キリストと共に昇天する

2009年11月 2日 (月)

キリストと共に昇天するとは

 十字架においてイエスと共に死ぬこと、イエスの復活の命によって新しく生きること、それはもちろん、クリスチャンが日々、経験しなければならないことであるが、大まかなプロセスとしてみるならば、確かに、私はその二つの経験を与えられた。ある日、御霊の光によって、私はそれらを経験的にはっきりと理解させられた。

 この経験は、ちょっとやそっとでない変化を私にもたらし、私を永久的に、完全に、内側から変えてしまった。それまで、私は自分が状況次第ではどんな大罪でも犯しかねない人間だと感じてきたが、それ以後、あからさまに罪を犯すことは全くできなくなった。私の魂はあらゆる傷から解放されて、健康になり、肉的な悪習慣は、跡形もなく消え去った。私は今や御霊の制限の中を生きており、かつてのような罪と死の法則性には二度と戻ることができなくなったのをはっきりと感じる。

 だから、W.ニーが随所で述べているように、御言葉が光となって人の内側を照らす時、光は人の中で死ぬべきもの(=旧創造に属する部分)を永久に殺してしまうということが分かる。この変化は、ある人が一旦、やめると宣言した悪習慣に、時が経てばまた逆戻するような、優柔不断で曖昧な変化ではない。上から来る光は、照らすと同時に、殺す力を持っている。御言葉は、肉なるものを切り分けると同時に、永久にそれを殺してしまう。だから、この先、私が自ら光を捨てない限り、私はかつてのように肉に支配されることはないだろう。

 暗闇にいた人が、光の下で、徐々に目が慣れて来るように、私は、何が肉であり、何が魂であり、何が霊であるのか、おぼろげながら、見分けられるようになった。たとえば、魂から出た愛情や、善意は、たとえどんなに美しく見えようとも、全て腐敗しており、希望がないこと、御霊によって生まれたものだけが、真のリアリティであることが理解できる。周囲で起こっていることを見ても、何が魂の活動であり、何が霊の活動であるか、その微妙な境目を、少しずつ、識別できるようになった。

 それに加えて、少しずつ、御霊による支配が始まった。内なるキリストが、直接、私を通して、状況に働かれたという他には、全く説明のつかないような出来事が、さまざまな場面で起きた。キリスト者の内に住まう聖霊が、確かに生きて力強く働かれることが分かって来たのである。

 だが、決してそこで私は完全になったわけではないことがよく分かる。新しく生まれたとはいえ、その新しい内なる人はあまりに力なく、弱すぎることが大きな問題だ。もはや暗闇の中を歩んではいないとはいえ、依然として、この世や、暗闇の権威に打ち勝ってもいない。暗闇からの圧迫は、予期せぬ事件や、突然の身体の不調、不安を煽るような状況などとなって、波のように寄せてくるが、それに対して私は、よくても受け身、悪い場合には、ただ敗北(後退)を繰り返している。

 この無力さは、昇天(または御座につくこと)を経験していないせいではないだろうか。資格の上では、すでにキリストと共に御座についているはずであるが、それがどういうことなのか、私は実際に経験したことはなく、「キリストと共に統治する」ということの意味を、実際には知らない。だが、昇天の経験は、暗闇に勝利する生活を送りたいクリスチャンにとっては、なくてはならないものだ。
 以下は、W.ニーからの引用。

復活の後に来るものは昇天です。昇天は、復活の後の極めて重要な真理です。昇天がなかったら、わたしたちの『新創造』は完成した働きではなくなります。わたしたちは主イエスを信じた瞬間、十字架や復活などのすべての真理同様、昇天を受けます。

わたしたちが主を信じた瞬間、神はわたしたちにまだその経験がないにもかかわらず、わたしたちを昇天の地位に置かれます。昇天の経験は復活の経験に続きます。もしわたしたちが本当に主と共に復活し、彼の復活の命に結合されたなら、わたしたちはこの地上で絶え間なく実を結ぶでしょう。また、わたしたちの霊的生活はもろもろの天にまで引き上げられるでしょう。

 神は『キリスト・イエスの中で、わたしたちを彼と共に復活させ、彼と共に天上で座らせてくださいました』(エペソニ・六)。復活があれば、ごく自然に昇天があります。すべてのクリスチャンはこの昇天した生活に到達しなければなりません。主イエスは死人の中からよみがえって神の右に座られ、『すべての支配、権威、力、主権……唱えられるあらゆる名を超えて、はるかに高くされました』(エペソ一・二〇―二一)。

昇天の生活とは、サタンのすべての権威と力とに打ち勝つ生活です。昇天の経験を持つ前には、わたしたちは、ただ肉、罪、この世に対して勝利を持つだけです。わたしたちが昇天の中にある時、すべての支配、権威、権力、権勢、統治と暗やみを支配するあらゆる名との戦いを経験し、そしてその戦いにおいて勝利を経験します

わたしたちの霊と魂が完全に分けられた時、わたしたちの霊が復活を経て完全に解放された時、わたしたちがもはや魂の感情と思いによって影響されなくなった時、すべての環境とこの世の事物に超越している時、わたしたちは昇天の生活に達することができます。昇天の生活に達した聖徒たちは御座から物事を見る目を持ちます。彼らは何物にも影響されない経験を持ちます。…」
(ウォッチマン・ニー著、『創世記を黙想する』、日本福音書房、p.100-101)


 もし、十字架の死、復活と、それに続く昇天の経験がなければ、クリスチャンが、キリストの王国の勝利と支配の前味を経験することはできないだろう。私の前には、たとえば、職業の問題、経済の問題が立ちはだかっているが、それはただ私一人が何とかして命をつなぎとめるために乗り越えるべきものではなく、私を通して、キリストに支配していただくための一つのきかっけである。ところが実際には、どうだろう、時代の趨勢は、私の属する世代にとっては特に、悪化の一途を辿っているが、私はその状況に対して、翻弄されるだけの弱い受け身の立場であり、少しも、御心に堅く立って支配するというところには至っていない。

 以下はあるキリスト者のメールの部分的抜粋。
* * *
あなたの「キリスト者の職業観」、
確かに捨て去りがたいものがあると思います。
何か、これから上からの託しがあるのかもしれませんね。
それについて、キリスト者の信仰のありかたや、
またある真理へと導かれるかも知れません。
 
だから、それについて とにかく直接 
神の門を叩かれるようにと希望しております。
神が直接 あなたに教えられるように!
   
多分 神が今 私達に 多くの物質の中で暮らさせている目的は 
私達が見えない神の敵のみならず
「総ての物質をも支配出来る命」 に対する信仰 のためでしょう。
 
神は私達に
当初のアダムのように、
今、総ての生き物、物、また「者」即ち 「地を這う生き者」を
総て支配させたいのでしょう
アダムの場合、そのために 「先ず」神は
エデンに彼らを置かれたのかも 知れません。
私達は 今とてつもないスケールの中で、そのところに
置かれているのでしょう。
 
その為には多分 私達が「魂を捨てる」と言う学課は
極めて重要なキーとなるはずです。
それは ただ「彼」をして 総てを支配させるため 
なのだと思います。

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