カルト監視機構の誤り

2016年12月 4日 (日)

国家権力は大昔から検閲・監視・密告を統治の手段として活用していた―ASKAの事件から見えて来るもの―

・事実上の共産主義国と化した日本――残された時間で全力で国の破壊にいそしむ安倍独裁政権――
 
安倍政権による日本破壊が続いている。政策にも外交にも全く成果が出ず、アベノミクスの破綻が明らかになって、いよいよ終わりが近いことを悟った現政権は、残された時間でこの国に対するありったけの破壊行為にいそしむつもりだと思われる。

国会でろくな審議もなしに凶悪な法案を次から次へと強行採決しているのはそういう意図を込めてである。もはやこの国の民主主義はほんの建前だけ、うわべだけのものとなった。前々から国会での審議など予定調和的な出来レースだと言われてきたが、かろうじて民主主義国の保たれていたうわべだけの体裁もかなぐり捨てて、今はあからさまな安倍の自民・官僚独裁体制へと移行している。

原発の爆発のツケは国民に回し、GPIFによる年金の運用損も国民に押しつけ、消費が活発化しない分は、カジノ法案を通し、ギャンブルで国民から巻き上げようという所存である。

10年を超える休眠預金はすでに国有化されることが決まった(「貧困対策や若者支援に活用=「休眠預金法」が成立」gooニュース 12月02日 12:20)。この「忘れ去られたお金」は500億~600億ほどは存在するという。貧困対策や若者支援など、これまで政府が一度たりとも本腰を入れてやったことのない政策へ活用するというのだから、そんなことは国民の資産を国が奪うための単なる口実に過ぎないのは明白である。この休眠預金の国有化は来るべき預金封鎖へとつながる初めの第一歩になるのではないかと囁かれている。

これから先、肥大化した官僚機構に率いられる国家権力が少子高齢化(と原発事故の影響による人口の著しい減少から生じる)財政難を乗り越えるために、いかに国民財産のありったけを強制的・合法的に収奪できるか、国会はただそのためだけの法整備の場所へ変わるものと見られる。

筆者は、この国はずっと前から事実上の共産主義国であると述べて来たが、いよいよ一人のカリスマ(というのにはあまりにも力不足だが)政治指導者のもとで、事実上、独裁化した中央集権が国民を徹底的に抑圧し、収奪するという、共産主義国には欠かせない政治形態が整ったと言える。もはや天皇さえも国家権力による抑圧のための飾り物のようにされてしまっている。

安倍は「美しい国」という偽りの夢(存在しないユートピア)を口実に、とことん人を騙し、国を滅ぼして来ただけで、何一つとしてこの国にリアルな成果を提供することはできていない。

安倍晋三を率いているのは、共産主義や、統一教会、ペンテコステ運動、国家神道を率いる悪霊と同じ種類のカルトの霊であって、これは偽りの父である悪魔から出て来た霊である。

安倍の政策は、ペンテコステ運動などと同じく、そもそもの最初から最後まで徹底的な詐欺の仕掛けなのである。その嘘の仕掛けは、かつてソ連が共産主義という、絶対にやって来ない夢を担保にして、とことん国民を騙し、巻き上げたのと同じである。

強行採決は、この偽りの霊が、安倍晋三というリーダーを現人神化し、残された時間内で、この人物を通して、とことん民主主義を破壊し尽くすという意志表示である。これを放置していれば、この国は暗黒時代に突入するだけである。


・偽りの北方領土返還の夢――無い夢を担保に、米国とロシアの二国にATM扱いされる悪夢をこの国はどう防ぐのか――

安倍は「強いロシアを取り戻す」というスローガンを掲げるロシアのプーチン政権に自分と同じ思想を見いだし、それゆえ親和性を感じ、個人的な親交を結ぼうとして来たわけだが、日ロの首脳会談は、今やまるで狐と狸の化かし合いのようになって来ている。

むろん、両方が精神性においては詐欺師と言って差し支えないのだが、こういう場合は、悪がより強い方が勝つと相場は決まっている。悪が強い方とはむろんロシアのことであって、この国の闇の深さは、これまで70年間平和を保って来た我が国の想像をはるかに超える。

一説によると、本物のプーチンはすでに死亡しており、現在のウラジーミル・プーチンは替え玉によるなりすましだと言う。プーチンの別れた元妻さえ替え玉であると証言しているというのだ。

長い間、筆者はそんな話はロシアを悪魔化するためのプロパガンダに過ぎないと考え、取り合わずに一蹴して来たが、最近になって過去の動画を比較してみると、確かに、以前のプーチンとは声も顔も違う。身体的特徴も異なれば、声のトーンも違う。




若い頃のプーチンには表情にどこかしら敏感で神経質そうな個人的特徴があったが、現在のプーチンには、それが見られず、物腰は訓練された工作員そのもので、電話機や銃を持つときの仕草にその特徴がよく表れている。面長だったプーチンの顔の特徴が丸く変わっており、目の色も変わっていると言われている。かつては流暢に話せたはずのドイツ語では、通訳を介さなければ意思疎通ができなくなった。



(秋田犬ゆめ、飼い主から撫でられそうになると顔を背け、逃げ去る)

プーチン死亡・替え玉説という話は深入りせず、この辺でさて置くとしても、こういう話を冗談として一蹴できない国がロシアなのだ。

話を戻せば、安倍が拙速なトランプ詣でをしたことによって、以下のニュースにも見るように、北方領土の返還は、ますます一層、遠のいたと言える。もはや日本は完全にロシアにいいようにあしらわれている様子がよく分かる。
 

岸田外相、プーチン大統領と会談 交渉の難しさ露呈フジテレビ系(FNN) 12/3(土) 1:14配信、から抜粋

岸田外相は、ロシアのプーチン大統領との初めての会談に臨んだが、2時間という、大遅刻の洗礼を受けた。
さらに、ロシア側との交渉の難しさが露呈する出来事が、次々に起こった。1時間50分遅れで始まった会談では、待たされていた岸田外相の前に、笑顔のプーチン大統領が現れ、会談は30分で終わった。
これに先立ち行われた国内行事で、プーチン大統領は、会談の予定開始時刻を1時間すぎても、雄弁に演説し、あわてる気配はない。
 思いがけないハプニングは、これだけにとどまらず、日本時間2日になって、ロシア側から日本側に、会談の出席者を4人から3人に絞るように要請があり、ロシアを担当する欧州局長が協議に入れない事態になった。

筆者は必ず、こういうことになるだろうと前もって告げておいた。北方領土問題には、1%も希望などもともとなかったのだが、それでも、領土問題に進展がないのだと分かれば、即座に経済協力をひっこめ、プーチン大統領の訪日も中止するくらいのしたたかな駆け引きが日本の首相にぜひとも必要だった。しかし、安倍にそのような決断が出来るはずがない。

仮にもしもここ数年間に起きた日ロの急接近の中で、北方領土返還のチャンスが1%でも我が国にあったとしたならば、それはただロシアが米国に睨まれて国際的に孤立し、悪魔化されて包囲されていた他ならぬその時期だけであったと言えるだろう。だが、その間に安倍政権はロシアに近寄ることなく、むしろ、公然と対ロ制裁に加わった。そして一時はあわや世界大戦勃発に至るかと見られた米国とロシアとの対立も、今はトランプが次期大統領に選出されたことによって、ロシアにとっては緊張緩和の見込みが開けている。そんなバラ色の期待が高まっている今の時期のロシアにとって、わざわざ米国の傀儡に過ぎない日本の安倍政権に自ら歩み寄り、助けを求めねばならないような必然性はまるでない。

むしろ、この先は、米国とロシアとがタグを組んで可能な限りこの自立できない卑屈な属国を踏みつけにして、カモれるだけカモろうという態度を明白にしないように、釘を刺しておかなくてはらない時期に入ったのだ。確かに、安倍氏はそのようなことをされて仕方がないだけの卑劣な二枚舌外交を発揮して来た。自分が最も困難に陥った時期に、敵に回り、信頼と友情を確固として示さなかった人間に、誰がその人間が困ったときに救いの手など差し伸べるであろうか。そういうやり方は、人間関係にも通用しないが、外交としては完全な失敗である。

しかしながら、筆者は、たとえこの国のトップが狡猾な外交作戦を展開できうるだけの頭脳を持っていたとしても、やはり安倍政権の存続中に北方領土が返還される見込みは、初めから1%も存在しなかっただろうと考えている。そのようなことがもし起きうるとすれば、それはこの国が米国のくびきを断ち切って、完全に自立を成し遂げたその後のことである。

もともとロシアから見て、今の日本は米国の延長のようなものに過ぎない。そして、米国はロシアにとってずっと前から仮想敵なのである。日本が米国と共に対ロ制裁に加わった事実は、日本が自ら米国の手足に過ぎないと名乗り出たも同然であり、その記憶はロシアからこの先も決してなくなることはないであろう。いざとなればいつでも敵に変わり得るような国と見えているのだから、そんな国に、どの国が1ミリたりとも領土を明け渡すことがあろうか。そうでなくとも、どの国も自国の領土は1ミリでも大きい方が良いと考えるはずだ。普通に考えさえすれば結論は最初から見えている。

実際は、北方領土返還のテーマもまた国民を欺くための安倍のトリックに過ぎなかったのだが、安倍自身も、それが偽りの夢でしかないことに気づいていなかった可能性がある。

だが、こうした楽観の結果、日本は米国のみならずロシアからもATM扱いされ、国際的に自立できない国として蔑まれ、孤立して行く危険性に直面しているのだと言えよう。だが、ヘタレ国家のヘタレ政権には、そうなってもまだ、このくびきを跳ね返すだけの勇気も力もなく、自分たちが屈従を強いられている分の腹いせを、これから先、すべて国民に向け、国民をいたぶることで晴らそうとして来る可能性がある。それが最悪の結末である。


・強制集団化の始まり――原発事故処理の収束という天文学的負債を国家の破綻を経ずに乗り越えるには、国家が国民を徹底的に抑圧するしかないという悪夢――
 
いずれにしても、少子高齢化の中、半永久的に終わらない原発事故処理という天文学的な負債を抱え、これから先、財政難へと急落して行くことが目に見えている国である。その限りない負債をやりくりするために、この国では、この先、私有財産の国有化がなされ、徹底的に国民の資本と労働力を収奪するための強制集団化が始まるものと見られる。(ただし、こうした現象が起きるであろうという筆者の予測は、実のところは、日本だけでなく、米国やロシアにも当てはまるのだが、そのことは今は置いておく。)

さて、強制集団化とは何か。それは国民の労働力と財産を最後の一滴に至るまで搾り取って国の財産へと変えるための制度づくりである。安倍による農協潰しは、コルホーズ・ソフホーズの建設を思い起こさせる。マイナンバーも、国民財産と労働力を合法的に収奪するために活用されるであろう。いずれマイナンバーは体内埋め込み型のマイクロチップに取って変わり、その刻印を受けた人々はみな「マトリックス」に奴隷として拘束される仕組みが完成すると考えられる。

さて米国では、このほど、時期米国大統領に選出されたトランプの支持者であり、同氏の選挙チームの有力メンバーでもあった人間が、第二次世界大戦中の日系人強制収容所を手本として、米国で移民向けに強制収容所を建設することに言及したという(「「イスラム教徒の入国管理には、戦時中の日系人強制収容が前例になる」トランプ氏支持者が発言」The Huffington Post 投稿日: 2016年11月18日 17時15分 JST   更新: 2016年11月18日 17時31分 JST)

以前からネット上では、全米各地に大規模な強制収容所の建設が進んでいるといった話や、大量の棺桶が用意されているなどの怪しい話が飛び交って、国民に対する大規模な弾圧が行われると言われて来たが、こんな発言を見ると、以前には都市伝説や、流言飛語と思われても仕方がなかったような話が、いよいよ現実味を帯びて来たように感じられる。

つまり、米国は未来のトランプ政権下で、いよいよ本格的に戒厳令国家へと変貌しようとしているのではないかという予想が起きて来るのである。実際、米国民が最も懸念している点はそこであろう。移民抑制など単なる口実に過ぎない。まずは人権抑圧の最初のターゲットとなるのが、トランプが幾度となく憎しみを向けて口撃して来たマイノリティであるというだけで、最終的にはトランプ政権にとって不都合なすべての米国民は、みな強制収容所行きとなる危険を覚悟しなければならないような世の中になるのではないか。それがトランプ一人の治世で終われば良いが、米国の政権の特徴として後戻りできない形で浸透してしまう危険が考えられる。

そうなった場合、米国との腐れ縁を断ち切らない限り、我が国も、米国に続いて戒厳令国家へ突入することを免れられなくなるであろう。なぜなら、これまでの歴史的経験から、米国で起きたことは、数年遅れて、我が国の現実となって来たということが言えるからだ。たとえば、官僚だけがヒーローとなって、国民は恐怖に逃げ惑うか、もしくは移動も制限されて、家屋に閉じ込められて、TV画面を通じて報道される大本営発表を固唾を飲んで見守るしかない、という『シン・ゴジラ』のストーリーなども、未来の予表として描かれたものであるように思われてならない。

だが、一体、なぜ国家がそのような戒厳令下の世の中を用意せねばならないのか? 何のために国民の人権を抑圧するのか? それは、いよいよ国家が財政難その他のために経済的にも道徳的にも落ちぶれて行き詰まり、信用を失って崩壊の危機に瀕し、己の生き残りだけが全てとなって、いよいよ犯罪政権としての性質と正体を隠せなくなって来た時に、それでも滅亡を免れるためには、国民から収奪を強化し、手ひどいやり方で反対を封じ込めるために、国民の人権を大規模に抑圧することしか、残る方法はないからだ。

かつての一億玉砕と同じである。国の面子が保たれ、国体が護持されるためであれば、国民が残らず死んでも構わないという発想である。そのような発想の下では、国民は文字通り、犯罪性を帯びた政府と心中させられることになる。

だが、人は通常、自分自身の幸福のために生きているのであり、誰も強いられない限り、「お国のために」生きようなどとは考えない。だから、国民の財産と労働のすべてを国家のために合法的に供出させる仕組みを作るためには、まず、国策に反する者は誰であれ、権力の判断で恣意的に逮捕でき、人権(財産権を含む)を放棄させるような仕組みを作らなければならない。強制集団化のような過酷な政策の実施は、流血を伴うのであり、まずは国策に従わない国民から人権を奪って強制的に収容所に送って奴隷労働に従事させるなどの恐怖政治の仕組みを作らない限り、実行できない。

だが、初めから、権力のために国民の人権を抑圧しますなどとは、おおっぴらに言えないので、緊急事態や、外敵の脅威を口実に、国内で恐怖政治を常態化させるのである。しかも、最初から国民全体を縛るためにと言っては誰も同意しないので、最初はあくまでごくごく一握りの社会にとって不都合な、国民全体にとって脅威となりうる集団だけを取り締まり、排除するのだと言って、人権抑圧の仕組みを作り、作った後で抑圧の対象を無限大に広げて全国民を取り締まるのである。こうして戒厳令国家の仕組みが成立する。


・国家権力は大昔から検閲・監視・密告を統治の手段として活用していた――ASKA逮捕の事件から見えて来る監視社会――

ところで、筆者はCHAGE&ASKAのファンではなく、この事件にそんなに興味もないが、この度のASKAの逮捕という出来事は、以上のような文脈において、実に象徴的・暗示的であったと思うので触れておきたい。

このほど、二度目に逮捕された歌手のASKAは、本人の言によると、盗聴盗撮の被害を訴えて警察に被害届を出そうと通報したところ、その言い分が「薬による幻覚」であるとみなされて、自身が逮捕されてしまったという。

芸能人であるとはいえ、政治家でもない人間が、何らかの犯罪被害を訴えて警察に通報したことがきっかけとなって、逆に自分が疑われて逮捕されたというわけだから、これは人々を震撼させる出来事であり、この日本社会の大きな曲がり角である。

ASKAは週刊誌では脳が壊れたなどとしきりに笑い者とされ、危険な薬中毒患者だから何をされても仕方がないかのような報道がされているが、世論はASKAにかなり同情的で、この行き過ぎたバッシングに拒否反応を示し、真相を疑っている。

実のところ、ASKAに起こったことは、明日には国民全体に誰でも起きうる現実である、と言える。それが分からずに、ASKAを特別な人間と考えて笑い者とし、人権侵害を正当化している人間は、よほど愚かである。

ASKA逮捕が、当局によって周到に仕組まれた計画のもとに行われた罠であったろうことは、逮捕前からメディア中ですでに逮捕の予告が公に報道され、乗ったタクシーの映像まで勝手に公開されるという異常な状況から容易に推測される。

つまり、ASKAが逮捕されるはるか前から、警察、メディア、民間企業などが連携プレイを行って、本人に対する監視体制を作り上げ、網で魚を捕えるように、ただ逮捕の機会を伺っていただけであるとみなさなければ、そういう事態は起き得ないのだ。

(「ASKA逮捕を事前予告して“見せ物”に! 清原逮捕に続く警視庁組対5課の情報操作とそれに乗っかるマスコミの手口」 LITERA2016.11.28.などを参照。)

このようにメディア・警察・民間企業の見事な連携プレーを見せられると、「盗聴・盗撮されている」というASKAの言い分が、逆に正しかったのではないかと見えて来るのも当然である。

ちなみに、タクシー内の映像ではしっかりと運転手と話をし、料金を支払っているASKAの姿が映っているようなので、覚せい剤の影響で脳が壊れたとの公式発表を完全に否定する証拠となっている。

もちろん、ASKAの逮捕が、年金カット法案や、廃炉費用の国民負担や、カジノ法案の強行採決など、政府の実行しようとしている恐るべき凶悪な国民の権利抑圧の政策を覆い隠すためのスピン報道として存分に用いられたことは疑いの余地がない。だが、この事件は、スピンだけが目的の全てではなかったものと思う。

ASKAはこの逮捕がなければ、活動を再開する準備が整っており、今回の二度目の逮捕は(一度目の逮捕に至る経緯も周到に計画されたものであった可能性が高いが)、社会復帰を妨害する上で重要な役割を果たした。中でも、特に、ASKAが執筆しすでに公刊が近かったとされる『盗聴国家・日本』の出版を妨げるために極めて重要な役割を果たしたのは見逃せない。

(「ASKA容疑者 著書執筆中だった テーマは「盗聴国家・日本」」 スポニチ 2016年11月29日 05:30参照)

ちなみに、今でもごく普通の生活レベルで人々が接触する街の交番や警察署のお巡りさんは、道に迷った人にも親切で、気前も良く、そんな街のお巡りさんだけを見ていたのでは、警察が凶悪な組織だという印象は持ちにくいであろうが、しかし、それはあくまで警察組織の最下層の話であって、組織の上層部はこれとは全く異なる性質を持っているものと考えられる。国家権力の一部としての警察組織が恐るべき腐敗・犯罪性に陥っている可能性については、たとえば、神戸の児童連続殺傷事件についての少年A君冤罪説に関する一連の記事の中でも触れた。

今日、国民の誰かが仮に自転車盗難などの被害を訴えて交番に赴いたからと言って、自らが窃盗容疑で逮捕されるようなことはないと思うが、ASKAの事件は、これから先、平凡な国民が、本気でこの国の闇・タブーに触れるような何かの事件を告発する側に回ると、それをきっかけに、警察を含め、国家権力全体から監視対象としてマークされ、社会活動が不可能となるような妨害を受け、警察に何かを相談しても、かえって疑われ、狂人扱いされ、逮捕され、隔離されるきっかけとされるような、恐ろしい社会が到来しようとしていることをよくよく物語っているように見受けられてならない。

筆者はASKAをかばいだてするためにこう言うのではなく、国民に対する権利侵害に鈍感でいると、それがいずれ全国民の身に降りかかって来ることになると言っているのである。芸能人だから、再犯を疑われたから、自分とは扱いが違うとみなすのは誰しも早すぎるであろう。

仮に今、ASKAが訴えた盗聴・盗撮の被害は事実であり、この度のASKA逮捕は、この組織的犯罪を隠すための国策逮捕であったと仮定しよう。

すると、浮かび上がって来る疑問は、これら二つの間には密接な関連性があって、集団ストーキングは連携プレーによる逮捕と同じく、国家権力が不都合な人間を抑圧し、追い込むための闇の統治手段ではないのかということだ。

集団ストーキングという用語は、ネット上で調べると、カルト宗教から脱退した人への報復措置として言及されていることが多く、ネット以外の世界では、そういう話は、ほとんどが薬による幻覚か、もしくは、統合失調症のもたらす妄想として片付けられて終わっているようである。いずれにしても、現実世界はこのような問題の存在自体を頑なに否定しているのである。

だが、盗聴・盗撮という問題を単純に妄想と片づけるのは極めて愚かなことである。何より、ソビエト・ロシアの歴史を知っている者として、ここではっきり言えるのは、国家権力による盗聴・盗撮は、何世紀も前かられっきとして存在しており、いわば使い古された手段であって、何ら個人の妄想の産物でもなければ、新しい発想でもないということである。

全体主義政権は、いつの時代も、自らの政策の異常さ、残酷さ、誤りを、民衆の心に単純に訴えかけるアートの形で発表されることを何よりも嫌がった。そこで、政治家だけでなく、詩人、作家、音楽家など、芸術家をとりわけ厳しい監視対象としたのである。

たとえば、19世紀ロシアの詩人レールモントフは次のような詩を書いた。
 

Прощай, немытая Россия,
Страна рабов, страна господ,
И вы, мундиры голубые,
И ты, им преданный народ.

Быть может, за стеной Кавказа
Сокроюсь от твоих пашей,
От их всевидящего глаза,
От их всеслышащих ушей.

この詩には違うバリエーションもあるようだが、今はこの詩に正確かつ芸術的に完成された訳をつけることは目的とせず、単に意味を大まかに理解するだけに専念したい。もし逐語的に訳せば、次のような意味になるだろうか。

さらば、*無割礼のロシアよ、
奴隷らの国、ご主人様らの国、
おまえたち**青い制服にも、
奴らに忠実な民衆にも。

(注*無割礼と訳した言葉は、原語では「洗礼を受けていない」の意味、つまり、野蛮な、下品な、といった意味合い)
(**青い(空色の)制服とは、帝政ロシアの憲兵の制服)

ひょっとして、*コーカサス山脈の向こうまで行けば、
おまえの**官憲から逃れられるかも知れない、
奴らのすべてを見通す目から、
奴らのすべてを聴く地獄耳から。

(注*=僻地への兵役や流刑の方が都にいるよりもはるかにましだという意味)
(**原語では、パシャというオスマン帝国軍司令官の称号、複数形)

レールモントフがこの詩の中で激しい侮蔑と嫌悪感を示して糾弾しているのは、帝政ロシアの巨大な権力機構によって国民の間に徹底的に張り巡らされた監視・密告・検閲体制である。当時、ロシアの帝政権力による検閲は、ただ単に政治的な出版物やパンフレットの検閲だけでなく、あらゆる分野の出版物に及び、国民のあらゆる会話の監視・盗聴と、それに基づく密告が行われていた。貴族であっても、この監視体制から逃れられる者はいなかった。

このような徹底的な監視・密告・検閲体制は、ロシア国家の不治の病として、この国の歴史に深く刻まれ、ソビエト体制にも受け継がれる。帝政ロシアが権力を批判する文書を細部に至るまで統制し取り締まっていたと同様、特にスターリン体制になって以後のソビエト権力は、国内のすべての文書を厳しく事前検閲して取り締まりの対象とし、国民のあらゆる会話を盗聴し、国民同士による盗聴・密告体制を作り上げて、国家にとって不都合な人間を排除する手がかりとした。ソルジェニーツィンが収容所群島と呼んだ強制収容所には、国民同士の密告に基づいて「人民の敵」とのあらぬ嫌疑をかけられて秘密警察により逮捕され、証拠もなく有罪にされた数知れない人々が送られた。

だが、ソビエト体制になるよりもずっと前に、レールモントフが自らの詩に描いたのが、まさにこれと同じ世界であった。この詩人にとっては、それこそが「ロシア」であり、ロシアとこの盗聴・密告・監視システムは切り離せないものとして一体化して機能している。しかも、その奴隷のシステムは国家権力だけが独断で作り上げたものではなく、民衆の自発的協力と一体になって成立しており、そのようにして権力に自ら迎合し、媚びへつらい、屈従する国民の卑屈さ、精神的奴隷ぶりが、この誇り高い詩人には我慢がならなかったのである。

今日のロシア人は、この詩はシニカルに過ぎるものとして否定したがるかも知れない。そのような卑屈な奴隷根性を国民的歴史としては認めたがらないであろう。だが、これはロシア国家の不治の病であり、今日もそうした体質は変わらない。ロシアという国に対して幻想を持つのは早くやめた方が良いであろう。

筆者はかつて半数ほどがロシア人から成る小規模な仕事場で働いたことがあったが、そこで、毎日、毎日、ロシア人の集団と顔を合わせているうちに、普通ならば、国際結婚でもしなければ見えて来ないような彼らの国民性の負の部分を間近で観察することになった。その結果分かったのは、ロシア人には自分たちは虐げられているという被害者意識による団結力はあるが、それがあだとなって、自ら監視・密告体制を作り、信念を持たず、浮草のように力の強い者から力の強い者に流れ、何度でも寝返りながら、本心を隠して媚びへつらうという無節操ぶりであった。ロシア国民の大半はこのような無節操な人々から成ると見て良い。筋を通して権力に戦いを挑む真のインテリなど極めて稀である。

そのようなわけで、我が国の現状を相当に辛辣に批判する数多くの人々が、米国嫌いの反動のためか、今もロシアには甘い点をつけ、淡い期待を託している現状を、筆者は残念に思う。

たとえば、兵頭正俊氏でさえ「南スーダンの黙示録」(2016年12月1日)において次のように語っている。
       
 

2015年にノーベル文学賞を受賞したスベトラーナ・アレクシエービッチが日本にきている。

11月28日に、東京外国語大学で講演して、「日本には抵抗の文化がない」と発言した。福島第1原発破壊の福島を視察して、被災者から国の責任を追及する声が少ないことに驚いたものである。

福島で目にしたのは、日本社会に人々が団結する形での『抵抗』という文化がないことです。祖母を亡くし、国を提訴した女性はその例外です。同じ訴えが何千件もあれば、人々に対する国の態度も変わったかもしれません。全体主義の長い文化があったわが国(旧ソ連)でも、人々が社会に対する抵抗の文化を持っていません。日本ではなぜなのでしょうか

「全体主義の長い文化があったわが国(旧ソ連)でも、人々が社会に対する抵抗の文化を持っていません」という言葉をそのまま受け取るわけにはいかない。ロシアは、世界史に残るロシア革命を成し遂げ、またその革命が裏切られると、ソ連邦をも倒した


隣の芝生は青く見えるのであろう。だが、アレクシエーヴィチはロシアという国を十分に知った上で、以上のように発言しているのだ。それは知らない者に否定できる見解ではない。さらに、ロシア革命は、今日の言葉で言うカラー革命の一種であり、ソ連崩壊も同じことである。それらは決してロシア人の勇敢な抵抗の精神を物語る立派な歴史的事実ではない。とにかく、ロシアを色眼鏡で見て甘く評価することは、相当に危険である。この国の流血の歴史に比べれば我が国の方がまだ幾分か罪が軽いとさえ言える。

またもや話がロシアに飛んだので、ASKAの話に戻らねばならないが、ASKAが訴えている盗聴・盗撮などといった手法は、以上に記したように、何世紀にも渡り、国家権力が国民を取り締まり、統治を強化するために実際に用いて来た闇の手段なのであり、何も病人による筋の通らない戯言ではなく、さらに、公権力を批判する者が「狂人」や「病人」扱いされるという歴史も、今に始まったことではないのである。

いつの時代にも、国家権力は、人々が何千ページもある難解な論文や報告書を書いて政権を批判することよりも、絵画や、音楽や、詩などの、人の心に単純に訴えかける、民衆に広く理解される単純な形式による政権批判の方を目の敵にして取り締まって来た。

何千ページにも及ぶ論文は、読む人も限られるが、わずか数十分のプロモーション・ビデオなどは、誰でも容易に理解できる。

筆者が何を言わんとしているかもう分かる人もいるかも知れない。ASKAが訴えたような執拗かつ大規模な集団ストーキングが、もし国家権力と結びついたものであった場合、一体、それは何を理由として始まったのか。何がきっかけで、同氏はそれほど激しい妨害にさらされることになったのか。

誰でもすぐに思いつく重要なきっかけの一つは、 CHAGE&ASKAがかつて宮崎駿監督のスタジオ・ジブリの制作により、反原発をアピールする以下のプロモーション・ビデオ"On your mark"を作ったことである。「ああ、またもや、原発反対派による国家権力による陰謀説か。そんなものは聞き飽きた」と一笑に付すのは簡単だが、少し待ってもらいたい。
 

http://www.dailymotion.com/video/x33j0w3_on-your-mark_shortfilms

 

このプロモーション・ビデオは、Wikipediaの記述によれば、最初に公開されたのは1995年で、その後も、コンサートツアーで使われたり、2005年にはスタジオジブリのDVDにも収録されたりして、問題なく公開されていた様子なので、その事実を見る限り、最初からこのビデオが問題作として当局からの攻撃の対象となったという事実は全くないものと考えられる。

おそらく、福島原発事故が起きるまでの間は、かなりディープな問題提起がなされているとは言え、それほど物議を醸すことのない比較的無難な作品であったように思われる。

しかしながら、3.11後、権力にとって、このプロモーション・ビデオは、それまでとは全く違った意味合いを持つものとなった。すなわち、原発推進という「国策」に真っ向から逆らう、「権力に盾突く」深刻かつ見過ごせない内容の「危険作品」になったのである。

特に、当のASKA自身が明白に反原発のプロパガンダの意味を込めてこの作品を利用しようとしたことが、余計に当局の反発を買ったのではないかと予想される。

このプロモーション・ビデオのタイトルは、CHAGE and ASKAのライブとしては6年ぶりに予定されていた再始動の意味を持つスペシャルライブ2013“On Your Mark” にも大々的に利用されていた。このライブは、ASKAに「一過性脳虚血症の疑いがある」という理由で延期され、その後、完全中止になったが、この時につけられた病名が本当に正確な診断であったのかどうかについては色々な憶測が飛んでいる。

ASKAが最初に覚せい剤取締法違反の容疑で逮捕されたのは、2014年5月17日であり、この逮捕の影響により、それから約1か月後の6月18日に予定されていた上記のビデオの「宮崎駿監督作品集」の特典映像としての収録が中止になった。

筆者は、ASKAの覚せい剤使用の容疑が全て捏造であったと言っているのではない。おそらく一度目の逮捕の容疑は事実だったのだろうと想像する。だが、芸能人と暴力団や薬の使用との結びつきは、ASKAに限らず、あまりにもありふれた話でしかなく、当局はそのようなことはすべて知った上で、いつそれを大々的な事件として取り扱うかということだけに焦点を絞っていた可能性が高い。

当局は、有名人CHAGE and ASKAの華々しい再デビューと、反原発のプロパガンダのビデオが一つに結びついて、大々的に国民感情を揺さぶる現象を引き起こすことを何より恐れ、一計を案じたのではあるまいか。これを防ぐために、ライブの中止に向けて逮捕を計画しただけでなく、ASKAの名誉を徹底的に貶める執拗な報道によりビデオの信憑性を国民に疑わせ、その普及を阻止すべく手を打ったのではないかという見方が可能である。
 
さらに、上記のプロモーション・ビデオの他に、当局の恨みを買うきっかけとなったもう一つの事件が、ASKA自身が、(おそらくは国家権力と結びついた)大規模な盗聴・盗撮のシステム(集団ストーカー)の存在を告発しようとしていた事実である。

集団ストーカーの存在は、これまでネット上の妄言とされるばかりで、芸能人や著名人がその存在を認めることはほとんど無かった。影響力の大きい著名人の発言だけに、余計にそれが社会的に認知される前に早々に闇に葬る必要があったと見られる。

ASKA本人の手記によれば、同氏がこの問題に深入りするきっかけとなったのは、身近な他者が集団ストーカーの被害に遭い、自殺したという事件から生じた慙愧の念と義憤だったようである。同氏の手記を額面通りに受け止めるなら、他者の無念を晴らそうと、自らその事件に深入りしているうちに、組織的な盗聴・盗撮集団の存在を突き止め、これを追跡しているうちに、自身がターゲットとされたということになる。

だが、ASKAの手記を読むと、同氏は人を信じやすく、正義感が強く、疑うことのできない人柄の持ち主であったように見受けられてならない。そういう性格の人間を闇の中に誘導して陥れるには、親しい知人を痛ましい事件に巻き込むだけで良い。だから、真相は分からないとはいえ、監視集団の真のターゲットは、初めからASKAだった可能性も考えられる。

こうしたことは、栩内香澄美容疑者についてもあてはまる。ASKAはこの女性をも疑うことができないでいる様子だが、パソナにおける会長秘書という役職を考えるとき、おそらくこれは普通の人間ではないだろうという印象が拭い去れない。彼女はもともと一定の目的で派遣されたエージェントであった可能性が考えられる。道連れに逮捕されたのは目くらましで、当局の真のターゲットはもともとASKA一人だったのではないだろうか。
 
今回、二度目に逮捕される直前、ASKAは盗聴・盗撮集団の存在について、次のように言及していた。
   

  「ASKA容疑者 謎の言葉「ギフハブ」とは?」daily sports 2016.11.30 によると、

「同容疑者は警視庁に28日に逮捕される約5時間前に宮根誠司キャスターと電話で話し、その模様を29日に同番組で放送した。その際、同容疑者は「組織があるんですけど、ギフハブっていう。そこが組織を作って今…」などと自分の行動が監視されていると訴えていた。」

そこでASKAの語った具体的な内容は次のようなものだったという。
 

「ギフハブ」っていう組織があるんですけどそこが組織を作って。
今AR(拡張現実)っていう仮想現実なんですけど僕のいるところを映したりして。
携帯の中にそのアプリが埋め込まれてたんですよ。その証拠もとってるんですね。」

この秘密組織の存在は、様々な場所で、ASKAの妄想と幻覚を示す証拠のように嘲笑されているが、本当にすべてが作り話と決めつけられるであろうか。

何しろ、スマートフォンを含む携帯電話が、人々の位置情報、通話内容を含め、音声の盗聴及び盗撮に利用されうること、携帯電話を通して得られた情報をすでにCIAなどの大規模組織が大がかりに利用していることは、エドワード・スノーデンなどもすでに指摘していることであり、何ら新しい情報ではない。

それはあくまで米国の話だと我が国の人々は思って安心している。しかしながら、もしASKAの証言により我が国においても、同様の大規模監視集団の存在があることが明るみに出れば、人々はパニックに陥り、携帯電話を二度と使わないと決意するであろう。そのようなことを防ぐために、こういう話は早めに「妄想」と決めつけるのが手っ取り早い。病気でないなら、薬による幻覚、脳の破壊ということにして、「妄想の持ち主」を徹底的に見せしめに嘲笑すれば、そんな「作り話」は誰も口にしなくなる。

ところで、ARを作って、そこに現実の人物を置くことで、現実世界のパラレルワールドを作り、人間を監視するという、ASKAの語る監視手法は、上記のプロモーション・ビデオの中にもヒントがある。

"On your mark"のストーリーは、すべてがパラレルワールドから成り立っているとも言える。まず、そこでは、現実世界は放射能に汚染されて、人が住めなくなっており、人々は地下に現実を模した人工都市を作って、そこをあたかも現実世界のように思って生活している。それは人々を人為的に閉じ込める一種の「マトリックス」である。

この自由なき地下社会を支配しているのは、現実世界を放射能に汚染させて人が住めないようにした犯罪者政府であり、その犯罪者政府が、いかがわしいカルト宗教と手を結んで人心を統治しているというのが、このビデオの動かせない「現実」である。



ちなみに、このカルト宗教の掲げる標語"God is watching you"「神はあなたを見ている」は、この宗教の第一目的が、全ての人々を「監視する」ことにあるとよく物語っている。要するに、「おまえらはみな監視されているぞ」という脅し文句である。この宗教はフィクション版のフリーメーソンであり、そこで言う「神」とは悪魔を指す。

このすべてが裏返しのフィクションにおいて、主人公は、警察官の職に就いている友人同士の二人である。だが、二人がカルト宗教団体に突入するというストーリーの始まりは、そこからしておそらくはすでに幻想であり、妄想であると筆者は思う。

本当は、この世界においては、犯罪者政府とカルト集団による支配から逃れられる者は誰一人いない。現実における主人公は、カルト宗教・政府の手先としての「官憲」でしかないであろう。だが、ちょうど映画「マトリックス」がそうであるように、現実の欺瞞に気づき、これに耐えられなくなった主人公が、この「マトリックス」を脱し、勇敢に巨悪と闘うる正義の味方となるという「夢」を一人、空想の内に思い描くのである。

この「夢」の中で、主人公はカルト宗教にとらわれていた一人の翼ある少女を救出するというミッションを帯びる。が、何度も失敗しては、また最初からやり直しになる。ゲームのように、一度失敗すると、オールリセットして、また新たな策を練って、初めから出直しとなる。このストーリーでは、少女を救出して解放することが、人類全体の自由を取り戻すことと同義になっている。

その救出作戦の途中で、研究資料として政府に連れ去られた少女の位置情報を探り出すために、主人公はパソコンに向かう。パソコンの上には、不思議の国のアリスに登場するウサギを思わせる置物が置かれている。

少女の位置情報は、パソコンの向こうの仮想現実の中で見つけられる。「マトリックス」の世界に存在するすべては、コンピュータープログラムによって監視され、記録されているので、システム上で探り出すことが可能である。

CHAGEを思わせるもう一人の主人公が作ったものは、無線機のようにも見えるが、少女が監禁されている装置のロックを解除するためのリモコンであるらしい。






   
なぜこの少女は国家による研究材料にされて、試験管のような装置の中に閉じ込められたのであろうか?

推測に過ぎないが、この少女にはおそらく、放射能を無害化する特殊能力があるのだと思われる。そのことは、このストーリーの最後に、汚染された町で、少女一人が生き生きと羽ばたいて空へ向かっていく様子からも理解できる。

犯罪者政府とカルト宗教は、放射能を無害化する技術が一般大衆に知れ渡ると、地球が再生され、自分たちが人々を脅し、「マトリックス」である地下都市に監禁する口実がなくなるので、自分たちの支配が永遠に続くように、少女を隔離することによって、その技術を政府が独占し、外へ知られないように手を打ったのである。

むろん、この少女は存在自体が、主人公の「妄想」の産物である。実際には、この少女はカルト宗教に捕われて、無残に犠牲にとされた信者(もしくは奴隷)の一人に過ぎない。その犠牲者の少女に、地球再生の鍵が秘められているというのは、主人公の「夢」でしかない。

だが、その「夢」においては、政府と宗教団体の犠牲となって閉じ込められている一人のか弱い少女を救出して、汚染区域に解き放つことは、少女一人だけでなく、地球全体が救出される道である。少女が持つ放射能を無害化する力によって、汚染区域は、長い時間をかけて、再生の道を辿り、それによって地球は再び人の住める場所となり、未来の人類に、犯罪者政府とカルト宗教による支配から逃れる道が開かれるのである。

つまり、一人のか弱い人間を救うことが、地球全体の救済へとつながっているのであって、それを成し遂げることが、主人公が真の英雄へ至るミッションである。主人公二人は、汚染区域に入ったことによって、死ぬ羽目になるが、少なくとも、自己を犠牲にして、地球を汚染から解き放つ方法を提供することで、真の英雄になれたのである。

このビデオはフィクションとはいえ、現実世界の歪みを鋭く暴いて糾弾する意味を持っている。それは放射能の脅威(だけでなく人類の直面するあらゆる問題)を逆手ににとって、その脅威を悪用して人々を脅しつつ、カルト宗教と結びついて、人々の自由な暮らしを奪いながら、恐怖によって人心を支配する政府の存在を指摘していることである。その犯罪者政府にとって、放射能汚染という恐怖は、永久に取り除かれずに存在していた方が、むしろ、好都合なのである。

3.11以降、このフィクションに込められた現実の矛盾を暴きだす力が、あまりにも強烈なメッセージになったがゆえに、当局はこれをお蔵入りとし、闇に葬る必要があったのである。

そのために、フィクションの物語を裏返しにして、ASKAを模した主人公が、現実世界においてはスキャンダルと恥辱にまみれた「容疑者」となり、決して「英雄」にはなれず、少女も飛び立てず、再生の道が絶たれるように、悪意を込めて物語の事実をひっくり返したのである。

この悪意ある監視集団は、そのために現実とは別のもう一つの仮想現実であるARの世界をコンピュータ内に作り、そこでASKAを監視の対象、さらし者にした。そのARにおいて、彼らはどうやって同氏を罠にかけ、貶めるかを話し合ったのであろう。そして、その悪意が現実世界にも及ぶように、周到な計画を練ったのである。現実世界において、同氏をどんな風に罠に引き込んで凋落させるかを話し合ったのであろう。

「落ちて行くだけのコインは二度と戻らない」とか「流行りの風邪にやられた」などの歌詞を彼らは弄び、悪い事柄だけが現実になって降りかかり、作品自体が本人を嘲弄する手段となるように粋を凝らしたのである。

この犯罪者集団は、おそらくはASKAの他にも自らの脅威となりうる人間に対して、ずっと同じ方法で監視を繰り広げ、その人物が真の社会的脅威となる前に、あらゆる方法を使って社会から排除されるよう、引きずりおろして来たものと想像される。小沢一郎、植草一秀、鳩山由紀夫などの政治的大物は言うまでもないが、影の政府にとって不都合な人間を欺き、その人間性を貶め、周到に罠にかけるのが彼らの仕事であり、今やその手法はただ単に社会的な大物だけでなく、一般人にまで及ぼうとしている・・・。

しかしながら、こうした恐るべき推測を一旦、脇に置いても、このビデオは宮崎駿の作品にしては、随分、不吉な印象である。特に、この翼ある少女には、宮崎作品に登場する多くの女性主人公のような主体性があまり感じられず、彼女はただ受動的に救いを待っているだけの、意志を奪われた無力な人間であり、どちらかと言えば、『風立ちぬ』に登場する女性のように、悲しい犠牲者の風貌をしている。このストーリーの中では、本当の彼女はきっと、翼もなく、ただ痛ましい犠牲となって死ぬおびただしい屍の一人に過ぎないのであろう。この犠牲者としての風貌の中には、汚染された地域の被災者の悲しみのすべてが、隔離された人類全体の悲しみが投影されている。

この哀れな犠牲者の少女を解き放つために、結果的に、二人の主人公も命を失う(としか思われないのだが)というエンディングもかなり悲愴である。話の運びのテンポは良いが、『風立ちぬ』もそうだが、エンディングが、ハッピーエンドなのか、悲劇なのか分からないという消化不良を観た者に引き起こす。『風立ちぬ』の主人公は、明らかに体制側についた人間であり、自らの想像力を悪なる戦争のために利用され、妻を救う手段も見つけ出せなかった無力な人間である。彼には妻の愛情に報いる術もなく、彼女が死の床についてから、病める時も、人生を共にしてやるという伴侶のつとめを果たせず、むしろ戦争の大義を優先したような非力で無能な男性である。それとほぼ同じように、このビデオの中でも、主人公が英雄になれるのは、自分の空想の中だけである。

もしかすると、このあたりが、現在の日本人一般男性の思考と能力の限界かも知れないと思う。何しろ、この国は、真の意味での精神的自立を成し遂げたことが今まで一度もないのだ。だから、これまで、この国で生きるということは、多くの人々ににとって、マトリックスの一員、体制側の人間として生きることしか意味しなかった。特に、男性が、社会に認められようと思ったときに、完全に反体制的人間として、マトリックスを告発する側に立つことはほぼ許されなかった。こうした意味で、我が国の遅れて閉塞的な文化的・精神的な状態はロシアに非常によく似ているのである。

だから、この国の男性たちはおおむね誰もが自分の魂をどこかで置き去りにし、権力に売り渡しながら生きて来たのであり、それが悪であることは、本人の魂が重々知っている。だが、それより他の生き方を選択できないので、その人々は自分の心の本当の願いを、フィクションや、仮想現実や、空想に託すしかない。上記のプロモーション・ビデオも、ある意味では、良心を曲げられ、屈従を強いられた人間の慙愧の念と良心の叫びから出て来る「妄想」や「幻覚」に近い現実逃避としての「夢」のように見受けられる部分がある。

しかし、ASKAはおそらくこの仮想現実の物語を地で生きようとしていたのであろう。カルト宗教団体に捕われ、犠牲となった少女を見捨てておけなかった主人公のように、集団ストーカーの犠牲となった死んだ友達をも放っておくことができず、原発事故被害を見過ごしにすることもできず、犠牲となった人々を助けたいという生来の義憤と同情から、深い暗闇に自ら首を突っ込んで行き、自分自身もその犠牲となったのである。

だが、その同情と義憤にこそある種の非常な人間観の甘さ、お人好しさがあったのだと言える。結局、人間が自分の手で人間を救おうとする試みは必ず頓挫し、犠牲は犠牲の連鎖を生むだけで、どんなに美しく見える人の良心も、愛情も、義憤も、決して人を生かす真の力とはならない。人間の救いは神にしかなく、人間自身には義はないからである。犠牲の連鎖を抜け出る新たな生き方が必要なのである。

2016年9月 4日 (日)

神は決して正しい者がゆるがされるようにはなさらない。神は志の堅固な者を全き平安のうちに守られる。

あなたの重荷を主にゆだねよ。
主は、あなたのことを心配してくださる。
主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。

しかし、神よ。あなたは彼らを、
滅びの穴に落とされましょう。
血を流す者と欺く者どもは、
おのれの日数の半ばも生きながらえないでしょう。
けれども、私は、あなたに拠り頼みます。
(詩編55:22-23)

私たちには強い町がある。
神はその城壁と塁で私たちを救ってくださる。
城門をあけて、
誠実を守る正しい民をはいらせよ。
志の堅固な者を、
あなたは全き平安のうちに守られます。
その人があなたに信頼しているからです。

いつまでも主に信頼せよ。
ヤハ、主は、とこしえの岩だから。
主は高い所、そびえ立つ都に住む者を引き倒し、
これを下して地に倒し、
これを投げつけて、ちりにされる。
貧しい者の足、弱い者の歩みが、
これを踏みつける。
(イザヤ26:2-6)

信仰者の毎日は日々が霊的戦いである。日々起きることの中に偶然はなく、私たちは主によって与えられた自分の嗣業を守りぬかねばならない使命を与えられている。それは、キリストにあって真の自由、自立、豊かさに至りつき、神の愛と憐れみの深さを生きてこの世に証明するという使命である。

だが、悪魔と暗闇の軍勢は信者の嗣業を奪い取りにやって来る。模倣、脅し、欺き、あらゆる方法が使われる。非常にしばしば使われる手段は、似て非なるもの(模造品)を提示することである。

たとえば、あなたが何か神にあって自分の仕事を始めようとする。祈りが応えられてようやく与えられた新しい課題である。すると、暗闇の勢力に導かれる誰かがやって来て、あなたの隣で非常によく似たメッセージを叫び始める。ちょうどパウロが占いの霊につかれた女につきまとわれた時のように、その内容は、一見、あなたを応援しているように見えるかも知れないが、その実、あなたの主張の内容を盗んでいるのであり、あなたの真似をしたり、支援しているふりをしたり、同情者を装ったりしながら、彼らは巧みに人々の関心を自分の方へ逸らして行く。

「私たちが祈り場に出て行く途中、占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させている者であった。
彼女はパウロと私たちのあとについて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです。」と叫び続けた。
幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け。」と言った。すると即座に、霊は出て行った。
(使徒16:16-18)

暗闇の勢力の目的が神の民の嗣業の略奪にあり、こうした見えない悪意との絶え間ない戦いが日々あって、それに勝利しながらでなければ進んでいけないことを、信仰者が明確に理解するまでには時間がかかる。

当ブログではこれまで、キリストがどれほど信者の願いと共に働いて、信者の信仰を通して、まだ見ぬすべての必要を実際に与えて下さるかについて書いた。どんなに小さなものから、どんなに大きなものまで、主は信者のすべての必要について、信者と同労して願いを実現して下さることができる。それが「主と共に環境を創造する」というテーマで訴えて来たことの意味である。

だが、それと同じほど重要なのは、信仰の試練の中で、主と共に創造し与えられた環境を守り、維持すること、暗闇の勢力によるあらゆる圧迫に立ち向かって、確固として与えられた霊的領地を維持し、なおかつ、さらに豊かにして行くことである。

これまで、主と共に願いよって新たな環境を創り出すということにかなり注意を払って来たが、次に、暗闇の勢力からの全ての圧迫に勇敢に立ち向かって、自分の嗣業を守ることについても、述べて行かねばならない。

このテーマ、すなわち「悪魔の圧迫に立ち向かう」というテーマの重要性をはっきりと自覚し始めたのは、数年前、信者たちとの交わりがきっかけであった。それまでは、「悪魔を糾弾する」などの話は、想像上の産物のように思われていた。

だが、目を覚まして周りを見ると、悪魔の圧迫というものが、実に日々、様々な形で存在することが実際に分かって来るのである。それは人からの嫌がらせのように、あからさまに悪意と分かる形でやって来ることもあれば、あたかも人の常識にかなった、良さそうな助言の形をとることもある。あるいは、全くの偶然にしか思えないような様々な出来事が重なって、一定の結果へ追いやられるということも起きる。

そのようにして、偶然を装った様々な出来事の連鎖を通して、悪魔が信者の嗣業を奪い、キリストが信仰によって与えて下さったものを、不当にかすめ取るということが、日々実際に起きているのだということがよく分かって来たのである。

信者を何としてもキリストの復活の命の豊かさに至らせまいとする、激しい悪意による圧迫が存在していることに、目が開かれるのである。そして、その実に多くの影響力が、「良さそうに見える」世の常識に偽装しているということも分かって来るのである。

キリスト者は、この悪しき力――あからさまな悪も含め、あたかも善のように見えるこの世の良識の全てを動員しては信者を脅し、弱体化させ、キリストの復活の命の豊かさに至らせまいとする力――に全力で立ち向かって、主の愛と憐れみとその解放の大きさを体現する使命を負っている。

悪魔は信者に向かってさも同情しているかのように装ってこう言うだろう、「きみは可哀想だね」と。「きみは可哀想だ、あまりにも多くの重荷を負っている。それは何年来、きみが背負って来たもので、容易には取り除くことができない。きみは随分、不当な立場に置かれている。そして幾多の失敗があった。生きるとは何とつらいことなのだろうね。多分、死ぬまできみはその理不尽な課題を解決できまい。」

これに対して、信者は答える、「私には重荷はありません。主が負って下さっているからです。あなたの言うような一生かかっても解決できない課題など私にはありません。神には不可能はないのです。主が共におられるのですから、私には理不尽はありません。可哀想なのは、あなたです。私にはすべての解決が与えられていますが、神を拒んでいるあなたには何もない。絶望しているのは私ではなくあなたです。あなたはそうやって敬虔そうな信者に近寄っては、キリストの救いはその人にとって不十分だと嘘を言っては、落胆させ、神の助けを拒ませようと試みることしかできないのです。しかし、あなたの言うことは嘘です。」

最近、筆者は悪魔によってかすめ取られ、奪われた損失を取り返し、補てんさせるということについて考えている。単に悪魔の嘘を見破って拒否するというだけでは物足りない。「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、彼はあなたから逃げ去るだろう」と聖書に書かれている通り、悪魔に恥をこうむらせ、悪魔が恐怖にかられて大慌てで逃げ去るその背中を見るまでは、十分でない。ダビデが詩編に書いたように、その逃げ去る姿に追いすがって、さらなる打撃を加え、二度と立ち向かって来られないように徹底的に粉砕して追放しなければ、意味がないように思っている。繁栄を極めた大いなる都バビロンが、乳飲み子、嬰児のような者たちの素朴な信仰の証の前に敗北し、音を立てて引き倒され、灰塵と化し、弱い者たちの足がそれを踏みつける。その上、バビロンに巣食っていた悪党どもには単に敗北を味わってもらうだけでなく、これまで信者にもたらしたすべての損害に対する償いをしてもらわなければならない。

本当は、クリスチャンの仕事は、日々、そのような仕事をやり続けることなのである。これが本当の意味での霊的戦いなのである。信仰生活の課題とは、キリストの贖い、その死と復活を生きて証するだけでなく、悪魔が日々兄弟たちを告発している以上の執拗さを持って、キリスト者を不当に圧迫しているサタンの嘘に毅然と立ち向かい、全力で悪魔を糾弾し続けることにある。それこそ、キリスト者の使命の残されたもう半分なのである。なのに、あまりにも多くのクリスチャンが、損失を損失とも思わず、打撃を打撃とも思わず、敵にやられっぱなしで立ち上がれないでいるのは、その打撃がどこから加えられたのか分からず、その背後にある悪意が見えず、これを拒否する必要が分からないためである。あまりにも多くの人々が、自分の失敗ゆえに状況が悪くなったのだと思い込み、その失敗が取り返しのつかないもので、自分の弱さを克服しない限り、解決はないと思い込まされているために、立ち上がる気力を奪われているのである。

そこから立ち上がる秘訣は、キリストの義に徹底的に立ち続けること、悪魔の罪を身代わりに責任転嫁されるのを拒み、小羊の血潮の潔白に立ち続けることである。それは、キリストこそ、信者の人生の最終責任者であることを信じ、たとえ人の目からはどんなに無責任のように見えたとしても、それまでのように、自分に自分で責任を負って、自分で自分を贖おうとしないことである。また、世間に波風立てないことだけを第一として、人の目を恐れながら、あらゆることについて自主規制して外面だけを立派に整えて暮らすという内実のない空虚な生き方と決別することである。

キリストの贖いは、信者が外から見て道徳的に見えるか、立派に見えるか、良識的に見えるかどうか、と言った外面的な基準に照らし合わせて与えられるものではない。それは信仰を通して受けとる小羊の血潮による内側からの義認であり、信じる者に無条件で与えられている。そこで、信者は自分が外から見てどう見えるか、という恐れから解放される必要があり、外面的な評価におびえ、それを失いたくないという恐れにとらわれている限り、真の意味でキリストの贖いの意味が分からないのである。キリストの十字架は、このように、単に暴力や嘘や脅迫といったあからさまな悪だけではなく、常識や、世間体や、道徳と言った、良さそうなものに偽装しているすべての「この世の圧迫や支配」からも、キリスト者を解放したのである。

さらに、キリストの贖いは、信じる者の一生分の罪を覆い、永遠に至るまで信者を義とする。信者は「代価を払って買い取られたのだ」。この意味は非常に大きい。キリストの支払われた代価を帳消しにするような罪は存在しない。

信者に対する神の愛がどんなに強く、誠実で、約束にたがうことのない、永遠のものであるかを知る必要がある。神が信者を選んだのであって、信者が神を選んだのではない。たとえ信者が失敗してどんな深い淵に落ち込み、どんな地の果てに追いやられ、どんなに損なわれていたとしても、神は彼を見つけ出し、取り返して、回復し、安全の中に置いて下さることができる。神はすべての必要な犠牲を払って、信者をすでに取り戻したのである。キリストが全てをすでに解決された――この地点にしっかりと立つならば、信者は過去を何度も振り返って悔やむ必要もなければ、世間の誰彼に絶え間なく懺悔をして回るような必要もない。すでに贖われ、買い取られ、義とされている、その事実に立ち続けるのである。その地点から、悪魔が卑劣にも信者に加えて来たすべての打撃と損失に対する回復を要求し続けるのである。むろん、信者の義は、信者自身だけでなく、家族にも及ぶ。

キリストによって贖われた者に、取り返しのつかない失敗というものがあるだろうか? 思考の上では、信者は自分が失敗を犯したと感じることは多いだろう。もっとうまくやるべきであったと感じ、手遅れのように思うこともたくさんあるだろう。時計の針を逆戻すことはできない。

だが、キリスト者にあっては、不信者の場合とは異なり、常に不思議な法則が働き、何事についても、手遅れということがないのである。なぜなら、神は時空間を超越しておられるからである。信仰は未来に向かっていくものであると書いたが、信仰の働きは、時空間を超える。また、信者には(意図的に神に反逆を続けない限り)、決して取り返しのつかない失敗というものもない。なぜなら、小羊の血潮によって赦されない罪というものはないからである。

そこで、信者に必要なのは、日々、何が神が喜ばれる道であるのか、それに心を合わせ、できるだけそれに近づいて行こうとする願いであり、努力である。神が喜ばれる道とは何なのか、気づいていない時には、違った方向へ向かっていても、是正は不可能だが、気づいたその瞬間から、新たな創造が始まって行く。

神が喜ばれる道とは、虚偽を退けて真実を愛し、悪を拒否して公正、正義を打ち立て、不義ではなく真理に生き、人の義ではなく神の義により頼み、信者自身が、すべての面においてキリストの命の豊かさにあずかり、キリストの完全性を知り、キリストの身丈まで成長して、彼に似た者とされることである。

キリスト教とはこの世の道徳律ではない。それはこの世を超越した生きた命である。キリスト教は、人の目にかなう立派な行いをし、慈善事業を行なって弱者を助け、多くの人々を幸せにする手伝いをするために自分を犠牲にして骨身を惜しんで働くことではない。そのような行為は、人の目にはまことに良さそうに見え、世の中からは拍手喝采を受けるが、すべてが神の方ではなく人間の方を向いており、「世」の方向を向いているというところに、一つの大きな罠がある。もし人のために善行を行ないたいのであれば、自分の前でラッパを吹き鳴らすのではなく、隠れたところでするのが良策だろう。

私は常に思うのだが、信者にとって最も必要なのは、人を助けようと考える以前に、自分自身が神によって満たされる必要を抱えていることを素直に認めることである。人がどんな窮乏を抱えているかという問題を果てしなく論じる前に、自分自身がまず、神の御前にどれほど大きな必要を抱えており、自分自身がどれほど神の愛にあずかり、信仰によって、キリストの命にある無限の富を本当に知って、神が信者のために用意して下さった真に豊かな人生に至りつく必要を抱えているかに気づき、これを真剣に願い、追い求めることではないかと思う。

もし信者が、キリストの命の豊かさに向かう過程で、暗闇の軍勢のささやきに耳を貸して、恐れに駆られ、神の愛を拒否して、自分で自分を義としようと努力したり、世間体を整えるための自主規制の方向へ向かったりして、キリストの用意して下さった無尽蔵の富を拒否して、自分で自分を支える生き方へ逆戻ったとしても、その偽りに気づいたならば、正しい道に立ち戻るだけで良い。それは難しいことではない。

信者の目的は、過去に戻って何かを始めからやり直し、何一つ誤りがなかったかのように外面を正そうとすることにではなく、神が信者に何を願っておられるのか、それに気づいた瞬間から、過去の教訓を生かしつつ、すべての誤りが血潮によってすでに覆われていることを信じつつ、大胆に正しいと思う道へ進んで行くことにある。

その正しい道とは、神が人に願っておられる解放であり、キリストのゆえに信者に与えられているすべての権利を信者が完全に自分のものとして受け取り、行使することである。かつては悪魔の囚われ人であり、死の恐怖に支配されていた人が、キリストにあって贖われ、解放され、真の豊かさに至りつくことである。

信者は、目に見えない天の都を目指しているが、この地上においても、来るべき世の前味として、キリストの救い、その復活の命の意味を真に知って、これを信仰により、地上に引き下ろすことができる。人間を悪魔のあらゆる圧迫から解き放って自由とし、「乳と蜜の流れる地」へ導き、真の豊かさにあずからせようとしておられる神の御思いを生きて体現するために、信者はこの地上においても、真理を毀損しようとする嘘を退け、どんな圧迫があっても、決して屈することも、妥協することもなく、目的地にたどり着くまで何があっても諦めないという決意を徹底的に固め、貫く必要がある。

この世の識者や権威者が何を耳元で囁こうと、それには関係なく、御言葉は、信者にこの世の圧政からの完全な自由と解放を約束してくれている。キリストの十字架の贖いによって、彼の命の豊かさにあずかる権利は信者自身のものである。イエスは羊に命を与えるために、しかも、豊かに与えるために来られた。そこで信者は、神が約束して下さった解放と豊かさを見るまでは、決して後に退かず、暗闇の勢力からどんな圧迫や反対があろうとも、決して屈することなく、徹底的に目的を目指して歩み続ける必要があるのだ。

2016年5月17日 (火)

カルト被害者救済活動の反聖書性―キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動③

7.キリストの十字架によらず、肉による善行を通して、人が自力で救済に至ろうとする偽りのヒューマニズムは、「神に見捨てられた罪人を、神の十字架の判決から救う」ための「神に対する被害者運動」である


さて、記事「カルト被害者救済活動の反聖書性について―キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動➀」の中では、キリスト教の不祥事につまづいたことをきっかけに、キリスト教の「二分性」や「排他性」につまずき、これを「思い上がって狭量な救い」として非難して、聖書の御言葉の否定に至る人々がいることを書いた。

カルト被害者救済活動に携わる人々が、特にプロテスタントのクリスチャンを「高慢」や「自己愛」などという言葉を用いて盛んに非難する背景には、聖書の御言葉が本質的に持っている排他性に対する抗議の念が含まれている。つまり、彼らは信者に抗議しているのではなく、聖書の御言葉に逆らっていることを見て来た。

ここから、聖書の二分性を否定する東洋思想の恐ろしさについて述べたいのだが、その前に、偽りの救済活動の持つ「高慢さ」について、さらに少し補足しておきたい。

幾度も書いて来たように、上記のような人々には、キリスト教の福音が、多くの人々を排除する残酷で狭量で反人間的な「排除の論理」であると述べて、キリストの達成された御業だけに頼ろうとせず、そこに人間の努力による自己救済という要素をつけ加え、よりヒューマニスティックな福音を作ろうとして、最後には聖書の御言葉に逆らって、これを否定して行というく特徴がある。

彼らは、神の救済を退けて、己の肉を高く掲げ、肉による善行を通して神に至ろうとする高慢に陥っているのだが、それが自分では分からないのである。

キリスト教界においては、一方では、組織に所属し、礼拝儀式への参加や、様々な奉仕活動を通して神に至ろうと、己の外面を磨き、肉の善行により頼む人々がいるかと思えば、その対極には、カルト化した教会で被害を受けた人々を救おうと、善良な救済者を名乗って登場し、やはり肉の行いにより頼んで人間を救おうとする人々がいる。

それらは対極にあるように見えて、どちらも同じように、キリストの十字架を抜きにした人間の自己救済の努力としての偽りのヒューマニズムである。これらは聖書に立脚しておらず、御言葉を曲げているという意味において、本当はキリスト教と呼ばれるべきではない。こうした活動の最たる特徴は、信者を決してキリストだけに導いて自由へ至らせることなく、むしろ、人間が作り出した様々な支配関係・依存関係の中に閉じ込めてしまう点である。

一方には、教会籍を作り、信者を組織としての教会に束縛し、キリストではなく目に見える人間である牧師という指導者に従わせ、指導者を絶対化する制度があり、他方には、自称救済者である指導者が、「教会で被害を受けた」とする信者たちを集めて自分に従わせ、離反者には容赦なく制裁を加え、離脱を許さない閉鎖的なカルト被害者救済活動がある。

筆者はこれらの二つの活動が、ともに聖書の本質から逸れて堕落した地上組織としてのキリスト教界の産物であって、根本的に同一の起源から出てきていることを指摘して来た。

これらはどちらも、聖書の御言葉を曲げて、キリストではなく人間の指導者を崇め、人が己の肉により頼んで自己救済を図るところから出て来た活動であり、本質的に聖書に反している。だが、今日、キリスト教と呼ばれているものの99%以上は、こうした活動で占められており、無知ゆえにそれに欺かれているだけの人々が、ことさらに罪に問われることはないようにと願う(だが、彼らの人生の損失は非常に大きいものと思うが)。

いずれにしても、そのようなものが聖書の御言葉の本質でないことは確かであり、そうである限り、本気で真理を求める人々が、そのような皮相な活動を離れて、神を尋ね求める例はこれからも現れるだろう。キリストのお与え下さった自由を生きて知るために、そうした虚偽の活動を離れ、人知れず、荒野を通るようにして、キリストご自身以外に頼るもののない状況で、この方だけにより頼み、御言葉の真実さ、確かさを生きて知るための訓練を受け、神の熟練した兵士となって、神の約束して下さった御国の前味を生きて知り、御旨を地上に実際に引き下ろす人々が現れるだろう。

必ず、神はご自分の民を用意しておられる。この先、どのような時代が来て、拙稿がどれほど役に立つのかは分からないが、筆者がしているのは、主の民のために道を整えるために、これまでに達し得たすべての教訓を残すことである。拙稿をたたき台として踏み越えて、さらに前進して行く人も現れることであろう。

さて、話を戻せば、以上に挙げたように、神の知恵に逆らって、生まれながらの人間の肉を高く掲げる人々は、当然ながら、神に対してのみならず、人に対しても高慢になる。

筆者は、これまで奉仕精神にあふれたクリスチャンに幾人も出会った。困っている人々を見ると助けずにいられず、自分の知っている真理を人にも分かち合わずにいられない、といった人々で、必ずしも、「善魔」と呼ばれるような、押しつけがましい奉仕者ばかりではなかった。

だが、たとえどんなに彼らが謙虚に人助けに邁進しているようであっても、そこにはどうしても、彼らが自分では気づいていない密かな高慢さとナルシシズムの落とし穴が存在することを筆者は常に感じずにいられなかった。

それは、彼らが神の御前で自分こそが欠乏を抱え、自分こそが問題を抱えている張本人なのだという事実を見ることを否み、自分の問題を他者に転嫁し、他者を救済することで、自己救済をはかろうとしているという自己欺瞞である。そういう人々に対しては、

「なぜ、人を教えて自分を教えないのか。」(ローマ2:21)という一言に尽きるだろう。

「イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」」(ヨハネ9:41)

上記のヨハネの福音書の御言葉は、イエスが盲人を癒された時に言われた言葉である。だが、これは、盲人という障害者に対する健常者の差別を非難して言われた言葉ではない。この言葉は、「社会的弱者を見下してはいけません」という観点から述べられたものではなく、神を見下している人々に向かって述べられた非難の言葉である。すなわち、イエスは、偽善者たちが(人に対してではなく)神に対して「私は見える」と言い張っているところに罪があると非難されたのである。

肉による善行とは、結局、己を神以上に高く掲げ、神以上に自分が正しいと言い張り、神の最善としてのキリストの十字架の救いを退けて、人が自分自身の努力によって神に至ろうとするすべての努力を指すのである。その中には、当然ながら、カルト被害者救済活動のように、まことの救い主である神を退けてまで、己が救済者になって人助けにいそしもうとする人間の高慢さも含まれている。

このように熱心に人助けにいそしんで救済者や指導者になりたがる人々は、一様に言う、「私には分かっている」、「私は知っている」、「私は人に教えてあげられる」、「私はあなたの状態を見て可哀想に思う」云々。一見、人を助けると見せかけて、弱さを抱えた人をどこまでも見下し、自らの栄光の道具として行く人々の口調に見られる高慢な響きは、杉本徳久氏の書簡を読むだけで十分である。

彼らは外見的には、困っている人々を見捨ててはおけない隣人愛に溢れた謙虚な人間を装い、教会にも熱心に通って敬虔なクリスチャンのように振る舞い、自分の人生においてはあたかもすべての問題に対する解決をすでに得ているかのように振る舞うかも知れない。だが、そのように人前で「完全無欠」を装い、熱心に人助けに励む人間ほど、心の内側では、必ずと言って良いほど、マザー・テレサ同様に、神が分からない、自分は神に見捨てられているという絶望感や空虚さに苛まれているのではないかと筆者は思う。カルト被害者救済活動の辿って来た道のりが、そのことを十分に立証しているように思う。

他者に対して救済者になりたがる人々というのは、欠乏を抱えて道に迷い、困窮して「可哀想な」弱者とは、常に自分ではない他の誰かであると考えて、他者を心密に見下しながら、同情の眼差しで見、上から手を差し伸べようとする。

このような人々は、他者を「救済する」という口実に自分自身が欺かれており、人助けを口実として、自分が常に他者よりも優位に立って、人間関係において主導権を握り、相手を支配して行こうという願望をかなえようとしているだけであることに気づかない。「救済する」側の人間は栄光を受け、感謝され、脚光を浴びるが、「救済する者」と「救済される者」との間には、圧倒的な力の差が出来、その溝はいつまで経っても、決して埋まらない。これは霊的搾取に基づく支配関係である。

そのようにして、彼らは巧妙に他者の尊厳を貶めながら、真の救済者である神を押しのけて、自分が救済者を名乗り、神から栄光を奪っているのである。なおかつ、そうして他者の問題ばかりに注目し、他者に同情し、謙虚に手を差し伸べているように見せかけながら、密かに優越感を味わい、自己の抱える本当の問題や必要から目をそらし、神を抜きにして自己をあたかも完全であるかのように思い込もうとしているのである。

こうした人々は、自分の問題を決して訴えようとしないので、傍目には、謙虚に隣人愛に生きているように見えるかも知れないが、それはただ自分の内心の問題に目をつぶり、これを他者に転嫁して、自分の問題を、他者の問題として訴えることで、自分はあたかも己の利益のために行動していないかのように装っているだけである。

どんなに人助けにいそしんでも、依然として、彼らの注意は人間にしか向いておらず、キリストに向いていない。そうである以上、そのような活動に没頭すればするほど、ますます神の臨在を感じることもなくなり、神が分からないという絶望感に陥るのは当然である。

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。」(Ⅱコリント3:16)

マザー・テレサは50年以上も神の臨在を全く感じられない「神の不在」の中にあった。単に霊的な交わりを一切感じられなかっただけでなく、神そのものが生きて実在しておられると信じることさえできないほどの絶望にあったようである。他人に神の愛を伝えておきながら、自分自身は神の愛が分からないというのでは、本末転倒ではないだろうか。どうして自分が分かっていないことを、人に教えられるのだろうか。理解することもできないほどの衝撃的な自己矛盾であるが、ここに筆者は、カルト被害者救済活動の支持者らとの共通点を見ずにいられない。すなわち、自分を差し置いて、救済されねばならないのは他人だと考えて、人助けにいそしむ人々の高慢さというものを見ずにいられないのである。

さらに、彼らの人助けなるものも、本当は、世間で賞賛と共に理解されているようなものとは、全く違ったものであった。それは結局、キリストへの信仰を持たない、神に見捨てられた人々を、同じように神に見捨てられた人々が、聖書とは別の方法で「救済」しようとするという意味において、神に逆らう高慢な反聖書的な活動だったのであり、パウロの指摘した「神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶり」(Ⅱコリント10:5)にあてはまるものと言わざるを得ない。

マザー・テレサはインドの「貧しい人々の中にキリストが臨在しておられる」と述べて、信仰を持たない人々の内に「キリスト」を見いだせると主張した。だが、このことは、彼女が聖書の御言葉を曲げて、信仰を持たなくても人が救われてキリストに至ることが可能だとみなしたことを意味する。こうした彼女の主張は、ちょうどカルト被害者救済活動が、信者よりも、不信者をより多く引きつけたのと、よく似た構図を持つ。彼らの人助けは、根本的に、信者のためのものではなかったのである。むしろ、それは神が十字架で罪に定め、廃棄するしかないという宣告を下された、信仰を持たないアダムに属する古き人(旧創造)を、神が唯一の救いとして定められたキリストの十字架から救おうとする活動だったのであり、「神に見捨てられた罪人・弱者を神の残酷な死刑判決から救うための、神に対する被害者運動」だったのである。

そのような意味で、これは聖書をさかさまにして、キリストの十字架を通して、神が定められた罪と死の判決から、哀れな人類を救おうとする、神を仮想敵とする、神に対する人類の被害者運動だったと言えるのであり、決して聖書の御言葉を介さずに、キリストの十字架を経由することなくして、人類を神による罪定めから解放し、人間がまことの神を退けて自力で神に至ろうとする(神の座を奪おうとする)点で、神に対する反逆運動だったと言えるのである。

そうである以上、こうした活動が人に自由をもたらすことは決してない。実際に、これは全く人助けなどではなく、あたかも人助けのように見せかけながら、人を不自由な人間関係の序列の中に束縛し、決してそこから逃がさずに、人の栄光を築き上げる道具として閉じ込める偽りの支配関係・依存関係なのであり、その残酷で不自由な支配は、この活動の虚偽を見抜き、それに反対を唱えて離脱しようとする人々が現れた時に、根こそぎ明るみに出た。カルト被害者救済活動の支持者が、この活動の危険を訴えたり、反対する者に対して、何をして来たかはすでに幾度も明らかにした通りである。

こうして、弱者救済活動に関わる人々の心に潜む、高慢さと歪んだ自己愛、さらにもっと言えば、権力欲、名誉欲、支配欲といったものが確かに存在することを筆者は考えないわけにいかない。だからこそ、一見、人の目には美しく見えるこうした弱者救済活動の持つ聖書に反する本質的な危険性について、再三に渡り、訴えないわけにはいかないのである。

さて、神を知るためには、信者がこうした偽りの運動によって身を飾ろうとすることをやめ、何よりも人の方ばかりを向くのをやめて、神の方を向くしかない。

「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。」(ローマ2:4)

新約に出て来る神のぶどう園を企業にたとえてみたい。神はある日、ぶどう園運営会社で働いていた全社員の働き方を見て、全員の解雇を決定された。これら全社員は、今や横領と背任の罪で告発されている。神は、ご自分に完全に忠実な新しい指導者を会社に送り込んで、己の罪を認めてこの新たな指導者に従う人間だけが、社員であり続けることができるという規則を定めた。社員が解雇されない道は、この新しい規則に服することしかない。すでに新しい規則に基づいて新入社員の受け入れも始まっている。なのに、会社には依然として、この新しい規則を拒んで、新しい社員をいわれなく攻撃しては排斥し、神が立てられた新しい指導者をも拒んで、罪に問われている古い社員を擁護して、彼らを残酷に排除された「被害者」であると主張して、「残酷な排除の論理」である新しい規則に逆らって、古い社員の「救済活動」を繰り広げている人々がいる。だが、そんなことをして何になるのか。それは救済ではなく反逆である。それは神のぶどう園の乗っ取り計画である。そのように、神を罪に定め、神の憐れみによって与えられた唯一の解決をも退けてでも、罪人を復権させようとする悪人どもは、根こそぎ解雇された上、監獄にぶち込まれるであろう。

神が人類全体を罪に定められた以上、人類(旧創造)の利益にこだわっても無意味なのである。キリスト者は、罪に定められた旧創造としての人類を擁護し、旧創造の思惑を忖度するために生きるのではなく、これをすべて退けてでも、神は一体、何を望んでおられ、神の目に真に価値あるものは何なのか、それをこそ考え、追い求め、実現するために生きている。

そのために必要なのは、信者が、神の御前で自分の無知を偽らず、自分が神の御前で貧しい者であることを認め、真理を求めて絶えず神に近づきたいと願うことである。自分自身の心の欠乏を他者に投影・転嫁するのではなく、人の問題にかこつけて願い出るのでもなく、強がりを捨て、素直に自分の必要を認めて、あらゆる問題について神に正直に打ち明けて助けを乞うために、自分をさらけ出して神に真剣に向き合い、心のすべてを持って誠実に語り合い、懇願するしかない。

「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る軟膏を買いなさい。
わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」(黙示3:17-19)

この終わりの時代、本気で神に従い抜きたいと願うなら、どの信者も信仰を守るためにそれなりの戦いを余儀なくされるものと筆者は考えている。パウロでさえも書いている、「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。」(Ⅰコリント9:27)と。

パウロでさえこのように言わなければならなかったのであるから、今日の信者が、キリストに忠実であり続けるために何の覚悟も要らないというわけにはいかないだろう。

確かに、信者がキリストの十字架を信じ、救われている事実は永遠に変わらない。我々の内におられる方は「世に勝った方」であり、この世の君であるサタンよりも強いのである。そして、キリストから生まれた者たちも、この世よりも強いのである。だから、勝利は常にキリスト者のものである。

「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)

「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。
なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(Ⅰヨハネ5:3-5)

だが、その勝利は、信者が生きて御言葉を信仰によって実際にこの地に引き下ろすことなくして、世に現れ出ることはない。そのために、信者はのんきに悠長に構えているわけにはいかないのである。もし御言葉を実際としたいならば、日々、自分の十字架を負って、自己を否んでキリストに従い、御言葉の内にとどまり、これを守らなければならない。

神の御前で真に「豊かな者」となるために、自分が貧しい者であることを認め、神に叱られたり、懲らしめられたりしながら、あらゆる試練を潜り抜けて、より御言葉のリアリティの中に入り込んで前進し、やがて勇敢で強い兵士になって、御言葉を毀損するこの世のあらゆる偽りと高ぶりを打破し、キリストが十字架で取られた勝利をこの地に実際として打ち立てて、復活の領域を押し広げて行く必要がある。

このような戦いの中で、神に絶えず知恵と助けを求めて近づく必要を覚えない信者がどこにいるだろうか。だが、自分自身を偽って、神と人との前で、「私は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もない」と言い張っている人間だけは、例外である。

彼らは神と人との前で自分の無知を認めることもなく、自分の弱さを認めてキリストに助けを乞うこともなく、自分の内側にある問題を神に正直に打ち明けることをもしないで、あたかも自分には何の不足もないかのように装い、自分の抱える見たくない問題には一切蓋をしながら、他者の問題だけにスポットライトを当て、容赦なく人の問題を暴き、他人の窮状について言葉を尽くして語りながら、それがさも隣人愛であるかのように偽り、神と人との前で自己を偽り、自分は優れて立派な人間であるかのように取り繕う。

このようなやり方では、どんなに他者をたくさん助けて感謝されてみたところで、彼ら自身の抱える心の必要性は永久に忘れ去られ、放置されたまま、誰にも振り返ってもらえず、置き去りにされるであろう。そのためにこそ、彼らの心の内側には、「自分は神に見捨てられている」という絶望感・空虚感が人知れず日々増し加わって行くのである。

そうして、人に宣べ伝えておきながら、自分自身は救いの対象外であり、自分の問題は永久に見捨てられており、解決されることもないという癒しがたい孤独と絶望感から目を背けるために、彼らは日々より一層、熱心に人助けに励み、自分の問題を他者に転嫁せずにいられなくなる。そうして、同じように「神に見捨てられて理不尽な状況に陥っている可哀想な弱者」(ほとんどが不信者)のために東奔西走することで、まことの救い主である神を否定し、神の栄光を盗みながら、神に見捨てられた旧創造の代表として、「生まれながらの人類を罪に定め、救いから排除した残酷な神の横暴さと理不尽」のゆえに神に抗議活動を続けるのである。

このような堂々巡りの罠にはまってしまうと、助ける側も、助けられる側も、永久にその偽りの救済活動が作り出す依存関係・支配関係の癒着から抜け出せなくなる。これこそが、謙遜とヒューマニズムに見せかけた、神によらない人類の絶望的な自己救済が生み出す高慢さと自己愛とナルシシズムの道である。

だが、主イエスの御言葉は、決してこんな恐ろしい不自由な束縛の中に人間を閉じ込めることはない。キリストご自身が、信者にとってすべての解決であり、まことの命であり、救い主であり、カウンセラーであり、弁護者である。従って、この方を内に得ている以上、信者はすべての必要をこの方のところに持って行き、解決をいただくことができるのであり、地上の誰にも助けを求めて走り回る必要がなく、神の地位を奪って「救済者」を名乗る人々に、栄光をかすめ取られ、道具とされる必要もないのである。

信仰の戦いをどう戦いぬくかという問題についても、あの指導者、この指導者のもとへ行かずとも、内なる油塗りであるキリストの御霊を通して、信者は必要な真理を十分に教わることができる。真理の御霊が内におられるからこそ、信者には自由があるのであり、どのように御言葉の内にとどまるかを理解するために、人の助けを求め、人の知恵に依存する必要がないのである。

「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:31-32)

「あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、――その教えは真理であって偽りではありません。――また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。」(Ⅰヨハネ2:27)

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2016年5月16日 (月)

カルト被害者救済活動の反聖書性―キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動②

5.神の知恵である御言葉に逆らって、キリストの十字架を否定し、人が己の努力によって自力で救済に至ろうとする「高慢さ」

さて、前稿では、杉本徳久氏のようなカルト被害者救済活動の支持者らも含め、「プロテスタント信者特有の鼻持ちならない高慢さとナルシシズム」を持ち出して信者を非難する人々が、結局は、聖書の御言葉の「二分性」や「排他性」につまずいて、「狭き門」としてのキリストの救いに抗議していることを見て来た。

だが、ここにはさらにもう一つ大きな重要なポイントがある。

それは、信者に対する彼らの非難が、自力で救済に至ろうとしてもがき苦しむいわゆる「クルシチャン」の生き方と訣別して、御言葉を信じて、キリストの達成された御業に安んじ、「命の御霊の路線」に生きるクリスチャンに対する、暗闇の勢力からの全力を込めた妨害だったという点である。

ちなみに、筆者自身は「自己愛の病理」という言葉を使って記事を書いたことはないが、このテーマで探せばすぐに見つかるのは、KFCのドクター・ルークの次の記事である。

自己愛の病理を脱する十字架の道

記事内容は以下にも引用するが、これを読めば、カルト被害者救済活動の支持者たちや、前述の記事で挙げたブログ主の信者への非難は、ルーク氏の記事をそっくり裏返しにしたものであることが分かる。

筆者は、KFCやルーク氏の主張に対して全面的に賛同できない数多くの点があるので、この記事についても、細かい注意点を以下に詳しく記している。筆者が、ルーク氏の見解に注意が必要であると考えるのは、同氏の見解が、常に心理学とペンテコステ運動と聖書の御言葉に基づくキリストの御霊の働きとの混合になっていると思われるからである。(これについての詳細な分析は別稿でも行う。)

たとえば、「自己愛の病理」などという単語自体が、聖書に由来するものではなく、前の記事で示した元信者と同じように、心理学を模して造られたルーク氏の造語である。

だが、この造語の是非の問題は今はあえて脇に置いて、大筋でこの記事をとらえたい。要するに、同氏がこの記事において「自己愛」という言葉でバッサリと断ち切り、退けているのは、キリストと共に十字架の死を経由していない人間の生まれながらの古き人(自己)であり、また、この古き人を十字架を回避して生き永らえさせようとする、神の御言葉に逆らう人間の高ぶりとしての各種の努力のことである。

同氏は記事で言う、現代人は、自分で自分の問題を解決しようと必死の努力を重ねて生きており、クリスチャンもそれが信仰の道だと考えて、各種の自己改善の努力を必死で重ねているが、それこそ、神の御言葉に逆らって、人が自力で自分を救おうとする「自己愛の病理」であると。そうした努力は、神の一方的な恵みとして与えられたキリストの救いを退けて、人類が自らの力で自己義認し、自己救済に至ろうとするむなしい絶望的な努力なのだと。

キリスト教界においては、今日も、この種の人間が自力で自己を救済して神に至ろうとする絶望的な努力が絶え間なく続けられている――たとえば、礼拝儀式の順守義務、献金や奉仕の義務、良いクリスチャンであると人にみなされるために必要な一切の外面的・道徳的要素を整えるための果てしない努力の義務、そこには、むろん、カトリックで重んじられている社会への熱心な奉仕活動なども含まれる。

こうして「クリスチャンらしい外面」を整えるための果てしない「義務」を守ることこそ、あたかも信仰生活の根幹のように多くの人たちに誤解されているのだが、実際には、それらは聖書の御言葉の周りを包む飾り物のようなものに過ぎず、御言葉に基づく神の霊的な事実とは本質的に何の関係もない。

これらの活動はすべて、神ではなく人間の方を向いており、人間を満足させることを目的として作り上げられた活動に過ぎない。いかに神を口実に用いていても、荘厳で立派な礼拝儀式さえ、宗教指導者及び信者の「宗教的気分」を演出するために整えられるものであり、そのような儀式は、「霊とまこと」による礼拝(ヨハネ4:24)の本質ではない。それらの目に見える立派な全ての外面は、御言葉の本質ではないので、どんなにこれを整えても、信者は決してそれらの行いによって神に近づくことはできない。

しかも、こうした外面を取り繕い、人の目に優秀で立派な信徒を演じるための各種の努力や義務は、信者自身にとっても、しばしば耐えきれないほどの重荷となっている。

堕落した肉は悪しき行いに従事できるだけでなく、人の目に善と見える行いに従事することもできる。だが、人が神によらずに、己の生まれながらの力に頼って成し遂げようとする行いは、たとえ人の目にどんなに良さそうに見えても、すべて腐敗している。「肉にある者は神を喜ばせることができません」(ローマ8:8)

肉による善行は、人の目には立派そうに見え、「宗教的」に見えるかも知れないが、キリストの十字架の死に至らない人の生まれながらの命の生んだものは、すべて神の御前に無価値である。信者がクリスチャンらしい外面を取り繕うための各種の努力は、人間が獲得してもいない「神の聖」をあたかも獲得したかのように、もっともらしく演出して見せかけるための装置のようなものであり、人が神ではなく自己を喜ばせるために作りだした偽りであり、どこまで行っても偽善でしかない。

また、クリスチャンの信仰生活とは、何か人の目に優れて道徳的に立派な生き方をして、人類社会に奉仕し、人々に賞賛されることを目的とするものではない。宗派を問わず、キリスト教からは絶えず、社会的弱者や、困っている人々を「救済しなければならない」という強迫観念にとりつかれた人々が多数、現れて来たが、これもまた往々にして神を抜きにした人間の自己救済の活動を生んできたのであり、弱者救済のための社会奉仕活動が、聖書の御言葉の本質なのでもない。

さて、ルーク氏の記事は、信者が肉によって自己改善しようというむなしい努力を手放して、自己をキリストと共なる十字架における死に同形化し、自分ではなく、キリストがすべてを達成されたという事実に安息して、そこから信仰によってすべての解決を実際に引き出すよう奨励している。

クリスチャンは自力で神の聖に至りつくための必死の自己義認の努力を放棄して、この果てしない努力の結果、ただ罪に定められるだけのむなしい『善悪の路線』を離れて、キリストの成し遂げて下さった救いの御業から、すべての必要を引き出す『命の御霊の路線』に移行しなさいと告げているのである。

この点において、筆者は記事の趣旨に大筋で異議を唱えるつもりはなく、これは極めて重要な事実を信者に告げた警告であると思う。

ちなみに、この論考は「恵みの雨」2001年9月号に掲載されたようであるが、当時、キリスト教界に投げかけられたルーク氏の主張は、多くの信者にとって非常に画期的な意味を持っていた。それは同氏が、人間側の努力によって築き上げられる一切の熱心な宗教活動が、神を喜ばせることのできない堕落した肉に由来するものであり、聖書の御言葉の本質から遠くかけ離れ、御言葉を歪める偽りであることを指摘して、キリスト教界全体を覆っているこの偽りを聖書の真理に立って鋭く糾弾したからである。

同氏による「キリスト教界からエクソダスせよ」との呼びかけも、腐敗堕落した教会や、自己の努力によって神に至ろうとする偽りの体系としてのキリスト教界と訣別すべきであるという趣旨で述べられたのであり、前の記事で挙げた元信者の例に見るように、聖書の御言葉やキリストの福音そのものを拒んで「脱福」することを全く意味しなかった。

キリスト教界からエクソダスするとは、クリスチャンが自分や他人の状態を自分で何とかして改善しようと叫び、もがき、苦しみながら、絶望的な努力を続けるという、むなしい自己主張――ルーク氏の表現によれば、自分で自分の髪の毛を引っ張って空を飛ぼうとするような無意味な努力――をやめて、御言葉の実際に入り込むことにより、神の側から達成された恵みに立って、そこから、信仰によって、すべての必要を引き出す秘訣を学ぶようにということであった。

このような同氏の呼びかけは、当時、教会で要求される数々の奉仕の義務や、クリスチャンらしい外面を整えるための果てしない努力に疲れ果てていた数多くのクリスチャンに多大な影響を与え、多くの信者らが、自分に無理な要求を突きつけては挫折感に苛まれるだけの「善悪路線」の誤りに気づき、そこから抜け出して、真にキリストの命の豊かさを知ることのできる「命の御霊の路線」に立ち戻る必要性に気づいたのである。

また、同氏は、キリスト教界における様々な儀式や奉仕という、人が自力で神に至るための各種の努力を否定したのみならず、キリスト教界のカルト化という問題についても、カルト被害者救済活動の支持者のように、信者が自分の受けた「被害」を訴えることにより、人間側の利益だけを回復することを目的に活動することの無意味さを主張した。

つまり、カルト化の問題は、人が「私は腐敗堕落したキリスト教界によって傷つけられた被害者だ」と主張して、教会と信者と神に抗議して、自分の権利回復を目指すことでは絶対に解決しない。むしろ、人間が自分の利益が失われたこと嘆くのではなく、「聖書の真理が損なわれて、神の利益が損なわれた」という観点からこの問題に向き合い、神の御心に照準を合わせ、キリストの十字架に立ち返り、より御言葉を実際として生きねばならないと提唱したのである。この点では筆者もほぼ見解を同じくしている。

特に、終わりの時代に、「セルフではなくキリスト」を選ぶことができるかどうかが、クリスチャンの歩みを決定的に分けるだろうとの同氏の予測には、筆者は今も同意するのであり、そこからキリストの十字架に敵対して人の生まれながらの自己を延命させようとすることが、あらゆる異端思想の基本構造であることに気づき、その思想の危険性を述べねばならないと思い至った。

キリスト共なる十字架の死と復活に共にあずかること、それがなければ、信者の信仰生活は始まらない。十字架の死未満のところでは、どんなに人が一生懸命にもがいても、その努力が霊的な実を生むことはないのである。

以下の記事には、「なぜ聖書66巻だけが神の霊感を受けた書物であるのか。どうして証明の方法がないのに、御言葉は絶対的に正しいと言えるのか。」という、前稿に登場した信者の問いに対する答えも含まれている。それは、霊の機能と魂の機能の違いを理解すれば解ける問題である。

それほど長くないので、全文引用しておく。注釈は以下に述べる通りである。

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2016年5月15日 (日)

カルト被害者救済活動の反聖書性―キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動➀

(これはホームページに掲載する予定の論考の一部です。)

大いなるバビロンからの脱却 反キリストの原則の明確な発展
――カルト被害者救済活動の反聖書性について――
~キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想に回帰する危険な運動~

1.キリスト教に恨みや被害者意識を持つ不信者を利用して、キリスト教の信用を貶め、聖書への信仰を毀損するために作り上げられた「カルト被害者救済活動」

2.キリスト教そのものに「カルト化」を生む病理が含まれているかのように唱える人間は、聖書の御言葉への信仰を否定し、神に敵対することになり、その結果、自らが「病理の見本」と化す

3.聖書の御言葉への信仰を「高慢さと自己愛の病理」として非難する人々は、キリスト教界のカルト化問題につまずいているのではなく、聖書の御言葉の「排他性」につまずいている。

4.キリスト教の「二分性」、「排他性」につまずいた人々は、キリストの十字架を否定して、聖書に基づかない「異なる福音」を捏造する。

5.神の知恵である御言葉に逆らって、キリストの十字架を否定し、人が己の努力によって自力で救済に至ろうとする「高慢さ」

6.魂と霊を混同し、信仰によらずに、感覚的な陶酔によって霊の事柄をわきまえようとするペンテコステ運動の危険
 
7.キリストの十字架によらず、肉による善行を通して、人が自力で救済に至ろうとする偽りのヒューマニズムは、「神に見捨てられた罪人を、神の十字架の判決から救う」ための「神に対する被害者運動」である

8.御言葉(十字架)の「二分性」、「切り分け」の機能に基づき、信者が目を覚まして、真理と偽りとを峻別する必要性

9.十字架の「切り分け」を否定する者は、己を神として神への反逆に至る

10.キリスト教の「二分性」を否定する者は、「唯一の神」を否定して、主客の区別を否定する。そして、知性による全ての区別を廃した「善悪未分化の母なる混沌」への「嬰児的回帰」を主張する。

 

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2016年5月 9日 (月)

この世を無罪放免しながらキリスト教徒を断罪する村上密氏と杉本徳久氏の活動の危険②

2.この世の常識によってクリスチャンを罪に定め、クリスチャンを裁判にかけることで、キリスト教徒を弾圧し、霊と肉の秩序を転倒させることに喜びを見いだすカルト被害者救済活動の異常な支持者たち 

2-1.この世の不信者を動員して信者を恫喝して黙らせるカルト被害者救済活動の手口

さて、カルト被害者救済活動の根底に流れる異端思想については、別稿でも詳述する予定であるが、私は異端思想の総称を「東洋思想」と呼べるのではないかと考えている。

東洋思想は日本人には極めてなじみ深いものであり、それは神と人との断絶を認めないことから始まって、キリストの十字架における分離と切り分けを否定して、全体と切り離された個人というものを認めず、個人を「母なるもの(全宇宙)」や「全体」(社会、家族、国家、世論、空気、すなわち最終的には「この世」)の一部とみなす。

この思想は、人間が罪によって神と断絶したことを認めず、被造物の堕落を認めないので、神と宇宙は一つであり、人はこの宇宙と切り離されることなく、それに生まれながらに包含されるという考え方に貫かれており、そこで、宇宙には神が満ちているというとか、木や石にも神が宿っているとか、人も生まれながらに神であるとか、目に見えるものはすなわちみな神であるという汎神論的な考え方を生む。
 
このような考え方は、見えるものすべてを高く掲げ、人間の罪や堕落といった考えを否定するので、人の耳には心地よく響くかも知れないが、結局、神と人との断絶を認めず、被造物の堕落を認めない思想は、個人を全体から分離することや区別することも否定して、人を堕落した「この世」に永久に閉じ込めて束縛し、決してそこから外に出そうとしない点で、恐ろしい思想なのである。

しかし、日本人は古来からこのような思想に慣らされているので、物心ついた時から、全体の中で自分が何らかの役割を果たすことによって、初めて個人としての評価を得られるという考え方をすりこまれている。

ゆりかごから墓場まで、日本人は、絶えず社会や集団における人間関係のヒエラルキー、縦の序列の中で、自分よりも強い立場にある人間に積極的に奉仕し、権威者から覚えめでたい人となり、優秀だという評価を得なければ、自分が人としての価値を失うかのような恐れに縛られて生きている。そのような恐れを人に抱かせるためのシステムがこの世に出来上がっている。

そこでは、個人の尊厳というものが、社会全体においてその個人が果たす役割(あるいは貢献度)を基準としてはかられるのが当然視されているため、個人の尊厳というものが、そもそも他者によって外から評価されたり付与されるべきでなく、個人の尊厳とは、個人が生まれながらにして持っている絶対的な価値だとみなす考え方がないに等しい。

このようなシステムに従って生きている人は、集団と切り離されたところで、集団の中で何の役割も担わない個人というものを考えることができず、自分の価値を、自分を取り巻く集団における自分の有益性という外側からの評価と切り離して考えることが極めて困難である。

そこで、ほとんどの人は、外面的な評価を得るための競争に絶えず踊らされながら、大変な努力をして何かを達成しても、それによって満足することもなく、さらに多くの人々を凌駕して、さらに多くのものを手に入れなければ、自分の価値を確信できないという不安と焦燥感に追い立てられている。

クリスチャンは、曲がりなりにも、このような弱肉強食の世が堕落しており、この世で尊ばれているものに価値がないこと、また、人間が堕落した罪深い存在であり、キリストの救いを信じることなくしては、神と断絶していることを知っている。そして、キリストの十字架を信じることにより、信者が罪から贖われ、キリストの義を着せられ、堕落した「この世から召し出された」ことを知っている。この召し出された人々が、神の教会なのである。

召し出された人々は、この世の価値観とは違った価値基準によって生きている。神を信じる以前のように、この世の人々からどう評価されるかという恐れに縛られ、人の目により評価されるべく努力して生きるのではなく、神の目に喜ばれ、評価されることが、クリスチャンの新しい人生の目的である。
 
クリスチャンは世から召し出されたがゆえに、自分がこの世からは激しい憎しみの対象となっていることをも知っている。この世の君は、「空中の権を持つ君」、すなわち、サタンであり、この世の世論、社会の動向、世界の情勢、目に見える世界を直接、支配しているのは、悪魔なのである。しかし、この世にあるものは、必ずしも人の目にすべて悪く見えるものばかりでなく、良識や善と見えるような、良さそうなものも多く含まれており、こうした見せかけの偽善的な道徳や、見せかけの良識を巧みに利用しながら、悪魔はこの世という巨大な偽りの体系を築き上げているのである。

生まれながらの人々は、この世という体系が偽りであり、堕落していることを理解できない。たとえ何かがおかしいと気づいたとしても、罪のゆえに、彼らはこの世の奴隷とされており、死の恐怖のために逃げ出すことができない。

しかし、クリスチャンは、この世の暗闇の圧政から救い出されて、キリストの霊的統治のもとに置かれているため、悪魔がその支配を及ぼすことのできない領域にいる。それゆえ、信者は暗闇の勢力と彼らの支配する「この世」からは激しい憎しみの対象となっており、暗闇の勢力は何としても、この世から召し出された信者を、再びこの世の奴隷に戻そうとたくらんでいるのである。

聖書は、再三に渡り、信者がキリストにあって自由を失わず、キリストの復活の証人として立ち続けるためには、この世を愛してはならず、この世と妥協してはならないと警告している。しかし、この世を愛するとは、単にこの世の富を愛するだけでなく、世からの評価(自己の栄誉)を愛することをも意味する。

もし信者が神がどう自分を評価されるかを気にするのではなく、人の目に自分がどう評価されるかを気にして、この世の人々の批判を恐れたり、人から良い評価を受けたいがばかりに、外面を取り繕い始めると、早速、その人は神に対して生きるのではなく、世に対して生きる者となってしまう。

さて、カルト被害者救済活動に携わる人々は、クリスチャンを信仰の道から逸らすために、「この世」を巧みに利用して、クリスチャンを糾弾する「世論」を作り上げた。そして、この偽りの世論によって信者を圧迫することによって、信者が神ではなく、人(不信者)の目を恐れ、世間の評価を気にしながら生きるように仕向けているのである。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師や、杉本徳久氏のような、カルト被害者救済活動を主導する人々は、「キリスト教界のカルト化問題に警鐘を鳴らす」ことを口実に、キリスト教の信仰を持たない不信者を積極的に動員しては、キリスト教に対する世間の批判的な世論を形成し、キリスト教に対する憎悪と偏見を煽り、裁判などのこの世の強制力を用いて、教会に強制的に介入することを肯定し、「疑わしい」とみなしたクリスチャンを次々とバッシングしたり、裁判にかけることによって、不信者らをクリスチャンに対する弾圧に駆り立てている。

カルト被害者救済活動は、当初、キリスト教界の不祥事の犠牲となった人々を救済することを目指していたが、今やこの活動は、キリスト教そのものに対する憎しみに満ち、キリスト教に対して恨みや被害者意識を持つ人々で溢れかえっている。こうした人々が勝手に「被害」を主張しては、クリスチャンを次々弾圧しているのが現状である。

当ブログで悪質な嫌がらせ工作員として紹介している「さわやか読者」も、カルト被害者救済活動に強い影響を受けた人々から成っているが、この人々は実際にはキリスト教のことを何も知らず、関係者でもなく、部外者でありながら、キリスト教に対する憎悪と不信感から、信者を攻撃しているのである。

このような部外者を積極的に集めては、キリスト教に対するネガティブな世論を作り上げ、それをきっかけに、キリスト教徒への弾圧に乗り出し、自らの活動の需要を世間に訴えて、活躍の場を作り出そうとしているのが、カルト被害者救済活動に携わる人々である。

彼らはキリスト教界の不祥事を大々的に発表し、自ら世間におけるキリスト教のイメージを貶めておきながら、もう一方では、「キリスト教のイメージが世間で低下したので、これを正さなければならない」と言って、キリスト教界を力づくで自分たちの活動の支配下におさめようとする。

こうした活動は明らかにマッチポンプであり、彼ら自身が、自らの活動の需要を作り出すために、キリスト教界のイメージを限りなく貶めているのであり、さらに、信者をこの世の不信者らの圧力の下にひれ伏させるために、キリスト教を非難し貶める世論を作り上げ、本物の信者らを、彼らの作り出した世論に怯えさせ、彼らに従わせようとしているのである。

そのために、至る所で、ほえたける獅子のように暴れまわっては、クリスチャン・ブロガーなどに圧力を加え、信者を裁判に引きずり出し、信仰告白をやめさせ、神を信じ、御言葉に従う人々の信仰生活を妨害しているのである。

こうして、不信者によって信者を取り締まること、この世の霊的盲目にある人々を利用して、信者を恫喝し、怯えさせて黙らせて、神の霊的統治に関する事柄を、この世の悪魔的統治の支配下に置き、目に見えるものと見得ないものの秩序を逆転し、霊と肉との秩序を逆転させ、悪魔的統治を教会の上位に据えることこそ、村上密氏が唱えていた「カルト監視機構」の発想の根底にある恐ろしい思想なのである。
   
堕落した世の影響を聖書の御言葉以上に高く掲げ、信者を御言葉ではなく「この世」の言い分に従わせようとする圧力に、信者は従うべきではない。いかに上記のような活動の支持者らが「この世の常識」をふりかざして、クリスチャンを断罪していたとしても、信者がその言い分に影響され、欺かれるべきではない。

信者が従うべきは聖書の御言葉であって、この世の常識や世論の動向ではない。この世にあるものはすべて神から来たものではなく、サタンこそ「空中の権を持つ君」であり、悪魔こそ、この世を牛耳り、世論を操り、何が正しいことであるか、真理を捻じ曲げて、虚偽をまことしやかに是認する空気を作り出し、多くの人々を惑わしている張本人なのである。

ちなみに、世間に波風立てないことを第一とし、組織の序列に逆らうことを許さず、人にとって耳障りなことは言わず、世の「空気」に逆らわないで、権威者を立てて生きることを奨励する「和の精神」が、人の目に良さそうに見えても、実際には、どんなに危険な思想であるかについては、以下の記事「東洋思想とは何か。その柱は何を再建しようとしているのか」でも少し触れているので、こちらを参考にされたい。 

さて、前の記事「カルト被害者救済活動の暴走 この世を無罪放免しながらキリスト教徒を断罪する村上密氏と杉本徳久氏の活動の危険➀」でも述べたように、クリスチャンは、人の言動の背後に、どういう霊的思想があるのかを鋭く見分けねばならない。キリストの御霊に導かれ、聖書の御言葉に基づいて、これを体現するために生きる人々もいれば、この世には、悪霊の思想を体現し、悪魔の欲望の実現を悲願として生きる人々も存在している。

聖書の御言葉の信用を貶め、その真実性を毀損しようとするすべての思想は、どんなに良さそうな口実を掲げ、この世の常識を装っていても、神から来たものではない。 それはすべて悪魔から来たものであり、反キリストの霊の仕業である。

そこで、「キリスト教のカルト化の危機」を唱えることにより、キリスト教そのものが何かしら不完全で危険なものであって、聖書の御言葉そのものに何か問題があり、御言葉に忠実に生きることが、あたかも「カルト的思考」であるかのように信者に疑わせようとする影響力には注意しなければならない。

キリスト教界に起きている不祥事は、信者が聖書から逸れたために起きたのであって、聖書の御言葉に問題があって引き起こされているわけではない。にも関わらず、不祥事をきっかけに、キリスト教そのものや、聖書の御言葉そのものに疑いを抱かせようとする思想がどこから来たのか、不祥事をきっかけに、キリスト教やクリスチャンを断罪し、罪悪感や、憎悪を抱かせようとするまことしやかな「世論」が、どういう目的で作り上げられたのか、キリスト者は見分けねばならない。
   
こうして一見、「キリスト教の改革」を目指しているように主張しながら、クリスチャンの世論に巧みに偽装して、その実、キリスト教と聖書の信用を貶め、御言葉の真実性を信者に疑わせるために、不信者によって作り上げられた偽りの世論に、クリスチャンは耳を貸すべきではない。そのような「世論」を気にして怯えるべきでもなく、そこで自分が批判されることを恐れるあまり、彼らと歩調を合わせるべきでもない。むしろ、こうした議論が、信者の関心を巧みに神ご自身から、人の思いへと(この世へと)逸らして行こうとするものであることを見抜くべきなのである。
   



2-2.匿名掲示板における不信者の議論にクリスチャンを引きずり込み恫喝する手法

さて、匿名掲示板で行われている議論にクリスチャンが注意を取られることがないように警告しておきたい。多くのクリスチャンが、当初は本気でキリスト教界の堕落を憂い、聖書に忠実な信仰生活に立ち戻ることを提唱していたが、彼らは不信者とのむなしい議論に熱中するうちに、全く違う方向へ逸らされてしまったからである。

彼らは、不信者の議論に気を取られ、時を追うごとにますますこれに深入りして行き、引き返せなくなって行ったのである。彼らを突き動かしていたのは、自分が人々にどう見られるかという恐れであった。この世の不信者たちの間でキリスト教が批判され、信者が批判され、自分が批判されているのを見ているうちに、自分たちの評判を取り返さなければならないという思いに駆られ、いわれなき嘲笑や批判を抑えるために、不信者を説得したり、彼らと交渉しなければならないという誘惑に駆られたのである。

いわば、外見を気にする保身の思いや、誤りを正さねばならないという義務感が、彼らをこのような議論に引き込んでいくきっかけとなったのである。しかし、そのようにしてクリスチャンを自らの信仰告白という最も重要な舞台から引きずり出し、この世の不信者たちのむなしい争いに満ちた議論の中におびき出し、それによって恐れさせ、がんじがらめに縛って行くことこそ、不信者の議論の真の狙いなのである。

このむなしい論争に気を取られ、深入りして行った人々は、唯一の道から逸れ、泥沼の訴訟に足を取られ、以前のような信仰告白を続けられなくなり、帰らぬ人となった。ルーク氏、山谷少佐、坂井氏の例についてよく考えて欲しい。たとえ彼らがあかしを続けているように見えても、そこには以前のような輝きが、以前、最も彼らが真剣に訴えようとしていた主張の核心がない。彼らは、骨抜きにされてしまったのである。

これが、匿名掲示板の狙いなのである。彼らの議論は、暗闇から来たものだが、闇によって光を駆逐するのが、その目的なのである。識者ぶってキリスト教を批判している不信仰な信者たちや、すでにキリスト教に愛想を尽かして部外者となった人々や、世にどっぷりと迎合している不信者らを巧みに利用して、本物の信者を攻撃させては、恫喝によって口を封じ、もしくは、自主規制させることによって、信者に「世の光」を掲げさせまいとすることが目的なのである。

キリスト教を批判することは、一見、キリスト教の改革のために必要な自己反省のようにも見え、そこに識者らのさまざまなもっともらしい理屈が加われば、欺かれる人も出て来るかも知れないが、その実、そこにあるのは、巧みに聖書の御言葉そのものを疑わせようとする誘惑なのである。

真にキリスト教を改革したいなら、聖書の御言葉に立ち戻ることにしか道はなく、聖書の御言葉への忠実な信仰そのものを疑いや批判の対象とするのでは、より深い混乱が生まれるだけである。

さて、このようにして匿名掲示板を利用して政敵を叩くやり方は、自民党も利用していることで有名であり、統一教会など新興宗教等のカルト団体も盛んに使って来た手口である。カルト被害者救済活動も、政敵を追い落とすために、まさにこの方法に頼ったのであり、不信者を動員して信者をバッシングすることによって、キリスト教徒を恐怖に怯えさえ、「世」の支配下に置こうとしたのである。

しかし、クリスチャンには、「この世」と交渉する必要性はない。逆に、この世の方がクリスチャンによって裁かれ、罪に定められ、赦しを乞わなければならない立場にある。「この世」は初めから悪魔の配下にあって堕落しており、罪を犯している。「世」を巧みに利用して、世に調子を合わせることにより、自分の身を守り、信仰者を圧迫し、迫害している人々は、神の霊によって生きているのではなく、悪魔を父としているのであり、これらの人々には、いずれ主の御手が置かれ、彼らは自滅することになろう。

クリスチャンの武器は、小羊の血潮と、自分自身のあかしの言葉である。それによって兄弟たちは悪魔に打ち勝つことができると、はっきりと聖書に書いてある。

そこで、世間で批判されたくないという恐れや、人に自分がどう見られるかという恐れから、信者が悪霊に導かれる人々と交渉したり、彼らに懇願したり、あるいは説得されたり、彼らの誤りに満ちた思想を正してあげようと努力する必要はない。

クリスチャンの使命は、日々、しっかりと自分の信仰告白を握って、主の御名を証し続けることにある。悪魔以上の執拗さを持って、神に向かって彼らの悪しき所業を糾弾し続け、正しい裁きを願い求めることである。そうすれば、「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴える者」は必ず「投げ落とされる」ことになる。

「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。

 私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」(黙示12:10-11)      


2-3.聖書に基づかず、この世の論理によって、自らの活動を支持しないクリスチャン・ブロガーを断罪し、信者を裁判にかけることにより、この世の支配下に置こうとする杉本徳久氏の活動の危険
 
さて、「世の常識」を味方につけて、「この世」の罪を無罪放免する一方で、クリスチャンを容赦なく断罪しては、懺悔を迫り、処罰することに悦楽を見いだすという、カルト被害者救済活動の支持者らの転倒して異常な特徴は、村上密氏だけでなく、同氏の活動を積極的に支持する人々に共通して見られるものである。

当ブログにおいては、村上密氏の活動に支持を表明している杉本徳久氏から送られて来たおびただしい数の恫喝の書簡を公開しているが、それも「キリスト教のカルト化の危険を訴える」ということを口実にして、その実、クリスチャンを貶めることを真の目的としている彼らの活動の危険性を明らかにするためである。

2009年頃まで、筆者は村上密氏や杉本徳久氏の主導するカルト被害者救済活動に公に反対を表明していなかったが、その後、この活動が根本的に聖書に反しており、行き過ぎた魔女狩りや異端審問へ結びつくだけの、キリストの十字架に敵対する誤った運動であることに気づいたため、杉本徳久氏に対して、筆者は直接、この活動にはもう賛成できないことを告げ、かつて筆者が同氏のブログに書き込んだ活動への賛同のコメントを削除してほしいと正式に依頼した。

その際、筆者は、教会のカルト化問題を解決する糸口は、クリスチャンの不祥事を次々暴露することにより、クリスチャンを断罪したり、法廷に引きずり出して処罰することにはなく、ただ信者が聖書に立ち戻ることにしかないと、聖書に立脚して説明したのである。

しかし、これが杉本氏から筆者や当ブログに対する多年に渡る嫌がらせのきっかけとなった。杉本徳久氏から帰って来た返答は、罵詈雑言の羅列と、筆者の言い分が、「思い上がって自己中心な」「市井で求められる良識からは外れた文面であ」るという同氏の決めつけだけであり、その思い込みだけを根拠に、杉本氏はそれ以来、今日まで約7年間に渡り、当ブログに対する様々な嫌がらせ工作を続けているのである。

このような異常な執念は狂気の沙汰としか言えず、クリスチャンを何としても苦しめ、弾圧したいという彼らの飽くことのない悪魔的欲望と、クリスチャンに対する呪いや執念のような尽きせぬ憎悪に基づいていることを筆者は感じざるを得ない。

ちなみに、杉本氏は以上に記したような自らの見解をブログ記事に記しており、同記事は当初、筆者に対する一千件のコメントを伴うバッシング記事として、同氏のメインブログ「随想 吉祥寺の森から」に掲載された。

だが、たった一つのコメントを削除してほしいと依頼しただけの筆者を、一千件のコメントを伴う記事によってバッシングしたことに対しては、さすがに杉本氏へ批判が集中したと見られ、その批判を受けて、この記事は同氏が執筆している別のブログ「神々の風景 -religious scene」に移し替えられた。

その上、今年に入ってからは、杉本氏の不安定な心理状態を反映するかのように、この記事は非表示にされたり、ころころと変更が加えられていたが、今のところ、再び公開されているようである。
 



杉本徳久氏が何度もアドレスを変え、さらには非表示にしたりと
同氏の不安定な心理状態を示す幾度もの変更を繰り返しながら、

「神々の風景」に掲載している筆者に対する嫌がらせ記事。
「神々の風景」という題名からも、同氏がキリスト教徒としての
正常な信仰を持っていないことが明白である。

同氏はプロテスタントそのものを敵視するかのように、
自らのブログにプロテスタント信者を弾劾する記事を次々と掲載、
キリスト教のイメージを世間で貶めることに貢献して来た。
  自らの活動を批判する信者に対する訴訟を積極的に提起しては、
キリスト教徒への弾圧と迫害に臨んでいる。
このような人物がクリスチャンであるとは誰も信じないであろう。
信者を名乗りながら、キリスト教の破壊を試みている人物である。


ちなみに、この記事は標題が「東洋からの風の便り ヴィオロン」となっていることからも分かるように、杉本氏が当ブログに対する嫌がらせを目的に、故意に検索結果に表示されるように作成したものであり、その上、当ブログの内容を大量に無断引用しているスパム記事である。さわやか読者の記録にも示しているように、杉本ブログを熱心に支持する読者らは、同氏の書いたこの嫌がらせ記事が検索結果の上位に表示されるように、日夜、工作を繰り返しているのである。

つまり、彼らは聖書に基づく正常な信仰告白である当ブログを駆逐して、彼らの異常で悪意ある情報だけをネットに残すことを目的に、日夜、工作を繰り返しているのである。おそらくはこれまでにもこうした方法により、自分たちにとって好ましくないクリスチャン・ブロガーを次々に沈黙に追い込んで来たのであろう。

杉本徳久氏自身や、その読者らが、当ブログの検索結果を操作するために行った不法なアクセス集中の履歴は、次の記事や資料において公開している。

村上密牧師が杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」(前編)

村上密牧師が杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」(中編)

村上密牧師が杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」(後編)

    
しかしながら、筆者は上記の嫌がらせ記事の公開を好都合と考えている。なぜなら、これによって杉本氏に対する公の責任追及や反論がより容易になるからである。

まずは同氏が上記の記事を掲載しているブログの題名である「神々の風景」という象徴的な言葉に注目したい。この標題は、杉本氏がキリストの十字架を信じておらず、己を生まれながらに神とするグノーシス主義者であることを明確に物語っている。

クリスチャンであれば、「神は唯一である」ことを例外なく認めているので、決して「神々」という複数形を肯定的な文脈で使わない。「神々」の存在を認めることは、自分はクリスチャンではなく、唯一の神を信じていないと自ら告白するに等しい。神を複数形とした時点で、これは唯一の神に対する敵対であり、まことの神と、それを信じる者たちに対する一種の冒涜・挑戦だと言っても差し支えない。

杉本氏が「神々」という言葉によって何を指しているか具体的なところは不明であるにせよ(おそらくは自分たち唯一の神を信じておらず、キリストの十字架を否定する生まれながらの人間が「神々」であると言いたいのではなかろうかと推測するが)、いずれにしても、複数の神の存在を肯定した時点で、同氏がキリスト教の信仰告白の大前提となる「神は唯一である」という事実を否定していることは明白となる。

いかに同氏がカトリックなどの宗派の教会組織に公に属する信徒であったとしても、この事実は、同氏が内面においては実際にはクリスチャンでないことを意味するに等しい。

「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(Ⅰテモテ2:5)
 
さて、上記の記事で、杉本氏はカルト被害者救済活動を支持できないとする筆者の見解に対し、事実に立脚しない捏造された文脈で、筆者を罵倒しながら理不尽な非難を繰り返している。同氏は書いている、

 10日ほど前、彼女からのメールを受け取った。それは、

 http://blog.livedoor.jp/mediaterrace/archives/51884112.html

 2009年3月26日 「沖縄 トランスフォーメーション・グロース」

 に「ヴィオロン」の名で書き込んだコメントを消して欲しいという依頼であった。しかし、そこには
非常に思い上がった上に自己中心的な、彼女が経験した「回心」とその後の心変わりについての理屈が並べられてあった。市井の社会で求められる良識からは外れた文面であった。」

だが、この見解も、杉本氏自身の常識から外れた身勝手な思い込みと偏見に満ちた思考パターンをよく示すものである。

まず、杉本氏のブログに書き込んだコメントは筆者自身が書いたものであり、著作権も筆者にあるので、筆者から削除の依頼があったにも関わらず、杉本氏がこれを削除しない正当な理由が存在しない。にも関わらず、杉本氏は、自分の活動が支持されなくなったという事実そのものが認めがたいので、削除を拒否することを正当化するために、何とかして筆者に罪を着せようと、筆者を罵倒する文脈を捏造して考え出しているのである。



以上は杉本ブログに記載されている文面。
杉本氏は、筆者が答えてもいない事柄を、
勝手な決めつけによって
解釈しているが、
なぜそのような見解に至ったのかは不明である。

筆者が勧めたように、真理の御霊には聞かず、
悪霊に聞いて、そのような返答を得たと見られる。
思い込みに基づいて発した言葉であっても
いずれその重い責任を問われる日が来ることを
誰よりも杉本氏自身が自覚しなければならない。

 
当ブログにおいては、筆者が杉本氏から受け取ったおびただしい数の恫喝書簡の文面を公開しているが、それを読むならば、「思い上がって自己中心な」、「市井で求められる良識からは外れた文面」を記しているのは、筆者ではなく、杉本氏自身であることが、誰にでもよく分かるであろう。

2010年10月5日付   杉本氏が唐沢氏に提訴の報告を求めヴィオロンの記事を罵倒したメール
2010年10月17日付 杉本氏が唐沢氏の提訴予告について進行状況を報告せよと恫喝したメール
2010年11月20日付 杉本徳久氏が唐沢氏の提訴予告について謝罪を要求した恫喝メール
2010年12月8日付   杉本徳久氏がヴィオロン、唐沢氏、山谷少佐に提訴を催促した恫喝メール
2010年12月15日付 杉本氏がヴィオロン、唐沢氏、山谷少佐に記事削除を求めた恫喝メール
2011年12月6日付   杉本氏がヴィオロンの個人情報を特定して恫喝して来たメール
2011年11月28日付   杉本徳久氏が、唐沢氏とヴィオロンに送りつけた恫喝メール
2012年1月1日付    杉本徳久氏がヴィオロンの個人情報を晒すブログ記事を示した恫喝メール
2012年1月22日付 杉本徳久氏がヴィオロンに実力行使に出ると恫喝したメール
2012年3月8日付  杉本徳久氏がヴィオロンに期限を切ってブログ削除を要求した恫喝メール
2012年3月9日付  杉本徳久氏からヴィオロンの返答に対する罵倒と恫喝のメール
2012年3月10日付   杉本徳久氏がヴィオロンに自分を提訴せよと恫喝して来たメール

2016年4月25日付 杉本徳久氏がメールフォームから投稿した恫喝メール
2016年4月30日付 杉本徳久氏がヴィオロンへの提訴をほのめかした恫喝メール
2016年5月2日付   杉本徳久氏がヴィオロンを提訴してやると恫喝したメール
 
 
上記の嫌がらせ記事もそうなのであるが、杉本徳久氏の文面には、読んでいて恥ずかしくなるほど、また吹き出したくなるほどに、他者に対する礼儀を一切わきまえない自己中心な決めつけと、安物のドラマから抜き出して来たような陳腐な罵詈雑言、偏見と一方的な被害者意識に基づいた根拠のない思い込み、そして恫喝が溢れている。

さらに、同氏は、そうしたメールの中で、あまつさえ、自分にとって気に入らない記事を筆者が削除しなければ、筆者の個人情報を無断で公開するという脅迫行為にまで及んでいる。こうした文面のどこが「市井で求められる良識」にかなうのであろうか。

杉本氏こそ、自分の言葉に照らし合わせて、自らの行為を振り返らなければならない。同氏の書いた文章は、子供の書いた作文のように幼稚であるだけでなく、完全にマナー違反であり、なおかつ、違法行為をほのめかすものであるという点で、犯罪的でさえある。

このような脅迫行為を自分が暗闇で行っておきながら、同氏は未だに筆者を一方的に「自己中心だ」とか、「良識を備えていない」かのように非難しているのだから、その倒錯した論理に自分でまるで思いが至っていない愚かさに呆れ果て、恐れ入るのみである。

また、杉本氏は書いている。

「また、彼女ががらりと立場を変えて非難し始めた私や独裁カルト牧師の被害者信徒たちのことについて記した最新の投稿を熟読した後、私は彼女にこれらあなたが非難している人物の中には明らかに私が含まれていると読み取れるがその認識で良いのかと問いただす返事を送ったところ、彼女は私に対して真理の御霊に全てを問い尋ねよと言い、非難の対象が私であることを書き送ってきたのであった。一度、自分の口から出た言葉は後から消すことができないということがわかっていない。もし、それがネット上のものではなく紙媒体の印刷物であれば不可能である。」

これもまた甚だしい虚偽である。杉本氏の根拠のない被害者意識に基づく妄想的な思考を顕著に表す文章であると言える。筆者は、杉本氏に対してただ「真理の御霊に問い尋ねよ」としか答えておらず、筆者の書いた記事の中に杉本氏が含まれているなどと回答したことは一度もない。

そして実際、当時筆者がカルト被害者救済活動を支持できないことを表明するために書いた記事「キリストの十字架以外に救いはない」には、一切、杉本氏の実名は登場していないのである。この記事はカルト被害者救済活動に対する筆者の立場を明らかにするために、あくまで一般論の立場から書かれたものであり、特定の人物を名指しで非難するようなことを目的としていない。そして、カルト被害者救済活動に携わっている主要な人物も、村上密氏のように、当時、杉本氏以外にも、複数存在したのである。

にも関わらず、杉本氏は、何の根拠もなく、さらには筆者自身も認めてもいないにも関わらず、これが杉本氏を名指しで個人攻撃するために書かれた記事であると勝手に決めつけ、それを根拠に、筆者に対する多年に渡る様々な嫌がらせに及んだのである。

一体、杉本氏はこの件について、筆者が同氏に勧めたように「真理の御霊に問い尋ねた」のであろうか? 多分、真理の御霊ではなく、悪霊に問い尋ねたのではないだろうか。そして、悪霊から、「それはあなたのことだ」という答えが返って来たので、それを信じたのではあるまいか。もしそうでないというならば、杉本氏の良心の呵責がそのように思わせたのに違いない。

いずれにしても、筆者はそのようなことを全く答えていない。にも関わらず、筆者が言っていないことを、杉本氏が聞いたというのであれば、どこから聞いたのかが問題となる。それは「真理の御霊」の声ではなく、悪霊の声に違いないと推測せざるを得ないのである。なぜなら、悪霊は嘘つきだからである。

こうして、杉本氏は思い込みや決めつけだけに基づいて、自己中心で身勝手な話を「創作」して行き、これを基に他者への誹謗中傷や嫌がらせに及ぶのだが、それにしても、「一度、口から出た言葉は後から消すことができないことがわかっていない」というのは、誰よりも同氏自身に向けられるべき言葉である。

ネット上でも、一旦、発した言葉は取り消すことは難しい。それは、当ブログにおいて公開している杉本徳久氏による恫喝書簡を読んでも誰しも分かることであろう。こうした手紙は書かれてから年数が経過しているが、だからと言って、文面を通して、人の心の内側にあるものが完膚なきまでに明らかになる事実は変わらない。

当ブログでは、約十四年前の鳴尾教会で起きた事件に関する「教団文書 村上密牧師と津村牧師による鳴尾教会人事の私物化問題」なども公開しているが、こうしたものは、歴史的に価値ある資料であり、たとえ民事や刑事事件としての時効を迎えていても、だからと言って、少しも価値が減ずるものではない。

人々のモラルを動かすのに時効はなく、真実が人の心に訴えかける衝撃の重さは時が経っても変わらない。まして人がクリスチャンとして行った行為に時効はない。我々は皆いつか神の御前に立って、自分の行なった言動に対して申し開きをせねばならないのである。

杉本氏は、自分が他人を暗闇で恫喝しておいても、こうした書簡が明るみに出されることはないと高をくくっていたのであろう。だが、「一度、口から出た言葉は後から消すことができない」

こうした書簡においても、杉本氏が、筆者が言ってもいないことを再三に渡り、単なる思い込みと決めつけだけに基づいて勝手に解釈し、それを根拠に筆者をなじっては、誹謗し、脅迫まで行い、数々の嫌がらせに及んだ事実が明らかになるが、そうした行為の責任を、杉本氏はきちんと考えて反省せねばならない。これらは罪に問われて当然の行為である。

同氏のして来たことには証拠が残っており、これを取り消すことは誰にもできない。不都合な記事を削除せよと筆者を恫喝しても無駄である。他者に向かって述べた理屈は、自分自身に跳ね返る。自分にできもしないことは、人にも最初から要求しないが良かろう。

つい最近に至るまでも、杉本氏は再三に渡り、筆者に刑事告訴を予告するメールを送り付けているが、それにしては、告訴の脅しは一向に実行されたことがない。それも当然であろう。筆者をいわれなく脅し、嫌がらせ記事を次々と掲載し、コメント者を煽って嫌がらせに及び、当ブログに嫌がらせのアクセスを集中させて検索結果を操作して来たのは杉本氏自身であるから、その杉本氏が筆者を訴えるなど言語道断であり、そんな告訴が成立するはずもない。そんな訴訟に世間を納得させられるだけの正義の筋書きを見いだすことは誰にもできない相談である。

仮にそんな提訴を無理に成立させてみたところで、同氏には勝算もなく、ただ相手を苦しめるための時間稼ぎであることが明白となるだけである。そんな手段を用いてまでも、クリスチャンを次々と力づくで法廷に引きずり出しては断罪し、打撃を加え、キリスト教徒への弾圧と、クリスチャンの言論統制に日々いそしんでいれば、「日夜、兄弟たちを訴える者」という悪評がさらに定着して行くだけであり、それは同氏にとっても何の利益にもならない。

逆に、筆者自身も、筆者に対する嫌がらせ行為としてなされた個人情報の無断公開やそれによって生じた人権侵害等に関して、事実関係が特定され次第、当ブログに公表したいと考えている。杉本氏以外には、そのような行為に及ぶと筆者を脅迫して来た人物は存在しないのであるが。

さて、話を戻せば、以上の嫌がらせの記事や、恫喝メールにおいて、杉本氏が再三に渡り、「市民社会の常識」や「市民社会の一員としての責任」などといった言葉を振りかざしては、筆者を断罪しようとしていた様子が見て取れる。

このように、「世間の常識」を盾に取り、自分が世論を味方につけているかのような印象を与えながら、クリスチャンを聖書の御言葉ではなく、「この世の論理」によって追い込んでいく手法は、村上密氏がクリスチャンに対して使って来たものと同じである。

すなわち、カルト被害者救済活動の支持者らは、巧みに世間の常識やら、市井の良識やら、市民社会の責任といった、全く信仰によらないこの世の論理を持ち出して来ては、クリスチャンが信仰の事柄について判断するにあたり、聖書を基準とするのでなく、この世の基準に従って是非を問うよう仕向け、クリスチャンに自らの信仰告白を捨てさせて、この世の土俵へおびき出そうとするのである。

彼らはキリスト教界におきる不祥事を大々的に取り上げては、クリスチャンが「市民社会の常識を備えていない」とか「世間に迷惑をかけた」などと言いがかりをつけ、こうした事件をきっかけに、事件には何の関係もない信者らを非難して、不信者の前に「行き過ぎ」を反省させては懺悔させようとし、それがかなわないと、果てはクリスチャンを無理やり法廷に引きずり出してでも断罪し、何とかして弾圧を加えようとする。

彼らの目指しているものは、最終的に、キリスト教の教義や、聖書の御言葉、聖書の神を信じる信仰そのものを、何か恥ずべき、非常識な、カルト的な、傲慢で、思い上がって自己中心で、狭量な思考であるかのようなイメージを作り出し、聖書の神を信じているクリスチャンの信仰そのものを貶めることで、キリスト教とクリスチャンの信用を毀損し、最終的には、聖書の御言葉の信用を失墜させ、クリスチャンに御言葉への信仰を恥じさせ、信仰告白を捨てさせることなのである。

以上で挙げたような、杉本氏の書いた嫌がらせ記事や、恫喝書簡(それも杉本氏から送られて来たメールの一部に過ぎない)は、クリスチャンをこの世の圧力の前にひれ伏させて信仰告白を捨てさせるための一種の「踏み絵」だと見て良い。刑事告訴の脅しも同様である。

このような行為を平然と行う人間が、聖書に基づくクリスチャンとしての正常な信仰を持っていないことは明白である。

にも関わらず、このような人間が、自ら信者を名乗りながら、非聖書的な手法でクリスチャンを追いつめて断罪し、沈黙に追い込もうとするところに、彼らの活動の最大の卑劣さがある。

これはキリスト教徒に偽装してはいるが、その実、キリストへの信仰を全く持たない人々が、信仰者の群れに紛れ込み、キリスト教界を内側から破壊し、信者を攻撃して追い散らし、キリスト教そのもののイメージを貶め、聖書の御言葉の信用そのものを傷つけることによって、キリスト教とその信者をこの世の力の前に跪かせ、弾圧し、処罰することを目的として活動しているだけである。

こうしたすべての事柄は、キリストの御霊によらない、反キリストの霊によるクリスチャンへの弾圧なのであり、彼らが己の前に跪かせようとしているのは、信者のみならず、最終的には、すべてのクリスチャンが信じているまことの神ご自身なのだと言える。従って、彼らの活動は、唯一の神そのものを仮想敵とし、キリスト教そのものに敵対する運動なのであり、聖書の神に対する反逆であるという点で、極めて危険なものであり、その最期が滅びとなることは避けられないであろう。
 
こうした神に対する反逆行為と、クリスチャンに対するいわれなき弾圧を正当化するために、彼らは自己流の定義による「市民社会の良識」を持ち出しては、さも自分たちが世間代表のように振る舞っているのであるが、突き詰めてみれば、その「良識」とやらも、本当に世間の人々に支持されたものではなく、結局は、彼らが狭いネット上で作り出した身勝手な理屈に過ぎず、幻のような偽りの世論である。

彼らは、吠えたける獅子のように人々を恫喝して委縮させながら、クリスチャンを断罪し、見世物として嘲笑することを容認するような「空気」を盛んに作ろうとして来たのであるが、これはどうみても明らかに悪霊から来る働きである。

こうした暗闇の勢力から来る圧迫、「この世の霊」による卑劣な脅しに対して、御言葉を武器に毅然と立ち向かっていくことこそ、クリスチャンにとっての真の「霊の戦い」である。

悪魔は「兄弟たちの告発者」(黙示12:10)である。日夜、クリスチャンを訴え続けることが悪魔の日課なのである。これに対して、信者は沈黙していてはならない。

信者にはまず「アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血」(ヘブル12:24)がある。

十字架で永遠に流された小羊の血潮が、永遠に信者の潔白を証する。神がその独り子なるキリストを十字架につけてまで罪を赦されたクリスチャンを再び罪に定めることのできる存在はどこにもいない。

だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」(ローマ8:33-34)

次に信者は、自ら御言葉に立脚した証の言葉を述べ続けることによって、悪魔の告発に打ち勝つ。「死に至るまで命を惜しまない」とは、死の恐怖におののいて退却しないという意味でもある。

「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)と言われている通りである。
 
「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。
 私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」(黙示12:10-11)      

ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。
あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。

「もうしばらくすれば、
 来るべき方が来られる。おそくなることはない。
 わたしの義人は信仰によって生きる。
 もし、恐れ退くなら、
 わたしのこころは彼を喜ばない。」
私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。
(ヘブル10:35-39)

最後に、もう一度、「霊の戦い」についてのパウロの言葉を引用しておこう。聖書は一貫して、信者に「雄々しくあれ、勇敢であれ」と命じている。クリスチャンはこの世の常識によって生きているのではなく、我々のために命を捨てられ、死んで、よみがえられたキリストへの信仰によって生きているのである。「義人は信仰によって生きる」。この事実を証するために、信者は恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者なのである。

終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身につけなさい。
 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。」(エペソ6:10-13)

強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」申命記31:6)

さて、次回以降の論稿においては、カルト被害者救済活動の支持者らが盛んに唱えているような「世の常識」に見せかけた偽りの世論が、東洋思想と密接な関係があること、その根本にあるものが、キリスト教に対抗するグノーシス主義であることについて、より一層、踏み込んで考察を行って行きたい。

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2016年5月 8日 (日)

この世を無罪放免しながらキリスト教徒を断罪する村上密氏と杉本徳久氏の活動の危険➀

(これはホームページに掲載する予定の論考の一部です。)

大いなるバビロンからの脱却 反キリストの原則の明確な発展
――カルト被害者救済活動の暴走――
~この世の原則を聖書の原則よりも上位に置いてキリスト教を貶める
村上密牧師と杉本徳久氏の思想と活動の危険性について~

1.キリスト教のイメージを貶める一方で、神社の政治イデオロギーの危険には口を閉ざし、聖書に立脚して異端を識別するための真の霊的戦いの必要性を無視する村上密氏の活動の危険

前述の記事「東洋思想とは何か。その柱は何を再建しようとしているのか」においては、明治憲法時代に逆戻りし、戦前の軍国主義・国家主義・国家神道を復活させようとの狙いのもと、神社本庁が主導して行っている危険な改憲運動について触れた。

今や神社が七五三などの場面で利用される平和で世俗化した宗教団体ではなくなり、こうした過激かつ危険な政治運動に手を染めて、我々クリスチャンの信じる神への敵対行為を行なう砦のようになっているという事実を見るときに、これまで当ブログにおいて再三に渡り、その活動の危険性を指摘して来たアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密氏が昨年に行った「神社への油まき事件」についての告発と記者会見も、改めて違う角度から見えて来るのである。

村上密氏はこれまで「キリスト教界のカルト化の危険」を声高に訴え、支持者らと共に、キリスト教界における不祥事を次々と世間に発表しては、その是正の必要性があることを訴えて、「カルト化の疑いがある」とみなしたクリスチャンを次々と法廷に訴え出て、訴訟沙汰に巻き込んでいくことによって、キリスト教界の混乱とイメージダウンに貢献して来た。

筆者は、こうした法廷闘争などのこの世の争いを主要な舞台とする村上密氏による「カルトとの闘争」が、従来の平和的な福音伝道を中心とするプロテスタントの牧師活動から逸脱したものであるととらえており、こうした活動が、キリスト教界のカルト化問題の解決に役立つものとは一切みなしていない。

このように、牧師の平和な福音伝道という使命から大幅に逸れている点で、村上氏は、到底、正常なクリスチャンとしての信仰の持ち主ではありえないと筆者は考えるのであり、また、聖書的な観点から見ても、この世の司法や警察という世俗の権力の力を借りて異端を取り締まる活動は、この世の権力を教会の内政よりも上位に置くことを意味し、それは結局、この世の堕落した悪魔的な統治を神の御霊による霊的統治以上に高く掲げることであるから、聖書の秩序を転倒させる行為であり、その点で、反聖書的であるばかりか、悪魔的な思想に基づくものであると言って差し支えないことを記事で再三に渡り述べて来た。

こうした村上氏の活動は、キリスト教界全体を泥沼の法廷闘争と行き過ぎた異端審問に巻き込み、恐怖政治を生むことはあっても、同氏が唱えているような、カルト化問題に対する解決をもたらすことは決してできない。

キリスト教界のカルト化を解決する糸口は、クリスチャンが聖書に立ち戻り、キリストの十字架を原点として、聖書にそぐわない異端の教えを自ら識別して退ける判断力を持つことにしかない。そこで、村上氏の法廷闘争は、ただ同氏がキリスト教界において権力を握るための政治闘争の手段なのであり、クリスチャンをますます聖書から遠ざけて行く危険な活動である。これについてはすでに一連の記事を書いて来たのでそちらを参照されたい。

村上密牧師による鳴尾教会への不当な介入問題 まとめ

カルト監視機構」という名の秘密警察の設立について

悪魔の見果てぬ夢としての「カルト監視機構

村上密牧師による自己流の「異端審問」

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2016年5月 5日 (木)

村上密牧師と杉本徳久氏によるクリスチャンへのいわれなき迫害③

 ~村上密氏と杉本徳久氏の主導する「サイバーカルト監視機構」の動正体~

4-3.杉本徳久氏の活動履歴(続)


5月2日、4月25日、30日とまた新たに杉本徳久氏から恫喝メール➀恫喝メール②恫喝メール③が来ましたが…、ゴールデンウィークにまで他人に恫喝メールを送りつけずにいられないとは何たる哀れ。平和で落ち着いた家庭人からは程遠い姿ですね…。
同氏による過去の恫喝メールはさらに公開していきますよ!



4日も本ブログが更新されるや否や早速、深夜にアクセス。他人に刑事告訴の予告などしている間に、自分自身が様々な罪状により訴えられないといいですね。ネット上で匿名で行ったことも必ず証拠は残るのです。自分に不都合な人間に次々提訴の脅しをかけて言論を封じようとするその姿により、今まで作り上げようとして来た弱者の味方というイメージは完全に崩れています。結局、カルトとの闘いなどほんの口実に過ぎず、クリスチャンの弾圧が真の目的であったことが明白になったのです。


5月6日
やはり自分の情報が気になる様子。掲載されたくなければ、恫喝書簡など書かなければ良かったのです。「思い上がった上に自己中心な」「市井で求められる常識からは外れた文章」を隠れた所で人に向かって延々と書き綴っていたのは誰なのか。全世界に向けて明らかになりましたね。


↓以下の三人がお仲間であることはアクセス時間帯から明白。
英語圏からの異常な訪問者を招致したのも杉本氏と考えられます…。

softbank219215163080.bbtec.net
kd119104115222.au-net.ne.jp
204.79.180.186



   
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こうやって工作仲間を連れて来るんですよね。残念ですが、まだまだこのシリーズは続きます。あなたの書いた恫喝書簡の公開と共に。


5月9日
わざわざ更新されていないコンテンツにログを残す。真正面から人に対峙できない臆病な性格がよく表れていますね…。またも長文のウェブページがまとめられるのを恐れているのでしょう。(長文どころか、論文ですよ。)いつまでも数の力にものを言わせることは無理なんですよ。自分のしたことには一人で責任を問われる日が必ず来ます。

 

5月11日


当ブログで私が勝利の信仰告白をすると、必ず、杉本氏は猛烈嫌がらせアクセスを集中して来るのが恒例に。もはや動物的な反応パターンと化しており、初めから予想可能。深夜3時に狂気のアクセス集中の犯罪履歴は、サイバーカルト監視機構(杉本徳久編)PDFにアップロードしましたので、ご覧あれ!

こんな低次元な方法で、深夜に一人でこそこそ嫌がらせしているところを見ても、刑事告訴などできるはずがないことが明らかですねえ…。結局、大袈裟に喚き立てては周囲を脅して己の罪を隠そうとしているだけ。できもしないことを初めから宣言しなければ、自分が恥をかくこともないのに、愚かですね~。┐('~`;)┌

悪魔は「吠えたける獅子」のように人を脅しますが、その多くは実行不可能なことを吹聴しているだけで、恐れるに足りないのです。たとえ実行に移しても、より一層、自分が不利になるだけ。あるクリスチャンは言いました、「キリストを殺せば、復活という最も恐ろしい事態が起きてしまい、悪魔の最大の武器である死が打ち破られると分かっていたのに、それでも悪魔はキリストを殺さずにいられなかった。自滅と分かっていて攻撃せずにいられない。そこに悪魔のどうしようもない愚かさがある。」と。

ますます魔物との一体化が進んでいるようで、深く同情いたします。大体、キリスト教と聖書が不完全であるかのように糾弾し、聖書の神の不完全さを補って神の民が過ちを犯さないように監視し、取り締まってやろうなどという恐ろしい目的を掲げるから、反キリストの霊が降臨してこれと一体化する羽目になるんです。

どんなに表向き「弱者救済」を唱えていても、常に自分が救済者の立場に立って他者を哀れみ、人より優れて一番でなければ気が済まず、自分が批判されると報復せずにいられないという自己愛とプライドを捨て去れないところに、どうしようもない傲慢さが表れていますね。

その上、神の民を踏みにじり、教会に君臨し、神の上に立とうとするわけですから、それ以上の傲慢さはありません。

プロテスタントにつまづいた多くの人たちが、結局は、御言葉を否定して、キリスト教そのものを否定する結果に至るのです。こうして、キリスト教や教会や信徒につまずいたことをきっかけに、救いから除外されて行く、こういう哀れな元信者たちがいることについては、じっくり分析する必要があります。

偉そうに「キリスト教の病理」だの「自己愛」だのを語り、クリスチャンの批判ばかりしていると、いつこんな風に悪魔の道連れにされて神の敵となり、気づけば救いから完全に弾き出されていたという結末になりかねない。神の民は、神にとって瞳のようなものですから、これを傷つける人間に対しては、神自らが報復されるんです。

人への批判はまだ許されても、御言葉を毀損すればただ事では済みません。教会を攻撃し神の民を踏みにじり御言葉を否定する者は、決してまともな運命には終わりません。これは聖書に書いてあることで、私の個人的見解や呪いではありませんので…(「彼らの(十字架に敵対する者の)最後は滅びです。」(ピリピ3:19))。

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おや、噂をすれば影。悔い改めないと、行く末は火の池ですよ。手遅れとは思いますがね。


    

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2016年5月 2日 (月)

カルト被害者救済活動の暴走―杉本徳久氏からの恫喝メールー④

<杉本氏からの恫喝メール 続き>

本記事は、大いなるバビロンからの脱却 ―反キリストの原則の明確な発展ーカルト被害者救済活動の暴走―杉本徳久氏からの恫喝メールー③の続きに当たる。

杉本氏からは以前にも、同氏にとって気に入らない記事を削除せねば、ヴィオロンの個人情報を無断で公開するなどの脅しを含むメールがおびただしい回数、送られて来た。その罵倒や恫喝に満ちた文面は、記事「カルト被害者救済活動の暴走―杉本徳久氏からの恫喝メールー」でも示している通りである。

以下は5月2日に杉本徳久氏からさらに送られて来た恫喝メールである。
   

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2016年4月30日 (土)

カルト被害者救済活動の暴走―杉本徳久氏からの恫喝メール③


<補足>
これは「大いなるバビロンからの脱却 ―反キリストの原則の明確な発展ーカルト被害者救済活動の暴走―杉本徳久氏からの恫喝メール②ー」の続きである。

さらに、4月30日 4:03:32 JSTにも、杉本徳久氏からは次のようなメールが来たので、補足的に公開しておく。 ただし、メールフォームはすでに閉鎖しており、今後はもう使用できない。

それにしても、ゴールデンウィークにまで他人に恫喝メールを送りつけずにいられないとは! 記事「大いなるバビロンからの脱却 ―反キリストの原則の明確な発展ーカルト被害者救済活動の暴走―杉本徳久氏からの恫喝メール➀ー」にも示しているように、これまでにも、同氏からのメールの多くは、新年やクリスマスシーズンなど、世間の人々が最もくつろぎ、楽しんでいる時分に届いていたが、
 平和で落ち着いた家庭人からは程遠いその姿に、哀れを催さずにはいられない。

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