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2018年11月 4日 (日)

神の国とその義を第一として生きるならば、地上の必要をはるかに超えて、願うものはすべて添えて与えられる。(2)

さて、今月の終わり頃までに、事件が一つの山場を迎えることになる。今また大量の書類に埋もれ、準備作業の最中であるが、この正念場を超えれば、事件はしかるべき経過を辿り、終結へ向かう。悪人はふさわしい裁きを待つことになる。

今年も約半分ほどが過ぎてから、様々な手続きが以前の何倍もスムーズに進むようになった。そのおかげで、今、筆者の中では、日本の男たちに対する信頼が、随分と回復している。

この事件を通して、筆者はこれまでの人生で関わったことのない様々な職業の人たちに関わり、その中で、信念を貫き通すことの価値を学んだ。かつ、信念を持って仕事をしている誠意ある人たちに出会い、大いに助けられた。

たとえば、昼食も取らずに、事件のために電話を受け続けてくれた検察官、休日出勤までして捜査している警察官、答えに窮する質問が向けられたときに、とっさに答えてくれた裁判官、何度も裁判所に足を運ぶ中で、配慮を示してくれた書記官、それから、融通をきかせてくれた民間企業の人々・・・。一つ一つは実に些細な事柄でしかないが、それらが絶妙に相合わさって、事件の進展を大いに助けている。

民主党政権が自壊して、安倍自民党政権に戻って以来、日本は理念においても、経済においても、落ちぶれるばかりで、世界の四流国へと沈没しつつあるように見受けられるが、それでも、その中にあって、弱い立場にある者をかばい、正義を曲げず、真実を曲げない人間が、確かに存在していることが分かった。

そのような人々の仕事ぶりは、男であれ、女であれ、すがすがしいものであると感じずにいられない。そして、彼らの仕事を見るにつけても、やはり、筆者は筆者として、自分の信念を貫かねばならないと思う。

筆者はこれまで、何事であれ、命の息吹の感じられる方向性をひたすら探し求めて進んで来た。砂漠の中で貴重なオアシスを探し出すように、真実と誠実さの感じられる、清い命の流れが見いだせる方向だけに向かって進み、人々と接する時にも、嘘や不正がなく、真実性の感じられる主張を行う人々を探し当てて来た。そして、そういう人々に、この世の重要な用事を託し、彼らと一緒に進んできた。そうして真実、公正、正義を探し求めて生きることこそ、無駄な害を受けずに平安に生きるために死活的重要性を持つものであることを今も疑わない。

だが、そうして行く中で、かつて筆者が交わりを持ちたいと望んでいたキリスト教の信仰を持つ人々は、徹底的に筆者の周りから退けられた。これは実に逆説的な現象である。

筆者は今でも、聖書に基づくキリスト教の信仰を何より第一として生きているが、その筆者を助け、支えてくれたほとんどすべての人々は、信仰とは関係のない、この世の人々だったのである。

しかし、彼らは良識ある人々で、筆者の信仰をとてもよく理解してくれた。あるいは、理解しようと努めてくれた。たとえば、筆者は、裁判が始まるまで、裁判所とは、庶民には縁遠い場所で、裁判官というものは、ただ原告と被告の主張を見比べて、どちらに分があるかを、冷徹な科学者のようにはかり、無味乾燥で機械的な判決文を書くものと思っていたが、事実は全くそうではなかった。

むろん、すべての裁判官が良心的な人間であるわけではない。しかし、裁判官の職務の基本は、法的概念に基づいて弱者を救済することにあり、人々の訴えに真摯に耳を傾け、訴えられた被害を、自分自身の内面を通過させてその重さを理解した上で、それに対してどのような補償が望ましいかを考えることにある。

従って、裁判官は、宗教や信仰を背景にした訴えであっても、その思想的背景を無視して進むわけにはいかないのだ。自分とは異なる信仰を持つ人々の世界観をも理解し、人としての理解力、洞察力、共感能力、バランスの取れたものの見方をフル活用して、事件の真相をとらえねばならない。

それは検察、警察であれ同じである。信仰がないからと言って、信仰者の訴えを無碍に扱うことはできない。むしろ、世人は、立場は違えど、信仰を持つ人々に対して、一種の尊敬のような気持ちを持っていると言えよう。そのことが、膨大な分量の書面をもって方々に働きかけているうちに、はっきりと分かって来たのである。

さて、この10月に筆者は170頁に上る準備書面を用意したが、これが事件の流れを大きく変える一つのきっかけであったとみなしている。そもそもこの反駁を書き上げること自体、まさに天の采配がなければできないことだったからである。

このことの大きさを理解してもらうために、ある質問を読者に向けてみよう。

仮にあなたのもとに、弁護士が大きな文字で書いた12頁の訴状や準備書面が届いたとしよう。あなたが被告として、これに応じるとすれば、この書面に反駁するのに、どのくらいの時間を要すると思うか? 本人訴訟で応じる場合を想定しての質問である。

筆者の答えは、12頁の文書に反駁するために、最低でも1週間以上の作業が必要になるというものだ。しかも、これはただ反駁の書面を準備するためだけにかかる時間を指すのであって、事実の確認や、調査の時間は含まれない。

1週間、毎日、朝から晩までパソコンに向かい、ぶっ通しで反論を書き、ようやく12頁の書面に対する相応の反駁ができ上がるのである。その分量は、軽く30頁を超え、場合によっては、50頁以上に及ぶ。なぜなら、その文書の約半分は、相手方が記した内容の単なる引用であって、あなた自身の反論ではないからである。

つまり、誰かの主張に反駁するためには、その主張の倍以上の分量の書面が必要になるということだ。しかも、送られて来るのは、紙媒体であって、電子データではない。引用部分はすべて手打ちでデータ化する必要がある。その中には、日本語の文章だけでなく、URLや、複雑な記号、図形、あるいは外国語でえさえ、含まれているかも知れない。興味のない、読みたくない文章も、飛ばすわけにいかない。どんなに下らない愚かしい主張にも、きめ細やかに目を通し、きちんと反駁せねばならない。

多くの場合、訴訟においては、次回期日までに与えられる時間は1ヶ月以内である。先送りできるとしても、せいぜい1回か2回程度だ。だが、一般市民であるあなたには、弁護士のように、朝から晩までパソコンに向かう余裕があるはずもない。従って、弁護士に依頼するだけの資金がなければ、仕事を終えて帰宅してから、眠い目をこすりつつ、自分でその作業をするしかない。

こうした環境において、仮にあなたのもとに170頁にのぼる訴状や準備書面が届いたら、それに反駁するためにかかる時間は、一体、どれほどであろうか?

筆者の答えは、何カ月かかっても、一人で反論するのは無理だというものである。これは勇気とか決意とか覚悟の問題ではない。

170頁の文書に反駁するためには、300頁以上の分量が必要となる。しかし、文系の学術論文を例に取るならば、300頁の学術論文を書き上げるためには、昼夜を問わず、半年以上、ぶっ通しで作業する必要がある。大抵は、調査のために1~2年以上の月日が投入される。博士論文の場合は、6年程度の月日をかけて完成することも稀でない。半年で書き上げられれば、天才の領域と言えるかも知れない。

訴訟は論文ではないが、命と生活がかかっており、そもそも心理的に向き合いたくない問題がテーマとなっている点で、論文とはまた違った困難さと切迫性がある。その上、公開されている裁判ならば、傍聴も許されるため、あなた自身が、被告として一般市民の前に見世物とされる可能性がある。その上、あなたの書いた書面も、いついつまでも記録として保存され、あなたの死後になっても、まだ市民に閲覧請求され、内容が知れ渡る可能性もある。

あなたがこの裁判に臨むに当たり、どんなに仕事に追われ、書面を書く暇がなく、心理的に追い詰められていたと弁明したくても、その時には、誰もそんな弁明は聞いてくれない。あなた自身の代わりに、ただ書面だけが残り、要するに、こんな愚かしい主張しか出せない人間だったのか、それなのになぜ身の程知らずな挑発行為に及んだのかと、死後になって指摘されることが、果たして望ましいことであろうか。

そのような危険をも考慮した上で、あなたは膨大な分量の資料をデータ化し、内容を把握しながら、信憑性のある反駁を練り上げて行かねばならない。さらに、自分の主張を肉付けするために、有利な証拠を新たに探して来るのも、あなたの仕事である。

多分、そういう作業には、大半の人々が耐えられないことと思う。つまり、170頁もの文書で訴えられたとき、これにきちんとした根拠を示して自分一人の力だけで反論できるような人は、一般市民の中には、ほとんどいないのだ。

それでは、大金を積んで弁護士に依頼すれば、作業が簡略化できるかと言えば、それもあまりない。そもそも弁護士は当事者でないので、事件の詳しい事情を知らず、弁護士の作る書面には、必ずどこかに穴があると言って良い。

弁護士は、体裁だけは反論するであろうが、事の真相を知らないため、ほとんどの場合、正義などどうでも良く、詭弁を弄してでも良いから、形式だけを整えることが主要な仕事である。そこで、弁護士が書いた内容は、格好だけはついているかも知れないが、それで本当に勝てるかどうかは全く分からない。

勝つためには、あなた自身が、相手の主張の弱点をよく理解し、それに対する有効な反論の仕方を弁護士に伝えなければならないが、それができるくらいなら、初めから弁護士になど依頼する必要がないであろう。

そういうわけで、知的・経済的に、さしたる力を持たない一般市民が、インターネットで、軽はずみな短いコメントで他者を誹謗中傷したりしていれば、膨大な証拠資料と共に訴訟で訴えられ、それだけで一貫の終わりとなる危険がある。余命ブログの事件が良い例であるが、他者のヘイトスピーチに煽られて、分不相応な思い上がりに陥り、何の落度もない知識人らに、いわれなき憎悪と攻撃を向ければ、厳しい報いが待ち受けているだけである。

世間は、スラップ訴訟とは高額訴訟のことだと思っているようだが、請求金額だけが訴訟のインパクトなのではない。文書の内容、量もまた、非常に大きな衝撃力となりうる武器なのである。

もちろん、スラップ訴訟に限らず、あらゆる訴訟において、限られた時間内に、相手方よりも圧倒的に優位に立つ力がなければ、勝ち目はない。だが、原告であれ、被告であれ、一体、どうして一般市民がそんな巨大な負担に耐えられようか?

しかし、神が味方して下さるならば、それが可能となるのである。あなたは圧倒的な優位に置かれ、ダイナマイトのような武器を手にすることになる。神は、ご自分の権益にとって真に重要な戦いが起きれば、必ず、戦いに耐えうるすべての条件を用意して下さる。

その時、あなたは自分一人ではとてもこなせないような、とてつもない作業量を遂行することができる。ただ勝利するだけでなく、「勝ち得て余りがある」と言えるだけの作業をこなせるのである。

このように、筆者の遭遇した事件では、信仰の戦いを、信念を持って戦い通していると、ある時点で、狭い通路を抜け出し、広い場所に立たされる時がやって来た。天高く引き上げられて、余計な重荷から解放されて、広々と物事全体を俯瞰できる場所に置かれたと言って良いかもしれない。

このように、激しい戦いの中をも、勇気と信念を持って進んで行くとき、追い詰められるどころか、逆に心に余裕が生まれる。そして、自分の心の決意にふさわしい協力者たちにも、巡り合うことができる。それは、自分が信じて歩んできた道にふさわしい同志たちを見つけたという満足感の伴う貴重な出会いである。

このように、良い人たちに巡り合うためには、自分自身が生長せねばならない。日々、必要な代価を払って、自分の十字架を負い、掲げている旗を降ろすことなく、勇気を持って進んで行かねばならない。

そのとき、初めて、その歩みを喜んでサポートしてくれる人たちが現れる。女性だから、自分の主張をしてはいけないとか、男性の面子を立てるために、男性だけを優位に置いて、その下で仕えねばならないなどのことは決してない。むしろ、女性であろうと、男性であろうと、信念のために自分の命のすべてをかけて勇敢に進むならば、その時、周りの人々は自然と、その主張を理解し、助けてくれるようになる。もしもあなたが女性ならば、屈強で頼もしい男性たちが周りを取り囲み、ちゃんと目的地に着けるようにガードしてくれるだろう。

このように、自分の信念にどれだけ忠実に生きるかが、人の人生の価値だけでなく、人間関係をも決めると筆者はみなしている。人が自分のしかるべき立ち位置に立つ時、初めて、価値ある協力者が得られ、人間関係がことごとく正常化されて行く。

そういうわけで、真に魅力的な人々に巡り合い、そういう人々に取り囲まれて生きたいならば、そのためにも、私たちは、高い望みを持たなければならない。何よりも、神の国とその義を第一として生きるべきである。そうすれば、物質的な必要にも、人間的な支援にも、仕事にも、人との出会いにも、物事の巡り合わせや、経済にも、何一つ欠けることなく、すべてが天から供給されて満たされるだろう。

その時、初めて、どんなに困難な戦いが起ころうとも、神が味方して下さることによって、勝利をおさめる秘訣が分かる。そうして多くの勝利を勝ち取った後で、世を去る時にも、胸を張って、これで良かったと言える悔いのない人生を歩めることだろう。,主の御名は誉むべきかな。

(ちなみに、フィナーレとして用意されている書面は、民事訴訟に関するものではない。もちろん、裁判資料も追加するが、それとは別に、新たに大きなお土産が用意されている。クリスマスに向けて、苺やホイップクリームをふんだんにちりばめた巨大なケーキを作り上げているところだと言って良いかも知れない。)

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