キリストと共なる十字架における自己の死

2017年2月15日 (水)

地上にあるものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(Ⅰペテロ1:8-9)

今ほど、この御言葉がしっくり感じられる瞬間はないような気がする。

少し前の記事で、筆者は「キリスト者の新しい時代の幕開け」と書いたが、この度、大きなエクソダスがまた一つ達成された。今や聖徒らが、差別と搾取に基づく牧師制度を肯定するプロテスタントと訣別し、キリスト以外にどんなリーダーもいない、信徒一人一人が直接、キリストにつながり、御霊を通して神ご自身から御言葉を教わり、信徒がみな対等な兄弟姉妹としてエクレシアに連なる万民祭司の理念がまさに実現しようとしているのである。

2009年、既存の教会組織に疑問を持ち、真実な信仰を求めて、神だけに従うために出発する多くのキリスト者が出現していた頃、彼らが一様に見ていたのは、まさにこのような展望であった。

つまり、しみもしわもないキリストの花嫁にふさわしいまことの教会の姿を、みな一心に追い求めていたのである。

2000年以上前に、主イエスが地上に来られ、十字架の死と復活を経験され、信じる者に御霊を与えて下さった時に、万民祭司の時代はすでに始まっていた。だが、それにも関わらず、地上に広がったキリスト教界の宗教組織は、常に人間的な思惑に基づき、この世との妥協を重ね、後退を繰り返して来た。

その結果、聖書の御言葉を通して、信じる者に与えられたとてつもない特権、キリストのものとされ、神の子供とされた信者たちが持つ絶大な特権が、常に骨抜きにされ、値引きされ、曖昧にされ、過小評価され、ごまかされ、水で薄められ、掠め取られ、否定され、悪魔に奪い取られて来たのである。地上のキリスト教組織は、いつの時代も、始まるや否や、もう聖書の御言葉から逸れ、御霊の息吹のない、聖書におけるエクレシアとは似ても似つかない、死んだ組織と変わり果てていた。だが、地上の宗教組織が、世と妥協を重ねる一方、そこから出て、聖書に立ち戻ろうとする新たな信仰復興運動も、常に生まれて来たのである。

プロテスタントも、当初は信仰復興運動として始まった。この運動はその名の通り、何よりもカトリックの堕落や腐敗に対する抗議運動として登場し、既存の宗教組織に対する強い疑念のもとに、聖書に立ち返ることを目指して始まった。プロテスタントは、聖書の各国語への翻訳などの事実にも見られるように、それまでカトリックでは聖職者だけが独占していた聖書の真理についての知識を、一般大衆に解放すべく努力し、世界の隅々まで伝道を繰り広げることにより、無学で貧しい人々を含めた世界中のあらゆる人々に福音を宣べ伝えることをその使命とした。プロテスタントは、その興隆の時期が資本主義の発展に重なることにも見るように、大衆向けの大規模伝道を繰り広げ、それによって来たるべきマスメディアの発展の基礎をも築いた。

プロテスタントの中には、義憤に基づく革命的な体制転換の試みと、すでに述べたように、労働に基づく人間の自己変革の試みや、さらに、大規模に大衆に訴えかけるマーケティングの手法などといった、資本主義のみならず、その後の社会主義思想の土台ともなる発想や、現代社会における様々な大衆向けの運動の土台となる発想が山のように込められていたと言えるかも知れない。

しかしながら、そのプロテスタントも時と共に腐敗し、もともとこの運動が持っていた地上的な要素の問題が明らかになった。既存の宗教組織に対する強い抗議の精神は、カトリックなどの別宗派に向けられるだけでなく、プロテスタント内の信者たちにも向けられて、教義や解釈の違いからくる様々な相克や分裂を引き起こした。その結果、プロテスタントの中には、それぞれ異なる教義を提唱する数えきれないほどの教団教派が生まれ、さらにそれらの組織が互いに反目し合って、時には同士討ち的な争いを繰り広げ、教会同士のいがみあい、対立が常態化した。また、マスメディアを用いた一般大衆向けの大規模伝道も腐敗して行き、ペンテコステ運動の指導者のようないかがわしいにわか伝道者たちが、一獲千金のために大衆を欺いて繰り広げる偽りのミニストリーにも、存分に活躍の機会を提供することになった。

プロテスタントは、カトリックが隆盛を極めた時代に、聖職者たちだけによって独占されていた聖書の真理を一般大衆向けに解放するという点では、確かに巨大な役割を果たしたが、その解放は、不完全なものであった。プロテスタントは、カトリックのように統一された強固な聖職者のヒエラルキーを持たなかったものの、牧師制度を肯定していたことにより、神と信者との間に、キリスト以外の目に見える人間を仲介者として置き、信者が直接、神から御言葉を教わるのではなく、牧師という目に見える人間の理解や解釈のフィルターを通して、聖書の真理に接触するようにし向けたのである。

プロテスタントの信者は、特定の牧師の牧会する教会に身を置いている限り、どんなに自分自身で聖書に触れて理解しようとしても、結局、牧師の限られた理解の範疇から出ることを許されず、常に牧師という親鳥が咀嚼してかみ砕いた乳のような餌を、口づてに与えられる幼鳥の立場を抜け出せなかった。信者は教会の中で、もしも聖書について、牧師の理解と異なる主張をすれば、即、異端者として教会を追放されるしかなかった。このような牧師制度が生み出した制約は、信者一人一人の信仰の自主的な成長を妨げ、信者がキリストの身丈にまで達することを著しく妨げる要因となった。

結局、プロテスタントにおいては、聖書の真理が、カトリックの聖職者の独占状態からは解放されたものの、今度は、牧師によって独占され、信徒一人一人が、直接、キリストに結びつき、御霊によって直接、御言葉を教わりながら、キリストにある成人にまで成長するという、聖書によればごく当たり前の真理が、制度的に妨げられたのである。こうして、万民祭司の理念は、謳い文句にとどまり、実現しなかった。

プロテスタントの持つこのような制度的な欠陥のゆえに、やがてプロテスタントという宗派そのものが、聖書の真理を持ち運ぶ宮というより、聖職者階級を支えるための母体と化してしまった。それと共に、プロテスタントの大規模伝道の形態も堕落して行き、それは聖書の真理を忠実に大衆に伝えるものよりも、信者を欺いてこの母体の中に閉じ込める手段と化した。

大衆への大規模伝道を繰り広げることにより、プロテスタントが、全世界の隅々にまで福音を宣べ伝えるという使命を果たした時、この宗派は、それと同時に役目を終えたのだと言えるかも知れない。今やインターネットも普及し、ごく限られた僻地や少数民族を除いて、世界のどの場所でも、非キリスト教国であっても、聖書の福音に触れることは難しくない。

こうして、全世界に福音が届けられた時、クリスチャンの信仰生活には、それまでとは異なる時代がやって来たのである。それは、今までのように、対象を選ばずに無差別的に誰にでも福音が語られる時代から、福音を聞いた者が、聞いた御言葉に従うかどうかによって、一人一人の内面が試されるという時代である。

既存のキリスト教界の組織から脱出する者たちが現れていた当時、一時、「御言葉の飢饉」という言葉がよく聞かれた。それは、フェイクと化した大衆向けの伝道ばかりが巷に溢れる中で、真実、神に従いたいと願う純粋な信者たちが、心から御言葉を宣べ伝える声がほとんど聞かれなくなったという嘆きでもある。

万人に無差別的に福音を宣べ伝える大衆向けの伝道は、全世界に福音が宣べ伝えられた時点で、使命を終えたのだと言えるのではないかと思う。大衆伝道は、福音を知らない地域にいる福音を知らない者たちを対象にしてこそ意味があるのであって、福音を何度、聞いても、真理に聞き従う気のない者たちを対象にするのでは意味がない。また、信者たちが「堅い食物」を自分で採るようになって、聖職者階級を必要としなくなることがないよう、いつまでも信者を霊的幼児にとどめおくために、この世的な舞台演出のちりばめられた各種のいかがわしい大衆向けのミニストリーに引きつけておくのでは意味がない。

こうして、すでに使命を終えたにも関わらず、依然として、続行される無差別的な大衆伝道という手法は、ただ時代遅れであるだけでなく、有害な結果を招くようになった。教会は本来、聖書の神の救いを個人的に信じて受け入れ、贖われた者のためにあるはずにも関わらず、大衆伝道の旗を掲げているうちに、いつの間にか、不信者にも門戸を開き、教会の奉仕の対象が、神から大衆へとすり替わって行ったのである。

大衆伝道の旗を降ろさないために、教会は、御言葉に従順でなく、教会にも福音にも理解を示さない、この世の不信者ら(しばしばカルト宗教の信者)にさえ、自ら歩み寄って、贖われない大衆の利益に積極的に仕えることで、彼らの心を引こうとした。そうした妥協の結果、教会には不信者も数多く入り込み、贖われた者とそうでない者との区別は消え、教会はこの世の人々に対するマーケティングのために、ますますこの世的な手段を公然と駆使するようになり、聖書から遠ざかり、ただ大衆を喜ばせるための単なる奉仕活動の場へと転落して行った。

こうして、プロテスタントの多くの教会からは、世に厳しく罪を指摘して悔い改めを迫るメッセージや、心飢え渇いた信者たちに真にキリストの御言葉の衝撃力を伝えるメッセージが消え、教会は、すべてのものの上に立つかしらであり、一切の権威をこえる権威であるキリストの権威と支配を自ら捨てて、堕落したこの世の支配に屈し、その結果、世の支配下で踏みしだかれて、塩気を失ってしまったのである。

このように聖書から離れて世の方を向き、キリストの香りを失ったプロテスタントの多くの教会に代わって、今や、聖書の真理を担う、新たな信仰復興運動が必要とされているわけだが、その形態は、どのようなものになるのか、少し考えてみたい。

当ブログでは幾度となく繰り返し引用して来たオースチン-スパークスの「私たちのいのちなるキリスト」の一部をもう一度引用したい。

時代が終末――キリストの現れ――に向かって進むにつれて、二つの特徴がますます明らかになるでしょう。

一方において、事物、人、運動、制度、組織などが優勢になり、大衆を引きつけ、群衆をとらえるでしょう。
他方、そうしたものへの失望と幻滅が増大し、少数の人々が主ご自身に立ち返り、彼だけが自分のいのちであることを見いだすでしょう。


こうしたことには三つの要素があるでしょう。

第一は、反キリストの原則の明確なる発展であり、それはキリストに取って代わるか、取って代わろうとするでしょう。

第二は、人造のキリスト教内のキリストご自身の代替物であり、自らの勢いで生成発展する偽りのいのちです

第三は、真実、真理、主ご自身を知る内なる知識を求める、深い純粋な探求です。

第一の場合、人間の力が崇拝され、ヒューマニズムが大いに氾濫し、人の驚異と栄光がたたえられるでしょう。第三の場合は、いのちであるキリストがすべてでしょう。

教え、伝統、制度、運動、人などの何物かにクリスチャンが帰属するなら、必ずいのちが制限される結果になるでしょう。そして、やがて混乱と幻滅が生じ、おそらくもっと悪いことになるでしょう。新約聖書がまごうことなく明らかにし、強調しているように、万物の運命は「キリストがすべてのすべて」となることです。

この短い引用文の中に、奇跡や、お涙頂戴の信仰の証や、名だたる宗教指導者や、ヒューマニズムに支えられる各種の救済事業などを売り物にして、大衆の心を引きつけ、牧師制度を通して、人間に栄光を帰するプロテスタントの大衆伝道のあり方が、今日の終末の時代においては、むしろ、反キリストの支配の手段とされつつある現状を見ることができる。

神に仕えることを第一とせず、聖職者階級と、この世の一般大衆(人間)に奉仕することを何より重んじ、この世の社会を発展させることを目的に、各種の支援活動を繰り広げるプロテスタントは、もはやそれ自体が「人造のキリスト教」と化して、キリストの命を失っているのであり、それ自体がフェイクと言って差し支えない体系になっているのである。そこで一般大衆に提供される「支援」は、神の救いからはほど遠い、地上的・物質的な利益に過ぎず、そこで信者たちが行う熱心な奉仕や学びも、「自らの勢いで生成発展する偽りのいのち」であって、「キリストのまことの命の代替物」でしかない。どんなに信者が奉仕と学びを重ね、鍛錬を積んでも、キリストの真の命とは全く無関係のまま、堕落した「セルフ」は十字架の死を経ることはなく、ますます神に逆らう堕落した人間の自己と欲望が高められ、人類に栄光が帰されて終わるだけであって、そこに神の栄光につながるものは何も存在しない。

このように神への反逆の殿堂と化した「人造のキリスト教」の中から、大衆を苦難から救う救世主を騙る反キリストが登場して来るまで、もうあとほんのわずかな期間を残すばかりである。

これ以上、「人造のキリスト教」についての描写を続けることは無用であろう。それよりも、今回の記事では、「そうしたものへの失望と幻滅が増大し、少数の人々が主ご自身に立ち返り、彼だけが自分のいのちであることを見いだ」し、「真実、真理、主ご自身を知る内なる知識を求める、深い純粋な探求」が生まれるという、後半部分に主眼を置いており、ここにこそ、限りない希望を見いだしている。腐敗した偽りの体系からはエクソダスして、真実、神ご自身を求める信仰者の群れが出現するのである。

信者の人生には、決定的に重要な霊的「エクソダス」の瞬間が幾度かある。それは信者が偽りと知らずに接触して来たこの世の体系からの分離の瞬間である。その「エクソダス」の中には、偽りの宗教体系からの脱出も含まれる。

信者は、キリストと共なる十字架の死を通して、この世に対して死ぬことを知った後も、世と深くつながっている堕落した偽りの体系に知らずに接触することがあり、そのような場合には、真にキリストだけに従いたいなら、偽りと気づいた瞬間に、そこから自らを分離せねばならない。この分離は、信者が神に逆らう全ての思想から自分自身を分離することを意味し、必ずしも物理的・地理的な脱出を伴うものではない。

筆者のこれまでの経験からも言えるのは、信者の「エクソダス」の瞬間には、嵐のような多くの激変や圧迫が観察されることである。偽りの体系は自らの奴隷を一人でも逃がすまいと追っ手を遣わし、信者の人生には、しばしば、未だかつて起きなかったような圧迫がもたらされる。だが、モーセが民を率いてエジプトを脱出する際に、どれほどの苦労を払わねばならなかったかを考えれば、それは全く不思議な現象ではなく、さらに、それは信者が心を騒がせるに値する事件でもない。信者を引き戻そうとする全ての圧迫にも関わらず、御言葉の真実のゆえに、信者を「マトリックス」につないでいたへその緒は全て断ち切られ、ファラオの軍隊は水に沈み、エクソダスは完了するのである。

さて、2009年当時は、日本各地に、代償を伴う厳しいエクソダスの過程を経て、キリストに贖われた信者たちが、まるで若々しい新芽のように、あちらこちらに出現していた。その後、激しい暴風雨と、生い茂るいばらとあざみと、荒らし回る獰猛な野獣の中で、この新芽が消え去ったのか、それとも、やがて来るべき豊かな実りに備えて、地中深く根を下ろしながら、時を待っているのか、今はまだはっきりとは分からない。だが、いずれにしても、筆者は思うのである、もし信者が一度、神のために自分の生涯を残らず捧げる決意をしたならば、その召しは決して変わることはなく、たとえ自分の召しが分からなくなったように思える時でも、その約束は、神が覚えて下さり、その使命を果たすために必要な条件を神ご自身が整えて下さるだろうと。

「私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください」」(イザヤ6:8)

すでに書いたように、キリストのものとして贖われ、救いの確信があるからと言って、その信者には、常に神が分かるわけではない。神は遠くにおられるように感じられることもあれば、沈黙しておられることもある。黙示録を書いたヨハネも、パトモス島にあって、絶えず啓示を受け続けていたわけではない。偉大な霊的啓示が絶えずひっきりなしに信者の人生に注がれると思うなら、それは間違いであり、多くの沈黙の時、待ち望みの時、忍耐の時がある。啓示によって明白に示された真理さえ、自分の内に失われたかのように感じられる時がある。そして、信者が神を知ることができるのは、ただ霊の内だけであり、それはしばしばかすかな御声であり、信者の肉的な思いがこれをかき消してしまう。信者の人間的な感覚は神から絶えず離れており、神を知るのには役立たない。

だが、それにも関わらず、主に贖われた者が、神から引き離されることはなく、主を知る知識を切に求め続ける信者の純粋な探求と、神がどこにおられるのか分からないと言って、自己の外に神を探し求める人々の探求には決定的な違いがあると言えるのである。

それは、我々、聖徒らの心の内深くに、神に対する尽きることのない愛が、絶えず存在していることからも言える。見たこともない方をどうして信じ、愛し、崇めることができるのか、それは人には説明できない事柄である。我々は、肉眼で見るようにキリストの姿を見たり、耳でその声を聞いたり、この手で触れたりするわけではない。だが、それにも関わらず、キリストに思いを向ける時、この方が確かに生きておられ、我々の救い主であり、力強い助け主であり、世の終わりまで共にいて下さり、決して我々を見放されることはないということが、自然な水の流れのように、信仰告白として口をついて出て来るのである。

「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(Ⅰペテロ1:8-9)

我々は、主を見ていないが、心から愛しており、再び地上に来られる姿を見ていないが、戻って来られることを信じており、主を待ち望むという召しに、心から光栄と喜びを感じている。

私たちは、自分の外に神を求めて探し回る必要はない。キリストは、信仰を通して、信じる者の内側に住んで下さり、御霊を通して、ご自身を現して下さるからである。そして、この方が信じる者に提供して下さっている完全な義、完全な贖い、完全な聖は、信仰を通じて確かに私たちのものであり、そして、やがて来るべき世で、神が私たちのために備えて下さっているはかり知れない相続財産のことをも、私たちは知っている。それらのはかり知れない恵みと、絶大な特権のゆえに、ただおそれかしこみつつ、喜びを持って、私たちは主を褒めたたえることをせずにいられないのである。

この尽きせぬ喜びと、賛美と、神に栄光を帰することが、私たちが確かに贖われた者であることを教えてくれる。神は我々にとって真にリアリティなるお方であり、まるで雛鳥が親鳥を見分けて鳴き、狐が自分の巣に帰るように、私たちは、喜びに満ちた確信を持って、この方こそ我々の創造主であると告白し、自分がこの方に確かに結ばれており、キリストのものとされていることを大胆に告白することができる。私たちは、すでにすべてのことを知ったなどとは言わない。キリストを十分に知ったとも言わない。ただキリストを知る知識をますます深く追い求めてはいるが、それでも、「神はどこにおられるのか」と言って、自分の外に神を探し求めたりはしないのである。

パウロは言った、「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。

それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。

私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それをちりあくたと思っています。

それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」(ピリピ3:7-9)

信者にとっては、キリストを知る知識の絶大な価値のゆえに、キリストを知る以前に持っていた全てのものは無価値となってしまう。キリスト以外の一切のものが「損」になるだけでなく、「無」にすらなる。これは、信者がキリスト以外のいっさいのものを「無だと感じている」とか、「無とみなそうとしている」ことを意味するのではなく、実際に「無になる(=無効化される、影響力を全く持たなくなる)」ことを意味する。

パウロは贖われる前に、人間的な観点から見れば、他の誰にもまして、誇るべきものを持っていた。生まれも、育ちも申し分なく、優れた業績や、落ち度のない立派な行いを誇ることができた。しかし、そのような「キリストを知る以前の自分自身」は、キリストと共に十字架につけられた時、一切合切、無いものとして墓の向こうへ追いやられたのである。

エクソダスの瞬間を超えたことがある信者ならば、きっと分かるであろうが、このようなことは、人が自分自身の力で達成できることではない。キリストと共なる十字架の死が適用されるまで、信者はあくまでこの世の人間であり、自分の生まれや、育ちや、知識や、経験や、能力や、業績や、世間からの評価や、地上的なつながりといった、ありとあらゆるこの世的な要素を引きずって、それらにより頼み、それらを心に留めて、そうした地上的な要素こそ、自分自身を形成するのだと思って生きている。それは、あまりにも深く慣れ親しんだ世界なので、それ以外の世界があり得るとは想像もできず、また、そこから自分自身の意志で脱出・分離するなど、到底、無理な相談である。

だが、信者に御言葉への信仰に基づいてキリスト共なる十字架における死が適用されると、それが実際となって成就した瞬間から、信者は、そのような地上的な要素が、自分に対して死んでいることを理解するのである。自分自身で何かを捨てようと努力するのではなく、かつて自分を構成していたこの世の要素が全て水に沈み、すでに完全に手の届かないところに去って、自分の思いや感情に触れなくなるのが分かるのである。

だから、信者がこの世においてかつてはあれほど大事にしていた地位、名誉、評判、業績、信者がこの世の人として持っていた過去の記憶や、この世の人々からの意見や評価や賛同などが、どんなものであれ、完全に「墓の向こう」へ行ってしまい、気にすべき事柄でなくなり、それがたとえ自分に関することであっても、信者の関心の対象でなくなり、聞かされても、思いに触れず、まるで他人事のように感じられるのである。

ちょうど死んで墓に入ってしまった故人が、自分についてこの世の人々の間でどんな会話が交わされていようと、一切、それを感じることも、注意を払うこともできないように、キリストと共に死んで神の内に隠されているキリスト者には、かつて自分自身であったものも含めて、この世の事象が触れることができなくなるのである。

そして、かつての地上的な出自に代わって、今度は、キリストにある者としての天的な出自が、信者にリアリティとして迫って来る。「もはや、私ではなくキリスト」となるのである。むろん、信者がキリストに変身するのではなく、信者の内に住んで下さっているキリストを、信者自身が見るわけでもない。それでも、信者の心の中に、もはや「私」はなく、キリストが住んで下さり、生きておられることを信じることができるのである。

信者は、たとえ復活の命の何たるかがまだよく分かっていなかったとしても、キリストの死を通して、自分に対する神の贖いが永遠に達成されており、自分がキリストのものとされていることが分かる。信者にはもはや「足りない」ということがなく、「取り返しがつかない」こともない。キリストにあって、信者はすべてに満たされている。だから、感謝を持って心に言うことができる。

主よ、あなたのためならば、私には何も惜しくはありません。
あなたのために、私が留保しているものはもう何もありません。
主よ、私の若い頃からの約束を覚えて、心に留めて下さい。
私は生涯、あなたのためだけに、捧げられた供え物であり、
もはや自分自身のために生きておりません。
あなたの栄光のために、私をお使い下さい。
私自身と、私の生涯は、残らずあなたのためにあり、
私は、あなたのものなのです。

信者は、命を投げ出して自分を贖って下さったキリストへの心からの応答として、愛を持って自分を捧げることができる。主と共なる十字架において自分に死んでしまえば、もはや留保しているものはなくなり、自分の生涯そのものを神への捧げものとして惜しむことなく差し出すことができる。

だが、それは決して人間的な思いに基づく情緒的な魂の愛の結びつきではないのである。その決意は、代償を伴うものであり、生涯に渡る御言葉への従順を通してしか達成できない。

イザヤ書では、「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」と応答した預言者に衝撃的な言葉が告げられる。神の言葉を携えて世に出て行く預言者が、高貴な存在として、大衆に歓呼して受け入れられることはない。大衆が預言者の言葉を聞いて悔い改め、素直に神に立ち返ることで、大きな喜びと収穫がもたらされるとは、神は言われなかった。むしろ、逆の事柄が告げられたのである。

「行って、この民に言え。
聞き続けよ。だが悟るな。
 見続けよ。だが知るな。』
 この民の心を肥え鈍らせ、
 その耳を遠くし、
 その目を堅く閉ざせ。
 自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。」(イザヤ6:9-10)

これは旧約の時代も、新約の時代も変わらず同じである。神の言葉を託されて世のもとへ遣わされた預言者を、世は受け入れない。神の独り子として世の罪を贖うために遣わされた尊い小羊を、世は拒み、十字架につけて殺したように、イエスの弟子たちをも拒み、迫害した。世は何度、福音を聞かされても、己が罪から目を背けるために、これを拒み、イエスの復活の証人たちを憎み、排斥したのである。そうしたことが、今日になったからと言って、変わることは決してない。

だから、世人に福音を告げるというのは、すべてのキリスト者にとって命がけの召しであり、何らその個人にとって感覚的に喜ばしい、栄誉をもたらす光栄な使命ではない。この事実を見るにつけても、キリスト者の道は、大規模大衆伝道を通して、大衆と一体化して、この世の人々と手を携えて歩むことには決してないと分かる。

キリスト者は、復活の証人として、イエスの復活を、また、自分自身も信仰を通してイエスと共に死と復活にあずかっていることを、大胆に世に向かって語り続ける。しかし、世はそれを信じず、受け入れもしない。

だから、キリスト者は、世へ理解を求めず、絶えず神に向かって行く。世が神の言葉を受け入れない分、なおさらのこと、ただ一心に神に向かって行くのである。神は、贖われたキリスト者を、二度と世の友、世の奴隷として遣わされることなく、むしろ、ご自分の器として民の間から聖別して取り分けられる。キリスト者と世との間には、十字架が、永遠に交わることのない隔たりとして立てられている。

このようなことを聞くと、世人は言うであろう、「一体、それは、何のための救い、何のための贖いなのでしょうか。キリストを信じたがために、世から拒まれ、理解されなくなり、迫害されるのでは、信じた後では、信じる前より、生きることがより一層、苦しくなるだけで、どこに信じることのメリットがあるんですか。その上、過去に積み上げ来た業績も無になるのでは、神のためにすべてを捨てたキリスト者には、一体、何が残るのでしょうか。そんな人生に、どんな満足があるのでしょうか。」

世人にどんなに分からなくとも、キリスト者には何も残らないのではなく、「私」ではなく「キリスト」が残るのである。そして、それこそが、キリスト者にとってのはかり知れない満足である。なぜなら、この方にこそすべてが満ちているからである。キリスト者は、もはや自分自身の満足のために生きておらず、神の満足のために、神の栄光のために召し出された者であり、主と共に十字架の死によって、すでに水の中に沈み、分離したものを取り返したいとは願わないのである。

神の御心は、やがて万物がすべてキリストに服すること、「イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられる」(ピリピ2:10-11)ことにこそある。

クリスチャンはすべてのものがキリストに服する来るべき世に向けて、「神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われた」(黙示14:4)者たちである。ここに「人々の中から」贖われたと書いてあり、「人々と共に」ではないことに注意したい。キリスト者は、世に対して死んだ者として、世人とは一線を画し、ただ神と小羊のためだけに、世から取り分けられて、召し出された人々である。だから、クリスチャンは福音を世に向かって語ることはしても、決して世と同化して、世人の利益に仕える僕とはならない。贖われた者はどこまでもただキリストの僕であって、もはや自分自身のものでさえないのである。

「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。

キリストはすべての支配と権威のかしらです。

<…>あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです」(コロサイ2:8-12)

こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。

あなたがたは地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
なたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです


私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。」(コロサイ3:1-4)

2016年6月18日 (土)

私たちの主イエス・キリストの十字架は、誤った栄光をすべて断ち切るものです。

オリーブ園の新着ブログに、オースチン-スパークスの「主の御腕」が掲載されている。

誰もが知っているイザヤ53章、キリストに関するあの有名な詩編は、次のように始まる。

「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。
 の御腕は、だれに現れたのか。」(イザヤ53:1)

これは矛盾に満ちた始まりである。オースチン-スパークスは記事全体を通して問いかける。「主の御腕は誰に向かって伸ばされたのか?」と。つまり、「神は誰を擁護されたのか?」、「神が満足される人の姿とは、どのようなもので、どのような条件を備えた人を、神はご自分の僕として力強く弁護されるのか?」

この問いかけが極めて重要なのは、それが次のようなくだりとも呼応しているからだ。

わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が、みな天の御国にはいるのではなく、ただ、天におられるわたしの父みこころを行なう者がはいるのです。」(マタイ7:21)。

「主よ、主よ」と日々熱心に祈る人々は、いかにも外見は敬虔そうで、天の御国にふさわしい信者に見えるかも知れない。多くの証を語り、ひざまずいて涙して祈り、たくさんの奇跡を経験し、人々をキリストのもとへ導いているように見える信者たちがあるかも知れない。

だが、神は、あくまで人の外見や行動ではなく、心をご覧になられる。その人が何をしゃべり、行なっているかではなく、その人が「父のみこころを行なっているかどうか」を基準にすべてを判断されるのである。

そして、一体、「父のみこころ」とは何であるのか。イザヤ書の上記のくだりを読んで行くと、神が満足される条件を備えていたただひとりの人であるキリストは、何ら人の目から見て賞賛されるべき特徴を持たなかったこと、世間で敬虔な信者として認められるために今日多くの人々が熱心に求めているすべての条件において、むしろ完全に規格から外れていたことが分かる。

「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、
 輝きもなく、
 私たちが慕うような見ばえもない。
 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
 悲しみの人で病を知っていた。
 人が顔をそむけるほどさげすまれ、
 私たちも彼を尊ばなかった。」(イザヤ53:2-3)

このような人は、今日の教会からも「のけ者にされ」相手にはされるまいと思う。

だが、今日、信者は、イエスに従い、日々自分の十字架を負って彼に従おうと決意するとき、果たして、自分も主が通られたこの道を通り、父なる神の御心を真に満足させる人となりたいと願うだろうか?

たとえ自分の願望が否定され、自分のプライド、名誉欲が傷つけられ、人に賞賛されることなく、疎んじられ、裏切られ、蔑まれることになっても、本当に、古き自己のものが十字架につけられ、自分が主の御前に恥を受け、低められることに甘んじることができるだろうか? そのようなことを人は決して自ら願わないが、もし主の御心ならば、自分がキリスト共に十字架につけられることに信者は同意することができるだろうか?

聖書にはこんなくだりもある、

「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現れます。しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕えて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。

それはあなたがたのあかしをする機会となります。それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。どんな反対者も、反論できず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。

しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もあり、わたしの名のために、みなの者に憎まれます。しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。」(ルカ21:10-19)

そろそろ、この終わりの記述が少しずつ近づいて来たようである。殉教者以外は「髪の毛一筋も失われることはない」と言われている。それが復活の体のことなのか、それとも、地上における体を指しているのか、筆者には分からない。

主がご自分に忠実に従う者を守って下さることがよく分かる記述である。おそらく、もし殉教しなければならない者がいるとすれば、そのことも主は事前に知らせて下さるだろうと筆者は確信している。

だが、それにしても、とにかく、すさまじい記述である。「両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られる」。誰がそのようなことを願うであろうか。

しかし、筆者はこれをあらかた実際に経験して来たのでよく意味が分かる。特に今日、クリスチャンを名乗る者がクリスチャンを裏切り、売り渡すということがどれほど現実味を帯びているか、よく理解できる。十字架に敵対する者、十字架を通らずに神に至ろうとする者があまりにも多いからである。

そこで、もし自分の十字架を真に負って主イエスに従おうとする者が現れるなら、この世全体が(特に、クリスチャンを名乗っている者たちが)立ち上がって反対する、「そのようなことは正気の沙汰ではないのでどうかやめてくれ、あなた一人に本当に十字架に赴かれたら、我々全員の嘘がバレるので迷惑だ、どうか我々の商売を妨害しないでくれ」と言って引き留めようとする。その説得もかなわないと、ついに「狂信者」というレッテルを貼って排斥するのである。人を喜ばせる偽りの砂糖菓子のような「十字架」を拒み、この世と調子を合わせたご都合主義的な福音と訣別し、真に聖書の御言葉に立脚して生きるような信者は「悪魔の使い」とされて排斥される、今日の情けない似非信仰者たちの実態である。

そういう者たちからの裏切りが起きたときには、人は混乱したり、原因を色々考えたりしない方が良い。原因を探す必要などない。それは聖書が予告していることだからである。

だが、それにしても、筆者の経験も、まだ聖書の記述の深さにまでは達していない。似たようなところは常に通ってはきたが、いつもどこかに祈ってくれる者や、励ましてくれる者たちも主が備えて下さり、「わたしの名のために、みなの者に憎まれます。」言葉という言葉の深さにまでは達していない。次第に、しかし、時が縮まっていることは感じられる。

主イエスは最も身近な弟子たちにも裏切られ、見捨てられ、一人で十字架に向かわれた。確かに、そのためにこそ、私たちは死から救われ、贖われ、命を与えられた。まず、神が愛する独り子の命を、不従順な我々の贖いの代価として差し出して下さったのである。

だが、だからと言って、神は、この苦しみを御子だけに押しつけておいて、あたかも自分だけは一切、何の苦しみも悲しみも味わわずに、十字架の死など絶対に通らず、ハッピーな人生を送りたい、愛する人々と常に手を携えて、孤独を知らずに共に歩み、仲間に裏切られたり、憎まれるなどまっぴらだ、そのように自分は決して傷つくことも蔑まれることもない安楽な人生のために神を利用し、御言葉を利用して、自分を立派な信仰者として飾り立てたい、と願う似非信者によって、侮られ、利用されるようなお方ではない。

だから、信じる者は、そのようにならないために、常に自分の命を拒んで十字架を取り、主イエスに自ら従う決意が求められているのである。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かに実を結びます。

自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたし仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」(ヨハネ12:24-26)

私たちは人生においてしばしば激しい戦いを通過する。その時、信者は自分は神に守られていると思っているかも知れない。だが、神の側には、私たちを擁護するにあたり、外せない条件があるのだ。それが、信者がカルバリに留まり続けるという条件である。

だから、もし信者の側がその条件を満たしていなければ、誰であろうと、最も重要な決戦の時に、自分から力が失せていたことを知らないまま、敵にやすやすと捕らえられたサムソンのようになる可能性がないとは言えない。デリラを愛しすぎたことが、サムソンの弱点だったと言って、これを他人事のように笑う人々は多い、しかし、デリラとは、人のセルフなのである。それが分かれば、サムソンを笑える人は誰もいないであろう。

主の御腕は誰に向かって現されたのか、神はどのような人をご自分の民としてお認めになり、どのような人を力強く弁護し、守って下さるのか。

主の御腕は誰に現れたのか。

十字架は、決して人にとって心地よく、優しいものではなく、人の五感にとって甘く、麗しいものでもない。カルバリには人が慕い求めるどんな見ばえの良い姿も、輝きもない。カルバリには何の栄光もなく、人からの賞賛や理解もない。そこにはただ十字架につけられたキリストがおられるだけである。それでも、その栄光の消え失せた十字架に主と共にとどまり、これを自分自身の死として受け取り、全焼の生贄として静かに祭壇に身を横たえ、御言葉が実際になることに同意するだろうか。

十字架を回避して、己を神と宣言する人々が身近に増えて行くに連れて、筆者は厳粛にそのことを思わされる。一体、どれだけ大勢の人々がこの先、惑わされるのであろうか。そして、誰が十字架にとどまり続けるのであろうか。

人にはできない、しかし、神にはできる。駱駝に針の穴を通過させるのは、神の仕事である。お言葉通りになりますようにと応答するのが信者の側の仕事である。

その時に、主は御腕を力強く伸ばされ、山々を割いて降りて来られ、山上の垂訓のあの完全な統治を信者は生きて知るであろう。しかし、今、ダイナミックな復活の命の統治だけに注目するよりも前に、人に注目されることのないこの霊的死の意義にあえて心を向けたいのだ。たとえ主が御腕を力強く伸ばされ、ご自分の民を人知を超えた力によって擁護して下さるその光景を見ても見なくとも、主の御腕の守りの中にとどまり、人に承認されるのでなく、神に承認される者として生きたいのである。

神のこの奇妙な道はなぜか?

 さて、このような反応をすべてまとめると、神が御腕を現す方向に向かって動かれる時の、神の深遠な道を目の当たりにすることになります。神の道は何と深遠なのでしょう!何と神秘的なのでしょう!何と見出しがたいのでしょう!そして、ああ、神の道が分かり始める時、それは何と驚くべきものなのでしょう!私たちはこの御方が神の御子であり、人の贖い主であることを知っていますが、この御方に対して人の思いが下すこの解釈や判断について考える時、このような道は神の深遠な道であることを認めないわけにはいきません。神は動いておられます――常に動いておられ、堅い決意をもって、毅然として動いておられます――御腕を現す地点に向かって動いておられるのです。これが神の道であるとは、凄いことではないでしょうか?

 さて、ここで二つの疑問が生じます。一つは、「なぜ世の人はこのエホバの僕に対して、このような普遍的反応を示すのだろう?」という疑問です。クリスチャンとしての私たちの観点からすると、人が普遍的にこのような判断や反応をすることができるとは驚くべきことです。しかし、事実、人々はそのような判断や反応をしたのです。さらに、これは依然としてそうであることを、私たちは知っています。この世の人々の思いからすると、この十字架に付けられた御方には慕うべき点は何も見あたりません。

 第二に――おそらく、この疑問はこの問題全体の核心・根幹にさらに迫るものですらあります――「なぜ神は、人からのこのような反応を避けられない、このような道をわざわざ取られたのでしょう?」。この道は本当に奇妙です。まるで人からこのような反応を引き出すために、神はこの道を行かれたように思われます。なぜ神は誰からも認められる「まったく愛らしい」御方、一目見ただけで誰からも受け入れられる立場にある御方を遣わされなかったのでしょう?なぜ神は御子を遣わすとき、威厳、光輝、栄光の中で遣わされなかったのでしょう?なぜ彼は最初に天からのあらゆるしるしを示して、すべての人が見るようにされなかったのでしょう?なぜ神は、このような反応を生じさせる道をわざわざ取られたのでしょう?神はわざとそうされたように思われます。そのような反応は必然的でした。イザヤが描いたように、この絵を描いて下さい、「彼の顔立ちは損なわれて人と異なり」――その姿は「人の子と異なっていた」。他にも詳しく記されています――次に、この絵を持ち上げて、「これがあなたの贖い主です!」と言ってみて下さい。神は人を驚かせて憤慨させる道を、わざわざ取られたように思われるでしょう。

 そして、神はそうされたのです!しかしなぜでしょう?

人の間違った価値観のため

 今や、この現実的問題にかなり迫っています。人の価値観はまったく間違っており、神はそれをご存じなのです。人の価値観はまったく完全に間違っています――なぜなら、それは人の自尊心の所産だからです。次のような言葉は自尊心が傷つけられたからではないでしょうか。「こんな水準まで降りなければならないだって!自分の救いのために、そんなことを受け入れなければならないだって!こんな水準まで身を低くしなければならないだって!絶対嫌です!そんなことは人の性質に反します!」。そうです、これは人の性質には人の高ぶりによって生み出された全く間違った価値観が備わっているためなのです。ですから、この受難の僕という思想は人の自尊心にとって侮辱であり、つまづきであり、人の価値観に対する挑戦なのです。まさにこの理由により、ユダヤ人も異邦人もこの知らせを受け入れようとしませんでした――自尊心がそれを許さなかったのです。私たちは次のように歌います。

 「素晴らしい十字架を見渡す時
 私は自分の自尊心をまったく蔑みます。」

 これが十字架の及ぼす影響であるべきです。しかし、そうではありませんでした。人はこのような者なので、人の自尊心はそれを受け入れようとしません。ですから、「彼はさげすまれ、拒絶された」のです。「彼には私たちが慕うべき美しさは何もありません」。

 私たちの主イエス・キリストの十字架は、誤った栄光をすべて断ち切るものです。十字架は人の自尊心や尊大さのまさに根本を打ちます。十字架は人自身の威信や価値観に基づく生活の根本を打ちます。たとえ、この世の観点やこの世の価値観からすると、人はひとかどの者になって、それなりのものを得ることができたとしても、また、先天的あるいは後天的に、自分の頭脳や賢さによって、熱心に働いたり学んだりすることにより、人は何らかの地位、栄光、成功、威信を得ることができたとしても、もしあなたや私が神の御前でそのようなものに基づいて生活するなら、私たちもまた神の価値観に完全に反している人々と同類と見なされるでしょう。

2009年10月14日 (水)

蘇生する自己

さて、皆さん、お久しぶりです。

関東に来てからしばらく、ブログを更新するという重荷からも逃れて(笑)、夢のように解放的で充実した日々を送っていました。長らく記事を書いていなかったので、私のブログ読者は半分以下に激減したようですが、それもかえって嬉しく感じられます。過去にためこんだあれやこれやの荷物をきれいさっぱりと捨てて、日々の十字架だけを背負って、つつましい、新しいスタートを切ることができるのは、またとない幸いです。

人に言わせると、「ヴィオロンは著しく変わった」のだそうです。本当にそうなのでしょう。去る8月25日、紛争の絶えなかった我が家と、その我が家のために、救いがたく病んでいた私に、神が大いなる憐れみを注いでくださったその時から、私は十字架上で、御子イエスと共に自己に死に、イエスの復活の命をいただいて、御霊によって生きるように変えられました。以来、筆舌に尽くしがたい不思議なことが周りで起き、それからわずか1ヶ月の早さで、私は我が家を離れ、今住んでいる土地へとやってきました。この「エクソダス」は、エクレシアに連なりたいという動機だけに基づいて行われたことであり、それはどうやら、神の御心にかなって与えられた願いのようです。この計画にまつわるすべての事柄に関して、主は完璧すぎるほどに準備を整えてくださいましたので、私は何の問題もなく引越しを完了することができたのです。

しかし、解放感に浸るのはそろそろ終わりにしましょう。ここからが今日の記事の本題です。今、先人の言葉を参考にしながら、記事を書いています。

私が経験したのと同じようにして、キリスト者は、ある日、突然、何か劇的な事件が起こって、あるいは、些細な事件を通して、「十字架によって自己に死ぬとは何なのか」を学ばせられる体験をするかも知れません。その時、私たちは自分の弱さ、醜さを徹底的に思い知らされ、人知の癒しがたく腐敗していること、人間が魂の底まで、救いようなく堕落しており、生まれながらの人間から発生するどんな善良さも、絶望的なものであり、腐敗していること、人間には微塵もきよさはないこと、神の助けなくして、人間は一瞬たりともまともに生きられない邪悪な存在であることを思い知らされます。

御霊を通してやってくる真理の光に照らされ、私たちは絶体絶命へと導かれ、そこで自分たちの無力と腐敗を知ります。私たちは神の御前に万策尽きた状態となり、どんなあがきも、試行錯誤も、あの手この手も、自分を生かす力がないことを知ります。完全にお手上げです。私たちには、目の前にたちはだかる困難に立ち向かう力は全くありません!万策尽きました! 主よ、助けて下さい! それが、私たちが、自分の自己に対して、徹底的に殺される瞬間に、心の底から出て来る叫びであることでしょう。今までのプライドは打ち砕かれ、誇りにしていた経験も何の役にも立たず、知識は私たちを裏切り、感情は不毛な叫び声をあげるばかりです。私たちは、世間からどんなにみっともなく思われようとも、その時、ただなりふり構わず、神に助けを求める以外には、もはや何もできないことを知ります。こうして、私たちは、自己に死なされます。

その後、自己に死んだだけで終わるのでなく(それでは無意味です)、十字架を通して、イエスの復活の命が私たちに適用されるなら、私たちは、絶体絶命をくぐりぬけて、今まで経験しなかったような新たな力によって、自分が生かされていることを知るでしょう。ふと気づけば、あれほど強固に自分を苦しめていた縄目が地に落ちて、私たちは自分が勝利を得たことを知るのです。今まで知らなかった新しい命が自分を生かしていることを私たちは見ます。それは自分の力では決して得られなかった勝利です。ですから、私たちは、今や上から与えられた力が自分を生かしていることを知るのです。そして喜びのゆえに主を賛美します。主は新しい命を私たちに与えて下さったのです! ハレルヤ!

しばらくの間、この驚くような新しい力と、いまだかつてない勝利に、私たちは酔いしれます。聖なる御霊が自分の内に宿っていることを知り、聖書の御言葉が驚くほどよく分かるようになり、何かしらの啓示さえ受けるかも知れません。それまで、心の中にさんざん生い茂って、真理を阻んできた自己という雑草がことごとく取り払われたおかげで、私たちは自分が聖別されたことを感じ、霊的視界がクリアになり、どんな物事も澄んだ目で見られるようになったような気がします。自分が神に愛されている存在であることを前よりももっとはっきりと感じ、今までよりも、もっと親しく、近しく、主に向かって祈り、願うことができるようになったと思います。

しかし、ここで私たちは、勝利を得たのでもう学習は終わった、などと決して思うべきではありません。「私はすさまじい体験をくぐりぬけたおかげで、他人より抜きん出て霊的な人へと変えられた。私は勝利を得たのだから、もう二度とかつてのような事件は起きないだろうし、これ以上、自己に死ぬということを私は学ぶ必要はない」、とは、決して思うべきではないのです。

まず、私たちが経験した事件が劇的であればあるほど、それは、誇るべき経験ではなく、むしろ、私たちのしぶとく頑固だった自己を殺すために、神はそれほどの大事件を必要とされたという事実を見るべきです。私たちの自己は、ひょっとすると、悪質なゴキブリの千倍、万倍も、頑固でしぶとく、殺しても死なないほどの生命力を持っていたのかも知れません。いや、そうであるはずです。だからこそ、そのように腐敗しているにも関わらず、強靭な生命力を持った魂と肉体(自己)に死ぬということを私に経験させるために、神は特別な事件を私のために用意しなければならなかったのです。私の自己が他人と比べてあまりにもわがままで、しぶとく、腐敗しきっているために、神には大がかりな事件によって私を打ち砕く必要があったのです!

こうして、十字架という、罪を駆除する最も強力な光の照射によって、私たちの自己は、ある日は殺されたかも知れません。そして復活の命に生きる喜びを、私たちは全身全霊で感じたかも知れません。しかし、自己は一旦殺されても、時間が経つと、また蘇生してくるのです(蘇生とは、あるキリスト者の表現)。それはちょうど、一旦きれいに庭を掃除して、雑草を刈り取っても、手入れを怠れば、庭には再び雑草が生い茂るのと同じであり、退治しても、退治しても、また害虫がどこからか家に入り込んで、住み着くようになるのに似ています。

仮に私が昨日、どんなに徹底的に、大々的に、ドラマチックに、キリストの十字架を自分のものとして受け取って、自己に死に、キリストの復活の命によって生きることの意味を学んだとしても、それは私の今日の糧とはなりません。昨日の勝利は、今日の勝利にはならず、今日、私が自己を否んで、キリストの十字架を負っていることの何の証拠にもならないのです。

人は日々、自分の十字架を負って、イエスに従わなければいけません、自分の天然の命を拒否して、キリストの命を選び取ることを続けなければならないのです、その日々の十字架を負うことは、決して、どこかの団体や組織へ熱心に奉仕することと取り違えられてはいけません。日々の十字架を負うとは、まず何よりも第一に、真理なるキリストの光に照らされて、私たちが、自分の生まれながらの自己の本当の醜さを知り、それに絶望して、自己を否み、キリストを選ぶことを指しているのです。

私たちは自分の生まれつきの自己がどれほど癒し難く腐敗しているか、どれほど邪悪であるか、私たちの生まれつきの姿が、どんな犯罪者にもまさって、最悪の最悪の姿であるかを、直視しようとしません。それを直視することには大いなる痛みが伴うからです。私たちの肉体も、魂も、痛みを伴う事件を避けようとします。過去に大失敗があったからと言って、それでもまだ私たちは、それが自己の腐敗した本質によって引き起こされたという事実を直視しようとしません。むしろ二度と同じ痛みを味わわなくて済むように、こざかしいあの手この手を考え出すばかりなのです。そうやって、自己の本質を直視する痛みを避けて、自己を美化する楽な道を選び、毎日、自己を甘やかし、大目に見、自己を立て、自己から来る力を楽しんで生き、それを誇り思い、自己に栄光を帰そうとして、あれやこれやと計画し、走り回って活動しているのです。キリストのため、と言いながら、その実、活動しているのは私たちの自己なのです。

自己はまさしく欺きの天才です。ちょうど暗がりに隠れたゴキブリが、人のいないところを見計らって、夜半にこっそりと出て来るように、私たちの自己も、私たちの思いを欺いて、キリストの真理の照射する殺人的な光線を何とかして避けて、自らを生き延びさせようと、あらゆる狡知をめぐらします。自己は宗教活動にも偽装しますし、信仰にも偽装します。何にでも化けるのです。この自己の欺きを看破し、その策略を微塵に打ち砕くことができるのは、ただ御言葉――真理なるキリスト――まことの光だけです。私たちが自分の力でどんなに自己を鎮めようとしても、それは無理です。私たちは自分の力で、自己に死ぬことはできず、自分の力では、キリストの復活の命を受け取ることもできないのです。

方法は一つだけです、光の照射です。私たちが日々、まことの光に照らされて、自己の腐敗性、絶望性、無力さ、邪悪さを知り、その自己を神の御前に汚れた、忌まわしいもの、呪われたものとして拒否し、その代わりに、キリストの復活の命を選び取り、その復活の命によってのみ、生き、活動することが必要なのです。それには痛みが伴うでしょう! あなたは自分が無力になって、打ちのめされたと感じ、失望し、見込みを失うでしょう! 愕然とし、恥じ入り、頭を垂れるしかないでしょう。しかし、それは幸いな時です、この痛みを伴う訓練は、生きている限り続くものであって、誰一人として、その訓練はもはや自分には必要なくなったと言える人はいません。自分の十字架は日々、負わなければならないものなのです! 

ですから、私たちは(できるならば、毎日の生活のごく些細な事柄を通して)、何が自己から来る力であり、肉と魂の衝動に由来する忌まわしいエネルギーであるか、学ぶ必要があります。何が天然の命から生まれる願いや力であり、何が御霊から来る、御心にかなった願いと力なのか、識別することを学び、自己から来る力を行使しないことを学ぶ必要があります。
(注意していただきたいのですが、自己を否むとは、決して、自分の意志を放棄することではありません。それは決して、信徒が自分の意志を放棄して、誰か指導者の命令や思惑に妄信的に振り回されたり、何らかの教義の奴隷状態に陥ることを意味しません。私たちはあくまでしっかりした自分の意志を働かせつつ、自己を否み、キリストを選ぶのです、自分の自己を十字架上でキリストと共に死んだものとして拒否し、人の思惑ではなく、御霊の導きに従うことを選択し続けるのです。)

この毎日の学課(私たちが自己の絶望的な本質を知り、それを拒否して、真理に忠実に聞き従うこと)を的確に行うならば、神は私たちの自己を打ち砕くために、わざわざ大がかりで悲惨な事件(大失敗や絶体絶命の危機)を用意する必要はなくなることでしょう。しかし、私たちがかつてのある日、自分の自己が十字架につけられて死に、その代わりに信仰によってキリストの復活の命を受け取った、という体験の上にあぐらをかき、それに慢心し、日々、自己の厭うべき性質を知ることをやめて、自分の腐敗した性質を見ようとせず、むしろそれを甘やかし、増長させていくならば、神はその肥大した自己の忌まわしい性質をあなたに知らせ、それを断ち切るために、ある日、あなたが考えもしなかったような悲惨な失敗の体験をあなたの身に起こさなければならなくなるでしょう。

そんなわけで、大きな勝利が得られて、物事が順調に行き、自分がきよめられて、霊的になったように感じられ、神から特別に恵まれているとさえ思われるほどに幸福な時には、普段以上に注意が必要かも知れません。富んでいる人が天国に入ることは難しいと警告されているのです! 人の生まれながらの自己は、永遠の命を継ぐことはできません! その富が、勝利が、自己を慢心させ、肥大化させ、御霊に従って生きる道を奪うきっかけとならないよう、私たちは気をつけなければなりません。

信徒が自己を否んで御霊の導きを選び取り、キリストの復活の命によってのみ生きることを学ぶ学課は、私たちが地上を歩む限り、決して終わることはないのです。どうか、神が私を憐れんで下さり、私が日々負うべき、痛みを伴う十字架とは何かを、はっきりと悟ることができるようになり、それを避けようとすることがなくなっていきますように。

最近の記事

無料ブログはココログ