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2019年5月13日 (月)

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(21)―すべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。

さて、本来ならば、筆者は「休養」していると言いたいところだが、 山のような仕事に追われ、突貫作業中だ。どれもこれも投げ出すわけにいかない重要な仕事だ。主がどのようにこれを達成させて下さるのか、信仰によって期待するのみ・・・。
 
さて、村上密に告げる。唐沢治とは早急に手を切り、杉本徳久が賠償金を支払えるよう、無利子・無期限でお金を貸してあげなさい。
 
京都教会は重大な危機を迎えている。長澤牧師もいなくなり、次には必ず、村上密も失うことになる。この教会は、やがて壊滅的な打撃を受ける。唐沢になど関わっていれば、存続さえできなくなるだろう。悪いことは言わない、今のうちに筆者の忠告を聞き入れなさい。

杉本徳久という人物は、今やフィクションのように消えかかっている。彼はすでに商工会議所も脱退しており、東京銀杏会の正会員でもないことが分かった。未だブログには偽情報が掲載されたままだが、どこからどこまでがフィクションで、何が実体なのかも分からない。 


 
このまま行くと、杉本という存在そのものが、当ブログに飲み込まれて伝説として消えるだろう。警察も、杉本には支払い能力がないとみている。筆者の目から見れば、杉本は村上のためにすべてをやった。
 
だから、村上が彼に賠償金を貸与してやり、杉本が府中支局でこれを供託しなさい。

村上が手を貸してやれば、筆者に対しても、少しくらいは良い仕事を果たしたことになろう。手続き方法を確認しておいた。ただし、本人でも確認されたい。

筆者の考えをメルヘン小説のごとく善意に期待していると嘲笑うのは勝手だが、今、ほんのわずかでも良いことをすれば、神はあなた方が苦難を受ける日に、もしかすると、それを覚えておいて下さることがあるかも知れない。

取り調べに当たっても、社会的責任は負うつもりがあるという恰好くらいはつけることができるだろう。
    
* * *

さて、筆者は、少し前に村上密の推薦図書を通して、村上の神観がどのようなものであるかを分析しようと、フィリップ・ヤンシーの二冊の著書を取り寄せた。
 
 

だが、グノーシス主義の文献を分析する時とは違い、これらの書物は、あまりにも不健全なほどに痛み苦しみにこだわっているため、読んでいるだけでめまいがし、読了できそうにもなかった。
 
ただ一つ極めて印象に残った話がある。それは、この書物の中で、ハンセン病患者のことが取り上げられていたことだ。ハンセン病者の体に変形が起きるのは、断じて潰瘍などのせいではなく、痛みの感覚がなくなることが原因だと記されていた。

つまり、ハンセン病患者は、痛みの感覚がなくなるがゆえに、自分の体を自分で防御することができなくなり、体に対する過酷な扱いをした結果、体の正常なかたちをどんどん失って行くというのである。
 
この書物は、そうした話から始まり、痛みの感覚が、人の自己防御のためにはどんなに有益なものであって、必要不可欠かという結論に読者を導きたいようであった。そして、次から次へと不幸な事故で重度の障害を負った人々や、激痛に苦しんでいる人の例を引き合いに出して来るのである。

だが、筆者は、人間の苦痛をあまりにもクローズアップしすぎているこの書物の内容に、同意することはできそうにもない。危険を告げ知らせるための信号として、痛みの感覚は必要かつ有益である。だが、絶え間のない苦痛と不自由に苦しめられる状態は、痛みのないハンセン病患者の生活の危険とは種類は違えど、それもやはり、「人のかたち」を脅かし、歪め、失わせる脅威であることは間違いない・・・。

そういう意味で、苦痛という人間の感覚を通して、神を探り究めようとするこの書物には、筆者は著しい違和感を覚える。痛み苦しみに勇敢に立ち向かっている人がいるという例話にはなっても、この書物を通して、神を知ることは難しいものと思う。しかも、同書にはほんのわずかしか、聖書の御言葉が登場もしない。

だが、筆者は、なぜ村上が、そこまで苦痛にこだわるのか、その理由を知りたいと考えて、この本を手に取った。なぜ彼らが被害者に心惹かれ、なぜ可哀想な人々を次から次へと引っ張って来ては、相談に乗り、絶え間なく彼らのためにという口実で、紛争を起こして来たのか、その理由を知りたいと思った。

なぜそんなにも苦痛が彼を引きつけるのか? その苦痛の根源にあるものは何か・・・。

とはいえ、そうした分析を行おうとしていた矢先、村上が唐沢治の陳述書を投稿した。これはまさに村上密という人物の終焉となるにふさわしい記事である。だから、村上の思想分析の仕事はおあずけだ。控訴審で名誉毀損等々の権利侵害を訴えるための理由書の作成をせねばならない。
 
ちなみに、レビ人の剣を取って、これを兄弟と呼ばれた人々に向けなければならないのは、筆者自身にとっても、つらい仕事である。

しかし、最後までその仕事は貫徹せねばならない。だから、筆者の休養はまだまだ先のことである。だが、一つだけ言えることがある。この責任の重い仕事を果たすまで、筆者はその責任から決して逃げはしないと。

筆者の休養のことなどに配慮してくれるなら、お返しに告げよう。あなたたちこそ、人間の死んだわざをやめて休みなさい。地上の働きを失っても、魂を失わないでいられるなら、その方が良い。神は何人の死も喜ばれない。だから、すべてのとがを離れ、心を翻して生きなさい。

もしかしたら、まだ悔い改めの余地が残っているかも知れない。筆者はそのために最後の呼びかけを行う。悪しき死んだわざを離れて、新しい心と新しい霊を受け、翻って生きなさいと。
 
「だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。」(1コリント3:14-15)

「それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはあなたがたを、おのおのそのおこないに従ってさばくと、主なる神は言われる。悔い改めて、あなたがたのすべてのとがを離れよ。さもないと悪はあなたがたを滅ぼす。
あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。
わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」。 」(エゼキエル18:30-32)

* * *

さて、人はあまりにも長く苦しみ過ぎると、痛みに慣らされ、もはや苦痛を感じても、苦痛と思わないほど、痛みのセンサーが鈍磨してしまうということは、健康な人にも起きうる現象だ。

ハンセン病者は、痛みが分からなくなると、自分の体を過酷に扱い、どんどんすり減らして行ってしまう。

だが、キリストの体なるエクレシアの場合、どうなるだろうか?

体のある部分が病むと、他の部分が共に呻き、苦しむことで、互いに助け合い、命を分け合って、かばい合い、一つの体を支え、守るのである。どの部分もすり減らされて、体から切り離されたりすることがないよう、体のかたちを守るのである。

筆者は昨年の年明けごろから、当ブログを巡って起きた紛争と真正面から向き合い、解決を得るために、あらゆる犠牲を払って戦い抜くことを決意した。

しかし、訴訟を起こすに先立ち、多分、その意味を理解してくれる人は誰もいないだろうと、筆者は思った。多くの反対を受け、憎まれ、孤立することをも覚悟せねばならないだろうと。

だが、たとえ全世界がこの戦いの意味を全く理解しなかったとしても、筆者は信じている結果が出るまで、一人で戦い抜こうと覚悟を決めた。生きているうちに、理解を得られずとも構わない。ただお一人、真実なる神の目に義と認められればそれで良いではないか。

「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。
「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、
 裁きを受けるとき、勝利を得られる」
と書いてあるとおりです。」(ローマ3:4)

そこで、筆者は、ただ神の正しい裁きを得るためにに、自分を投げ捨てよう、と覚悟を決めた。何もしなくとも、圧迫から逃れられるわけではないのだ。それならば、とことん向き合い、決着が着くまで、真実が何かを争おう。そうして、自分を振り返らずに進んで来た。

だが、訴えを提起すると、不思議な現象が起きた。筆者の心の内面にあったものが、徐々に外に持ち出され、他の人々に分かち合われるようになり、筆者にとてもよく似た、まるで筆者の分身のような人たちが、筆者に代わって、筆者の内面を表現するようになったのである。

筆者は彼らを見ているうちに、自分がどれほど巨大な苦しみを内に抱え、押し殺して生きて来たのかが分かった。だが、不思議なことに、それを筆者に代わって他者が表現してくれた時、もはやそれは苦しみではなくなり、慰めとなり、筆者は深い感謝と尊敬の念をその人たちに感じずにいられなかったのである。

そうして、筆者の心の最も深いところにあるものを分かち合ってくれた人々は、筆者にとって、まるで自分自身も同然となった。どうしてそのような人々を、憎んだり、非難したり、敵に回すことができようか。「我が身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。 」(エペソ5:29)という御言葉が思い出される。

そうだ、彼らはもはや筆者自身なのだ。

いつの間にやら、そういう筆者自身のような人たちが、二人、三人と増えて行き、数えきれないほどまでに拡大した。
 
一体、どういうわけで、そういうことが起きたのか知らないが、全世界の人々の理解を置き去りにしてでも良いから、ただ一人、真実なる神の裁きを求めようと思った筆者には、いつの間にか、全世界の人々が、まるで自分自身のような存在として、取り戻されつつある・・・。

そして、この人々を自分自身のように思えばこそ、彼らをいつまでも苦しみの只中に留め置きたくはないのである。ただ筆者の内面を分かち合ってもらったというだけで、満足して終わりたくはない。皆で協力して敵の圧迫に立ち向かい、すべての分裂・敵対・争いを毅然と退け、互いを守り合い、いたわり合う関係を取り戻し、自由に至り着かねばならない。

聖書には、キリストのからだなる教会について、次のくだりがある。

「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。

体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。

そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。

それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと格好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」(一コリント12:12-27)
 
ここで言及されている「苦しみ」とは、決して体の一部としての自分が、ただ自分だけを守るための自己防御のセンサーではない。

それはむしろ、互いに労り合い、共感し合い、助け合うためにこそ生まれる感覚である。

キリストの御身体には、ハンセン病者が痛みの感覚を失って、自分自身の体を過酷に扱い、体をすり減らして失って行くようなことは、起きない。なぜなら、体に危機が迫っているときに、一つの部位が痛みを感じなくなっても、他の部位がそれを感じ、体全体が、最も弱い部分が感じている痛みを、全体で共有するからである。

だが、痛みを共有するとは、決して、体全体が絶えず激痛にさいなまれ、活動もできなくなるということを意味しない。その苦しみは、全体で共有されることにより、慰めに変わる。

弱い部分が苦しめば、強い部分が、それをいたわり、弱い部分に集中してエネルギーを注ぎ込む。すると、弱さは強さで覆われ、痛みの原因が取り除かれて、苦痛が解消して行くのである。

筆者の訴えが世間に持ち出されたとき、筆者は自分より少しばかり強い人たちに、重荷を分かち合ってもらった。それによって、筆者の荷が軽くなったので、心に余裕が生まれ、その代わりに、筆者も他の人々をかばうことができるようになった。

強い者が弱い者をかばうように、時には、弱い者が強い者をかばうこともできる。

信仰を持たない人々の間でさえ、こうして重荷を担い合うことができるのであるから、キリストの御身体は、確実にそのような連帯を行うに足るのであって、それこそが、エクレシアの機能なのである。

こうしたことが分かった時、筆者はなぜキリストが十字架につけられた時、父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と祈られたのか、なぜステパノが群衆からの石打ちに遭って殉教する直前にも、ひざまずいて、主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒7:60)と叫んだのか、幾分か、理解できた気がした。

筆者は、自分自身のような誰かを、もはや一人として、敵に渡したくないのだ。人々が心傷ついて、失意に落ち込み、自分はプライドを傷つけられたという屈辱の思いから抜け出せなくなり、生涯、争いと、憎しみと、敵意の中に身を投じるところをもう見たくない。

聖書の神は、誰一人、滅びに至らせることなく、すべての人を救いに導き、そして、すべての人に、ご自分の友として御心を分かち合って欲しいと願っておられる。だから、我々はそのためにこそ、罪人らの反抗を耐え忍ばなければならない。

クリスチャンが擦り切れるほど暗唱しているあの聖句がそのことをよく物語っている。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。

<略>悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」(ヨハネ3:16-21)

自分自身のような誰か。自分の半身のような誰か。その誰かを、憎しみと敵意と怒りに引き渡し、生涯、争いの中に生きる地獄の業火に渡し、ついにはレビ人の剣で自らその者を敵として刺し通さねばならないような事態にはなりたくない。

だが、多分、筆者がそう思っている以上に、神はその人を惜しんでおられるはずである。

創世記にはこうある、「主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」 」(創世記2:18)。そうして、神は人(男)のために、助け手として女を創造された。

だが、これはいわば、神の独り言であって、本当は、ここで言及されているのは、人間の男女のペアのことよりも、霊的な文脈における、神(キリスト)と人類(エクレシア)との関係なのだ。

つまり、神はご自分の助け手となるべく、人を創造されたのである。神は強い方であって、人間の助けなど必要としておられず、ただお一人で、栄光に満ちた存在として、何の不足もなかったはずであるにも関わらず、「独りでいるのは良くない」として、人を創造されたのである。

そうして神は、人をご自分よりも少し弱い存在として、助け手として創造された。詩編にはこうある、

「人の子は何ものなのでしょう。
 あなたが顧みてくださるとは。
 神に僅かに劣るものとして人を造り
 なお、栄光と威光を冠としていただかせ
 御手によって造られたものをすべて治めるように
 その足もとに置かれました。
 羊も牛も、野の獣も
 空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。」(詩編8:5-9)

ダビデは驚きに満ちて言う、神よ、あなたはどうして人を創造されたのですか、と。強い者は、弱い者の助けなど必要としないはずで、強さこそ、栄光と威光の源であるはずで、弱さの中には、栄光も威光もなく、見劣りのする要素しかないはずではないか。

それなのに、なぜ神は人に栄光と威光を冠として抱かせ、御手によって造られた万物を統べ治めるという栄光ある仕事を任せられたのか。なぜ弱い人をかえりみ、懇ろに世話をし、ご自分の助け手として立たせられたのか・・・。

この詩編の箇所は、以上に挙げたキリストの体なる教会を指した聖書箇所とも響き合う。
神に僅かに劣るものとして人を造り なお、栄光と威光を冠としていただかせ・・・
神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて・・・
体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです
それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。


お気づきだろうか、キリストの体としての教会の一体性について言及されている聖書箇所の中には、神と人との関係も表現されているのである。強い者が弱い者をいたわり、見栄えのする部分が見劣りのする部分を引き立たせ、他よりも弱く、不必要に見える部分がかえって必要となり、各部分が互いに配慮し合って、喜びと悲しみを共有し、一体性としての体のかたちを保っている・・・。

これはまさにキリストとエクレシアの配偶の関係を表現したものなのである。

我が身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。 」(エペソ5:29)との御言葉にも、キリストと教会の愛の関係が表されている。

つまり、神は誰からも支えられたり、助けられたりする必要のない強い方であるはずなのに、見劣りのする、見栄えのしない、必要とも思われないような弱い人間を召し出され、人の弱さをご自分の強さで覆い、人の見劣りのする部分をご自分の栄光と威光で覆われ、人がご自分と同じ思いを分かち合って、すべてのものを治めることができるよう、使命を与えられたのである。

神の強さとは、そのようにへりくだった強さであるからこそ、そして、キリストが十字架の死に至るまでも砕かれ、へりくだって、身をもって弱さを知って下さったからこそ、神の強さは、人の弱さを覆い、その命は、多くの弱い者たちを生かし、力づけ、立ち上がらせることができるのである。

それは自己充足のための強さではなく、他者をいたわり、かばうための強さである。

「そこで、あなたがたにいくらかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、”霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ重いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ2:1-11)

キリストが神でありながら、御自分の栄光あるかたちを捨てて、むなしい人間と同じ姿になられたこともまた、「見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。」という個所と響き合っている。

神は栄光ある方なのに、その栄光を、ご自分のために保存するのではなく、かえって、ご自分よりも弱く、卑しい者に、その栄光を分かち与えるために、命を投げ出されたのである。

わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと格好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。

「見劣りのする部分」、「ほかよりも恰好が悪いと思われる部分」、「見苦しい部分」とは、人間のことである。そのようなものが、賞賛に値するだろうか? 誰が恰好が悪く、見苦しく、見劣りのするものに注意を払うのか?

ところが、神は人を弱さと惨めさと孤独の中に打ち捨てては置かれず、弱い人間を「いっそう引き立たせ」、「恰好よくし」、「見栄えよく」するために、ご自分の聖なる性質を、信じる者一人一人に十字架で分かち与えられたのである。

そのようにされた目的は何か。

それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

神と人との敵対関係が終わり、神と人とが互いに助け合い、いたわり合う関係が回復されて、健やかな時も、病める時も、共に喜び、共に苦しみ、互いを尊ぶという、配偶の関係が回復されるためである。

神は人の創造の初めから、人をご自分の友として、すべての御思いを人に分かち合ってもらいたいと願われ、そのために人を造られたのである。

そんなことが本当にあるのかと問われるだろう。神と人とでは、あまりにも何もかも違いすぎるではないか。どうしてそこに理解が成り立ちうるのか。まして、友だとか、パートナーシップなどが成立しうるのかと。

もう一度、創世記に戻ろう。神は人を創造されるとき、ご自分のかたちに似せて創造されたとある。

「神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。 」(創世記1:26-27)

ご自分のかたちに似せて、とはどういうことだろうか。

まさか人(アダム)を塵から造られ、息を吹きかけられたということだけを意味するわけではあるまい。(塵は死を象徴するものであり、アダムが最初に神から吹き込まれた霊は、永遠の命ではなかったのである。)

創世記第2章27節には「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。 」とある。

実は、ここには書かれていない、隠れた飛躍した文脈がある。それは、神がご自分にかたどって人を創造されたプロセスは、神が男と女とを創造されたプロセスに類似しているという点である。

前にも引用したが、もう一度、男から女が造られたプロセスを振り返ろう。

「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、 人は言った。
「ついに、これこそ
 わたしの骨の骨
 わたしの肉の肉。
 これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう
 まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。 」(創世記2:21-24)

これはキリストと教会の関係を暗示している。このことは霊的文脈において解釈する必要がる。

キリストは十字架につけられ、死んで葬られ、3日目によみがえられた。十字架につけられたとき、彼はわき腹を刺され、そこから血と水が流れ出した。

そうして、キリストの死と復活にあずかり、彼のわき腹から、そのよみがえりの命と、血潮と、水(バプテスマ)を経由して生まれて来たのが、聖なるエバ、すなわち、キリストの花嫁なる教会なのである。

つまり、最初のアダムは、予表であり、次に来るアダムが正真正銘の人であり、最初のアダムとエバの創造は予表であり、キリストとエクレシアの誕生こそ、真の意味での男女の誕生なのである。

だからこそ、キリストは聖書において、第二のアダム(最後のアダム)と呼ばれている。

「「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。
最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。

わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。」(1コリント15:45-49)

つまり、創世記において、神がご自分のかたちに似せて人を造られた、と言われるプロセスの中には、キリストの十字架を通してエクレシアが生まれたプロセスが、ある種の飛躍的な暗示によって、重ね合わされている。

そして、アダムとエバの創造よりも、後に来るもの(キリストとエクレシアの誕生)という隠れたプロットの方が、実は本物なのである。

神がアダム(男)に「命の息」を吹き入れられたことにより、アダムが「生きる者」となったように、アダム(男)から造られたエバ(女)も、神が人に命を与えられた関係と類似して、アダムに吹き込まれた命を受け継ぐ者となった。

「アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。 」(創世記3:20

しかし、エバが命名されたこのくだりは、アダムとエバの二人が神に背いて堕落した出来事の直後に記されている。従って、このことを見ても、この命は非常に不完全なものだったことが分かる。
 
まず、アダムが神からもらった命は、神の非受造の命ではなく、永遠性のない、天然の動物的命に過ぎない、不完全な命(魂の命)であった。
 
次に、エバは、アダムが堕落して、人類が死を免れられなくなった後で、堕落したアダムの命を受け継いで、「すべての命あるものの母」となったわけであるから、エバの持っていた命は、アダムが堕落以前に神から与えられた命よりも、もっと不完全で、劣った命であったと言うことができよう。

(おそらく、アダムとエバが創造された当初、彼らには罪がなく、死も予定されていなかったので、二人には、自分たちが死ぬ代わりに、子孫を残すことによって、命を次世代につなげるという使命もなかったものと見られる。そうした役割が付与されたのは、明らかに二人が堕落して死を免れられなくなってからのことではないかと考えられる。)

だが、第二のアダムであるキリストの命は、十字架で死を打ち破り、よみがえられた神の霊なる命であるので、これはもはやいかなる堕落に脅かされることもない、永遠性を持つものである。その聖なるよみがえりの命を、キリストは十字架においてエクレシア(教会)に付与されたのである。

そして、私たち信じる者は、地上の生まれとしては、堕落した人間の一人として、朽ちゆく「アダムの似姿」として生まれたが、信仰によって、やがて栄光あるキリストの似姿になることが約束されている。

「わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。

こうして、「見劣りのする部分」、「ほかよりも恰好が悪いと思われる部分」、「見苦しい部分」が、「いっそう引き立たせ」、「恰好よくし」、「見栄えよく」されて、神の聖なる性質にあずかり、キリストと共に万物をその足の下に治め、「栄光と威光を冠としていただかせ 御手によって造られたものをすべて治めるように その足もとに置かれました。」という御言葉が実現する時が来る。

もはや私たちの「母」は、朽ちゆくアダムの命を継承するエバではない。

「このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。」(ガラテヤ4:25-26)

前にも説明した通り、ハガルとは、アダムの堕落した命を受け継ぐエバと同じであって、堕落した人全体の総称である。シナイ山とは、律法を指す。

エバの命は、律法によって死に定められ、罪と死の奴隷として生きることしかできない、朽ちゆく堕落した卑しい命であったが、キリストのわき腹から生まれたエクレシア(天のエルサレム)は、キリストの死と復活にあずかり、罪と死の法則から自由にされた、聖なる永遠の命によって生かされている。

私たちはキリストを経由して、この新しい母(教会―エクレシア)に属する、キリストに属する新しい人類とされたのである。

「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやその類のものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。」(エフェソ5:25-27)

こうして、キリストの体なる教会は、すべての堕落から清められ、もはやその痕跡さえも残らない、完全に聖なるものとして贖われる日が来るのである。

パウロはエペソ書でそのまま続ける。

「そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ人は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、我が身を養い、いたわるのです。わたしたちは、キリストの体の一部なのです。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。」(エフェソ5:28-32)

だが、おかしなことである。ここで語られているのは、夫婦がどのように互いを愛し、いたわり、尊重すべきかという話なのか、それとも、キリストがどのように教会を愛されたかという話なのか、それとも、キリストの体なる教会に属する一人一人の信者(兄弟姉妹)たちがどのように互いをいたわり、愛を示すべかということなのか、この文脈からは分からない。

いや、分からないのではなく、この文脈にはそのすべてが込められている。

つまり、キリストの体なる教会は、キリストが教会を愛して命を捧げられたように、体の一部である互いの信者を愛し、尊重しなければならないということが示されているのである。その愛は、当然ながら、地上の夫婦にも適用されなければならないが、ここで言われているのは、それ以上の事柄であり、夫が妻を自分自身のように愛するように、キリストの体なる教会は、それぞれ体の一部である一人一人の信者が、互いにねぎらい、いたわり、尊重する関係になければならない、ということが言われているのである。

それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この御言葉に込められているのも、私たちが、堕落したアダムとエバを父母とする地上の朽ちゆく出自を離れ、キリストのわき腹から生まれた聖なる教会として、天に属する者として、「見劣りのする部分」、「ほかよりも恰好が悪いと思われる部分」、「見苦しい部分」が、「いっそう引き立たせ」られ、「恰好よくし」、「見栄えよく」されて、「天に属するその人の似姿にもなる」、すなわち、いつか贖いが完成して、キリストの栄光ある似姿にまで変えられるプロセスのことを指しているのである。

堕落のために、人に当初、予定されていた栄光ある神のかたちは失われた。痛みの感覚がなくなり、自分で自分の体をとことん傷つけても気づかないハンセン病者と同様に、罪のゆえに、自己を防御することさえできなくなって、互いに憎み合い、争い、互いを傷つけ始めた人類からは、正常な「かたち」がどんどん失われて行った。生まれながらの人類の姿には何ら、人が神の栄光あるかたちに創造されたという痕跡はない。

しかし、そのように滅びに向かっている人類を救うべく、神が人の卑しい「かたち」を取られて、地上に来られた。神が神の栄光ある「かたち」を捨てて、むなしく、卑しい人の姿を取って地上に来られたのである。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

そうして、キリストが全人類の代表として、人のすべての痛み苦しみを担って、十字架の死に赴かれ、よみがえられたからこそ、彼を信じる人は、みな彼と同じ死を経て、よみがえりの命にあずかり、創造された当初の目的を取り戻し、いや、当初の予定を超えて、「栄光ある神のかたち」、すなわち、キリストの似姿とされるのである。
 
キリストは十字架において、人々に憎まれ、弟子たちに裏切られ、父なる神に見捨てられ、ただ一人でその死を負われたが、それでも、不思議なことに、最後までただ一人で十字架を負われたわけではなく、ほんのわずかではあるが、そこに人の関与もあるのだ。
 
「人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。」(ルカ23:26)

ここに神の「助け手」としての人類が、ほんの一瞬だけだが、イエスを見捨て、裏切る側の登場人物としてでなく、姿を見せている。十字架の贖いは、もちろん、神の側からの一方的な恵みであって、人類の自己努力による達成ではない。それは神の側から一方的に提供された贖いであって、そこに、一切、人類の手柄の入り込む余地はない。

それでも、その十字架の御業の達成の中にさえ、神はこうして不思議な形で、取るに足りない人類を参与させていたのである。

ここにも、神がご自分の喜びと悲しみ、嘆きや苦しみのすべてを、人類に友として分かち合ってもらいたいという願いが、反映しているのではないだろうか?

むろん、今日も、神は信じる者に、少しばかり、ご自分の苦しみを分かち合ってもらいたいと願っておられる。

「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。」(フィリピ1:29-30)

そう、イエスが十字架にかかられてから、少しばかり時間は経過したが、私たちは後に続く者として、彼が経験されたのと同じ戦いを戦っているのである。

もちろん、勝利はすでにカルバリで取られた。とはいえ、私たちは今日も、サタンのわざを打ち壊して後退させ、より多くの人々の魂を獲得して救いへ導くために、イエスにならって、日々、十字架の死に服し、キリストのために苦しむことが、恵みとして与えられている。

神はそうしてご自分のために、信じる人々が、喜びだけでなく、悲しみも、痛みも、苦しみも、すべての御思いを友として分かち合うことを望んでおられ、人々が御名のために耐えた労苦のことを決して忘れられることはない。

「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正し者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。

はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイ10:40-42)

このように、神の強さとは、その強さを自己のためだけに使い、自分の強さに固執して、これを手放すことを嫌がり、その強さによって弱い者を圧倒し、弱い者を高みから見下ろして、勝ち誇るような強さではない。

むしろ、キリストはご自分が強いからこそ、徹底してへりくだり、弱い者を生かすために、死に至るまでの従順によって、父なる神への愛を人々に示されたのである。それだからこそ、夫は妻に対し、信者は信者に対し、自分が強いからと言って、その強さによって、弱い者を脅かすことなく、かえってキリストがそうされたのと同じ愛で、いたわり合い、慰め合い、補い合い、いたんだ部分をかばい、弱さを強さで覆い、互いを尊重し、仕え合い、互いを自分自身のように愛するようにと教えられたのである。

ステパノが殉教に際しても、喜びに満ちていたのは、そのようにして、自分を無にしてへりくだることこそ、他の人々を救うための鍵であることを知っていたからである。

彼は知っていたのである、自己を捨てること、それだけがキリストと同労する道であること。もしもキリストへの愛のゆえに、人々に誤解され、離反されて苦しむならば、そこには必ず深い慰めが伴うこと、必ず、それには報いがあって、損失は損失に終わらないこと、彼自身は、葬られても、他の人々がそれによって必ず命を得ることを――。

誰よりも主イエスこそ、その秘訣を知っておられた。

一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしのいる者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(ヨハネ12:24-26)

イエスは、神の栄光を捨てて人の姿となられ、ただ一人十字架に向かわれる時にも、ご自分の耐えておられることが、単なる損失に終わらず、その霊的死の中に、復活の命が働いて、多くの人たちに命が分け与えられる結果となることを予め知っておられた。それはイザヤ書に次のように預言されている通りである。

「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。

乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
この人は主の前に育った。

見るべき面影はなく
輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。

彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。

彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。

彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。

苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように
毛を刈る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。

捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
命ある者の地から断たれたことを。

彼は不法を働かず
その口に偽りもなかったのに
その墓は神に逆らう者と共にされ
富める者と共に葬られた。

病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ
彼は自らを償いの献げ物とした。
彼は、子孫が末永く続くのを見る。
主の望まれることは
彼の手によって成し遂げられる。

彼は自らの苦しみの実りを見
それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。

それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
彼が自らをなげうち、
死んで罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。」 (イザヤ53:11-12)
 
 * * *

<続く>

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