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2019年5月 3日 (金)

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(18)―愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。

 「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。

愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。

わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」(一ヨハネ4:16-21)

さて、このとこと筆者は複数の仕事を果たさねばならず、かけもちで忙しい。掲示板では、反カルト陣営の抑えがたい凶暴性、悪質性が表面化している様子で、魔女狩り裁判をしたくてたまらない人々が次の獲物を求めて集まっているようだ。


 
やれやれ、牧師が信徒を訴えたくてたまらない時代。何という恐るべき曲がった世の中になったことだろうか。

このようなことが起きることを予見して、当ブログでは再三、牧師制度の悪なることを主張し、牧師制度から離れるよう読者に警告して来た。牧師制度は撤廃するしかない、そういう明白な結論が出るところまで来たと筆者は考えている。

ちなみに、信徒を刑事告訴した牧師などは、筆者が知っている限り、日本にたった二人しかいない。いみじくも二人とも筆者の知り合いで、これには運命の数奇な縁を感じる。
 
一人目は、KFCの元信徒を訴えた唐沢治だが、この件は、後になって、筆者自身が唐沢の告訴の正当性に疑問を抱くようになり、筆者の他にも、「呪いの予言はあった」と証言する人物が現れるなど、虚偽告訴だった可能性が指摘されている。

二人目は、村上密で、何とこちらは筆者を告訴したという記事を発表、すでに記事が削除されている以上、この情報の真偽の程は定かでないが、事実であれば、こちらは虚偽告訴罪を主張する構えでいることも、すでに記事に記した通りである。

いずれにしても、牧師が信徒を訴えるという行為が、どれほどキリスト教の精神に反するものであるかは、今更、説明するまでもない。村上は、筆者が理由なく村上を悪魔扱いしているかのように非難していたが、黙示録には、こうあるではないか。我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者」(黙示12:10)。悪魔の主要な特徴は、救われた兄弟姉妹を告発することにある。だとすれば、筆者に反訴を予告したり、告訴を予告する行為は、これに該当しないと言えるだろうか。
  
なぜ牧師が信徒を告訴するなどという恐るべき出来事が起きるのか。それは、牧師という職業そのものが、「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。」(一テモテ2:5)の御言葉に反し、神と人との間に、目に見える「代理権威」としての人間を置こうとする制度だからである。

人間に過ぎない者が、神と人との仲保者であるキリストになり代わろうとするなど、筆者に言わせれば、まことの神への反逆、とてつもない高慢である。にも関わらず、そのような恐るべき地位の略奪(=キリストの地位の略奪)をしようとするからこそ、これらの牧師たちには、あたかも自分こそ神であるかのような錯覚が生じ、「自分に盾突く者はどんな手段を使ってでも社会的に抹殺したい」といった残酷な欲望が生じるのである。
 
私たちはこのような現象を見て、神と自分たちの間に、宗教指導者という「代理権威」を置くことがいかに忌むべき行為であるかを理解し、牧師制度に服することを拒否して、見えないキリストだけにより頼んで信仰生活を送るべきである。

牧師たちの暴走は、カルト・反カルトどちらの陣営をも問わず、自己を現人神とする牧師制度ある限り、今後も発生し続けるのである。

さて、村上密の率いる反カルト運動に深い影響を受けた信者らが、村上がブログで新たな団体や信者を「カルト認定」する度に、村上に倣って、村上が標的とした人物や団体に集団で人権侵害の記述を繰り返して来たことは、周知の事実である。

反カルト陣営は10年以上にも渡り、他宗教の信者のみならず、キリスト教徒の中から「獲物」を見つけては、バッシングに及ぶことによすがを見いだしており、村上はこれらの人々に、獲物をくれてやるがごとくに話題を提供する役目を担って来た。

そして、今や彼らは筆者をも獅子の穴に投げ込んだつもりでいるらしい。

だが、筆者には訴えられる理由もなければ、キリスト教徒としてのいかなる信仰的逸脱もないため、筆者はこうした話を全く意に介しておらず、かえって牧師たちこそ、訴えられて倒れると心に確信している。このような時には、ダニエル書6章の記述を思い出すだけで良い。
 

「ダリヨスは全国を治めるために、その国に百二十人の総督を立てることをよしとし、また彼らの上に三人の総監を立てた。ダニエルはそのひとりであった。そこで総監および総督らは、国事についてダニエルを訴えるべき口実を得ようとしたが、訴えるべきなんの口実も、なんのとがをも見いだすことができなかった。
 「われわれはダニエルの神の律法に関して、彼を訴える口実を得るのでなければ、ついに彼を訴えることはできまい」と。

こうして総監と総督らは、王のもとに集まってきて、王に言った、
 「すなわち今から三十日の間は、ただあなたにのみ願い事をさせ、もしあなたをおいて、神または人にこれをなす者があれば、すべてその者を、ししの穴に投げ入れるというのです。それで王よ、その禁令を定め、その文書に署名して、メデアとペルシャの変ることのない法律のごとく、これを変えることのできないようにしてください」
そこでダリヨス王は、その禁令の文書に署名した。

ダニエルは、その文書の署名されたことを知って家に帰り、二階のへやの、エルサレムに向かって窓の開かれた所で、以前からおこなっていたように、一日に三度ずつ、ひざをかがめて神の前に祈り、かつ感謝した。

そこでその人々は集まってきて、彼らは王の前にきて、王の禁令について奏上して言った、
 「王よ、あなたは禁令に署名して、今から三十日の間は、ただあなたにのみ願い事をさせ、もしあなたをおいて、神または人に、これをなす者があれば、すべてその者を、ししの穴に投げ入れると、定められたではありませんか」
 王は答えて言った、
 「その事は確かであって、メデアとペルシャの法律のごとく、変えることのできないものだ」

そこで王は命令を下したので、ダニエルは引き出されて、ししの穴に投げ入れられた。王はダニエルに言った、
 「どうか、あなたの常に仕える神が、あなたを救われるように」
そして一つの石を持ってきて、穴の口をふさいだので、王は自分の印と、大臣らの印をもって、これに封印した。これはダニエルの処置を変えることのないようにするためであった。こうして王はその宮殿に帰ったが、その夜は食をとらず、また、そばめたちを召し寄せず、全く眠ることもしなかった。


こうして王は朝まだき起きて、ししの穴へ急いで行ったが、ダニエルのいる穴に近づいたとき、悲しげな声をあげて呼ばわり、ダニエルに言った、
 「生ける神のしもべダニエルよ、あなたが常に仕えている神はあなたを救って、ししの害を免れさせることができたか」
ダニエルは王に言った、
 「王よ、どうか、とこしえに生きながらえられますように。わたしの神はその使をおくって、ししの口を閉ざされたので、ししはわたしを害しませんでした。これはわたしに罪のないことが、神の前に認められたからです。王よ、わたしはあなたの前にも、何も悪い事をしなかったのです」

そこで王は大いに喜び、ダニエルを穴の中から出せと命じたので、ダニエルは穴の中から出されたが、その身になんの害をも受けていなかった。これは彼が自分の神を頼みとしていたからである。
 王はまた命令を下して、ダニエルをあしざまに訴えた人々を引いてこさせ、彼らをその妻子と共に、ししの穴に投げ入れさせた。彼らが穴の底に達しないうちに、ししは彼らにとびかかって、その骨までもかみ砕いた。」

 
 
ダニエルは、人間である王に祈願を捧げるよう求められたが、神への礼拝を続けて、その命に従わなかった。それゆえ、罪を着せられてライオンの穴に投げ込まれた。

しかし、神はダニエルを守られ、彼は無傷で出て来た。それを見て、王はダニエルの神が本物であることを知り、かえってダニエルを訴えようとした人々を獅子の穴に投げ込む。

村上密のブログは、筆者から見て、キリスト教徒を吊し上げ、教会を断罪するための暗闇の勢力の要塞と化している。杉本徳久のブログも同様で、彼らのブログの真の狙いは、キリスト教徒を迫害することにこそあると筆者は見ている。

そして、当ブログ執筆者が杉本を敗訴に追い込む前後から、反カルト陣営がキリスト教徒をバッシングする場は掲示板に移った。
   
これら反カルト陣営の人々は、獲物を求める殺気立った獣のように振る舞っているが、彼らがどうしても否定したい事実が一つある。それは、彼らが信奉する牧師たちが、すでに刑事告訴されていることだ。ダニエル書にある通り、無実のキリスト教徒は、讒言されても、罰せられず、害も受けないが、無実のキリスト教徒を訴えた者たちには、防御の方法がない。

キリストの贖いの血潮により頼まない者たちが、キリスト教徒を訴えた場合、彼らには小羊の血潮という防御の盾がない分、ダニエルを悪しざまに訴えた人々と同様の末路が待ち受けている。

* * *
 
さて、村上が筆者を刑事告訴したという記事を投稿した際、筆者がただちに村上を虚偽告訴罪に問うという反論記事を発表したので、村上はこれにひるんで、わずか数時間も経たないうちに、記事の削除に及んだことはすでに述べた。

その際、注目すべき出来事が起きた。村上は筆者に対する記事を削除したのみならず、ただちにそれを自分が五次元スクールによって名誉毀損で告訴されたという別の内容の記事に差し替え、筆者に向けた非難の矛先を、自分自身に向け変えたのである。

その行動に、筆者は村上の恐怖心を見た気がした。

おそらく、村上は筆者に恐怖を抱かせる目的で、筆者を告訴したとする記事を投稿したと見られるが、筆者がこれに全く動じず、かえって村上の告訴を罪として非難したので、恐れは村上自身に跳ね返ったのである。

筆者は何年来、反カルト陣営からのいわれのない讒言に立ち向かって、霊的戦いを続けて来たし、ここ数カ月間は特に「一日中死にさらされ」ていると言って過言でない状況であったので、こうした出来事にどう対処すべきかは、すでに十分に学んで来ていた。

私たちの罪の債務証書は、すでに十字架の上で破り捨てられ、無効とされている。そうである以上、私たちを罪に問おうとするいかなる試みも、最終的には効力を失うと決まっている。私たちには、「我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者」(黙示12:10)に対抗するために、最強の武器が与えられている。それは、小羊の血と自分たちの証しの言葉とで、彼に打ち勝(黙示12:11)ことである。

だから、このような状況下での防御の方法は、より入念に過越しのキリストの贖いの血潮の下に隠れつつ、死に至るまで忠実な信仰を持ち続け、証の言葉を公然と掲げることである。

それに引き換え、村上は筆者から虚偽告訴罪に問うと言われ、筆者からの報復と、世間の評判を失うことを恐れて、記事を削除したのである。
 
このような戦いでは、恐れた方が負けである。人には自ら恐れることが、実際となるからである。私たちが恐れないでいられるのは、神を愛しているからであり、また、神が私たちのために独り子を十字架につけて下さった深い愛を知り、生きている限り、その愛に応え、御言葉に従いたいという願いを持っているからである。

聖書に次のように書かれている通りである。

愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」(一ヨハネ4:18)

神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」(コロサイ2:13-15)

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利をおさめています。」(ローマ8:31-37)

 
村上が筆者に向けるつもりだった不吉な予告を、自分自身へ向け変えたことは、非常に予表的な出来事であったと筆者は感じている。

五次元スクールによる村上への告訴は、以下に示す記事でも指摘されている通り、極めて些末な問題であったため、村上は不起訴になって事件はすでに終わっているが、これから村上に起きる出来事は、もはやそのようなスケールでは終わらない可能性があるからだ。

村上は筆者を有罪に追い込みたかったのであろうが、その決意を確固たるものとして貫き通すことができず、かえって神と人との前で、公然と「兄弟たちを告発する者」(=悪魔)と呼ばれる恐れに耐え得ず、記事における非難の矛先を筆者から自分自身へと向け変えた。

この事実は極めて大きい、と筆者は思っている。

はっきり言えば、主と共なる十字架において、自分の罪が確かに赦されたという揺るぎない確信を持たない者が、このような記述を行ったことを、神も見逃されないであろうし、悪魔と暗闇の勢力も当然、見逃さないだろう。(人には自分で心に信じて予告した事柄が実際となって降りかかるのである。)

1.差し替え後の記事
村上が筆者に対する記事を削除後、自分が五次元スクールから刑事告訴されたことに言及し、告訴状作成から刑の執行までの流れを記した記事
刑事告訴




2.差し替え前の記事
村上が削除した筆者に対する記事の後半
(同じ文面を村上が後になって、自分自身に向けて書き換えた様子が分かる)

 


* * *

さて、村上が五次元スクールからどのような理由で告訴されたのかについては、以下の記事に詳しい。
 

オタクで結構コケコッコー

(該当部分のみ抜粋)

村上さんを名誉毀損で刑事告訴するきっかけとなったのは、
村上さんがブログ上に五次元スクールで販売してるカレンダーの値段を
本当の価格1080円ではなく、12000円と書かれてた事でした。
値段を間違えてただけじゃんとかほんとやめてくださいね...(−_−;)
明らかに許される範囲の間違い方ではないです。
(お金をぼったくってるみたいな事も他の記事に書かれてましたし)
値段を正して欲しいと村上さんにお願いしても聞いてもらえず。
それなら他の手を探して、間違いを正してもらうという当たり前のことをしたまでです。

以前、五次元スクール生数名がブログに書かれてる内容を訂正してもらうために、
直接に村上さんと話しに行ってくれたことがありました。
その時、私が作成したとなぜか思われてる「村上密 悪事を暴く!!」のサイトも違うと
言ってくれたみたいなんですが、村上さんは...
「やってないなら有希が訴えれば良いんですよ」とおっしゃったそうです。\(-_-;) オイオイ

残念ながら今回は不起訴となってしまいましたが、
訴えたからこそ村上さんは五次元スクールに関する記事を非公開にするしかなくなった。
とりあえず、今は嘘の情報を広めるのをやめてもらえてて、おたっきーは嬉しいです。

村上さんご自身のブログに書かれてあった
“このようなことは人の名誉にかかわることなので
慎重に事実を確認してから書くものである。”

ほんとそれな。
“慎重に事実を確認してから書くものである。” とご自身がおっしゃった言葉通り、
事実を確認してから書いていただきたいものです。
沖縄県のみなさま、沖縄県知事選での自民公明党の敗北おめでとうございま~す。その他キリスト教界で有名になっていたアガック竹内一雄事件(準強姦、借金で虚偽提訴された人物)の真実とこの民事裁判でアッセンブリーズオブゴット教団の村上 密牧師が使った汚い手段

(該当部分のみ抜粋)

今から3年半ほど前に、アガック竹内一雄事件というものがキリスト教界で有名になっていた(刑事事件ではない)。
このアガック竹内一雄という人物は、キリスト教界の中では異端とされているペンテコステ(聖霊派)のカリスマ派の牧師(キリスト教系新興宗教)。
この竹内一雄が運営するキリスト教会に一人の女性(子持ち)が集うようになった(最初はカウンセリング 家庭の悩み事の相談だったようだが)。
後にこの女性信者と竹内一雄は恋愛関係に、そしてその女性は竹内一雄の婚約者となるも最終的には女性関係でもめ(浮気だったようだが)、竹内一雄はこの元婚約者だった女性信者から民事で訴えられた、ざっとこんな内容だ。
しかし、その訴状自体が笑ってしまうものだった。

その女性信者は竹内一雄と婚約までしていながら、竹内一雄を準強姦で提訴(裁判官らが事実認定するワケがない)。

おまけに、原告女性が竹内一雄に貢いだお金(全額だったかは不明だが)は、貸したお金だった、として返還要求。
しかし、私の調べでは(友人、知人に聞き込んだ)原告女性は「道で大金を拾ったから(竹内一雄の)通帳に振り込んでおくね」と竹内一雄にお金を渡した内容のメールを送信していた。
案の定、そのメール内容が竹内一雄から裁判所に証拠として提出されたのだ、勝てるワケがない。
ということで一審は原告の敗訴、まあ当然でしょう。

まあ、こんな話はたまに起きるであろう怨恨話だと思うが(私の周囲には嘘までついて提訴するような人間はいないが)。

この馬鹿らしい怨恨訴訟でなにが一番解せないか、というと

この原告女性を支援していたアッセンブリーズオブゴット(略してAG)教団の有名らしい(私は知らなかったが)村上 密氏という牧師がやったことがクズすぎて解せないのだ。
村上 密氏はろくに事実関係を調べもせず、この元婚約者である女性信者の言っていることを鵜呑みにし裁判支援(北海道のテレビにまで出て嘘をばら蒔いたのだ)。
その他、この元婚約者である女性信者の訴えが事実かどうかも確認しないまま、竹内一雄を準強姦の犯罪者扱いをした上、借金を踏み倒した悪人としてブログで記事にしネットで拡散(自分だけではなく大勢の信者を使ってブログの記事させてニセ情報を拡散させていた)。

そして、しまいにAERAという雑誌にまでこの嘘記事を書かせている。
そして、裁判が終わった後もこの牧師(村上 密氏)の悪事は現在も続いている。
民事裁判にて、元婚約者である女性信者の訴え(準強姦及び貸金)が事実ではなかったことがはっきりしたにも関わらず、過去に流した嘘記事を訂正も削除もせず(勿論謝罪もしていないだろう)ずっと流し続けているのだ。
誤解があると困るので書いておくが、私は竹内一雄を擁護しているわけではない。
むしろ、絶対に近づいてはならない人物として色んな人に警告していた側なのだ。

しかし、虚偽の訴えで人を裁いているような人間には我慢がならない、非常に不快なのだ。
 

* * *
 
ここで指摘されているような無責任なデマの拡散は、村上だけでなく、類は友を呼ぶ式に、村上を取り巻いている反カルト陣営のおよそすべての人々に共通する行動である。

彼らのやり方はこうである。裏が取れようと、取れまいと、証拠があろうと、なかろうと、とにかく自分たちがターゲットとみなした人間について、さんざん悪評をまき散らす。そして、訴えられる段になって、ようやくデマの拡散をやめ、削除を命じられれば、記事を部分的に削除したり、書き換えたりという行為には及ぶものの、根本的な反省はなく、さらに、敗訴しても賠償金さえ速やかに支払わないのだから、もはやヤクザのレベルだと言って差し支えない。

明らかに、この人々は信仰者の名に値しないだけでなく、すでに人の道からも外れかかっていると言えよう。

筆者はこれまでの経験に立って言うが、当事者でない人間が、誰かを擁護するために騒ぎを煽る場合には、必ず、ある種の行き過ぎに陥り、当事者よりももっと厳しい処罰を受けてしまうという法則性のようなものがある。

これは杉本ブログに愚痴を書き込んで告訴されたKFCの元信徒にも当てはまるし、掲示板にたむろしている村上の信奉者たちや、坂井能大の裁判にも当てはまる。当事者でもない人間が、確たる証拠を握っていないのに、誰か他人の言い分を鵜呑みにして、その言い分を補強しようと、(たとえば、ある人物が犯罪を犯しているなどと)、他人の名誉を傷つける投稿を続けていると、そういう人間が、真っ先に訴えられるリスクを負うのである。

つまり、指導者の罪を、信者がかばおうとした場合、かばおうとした信者の方に、先により重い責任が降りかかる可能性が高いということである。

そこで、村上密の不確かな記述を鵜呑みにして、中傷を言い広めている人たちは、村上本人よりも、先に責任を負わされる可能性があることをよくよく考えてみるべきであろう。村上自身が、証拠がないまま記事を書いているのであれば、それを鵜呑みにした信者らが訴えられた際、彼は何らの手助けもしてくれるまい。

そして、筆者はこのようなことこそ、偽預言者たちが最も望んでいることではないかと考えている。つまり、偽りの宗教指導者は、自分自身が神の御言葉に逆らい、破滅へ向かって突き進んでいるだけでなく、その破滅に、可能な限りの大勢の無関係な信者たちを巻き添えにするためにこそ、取り巻きを通じてデマを拡散させるなどの行為に及び、多くの信者たちに罪を負わせるのである。


* * *
 
さて、村上は以上に挙げた五次元スクールから告訴されたという記事に、自分が告訴されたことについては反省もなく、得意気に次のように書いている。

「私が持っていた訴えた側の資料が大量に警察の手に渡った。まさか、そんなことが起きるなんて考えなかったのだろう。墓穴を掘ると言う言葉があるが、まだ墓穴には入っていない。しかし、日本での活動がしにくくなったのではないか。」

これは村上が五次元スクールを何とかして「墓穴」に陥れ、日本から追い出したいと願っている意図がよく感じられる記述である。だが、筆者が知っている限り、警察は被告訴人の側から、事件とは直接的な関係のない「大量の資料」が提出されたからと言って、それを精査して、何らかの結論を下すようなことはしない。それは別個の問題として扱われる。まして、それが宗教的な対立や紛争となれば、なおさら、警察はその資料について踏み込んだ捜査をしないであろう。

従って、五次元スクールを壊滅に追い込みたいなら、村上自身がその資料を用いて刑事告訴に踏み切るしかない。だが、彼は被害者でないので、告訴はできないであろうし、被害者がいたとしても、そこまでの措置に踏み切る証拠と決意があるかは定かではない。

従って、村上のこの記述は、明らかに、自分が疑いをかけられて追及される側に回ったという失態を棚に上げて、かえって自分が五次元スクールを追い詰めた事実があるかのように、虚勢を張るものである。そういうことも分からないまま、村上の信奉者たちが彼の記事を鵜呑みにして騒いでいることは、まことに愚かとしか言いようがない。

また、村上は筆者に対する記事でもこう書いていた、

「彼女は、裁判の中で私が反訴を口にすると、「反訴の脅しをかけた」と4月13日の記事に書いている。裁判を仕掛けた人が言う言葉ではない。」
 
これも藪蛇や墓穴と言わずして何と言うのだろうか。村上はこの記事で、自分が「反訴を口に」したとはっきり認めている。
 
ちなみに、裁判において、無実を主張することと、反訴を口にすることは、全く別の事柄である。

筆者が杉本と村上の両名を被告として訴えたのは、杉本が20本以上の筆者に対する名誉毀損の記事をブログに投稿し、その際、誰が杉本に筆者の個人情報を渡したのか分からず、村上以外に思い当たる人物もいなかったためである。

しかし、一審において、村上はそうした事実があったとは認めず、証拠も出て来なかったので、村上には杉本との共同不法行為は認定されていない。

だが、村上はいかに自分が訴えられたことを不快に思っていたとしても、本来ならば、牧師として、杉本の行為をいさめるべき立場にあったことは確かであろう。それが、杉本と一緒になって、筆者を罵ったメールを書証として提出したり、杉本と一緒になって、筆者が彼らの提案する和解条件を飲まなければ、反訴すると言い立てたことは、牧師としての村上の資質を根本的に疑わせる行動である。

ちなみに、この事件では、一審を担当した裁判官も書記官も、被告らが一緒になって原告に反訴を言い立てた場面に遭遇している。

筆者が覚えている限り、その日の口頭弁論では、当事者間で、非常に険悪な議論が展開された。おそらく話題は、杉本が提出して来た筆者と杉本との間で2009年に交わされたメール、および、杉本と唐沢とが交わしたメールのことに触れていたものと思う。

筆者は杉本に向かって、2009年に杉本が筆者に返信した残りのメールも、書証として出してもらえないかと頼み、筆者はそこに非常に興味深いことが書いてあったように記憶しており、そこでは、創世記において、神が人間をご自分のかたちに造られたという御言葉が引用されていたような気がすると述べた。

杉本はこれに対して、筆者をせせら笑うような口調で、「これ以上はもう出せませんよ。あなたは一体、何を言っているんですか。大体、そんな聖句がメールに書いてあるわけもないでしょう?」と突っぱねた。

さらに、筆者は杉本に向かって、唐沢とのメール文通についても、何を目的としてこれを書証として提出したのか問うた。だが、杉本はこれにも筆者を嘲笑うような口調で答えた。

「さあ、知りませんよ。それは唐沢さんにお聞きになったら?」

筆者は杉本の筆者を嘲るがごとき口調に憤りを感じつつ言った、 「そうは言っても、あなたが自分でこれを出して来られたんでしょう?」

また、杉本は別な場面では、急に猫なで声とも感じられる口調で筆者に言った。「ヴィオロンさん、もしもあなたが記事を削除なさるなら、私たちも削除していいと思っているんですよ。もしその言葉が信じられないなら、私たちの方から先に削除してもいい。それで終わりにしましょう。賠償はなしです。」

筆者は首を横に振って、そんな提案には決して応じられない、ときっぱり拒否した。

すると杉本らは筆者が彼らの和解案を飲まないので、怒りを露わにして言った。「だったら、もう反訴しかない。あなたが私たちの和解を蹴るのなら、私たちは反訴しますよ!」

筆者は答えた、「まだ口頭弁論も続いている最中に、何を馬鹿なことを言っているんです。あなた方は、反訴なんか考えるよりも前に、今、目の前で行われている弁論で、ちゃんと十分な議論を尽くして勝つことをまず最初に考えたらどうです? いいですか、刑事事件にもなっていることですし、いたずらに審理を長引かせれば、不利になるのはあなた方なんですよ、そのことをお考えになったら・・・」

裁判官は、議論が険悪な雰囲気になりつつあり、当事者が皆本気で憤っており、杉本が「刑事事件になどなっていない」と書面で頑なに主張していたことも知っていたため、「もういい!」と語気を荒げてこの議論を打ち切った。

あまりにも険悪な雰囲気であった。裁判官も含め、全員がそれに影響されていた。

すると、被告らは、今度は裁判官に向かって、しなだれかかるような口調で語りかけた、「お分かりでしょう、原告が和解に応じないのだから、私たちにはもう反訴しかないですよ・・・」

裁判官は、被告らを何とかして思いとどまらせるべく、苦々しい表情で答えた。「それはやめてもらいたいですね、どうしてもというなら、この事件が終わった後に、提訴にしてもらいたい」

筆者はそれを聞いて、心の中で苦笑しながら首を横に振った、(いやいや、裁判官、それは違います。反訴も駄目だけど、提訴だって駄目だから。)

裁判官は異動を見越して年内終結を目指すつもりで、当事者にはそれを含んでおいて欲しいと予め述べており、反訴されれば、異動前の終結が間に合わなくなることが明白であったので、これを全く歓迎していなかった。しかも、事件がさらに紛糾した状態で、これを別人に引き継いで異動することなど、絶対にしたくないと考えていたものと見られる。

そこで、被告らは、せっかくの提案をないがしろにされてプレッシャーをかけられた裁判官が、非常に気分を害していることを十分に知りつつ、それを楽しむような口調で続けた。「でもねえ、私たちはヴィオロンさんの住所も電話番号も知らないんですよ・・・。これじゃあ、提訴もできないじゃないですか・・・。私たちに反訴以外にどうしろって言うんですか・・・。」

裁判官は実に忌々しそうな表情で押し黙った。まるで審理の年内終結という課題と一緒に、筆者を人質に取られて、全く身動き取れなくさせられたような恰好であった。

筆者は、このやり取りを非常に注意深く観察していた。口頭弁論が終わった時、裁判官は、被告らの言葉を真に受けたのか、これで、この事件をきちんと片付けられる希望はなくなった、こうなったのも、原告らがまずい議論を続けたせいだ、とでも言わんばかに、大きなため息をついた。

その時、筆者は被告らが述べていることは、心理的な脅しに過ぎず、彼らはいたずらに騒ぎを煽っているだけであって、これも被告らがキリストの贖いを無効にしたくて繰り広げている悪のカーニバル(悪ふざけ)のようなものに過ぎず、要するに、筆者と裁判官の心に揺さぶりをかけ、互いにいがみ合わせて、疑心暗鬼に陥らせ、協力体制を壊すことを目的にしていると分かっていたので、裁判官に向かって、まずは落ち着いてもらうよう懇願し、それから、たとえこの先、何があっても、筆者はすべての圧迫に最後まで立ち向かう覚悟が出来ているので、決して筆者の身の上を心配しないでもらいたい、仮に反訴を受けることになり、あるいは一審で終わらなかったとしても、それも覚悟の上であるから、議論を制止しないで、筆者に言いたいことを最後まで言わせてほしいと懇願した。

後から考えてみると、この時、裁判官は、三つも四つもの事件を同時に抱え、それらすべてを異動前に片づけねばならず、筆者の書面を十分に読む時間もなくなり(裁判官からは、提出する書面を減らして欲しいとの要請もあった)、残された時間を考えると、これ以上、事件が紛糾しては、もはや事態の収集がつかなくなるため、それだけは何としても避けたいという重大なプレッシャーに直面していたものと思われる。
 
そこで、裁判官は、何とかしてこの事件のために善処したいと考えながらも、その考えが逆に心理的なプレッシャーとなっており、そういう中で、被告らが筆者に反訴すると述べたことは、裁判官の心の平穏をも失わせるような、さらに重大な心理的打撃となったのである。

こうした状況で、筆者は何としても、ここで自分が動揺してはならず、自分の命を惜しんではいけないということを理解した。もしも筆者が自分の命を惜しみ、反訴されることを恐れ、取り乱して裁判官に助けを求め、裁判官がこれを察知して、筆者に代わって、被告らに受け答えすることで、何とかして筆者をかばい、反訴を押しとどめようとするならば、裁判官は筆者を人質に取られているも同然の立場であるから、何もできず、かえって被告らの思う壺となるだけであることが、筆者には予め分かっていた。そして、最後には、助けてやれなかったという慙愧の念と、誰のせいでこうなったのかという責任の押し付け合いが残るのみであろう。
  
筆者は、そのような事態を回避して、この戦いを貫徹して勝利に導くために必要なのは、死に至るまでも従順な信仰であって、筆者が自分の命、自分の権利を惜しむことではないと知っていた。そもそもこの戦いは、信仰の戦いであって、筆者と同じ決意と覚悟ができていない、当事者でない人間には、どうすることもできない種類のものである。

すでに述べた通り、反訴はそれ自体が被告の権利なので、これを否定したり、押しとどめることは誰にもできず、反訴をとどめるには、人知によらない、それを超えた信仰が必要となる。
 
従って、被告らによる反訴の予告を、空中で粉砕し、押しとどめることのできる人間は、筆者しかいないことは明白なのである。そして、筆者は御言葉に基づき、反訴が実現しないことを前もって知っていたが、この世の人々である裁判官や書記官には、そのことが前もって分かるはずもない。
 
だから、筆者は、裁判官に向かって述べたのであった、一審判決で事件を終結したいという強い願いは筆者にもあるし、また、そのためにできるすべてのことはやりたいと思っているが、たとえ事件が長引き、次の裁判官にこれを委ねることになったり、もしくは、一審で事件が解決しなかった場合にも、筆者はすべてのことに覚悟ができており、今後、どのような展開になろうとも、決して誰にも責任を押しつけるつもりはないと、だから、最後まで主張をさせて欲しいと。

だが、筆者はそれと同時に、裁判官の言うことも心に留めて、その忠告を重んじた。そこで、それ以後、口頭弁論で被告と議論することは一切、避けることに決め、すべての主張を書面で戦わせる方法に切り替えたのである。

そして、最後の口頭弁論前には、裁判官も、筆者がこれを最後の弁論にしたいと願っていることを十分に確認した上で、今後、被告らから反訴があった場合には、職権で拒否するとはっきり告げてくれた。

筆者は、たとえそれが人間的な思いから出た行動であったとしても、裁判官が、被告らの主張を前に、筆者をかばおうとしてくれたこと、被告らの反訴の予告の前にも、可能な限りの手立てを講じて、これを阻止しようとしてくれたことを、重く受け止めている。

いかに筆者が、信仰によって主導権を握り、自らこの事件を引っ張って行かなくてはならない立場にあるとはいえ、民事であれ、刑事であれ、やはり、筆者には協力してくれる人たちが必要なのであって、その人たちの善意があったからこそ、それなりの結果が得られていることへの感謝を忘れることはない。

このようにして、関係者と息の合った協力を打ち立てることに、どれほど大きな価値があるかを知ったからこそ、筆者はどんな脅しに直面しても、それを恐れたり、動揺することなく、最後まで神を信頼して立ちおおせねばならないと理解しているのである。
 
* * *

さて、話を戻せば、被告らは実際に反訴しなかったからこそ、これが「脅し文句」に終わったと筆者は述べている。さらに、筆者が訴えを提起した側に立っていることは、被告らが反訴を言い立てたことを、筆者が精神的な脅しをかけられたことだと理解してはならない理由とはならない。

そもそも牧師としての村上が、元信徒・相談者を非難する記事をブログに投稿し、さらに、その信者の個人情報を杉本に渡したのではないかという嫌疑までかけられ、法廷に呼び出されたこと自体が、村上の大きな失態だと言えようが、そんな事態になってもまだ、村上が杉本をいさめて紛争の早期解決に努力するどころか、杉本と一緒になって筆者を馬鹿にするメールを書証として提出、さらに自分の無実を主張するだけでは飽き足らず、杉本と一緒になって筆者に反訴するなどと言い立て、自分たちの和解案を無理やり筆者に飲ませようとした行為自体が、キリスト教の牧師として、どれほどあるまじき非常識な振る舞いであるかは、ここで改めて説明するまでもないだろう。

その上、筆者が反訴の脅しをかけられたと述べたことを「名誉毀損」だと主張して、刑事告訴に及び、勝訴を宣言しただけにとどまらず、信者の息の根を止めるがごとく、社会的抹殺を望むがごとき行為に及ぶなど、およそ常軌を逸した行動だと言う他ない。
  
そのことが分からないのは、村上だけであろう。これまで、戦いに生きて来た村上は、平和を作る道を知らず、また、その道を誰からも教わらなかったのかも知れないが、村上のこうした行動はいずれも、村上がキリスト教信者に対して、まさに「兄弟たちを告発する者」(=悪魔)のように振る舞っているという以外に、意味するものはない。

村上はこのような行動を取ることによって、キリスト教徒も含め、どんな宗教団体の信者であれ、村上の言いなりにならない者には、同じ措置を講ずる用意があることを示して威嚇しているのである。
 
村上は、かつて他の牧師らと共に、統一教会の信者などを拉致・監禁して、密室に閉じ込め、「誤った考え」を捨てさせるために、信者の尊厳を踏みにじって、強制脱会活動を行っていたが、今もその頃と同じように、自分が「誤った考え」を持っているとみなした信者たちを弾圧するためならば、あらゆる方法を用いて、懲罰を加える用意があることを示している。

そこにある恐ろしいまでの攻撃性、真の動機に、彼は気づいていない。村上は書いていた、

「書けば書くほど怒りが込み上げて来るのか、留まるところを知らない書き方である。書けば書くほど自分に不利なことを書き立てていると気付かないでいる。ブログの中で怒って人を罵倒し、事実でないことをみだりに他人に言いふらし、信用を棄損するような記事を書いている。その内容は放置できないレベルに足している(筆者注:達しているの間違い)。」

村上のこの言葉は、誰よりも村上自身にこそ当てはまるだろう。事実でないことをみだりに他人に言いふらし、信用を毀損し、その内容が放置できないレベルに達しているのは、村上自身である。そのことは、以上に挙げた記事で示した通り、五次元スクールの側からも、その他の人からも指摘されているではないか。

むろん、きちんとした法的根拠を示さないまま、自らの主観だけに基づき、「その内容は放置できないレベルに達している」などと断言する村上の語調が、杉本徳久の言葉とそっくりである様子にも驚かされる。

村上は、自分がのべつまくなしに様々な宗教団体に戦いを挑んでいる真の目的がどこにあるのか、立ち止まって、考えてみるべき頃合いではないだろうか。前の記事にも書いた通り、筆者の目から見れば、それは村上自身が幼少期からずっと受け続けて来たトラウマに起因する行動であって、聖書への信仰によるものではない。
 
村上は若い頃に家庭で起きていた暴力から逃げる術もないまま、家庭という名の「牢獄」に閉じ込められて成長し、さらに統一教会への逃避行を企てた際にも、これを力づくで押しとどめられ、悲劇的な形で強制的に信仰生活に終止符を打たれて、再び家庭という牢獄へ連れ戻された。
 
おそらく村上は、神が自分を虐待という苦しみから助け出して下さることを求めて、統一教会に入信したのではないかと筆者は推察するが、その逃避行が、親族らの暴力によって打ち砕かれて、再び牢獄のような家庭に連れ戻され、そこに閉じ込められたことによって、村上の「神」観は、村上を救い得ない絶望的なものとなってしまったのである。そのことから彼はあまりにも深い心の傷を受けたのではないかと見られる。

そうであるがゆえに、村上の中では、自分に虐待を加えた肉の父が、そのまま神のイメージとなり、神は人に自由を与える方ではなく、束縛と、隷従と、抑圧を加える存在と見えるようになり、それゆえ、彼はそのような残酷な神観に基づき、自由な信仰生活を送る他の信者たちにも、「解放」という名目で、抑圧を加えねば気が済まなくなったのである。

筆者は五次元スクールや統一教会を擁護するつもりはなく、その理念を受け入れるわけでもないが、たとえ信念を共有できずとも、彼らを人として尊重することはできるはずであり、理念が異なるからと言って、彼らに人権侵害を加える行為が許されるはずはないことは言うまでもないと考えている。もしもそのようなことを正当化する理念があるとすれば、そのような理念こそ、誤っている。
 
筆者の神観は、村上の神観とは真逆である。村上から見れば、筆者は「交流の少ない所」「インターネットを頼り」として「甘っちょろい空想」を述べ、「藪の中から石を投げ」「怒りにまかせてものを書いている」だけの無責任な人間と映っているのかも知れないが、その筆者が、神は全能であり、筆者をあらゆる窮地から力強く救い出して下さることを信じ、どんな境遇に置かれても、平安と、喜びと、救いの確信と、神への愛と従順を失わずにいられる秘訣を学んでいるのである。

村上は、筆者が書いているごくわずかな批判の記事にも耐えられなかったが、筆者は匿名の投稿者によって数千件以上の誹謗中傷がなされても、まだ神への信頼と希望と愛情を失わずに立っている。筆者は自分を全く恥じようとも思わないし、自分の信仰をも、自分が信じている神をも恥じてはいない。
 
筆者は村上に聞きたい、あなたはこのようなことに耐えられるかと。あなたはかつて自分が生命の危険を賭してカルトと闘っているかのように主張し、他方、筆者の論は、安全なところから、悪ふざけで石を投げて楽しむだけの無責任なものであると決めつけていたが、実際のところはどうなのか。

筆者は自分の命を最後まで神のために注ぎだしたいと願っており、神に従い抜く上で、中傷されること、軽んじられること、誤解されること、離反されること、孤独や、苦しみの中を通過させられることを、甘んじて受け入れる覚悟があり、実際に日々十字架を負っている。だが、あなたはそれに耐えることができるか、また、それにどれくらい耐えた経験があるのか。

しかし、そのようなことは、筆者にとって、どうでも良い問題である。筆者は人間の思惑を意に介していないので、村上や杉本や唐沢のような人間からどう見られようとも、それが重要な問題なのではない。私たちがただ一人、その眼差しを得たいと願い、その信頼と賞賛を勝ち得たいと切に願い続ける存在は、人間とは別にある。

その方への愛と希望と信頼があればこそ、また、その方がすべての人々の願いと呼び求めに実際に応えて下さるという確信があればこそ、私たちはあらゆる試練に耐えて信仰を保ち続けて前進することが可能なのである。
 
この世に対して、人間に対して、自己に対して、徹底的に絶望し、これらの腐敗・堕落したものに対して、十字架の霊的死を経由することなくして、神に真に希望を見いだすことは、誰にとっても、無理な相談なのではないかと筆者は考えている。この世に対して死んだことがなく、自己に対しても、人間に対しても、絶望することもなく、依然として、この朽ちる、移ろいゆくものに希望をつなぎ、すがりつき、そこによすがを見いだしている人々に、見えない神を本気で愛し、信頼し、従い抜くなどのことができるとは思えない。

聖書は言う、

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)

「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。
「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、
 裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。」(ローマ3:4)

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