魂と霊の切り分け

2009年11月15日 (日)

魂の命を否む(1)

魂の命を否む

「信者が十字架上での主イエスの身代わりの死という恵みを受ける時、神はその命を彼の中に置き、彼の霊を復活させます。この新しい命はそれと共に新しい性質をもたらします。その時以来、その信者の中には二つの命、霊と魂の命とがあるようになります。彼の中にはまた二つの性質、神の性質と肉とがあるようになります。」(ウォッチマン・ニー、『クリスチャン生活と戦い』、日本福音書房、p.98-99)

キリストを信じ受け入れた時から、私たちの中には、肉、魂だけでく、神の霊が宿ります。信じる以前には私たちの霊はただ死んだ状態にありました。しかし、神の霊の命が私たちの内に宿るとき、私たちの霊も、御霊の命によって再生され、新しく生かされるようになります。信仰生活において、私たちがきよめられるためには、私たちは肉から脱却し、魂的なものからも脱却し、ただ御霊によって生きることを学ばなければなりません。

しかし、今日、多くのクリスチャンは、キリストを信じたとはいえ、依然として「肉的なクリスチャン」の段階にとどまっています。彼らの霊の命は肉に閉じ込められ、まるで再生されていないかのようなみじめな状態にあります。彼らの日々は、肉の欲との絶えざる格闘です。どんなに聖書を読み、御言葉に従いたいと願っても、罪の誘惑が強い力で彼らを後ろへ引っ張るので、それと格闘するだけで日々が過ぎていきます。罪を犯すのをやめようと思っても、やめることができません。この肉的な段階は、アクセルを踏みながら同時にブレーキを踏むようなもので、クリスチャンは勝利と敗北の間を行ったり来りするだけで、前進していくことはほとんどできません。彼はまことの命を実際に生きるということを知りません、依然として、悪い思いの数々の影響下にあり、罪のとりこにされています。サタンにとっても、このような罪の捕われの状態にあるクリスチャンはほとんど何の脅威にもならないでしょう。

次の段階として、「魂的なクリスチャン」がいます。彼らは「肉的なクリスチャン」よりは、少し前進した存在だと言えるでしょう。なぜならば、彼らは十字架上でのイエスの死を自分のものとして受け取ることによって、自分の肉が十字架につけられるということを実際に経験したからです。まだ肉体を持って生きているとはいえ、十字架で、自分の肉に対して死ぬことを学ばされたので、もはや以前のように、汚れた肉の欲のままに引きずりまわされることはありません。彼らに対して、肉は十字架を通して一定の効力を失い、弱められました。彼らは肉の思いではなく、御霊の思いによって、新しくされ、新しい命に生きることをある程度、学んでいます。

この段階のクリスチャンは、神の聖なる霊が自分の内に宿っていることを文字としてでなく、徐々に、実際に経験として知っているでしょう。彼の思いはきよめられ、彼の自己は大きく対処されました。御霊に導かれるようになった彼は、もうあからさまな罪を犯すことはできなくなりました。しかし、多くのクリスチャンは、この段階へ来ると、あたかも自分が高度な成長を遂げたかのように誤解し、そこで自己満足してしまいます。肉的なものにある程度、死ぬことを学んだだけで、それがキリストにあって得られる勝利の全てであるかのように誤解してしまうのです。肉に引きずられさえしなければ、自分が勝利しているのだと思い込んでしまうのです。

しかし、本当の闘いはまさにここから始まると言えます。肉的なものが十字架で対処されなければならないと同様、魂的なものも、同じように、十字架で対処されなければならないのです。しかし、そのことを今日、ほとんどのクリスチャンは知らされてもいません。私たちは肉の罪深さについては知っていますが、魂の堕落した性質についてはほとんど知らないのです。人間の魂というものが、いかに自己を愛するものであり、自己のためだけに企画・提案を行うものであり、呪われた旧創造に属する性質を多く含んでいるか、私たちは知りません。私たちの心がいかに欺くものであり、神の御前に汚れているものであるかということを、上から示されることなくして、私たちは自分では思いもかけないのです。

魂のクリスチャン

なぜ彼は魂のクリスチャンなのでしょうか? わたしたちは、いかにして十字架が働き、いかにして信者たちの肉、罪深い性質がそこで十字架につけられたかを見てきました。しかしながら、魂の命は依然として残っています。すべての罪は肉からやってくるのであり、魂はただそれによって導かれ、その操り人形として行動するだけですが、魂はアダムから受け継がれたものであり、完全に汚されているわけではありませんが、アダムの堕落によって影響を受けていることは避けられません。

天然の存在と神の命との間に違いがあることは、真実です。信者の中にある汚れた肉は死にましたが、彼の魂は彼の生活の背後で力を持ち続けます。罪の性質は死にましたが、自己の命は残っています。ですから、必然的に、人は依然として魂からのものです。

今や、罪深い性質、肉は死にましたが、魂は人の振る舞いの背後で力を持ち続けています。神の性質が肉に置き換わったのであるからには、自然に、すべての好み、願望、提案は義しく(ただしく)なり、もはやかつてそうであったように汚れたものではありません。しかしながら、この新しい性質の提案と願望を遂行しているのは、依然として、以前の魂の命なのです。<…>

 わたしたちは、必ずしもすべての魂の経験が邪悪で、汚れているわけではないことを、認識する必要があります。肉というのは、罪深い性質がある限り、汚れた、罪深い事柄を産出しますが、魂は必ずしもそうではありません。魂の命とは、わたしたちの本来の命、すなわち、わたしたちを生きた被造物とする命にすぎません。この命は、いったん罪深い性質、肉から切り離されれば、必ずしもその思うことが常に邪悪であるわけではありません。多くの人は、最初から生まれつきの善、忍耐、愛、優しさを持っています。これらの徳は、誕生によります。」(p.100-101)

 それぞれの魂には、個性があり、長所や美徳もまた備わっています。私たちが神を愛するのは、魂を経由して愛するのであり、私たちが心から主を讃美する時、私たちの魂も霊と共に喜び歌います。私たちは自分の魂を注ぎ出して、主に祈り、仕えることが求められています。ですから、クリスチャンは、決して、魂のあらゆる機能がすべてが悪いものであると決めつけ、魂そのものを敵対視して、魂そのものを滅却しようとする必要はありません。しかしながら、たくさんの長所を帯びているように見えても、私たちの魂は、深くアダムの堕落によって汚染されており、この堕落した部分について、私たちは神の対処を受ける必要があるのです。このことを知らないまま通り過ぎてしまうと、自分では御霊によって生きていると思いながら、実は、魂の堕落した性質によって御霊を閉じ込め、御心から遠く離れた生活を送ってしまう危険性があります。

 「クリスチャンは自分の肉を十字架につけた後、一つの危険性の中にあります。それは、神の性質からの新しい提案を、魂の命の力によって遂行することです簡単に言えば、これはわたしたち自身の力によって善を行うことです。このような人は、部分的には成功するかもしれません。これは正確にはそれています。信者たちが、『自分の自己を活用する』と効果があると見いだす時、自分は霊的な成長に到達したと考えます。彼らは、魂の力によって善を行っていることに、気がついていません。彼らは善を行っているかもしれませんが、依然として魂的です。<…>

霊の命それ自身は、とても強いものではありますが、魂の命の深く根ざした働きは、わたしたちの全存在を支配します。人が進んで自分の魂の命を捨て、霊の命が生き、働くようにしなければ、霊の命が発展する可能性はほとんどありません。

 霊的なクリスチャンとは、聖霊に自分の霊の中で働いてもらう人です。かれは 聖霊を自分自身の霊の中に住まわれるかたとして受け入れ、聖霊によって与えられた命に、自分の歩みのために必要となるすべての力を供給してもらう人です。彼の生活の原則すべては、もはや思いや感情によって導かれたり、影響されたりはしません。むしろ、彼は霊の中で冷静に生きています。

 魂のクリスチャンは、まさにその反対です。彼は霊の命を持っていますが、自分の霊の命から活力を引き出しません。むしろ、彼の日常生活は、依然として魂をその命としており、続けて思いや感覚によって導かれ、影響されています。」(p.102-103)

 魂的なクリスチャンの問題点は、彼が神の霊を受け、御霊の導きを受けながらも、同時に、依然として、自分の思いや感情、感覚を中心としてそれをエネルギー源としながら生きていることです。この段階にあるクリスチャンは、自分の力で神に従って生きようとして、活動に励むことが多いかも知れません。熱心に聖書を読み、熱心に伝道するかも知れません。人から善いと勧められることをみな実行しようと頑張っているかも知れません。しかし、彼はただ自分の心の提案に従っているだけであり、御霊によって生きているのではないことを知りません、自分の心を中心にすえて神の御心を成し遂げようとすることがもともと不可能であることを知らないのです。

 彼の思い、感覚、感情は、ある程度、きよめられて、以前のように肉に影響されたあからさまに罪なるものではなくなったでしょう。とはいえ、やはり、それらは彼の天然の人から出て来るものであって、自己を中心として活動し、自分を立て、自己を守り、自己の好みを遂行し、自己を義としようとつとめるのです。それは自己保存の法則に支配されたものであり、自己の好みに限定されており、神に栄光を帰する御霊の思いとは決定的に異なります。魂の命は、根本的に、御霊の命とは対立します。しかし、彼はしばしば、自己の魂から来る思いが、御霊からのものであると勘違いします。
 彼は魂と霊との区別を知りません。自分の心の思いや好みに従って歩む人生は、御霊に導かれる人生ではないということを知りません。その結果、彼は甚だしく汚れた罪を犯すわけではないかも知れませんが、御霊を自分の魂の中に閉じ込めようとし、御心からは逸れた生活を送ることになるのです。彼は絶えず自分の心を中心にして活動しているため、その活動は彼の自己を強化し、彼に栄光を帰し、神の栄光のためにはほとんど実を結びません。彼は自分の心、感情、感覚、すなわち魂の命そのものを、十字架に置かなければならないことを知りません。

 さらに、ニー兄弟によれば、魂的なクリスチャンの中には、これより少し進んで、霊と魂が混合されている信者もいます。彼らは多くの御霊の賜物を持ち、貴重な霊的な経験をさえ持っているかも知れません。そのような点から見れば、彼らには霊的な要素の現れが見られるので、彼らこそまさに「霊的なクリスチャン」であるように見えるかも知れません。しかし、彼らは自分が非常に霊的になったと勘違いしているだけで、まだ魂に導かれて生きていることを知らないのです。

「霊と魂とが混同されているこれらの信者たちは、その実際において魂的です。しかしながら、その知識においては、彼らは霊的であるように見えます。この種の信者については、霊と魂とが一つに合わされています。彼の魂は肉(罪深い性質)から分離されていますが、彼の霊はまだ魂から分離されていません。以前は、彼が肉的であったとき、彼の魂は肉に密接に結びついていました。一方は彼の命であり、他方は彼の命の性質でした。今や、同じように、彼の霊は魂に結びついています。一方は提案し、他方はその力となります。

体は魂の外側の殻であり、魂は霊の外側の殻です。わたしたちはこれを覚えておくべきです。すなわち、魂は霊の殻であるということです。こういうわけで、霊は魂によって囲まれており、魂によって絶えず影響を受けます。魂は、思い、感情、感覚、意志などを含みます。霊は魂によって囲まれているのですから、魂の中に埋没されているようです。こういうわけで、それは思いと感覚とによってしばしば影響を受けます。」(p.106-107)

 以前は、肉がクリスチャンのまことの命を暗闇に閉じ込め、振り回しました。肉が彼を導き、彼に罪を犯させ、御心から遠く引き離しました。今は、魂がクリスチャンを振り回しています。彼はあからさまな罪からは離れましたが、彼の信仰生活には依然として安定がありません。

 人の肉体が食物を採らなければ維持されないのと同じように、魂も供給を受けなければ生きられません。人の魂の機能は、刺激というガソリンが供給されなければ、活動が止まってしまう小さなエンジンのようなものです。そのようにして活動停止に陥らないために、魂は、本能的に、自分のための供給を絶えず必要とします。魂的なクリスチャンは、神のために生きていると自分では思いながら、実際には、自分の好みに応じて、自分の魂を喜ばせてくれるものをひっきりなしに追い求めています。神に従っている、と自分では思いながら、実は自分の思いや感情や感覚にコントロールされ、それらの囲いによって御霊を圧迫して生きていることを知りません。

 魂と霊の混合したクリスチャンは、神についての知識を得ることを追い求めますし、主にあっての喜びや、平安や、素晴らしい「霊的な」体験を追い求めます。彼らは自分の興味あるテーマに関してならば、非常に熱心に勉強を積んでおり、御言葉に関する知識が豊富かも知れません。様々な活動の経験があり、また、特異な霊的経験をさえ持っているかも知れません。しかし、彼らは、自分がそれらの知識や経験を、ただ魂を喜ばせ、魂を生かすために追い求めているだけであることを知りません。それがなければ、彼らの心は塞ぎこみ、活動は止まってしまうのです。

 ですから、そのような信者には、安定性と首尾一貫性がありません。ある時は御霊の平安に満たされていたかと思えば、何かのきっかけで、不安のどん底に突き落とされたようになるかも知れません。あるいは、自分の好みに合うものに囲まれている時は、非常に喜びに満ちていますが、自分の好みに合わないものに対しては、冷淡で、そっけなく、無関心な態度を取るかも知れません。彼は自分が依然として感覚や感情に導かれているだけであることを知りません。このような、魂に従って生きるクリスチャンの人生は不安定で偏ったものとなり、自分の望むものが供給されなかった場合、すぐにでも活動停止に陥るでしょう。

「この段階における信者は、おもに彼ら自身の思いによって管理されています。彼らは知識を愛し、真理を追い求めることを愛します。彼らは、何かを思いの中で完全に理解するまでは、満足することができません。彼らは、興味をそそる思想を好みます。彼らはさらに多くを知ることを好みます。なぜなら彼らは、自分が知っていることが、自分の所有しているものであると考えるからです。

彼らはまた、自分の感情によって管理されています。彼らは、主の臨在を感じることを求め、喜びの感覚を持つことを求めます。彼らは心の中に燃え上がる火を感じる時、百マイルでも歩くことができ、霊的行程において飛び跳ねながら進んでいくことができます(もちろん、外面的に言ってですが)。もしこのような感覚がなく、あるいは憂うつであると感じるなら、彼らは怠惰になり、全く前進しなくなります。彼らは良い感覚を求めます。彼らの心の中の感覚の善し悪しが、彼らの外面的な霊的状態の高低を決定します。

彼らはまた、彼らの意志によっても管理されています。彼らは、ピリピ人への手紙第二章十三節の約束を彼らの中にあって成就する聖霊の力を、まだ受けていません。彼らは、決定がすべての働きの始まりと終わりであると考えます。彼らは多くの決心をし、多くの規則と規定を定めますが、さらに多くのなわめへともたらされるだけです。これらのうちのどれも、彼らが霊的命における真の前進を持つことを助けません。」(p.108-109)

 霊と魂の混合したクリスチャンは、ひたすら自分の魂を喜ばせる計画や活動を追い求めます。しかしそのような魂の活動にいそしむことが、まさに彼らに霊的な貧困をもたらしている原因であることをほとんど自覚しようとしません。彼らは自分の魂が活動停止状態に陥ることを極めて恐れています。また、少しばかりの霊的な経験を持っているだけに、自分が通常のクリスチャンよりも高められていると勘違いし、それによって、ますます、その状態が御霊の真の豊かさからはほど遠いものであることを自覚しようとしなくなるのです。

「最もあわれなことは、この段階における信者たちが、たいてい自己満足しており、とても頑固に彼らの経験に固執するということです。彼らは、自分の認識がすべて霊的な認識であると思っています。彼らは、『頭脳の銀行』の中にある豊富さを誇ります。彼らは、ときどき起こる『第三の天』の経験が霊的な経験であると考えます。彼らは感覚や、燃えるような感動、喜び、主の臨在にふけります。彼らは、これをほかにしては、もっと高い霊的な生活などないと考えます。それにもかかわらず、彼らは、外側の事柄が依然として自分の心を迷わせ、平安を妨げていることを、謙虚に認めようとしません。彼らの振る舞いは外側の演技であり、それは多くの企てと計画から来るものであり、彼らの内側の状態と一致しません。」(p.106)

 私たちの魂は、絶えず外から供給され、絶えず動いていなければバランスをとって生きていることができず、何物にも左右されずに、真に自立的に働くことができません。最も活発に活動しているときでさえ、それらの命は、外側の何かに依存し、大きな限界と制約の中で活動しているのであり、最も素晴らしく神のために有益な活動をしているように見えるときでさえ、これらのものは本能的に、自己保存という目的のために働いているのです。

 肉も魂も、基本的には、死というものを受け入れることができず、それに徹底的に逆らう性質を持っています。そこで、人の魂もまた、死を避けるため、自己の目的をかなえ、自己を延命し、自己保存のために働き続けようとするのです。しかし、この自己保存という目的は、御霊の性質と相反しています。そこで、私たちは肉だけでなく、魂の機能に対しても死ぬ必要があるのです。私たちが、絶えず外的刺激というガソリンを注入されなければ活動することもできない魂という小さないれものを通して、神の御心を実現しようとしている限り、それは外側の演技のようにしかなりません。私たちが魂を中心として生きる限り、魂は霊を圧迫し、霊を閉じ込め、霊を間違った方向へ引きずって行こうとし、真に自由で独立的で無制限な御霊の現われを阻んでしまうのです。

 御霊の命の性質は自己保存を追い求める魂の性質とは全く異なっています。それは人の自己を満たすためでなく、神の栄光のために生きます。また、御霊は、刺激や物質の供給といった、外側の何物かに依存しなければ働けなくなるということは全くありません。ですから、真に御霊に導かれて生きる人には、外的刺激をひっきりなしに受けなければ、進んで行けなくなるとか、楽しい活動がなければ、憂うつに落ち込むということはないのです。強力な迫害にさえ、耐えうる力をクリスチャンに与えるのは、私たちの魂ではなく、御霊です。ですから、御霊によって生きる人は、外側で何が起ころうと、内には平安があり、力があるでしょう。疲れることがないのも、御霊の特徴の一つなのです。

 クリスチャンは、この倦むことも疲れることも休むこともなく、神の栄光のために絶えず働かれる無制限のキリストの命の霊をすでに内にいただいているのです。しかし、私たちの内に住まわれる霊は、何と実際にはみじめな状態にとどめおかれていることでしょう。私たちの肉体と魂の殻が、絶えず、御霊を閉じ込め、御霊の現われを妨げ、逆に、御霊を私たちの自己に従わせ、自己のために利用しようとしています。

 こうした自己の魂の厭らしい性質を、たとえ気づいたからといって、私たちが自力で取り除くことは容易ではないばかりか、不可能です。霊と魂を切り離すその「手術」は、御言葉によって、十字架上によってのみ可能だからです。私たちが魂の命を否むことは、自分の力でなすべきことではなく、十字架上で、神ご自身によって行われなければなりません。ですから、私たちは自分を絶えず十字架に持って行く必要があるのです。

 次回は、十字架上で魂の命を否むとはどういうことなのかを具体的に見ていきたいと思います。どうか主が私たちにあれあみをかけて下さり、魂の命の本質が何であるかを見せて下さり、私たちの魂と霊とを切り離して、御霊によって生きることを教えて下さいますように!

 

2009年10月27日 (火)

霊の人が直面する危険

「神の言葉は生きていて、活動しており、どんな両刃の剣よりも鋭く、
魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通して、
心の思いと意図を素早く識別します。」(ヘブル4:12、改訂訳)

 今までの流れから見ると、急に話が飛躍してしまうが、ある必要性から、この記事をぜひとも書かせていただきたい。

 すでに幾度も書いてきたように、多くのクリスチャンは、御子イエスを救い主として信じた時から、内側に聖霊をいただいているが、依然として、自己が強く働いているため、御霊の働きを妨げ、実を結ぶことができないでいる。そこで、私たちは御霊によって訓練を受け、また啓示を受けることにより、自己を否み、自己に死ぬということを経験し、外なる人の固い殻から解放され、外なる人と内なる人が真に一体化した霊的な人へと変わらなければならない。

 しかし、ここに第二、第三の重大な危険性が潜んでいることについて述べたい。私たちはどのようにして自己を否むのだろうか? どのようにして自己から脱却するのだろうか? 自分の努力で? 環境を変え、心機一転することによって? 催眠療法によって? カウンセリングによって? 旅行に出ることによって? …そんなことはまず不可能である。外的影響力によって、私たちは少しも自己から抜け出ることはできない。それどころか、私たちが外的影響力に自己を解放し、誤った方法で自己から脱却しようとする時、それはかえって、私たち自身を悪霊の影響下へと導き出すものとなるだろう。

 人の魂と霊を切り分け、何が人の自己であって、何が神の霊であるのかをはっきりと指し示すことができるのは、生きて働く神の御言葉だけである。
 私たちは、聖霊の照らしを抜きにしては、何が自分の自己の魂に由来する衝動であり、何が悪霊から来る影響であり、何が神の御霊から来るものであるか、決して識別することはできない。私たちにそれを教えてくれるのは御言葉だけである。他の方法によって、自己を否もうとすることは、私たちを破滅へと導く。

 私たちは御霊に導かれる「霊の人」となる必要があるが、同時に、御霊以外の霊から影響を受けてしまうことに警戒しなければならない。全ての霊が神から来たわけではなく、サタンに支配されるこの世には、諸霊と呼ばれる邪霊や悪鬼がおびただしく働いている。そのようなものに影響される危険性にさらされているのは、スピリチュアル・カウンセリングや、ニューエイジや、占いや、オカルトにのめりこんでいる人々だけではない。また、巨大集会や、クルセード、個人預言集会などに駆けつけて、やたらと超自然的な現象の現わればかりを追い求めている聖霊派の熱狂的な信者だけが、悪霊の攻撃対象となっていると思うのは間違いである。

 私たちは、自らを「霊的な人」であると自称し、「私は自己を否んでいる」と自称する、随分と経験を積んだ、高度な段階にいるように見えるクリスチャンでさえも、キリストを証する霊ではない霊によって欺かれてしまう危険性があることによくよく注意する必要がある。

 もしも私たちが、生きて働く御言葉を通して、霊を識別する力をいただかなければ、私たちは自称「霊的な」人々にすぐにも欺かれてしまうだろう。誰でもちょっと観察すれば、すぐにでも、御霊に導かれているのではないと見抜けるような、キリスト教界でスキャンダルを起こし続けている有名指導者たちは、さほど大きな問題ではない。それよりも、私たちが本当に注意し、警戒すべきなのは、外なる人が一旦、砕かれ、御霊に従って生きる人になったクリスチャンでさえも、その後で、警戒を怠るならば、知らず知らずのうちに、各種の欺きや誘惑にさらされて、神の霊を封じ込め、神から来たのではない霊の影響下に陥ってしまう危険性があるということである。いや、一旦、霊的な人になった信者であるからこそ、全く霊的な方面に関して閉ざされている信者よりも、より一層、偽りの霊からの攻撃を受けやすくなっているのだということを知らなければならない。

 以下は、ジェシー・ペン=ルイス夫人著「魂と霊」第五章「霊的なクリスチャン」の中から、「霊の人が直面する危険」の抜粋。
* * *

 真に「霊的」になった信者、すなわち霊によって魂と体を治めている信者は、その時、戦いの領域から出たわけではありません。むしろ、エペソ人への手紙6章10~18節に記されているように、いっそう微妙な戦いの段階に入ったのです。エペソ人への手紙2章6節では、その人は「キリストと共に天上に座らされて」いると言われています。しかし後の方では、彼が「高きところ」にいる悪霊の軍勢と「格闘」している様子が描かれています。彼は特に、悪魔の「策略」に立ち向かわなければなりません。

 これからわかるように、戦いの中にある霊的な信者は、おもに霊の敵の巧妙な霊的策略に対して警戒しなければならないのです。敵は彼を、ガラテヤ人への手紙5章17節で描写されている肉と霊の戦いよりも、霊の領域に関する事柄に巻き込もうとしています。

 戦いのこの局面における暗闇の軍勢の策略は、霊の人を霊にしたがってではなく、ある程度魂にしたがって歩ませること、すなわち、神の聖霊と協力している霊によってではなく、感覚領域の中にある事柄によって歩ませることに、おもに向けられています。

 サタンの欺く霊どもは、人の霊の偽物を魂の領域に造り上げることができます霊的な信者はこのことを理解しなければなりません。これは重要です。欺く霊どもは、策略を用いて外なる人に接触することにより、次に霊からではない動きをその人の中に生じさせることにより、これを行います。このような動きは霊的に見えるかもしれませんが、いったん主導権を握ると、真の霊の動きを封じ、圧倒するほど強くなります。もし信者がこのような敵の戦略を知らないなら、たやすく真の霊の動きを棄ててしまうでしょう。彼は、「霊にしたがって歩んでいる」つもりなのですが、霊的な感覚の偽物にしたがっているのです

 真の霊の動きがやむ時、「神は今、新しくされた思いを通して導いています」と悪霊どもはほのめかすかもしれません。これは、彼らの偽りの働きと、人が霊を用いていないことを隠すためのたくらみです。それと同時に偽りの光が思いを照らし、続いて偽りの推論や判断などが生じます。その人は、「自分は神からの光を持っている」と思います。なぜなら彼は、自分が「霊にしたがって歩く」ことをやめてしまったこと、そして今、天然的な思いにしたがって歩んでいることに、気づいていないからです。

 霊の人が直面するもう一つの危険は、彼を肉(体)にしたがって歩ませようとする、サタンの欺く霊どもの巧妙なたくらみにあります。欺く霊どもは、人が「霊的」だと思う感覚を体の中に生じさせることにより、「自分はなおも霊にしたがって歩んでいる」という確信の下で、人を肉にしたがって歩ませようとします

これらの策略を打ち破るには、超自然的事柄を知覚するすべての肉体感覚だけでなく、通常の事柄を知覚する過度の肉体感覚をも拒まなければならないことを、信者は理解しなければなりません。なぜなら両方とも、思いを「霊にしたがって歩むこと」から逸らし、肉体的な感覚に向かわせるからです。

過度の肉体感覚は、絶えず精神を集中する妨げでもあります。敵は、霊的な信者の「肉体感覚」を「攻撃」することによって、精神の集中を乱し、霊を覆おうとします。ですから、体は平静に保たれなければなりませんし、完全な統制の下に置かれなければなりません。この理由により、過度の笑いや、精神と霊を支配するまでに肉体のいのちを高揚させるすべての「衝動的行動」は、避けなければなりません。「霊的」になって、神のいのちの中で「成熟」することを願う信者は、万事について、行き過ぎ、無節制、極端を避けなければなりません。(コリント人への第一の手紙9章25~27節参照)

 人の肉体的部分が支配し、体に感じる超自然的経験を誤解することから、体は霊の働きをさせられ、真の霊の動きを抑圧する最高の地位に無理矢理着かせられます。このような状況の下、は圧迫を感じ、葛藤を感じます。こうして、精神と霊のかわりに、体が「感覚」になります。信者は、真の霊の感覚を識別することを学ばなければなりませんし、それを見分ける方法を知らなければなりません。霊の感覚は、感情的(魂的)な感覚や肉体的な感覚ではありません。(マルコによる福音書8章12節、ヨハネによる福音書13章21節、使徒の働き18章5節などを参照)*

(筆者コメント:
 敵は信者の中に、偽物の「霊的感覚」を作り出します。それは御霊から来たのでなく、信者自身の魂から来るさまよう思いと、感覚(五感)に頼った刺激なのですが、信者はそれが「偽物の霊的感覚」であることに気づかず、それらが神から来たものであると思ってしまう場合があります。
 また、敵は信者に、五感に頼った外的刺激を霊的感覚であると取り違えさせることがあります。あまりにも五感から来る刺激が素晴らしく、快楽的である場合、信者の魂は、それに病み付きになり、自分が外的刺激のとりこにされていることにも気づかずに、むしろ、それが神の恵みであり、自然な生き方であると取り違えさえするのです。このようにして、自分を楽しませる刺激に過度に(もしくはひっきりなしに)身を委ねることを、私たちは警戒しなければなりません。)

 無知のゆえに、信者の多くは、「霊にしたがって歩んでいる」と感じながら、「魂にしたがって」、すなわち思いや感情にしたがって歩んでいます。信者は活気に満ちた霊の力を奪われています。悪魔の軍勢は、あらゆる策略を用いて信者をおびき寄せ、魂や体によって生きさせようとします。悪魔の軍勢は、閃く幻を心に見せたり、祈りの間思いに出現したり、強烈な喜びや生命の躍動感を体に与えます

(筆者コメント:
キリスト教界で頻繁に、神の名を語って与えられる幻や、祈りの時に信者に与えられる思いや、個人預言などが偽りである危険性がまことに高いことについては、再三、このブログでも触れてきました。それらは全て直ちに信ずるに値するものではなく、御言葉を通して吟味、識別しなければならないものであることには何度も触れました。しかし、ここで注意が必要なのは、別のことです。たとえば、強烈な喜びや、生命の躍動感などといった、一見、宗教とは何の関係もないところで起こる、極めて自然に思われるような感覚でさえ、敵からの欺きの感覚として信者に与えられる場合があることに、改めて注意してください。敵の狙いは、物質界から来る刺激を、私たちに唯一のリアリティとして信じ込ませて、真のリアリティである神の霊の領域から目を逸らさせることです、物質に目を向けさせて、御霊を見失わせることなのです。)


 外から与えられる超自然的事柄や、感覚領域の経験に頼ることは、内側の霊のいのちを妨げます感覚による「経験」というエサによって、霊の真の領域に生きるかわりに、体の外側の領域に生きるよう、その信者はおびき寄せられますその時彼は、自分の中心から行動することをやめ、自分の周辺領域で外側の超自然的働きに捕らえられ、無意識のうちに内側で神と協力することをやめます。そして、霊の敵と戦う聖霊の器官である彼の霊は、機能停止に陥り、黙殺されてしまいます。なぜなら、その信者は感覚的な経験で満たされているからです。その結果、霊は事実上、導く働きをやめ、奉仕や戦いの力を与える働きをやめます。

 聖霊と協力せずに働く人の霊から、深刻な危険が生じます。霊が魂から「切り離され」、支配的になる時、それは全く違った方法で欺く霊どもの影響を受けるようになります。前に示したどれかの方法により、あるいは他の方法により、(無意識のうちに)聖霊と協力することをやめてしまった人を考えましょう。

彼はなおも自分の霊によって導かれています。彼は、「自分の力強い霊は神の力の証拠である」と考えます。なぜなら、他の方面で聖霊が自分を用いて魂を勝ち取られるのを、彼は見るからです。このような幻想の下、彼の霊の中に怒りが込み上げてくるかもしれません。彼は、その怒りはまったく神からのものであると考えて、怒りをぶちまけます。しかし、真の識別力を持つ他の人々は、明らかに神からではない荒々しい調子に気づきます。

(筆者のコメント:
 欺く霊からの影響が、怒りの爆発や、過度な落ち込み、悲嘆など、あからさまにネガティヴな感情となって現れる場合は、周囲にいる人々は、その人が神の霊でないものに影響され、異常事態に陥ったことに比較的簡単に気づくでしょう。しかし、それが、普段より少しばかり大目の陽気さ、かなりの活発さ、多大な喜び、子供のような無邪気さ、歓喜や興奮、楽観、有頂天、自己愛、御霊に基づかない予知能力や、各種の霊的な洞察力となって現れた場合、そのようなものが、悪魔的起源を持つものだと、すぐに人々が見抜くことは困難です。なぜなら、それはすぐにその人や周囲に破滅的影響を及ぼすわけではないからです。しかし、このような影響は必ず、その本人を徐々に、そして最終的に破滅へと導いていきます。)


祈る人が警戒していなければ、語る時だけでなく、戦いの時にも、このようなことがすぐに起きるでしょう。悪魔的な力は、直接的に、または魂的な感情を通して、霊に影響を及ぼします。

 悪霊は人自身の中の神の働きを真似します人が聖霊と協力していない時、彼の霊は悪霊の影響を受けます。神と共に歩むことを求める信者は、この影響を理解し、見抜く必要があります。彼は霊的だからこそ、彼の「霊」は霊の領域の二つの力に対して開かれているのです。彼はこのことを知る必要があります。

もし「聖霊だけが霊の領域の中で自分に影響を及ぼすことができる」と考えるなら、彼は確実に誤りに導かれるでしょう。もしそうだとしたら、彼は絶対に間違いを犯さなくなるはずです。しかし彼は、目をさまして祈り、神の真の働きを偽物から区別するために、理解力の照らしを求める必要があります

(筆者のコメント:
キリストはカルバリーで勝利を取られ、天に昇り、御座につかれましたが、私たちはまだこの時空間に残されて、神とこの世の両方の陣営から引っ張られ、両方の影響を受けながら、神のために戦うことを要求されています。私たちはおびただしい敵に包囲されています。そこで真に勝利するためには、私たちは霊的に目を覚ましていなければなりません。それがなければ、私たちは敗北するでしょう。目を覚ましているとは、敵の働きが深く強力であり、自分では太刀打ちできないことを知り、決して、自惚れや、増長や、霊的怠慢、平和ボケに陥ることなく、絶え間なく、イエスの十字架の死と復活と昇天の力を自分のものとして受け取り、神の武具によって武装し、敵の欺きを看破し、来るべき試みに対して警戒していなければならないということです。)

 「霊的」な信者は、エペソ人への手紙第6章に記されている天的戦いの啓示を、深く熟慮しなければなりません。そして、「神のすべての武具」の経験的な意味を完全に知るよう努めなければなりません。敵の猛攻の「邪悪な日」に際して、彼は神のすべての武具を「取り」、用いなければなりません。

 この現在の時における神の霊の負担は、キリストの体の肢体を完成させること、完全に成熟させることです。それは、彼の再来が速やかに起こり、キリストとその共同の相続人たちの千年間の統治がもたらされるためです。こうして、世界は平和になり、サタンは敗北します。サタンは穴に投げ込まれ、この世の王国は主とそのキリストの王国になります。

 「主イエスよ、速やかに来てください。アーメン」

(筆者のコメント:
 言葉を変えるならば、千年王国が来るまで、戦いは少しも終わってはいないのです。それにも関わらず、キリストの勝利だけを指して、戦いはすでに終わっているので、クリスチャンは警戒する必要もないと思ったり、敵を何らかの団体や組織だけに限定して、それに近づきさえしなければ、自分は守られていると浅はかに考えようとすることは、私たちを敗北へと導くでしょう。
 私たちはこの世の影響に絶えずさらされており、この世は私たちを絶えず魂と肉に従って歩ませようとします。この世から来る全ての影響が、私たちの注意を御霊から逸らせます。しかし、私たちはキリストの身体をさらなる完成、成熟へともたらすために、絶え間なくこの世を拒み、私たちを滅びゆくこの世の影響力、外的刺激、魂の衝動に服従させようとする、敵のあらゆる策略を打ち砕き、それに勝利し、暗闇を駆逐しながら、御霊の照らしを受けて、まことの命である復活のキリストだけを選択し、前進していかなければならないのです。すべての命と勝利は(サタンの敗北でさえ)キリストの中に含まれており、キリストは完全な勝利を取られたのですが、しかし、この時代にあって、この時空間の中で、私たちが真実、それを受け取るためには、私たち自身がキリストの勝利をこの地に現実にもたらし、暗闇に支配される世に光をもたらす必要があるのです。それには、私たちが目を覚まして、敵の策略に一つ一つ打ち勝つことが不可欠なのです。


 どうか御霊の光によって、私たちが、神の霊ではないものを識別し、それらを看破して退け、私たちを、魂と、肉へと引き戻し、感覚に従って歩ませようとする全ての偽りの影響から抜け出すことができますように!)

2009年10月25日 (日)

内なる人と外なる人(2)

「今日、神の霊は人を通して解放されなければなりません。他の人が神の愛を見ることができるには、人の愛がなければなりません。他の人が神の思想を見ることができるには、人の思想がなければなりません。他の人が神のみこころに触れることができるには、人の決定が見いだされなければなりません。

しかし、人の問題は、その外なる人が自分の事柄で多忙すぎることです。彼には自分自身の見解があり、自分自身の思想があります。彼は自分のことで多忙すぎます。その結果、内なる人は解放される道がないのです。
こういうわけで、神は外なる人を砕かなければなりません。」(ウォッチマン・ニー、『霊の解放』、p.53)


 今日、多くのクリスチャンが、神のために働いていると自分自身では思いながらも、その実、自分のための計画や思いや活動でいっぱいになっており、そのせいで、少しも御心を表すことができないでいる。多くの教会が、クリスチャンが、毎週、毎日、自前のスケジュールに従って、ひっきりなしに、「神のために」何らかの活動を続けているのに、それらの活動が、ほとんど実を結ぶこともなく、無駄に終わっているのはなぜなのか、その理由をどれほど多くの人々が真剣に考えたことがあるだろうか。

 しかも、それほど忙しく働いているにも関わらず、彼らと接するとき、私たちは彼らの中に、少しも「キリストの香り」を感じることができない。そこには何らの神のご性質をも見ることができず、ただむき出しの生身の人間性と、頑なな性質以外には、何も感じることができないのはなぜなのか、考えたことがあるだろうか。人々は、自分たちは正しい活動をしているのであって、実を結ばないことこそが、おかしいと考えているかも知れない。しかし、心から神を求める人々は、そのような説明は何かがおかしいと感じ、そこには何か本質的なものが欠けていることを感じ取るだろう。

 私たちがどんなに神のために働いたつもりになっていても、現実には、ただ空振りにおわる諸計画を持って、地上を右往左往し、いたずらに彷徨っているだけのように思われることがよくある。その理由は、私たちが、自分自身の力では、何が滅びゆく魂を起源とする、御心にそぐわない思いや計画であって、何が、真に御霊の指し示す思いや計画であるかを区別する力を持たないために、魂の衝動を、御心であると勘違いして、自己を起源とするむなしい活動にひっきりなしに没頭しているからである。

 私たちは自分の力では、自分の思いや計画がどこから来たのかを識別することができない。霊と魂を区別することができない。自己の魂というものが、どれほど徹底的に自己保存の思いにとりつかれており、自分を喜ばし、自分を満たすことだけを念頭に置いて、御心をおしのけ、御心に反して、自分を守ろうとし、神をも自分自身をも欺くものであるか、魂というものが、そもそも御心からどれほど遠くかけ離れた、呪わしい、汚れたものであるかを知ることができない。

 しかし、たとえ私たちが自覚していなくとも、私たちの天然の自己、魂は、どんなに「神のための奉仕」のような形を装っていても、その実、自分自身のためとい動機に基づいて働いており、私たちの魂から捧げられる賛美・祈り・奉仕は、神の御前には決して受け入れられることはない、むなしい捧げ物である。私たちが自分の天然の魂から来る衝動に真に死んで、霊に導かれて生きるようにならない限り、どれほど必死になって奉仕を積んだとしても、それが神の御国のために役立つ日は来ない。それどころか、私たちが自己の思いを増強する度に、それがより一層、固い殻となっていき、一粒の種の発芽を阻み、御国のために実を結ばなくさせてしまうのである。

 神はこのように自己という固い殻に覆われた私たちの状態を変えたいと願っておられる。神が望んでおられるのは、私たちの天然の自己のエネルギーが弱められ、死ぬことである。そこで、神は私たちの人生において、外なる人(魂、肉体、古き人である自己)を御霊によって処理しようとされる。イエスを救い主として受け入れたクリスチャンには、その人がたとえ気づいていなくとも、神は彼の外なる人に対して、御霊による訓練、もしくは啓示による、魂の取り扱いを開始する。外なる人を、御霊と共に生きているその人の内なる霊に服従させるための訓練が始まる。御霊は、何度も、何度も、根気強く、私たちの人生に臨み、さまざまな障害物を置くことによって、外なる人を傷つけ、環境というるつぼの中で練り、砕き、ろ過し、不要な部分を取り除き、柔軟にしようと働きかけている。

 しかし、私たちは「外なる人が打ち砕かれる」という表現を耳にする時、何と好ましくない印象を受けることだろう。人生に突如として起きてくるさまざまな困難を通して、御霊が私たちの外なる人を取り扱う時、私たちはほとんどの場合、それが神による取り扱いであることを理解せず、ただ何とかして痛みを避けようとして、嵐が静まるまで、逃げ回っているだけである。私たちはこう考える、自分の意志を放棄すると、ロボットになってしまう! どこかのカルト団体に入信している信者のように、自分の意志を全て失い、うつろな目つきになって、ぼんやりと誰かの命令通りに動かされるだけの操り人形になってしまう! 私はそんな風になりたくない! 自分の意志、自分の願い、自分の計画、それらを放棄してしまったら、人間としての私は終わりだ! だから、どんな困難な状況にも屈服してはならない! 私は私の願いを決してあきらめない、私は「私らしく」生き続ける!

 しかし、このような考えがどれほど御霊にとって妨げとなり、私たち自身にとっても、深い欺きとなっているだろうか。神は人の自由意志を尊重される方であり、御霊は紳士的に働かれる。私たちは、神の真実な御霊による訓練を、人間性を奪うためのカルト団体における強制的な信者の訓練と混同すべきではない。御霊は、決して、私たち人間を、自由を奪われた操り人形や、拘束された囚人のようにされるために働いておられるのではない。

 しかし、今日、キリスト教を名乗っている多くの教派の間で、聖霊でないものを聖霊であると偽り、「これは聖霊が言われていることなのだ」と言いながら、人を人に服従させ、支配するための各種の訓練が行われているから、その点については、要注意である。そこでは、神の名を用いて、あらゆる偽りが行われ、人間の自己を砕いて、ただ他の人に服従させるために、さまざまな最新の運動が行われている。そのような場所では、悪しき霊が働いており、私たちはそのような偽の訓練や運動には近づいてはならない。神は私たちを真に自由にするために、訓練を行うのであって、私たちを、意志も感情も思いも奪われた他人の操り人形にするために、外なる人を打ち砕こうとしているのではない。

 私たちが追い求めているのは、人の思惑ではない。誰か人間の指導者による啓発や、訓練ではない。だから、私たちは、人を人に服従させるための諸計画に欺かれないようにしよう。人の考えとは関係ないところで、真に神の御前に静まって、畏れを持って進み出て、次のように祈るならば、真実なお方である神は、きっと私たちの願いに答えてくださるだろう、「主よ、私はあなたの御心を知らなかったがゆえに、これまで、あなたの計画を妨げ続けて来ました。けれど今日、自分自身を改めてあなたに捧げます。私をあらゆる偽りから遠ざけて、ただあなたの真実な御霊によって、導き、啓示を与え、訓練してください。あなたが私を貫いて働くための方法を持つことができますように、あなたが私を通して自由に働くことができるようにと願います。私の自己があなたのご計画の妨げとならないように、私の外なる人を砕いてください。必要な学課を最後まで学ばせて下さい。何が魂であり、何が霊であるかを私に教えて下さい。」

「こういうわけで、神は外なる人を砕かなければなりません。しかしこれは、意志はすべて殺されるべきであるという意味ではありません。この意味は『手のもの』、すなわち、意志の中のあるものは、意思がもはや独立的に振舞うことがないように、はぎ取られなければならないということです。これは、わたしたちの思想はすべて殺されるべきという意味ではありません。この意味は、わたしたちは自分自身にしたがってもはや考えないということであり、また、わたしたちはもはやあらゆる種類の考えを提案することができなくなり、また、わたしたちのさまよう思いによって迷うことがなくなるということです。これは、わたしたちの感情はすべて殺されるべきであるという意味ではありません。この意味は、わたしたちの感情は、内なる人の管理と指示の下に置かれるようになるということです。このようにして内なる人は、思い、感情、意志が、すぐに用いられる状態になっていることを知ります。」(p.54)

 神は私たちから、意志と感情と思いを奪って、私たちをロボットにするために、外なる人を打ち砕こうと願っておられるのではない。むしろ、私たちの自己を限りなく弱めることによって、私たちが内に住まわれる聖霊に柔軟に応じるようになり、私たちがもはや二重性を持たない、内的な矛盾を持たない、真に統一された自由な人として、神のために有用に働くことができるようにされたいのである。

 イエスを救い主として受け入れたその時から、聖霊と私たちとの二人三脚は始まっているのだが、私たちは絶えず、自分だけの意志、自分だけの思いによって、御霊を自分の思う方向へ引っ張って行こうとしているので、両者は絶えず対立し、せめぎあい、私たちは失敗するばかりで、二人三脚は一度としてうまく行った試しがない。にも関わらず、私たちはもっと頑張って、自分の思いで御霊を強く引っ張っていかなければならないと誤解している。だが、必要なのは、私たちがその自分勝手な活動に死ぬことである! 御霊は、私たちの自己に引きずられるのでなく、私たちの自己のエネルギーを極限まで弱め、私たちの外なる人が内なる人と調和して、両者が一体となって働くことを望んでおられる。もしもそれがなければ、決して、私たちは神のために有用な働き人となることはできないだろう。そのために、私たちは自分の手の中に固く握り締めてきたもの――自分のためだけの意志、自分のためだけの計画、自分のためだけの思い――を一旦、放棄して、それを神のためにいつでも用いられる状態へと解放し、自分を御霊に明け渡しながら、共に進んでいくことを学ばなければならない。

 それは決して、私たちが骨抜きにされて、死人のように生気を失ったり、自分の意志も感情も思いも持たずに、命令どおりに動かされるロボットのような状態になることを意味しない。外なる人が打ち砕かれる過程には、確かに、痛みが伴うだろう。しかし、御霊と調和して生きるところには、私たち自身にとっても、真の解放があり、自由がある。なぜなら、そうなって初めて、私たちはもはや分裂のない、統一された「新しい人」として調和の中に生き、神のために豊かに実を結ぶ働き人となるからである。

「霊は、自分自身を表現するために、思い、感情、意志を必要とします。霊は、自分自身を表現するために、死んだ外なる人ではなく、生き生きした外なる人を必要とします。霊は、封印されて触れられていない外なる人ではなく、打たれ、傷つけられ、砕かれた外なる人を必要とします。

今日、最大の障害物はわたしたちです。神の霊はわたしたちを貫き破ることができません。神の霊は、わたしたちの霊の中に住んでおられますが、わたしたちの霊から出て来ることができません。わたしたちの外なる人は、あまりにも満腹しています手のもので満ちていますわたしたちは、外なる人が砕かれて、内なる人が出て来るための道を持つことができるように、神にあわれみを求めなければなりません

 神は、わたしたちの外なる人を滅ぼしません。しかし、神は、外なる人が触れられることがなく、砕かれることがない状態のままであることを許されません。神は、わたしたちの外なる人を通過されたいのです。神は、わたしたちの霊が、わたしたちの外なる人を通して愛し、考え、決定をして欲しいのです。神の働きは、砕かれた外なる人を通してのみ達成することができます。もしわたしたちが神に仕えたいのであれば、わたしたちは、この基本的な対処を経なければなりません。<略>

 外なる人は、真に砕かれた後はもはや独立的には振る舞わなくなります。外なる人は滅ぼされてはいませんが、もはや内なる人と対立していません。内なる人に服従しています。このようにして、わたしたちの中には、ただ一人の人しか残らなくなります。外なる人は粉々に砕かれ、内なる人が用いるのに用意されています。
 外なる人が砕かれた人は、『一体化された』人です。彼らの外なる人は、内なる人の管理の下にあります。<略>

 人が主の御前で役に立つかどうかは、その人の霊が外なる人を通して解放されているかどうかにかかっています。内なる人が束縛されていると、外なる人がすべてのことを自分で行います。<略>主の恵みにより、主が坂道を平坦にし、外なる人を砕いてくださるなら、外なる人はもはや、提案をしたり、決定をしたりすることはなくなります。このことが起こると、内なる人は、外なる人の何の妨げもなく、自由に解放されます。もし主がわたしたちに恵みを賜り、外なる人を砕かれるなら、わたしたちは、自分の霊を活用する上で熟達した人になり、わたしたちは自分の願う時に、霊を解放することができるようになります。」(p.54-57)

2009年10月22日 (木)

内なる人と外なる人

先日、尋常ならぬ引越しに要した並々ならぬ気力・体力がついに限界に達したのか、原因不明の体調不良に見舞われた。昨日は、めまぐるしく浮き沈みを繰り返す気分のために、片時も、落ち着く間がなかった。

 体調が悪くなると、それに合わせて、さまざまな恐れ、不安、ネガティヴな思念が発生してくる。昔は、それが「呪われた死の身体」から発生する雑音であると気づくことさえなく、私は諸々の不機嫌や不安のなすがままに振り回されていた。

 けれども、今は、それらの不安定な感情と思惑が、私の外なる人、(主として)滅びゆく肉体から発生するノイズであり、私の内なる人、内側にある霊とは関係のない事柄であるのが分かる。そこで、それらと少しだけ距離を置けるようになった。だが、依然として、外界や、魂や、肉体の雑音に全く左右されずに、私が内なる平安を保てる人間になったというわけではない。ただ「真のリアリティであるキリストの命とは、こういうもののことではない」と思いながら、それらを何とかやり過ごすだけだ。その間、そのうるさい雑音によって、内なる平安はほとんどかき消されてしまう。

 不快な感覚の中で私は思った。なぜ私の信仰は、こんなにも外的条件に左右されるのだろうか。こんなにぐらつきやすい信仰で、この先、やっていけるのだろうか。どうして、ある日は平安に座していても、他の日には平安に座すということができなくなるのだろう。そんなにも安定がないのはどういうわけだろう。

 不安の中にいると、兄弟姉妹から、的確な助言や励ましをもらった。別段、私の方から、相談したわけでないのに、ある姉妹から、まさにそのテーマについてのメールをいただいた時、ああ、エクレシアは、一つなんだな、と改めて感じさせられた。あるいは、言い換えるならば、これはそれほどまでに、あらゆるクリスチャンにとって、重大問題なのかも知れない。

 今日、神の働きを最も妨げているのは、私たちの外なる人が、御霊によって十分に打ち砕かれていないことである、とW.ニーのある本は告げている。外なる人が、内なる人の働きを妨げる際に発する雑音とは、何も、肉体の弱さや、恐れや、不安や、不機嫌、疲労、多忙、外的な刺激から受ける諸々の影響ばかりではない。また、強情や、おしゃべりや、怠惰や、厚かましさや、高慢などの、あからさまに否定的な性格ばかりが、外なる人の性質を表すのではない。ある人にとっては、陽気すぎる性格、活発すぎる性格が、内なる人の妨げとなるだろうし、ある人にとっては、持ち前の正義感、頭脳明晰さ、善意、優しさ、そんなものが障害となる。外なる人の生まれつきの性質は、人によってそれぞれであるが、いずれにせよ、生まれつきの性質は、御霊によって、砕かれなければならない。

 外なる人は、もし聖霊によって砕かれるならば、もはや内なる人が働く妨げとはならない。外なる人と内なる人との間に調和が生まれ、両者は一致して同じ目的のために(神の御心のために)働くようになるだろう。だが、一粒の麦が地に落ちて死ななければ、麦を覆うその固い殻が、発芽を邪魔し、実を結ぶことは決してない。私たちの外なる人の生まれつきの頑なな性質がそのまま残るならば、それは、生ける水が川々となって、私たちから外に流れ出るのを常に邪魔する。御子イエスは、御霊を制限されることはなかったが、私たちは、救われて御霊をいただいたにも関わらず、魂や肉体、生まれ持った自己の性質という固い殻が覆いとなって、神の地上での自由な働きをほとんど阻害してしまっている。

 そこで、御霊の自由な現れのためには、ヤコブがもものつがいを外されたように、私たちも、聖霊の取り扱いを受けて、生まれつきの性格を処理されなければならないのだが、それがほとんどないために、御霊は監禁状態に置かれ、私たちの中から外に出ることもできなくなっており、恵みの川の代わりに、ただよどみだけがあるというのが、今日の教会の一般的な姿だろう。

「四福音書の根本的な教えは、神が一人の人の中におられたということです。書簡の根本的な教えは、神が教会の中におられるということです。福音書は、神はただ一人の人の中におられたと告げます。神は、イエス・キリストの中におられるだけでした。書簡は、神は教会の中におられるだけであることを見せます。<略>

 全能の神がキリストの中に住んでおられた時、神はやはり全能な方でした。神は、どんな方法によっても、制限されたり、減少されたりすることはありませんでした。今日、神の望みと目的は、教会の中で全能者、すなわち、無限な方であり続けることです。神は、キリストの中で表現されたように、ご自身を教会の中で、自由に表現したいのです。もし教会が制限されると、神は制限されます。もし教会が無力であれば、神は無力です。これは非常に深刻な問題です。<略>

要約すれば、わたしたちの中のどんな障害物も、神に対する障害物となるということです。わたしたちの中のどんな制限も、神に対する制限になります。もし、神が教会を通して解放されなければ、神には前進する道がありません。今日、神の道は、教会を通してです。

 なぜ聖霊の訓練はとても重要なのでしょうか? なぜ、魂を霊から切り分けることがとても重要なのでしょうか? なぜ、外なる人が聖霊の訓練する働きによって砕かれなければならないのでしょうか? それは、神がわたしたちを貫く道を持たれる必要があるからです。決してわたしたちは、このことを、単なる個人的な、霊的な啓発に過ぎないと思ってはなりません。それは、単なる、個人的な、霊的な経験ではありません。それは、神の道と働きに、深くかかわりがあります。これは大きな問題です。

わたしたちは、神を制限すべきでしょうか? 神は、わたしたちの中で、自由を持っておられますか? わたしたちが対処され砕かれてはじめて、神はわたしたちの中に完全な自由を見いだされます。

 教会が神に高速道路を与えるためには、わたしたちは、神がはぎとられることを経験し、神がわたしたちの外なる人を砕くことを許さなければなりません。このことでの最大の妨げは、わたしたちの外なる人です。もし外なる人の問題が解決しなければ、神の水路としての教会の問題は、決して解決することはありません。わたしたちの外なる人が神の恵みによって砕かれるなら、神がご自身の働きへの水路としてわたしたちを採用してくださる方法には、何の制限もありません。」

(ウォッチマン・ニー著、『霊の解放』、日本福音書房、p.89-90)
<つづく>

2009年10月19日 (月)

天幕と祭壇

「神はアブラハムに現れました。それでアブラハムは祭壇を築きました。
この祭壇は罪のためのささげ物のためではなく、全焼のささげ物のためでした。罪のためのささげ物は贖いのためですが、全焼のささげ物は神に自分自身をささげ物とします。

この祭壇は、わたしたちの身代わりになられた主イエスの死を指していません。それは神に自分自身をささげ物とすることを指しています。それはローマ人への手紙第十二章一節で語られた祭壇でした」
          ウォッチマン・ニー、『祭壇と天幕の生活』、JGW日本福音書房、p.6

 「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」ローマ12:1

(JGWの翻訳では回復訳が使われているようでしたので、口語訳聖書から改めて聖句を引用し直しました。)

* * *

 今日、どれほど多くの人が、自分のからだを神に喜ばれる生きた聖なる供え物として捧げる、ということの意味を本当に知っているでしょうか。聖書は、それが、私たちがなすべき霊的な礼拝であると告げており、言い換えるならば、それ以外の礼拝は、霊的な礼拝と呼ぶには値せず、私たちが神の御前に行うべき礼拝ではない、ということを教えているのです。

 「全焼のささげ物が祭壇の上に置かれた目的は何でしょうか? それは完全に焼かれるためでした。わたしたちの多くは、自分を神にささげたのは神のためにあれこれ行うためであると思っていますが、神がわたしたちに求めておられるのは焼かれることです。神は神のために畑を耕す雄牛を必要とされません。神は祭壇の上で焼かれる雄牛を欲しておられるのです。神はわたしたちの働きではなく、わたしたち自身を求めておられるのです

神はわたしたちが自分自身を神にささげて、神のために焼かれることを望まれます。祭壇は神のために何事かを行うことを表徴するのでなく、神のために生きることを表徴します。祭壇は多忙な活動を持つことでなく、神のために生活することを意味します。どのような活動や働きも祭壇に置き換わることはできません。祭壇は完全に神のための生活です。

新約のささげ物は、完全に焼かれた旧約のささげ物のようでなく、ローマ人への手紙第十二章で言われているように生きた犠牲として体をささげることです。わたしたちは日々祭壇の上で焼かれますが、日々生きています。わたしたちは生きていますが、焼き尽くされます。これが新約のささげ物です。」(p.7 太字は筆者)

 今日、自分は神のために奉仕している、と思っている人々のほとんどが、祭壇で神のために焼かれる、ということの意味を少しも知りません。残念ながら、実に多くのクリスチャンが、あれやこれやの活動にいそしむことこそが、祭司として神に仕えることであると誤解し、その活動内容が多ければ多いほど、それが徹底的な献身であると思い込んでいます。実は、そんな活動は、全て祭壇と天幕の外で行われるむなしい人間的な活動に過ぎず、そんな活動によっては、彼らは自分自身の魂のほんのわずか一部さえも、神に捧げることはできないし、それによって聖別されるわけでもない、ということを知らないのです。

 神に仕えるとは、私たちがひっきりなしに、自分が正しいと思い込んだ宗教活動にいそしむことではありません。神に仕えるとは、まず、私たちが全身全霊をいけにえとして、まるごと神の御前に置くこと、自分を神の御前にまるごと、祭壇の上のいけにえとして投げ出すことを意味します。私たち自らが、自分が神の御前に焼き尽くされることを望んで、自分自身を祭壇に横たえることを意味します。それは静止であって、活動ではありません! 私たちは自分の意志、自分の計画、自分の願い、自分自身そのものを祭壇に横たえ、天から下る聖なる火によってそれらが焼き尽くされるのを待ち、自分が死ぬのを待つのです。
 まことの礼拝はその死の後にのみ、可能になります。

 神によって焼かれるというこの経験、聖なる光に照らされて起きる自己の死という経験を待たずして、私たちは神に喜ばれる礼拝を捧げることはできません、また、自分自身を真に聖別された生きた供え物として神に捧げることもできません。つまり、神によって自分自身が焼かれなければ、私たちは祭司として神に仕えることができないのです。

 さて、焼かれるとはどういうことでしょうか。本当に死んでしまうまでに焼かれなければならないのでしょうか。けれども、もし私たちが死んでしまえば、もはや神に礼拝を捧げることもできません。
 ですから、神によって焼かれるということは、死には違いありませんけれども、その死には、場合によって、多少の違いが伴うでしょう。再び、W.ニーの引用です。

「祭壇でアブラハムは彼のすべてを神にささげました。それ以後、アブラハムは衣服や持ち物、すべての物をはぎ取られたでしょうか? いいえ! アブラハムは依然として牛や羊、その他の多くの物を所有していました。しかし、アブラハムは天幕に住む者となりました。祭壇の上で焼き尽くされなかった物だけが天幕の中に置かれました。

ここに一つの原則を見ます。わたしたちが持っているすべては祭壇の上に置かれるべきです。しかし、それでも残されるものがあります。これらの物はわたしたちが使うためです。しかしながら、それらはわたしたちのものではなく、天幕の中に残されているのです。
わたしたちは覚えていなければなりませんが、祭壇を経過していないものは天幕の中に置くことができません。しかし、祭壇を経過した物はすべて焼き尽くされるわけでもありません。多くは火によって焼かれ、何もなくなります。わたしたちが多くの物を神にささげるとき、神はそれらを受け取って何も残されません。しかし、神は祭壇にささげた物のうちいくらかをわたしたち自身のために残されます。祭壇を経過した物で天幕の中に残されている物だけ、わたしたちは使うことができます。」(p.9)

 私には個人的な体験から、このことがよく分かるように思います。以前、私は多くの所有物を持っており、この世の人々と同じ生活をしていました。物だけではなく、行きたい場所へ行き、なりたいものになる望みも、私の所有でした。当時、私は自分が将来、研究者になるものと思っていましたし、行楽的な行事があれば、大勢の人たちと一緒に、退屈をまぎらすためにそこへ駆けつけていました。そして、そんな生活が永遠に続くものと思い込んでいました。覚えていますが、ある年のクリスマスには、神戸のルミナリエに向かう長蛇の列の中に、私は友人と妹と一緒に並んでいました。ありふれた無邪気な楽しい生活でした。その友人が将来、自分の伴侶になるものと私は思っていたのです。

 しかし、ある時、神は私の生活をまるごと焼き尽くされました。何よりも大事にしていたペットの痛ましい死がありました。次に、友人は取り上げられ、家族の中にも剣が投げ込まれました。信頼していた人に裏切られ、親子・姉妹関係は極度に悪化し、将来の夢も微塵に壊されました。
 魂による愛は全て焼き尽くされて、失われていきました。私が憧れていたものも、忌まわしい偶像であったことが暴かれました。私が宗教心だと思っていたものにさえ、卑しい自己顕示欲が含まれていたことが判明しました。通っていた教会は、私をさんざん愚弄した挙句、私を追い出しました。助けを求めた教会もまた私を拒絶し、私の教会籍は悪徳牧師によって地上から消滅させられました。私が敬虔な信仰心だと思っていたものが、どれほど深い虚偽にまみれていたかを、その事件があってようやく、私は知ったのです。

 災いに災いが重なり、ついに、お気に入りの家からも、退去せざるを得なくなりました。高い値段を出して買って、大事に使ってきた家具が、リサイクル業者によって解体されて回収されていきました。私は何事にも抗う力がなく、ただ運命に翻弄されるしかありませんでした。

 そうなってもまだしばらくの間、私はただ自分の願いが砕け散ったことを悲しむばかりで、神が私の生活を聖別するために、私の生活の中に剣をもたらし、私の魂が執着していたものすべてを私から切り分け、不要なものを完全に焼き尽くされようとしているとは知りませんでした。私はさらなる死へと向かっていました。私はまだ人並みの生活に復帰することを願っていましたが、そういう願いそのものが、徹底的に焼かれなければなりませんでした。そして、その死が頂点に達し、自己が殺され、奪い去られるものがもうなくなったという地点にまで達した時、私は、御霊によって、はっきりと悟ったのです。それらのものはすべて、私の自己満足によってかき集めた無用な装飾物でしかなく、私が祭司として神に仕えるに当たり、忌まわしい障害物にしかなりえなかったことを。私が神の御前にどれほど多くのものを所有し、神以外のどれほど多くのものに心を向けて、それらを魂の愛で愛し、それらがどれほど、まことの礼拝の妨げとなっていたかを。ペットや友人や家族への愛でさえ、神を愛することの妨げとなっていたことを。ああ、家族への愛ですら、神への愛の前には、捨てねばならない障害物となる、聖書にははっきりと書かれているその言葉の意味を、今日、どれほど多くのクリスチャンが真に知っているでしょうか!

 今は分かるのです。次の御言葉の意味が。

「わたしをあなたの心に置いて印のようにし、
 あなたの腕に置いて印のようにしてください。
 愛は死のように強く、
 ねたみは墓のように残酷だからです。
 そのきらめきは火のきらめき、最もはげしい炎です。
 愛は大水も消すことができない。
 洪水もおぼれさせることができない。
 もし人がその家の財産をことごとく与えて、
 愛に換えようとするならば、
 いたくいやしめられるでしょう。」(雅歌8:6-7)

 私たちの心の中には、神への愛と並び立つもの、神への排他的な愛の妨げとなるものは、何一つあってはなりません。カナンの地に至るまでの荒野で、モーセに導かれながら、どれほど多くの民が、神への愛を裏切ったために、剣や、疫病や、災いによって命を落としたでしょうか! どれほどの悲劇が彼らを見舞ったでしょうか。神の愛はねたむ愛です!

 イエスがこう言われたことを、私たちは思い出すべきです、
「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう。」(マタイ10:34-35)

 まことに神の愛は排他的な愛です。それは魂の愛と、霊の愛とを切り分け、人が常に賛美しようとする魂の愛(家族愛、夫婦愛、親子愛、友愛、自己犠牲、等)を、神への愛の障害物として退けるのです! まことの光が来る時、私たちは、自分が魂の愛で愛していたものが、神の御前に呪わしい偶像であることを知るのです! そうして、魂の愛と、霊の愛とが対立するのです。
 神の愛は、あらゆる偶像に対して、洪水や、焼き尽くす炎となって残酷に燃え上がります。ノアの時代の堕落した人々に対して、神の愛は洪水となって押し寄せました。神よりも世を愛する者に対して、神の愛はどれほど残酷な結果をもたらすでしょうか! 神の御前に、不純物は全て、朽ちない炎によって、永遠に焼かれなければなりません。ですから、私たちは、二度と神の愛から離れてさまようことのないよう、御霊によって、自分の心の中に、御心を印のように押される必要があります、私たちの心が、神の掌の中に彫り刻まれて、両者は二度と別れることのないよう、堅く結びつけられなければならないのです。

 まことに、神と私たちとの愛の中には、他のものは何一つ入り込む余地がありません。神の私たちへの愛は、すべてを焼き尽くすほどに残酷で、恐ろしいまでに排他的な愛なのです。神以上に何かを愛したために、それらのものを奪い去られる苦悩を、私たちのうちどれくらいが、経験したことがあるでしょうか。神が私たちの愛の真実性を試すために、私たちからすべてを奪い去られる試練を、どれくらいの人々が真に経験したでしょうか。
 神は私たち愛する者をヨブのような究極的な試練の中に投げ入れます、そして、ご覧になるのです、私たちが本当に、心の底から、ただ神だけを愛し、求めているのか、それとも、あれやこれやの財産、家族、平和、豊かさがあったからこそ、一時的に、神を賛美していただけなのかを。

 神の歓心をお金で買うことはできませんし、活動によって買うこともできません。私たちは「神のために」自分が盛んに奉仕している時、それによって神を喜ばせていると思うかもしれません。しかし、私たちは知らないのです、自分が、財産や活動によって、神の歓心を買おうとしているだけの卑しい商売人であることを! 神は私たちのあれやこれやの部分的な捧げ物や、活動によって、喜ばれるような方ではありません。まるで道端のお地蔵さんに供え物をするようにして、私たちが自分の活動と供え物をちょっとだけ捧げて、それが神を喜ばせるだろうと考えるべきではありません。

 神はあなたのすべてが欲しいのです! あなたのすべてを要求されるのです! あなたの心のすべてがただ神にだけ注がれることを神は願われるのです。他のものにあなたが一瞬でも目を向けることを、神は望まれないのです。あなたのすべてをまるごといけにえとして神に捧げることだけが、神を満足させる供え物となり得るのです。そこにあなたの家族はいるべきではありません。あなたの財産もあってはなりません。あなたの将来の夢もありません。ただあなた一人だけが、裸一貫で神の御前に立ち、あなたの最大の捧げ物であるあなた自身も、御前に完全に焼き尽くされるのです。あなたの捧げ物は、何一つ、この世にあなたの手柄として残りません。むしろ、そうして自分を捧げる毎に、あなたという人は、まるでこの世から消えていくかのようです。あなたはますます世から遠ざかり、世のことを気にも留めなくなり、あなたの捧げ物は、この世ではその痕跡さえ残らないほどに、徹底的に焼き尽くされ、ただ見えない永遠へと移されて行くのです。

 しかしながら、捧げられてなお、残されるものがあります。今、私の天幕の中に、神は多くのものを残しておられます。なくなったものもありますが、再び与えられたものもあります。まず、絶体絶命にあった私自身が生き残りました。次に、家族関係が良好になって、再び上から与えられました。私の家具もいくらか残りました。一年の間、全く誰にも使われることなく、ガレージに雨ざらしになり、くもの巣が張っていたガスコンロが、再び私の家で使われています。電源を入れられることもなかった冷蔵庫も、再稼動しました。愛していた小鳥の一羽は残っています。その他、いくらか、私の持ち物は残され、いくらかのお金も与えられました。偽教会の虚偽の交わりの代わりに、新たな兄弟姉妹との交わりが与えられました。

 けれども、私は知っています、それらが決して私の所有物にはなり得ないことを。それらは祭壇を経過して、天幕に残されたもの、あるいは後に主によって与えられたものです。それらの物は私が自由にできるものではなく、私の財産でもありません。ただ神にお仕えする生活の中で、必要最低限、使用するために、私に与えられたものであり、私は二度とそれらのものに心惹かれ、しがみついてはならないのです。
 ですから、家族関係が良好になっても、やはり、私は神の御前に家族を捨てて、旅立つのです。ペットにも未練を持ちません。将来の夢も捨てました。著書を発行して、名を馳せようとか、立派な研究者になりたいとかいった夢はもうありません。私の職業は祭司(神に仕えること)であって、その他の職業を持ちたいとも思わないのです。私は何ものをも所有しておらず、それらに執着することは二度とありません。そんな私は、世間には、冷たい人、変人と思われるかも知れませんが、私は全焼のいけにえとなって御前に捧げられたのです。私の心には、もはや神以外のものは、何もあってはならないのです。

「祭壇がある時、もはやわたしたちの物は何もありません。祭壇を経過して残った物はすべて天幕の中に置かれました。もはやわたしたちの心を支配する物は何もありません。
わたしたちの良心には神の御前で平安があります。そしてわたしたちは大胆に神に言うことができます、『わたしはあなたに対して保留しているものは何一つありません』。

こうして天幕は祭壇に導き戻します。もしわたしたちの持ち物が根づいて、それらを落とすことができず、もはや動かせないなら、わたしたちはこれらの物によって縛られ、決して第二の祭壇は存在することがないでしょう。」(p.11-12)

 どうか主の御前に、私たちが何かを所有しようとすることがありませんように! 私たちの持ち物が、地に根を張り、それによって私たちが再び縛られ、この地に根づいてしまうようなことがありませんように!

 「天幕とは何でしょうか? 天幕は移動できるものです。それはどこにも根を張らない生活です。」(p.7)

 ある兄弟が遊牧民になりたいと言いました。しかし、私たちクリスチャンはまさに遊牧民も同然です。私たちは、この世では寄留者なのです。地での生活が、私たちが根を張る場所となることは決してないし、また、あってはならないのです。

2009年10月16日 (金)

荒野を生きる

命が測られるのは、得ることによるのではなく、失うことによる;
どれだけぶどう酒を飲んだかによるのではなく、どれだけぶどう酒を注ぎ出したかによる;
なぜなら愛の最大の力は、愛の中で犠牲にすることであり、
最も深く苦しみを受けた人が、最も多く与えるものを持っているからである。
          
自らを最も苛酷に取り扱う人が、最も神のために選択することが容易であり;
自らを最も傷つける者が、人の涙を最も拭うことができ;
損失と剥奪に慣れていない人は、鳴り響く鐘や騒がしいシンバルであるにすぎない;
自らを救うことのできる人は、すべてに勝る喜びを持つことがない。
                              ウォッチマン・ニー


 (上記の文章はウィットネス・リーに関する記述を含むサイト「今の時代における神聖な啓示の先見者ウォッチマン・ニー」からの引用です。著作権の関係上、このサイトを記述しましたが、私とこのサイトを記述した団体との間につながりはありません。)

 上記のニー兄弟の言葉は、クリスチャンに対する自虐の勧めではありません。今日、クリスチャンでなくとも、自分のために自分を傷つけ、自分のために自分を過酷に取り扱い、あるいは、誰か親しい人や、指導者や、特定の組織や団体のために自分を進んで苦しめ、進んで損失と剥奪に耐えようとする人たちは沢山います。

 ある人はトラウマのために、自傷行為にふけり、ある人は「正義」のためにカルト団体の圧制に耐えます。しかし、それらの苦しみと損失は、すべて、滅びゆく肉のために、朽ちゆく魂のために支払われた代償であり、朽ちゆく地上の富のために支払われた損失であるために、永遠の朽ちない宝に還元されることは決してありません。
 上記の文章は、そのようにして、肉なる者が、肉なる者のために進んで苦しみに耐えるという、人間の自虐的、または自己犠牲的な生き方を奨励するために書かれたものではありません。

 私たちが自分の命を失い、損失と剥奪に耐える価値があるとすれば、それはただ一つの場合だけです、つまり、それが自分や誰かという生まれながらの人間を救うために支払われる代価ではなく、ただ見えない世界に永遠に存在する神への愛のために支払われる代償である場合です。

 私たちは朽ちる世界に富を積み上げるのでなく、朽ちない世界に富を蓄えるために召し出されています。地上ではなく、天に宝を積むように召し出された者がクリスチャンです。しかし、私たちは何と多くの捨てられない宝を地上に持っていることでしょう。何と多くの地上的な富が私たちの視界をさえぎり、この地上とは別に永遠の世界があることを見えなくさせていることでしょう。

 人間の魂が朽ちゆくものであり、腐敗した旧創造、肉なるものに属していることを一度も知らされたことのないクリスチャンたちは、それとは別に、キリストの復活の命に属する霊的な世界があることを知らないがために、魂から発する愛情を賛美します。人間の魂の世界においては、肉親への愛情は、恐らく、最高の価値を持つ愛情としてたたえられていることでしょう。あらゆる詩が、文学が、人間の人間への愛や犠牲を誉めたたえます。しかし、聖書は、それよりもはるかに高い愛、いや、魂と肉の愛には対立する、それとは次元の異なる愛があることを教えています。それが、神の愛です。

 神の愛は、肉なるもののあらゆるつながりを越えて、上位(至高)に存在するものであり、魂から来る愛を完全に焼き尽くしてなお永遠に残る最高の価値です。神の愛の前には、人間の魂と肉から発する愛情、すなわち、この世的な愛情は、不純物にしかならず、忌まわしいものとして拒絶され、価値あるものとして残ることは決してありません。

 このことを言うと、きっと多くの反対があるでしょう。禁欲主義だと誤解する人々も現れるでしょう。私が世的な愛と楽しみを酷評する度に、どれほど多くの反対がやって来るでしょうか。確かに、神は大いなる憐れみを施して、クリスチャンのために、日々の糧を備えてくださいます。私たちは主にあって、この世に生きることを楽しんでいますし、恵みを享受しています。人間である私たちはこの世で命を存続させることなくして、地上で生きていけません。毎日与えられる食べ物は私たちにとって欠かせない満足であり、家族の愛は慰めであり、この世界の美は、あらゆる場面で私たちを楽しませます。

 しかし、クリスチャンは知っているのです、それらの地上的な愛と満足と楽しみが、根本的には、神の愛と対立するものであり、決して永久に続くことのない、一時的なものでしかなく、滅びゆく性質を帯びたものであることを。

 御霊によって生まれた者は、そのような満足をどこかで厭わしく思っています、決して、呪われた死の身体が毎日のように貪欲に要求する活動によって、本当に満足させられることはありません。クリスチャンは、朽ちることのない、揺るぎない価値によって生きることを真剣に追い求めています、目には見えないが、目に見えるもの以上のリアリティを持ったお方の中で生かされることを求めています、私はありてある、と言われる方の命につらなって生きることを求めています、そして、それはただ、人となって地上に来られたキリストの復活の命を受けることによって、私たちが永遠に導きいれられることを通してのみ、成り立つものであることを知っています。

 金持ちが天国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいと、イエスは言われました。キリストの復活の命に至る小さな狭い門を私たちがくぐりぬけようとする時、私たちの肥大した自己がつっかえ棒になります。私たちが両手に抱えきれないほどぶらさげている財産(世の楽しみへの執着)が邪魔になります。肉親への愛が障害になります。

 ここで、私たちが人知を振り絞って企画した各種の宗教活動さえも邪魔になると言えば、多くの人たちが首をかしげるでしょう。しかし、言わねばなりません、私たちが心から神を愛し、賛美していると自分で思っている時でさえ、私たちのほとんどは、ただ自分の魂の善意を働かせ、自分の肉と魂を喜ばせることをひたすら追い求めているだけであることをもっと知るべきであると。

 多くの人々は、自分が信仰心だと思っているものが、実は魂のエネルギーから出た活動であり、人間の所有欲、自己顕示欲など、各種の欲望と密接に結びついて生まれたものであることを知りません。
 神のため、という名目で、今日、あらゆる教会で終わりなく行われる興行的なイベントは、一体、誰のために催されているのでしょう。美しい賛美歌は、誰のために歌われているのでしょう。私たちは根本的に勘違いしているのです、霊的な礼拝の本質が、人間の魂の活動の中にはない、ということを知らないのです、そして、自分たちが、肉体に鞭打って、魂の力を極限まで働かせて、宗教的な名前を冠したイベント活動にひっきりなしにいそしみ、絶え間なく刺激を受けて、何らかの活動を成功に導き、自分と人々を喜ばせることが、同時に、神を喜ばせることにつながり、霊的な礼拝になりうると勘違いしているのです。

 私たちは「主のために」、知恵を振り絞って、善良な計画表を練ります、今まで以上の素晴らしいメッセージや賛美歌をもひねり出します、今日の成功で満足せず、明日は神のためにどんなに内容の充実した催しを企画しようかと、終わりのないスケジュールを思い巡らし、兄弟姉妹たちを集会に招いてどう助けるべきか考え、彼らに教えています。集会が大きくても小さくても、私たちは自分をとても信仰的だと思って満足し、自分の善良な計画表にうっとりしています。とんでもありません! そんなものはもう沢山です! 

 それは片時も鳴り止まない、迷惑でうるさい鐘、騒がしいシンバルと全く同じです。私たちは自分の出番を決して失いたくないがために、指揮者も、楽譜も、音楽全体を無視してまでも、自分のシンバルをひっきりなしに叩き続けている迷惑な奏者と同じなのです。
 
 今日、神が私たちに望んでおられるのは、そんなむなしい活動ではありません。むしろ、私たちが自分のシンバルをさっさと捨て去ることを、恐らく、神は望んでおられるのではないでしょうか。私たちが自分の血と汗と涙(または魂から来る衝動と喜びと満足)によって練り上げたその愚かしい自己満足的な計画表を捨て去って、自分自身の力で神を喜ばせようとすることに絶望して、肉と魂にとって、まさに無一文の状態に戻り、御霊だけがすべてを始められるように、ただ制止して待つことを、神は願っておられるのではないでしょうか。私たちが自分の出番を作りたいと願う心さえ放棄し、肉と魂によって捧げるカインの礼拝を捨て去り、霊によって捧げられるまことの礼拝とは何かを、真に見ることこそ、神は私たちに願っておられるのではないでしょうか。

 人間がひっきりなしに人知によって考え出す礼拝は、人間の善意と活動意欲を満たすことはあったとしても、神と喜ばせる礼拝にはなり得ません。霊とまこととによって捧げられる礼拝とは一体何なのかを、私たちはもっと知る必要があるでしょう。

 朽ちない霊の世界には、霊なるものしか持っていくことはできません。それなのに、私たちはそこに至るまでに、当然のごとく焼き尽くされていなければならないあれやこれやの財産を、どうしても手放したくなくて、手を鋤にかけてから、後ろを振り向いているのです。そんな私たちにとっては、天国に至ることは、まさに針の穴をくぐるように困難であることでしょう!

 神は今日、御子イエスがそうされたのと同じように、見えない神の御心のために、見える世界を犠牲として喜んで捧げ、手放すことを知っているクリスチャンを求めておられるのではないかと私は思います。自分を喜ばせ、楽しませる手段に事欠かない、物質界のオアシスのような時代にあって、神が私たちに求めておられるのは、荒野を生きること、オアシスを荒野のように生きること、すなわち、肉と魂に果てしなく絶望し、その腐敗した活動を放棄して、自分を喜ばせるために生きることをやめて、自己に死んで、ただ朽ちないまことの命だけによって生かされることを学んだクリスチャン、キリストの十字架を通して、肉と魂に死に、日々それを拒否して、御霊によってのみ生かされることを学んだクリスチャンこそが求められているのではないでしょうか。

 人生が荒野のようにつらく厳しい時には、私たちは否応なしに神の懲らしめの学課を学びますが、人生がオアシスのように豊かな時に、その学課を自ら学べる人はほとんどいないのです。願わくば、神が私たちに知恵を与えて下さり、私たちが、物質世界の豊かさが、霊的世界の豊かさからどれほどかけ離れているかをはっきりと知ることができ、魂の活動に絶望して、ただ御霊だけによって、真のリアリティであるまことの命を生きるために、必要な学課を学び取ることができますように。

2009年9月25日 (金)

いつもただキリストを思う

「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。彼は、すべての人のあがないとしてご自身をささげられた…」(Ⅰテモテ2:5)

「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。」(Ⅱテモテ2:8)

「いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。」(Ⅱテモテ3:12)

* * *

 今日、家族とのお別れ会を済ませた。誰もがくつろぐ、なごやかな席となった。主が我が家に与えられた平和。どんなに得がたい贈り物だったことだろう…。

 自己に死んで以来、主にあって、私は俄然、健康を取り戻した。毎日、1.5~2人前くらいの食事を摂っている。これまでになかったことだ。生きる意欲が、内側から回復しているのが分かる。
 本当に、主が共におられると、不思議極まりないことが、毎日、起こる。まるで何十年間も盲目だった人が、急に目が見えるようになったように、私は今までと違った世界を目のあたりにして、毎日、目をしばたたいている…。

 不思議の第一は、毎朝、目覚めた瞬間から、ただ主のことだけを考え続けていることだ。石の心が取り除かれ、肉の心が与えられた。私の思いがすっかり変えられてしまった。今やイエス・キリストに関わること以外は、何一つ、私の気を引かなくなってしまった…。

 ある人々は、それを宗教マニアだと笑うかも知れない。キリストを第一優先すると言いながら、マニアックな狂信に落ちているだけだと…。だが、第二の不思議は、私が人情にも義理にも価値を置かなくなったことだ。人からの外面的評価を意に介さないので、冷たい人間になったと思われるだろう。以前に大切にしていた諸々の人間的価値が、私に対して死んでしまった。

 特に、人知によって塗り固められた偽りの宗教、偽りの道徳、人間の作り上げた各種の倫理道徳的しがらみに対して、私は強い嫌悪を催すようになった。この世の価値観に嫌悪を催すことはあまりなく、何にもまして、耐えられない思いがするのは、宗教的偽善に対してである。神を崇めているように見せかけながら、その実、人間の努力を誇ろうとする心、人の血と汗と涙の結晶としての宗教的道徳や、宗教的遺産を誇ろうとする心、善を装いながら、その実、肉なる人間を立てようとする偽善、義理人情に縛られた遠慮と執着…、そういうものに、嫌悪を催すようになった。生まれながらの人間が、生まれながらの人間(死体)を延命させるために作り出す各種のきれいごと、括弧つきの善意こそ、何にもまして、耐えがたいものとなった…。

 生まれながらの人間の努力の結晶を弁護しようとの気持ちは、私にはもうない。たとえそれがどれほど敬虔な信仰心に見せかけられていたとしても、だ。生まれながらの人間の善意は、全て、死すべきものである。人間の努力によって作り上げられる宗教など、さっさと滅びた方が良い。それを擁護しようとの気持ちは、私には毛頭ない。だが、このように言えば、きっと、先人の努力を理解しない、人類の偉大なる宗教的遺産をないがしろにする、冷たい、独りよがりな人間だとの非難を免れられないだろう。だが、たとえそのような非難をこうむったとしても、構わない、イエスの復活の命以外のものを賞賛したいという気持ちは、私にはもうないからだ…。人間の努力による独りよがりの礼拝は、もうやめよう…。

 さて、話題を戻せば、今夜はただ美味しい食事にあずかれただけでなく、満足そうな家人の顔を見ているだけで、十分に満たされた食事会であった。血肉による家族に平和が戻ってきたことが嬉しいのではない。血肉による家族が、私の家族なのではないことは分かっている。私の家族は主によって生まれた兄弟姉妹だ。しかし、魂を失ったことによって、魂を得た。家族の魂を失ったことによって、私は彼らをもう一度、得たのだ…。

 自分の努力によっては、どうしてもつかめなかった平和が、そこにあった。ラバンがヤコブをさんざん苦しめたように、彼らは私の人格を燃え盛る炉の中に投げ入れ、そこで不純物である私の自己を死なせる役割を担った。それは主のご計画の中で許された出来事であったが、肉なる私にとっては、何と苦しい試練に感じられたことだろう。何十年間、その火に苦しめられて生きてきたことだろう。
 それが今や終わり、私たちは一切の隔ての中垣を取り除かれて、共に和解のテーブルに着いた。私が死んだことによって、和解が訪れた。自分の力では、自己に死ぬことさえもできなかった。すべてが上から、主によって与えられたことであり、私の努力による達成は何一つもなかった(何か誇れるものがあるとしたら、それはあまりにも不完全で不平だらけのみっともない忍耐だけだろう)。これは、どんなに神に感謝しても足りない恵みだ。

 新しい土地で、何が私を待っているのかさっぱり分からない。何のために主が私をそこへ持ち運ばれようとしているのか、今は全く不明だ。だが、主が私を祝福のうちにこの地から送り出そうとして下さっていることが、とても嬉しい。
 以前にも書いたことだが、神が召し出された者たちは、何らかの方法で世から隔離され、特別な忍耐の要求される苦境を通らされるように感じられてならない。私たちが自分から世を出て行くのではなく、不思議な方法で、自然と、世から遠ざけられ、患難が向こうからやって来るのだ。私のこの一年間の孤独と苦痛も、主が私に与えられた一種の隔離であった…。

 今は、主にあっての兄弟姉妹たちが与えられているので、私は一人ではない。初めは、このつながりが、この先、めまぐるしいほどの勢いで、強化され、増えていくのだろうと思っていた。しかし、そうではないことに気づいた。世からの隔離は、これからも終わらないだろう…。

 私は神の御前に、独り者として、これからも、歩み続ける必要がある。必要に応じて、交わりは与えられるだろうが、それにしても、荒野で、ただ一人きりで御前に立つこと、キリストにのみ捧げられた純潔の花嫁として、神の御前にただ一人で立ち続けること(これは生涯を独身で通すといった世的な意味ではない)が、私の神への真心の証としてこれからも求められるだろう。ただイエスお一人だけを見上げ、イエスだけに心を注ぎ出すために、私は荒野に導かれたのであり、ある意味で、荒野は終わったが、これからも荒野は続くのだ。

 御子の降誕を告げる天使の歌声を聞いた荒野の羊飼いたちのことを思う。一体、なぜ、天使たちの麗しい歌声を聞く特権を、他でもない貧しい羊飼いたちが得たのだろうか? 彼らに信仰心などというものがあったのだろうか? 分からない。どうして神が、彼らを選ばれたのか、分からない。東方の博士たちにしてもそうだ…。けれども、神はいつもそのような不思議な方法で働かれる。神は人の誉れの集中する場所には決して現れず、取るに足らない、打ち捨てられたような人々に眼差しを注いでおられる…。

 だから、私は今までと同じように、何の荘厳さもなく、きらびやかさもない荒野にいよう。そこで、静かに、差し向かいで神を礼拝することを続けよう。そこには、人知による信仰の手引き書は一切なく、いかなる方法論もない。目に見えるレールはどこにもない。御言葉なるイエスという見えない道を、御霊に従って、進んでいくだけだ。不安と言えば不安だ。レールがないのだから。けれど、真実と真心を主に捧げ、この先の道を示してくださいと主に願い求めながら、一歩、一歩を進んで行こう…。

 道は見えないが、霊には安息がある。今、分かっていることは、私は自由とされたのだから、二度と奴隷のくびきにつながれてはならないということ。そして、我が主が地上において、そしられたように、私も恐らく、この先、同じか、それ以上にそしりを受けるようになるだろうということ。そのそしりは、世から来るのではなく、何よりも、信心深い信者を自称する人々から最も激しくやって来るだろう。

 今はキリスト教においても、異端が花盛りだ。人々が健全な教えに耐えられなくなり、自分の好みに合わせて、よりどりみどりの教師や、カウンセラーを立てては、そこに殺到している、背教の時代である。そんな中で、偽教師たちを告発するような、まことの信仰者が現れれば、逆に、彼らこそが偽物であるかのように攻撃され、中傷されるのは当然だろう。

 (偽教師を人知によって見極めることは不可能な場合があることによくよく注意されたい。何が本物であるか見極めるためには、真実、御霊による証印を受けていることが不可欠である。クリスチャンには絶対に聖霊に導かれることが必要である。そのことを何度でも繰り返したい。)

 だが、厳しい迫害の中でも、しっかりとイエスに従う人々の道は、必ず守られるだろうことを信じて疑わない。このパラドックスを何と言い表せば良いだろうか。私は、手ぶら同然で出かけようとしているのに、豊かになることを信じており、何の保証もないところへ踏み出すのに、安全が守られると信じ、荒野へ導かれると思いながらも、ますます兄弟姉妹との愛の一致の中に入れられることを疑わず、落ち着き先がないのに、自由であると感じ、迫害を覚悟しながら、ますます栄光に満ちた姿へと変えられることを信じている。

 主は不思議な方であり、主が用意された矛盾の中を生きることは楽しい。私の魂と肉から出た計画には滅びあるのみ。私の思いをはるかに越えて、何にもまして優れた主の御旨がなりますように。

 さて、この先、しばらく、ブログはお休みです。皆様、良い秋をお過ごしください。

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