キリストと共なる十字架における自己の死

2018年8月25日 (土)

日々の十字架を負う意義――わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。

これまでの記事の中で筆者は、嘘にまみれた世界の中で、公正、真実、誠実さを追い求めることが、命を救う鍵となるだろうと強調して来たが、実際にその通りの原則が、筆者の人生において成就している。

もちろん、真実なるお方はキリストただお一人なのだが、キリストは目に見えないお方であるがゆえに、私たちは現実生活の中で、ただぼんやり天を仰いで待つのではなく、自分自身の力で、何が本当であるかを判断し、限りなく、真実性のあるものだけを選び取って行かねばならない。
 
今、何が本当であるかを着実に見分け、真実だけを選び取って行かなければ、命取りとなるような時代が到来している。真実と虚偽を見分けることができるかどうかで、人の命運が分かれるのだ。

たとえば、これまで、筆者に向かって色の良いことを約束しておきながら、その約束を実行せず、いわれのない損害を与えようとする人々は、数多く現れて来た。(これは本当のことである。)しかし、その中には、見るからにいかがわしい似非宗教指導者や、求人詐欺を働く悪徳企業のような、初めから誰にでもそれと見分けられるどうしようもない組織やリーダーたちだけが含まれていたわけではない。

残念ながら、そこには、筆者にとって非常に親しい身近な大切な人たちの嘘の甘言も含まれていたのである。

今から少し前、筆者がある問題の解決に悩んでいた頃、「私が必ず力を貸してやる」と申し出た人がいた。その人は身近な人間であり、長いつきあいのある存在であった。

その人は言った、「ヴィオロンは私にとって非常に大事な人間だから、必ず、約束を実行する」と。

ただし、その約束は次のような注釈つきだった。「明日、ある人だけにはこのことを相談しておきたい。私はその人の了解なしには行動できないから」。

そこで、筆者は即座に答えた、「あなたは私よりも年長なのに、未だ自分のことも一人で決められないのでしょうか。ほかの人と相談すれば、あなたは必ず心を翻すでしょう」

その人は言った、「そんなことはない。私がそんなにも簡単に自分の約束を破ると思うか。私がヴィオロンのことをそんなにも軽んじていると考えるのか」

筆者は礼儀上、その言葉には何も答えないでおいた。その人はそれを筆者の同意だと思ったのか、我が意を得たりとばかりに満足そうだった。

しかし、その人は筆者と長いつきあいがあるとはいえ、信仰は全く共有しておらず、信仰面では筆者とはむしろ、正反対の立場に立っていた。そこで、筆者は、その日が来るよりもずっと前から、内心ではうすうすその人と筆者との運命は間もなく完全に別れるだろうことを予感していた。おそらく、この会話が最後の試金石になるだろうと感じていた。

その人は案の定、その翌日、まだ舌の根も乾かないうちに前言を翻し、約束は反故にしたいと通告して来た。だが、筆者は、そうなることを予想済みであったので、何のショックも受けず、静かに言った、筆者の方でも、すでに別の解決ルートを見つけたので、助けてもらう必要はなくなったと。

その人が、筆者にあたかも大きな力を貸すかのように述べたのは、筆者の生活であるイベントが予定されていた前日のことであった。もしもその大事な時に、筆者がむなしい約束を信じて、その助けを当てにして、予定通りに行動していたなら、筆者の人生は大きな損害を受けたかも知れない。

だが、筆者はこれまでの経験則から、その人がどんなに筆者にとって身近で大切な人間であっても、一切、信仰を共有することもできず、同じ立場に立っていない人から助けを受けることは決してあり得ないと知っていた。

そこで、そのような人間の約束を、信じず、当てにもしていなかった。むしろ、その人が筆者を必ず助けると言った言葉を聞いた直後、筆者は物事を熟考し、速やかに、その助けを一切、当てにしなくて済む方法に行動を切り替えた。そうでなければ損害を受けていたのは間違いのない事実である。

このように、どんなに感情的には身近で親しい人間に思われる人の言葉であっても、信仰に基づかず、真理に立っておらず、誠実さや真実性に欠ける行動ををしている人間の述べた言葉は、すべて当てにならないものとして、退けなければならない。その原則を筆者はこれまで幾度にも渡って学ばされていた。

人情に働きかけられたり、おだてられて心をくすぐられたりして、自己満足することによって、信じてはならない言葉を信じれば、取り返しのつかない害をこうむるだけである。

これまで筆者の人生において、真実を見分ける力を養うことは、まだまだ小さな予行演習の繰り返しのようであったが、社会全体が、どっぷりと海のような嘘の中に浸かるに連れて、嘘を退け、何が真実であるかを見分ける力は、死活的重要性を帯びるに至っている。

繰り返すが、ただ自分の感情にとって心地よく好ましく感じられるものだけを信じ、選び取ってていたのでは、ただちに死に直結し、生きられなくなる時代が到来しているのである。

さて、以上とは似ているようで、また別の話がある。

最近、筆者はある事件で協力を得るために、かつての信仰仲間の幾人かに、久方ぶりにコンタクトを取ってみた。すると、そのうちの一人の身に悲しい事件が起きていることが分かった。

悲しい事件と言っても、本人には全くその自覚がないから、そう思うのは筆者だけである。

その人は、事件への協力を約束したが、その際、あたかも筆者の健康を気遣うような口調で、熱心に電位治療器の無料体験を勧めて来た。

あまり熱心に勧めるので、直接、会うついでに寄ってみようと、筆者はその人の案内で体験会場を訪れてみた。

しかし、会場の入り口に「ハピネス」などと書いた怪しげな旗がひらめいているのを見た瞬間に、筆者の心の中では「あ、これはヤバイな」という警告が鳴り響いた。

体験会場の中に入ると、「一般社団法人ハピネス」という、宗教団体とみまごう組織名が掲げられている。
   
いくつもの椅子が並べられた会場を見回すと、そこには老人ばかりが集まり、まるで病院の待合室のようであった。

会場に並べられた粗末な椅子に置いてある座布団が、電位治療器の役目を果たしているらしいが、そこに集まった人々は、まだ何かが始まる前から、この電位治療器のおかげで、劇的に歩けるようになったとか、病気が治っただとか、ありとあらゆる奇跡物語を「あかし」していた。知人はすっかりその気にさせられている様子だったが、筆者はそれを聞いてますます「ヤバい」と感じた。

そうこうしているうちに、若い販売員が登場して、老人たちの前でパフォーマンスを始めた。そして、「この電位治療器には、病気を治癒する力はありませんが、体の調子を整えることができます。体の調子を普段から整えておくことで、将来的に、がんになったり、深刻な病気にかかるリスクを減らすことができるのです…。ついこの間も、30代の若い女の子が、病気の予防に役立つならと買ったばかりですが、今ならキャンペーン価格で…」などと語り始めた。

キャンペーン価格と言えども、65万円は下らなかったように記憶している。庶民が思いつきで手を出せる値段ではない。しかも、販売員がのっけから「がんのリスク」などと、明らかに人の不安や恐怖を煽るような話を始めたことに、筆者は非常な不快感を覚えた。

筆者は心から病気を憎んでいる。筆者がここへ来たのは、病気の話など聞かされるためではなく、暗闇の勢力にいかに勇敢に立ち向かって、それを撃退するかという問題を話し合うのためであった。こんなくだらない話につきあっている暇はない。

やたらと人を不安に陥れる脅し文句を並べ、何一つ科学的な証拠もないくせに、この電位治療器を使ってさえいれば、まるで将来的に病気のリスクを低減でき、がんにかかる可能性を減らせるかのような、眉唾物の話んは、筆者は心の底から憤りを覚えずにいられなかった。

しかも、会場の電気椅子(いや、電位治療器)に座っていると、筆者はドキドキして来て、嫌な感じを覚えた。むろん、警戒していたためもあるだろうが、そもそもペースメーカーを使っている人は、使用できないなどの説明を聞いても、明らかに、これは人体に不自然な刺激と圧迫を加えるものであると分かる。

仮にこの電気椅子にほんのわずかでも治療の効果が認められるのだとしても、このような外的刺激に頼らなければ、健康を維持できないほどまでに弱体化した人間にはなりたくないと強く思った。

だが、何よりも、筆者が違和感を覚えたのは、その体験会場に来ている人々が、することもなくぼんやり受け身に椅子の上に座って、販売員の説教を待っているだけであることだった。

本当に困っている人たちは、寸刻を惜しんで働いており、こんなところで時間を潰している余裕はない。志の高い人は、同じ時間を使って、社会運動にでも参加するだろう。それなのに、この人たちには、他にすることが何もないのだろうか。

病気のリスクを減らしたいなら、同じ時間を使って、家で体操でもすれば良い。ジョギングでもマラソンでもウォーキングでもして体を鍛えれば良い。そもそも、この人たちの家庭には、彼らの優しい心遣いや、世話を待っている家族はいないのか。泣いている孫や、赤ん坊はいないのだろうか。

おそらく帰宅すれば、彼らの温かい配慮や世話を待っている家族の一人もいるはずであり、その他にも、社会のためにできることはいくらでもあるはずなのに、それらすべての問題を差し置いて、自分の体のことばかりを心配し、こんなところで受け身に座っていれば、ますます筋力は衰え、知性も後退し、他人にお膳立てしてもらわなければ、何もできない無能な人間になって行くだけである。そんな方法で病気を防げるなどと本気で信じているなら、まさに愚の骨頂だ。

筆者は、眉唾物の怪しげな奇跡体験談が飛び交ういかがわしい会場に、一刻たりともとどまる気がせず、販売員の話もそこそこに、知人を無理やり外に引っ張り出すようにして会場を立ち去った。筆者がそこにいたのは、わずか5分から10分くらいだっただろう。

その後、筆者はその知人に向かって説いた、これはほとんど宗教で、霊感商法と同じだ、こういういかがわしい商売に関わるのは危ない、と。

しかし、その知人には全く効き目がなかったようであった。

それでも、しばらくの間、その知人とは連絡を絶たなかった。そのうちに、再び、ひょんなことから、会話の中で電位治療器の話が出て来た。

筆者はその会話の中で、キリストの十字架の贖いこそ、私たちの完全な命であって、救いであるのに、昨今、キリスト教徒を名乗りながらも、あからさまに聖書66巻は神の霊感を受けて書かれた書物ではないなどと否定して、自ら神の救いを拒んでいる、呆れるような人々がいる、と述べた。

そして、その話のついでに、知人に向かって、やはりあの電位治療器の無料体験に通うのは早くやめた方がいい、科学的にも十分な実験が行われたわけでないのだから、どんな副作用や禁断症状が伴うかも分からない。依存状態になる前に、こういう外的手段に頼らず、自分の命の力だけで、健康を維持できるようにした方が良い、と語った。

すると、知人からは、思わぬ拒否反応と共に、驚くべき叱責の言葉が返って来たのである。

「ヴィオロンさん、あなたは何も分かっていない。あなたはほんのわずかもあの体験会場にとどまらなかったくせに、試してみるよりも前から、電位治療にはどうせ効果なんかないと決めつけている。そんなあなたの態度は、まるで聖書66巻は神の霊感を受けた書物ではないと、聖書を読むよりも前から決めつけて、救いを拒んでいる人たちと全く同じだ!!」

「はあ? 一体、何を言っているの!?」

筆者は驚いて問い返した。

「まさかあの電位治療器に、キリストの救いや聖書66巻と何の関係もあるわけないでしょう?」

「いや、同じだ! あなたは救いがあるのに、救いなんてない、聖書なんて信じない、と救いを自ら拒んでいる人間たちと同じだ!!」

筆者は鳩が豆鉄砲を食ったように驚き呆れると同時に、これは重症だ、手遅れかも知れない、という手ごたえを持った。

孤独な老人が、販売員の親切そうな口調や、無料体験会場の賑わいに釣られて、電位治療器にはまりこむのはまだ分かるとしても、かつてキリスト教徒だった人の口から、その電気椅子があたかもキリストの救いと同等であるかのような言葉を聞かされるとは、こんな商売がまっとうなものであるはずがないという確信が込み上げて来た。

「あれはただの電気椅子でしょ。それなのに、どうしてそれを聖書とか、神の救いと同列に並べられるわけ。しかも、あれを試さないからと言って、何で私が救いを拒んでいるということになるわけ。

もしそういう理屈が成り立つならば、同じような椅子が、他にもたくさんあるはず。試せというなら、全部試して、見比べてみるべきじゃないの。他の椅子を知らないし、よく知りもしないくせに、あれだけが救いみたいに決めつけてるのは自分でしょう?」

「そりゃ、全部、試したわけじゃないから、他にももっと良いものはあるかも知れないけど…」
と知人は口ごもる。

「そうでしょう? でも、それを言い始めたら、電気椅子だけじゃなく、青汁や、サプリメントや、マッサージ器や、その他、ありとあらゆるものに、それなりの効能があるはずでしょう。TVをつければ、通販番組で、いくらでも奇跡体験を聞ける。あなたはそういうものをいくつ試したわけ。他のを十分に試してもいないのに、どうしてあの椅子だけにそこまでこだわるの?」

「自分で試したから。あれが効くって分かったんだよ」

「呆れた。騙されてるだけだって、分からないわけ」

「騙されてなんかいない。何も買ってないし」

「買わなくたって、宣伝係として大いに利用されてるじゃないの」

「だって、歩けなかったのに、歩けるようになったって言ってる人にも会ったし。それを否定するの?」

「馬鹿馬鹿しい。そんな話はベニー・ヒンの大会で病気が癒されたとか言ってる奇跡体験と何も変わらないじゃない。そういう『あかし』を聞かされただけで、証拠もないのに飛びついて信じるの? 何度、騙されたら学習するわけ?」

「きついなあ。ヴィオロンさんだって、今はそういうことを言っているけれども、十年後には、体が弱くなって、考えが変わるかも知れないよ」

「馬鹿なことを言わないで。十年経っても、私の考えは変わらないから」

「いつまでも健康でいられないかも知れない。がんになるかも知れないよ?」

「いい加減なこと言わないで。ほらね、もう脅しが始まった。あのお兄さんが会場で言っていたことを、あなたは受け売りしているだけじゃない。だって、言ってたものね、がんのリスクを減らせるかも知れないとか、云々。

あなたはそういう話を聞いただけで、愚かにも真顔で信じ込んで、都合よく利用されて、会場のサクラにされた上、電気椅子の伝道師にまでされちゃったんだね。

でも、私にはそんな伝道は要らない。私には癒し主であるキリストがすでに着いておられるんだから、病気を恐れる必要なんてないし、ましてあんな訳の分からない椅子にすがりつかなきゃいけない理由もない。

まことの命であり、健康そのものであり、すべての問題の解決である方が、すでに内におられるのに、何のために、あんなあの世の待合室みたいな会場の椅子に、救いを求めて通わなくちゃいけないの。

毎日、あんなところに通わないと健康を維持できないと思い込んでるなら、それはまるで教会に通っていないと救いを失うと脅されて、日曜ごとに教会のベンチにしがみついている信徒と同じじゃないの? そういう信仰生活はもう卒業したんじゃなかったの?」

「・・・」

「私から見れば、あなたはあそこで大勢の人たちと会ってちやほやされて、孤独を紛らし、自分の健康を心配してもらうことと引き換えに、すっかり洗脳されちゃって、病気の治療どころか、病気を受け入れさせられてることが分からないんだね。

人の人生では、自分で信じたことが本当になるんだよ。病気になるかも知れないなんて言われて、それを真に受ければ、本当にその通りになるだけだよ。しかも、がんになるかも知れないと言われて、大真面目に信じて電位治療器を買うのは、先祖の祟りと言われて、壺を買うのと同じだよね。

でも、言っておくけど、先祖の祟りは、壺を買ったくらいでは、きっと免れられないよ。一つの脅しを受け入れれば、次から次へと新たな脅しがやって来るだけだよ。壺では終わらず、さらにもっと高価なものを買わなくちゃいけなくなるだけ。同じように、がんのリスクは、あんな電位治療器なんかでは、防止できない。あのお兄ちゃんだって言ってたじゃない、電気椅子には、病気の治療の効果はないって。

だから、あなたは存在しない幻の解決と引き換えに、現実の巨大なリスクを引き受けさせられているだけなんだよ。本当の目的は、治療の効果もない機械と引き換えに、がんになるかも知れないっていう恐れを現実のものとして引き受けさせることにあるんだよ」

「・・・」

「だから、病気や祟りの脅しなんて、聞いた瞬間に、断固、拒否しなくちゃいけないわけ。しかも、私たちには真実な救いが与えられているから、そういう恐怖で脅される理由はないって分かっているはずなのに、あなたはあんな低次元な脅しを拒否しないどころか、私にまで恐怖を広めようとしているの?

でも、そもそもがんがどれくらいお金がかかる病気か、あなたは本当に考えたことがある? 電位治療器も買えない人が、そんな病気とおつきあいしてる余裕があるわけ? 自分の生活を考えたら、がんなんて病気と仲良くしている余裕は、最初から全く存在しないってことが、自分で分かるんじゃないの。そんな病気、お呼びじゃない。早期発見してみたところで、仕事も休めないし、残業しないと生きられない人に、どうやってそんな病気の予防策にお金を投じている暇があるの。誰がその間、面倒をみてくれるの? そんな病気、かかっただけで一貫の終わりだよね。そんな病気のことで、四六時中悩んでいられるような人たちなんて、あそこに来ている老人みたいに、ほんの一握りの恵まれた人たちだけだよ。私に言わせれば、まさにぜいたく病みたいなもの。

それでも、あなたがどうしてもそんな眉唾物の話を本気で信じて、私にまで布教したいって言うなら、まずは、あの椅子を自分で買ってからにすればいい。どうせあなたが言っている『試さないと分からない』なんて台詞は、無料お試し体験程度でしょう。

そんな中途半端な体験で、知ったかぶりされても困るんだよね。ちゃんとローンでも組んで機械を買って、自宅で毎日長時間試して、博士論文くらいのデータを集めてから、人にものを言いなさいな。中途半端にしか試してない人間から、中途半端な説教を受ける気は私にはないから。そんな薄っぺらい無責任な言葉と態度で、人を説得できると思ってることが大間違い、というか他人を馬鹿にしてるんだね。

あなたがその霊感商法と手を切らないなら、この交わりもこれで終わりにしましょう」

この説得の言葉を聞いても、知人はまだ筆者の考えが間違っていると確信していたらしかった。

電気椅子はそれほどまでにその知人の心をとらえ、もはや心の王座を占めていると言って良く、それに比べ、筆者のような人間は、あの会場のサクラの一人程度にしか見えていなかったのであろう。知人が誘えば、筆者もあの機械に病みつきになると本当に思われていたのだとすれば、随分と軽くみられたものである。

ところが、サクラでなければならない筆者から、電気椅子を捨てなければ、交わりは終わりだと宣告され、知人はよほど腹に据えかねたのか、その後、自ら信仰の交わりを絶つと言って来た。

しかし、それには「あなたとはこれまで互いに信仰的見解が最も近いと思っていたので、とても残念だ・・・」という未練がましい注釈と、さらに、電気椅子はやめない代わりに、これから当分の間、信仰告白をやめさせてもらう、と挑戦的な捨て台詞のおまけがついていた。

それは筆者が、この知人に向かって、人前で神を拒む人間を、神も拒まれると聖書にあるから、困難があっても、公に信仰のあかしを続けることはとても重要だと思うと語った直後のことであった。

ああ、やっぱりな・・・、と筆者は思った。 恐るべし、あれはただの電位治療器ではない。この知人が、筆者の前で、電位治療器などというこの世のガラクタを、聖書66巻やキリストの救いになぞらえて語ったことは、偶然ではなかったのだ。

その知人にとって、あの電位治療器は、まさに「踏み絵」の役割を果たし、信仰を棄てる契機にまでなってしまったのだ。

そんな人間から、「信仰的見解が最も近いと思っていた」などと言われたことに、筆者はただただぞっとして冗談はやめてくれと薄気味悪さを感じるだけであった。

さて、この電位治療器については、ほんの少しネットを検索しただけでも、筆者と同様の意見がたくさん見つかる。

ネットでは、筆者が目にした高額で販売されている電位治療器は、原価5万程度の代物でしかないと言われている。さらに、売り方にあまりにも問題があることは、数多くの場所で指摘されている。

「治療の効果があるわけではないが、体の調子を整えることで、がんの予防にもつながる」などと、正式に認められてもおらず、科学的に一切証明されていない効能を無理やりこじつけのように謳ってアピールするなど、違法すれすれの説明である。

しかも、販売員が奇跡体験を語ると違法になる恐れがあるため、無料体験会場には、予めサクラと思われる参加者が仕込まれ、その参加者の口から「これを使ったら、歩けなかったのが、歩けるようになった」とか、「病気が治った」などと、奇跡の「あかし」をさせることで、眉唾物の「福音」を口コミで広めて行こうとする念の入れようである。

老人や病者の孤独や弱みにつけこみ、親切心を装いながら、人々を食い物にする悪徳商法には、強い憤りを感じるが、それと同時に、筆者が思うことは、以下に引用する記事にも書かれている通り、それにひっかかる人間の側も、どうしようもなく愚かで無責任で自己中心で能天気な阿呆だけだということだけだ。

それでも、福音を知らないならば、まだ弁護の余地もあるかも知れないが、最も救いようがないのは、キリストの福音の価値を自ら知っていながら、天の御座に憧れるのではなく、あのような地上の安物の電気椅子に心を奪われ、その無料体験ごときを、キリストの救いと取り替えた人間である。これでは、まるで一杯のレンズ豆のあつものと引き換えに、長子の権を売り払ったエサウとほとんど変わらないではないか。

筆者は、暗闇の勢力との闘いの中で、少しでも力を借りられないかと思ってその知人に声をかけたのであったが、あまりにも愚かすぎる結末に、開いた口が塞がらなかった。

大体、自分の体の心配、自分の健康の心配、自分の必要性、自分の快楽・・・、そんなことばかりを四六時中、気にしているから、最後にはこういう結末へ引っ張られて行くことになるのだ。

四六時中、自分の心配ばかりをしているから、最後には椅子から全く動くことさえできなくなり、ついには立ち上がることもできなくなって、病が癒されるどころか、病に倒れて終わるのである。あれはただの椅子ではない。肥大化したセルフの玉座である。

しかも、電位治療器に正式に認められている効能とは「頭痛、肩こり、慢性便秘、不眠症の緩解」だけであるらしい。

だが、「頭痛、肩こり、慢性便秘、不眠症」などは、取り立てて大騒ぎするような不調ではなく、まして高額な治療器を使ってまで早急に撃退しなければならない深刻な病ではない。

誰でも、悩み事が生じれば、夜も眠れないほど考え込んだり、頭痛や肩こりを覚えたり、食欲もなくなり、体調も一時的に悪化したりもするだろう。

だが、それは一過性のことだ。それなのに、一体、いつから、人にとってそのような一時的で些細な悩み苦しみまでが、あってはならないもののようにみなされ、不眠や肩こりや頭痛までが、あるまじき重大な病のようにみなされるようになったのか? 

しかも、「がんになるかも知れない」などという、手に負えない巨大な病のリスクを引き受けることに比べれば、頭痛や肩こりといったほんの些細な痛み苦しみを黙って甘んじて受けることは、はるかにたやすいことではないのだろうか?

それなのに、ほんの些細な悩み苦しみをも、あるまじきことのようにみなし、ほんの少し、自分が痛み苦しみを負わされたくらいのことで、まるで重大事件が起きたかのように大騒ぎし、四六時中、我が身可愛さから、自分の体、自分の健康、自分の感情、自分の感覚のことばかりを話題にし、ほんの些細な体調不良にも神経質に騒ぎ立てて早急に手を打たねばならないと走り回り、朝から晩まで常に自分の体のことだけを心の中心に据えて生きているから、その不安につけこまれて、経済的に損失を負わされるだけでなく、巨大な病のリスクまでも引き受けさせられるはめになるのだ。

聖書は言う、

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」(マタイ16:24-27)

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」(Ⅱコリント4:16-17)

私たちの「外なる人」が衰えて行くことは、避けようのない事柄である。私たちは内に復活の命をいただいてはいるが、あくまでそれを土の器の中に抱えており、常に外なる人の限界に脅かされている。

しかし、そのために生じる痛み、悩み、苦しみなどは、実に些細なものであって、一時的な軽い艱難でしかない。地上での生涯を立派に耐え抜けば、その艱難とは比べものにもならない天の栄光が約束されているのだ。

そのようなわけで、キリスト者にあっては、地上における一時的な軽い艱難は、有益な実を生みこそすれ、無駄になることはない。ところが、そんな些細な艱難さえをも、甘んじて負うことを避け、常に自分にとって心地よい快楽体験ばかりけを追い求め、朽ちゆく自分の地上の命を惜しみ、これを大事に握りしめて手放さず、生まれながらの自分を永遠にまで永らえさせることを考えていれば、最後にはその命すらも失って、どん底に突き落とされて終わるのが関の山だ。

もともとその命は有限で、どんなに工夫しても永遠に永らえさせることなどできはしない腐敗したアダムの命なのだから。その命にしがみつく者が呪われたり、罰せられたとしても仕方がない結末である。

何がハピネスだ。もしこんな薄っぺらい幸福が、幸福だというなら、筆者はそういう幸福は要らない。

人間の幸福は、ただ喜びや快感だけでなく、悲しみや悩みや痛み苦しみと相合わさって絶妙に美しい織物のようになっている。私たちは、主の御手から恵みだけを受けとるのではなく、艱難をも甘んじて受け取るべきである。

そして、神が私たちを悩み苦しみを通しても、練り清めて下さり、私たちの思いのすべて知って下さり、必ず、問題には解決を与え、ふさわしい時にそれを取り除け、苦しみをも、栄光に変えて下さることを信じて、外からの助けにすがらず、ただ内におられるキリストの命の力だけによって、すべての危機を乗り越えて行く方法を学ぶべきなのである。

それなのに、一体、どうして、キリストの十字架における永遠の救いと、神の霊感を受けて書かれた書物である聖書66巻を、たかが電位治療器ごときと引き換えにできようか。

去って行った知人の後ろ姿を見つつも、筆者は、やはり、このような商売は、憎むべきものであって、何があっても関わりたくないし、こんなもののために貴い救いを失うなど、あまりにも愚かすぎる結末だと思うことしきりであった。
 

憎むべし、電位治療器。憎むべし、悪徳商法。」から抜粋

「ネット上で、私はこんなに効果がありました!と鼻息を荒くしている人がいます。
こういう人たちには、きっと悪意はないのでしょう。
自分が良くなったのだから、純粋な好意から、他人にもすすめたい、と。
しかしその好意は、周囲にとっては迷惑で、無責任なものでしかありません。
効いた原因もろくに説明出来ず、厚生省の認可も受けていない。
そんなものを、”たまたま自分に効果があった”からといって、他人に勧めるというのは、
極めて無責任で、能天気で、浅はかで、滑稽で、馬鹿で、救いようがない。
ある意味では幸せとも言えますが。
こういう図式は、カルト宗教にも良く似ています。

高齢者を集め「がんが治る」などと宣伝していた電位治療器の販売業者」(国民生活センター)から抜粋

「本件業者は、体験会場へ大勢の高齢者を集めて、「血圧を正常値に戻す」「がんが治る」などの効能・効果をうたい電位治療器を販売していた。会場でビデオを見、病気が回復したという人の話や業者のもっともらしい説明を聞き、病気を抱える高齢者は効果を信用し契約した。

当該治療器は医療機器承認番号を取得していたが、効果として表示できるのは「頭痛・肩こり・不眠・便秘」のみであった。

消費者契約法や薬事法に抵触する販売方法と思われることから、当センターは、信販会社に、加盟店の指導を十分行うよう申し入れた。

 また、本件のようなケースでは、仮に、業者が消費生活センターの相談員や相談者を訴えたとしても、逆に、業者に対して不法行為による損害賠償請求の訴えを提起することが可能であろう。


ダマされないぞ!インチキ商法! (悪質商法データベース)」から引用

分類

薬事法における管理医療機器(クラスII)に分類される。認証基準に適合する製品に関しては頭痛、肩こり、慢性便秘、不眠症の緩解が効能効果として認められる。

注意点

上記のとおり、頭痛、肩こり、慢性便秘、不眠症の緩解については薬事法により効能効果が認められているが、その他の効果については法的に認められているわけではない。パワーヘルスの例に見られるように、これ以外の効果(たとえば、糖尿病・高血圧・ガンの治癒など)を公的に求められた効果として謳って販売した場合、違法行為とみなされる。

 

2018年4月 4日 (水)

「生み生まれる天然の関係」に、十字架の霊的死が適用されなければ、人は神の宮として生きることはできない

前回では、三島由紀夫の『金閣寺』には隠れた霊的プロットがあることを見て来た。すなわち、金閣寺とは、深い文脈では、神の宮として作られた人間自身のことを指しており、人間が本来あるべき状態を取り戻したときの理想的な姿を象徴的に表していることを見て来た。

この物語の主人公は、吃音という(より深い文脈では人類の罪を象徴する)問題を抱えているため、恥や不完全さとコンプレックスの意識に絶えず苛まれており、自分が理想状態から遠くかけ離れており、それに「値しない」という意識を持っている。

そこで、主人公は自分を惨めで恥ずべき存在と考えているが、金閣寺に憧れるとき、彼は無意識のうちに、自分が本来的に、神の宮として創造されたことに思いを馳せ、その機能を完全に取り戻したいと思い焦がれているのである。

従って、主人公が金閣寺との一体化を目指すことは、決して自分の外にある、自分とは全く別の何かを得ることによって、高みに至り着きたいと考えているわけではなく、むしろ、彼は人類の願望を代弁して、「この堕落した状態から抜け出て、神の宮としての機能を取り戻し、あるべき完全さや尊厳に立ち戻るためには、どうすれば良いか」と考え続け、自分自身の理想を追い求めているのである。

つまり、この主人公にとって、金閣寺とは、被造物が罪を取り除かれて、あるべき姿を取り戻したときの美や完成の象徴であり、彼は自分自身がそのようになりたいからこそ、金閣寺に尽きせぬ憧憬と思慕を抱くのである。

それにも関わらず、主人公が金閣寺に到達できないことを知って、自らの理想である金閣寺を否定し、破壊することは、人類が目指していた本来的な目的を諦め、これを否定すると同時に、それに到達するために創造された自分身を破壊することを意味する。

それゆえ、「金閣殺し」は「自分殺し」に結びつくのである。

主人公が追い求めていたものは「永遠の女性美」でありながら、それは彼と全く関係のないものではなく、神の宮として創造された自分自身のことだからである。

だが、なぜこの主人公にとって、金閣寺はそれほどまでに手の届かない、到達不可能な目的だったのか。なぜ彼はこの神聖な神の宮を目指しても、それに拒まれているという意識しか持てなかったのか。

それは、この主人公には、罪を贖う「十字架」が欠けていたからである。

聖書によれば、人が神の宮となることができるのは、キリストの御霊が、信仰によって、信者の内に住み、信者がその霊に従い、この霊を尊び、崇めて生きる時だけである。

そうなるためには、人はアダムの命に対する死をくぐらなければならない。

生まれながらの被造物には、どんなことをしても、神の霊と交わる道はなく、それゆえ、神の宮としての機能を発揮することもできない。

その事実を知らず、受け入れられない人々は、生まれたままの命のままで、何とかして最高の美に到達しようともがき、それに値する存在となるために、自分の堕落した命を改造しようと必死に努力し、苦しむ。

そして、目に見える人間の誰かの中に、自分の模範となるべき像を探し求め、その人物を「神」として崇め、忠誠を誓うことで、自分自身も神に連なろうと試みたりするが、その試みが成功することは決してない。

彼らがどんなに被造物を神として拝み、これに近づこうとしても、結果として判明するのは、「自分は神から疎外されている」という事実だけであり、彼らは自分が神として拝んでいるものとさえ、決して一体化することができない。

さて、聖書の創世記が述べている「それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。 」(創世記2:24)という御言葉には、霊的な文脈があり、それはキリストと花嫁たるエクレシアの合一を指している。

その霊的合一は人自身の中で起こるのであり、そのようにして人が神の霊を入れる神の宮となり、人の内側で神の霊と人の霊が一つとなった状態こそ、人間のあるべき完全な姿であるのだと言える。

人自身が神の幕屋となり、そこに神の霊が入り、神の霊の光によってその宮全体が照らされ、神ご自身だけでなく、宮も神聖とされるのである。

『金閣寺』の主人公は、そのようなことがありうるとは知らないまま、無意識に「永遠の女性美」を追い求める。彼はその理想の中に、神の霊を祀る宮としての機能を取り戻した時の人類の姿を見ようとしているのだとは自分では知らない。

そして、もちろん、彼の目指している「永遠の女性美」も、本当は金閣寺の中にはなく、キリストの花嫁たるエクレシア(教会)の中にしか存在していないことを知らない。

この主人公がそこに至り着くただ一つの方法は、人類を罪から贖うキリストの十字架を経て、自分自身に対して霊的に死ぬことだけである。

その唯一の解決を退けた結果が、霊的死ではなく、物理的な死を通して、この理想と一体化するという悲劇の結末を生むのである。

仏教の世界観においても、グノーシス主義と同様、世界の根源は、虚無の深淵のごとき存在としての「無」であるとされる。従って、仏教哲学の概念に照らし合わせても、主人公が至高の存在として追い求め、憧れている金閣寺には、真のリアリティはないということが分かる。

金閣寺は、結局、エクレシアの模造品としてのバビロンを意味するのであって、被造物が決して十字架の死を通ることなしに、美の極致、完成に至れるという偽りの思想なのであり、それは偽りの幻想でしかなく、その本質は「無」なのである。

しかしながら、人がキリストの十字架を通して贖われ、神の神殿となり、神が人の内側に住まれ、人と共にある状態は、決して人にとって達成不可能なおとぎ話のような理想ではない。

それは人類にとっての悲願であるだけでなく、神にとっての悲願でもあることが、聖書の記述から分かる。

「見よ。神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも苦労もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示21:3-4)

このように、神の霊が人の内側に入り、人が宮としての機能を取り戻すとき、初めて人は永遠の存在となり、自己の完全性を得ることができる。もちろん、最終的な贖いの完成のためには、復活の時を待たねばならず、地上ではその予表を見ているとはいえ、それでも、相当な程度、その完全性にあずかることはできるのである。

だが、聖書が、そのようにして、人が神の霊を受けるための条件として、要求していることは、「人はその父と母を離れて」という事実である。

これは何を指しているのか。より深い意味では、人が罪を悔い改めてバプテスマを受け、キリストと共なる十字架を通して、この世に対して死に、自分自身に対して死に、生まれながらのアダムの命とそれに関わるすべてのものに対して死んで、神に対して生きる者となることを意味する。

そのことが、創世記においても、すでに予表されていたのだと言える。つまり、人が生まれながらの「父と母」との関係を離れ、「生み生まれるという自然の関係」に対して死なない限り、神との出会いも結合もあり得ないことを、創世記の御言葉は予表しているのである。

教会を表す原語エクレシアとは、「この世から召し出される」という意味で、この世から召し出されておらず、天然の関係に死を経ていない者は、神の民とはならず、神の宮ともならない。

詩編の次の言葉も、同じことを意味する。

「娘よ、聞け。
耳を傾けて聞き、そしてよく見よ。
あなたの民とあなたの父の家を忘れよ。
王はあなたの美しさを慕う。
王はあなたの主。彼の前にひれ伏すがよい。
ティルスの娘よ。民の豪族は贈り物を携え
あなたが顔を向けるのを待っている。」(詩編45:11-12)

これもまた人が生まれながらの出自から召し出されて神の民とされ、キリストの花嫁たるエクレシアに加えられる十字架の死と復活のプロセスを表しているのである。

ヨハネの福音書には、主イエスとファリサイ派のニコデモの次のようなやり取りがある。

「イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。
ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょう。」

イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。」(ヨハネ3:3-7)

主イエスの言われた「新たに生まれる」ことは、人がバプテスマを受け、信仰によって、生まれながらの命に死に、キリストの命によって新たに活かされることを意味する。それがなければ、人は神の国に入ることはできない。生まれながらの命に生きる姿のままでは、誰一人、神の霊をいただいて宮となることは不可能なのである。

次の言葉も同じように、生まれながらの関係に対する霊的死の必要性を述べている。

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。
人をその父に、
娘を母に、
嫁をしゅうとめに。
こうして、自分の家族の者が敵となる。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイ10:34-39)

聖書は、父と母を敬えと教えており、両親を憎むべきとは教えていない。しかしながら、イエスは、人が神を愛する以上に、自分の生まれながらの出自や家庭を大事にして生きることは無理であると教える。

神に従う過程で、信者らは必ず、父や母への天然の愛情、娘や息子への天然の愛情という、「生み生まれる自然の関係」に基づく魂の情愛を死に渡さなければならない時が来ることを示されたのである。

従って、聖書の教えは、国家神道が教えるような「生み生まれるといふ自然の関係を本とし」て、人が神の国に到達できるというものではない。それは絶対的に不可能である。

それで人はその父と母を離れて」とあるのは、真に人がキリストに結ばれるためには、必ずキリストと共なる十字架を通して、自分自身の生まれながらの命や、天然の自己、この世、肉にあるすべての関係に対して死を通らねばならないことを示しているのである。

そういう意味で、「父と母を離れ」るという言葉の意味は非常に深いと言える。それは人が生まれたままの姿では、決して神の国に入ることができないことを示している。

しかし、すでに述べて来たように、今日、実にキリスト教界においては、この原則が破られて、さかさまの教えが説かれているのが現状である。

たとえば、多くの他の教会では、一人の信者の一家全員が救われて教会に所属し、「クリスチャンホーム」が形成されることこそが、信者の目指すべき到達目標であるかのように教えられる。

この世の習慣を通して「父の日」や「母の日」といったイベントが祝われるだけでなく、さらには、信者の家族であれば、救われていなくとも、教会の一員であるかのように教会で葬儀が行われたりするのが現状である。

肉による親子関係が、十字架の死を経ることもなしに、公然と神の家族であるかのように教会に持ち込まれているのである。

しかし、我々は、聖書を通して、神の家族と、肉による家族との間には、何の関係もないという事実を見る。

主イエスは、公生涯を始められてから、肉による親子関係を全く神の家族の中に持ち込むことは全くなさらず、生みの親子であるからと言って、ご自分の肉親を、信仰によって結ばれた神の家族以上に重んじることは全くなさらなかった。それは次の御言葉から明らかである。

「イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう。あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」(ルカ11:27-28)

「イエスが群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人がわたしの兄弟、姉妹、また母である。」」(マタイ12:46-50)

また、イエスは十字架にかかられた時、自分を生んだ母を目の前に見て、次のように言われた。

「イエスは母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」(ヨハネ19:26-27)

このように、イエスはご自分の肉親を、信仰を持つ他の人々の前で、特別扱いすることはなさらなかったが、ついに十字架の下で、肉による親子の絆は本当に断ち切られ、それに代わって、信仰による神の家族が成立したのである。

使徒行伝では、イエスの母マリアとイエスの兄弟たちが、何一つ特別な待遇を受けることなく、他の信徒の兄弟姉妹と同じように、共に集まり、祈っている姿が描かれている(使徒1:14)

このように、主イエスは徹底して肉にある絆を退けられ、信仰によって結ばれた神の家族としての絆を重んじられた。にも関わらず、今日のほとんどの教会ではそれが完全にさかさまになってしまっているのである。

今日の教会では、ペンテコステ・カリスマ運動のように、あからさまに「キリスト教には父性的要素ばかりが強すぎて、母性的要素が足りない」と、ケチをつけることはないかも知れないが、それでも、「キリスト教はこれまで社会的強者ばかりを伝道対象とし、社会的弱者を容赦なく見捨てる冷たい宗教であった。キリスト教はこのような残酷な欠点を克服しなければならない」と言って、信仰によらない弱者救済活動に非常に熱心となる風潮は至る所に見られる。

ホームレス伝道やその他の慈善事業といった、本来、この世のNPOや市民団体が行うべき社会事業にまで、教会が積極的に乗り出し、弱者救済活動を売り物にして注目を集め、あるいは、カウンセリングなどと称して、精神的な弱さを抱える人々を積極的に招き寄せては、支援を表明する。

しかし、こうした弱者救済活動は、人の弱さを美化し、甘やかすことはしても、弱者を決して弱さから解放することはない。それどころか、人の弱みをきっかけとして、弱者をさらなる搾取と支配の中に巻き込んで行くだけである。

人の弱さ、愚かさ、恐れ、恥の意識、罪意識は、本来的には、罪から来るものであり、主と共なる十字架の死に渡されるべきものである。

教会が、そうした人の弱さを、あたかも大いに同情を受けるべき、哀れまれるべきものであって、まるで貴い神聖な要素であるかのように扱うことは根本的に間違っている。

だが、そのようにして、アダムの命に属するものは何であれ、すべて十字架で霊的に死に渡されねばならないという聖書の真理を無視して、教会が各種の弱者救済活動に熱心になり、弱者を美化した結果、今日の多くの教会には、元ヤクザ、元ホームレス、元カルト信者、障害者、病者などの社会的弱者が溢れ、特別な事情を抱える、精神的な弱さを持つ人たちが溢れ、これらの人々が、まるで自己の弱さを聖なる要素であるかのように考えて誇るという転倒した現象が起きているのである。

教会が「病院」や「駆け込み寺」のようになってしまった挙句、病院ならば、きちんと治療を施して退院させてくれるからまだ良く、「駆け込み寺」は一時的な退避の場でしかないが、いつまでも「愛」や「憐れみ」を口実に、人の弱さを甘やかし、助長するばかりで、何の治療も施さず(もちろん、病院でないのだから、教会が人の弱さの治療などできるはずもない。カウンセリングにしても同じことである)、人の弱さに終わりなき同情の涙を注ぎ、これを壊れやすい宝石のように扱うばかりで、かえってより一層、人がその弱さを手放して力強く立ち上がることが永久にできなくなるように仕向けているのである。

このようにして、今日のほとんどの教会は、旧創造に属するものを死に渡すどころか、これらを惜しみ、いたわり、哀れみ、尊びながら、本来ならば十字架で死に渡されるべき数々の肉にある関係、罪から来る弱さ、この世とのつながりを、あたかも信仰生活の欠かせない一部であるかのように説き、公然と受け入れている。

そういうことの結果、今日、教会と名のつくほとんどすべての教会において、信仰生活は、父なる神を中心とするものでなく、被造物を中心とする、被造物を喜ばせるための教えに代わってしまった。

福音とは、人間の指導者が、信徒の弱みにつけこみながら、信徒を搾取して生計を成り立たせるための手段でしかなくなり、人間の宗教指導者に栄光を帰する手段となり、信仰は、被造物を喜ばせるこの世的な祝福や恵みを引き出す手段とみなされ、信仰生活の目的は、自分たちだけが、どれだけ多くの恵みを獲得して、他の信徒の及ばない特権階級としてハッピーな生活を送れるかにあるとさえ考えられるようになったのである。

聖書の御言葉が骨抜きにされ、キリスト教が、父なる神ではなく、被造物を喜ばせる教えへと変えられているのである。

これはもうキリスト教ではない。それは明らかに被造物崇拝という、キリスト教とは異なるグノーシス主義的な偶像崇拝の教えである。

そこで、人がこのような偽りの只中に身を置き、目に見える人間を拝み、自分の欲望を満たすために、神を求め、信仰を手段として利用しているうちは、その信者の内に本当に神が住んで下さり、ご自分を現して下さることは決してない。

彼らが哀れみ、救済しようとしている対象は、神が十字架において、廃棄することを決定された古き人間であり、彼らが拝んでいるものは、キリストの十字架の死を経ていない、旧創造としての目に見える人間なのである。

このような教えは、根本から十字架に逆らう偽りであるから、これと分離・訣別しないことには、結局、そういう教えを信じている人々は、最終的には、金閣寺の主人公と同じような結末を辿るしかなくなる。

神殿とは、神を祀るための場所であり、俗世とは完全に区別された聖なる領域であって、ただ神のためだけにもうけられた特別な場所である。

ところが、クリスチャンを名乗っている信者らが、誰を神としているのかも分からない生活を送り、己が欲望を満たすためだけに信仰生活を送り、目に見える宗教指導者を誉め讃えていれば、一体、そんな人々を、誰が神殿と認められようか。

「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとべリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。

神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。

「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。
 そして、彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せになる。

「そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。』
 全能の主は仰せられる。」(Ⅱコリント6:14-18)

「あの者ども」は、被造物を神として拝んでいるすべての人々のことを指す。それはキリスト教の神を知らないがゆえに、この世の様々な誤った思想のとりことなって生きている世人のことではなく、まさにキリスト教を知っていながら、神の御言葉を曲げて、それを被造物中心、人間中心の教えへと歪め、虚偽の福音を宣べ伝えている偽善者たちのことを指すのである。

残念ながら、今日、数々のキリスト教会で教えられているのは、このように転倒した教えであり、クリスチャンを名乗っている人々の大半は、そうした偽りの教えを信じる人々である。

これを行き過ぎた悲観であるとは思わないでもらいたい。なぜなら、聖書ははっきりと以下のように予告しているからだ。

だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。」(Ⅱテモテ4:3-4)

「だれも健全な教えを聞こうとしない」時代がすでに来ているのである。

もはや9割以上の”クリスチャン”を名乗る人々が、グノーシス主義に汚染された被造物中心の教えを拝し、神を信じると言いながら、自分自身の欲望を拝んでいると言って過言ではない。

そのような人々は、自分に都合の良い話を述べてくれる教師たちをてんでんばらばらに担ぎ上げては、その指導者を偶像として足元に群がっているが、聖書は、クリスチャンがキリストに従う上で、いかなる目に見える「教師たち」からも教えを受ける必要はないと述べている。

「以上、あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました。しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。」(Ⅰヨハネ2:26-27)

御言葉がこのように、御霊に聞くよう教えているのに、目に見える人間から教えを受けることが必要不可欠であるかのように説く教えは、まさに聖書をさかさまにした偽りであり、その根本には、被造物を神として崇めるグノーシス主義があればこそ、そういう結果が出るのである。

今日、キリスト教界を名乗っているところでは、例外なく、御言葉を取り継ぐ教師を名乗る「牧師」が存在するのも、同じ理由からである。

牧師制度とはグノーシス主義的なヒエラルキーを教会に持ち込んだものであり、宗教指導者を神として目に見える人間い栄光を帰し、信徒への搾取を肯定する霊的階級制度なのである。

そのような制度を敷く教会では、信徒は目に見える人間である牧師を介することなく、信仰生活を送ることはできず、このようなシステムの中にいる限り、信徒がキリストの御霊から直接真理を教わって生きることは無理である。

だからこそ、そのような忌むべき場所からは、エクソダスせねばならないのである。

こうした教会にいる信者たちは、どんなに熱心に教えを乞うているつもりであっても、被造物を神として拝むことによっては、決して誰も神の国に入ることはできない。そこで、彼らは、自分たちは神を信じていると言いながら、ますます神から遠く「疎外」され、不自然で異様な生き方に転落していく。

そして、自分たちの罪を覆い隠すために、神に忠実に生きている兄弟姉妹や、本物のエクレシアである神の教会を攻撃したり、最後まで、自分が誤っているという事実から逃避し続けるために、自決のような形で自ら世を去るか、もしくは集団自殺を遂げるか、あるいは病や、精神的弱さや、罪や、それまでさんざん彼らが「哀れまれるべき弱さ」であるとして振りかざし、美化し、誇り、甘やかして来た自分のわがままのツケを支払わされて、罪に問われたり、刑罰を科されたり、病に飲み込まれたりしながら、自滅の道を辿るしかないのである。

キリスト教とは、十字架の死をキリストだけに押しつけて、人間だけはこれを元手に恵みに満ちたハッピーな生活を送れば良いというお手軽な教えではない。むろん、それは人間が苦行にいそしむことで「自らの十字架を負う」という教えでもないが、主と共なる十字架における霊的な死を受け入れた人々だけが、神の定めた滅びの刑罰を免れることができるわけであるから、アダムの命を愛し、天然の自己を愛し、己が欲望を神とする人々が、キリストだけにすべての苦しみと恥を押しつけたつもりいなって、自分は十字架における霊的死を免れられたかのように錯覚できるのは、ほんの一瞬でしかない。十字架を逃れたと思っていると、彼らにはその代わりに、現実の滅びが襲いかかるだけなのである。

もう一度書いておこう。イエスは言われた。

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。

また、パウロも言った。

「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。

何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、
キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです、彼らの行き着くところは滅びです。彼らは 腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。

キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に造り変えてくださるのです。」(フィリピ3:17-21)

2017年2月15日 (水)

地上にあるものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(Ⅰペテロ1:8-9)

今ほど、この御言葉がしっくり感じられる瞬間はないような気がする。

少し前の記事で、筆者は「キリスト者の新しい時代の幕開け」と書いたが、この度、大きなエクソダスがまた一つ達成された。今や聖徒らが、差別と搾取に基づく牧師制度を肯定するプロテスタントと訣別し、キリスト以外にどんなリーダーもいない、信徒一人一人が直接、キリストにつながり、御霊を通して神ご自身から御言葉を教わり、信徒がみな対等な兄弟姉妹としてエクレシアに連なる万民祭司の理念がまさに実現しようとしているのである。

2009年、既存の教会組織に疑問を持ち、真実な信仰を求めて、神だけに従うために出発する多くのキリスト者が出現していた頃、彼らが一様に見ていたのは、まさにこのような展望であった。

つまり、しみもしわもないキリストの花嫁にふさわしいまことの教会の姿を、みな一心に追い求めていたのである。

2000年以上前に、主イエスが地上に来られ、十字架の死と復活を経験され、信じる者に御霊を与えて下さった時に、万民祭司の時代はすでに始まっていた。だが、それにも関わらず、地上に広がったキリスト教界の宗教組織は、常に人間的な思惑に基づき、この世との妥協を重ね、後退を繰り返して来た。

その結果、聖書の御言葉を通して、信じる者に与えられたとてつもない特権、キリストのものとされ、神の子供とされた信者たちが持つ絶大な特権が、常に骨抜きにされ、値引きされ、曖昧にされ、過小評価され、ごまかされ、水で薄められ、掠め取られ、否定され、悪魔に奪い取られて来たのである。地上のキリスト教組織は、いつの時代も、始まるや否や、もう聖書の御言葉から逸れ、御霊の息吹のない、聖書におけるエクレシアとは似ても似つかない、死んだ組織と変わり果てていた。だが、地上の宗教組織が、世と妥協を重ねる一方、そこから出て、聖書に立ち戻ろうとする新たな信仰復興運動も、常に生まれて来たのである。

プロテスタントも、当初は信仰復興運動として始まった。この運動はその名の通り、何よりもカトリックの堕落や腐敗に対する抗議運動として登場し、既存の宗教組織に対する強い疑念のもとに、聖書に立ち返ることを目指して始まった。プロテスタントは、聖書の各国語への翻訳などの事実にも見られるように、それまでカトリックでは聖職者だけが独占していた聖書の真理についての知識を、一般大衆に解放すべく努力し、世界の隅々まで伝道を繰り広げることにより、無学で貧しい人々を含めた世界中のあらゆる人々に福音を宣べ伝えることをその使命とした。プロテスタントは、その興隆の時期が資本主義の発展に重なることにも見るように、大衆向けの大規模伝道を繰り広げ、それによって来たるべきマスメディアの発展の基礎をも築いた。

プロテスタントの中には、義憤に基づく革命的な体制転換の試みと、すでに述べたように、労働に基づく人間の自己変革の試みや、さらに、大規模に大衆に訴えかけるマーケティングの手法などといった、資本主義のみならず、その後の社会主義思想の土台ともなる発想や、現代社会における様々な大衆向けの運動の土台となる発想が山のように込められていたと言えるかも知れない。

しかしながら、そのプロテスタントも時と共に腐敗し、もともとこの運動が持っていた地上的な要素の問題が明らかになった。既存の宗教組織に対する強い抗議の精神は、カトリックなどの別宗派に向けられるだけでなく、プロテスタント内の信者たちにも向けられて、教義や解釈の違いからくる様々な相克や分裂を引き起こした。その結果、プロテスタントの中には、それぞれ異なる教義を提唱する数えきれないほどの教団教派が生まれ、さらにそれらの組織が互いに反目し合って、時には同士討ち的な争いを繰り広げ、教会同士のいがみあい、対立が常態化した。また、マスメディアを用いた一般大衆向けの大規模伝道も腐敗して行き、ペンテコステ運動の指導者のようないかがわしいにわか伝道者たちが、一獲千金のために大衆を欺いて繰り広げる偽りのミニストリーにも、存分に活躍の機会を提供することになった。

プロテスタントは、カトリックが隆盛を極めた時代に、聖職者たちだけによって独占されていた聖書の真理を一般大衆向けに解放するという点では、確かに巨大な役割を果たしたが、その解放は、不完全なものであった。プロテスタントは、カトリックのように統一された強固な聖職者のヒエラルキーを持たなかったものの、牧師制度を肯定していたことにより、神と信者との間に、キリスト以外の目に見える人間を仲介者として置き、信者が直接、神から御言葉を教わるのではなく、牧師という目に見える人間の理解や解釈のフィルターを通して、聖書の真理に接触するようにし向けたのである。

プロテスタントの信者は、特定の牧師の牧会する教会に身を置いている限り、どんなに自分自身で聖書に触れて理解しようとしても、結局、牧師の限られた理解の範疇から出ることを許されず、常に牧師という親鳥が咀嚼してかみ砕いた乳のような餌を、口づてに与えられる幼鳥の立場を抜け出せなかった。信者は教会の中で、もしも聖書について、牧師の理解と異なる主張をすれば、即、異端者として教会を追放されるしかなかった。このような牧師制度が生み出した制約は、信者一人一人の信仰の自主的な成長を妨げ、信者がキリストの身丈にまで達することを著しく妨げる要因となった。

結局、プロテスタントにおいては、聖書の真理が、カトリックの聖職者の独占状態からは解放されたものの、今度は、牧師によって独占され、信徒一人一人が、直接、キリストに結びつき、御霊によって直接、御言葉を教わりながら、キリストにある成人にまで成長するという、聖書によればごく当たり前の真理が、制度的に妨げられたのである。こうして、万民祭司の理念は、謳い文句にとどまり、実現しなかった。

プロテスタントの持つこのような制度的な欠陥のゆえに、やがてプロテスタントという宗派そのものが、聖書の真理を持ち運ぶ宮というより、聖職者階級を支えるための母体と化してしまった。それと共に、プロテスタントの大規模伝道の形態も堕落して行き、それは聖書の真理を忠実に大衆に伝えるものよりも、信者を欺いてこの母体の中に閉じ込める手段と化した。

大衆への大規模伝道を繰り広げることにより、プロテスタントが、全世界の隅々にまで福音を宣べ伝えるという使命を果たした時、この宗派は、それと同時に役目を終えたのだと言えるかも知れない。今やインターネットも普及し、ごく限られた僻地や少数民族を除いて、世界のどの場所でも、非キリスト教国であっても、聖書の福音に触れることは難しくない。

こうして、全世界に福音が届けられた時、クリスチャンの信仰生活には、それまでとは異なる時代がやって来たのである。それは、今までのように、対象を選ばずに無差別的に誰にでも福音が語られる時代から、福音を聞いた者が、聞いた御言葉に従うかどうかによって、一人一人の内面が試されるという時代である。

既存のキリスト教界の組織から脱出する者たちが現れていた当時、一時、「御言葉の飢饉」という言葉がよく聞かれた。それは、フェイクと化した大衆向けの伝道ばかりが巷に溢れる中で、真実、神に従いたいと願う純粋な信者たちが、心から御言葉を宣べ伝える声がほとんど聞かれなくなったという嘆きでもある。

万人に無差別的に福音を宣べ伝える大衆向けの伝道は、全世界に福音が宣べ伝えられた時点で、使命を終えたのだと言えるのではないかと思う。大衆伝道は、福音を知らない地域にいる福音を知らない者たちを対象にしてこそ意味があるのであって、福音を何度、聞いても、真理に聞き従う気のない者たちを対象にするのでは意味がない。また、信者たちが「堅い食物」を自分で採るようになって、聖職者階級を必要としなくなることがないよう、いつまでも信者を霊的幼児にとどめおくために、この世的な舞台演出のちりばめられた各種のいかがわしい大衆向けのミニストリーに引きつけておくのでは意味がない。

こうして、すでに使命を終えたにも関わらず、依然として、続行される無差別的な大衆伝道という手法は、ただ時代遅れであるだけでなく、有害な結果を招くようになった。教会は本来、聖書の神の救いを個人的に信じて受け入れ、贖われた者のためにあるはずにも関わらず、大衆伝道の旗を掲げているうちに、いつの間にか、不信者にも門戸を開き、教会の奉仕の対象が、神から大衆へとすり替わって行ったのである。

大衆伝道の旗を降ろさないために、教会は、御言葉に従順でなく、教会にも福音にも理解を示さない、この世の不信者ら(しばしばカルト宗教の信者)にさえ、自ら歩み寄って、贖われない大衆の利益に積極的に仕えることで、彼らの心を引こうとした。そうした妥協の結果、教会には不信者も数多く入り込み、贖われた者とそうでない者との区別は消え、教会はこの世の人々に対するマーケティングのために、ますますこの世的な手段を公然と駆使するようになり、聖書から遠ざかり、ただ大衆を喜ばせるための単なる奉仕活動の場へと転落して行った。

こうして、プロテスタントの多くの教会からは、世に厳しく罪を指摘して悔い改めを迫るメッセージや、心飢え渇いた信者たちに真にキリストの御言葉の衝撃力を伝えるメッセージが消え、教会は、すべてのものの上に立つかしらであり、一切の権威をこえる権威であるキリストの権威と支配を自ら捨てて、堕落したこの世の支配に屈し、その結果、世の支配下で踏みしだかれて、塩気を失ってしまったのである。

このように聖書から離れて世の方を向き、キリストの香りを失ったプロテスタントの多くの教会に代わって、今や、聖書の真理を担う、新たな信仰復興運動が必要とされているわけだが、その形態は、どのようなものになるのか、少し考えてみたい。

当ブログでは幾度となく繰り返し引用して来たオースチン-スパークスの「私たちのいのちなるキリスト」の一部をもう一度引用したい。

時代が終末――キリストの現れ――に向かって進むにつれて、二つの特徴がますます明らかになるでしょう。

一方において、事物、人、運動、制度、組織などが優勢になり、大衆を引きつけ、群衆をとらえるでしょう。
他方、そうしたものへの失望と幻滅が増大し、少数の人々が主ご自身に立ち返り、彼だけが自分のいのちであることを見いだすでしょう。


こうしたことには三つの要素があるでしょう。

第一は、反キリストの原則の明確なる発展であり、それはキリストに取って代わるか、取って代わろうとするでしょう。

第二は、人造のキリスト教内のキリストご自身の代替物であり、自らの勢いで生成発展する偽りのいのちです

第三は、真実、真理、主ご自身を知る内なる知識を求める、深い純粋な探求です。

第一の場合、人間の力が崇拝され、ヒューマニズムが大いに氾濫し、人の驚異と栄光がたたえられるでしょう。第三の場合は、いのちであるキリストがすべてでしょう。

教え、伝統、制度、運動、人などの何物かにクリスチャンが帰属するなら、必ずいのちが制限される結果になるでしょう。そして、やがて混乱と幻滅が生じ、おそらくもっと悪いことになるでしょう。新約聖書がまごうことなく明らかにし、強調しているように、万物の運命は「キリストがすべてのすべて」となることです。

この短い引用文の中に、奇跡や、お涙頂戴の信仰の証や、名だたる宗教指導者や、ヒューマニズムに支えられる各種の救済事業などを売り物にして、大衆の心を引きつけ、牧師制度を通して、人間に栄光を帰するプロテスタントの大衆伝道のあり方が、今日の終末の時代においては、むしろ、反キリストの支配の手段とされつつある現状を見ることができる。

神に仕えることを第一とせず、聖職者階級と、この世の一般大衆(人間)に奉仕することを何より重んじ、この世の社会を発展させることを目的に、各種の支援活動を繰り広げるプロテスタントは、もはやそれ自体が「人造のキリスト教」と化して、キリストの命を失っているのであり、それ自体がフェイクと言って差し支えない体系になっているのである。そこで一般大衆に提供される「支援」は、神の救いからはほど遠い、地上的・物質的な利益に過ぎず、そこで信者たちが行う熱心な奉仕や学びも、「自らの勢いで生成発展する偽りのいのち」であって、「キリストのまことの命の代替物」でしかない。どんなに信者が奉仕と学びを重ね、鍛錬を積んでも、キリストの真の命とは全く無関係のまま、堕落した「セルフ」は十字架の死を経ることはなく、ますます神に逆らう堕落した人間の自己と欲望が高められ、人類に栄光が帰されて終わるだけであって、そこに神の栄光につながるものは何も存在しない。

このように神への反逆の殿堂と化した「人造のキリスト教」の中から、大衆を苦難から救う救世主を騙る反キリストが登場して来るまで、もうあとほんのわずかな期間を残すばかりである。

これ以上、「人造のキリスト教」についての描写を続けることは無用であろう。それよりも、今回の記事では、「そうしたものへの失望と幻滅が増大し、少数の人々が主ご自身に立ち返り、彼だけが自分のいのちであることを見いだ」し、「真実、真理、主ご自身を知る内なる知識を求める、深い純粋な探求」が生まれるという、後半部分に主眼を置いており、ここにこそ、限りない希望を見いだしている。腐敗した偽りの体系からはエクソダスして、真実、神ご自身を求める信仰者の群れが出現するのである。

信者の人生には、決定的に重要な霊的「エクソダス」の瞬間が幾度かある。それは信者が偽りと知らずに接触して来たこの世の体系からの分離の瞬間である。その「エクソダス」の中には、偽りの宗教体系からの脱出も含まれる。

信者は、キリストと共なる十字架の死を通して、この世に対して死ぬことを知った後も、世と深くつながっている堕落した偽りの体系に知らずに接触することがあり、そのような場合には、真にキリストだけに従いたいなら、偽りと気づいた瞬間に、そこから自らを分離せねばならない。この分離は、信者が神に逆らう全ての思想から自分自身を分離することを意味し、必ずしも物理的・地理的な脱出を伴うものではない。

筆者のこれまでの経験からも言えるのは、信者の「エクソダス」の瞬間には、嵐のような多くの激変や圧迫が観察されることである。偽りの体系は自らの奴隷を一人でも逃がすまいと追っ手を遣わし、信者の人生には、しばしば、未だかつて起きなかったような圧迫がもたらされる。だが、モーセが民を率いてエジプトを脱出する際に、どれほどの苦労を払わねばならなかったかを考えれば、それは全く不思議な現象ではなく、さらに、それは信者が心を騒がせるに値する事件でもない。信者を引き戻そうとする全ての圧迫にも関わらず、御言葉の真実のゆえに、信者を「マトリックス」につないでいたへその緒は全て断ち切られ、ファラオの軍隊は水に沈み、エクソダスは完了するのである。

さて、2009年当時は、日本各地に、代償を伴う厳しいエクソダスの過程を経て、キリストに贖われた信者たちが、まるで若々しい新芽のように、あちらこちらに出現していた。その後、激しい暴風雨と、生い茂るいばらとあざみと、荒らし回る獰猛な野獣の中で、この新芽が消え去ったのか、それとも、やがて来るべき豊かな実りに備えて、地中深く根を下ろしながら、時を待っているのか、今はまだはっきりとは分からない。だが、いずれにしても、筆者は思うのである、もし信者が一度、神のために自分の生涯を残らず捧げる決意をしたならば、その召しは決して変わることはなく、たとえ自分の召しが分からなくなったように思える時でも、その約束は、神が覚えて下さり、その使命を果たすために必要な条件を神ご自身が整えて下さるだろうと。

「私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください」」(イザヤ6:8)

すでに書いたように、キリストのものとして贖われ、救いの確信があるからと言って、その信者には、常に神が分かるわけではない。神は遠くにおられるように感じられることもあれば、沈黙しておられることもある。黙示録を書いたヨハネも、パトモス島にあって、絶えず啓示を受け続けていたわけではない。偉大な霊的啓示が絶えずひっきりなしに信者の人生に注がれると思うなら、それは間違いであり、多くの沈黙の時、待ち望みの時、忍耐の時がある。啓示によって明白に示された真理さえ、自分の内に失われたかのように感じられる時がある。そして、信者が神を知ることができるのは、ただ霊の内だけであり、それはしばしばかすかな御声であり、信者の肉的な思いがこれをかき消してしまう。信者の人間的な感覚は神から絶えず離れており、神を知るのには役立たない。

だが、それにも関わらず、主に贖われた者が、神から引き離されることはなく、主を知る知識を切に求め続ける信者の純粋な探求と、神がどこにおられるのか分からないと言って、自己の外に神を探し求める人々の探求には決定的な違いがあると言えるのである。

それは、我々、聖徒らの心の内深くに、神に対する尽きることのない愛が、絶えず存在していることからも言える。見たこともない方をどうして信じ、愛し、崇めることができるのか、それは人には説明できない事柄である。我々は、肉眼で見るようにキリストの姿を見たり、耳でその声を聞いたり、この手で触れたりするわけではない。だが、それにも関わらず、キリストに思いを向ける時、この方が確かに生きておられ、我々の救い主であり、力強い助け主であり、世の終わりまで共にいて下さり、決して我々を見放されることはないということが、自然な水の流れのように、信仰告白として口をついて出て来るのである。

「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(Ⅰペテロ1:8-9)

我々は、主を見ていないが、心から愛しており、再び地上に来られる姿を見ていないが、戻って来られることを信じており、主を待ち望むという召しに、心から光栄と喜びを感じている。

私たちは、自分の外に神を求めて探し回る必要はない。キリストは、信仰を通して、信じる者の内側に住んで下さり、御霊を通して、ご自身を現して下さるからである。そして、この方が信じる者に提供して下さっている完全な義、完全な贖い、完全な聖は、信仰を通じて確かに私たちのものであり、そして、やがて来るべき世で、神が私たちのために備えて下さっているはかり知れない相続財産のことをも、私たちは知っている。それらのはかり知れない恵みと、絶大な特権のゆえに、ただおそれかしこみつつ、喜びを持って、私たちは主を褒めたたえることをせずにいられないのである。

この尽きせぬ喜びと、賛美と、神に栄光を帰することが、私たちが確かに贖われた者であることを教えてくれる。神は我々にとって真にリアリティなるお方であり、まるで雛鳥が親鳥を見分けて鳴き、狐が自分の巣に帰るように、私たちは、喜びに満ちた確信を持って、この方こそ我々の創造主であると告白し、自分がこの方に確かに結ばれており、キリストのものとされていることを大胆に告白することができる。私たちは、すでにすべてのことを知ったなどとは言わない。キリストを十分に知ったとも言わない。ただキリストを知る知識をますます深く追い求めてはいるが、それでも、「神はどこにおられるのか」と言って、自分の外に神を探し求めたりはしないのである。

パウロは言った、「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。

それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。

私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それをちりあくたと思っています。

それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」(ピリピ3:7-9)

信者にとっては、キリストを知る知識の絶大な価値のゆえに、キリストを知る以前に持っていた全てのものは無価値となってしまう。キリスト以外の一切のものが「損」になるだけでなく、「無」にすらなる。これは、信者がキリスト以外のいっさいのものを「無だと感じている」とか、「無とみなそうとしている」ことを意味するのではなく、実際に「無になる(=無効化される、影響力を全く持たなくなる)」ことを意味する。

パウロは贖われる前に、人間的な観点から見れば、他の誰にもまして、誇るべきものを持っていた。生まれも、育ちも申し分なく、優れた業績や、落ち度のない立派な行いを誇ることができた。しかし、そのような「キリストを知る以前の自分自身」は、キリストと共に十字架につけられた時、一切合切、無いものとして墓の向こうへ追いやられたのである。

エクソダスの瞬間を超えたことがある信者ならば、きっと分かるであろうが、このようなことは、人が自分自身の力で達成できることではない。キリストと共なる十字架の死が適用されるまで、信者はあくまでこの世の人間であり、自分の生まれや、育ちや、知識や、経験や、能力や、業績や、世間からの評価や、地上的なつながりといった、ありとあらゆるこの世的な要素を引きずって、それらにより頼み、それらを心に留めて、そうした地上的な要素こそ、自分自身を形成するのだと思って生きている。それは、あまりにも深く慣れ親しんだ世界なので、それ以外の世界があり得るとは想像もできず、また、そこから自分自身の意志で脱出・分離するなど、到底、無理な相談である。

だが、信者に御言葉への信仰に基づいてキリスト共なる十字架における死が適用されると、それが実際となって成就した瞬間から、信者は、そのような地上的な要素が、自分に対して死んでいることを理解するのである。自分自身で何かを捨てようと努力するのではなく、かつて自分を構成していたこの世の要素が全て水に沈み、すでに完全に手の届かないところに去って、自分の思いや感情に触れなくなるのが分かるのである。

だから、信者がこの世においてかつてはあれほど大事にしていた地位、名誉、評判、業績、信者がこの世の人として持っていた過去の記憶や、この世の人々からの意見や評価や賛同などが、どんなものであれ、完全に「墓の向こう」へ行ってしまい、気にすべき事柄でなくなり、それがたとえ自分に関することであっても、信者の関心の対象でなくなり、聞かされても、思いに触れず、まるで他人事のように感じられるのである。

ちょうど死んで墓に入ってしまった故人が、自分についてこの世の人々の間でどんな会話が交わされていようと、一切、それを感じることも、注意を払うこともできないように、キリストと共に死んで神の内に隠されているキリスト者には、かつて自分自身であったものも含めて、この世の事象が触れることができなくなるのである。

そして、かつての地上的な出自に代わって、今度は、キリストにある者としての天的な出自が、信者にリアリティとして迫って来る。「もはや、私ではなくキリスト」となるのである。むろん、信者がキリストに変身するのではなく、信者の内に住んで下さっているキリストを、信者自身が見るわけでもない。それでも、信者の心の中に、もはや「私」はなく、キリストが住んで下さり、生きておられることを信じることができるのである。

信者は、たとえ復活の命の何たるかがまだよく分かっていなかったとしても、キリストの死を通して、自分に対する神の贖いが永遠に達成されており、自分がキリストのものとされていることが分かる。信者にはもはや「足りない」ということがなく、「取り返しがつかない」こともない。キリストにあって、信者はすべてに満たされている。だから、感謝を持って心に言うことができる。

主よ、あなたのためならば、私には何も惜しくはありません。
あなたのために、私が留保しているものはもう何もありません。
主よ、私の若い頃からの約束を覚えて、心に留めて下さい。
私は生涯、あなたのためだけに、捧げられた供え物であり、
もはや自分自身のために生きておりません。
あなたの栄光のために、私をお使い下さい。
私自身と、私の生涯は、残らずあなたのためにあり、
私は、あなたのものなのです。

信者は、命を投げ出して自分を贖って下さったキリストへの心からの応答として、愛を持って自分を捧げることができる。主と共なる十字架において自分に死んでしまえば、もはや留保しているものはなくなり、自分の生涯そのものを神への捧げものとして惜しむことなく差し出すことができる。

だが、それは決して人間的な思いに基づく情緒的な魂の愛の結びつきではないのである。その決意は、代償を伴うものであり、生涯に渡る御言葉への従順を通してしか達成できない。

イザヤ書では、「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」と応答した預言者に衝撃的な言葉が告げられる。神の言葉を携えて世に出て行く預言者が、高貴な存在として、大衆に歓呼して受け入れられることはない。大衆が預言者の言葉を聞いて悔い改め、素直に神に立ち返ることで、大きな喜びと収穫がもたらされるとは、神は言われなかった。むしろ、逆の事柄が告げられたのである。

「行って、この民に言え。
聞き続けよ。だが悟るな。
 見続けよ。だが知るな。』
 この民の心を肥え鈍らせ、
 その耳を遠くし、
 その目を堅く閉ざせ。
 自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。」(イザヤ6:9-10)

これは旧約の時代も、新約の時代も変わらず同じである。神の言葉を託されて世のもとへ遣わされた預言者を、世は受け入れない。神の独り子として世の罪を贖うために遣わされた尊い小羊を、世は拒み、十字架につけて殺したように、イエスの弟子たちをも拒み、迫害した。世は何度、福音を聞かされても、己が罪から目を背けるために、これを拒み、イエスの復活の証人たちを憎み、排斥したのである。そうしたことが、今日になったからと言って、変わることは決してない。

だから、世人に福音を告げるというのは、すべてのキリスト者にとって命がけの召しであり、何らその個人にとって感覚的に喜ばしい、栄誉をもたらす光栄な使命ではない。この事実を見るにつけても、キリスト者の道は、大規模大衆伝道を通して、大衆と一体化して、この世の人々と手を携えて歩むことには決してないと分かる。

キリスト者は、復活の証人として、イエスの復活を、また、自分自身も信仰を通してイエスと共に死と復活にあずかっていることを、大胆に世に向かって語り続ける。しかし、世はそれを信じず、受け入れもしない。

だから、キリスト者は、世へ理解を求めず、絶えず神に向かって行く。世が神の言葉を受け入れない分、なおさらのこと、ただ一心に神に向かって行くのである。神は、贖われたキリスト者を、二度と世の友、世の奴隷として遣わされることなく、むしろ、ご自分の器として民の間から聖別して取り分けられる。キリスト者と世との間には、十字架が、永遠に交わることのない隔たりとして立てられている。

このようなことを聞くと、世人は言うであろう、「一体、それは、何のための救い、何のための贖いなのでしょうか。キリストを信じたがために、世から拒まれ、理解されなくなり、迫害されるのでは、信じた後では、信じる前より、生きることがより一層、苦しくなるだけで、どこに信じることのメリットがあるんですか。その上、過去に積み上げ来た業績も無になるのでは、神のためにすべてを捨てたキリスト者には、一体、何が残るのでしょうか。そんな人生に、どんな満足があるのでしょうか。」

世人にどんなに分からなくとも、キリスト者には何も残らないのではなく、「私」ではなく「キリスト」が残るのである。そして、それこそが、キリスト者にとってのはかり知れない満足である。なぜなら、この方にこそすべてが満ちているからである。キリスト者は、もはや自分自身の満足のために生きておらず、神の満足のために、神の栄光のために召し出された者であり、主と共に十字架の死によって、すでに水の中に沈み、分離したものを取り返したいとは願わないのである。

神の御心は、やがて万物がすべてキリストに服すること、「イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられる」(ピリピ2:10-11)ことにこそある。

クリスチャンはすべてのものがキリストに服する来るべき世に向けて、「神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われた」(黙示14:4)者たちである。ここに「人々の中から」贖われたと書いてあり、「人々と共に」ではないことに注意したい。キリスト者は、世に対して死んだ者として、世人とは一線を画し、ただ神と小羊のためだけに、世から取り分けられて、召し出された人々である。だから、クリスチャンは福音を世に向かって語ることはしても、決して世と同化して、世人の利益に仕える僕とはならない。贖われた者はどこまでもただキリストの僕であって、もはや自分自身のものでさえないのである。

「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。

キリストはすべての支配と権威のかしらです。

<…>あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです」(コロサイ2:8-12)

こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。

あなたがたは地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
なたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです


私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。」(コロサイ3:1-4)

2016年6月18日 (土)

私たちの主イエス・キリストの十字架は、誤った栄光をすべて断ち切るものです。

オリーブ園の新着ブログに、オースチン-スパークスの「主の御腕」が掲載されている。

誰もが知っているイザヤ53章、キリストに関するあの有名な詩編は、次のように始まる。

「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。
 の御腕は、だれに現れたのか。」(イザヤ53:1)

これは矛盾に満ちた始まりである。オースチン-スパークスは記事全体を通して問いかける。「主の御腕は誰に向かって伸ばされたのか?」と。つまり、「神は誰を擁護されたのか?」、「神が満足される人の姿とは、どのようなもので、どのような条件を備えた人を、神はご自分の僕として力強く弁護されるのか?」

この問いかけが極めて重要なのは、それが次のようなくだりとも呼応しているからだ。

わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が、みな天の御国にはいるのではなく、ただ、天におられるわたしの父みこころを行なう者がはいるのです。」(マタイ7:21)。

「主よ、主よ」と日々熱心に祈る人々は、いかにも外見は敬虔そうで、天の御国にふさわしい信者に見えるかも知れない。多くの証を語り、ひざまずいて涙して祈り、たくさんの奇跡を経験し、人々をキリストのもとへ導いているように見える信者たちがあるかも知れない。

だが、神は、あくまで人の外見や行動ではなく、心をご覧になられる。その人が何をしゃべり、行なっているかではなく、その人が「父のみこころを行なっているかどうか」を基準にすべてを判断されるのである。

そして、一体、「父のみこころ」とは何であるのか。イザヤ書の上記のくだりを読んで行くと、神が満足される条件を備えていたただひとりの人であるキリストは、何ら人の目から見て賞賛されるべき特徴を持たなかったこと、世間で敬虔な信者として認められるために今日多くの人々が熱心に求めているすべての条件において、むしろ完全に規格から外れていたことが分かる。

「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、
 輝きもなく、
 私たちが慕うような見ばえもない。
 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
 悲しみの人で病を知っていた。
 人が顔をそむけるほどさげすまれ、
 私たちも彼を尊ばなかった。」(イザヤ53:2-3)

このような人は、今日の教会からも「のけ者にされ」相手にはされるまいと思う。

だが、今日、信者は、イエスに従い、日々自分の十字架を負って彼に従おうと決意するとき、果たして、自分も主が通られたこの道を通り、父なる神の御心を真に満足させる人となりたいと願うだろうか?

たとえ自分の願望が否定され、自分のプライド、名誉欲が傷つけられ、人に賞賛されることなく、疎んじられ、裏切られ、蔑まれることになっても、本当に、古き自己のものが十字架につけられ、自分が主の御前に恥を受け、低められることに甘んじることができるだろうか? そのようなことを人は決して自ら願わないが、もし主の御心ならば、自分がキリスト共に十字架につけられることに信者は同意することができるだろうか?

聖書にはこんなくだりもある、

「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現れます。しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕えて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。

それはあなたがたのあかしをする機会となります。それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。どんな反対者も、反論できず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。

しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もあり、わたしの名のために、みなの者に憎まれます。しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。」(ルカ21:10-19)

そろそろ、この終わりの記述が少しずつ近づいて来たようである。殉教者以外は「髪の毛一筋も失われることはない」と言われている。それが復活の体のことなのか、それとも、地上における体を指しているのか、筆者には分からない。

主がご自分に忠実に従う者を守って下さることがよく分かる記述である。おそらく、もし殉教しなければならない者がいるとすれば、そのことも主は事前に知らせて下さるだろうと筆者は確信している。

だが、それにしても、とにかく、すさまじい記述である。「両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られる」。誰がそのようなことを願うであろうか。

しかし、筆者はこれをあらかた実際に経験して来たのでよく意味が分かる。特に今日、クリスチャンを名乗る者がクリスチャンを裏切り、売り渡すということがどれほど現実味を帯びているか、よく理解できる。十字架に敵対する者、十字架を通らずに神に至ろうとする者があまりにも多いからである。

そこで、もし自分の十字架を真に負って主イエスに従おうとする者が現れるなら、この世全体が(特に、クリスチャンを名乗っている者たちが)立ち上がって反対する、「そのようなことは正気の沙汰ではないのでどうかやめてくれ、あなた一人に本当に十字架に赴かれたら、我々全員の嘘がバレるので迷惑だ、どうか我々の商売を妨害しないでくれ」と言って引き留めようとする。その説得もかなわないと、ついに「狂信者」というレッテルを貼って排斥するのである。人を喜ばせる偽りの砂糖菓子のような「十字架」を拒み、この世と調子を合わせたご都合主義的な福音と訣別し、真に聖書の御言葉に立脚して生きるような信者は「悪魔の使い」とされて排斥される、今日の情けない似非信仰者たちの実態である。

そういう者たちからの裏切りが起きたときには、人は混乱したり、原因を色々考えたりしない方が良い。原因を探す必要などない。それは聖書が予告していることだからである。

だが、それにしても、筆者の経験も、まだ聖書の記述の深さにまでは達していない。似たようなところは常に通ってはきたが、いつもどこかに祈ってくれる者や、励ましてくれる者たちも主が備えて下さり、「わたしの名のために、みなの者に憎まれます。」言葉という言葉の深さにまでは達していない。次第に、しかし、時が縮まっていることは感じられる。

主イエスは最も身近な弟子たちにも裏切られ、見捨てられ、一人で十字架に向かわれた。確かに、そのためにこそ、私たちは死から救われ、贖われ、命を与えられた。まず、神が愛する独り子の命を、不従順な我々の贖いの代価として差し出して下さったのである。

だが、だからと言って、神は、この苦しみを御子だけに押しつけておいて、あたかも自分だけは一切、何の苦しみも悲しみも味わわずに、十字架の死など絶対に通らず、ハッピーな人生を送りたい、愛する人々と常に手を携えて、孤独を知らずに共に歩み、仲間に裏切られたり、憎まれるなどまっぴらだ、そのように自分は決して傷つくことも蔑まれることもない安楽な人生のために神を利用し、御言葉を利用して、自分を立派な信仰者として飾り立てたい、と願う似非信者によって、侮られ、利用されるようなお方ではない。

だから、信じる者は、そのようにならないために、常に自分の命を拒んで十字架を取り、主イエスに自ら従う決意が求められているのである。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かに実を結びます。

自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたし仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」(ヨハネ12:24-26)

私たちは人生においてしばしば激しい戦いを通過する。その時、信者は自分は神に守られていると思っているかも知れない。だが、神の側には、私たちを擁護するにあたり、外せない条件があるのだ。それが、信者がカルバリに留まり続けるという条件である。

だから、もし信者の側がその条件を満たしていなければ、誰であろうと、最も重要な決戦の時に、自分から力が失せていたことを知らないまま、敵にやすやすと捕らえられたサムソンのようになる可能性がないとは言えない。デリラを愛しすぎたことが、サムソンの弱点だったと言って、これを他人事のように笑う人々は多い、しかし、デリラとは、人のセルフなのである。それが分かれば、サムソンを笑える人は誰もいないであろう。

主の御腕は誰に向かって現されたのか、神はどのような人をご自分の民としてお認めになり、どのような人を力強く弁護し、守って下さるのか。

主の御腕は誰に現れたのか。

十字架は、決して人にとって心地よく、優しいものではなく、人の五感にとって甘く、麗しいものでもない。カルバリには人が慕い求めるどんな見ばえの良い姿も、輝きもない。カルバリには何の栄光もなく、人からの賞賛や理解もない。そこにはただ十字架につけられたキリストがおられるだけである。それでも、その栄光の消え失せた十字架に主と共にとどまり、これを自分自身の死として受け取り、全焼の生贄として静かに祭壇に身を横たえ、御言葉が実際になることに同意するだろうか。

十字架を回避して、己を神と宣言する人々が身近に増えて行くに連れて、筆者は厳粛にそのことを思わされる。一体、どれだけ大勢の人々がこの先、惑わされるのであろうか。そして、誰が十字架にとどまり続けるのであろうか。

人にはできない、しかし、神にはできる。駱駝に針の穴を通過させるのは、神の仕事である。お言葉通りになりますようにと応答するのが信者の側の仕事である。

その時に、主は御腕を力強く伸ばされ、山々を割いて降りて来られ、山上の垂訓のあの完全な統治を信者は生きて知るであろう。しかし、今、ダイナミックな復活の命の統治だけに注目するよりも前に、人に注目されることのないこの霊的死の意義にあえて心を向けたいのだ。たとえ主が御腕を力強く伸ばされ、ご自分の民を人知を超えた力によって擁護して下さるその光景を見ても見なくとも、主の御腕の守りの中にとどまり、人に承認されるのでなく、神に承認される者として生きたいのである。

神のこの奇妙な道はなぜか?

 さて、このような反応をすべてまとめると、神が御腕を現す方向に向かって動かれる時の、神の深遠な道を目の当たりにすることになります。神の道は何と深遠なのでしょう!何と神秘的なのでしょう!何と見出しがたいのでしょう!そして、ああ、神の道が分かり始める時、それは何と驚くべきものなのでしょう!私たちはこの御方が神の御子であり、人の贖い主であることを知っていますが、この御方に対して人の思いが下すこの解釈や判断について考える時、このような道は神の深遠な道であることを認めないわけにはいきません。神は動いておられます――常に動いておられ、堅い決意をもって、毅然として動いておられます――御腕を現す地点に向かって動いておられるのです。これが神の道であるとは、凄いことではないでしょうか?

 さて、ここで二つの疑問が生じます。一つは、「なぜ世の人はこのエホバの僕に対して、このような普遍的反応を示すのだろう?」という疑問です。クリスチャンとしての私たちの観点からすると、人が普遍的にこのような判断や反応をすることができるとは驚くべきことです。しかし、事実、人々はそのような判断や反応をしたのです。さらに、これは依然としてそうであることを、私たちは知っています。この世の人々の思いからすると、この十字架に付けられた御方には慕うべき点は何も見あたりません。

 第二に――おそらく、この疑問はこの問題全体の核心・根幹にさらに迫るものですらあります――「なぜ神は、人からのこのような反応を避けられない、このような道をわざわざ取られたのでしょう?」。この道は本当に奇妙です。まるで人からこのような反応を引き出すために、神はこの道を行かれたように思われます。なぜ神は誰からも認められる「まったく愛らしい」御方、一目見ただけで誰からも受け入れられる立場にある御方を遣わされなかったのでしょう?なぜ神は御子を遣わすとき、威厳、光輝、栄光の中で遣わされなかったのでしょう?なぜ彼は最初に天からのあらゆるしるしを示して、すべての人が見るようにされなかったのでしょう?なぜ神は、このような反応を生じさせる道をわざわざ取られたのでしょう?神はわざとそうされたように思われます。そのような反応は必然的でした。イザヤが描いたように、この絵を描いて下さい、「彼の顔立ちは損なわれて人と異なり」――その姿は「人の子と異なっていた」。他にも詳しく記されています――次に、この絵を持ち上げて、「これがあなたの贖い主です!」と言ってみて下さい。神は人を驚かせて憤慨させる道を、わざわざ取られたように思われるでしょう。

 そして、神はそうされたのです!しかしなぜでしょう?

人の間違った価値観のため

 今や、この現実的問題にかなり迫っています。人の価値観はまったく間違っており、神はそれをご存じなのです。人の価値観はまったく完全に間違っています――なぜなら、それは人の自尊心の所産だからです。次のような言葉は自尊心が傷つけられたからではないでしょうか。「こんな水準まで降りなければならないだって!自分の救いのために、そんなことを受け入れなければならないだって!こんな水準まで身を低くしなければならないだって!絶対嫌です!そんなことは人の性質に反します!」。そうです、これは人の性質には人の高ぶりによって生み出された全く間違った価値観が備わっているためなのです。ですから、この受難の僕という思想は人の自尊心にとって侮辱であり、つまづきであり、人の価値観に対する挑戦なのです。まさにこの理由により、ユダヤ人も異邦人もこの知らせを受け入れようとしませんでした――自尊心がそれを許さなかったのです。私たちは次のように歌います。

 「素晴らしい十字架を見渡す時
 私は自分の自尊心をまったく蔑みます。」

 これが十字架の及ぼす影響であるべきです。しかし、そうではありませんでした。人はこのような者なので、人の自尊心はそれを受け入れようとしません。ですから、「彼はさげすまれ、拒絶された」のです。「彼には私たちが慕うべき美しさは何もありません」。

 私たちの主イエス・キリストの十字架は、誤った栄光をすべて断ち切るものです。十字架は人の自尊心や尊大さのまさに根本を打ちます。十字架は人自身の威信や価値観に基づく生活の根本を打ちます。たとえ、この世の観点やこの世の価値観からすると、人はひとかどの者になって、それなりのものを得ることができたとしても、また、先天的あるいは後天的に、自分の頭脳や賢さによって、熱心に働いたり学んだりすることにより、人は何らかの地位、栄光、成功、威信を得ることができたとしても、もしあなたや私が神の御前でそのようなものに基づいて生活するなら、私たちもまた神の価値観に完全に反している人々と同類と見なされるでしょう。

2009年10月14日 (水)

蘇生する自己

さて、皆さん、お久しぶりです。

関東に来てからしばらく、ブログを更新するという重荷からも逃れて(笑)、夢のように解放的で充実した日々を送っていました。長らく記事を書いていなかったので、私のブログ読者は半分以下に激減したようですが、それもかえって嬉しく感じられます。過去にためこんだあれやこれやの荷物をきれいさっぱりと捨てて、日々の十字架だけを背負って、つつましい、新しいスタートを切ることができるのは、またとない幸いです。

人に言わせると、「ヴィオロンは著しく変わった」のだそうです。本当にそうなのでしょう。去る8月25日、紛争の絶えなかった我が家と、その我が家のために、救いがたく病んでいた私に、神が大いなる憐れみを注いでくださったその時から、私は十字架上で、御子イエスと共に自己に死に、イエスの復活の命をいただいて、御霊によって生きるように変えられました。以来、筆舌に尽くしがたい不思議なことが周りで起き、それからわずか1ヶ月の早さで、私は我が家を離れ、今住んでいる土地へとやってきました。この「エクソダス」は、エクレシアに連なりたいという動機だけに基づいて行われたことであり、それはどうやら、神の御心にかなって与えられた願いのようです。この計画にまつわるすべての事柄に関して、主は完璧すぎるほどに準備を整えてくださいましたので、私は何の問題もなく引越しを完了することができたのです。

しかし、解放感に浸るのはそろそろ終わりにしましょう。ここからが今日の記事の本題です。今、先人の言葉を参考にしながら、記事を書いています。

私が経験したのと同じようにして、キリスト者は、ある日、突然、何か劇的な事件が起こって、あるいは、些細な事件を通して、「十字架によって自己に死ぬとは何なのか」を学ばせられる体験をするかも知れません。その時、私たちは自分の弱さ、醜さを徹底的に思い知らされ、人知の癒しがたく腐敗していること、人間が魂の底まで、救いようなく堕落しており、生まれながらの人間から発生するどんな善良さも、絶望的なものであり、腐敗していること、人間には微塵もきよさはないこと、神の助けなくして、人間は一瞬たりともまともに生きられない邪悪な存在であることを思い知らされます。

御霊を通してやってくる真理の光に照らされ、私たちは絶体絶命へと導かれ、そこで自分たちの無力と腐敗を知ります。私たちは神の御前に万策尽きた状態となり、どんなあがきも、試行錯誤も、あの手この手も、自分を生かす力がないことを知ります。完全にお手上げです。私たちには、目の前にたちはだかる困難に立ち向かう力は全くありません!万策尽きました! 主よ、助けて下さい! それが、私たちが、自分の自己に対して、徹底的に殺される瞬間に、心の底から出て来る叫びであることでしょう。今までのプライドは打ち砕かれ、誇りにしていた経験も何の役にも立たず、知識は私たちを裏切り、感情は不毛な叫び声をあげるばかりです。私たちは、世間からどんなにみっともなく思われようとも、その時、ただなりふり構わず、神に助けを求める以外には、もはや何もできないことを知ります。こうして、私たちは、自己に死なされます。

その後、自己に死んだだけで終わるのでなく(それでは無意味です)、十字架を通して、イエスの復活の命が私たちに適用されるなら、私たちは、絶体絶命をくぐりぬけて、今まで経験しなかったような新たな力によって、自分が生かされていることを知るでしょう。ふと気づけば、あれほど強固に自分を苦しめていた縄目が地に落ちて、私たちは自分が勝利を得たことを知るのです。今まで知らなかった新しい命が自分を生かしていることを私たちは見ます。それは自分の力では決して得られなかった勝利です。ですから、私たちは、今や上から与えられた力が自分を生かしていることを知るのです。そして喜びのゆえに主を賛美します。主は新しい命を私たちに与えて下さったのです! ハレルヤ!

しばらくの間、この驚くような新しい力と、いまだかつてない勝利に、私たちは酔いしれます。聖なる御霊が自分の内に宿っていることを知り、聖書の御言葉が驚くほどよく分かるようになり、何かしらの啓示さえ受けるかも知れません。それまで、心の中にさんざん生い茂って、真理を阻んできた自己という雑草がことごとく取り払われたおかげで、私たちは自分が聖別されたことを感じ、霊的視界がクリアになり、どんな物事も澄んだ目で見られるようになったような気がします。自分が神に愛されている存在であることを前よりももっとはっきりと感じ、今までよりも、もっと親しく、近しく、主に向かって祈り、願うことができるようになったと思います。

しかし、ここで私たちは、勝利を得たのでもう学習は終わった、などと決して思うべきではありません。「私はすさまじい体験をくぐりぬけたおかげで、他人より抜きん出て霊的な人へと変えられた。私は勝利を得たのだから、もう二度とかつてのような事件は起きないだろうし、これ以上、自己に死ぬということを私は学ぶ必要はない」、とは、決して思うべきではないのです。

まず、私たちが経験した事件が劇的であればあるほど、それは、誇るべき経験ではなく、むしろ、私たちのしぶとく頑固だった自己を殺すために、神はそれほどの大事件を必要とされたという事実を見るべきです。私たちの自己は、ひょっとすると、悪質なゴキブリの千倍、万倍も、頑固でしぶとく、殺しても死なないほどの生命力を持っていたのかも知れません。いや、そうであるはずです。だからこそ、そのように腐敗しているにも関わらず、強靭な生命力を持った魂と肉体(自己)に死ぬということを私に経験させるために、神は特別な事件を私のために用意しなければならなかったのです。私の自己が他人と比べてあまりにもわがままで、しぶとく、腐敗しきっているために、神には大がかりな事件によって私を打ち砕く必要があったのです!

こうして、十字架という、罪を駆除する最も強力な光の照射によって、私たちの自己は、ある日は殺されたかも知れません。そして復活の命に生きる喜びを、私たちは全身全霊で感じたかも知れません。しかし、自己は一旦殺されても、時間が経つと、また蘇生してくるのです(蘇生とは、あるキリスト者の表現)。それはちょうど、一旦きれいに庭を掃除して、雑草を刈り取っても、手入れを怠れば、庭には再び雑草が生い茂るのと同じであり、退治しても、退治しても、また害虫がどこからか家に入り込んで、住み着くようになるのに似ています。

仮に私が昨日、どんなに徹底的に、大々的に、ドラマチックに、キリストの十字架を自分のものとして受け取って、自己に死に、キリストの復活の命によって生きることの意味を学んだとしても、それは私の今日の糧とはなりません。昨日の勝利は、今日の勝利にはならず、今日、私が自己を否んで、キリストの十字架を負っていることの何の証拠にもならないのです。

人は日々、自分の十字架を負って、イエスに従わなければいけません、自分の天然の命を拒否して、キリストの命を選び取ることを続けなければならないのです、その日々の十字架を負うことは、決して、どこかの団体や組織へ熱心に奉仕することと取り違えられてはいけません。日々の十字架を負うとは、まず何よりも第一に、真理なるキリストの光に照らされて、私たちが、自分の生まれながらの自己の本当の醜さを知り、それに絶望して、自己を否み、キリストを選ぶことを指しているのです。

私たちは自分の生まれつきの自己がどれほど癒し難く腐敗しているか、どれほど邪悪であるか、私たちの生まれつきの姿が、どんな犯罪者にもまさって、最悪の最悪の姿であるかを、直視しようとしません。それを直視することには大いなる痛みが伴うからです。私たちの肉体も、魂も、痛みを伴う事件を避けようとします。過去に大失敗があったからと言って、それでもまだ私たちは、それが自己の腐敗した本質によって引き起こされたという事実を直視しようとしません。むしろ二度と同じ痛みを味わわなくて済むように、こざかしいあの手この手を考え出すばかりなのです。そうやって、自己の本質を直視する痛みを避けて、自己を美化する楽な道を選び、毎日、自己を甘やかし、大目に見、自己を立て、自己から来る力を楽しんで生き、それを誇り思い、自己に栄光を帰そうとして、あれやこれやと計画し、走り回って活動しているのです。キリストのため、と言いながら、その実、活動しているのは私たちの自己なのです。

自己はまさしく欺きの天才です。ちょうど暗がりに隠れたゴキブリが、人のいないところを見計らって、夜半にこっそりと出て来るように、私たちの自己も、私たちの思いを欺いて、キリストの真理の照射する殺人的な光線を何とかして避けて、自らを生き延びさせようと、あらゆる狡知をめぐらします。自己は宗教活動にも偽装しますし、信仰にも偽装します。何にでも化けるのです。この自己の欺きを看破し、その策略を微塵に打ち砕くことができるのは、ただ御言葉――真理なるキリスト――まことの光だけです。私たちが自分の力でどんなに自己を鎮めようとしても、それは無理です。私たちは自分の力で、自己に死ぬことはできず、自分の力では、キリストの復活の命を受け取ることもできないのです。

方法は一つだけです、光の照射です。私たちが日々、まことの光に照らされて、自己の腐敗性、絶望性、無力さ、邪悪さを知り、その自己を神の御前に汚れた、忌まわしいもの、呪われたものとして拒否し、その代わりに、キリストの復活の命を選び取り、その復活の命によってのみ、生き、活動することが必要なのです。それには痛みが伴うでしょう! あなたは自分が無力になって、打ちのめされたと感じ、失望し、見込みを失うでしょう! 愕然とし、恥じ入り、頭を垂れるしかないでしょう。しかし、それは幸いな時です、この痛みを伴う訓練は、生きている限り続くものであって、誰一人として、その訓練はもはや自分には必要なくなったと言える人はいません。自分の十字架は日々、負わなければならないものなのです! 

ですから、私たちは(できるならば、毎日の生活のごく些細な事柄を通して)、何が自己から来る力であり、肉と魂の衝動に由来する忌まわしいエネルギーであるか、学ぶ必要があります。何が天然の命から生まれる願いや力であり、何が御霊から来る、御心にかなった願いと力なのか、識別することを学び、自己から来る力を行使しないことを学ぶ必要があります。
(注意していただきたいのですが、自己を否むとは、決して、自分の意志を放棄することではありません。それは決して、信徒が自分の意志を放棄して、誰か指導者の命令や思惑に妄信的に振り回されたり、何らかの教義の奴隷状態に陥ることを意味しません。私たちはあくまでしっかりした自分の意志を働かせつつ、自己を否み、キリストを選ぶのです、自分の自己を十字架上でキリストと共に死んだものとして拒否し、人の思惑ではなく、御霊の導きに従うことを選択し続けるのです。)

この毎日の学課(私たちが自己の絶望的な本質を知り、それを拒否して、真理に忠実に聞き従うこと)を的確に行うならば、神は私たちの自己を打ち砕くために、わざわざ大がかりで悲惨な事件(大失敗や絶体絶命の危機)を用意する必要はなくなることでしょう。しかし、私たちがかつてのある日、自分の自己が十字架につけられて死に、その代わりに信仰によってキリストの復活の命を受け取った、という体験の上にあぐらをかき、それに慢心し、日々、自己の厭うべき性質を知ることをやめて、自分の腐敗した性質を見ようとせず、むしろそれを甘やかし、増長させていくならば、神はその肥大した自己の忌まわしい性質をあなたに知らせ、それを断ち切るために、ある日、あなたが考えもしなかったような悲惨な失敗の体験をあなたの身に起こさなければならなくなるでしょう。

そんなわけで、大きな勝利が得られて、物事が順調に行き、自分がきよめられて、霊的になったように感じられ、神から特別に恵まれているとさえ思われるほどに幸福な時には、普段以上に注意が必要かも知れません。富んでいる人が天国に入ることは難しいと警告されているのです! 人の生まれながらの自己は、永遠の命を継ぐことはできません! その富が、勝利が、自己を慢心させ、肥大化させ、御霊に従って生きる道を奪うきっかけとならないよう、私たちは気をつけなければなりません。

信徒が自己を否んで御霊の導きを選び取り、キリストの復活の命によってのみ生きることを学ぶ学課は、私たちが地上を歩む限り、決して終わることはないのです。どうか、神が私を憐れんで下さり、私が日々負うべき、痛みを伴う十字架とは何かを、はっきりと悟ることができるようになり、それを避けようとすることがなくなっていきますように。