一時不再理の原則

2015年7月23日 (木)

一事不再理の原則(2) ~自らを神として法と裁きを否定する人たち―日本のグノーシス主義的原初回帰~

前の論考において、私は日本がグノーシス主義的原初回帰の道を歩もうとしていることの危険性について述べた。これは極めて危険な道で、単に歴史に逆らうだけでなく、いずれ神に逆らう道である。

この点で、今年(注:この記事は2014年に書かれた)2月12日に集団的自衛権の行使容認に関して安倍首相が行なった国会答弁は、明確に越えてはならない一線を越えてしまったと私は認識している。

「最高責任者は私です。私が責任者であって、政府の答弁に対しても、私が責任を持って、その上において、私たちは選挙で国民から審判を受けるんですよ 」

首相がついに最も言ってはならないことを言ってしまった、という印象を受けた瞬間であった。

安倍首相のこの発言は、集団的自衛権の行使容認は、誰から指示されたものでもなく、首相自らの信念・悲願であることを示している。また、その方針に基づいてこれから政府が行なうであろうこと、その結果起こることの全責任は、ただひとり首相にのみあり、彼だけが裁かれることになるのだと、首相自らが認めたことを意味する。

安倍首相はこれにより、自分は国の最高法規である憲法以上の存在であり、この世のあらゆる法規を超えた最高責任者であると宣言してしまったのだ。

この発言は憲法によって時の為政者が受けるべき制限をも認めず、つまり立憲主義そのものの否定する発言として、自らを神とするにも等しい。

何よりも恐ろしいのは、政治的な主張ではなく、その根底に流れる思想である。

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一事不再理の原則(1) ~東京裁判の否定―日本のグノーシス主義的原初回帰~

彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。」
(ヨハネ3:18)

一事不再理の原則、これはキリスト者なら誰でも信仰的な意味でよく知っていることだろう。

信仰者は、キリストが我々と共に十字架において罰せられ、その身代わりの裁きが、自分のための裁きであったことを信じるときに、罪を赦され、裁きから解放される。

救いは一度限り永遠で、キリストの受けた裁きを自分のものとして受け取るならば、信者は二度と裁かれることはない。判決はすでに下った。その事実を信じて受け取るか、受け取らないか、それによって個人の命運が永遠に至るまでも分かれる。

自分が罪を犯したことを認め、裁きに値することを受け入れるのには勇気が要るが、 一度裁かれた者は、二度と裁かれることはない。

一事不再理、司法の原則と同じことが信仰にもあてはまる。

しかし、信じない者には、これは当てはまらない。キリストの裁きを自分のものとして受け入れないなら、その者はこれから裁きを受けなければならない。

「そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、 」 (ヘブル9:27)


同様のことを、私は日本の敗戦や、東京裁判についても考えてみる。

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