが、わずかなうちに前よりも豊かに回復されたのである。

これは筆者にとって、天からもう一度与えられたヨブの子供たちに等しい。

神にはこの世の経済や物流を支配することなど何でもなく、私たちが損失だと思っているようなものはいくらでも回復することがおできになる。

だから、試練があっても、筆者の人生に損失は生じなかった。そして、追い詰められて窮するということもなかった。その結果はこれから徐々に表れて来ることであろう。

しかし、目に見える結果がはっきりと現れるよりも前に、筆者自身の人間としての内なる尊厳が、完全な回復軌道に乗ったことが分かる。このことが何より最も肝心である。

たとえば、普通の人々は、脅されれば恐怖におじ惑い、いじめられれば泣いて逃げ、中傷されれば、悩み苦しむだけの、弱く、臆病な人間であろうが、そのようなどこにでもいるありふれた人間とは異なる、キリストと共に天の王国を統治するにふさわしい力と威光と尊厳を備えた真に「新しい人」が、筆者の内側に姿を現し始めているのである。

この新しい人格は、どのような試練が起きようとも、御名の栄光のためにすべてを捧げて前進することができる勇敢な新しい人格である。だが、それは勇敢な兵士のようであると同時に、言葉に言い尽くせない平安に根差した実にチャーミングな人格でもある。

それをクリスチャンの用語では「キリストが内に造り込まれる」と言う。しかし、キリストの人格が私たちの人格の内に彫り刻まれ、形作られるために、まず必要なのは、試練である、と言うと、多くの人たちがそんな苦しみは御免だと、ためらって去って行くかも知れない。

しかし、この試練をくぐりぬけずして得られるものは何もない。試練の只中で、忍耐して希望を持ち続けて信仰によって進むとき、初めて、この世のすべての有様を超越した、何によっても揺るがされることのない新しい人格が内側から生まれて来るのである。この世のどんな利益とも引き換えにならない神への愛と従順が生まれて来るのである。

だが、それは一足飛びには行かない、本当に少しずつ、少しずつの進歩である。

そして、この原則は全ての信じる者たちに共通する。当初は状況に翻弄され、きりきり舞いさせられ、四方八方に助けを求めているだけのように見えたか弱い人の中から、少しずつ、信仰によって、神の強さが発揮され始める。束縛されて苦しめられているだけのように見えた人の中から、自由と尊厳が回復される。混乱し、悩みに満ちていたように見えた人の中から、揺るぎない平安と喜びが生まれて来る。

今日が恵みの日、救いの日、日々、囚われ人が解放され、悲しむ者が慰めを得、キリストにある新しい人が、弱った人々の中に、徐々に姿を現し始める。

もちろん、キリスト者は信仰を持った時から、御霊が内に住んで下さるのだが、それだけではすべてが完了ではなく、その人自身の人格、考え方、気質、行動が、長い時間をかけて、人間的な水準から、御国の水準へと、変えられなければならないのである。

こうして生まれる新しい人格には、力と権威と尊厳が伴っている。それは幼い日のヨセフではなく、キリストの御丈まで成長し、霊的に成人に達したヨセフである。神の御心が何であり、何をすれば、神に喜ばれるのかを知っている熟練した神の僕である。

その新しい人格がはっきり姿を表せば表すほど、信仰者の内側から、キリストのまことの命の支配権が発揮され、行使されるようになる。筆者はそう確信している。

筆者はまだまだ御霊による支配を十分に知ったとは全く言えないが、少しずつ、御国の前進が、目に見える形で地上に及んでいることを感じつつある。そこで、この先の歩みは、これまでとはかなり違ったものになるだろうと予感する。

さて、そろそろスローテンポにしていたブログ更新をリアルタイムに戻したい。

これまで幾度となく述べて来たことの繰り返しになるが、神の国とその義をまず第一に追い求めなさい、そうすれば、すべては添えて与えられる、という御言葉は本物である。

「信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それらはみな、異邦人が切に求めているものだ。
あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:30-34)

この御言葉が真実であることは、筆者が生きて来た行程のすべてを振り返っただけでも、十分に分かることである。もしも神の国とその義を第一として生きるということをしなかったならば、筆者は今、ここに存在することさえきっとなかったのに違いない。

そこで、読者にも言いたい、もしもあなたがこの困難なご時世を、最後まで無事にそして勇敢に高貴な人として生き延びたいと願うならば、神の権益に関わる仕事をしなさいと。

真に御国の権益に関わる戦いを始めなさい。そのために持てるすべてを投じなさい。そうすれば、それを実現するために必要なすべてが、天から与えられる。誰にも助けを求める必要はない。このことは間違いのない教訓である。

だが、一体、何をすれば、神の御名に栄光を帰することができるのか? その方法は人それぞれに異なる。重要なのは、人間の利益のために奉仕するのではなく、神の利益のために奉仕することを第一に目指すことである。

私たちクリスチャンは、神の栄光が損なわれ、御名が傷つけられている現場を見たとき、これを素通りするのでなく、御名の栄光の回復のために働くべきである、と筆者は強く主張する。真実が曲げられ、正義が曲げられ、嘘と虐げと搾取がはびこり、何よりも神の花嫁たる教会が告発され、穢され、傷つけられ、蹂躙されているのを見たとき、これを素通りするのではなく、神が贖われた者を告発する者には、小羊の血潮に立って毅然と立ち向かうべきである。

キリストの花嫁なる教会は、キリストにとってご自分と同じほどに価値ある存在である。キリストがその命を捨ててまで愛され、贖われた花嫁である。その教会が蹂躙され、混乱に陥り、主の民が離散し、行き場を失うことを、果たして神が望まれるであろうか?

悪魔は立ち向かえば、逃げ去る、そう聖書に書いてある通り、そうして回復される権益は、この世のすべての利益にまさる、御国の権益である。このようにして、御国の権益を地上で拡大して行くことが、神の喜ばれる奉仕なのである。

とはいえ、各自が主の御名の栄光のために奉仕する方法は、様々に異なるので、御国の権益を守り、拡大するための戦いの方法には、決まった型があるわけではない。だが、いずれにしても、その戦いに共通している点は、一人一人が、自分が生き永らえることだけを第一目的として生きるのではなく、真に神の栄光を回復するために、御国の拡大のために、自分の人生を残らず捧げることである。

そうするときに、どんな困難が起きようとも、神があなたの人生に最後まで責任を持って下さり、平安のうちに必要のすべてが備えられる。あなたの望みを実現に至らせて下さるのは神である。明日の苦労といったものは、本当に些末な問題でしかないことが分かるだろう。もちろん、兵士である限り、戦いは激しく、厳しいかも知れないが、それを切り抜けるために必要な知恵も、助けも、慰めも、物資も、すべて天から供給される。

だから、あなたは自分が一人ですべてに立ち向かっているのでは決してないことが徐々に分かって来るだろう。それどころか、私たちを中心として、すべてのものが、やがて私たちの内におられるキリストの権威と支配に服従するようになるのである。

キリストが万物を足の下に統べ治める方であるというのは、絵空事ではなく、私たちキリスト者一人一人の生き様を通して実現する事柄なのである。だから、私たちは、キリストの支配が本当に自分の身の周りで実現するまで、彼がすべてを足の下にするのを見るまで、ずっと十字架を貫き通さなければならない。試練があったからと言って、決してあきらめて退却してはいけない。

天から竜を投げ落とすための秘訣は、小羊の血(贖いによる義認)に固く立って、試練があっても、死に至るまで証の言葉を降ろさないことである。

また、ゼカリヤ書で大祭司ヨシュアを訴えるサタンが罪に定められたように、今日も、神は、クリスチャンを訴える悪魔に対してこそ、有罪を宣告される。

そして、神は私たちの汚れた衣を脱がせ、新しい祭服を着せられ、清い帽子をかぶらせて下さる。ちょうど帰って来た放蕩息子が新しい服を着せられたように。これは私たちの人格の内なる造り変えを象徴する描写である。

そして、この造り変え、聖別は、日々行われる。このように神に守られ、愛され、義とされ、とりなされ、聖別されるために必要なことは、日々、神の戒めを守り、御言葉に従って歩み、祭司としてのつとめを果たすことである。

愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」(一ヨハネ4:18-19)

このようにある通り、全き愛は、恐れを取り除く。だが、そのような完全な愛は、神への愛、何よりも、神が私たちを愛して下さる愛の中にしか存在しない。御霊によって、その交わりの中に入れられるとき、私たちの心の中から、恐れは取り払われる。そのように神の愛を知る時、私たちは初めて、どんな試練にも臆せず、自分の残るすべての生涯を、御国の前進のために捧げることができるようになる。それは決して自分自身の決意や力にはよらない。

だが、同時にその愛は、私たち自身の人格を造り変え、私たちを神にあって、他者との関係にも、御心をもたらすことができる人へと変えて行く。ヨセフはエジプトに売られた後、自分の生まれ育った故郷とも、父とも兄弟たちとも関わりがなくなり、長い間、彼らとは二度と会うことさえないと考えていたであろうが、それにも関わらず、神はその当時から、ヨセフを通して、彼の一家に恵みをもたらそうと決意されていたのである。

私たちが本当に神に対して自分を捧げるならば、似たようなことが起きる。私たちの存在は、そのものが「キリストによって神に献げられる良い香り」(Ⅱコリント2:15)となり、私たちの自覚とは関わりのないところで、他者を生かすために用いられるだろう。私たちは自分で何かをしてやったなどとは全く思わないかも知れないが、私たちの存在そのものが、神のご計画の成就のために欠かせない一部となるのである。(しかし、滅びる者にとっては、「死から死に至らせる香り」であり、救われる者にとって「命から命に至らせる香り」である。)

* * *

「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。
神のメシアの権威が現れた。
我々の兄弟たちを告発する者、
昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、
投げ落とされたからである。

兄弟たちは、小羊の血と
自分たちの証しの言葉とで、
彼に打ち勝った。
彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。」(黙示12:10-11)

* * *


「時に主は大祭司ヨシュアが、主の使の前に立ち、サタンがその右に立って、これを訴えているのをわたしに示された。  主はサタンに言われた、「サタンよ、主はあなたを責めるのだ。すなわちエルサレムを選んだ主はあなたを責めるのだ。これは火の中から取り出した燃えさしではないか」。
ヨシュアは汚れた衣を着て、み使の前に立っていたが、 み使は自分の前に立っている者どもに言った、「彼の汚れた衣を脱がせなさい」。またヨシュアに向かって言った、「見よ、わたしはあなたの罪を取り除いた。あなたに祭服を着せよう」。 わたしは言った、「清い帽子を頭にかぶらせなさい」。そこで清い帽子を頭にかぶらせ、衣を彼に着せた。主の使はかたわらに立っていた。
主の使は、ヨシュアを戒めて言った、「万軍の主は、こう仰せられる、あなたがもし、わたしの道に歩み、わたしの務を守るならば、わたしの家をつかさどり、わたしの庭を守ることができる。わたしはまた、ここに立っている者どもの中に行き来することを得させる。」(ゼカリヤ書3:1-6)

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