義人は信仰によって生きる

2017年2月11日 (土)

人類の偽りの自己救済の努力としての労働の不毛性―一億総活躍社会という偽りの救済論と、プロテスタントにおける救いの代替物としての労働―

「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」(マタイ7:21)

最近、ある会話の中で、プロテスタントのキリスト教界は、神が全く喜ばれない、呪われた場所へと変わっているということが改めて話題となった。信仰を持たない人間から見てさえ、プロテスタントで起きている出来事は、異様に見えているのである。

多くの一般人は、キリスト教に対して、決して悪い印象は持っていない。だが、教会となると話は別だという人も多い。キリスト教には好感を持ち、聖書の神には一定の敬意を払っていても、教会組織にだけは属したくないと考えている人たちの数は相当数に上る。そういう人たちは、現在、キリスト教界で起きている出来事を見れば、こんな組織だけには絶対に属したくないと改めて願うことであろう。

杉本徳久のような人物は、プロテスタントなしには決して登場することのなかった人物であると筆者は思う。このような人間が現れたこと自体が、プロテスタントの終焉を何より物語っているが、同氏が、長年、数多くのクリスチャンに対する迫害に及び、聖徒らを次々と泥沼の裁判に引きずり込んでは、神が贖われた聖徒らに有罪を宣告することを願い、クリスチャンの平和で穏やかな信仰生活を妨害して来たことや、また、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師が、教会を訴え、牧師を訴えては、クリスチャンの平和な信仰生活を妨げている様子を見ても、プロテスタントからは、すでに聖書の御言葉に従う生命の息吹きが消え去り、キリストの香りが消え去り、その代わりに、全く別な異質な霊が持ち込まれ、以前とは全く異なる別の堕落した宗教へ変質しつつあることが明白である。

筆者は、村上密牧師や杉本徳久を率いるものは、まさに「プロテスタントの霊」ではないかと考えている。杉本は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の出身で、とうにプロテスタントを去っていると言われるが、それにも関わらず、自ら去ったはずの「プロテスタントの霊」と未だ訣別せず、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の弊害とも訣別することができないでいる。そのことは、杉本が村上牧師の行って来たカルト被害者救済活動との訣別宣言を出すことができない事実に最もよく表れている。

こうした事実を見ても、筆者に思い起こされるのは、キリスト教界への批判が高まっていた2009年当時、「カルト二世」と呼ばれる人々が、信者の中に数多く出現していた事実である。これは一般に多くが団塊の世代の子供たちの世代に属し、リーマンショックなども経験して、当時、生きづらさを抱えていた世代であるが、その中でも、たまたま親がキリスト教徒であったがために、幼少期から教会で宗教教育を受けさせられ、そこで受けた誤った宗教教育がもととなって、大人になってから社会に適合できなくなり、思想的にも生きづらさを抱えることになったと自ら告白する元信者たちが相当数、現れた現象を指す。

当時は、そのような生育歴を持つゆえに宗教教育の歪みを理解する人々が、インターネット等でキリスト教界の現状を語り、一体、自分が受けた教育のどこに問題があったのか、なぜその宗教教育が誤っていると言えるのかについて考察していた。当時は比較的、冷静な議論が多く、キリスト教界の諸問題について、かなりあけっぴろげで自由な議論が穏やかに交わされていた。キリスト教界を断罪するためでなく、その弊害から抜け出すために何が必要であるかが、多くの信徒たちによって、穏やかに厳粛に論じられていたのである。

杉本のような人物も、まさに「カルト二世」というカテゴリーに当てはまると言えるのではないかと思う。要するに、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団によって、人生の決定的に重要な時代に、誤った思想を植えつけられたがために、この教団を出てもなお、誤った思想に苦しめられ続けている一人である。そうであるがゆえに、当時、自身のブログにおいても、激しいキリスト教界への批判を繰り広げていたものと思われる。

しかしながら、誤った宗教教育のために生じた苦しい状態から解放されるかどうかは、あくまで本人が自分に植えつけられた思想の誤りにどれくらい気づき、それとどの程度、訣別することができるかによる。

冷静な考察や、穏やかな分析により、教え込みの誤りに気づいて離れられた人たちは幸いであるが、それができない人々もいる。後者は、たとえ自分たちを束縛する偽りの思想を憎み、告発したとしても、その思想と手を切るどころか、むしろ、より一層、深くその道具となって生きることになる。

杉本徳久の生涯を通して、我々が見ることができるのは、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の理念の恐ろしさだけでなく、幼少期や青春時代にこの教団に関わった人々が、その理念の間違いに気づき、この教団を脱したとしても、それだけでは問題は終わりにならないという事実である。たとえ教団を出たとしても、この教団の理念や、教団の牧師の活動に依然として積極的に関わり続ければ、その人は、教団から出たことにはならず、たとえ他の宗教団体に去っても、誤った思想を引きずり続けて、その思想の手先となって生きるしかないのである。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に限らず、人間は誤った理念を持つ団体に気づかず接触してしまうことはありうる。問題は、そういう事件を100%防ぐことにあるのではなく(100%防ぐことは誰にもできない相談である)、その団体が誤っていると気づいた時に、そこに接近した自分自身の誤り、その思想に身を委ねた自分自身の誤りを認めて、その悪しき理念と本心から訣別し、それと二度と関わらないことを誓って、新たな人生へ踏み出すことができるかどうか、その一点にかかっている。

筆者は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を出た人間が、いつまでもこのような教団に関わり続けることに全く意味はないと考えている。そこから離れたならば、思想的にも、この教団とは訣別し、人生を穏やかに再スタートさせた方が良いであろう。

しかし、杉本徳久については、残念なことであるが、多くの人たちが指摘していたように、すでに引き返せる橋をとうに超えてしまったようである。それは同氏が数多くのクリスチャンを断罪する作業に自ら手を染めた時点からすでに判明していたことであるが、現時点では、同氏においては、聖徒らとの和解はもはや永久に不可能となってしまったという印象を筆者は受けている。

これは非常に恐ろしい厳粛な現実でもある。人の肉眼で見える対立は、ただ単に人間的な確執のようにしか見えないかも知れないが、そこにクリスチャンが関わっている場合には、その人間的な対立の背後には、必ず、霊的な対立が存在する。そこで、聖徒らに対して一線を超える罪を犯してしまった人間は、この地上だけでなく、永遠の領域においても、罪を赦される可能性を失い、生きているうちに神に立ち戻る道が永久に絶たれ、不可能となってしまうことが実際にありうるのだという実例を、同氏の例を通して見ることが出来るように思う。どんなに聖徒らが憐れみをかけたとしても、本人の中にもはや立ち戻る道が絶たれてしまっているのである。

神が贖われた聖徒らに対してどういう態度をとるかは、その人が神に対してどういう態度を取っているのかをはかるための重要な指標である。聖書は、兄弟姉妹を愛せない人間が、神を愛することは絶対にできないと告げているからである。

「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」(Ⅰヨハネ4:20)

そこで、聖徒らを裁判に引きずり込んでは罪に定めることに血道を上げるような行為は、まさに、神に対する愛の全くない人間だけが取り得る行動であると言える。そのような願望を抱くこと自体が、キリストの御霊とは程遠い、神から来るのではない別な霊、しかも、クリスチャンを大々的に迫害した皇帝ネロの霊、「兄弟たちを訴える者」と同じ霊の持ち主だけが可能な行為である。

だから、そのような願望を積極的に抱く人間が、聖徒らとの和解の道を失い、ますますキリストの十字架に背を向けて、「キリスト教徒の迫害者」になって行くのは必然的な結果なのである。

そのような恐るべき欲望の持ち主は、キリスト教徒を罪に定めようとして、常に「クリスチャンが世を冒涜した、世人に対して脅威をもたらした」という口実を持ち出すが、聖徒らを罪に定めるための彼らの試みは決して成就せず、成功しない。

なぜなら、永遠に変わらない聖書の御言葉においては、世人の心証を害することが罪なのではなく、神の御言葉に逆らうことこそ、罪と定められているからである。

聖徒らは、キリストと共なる十字架を通して、バプテスマの水の中に沈み、世に対しても、悪魔に対しても、自分自身に対しても、死を帯びている存在である。聖徒を弁護するのは、キリストご自身である。

だから、我々、聖徒らに立ち向かう人間は、肉眼で見える我々自身という人間に立ち向かっているのではなく、神ご自身に立ち向かっているのである。聖徒を告発する者は、信じる者を贖われた神の義に自ら立ち向かっているのである。そうである以上、そのような人間は、永遠に神が変わらないものとして定められた契約である聖書の御言葉に逆らっているのであり、その結果として、必ず、キリストの十字架に敵対した報いとして、滅びだけが待ち受けている。彼らにはもはや弁護の余地は存在しない。

ところで、坂井能大氏、山谷少佐については、Dr.Lukeの支援を受けていたことが、彼らの致命的な弱点となったと筆者が理解していることはすでに述べた。

Dr.Lukeのキリスト教批判を聞いて、同氏が本心から、キリスト教界の制度的な腐敗を嘆き、これを糾弾し、訣別を唱えているのだと誤解した人々は多かったものと思う。しかし、同氏の批判は、結局は、村上密牧師の被害者活動と同じく、キリスト教界の繰り広げる出来レースの一環に過ぎなかった。

Dr.Lukeは自らパスタ―を名乗っていたのだから、牧師と同様の存在であり、その意味で、同氏率いるKFCは、どんなに口ではキリスト教界を批判していたとしても、実際には、牧師制度を取るキリスト教界の一端に位置する組織でしかなかったのである。

KFCは、信者たちに向かってキリスト教界からのエクソダスを唱えていたにも関わらず、自らがキリスト教界をエクソダスしていなかった。そこで、そのような二重性を帯びた立場から、キリスト教界を告発しても、それが真に迫真性を帯びた主張とはならず、そのような方法で、キリスト教界に戦いを挑んでも、勝利することが、土台、不可能なのは目に見えていた。

キリスト教界をエクソダスするとは、牧師制度と訣別することと同義である。KFCだけではない。ゴットホルト・ベック氏の集会のように、キリスト教界を批判しながらも、結局、特定のリーダーの下に強力な牧師制度を維持し、キリスト教界と根本的に変わらない組織を築いているのでは意味がない。それでは、キリスト教界を出たことには決してならず、彼らの唱えるエクソダスや、キリスト教界への批判も、結局は、有名無実のスローガンにしかならない。

筆者は、今やキリスト教界をエクソダスせよ、という表現ではなく、プロテスタントからエクソダスせよ、と言った方が正確ではないかと考えている。プロテスタントは、すでに霊的に終焉を迎えており、ここからはキリストの御霊に息吹かれた新たな信仰復興運動は、決してもう二度と出て来ることはないと確信している。

プロテスタントは当初、ペンテコステ運動のような過激な霊的運動を警戒していたが、ペンテコステ運動が拡大して信者が増えるにつれ、結局、これを受け入れざるを得なくなった。その上、エキュメニズムを通して他宗教にも寛容な理解の手を差し伸べており、こうして教義的に妥協に妥協を重ね、聖書から遠い理念を提唱する団体となった。

その上、自身が統一教会の出身者である村上密のような牧師たちが、統一教会からの信者の半強制的な脱会活動を行って、彼らをキリスト教に改宗させたことにより、プロテスタントには、統一教会からの信者たちが数多く流入し、異質な影響力がもたらされ、そのような活動も、ここ十数年の間で、教界の変質を加速化させる大きな要因となった。

牧師制度の弊害、教会成長論などに見えるような教義の誤り、異端化に加えて、カルト宗教からの信者奪還運動が繰り広げられたことにより、また、それと並行して、問題や悩みを抱えて行き場を失った社会的マイノリティへの支援活動に重きが置かれたことにより、プロテスタントには、カルト宗教の霊が公然と持ち込まれただけでなく、この世の諸問題も雪崩を打って押し寄せ、この宗教全体が、聖書に基づく、神を中心とした、平和な信仰生活の場ではなくなり、人間を中心とした、この世の諸問題に対処するための「病院」のようになり、あらゆる点で問題の宝庫となって、聖書からますます遠ざかり、聖書とは異質な宗教へと変質して行ったのである。

今となっては、この教界は立ち直り不可能であり、平穏な信仰生活を送るためには、信徒はここを出るしかない。牧師制度の中に身を置きながら、キリスト教界を批判しても無駄であり、平和な信仰生活を送るためには、信者は「アカンの外套」になりうる一切の持ち物、つながりを断ち切り、プロテスタントそのものを出るしかないのである。

* * *

筆者は最近、プロテスタントの以上のような問題点は、資本主義の弊害とも密接に関わっているのではないか、という確信を持つようになった。そして、この問題を考えるにつれて、プロテスタントとは、ひょっとすると、最初から、何か空恐ろしい、根本的に聖書に反する問題を内に含んでいたのではあるまいか、という疑念が生じてならないのである。

現在、世界各国においてだけでなく、日本においても、資本主義は末期状態に陥っており、日本の労働市場は閉塞感にまみれ、社会主義国であったソ連における強制集団化の時期のような悲惨な状態へと転落しつつある。

我が国の労働市場の現場は、悪化の一途を辿っており、搾取、騙し合いがますます横行し、人間性がますます失われ、人間を生かす場所ではなく、排除する場所、殺す場所へと変わって来ている。

我が国は、年長者が年少者を搾取し、食い物にするという形で、ようやくこれまでの繁栄を維持しているが、労働市場には、この悪しき弱肉強食の異常な関係が凝縮された究極の形で現れている。

日本の若年者たちは、学校を卒業して社会に出ても、正規雇用にありつけるのはほんの一握りであり、それが出来なかった者たちは、生涯、低賃金で将来の希望のない仕事をずっと続けるしかない状態に置かれている。若年者に限らず、非正規雇用の者たちはますます苦しい状況に置かれ、未来への展望が何も描けないでいる。外国人実習生のような人々は、奴隷制と呼んで差し支えない苦役にあえいでいる。最近では、政府は年金削減のために、老人を死ぬまで働かせることを考えており、生きている限り、国民が労働から解放されることがないような社会づくりに知恵を絞っている。

このように、我が国は、表向きは労働を賛美する社会主義国ではないにも関わらず、社会主義国と同じように、全国民に労働を強制する異常な思想に憑りつかれており、そのような文脈における労働の概念は、正しいものではなく、人間性を貶め、歪める誤った思想でしかない。

そのような意味で、我が国における労働は、もはやただ単に人が働いて身を立て、家族を養い、普通の暮らしを維持するために不可欠な活動ではなくなり、誤ったイデオロギーに基づく、人間同士の騙し合い、搾取のし合い、人間性の貶め合い、弱肉強食の肯定・強化という、極めて不健康で、悲劇的な、社会に地獄絵図をもたらすような恐ろしい概念へと変わり果てている。

そこで、なぜそのような現象が起きるのかという問題を追求していくと、結局、労働の本質とは何かという問題に突き当たらざるを得なくなり、筆者の分析においては、その問題は、そこからさらに進んで、プロテスタントのキリスト教界における奉仕と献金という問題につながり、最終的には、プロテスタントが本質的に抱える教義的な欠陥へと行き当たるように思われてならないのである。

マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、今でもこの点に関して、プロテスタントの本質に鋭い光を当てていると言えよう。

本書は信仰的な観点から書かれたものでないため、筆者はこれまであまりその論に注意を払わず、また、日本のような非キリスト教国に、上記の論理をどの程度、当てはめることが可能であるかについても、疑問であったが、最近、プロテスタントと資本主義との関係性を、批判的な文脈で振り返るに当たり、この書は実に多くの点で、謎解きのヒントを与えてくれており、考慮しないわけにいかないと思うようになった。

この書でも指摘されているように、プロテスタントにおける「救い」の概念は、非常に不確かな、非人間的と言っても良いほどまでに、不安定なものであり、プロテスタント独特のこの救済観が、資本主義の発展の原動力となったのだという指摘について、これを今日の我が国における労働との関係性にあてはめて、改めて考察してみる必要があるように思う。

ウェーバーが上記の書で言わんとしていることの中核部分は、かなり荒っぽく要約すれば、次のようになるだろう。

「プロテスタントにおける救いの概念は、一般的に、信者が、自分に対する神の救いが本当に確かなものであるのか、自分が本当に神に受け入れられ、救いを失っておらず、神の国の住人として、いのちの書に名が記されているのかどうか、死後の神のさばきの時が来るまで、信者本人にも本当には分からず、生きているうちに内的確信を得ることができないという、極めて不安定な概念である。

このような不安定で(非人間的な)救済観が、プロテスタントの信者たちに、自分は本当は救われておらず、神に拒まれているのではあるまいか、そもそも神が分からず、神の御心が何なのかも分からないという、生涯に渡る恐怖を抱かせるのは当然である。

そこで、プロテスタントの信者たちは、こうした恐怖から逃れるために、絶えず、行動に駆り立てられる。彼らは、自分が確かに救われているかどうか分からないからこそ、自分が救われた者であることを社会や自分自身に証明しようと、熱心に禁欲と労働に励み、贖われた人間にふさわしい模範的な生活を送る努力をしたのである(=絶えざる自己吟味と現世生活の合理化)。

この点において、カトリックとプロテスタントの間には隔たりがあり、カトリックにおいては、信者たちは、教会内で宗教行事に励んだり、聖職者に教わることで、自分が神に救われている者であることを証明しようと努力する一方、世俗の生活は(教会生活のつけ足しに過ぎないもののように)重視されなかったが、プロテスタントの信者たちは、教会を離れた世俗の生活にも、教会と同じほど重点を置き、世俗生活において禁欲と労働を通じて、天職を全うすることで、キリスト者の召しを積極的に果たすことができると考え、こうして、神に贖われた「新しい人」としての模範的生活を客観的に証明することが、信者の使命であるとみなしたのである。こうして、プロテスタントは、世俗における生活をも、教会生活と同じほど重要な信仰生活の実践の場ととらえ、熱心に労働に励み、利潤を生むことを、信仰生活と何ら対立しないものとみなした。

禁欲は、言い換えれば、世俗生活の合理化のことであるが、それは信者が自己を吟味することによって、神に喜ばれないあらゆる不徳なものを徹底的に自分の生活から捨てて行く一方で、神に与えられた召しに合致するものだけを残して行くことを意味する。

だが、信者にはそもそも自分が救われているかどうかがよく分からず、神の意志も分からないので、自己吟味とは、「おそらく自分は救われているのだろう」という前提のもと、「おそらく神が喜ばれないであろう」と想像されるものを自ら捨て、「おそらく神が召しておられるのだろう」と想像される職業に邁進することで、神に喜ばれようという努力を指す。

こうして、プロテスタントにおいては、信者が自己の(本当にあるかどうか分からない)救済を維持するために、絶えざる自己吟味と禁欲、社会奉仕活動による生活の合理化を行なうことが信仰生活の大前提のようになり、その結果、修道院生活の規範が、世俗の生活に公然ともたらされたような具合となった。

その結果、信者が内心の恐怖から逃れるために行った熱心な禁欲と労働が、資本主義の発展を促し、社会に経済発展がもたらされた。

つまり、極言すれば、「神が分からない。自分が本当に神に救われているのかどうかも分からない」というプロテスタントの信者たちの内心の恐怖と不安、そこから逃れるために、彼らが労働を通じて社会に奉仕し、自分が救われていることを客観的に証明せねばならないと考えた強迫観念が、資本主義の初期の発展の原動力となって行ったのである。」

筆者は、ここでカルヴァンの予定説などに深入りしてプロテスタントの救済観について詳しく議論するつもりはないが、実際に、プロテスタントの一般的な救済観は、今日に至っても、まだなお、ウェーバーが指摘した状態から大きく外れていないように思われる。

クリスチャンとは、本来、神を見いだした人々から成るものと考えられるため(筆者もそう考えている)、実は、神を見いだせず、自分が救われているかも分からない信者が、クリスチャンを名乗る人々の大半を占めるのだと聞けば、世人はさぞ驚くことであろう。
 
だが、それが実際なのであり、もしそうだとすれば、そのようなプロテスタントの救済観は、聖書の提唱する救いに本当に合致するのだろうか?という疑問が生まれる。 そのような不確かな救いの概念しか持たない者を、果たして、クリスチャンと呼ぶべきなのであろうか。

プロテスタントの信者であるかどうかを問わず、クリスチャンが、「自分は神が分からない。神に救われているかどうかも分からない」という状態に陥っているとしたら、それは極めて異常な事態であり、そのような人々を「クリスチャン」とみなすこと自体に、相当に無理があるのではないかと筆者は考えている。

「信者」と呼ぶからには、その人間に信仰がなくてはならないが、自分が救われているかも分からない人たちは、果たして、何を信じているかも分からない人々である。自分が神に救われているかどうかも分からない状態にある人々を、「信者」と呼ぶのは適当であろうか。

人間には、自分を本当に救ったかどうかも分からないような不確かな神を信じ、そんな不確かな救いしか提供できない「神」を生涯に渡り、心から愛し、仕えることが可能なのだとは、筆者にはどうにも信じられない。だから、自分の救いさえ、本当にあるかどうか分からない人々は、神を信じている人々の概念に該当せず、彼らの「神」と彼らが、何によってつながっているのかも不明である。 

しかしながら、プロテスタントでは、救いの確信が内側になく、「神が分からない。自分が神に救われているかどうかも分からない」という状態は、極めて信者にありがちな、一般的な状態なのであり、そういう事情は、今日になっても、変わらない。いや、むしろ、そのような異常状態にある信者こそ、プロテスタントの平均的な信者像であると言える。

だから、筆者はそのような不確かな確信しか信者に与えることのできないプロテスタントの救済観を、全く正常なものとはみなしておらず、そこで、ウェーバーが、そのようなプロテスタントの教義とそこから生まれる精神を、資本主義の発展と結びつけて論じているのは、結局、プロテスタントの誤った救済観が、資本主義の発展の最初の原動力となったと言っているのと同じであると理解している。

つまり、ヨーロッパ諸国における初期の資本主義の発展は、プロテスタントにおける誤った救済観がもたらした結果であり、そうである以上、その発展は、発展という言葉が持つ、一見、輝かしい、喜ばしい響きとは裏腹に、そこに流れる思想的弊害は、必ずや、何かの恐るべき形で実を結ばざるを得ないだろうと考える。それが、今日、労働の悪なる本質として現れていたとしても不思議ではないのである。

さて、上記の書から、筆者に理解できるのは、自分が本当に救われているかどうか分からないという不安ゆえに、プロテスタントの信者たちは、絶えず労働に邁進し、社会貢献することで、自分が善人であることを世にアピールせずにいられないという一種の強迫観念に陥っていたことである。

こうした事柄は、当ブログでずっと述べて来た問題と重なる。要するに、「神が分からない。自分が神に救われているかどうかも分からず、罪が赦された確信もない」という恐怖が根底にあればこそ、プロテスタントからは、カルト被害者救済活動やら、ホームレス伝道やら、マイノリティへの救済活動といった、各種の社会奉仕活動が登場して来たのである。

つまり、自分が救われているのかどうか分からない不安から逃れるために、プロテスタントの信者は労働に励み、数々の社会奉仕活動を生み出して来たのである。

こうして、プロテスタントが生んだ社会奉仕活動は、カトリックの慈善事業に見かけはよく似ているが、その動機が決定的に異なる。

筆者は再三に渡り、プロテスタントの諸教会が繰り広げる社会奉仕活動や、マイノリティへの支援活動は、隣人愛に基づく活動ではなく、そもそも自分自身が罪赦されたという実感を持てない「信者」たちが、自らの心の内側にある払拭されない罪悪感を解消するために行う贖罪行為であり、彼らは自分よりもはるかに哀れな境遇にある弱者を探して出して来ては、彼らの状態を改善することにより、その弱者の姿に自分自身を重ねて、彼らを救うことで、自己救済をはかろうとしているのだと述べて来た。

つまり、プロテスタントの社会奉仕活動は、根本的に救いの確信を得られない信者たちが繰り広げる終わりなき贖罪行為であり、彼らが自己の罪悪感、不安、恐怖から逃れようとして強迫観念に基づいて生み出す活動なのである。

だから、そのような社会奉仕活動に従事する信者たちが、さぞ立派な人々だろうと考えるのは間違いで、むしろ、そのようにして熱心な社会貢献を目指さざるを得ない信者たちのほとんどは、信者を名乗っているにも関わらず、教会の中で、神に出会うことができず、救われてもいない世人のもとで神を探すしかないほどまでに、救いの確信がなく、内心では絶望している人たちである。彼らは自分が贖われたという実感を持てないからこそ、不信者への奉仕活動を通して、自分の正しさをアピールし、不信者たちの間で神を見い出せない絶望感を薄め、自己を慰めることしかできないのである。

そのように、自己の救いの確信がないがゆえに、絶えず不安に脅かされる状態、自らの信仰生活の中で真の満足が得られず、教会の外の世においてしか、神を見いだせる希望を持てないという転倒した心理状態は、プロテスタントでは、一般の信徒のみならず、牧師にさえ見られる一般的な状態である。

そうした文脈で、以前にも引用したホームレス伝道に励む奥田知志牧師の文章を、改めて引用してみたい。

神はどこだ。どこにおられるのだ。」 こんなことを考えている人間が、牧師になることなどできるのか。しかし結局のところ、私が牧師になったのは、生涯を通じてこの問いの答えを探すためである、としか言いようがない。それが、牧師になった理由なのだ。答えは今もはっきりしないしかし、混迷がさらに深まる今日の社会において、「神はおられる。いてもらわないと困る」という思いはますます深まり、「神を探す」日々はより忙しくなっている。

牧師というものは、何かを悟った人ではないだろう。もちろん、すでに神を見いだしている人でもない信徒も牧師も厳しい現実のなかでもがいており、ただ聖書を頼りに神を探しているのだろう。「神はどこにおられる。」それは、私たちの人生そのものの問いであり叫びなのだ。生きている限りこの問いを、問い続けなければならない。」
(『もう、ひとりにさせない』奥田知志著、いのちのことば社、pp.28-29)


奥田牧師のこの記述の中には、「自分は神が分からない。自分が本当に救われているのどうかも分からない」というプロテスタントの信者に共通する心の不安(=叫び)がよく現れている。

神を見いだせない人たちが、それゆえに、生涯かけて、神とは何かということを探求するために、教会生活に足を踏み入れていき、牧師にまでなるのだというのである。

だが、このような形では、どれほど探求を重ねても、彼らが神に出会うことはできず、答えが出ることもないであろうと筆者は考える。ただ生涯、神を見いだすための探求だけが続き、救いの確信は、ついに得られないまま終わるのである。

そうなるのは、彼らが神に出会うために、決して神ご自身に向かおうとはせず、絶えず人間の方を向いて、世の不信者の方を向いて、人に向かって自分の正しさを主張し、不信者の間で神を見いだそうと、見当外れな方向を探し求めているせいである。

筆者は、プロテスタントの信者がこのような状態にとどめ置かれていること自体が、極めて異常な状態なのだと思わざるを得ない。そして、そのような人々が、本当のクリスチャンであるとも考えていない。

自分は救われているかどうかも分からない不安を抱える人々が、信者であるだけでなく、牧師にさえなって、福音を知らない、自分よりもはるかに哀れな状態にある社会的弱者に助けの手を差し伸べ、その人たちと一体化して、彼らの生活の向上に喜びと恵みを見いだし、彼ら弱者の中に「神」を見る、それが、果たして、正常なキリスト者の信仰生活と呼べるのか? 絶対に無理である。

そのような形で、「神を見いだせない」不安に駆られ、世の方を向いて行く信者たちの姿は、ウェーバーが著書において指摘したプロテスタントの信者が抱える不安とまさに一致するが、ウェーバーの著書が書かれた時代、そのような信者たちは、自己の不安を、職業訓練に振り向け、労働に励み、自分の職業に邁進することで解消しようとしていたが、それが今日の時代には、労働のみならず、各種の社会奉仕活動、マイノリティへの支援などに結びついている。

しかし、表面的にどんな形態を取っていようと、これらの社会貢献活動は、みな根本的に同じ動機から発生したものであり、それらはすべて「自分が救われているかどうか分からない」という内心の恐怖から、信者が逃れるために生み出された模索(現実逃避)の過程なのである。

その探求は、神を求めるために行われているというよりも、むしろ、神が分からないという恐怖を紛らすために行われるアリバイ工作のようなものだと言った方が良い。

もしも真実、それが神を求めるために行われている活動ならば、その活動は決して人の方を向かず、見えない神だけにすべてを求め、神ご自身から全ての答えを求めるというものであったろうが、プロテスタントの信者たちの「探求」は、常に世の方を向き、社会に対する貢献に重きを置いて、人からの承認や賛同の中に、自分たちの信仰の正しさを求めようとするものなのである。

こう考えると、一体、プロテスタントとは何なのか、そこで唱えられる救済は、本当に聖書の神が提供する救いと関係があるのだろうかという疑問にまで辿り着かざるを得なくなる。

何よりも、プロテスタントの信者が、本当に自己の救済を確かなものとして、個人的に救いの確信を得たいならば、なぜ、彼らは神ご自身に向かわず、絶えず人間にばかり奉仕し、あるいは自己吟味に没頭し、常に神の目から見た救いの合格ラインではなく、人間の目から見た合格ラインにこだわり続けるのか、疑問に思われてならないのである。

そこには、何かしら重大な概念のすり替えがある。本来、神と信者との間で、信仰に基づいて個人的に結ばれるものである救いの確信が、神を抜きにした、人間の目で見て確かめられる一般的な承認や賛同という代替物に取り替えられているのである。

早い話が、神が信者に信仰を通じて個人的に与える救いが、社会貢献という、救いとは似ても似つかない代替物にすり替えられているのである。

信者が自己を吟味し、禁欲と労働に励み、社会貢献を果たすことによって、世人に認められる模範的な生活を送ることは、信者が神に受け入れられることとは、直接的に何の関係もない。それはすべてこの世の観点、人間の観点から見た活動であって、神の視点というものが徹底的に欠落している。

天職や、社会貢献という言葉は、魔法のトリックのようなものであり、人間が自分自身の状態を見て自己安堵するために作り出された幻想に過ぎないと言うこともできよう。人間の必要を満たして、人の目に認められ、社会に貢献し、自分の目から見ても、自分に合格点を出せるようになりさえすれば、神もきっと納得して下さるだろう思うのは、人間の側の独りよがりでしかない。信者が人間社会にどれほど奉仕してみたところで、それは神がその信者をどうご覧になり、どう思われるのかをはかる基準にはならない。

神の御思いを知るためには、神に向かうしかないのであって、社会にお伺いを立てても無駄なのである。信者がどんなに人間社会に配慮を示しても、その信者の心が神に向かわないならば、信者の信仰生活は無である。

そして、神がご覧になるのは、人の立ち振る舞いのうわべの美しさではなく、信者の行動の真の動機である。人の目にどんなに立派な行いをしても、その労働や奉仕が、信者の恐怖から、信者の自己満足・自己肯定・自己安堵を目的として行われているのであれば、そのような自己中心な動機で、神を喜ばせることはできない。自分のために行われた奉仕は、神のためではなく、御心にかなわず、神のために実を結ぶこともない。

それにも関わらず、プロテスタントの信者は、徹底的に神ご自身だけに向き合って、神から回答を得ることで、自己の恐怖を克服しようとはせず、むしろ、「神が分からない、救われているかどうか分からない」からと、神からはさっさと目を背けて、分かりやすい人間社会の方を向いて、人間の中へ埋没して行き、人間の只中で承認や慰めや安堵を得、これを神からの承認や賛同と取り替えようとするのである。

こうなった時点で、それはすでに信仰生活からの著しい逸脱である。だが、プロテスタントは、教義的に、もともと救いに関して極めてあいまいな重大な欠陥を抱えているがゆえに、信者たちは、その弱点を補強するために、世の方を向かざるを得ないという悪循環が続いているのである。

このような教義は根本的におかしく。そもそも、救われているかどうかという信仰生活の根幹に関わる重大問題が、死後になってしか分からず、神のさばきの座に立たされるまで、本人に分からないというのでは、一体、信者の地上生活は何のためにあることになるのか、甚だ疑問である。それでは、その信者の地上生活は、ただ刑の執行を待っている囚人と変わらないことになる。

こうして、あるかなきか分からない救いの確信を補い、自分は本当は救われていないかも知れないという内心の恐怖を克服するために、信者たちは、刑の執行を待っている囚人が赦免を求めるように、世に対する奉仕をにいそしみ、お勤めに励むことで、不安から目をそらし、神に受け入れられていないかも知れないという恐怖を、世からの賛同や承認を得ることで埋めようとする。そして、自分はこんなにも善人として模範的に努力し、自分の利益を差し置いて社会に貢献しているのだから、その努力はきっと神も認めて下さるはずだと自己を慰める。

だが、そういう外側の努力が、内側の確信の欠如を補う日は決して来ない。神からの承認を、世からの承認に取り替える事は無理なのである。 

そのような信者の「社会貢献」は、救いとは何の関係もないものである。「義人は信仰によって生きる」という聖書の御言葉と、救いが本当か分からないがために地上の職業に邁進して社会貢献を果たすことで救いに近づこうという生き方は、まるで正反対である。

後者は、律法の義務を全うすることで神に受け入れられようとしたユダヤ教徒の努力と変わらず、贖われて、罪赦された人々の生き方ではなく、まさに罪ゆえに刑罰を待っている囚人が、自分の努力でわずかでも減刑されようと願う生活に他ならない。そんな地上生活は、神の召しを果たす場というよりも、囚人同士の慰め合いに近く、神のさばきに至るまでの地上の待合室で、恐怖から少しでも気を紛らしたいと考えている人たちが、互いに目くらましのために行う現実逃避に過ぎない。

だから、そのような観点から見るならば、プロテスタントの救済観は、初めから決定的に何かがおかしいのである。それゆえ、その決定的に異常な救済観がもたらす恐怖に基づいて生まれる各種の良さそうな社会貢献活動も、結局、決定的に異常な結果しかもたらさないのである。

筆者自身の経験について言えば、筆者が神とは何か、救いとは何かということを明確に理解したのは、プロテスタントの教会に関わるのをやめてからのことである。この教界を出て、教界とのつながりを絶って、誰の仲介もなしに、自ら聖書に接して、初めて、聖書の神ご自身がリアリティであること、キリストの贖いが永遠であること、信じる者に与えられた救いが永遠に変わらないこと、それがまさに自分自身に対する救いであることがクリアに見えたのである。そして、「神はどこにおられるのか」という問いは終結し、神はキリストを通して、信じる者の内側に住んで下さり、力強く御業を行なって下さり、必要な時に常に助け手となり、砦となって下さるということが分かったのである。

だが、だからと言って、信者は、確かにいつもいつも神の意志が自分に分かるわけではなく、神と直接結びついているという感覚的な実感を常に持っているわけでもない。感覚的には、パウロが、「ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。」(Ⅱコリント5:6)と述べている通り、人間の堕落した肉体の感覚は、常に人を神から引き離そうとする。信者は、地上で様々な問題が持ち上がる時などには特に、神が遠くにおられるように思ったり、神が何を願っておられるのか分からない時もあり、神に見捨てられたのではないかとさえ思われる瞬間もある。

だが、そういうものはあくまで信者の地上の幕屋としての肉体の感覚、この世の影響が感じさせることであって、信仰とは関係ない事柄である。信仰は、そのような表面的な感覚よりも、もっと深いところで感知されるものであって、一見、かすかな実感に過ぎないように思われても、信者の内側で、深く持続的な、変わらない確信をもたらす。だから、信者の心の内側では、外側で何が起きようとも、表面的な感覚や印象に関係なく、救いの確信は決してなくならず、神が生きておられ、自分を贖って下さったことへの確信は変わらないのである。信者は不安に駆られても、その不安の分だけ余計に、神に助けを求めて祈ることができ、神が確かに応答して下さることを信じて待つことができる。だから、この世で起きるどんな事象も、信者を神から引き離すものとはならない。

こうして、信仰に基づく自らの生涯を通じて、信者は神が確かに生きておられ、あらゆる場面で信者を守って下さり、自分が確かに神の愛する子供として神に受け入れられ、愛され、助けられていることを実践的に確かめることができるのである。どんな人生の嵐に見舞われようとも、いつまでも不安の中に取り残されることなく、まして、神が分からないとか、救われているかどうか分からないといった不安の中を堂々巡りしてさまよい続けることはないのである。

ところが、プロテスタントにおける救済観は、これとは全然違うものであって、そこにいるほとんどの信者たちは、自分が救われたかどうか、内的確信を持っておらず、どんなに教会生活を続けても、神に出会うことがない。ただ学校で教科を教わるように、キリスト教の教義を学ぶだけである。自分は神を信じている、とどんなに思っても、その信仰が、現実生活における力とはならず、信者を変える力ともならず、そして、ウェーバーが述べたように、信者たちは、自分が救われているかさえ分からないという不安ゆえに、社会において労働に励むだけでなく、教会生活をもそのような観点から行う。

自分が救われているかどうか分からないがために、信者たちは熱心に教会に通い、牧師の説教を聞いて自分の行動を正し、奉仕と献金に励むのである。そのような精進の果てに、自らの「霊性」を高め、神に近づくことができるかのように、彼らは錯覚している。そのような信者たちは、この世における労働も、教会に献金を払うために行う。彼らは、そうした熱心な努力によって、自分の信仰の正しさを客観的に証明することをやめて、教会を離れてしまえば、自分は悪魔の餌食となって、救いを失うだけだと思わされており、絶えず恐怖に駆られているのである。

このように、プロテスタントの信者は、禁欲と労働だけでなく、教会生活すらも、恐怖から行っている。救いの確信が内側にないからこそ、それを教会への所属という目に見える地上的な代替物に取り替えようとするのである。そして、教会への所属を失うことを、救いを失うことと同一視し、所属先を失いたくないがゆえに、熱心に世でも労働に励み、献金と奉仕の源を得る。だが、いつまで信者が努力し、奉仕と献金にいそしんでも、目に見える地上的な保証は、目に見えない天的な保証とはならない。地上の教団教派、教会組織に所属しているという信者の立場が、信者の内側で、救いの大胆な確信へとつながることは決してなく、どんなに牧師の説教を聞いて自己吟味し、いつまで奉仕を重ねても、自分は救われたのだという確信がやって来ることはなく、清められた実感もなく、様々な問題、思い煩いから解放されることもない。まして、新創造に達したなどという確信が生まれることはない。だから、信者はあるかなきかの救いを求めて、ハムスターが輪の中を走り続けるように、ずっと教会への所属にしがみつき、奉仕と献金に励み続けるしかないのである。

このようなものは、神の救いの概念を悪用しただけの、何か空恐ろしいトリックであり、救いの悪魔的代替物だとしか筆者には思えない。人の目の前に、救いという幻想をちらつかせておいて、それを求めてやって来た人々に、決して救いを与えず、その偽りの夢の代わりに、彼らを永遠に馬車馬のように走らせて、奉仕と献金を提供する道具とするために作り出された偽りのトリックでしかないものと思う。

このように、プロテスタントにおける救いの不確かさという恐るべき教義的欠陥が信者にもたらす恐怖は、資本主義という体制を通して、非キリスト教徒にも無意識のうちに及んでいるのではないかと筆者は想像する。

我が国では、まるでプロテスタントの信者たちがそうするのと同じように、非信者も、労働を通じて、自己の正当性や価値を証明しようと、勤務先に熱心に奉仕する一方で、労働から除外されて、働く場を失い、所属先がなくなり、「社会貢献」できなくなれば、自分は人間でさえなくなるかのように思い込まされ、恐怖におののいている。

このようにして、絶えず人目を気にし、自分が社会からどう思われているのか、模範的に義務を果たせているのか、社会に貢献しているのか、価値ある存在として認められているのか、人の思惑ばかりをおもんばかって、人に良く思われ、自分には所属先(居場所)があると誇って、自己安堵するために、終わりなき奉仕にいそしまざるを得なくなっているこの世の人々の姿は、まさに救いが分からないがゆえに教会への奉仕と献金をやめられなくなっているプロテスタントの信者の姿にぴったり重なる。

救いの確信がないがゆえに、それを教会籍と取り替え、存在しないかも知れない救いを維持するために、絶えず奉仕と献金を行なっていなければ安堵できない信者の姿と、自己価値が分からないがゆえに、企業や団体などの地上の所属先から承認を受け、その承認を維持するために絶えず奉仕を行なっていなければ落ち着かない世人の姿は重なる。

つまり、現代においても、信仰を持たない非キリスト教徒でさえ、プロテスタントと同様の精神に毒されており、労働は恐怖から行われるのであって、人々は、労働し続けることでしか自己の救いを担保できないかのような強迫観念に絶えず無意識に追い立てられているのである。

そのような文脈における労働は、根本的に異常であって、それは本当の意味での他者への奉仕ではなく、また本当の意味で本人の幸福につながるものともならない。

これまでずっと述べて来たように、我が国における労働は、単なる労働の概念に当てはまらず、より深い意味がある。そこで言う労働とは、神に逆らって行われる、人間の偽りの自己救済の努力であって、人間が人間の力で自己肯定し、理想状態に達しようという、カルト的な偽りのイデオロギーに基づく、決して報われることのない努力なのである。それだからこそ、そのような文脈における労働は、根本的に呪われており、何の実りもたらさず、人間をただ不幸に追いやる効果しか持たないのだと筆者は言うのである。

それはちょうど、沈没船に乗っている人たちが、互いに「私たちは大丈夫、死ぬはずはない」と言って慰め合う風景のようなものである。船はまだ沈んでおらず、沈む気配もそれほど感じられず、船の中ではまだ平穏な生活が維持されている。ある人は甲板を磨き、ある人は食事を作り、ある人たちは子供たちの世話をし、談話に明け暮れ、舵を取る。そうして皆が互いに心地よく過ごせるために配慮し合って、互いに奉仕し合い、一見、まことに美しい、思いやりに満ちた風景が広がっている。

だが、そのようにして人々が互いに配慮を示し合い、仕え合い、認め合うことの本当の目的が、船の沈没という決定的に覆せない未来の事実を覆い隠し、そこから目を背けることにあるとすれば、彼らのその涙ぐましい努力は一切が無意味であり、悪であるとさえ言える。彼らがどんなに努力して、そこに生活の向上と発展をもたらし、弱い人々を助け、他者の幸福を支え、善良に高潔に振る舞い、互いを受け入れ合っても、その船が決定的に壊れており、やがては沈むしかないことが明らかならば、彼らの労働や奉仕の成果はすべて無に帰するのである。彼らの自己肯定は、自己否定へとつながるのである。沈みゆく船の上で、互いへの愛や、社会貢献度を誇り合っても、むなしいだけである。

むしろ、沈没船から一刻も早く脱出することこそ、救済であり、善であり、社会貢献である。沈没船上での生活を維持することが善なのではなく、その生活から人々を解放し、自分も解放されて、沈没船によらない新たな永続的な生活を打ち立てることの方が、緊急課題である。

だが、どういうわけか、沈没船の中にいる人たちは、絶対にそこを出ることができないと思い込んでいる。彼らは自由になるために、船が沈む前に脱出することを自らの義務とはみなさず、むしろ、自らそこにとどまり、破滅を選びながら、それまで通りの生活を送り、さらに生活を向上させることができるという偽りの夢にしがみついている。そして、「神は私たちを見捨てるはずはない、神は私たちを哀れんで下さる。ほら、私たちはこんなに恵まれているし、こんなに努力している。私たちの善良な努力は神に覚えられている。私たちは神に受け入れられている」と言い続けているのである。

彼らは一度も神の方を向いたことがなく、ただ人間に奉仕しているだけなのに、自分たちの人類への奉仕活動、社会貢献の努力を、神も認めて下さるはずだと思い込み、自分たちの奉仕を指して、神が自分たちを見捨てるはずがない根拠だと言い続けているのである。

要するに、彼らは、自分たちの努力を振りかざして、これをもって自分たちを義と認めよと、神に迫っているのである。

人間が己が労働を通じて経済を上向かせ、社会を発展させ、理想状態に近づけることができるという考えは、筆者に言わせれば、それ自体、神に敵対するイデオロギーであり、結局、沈没船に乗っている人々が唱える実現するはずもないユートピア理論と同じなのである。

その労働や奉仕は何のためのものなのか? 結局、人間が恐怖から目を背け、自己安堵するためのものでしかない。もっと言えば、人間が自力で己が罪を克服して、自力で新創造に達して、神を抜きに、自力でユートピア的理想社会に至りつくために行うむなしい努力でしかない。

そこには徹頭徹尾、神が不在なのである。個人的な救いの確信がなく、神が分からず、神を見いだせない人々が、互いに寄り集まって支え合い、集団的に自己肯定しようという、イチヂクの葉同盟、バベルの塔の試みしか存在しないのである。神はそのような人類の自己救済の努力をこそ、最も忌み嫌われ、退けられる。

だから、我が国が推し進めている一億層活躍なる概念も、結局、プロテスタントの教会の信者たちと同様に、自分が本当に救われているという確信のない人たちが、罪の意識と恐怖から目を背けて、自己肯定するためのに作り出された嘘のカラクリに過ぎないのである。

そのような自己救済の努力としての労働や社会貢献を通じて、人が自己の正しさを客観的に世に証明し、あまつさえ、これを神にまで認めさせ、それによって自ら救いにあずかり、新創造へ至りつこうという考えは、完全な幻想に過ぎず、絶対に実現することはない。

その願望は嘘であり、恐怖に基づく現実逃避でしかないからこそ、そのような努力としての労働は、やればやるほどますます人間を悪くし、不幸を増し加えて行くだけなのである。

2017年1月31日 (火)

兄弟たちを日夜訴える者の敗北――プロテスタントの終焉と、キリスト者の新しい時代の幕開け――

カルト被害者救済活動の自滅――兄弟たちを訴える者の敗北と、プロテスタントの時代の終焉――
 
「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためなのです」(Ⅱコリント5:20-21)

最近、筆者はキリストの義、キリストの贖いの完全性、永遠性というテーマを追求している。

キリストの贖いを通して、クリスチャンが受けた神の義は、この地上の生涯だけでなく、永遠にまで及ぶ。

キリストが十字架で達成された贖いの御業を通して、神が信じる者にお与えになった義は、この世のどんな事物や、どんな人間の思惑によっても、左右されず、信者の年齢、性別、能力、知識、経験などにも全く左右されない。

信者自身がこの尊い救いを自分自身で否定して退けでもしない限り、神が信者にお与え下さった義は、永遠に至るまで信者に適用されて、悪魔の側からのどんな訴えをも大胆に退ける根拠となる。

だから、たとえば、仮に共謀罪に類する法律が、この国で、100、200と制定され、訴える者たちが何百人、何千人集まって、信者を罪に定めようと協議しても、無駄なことである。

パウロは、キリスト者が神から受けた絶大な特権についてこう言った。

神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)

神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めて下さるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」(ローマ8:33-34)

「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。<…>

 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらのすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」(ローマ8:35-37)


「圧倒的な勝利者」。これは信者にとって、絵空事や空文句ではなく、揺るぎないリアリティなのである。

だが、信者は依然として、見かけは弱く、取るに足りない人間にしか見えないことであろう。しかし、信者を勝利させるのは、外見的な強さではなく、信仰にあって働く神の力である。

だから、神がキリストを通して信者にお与え下さった義が、永遠に変わらない完全なものであることがこの地上で証明されるためには、あえて戦いは難しい方が良い。ダビデがゴリアテの前に立った時のように、エリヤがバアルの預言者たちの前に立った時のように、信者には、敵の訴えの前に立つとき、信仰以外の肉の武器は、できるだけ少ない方が良い。

こうして、己の権勢にも、能力にも、知識にも頼らず、ただキリストの御霊だけに頼るいと小さき者が、御言葉への信仰だけによって、激しい戦いを勝ち抜いて、勝利をおさめるのを見る瞬間ほど、キリスト者にとって光栄かつ爽快な瞬間はない。

肉の腕により頼んで、己の勝利を確信してすっかり自己安堵していた人たちが敗北し、キリスト者の神が、永遠に生きておられ、正義を持って右の手を動かし、信者を力強くかばってすべての訴えを退け、あらゆる危難から救い出して下さる方であることを知って、茫然自失するのを見るのは、キリスト者としては言葉に尽くせない喜びであり、そういう瞬間には、ああ、やっぱり、私はキリスト者になって良かった、と思いながら、神の御言葉の確かさの前に、畏れかしこみ、心から神に感謝を捧げ、神に栄光を帰するのである。

そういう瞬間が、筆者の人生には増えつつあって、大きな楽しみとなっている。

我らの神は、その名を不思議と呼ばれる方、どんな時にも信者と共におられる力強い助け主。神には対処できない状況は何一つない。

だから、信者が自分をどんなに力不足のように感じたとしても、恐れることはないのである。キリストが、信者のために、神の知恵、義と、聖と、贖いになられるからである。

「なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

 しかし、神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。

 また、この世の取るに足りない者や、見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。

 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。
 まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。」(Ⅰコリント1:25-31)

さて、信者がいくつもの戦いを経験し、その中で、神への愛と信頼をより深め、キリストの義、キリストの聖、キリストの贖いを自分自身のものとして受け取れば受けとるほどに、信者の心からは、恐れから去って行く。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」(Ⅰヨハネ4:18)

恐れは、罪の意識から生じるものであって、人が自分の罪や、未熟さ、不完全さのゆえに、報いとして刑罰を受けねばらないという予感がその根源なのである。

だが、神の愛の中に確信をもってとどまる信者は、罪意識とは無縁であり、恐れることなく、心を雄々しく、強く持っていられる。そのような信者は、もはや「兄弟たちを訴える者」である悪魔からの挑戦や脅しの前に、揺るがされることなく、大胆な確信を持って、御言葉を証言することができる。その確信は、やがて来るべき日に信者が神の御前で受けるさばきの時にも、大胆に立ちおおせる力を与える。

このように、キリストにあって神の目に義とされたという確信は、信者が信仰の道を進めば進むほど、より確かなものとなって行く。それにも関わらず、神が義として下さった信者を再び罪に定め、訴え、陥れ、滅ぼそうとするような者は、信者個人に挑戦しているのではなく、信者を贖われた神ご自身に挑戦し、神の国の秩序に挑戦しているのであるから、その者は、自分こそ罪に定められて滅びるであろう。

神が義とされたクリスチャンを再び罪に定めるという、悪魔的挑戦は、どんなにやっても無駄な骨折り損で終わる。それは神の定められた永遠に変わらない秩序を覆そうとする試みであるから、続ければ続けるほど、当人にとって不利益をもたらすだけである。

ところで、主の御業は、早い時にはとても早い。

先日、武蔵野警察から連絡があった。当ブログの読者であれば、これが何の件に関するものであるかは、説明するまでもないと思う。この地球上に、武蔵野警察経由で、筆者に連絡を試みて来るような人間は、たった一人しかいない。

それはかつて筆者を警察に訴えると言って息巻いていた杉本徳久氏である。同氏がどれほど筆者を提訴することを強く望んでいたかは、杉本自身の書いた文章からはっきり感じられる。

上記の文章も、ゴールデンウイーク中に送られて来たことを思い出すと、同氏はこの年末年始も、またしてもこの件に夢中になっていた可能性があるように想像される。

だが、武蔵野警察は筆者にはっきりと言った、杉本氏からの筆者に対する告訴は事件として成立しないと。

これは筆者の読み通りであった。筆者は、長年、このような事件に巻き込まれたせいで、それなりの下調べを行ったので、どうせこういう結末になるだろうと予想していた。それは上記の杉本氏の文章に対する返答の中でも書いた通りである。

しかしながら、筆者のその確信は、冒頭に書いた通り、何よりも信仰に基づく確信であり、神がキリストを通して筆者に付与して下さった神の義が、こんな程度の事柄で動かされるようなことは絶対にないという確信に基づいていた。

信者が、こんな程度の事実無根の脅しを真に受けて、信仰告白を自ら放棄しているようでは、キリスト者の名がすたる。

こうした事件は、信者の信仰を試すために、神があえて許されて起きているのである。神は、信者が脅しを真に受けて、自ら信仰告白を断念するかどうか、ご覧になる。

もしも筆者の信仰告白が、見ず知らずの、信仰さえあるかどうかわからない第三者の、根拠もない恫喝によって、簡単に左右されたり、放棄されるほどに軽いものであるなら、そんな程度の証は、初めからしない方が良いであろうし、神の名折れにしかならないその信者は、信仰者を名乗らない方が良い。

それほど不確かな救いの確信しか持っていないなら、そんな信仰は、生涯の終わりを迎えるまでに吹き消されるだろう。

そんな風に、自分を危険にさらしたくないばかりに、不利な状況になればさっさと信仰告白をやめて、神の栄光のために、自分を惜しんで働くことを厭う、無精で自己中心で臆病な信者は、来るべき裁きの日に、神に叱責を受け、そして、人前でイエスを拒んだ罪の報いとして、主イエスからも拒まれて、御国から除外されるであろう。

聖書によれば、おくびょう者を待ち受ける分は、「第二の死である火と硫黄との燃える池だけである。臆病者は神の国に入れない(黙示21:8)

臆病者は、神が自分に与えて下さった贖いの完全さを信じないので、悪魔に脅されれば、自分が贖われた者であることをあっけなく否定して、犯してもいない犯罪の数々を喜んで自白して、自ら世の罪人の軍門に下って行くであろう。そんな信者が、神の国に受け入れられることはまずありえない。自分で告白した通りに、罪人のまま死ぬであろう。

悪魔の嘘は、いつも最大限に膨らました風船ガムのようなもので、どんなに大きく見えても、細い針でわずかな穴をあけただけで、音を立てて弾け飛ぶほど、脆く、はかないものでしかない。あるいは、ナメクジのようなもので、塩をかけておけば、そのうち溶けて消え去る。もっと美しい表現が好みなら、シャボン玉と言っても良い。七色の光彩を放って、一時的には美しく輝くかも知れないが、次の瞬間にはもう跡形もなく消えている。掴むこともできず、痕跡すらも残らない。そういうものを真に受けて、これを揺るぎないリアリティだと思い込むのは、子供か、よほどの愚者だけである。

だから、武蔵野警察には、この機をとらえて、むしろ、筆者を口封じしたいと思っていた連中が、長年に渡り、どんなに卑劣で陰湿な方法を用いて筆者を追い詰め、断筆させようと数々の不法な嫌がらせを行って来たか、かなり時間をかけて仔細に説明しておいた。

警察も、根拠のない訴えを真面目に取り上げたりすれば、自分自身が逆に訴えられ、害をこうむる可能性があることは知っている。虚偽の事実に基づいて刑事告訴に及んだりすれば、訴えた人間だけでなく、その訴えを取り上げた警察も、一緒になって名誉棄損で訴えられる危険が伴うのだ。

昨今、スラップ訴訟という言葉が世間に普及するに連れて、カネや権力や地位や人数にものを言わせて、ただ恫喝によって自分に不都合な言論を口封じすることだけを目的に、何らの確たる証拠もなしに、自分よりもはるかに弱い市民を、法廷闘争に引きずり出しては、痛めつけようとするような人間は、相応の社会的制裁を受けてしかるべきだという考えが、世間に常識として広まり、定着しつつあるように見受けられる。

折しもちょうど良い頃合いで、DHCという巨大企業から、企業に不都合な言論弾圧を目的に、6000万円という高額なスラップ訴訟を起こされて、被告とされながらも、この闘いを耐え抜いて勝訴した弁護士のブログ「澤藤統一郎の憲法日記」のつい最近の記事「「ヘイト・デマ ニュース番組」の元凶・DHCとの闘いにさらなるご支援をー「DHCスラップ訴訟」を許さない・第99弾」(1月28日)にも、スラップ訴訟をしかけるような人間に対しては、その逆の損害賠償の訴訟を起こすことで決着をつけねばならないことが書かれている。

この記事を通しても分かるように、不当な訴訟に巻き込まれた人々は、ただその訴訟に勝つだけでは不十分なのである。スラップ訴訟にただ勝訴しただけでは、いわれなく被告とされた人々が受けたダメージを消すことはできない。彼らは、不当な訴訟をふっかけられて被告とされた年月の間に傷つけられた社会的名誉、受けた精神的苦痛、訴訟への準備によって奪われた時間、気力、体力などの全ての損失を、原告側から取り返すべきなのである。

そうしない限り、スラップ訴訟自体が、悪であり、しかけた人間にも、とてつもない損となって跳ね返ることを思い知らせる方法はない。こうしない限り、カネや権力にものを言わせて、言論弾圧のために、司法の場を悪用して、悪意ある訴訟を起こしたい人々の思いに歯止めをかけることもできない。

杉本徳久氏は、村上密牧師が鳴尾教会にしかけた、初めから勝ち目のなかった、ただ恫喝だけを目的とする訴訟にも、かなり深く関わって、村上サイドを支援して来た。その経過は杉本氏のブログに記されている。

だが、初めから敗訴覚悟で恫喝目的の訴訟をふっかけることは、非常に大きなリスクを伴うことであり、その訴訟を支援した者も、不利益を受ける可能性がある。つまり、村上密だけでなく、村上サイドを支援して、根拠なきデマを広めた人々も、一緒になって賠償請求の対象とされる危険があるのだ。

教会やクリスチャンは、この世の人々と違って、訴えると言われれば、すぐに怯えてひっこむか、あるいは、反駁して、不当な訴訟に勝っても、受けたダメージを取り返すこともなく、何の反撃もして来ない、羊のようにおとなしい人々だと、思われているのかも知れない。もしそうだとしたら、それは事実ではないので、考えを改めてもらわないと困る。

聖書は、悪魔を「兄弟たちを訴える者」と呼んでいる。それは、悪魔がいわれのない罪をおびただしく着せては、クリスチャンを告発することを稼業にしていることを物語っている。あらゆるスラップ訴訟は、まさに悪魔の精神から来るものである。

だが、同時に、聖書は、「訴える者」である悪魔を「ほえたけるしし」にたとえ、この「しし」の咆哮(根拠なき訴え)に、信者はきちんと立ち向かうよう警告している。

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさいご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。」(Ⅰペテロ5:8-9)

ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」(ヤコブ4:7)

「ほえたけるしし」のごとく、獲物を求めて教会をさまよい、咆哮によって聖徒らを脅かし、聖徒らを獲物のように捕まえては、泥沼の裁判に引きずり込んで見世物にし、虚偽の訴えによって傷つけ、苦しめるような不届き者は、獣のごとく捕獲されて、教会の外に追い払われるべきである。だが、それだけでなく、そのような者は、聖徒らに不当な打撃を与え、神の国を宣べ伝える教会の使命を不当に遅延させた罪の報いとして、相応の償いを要求されてしかるべきである。

だから、「ほえたけるしし」に脅かされた人々は、牧師であれ、信徒であれ、いわれなくこうむった損害に対して、黙っておらず、きちんと物申した方が良いであろう。そうしなければ、このような連中は、決してその咆哮をやめないからだ。

箴言には次のような御言葉もある。

罪人の財宝は正しい者のためにたくわえられる。」(箴言13:22)

クリスチャンの使命は、悪魔の不当な訴えを反駁して退けることだけにあるのではない。悪魔に「立ち向かう」姿勢が必要なのである。それは、聖徒が、神の義によって、自分自身の潔白を主張するだけでなく、神が贖われた聖徒を訴えた悪魔の有罪性を指摘し、悪魔の不当な打撃によってこうむった損失について、悪魔に補てんを要求し、ダメージを取り返すことを含んでいる。

悪魔から財産を没収して、悪事を働く機会を奪い、これを教会財産として、福音伝道という目的のために用いることは、神の利益にかなっており、罪ではない。

このように、敗訴覚悟でスラップ訴訟を起こすことは、今の時代、自滅行為でしかないのだが、さらに、訴訟さえ成立するかどうかも分からない段階で、気に入らない相手を恫喝して、黙らせるためだけに、「訴えてやる」などと脅しをかけるのは、それに輪をかけてたとえようもなく愚かな行為である。

だが、武蔵野警察は、杉本徳久氏が、相も変わらず、筆者を憎み抜いて、打撃を与えるために、警察にせっついているのではないらしいこと、明らかに、筆者を告訴するなどといった荒唐無稽な脅しは霧消し、むしろ、今は同氏が「早期解決を望んでいる」らしいことを伝えて来た。

特に、筆者に感じられたのは、杉本氏が、もうこれ以上、村上密や、他の牧師たちの仲間とみなされたくないと考え、村上の活動から手を引きたいと願っているらしい様子であった。おそらくは、杉本氏自身が、こんなむなしい反キリストの悪魔的精神に貫かれた聖徒らの迫害運動に関わることに嫌気がさして、それが自分にとってどんなに限りなく不名誉な損失であるかを理解したのであろう。そして、この活動に関わった記録を消し去りたいと望んでいるのであろう。

もしそうだとすれば、それは大変、歓迎すべき事実であって、筆者には反対する理由もないのだが、ただし、筆者としては、できもしない告訴その他その他の脅かしにより、8年にも渡って、脅され続けた年月に対しては、相応の責任は取ってもらうことが条件となる。

杉本氏とのトラブルは、そもそも、2009年の秋に、筆者がたった一件の自分の手で杉本氏のブログに投稿したコメントを削除してほしいと申し出たことをきっかけに始まった。この何でもない依頼をきっかけに、杉本氏は削除に応じるどころか、見ず知らずの筆者に向かって、削除を要求した理由が我慢ならないと、不当な因縁をつけ、それ以来、自分にとって不都合な言論を筆者が発表する度に、中傷や脅しや嫌がらせによって、次々削除を要求して来たのである。こうして、筆者が脅され続けた年月は、なんと今年で8年目を迎える。

約8年間という長きに渡って、できもしない告訴をちらつかされたり、個人情報をばらすと言っては脅されたり、誹謗中傷の弾劾記事を次々と書かれて冷やかされ、病気でもないのに人格障害だと言われ、重症のマインドコントロールを受けているとか、カウンセリングを受けているとか、人間関係についても虚偽の事実を流布され、社会活動をも、執筆活動をも、妨害されて来たのだから、このような他人を深く傷つける行為には、相応の対処を求められて当然である。もし杉本氏に市民としての自覚や礼節の感覚がわずかでも残っているなら、彼は自分の行為に対して責任を取るべきである。

だが、それに応じさえするならば、筆者の側でも、和解は可能である。我らの神は、悔い改めた人の罪は二度と思い返されないと言われる方なので、一旦、書いた記述は取り消せないとは、筆者は考えていない。悪魔にも悪霊にも悔い改めの余地はないが、人間はそうではないのだ。人間は生きている限り、変わり得る存在であり、願わくば、良い方へ変わって、神の和解を受けるチャンスを逃さないことである。

「今日、もし御声を聞くならば、
 荒野で試みの日に
 御怒りを引き起こしたときのように、
 心をかたくなにしてはならない。」(ヘブル3:7-8)

警察は、以上のような思惑を告げると、民事には不介入だが、かといって、筆者の意見に反対するでもなく言った、「あなたの納得のいくようにして下さい」と。

まるで、いたずらでボールを投げて学校の窓を割った悪餓鬼中学生を、反省させるために、学校へ同伴して来た親のようであった。

こうして、筆者に対しては、スラップ告訴も成立しないうちに、杉本氏が筆者について訴えていた「罪状」なるものは、シャボン玉のように消し飛んだわけだが、このことは、筆者に対する神の贖いが正真正銘、完全であることをはっきりと物語っている。

聖書によれば、クリスチャンは、世によって罪に定められるような存在ではなく、まさにその逆であって、クリスチャンこそ、世をさばく存在なのである。

キリストと共なる十字架により、律法によって律法に死んで、神の御前に義とされたクリスチャンは、もはや、この世のどんな法によっても、罪に定められることのない、むしろ、世のすべての法体系を超える、超法的な存在なのである。

だからこそ、パウロは次のように言ったのである、あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえさばく力がないのですか。私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを知らないのですか。それならこの世のことは、言うまでもないではありませんか」(Ⅰコリント6:2-3)

もちろん、クリスチャンも、神の御前で申し開きを求められるので、自分の行動については、何が神が喜ばれることであるかをきちんとわきまえねばならないが、パウロは、クリスチャンは、世から罪に定められるどころか、世を超越し、世をさばく資格のある天的存在であり、さらに、御使いさえもさばく者であると言ったのである。

それほど絶大な権威をキリストにあって付与されて、天的な秩序の中に召されているクリスチャンを、村上密のような人々は、再び、世の支配下に置いて、世の法廷のさばきの下に引きずり出して、世人の目線によって罪定めしようと望んでいるわけだから、これは聖書の御言葉の完全な否定であり、まさに悪魔的発想から来るものとしか言えない。

筆者はこれまで、村上密の主張の根本的な異端性は、同氏の思考における、この世の秩序と、天的な秩序の逆転にあることを、再三に渡り、述べて来た。

つまり、この牧師が試みたように、神が罪赦されて義とされたクリスチャンを、世の法廷に引きずり出して、罪に定めようと試みることは、クリスチャンに適用された神の救いの御業を否定し、人類の罪を贖うために十字架で流されたキリストの血潮の価値を否定し、それによって我々信じる者に与えられたキリストの義を否定することであるから、それは到底、信仰のある者の取る行動でないが、そのような考えは、この世が教会の上に立ち、世が教会の裁き主となることを肯定するものであるから、天と地の秩序を逆転させて、教会におけるキリストの支配を否定して、教会を世の支配下(悪魔の支配下)に置き、悪魔を教会の主人に据えようとするのと同じであり、神に対する反逆の反キリスト的精神からでなければ、決して生まれ得ない発想であることを述べた。

そのようにして、神が贖われて世から召し出された者である教会に、恐れ知らずにも有罪判決を下そうと試み、教会を再び世の奴隷とし、世の支配下に置こうと企む者たちは、反キリストの精神に息吹かれたアイディアを提唱しているであり、しかも、このようなアイディアを、他ならぬキリスト教界の牧師が提唱し、その主張を他の牧師たちが、反対するどころか、黙認し、賛同さえしているのだから、その様子を見れば、キリスト教界というところが、どんなに聖書から遠い、悪魔的精神に毒された場所であるか、また、牧師という連中が、どういう異常な考えの持ち主であるか、おのずと知れようというものだ。

そもそも、この世の社会でも、自分に不都合な言論を繰り広げる人間に向かって、誰彼構わず告訴の脅しをかけまくるヤクザのような人間は、誰からも信用されないのが当たり前で、まして尊敬など受けるはずもない。そのような人間は、公衆の面前でナイフを振り回す幼児と同じく、気のふれた人間として、大人たちによって取り押さえられ、隔離されるだけである。

ところが一体、どうして、キリスト教界では、そんな人間が、いつまでも傍若無人に歩き回り、その乱暴狼藉を周りの人々が黙認し、あまつさえ、拍手を送っているのであろうか。

自分の教団や教会がありながら、教団や教会の規則を無視して、他教会の内政に首を突っ込み、他教会の信徒に密偵のごとく近づいて、他教会やその信徒を法廷闘争に引きり込んで教会を崩壊させるチャンスがないかどうか、弱点を探り出すために、密告を奨励し、チャンスがあれば、スラップ訴訟をしかけて教会に打撃を与え、リーダーを悪者扱いして追放し、信徒を分裂させて弱体化させ、こうして弱体化した教会を自分の教会に併合し、群れを乗っ取ることで、自分の教会を拡大して行く。これらすべてのことを「被害者救済」や「傷つけられたマイノリティへの支援」という正義の旗印のもとに行う。

こういう人間、こういう異常な牧師を、クリスチャンがどうして仲間とみなすことができるだろうか? こんな人間を、もしクリスチャンが「神の家族」の一員、「兄弟姉妹」として自分の教会に歓迎し、さらには、「牧師」として、リーダーとして敬意を払ったりすれば、その人たちの教会の行く末がどうなるか、分からないのであろうか?

以上のように教会を荒らし回る人間は、どこからどう見ても、牧者ではなく、ただ羊の群れに紛れ込み、羊を食い散らすためにやって来た凶暴な狼」(使徒20:29)でしかない。聖徒らを法廷闘争に引きずり込んで有罪を宣告することをライフワークとするような牧師は、牧師の名にすら値せず、私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」(黙示12:10)、「荒らす憎むべき者」(マタイ24:15)、「ほえたけるしし」(Ⅰペテロ5:8)などの名で呼ばれることこそふさわしい。

ところが、こんな似非キリスト者、もっと言えば、悪魔に息吹かれた反キリストの精神の持ち主としか言えない人間が、公然と教職者を名乗り、講壇から信徒に向かって教師として説教し、信徒の献金を集め、それによって自らの生計を立て、あまつさえ、その献金をキリスト教界に内紛を起こして、信徒同士を争わせるために用いている。そして、他の牧師たちがその活動の罪深さを指摘するどころか、同業者だからと、その罪をかばいだてし、喜んでその悪しき教会破壊活動を黙認している。これが、今日のプロテスタントのキリスト教界のあまりにもお粗末かつ悲惨な現状である。

結論から言えば、こんなキリスト教界は、もはや霊的に機能しておらず、とうに終わっている組織だと言って良い。

そういうことになるのは、この教界に君臨・支配している牧師たちのほとんどが、本当の牧者ではなく、むしろ、キリストの栄光を盗んで、自分が神の代理人(いや、本心を言えば神そのもの!)として栄光を受けることを願う、信徒を踏み台にして、自分の名を上げたいだけの偽牧者ばかりだからである。

プロテスタントの牧師制度は、以下に記す通り、根本的に聖書に反する誤った制度であり、このような誤った制度のもとで、教職者となっているほとんどの牧師たちは、残念ながら、羊のために心を砕く牧者から、最もほど遠い人たちで、信徒から収奪した献金と奉仕によって己を養う特権階級としての偽牧者に過ぎず、彼らは「羊の所有者でない雇い人」(ヨハネ10:12)である。彼らは、己の名誉、地位、俸給を目当てとして教会にやって来た、雇われサラリーマン牧者だから、もともと羊を守る気などさらさらなく、村上密のような牧師が現れて、他教会を泥沼の訴訟に引きずり込み始め、羊を中傷し、食い散らすのを見ても、「ほえたけるしし」の脅威から信徒を守るどころか、むしろ、獣の咆哮に喜んで同調し、獣の怒りをなだめるために、気に入らない信徒をいけにえに差し出し、信徒が食いちぎられる瞬間を見世物として楽しみ、獣による蛮行に自ら加わることで、自分も「兄弟たちを訴える者」となり、自ら獣と化すのである。

こうして、多くの牧師たちが、「ほえたけるしし」の咆哮に自ら同調したのは、彼らが村上密と同じように、自分自身を神に等しい存在であるとみなし、聖書の御言葉に逆らうことを罪とせず、教職者である牧師の意向に信徒が逆らうことを罪とみなし、自分に歯向かって来る信徒は、徹底攻撃して引き裂いても構わないという、村上密と全く同じ、恐るべき悪魔的思想の持ち主だったからである。

教会内で事実上の現人神と化した高慢な牧師たちにとって、村上密の繰り広げるカルト被害者救済活動は、何ら反対すべき性質のものでなく、むしろ、自分たちの特権的地位を脅かしうる、不都合な信徒を、自ら直接手を下さずに「始末」するのに非常に役立つ、手堅い運動であって、手放せない道具であった。

何しろ、この運動は、放っておいても、選ばれた特権階級としての牧師たちの地位を脅かすような告発をする「不心得な信徒」を、次々と泥沼の訴訟や、誹謗合戦に引き入れて、都合よく「始末」してくれるのである。しかも、牧師たちが争いの矢面に立って、自らの手を汚すことなく、信徒同士の争いという形で、この「始末」を成し遂げてくれるのである。

キリスト教界の不祥事が次々と暴かれ、被害者運動のようなものが拡大して行くことは、牧師たちにとっては、常に脅威であった。なぜなら、それはやがてキリスト教界全体への批判の高まりを招き、牧師全体に対する批判となって、キリスト教界全体が揺るがされる事態へと発展しかねない危険を秘めているからである。

そこで、牧師たちは、そのようなことが決して起きないように、一計を案じる必要があった。すなわち、キリスト教界への批判を骨抜きにして、キリスト教界(=牧師たちの特権的地位を守るための砦)を揺るがしうるような、本質を突く批判が、決して信徒の中から出て来ないように、まずはキリスト教界への批判者たちを、「カルト被害者救済活動」という、出来レースのような嘘っぱちの似非改革運動の旗のもとに集めて、牧師たちの監視下に置いておき、他方では、この活動に賛意を示さない信徒、あるいは、この運動から離脱する信徒には、暴徒のような被害者運動の支持者をけしかけて、誹謗中傷を浴びせ、信徒同士の同士討ちに陥れることで、口を封じようとしたのである。

こうして、牧師たちが被害者運動を自らの管理下に置いて、動向をつぶさに監視し、信徒同士を互いに争わせている限り、どこの教会でどんな牧師がどんな不祥事を起こうそうとも、キリスト教界全体が揺るがされることはない。出来レースに過ぎない被害者運動に、キリスト教界への批判を独占させている限り、牧師階級全体に非難の矛先が向くことは決してなく、牧師たちの地位は安泰である。キリスト教界の異端性を真に告発する信徒は、みなこの運動が「始末」してくれる。

こうして、自分たちの特権的地位を守るためにこそ、キリスト教界の牧師たちは、暗黙のうちに、村上密の運動と手を結んだのである。牧師たちは、「神に等しい」キリスト教界の聖職者たちの悪事を率先して暴いたり、牧師制度を否定したり、キリスト教界の欠点を指摘し、その教義に紛れ込んだ異端の要素を暴き出すような、分をわきまえない、小賢しく、不届きな信徒を、全員、抑圧・排除して、言論弾圧するための装置として、「カルト被害者救済運動」を大いに利用し、これを用いて、いついつまでも気に入らない信徒を辱め、脅すことを願ったのである。

こうして、信徒を食い物にして自分自身を養うだけの雇われ羊飼いたちの身の上には、「狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。」(ヨハネ10:12-13)という主イエスの御言葉が、文字通り、成就したのであった。

こうした牧師たちにとって大切なのは、羊(信徒)ではなく、教団や教会で得られる自分の地位、名誉、俸給だけである。それだからこそ、彼らは狼の脅威の前に羊をさっさと見捨て、狼の支配に喜んで屈し、羊を恐怖と暴力で支配し、教会の上に世(悪魔)を主人に据えることに同意したのである。こういう牧者たちの姿は、エゼキエル書で、神が糾弾された「羊を犠牲にして自分自身を養う牧者」たちの姿にそっくりである。

「神である主はこう仰せられる。ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。

弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力づくと暴力で彼らを支配した。

彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。<…>

それなのに、わたしの牧者たちは、わたしの羊を捜し求めず、かえって、牧者たちは自分自身を養い、わたしの羊を養わない。それゆえ、牧者たちよ、のことばを聞け。神である主はこう仰せられる。わたしは牧者たちに立ち向かい、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる。牧者たちは二度と自分自身を養えなくなる。わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らのえじきにさせない。」(エゼキエル34:2-10)

今日のキリスト教界にはびこる以上のように歪んだ偽牧者たちの姿は、主イエスが地上におられた時に、御子を最も激しく迫害した、律法学者やパリサイ人たちといった宗教的エリートの姿にぴったり重なる。

今日の多くの牧師たちは、自らが、律法学者、パリサイ人と変わらない、歪んだ宗教的エリートとなっていればこそ、自分たちの罪や、キリスト教界の闇が真に暴かれて、牧師階級全体が糾弾されて揺るがされることのないように、策謀を巡らせ、表向きには「キリスト教界で被害を受けた者たちの優しい支援者」を演じながら、その実、キリスト教界への不満分子をことごとく監視対象とし、弾圧することで、批判を骨抜きにし、批判者を駆逐して行ったのである。その際にも、この牧師たちは自分自身が訴えられないために、杉本徳久氏のような人物を、まことに都合の良い捨て駒のような存在として、自分の身代わりに全てのリスクを負わせて争いの矢面に立たせ、存分に利用するほどまでに卑怯・卑劣であった。

とはいえ、その杉本氏も、村上密の繰り広げるカルト被害者運動をすでに見放しているようだから、一時は疫病のように猛威を振るった村上の運動も、もはや事実上は、壊滅し、無と化していると言って良い。

こうして、己を神とみなすキリスト教界の教職者たちが、どんなに寄り集まって、陰謀を巡らして、気に入らない信徒を誹謗中傷し、引きずりおろして罪に定めようと試みても、その計画は成らなかった。今や、信徒はみな次々とこの悪魔的活動から手を引き、神が贖われた信者を再び罪に定めるような不届きな願いを抱いているのは、もはやキリスト教界の牧師たち以外にはいない。

筆者は、キリスト教界はそれ自体がフェイクであって、偽物の教会であることを、これまでずっと書いて来た。プロテスタントの牧師制度は、「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(Ⅰテモテ2:5) 「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。」(マタイ23:8)という聖書の真理に真っ向から逆らい、神と信徒との間に、キリストの他に、神の御言葉を取り継ぐための教師としての宗教指導者を、不可欠な存在として置くものであるから、聖書に根本的に反している。

牧師制度は万民祭司という新約の真理を否定する制度であり、制度自体が反キリストの精神の上に成立している以上、こういう制度によって生まれた牧師たちが、神が贖われた信徒を中傷したり、罪に定めようと策謀を巡らし、見世物にして食いちぎったとしても、全く不思議ではない。

牧師制度の忌まわしさは、この制度が搾取にまみれているという点からも、明らかである。プロテスタントでは、聖書の真理を否定して生まれた牧師という忌むべき聖職者階級全体を維持するために、信徒が献金と無償奉仕を続けて、牧師一家を養っている。牧師だけでなく、牧師の妻や子供までも養っている。退職金や、老後の世話までもする。中には、一週間、労働もせずにブラブラしている若い牧師を支えるために、信徒が夜の仕事をする例もある。信徒の奉仕はどれほど長い年月に渡って続けても無報酬だが、牧師だけは一年生でも報酬をもらう。こうした事実に照らし合わせても分かるように、牧師制度とは、結局、教会内の信徒間にもうけられた不当な差別であり、キリスト教の装いをしたカーストであって、牧師は事実上、信徒に君臨する特権階級、宗教貴族なのである。

結局、牧師制度とは、宗教に名を借りただけの、信徒からの搾取と差別の体系なのであり、カトリックの聖職者のヒエラルキーとはまた違った形で、信徒間に差別をもうける、神の御心にかなわない反聖書的な制度である。

さらに、プロテスタントの牧師職には、一体、どうして上記したように、神に逆らい、聖書の御言葉を否定して、信徒を食い物にし、恐怖と暴力によって羊を支配する、見栄と出世欲と自己保身の塊のような、人格的に未熟で、どうしようもない考えの持ち主がやって来るのかと言えば、それはただ牧師制度が間違っているだけでなく、牧師になるためのハードルも、あまりに低すぎるからである。

プロテスタントの牧師職に就くためには、一般的に、カトリックのような長い教育訓練は必要とはされない。人手不足や、大した俸給をもらえない事情も手伝って、候補者が少なく、誰でも志願すれば、簡単に牧師になれる。

特に、ペンテコステ運動に属する組織では、状況は他の教団教派と比べても呆れるほどひどく、すでに述べた通り、牧師になるための条件は、本人の熱意以外には、無きに等しいと言って良い。信仰歴も要求されず、場合によっては、神学校での教育さえ受けずに、名乗り出れば、明日からでも、誰でも「パスタ―」になれるというお手軽さである。

そのようなハードルの低い牧師職には、当然ながら、集まる人々の人格的・教養レベルも低くなりがちで、果ては神に出会ったこともなく、救いの確信もなく、神から召しを受けていないことが明々白々な、信仰さえあるか不明の人間が、ただ自分勝手な情熱だけで、献身して牧師になったりもする。あるいは、社会ではどこへ行っても通用しない、到底、教師やリーダーにふさわしくない未熟な人間が、手っ取り早く地位と名誉を求めて献身する。あるいは、カルト団体から強制脱会させられた人間が、マインドコントロールさえ解けていないのに、ただカルトの教義とキリスト教の教義を取り替えて献身する。家庭的に大きな不幸を抱える人間が、自らの抱える精神的問題が全く解決していないのに、問題解決を求める過程で献身したり、あるいは、プロテスタントの多くの教会が繰り広げるお涙頂戴の社会的弱者への支援の対象となったホームレスや、元ヤクザのような人々が、受けた恩義を返したい気持ちから人情によって献身する。あるいは、世襲制の寺のように、たまたま親や親族が牧師だったからと、その息子や娘が二世三世として献身して牧師になる。

神学校は、牧師の卵たちが、自分の将来に有力なコネとなってくれそうな牧師家庭の子女を物色するための結婚相談所も同然の存在に成り果てている。つまり、キリスト教界は、水と霊によって新しく生まれた信者が集まる場所どころか、この世の肉の絆や、血統がものを言う、完全に地上的で世俗的な宗教に成り果てているのである。

こういう得体の知れない不届きな動機で聖職に志願した人々が、社会で切磋琢磨して人格を練られることもなく、ほんのわずかな学びの年月を経ただけで、もうひとかどの教師となって、「先生」と呼ばれ、信徒にお説教を垂れ、信徒が汗水流して働いて得た献金で自分自身を養い、寄り集まって、自分の教会を互いに自慢し合い、ライバル牧師を凌ぐために、教会をどうやってもっと大きくして、献金額を増やすか、日々、思いを巡らせているのである。

一般に、プロテスタントでは、牧師同士の争いは相当にひどいと言われている。牧師たちは、自分の教会の礼拝堂の規模や、信徒や献身者の人数を巡って、絶えず競い合い、教団が事実上の献身者のノルマを課したりして、争いを煽っている。そこで、牧師たちは、互いの成功を妬み合い、陰で中傷し合って、足を引っ張り合うなどは日常茶飯事で、こんな場所で、エキュメニズム運動など、どんなに唱えてみたところで、互いに競い合う牧師たちの間に信頼関係や、協力関係が生まれることはない。

プロテスタントの「多重分裂病」(=牧師たちの争い、教会同士の争い)のひどさは、牧師たち自身も認めており、これこそプロテスタントの致命的な弱点であって、牧師たちの目指す「リバイバル」を不可能にしている最も深刻な原因であるということは、牧師たち自身が、認め、度々、説教などで反省材料として語るほどである。(人間的な確執に加えて、宗派や教義の違いから生じる絶えざる争いもある。)

このように、プロテスタントには、牧師たち自身が、教職者たちの間で争いがやまないことを憂慮している現状があり、インターネットで起きていることは、その反映に過ぎない。要するに、牧師たちの分裂闘争や、妬み合い、足の引っ張り合いが、信徒に飛び火しているだけなのである。インターネット上で、信徒をさらし者にし、中傷することで、誰よりも喜び、鬱憤を晴らしているのは、牧師たち自身なのである(村上密はその代表格に過ぎない)。

筆者は物心ついた時から、プロテスタントを観察して来たので、決して誇張した事実をここに書いているわけではないが、このような状況なので、人格的に高潔で、真実、信仰深い信徒は、どんなに主イエスに従う決意をしても、あくまで信徒のままにとどまり、決して牧師にはならない。謙虚な人間ほど、決して自分から名誉や高い地位を求めないものだが、さらに、聖書が「多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」(ヤコブ3:1)と述べている以上、多くの信者は、この警告に真摯に耳を貸して、自ら「先生」と呼ばれる立場に立って、格別きびしいさばきに自分をさらそうとは思わない。また、プロテスタントの多くの牧師たちがやっているように、自分の名を大々的に掲げて、正義の旗の下に、お涙頂戴の偽善的な弱者救済活動を繰り広げたり、福音伝道を口実に、奇抜な格好をして世界各国を練り歩き、神の恵みと言っては高価な車を乗り回したりはしない。カルト問題の専門家として、世間で有名になったりすることを目指したりもせず、こうしたすべてのことを売名行為として嫌悪し、忌避する。(筆者がこのブログをペンネームにしているのも、関係者を守るためと、自ら栄光を受けないためである。)

だが、牧師職は、神の目にのみ覚えられるように、隠れたところで奉仕を行う生き方とは正反対の生き方をする人たちが、積極的に手を挙げる職業であり、なおかつ、上記した通り、この職業は、それ自体が、信徒への搾取の上に成り立ち、見えない神ではなく、牧師という目に見える人間に栄光を帰するシステムであるから、この職に志願するために集まって来る人々が、お世辞にも謙虚とは言えない、信徒を踏み台にして出世することを願う名誉欲・出世欲・自己保身の塊のような卑しい人間であっても、何の不思議もないのである。

つまり、牧師制度という聖書に反する制度自体が、教会を腐敗させる根源となっているのである。

だから、村上密の訴えているような「教会のカルト化」は、一部の腐敗した牧師だけの専売特許ではなく、牧師制度そのものが結ぶ悪しき実なのだと、いい加減に、理解すべきなのである。牧師制度という、聖書に逆らい、キリストの栄光を奪って成り立つ、人間崇拝の罪にまみれた制度ある限り、カルト化はやまず、牧師制度そのものの持つ根本的な悪を見ずして、ただカルト化という現象だけをどんなに叩いても、トカゲのしっぽ切にしかならず、一切は無駄なのである。

しかも、牧師が牧師を取り締まることで、カルト化を抑えようという発想なのだから、呆れるようなマッチポンプ、プロレスごっこでしかなく、それは結局、教会のカルト化を取り締まることを口実に、村上密のような野心的な牧師が、他の牧師たちを抑えてキリスト教界の覇権を握りたいがために行われているだけの運動であって、そんな方法では、カルト化は防げないばかりか、教界は前よりもより一層悪くなり、もっと恐ろしいカルト的腐敗に落ち込んで行くだけである。

だから、こういう人々の行うカルト取締運動は、上記した通り、本当は牧師制度そのものを温存するために作り出された目くらましの運動であって、牧師階級に属する者たちの利益を守り抜くために作られた出来レースに過ぎないのである。

筆者の目から見れば、カルト被害者救済活動などというものが登場して来て、諸教会の腐敗が次々と明るみに出された時点で、これはプロテスタントが役目を終えて、霊的に終焉を迎えていることが、公然と世に示されたという事実を意味する。

かつてマルチン・ルターの登場と共に、ヨーロッパで隆盛を極めたカトリックの組織的腐敗が暴かれ、宗派としてのカトリックの信用が徐々に権威失墜して行き、これに代わって、プロテスタントに信仰復興運動のバトンが預けられたのと同じように、今また、プロテスタントの牧師制度の闇が暴かれ、教会成長論や、ペンテコステ・カリスマ運動のような、教界に蔓延する異端思想が明らかになったことにより、プロテスタントも存在意義を失って、霊的に終焉を迎えつつあるのである。

だから、今後、信徒が真剣に心を砕くべき課題は、プロテスタントの腐敗したキリスト教界をどう立ち直らせるかという問題ではなく、むしろ、このようにまで腐敗したキリスト教界を離れて、牧師制度のないところで、どのように神が贖われたエクレシアとして、神の国の権益に仕え、天的リアリティをこの地においても実際とし、キリストと共にこの地を治め、キリストにある成人になるまで、信仰を成長させるのかを模索することにある。

重ねて言うが、牧師制度という人間崇拝の罪と手を切らない限り、信者が見えないキリストだけに頼り、聖書に基づく信仰の本質に立ち返ることはできないであろう。この教界に身を置いていたのでは、信者は信仰の何たるかも分からないまま、ただ聖職者階級を養うための道具として生涯を終えるだけである。

牧師制度という、人間崇拝・指導者崇拝の罪なる制度を敷くキリスト教界の組織の中で、信者はまことの神に出会うことはできず、真にキリストに従うこともできない。だから、真実、主イエスに従いたいならば、信者は人間の指導者に従うことをやめて、キリスト教界を出て、御霊によって直接、御言葉を教わりながら、見えない神にだけ頼り、キリストだけに栄光を帰する生活に転換するしかないのである。

2017年1月16日 (月)

統一教会に後押しされる安倍首相が推進する共謀罪が日本経済にもたらす破滅的な委縮効果

統一教会に後押しされる安倍首相が推進する共謀罪の成立が、日本経済にもたらすであろう壊滅的な委縮効果

さて、新年になって、これまで統一教会の機関紙「世界日報」の表紙を何度も飾り、統一教会と密接な関わりがあることがインターネットではもはや周知の事実となっている安倍首相が、またもや国民を恐怖に陥れ、新たに重荷を課すための、悪巧みに満ちた法案を国会へ提出することに意欲を示した。

今月20日から始まる通常国会に、与党自民党はこれまで3回、国会に提出されて廃案となった悪名高い「共謀罪」を法案として提出するという。この法案の成立にとりわけ執心しているのが、他ならぬ安倍首相であることが、ニュースを通しても明らかにされている。将軍様が独裁を完成するためには、必要不可欠な法であるわけだ。

(「<安倍首相>「共謀罪」に意欲 通常国会で提出か」(Yahooニュース掲載 毎日新聞 1/5(木) 20:58配信などを参照。)

だが、共謀罪は、何よりも、統一教会が以前から熱心に成立を推進していることが知られている。統一教会の機関紙「世界日報」においては、2006年の時点で「共謀罪/与党再修正案で成立させよ」(「世界日報」2006年5月14日付社説)との社説が掲載されるなど、それ以来、以下に見るように、今日に至るまで、一貫して、共謀罪の成立に俄然、意欲を示す一連の社説が掲載されている。

統一教会は、ごく最近の社説「共謀罪創設、テロ対策強化に不可欠だ」(「世界日報」編集局 2017年1月07日付社説」においても、「2020年東京五輪・パラリンピックを控え、テロ対策強化は喫緊の課題だ。共謀罪創設法案は過去3度にわたって国会に提出されたが、野党の反対で廃案となった。今度こそ成立させなければならない。」などと、3回の廃案にも全く動じる気配なく、オリンピックにかこつけて、法案成立への強い意気込みを示している。

これを見れば、安倍の共謀罪へのこだわりが、まぎれもなく、長年、この法案成立に執拗にこだわり続けて来た統一教会の野望と一致すること、共謀罪の成立を推し進めているのは、何よりも、政界と結びつき、政治家を陰で操るカルト宗教勢力であることが誰しもよく分かるだろう。

共謀罪という呼び名は、過去3回、廃案となった際に、すっかり世間に拒否反応を呼び起こすマイナスイメージとして定着してしまったので、今回は、東京五輪にかこつけたテロ対策を前面に押し出した、「テロ等組織犯罪準備罪」という名に変更する予定のようだ。

さて、当ブログの以前からの読者には、筆者の立場は、あえて説明せずとも、了解済みの事項であるものと思うが、それでも改めてもう一度、触れておきたい。

当ブログでは、統一教会出身で、現在、プロテスタントのキリスト教界のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に属する牧師である村上密が、「キリスト教界のカルト化を取り締まる」という名目で提唱した「カルト監視機構」の危険性を、早い段階から訴えて来た。この監視機構は公には設立されなかったが、村上密はその思想を捨てることなく実行に移し、そして、筆者の危惧した通り、村上密の活動は暴走し、最後にはほとんど無差別的なキリスト教徒の迫害を引き起こしたのである。

最初は「カルト化した一部の教会だけを監視と取締の対象とする」と言っていた牧師が、疑心暗鬼に陥り、途中からは自分の活動に理解を示さない者をすべて「カルトの疑いがある、敵」のようにみなして、インターネット上で支持者などを利用して人格攻撃し、ついには、敗訴も覚悟で、ただ教会に打撃を与えるためだけのスラップ訴訟に及び、自分の活動に賛意を示さないすべてのクリスチャンへの無差別的な迫害に及んだ様子は知られている。同氏の疑心暗鬼の対象は、ついには同じ教団に属して同労していた牧師や、自身が所属しているアッセンブリーズ教団にまで及んだ。

こうして、最初は「カルト(だけ)を取り締まる」と言っていたカルト監視機構の提唱者は、最後には、「自分に反対する者はみなカルト」と考えて、無差別攻撃に及んだ。「カルトを取り締まる」という一見、正しそうに聞こえる牧師の使命感は、最後には信徒の自主的な信仰生活と、福音伝道という教会の本来的使命を著しく害して終わったのである。

安倍の提唱する「共謀罪」は、かつて村上密が提唱した宗教版「カルト監視機構」を、そのまま土台として政治版に書き変えただけのものと見て良い。なぜなら、両者に流れる思想的基盤は、全く同じだからである。

しかも、上記の村上密牧師は、若い時分に統一教会に入信していた経緯があることが知られており、その意味でも、安倍と思想的な基盤が非常によく似ていると言える。そもそも「カルト監視機構」という同牧師の発想は、まさに統一教会流の思考からこそ生まれた発想であり、統一教会で受けたマインドコントロールの影響や、統一教会流の二元論的思考の教え込みが、形を取って表面化したものと考えられる。そして、この発想は、後述するように、もとを辿れば共産主義思想に遡るのである。

だから、共謀罪が成立すると、カルト監視機構を巡ってキリスト教界で起きたような事件が、今度は政治の世界で繰り広げられることになるのは自明の理である。安倍の提唱する共謀罪は、成立すれば、必ずや、村上密の唱えたカルト監視機構の発想と同じように、暴走するであろう。この法案はすでに多数の場所で、数えきれない人々によって、治安維持法の再来だとの懸念が表明されているが、まさにその懸念の通りに、当初は「テロを防止する」(≒「カルトを取り締まる」)という名目を掲げていたものが、必ずや、最後には「全国民」(≒「全クリスチャン」)を無差別的な嫌疑の対象とするであろうことを予測しないわけにはいかない。

共謀罪は、「カルト監視機構」の場合と全く同じように、それを提唱した人間の思考が、完全に悪魔的発想に毒され、狂わされていることをよく物語っている。共謀罪の法案を推進する勢力に、統一教会があるのだから、カルト思考に毒されるのは当然である。

だが、ここから先、今までとちょっと違う論調で記事を書いていきたい。

この場所において、共謀罪の成立に声を大にして反対するのは簡単なことである。「共謀罪は一部のテロリストだけを取り締まる」と言いながら、結局、最後には、全国民を無差別的に迫害する巨大な暴力・抑圧装置となるだろうことは明白だから、絶対に阻止しなければならない」と訴えることはたやすい。

筆者の目から見れば、安倍晋三はすでに村上密とほとんど変わらないパラノイド的思考に陥っており、この法案を利用して、自らの独裁を完成するつもりなのであるから、なおさら、危険である。

だが、この記事は、何よりも、聖書の信仰に基づく分析記事であるから、ここから先、筆者は、共謀罪を成立させてはならないということだけに力点を置くのではなく、共謀罪が成立すると具体的にどういう現象が起きるかについて、共謀罪や、カルト監視機構という発想の生まれる本家本元となったソ連の歴史をも振り返りつつ、それを日本に当てはめて考えていきたいと思っている。

統一教会は、共謀罪(≒カルト監視機構)の土台となる発想を、ソ連の共産主義思想から学んだのである。前にも書いた通り、統一教会の政治組織である勝共連合は、「共産主義の脅威に立ち向かう」ことを旗印に掲げながらも、共産主義国に対抗するために、核武装を含めた、自国の防衛と軍備の強化に関するほとんどの手段を共産主義国から学び、内に取り入れたのであった。

統一教会がこうして共産主義国から学んだ発想の一つが、国家(≒教会組織)を世界革命(≒統一教会の人類一家族理想)の中心となる神聖な母体とみなし、国(≒教会)の転覆を企てた罪(≒教祖や宗教団体に逆らう罪)に対しては、死刑に相当する罰を持って報いる(≒悪魔扱いして教会から追放し、一生呪い、迫害する)という、ソ連が取った反革命分子の取り締まりのために秘密警察を設立するという手法であった。

ちなみに、このようにして、国家や、企業や、あるいは、教団や、教会などの宗教組織、またそれを統治する指導者を含め、人間自身、または人間の作った組織や団体を、何らかのユートピア的理想的共同体社会を到来させるための「神聖な母体」とみなし、組織そのものを絶対化することにより、それを批判したり、逆らうことを「罪」とみなし、反対者を実力行使によって強制的に排除・処罰するという思想は、すべて元を辿れば、グノーシス主義に由来する悪魔的発想である。いう間でもなく、ペンテコステ運動のリバイバルなども同じである。

ちなみに、プロレタリア国家としてのソ連を神聖視するがゆえに、世界革命をもたらす母体となる社会主義国家を転覆させる思想をテロリズムと位置づけ、危険思想を未然に取り締まるための法整備と、反対者を実力行使によって排除するための秘密警察組織を設立するという発想は、ソ連の成立以前から、社会主義思想から受け継がれたものであった。

ソ連における秘密警察は、最初の名称はヴェーチェーカー(反革命・サボタージュ取締非常委員会)であり、革命直後に設立され、それが後に巨大な秘密警察組織へと発展するのだが、この組織は、レーニンが革命のわずか前に著した『国家と革命』の中で、反革命分子としてのブルジョアジーの抑圧のための機関として、青写真が提示されていた。さらに、レーニンの唱えたこの発想も、それ以前の社会主義者の思想にも見られたものであった。そもそも、社会主義革命それ自体が、暴力によって既存の国家秩序の転覆をはかるものである以上、革命を維持し続けるためには、旧体制の支持者を抑圧するための暴力装置が必要になるのは、自明の理である。

だから、筆者が「カルト監視機構はキリスト教界に恐怖政治をもたらす秘密警察である」と述べたのは、まさに統一教会が借用した、こうした社会主義思想のルーツと歴史を踏まえた上での発言であり、村上密が考えたような、夢想のとごとき戯言ではないのである。そして、カルト監視機構についても、筆者の懸念が裏付けられたが、共謀罪にも全く同じ危険が当てはまると言える。

村上密は、カルト監視機構を設立できなかったにも関わらず、その発想を独断で実行に移し、教会内規則や、法を無視して、自らの反対者に対する実力行使としての迫害に及んだのであるから、共謀罪の場合も、成立の可否に関わらず、これを唱えた人間が、自らを神として、自分への反対者をことごとく迫害するために悪用する可能性が十分にあると言えるだろう。

共謀罪は、現存の政府を率いる一人の為政者が、日本版NSCや、秘密保護法などと連動して、自らに反対する者たちをことごとく弾圧・排除するための巨大な秘密警察組織を作り出し、独裁を完成するために打ち出されたという線が濃厚である。オリンピックなどはほんの口実に過ぎない。

プーチンも、ブッシュも、これまでテロとの闘いを口実に、反対者を駆逐し、政治権力を強化して来た。安倍も、いよいよ「テロとの闘い」を口実にして、自らに逆らう人間をすべて「テロリスト」の汚名を着せて、実力行使によって排除できる権限を手に入れる手前まで来ているのであり、これに自衛隊の軍隊への昇格を加えれば、核のボタンを独断で押すことのできる無制限にも近い権限を手に入れて、歴代首相を超える権力を手にすることができる。そして、その背後では政治指導者を操り、これに寄生したカルト団体が己が権勢を拡大するのである。

実際、ソ連ではスターリンという一人の為政者が、法制度と秘密警察を手足のように駆使して国民への無差別的な抑圧を行ったのであり、共謀罪も同じように一人の為政者によって存分に政治利用されるであろうという懸念が生じるのは当然である。

しかしながら、結論から言えば、筆者は、この日本で、仮に共謀罪を成立させてみたとことろで、恐るべき独裁体制を確立し、維持することのできるような体力は、おそらくもう残されていないのではないかという気がしてならない。太平洋戦争の際にも、日本軍が最も計算を誤ったのは、兵士の兵糧だったという。常に国民の体力を無視して無謀な計画に走って自滅するとところが、この国の政府の変わらない欠点である。

安倍はこの国の経済の状態を偽っているため、国の恐るべき貧困化という現状が見えておらず、独裁や、核武装など、みな現実を無視した夢想に過ぎないことが分かっていないのである。今の日本国の経済状態では、これ以上のどんな圧迫にも耐えうる力はないと筆者は見ている。この先、雇用情勢の悪化による国全体の急速な貧窮化と、急速な高齢化、それに加えて原発事故の悪影響による多死社会という要因が、国の体力をあっという間に削ぎ落とすと考えられるからだ。

ソ連も、国内戦の疲弊と一国社会主義の孤立によって貧困化に追い込まれたが、それでも革命を維持することができたのは、徹底的な恐怖政治を強いたことと、反革命・テロリストの汚名を着せて大量に強制収容所に送り込んだ囚人を奴隷的無賃労働に従事させることを経済効果に見込んだからである。我が国に、そこまでのことができるか。無理であろう。高齢化した社会では、囚人の奴隷労働も笑い話である。

さらに、安倍政権には国民全体に貧苦を耐え忍ばせてでもけん引することのできる理想が決定的に欠けている。ロシア革命の際には、社会主義イデオロギーの正しさを本気で確信する人々が相当数存在しており、思想教育によって人々はそれが正しい国家的イデオロギーだと信じていたので、欺かれているとは知らず、心から国家政策に身を捧げる一定数の人々が存在したが、我が国に、あるのは安倍率いる腐敗した政治家たちの卑しい金儲けの願望だけであることが見え透いているので、オリンピックもそうだが、国民感情が着いて来ないし、人々に大志を抱かせるイデオロギーが何ら存在しないのである。

今、我が国政府の要職に就いているのは、クーデター後のウクライナと同じような、犯罪者、ギャング集団ばかりであり、彼らには国を率いて行くだけの知性が存在しない。ロシア革命にはレーニンという指導者があったが、今の日本には唾棄すべき悪魔的思想を率いるのにさえ、ふさわしい指導者がない。クーデターによって犯罪者が政権の座に就いたウクライナは、今やもはや国の形を成しておらず、再生の見込みもなくなっている。

このようなことを踏まえると、共謀罪を仮に与党が成立させたとしても、それを機に自らの権力を絶対化したい人々の思惑とは裏腹に、日本をソ連のような国に変えてしまう効果を及ぼすとは考えにくい。むしろ、共謀罪は、東京オリンピックの高揚感に著しく水を差し、日本経済にも絶大なマイナス効果を及ぼし、日本経済を死滅させる決定打となるだろう。

昨年末に、以下のようなニュースが発表されたことは、まだ我々の記憶に新しいが、国土交通省の調査結果では、日本国民全体の外出率が低下していること、特に、若者の外出率の低下が著しく、過去最低を記録したことが発表された。20代では就業者の外出率(移動回数)が60歳以上の世代を下回っており、20代では、就業者も、非就業者と同様の貧困に見舞われている可能性が高いことを予想させる。

筆者は、若者の外出率の低下が、ネットやゲームの普及によって外出の魅力が失われたせいだとは考えていない。若者の結婚離れなどの現象にも共通して見られるのは、その背景にある、若者世代の貧窮化である。つまり、若い世代ほど、仕事に就いても、低賃金で過酷な労働に従事させられる割合が高く、外出に伴う出費と疲労に耐えられないので、休日にも出かけない、という選択肢を選びがちなのである。
 

約4割が「休日出かけない」 1日の移動回数も過去最低に 国の交通特性調査
gooニュース 2016年12月27日 06:30 から一部抜粋

若者の「移動回数」、高齢者を下回る

 国土交通省は2016年12月26日(月)、2015年度の「全国都市交通特性調査」(速報版)を公表しました。

人がどのような目的で、どのような交通手段を利用して移動しているかなど、人の動きをおおむね5年おきに調査するものです。今回は、調査日に外出した人の割合が平日で80.9%、休日で59.9%、ひとりが1日に移動する平均回数(移動回数)が平日で2.17回、休日で1.68回と、いずれも1987(昭和62)年の調査開始以来、最低の値でした。

 若者の移動回数が減少し、高齢者の移動回数が増加しています。休日における20代の移動回数1.43回に対し、70代の移動回数はそれを上回る1.60回でした。特に20代の非就業者における外出率が大きく低下している一方で、人口が増加している60歳以上では就業者、非就業者ともに移動回数が増加していることがわかりました。(以下略)

 

この調査結果は、共謀罪などが成立して委縮効果が及ぶよりもはるか前から、我が国の国民の自主的な活動が、すでに死に絶えつつあり、この国に巨大な世代間格差が生じていることを想像させるものである。日本経済は特に何事も起きずとも、すでに今の時点で瀕死の状態にあり、その上、共謀罪が成立すれば、老いも若きも、共に外出を控え、人の多い場所や、人との交流を避けるようになるだろう。

何しろ、スタジアムでうっかり隣の席に座って、気さくに話しかけて来た人間が、実は政府が前々から目をつけていたテロの容疑者だった…、などと後になって判明すれば、自分だけでなく自分の周囲の人々にも迷惑が及ぶ。気晴らしに街を歩いていて偶然、昔の知り合いに会って談義していたら、「あいつはどこそこの喫茶店で疑わしい人物と親しく話し合い、交流していた」などと、自分の全く知らないところで、誰かから密告されたりしても困るからである。

東京五輪などは、エンブレム問題や、競技場問題、招致の腐敗した過程、予算の膨張などのスキャンダルが絶えず、政府や五輪組織委員会や、利権団体による自己満足と非難されて久しく、国民の間では、盛り上がりも人気もない。その上、五輪を名目とする共謀罪が成立すれば、五輪は完全にお上によって強制された「官製行事」になってしまい、国民的人気は死に絶えるだろう。

国民の間では、「五輪を批判しただけでも、お上が思想犯の疑いをかけてくる危険があるから、五輪については沈黙するに限る」という暗黙のお約束事が出来上がり、東京オリンピックは腫物扱いされ、話も絶えて聞かれなくなるであろう。オリンピック景気や、盛り上がりどころの話ではない。国民が無差別的にテロリストの疑いをかけられるかもしれない法が成立しようとしている時に、わざわざ自ら出費して、オリンピック観戦に出向く酔狂な者がどれくらいいるのだろうか。

そもそも、共謀罪が成立すれば、日本国民は、人の集まる公共の場へ出かけて行くことを自ら避けるようになる可能性がある。これは人々の草の根ネットワークを一網打尽にすることで、経済を委縮させる危険がある。こうして、貧困に加えて、思想犯との疑いをかけられたくないがために、人々の交流、会話、出会いが途絶えて、少子高齢化にさらに拍車がかかり、すでにあった自主的なサークルや団体も解散することで、無縁社会が加速化し、日本経済に著しいマイナス効果が及ぶであろうと筆者は思う。

それでも成立にこだわりたい勢力は、強行採決に及ぶ所存なのであろうが、カジノ法の強引な成立と同じく、そんなことをしたからと言って、人気が戻ることはなく、彼らに何一つリターンはない。

さらに、次に、共謀罪の真の目的とは一体、何なのか、ということについて考えてみたい。

一つには、共謀罪は、政府に対する草の根反対運動を委縮させて潰すことが狙いである、ということが考えられる。つまり、この悪法の成立を機に、安倍政権への批判が委縮すること自体が、法案成立を目論む勢力の狙いの一つであるかも知れない。

だが、その他にも、筆者は、共謀罪の真の目的として、「テロリストの嫌疑」を名目とする➀国民財産の不当な没収と、②奴隷労働の強制という事実がある可能性を指摘しておきたい。なぜなら、これは、ソ連では実際に行われた事実だからである。

ソ連においては、革命後のアバンギャルドの高揚などは、ネップの終了と共に、1920年代に終わり、1930年代を迎える頃には、すでにスターリンが権力を完全に掌握して、官僚制に基づく巨大な中央集権的な国家を作り上げていたため、ソビエト国民の間では、政権を批判できない空気が出来上がっていた。国民の間での格差は、開く一方で、20年代の終わりに、強制集団化が行われて農民を含む一般国民は、徹底的な窮乏に陥れられる一方で、官僚が貴族のような存在となって特権的な生活を謳歌し、国民に君臨していた。革命の息吹を直に知っている当時の生き証人は官僚機構から次々と粛清されていた。1934年に祖国への裏切りに関する法が成立し、ソビエト国民は政権を批判しただけでも「国家転覆罪」の容疑をかけられて死刑に処される可能性が生じ、実際に、それに基づき、スターリンの政敵が粛清されて行っただけでなく、その弾圧は一般国民にも及び、36-38年の大粛清の時期には、スターリンの指示により数えきれない国民が「人民の敵」のレッテルを貼られ、無実の罪で大量に逮捕され、死刑や強制収容所送りとされた。その後もソ連が崩壊するまで、国家権力にとって好ましくない人物への弾圧は続くことになる。

ソビエト政権がこのように国民に無差別的に「反革命分子」の汚名を着せて大量逮捕に及んだ背景には、疑心暗鬼による恐怖政治の強化、残酷な見せしめ効果、実際に反対者を抑圧したいとなどの思惑があっただけでなく、もう一つの隠れた目的に、収容所群島と呼ばれる大量の強制収容所網を国内に作り上げて、故意にでっちあげの罪により逮捕して囚人とした人々を収容所に送り込んで、強制労働に従事させることによって、囚人労働によって、国内経済の回復をはかろうとする意図があった。だが、むろん、囚人労働を財源とするという意図は隠され、それは表向きには「労働による再教育」と謳われて、美化された。

ソビエト政権は、たとえ宗教のように「神聖」という概念を用いなかったにしても、事実上、プロレタリアートを神聖視し、労働を神聖視する疑似宗教国家であったので、この国家の疑似宗教理念にそぐわない人間を、当局は、「思想的に再教育」して「矯正する」必要があると考えており、再教育の手段として、強制収容所(矯正収容所)に送り、そこで「奴隷的無賃労働」という懲罰に従事させたのである。

だが、実際のところ、その再教育なるものの本当の目的は、国内戦と計画経済で疲弊したソビエト政権が、国力を回復して世界に向けて体面を保つために、国民をタダ働きさせたい、そのために、どうしても一定数の人々を収容所に送り込んで、懲罰的な囚人労働に強制的に従事させる必要がある、ということに尽きた。

むろん、その当時は、ソビエト政権下で、数えきれない人々がいわれなき罪により銃殺されていたわけだけだから、そんな野蛮な環境で、囚人労働がどれくらい国力の回復に役立ったかは分からず、ただ人類に対する無意味な苦痛と抑圧を増し加えただけと言えるわけだが、このようにして、「労働による再教育」という美名を囚人を意図的に作り出してタダ働きさせる口実として用いた詭弁に、労働というものが本質的に持っている忌まわしさが究極の形で現れているように筆者は思う。

実は、筆者が、現在の日本は、事実上の社会主義国であると考える所以もここにあるのだ。話が脱線するようだが、ここで労働の本質とは一体何なのか、考えてみたい。

当ブログではこれまでにも幾度か、触れたように、筆者は、聖書においては、人間の労働は、もともとは罪の結果としてもたらされたものであり、苦役にも等しい呪われた労役であるとみなされていると考える。だが、罪に堕落したアダム来の人間が、実り少ない労働に従事して、自分で自分を支えねば生きられないという恐怖に絶えず脅かされているのに対して、キリストへの信仰を持つ信仰者は、自分の努力によって自分を生かすのではなく、神が養って下さるという信仰に生きる安全と自由がある。

だが、社会主義者は、労働をどうとらえていたのかと言うと、1917年のロシア革命においても、それ以前の社会主義思想においても、彼らは出発点においては、労働について、以上のような聖書的概念から、それほどまでにはかけ離れた考えを持っていたわけではなかった。つまり、社会主義者の目から見ても、常に解雇の危険に脅かされながら、身を粉にして実りの少ない労役に従事せねばならない労働者は、非常に不憫で気の毒な立場に置かれている可哀想な人々であって、プロレタリアート全体が「虐げられている人々」であるから、それゆえに、救済されなければならない対象だとされていたのである。

それにも関わらず、社会主義国は、気の毒な状態にある可哀想なプロレタリアートを解放するどころか、彼らを救済の対象とすると言いながら、その哀れな状態をより一層強固に固定化し、プロレタリアートを賛美することで、抑圧された人々の抑圧された状態を美化し、ついには神聖視までし、永久不変の人間のあるべき姿にまで高め、そこから自由になろうとする人々に「再教育」を無理強いしてまで、抑圧状態から決して逃がすまいと連れ戻したのである。ここに、我々が目を背けるべきではない、非常に深刻かつ危険なパラドックスがある。

ここには、筆者が当ブログで常に訴えてきたマイノリティの美化に潜む危険があると言えよう。カルト被害者にせよ、障害者にせよ、病者にせよ、同性愛者にせよ、ハンセン病者にせよ、元ヤクザ、元カルト信者にせよ、対象が誰であっても同じなのだが、「虐げられている弱者」を、その弱者性のゆえに美化し、同情し、彼らを賛美する思想というものは、およそすべて、結果的に、以上に述べた通り、人間の罪なる状態と、抑圧そのものを神聖視し、人間を抑圧から解放するどころか、ますます抑圧の枷の中に強固に閉じ込めて行く枷になるというパラドックスが存在するのである。

そうなるのは、こういう思想にとりつかれた人々がみな、人間のあるべきでない「可哀想な状態」そのものを美化し、人間の弱みを神聖視しているからである。実際は、罪のゆえに起きただけの不自然で抑圧された状態を、「罪がないのに犠牲者とされた悲劇の人々」のように美化し、弱者の悲劇に酔いしれ、これに涙を流し、人間を美化しているために、そういう現象が起きるのである。

このようなパラドックスが働くために、本来は、低賃金で重い労役からいつまでも逃れられないプロレタリアートを解放するために起きたはずの社会主義革命が、人間をより強固に奴隷的労働の枷の中に閉じ込めて行く檻となったのである。同じ逆説が、カルト化した教会から信徒を救うと言って始まったはずの牧師による救済活動が、信徒をよりひどいカルトの危険にさらしつつ、無差別攻撃し、教会から抜け出せないようにがんじがらめにして行くというものになるのである。

彼らは「可哀想な人々」に同情の涙を流し、人の弱みに上から助けの手を差し伸べることにより、実際には、抑圧された状態を神聖視し、人の罪や、弱みを美化して、そこから人々が抜け出すことが決してできないように仕向けているのである。この偽りの思想に欺かれた人々は、弱者のユートピアという、決してやって来ることのない嘘の理想郷の夢と引き換えに、自主的にあらゆる権利を放棄して、自己犠牲を耐え、宗教団体に献金をし、無償で奉仕をしたり、果ては奴隷的囚人労働にさえ喜んで赴いて行くのである。

だから、こういう偽りの弱者救済の思想が引き起こす矛盾に満ちた現象は、宗教団体であっても、政治的組織であっても、国家であっても、基本的には変わらない。筆者はクリスチャンであるにも関わらず、地上の組織としての教会は、キリスト不在の、牧師という人間の指導者の統治する悪魔的な場所となっているという見解を幾度も述べて来たが、地上の組織としての教会が教えているのは、「人が救われて神に到達するために精進する方法」である。霊的ヒエラルキーの階段を上り、いつかは神に到達するためにこそ、献金や奉仕や学びが奨励されるのである。だが、それは結局、プロレタリアートの国を作り、労働に励むことで、いつかは共産主義ユートピアが到来すると信じた人々の自己救済の努力と何ら変わらない、人間が自力で救済にあやかろうとする終わりなき努力なのであり、聖書の神の提供する救いに本質的に敵対する悪魔的思想なのである。

だからこそ、人が救われて神を信じるために足を向けたはずの教会が、信徒から法外な献金を巻き上げたり、気に入らない信徒を呪ったり、悪魔扱いして追放したり、障害者や、病者や、元ヤクザや、元カルト信者を看板のように売り物にして、伝道を繰り広げたりするといった、歪んだ組織に成り果てたりするのである。それは、そこで提供されているものが、もともと、自分一人では神を求めることができないと考える弱者の弱みにつけこみ、弱者の心を甘言でくすぐり、彼らを美化し、助け手やるように見せかけながら、彼らをダシに己の権勢と利得を追求したいだけの人々が、神を口実にして、永久に彼らを食い物にするために作り出した偽の救済システムだからである。

だから、そういう組織は、自分一人では、決して救済を求めることができず、一人では生きられず、常に誰かの助けや慰めを必要とする人間が、寄り集まって、互いの弱さをかばい合い、弱さを美化して自己肯定感を得るための場所となっており、そのために、そこに集まった人々は、自らの抑圧された状態を美化し、神聖視して、己が不幸に酔いしれて涙を流し続けるのである。

そのようなことをしている限り、彼らの目指す解放は、絶対にやって来ることのない嘘の約束で終わる。そういう場所で、「神聖視」されているものは、人間の抱える弱さであり、罪であり、被害者意識であり、抑圧された状態であって、自由でも、解放でもない。解放は、未来にやって来るかのように各種の謳い文句として掲げられてはいるが、虐げられた哀れな状態を美化する人々がそれに到達することは絶対にない。

結局、教会にある「教え」とは、ソビエト政権が行った「労働による再教育」とカラクリは同じで、生涯、雇用主との関係から逃れられないプロレタリアートを養成するのと同じように、生涯、宗教指導者から離れられない信徒を養成するための再教育の仕組みである。救いに到達したい(≒自分はまだ救われていない)という弱みを持つ人々に、偽りの救済を提供することによって、いつまでも解決を与えないで、弱みを持つ人々から利益だけを搾り取る仕組みである。だからこそ、そこでは牧師(≒官僚)が特権階級として各種の利益を享受している一方で、平信徒(≒一般国民)は彼らに献金と無償奉仕を貢ぐ存在として、終わりなき精進を求められているのである。

むろん、本来、信徒は信仰を持った時点で、すでに救われているのだから、それ以上、救いを求めて精進する必要などないのだが、「教会を離れれば救いを失う」と脅されているために、奉仕や献金をやめれば信仰を維持できないように思わされ、恐怖のために、そこを出られなくなっているのである。

そして、そんな臆病な信徒たちを騙すがごとくに自らの生活の糧を得る手段として利用している牧師たちは、そんなにも立派な教師や人格者なのかというと、それはない。そのほ多くは、村上密自身が、自らの反対者について書いた批判内容のあまりの一方的な決めつけと根拠の薄さ、感情論を読めば分かるように、自分が批判されることにも全く耐えられないほどの未熟者である。

かつてある人が、プロテスタントの牧師には、人格的に未熟で幼稚な者があまりに多いと語ったが、筆者にも同感できる部分が多々ある。若くして、大した人生経験もないまま、自分の教会を任され、一国一城の主のようになって、自分よりもはるかに年上の信徒から敬われ、誉めそやされながら、人生の早い時期に「先生」として持ち上げられることに慣れてしまえば、高慢になるのは無理もない。牧師家庭に婿養子に入って牧師になった者や、二世三世の牧師が、親の七光りと親族のコネを利用して神学校に入り、二、三年、勉強したというだけで、信徒とは別格の存在となり、自分は神の御言葉を取り継ぐ偉大な聖職者だという自負に落ち込むのだから、自惚れにつける薬がなくなるのも当然である。

そのように幼稚で未熟な人間が、事実上の現人神のようになって、信徒に君臨し、栄光を受けている呪われたシステムの中で、信徒がどんなに奉仕と献金に励んだとしても、そこで神を見いだすことは決してなく、高慢になって罪に罪を増し加えるだけで、救いから遠のいて行く一方であろう。

だから、プロテスタントに少数の潔癖で良心的な牧師が仮に存在したとしても、教職者と平信徒の差別的な階級制度を固定化している以上、教界組織には未来がないと筆者は判断するのである。

さて、労働に話を戻せば、我が国における労働にも、教会と似たような効果があると思われるのだ。筆者は、人が働くことに伴う楽しさもないわけではないと思うが、それにしても、我が国における労働の賛美は異常である。日本にはソビエト社会と同じほど、勤労を美徳として、働くことこそ、まっとうな社会人の証であり、働かない人間は、人間でさえないとみなすような風土がある。ひとつ間違えば、それは自主的な囚人を作り出すための思想教育と同じであり、人間の自由よりも、隷従や、抑圧や、束縛を重んじる本末転倒な思想となる。

そして、見渡せば、我が国の労働市場の現状は、ソビエト政権(あるいは教会)と同じように、人間を組織の存続のために容赦なく選別し、踏み台とし、排除する場となっている。社会主義国が、事実上、プロレタリアートを神聖視していたのと同じように、我が国も、労働者を美化することで、これを永久不変の人間のあるべき姿のように目指していると感じられてならない。

だが、こうして人が自由を奪われて抑圧された状態を、望ましい理想のように掲げている限り、我が国における労働は、年々、ますます苦役としての様相を増し加え、勤労者が不憫で気の毒な状態から抜け出せる日も来ない、と思わざるを得ない。

ソビエト政権は、囚人労働まで使って国力を維持しようとしたが、それで国が豊かになることはなかった。ソ連の貧しさ、発想の貧困は、今でも当時を知る人々の記憶にとどめられている。そういう体質、風潮は、今日のロシアにも残っている。なるほど見かけは街や商品が美しくなったように見えるかも知れないが、ソ連時代に教育されて人々に植えつけられた気質は、そう簡単になくなるものではない。特に、抑圧を美化し、不幸を耐え忍び、自由や解放を自ら拒む精神性は、今でも根強く残っていると感じざるを得ない。

だから、結論を述べると、今回の記事では、共謀罪というものは、筆者の目から見れば、すでにずっと前から社会主義国である我が国が、およそ全ての社会主義国が辿った必然的な過程を進む中で登場して来たものに過ぎない。つまり、共謀罪という法案は、国民の自主的な囚人奴隷労働のシステムの完成のために現れて来たのである。

共謀罪の根底には、国家の威信強化のため、官僚制の維持と、大企業の利益と存続のために、我が身を資材として積極的に投げ出す覚悟のない、プロレタリアートの自覚がない人間は、この国の国民としてはふさわしくないので、財産を没収し、強制労働に従事させたい、という意図があったとしてもおかしくない。歴史上、似たようなイデオロギーを持った別な国ではすでに大規模に行われたことであるから、これを妄想として片付けるのは早すぎるであろう。


・人間の定める恣意的な「罪」の概念に振り回されることなく、キリスト者が小羊の贖いの完全性に確固として立ち続ける必要性

さて、ここから先は、信仰の話に戻りたいが、ネット上で起きる出来事は、現実生活において起きる事柄について、筆者に多くの示唆を与えてくれた。そこから学んだ大きな教訓の一つが、人間の考える罪の概念と、神の定める罪の概念の大きなズレであった。

特に、もし共謀罪などというものが成立すれば、そこで定められる「テロ」やら「罪」の定義は、人間が恣意的に解釈するものとなるため、その結果、この法に基づいて、罪人が罪人を罪に定め、万人の万人に対する告発と闘争のような、醜い泥仕合が持ち上がる可能性がある。

だが、たとえそのようにして、人間が人間を訴え、互いに告発し合う、修羅のような社会が広がったとしても、信仰者に必要なのは、ただキリストの義認の永遠性に立脚して、悪魔のいわれない脅しに毅然と立ち向かう姿勢であると筆者は確信している。

人間による罪の定義は、偏っており、不公平で、不完全である。社会は、人間の心身を傷つけ、人間の気分や名誉を害することだけを罪と呼んで、社会的立場が低い者が傷つけられても声をあげない一方で、社会的立場が高く、人々の尊敬や注目を集め、大勢の味方がいる者が傷つけられる時には、我が事のように立腹し、声を上げる。

人はただ自分の心境がいたく傷つけられ、自分の名誉や利益が少しばかり損なわれたというだけの理由でも、他人を罪人呼ばわりし、存在しない嫌疑をかけて誹謗したり、過剰な報復行為に及んで、集団的に痛めつけたりもする凶暴な生き物であるが、ただ人間が傷つけられたというだけの理由では、本当の意味で「罪」と呼べないことは、聖書の御言葉に立脚して主張して行けば分かることである。

人間は、罪について、どこまで行っても、不公平な定義と判断しかできない。だが、神はそのような見方を全くなさらず、人を偏り見ず、しかも、人間の心証を害することを罪とせず、ご自分の御言葉を曲げることを罪とみなされる。

だから、我々は、真に「罪」と呼ばれるにふさわしいものは、一体何なのか、ということを常日頃からよくわきまえておく必要がある。そのことによって、自分自身の身を守ることができるのである。

特に、聖書によれば、悪魔は「日夜、兄弟たちを告発する者」であるから、信者をあることないこと、日々、訴えることをその仕事とし、よすがとしている。これに対して、信者がただ手をこまねいておとなしくその言い分に耳を傾けているようでは、信者には義認の感覚もなくなり、生きる道すらも残らないであろう。

悪魔に立ち向かいなさい、そうすれば、彼はあなたから逃げ去るだろう、という聖書の御言葉が言うのは、この訴える者のいわれなき嫌疑には、毅然と「立ち向かう」ことが必要だという意味であるが、それは「反駁しなさい」という意味を持つと同時に、「悪魔の有罪性を指摘して追い払いなさい」という意味をも含んでいるものと筆者は解釈する。

人があらぬ告発に対して自分を弁護し、自分の正当性と相手の不当性を訴えようとする時には、一定の技術力が必要である。論戦は、格闘技と同じであり、自分が向き合っている相手の特徴と弱点をきちんと見抜いて、取り組み方を考えることが必要である。

あらゆる戦いには防衛と攻撃とがあり、キリスト者の自己防御のためには、小羊の血潮によって保証された自分の潔白と神の守りを微塵も疑わないでいられる揺るぎない信仰が必要となる。信者の攻撃のためには、信者は、真に神の御前で罪とみなされるものは何か、という事実をきちんと踏まえ、悪魔の有罪性を確信し、これを容赦なく追及して訴え、退かない姿勢が必要となる。この防御と攻撃の両者が上手くかみ合えば、どんな者を相手にしたとしても、信者は揺るがされることはない。

キリストが地上におられた時、立派な宗教家である律法学者やパリサイ人たちは、常に御子を罪に定めようとして論戦を挑んだが、キリストはかえって彼らの有罪性をはっきりと指摘された。

筆者がこれまでの経験から分かるのは、人をいわれなく脅し、中傷し、罪に定めようとするような人間は、多くの場合、彼らこそ良心が汚されており、自分は有罪であるという事実を、心の深いところで知っているので、自らの悪事が見抜かれ、暴かれる前に、自分を訴えることのできる潔白な人間をいわれなく罪に定めることで、自分を守ろうとしているだけである。

だから、彼らの良心がすでに汚されているという事実をこちら側が理解し、彼らの弱点に対して彼ら自身が使っているのと同じ方法を適用して、彼らの有罪性を指摘すれば、ほとんどが退散するしかなくなる。

なぜなら、人の自己弁護は、その人の良心が本当に曇りなく明らかでないと、できないからである。罪人も自己弁護するし、悪事を言いぬけようとする。だが、彼らは良心が潔白でないため、自分に対する全ての有罪宣告をことごとく覆すことができるような信念の持ち合わせはないのである。

罪にとらわれている人間は、罪の奴隷であり、打撃が加えられ続ければ、必ずどこかの時点で妥協する。それが罪ある人間の生まれ持った弱点である。

ソビエト政権下では、スターリンによる大粛清の期間には、秘密警察のそれぞれの地域の組織に、逮捕者数のノルマ、銃殺者数のノルマ、強制収容所送りの囚人数がノルマとして極秘に割り当てられた。各地域の秘密警察は、国民の一定数に不当にテロリストの容疑をかけて、逮捕し、拷問により自白を引き出し、あるいは銃殺するか、あるいは強制収容所送りにするか、これを職務上のノルマとして遂行することを求められたのである。

この大量逮捕を実現するために、国家規模で、国家転覆を目的とした大規模なテロ犯罪の容疑がでっち上げられた。スターリンに好ましくない政界の大物を中心として、大規模な秘密のテロ計画があったことにされ、その末端に位置するとの容疑で、一般国民が大量に巻き込まれて逮捕されたのである。

逮捕された中には学生もいれば、アルバイト中の労働者もいれば、主婦もいれば、教師もいた。全くごく普通の生活を送る人々が、突如、職場で、あるいは自宅で、あらぬ容疑をかけられ、あるいは就寝中の真夜中に秘密警察に踏み込まれ、家族の前で連れ去られたのである。だが、そんな不当逮捕にも関わらず、多くの人々は、身内がテロリストの嫌疑をかけられて、警察に連れ去られたことを社会にひた隠しにした。抗議すれば、自分自身も同じ道を辿るだけであると分かっていたからである。隣人や職場の同僚であっても、苦難を分かち合うのは無理であった。そこで、夫を秘密警察に連れ去られた妻が、勤め先では、夫は愛人のもとへ走って自分を捨てたのだと触れ回った例もある。夫が収容所から戻って来た初めて人々は事実が何だったのか理解した。

逮捕された人々の多くは、過酷な拷問や、心理作戦に耐えられず、取調べの途中で司法取引に応じ、当局に指示された通りの嘘の供述、嘘の自白をして、供述書にサインして、自ら犯してもいない犯罪を認めた。その中には、家族や知人に迷惑をかけたくないので取引に応じたとか、親しい誰かに裏切られたショックに耐えられなかったとか、様々な理由があり、人々の心理を熟知した上で、取調官は、できるだけ早く自白を引き出すために、彼らの尋問に当たったのである。

筆者が不思議に思うのは、もしソビエト当局が、警察に逮捕者、銃殺者、強制収容所送りのノルマを課すなら、初めから有無を言わせず有罪という結果を人々に押しつけることもできたはずであり、なぜわざわざ人を痛めつけ、恐怖を抱かせるという手の込んだ手法を使ってまで、時間のかかる嘘の自白を強要したのだろうか、という点である。そこでは、あらゆる証拠よりも、自白こそ最も有力な手がかりとされたわけだが、容疑のみならず、供述書も、果ては自白すらもでっちあげられる状況で、なぜ彼らは嘘の自白の有無にそれほどこだわったのだろうか。

ここに、明らかに国家権力の側からの一方的な暴力だけでなく、人々がそれにどう応じるかという自主性を確かめる余地がある様子を見る。不思議なことに、人間の人生には、特に残酷な時代には、多くのことが、抵抗できない不可抗力のように降りかかるように見えても、実は、その中にも、一抹の自己決定の余地が残されている場合がある。そして、この一抹の関与の余地にどう応答するかが、人にとって極めて重要な問題なのである。信仰者にとっては、これこそ、悪魔の嘘に対して、どう応答するのかを示すとても良い機会なのだ。

以上のような、ソ連で行われたでっちあげの大規模テロ犯罪の容疑と、それに伴う国民の大量逮捕などという恐るべき出来事は、今日の日本には起きない、と人々は言うかも知れない。だが、共謀罪は、そのような国家規模の捏造された事件を生まない保証はなく、さらに、類似した事件は、はるかに小さい規模で、信者の人生には毎日のように起きている。

信者は、毎日、毎瞬、訴える者の告発や脅かしに対してどう向き合うかという選択を迫られているのである。そして、筆者がここで言えるのは次の通りである。

信者は、本来、自分に効力を持つはずのない、魔法のようにいい加減な他人の言葉を信じず、人間が恣意的に定めただけの不安定な罪の概念をも信じず、永遠に変わらない聖書の御言葉が何を言っているかだけに立脚して物事を考える必要がある。

人間は過ちの多い存在であるが、それにも関わらず、キリストの贖いの血潮の効力が永遠である以上、血潮により頼んでいるキリスト者を罪に定めることのできる者は、地上に誰一人としていないのである。その事実は、信者がそこに立ち続けるなら、信仰を通じて現実世界にまで波及する。これが分かると、キリスト者の生き方は変わるであろう。

筆者は上記で、社会主義国が賛美していたプロレタリアートとは、人間の抑圧された状態であって、労働を賛美する人々は、己の罪なる呪われた状態を賛美しているのにも等しいということを述べた。別の言い方をすれば、己の罪を己の努力によって贖う終わりなき苦役を、彼らは賛美しているのであって、労働とは、人類による決して叶うことのない自己救済の方法なのである。

今日、事実上の社会主義国である我が国においても、同様の思想が奨励され、教会に所属している信者が、所属していない信者を見下して、自分は救われており安全だと誇るのと同じように、正社員になったとか、役員になったとか、理事になったとか、どこの団体に所属しているとか、どんな立派な企業や組織に身を置いて、どんな立場や肩書を持って、どれほどの俸給をもらっているかに立脚して、己の完全性を誇ろうとする者は多い。

だが、そんな彼らの義認は、彼らの所属先が奪われた瞬間に、はかなく消え去るであろう。もともと、人間に過ぎない者が、己の罪を自分の努力によって贖うことはできず、所属団体に尽くしたことによって免罪してもらうのは無理なのである。

だから、生まれながらの罪人は、どのように自己救済の努力としての労働を褒めたたえ、自分を選民だと豪語し、己の権力によって他者を脅かし、踏みつけにしようとしても、もしその人間が、救いを知らない単なる罪人であるなら、あるいは、神の御言葉を知りながら、それに従わない罪人であるなら、彼らは結局、自分の罪の奴隷でしかないのである。

そうである限り、罪の奴隷である人間は、一歩たりともその終わりなき贖いという苦役の外に出られない。たとえ無限大の権力を誇っているかのように振る舞い、どんなに支持者が数多くいても、その強大な権力は単なる見せかけであって、彼は自分自身の罪に束縛されて、そこから自由になれず、罪の中に生き、死んで行くしかないのである。その本質を見抜けば、彼らの限界がはっきりと理解でき、その人々が振り回す恣意的な「罪」の概念による脅しは、嘘のように消えて行くだろう。

だから、当記事では、共謀罪の成立を全力で阻止せよという政治的な主張を述べるよりも前に、悪魔的思想に息吹かれた人々が、どんなに無実のクリスチャンを訴え、迫害しようと願ったとしても、クリスチャンには、これを超越するだけのキリストの義認がある、という事実を語ったのである。共謀罪などというものが成立しようとすまいと、小羊の血潮の過越の中にある信者には、悪魔は手を触れることができないのであり、かえって、聖徒を罪に定めようとする人間の方が、それによって罪に定められることであろう。共謀罪が想定する罪状が千になろうと、一万になろうと、それは変わらない。

もともとあらゆる法体系は、人間の良心から出て来たものであり、書かれた文字が全てなのではない。法には、それを超える人間の見えない良心の体系が存在する。最近、イタリアの最高裁では、飢えた者が少量のパンを盗んでも罪には当たらないという判決が出されたそうだ(「「飢えた時、食べ物を少し盗むのは罪ではない」イタリア最高裁の判決とは」 ハフィントンポスト 更新: 2016年05月12日 12時35分 JST )が、それもまた、法の適用にはどんなものであれ、例外が確実に存在することと、法とは本来的に、人間の良心に照らし合わせて解釈すべきものだということを表しているに過ぎない。

そして、人間がどんな悪法を定め、どんなに厳格にそれを人々に適用しようとしても、それは決して律法以上の効力とはならない。この律法による罪定めをキリストは廃棄して、ご自分の霊を通して、律法を信じる者の心に焼きつけたのであるから、この律法によって裁かれ、律法に対して死んだキリスト者は、もはや律法によって罪定めされない自由を持っているのである。だから、キリスト者こそ、本当の意味で、この世の法体系を超える超法的な存在なのだと言って良い。地上にどんな法があっても、キリストに連なる信者を罪に定められる法は事実上、存在しない。小羊の贖いの義認は、この世の全ての体系を超えるのである。

逆に、懸念されるのは、カルト監視機構に賛成していたような教会の行く末である。もしもこの先、キリスト教が「政府に逆らう危険な宗教」と認定されて、信者が教会に集うこともできなくなれば、「教会を離れれば救いを失う」などと言っていた信徒たちは、どこへ行くのであろうか。何しろ、エキュメニズムなどというものが存在する教界であるから、その日には、彼らは「神はキリスト者だけの神ではなく、統一教会の信者の神でもある」などと言って、統一教会にも喜んで合流して行くかも知れない。

2016年6月26日 (日)

からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。

「しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」(Ⅰ列王記19:18)

「そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。

五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。

そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。」(ルカ12:4-9)

主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。
わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。


すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当てを胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。」(エペソ6:10-18)


朝方、小鳥たちのさわやかな美しい鳴き声で目が覚めるのはまことに気持ちが良い。外出時には引き留められ、帰宅時にも愛らしい出迎えがある。

猫派、犬派だけでなく、鳥派、というものもおそらくあるのではないかと思う。地に足をつけない生き物だからこそ、好感が持てる。特に、文鳥のように小鳥の中でもとりわけ小さな鳥が、どれほど人間によくなつくものか、知っている人はそう多くはないのかも知れない。

鳥がどこまで人間になつくものか、どこまで鳥とのコミュニケーションが可能か、愛好家を除き、どれほどの人々が知っているだろうか。犬猫には多くのことが期待されるが、鳥には一般にあまり期待がかけられていないように思う。

聖書では、鳩を除いて、鳥一般がそれほど良い生き物とはあまりみなされておらず、しばしば悪霊の象徴として描かれるが、都会暮らしの筆者にとって、残念ながら、鳩はそんなに好感が持てない。むしろ、1アサリオンで2羽買えるという雀の方がよほど愛らしく思える。

色々と珍しく美しい鳥を飼ってみて、それぞれに独特の愛らしさがあり、極彩色の珍しい鳥には目を奪われるが、やはり、素朴で愛らしい庶民的な鳥として、文鳥は異彩を放っていると思う。文鳥は鳥綱スズメ目カエデチョウ科に属するそうだから、ほとんど雀のようなものだろう。

値段的にも手頃なので、文鳥は誰にでも入手できる(ただしよく馴れたものを飼わなければならない)。そこで、独り暮らしの老人や、様々な苦難に追われている人々の家にも、一羽の文鳥がいれば、人々は生きる意欲をこの小さな鳥からも、存分に学べるのではないかと思う。

何しろ、大きな鳥がエネルギッシュなのは当然であるとして、これほど小さな体の鳥がこれほど愛らしく造られ、賢く活発に飛び回って生きているその様子を見ていると、まして人間にはさらにもっと多くのエネルギーと知的可能性が備わっていることは疑いの余地がないと分かって来る。

こうした生き物を見るときに、彼らに注がれる神の愛を思わずにいられない。神の許しなしには、一羽の雀も地に落ちることはない(マタイ10:29)というフレーズを思い出す。それは転じて人間に対する神の愛として受け止められる。勇気を出しなさい、一羽の雀さえ、こうして神が素晴らしく造られ、養っていて下さるのだから、まして人間はもっと神の御前に高価で貴い存在ではないのか。

だが、それは単に人間の貴さを力説して人を自己満足させるための御言葉ではない。冒頭に引用したように、人間に注がれている神の愛は、信者が主の御名の証人として立つことと大いに関係がある。

こうして主が新しい鳥たちに出会せて下さるのも、小さな十字架の死と復活の働きである。

さて、参院選が近づいているが、今一つ選挙は盛り上がっていないような印象を受ける。大本営発表は早くも与党に有利な情報ばかりを流しているらしいが、筆者は大本営広報部というものは嘘しか発表しないと理解しているので、全く目にしていない。さて、ネットには次のような面白い記事があったので引用しておきたい。

マスコミに載らない海外記事」からの引用である。翻訳もさることながら、訳者のコメントがいつも気が利いていて面白い。巨城も蟻の一穴から崩れる、と言われる通り、IWJに6000人近くも読者いるのであれば、憂鬱になる必要はないだろう。なぜなら、その6000人がみなインテリであって、自分の耳に入れた情報を隣人に伝えて行く力があれば、それだけでかなりのインパクトがあるからだ。10万人の愚者が定期購読している御用新聞よりも、6千人の知者が購読している民間のメディアの方が力がある。

ここで筆者にはバアルに膝をかがめなかった7千人、という聖書のフレーズが頭をよぎる。

それはバアルの預言者たちの前で、大胆に神の奇跡を行ない、バアルの偽預言者たちを皆殺しにした神の預言者エリヤが、アハブ王を背教によって堕落させた王妃イゼベルに命を狙われ、彼女の追跡を恐れて逃亡していた時に神がエリヤに言われた言葉である。

エリヤはバアルの預言者たちの前であれほど大胆に主の御名を証したのに、なぜイゼベル一人に恐れを感じて荒野へ逃げたのか、という質問を投げかける人がよくいる。どのような方法でイゼベルがエリヤを追い詰めたのかは分からないが、少なくとも、エリヤは追われるのは沢山だ、自分の命を取ってくれと神に願うのである。

しかし、神はそんなエリヤをあざ笑ったり、見捨てたりすることなく、むしろ、食うや食わずで疲労困憊していた彼のために食事を備え(復活のイエスが漁をしていた弟子たちのために食事を整えた光景を思い出す)、そして、国中の全ての人間が背教に落ちたアハブ王とイゼベルの手先になっているわけではないことを告げ知らされる。しっかりしなさい、エリヤよ、あなたは一人で戦っているわけではないのだ、アハブとイゼベルに魂を売らなかった人間が確かに残っているのであり、その数は7千人であると。

筆者は考えている。志の純粋性さえ保てていれば、人数はそう多くなくて良いのだと。当ブログなど、再開当初は訪れる大半はさわやか読者であったが、そんな中でも、記事を書き続けていると、さわやか読者の数はもうほとんど1人、2人程度しか残っておらず、その代わりに、あっと思うような輝きを放つ検索用語で当ブログにたどり着いて来る人々が増えた。

以前のような聖書の脅し文句ではなく、真実、キリストを訪ね求めた人々でなければ、決して使わない御言葉である。

そんな光景を見ていると、御言葉を慕い求める人々が尽きたわけではないことがよく分かって来るのだ。常に筆者を意気阻喪させようと工作に余念がない人々の活動は脇に置いて、主が取り置いて下さった人々のことを考えたい。

ブログを書き続けていると、自ら発表したもののの影響の大きさを常に感じさせられるが、相手は常に人間ではないのである。目に見える読者でもなければ、読者数でもない。はっきり言えば、ものを書いて行く上での影響力の大きさは、情報の質である。

真に美味しいコーヒーや、入手しにくい珍しい鳥を訪ね求めてはるばる行脚する人々がいるように、安っぽい嘘にはうんざりして真実かつ高い質の情報を求めている人々は常に存在しており、そういう人々の要求に応えうるものを作って行けば、必ず、その衝撃力の大きさは現れるのである。

さらに、キリスト者である以上、筆者はただ人間の満足のためだけにものを書き続けているわけではない。これは主の御名による戦いであり、暗闇の勢力に対する衝撃力を伴う攻撃でもあるのだ。敵が我々を意気阻喪させることに余念がないならば、こちらも彼らを意気阻喪させねばならない。それはただ御言葉に基づき、何が真実であって、何が虚偽であるかを明るみに出すことによる。それが我々の霊的戦いなのである。

さて、以下の引用であるが、「スネオファシズム」とは実に言い得て妙である。誰に対するファシズムかと言えば、当然、のび太に対するファシズムである。つまり、我が国の行き先が参院選で問われているわけだが、選択肢は二つに一つだということである。

ジャイアンーースネオーーのび太という三者の関係から思い出すのは、常にキリスト教界や、他の教会や、他の信者を見下すことで、自分たちだけは天の特権階級であると誇って来たある宗教団体である。ペンテコステ・カリスマ運動を通じて、その宗教団体は、カルト被害者救済活動と一体であるが、その宗教団体は、自らの背教を隠すために、筆者にイゼベルの汚名を着せたのであった。しかし、すでに幾度も記事で書いて来た通り、イゼベルと呼ばれるにふさわしいのは、筆者ではなく、異端の教えを臆面もなく言い広めた上で、筆者に濡れ衣を着せようとした人々である。

その団体は、昔から高慢さと自己満悦で有名で、これに関わった人々は、筆者の周りでも、ことごとく手に負えない高慢さに落ちて行き、自分以外の他の信者を見下し、人の弱みをあげつらってはあざ笑うようになった。それを自分たちが「神に祝福されている証拠」だととらえ、どんな風に自分が欲望をかなえたか、どれほど他者には手の届かない非凡な体験をしたか、という話をまるで信仰の手柄であるかのように吹聴して回るようになった。日常の体験だけでなく、その人々は「神の御声を聞いた」とか「御姿を見た」とか、誰が聞いても怪しいとしか感じないような呆れる体験談を盛んに手柄として自慢するのである。

しかし、他者に対する優越感しかよすがのない人間というのは、本当に内面が空虚である。常日頃から、自尊心を捨てて、自分よりも強い者に媚びへつらい、魂を売って生きているからこそ、自分よりも弱い者の弱点を暴き立て、これを踏みしだき、優越を誇ることによってしか、自分の惨めさを隠し、憂さ晴らしする方法がないのである。そういう風に、人々の間に見えない階級制度を作り出し、互いの間に差別を敷くことによって、国民を分断し、互いに争わせ、もはやあるまじき出来事がどれほど身の回りで起きても全く心が痛まないほどに他者の痛みに鈍感になり、己の満足しか眼中になくなった人間を大量生産し、そういう愚者を操ることによって、己の統治を強化しようとしている何者かが存在するということを考えてみるべきであろう。他者への優越感を生き甲斐として他者を見下して勝ち誇っているような連中は、みなその格好の操り人形となっているだけである。だが、ある時期が来たら、そういう人々はみな御用となって消え去る。なぜなら、栄枯盛衰、権力というものはどれも永遠ではないからである。

さて、我が国がこれからもずっとジャイアンに踏みしだかれて、自尊心を絶えず傷つけられ、一個の人格として否定されながら、それでも自分よりも成績の劣ったのび太に対する優越感だけを生き甲斐として生きる惨めで意気地なしの「スネオ」であり続けるのか、それとも、のび太を踏みつけにすることで憂さ晴らしをするという虚栄の生き方を捨てて、のび太と共にジャイアンに立ち向かい、誰もが生きられる世界を目指すのか、問われている。

参院選の争点は、アベノミクスでなく、改憲なのだが、何よりも、対米隷属という「長い物には巻かれろ」式の生き方から、いつになればこの国は脱却するのかということが、毎回、問われている。「ジャイアン(米国)」の威を借る「スネオ」(奴隷)として生きることのみっともなさをそろそろ自覚すべき頃合いである。

というのも、ジャイアンの攻撃性は日々強まっており、今までのように、スネオがのび太を馬鹿にし、踏みつけにし、貢がせる程度のことでは、欲望がおさまらなくなって来ているからだ。今、ジャイアンが夢見ているのは、スネオに武器を持たせて、自分の代わりにスネオがのび太を殺す光景を見たいということだ。そのような見世物を俺様に早く寄越せと、ジャイアンは随分前から、スネオにせっつき、スネオを脅すようになっているのだ。さすがのスネオも一応、インテリのはしくれではあるので、こういう要求には我が身の危うさを感じ、蒼白になっている。

だが、ジャイアンは、別の町にもスネオのような、いや、スネオよりももっと凶暴な第二のスネオを抱えているので、スネオが要求をおとなしく飲まないと、殺されるのはのび太ではなくスネオだぞと脅している。いつになったら、そんな呪われた関係から、スネオは抜け出るのか、どこまでジャイアンと共に罪の連帯責任を負い続けるのか。ジャイアンのためなら、殺人者になることも厭わないのか? スネオは、その一線を超えるつもりなのか? そうして、いずれ町ごとジャイアンのための献上物、見世物として、焼け跡のように変えてしまうつもりなのか?

というのも、ジャイアンが、たかがのび太がやられたくらいのことで、満足するはずがない。スネオがのび太をやったら、ジャイアンの要求はさらにエスカレートするだろう。のび太が100人死んでも、ジャイアンの欲望はおさまらない。おそらく、スネオも死んで、町の住人が皆殺しになって、ジャイアン一人残るまで、ジャイアンは満足しないだろう。ジャイアンの猜疑心はそれくらい深いので、自分以外の誰かが生き残っているだけでも、王座を奪われるのではないかと、気が休まる時がないのだ。だから、ジャイアンにとっては、自分以外の誰もいない世界が望ましく、スネオであろうとのび太であろうと、皆が敵なのである。だが、そんなジャイアンの欲望の言いなりになっては、この国土はもはや灰塵と帰して何も残りはすまい。そして、その日にジャイアンは言うだろう、「おまえたちには大変、不幸なことだったな。何しろ、空から原爆が降ってきたんだ。どういういきさつでそんな惨事が起きたのか、俺は全く知らない」と。

むろん、これはジョークであるが、実際に、このような経過を我が国が辿ることはないであろう。なぜなら、歴史は繰り返せないからである。グノーシス主義の原初回帰が不可能であるのと同様、軍国主義の再来も不可能である。以前に起こったことをどんなにもう一度起こそうとしても、それは無理である。

そして、神は義人と悪人とを共に滅ぼすようなことはなさらない。地球が何万回滅びるほどの出来事が起きたとしても、神はご自分を頼る民を必ず守り、救い出して下さる方なのである。十字架の死は、決して霊的死のみでは終わらず、復活の前提なのである。主の御名は誉むべきかな。

 
以下は「マスコミに載らない海外記事」から抜粋(太字、赤字は筆者による強調)

大本営広報部とは、全く違う見方をする記事、今朝の日刊IWJガイド・ウィークエンド版をそのまま引用させていただこう。こういう記事・報道を読む人々の人数が、60,000人ではなく、6,000人に満たないという事実を読むたび、毎回、憂鬱になる。
 

■■■ 日刊IWJガイド・ウィークエンド版【参院選まであと15日!】「本日11時より、岩上さんが東電による『メルトダウン』隠蔽に関して郷原信郎弁護士に緊急インタビュー!/イギリスのEUからの離脱が確定、キャメロン首相が辞意表明/IWJでは各党各候補者の街頭演説に関する記事を続々とアップしています!」2016.6.25日号~No.1380号~ ■■■

(2016.6.25 8時00分)

 
おはようございます。IWJで主にテキスト関連の業務を担当している平山と申します。

 
世界は今、大きな曲がり角を迎えているようです。

 
昨日6月24日、イギリスでEU(欧州連合)からの離脱の是非を問う国民投票が行われ、離脱派が52%の票を獲得して48%の残留派をわずかに上回り、過半数に達しました。この結果、これから2年をかけ、イギリスはEUとの離脱協議に入ります。1973年に前身のEC(欧州共同体)に加盟して以降、43年にわたるイギリスのEU加盟に終止符が打たれることになりました。ヨーロッパは、分裂の危機を迎えることになったと言えます。

 
今回の国民投票の結果を受け、イギリスのキャメロン首相は辞意を表明。10月の党大会後に辞職し、イギリスでは新たな首相を選ぶ選挙が行われることになります。

 
イギリスによるEU離脱決定を受け、6月24日の東京市場は大混乱に陥りました。円高が急激に進み、一時1ドル=99円に。これは2年7ヶ月ぶりの値です。日経平均株価も、一時下げ幅が1300円を超えるなど大暴落しました。

 
この事態を受けて麻生太郎財務相は緊急の会見を開き、「足もとの為替に極めて神経質な動きがみられる。世界経済や市場に与えるリスクを極めて憂慮している」と述べました。しかし、円安・株高で輸出企業と富裕層のみが儲けるアベノミクスにおいて、どんな操作を行おうと、外的要因で思惑はこなごなです。

 
アベノミクス・ブームに乗せられて、株に手を出した個人投資家は、これまでも乱高下相場で痛い目にあってきましたが、今回は絶叫に近い悲鳴が聞こえてきそうです。また、こうした中でいつも気になるのは、年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)が運用する国民年金資金です。今回の株価暴落により、いったいいくらの国民の年金が消えたのか、その額ははかりしれません。

 
今回、イギリスでEUからの離脱派が残留派を上回った背景には、EU各国からイギリス国内に流入し続けている移民や難民が、英国人の雇用を脅かしている、というイギリス国内での認識があります。今回の結果を受け、フランスの極右政党「国民戦線」のマリーヌ・ルペン党首はただちに歓迎の意を表明。「フランスや他のEU加盟国でも国民投票の実施が必要だ」と語りました。また、米大統領選挙で共和党の指名権獲得を確実にしているドナルド・トランプ氏にとっても、追い風となることは間違いありません。

 
移民・難民を排斥する極右の台頭により、イギリス発、フランス経由、そしてアメリカ着で、戦後の国際秩序がみしみしと音を立てながら崩れ始めているように感じます。同時にこれは、冷戦後に国民国家の役割を相対化してきたグローバリズムにも、ブレーキをかけるものとなる可能性があります。

 
さて、今回のイギリスによるEUからの離脱確定は、日本の参議院議員選挙にどのような影響をもたらすでしょうか。日本人にとっては何よりも最大の気がかりです。

 
自民党改憲草案を見れば一目瞭然ですが、安倍総理が目指す改憲とは、「緊急事態条項」を創設することで基本的人権を停止させるとともに、集団的自衛権を行使して米軍とともに世界中で戦争をする「国防軍」を創設しつつ、天皇を「象徴」ではなく「元首」と戴く「祭政一致の国家神道」の復活を含意するものです。

 
これは、日本が戦前に復古し、国権を強化するベクトルと、米国にどこまでも忠実につき従ってゆく属国化、果ては植民地化へのベクトルという矛盾した真逆の方向を向く2つのベクトルを同時に抱えこむもので、いずれその矛盾によって破綻しかねないように思われます。

 
ただそのウルトラナショナリズム米国隷従のどちらにも共通するのは、日本国民の主権、人権、利益、権利が最小化されてゆくという点です。国民主権、基本的人権の尊重や平和主義といった、戦後の日本社会が日本国憲法を通じて守ってきた人類普遍の原理を覆し、戦後の国際秩序に対して挑戦し、孤立化を招くものです。米国の陰に隠れてさえいれば、あとは国内の国民の声も国際社会の米国以外の国々も無視するという、岩上さんいわく「ジャイアンに依存スネオファシズム」が極大化されます。

 
この時、「スネオ化」した日本の支配層は、「国民は総活躍しろ、血を流せ、死ぬまで働け、ためこんでいる金は吐き出せ、働けなくなったら死ね」と先日の麻生氏の発言を現実化してゆくのでしょう。その意味で、今回のイギリスにおける危機は、日本にとっても対岸の火事ではありません。英国の危機よりも、日本の危機の方がはるかに深刻であるというべきでしょう。

 
悲惨な戦争の記憶とともに築きあげられた平和と人権を守る戦後秩序を守るか、あるいは戦前の軍国主義とも少し違う「スネオファシズム」体制に突入してゆくのか。今回の参院選では、有権者一人ひとりに対し、このような問いが突きつけられていると言えます。

 
今週、IWJでは6月22日に公示を迎えた参院選の取材に、最も時間を割きました。本日の「日刊IWJガイド」は、ウィークエンド版として、今週の岩上さんによるインタビューとIWJによる取材成果をふり返ってゆきたいと思います。

2016年6月16日 (木)

狭い門からはいりなさい。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13-14)

ペンテコステ運動とグノーシス主義の関係について書くと、早速、さわやか読者らが蠢動を始める。グノーシス主義の話題になると、これまでにも必ず、常にスピン的な動きが出て来たが、このことは、ペンテコステ・カリスマ運動の基礎がグノーシス主義にあることが明るみに出されてはよほど困る勢力が存在することを示している。

長年、当ブログに対するさわやか読者の動きを観察して分かることは、当ブログに対して、おそらくはアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の関係者(特に村上密氏やカルト被害者救済活動との関連)から、長年に渡り、彼らの活動への批判を潰すための工作がなされて来たという事実である。

杉本事件もその一環である。当ブログに対する1千件のコメントを伴う杉本徳久氏のブログにおけるバッシングが、杉本氏の一存によって行われたものであろうはずもなく、これも委託された全体の工作の一部であったと考えるのがふさわしい。

そもそも、杉本氏が自身のブログにおいて行って来たプロテスタントの諸教会に対するバッシングは、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団のカルト被害者救済活動の需要を意図的に作り出したい人々にとって、非常に好都合なものであった。

杉本氏がプロテスタントの諸教会の醜聞を次々発表することによって利益を得るのは誰かを考えれば、それは間違いなく、カルト被害者救済活動を率いるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団であり、「カルト対策の専門家」を名乗る村上密氏のような牧師である。

カルト被害者救済活動というのは、とにかく「教会で被害を受けた」と主張する信徒が登場しないことには始まらない。

そして、教会での不祥事は頻繁に起きる事件でないため、杉本氏のブログでの発表の中には、当初は本当のスキャンダルも幾分か含まれていたかも知れないが、結局、同氏らは事件をでっちあげてでも、注目を集める機会を作り出すという「やらせ」に陥らざるを得なかったのである。だが、そのように暴走するよりも前から、もとより、教会のスキャンダルを食い物として、弁護士やカウンセラーや教職者に仕事の機会と出番を作り出し、被害者救済ビジネスを成立させるという村上密氏の活動の手法そのものが、2ch等の「炎上商法」と極めて近い関係にあったと言える。

こういう他者の不祥事を糧とする種類の活動は、もともとその性質上、「やらせ」としての要素を色濃く持つものであり、いずれはスキャンダルをでっちあげてでも需要を作り出していくという暴走したものにならざるを得ない。毎年、年末になると同じ道路を掘り返して需要を作る公共工事くらいであれば、まだしもましであるが、諸教会と生きた信者に対する告発を捏造するところまで行くと、極めて罪が重いと言わざるを得ない。何より恐ろしいのは、これが人間相手ではなく、神に敵対する活動だという点である。

そういう意味において、カルト被害者救済活動は、2chとも極めて性質と仕組みがよく似ている。誰かの醜聞を故意に作り上げることによって人々の注目を集め、それを奇禍としてビジネスチャンスに変えて行くという性質である。

2chには、炎上のためのシナリオがある。まずは事件を大々的に煽る「敵」役が現れ、彼らが自らを当て馬として誰かを追い詰め、そこへ事件を解決するように見せかけた「正義の味方」や、心優しい「助言者」に見せかけた裏切り者などが登場し、その他大勢のエキストラ、情報提供者、ウォッチャーなど、さまざまな役割分担が振り分けられる。

災いをしかけられた側に知識がなければ、その時、その事件は自分の過失が引き起こした結果だと思って自己反省に陥ったり、争いをしかけて来る人物が主犯ではなく演技者の一人に過ぎず、助け手を装って現れる人間もまた工作員であり、すべてが背後にある巨大なネットワークによって一つに結びついて一個のシステムとして動いているのだとは疑うことなく、彼らの思い描いたシナリオ通りの行動パターンを辿らされることになるであろう。

だが、以下に示すような2chの実態等の情報を少しでも知っていれば、それらの事件は、最初からすべて計画的・人工的に仕組まれた舞台演出に過ぎず、霧のように、あってないも同然の事件に過ぎないことが理解できる。悪役でさえも、演技者でしかなく、ヒーローを演じる人物に花を持たせ、観客を動員してビジネスチャンスとなる物語を作り上げるためにすべてのシナリオが仕組まれているのだと分かろう。

そして、その脚本は最初から意図的に書かれたものである以上、誰かの言動がその事件勃発の引き金となったわけではなく、そのようにして延々と被害者を作り出してはビジネス化するネットワークはずっと以前からロシアン・ルーレットのように回り続けて来たのであって、あなたはただ順番が来たから機械的に巻き込まれただけなのである。

さて、一体、その大がかりなネットワークは誰が作り、動かしているのであろうか?

以下の記事を書きながらも、筆者が改めて感じたのは、約十四年間も、自らの名誉と地位を守るために、鳴尾教会に起きた事件の真相を隠し続け、自らの誤りを罪なき他者に冷酷に責任転嫁すべく、ひたすら他者を貶めるための「創作物語」を終わりなく延々と作り上げて来た村上密氏という人物の危険性である。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動
~村上密牧師と津村牧師による鳴尾教会人事の私物化問題について~


「演技性人格障害」という言葉も存在するが、村上密という人物の病理については深く考え込まざるを得ない。一つ嘘をつくと、それを隠すために、人は次から次へと嘘をつかざるを得なくなり、人前に自己を偽ると、鱗のように嘘に塗り固められた人物像が出来上がって行く。村上密氏が演じているような、被害者を救う「ヒーロー」としての人物像は、同氏自身の真実な姿から著しく乖離しており、もうずっと前から、約十四年以上も前から、破綻していたのだ。本人だけがそれを未だに認めまいとして今に至っている。

恐ろしいことである。だが、村上氏に限らず、「優秀なクリスチャン」を演じようとしたがために、虚像の自分自身を作り上げることになり、その演技がやめられなくなり、もはや現実を直視できなくなる実例は、筆者の周りで珍しいものではなかった。たとえば、筆者はルーク氏や杉本氏や下記に登場するcandy氏に対しても、全く同様の危惧を感じ、しばしば本人に対してかなりあからさまにそれを警告したのである。(だからこそ、KFCは筆者を疎んじたのである。)

村上密氏について言えることは、そもそも、メディアと密接な関係があって、メディアでもてはやされる人物というのは、およそ信用がならないということだ。そう言えるのは、メディアへの出演者はみな俳優のようなものであり、彼らが視聴者の注目を得るための番組作りは、その根本に「やらせ」があるためだ。

特に、牧師が自分をヒーローに見せかけるために、常に「仮想敵」を必要とし、「やらせ」に走ってでも、諸教会のスキャンダルをでっちあげては、自らの活動の需要を作り出し、キリスト教界を舞台にして、水戸黄門や暴れん坊将軍といった古典的な時代劇ドラマを思わせるような「勧善懲悪」のストーリーを効果的に演出せねば、世間の支持を得られず、存続もできないというアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団のカルト被害者救済活動は、もともとメディアの「やらせ」と、2chなどの匿名掲示板の「炎上商法」と密接に親和性を持つものであったと言える。それゆえに、結局、悪者を終わりなく作り上げ、政敵を追い落とすための工作において、教団と2chの両者は「蜜月」の関係を築くに至ったのだと推測される。

その観点に立てば、杉本徳久氏が当ブログに対して引き起こした事件も工作であったとみなすのがふさわしく、仕掛け人は杉本ではないのである。杉本ブログはそれ自体が隆盛期には巨大な掲示板と化していたのであり、同氏はカルト被害者救済活動を存続させて、自分たちが救済者としての名誉ある地位を失わないでいるために、我が身を当て馬としてでも、事件を作り出す役目を担って来たのだと考えられる。

カルト被害者救済活動と2chとの親和性は次のようなところにある。2chには一般市民を装って常時掲示板の話題を盛り上げるための「プロ固定」と呼ばれる工作員書き込み者が多数存在する。彼らは、通りすがりの市民を装いながら、その実、2chの犯罪ビジネスを成功させるために、金をもらって特定の企業や個人を貶めてはネットから駆逐して言論統制を行う。2ch対策と称して風評被害の解決を謳っている弁護士も、この掲示板と一体であり、これらは表裏合わせて一つのビジネスなのである。

この掲示板には、言論統制や炎上など様々な委託されたミッションの実行に向けて人工的な「世論」の流れを作り出すために、常時、話題を意図的に操作する工作員コメント者が多数配備されている。こうしたことは、以下に挙げたような2chの実態を告発する数々のサイトで、内部告発者らの証言によってすでに裏付けられている事実であるため、ここで改めて詳しく説明する必要もないであろう。

2chのような掲示板での議論が、意図的に犯罪を作り出し、人工的に炎上を引き起こしては儲けるためのビジネスであることは、すでによく知られている。その手法を知るには以下のサイトを多少読むだけで十分であり、これを読めば、杉本事件が偶然に起きたとみなす者は一人もいまい。

匿名掲示板2ちゃんねるの実態
2ちゃんねる掲示板の運営側による情報操作


2ch裏の歴史と噂話と真相

2ちゃんねる から子供たちを守ろう!

カルト被害者救済活動と2chとに実際に密接な結びつきがあると言えるのは、当ブログに日夜押し寄せて来ていたさわやか読者のIPアドレスを検索すると、その多くが2chを含む掲示板の常連であり、クリスチャンとは全く無縁の不信者ばかりである実態が浮かび上がったことによっても裏づけられる。

それだけでなく、さわやか読者の活動には周期があり、ネット監視の開始時間と終了時間、一人の工作員から別の工作員へのバトンタッチの様子など、アクセスログから活動がスケジュール化されている様子が分かる。そして、IPアドレスなどをもとに集団ネット監視に及んでいる実態が明確に浮かび上がるのである。

2chは、キリスト教に限らず、多数のネットユーザーに対してこうした集団的な監視活動を行うことで有名である。そこで、こうした工作を彼らに委託したのは何者であるのかを考える時に、筆者には、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に深い関わりのある人間たち以外からの働きかけを考えることもできないのである。

さわやか読者らの動きも、観察してみると、明らかに、雇い主の指示に従って当ブログを監視しているだけの雇われ工作員と分かるのである。信仰者でない以上、彼らが筆者の主張にもともと特段の関心があろうはずもなく、彼らには筆者に対する私怨はない。ただ議論を封じ込め、筆者の執筆意欲を低下させ、最も重要な争点から人々の注目をそらし、情報の信憑性を低下させるような発言を繰り返して、不穏な印象を与え、議論をかく乱するためのスピンを行うことを主たる「業務」としているだけである。

むしろ、読者の関心が筆者自身に集まると逆に彼らは困るのであろう。なぜなら、筆者が信仰者として神だけを見上げて一人で立っているのに、信仰はおろか、聖書の知識の片鱗すらもない、キリスト教のことを何も知らない部外者が、信者であるかのように立場を偽って、集団で騒ぎ立てて、筆者や、敬虔なキリスト教徒をさらし者としているだけだという悪事がより一層際立つからである。もともと無関係な人々が関わって来ようとする背景には、金をもらっているからだろう、スポンサーは誰なのか、という議論しか起きて来るものはない。

しかも、彼らは集団でかかっても筆者を論破することができない。当然である。さわやか読者には、まるで知性がなく、基礎知識がなく、もともとキリスト教に興味がなく、お仕事でやっているだけである。しかも自作自演なので、ずっと延々と引用とレッテル貼りとごまかししか続けられないのである。そんな無益なことに人生を費やさざるを得ないとは、ご愁傷様であるが、多分、報酬もないに等しいのであろう。

こうしたさわやか読者の雇い主が明らかにアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団やペンテコステ運動の支持者と深い関わりがあると見られるのは、筆者がグノーシス主義についての一連の連載を本格的に始めた頃、次のような馬鹿の見本のような掲示板がスピンのために立てられたことからも推測できる。上記、リンクは貼っておいたが、IPアドレス情報を盗み取られるため、正常な読者は誰も閲覧しないように注意しておく。

こうした掲示板でのスピンのための「やらせ」工作の材料を集めに、当ブログへ毎日せっせとアクセスしてネタを取りに来ている工作員は以下の二人である。

kd114019080055.ppp-bb.dion.ne.jp
kd210249054007.ec-userreverse.dion.ne.jp  (出身は 掲示板1

主犯は上である。これは何か月間も当ブログを監視しているさわやか工作員であり、日々、「村上密」の名前で当ブログにたどり着いて来ることを見ても、自らどの筋の者かを告白していると言える。いずれアクセス履歴を公表する。下はもともとキリスト教とは何の関係もない掲示板のプロである。この二人か、もしくは上の一人が自作自演によって何人かを演じ分けながら、延々とつまらない話題作りに励んでいるのである。

それにしても、閑古鳥が鳴いている掲示板を、自作自演によって成り立たせるしかないとは、2chも杉本ブログと同じほどの情けない落ちぶれようである。

だが、それもそのはずであろう。昨今は、どんな業界も店舗が一人体制で人手が足りなくて困っているという。足りないのは人手だけではなく、深刻な経営難で人件費が削られ、店員が基礎的な研修も受けられず、業務知識そのものが足りなくなっている。

そういった事情は、掲示板までも変わらないと見られ、寒い懐事情が議論の質の薄さにもろに影響している。まず基礎的文献に全く目を通していないので、議論に必要な知見が圧倒的に不足しており、下調べを何もしないまま、レッテル貼りと争点逸らししかできない。グノーシス主義についても、基礎的な文献を読んでいないのでは、発言に信憑性がない。さらに信者ではなく、信仰の事柄に疎いので、文脈を踏まえた聖書の引用ができず、信仰の常識を踏み間違えて恥を晒しており、結局、自説を証拠立てるための何らの有力な理論も提示できない。

ペンテコステ・カリスマ運動の教義など理解もしていないのであろう。さらに鈴木大拙や禅と仏教と東洋思想の知識になると彼らにはもう完全にお手上げである。日本には僧侶はたくさんいるので、下手に言及すると無知がバレる。これはキリスト教も同じである。無知がバレるというより、教義面から出身がバレるのである。

こんな知見不足の状態では、聖霊派の教義とグノーシス主義を結びつけた詳細な議論に反論できるだけの証拠もあろうはずもない。杉本ブログよりももっと質が低い。その上、自作自演ではもともと議論が盛り上がるはずもない。だからこそ、結局、三歳児でも理解できるようなレベルに落ちて行くだけなのである。

こういったことはすべて、もともと聖書の知識なく信仰もない人間にはこの手の議論は無理な挑戦だということをよく物語っている。そもそも、自分に興味がないことについて、人は何を書こうと思っても書けないものだ。信仰の事柄はまして不信者の議論には向かない。だから、無謀な挑戦をして、阿呆の見本のようになるしかないのだ。

それにも関わらず、なぜそのような無謀な挑戦をこれらの人々は行うのか、それは彼らが業務を委託されているからである。彼ら工作員の間では、常にアッセンブリー教団の批判がタブー化されている様子を見ても、彼らがどこから依頼された仕事として作業に励んでいるのかは明白になる。

彼らの課題は、異端グノーシス主義とペンテコステ・カリスマ運動が本質的に同一であるという事実を隠すことにある。つまり、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の教義そのものが異端であるという事実を明るみに出さないために、行われていることである。

すなわち、これらの工作員らが常に議論を紛糾させようとする目的は、カルト被害者救済活動も含め、そうした運動を生み出した弱者救済のペンテコステ・カリスマ運動が根本的に異端であり、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団が根本から聖書に反した理念に基づく運動から生まれたものであり、その基本理念の基本構造はグノーシス主義と同じであるという事実を論証する主張を人の目から覆い隠し、議論をかく乱することにある。そのための目くらましなのである。

だが、2chの影響力は実際には世間で恐れられているほど大きくない。それは実際、日々当ブログへリンクして来る人間がまるでいないことを見ても明白である。

さらに、こうした匿名掲示板で、悪質な誹謗中傷の書き込みを繰り返したために、逮捕され、顔写真までさらされている人物もいるようであるからご用心だ。左記のようなケースでは、さしずめ勤務にも影響が出るであろう。人の行動には相当の報いが降りかかるという格好の実例である。

さらに、当ブログの内容を勝手に切り取って転載していると、筆者とは無関係に、その人間が告訴される可能性がある。特に、筆者のブログには、牧師を名乗っている人物も含め、信者を容赦なく次々と法廷に訴え出ては留意を下げているような御仁が度々登場しているので、それらの人々との絡みで、筆者のブログ記事を利用するのは避けた方が良かろう。

当ブログの内容はそれぞれの記事に関連性があり、長大な論文のような構成を成しているため、部分的に切り取ることができない。さらに、筆者の提示している主張が捏造でないことを証明する一連の細かい論証過程がある。

そういう文脈をすべて無視して、当ブログの内容を無理に切り取って一部だけ話題作りに利用しようと転載すれば、筆者は一切その行為に対して責任を負わないが、その人間が自らの言質を取られ、誰かから誹謗中傷と判断されて訴えられる危険を自ら背負うことになる。(ちなみに、コメント書き込み犯が告訴されるために必要な条件はそう多くはない。)

さて結局、こうしたことも、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の率いるカルト被害者救済活動そのものが「やらせ」であり、ペンテコステ運動の基礎が異端グノーシス主義にあるという事実を明白に証明されたくない人々が、真剣な議論を早期に潰し、隠すためにスピン工作を委託しているだけである。

さて、一体、そんな工作を委託するアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団とはどれほど危険な団体なのか。

筆者は、これまで同教団の信者らに関わって来た経験に立って、2chに「プロ固定」と呼ばれる工作員が存在するのと同じように、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団にも、「プロ固定信者」と呼ぶべき工作員信者が相当数、存在するものと考えている。

これらの「信者」は外見的には一般の信者を装っているが、実際にその動向を長く追跡して行くと、彼らのやっていることはセミプロ工作員と言うべき域に達しており、到底、一般信者の取るべきではない数々の怪しい行為に及んでいる実態が見えて来る。

たとえば、記事「カルト被害者救済活動の暴走~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による魔女狩りとしての鳴尾教会への恫喝訴訟とAG信徒による他教会の乗っ取り~」で言及したアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団神召教会所属のBr.Takaこと鵜川貴範・直子夫妻にしてもそうである。

もともと鵜川氏は牧師資格を持たないのに、教会指導者の意向を無視して、街頭で路傍伝道に立つことによって、ニュース記事に取り上げられたりしていただけでなく、次々とペンネームを変えながらネット上で活動を立ち上げては、放棄して来たこともすでに記事に書いた。その上、身元を隠して他教会でメッセージをしたり、といった活動は、単なる伝道の領域を超えた、詐欺師的な仮面の付け替えと言って良い。

真に伝道者を目指し、福音のメッセージを語りたいならば、まずは自分の属している教団の神学校へ入学して堂々と牧師資格を取れば良いことであり、母教会と他教会の信徒らの目を欺いてまで、所属もしていない他教会へ潜入してわざわざ身元を隠してメッセージを語る必要などない。だが、こうした人々はなぜか正規の手段を取らず、わざわざ人を欺いて隠密に行動するのが大好きなのである。それは彼らがもともと身元を公にして活動できないような何らかの秘密を抱えており、一般信者の隠れ蓑を利用して活動していた方が、いずれ嘘がばれた時にも有利だからという計算が働いているためだと思われてならない。

それは名古屋のアッセンブリー信者である「十字架の恵みが溢れて」の著者(candy氏)も同じである。ちょうど杉本氏とのネット上の対立が頂点にあった頃、この信者はあたかも筆者を助けるかのような文脈で幾度か当ブログに書き込んだこともあった。

だが、すでに記事「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」でも述べた通り、どうにも同氏の主張には、常に筆者には同意できない異端的教えの影響が見られ、根本的に何かがおかしいと常に感じられてならなかったのである。

candy氏はある時期「神は愛だから誰をも裁かない」などと聖書に反する異端の教えを宣べ伝えるサンダー・シングの偽りの教えに深く影響を受け、これを広める要塞と化した。

Dr.Lukeもこの信者の影響を受けて2008年に「サンダー・シングの霊性」なる記事を書いている。筆者はDr.Lukeに直接、サンダー・シングの異端性を告げて警告し、さらに、これが筆者の決めつけでないことを証明するために、サンダー・シングの教えの何がどう聖書に反し間違っているのかを一連の記事(「命の道と死の道――狭き門と広き門――偽りの教えの構造(序)」等)で明らかにした。

さらに、Dr.Lukeに対しては「キリスト教界からエクソダスせよ、と自ら唱えながら、なぜ現役のキリスト教界の信者、中でも危険視されているアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の現役信者と関わるのか」を問うた。そのような二重性は、自ら述べている信念に反するものであり、キリストのみへの貞潔を保つにあたって、ふさわしい行動ではないのではないかと。

だが、Dr.Lukeは筆者の警告に耳を貸すことなく、かえってcandy氏とサンダー・シングの教えを擁護し、後にLuke氏とcandy氏とBr.Taka夫妻、および天声教会のリーダーが連帯して、彼らに耳障りな警告を発した筆者に対する「報復」を果たすために、筆者に異端者の濡れ衣を着せて、KFCから追放するという行為に及んだのである。

この事件は偶然に起きたものだとは筆者は全く考えていない。何しろ、ここに三人ものアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の現役信者が関わっているのである。カルト被害者救済活動のやり方は、彼らがターゲットと定めた人物の人間関係に巧みに隠密に工作員を送り込んでは、ターゲットとなる人物に関する情報を収集し、なおかつ、その人物に対する周囲の人々の不満や愚痴を探り出すことによって、「被害」を捏造して、分裂や争いを引き起こし、ターゲットとする人物を中傷し、孤立させることにあるのだということは、長年の観察を通して分かっている。つまり、工作員を送り込んでは人間関係を壊し、「友人」であった人々を裏切らせて「告発者」に変えて行くことが、彼らの常套手段なのである。

KFCに関わっていた頃、筆者はアッセンブリー信者を信用していなかったので、彼らを信じても、裏切られるだけであり、Br.Taka夫妻はKFCを乗っ取るために来たのだから、彼らとの連帯は成り立たず、もし筆者の忠告を退けて彼らを信用し仲間だと考えれば、すぐにあなたも追放されることになるはずだと、Dr.Lukeに警告した。実際、その通りになった。Dr.Lukeは一時不名誉な理由でメッセンジャーを降ろされ、KFCの会堂は失われ、Br.Taka夫妻は逃亡し、筆者を陥れるために彼らが作った「同盟」は、わずか数ヶ月も持たなかった。そこにBr.Taka夫妻だけでなく、candy氏も一役買っていることが、Br.Taka夫妻の発言から明白となった。結局、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の人間が連帯して、他団体を潰し、そこにいる信者を中傷し分裂させたのである。

以上に挙げたDr.Luke氏の記事「サンダー・シングの霊性」では、サンダー・シングの影響を受けた中には、山谷少佐も含まれていたことが分かる。これはまだ山谷氏の裁判の判決が確定する前のことである。重要な裁判の決着がつく前に、山谷少佐がこの異端の教えを擁護したことには、決定的な意味があったものと筆者は考えている。なぜなら、我々は、自分の戦いに神が味方して下さるためには、どうしても、あらゆる汚れたものと分離して、身を清めなければならないからであり、「アカンの外套」を所持したままだと、戦いに勝てないからである。

こうして、candy氏は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者でありながら、Br.Taka夫妻と同じように、無害な一般信者という立場を装い、ネットを利用して、自分の所属教団の枠組みを超えて、他の教会の信者らに接近し、聖書に立脚して信仰の道を生きる信徒を悪者にして汚名を着せてまで、数多くの人々、特にリーダー格の人々を異端の教えによって惑わすことに成功したのである。

それでも、一般信徒であるがゆえに、Br.Taka夫妻もcandy氏も、批判の矢面に立たされたり、責任を追及されることはない。何事もなかったかのように、すべてに知らぬふりをして活動を続けているだけである。だが、たとえそのようにしてみたところで、聖書によれば、彼らには厳しい報いが約束されており、これを免れることはできない。惑わされた方も責任重大だが、惑わした者はもっと責任が重いのである。

「また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。」(マルコ9:42)

「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現れるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを 買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。」(Ⅱペテロ2:1-3)

candy氏は筆者の忠告を受けて、サンダー・シング関連の記事を削除したが、その教えが異端であるとは未だに認めていない。だが、同氏が認めようと認めまいと、結果的に、彼女の意向を受けてサンダー・シングを支持した人々が、今は見る影もなくなっている様子が、すべてをよく物語っているように思う。Dr.Lukeは自分を神だと宣言するに至っているし、山谷少佐は裁判に勝利できずネットから遠ざかることになった。Br.Taka夫妻については言及する価値がない。

これらの人々はみな聖書の真理よりも、人間の名誉と絆を重んじたのである。情に流され、人との交わりや、そこから得られる感覚的満足を、御言葉よりも優先し、御言葉に従うことよりも、人間の名誉を傷つけないことを優先したがゆえに、忠告の価値を軽んじ、誤った教えに逸れて行ったのである。

さらに、聖書は彼らの教えが「好色」であり、「貪欲」であると述べている。そのことは、Dr.Lukeとcandy氏が自分のブログで飽くことなく続けている「飲んだり、食べたり」(マタイ24:38)の自慢話を見てもすぐに分かることである。まさかそんな自慢話の羅列が信仰の証であろうはずがない。

聖書にはこうある、なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」(ローマ14:17)

candy氏のブログは、当初の「イエスの喜びと満足のために」書かれる証から、「セルフの恵みと満足のために」執筆されるものへとすっかり変わってしまった。

さらに、上記で挙げた工作員の立てた掲示板の趣旨も「愛と赦し」(の母性的福音)であり、御言葉の切り分けがないところを見ても、まさにサンダー・シングやグノーシス主義やペンテコステ・カリスマ運動を擁護するために立てられたものと言って良い。だからこそ、こうした議論は決まって最後は肉欲の賛美に溺れて行くのである。その様子が彼らの信奉している教えの内容をどんな事実よりも明白に物語っている。

掲示板工作員は、決してBr.Taka氏やcandy氏などのアッセンブリー信者を批判しない。そのことだけを見ても、彼らがどの筋から来た者であるかは明白である。不思議なことに、candy氏のことを当ブログで書いても、さわやか読者はこの話題をタブーのように扱う。彼らはDr.Lukeについては常に騒ぎを煽ろうと狙っているのに、決してこの人物については触れないのである。

このようなアッセンブリー信者らの極めて不審な主張と活動を振り返り、彼らが言い広めて来た異端の教えのことを考えるにつけても、こうした「信者」らは、真実な信仰者を迫害し、退けるための「プロ固定信者」であると筆者はみなさざるを得ない。一人の信徒が霊的要塞と化して与えた影響の大きさを思うのである。

「十字架の恵みが溢れて」の著者は、今年5月に「十字架の恵みが溢れて2」という名で、ライブドアにブログを開き直している。言わずと知れた、杉本徳久氏の「随想 吉祥寺の森から」と同じプロバイダである。杉本氏から当ブログに対して実行不可能な提訴を予告する恫喝のメールフォームが送られて来たのと時期的に重なっており、また、当ブログに対するスピンの為に上記匿名掲示板が立てられたタイミングとも時期的にほぼ重なっている。2chとライブドア社も以前から密接な関係にあることが指摘されている。

以前の彼女のブログには、KFC関係者のブログへのリンクが数多く貼られていたが、当ブログでKFCの理念の異端性を明白に書き始めてから、新アドレスに移行している点にも注意が必要である。

こうしたことは、一般信者の立場だからこそできることであり、アッセンブリー教団に所属していながら、次々に他の団体の信者に関わり、しかもKFCのように、キリスト教界そのものに敵対しているような相反する理念を持つ団体に関わり、その団体が批判を浴びて都合が悪くなると、そういう一連の事件は全てなかったことのように、彼らと無関係を装って新たに活動を続ける。そういう変わり身の早さも感じられるように思う。

実際、筆者がKFCに関わって最も驚かされたのがまずこの点なのである。candy氏に限らず、Dr.Lukeのメッセージを熱心に聞いている者たち(特に女性)には、キリスト教界に身を置きながら、牧師に隠れてKFCやDr.Lukeとコンタクトを取り、メッセージを聞くという、二足の草鞋を履いている者があまりに多い。自分の所属している教会と指導者がありながら、キリスト教界の非をこれほど激しくあげつらっては告発しているDr.Lukeのメッセージを聞くこと自体が、自らの群れに対する裏切り行為であることが分からないのであろうか。

本来ならば、エクソダスするのか、現在の指導者に従うのか、どちらかを選ばなければ、信用も成り立たないであろう。(むろん、エクソダスしたからと言って、Dr.Lukeに従うという結果にはならない。)どっちつかずの立場では、自分の指導者に対しても申し開きが出来ない。ところが、まるでどちらかが倒れたらいつでも古巣に戻る準備が出来ているとでも言わんばかりに、いつまでも二重の立場をずるずると続け、両方の「いいとこどり」に終始するのである。それでいながら、自分たちには一般信徒の分かっていない、より深い霊的真理が(Dr.Lukeのおかげで)理解できていると考えているのである。

このように、対立する陣営のどちらにも良い顔をすることが不可能であることが、クリスチャンでありながら、なぜ分からないのか、筆者には全く理解できない。そのような曖昧などっちつかずの態度をずっと続けて、どちらの陣営においても、信用を勝ち得ようとすることは、全く信頼できる行動ではないと筆者は考えている。そのような誠実さの欠ける貞潔さのない人々を信用して、どっちつかずの立場の人々ばかりを積極的に集めては交わりの拡大を重んじたことが、KFCの致命的な誤りであり、それがゆえにこの団体のこれまでの絶えざる二重の歩みがあったのだと筆者は考えている。結局、信仰の純粋性よりも人数(地上の権勢)の方が彼らには大切だったのであり、そうであるがゆえに、他の群れの信徒らを盗み取り、奪い取ってでも、その心を私物化して行こうとしたのである。

話を戻せば、こうした一連のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者の動向を考え合わせると、杉本氏からの提訴予告も、単なるシナリオ工作の一環でしかなかったことが見えて来る。その背後に控えているのは、どこからどう見ても怪しい活動を続ける工作員信者らを手先のように他団体へ送り込んで、巧みに駆使しながら、敵対する者たちに関する情報を収集し、次々と争いや分裂をしかけ、中傷を広めては追い落とし、キリスト教界の統一と一元化を目論んで来たアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団である。

もともとアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の理念自体が、プロテスタントに潜り込んだ異端であることを考えれば、この教団の信者が、他教団や他宗派の信者の動向を監視したり、裏切りに備えて予め個人情報を収集したり、異端の教えを言い広めては信者を堕落させる悪霊の要塞となったりするのは全く不思議なことではない。

彼らの目的は、親切で忠実な信徒を装って活動しながら、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、できるだけ数多くの信者を惑わし、聖書に基づく唯一の真理から逸らすことにあるのだと言っても過言ではないのではなかろうか。

特に、キリスト教界と一線を画して、真理だけを求めているような群れを、何としても彼らの二重性を帯びた支配・統制の下に置くために、密かに行状偵察し、信仰者の群れを一元管理し、村上密氏のような人物にライバルのいない状態を作り出すために、信者を手先として利用しているのではないのかという疑問が生まれる。

こうしたことから、果たして、バビロンや、イゼベルとして非難されるべきは誰なのかという疑問が起こらない方が不思議である。

candyというペンネームも相当に象徴的であると言える。何しろ、それはDr.Lukeが最も嫌っていたはずのいわゆる「砂糖まぶしの甘えの福音」を象徴するような名だからだ。十字架は、セルフにとって決して甘い恵みではない。花輪で飾り立て甘い砂糖菓子のようにされた人間に都合の良い「十字架」は本物ではないと気づくべきである。

こうしたアッセンブリー信者の惑わしの働きの源は、その親分にこそあると見るべきである。

村上密氏はキリスト教界の不祥事をきっかけに、クリスチャンに対する裁判を推進することにより、アッセンブリー教団の枠組みを超えて、他教会を破壊することに成功して来た。さらに、同氏のブログも、福音伝道を目的とする牧師のブログというよりは、ネット上の政治プロパガンダ工作を思わせるものである。たとえば、同氏のブログは、書き方一つを取っても、コメントを一切受けつけない点で、対話と異論を初めから排除する「言いっぱなし」の形式を取っている。こうしたことだけを取っても、同氏は初めから一方的なプロパガンダを目的としてブログを開いているのであって、対話と議論を一切目的としていないことがよく分かる。

さらに、同氏は筆者の書いた「カルト監視機構という名の秘密警察」という記事に対する反論として、わざわざ「『カルト監視機構』という名の秘密警察」の誤報」と銘打って、筆者の記事のタイトル全文を引用する形で記事を書いている。

こうしたやり方も、本記事に対する緻密な反論が目的というよりも、まるで広告のキャッチコピーのようなレッテル貼りによる印象操作と、明らかに検索結果を意図的に操作して、そこで論敵の記事を貶めることを目的に同氏が記事を書いている様子をよく物語っている。これは杉本徳久氏が用いて来た手法と同じである。つまり、内容を通してきちんと反論することで、自説の正当性を主張するのではなく、他者の記事内容やタイトルや文章をまるごと模倣・剽窃したり、類似するタイトルをわざとつけることによって、論敵の主張をまる飲みする形でダミーを作り、それによって標的とする人物の主張を乗っ取り、追い落として行くのである。

さらに、村上密氏は鳴尾教会関係者のみならず、筆者についても、長年に渡り、人物破壊を行なうためのプロパガンダ記事を掲載し続けている。このような、正攻法とはとても言えない、ネット上の不正な権利侵害によって政敵を蹴落とす手法は、2chなどのネット操作の常連の常套手段であっても、牧師にはふさわしくない。裁判もそうであるが、こうした争い事のやり方にばかり精通しており、反則行為と抜け穴探しのような手法にひどく長けているような人間は、まともな人物ではないと言える。

2chは日本をエバ国家と蔑視する統一教会などとも関連が指摘されており、ことさらに日本人を中傷する掲示板と化している理由が色々と推測されているが、村上氏は統一教会の出身であり、掲示板に書かれている情報の中には、同氏に由来するとしか考えられない情報も含まれている。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、牧師からしてこのようであるから、信者にも、この種の極めて怪しい確信犯的な詐欺師が多いのは無理もない。ヤクザの回心をお涙頂戴の物語として得意げに伝道材料にするくらいであるから、今や教団そのものが、社会的弱者とヤクザと障害者と病者と統一教会出身者で溢れている。

その上、キリスト教界の不祥事を告発することを生業としてクリスチャンに裁判を挑む指導者が牧師として常駐しているわけだから、教団そのものが、まるでキリスト教徒に因縁をつけては罠をしかけるためのヤクザ工作団体と化していると言って過言ではない。

こんな団体に所属している信者が、ゆめ油断できない人物ばかりなのは何の不思議もない。杉本徳久氏も、キリスト教界により数多くのスキャンダルをでっちあげて、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団のカルト被害者運動の需要を作り上げたい勢力から、思う存分、利用されているだけに過ぎないと見るのがふさわしい。そして、アッセンブリー教団の背教は米国に由来するものなのである。

いみじくも、筆者が色々と訴訟関係の手続きを調べている時に、ある専門家が尋ねた。「その教団の理念は、外国から来たものなのではないですか」と。

Dr.Lukeは以上に挙げた記事の中で、サンダー・シングをウォッチマン・ニーと同じく「東洋的な霊性」と記している。candy氏はウォッチマン・ニーにも深入りしている様子がブログから分かるが、それを見るにつけても、「東洋的霊性」なるものは混合の教えだと筆者は思わずにいられない。

ちなみに、筆者にウォッチマン・ニーを紹介し、その体系を教えたのは、Mr.Sugarである。Dr.Lukeはこの点もずっと意図的に隠し、あたかも筆者が自ら勝手にウォッチマン・ニーに「傾倒した」かのように、まるで現場を見て来たかのように主張して、事件を無駄に煽って来た。だが、Mr.Sugarはその当時、KFCに全く理解を示していなかったので、この時期、筆者もまたDr.Lukeには一切関わっていなかった。

Mr.SugarはDr.Lukeのローカルチャーチ時代からの長年に渡る年長の兄弟であり、当時、他の信者の誰も及ばないほどにウォッチマン・ニーに「傾倒していた」。筆者とMr.Sugarのそうしたやり取りは、筆者自身が伝えたので、Dr.Lukeは知っているが、それを知った上で、あえてSugar氏の名前は出さず、筆者だけに注目が集まるような、誤解を呼ぶ一連の事実に反する記事をDr.Lukeは自身のブログで断りなく発表していったのである。

たとえば、Mr.Sugarのニーに対する熱心さはこんな風であった。筆者がブログにニーの引用文を載せて、そこに誤変換や誤字脱字があると、早速、Mr.Sugarから電話がかかって来る。そして「あそこの何行目のどこそこの文字が間違っていますよ」と指摘がある。筆者の書いた文章よりも、ニーの文章の方がSugar氏にとってははるかに重要であり、まるで聖書以上にニーが重要であるかのように感じられるほどの関心の払いようであった。それほどまでに、当時、Mr.Sugarはウォッチマン・ニーに心酔しており、しばしば、ニーの最期を思って涙を流し、自身のブログにも、ニーの引用に「加筆した」ものをずっと発表していたのである。

Mr.Sugarは筆者にウォッチマン・ニーを読まないか、恐る恐る勧めたと語っていた。そして筆者が『霊の人』に関心があったと言うと、欣喜雀躍として喜んだという。

筆者は、特に霊的な事柄についてのウォッチマン・ニーの内容の深さには関心を持ったが、どうにもこの心酔ぶりにはついて行けないものを感じていた。そこへ杉本事件が起きた。しかも、それはちょうど、「こんなブログがありますが」と、筆者がMr.Sugarに「随想 吉祥寺の森から」のアドレスを伝えてからほどなくしてからのことであった。杉本氏からの非難は筆者のみならず、ウォッチマン・ニーも対象としていたので、Mr.Sugarはおそらくこんな時だからこそ、ウォッチマン・ニーの信憑性を擁護するために立ち上がるだろうと筆者は思ったが、あにはからんや、同氏はそそくさと理由をつけてネットから撤退してしまった。

その姿を見たとき、あれほどまでに涙を流しては「ニーの同労者になりたい」と告白していた台詞は何だったのだろうかと驚き呆れた。しかも、ちょうど「デッドライン君」の事件が起きた時分であったので、デッドライン君の家族を救うという使命のために、Mr.Sugarはこの事件をひどく胡散臭く思っていた筆者との交わりを絶ってしまった。

Mr.Sugarにはその後も再会し、KFCの偽りを理解する上では数多くのヒントをもらったことは確かであり、おそらく筆者が今まで知り合った目に見える信者の中では、最も鋭い霊的な指摘を受けた一人であろうと言える(その根源は、結局、ウォッチマン・ニーの著書から得られた知識にあると考えられる)。だが、candy氏と同じで、何故、この人も”sugar”なのであろうか、と疑問に思う。そして、この人のブログの題名が「山暮らしのキリスト」であることも、実に意味深に感じられる。

筆者はニーの書いたものの中で、ペン-ルイス、オースチン-スパークス、アンドリュー・マーレーのような霊的先人と重なる部分は認めており、それから『霊の人』にも一定の評価を下して来た。魂と霊の切り分け、霊の機能についても、これ以上に意義深い説明を他にはまだ知らない。しかし、『権威と服従』のように、明らかに年功序列を絶対化するような、聖書とは異なる教えがニーの著書とされて混合していることも確かであり、このような教えを土台としたがゆえに、いくつかの集会では、子供への搾取等が発生しているのであると考えられる。ローカルチャーチから出た出版物は特に吟味なく受け入れるべきではないことが指摘されて久しい。

それにとどまらず、ニーの生涯、彼の著作物、ニーの最期についても、すべて再考が必要であるように筆者は思う。それはこれもまた「東洋思想との混合」である可能性があるためだ。

ペンテコステ運動の基盤が東洋思想・グノーシス主義にあることはすでに明確にしたが、聖書に登場する大淫婦バビロンの教えとは、筆者の観点では、まさに東洋思想とキリスト教の混合物なのである。

キリスト教をベースにして、そこに「東洋的霊性」が混合してできる化合物が、悪魔の悲願としてのバビロンの教えの完成であり、そのためにこそ、「キリスト教に父性原理が強すぎるので、母性原理を補うべきである」という主張が繰り返し、キリスト教批判として現れて来るのである。

ただし、ウォッチマン・ニーの著書については、その教えの多くの部分は、先人たちの主張を取り入れたものであり、どこからがニーの独自の言説で、後世の人々による改ざんなのか、めて識別が難しい。今、著書も手元にないので、分析を行えるとしても、まだ先のことになるだろう。

ただし、筆者の周りでウォッチマン・ニーにかなり傾倒した人々に一様に観察された特徴は、先人の良さそうな言葉の引用で身を飾り立てることはしても、その言葉が試された時、代価を払ってその真実性を証明するということがなかった点である。はっきり言ってしばえば、その言葉は借り物の域を超えないのである。

以前、candy氏は筆者の前でKFCをかなり批判的に評しており、Dr.Lukeにブログを閲覧されると客観的に内容が書けなくなる、とか、Dr.Lukeはもっと早くにKFCから引退すべきであった、そうであればこうまで異常にはならなかっただろう、などと述べたことがあった。筆者より前からこの団体を知っていた者としての率直な感想であり、こうした意見には全く異存はない。(つまり、筆者がKFCに関わり出した頃は、すでにKFCの異常期に入っていたのである。)さらに、ウォッチマン・ニーであれ、サンダー・シングであれ、すべての聖書以外の信仰の教えは必要ないためみな捨てるべきであると、彼女は筆者の前で自ら述べたこともあった。

彼女が筆者に向かって語った最も良い言葉は、「その父母を離れ」(創世記2:24)である。つまり、聖書の原則は、子がいつまでも親にとらわれ、家を基準として、父母のような指導者を崇め、絶対化することにはないという確信を述べたのである。精神的にも霊的にも完全に自立してあらゆる外からの助けなしに、キリストのみを頼りとして、一人の人間として、大人として、自立して立つことこそ、キリストが信者の一人一人に望んでおられる成長なのだということである。

なぜそれらのことを語った本人がそれを実行しておらず、未だにずっと聖書以外の教えの引用ばかりを繰り返しているのか。

どんなに良いことを語っても、言った本人がこれを実行しないのでは意味がない。だから、誰が述べたにせよ(たとえそれが工作員信者の発言であれ)、良いことはやはり実行に移すべきなのだと筆者は考えている。 そのようにして「知」と「行」とが一致する世界に向かって行くことが、キリスト者には可能であるはずだ。

我々は「知性による分割以前」とか「神が光あれ」と言われなかった前に向かっているのではなく、創世記で「光あれ」と神が言われた言葉がそのまま真実となったように、あるいは御言葉なる方がキリストであり、御言葉とキリストのパースンが一つであるように、言行の不一致がなく、我々の確信するところが、大胆に我々の存在と行動と一つとなって、リアリティとして世に放たれるような生き様を目指している。

だが、それを実行するただ一つの方法は、十字架を通ることにしかない。聖書から逸脱したやり方で、その素晴らしいリアリティが我々と一つになることは絶対にない。

Mr.Sugarがかつてとても良いことを書いていた。エクレシアの戸口に達するまでにキリスト者は死んでいなければならないと。要するに、セルフを抱えたまま、復活の領域にたどり着ける者は誰もいないのである。

私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。

「光が、やみの中から輝きでよ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。

私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。」(Ⅱコリント4:5-11)

2009年11月14日 (土)

ハドソン・テイラーの信仰(3)

ありがたいことに、さまざまな兄弟姉妹の紹介により、今、私はこれまで触れることのなかった信仰の古典的な良書へと導かれています。今は中古本市場においても、そのような本をほとんど見つけることができなくなっています。それは非常に残念なことです。健全な信仰を養うためには、健全な書物に目を通すことがどれほど大切でしょうか。しかし、私がそうであったように、情報化時代であるはずの便利な今の時代に、それらの良書に触れる機会はかえって、まことに少ないのです。深い真理に触れた霊的先人たちは、今日では、ほとんど忘れられ、彼らの信仰の功績は、ほとんど伝わっていません。そのために一般的なクリスチャンが置かれている信仰的・霊的枯渇状態は恐るべきものです。

 しかし、これらの良書をただ読んで、知識として蓄えただけでは何にもなりません。そこにあるのは、道徳的な啓発ではないため、その真理を私たちが実際に経験するのでなければ意味がないのです。先人たちの書物が徹底して私たちに教えている基本は、私たちが自己の魂から来る力を否み、ただ御霊にのみより頼んで生きることです。私たちは人生において幾多の失敗をします。主に従うと宣言しておきながら、それでも、自分の力で生活を動かそうとし、自分の魂の力でさまざまなものを握り締め、主の導きがあっても、手放そうとしません。あるいは、主の導きがないのに、自分の力で人生をコントロールしようとして、浅はかに行動します。しかし、そのような自力での試みが、次々と、失敗に終わることによって、私たちは、それが御霊の力ではなく、自分の魂から出た力であったことに気づかされるのです。

 どうか主よ、何が魂の力であり、何が御霊によらない力であるかを、私たちにはっきりと見せて下さい。常に自分で自分を守ろうと知恵をめぐらしながら生きている私たちをお赦しください。そして、そのような魂の力に、私たちがますます弱められ、死ぬことができますように、あなたからの光を送って下さい! 何が「自己」の力であるのかをもっともっとはっきりと見せて下さい!

 さて、ハドソン・テイラーの書物に戻りましょう。彼の自伝の中で、私が個人的に最も感銘を受けた箇所があります。それは、彼が中国伝道に旅立った後の波乱万丈の記述ではなく、海外伝道の準備をしていた頃の以下の場面なのです。彼は中国伝道の出発へ向けて、自らの信仰を強めなければならないと感じていました。そこで、経済問題に関して、ただ神に頼ることを実践し始めたのです。

 つまり、彼は自分の働きかけや、人の考えではなく、主ご自身が彼の経済を動かしておられることを信じたいと望みました。彼はある医師に雇われていましたが、そこで、給料に関して、ただ神だけにより頼む決意を固め、給料日であることを思い出させるために、雇い主を動かそうとする一切のアピールをやめたのです。今日、このように神を頼れる人々がどれほどいるでしょうか?

「私はひそかに考えた『中国へ行くについては、自分は何人にも何物をも求めまい、私の要求はただ神にむかつてする。されば出発前の今のうちから、ただ祈だけで神によつて人を動かすという経験をしておくことは如何に大切なことであろう』と。
 ハルに於ける私の親切な雇主は何時も非常に忙しい人であつたので、給料日になつたら私の方からもうし出るようにとの希望であつた。しかし私はそれを直接には言い出さずに、ただ神にむかつて祈ることにした。そうすれば神は主人にこのことを思い出させてくださるであろうし、私は答えられた祈によつて励ましを受けるであろうから。

 さてある毎四季給料日(年四回の支払勘定日―訳註)が近づいた時も、私は例の通りしきりに此のことに就いて祈つていた。とうとうその日になつた。私の親切な友からは別に何の話もない。私は祈りつづけた。何日か過ぎ去つた。しかし彼はやはり思い出さない。ついにある土曜日の夜、一週間の諸支払をすませたところ、銀貨半クラウン(二シル六ペンス)一箇を残すばかりであつた。しかし私はそれまで一度も不自由したことはなかつたのだし、ただ祈りつづけた。

 あくる日曜日はまことに幸いな日曜日であつた。いつもの通り私の心は祝福にみちあふれていた。午後は礼拝につらなり、午後と夜とは私のいつも行く貧民外のきちん宿で福音伝道の御用がなされた。こうした時はあたかも天国がもう地上に始まつたかのように思われ、願うところはなおそれ以上喜びに満たされん事ではなく、ただ今ある喜びにたえ得ん事だけであつた。

其夜十時頃に最後の集会が終わつた時、一人の見すぼらしい男が私に来て、彼の妻のところで祈つてもらいたいとの頼みであつた。聞けば彼女はひん死の状態にあるとのこと、私はさつそく承知した。そしてみちみち彼に、何故坊さんを迎えに行かなかつたかとたずねた。そのなまりから彼がアイルランド人であることがわかつたから。彼の言うには、迎えに人をやつたけれど、坊さんは十八ペンス出さねばだめだというし、いま一家がうえ死しそうな場合そんな金のありようはないのだと。

すると急に私の心に浮んで来たことは、いま自分が此の世で持つている金はわずかに半クラウンだけ、それも貨へいでただ一箇、もつとも夕食にはかゆが用意してあるし、あくる朝の食事もまずあるが、ひるまにはもう何もないということであつた。

 どうしたわけか私の内なる喜びの泉が急にとまつてしまつた。ところが私は自分を責めようとしないで、かえつてそのあわれな男をとがめだした。そしてこんなになるまでほつておくということはない、さつさと方面委員に願い出ればよかつたのにと言つた。彼の答によれば、彼もそうした、けれどあくる朝十一時にまた来いと言われたのだと、しかし妻の方は今夜にもどうかと思われるありさまなのである。

私は考えた、『ああ、もしも此の金が半クラウン(銀貨一枚)でなくて、二シル六ペンス(の小銭)であつたなら、私はどんなに喜んでそのうち一シルだけ此の気の毒な人たちに与えるであろうに?』と。しかし半クラウン全部をやつてしまうなぞとは思いもよらぬことであつた。事の真相は次のような簡単なものであつた。すなわち私は神プラス一シル六ペンスには頼ることは出来るが、ポケツトに一文もなくて、ただ彼だけに頼る心がまえが未だできていないということである。しかし私はそうとは夢にも気づかなかつた。

 男は私をとある小路へ連れて入つた。私は多少の不安を感じながら後に従つた。私は前に其処に来たことがある。じつは先ごろ尋ねた時はずいぶんひどい目に会つている。私のトラクトは引裂かれた。そしてもう二度と此処へ来たらただではおかぬぞとおどしつけられている。私はすくなからず心配になつた。しかしそれは義務の道であつた。私はついて行つた。ひどい階段をのぼつて一つのみじめな部屋に導き入れられた。

なんという光景であつたろう! 四、五人のあわれな子供たちが立つている。その落ちこけた頬とこめかみには、まぎれもなく彼等が次第に飢えつつある事を語つている。そして無惨なぼろ布団の上には、あわれにも衰え切つた母親が、生後一日半の赤ン坊を抱いて寝ている。赤ん坊は母親のそばで泣くというよりうめいていた。その子もまた弱りはてて死にかかつていたから。『ああ、もし半クラウンでなく二シル六ペンス持つていたなら、喜んで一シル六ペンス与えるんだが!』と私は考えた。しかしなお悪しき不信は、私の持つている全部を投げうつても彼等の不幸を救わうとする衝動に従う事をさまたげた。

 此のあわれな人達を慰めようにも、私には多くを語る力のなかつた事にべつだんの不思議はないであろう。私自身慰められる必要があつたのだ。それでも私は語り始めた 『まことにお気の毒な事です、でも決して絶望してはいけません。天に恩恵深い愛なる父がい給います』と。然し私の心の中で何ものかが言つた 『なんじ偽善者よ! これ等の未信者に天にいます恩恵深き愛なる父について語りながら、自ら半クラウン無しでは神を信頼しようともしない!』 

私は息がつまらんばかりであつた。もしも一フロリン銀貨(二シリング)と六ペンス持つていさえしたなら、私はどんなに喜んで良心と妥協したことであろうに。 私は感謝をもつてそのフロリン銀貨を与え、残りを自分にとつておいたであろうに、しかも私はまだ六ペンス無しで、ただ神だけに頼る心の用意ができていなかつたのである。

 このような心の状態では、物を言うことは不可能である。しかし奇妙なことに、私は祈ることなら困難であるまいと考えたのである。当時祈は私にとつて喜ばしい仕事であつた。祈のうちに過した幾時間は決してたいくつを感じなかつた。また祈る言葉にこまるようなことはほとんど無かつた。此の時も私のなすべきことは、ひざまづいて熱心に祈ることだと考えたらしい、そうすれば救は彼らにも私自身にも一しよに来るであろうと。

『あなたは私に、来て奥さんのために祈つてもらいたいと言われましたね、では祈りましよう』と私はその男に言つた。そしてひざまずいた、しかし私が口を開いて『天にいます我らの父よ』と言うやいなや、内なる良心は言つた 『お前は神をばかにするつもりか? お前はポケツトの中の半クラウンを持つたまま、ひざまずいて彼を父と呼ぶつもりか?』と。後にも先にも経験したことのない苦闘の一ときが私をおそつた。私はその祈のようなものをどう切り抜けたかもわからない。また口にした言葉のつぢつまが合つていたかどうかも知らない、ただ私は非常な失望のうちに起ち上がった。

 その気の毒な父は私にむかつて言つた 『あなたは私共が実際どんな恐ろしい状態にあるかおわかりです。もしも助けてくださることが出来ますなら、どうか神のためにお助け下さい!』ちようどその時 『なんじに乞う者に与えよ』との一言が私の心にひらめいた、主の言葉には権威がある。私は手をポケツトにつつこみ、そろそろと例の半クラウンを引出してその男に与えた、そして言つた 『私の比較的よい暮し向きからすれば、こんなこと大したことではないかも知れません。でもそのお金をあげてしまえば私にはもう何もないのです、しかし私が今まであなたにお話ししたことは決して間違ではありません。神はまことに父であり、信頼され得るお方です』と。

喜びは全部洪水のように私の心にもどつてきた。その時私はもうなんでも言えるようになつたしまたそうと感ずることが出来た。祝福のじやまものは取去られた――私は信ずる、永久に取去られたと。

 かの哀れな婦人の生命ばかりではない、私の生命も救われたのだ、ということがわかつた。もしもあの時恩恵が勝利を得給わなかつたならば、また御霊の切なる求めに従順がささげられなかつたならば、私は難破したかもしれない――すなわち基督者の生涯としてはおそらく難破したであろう。私はよく記憶している、其の夜下宿へもどる時の私の心は、私のポケツトのように軽くあつたことを。

さびしい人通りの絶えた街路は、おさえ切れぬ私の賛美の声で響きわたつた。寝床のそばにひざまずいた時、私は主に彼自身の御言葉 『貧しき者に与うるは主に貸すなり』を思い出していただき、なお『私の貸金が長期のものでありませんように、明日の昼ごはんをいただけなくと困りますから』とお願いした。心の内も外も平安に包まれて、私は楽しいいこいの一夜を過した

 翌日の朝食にはかゆがまだあつた、そしてそれをまだ食べおわらぬうちに、郵便配達の戸口をたたく音が聞えた。私は日曜日に手紙を受取ることはめつたになかつた。両親や多くの友達は、土曜日に手紙を出すことをさしひかえたから。それで宿の主婦がぬれ手を前かけでおおいながら手紙か小包のようなものを持つて入つて来たときは多少驚いた。私はその手紙をよく見た。しかし誰の字か見別けがつかなかつた。それは知らぬ人か、仮名を使つた人の筆で、消印もはつきりせず、何処から来たものかわからなかつた。封筒を開いて見ると中には手紙は何もなく、ただ一枚の白紙に皮の手袋が一そく包みこまれてあつた。驚きながらそれを開いた時、半ポンド金貨が下に落ちた。

『主を讃めたたえよ』 私は叫んだ『十二時間の投資に対して四十割!これは大した利息だ! こんな利率で金を貸せたら、ハルの商人はどんなに狂喜するだろうに!』 
私はその場で決心した、破産することなき此の銀行へ、私の貯蓄又は所得を時に応じて預入れようと――それ以来私はいまだかつて此の決心を後悔したことはない。」(ハドソン・テイラー著、『回想』、p.34-41)


 このような体験は私にもまざまざと覚えがあります。それはまだわずか数ヶ月前のこと、主の導きに従って、エクレシアのために旅立つと決めた時、家探しに出かけようとした私の懐には、たった一泊の宿泊費さえもありませんでした。異郷の地で、家探しのために、許されたのは一日だけ。それが当時の私の財産でできる全てでした。しかし、私は誰にも自分の貧しさを知らせて、助けを乞うことを願いませんでした。主は私の全ての必要をご存知であると知っていたからです。ですから、出発前、わずかなお金を私は主に捧げて、祈りました、「私が今持っているものはこれだけです。このありったけをあなたに捧げます。それでも、あなたは旅立つようにと私を促しておられます。ですから、私に与えられた一日で、必要な家を探し当てることができますように助けて下さい。またその後の経済的必要性の一切を、あなたが整えて下さることを信じます。」

 そしてどうでしょう、その祈りは無駄にはならなかったのです。私は神の恵みと憐れみによって、今、誰の助けを乞う必要もない平凡で穏やかな生活を送っています。それは、あの時、私が懐にあったわずかな金額だけで、神を信頼して旅立ったことの結果です。そのお金は、消えてしまったのではなく、天に投資され、むしろ考えられないほどに祝福されて、主から私へと返されたのです。ですから、私は今、はっきりと言えます、主に従うために、私たちが投資したものは、何一つ無駄になることはないと! 時には、手持ちの最後のお金を投げうつように、自分の持っているありったけのものを主に差し出すことが、私たちに求められる時があります、しかし、信仰を持って、勇気を持って、従いましょう、それによって、私たちが貧しくなったり、人に依存するようになることは決してありません! それどころか、主は考えられない祝福をもってあなたに報いて下さり、その憐れみの深さを、その恵みの豊かさを思い知らせて下さるのです! 主に従って自分を投げ出したことで、後悔させられることは決してありません!

(注意: ただし、これをカルト団体でよく信徒に強要されている極端に圧迫的な奉仕や、法外な献金の呼びかけなどと混同してはいけません。そのような場所では、神の御心ではなく、ただ人による誤った考えが強要されているだけですので、たとえ指示に従ってひたすら自己を犠牲にしても、神に喜んでいただくことはできませんし、主から報いを受けることもありません。一つ一つの奉仕が、本当に御霊によって示されたものなのか、それとも、人の誤った考えから生まれたものに過ぎないのか、信徒は神との交わりの中で、納得できるまで、幾度でも、個人的に確かめる必要があります。妄信的に人の指示に従ってはいけませんし、神からの導きを待たずして、性急に自分の判断で危険な行動をすることは無意味です。

 しかしながら、本当に主からの導きに従って、己を捨てる場合であれば、私たちの投資は、地上でのリスクが伴えば伴うほど、ますます豊かに報いられるのです。天の取引所で行う取引は、地上のどんな取引よりもはるかに有利で報いが大きいのです。神は今日、私たちに、さまざまな形で、自分で握り締めていたものを手放すように求めておられます。それは個人によってさまざまに異なるでしょう。たとえば、ある人にとってはそれはお金かも知れませんが、ある人にとっては物や、時間、愛する人、などかも知れません。しかし、主は今日、己の魂の命を憎んで十字架を負う人を求めておられます。天でのその報いは大きいのです。このようにして、今の時代にあって、神の無尽蔵の富と無限の憐れみを味わうことができる人たちが一人でも多く現われますようにと願わずにいられません!)

2009年11月11日 (水)

ハドソン・テイラーの信仰(2)

以下の記事に書いたように、私たちは誰もがハドソン・テイラーのように海外宣教に旅立つ使命を与えられているわけではなく、一人ひとりのクリスチャンに対して、神の召しは異なっています。誰もが一様の生き方をすべきだと考えることは間違いです。しかし、それでも、生涯を神に捧げる決意を固めた人々は、テイラーが実践したのと同じく、ある決まった重大原則に忠実に従うべきなのです。

 それは、神が召し出した人々には、神が全ての必要を整えてくださると心から信じきり、あらゆる必要性に関して、ただ神にのみより頼むことです。

「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。」(マタイ6:33-34)

 私たちが見習うべきは、一大財産を築き上げ、一生食べるに困らないほどの穀物を地上の蔵に貯え、これで人生は安泰だと思った金持ちではありません。私たちはこの世では明日も分からない寄留者であり、貧しいこと、乏しいこともあるかも知れませんが、私たちの望みはただ天にのみ置かれているのです。御国の働き人に対して、天の貯蔵庫は決して空になることはないのです。そのことをただ私たちが信じるかどうかが問題です。もし信じられなければ、私たちの働きも私たちの信仰に見合った矮小なものにとどまってしまうでしょう。

 さて、ハドソン・テイラーの伝記に戻ります。先にあげた引用箇所より、時は少し遡りますが、彼がどのようにして献身の決意を固めたか、どのようにして中国伝道のために召されていることが分かったか、またその召しに対してどう応えたかを示すエピソードを挙げます。

「回心後幾月と経たぬ或日の午後、私は暇を得て自分の室に退き、そこでもつぱら神との交わりに時を過した。その時のことを私はよく記憶している。いかに喜悦の心あふれて霊魂を聖前に注ぎ出したことであろう。私は私のために救を成し就げ給うた彼――私がすべての希望と救の願いをすらすててしまつた時もなお私を救いたもうた彼――に対し、感謝溢るる私の愛をいくたびもいくたびも言いあらわした。

そして私の愛と感謝のはけ口として、何か彼のための仕事、たといそれは何であつても、どんなつらい、どんなつまらない仕事であつてもよい、何か自己否定的な仕事、何か彼を喜ばし奉る仕事、かくまで私のためにつくしたもうた彼のために、私にも出来る何かの仕事を与え給えと祈り求めた。

私はよく記憶している、私が無条件の献身をもつて、私自身を、私の生命を、私の友人を、私の全てを祭壇上に捧げた時、深い深い厳粛感が私をおおつて私の献身は受け入れられた、という確信が上から臨んだことを、私は記憶している。ありありとした神の臨在感と、言いあらわせぬその祝福。私はまだ十六にならぬ少年であつたが、神の聖前のいうに言われぬ荘厳と、いうに言われぬ喜悦とで、ただ音もなく地にひれふしていたことを。

 どういう御用のために受けいれられたのか、私にはわからなかつた。ただ『自分はもはや自分のものではない』という一つの深い意識が私を占領した。そしてその後この意識の消え去つたことはない。それはまことに実際的な働をする意識であつた。

二、三年の後私は私の友であり、また師である或医者から、彼の所に年季奉公をするという条件で大変有利な申し出を受けた。然し私は何かそうした身をしばられる約束を受けいれてはならないと感じた。何故ならば、私はもはや私自身のものではない、自分で自分を自由にすることは出来ない、私は彼だけのものである、そしていつ如何にして御用に召されるかもわからぬ私は、常に彼の聖旨のままに従い得るよう、自由な身になつていなければならぬ、と感じたからである。

 この献身聖別の数ヶ月の間に、主が私が必要としたもうのは、中国においてであることがだんだん示されてきた。当時中国はまだ今のように国を開いていなかつた。さればかくして召された私の仕事は、ほとんど生命がけのものであろう事がぢゆうぶん予想された。中国に働き人を持つている伝道会はまだわずかであつた。中国伝道に関する本で私の手に入れ得るものは少なかつた。

しかし町の組合派の一牧師が、メドハーストの『中国』を持つていると聞いたので、私はその借覧を頼みに彼を訪問した。彼は快く私の願いを聞いてくれた。そして何故その本を読みたがるのかとたずねた。私は神が私を召して中国伝道に生涯を献げしめ給うたことを告げた。

『では如何にして中国へ渡るつもりか?』と彼はたずねる。

私は答えた『私は十二使徒や七十人の弟子達がユダヤでやつたように――財布も袋も持たず――私を召し給うた彼がすべての必要を満し給うと信じて行くべきであると思う』と。

彼はやさしくその手を私の肩において言つた『ああ、君ももう少し年をとれば賢くなるだろう。そんな考はキリスト御在世当時ならとにかく、今の時世では通用しないよ』と。

 私はそれ以来、年もとつたが賢くもならない。私は、もしも私どもが主の命令と、彼がその最初の弟子達に与え給うた約束とを、もつと無条件に受け入れて己が導きとするならば、あの当時と同様、今日にもなお全くあてはまるものである事を、更に一層確信しているのである。」(ハドソン・テイラー著、『回想』、p.23-26)


 クリスチャンの召しの内容や、働き方、それは確かに時代に応じて変わるでしょう。たとえば、今日、中国伝道の意義は、テイラー存命当初のものとは大きく変わっています。けれども、真に重要なのはそんなことではありません。私たちの召しの内容がどんなものであれ、神の国の永遠の原則は、キリストが地上に来られた時から、今に至るまで、何も変わっていないのです。もしも神があなたを本当に何らかの働きのために召されたならば、あなたの全ての必要性を整えるのは神の仕事なのです。神があなたの雇い主なのであり、神があなたの生活を保障して下さる方なのです。

 キリストが地上に来られた時からその原則は不変です。私たちは今日でも、イエスに遣わされるならば、自分の財布を空っぽにして(=神がこの召しを完遂するための全ての必要を整えて下さることを信じ、己や人の力を頼みとせず)出かけていくべきであり、そうしてこそ、天の貯蔵庫は無限であることを味わう幸いを保障されているのです。自分の資金で神の働きを成し遂げられる人は一人もいません。十代の青年であったテイラーは、その若い当時に、ただ神にのみより頼んで召しに従うことを決意し、生涯、その考えを変えることはありませんでした。それは、彼が頼みとした神は、彼を一度も裏切らなかったからです。私たちが今日、彼が信じたのと同様に、イエスの言われたことを無条件に信じるならば、私たちは予想だにしない祝福を受け取ることでしょう。私たちの側の信仰が問われているのです。

 神が始められた仕事は、必ず、神が責任を取って下さいます。そして私たちは地上に宝を貯えるための働き人でなく、天に宝を貯えるための働き人なのです。私たちが地上の事柄にではなく、天の事柄に思いを馳せ、自己の力でもなく、地上の権勢でもなく、ただ天に無尽蔵の富を持っておられる唯一の方により頼んで進んで行くことが、祝福が降り注ぎ、働きが豊かな収穫の実を結ぶ秘訣となるでしょう。

「異邦人の道に行くな。またサマリヤ人の町に入るな。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行け。行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。病人をいやし、死人をよみがえらせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出せ。ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。財布の中に金、銀または銭を入れて行くな。旅行のための袋も、二枚の下着も、くつも、つえも持って行くな。働き人がその食物を得るのは当然である。」(マタイ10:5-10)

「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである。」(マタイ6:19-21)

ハドソン・テイラーの信仰(2)

以下の記事に書いたように、私たちは誰もがハドソン・テイラーのように海外宣教に旅立つ使命を与えられているわけではなく、一人ひとりのクリスチャンに対して、神の召しは異なっています。誰もが一様の生き方をすべきだと考えることは間違いです。しかし、それでも、生涯を神に捧げる決意を固めた人々は、テイラーが実践したのと同じく、ある決まった重大原則に忠実に従うべきなのです。

 それは、神が召し出した人々には、神が全ての必要を整えてくださると心から信じきり、あらゆる必要性に関して、ただ神にのみより頼むことです。

「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。」(マタイ6:33-34)

 私たちが見習うべきは、一大財産を築き上げ、一生食べるに困らないほどの穀物を地上の蔵に貯え、これで人生は安泰だと思った金持ちではありません。私たちはこの世では明日も分からない寄留者であり、貧しいこと、乏しいこともあるかも知れませんが、私たちの望みはただ天にのみ置かれているのです。御国の働き人に対して、天の貯蔵庫は決して空になることはないのです。そのことをただ私たちが信じるかどうかが問題です。もし信じられなければ、私たちの働きも私たちの信仰に見合った矮小なものにとどまってしまうでしょう。

 さて、ハドソン・テイラーの伝記に戻ります。先にあげた引用箇所より、時は少し遡りますが、彼がどのようにして献身の決意を固めたか、どのようにして中国伝道のために召されていることが分かったか、またその召しに対してどう応えたかを示すエピソードを挙げます。

「回心後幾月と経たぬ或日の午後、私は暇を得て自分の室に退き、そこでもつぱら神との交わりに時を過した。その時のことを私はよく記憶している。いかに喜悦の心あふれて霊魂を聖前に注ぎ出したことであろう。私は私のために救を成し就げ給うた彼――私がすべての希望と救の願いをすらすててしまつた時もなお私を救いたもうた彼――に対し、感謝溢るる私の愛をいくたびもいくたびも言いあらわした。

そして私の愛と感謝のはけ口として、何か彼のための仕事、たといそれは何であつても、どんなつらい、どんなつまらない仕事であつてもよい、何か自己否定的な仕事、何か彼を喜ばし奉る仕事、かくまで私のためにつくしたもうた彼のために、私にも出来る何かの仕事を与え給えと祈り求めた。

私はよく記憶している、私が無条件の献身をもつて、私自身を、私の生命を、私の友人を、私の全てを祭壇上に捧げた時、深い深い厳粛感が私をおおつて私の献身は受け入れられた、という確信が上から臨んだことを、私は記憶している。ありありとした神の臨在感と、言いあらわせぬその祝福。私はまだ十六にならぬ少年であつたが、神の聖前のいうに言われぬ荘厳と、いうに言われぬ喜悦とで、ただ音もなく地にひれふしていたことを。

 どういう御用のために受けいれられたのか、私にはわからなかつた。ただ『自分はもはや自分のものではない』という一つの深い意識が私を占領した。そしてその後この意識の消え去つたことはない。それはまことに実際的な働をする意識であつた。

二、三年の後私は私の友であり、また師である或医者から、彼の所に年季奉公をするという条件で大変有利な申し出を受けた。然し私は何かそうした身をしばられる約束を受けいれてはならないと感じた。何故ならば、私はもはや私自身のものではない、自分で自分を自由にすることは出来ない、私は彼だけのものである、そしていつ如何にして御用に召されるかもわからぬ私は、常に彼の聖旨のままに従い得るよう、自由な身になつていなければならぬ、と感じたからである。

 この献身聖別の数ヶ月の間に、主が私が必要としたもうのは、中国においてであることがだんだん示されてきた。当時中国はまだ今のように国を開いていなかつた。さればかくして召された私の仕事は、ほとんど生命がけのものであろう事がぢゆうぶん予想された。中国に働き人を持つている伝道会はまだわずかであつた。中国伝道に関する本で私の手に入れ得るものは少なかつた。

しかし町の組合派の一牧師が、メドハーストの『中国』を持つていると聞いたので、私はその借覧を頼みに彼を訪問した。彼は快く私の願いを聞いてくれた。そして何故その本を読みたがるのかとたずねた。私は神が私を召して中国伝道に生涯を献げしめ給うたことを告げた。

『では如何にして中国へ渡るつもりか?』と彼はたずねる。

私は答えた『私は十二使徒や七十人の弟子達がユダヤでやつたように――財布も袋も持たず――私を召し給うた彼がすべての必要を満し給うと信じて行くべきであると思う』と。

彼はやさしくその手を私の肩において言つた『ああ、君ももう少し年をとれば賢くなるだろう。そんな考はキリスト御在世当時ならとにかく、今の時世では通用しないよ』と。

 私はそれ以来、年もとつたが賢くもならない。私は、もしも私どもが主の命令と、彼がその最初の弟子達に与え給うた約束とを、もつと無条件に受け入れて己が導きとするならば、あの当時と同様、今日にもなお全くあてはまるものである事を、更に一層確信しているのである。」(ハドソン・テイラー著、『回想』、p.23-26)


 クリスチャンの召しの内容や、働き方、それは確かに時代に応じて変わるでしょう。たとえば、今日、中国伝道の意義は、テイラー存命当初のものとは大きく変わっています。けれども、真に重要なのはそんなことではありません。私たちの召しの内容がどんなものであれ、神の国の永遠の原則は、キリストが地上に来られた時から、今に至るまで、何も変わっていないのです。もしも神があなたを本当に何らかの働きのために召されたならば、あなたの全ての必要性を整えるのは神の仕事なのです。神があなたの雇い主なのであり、神があなたの生活を保障して下さる方なのです。

 キリストが地上に来られた時からその原則は不変です。私たちは今日でも、イエスに遣わされるならば、自分の財布を空っぽにして(=神がこの召しを完遂するための全ての必要を整えて下さることを信じ、己や人の力を頼みとせず)出かけていくべきであり、そうしてこそ、天の貯蔵庫は無限であることを味わう幸いを保障されているのです。自分の資金で神の働きを成し遂げられる人は一人もいません。十代の青年であったテイラーは、その若い当時に、ただ神にのみより頼んで召しに従うことを決意し、生涯、その考えを変えることはありませんでした。それは、彼が頼みとした神は、彼を一度も裏切らなかったからです。私たちが今日、彼が信じたのと同様に、イエスの言われたことを無条件に信じるならば、私たちは予想だにしない祝福を受け取ることでしょう。私たちの側の信仰が問われているのです。

 神が始められた仕事は、必ず、神が責任を取って下さいます。そして私たちは地上に宝を貯えるための働き人でなく、天に宝を貯えるための働き人なのです。私たちが地上の事柄にではなく、天の事柄に思いを馳せ、自己の力でもなく、地上の権勢でもなく、ただ天に無尽蔵の富を持っておられる唯一の方により頼んで進んで行くことが、祝福が降り注ぎ、働きが豊かな収穫の実を結ぶ秘訣となるでしょう。

「異邦人の道に行くな。またサマリヤ人の町に入るな。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行け。行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。病人をいやし、死人をよみがえらせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出せ。ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。財布の中に金、銀または銭を入れて行くな。旅行のための袋も、二枚の下着も、くつも、つえも持って行くな。働き人がその食物を得るのは当然である。」(マタイ10:5-10)

「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである。」(マタイ6:19-21)

ハドソン・テイラーの信仰

このところずっと書きたいと願っていた内容があります。今後の生活をいかに支えるべきかという問題について考えるにつけ、ハドソン・テイラーの伝記から学ばされることは多いのです。誰でも、生活の問題に直面するでしょうが、そのような時、私たちがいかにそれを解決すべきか、テイラーから学ぶことができます。

テイラーは全てにおいて、神に頼りました。特に、彼は中国伝道の召しが与えられてからずっと、経済問題について完全に神に頼ることを学んだのです。神が召しを与えられたのだから、それを全うするための手段も、神が与えてくださるはずだと、彼は信じ続けました。テイラーの自伝的回想を読みますと、彼がいかに神に信頼して、日々を生きていったかがよく分かります。度々、思いがけない困難が起こります。彼は窮乏します。しかし、彼の信仰が間違っていなかったことの証拠として、神は彼の願いに誠実に応えられました。信仰に基づくそのような生活は時に、か細い一本の糸の上で綱渡りするように、恐れと不安と背中合わせになりました。それでも、彼は不信仰と闘いながら、信仰を選び続けました。

テイラーの伝記から学んだ最初のことは、私たちは神のために生涯を捧げる決意を固めた時から、自分の所有物を対処することを学ばなければならないということです。ウォッチマン・ニーの著書からも、このことについては述べました。勝手気ままに暮らしていた頃には、私たちは沢山の所有物を溜め込み、そのことに疑問もありませんでした。その頃、私たちが神の御用に用いるために用意しているものは何一つもありませんでした。しかも、それに加えて、もっと多くを所有できないだろうかと、それだけを願いながら暮らしていたのです。

しかし、自分の生涯を主に捧げるということが起こると、主は少しずつ私たちの所有物に対しても、働きかけます。私たちの持ち物は天幕に置かれたのであって、そこには自分の所有だと言えるものは何もないことを主は示されます。そして生活のあらゆる点で、神に目を向け、不要なものを捨てる、または捧げるように促すのです。「まず神の国とその義とを第一に求めなさい。その他は全て添えて与えられます」ということを、万事につけて思い起こさせるのです。そして、たとえ私たちが貧しくとも、富んでいても、どんな状態にあっても、御心に信頼して安らげるよう、私たちの内面の状態を変えていかれます。

一つ注意しておきましょう。前にも書いたように、テイラーの生きていた時代は、現在とは少し事情が違います。テイラーの時代、キリスト教界において、今日ほどの背教がはびこっていなかったため、キリスト教的団体を通じて働くことは、彼にとってつまずきとはなりませんでした。しかし、残念ながら、今現在、多くの教会では、正統な教義がゆがめられ、献金(十分の一献金等)、礼拝、日曜学校、慈善活動、布教活動のほとんどは、人に見せるため、また特定の組織の勢力を拡大するために行われています。それらは、信徒に重い賦役のように課され、人々のつまずきの源となっています。どれほど多くの献身者が、まるで神に仕えるように牧師に仕え、神を差し置いて、人の栄誉を高めることに貢献しているでしょう。信徒も同じです。そのような場所では、信徒間に競争があり、人々が先を争って、活動すればするほど、ますます神の御心から遠ざかっていくのです。このような状態が、決して、御心にかなうものでないことは一目瞭然です。

そこで、私は、テイラーが実践したことを全ての人が形式的に真似をすることによって、誰もが献身生活を送れるなどと言うつもりはありません。一人ひとりに対して、神の召しは異なっているのです。私たちは人真似をすることによって神に仕えることはできません、自分に与えられた個人的な召しについて知らなければなりません。ですから、神の御心を仰がず、自分の思いで外国伝道に志願したり、耐貧生活に適応すべく、わざと極端に貧しい生活を送ってみたり、体を鍛えるために戸外で一生懸命運動したり、汗水流してトラクトを配ったり、日曜学校の教師になったり、十分の一献金を行ったり、あらゆる教会活動に熱心に参加し…、そういった人間による活動が献身生活の本質であるかのように誤解してはなりませんし、ある一定の形式さえ守っておけば、神の御心を喜ばせることができるなどといった、短絡的なものの見方は避けるべきです。

人に見せるための善行は、決して、神へのささげ物とはなりません。人の真似をすることも、神を喜ばせることにはつながりません。また、誰かの指示に妄信的に従った結果として(いわゆる)「献身生活」を送ることは、自主性を放棄することであって、これもまた御心にかなう行いではありません。神の御用のために収入を捧げるとは、決して、何も考えずにただ教会の献金袋に毎月一定の金額を投げ込むことを意味するのではありません。私たちは、何らかの外面的な形式を模倣することによって、献身を成し遂げられるわけではないことを覚えておかなければなりません。

しかし、そのような問題は別として、ハドソン・テイラーが実行した大まかな原則、すなわち、私たちが神と出会ったならば、まず自分の生涯を何らかの形で神に捧げたいと熱心に願うようになること(これは自然に起こります)、すると次に、自分の所有物を対処することを学ばされること、つまり、自分の時間を有効活用して、神に捧げなければならないと気づかされ(これも自然に起こります)、自分の持ち物をも、自分で握りしめていてはならず、神に捧げなければならないと気づかされること、収入の一定の部分は神の御用のために喜んで用いるべきであること、経済的困難にある時にも、常に神に祈り求めることを学ぶこと(これらは全て自然にそのように促される時がやって来ます)、そういった原則が、神に仕える人たちが、今日も、怠ることなく実行していくべき根本原則であるということは、変わっていません。神に絶対的に献身する決意を固めたならば、何よりも、私たちは、自分の所有物を自分で所有しようとすることをやめ、全ての必要をただ神に委ねるよう促される時がやって来ます。そして私たちは、不満を押し隠し、喘ぎ喘ぎ、歯を食いしばりながらそうするのではなく、喜びと平安を持って、それらを実行していくことができるのです。そうする時に、私たちの働きが真に実を結ぶようになり、豊かな祝福が私たち自身に降り注ぐのです。

このような生活は、誰か偉い人にそうせよと命じられて行う類のものではなく、私たちが神との交わりの中で、自然に気づかされ、促されて、無理なく、自主的に起こることです。以下は、テイラーの伝記からの引用です。

「私の愛する両親は、私の外国伝道志願に奨励も反対もしなかつた。ただ彼らがはつきり私に言つてくれた事は、私が最善の努力をもつて身と魂と精神とを一層強めること、また祈り深く神を待望み、もしも私がまちがつていたとわかつたならば、すなおに彼の導きに従い、又もしも時至つて神が外国伝道への道を開き給うたとあらば、ためらうことなく前進するように、という事であつた。此の勧めがいかに大切なものであつたか、私は其後しばしば知る機会を得た。

私は健康増進のためつとめて戸外で運動するようにした。またもつと困苦欠乏の生活に耐え得るよう鍛錬のつもりで、羽根布団を取去ったり、其ほか家庭的慰楽も出来るだけ省くように努めたりした。私はまた基督教的仕事で、私に出来ることは何でもするようにした。たとえばトラクトの配布、日曜学校の教授、病者貧民の訪問等その機会が与えられる毎に何でもやつた。

 家庭でしばらく準備の時を過ごした後、私は医学と外科とを修業するためにハル市へ行き、其処で或医師の助手になつた。此の人はハル医学校に関係があり、また多くの工場の外科医であつたので、診察室にたくさんの怪我人が来る。それで私は外科の小手術を見たり、実習したりする機会を多く与えられた。

 さて此処で書きもらすことの出来ない事が一つあつた。まだ家にいる頃、私はすべて人はその収入の最初の果と持物の適当な部分とを、主の御用のために別に取置くべきではないか、という問題を考えるようになつた。そしてまだ家を去らぬ今の内に、すなわち周囲の必要や思いわずらいなどのために、その結論がゆがめられるような境遇に入らぬ前に、此の問題を手もとの聖書について十分研究しておいたほうがよいと考えた。このようにして私は、得た金、手に入つた金は、どんな金でも、そのすくなくとも十分の一を主の御用のため別にするという決心をするにいたつた。

私がハルの医術見習生として今いつたころ受けていた給料では、このことを容易に実行することが出来たであろう。しかし親切な友であり雇主でもある医師の家庭のつごうから、私は別なところへ引越さねばならなくなつた。幸いある親戚のところに居心地の良い場所が得られたし、また私の仕事に対する一定の報酬以外に、下宿料としての必要額も与えられることになつた。

 しかしここで私の心に一つの疑問が起つた『この金額もやはり十分の一だけささげるべきではなかろうか?』と。それはたしかに私の収入の一部分である、もしも政府の所得税の場合であつたなら、それは確かに除外されないだろうと考えられた。しかしもしも全部の十分の一が引かれるとすれば、私は他の使い途にどうしても不足するのである。どうしたらよいか、私はしばらくの間非常に当わくした。

十分考えまた祈つた結果、私はいま宿つている居心地の良い場所と幸福な環境とを去つて、郊外の小さな下宿に間借――そこは居間も寝室も一つで、食事は自炊――することにした。このようにして自分の全収入の十分の一を、困難なく献げることが出来るようになつった。此の変化はかなり身にこたえた、しかしそれには少なからぬ祝福がともなつた。

 孤独の間、今までより一層多くの時間が神の言の研究と、貧民訪問と、夏の夜の伝道にささげられた。こうして失意のうちにある多くの人達と接するようになつた私は、やがて一層節約する特権を知るようになり、また私が最初考えていた程度より、更に一層多い割合を与えることも困難でないことがわかつて来た。

 ちょうど此の頃一人の友人は、主イエス・キリストの再臨とその千年王国との問題に私の注意を向けさせ、註も解釈もせず、ただ此の問題に関する聖書の章節の一覧表だけを私に与えて、よく研究するようにすすめてくれた。私は一しようけんめい聖書につき此の問題を研究した。その結果地上を去り給うたイエスが、再び復活の体をもつて来り給うという事、彼の足は橄欖(オリーブ)の山上に立ち、まだ彼の生まれ出でぬ先から約束されてあつた父ダビデの王位につき、此の世を支配し給うであろうという事がわかつた。

私は更に、主の再臨は新約全体を通じ、その民の一大希望になつている事、そして常に清潔と奉仕とに対する最も強力な動機であり、また試練と苦難との中にある者の最大の慰めであることがわかつた。私はまた知つた、彼が再びその民のもとに来り給う時期は明示されていないこと、そして毎日毎時主を待望む者らしく生活することが彼の民の特権であること、さればかかる生活にとつては、彼が何時来るとか来ないとかいうことは決して大事ではなく、たとい何時来り給うとも、悲しみならぬ喜びをもつて善き支配人の報告をすることが出来るよう、不断に待望むことこそ最も重要であると。

 この幸いな希望には全く実際的な効果があつた。その後私は自分の小さな文庫内をよく気をつけてみるようになつた。そしてそこにもしも不要な、又もう役にたたぬ本なぞありはしないか? また私の小さな衣裳だんすの中を調べては、今主が来り給うたとして、此の中に何か説明に困るようなものがありはしないか? よくたしかめるようになつた。その結果私の文庫は或貧しい隣人の幸福のため、また私自身の魂の更に大きな利益のため非常に減つた。

 一生を通じ機会あるごとに、時々そうすることは私にとつてたいへん有益であつた。私はこんな考を抱いて、家中を地下室から屋根裏まで歩きまわつた結果、霊的喜悦と祝福との非常な増加を受けなかつたことは一度もない。私どもにはみな貯蔵の危険があるようである。それは一つには無思慮から、一つには仕事の必要に迫られてであろう。とにかく他の人にこそ有用であれ、今の自分には少しの必要もない物を貯えこむ、そして知らず知らず祝福を失うことになる。

もしも神の教会の全財産がもつとよく利用されたならば、更にどれほど多くの事業が成し遂げられることであろう。如何に多くの貧しき人が食を与えられ、はだかなる者が着せられ、まだ福音の伝えられていない人たちにまで福音が行きわたることであろう。私どもはこうしたことを不断の心がけとし、また事情の許すかぎり常に実行すべき有益な生活態度として、たがいに勧めあうべきではなかろうか?」
(ハドソン・テイラー著、『回想』、岡藤丑彦訳、三一書房、1957年、p.26-31)

2009年11月 8日 (日)

神のために生きる

「わたしたちは認識する必要がありますが、神に自分自身をささげる力は神の現われを通して生じます。それは神の啓示から来ます。献身について語る人が必ずしも自分をささげているわけではありません。献身を宣べ伝える者、あるいは献身の教理を理解している者が必ずしも献身している人ではありません。神を見た人だけが献身した人なのです。

神はアブラハムに現れました。すると直ちにアブラハムは神に祭壇を築きました。主イエスがダマスコの途上でパウロに出会われると、パウロは直ちに尋ねました、『主よ、わたしは何をすべきでしょうか?』(使途二二・十)。

わたしたちの霊的生活の転換点は、神のために何かをしようと決心することから来るのではありません。それは神のためにあれこれ行う決心をした結果から来るのではなく、わたしたちが神に出会う時に来るのです。

わたしたちが神に出会う時、わたしたちの生活の中に根本的な変化が起こります。わたしたちはもはや過去に行ったことを行うことができません。わたしたちは神ご自身に出会う時に自分自身を否む力を持ちます。神に出会う時に自己を否まないわけにはいかなくなります。神の現われは、自分ではやっていけなくさせ、もはや自分自身によって生きられないようにするのです。

神の現われは無尽蔵の力をもたらします。そのような現われはあなたの一生の行程を変えてしまいます。クリスチャンが神のために生きる力は、神のビジョンに基づいているのです! 主に仕えることはわたしたちの決定ではありません。わたしたちを神に仕えさせてくださるのは主なのです。祭壇を築くのはわたしたちの意志ではありません。祭壇を築くのは神が人に来られる時なのです。

 主に感謝します。神は現れる時に何かを語る必要がありません。しかし、多くの時、神は現れる時に何か言葉があります。神はアブラハムに現れた時に言われました、『わたしはあなたの子孫に、この地を与える』(創十五・十八)。神の現われはわたしたちを一つの新しい嗣業の中へともたらします。聖霊はわたしたちが将来、完全に獲得する嗣業の一部分として与えられているのです。今日、わたしたちが聖霊の中で受けているものは、将来、完全にわたしたちのものとなるでしょう。神のご計画が成就される時、わたしたちは完全な嗣業の中に入ります。」(ウォッチマン・ニー著、『祭壇と天幕の生活』、p.5-6)


 ニー兄弟が書いているように、献身とは、決して、今日、一般的に考えられているように、クリスチャンが自ら望んで、自力で自分を神に捧げる行為のことを指すのではない。献身は、神の現われに応じて自然に起こるものである。
 神がある日、私たち自身にはっきりと分かる形で、私たちの人生を訪れられる。そのようにして、私たちが自分に死なされる日は、常に向こうからやって来る。神の現われは、私たちを自然と内面的に倒れさせてしまう。ちょうど、ダマスコ途上で強烈な光によって倒されたパウロのように、私たちは、神の現われを見せられる時、自分が罪ある者として死んだように無力にされたことを感じる。

 その死を経て、起き上がった時には、私たちは復活のイエスの新しい命によって生かされており、自分の人生が根本的に変えられてしまったことが分かる。なぜなら、私たちはもはや、かつてのようにエネルギッシュに自分の願いや欲望の達成を目指して生きることができなくなってしまうからだ。あれほど活発であった自己は無力化されて、自己実現、自己満足、そういった類の、己を満たすための活動や、願いが、全て味気なく、魅力を失ってしまう。そういう事柄を思い浮かべるだけでも、むなしく感じられるほどである。

 そしてその代わりに、ただ神のために生きたいという、消えない願いが心に芽生える。主よ、どうかあなたご自身に、私を仕えさせて下さい。あなたと共に生涯を過ごさせて下さい! あなたのために、私はこの地上で何をすれば良いのか、教えて下さい。私の計画などもう要りません! あなたが教えて下さるのでなければ、あなたが許して下さるのでなければ、何事もいたしません。あなたからの答えがあるまで、私は一歩も動きません! 御心を示して下さい、あなたのためならば、私は命を失っても構わないのです! そういう祈りが自然に出て来る。それが、私たちに新しい嗣業が与えられたことの証である。

 新しい嗣業とは何か。アブラハムは目に見える約束の地での祝福を受けたが、今の時代において、私たちが受けるのは、「見えない約束の地」である「神の国」をキリストの御霊によって建設し、やがてキリストとともに支配し、天に朽ちない宝を積むという、はてしなく栄誉ある永遠へと続く仕事である。この約束の中で、最も輝かしい希望は、復活の体を持って再び来られるキリストである。この嗣業を受けた時から、私たちはその達成のために生きるようになる。

 だが、具体的には、一体、私たちが神の国にどのようにして貢献するのだろうか。もちろん、主が与えて下さるのでなければ、私たちは自分から何一つとして活動できないが、御国のための種まきの仕事は、時代によって、少しずつ、その形態と内容が異なるのではないだろうか、と私は思う。今日、そのような重要な話を、私はあるキリスト者とともにしていた。

 今日、一般的に、献身や召命の本質は、依然として、主に、活動内容にあると誤解されているが、実際にはそうではない。多くの人たちが、神に仕えるとは、何か特別な、見える働きをすること、特別な栄えある働きに従事することであると考え、それに参加しようと、積極的に志願している。あらゆる教団教派が、数え切れないくらいの国に、海外宣教師を競うように派遣している。どこの国に行っても、何らかのキリスト教的慈善団体が活動している。しかし、そんな事情のためにこそ、今日ほど、神の召しの本質がゆがめられている時代もないと言えるだろうと思う。

 たとえば、19世紀に献身し、中国伝道に生涯を捧げた英国人、ハドソン・テイラーがいる。彼はある時、神に出会い、そして、中国伝道への召しを与えられた。中国との国交もままならぬ時代、船での渡航、宣教は命の危険を伴うものであった。この時代には、多くの犠牲を払って、彼が中国へ到達することが本当に必要であった。彼はこの召しが心に与えられた時から、自分の生活が、宣教に耐えうるものであるように、訓練を開始した…。

 だが、現在、海外宣教をとりまく状況は、テイラーの当時とはあまりに異なっている。「ユビキタス・ネットワーク」がますます整備され、コミュニケーションの手段がますます時空間に制限されなくなった今の時代、海外宣教でなくとも、福音を宣べ伝えることそのものの意味も変わってしまっている。

 テイラーの当時は、宣教師が目的地へ行って、どれだけその地を実際に歩き回り、どれだけ多くの人々に聖書やトラクトを直接、手渡し、どれほど大勢の人々に向かって、直接、福音を語り聞かせることができるかが、宣教の決め手であった。それは常に命懸けの仕事であり、意義のある仕事であった。
 しかし、今は、便利なツールを通じて、24時間、あらゆる説教が世界中に配信されており、文明から置き去りにされたような非常に貧しい地域などの例外を除いて、ある意味、福音はすでに全世界に宣べ伝えられつつあると言える。さらに、大規模集会、クルセード、リバイバル集会、聖会といったものが各地で開かれ、海外宣教には、多くの惑わしも入り込んでいる。

 このようにして、福音に対する世界的なニーズの変化、聖書的に見た時代の変化、(さらに言うならば、背教の広がりのために起こった伝道の変質という事情)に伴い、今日、私たちが神の国のために種蒔く仕事が、100年以上も前の時代とは、いささか異なる内容になっていたとしても、不思議ではないものと思う。

 このように考えられないだろうか。今日ほど、私たちの「活動」ではなく、私たちの「死」が早急に求められている時代は、他にないのではないだろうか、と。今日ほど、私たちが何らかの外側の栄えある働きや、名誉ある地位に誘惑されずに、つまり、見える形での自己の達成を求めずに、ただ神の中に隠された命として生きること、神のためだけに生き、この世に死んでいくこと、見えるもの全てを拒絶して、見えない神の国をリアリティとして生きることが、御前に求められている時代はないのではないだろうか。

 私たちはとかく活動したがる。それが私たちの自己の本質から来る欲求だからである。私たちは片時もじっとしていられず、何らかの公的な立場や、立派な活動がなくては気が済まない。人が聞いて納得してくれるような仕事がなくては落ちつかない。そして、この世は私たちのそのような欲望を叶える手段には事欠かない。

 だが、実際には、そのような活動のほとんどは、(たとえ神のため、という名目であっても)、私たちの自己を殺すよりも、むしろ、延命させ、より活発化させることに貢献している。そこで結局、活動すればするほど、私たちの魂と肉が強められ、ますます神から遠ざかって行くという結果にならざるを得ない。従って、そのような栄えある数々の活動を求めるよりも前に、私たちはまず、神の御前での静まった生活(この世に死んだ生活)、神のために隠された生活、すなわち、神の御前で自分が全焼のいけにえとして死んでしまう暮らしを、徹底的に求めなければならない。祭壇とは、神のために、祭司が全焼のいけにえを捧げる場所である。そして、今日、全焼のいけにえとは、私たち自身のことである。

「全焼のささげ物が祭壇の上に置かれた目的は何でしょうか? それは完全に焼かれるためでした。わたしたちの多くは、自分を神にささげたのは神のためにあれこれ行うためであると思っていますが、神がわたしたちに求めておられるのは焼かれることです。

神は神のために畑を耕す雄牛を必要とされません。神は祭壇の上で焼かれる雄牛を欲しておられるのです。神はわたしたちの働きではなく、わたしたち自身を求めておられるのです。神はわたしたちが自分自身を神にささげて、神のために焼かれることを望まれます。

祭壇は神のために何事かを行うことを表徴するのでなく、神のために生きることを表徴します。祭壇は多忙な活動を持つことでなく、神のために生活することを意味します。どのような活動や働きも祭壇に置き換わることはできません。祭壇は完全に神のための生活です。

新約のささげ物は、完全に焼かれた旧約のささげ物のようでなく、ローマ人への手紙第十二章で言われているように生きた犠牲として体をささげることです。わたしたちは日々祭壇の上で焼かれますが、日々生きています。わたしたちは生きていますが、焼き尽くされます。これが新約のささげ物です。」(p.7)


 ウォッチマン・ニーは、上記の言葉を偽ることなく、実行して生きた。もしもニー兄弟が、人生の後半を、世界を忙しく飛び回る伝道者、宣教師として過ごしていたならば、極めて有能な人材になっていただろうことを疑う人はない。多くの魂が、彼のメッセージを通して、直接、救われたかもしれない。

 しかし、彼が選んだのは、それとはまるで正反対の道であり、福音を伝えるには、一見、極めて非合理的な方法だった。彼は活動を選ばなかった。彼はただ神のために焼かれ、神のためにこの世から隠されることだけを願った。そして20年間の獄中生活を通して、全焼のいけにえとして自分自身を捧げきった。たった一人の家族からも引き離され、福音を語ることもできず、食事も満足に取れず、所有物も制限され、外界と接触することもできない、極めて不自由な監獄と収容所の囲いの中で、死に際しても、無実の罪のために拘束されたまま、釈放されず、看取ってくれる者もないままで、有望な人生の極めて重要な月日を、外面的にはただむだに過ごしながら、神にだけ捧げきった。彼の地上での天幕の中には、死に際して、所有物はほとんど一つも残らなかっただろう。彼は自分に死んで、徹底的にこの世を否んだが、それによって、見えないリアリティであるキリストを得た。彼は見えない御国の中に、見える自分の宝を全て移し変えたのだとも言える。彼の献身と召しとを完成させているのは、彼の活動ではなく、彼の不断の死である。

 私たちが今日、献身や召命のイメージを思い浮かべる時、それは、きらびやかに注目されて、大々的に活躍する宣教師や、伝道者や、牧者のイメージではなく、まさに獄中に閉じ込められたニー兄弟のイメージであるべきだろう。神のために生きるとは、私たち自身が、神のために全焼のいけにえとして焼かれるために、自分自身を差し出すことに他ならならない。

「主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。」(Ⅰペテロ2:4-5)


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