キリストの十字架における死と復活

2019年6月 7日 (金)

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第二審)への準備(2)ー「船の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」

「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。

シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「私たちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、船に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。

イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「船の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。

イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。

さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。シモン・ペトロが船に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。

イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。」(ヨハネ21:1-14)


さて、このくだりについては様々な解説がすでに存在しているので、注釈を述べるつもりはない。今回、述べたいのは、筆者は「船の右側に網を降ろした」ということである。

日常で頻繁に使用していたある品が壊れ、買い替えのために、店に行ったが、専門店に行っても、長蛇の列。二軒回ったが、どちらも混雑していて、店員から2時間以上の待ちを宣告された。しかも、2時間から3時間待っても、手続きが終わる保証はなく、品ぞろえも悪いため、望みのものが見つかるかも分からない、などと初めから追い返そうとするような予告を受けた。
 
それら二軒の店は、どちらもが、いつ行っても、人件費を節約するためか、慢性的な人手不足の状態にあり、客は2~3時間待たされるのが通常で、混雑状況が改善される見通しもなかった。

そこで、外は炎天下であったが、筆者はためらいなくその店を後にして次の店に向かった。

一体、なぜ市井の人々は、あのように未来の展望のない死の雰囲気の漂う場所で、怒ることも、愛想を尽かすこともなく、まるでそれが当然であると言わんばかりの調子で、何時間も、辛抱強く行列に並んで待ち続けることができるのか、筆者にはまるで理解ができない。

筆者は一分一秒もそこにとどまりたくなかったし、そこで待っていれば何かが進展するとも思わなかったので、車を発車させて、三軒目へ向かった。そこは家電量販店である。そこならば、専門店と違い、その日は人々の興味が向かず、行列がなく、高圧的で不親切な店員もおらず、目的を遂げられるのではないかという、ちょっとした読みがあった。

幸いなことに、読みは的中した。その日、その店に、客は筆者の他に誰一人いなかったのである。そういうわけで、2時間も待ちぼうけをさせられていれば、何一つ完了できなかったはずの手続きを、2つも3つも終えて、店を出ることできた。

神は不思議なお方だと思った。どこへ行っても、待つのが当然と宣告されたが、筆者はそれを信じなかった。たかが2~3時間も待てないのか、何と短気なことか、などと言う人もあるかも知れないが、その2~3時間を使って、どれほどのことができるか、筆者は知らないわけではない。
 
「求めなさい、そうすれば与えられます。」「捜しなさい、そうすれば見つかります。」とある通り、あきらめずに探せば、心にかなうものは必ず見つかる。同じ手続きをするにしても、くたびれるまで待たされた挙句、ぞんざいな対応に情けなく惨めな思いをさせられながらではなく、心行くまできちんと説明を受けて、納得した上で、充実した時間を過ごすことが可能なのだ。やはり、自分の心にかなうものを探し出すまで、決して妥協したり、あきらめてはいけないと思った。

閉ざされている扉ではなく、開いている扉へ向かって進まねばならない。

だが、開いている扉を見つけるためには、世間の人々と、少し違った角度からものを考えなくてはならない。大勢の人たちが向かう「広き門」へ向かって、皆と同じ行列に並んでいたのでは駄目なのである。

知名度や、看板などに欺かれるのでなく、人の知らない道、踏み固められていない道、しかし、真実であって、偽りのない、誠実さの伴う道を探さなくてはいけない。

多分、その法則はおそらくあらゆることに当てはまるだろうという気がした。筆者は、控訴理由書を書きながら、本当に、プロテスタントという宗教とは(カトリックもそうだが)もはや、永久にさよならだと思わずにいられない。

筆者はキリスト教徒であるのに、キリスト教徒から見れば、異端に当たる宗教の信者が、プロテスタントの牧師から、カルト被害者救済活動(強制脱会活動)の対象とされて、著しい人権蹂躙を受けたなどということを、訴訟で主張せざるを得なくなっていることを極めて皮肉に思う。

筆者は他宗教の信者を改宗させることを目的に、プロテスタントの牧師らが信者らを拉致監禁してまで説得を行った行為を決して擁護することができない。このようなことは、プロテスタントは、キリスト教全体の名折れでしかない、大変、恥ずべき事柄である。

さらに、そうした牧師たちが、他宗教の信者ではなく、同じキリスト教徒を名乗っていた筆者までも、支持者と一緒になって集団的に攻撃したことは、もはや致命的としか言いようのないミスであり(というよりそれも牧師制度の悪がもたらした必然的な結果なのだが)、彼らの活動が末期状態にあることの証左である。

おそらく、カルト被害者救済活動が筆者に対してなした事柄は、世間に対して、プロテスタントの終焉をはっきりと告げるものとなるだろうと思う。世間はおそらく、これまで他宗教の信者に争いをしかけるだけでなく、ついには同士討ちのような状態に陥り、信者が信者を攻撃し、牧師が信者を徹底攻撃するという結末に至ったこの宗教(プロテスタント)に対して、この先、信用を持たなくなるだろうという気がする。

牧師制度の悪が、カルト被害者救済活動という形になって結実したのである。牧師制度そのものを撤廃せず、自分は信徒に対する搾取をやめないのに、ある牧師が、自分だけは正義の味方のような仮面をつけて、同じ牧師の職にある者を悪としてやっつけて、自分の搾取は正当化しながら、他のカルト化した教会の搾取だけを一方的に非難するというこの運動の自己矛盾が、ついに結局、牧師が信者を、そして信者が信者を滅多打ちに攻撃して排斥するという同士討ちに結びついたのである。

これは宗教を隠れ蓑にした単なる弱い者イジメの構図に他ならない。見る人が見れば、すぐに分かることで、カルトも反カルトも、自分たちの権力を守りたい人々が、自分たちよりも弱く貧しい者たちからの批判を徹底的に踏みにじって潰しているだけのことで、カルト被害者救済活動には、正義など全く存在しない。

カルト被害者救済活動は、異端を取り締まるだとか、カルト化した教会の問題を是正すると言いながら、結局は、牧師制度そのものを温存するための隠れ蓑に過ぎず、カルト以上に恐るべき腐敗を内に秘めた、プロテスタントのすべての害悪を結晶化したような運動である。このような運動が登場してきたこと自体が、プロテスタントの終焉を告げるものである。
   
筆者はこのように混迷を極める有様となったプロテスタントを後にして、組織や指導者に帰属する外側だけのキリスト教を完全に捨て去り、新たな信仰回復運動の只中を生きるために、キリストご自身だけを見上げて、前へ向かって歩いている。
 
いつまでも遅々として進まない行列しか目の前に見えず、数多くの苦労だけがあって、目的地がどこにあるか分からないと感じられる時には、いつも「船の右に網を降ろしなさい」という声が聞こえて来るようだ。
 
「視点を変えなさい。発想を変えなさい。多くの人たちがまだ気づいていないやり方、考えていない新しいアイディアを思い巡らしなさい。踏み固められた道に別れを告げて、新しい方法を採択しなさい。私があなたにそのヒントを与えます・・・」

冒頭の聖書箇所を挙げた出来事が起きたその日、弟子たちは、イエスが十字架で死なれた後、復活されたことは知っていたが、以前のように常に弟子たちと共にいて下さらないので、自分たちにはもはや師がいなくなって、何をすれば良いかも分からなくなったという思いで、もとの職業に戻ろうとしていたのかも知れない。

彼らがどんな気持ちで、漁に出たのかは、書かれてはいないため分からないが、彼らは十字架の死と復活の中に込められたことの意味が分からず、イエスが十字架にかかられる前の生活がなくなってしまったことに困惑し、復活された主イエスが、前のように絶えずそばにおられないことに、言いようのない寂しさを感じていたのかもしれない。

彼らはまだ御霊を受ける前だったので、まだ人間的な観点からしか、十字架の死と復活という出来事をとらえることができなかった。それは彼らの理解を完全に超えており、彼らはこれをどう受け入れるべきかが分からなかった。イエスが彼らを最初に召し出された時に言われた、人間をとる漁師になるとは、どういうことなのか、自分に与えられた召しが何なのかも、未だ理解することができなかったのである。

彼らが漁に出ても、何も取れなかった。弟子たちはもうずっと前に、漁師であることを捨てて、イエスに従っていたのであり、本当は、二度と漁師に戻れるはずがなかったのだが、イエスはどこへ行かれたのか分からず、することもなく、さらに、食べるものもなかった。ペテロたちが、何も見つからないので疲れ果てていた頃、イエスが岸に現れて、舟の右に網を降ろしなさいと言われた。

だが、それは復活のイエスであったので、彼の姿を見ても、弟子たちには、それが誰であるのかがすぐには分からなかった。弟子たちが引き上げられないほどの魚を取って戻って来ると、イエスはすでに火を焚いて魚を焼いておられた。弟子たちのために食事を作っておられたのである。

これは何かしら、私たちの人間的なあがきや、心の紆余曲折が終わるときを、神が辛抱強く、憐れみを持って見守って下さっているような、そんな感じのするエピソードである。

ペテロやトマスらがどういう気持ちで、何を考えながら漁をしていたのかは分からないし、彼らはもしかすると、未だ主イエスの十字架の死という壮絶な出来事のショックから抜け出られず、また、イエスの復活という出来事そのものを、理性ではどうとらえれば良いのかも分からず、困惑していたのかも知れない。

主イエスと弟子たちとの関係は、十字架の死と復活を経て、全くそれまでとは異なるものに変わろうとしていた。だが、新しい関係において、自分たちは何を求められているのか、弟子たちには分からなかったのである。

弟子たちが何を思っていたにせよ、イエスは、彼らの人間的な思いが吹っ切れて、彼らが自分たちの方法を捨て去り、神のご計画に再び目を向けるようになるまで、そばにいて待っておられた。

弟子たちは、主が何を自分たちに願っておられるのか分からず、戻ろうと思えば、漁師に戻れると考えていたのかも知れない。しかし、結果として、漁師に戻ることは不可能になっていたことが分かった。それどころか、弟子たちは、人間的な経験、知識、思いを捨てて、新しい世界観、価値観を受け入れるよう求められていた。復活の命と、それに属する新たな領域、復活の命に伴う新しい秩序である。

彼らがどんなに過去の熟練した経験に従って、自分たちの計画、自分たちの思いに基づき、何かをしようとしても、イエスのまことの命が介在されなければ、すべてが空振りに終わることは避けられない状況となっていたのである。かつては慣れ親しんだ自分たちの職業においても、主がおられなければ、一匹の魚もとれない状況となっていた。

だが、主はどこへ行かれたのか、何を命じておられるのか? 弟子たちは、依然として、イエスが十字架にかかられる前と同じように、自分たちのそばに姿を現して、何かを言って下さらなければ、その御思いを理解することもできず、途方に暮れていた。

しかし、主は姿を現さないだけで、常に彼らのそばにおられたのである。弟子たちのむなしい漁には、主が現れられると、たちまち収穫が豊かに与えられた。それは、弟子たちが昔のように漁師に戻るために与えられた収穫ではなく、信仰によって、新たな収穫を勝ち取ることができるという証であったものと筆者は思う。つまり、イエスが命じられた通り、彼らが人間を採る漁師として、抱えきれないほどの天の収穫を得ることの予表だったのである。

復活後のイエスは、十字架にかかられる前のように、弟子たちと一緒におられ、食事も共にされたが、それでも、イエスと弟子たちの間には、以前にはなかった何かの違い―距離のようなもの―が出来ていた。イエスが持っておられたのは、よみがえりの体で、弟子たちの贖われない体とは異なっていた。弟子たちが、イエスをすぐにそれと見分けられなかったことを見ても、様変わりされていたことが分かる。肉体を持って弟子たちの前に現れられたにも関わらず、何かがはっきりと以前とは違い、復活のイエスは、弟子たちとは異なる法則の中で生きておられたのである。

復活されてから、イエスはそう長い間を弟子たちと共には過ごされず、短い間、よみがえりの姿を現されてから、天に昇られ、父の身元に戻られた。その代わりに、弟子たちに聖霊が与えられた。

弟子たちは復活のイエスを見、それが自分たちが贖われた後の栄光の体であることを見せられたのだが、依然、多くのことが理解できないままであった。それを理解するためには、御霊が必要だった。

おそらく、私たちの思い、感情、計画、生き様のすべてに、御霊による新しい証印が押されねばならない。筆者はその点で、未だ、目の前に、新しいものをはっきりと見てはいない。これは筆者の個人的な人生のことを言うのではない。

キリスト教そのものが、新しい御霊の息吹を与えられなければ、進んで行けないところへ来ているのである。そのことを多くの信者たちは全く考えることなく、古いものにしがみ着いているが、私たちの計画、思い、感情、知識、経験などは、すべて行き詰まりを迎えており、主がそこに新しいアイディアを与えて下さらなくてはいけない時が来ている。そうなって初めて、私たちの死んだ働きに、電源のスイッチが入る。

「船の右に網を降ろしなさい。」と、主イエスが言われた通り、私たちの生活には、全く新しいヒントが与えられなくてはいけないのである。
 
右とは、ただ文字通りに船の右というだけではなく、神の右に座しておられるイエスを見上げなさいという意味にも取れないことはない。

いずれにしても、主を見上げるとき、私たちに新鮮な命の息吹が注ぎ込まれる。そのことは確かである。 そこで、筆者はふと顔を上げる。作らなければならない書面は、あらかた主張を出し尽くしたので、まだ完成してはいないとはいえ、筆者自身にとって、一番、書いていて面白い時期は過ぎた。この作業はある意味、もう終わりを迎えた。

そうなると、次なる新しい話題(話題作りのための話題ではなく、主が導いて下さる新しいテーマ)を見つけねばならない。だが、その新しい話題とは、もはや訴訟という枠組みとは関係のない、別な何かである、という気がしてならない。どう言えばいいのか分からないが、第一審も、第二審も、筆者にとっては極めて重要な戦いではあったのだが、そこを抜け出て、もっと大胆で、もっと革新的で、もっと自由で、飛躍的なアイディアへ至り着かねばならない気がしている。1軒目、2軒目の店を過ぎ去ったならば、3軒目のことを考えてみるべきである。

3軒目は、1軒目、2軒目とは全く異なる新しい発想に立つ場所である。つまり、カルト被害者救済活動やらプロテスタントやら牧師やらとは全く関係のない新しい信仰生活が始まろうとしているのである。そのことが、紛争が決着するよりも前から、筆者の目の前に見えるような気がする。
 
そうして、遠く、遠くへ目をやる。実は、一審が終わった後から、筆者は何かしら今までとは違った出来事が始まるだろうという予感がしてならなかった。今はまだ相変わらずの繰り返しのように見える状況もあれば、閉塞しているように見える事柄もある。紛争は終わったわけではないので、自由はいつになれば訪れるのかと感じられるかも知れない。

だが、それにも関わらず、筆者は、イエスを待ちながら漁をしていた弟子たちと同じように、既知の世界にいるようでありながら、自分が主にあって、未知の展開を待っていることを知っている。
 
もう少しすれば、まるで長蛇の列に並びなさいと言われているような、この不自由な手続き三昧の状況から抜け出せるだろう。そして、法的措置による戦いも終わりを告げて、次なるステージの出来事が始まるだろう。

それは筆者が「プロテスタントに別れを告げた」ことと密接な関係がある。もはやそれは、筆者にとって古き世界となったのであり、そこへは二度と戻れまいし、何かが断ち切れたのである。プロテスタントのみならず、組織、教団、教派、教説、指導者、教えなどに信者が帰属するすべての形式的なキリスト教が、筆者に対して死んだものとなり、終わりを告げるときに来ているのが今なのである。

弟子たちはその日、漁に出ていたが、主イエスと共に信仰によって十字架の死と復活を経由していた。彼らは依然、それまでと同様の考えに基づき、行動しているように見えたものの、深い所では、古き職業に対して死に、古き生き方に対して死に、古き自己に対して死んでいた。そして、彼らはまだ新しい生き方を掴んでいなかったが、それは彼らの心の内側にすでに到来しかかっていたのである。
 
こうして、古きものが過ぎ去り、新しいものが到来しようとしていること分かるに伴い、掲示板も、まるで過ぎ去った過去のように、筆者に手を触れられなくなった。それは、法的措置を取られると分かった人たちが、怯えているというだけが理由ではなく、何か目に見えない隔てが、彼らと筆者を隔てたのだ。追っ手が到達できないところまで振り切ったのである。

次に、筆者をあからさまに攻撃していた牧師やら信者やらが、筆者に到達できない時が来る。そして、彼らと筆者を隔てている隔てとは、結局、エクソダスの壁なのである。プロテスタントと筆者との間に打ち立てられた隔てなのである。

不思議なことに、この壁が、今まだ紛争当事者となって向き合っている人々と筆者との間をさえ、確固として隔てた事実が感じられるのである。そのために、まだ続いている戦いさえ、霊的な次元において決着が着き、筆者はそこから解放されている事実があることをはっきりと知るのである。それはつまり、この紛争が本当に終わりかけていること、筆者の手から離されようとしていることを意味する。

新しい世界は、まだはっきりとは姿を現していないが、復活の命に基づく新しい秩序が到来しつつある。筆者はそこへ向けてドライブをしている。本当は2009年にすでにここへ向かっていたのであるが、随分、長い間、荒野にとどめられた。その頃、戦い方が分かっていなかったので、どのように進路を切り開くべきかを知らず、遅延や停滞のように感じられるものが生じた。だが、目指している約束の土地がある以上、筆者はそこへ向かい続けなくてはならない。

他に誰も客のいない三軒目の店で手続きをしている時、貴重なチャンスが与えられたのだから、ここにある品でぜひとも最後まで手続きを終えねばと思った。あらゆる説明を聞きたいだけ聞いて、順調に手続きが進み、最後に、会員登録をせねば、決済が終わらないと言われた。その時、以前にも会員登録をしたような気がした。様々なことがあったような気がした。だが、情報を検索してもらったが、何も出て来なかった。過去が帳消しにされるがごとく、古い情報がまるごと消え去り、跡形もなくなっていたのである。

その時「すべてが新しい」とい言葉が脳裏をよぎった。神は不思議な方だという気がした。

そういう日が、この先、来るだろう。つまり、我々が本当に復活の領域に達する日が。古いものがすべて過ぎ去り、すべてが新しくなる日が。
 
今、筆者は過去10年間くらいの出来事の記録をカバーした書面を書いているが、おそらくこれを書き上げて、手から離すと同時に、この厭わしい煩わしいすべての事件の記録(記憶)が、まるごと筆者の履歴から消え失せる日が、遠からず来るだろうという予感がする。

第一審の終わりが、そのことを筆者に告げていた。一審判決は、まだ実現を見ていないとはいえ、それは明らかに、筆者とこの紛争との関わりを、一定程度、断ち切ることを告げる宣告であり、霊的な領域においては、筆者に自由を与えるものであった。この先、言い渡される判決は、もっと完全に筆者の存在をこの紛争から断ち切ることであろうと思う。

そうなると、過去が抹消されたに近いことが起きる。そうなる少し前から、筆者の心はおそらく紛争に興味がなくなり、全く別の出来事に熱中し始めることであろう。今はまだ過去の記憶の最後の残りを生きているところであるが、次の瞬間、その最後の残る記憶さえも断ち切られ、「見よ、すべてが新しくなった」と言われる時が来るだろう。

エクソダスが完全に完了し、断ち切れるべきものが最後まで経ち切れる時が近づいている。
 
その時、復活のイエスが弟子たちに収穫を指示し、パンと魚を弟子たちに自ら分け与えられたように、主ご自身が、自ら給仕して、空腹で疲れ切っている弟子たち(筆者を含め)の労苦をねぎらい、新しい命で満たして下さるであろう。そして、私たちが元気を回復した後で、さらなるミッションを与えて下さるものと思う。
 
三軒目の店にたどり着きさえすれば、あとはすべて神の側からなして下さるだろうと思わずにいられない。その「三軒目の店」が最高裁であって、そこまで行かねばならないというならば、筆者はそれに反対するつもりはないのだが(それだけの準備はすでに成し遂げられている)、そうなるまでのどこかの時点で、この紛争は、筆者の手から取り上げられて、筆者の心からも切り離されて、カルバリで信者を不利に陥れるすべての告発が廃棄され、自由と解放が訪れるだろうと思う。

筆者は紛争が長引くだろうという予測を述べているわけではなく、むしろ、その逆に、それだけの期間が過ぎ去る前から、すでにこの問題に決着が着いていること、筆者はただ約束の地へ向かうだけで良いことが感じられると述べているのである。
 
筆者に不当に負わされて来た重荷は、別人に返され、債務は、負うべき人間に返され、主ご自身が、弟子たちをねぎらい、心行くまで給仕して下さることであろう。筆者は、主イエスがパンと魚を取って分かち与えて下さる時を楽しみにしている。そして、それは未来でありながら、同時に今日であることも知っている。

その日、主はただ私たちの労苦をねぎらって下さり、すべての過去を帳消しにして下さるだけでなく、私たちを満ち満ちた命の豊かさに招き入れて下さり、さらに、私たちの姿をも、栄光の主と同じに変えて下さる。

筆者はこの贖いの完成を心に思い、そこにある自由、栄光をもっとよく知りたいと願っている。向かっているのは、贖いの完成、私たちが主の栄光と安息の中に招き入れられ、よみがえりの命の領域を、主と共に生きる約束の地なのである。荒野にいる時に、はるか先に目を凝らして、約束の地を見る。私たちが目指しているものは、今現在、目に見ているものではなく、まだ見ないもの、これから来るべき秩序である。ところが、まだ目に見ていない来るべき秩序が、私たちの只中に、すでに到来していることを知っている。そこに信仰があり、私たちの望みがある。

2019年5月15日 (水)

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(22)―わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。

悔い改めを拒否し、教会を分裂に導き、神の教会を冒涜して、滅びへ向かう唐沢治と村上密と杉本徳久
 
さて、一つ前の記事で、筆者は最後の機会として、村上密に向かって唐沢治と手を切り、悔い改めるよう呼びかけた。そして、杉本徳久の賠償金の支払いのために、手を貸してやるよう勧めた。

だが、こうした一切の働きかけは無駄のようである。むろん、最初から彼らが忠告に従わないことを、予想しつつ、あえて筆者は最後の呼びかけを行ったのである。筆者は彼らの善意に期待することは全く考えていない。

ちょうど民事訴訟を刑事告訴と並行して進めたように、今、筆者は同時に三つの策を用意しているところだ。一つ目は、任意の悔い改めの呼びかけ。二つ目は強制力を伴う実力行使。これは判決言い渡しや、警察を通じた取り調べや、処罰を求める手続きである。

そして、三つ目は、極めて重要な新しいステップである。

杉本は昨日に至るまで、判決で命じられた記事を3つも削除していないことが発覚した。当ブログのひとこと欄で、そのことを指摘してから、慌てて削除したようだ。

未練がましさの感じられる態度である。杉本が残していたのは、一つは筆者の著作者人格権を侵害した記事、もう一つは、2009年に筆者が削除を依頼したコメント、さらに、筆者の著作者人格権を侵害しつつ、鳴尾教会の女性牧師と筆者を並べて断罪した記事である。

こうした記事の残し方に、村上密からの深い影響を感じざるを得ない。まず彼らの強い学歴コンプレックスが感じられる。それから、男尊女卑、そして、自画自賛を手放せない思いである。

それらの記事はそそくさと消したようだが、杉本は判決で削除が命じられた「トランスフォーメーション・グロース」のコメントNo.17を未だに削除していない。しかも、コメントから名前を消し、投稿内容を消してでもいいから、☆5つの評価にすがり続ける男のみっともなさ、未練がましさである。



だが、こうして、杉本が判決に逆らっていることは、筆者には有利にしか働かない。なぜなら、こうしたことも、費用の回収に役立つからだ。

さらに、杉本が世話人として所属していた全国ヤギネットワークにも、杉本のことについて問い合わせた。杉本が執筆して来たキリスト教界をバッシングするブログの趣旨を伝え、そこで面識もないのに、当方がプライバシー権を侵害されて、名誉毀損され、さらに判決言い渡し後にも、2ヶ月が経とうとしているのに、賠償金の支払いもなく、本人は電話に出ず、メールに返信せず、連絡がつかない状態にあるため、困っていることを伝えた。

さらに、杉本が商工会議所の会員でないのに、会員資格を詐称したり、東京銀杏会の正会員などを詐称している事実も伝え、筆者は提供している情報がデマではないことを示すため、事件番号も伝えた上で、事実確認を依頼した。

すると、研究者兼事務局の代表者は、杉本は世話人としてここ2年ほどは会合に姿を現していないので、活動の実態も不明で、どんな人物かは知らないが、会の信用もあるため、そのように社会的・法的責任をきちんと負えない人をこのまま世話人にしておくのははばかられるため、事実確認の上、今後の対応を事務局内部でも検討するとの返答であった。

不愉快な問答は何一つなく、直接的な関係は何もないのに、うちの会員が迷惑をかけてすみませんでしたと、丁寧にお詫びをされていた。追って判決等の資料をスキャンして送付しておこうと思う。
 
このように、筆者はまさか彼らの善意のみに期待して解決を委ねる気は決してない。むしろ、任意では、これが最後の呼びかけであると、筆者は書いた。そして、彼らがその機会を無視したことの報いも、大きいだろうと考えている。

第三の策は、種明かしをすれば、包囲網である。キリスト教界からの包囲網、そして、世間からの包囲網によって、彼らを囲い込んで行き、活動できない状態を作り上げることである。杉本は、筆者が杉本に対して訴えを起こしたことをさんざん嘲笑し、司法や警察が筆者の味方になるはずがないとうそぶいていたが、実際には、司法も警察も生きており、筆者を根拠もなく精神異常者呼ばわりした杉本のデマなど信じこむことはなかった。

こうして、司法と警察を取り戻しただけには終わらない。この世全体を取り戻し、それによって、こうした中傷者を囲い込んで行くのである。私たちは、信仰によって、この世から召し出された民であり、キリストの御名によって、この世を統べ治める権限が与えられている。

だから、教会全体がこの世を足の下に置いて活動することが可能なのである。その霊的優位性、そして体としての一体性を取り戻すことが今、必要とされている。

* * *

筆者はこの戦いを中途で終えるつもりは全くない。神は教会を通じて、ご自分の多種多様な知恵を世のもろもろの支配と権威に示される。神はこの世の知者だと己惚れている人々を辱め、取るに足りない知恵なき者を用いて、ご自分の豊かな知恵を示される。

だから、教会の知恵を侮る者は、したたかに恥を受けるであろう。

杉本が判決に従わず、賠償金の支払いを遅らせれば遅らせるほど、利子がつき、債務は膨らんで行くだけのことである。筆者の提案を侮れば侮るほど、そして、法的責任を回避しようとすればするほど、杉本自身が失うものが増えるだけだ。

掲示板もしかりで、投稿者を2、3人でも特定できれば、十分に費用の回収はできる。海外にある掲示板の運営会社の法外に高い資格証明書取得料(5万円相当)も、慰謝料(5~10万円)と合わせて請求することになろう。その上に、訴訟費用(数万円)が上乗せされる。何しろ、ここ数ヶ月間、毎日のように権利侵害のコメントがなされて来たので、連続して多数のコメントを投稿している場合、杉本に下された賠償を超える判決が下される可能性も否定できない。

特に、こうして筆者に執拗につきまとって来ては、杉本や村上を擁護し、賠償金を踏み倒すことを勧め、筆者をストーカー呼ばわりするこの女投稿者を特定することが先決である。



この女は誰よりもおびただしい数の中傷のコメントを投稿して来た人間である。人物が特定されれば、氏名住所電話番号等を公開の上、刑事告訴することとなり、村上密や唐沢治や杉本徳久とのつながりや、投稿者同士の横のつながりについても、取調室でゆっくりしゃべってもらうことになるだろう。
 
その日は、ある日、突然、予告なく来るかもしれない。筆者から見れば、たった3行程度のコメントを日々書き連ねたために、そのように人生を棒に振るなど愚かさの極みだが、どうしても破滅に落ち込みたいという人間を止めるつもりはない。

人は他人に対して行ったことが、いつか自分に跳ね返って来る。これから先、杉本が筆者に対して行った仕打ちは、ほぼすべて掲示板の愚かな投稿者らに報いとして降りかかることとなろう。筆者は信仰にあって、どのような迫害を受けても、立ちおおせたが、信仰のない彼らには、破滅以外に待っているものはない。

この者たちは、干上がった泉、嵐に吹き払われる霧であって、彼らには深い暗闇が用意されているのです。彼らは、無意味な大言壮語をします。また、迷いの生活からやっと抜け出て来た人たちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑するのです。その人たちに自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷です。人は、自分を打ち負かした者に服従するものです。

わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。」(2ペテロ2:17-21)
  
* * *
 
村上密率いるカルト被害者救済活動は、唐沢治がニッポンキリスト教界を日々、罵り、非難して続けているのと、全く同じ精神に導かれる運動である。キリスト教会をブログで次々バッシングして来た杉本徳久も同じであって、これらの人々の行っている活動は、もとから本質的に同根だったのであり、彼らの行っていることは、教会に対する迫害であり、聖書の神への敵対行為であり、聖徒らに対する冒瀆である。

それだからこそ、この度、村上密が唐沢治を擁護するために、唐沢の陳述書をブログで公開したのであり、この二人が提携したのは、まさに必然の結果だったと言える。
 
さらに、驚くべきことに、唐沢が口汚く罵っていた「ニッポンキリスト教界」は、ついに筆者を指す用語なった模様だ。村上も、唐沢も、これまで諸教会を非難・断罪して来た以上に、筆者を仮想敵としている。そして、それがおそらく最初から彼らの活動の真の狙いであったことを筆者は疑わない。

要するに、「教会のカルト化を防ぐ」などというのは、ほんの見せかけだけのきれいごとであって、この人々の活動の真の目的は、キリスト教徒の迫害にこそあり、信者同士を敵対させて、教会を分裂させて、教会を弱体化させることにある。
 
京都教会の信者は、長澤牧師を失った痛手に加え、村上が唐沢と手を結んだことが分かれば、この教会から大慌てで逃げ出すに違いない。筆者はこれまで、村上が集めて来たカルト被害者らが、どんなに唐沢治を嫌っていたかを知っている。なぜなら、唐沢は被害者を名乗る人々に格別に厳しい残酷で容赦のない批判の言葉を並べ、心打ちひしがれた人々に一切の同情を払わなかったからである。

貧しい人々、心ひしがれた人々、不遇の環境にある信者たちに対する唐沢の容赦のない侮蔑と嘲笑の言葉は、カルト被害者にとっては、とりわけ耳を塞ぎたいような恐ろしいメッセージと聞こえていただろう。筆者はカルト被害者の中で、一人たりとも唐沢を擁護した人間を見たことがない。次の記事でも述べる通り、学歴をひけらかし、自分たちだけが真理に立っているかのように吹聴し、キリスト教界の牧師たちの貧しさや、苦労を嘲る唐沢のメッセージは、牧師たちの心にも、居ても立ってもいられないほどの憤りを呼び起こして来た。
 
従って、そのような状況で、村上が唐沢の陳述書の公開に及び、唐沢を擁護したことは、明らかに、京都教会にとってはかりしれない打撃となり、信徒数の減少、教会の終焉を招く行動となろう。長澤牧師が今この時期に京都教会を離れたのも、まさにバビロン倒壊から助け出されたに近いものがあると筆者は考えている。

* * *

さて、村上は、自分が吐いた言葉が、いずれ自分に跳ね返って来ることを、考えたことがあるのだろうか。彼は5月10日付で「著作権侵害」という記事を投稿している。

この記事の中で、村上は教会と教会を対立させて、兄弟同士を争わせたくてたまらないという様子で、自分が当事者でもないのに、ある教会で、著作権侵害の書物が配布されている事実を発見したと得意げに記し、「被害」を受けた教会は、これを訴えるべきだと呼びかける。

「ここでは教会名と出版社名を伏せることにした。双方の話し合いで解決するか。民事・刑事訴訟で取り組むか、それは教会の対応次第である。双方で解決するにしても、償い金は必要である。それは損害を与えているからである。それでは主導したと思われる牧師に対する罰はあるか。償いをすればそれで済むわけではない。牧師としての職務を辞すことで責任を取る必要があると私は考える。かつて、ソフトの違法コピーをした牧師に対して、コピーの破棄とソフトの購入で解決したことがある。今回の著作権侵害は、教会が組織をあげて、検証をし、責任を果たさなければならない。」

しかしながら、筆者は、紛争の火種を見つけてきては、教会の恥になる記事を発表し、諸教会を互いに争わせては分裂に導きたくてたまらない村上の呼びかけには、次の通り応答するのみだ。

本日に至るまで、掲示板では、毎日のように、村上密の支持者たちが、当ブログの文章を盗んでは、著作権侵害の投稿を続けて来た。全体としてものすごい文章に達している。こうした投稿者らが、村上の支持者から成り、村上のブログをキリスト教界(およびカルト問題の第一人者)としてスターの地位に押し上げ、村上を批判する当ブログの更新を阻止・妨害するために、こうした行為に及んでいる事実は、ずっと前から明らかだ。

そこで、もしもこの先、投稿者らの実名が特定されて、村上がこうした権利侵害のコメントの投稿を主導した事実が発覚した場合には、村上は以上の言葉の責任を取って、投稿者に償い金を払うよう言い聞かせた上、牧師としての責任を取って、辞職せねばならない。
  
だから、読者は、村上の発言をしっかり覚えておかれたい。以上の通りの事実が発覚した後に、村上が地位に恋々としがみついたりすることがないように。筆者は掲示板の投稿者の特定に動いているからだ。

さて、「双方で解決するにしても、償い金は必要である。それは損害を与えているからである。」と言うならば、村上は、なぜ杉本徳久に対して、賠償金を支払うよう説得しないのだろうか。

それどころか、村上は、筆者の提起した訴訟の一審で、杉本の投稿が、筆者に対する名誉毀損に当たる事実も認めず、杉本をかばうために、二人、一緒になって、賠償なしでの和解を唱え、それに筆者が応じないならば、反訴するとまで予告し、脅しのような圧迫を加えた。
 
一審判決で賠償命令が出た後も、杉本は賠償金を踏み倒すつもりで逃げ回っており、本日に至るまで、判決で命じられた記事をすべて削除したわけでもなかった。未だに、削除を命じられたコメントも内容を勝手に書き換えたまま、残している。

村上はこうした杉本の卑劣な行為をなぜ一言たりとも非難しないのか。損害を与えたのに、なぜ償い金を支払うよう言い聞かせないのか。従って、村上の論はダブルスタンダードであることは明らかだ。

もちろん、筆者はこのような行為を見逃すつもりはなく、杉本が支払いを遅らせれば、遅らせるほど、彼の負債は雪だるま式に拡大して行くだけのことである。
 
杉本は、村上が尊大に構えているので、その威を借りてさえいれば、賠償金など踏み倒せると考えているらしいが、そのようなことが社会的に通じるはずもない。これはもはやキリスト教界内の問題ではなくなっている。世間を敵に回し、社会を侮れば、その分のツケは、残る人生全体に落ちかかって来ることになる。
 
* * *
 
さて、村上と杉本はこれまで、教会に対する裁判を唱え、自分たちが教会に損失を与える時だけ、意気揚々と賠償請求に及んで来た。

村上が、元鳴尾教会の信徒を焚き付けて、鳴尾教会の教団離脱に反対するために、鳴尾教会に対する裁判に及ばせた時、村上の支援する信徒たちは敗訴したが、それでも、鳴尾教会は訴訟の対応のために、大きな経済的打撃を受けた。

杉本がかつて筆者に「相談している弁護士名を明かせ」とか、「あなたから私を訴えなさい」などという脅しのメールを送りつけて来た時も、同じように、杉本は、筆者に弁護士を雇わせることで、経済的損失を与えようとしていたのである。

彼らは、諸教会や信徒を混乱に陥れ、教会や信者たちに濡れ衣を着せて、彼らが弁護士を雇わなければ、対応できないようなトラブルを発生させて、大きな経済的負担を背負わせ、教会や信者たちの名誉を傷つけ、信徒数を現象させて、キリスト教の評判を貶めることを目的に、活動して来たのである。
 
唐沢治もこれと同一線上に立って、「ニッポンキリスト教界」を非難し続け、嘲笑することで、諸教会にダメージを与えている。その目的は、キリスト教そのものの評判を貶め、聖書の御言葉の真実性を人々に疑わせ、教会と信者と、引いては神御自身に損失を与えることにある。

要するに、彼らの活動は、諸教会に打撃を与え、信者たちに心理的・経済的損失をもたらし、聖書の神の栄光を傷つけるためにこそ行われているのである。「カルトを防止する」などという美名は、ほんの表向きの看板でしかない。

そこで、いざ、彼ら自身が、訴訟に引きずり出され、社会人として、市民として、一人前の法的責任を負わなければならない段階になると、彼らは今まであれほど教会をこっぴどく罵り、非難し、償いを要求して来たことなど、すっかり忘れたかのように、詭弁を弄して、自らの責任から逃げようとするのだ。

これらの人々は大嘘つきであり、本質的に、教会の敵、クリスチャンの敵、聖書の福音の敵、反キリストの精神に導かれる者たちである。だからこそ、彼らは信者を訴えては、公開裁判に引きずり出し、中世の魔女狩りの再現を願い続けているのである。

村上がいかに唐沢治の陳述書を公開した記事の内容を、都合よく書き換えて来たかについては、5月13日の筆者および村上密のブログおよび杉本徳久および工作員読者らの動きにもまとめておいたが、このPDFファイルとは別に、以下にも、記事本文にざっくり記しておきたい。

村上密の卑劣な記事の書き換えは、これまで再三、再四、行われて来た。村上は、まず判決言い渡し後、4月に筆者の著作者人格権を侵害する記事を投稿した上、筆者からの批判を受けると、権利侵害がなかったかのように、記事内容を書き換え、さらに、その次には、筆者を刑事告訴したなどという記事を投稿した上、筆者から虚偽告訴罪に該当するとの抗議を受けると、すぐにその記事を削除し、さらに、「唐沢治氏の陳述書 3 」と題する記事を投稿した後、筆者がこの記事の内容が名誉毀損に該当する恐れがあると反論すると、またもや、こそこそと記事を書き換えた。

今回の村上による卑劣な書き換えの内容は次の通りである。
  
➀投稿当初の村上密の記事



②書き換え後の村上密の記事



お分かりだろうか、何の断り書きもなく、記事からは、こっそり次の2文が削除されている。

「もし土下座が強要であればこれは強要罪(刑法223条)となる。」
「もし、土下座が強要されたものであれば、ヴィオロンを追放する法的根拠にはなる。」

だが、無駄なことである。この記事は、投稿された文面のまま、控訴審で不法行為の証拠として用いられる。

こうして、杉本徳久と同じように、村上密が、次から次へとトラブルを引き起こしながら、絶え間なく信者に損害を与える行動を取り、批判を受けると、うわべだけこそこそ修正し、何事もなかったかのように見せかけながら、自らの責任を全くかえりみることなく、後始末を人に押しつけて、自己憐憫と自画自賛に明け暮れて来た様子が分かるだろう。

人騒がせにもほどがある。村上が、子供のように自らの行為に責任を取れない幼稚な人間であることがよく分かる事実だ。

* * *

そして、村上が以上のような記事を投稿すると、掲示板では早速、これに触発されて、以下のように、筆者を滅茶苦茶な理屈により断罪するコメントが投稿されるのが常であった。



何と恐るべき倒錯だろうかと呆れるのみである。筆者が、裁判所を経由して強制執行に及び、差押命令が出て、正式に取立が許可され、さらに杉本が筆者のメールに返信せず、電話にも出ず、賠償金を踏み倒して逃げ回っているがゆえに、筆者がやむなく商工会議所、東京銀杏会、杉本の関係者に問い合わせを行うと予告したことを、「恐喝罪」だなどと非難するコメントが投稿されたのである。

さて、それでは恐喝罪の定義を見てみよう。

「他人を脅して財物を交付させたり、財産上不法の利益を得、または他人にこれを得させる罪(刑法249条)。恐喝とは、相手に恐怖心を抱かせ、その瑕疵(かし)ある意思(詐欺、強迫によって強いられた意思)により財産的処分行為をさせることである。」日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

まず、恐喝罪では、脅しによって得ようとしている利益が 、不法の利益であることが必要なので、判決に基づき、強制執行して債務を取り立てることが、不法の利益を得ることに当てはまらないのは明白だ。
 
さらに、 Wikipediaでは「脅して」という部分の意味は、次の通り解説されている。

「恐喝罪とは、暴力や相手の公表できない弱みを握るなどして脅迫すること等で相手を畏怖させ、金銭その他の財物を脅し取ることを内容とする犯罪。刑法249条に規定されている。 」
 
筆者が電話とメールで取立を行うことでは何の権利侵害も発生しない。 何よりも、杉本自身が最初の1本を除き、電話に全く出ておらず、メールの返信も一通たりとも寄越していない以上、こうした本人への取り立てが、迷惑電話や営業妨害等が成立する余地は全くない。

また、債務者が応答しないので、知人らに接触して問い尋ねたとしても、押しかけて住居侵入罪を犯すわけでもなければ、日に無言電話を100本かけるなどして、営業妨害に及んでいるわけでもないので、いかなる罪にも当たらない。
 
もちろん、杉本は実名を公表してブログを執筆して来たため、杉本の記事が名誉毀損に問われ、判決で賠償命令が下された事実を、筆者が第三者に告げたところで、それも「公表できない弱み」を握って脅したことに当たらない。

このように、何から何まで正当な筆者の取立の権利をすべて否定してまでも、筆者が杉本に対して賠償金の取立を行うことを「恐喝未遂罪」などと非難したい匿名のコメント者がいるのである。

しかし、こうしたコメントの方が、まさに筆者に対する恐るべき権利侵害だと言える。
 
このようなことをしてまで、この人々が杉本に賠償金を支払わないよう勧めるのは、なぜなのか? 

それはやはり、彼らが初めから教会を罪に定め、信者を罪に定め、教会に打撃を与え、聖書の神を否定する目的で活動しているからである。

彼らが信者に賠償金を払うことは、教会を富ませる結果になるから、やりたくないのである。

しかし、法的拘束力を持った判決にさえ公然と逆らうことを正当化する彼らの理屈は、まさにすべてが「さかさま」であることがよく分かる。

そこでは、正しい人が罪に定められ、罪人が聖人とされる。

根本的に狂ったこのさかさまの世界観は、彼らが聖書の神を否定していることから生まれる。神を否定した唯物論だからこそ、すべてがこのように白黒反転して見えているのであり、その世界観に基づき、彼らはすべてを裏返しに見て、ありもしないことを主張し、その結果として、厳しく責任を問われて人生を失って行くのである。

彼らのこうした異常なものの見方が、反聖書的世界観が土台となって生まれていることは、村上の記事を一つ一つ丹念に追っていくとよく分かる。

* * *

村上密はほぼすべてのブログ記事において、自分は常に他者よりも上に立って、上から人にものを教えてやれる立場にあるかのように吹聴している。自分を誰よりも賢く、誰よりも事実がよく見えていると考えており、他者から学ぶ姿勢がない。

そのことは、村上の最新記事「故郷の春」を読んでも分かる。

一見、ほのぼのとした記事のように見えるが、結局、言いたいことは自慢話なのだと分かる。

「アカハラは2006年には環境省レッドリストに準絶滅危惧種(NT)として掲載されている。数年前沖縄ではシリケンイモリ(準絶滅危惧種NT)を見つけた。どちらの場所も人に教えるつもりはないが、生物学者で、研究している人には話の内容次第で教えるかもしれない。

村上は科学者ではない。それなのに、自分こそが動物の生態について、学者も知らない物事を知っているかのようにうそぶき、生物学者や、研究者にも、ものを教えてやれる立場にあるかのように表明している。

こうした記述を読んで、「へええ、村上先生ってすごいんですね」などと思う人は、本当に物事をきちんと自分の頭で考察できない愚かな人たちである。学者が動物の生態を観察するためにどれほどの時間を費やすか、それに比べて、全国を飛び回っている忙しい牧師である村上に、彼ら以上の情報を握ることが、どれほど困難であるか、そんなことは考えずとも分かることである。

さらに、その一つ前の記事「幻覚」を読んでみよう。

何とこの記事の中で、村上は、20年前、30年前に「幻覚」が見えていると相談しに来た信者らを引き合いに出しながら、心理学者でもなければ、脳科学者でもないのに、彼らの状態は「シャルル・ボネ症候群」に該当するのではないかなどと、根拠もない病名診断に及び、さらに次のような結論に至り着くのである。

「読み進めて行くうちに、幻覚が深く宗教と関係していることも知った。カルト問題で宗教が避けられ、茂木健一郎氏がマスコミに盛んに登場するようになって、脳科学に人々の興味が移って行った。宗教人口は今でも減少し続けている。「日本は世界で4番目の無宗教国家だ」(1)発表が出ている。」

まず最初に、自分に批判を向けて来た信者や相談者に、次々と精神異常のレッテルを貼り、信者への「病名診断」に及ぶことは、唐沢治の専売特許であったことを思い出す必要があろう。未だに「脳内空転」などというありもしない造語を使って、唐沢は自分に刃向った信者らを精神異常と決めつけて嘲笑している。

次に、唐沢の問題をさて措いても、村上の「シャルル・ボネ症候群」の理解自体がおかしい、ということが分かる。この症状については、次の記事にも説明されている通りである。

真に迫る幻視、シャルル・ボネ症候群 視覚障害のある高齢者に多い 」(時事メディカル 2018年9月4日)
真に迫る幻視、シャルル・ボネ症候群」(医療法人 裕心会 いわい中央クリニック 2018年9月10日)

まず、どちらの記事でも、村上の相談者とは異なり、シャルル・ボネ症候群に陥り、幻覚を見ている人は「本人は,自分が幻を見ていると認識しています。」、「本人は戸惑い「自分はおかしくなったのか?」と一人悩むケースも少なくない。」と記されているように、はっきりと、自分は幻覚を見ているのであって、見ているものが現実ではないことを認識している。

だから、村上が記事で挙げているケース「「度々、夜になると部屋の中で若い男性たちがが来て、座り込むの困る。」(20年前の相談者A)「度々、引き出しの中から知らない動物が飛び出て、部屋の中を走り回るので困る。」(30年前の相談者B)ふたりとも見たように話されるが見ているものは存在しない。と、シャルル・ボネ症候群は、全く異なる症状であることがすぐに分かる。
  
つまり、村上は「オリヴァー・サックスの『幻覚の脳科学 見てしまう人々』(大田直子訳 早川書房)を読んで、それは「シャルル・ボネ症候群」ではないかと思った。この本は2018年に発行された。20年、30年前では、この名称はまだ一般的ではなかった。」などと書くが、村上が引き合いに出している例は、シャルル・ボネ症候群ではあり得ない、ということが分かるだけである。

こうして、村上は手前勝手な理屈を駆使して、研究者でも科学者でもないのに、自分の相談者たちに偽りの「病名診断」に及んだ挙句、さらに「読み進めて行くうちに、幻覚が深く宗教と関係していることも知った。」などと、驚愕の結論に至り着く。何と、宗教が幻覚の原因であるかのように、唐突に話が結びつけられるのである。

果たして、村上が引用しているオリヴァー・サックスの著書が、そんな結論に本当に読者を導いているのかを実際に確かめるために、 本の要約サイトを覗いてみた。すると、脳神経科医である著者は、村上の提示した結論とは、真逆の結論を述べていたことが発覚した。

「つまり幻覚とは、心の病やスピリチュアルな存在からのお告げなどではない。脳がなんらかのきっかけで、いつもと異なるはたらきをした結果というのが、著者オリヴァー・サックスの一貫した見解なのである。

映画にもなった『レナードの朝』をはじめ、脳神経科医らしい鋭い観察眼とヒューマニズムあふれる筆致で多くのベストセラーを著し、2015年に没したサックス氏。同氏の生前最後の著作が本書だ。医師として、また作家として「人間のありようの根幹」を追い求めた同氏の集大成といえるのではないだろうか。」幻覚の脳科学 見てしまう人びと

つまり、オリヴァー・サックスは、幻覚は、断じて精神病や宗教のお告げなどではなく、脳の異常に由来すると指摘しているのである。それなのに、村上はこの著書の結論を勝手に真逆に読み換えて、「読み進めて行くうちに、幻覚が深く宗教と関係していることも知った。」などというトンデモない結論を提示する。

こうして、村上は、巧みに宗教全般を「人間を狂わせるもの」と思わせる方向へ話を誘導し、自分自身がキリスト教の牧師を名乗っているにも関わらず、日本は世界で4番目の無宗教国だなどという統計を提示、まるで「ああ、だから、宗教なんて信じる方が馬鹿なんだ」と言いたげな結論で記事を終えている。

これはどういうことなのだろうか。なぜキリスト教の牧師を名乗る人間が、こんな記事を書くのか。

筆者はこの記事を読んで、かつてカルト被害者の一人が、話してくれたことを思い出した。村上の娘は、かねてより父親の牧会する京都教会を毛嫌いし、村上のもとに相談に訪れる信者たちを「理由(わけ)ありの人」と呼んで軽蔑していたというのである。「牧師の娘にも関わらず、信者を侮蔑するなんて、家庭でどういう教育を施したら、ああいう風になるのか」と、被害者は憤っていた。

そして、村上の娘婿は、前にも述べた通り、教会からリフォームの仕事を回してもらったにも関わらず、事業がうまくいかなかったのか、不明な理由で自殺を遂げている。

村上の発言から見えて来るのは、カルト被害者の指摘の通り、村上が、自分は牧師であるにも関わらず、「宗教なんか信じるから、幻覚が見えるようになったりして、精神を病んで行くのだ」などと、幻覚を見たという相談者の例を無限大にまで拡大しながら、宗教そのものを蔑視し、あるいは断罪し、信者たちを蔑視し、異常者扱いするような結論を記事で示唆していることである。

だが、実際には、何十年も前に見聞きした、シャルル・ボネ症候群に相当しない相談者を、あたかもこの病名に当てはまる患者であるがごとく、根拠もなく断定したり、オリヴァー・サックスの著書が全く述べてもいない結論を、まことしやかに著書の結論であるかのように提示したり、無いものをあるように「見てしまっている」のは、村上自身ではないのか?

ここに筆者は、キリスト教を敵に回すことの恐ろしさがある、と思う。前々からずっと述べている通り、 主を畏れることは知恵の始め。」(箴言1:7)であり、「無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」のであって、宗教が精神的な病の根源なのではなく、むしろ、逆に、神を畏れないことこそ、精神崩壊の始まりなのである。

それなのに、村上は聖書とは真逆の結論を述べて、神など信じるから、人は精神異常に陥るのだと言いたげな結論へ読者をいざなう。

だが、聖書の御言葉を知ってさえいれば、村上がこの記事で最も述べたい結論は、要するに、聖書とは真逆の唯物論なのだということが分かる。

なぜなら、聖書は言うからだ、「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(へブライ11:3)

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(2コリント4:18)

聖書は、この世界は、見えるものからではなく、見えないもの(神の言葉)から出来ていると言う。そして、見えるものではなく、見えないものこそ、すべての根源であって、永遠に続くものであると教える。そのような聖書的世界観は、村上から見れば、まさにないものを「見てしまう」という、「精神を病んだ人々」として、蔑視の対象にしかならないのであろう。

ところが、現実は真逆であり、神を畏れ、尊ぶ人たちは、まっとうな生き方をするのに、宗教を侮蔑し、神を畏れない人間、そして、諸教会を断罪しては、信者同士を争わせ、神の教会を侮蔑してはばからない村上たちの活動の支持者らは、どういうわけか、自分は正しいと言い張りながら、判決に逆らって、賠償金を踏み倒したり、あるいは不明な理由で自殺に至ったり、刑事事件で訴えられたり、人権侵害の記事を書き連ねながら、全く反省がなかったりするのである。

神の教会を冒涜し、あらゆる宗教を敵視し、見えるものの根源は見えないものにあるという霊的法則性を否定して、見えるものこそすべての根源であるかのように主張するこの人たちが、彼らの論とは裏腹に、自分たちこそ、精神異常に落ちかかっている様子が見えて来る。
 
そこで、私たちは、村上がすべての宗教に「害悪や、病をもたらすもの」、「胡散臭いもの」、「カルト的なもの」、「悪」というイメージを植えつけようとして、根も葉もない虚偽のプロパガンダを言い広め、キリスト教のイメージを貶めようとしていることを十分に理解した上で、これを鵜呑みにしないように、警戒しなければならない。そして、牧師であるにも関わらず、このような記事を書く人間は、決して、真実なキリスト教徒ではあり得ず、まともな牧師でもあり得ないという結論も、おのずと見えて来よう。

つまり、村上は、聖書66巻が神の霊感を受けて書かれた書物であることを否定した杉本徳久と同様に、偽牧師であり、偽教師であり、偽クリスチャンであり、要するに、反キリストの精神に導かれる人間だということが分かるのである。

ちなみに、筆者は、物事のうわべのありようではなく、その本質を見ている。そして、クリスチャンには、聖書に「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあながたに告げるからである。」(ヨハネ16:13)と記されている通り、御霊によって、将来的に起こることをも、ある程度、予知する力が備わっている。

たとえば、以前にも書いた通り、筆者が2010年に杉本徳久をラスコーリニコフになぞらえ、カルト被害者救済活動が不法行為の温床になっていると記事で警告したときには、まだ明白な不法行為と言えるものは明らかになっておらず、杉本が犯罪行為に問われていたわけでもなかった。

しかし、その後、物事は筆者の予想した通りの展開を辿り、杉本は今やラスコーリニコフからそう遠くない地点に立っている。さらに、筆者が昨年、仮処分の申立てを杉本・村上・唐沢の3名に対して提起したとき(これは一部訴訟に転じる予定で取り下げている)、筆者はこの訴えの中で、3人が共謀しているなどとは全く主張していなかったが(3者の行動にそれぞれ接点があったため、3者を債務者として同時に申立を出した)、1年後にはほとんどそれに近い状況が出来上がっている。

 唐沢などは、自分たちに共謀関係などあるはずがないと、筆者の論を嘲笑っていたが、今、村上が唐沢治の陳述書を公開している有様を見ても、その当時いはなかったネットワークが、今、出来上がっている様子が分かるのである。

こうしたことも、筆者が約1年前にほぼ確実な未来予測をしていたことを示している。

とはいえ、これは筆者自身の予知能力などではなく、何ら不思議な現象でもなく、彼らの活動が本質的に聖書に反するものであることを理解すれば、遅かれ早かれ、この人たちが聖徒らを迫害する目的で、手を結ぶに至るであろうことも、十分に予測しうるのである。

誰であろうと、物事の本質をきちんと見極めれば、将来的にどのように事態が展開するか、実際にその出来事が起きるよりも前に、一定程度、予測できる。

つまり、これは無いものが「見えてしまう」という幻覚の類とは全く異なる事柄なのである。信仰を持たない人々が、いかに否定したとしても、世界は、厳然たる霊的な法則性によって造られており、また、それに従って動いており、その法則は、物理法則と同じくらいに変わらないものである(正確には物理法則を超える)ので、ある人の思想を緻密に分析すれば、その人がどういう人生の最期を迎えるかまで、大体分かってしまうのである。

だから、筆者には、村上も、杉本も、唐沢も、決して平和な人生の終わりを迎えないであろうことが予想できる。KFCは特に、地上のエルサレムの崩壊や、マサダの集団自決などを彷彿とさせるような、ひどい最期を遂げるだろうと予想している。

* * *

掲示板でも引用されていたが、唐沢は記事「最期で分かる男の価値-いかに地上を去るべきか- 」の中で、このようなことを述べていた、「われわれは思索によって生きるのではない、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる。その言葉こそが究極の存在であり、いのちの実体なのだ。で、唐突だが、男の死に方。」

この冒頭を読んだだけで、クリスチャンには、何かがおかしい、ということが分かるだろう。「いのちの実体」を語っているはずが、唐突に「死」へ話が結びつけられる。しかも、その間に、復活がない。そもそも、復活という概念が、一度も出て来ないまま、生と死とが結び付けられるだけで話が終わっているのである。

このような世界観を、グノーシス主義的な対極の概念の融合という。「あらゆる対極性を一つのものにしてしまう巨大な輪」なるウロボロスの輪というシンボルに象徴される、初めも終わりもない永遠の循環の概念である。

この循環の概念については、過去に三島由紀夫の映画の分析記事(「神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画"MISHIMA"から⑤」)などで詳しく記した。

実際、唐沢が述べているものが、グノーシス主義的世界観であることは、「生と死の間は浮世狂言、脳内の電気と化学物質の生み出すマトリックス。まともに思索したところで空理空論の無限ループ。」という記事冒頭の言葉からも分かる。
 
つまり、唐沢から見れば、世界のすべては存在しないも同然の無であり、生も死も結局は存在しない無限ループでしかなく、本質的に同一だというのである。

そして、唐沢はローマ帝国時代の殉教者たちを、神への愛のゆえに命を投げ出しても信仰の証を守り通した勇敢な信仰の先人たちとは見ずに、むしろ、殉教に死の美学としての肉体の完成を見いだそうとする。

「ローマ時代のようにライオンと戦って殉教するような華々しい場面はないとは思うが、【その時】、ブヨブヨの肉体を晒さないために、これまで鍛えてきた。葉隠にいわく、武士道とは死ぬことと見つけたり・・・。主も言われる-わたしのために魂を捨てる者はそれを得る。得ようとすれば失い、失えば得るのだから。-Jesus」

しかし、「武士道とは死ぬことと見つけたり」という葉隠の言葉が、決してキリスト教とは両立しない、むしろ、正反対の大変、危険なものの考え方であることは、記事「肉のものと霊とのものを区別する必要性~キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋的神秘主義の危険⑤~」などで再三再四、指摘して来た。

戦前・戦中の国家神道においても、天皇の御ために身命を捧げることは<略>、小我を捨てて大いなる御稜威に生き、国民としての真生命を発揚する所以である。などと説かれ、天皇のために死を遂げることが、「真生命の発揚」などという言葉でごまかされ、生と死とが、まるで根本的に同一であるかのように、一つの概念へと結びつけられていたのである。

こうして、対極の概念を融合する考え方は、東洋思想の基本である。そして、東洋思想は、本来的にグノーシス主義と同じであることも述べて来たのであって、これは絶対にキリスト教と混じり合うことのない異質な思想である。

というよりも、東洋思想は、それ自体が、キリスト教の「対極にあるもの」であって、キリスト教と己を合体させることで、キリスト教を堕落させることを真の目的としている教えだと言って差し支えない。
 
唐沢はまんまとその罠にはまり、キリスト教と武士道の精神をごちゃまぜにしている上、最近は、禅までも融合したらしい。一体、いくつの非聖書的な思想を無分別に取り込めば気が済むのか、唐沢の信仰は、もはやキリスト教からは遠く遠くかけ慣れた、異端のデパートのようになっている。
 
東洋思想には、復活という概念がない。死を打ち破ることのできる力は、その世界にはどこを探しても、存在しない。そこでは、物質的なものが、本質的なものとされ、一切が究極的には無である、とされる。つまり、唐沢の言葉で言えば、何もかもが「脳内の電気と化学物質の生み出すマトリックス。」という結論に至り着くのである。むろん、人間もである。

従って、本来的に無であるものが、どういう扱いを受けようと、損失も、痛みも、発生するはずはなく、また、見えている有様は、本来的なものでなく、無こそが本来的な姿であるとされるので、この世界観にとらわれた人は、己の無なる本質を証明するために、生きているうちから、死を目指すことになる。
 
唐沢は、かつては十字架における死と復活を頻繁に語っていた。しかし、それも借り物の教義に過ぎなかったのか、今やあからさまに肉の思いは死であり、」(ローマ8:6)との御言葉が示す通り、生を語っているようでありながら、あからさまに死を語るようになっている。

苦痛を避けて、美しい人生の終わりを迎えたいなどと書いているが、彼の信奉する三島由紀夫の終わりも、ウォッチマン・ニーの終わりも、決してそんなものではなかった。

筆者は、唐沢のこうした思想を見るにつけても、彼とKFCは決して平穏な終わりを迎えないことを心から確信せざるを得ない。
 
唯物論とは、見えるものと、見えないものの秩序を逆転させて、見えるもの(物質)を見えないもの(神の御言葉)よりも重視し、神の神殿たる人間を、神ご自身以上に高く掲げる聖書に対する反逆の思想である。

それは男と女との秩序をも覆し、人自身における霊魂と肉体の秩序をも転覆し、肉体を魂や霊以上に重視し、最終的に、人間を自己破壊へと至らせる。肉体を重んじる、と言いながらも、最後は己の肉体の破壊で幕を閉じる思想である。これは決して変えられない法則性であり、数多くの人たちがこの思想の虜となって、非業の死を遂げて来た。だからこそ、それは死の美学を形成するのである。

自分たちはエロヒムだ!と豪語する唐沢は、自分たちを神々だと称して、諸教会に君臨し、教会を「ニッポンキリスト教界」と呼んで、盛んに侮蔑・罵倒することで、エクレシアを蹂躙・冒涜している。そして、自分に刃向って来た信者や、自分のもとを去った信者を呪い、断罪し、罵倒している。

だが、そうすることで、結局のところ、唐沢は、神の神殿として造られた宮である自分自身を否定・蹂躙・冒涜しているのである。

キリスト教徒の殉教は、決して肉体美の誇示のためではない。にも関わらず、唐沢は、これを信仰の完成としてではなく、肉体の完成であるかのように受けとる。そして、殉教者たちが、神を愛するがゆえに、命がけで信仰を証したのではなく、自分の肉体美を保存するために死へ赴いたかのようにとらえる。そして、自分の肉体を老いさらばえる前に保存するために、その死にならいたいと憧れている。ものの考え方としては、三島と同じである。

唐沢の考え方には、ただ見える世界だけがあって、見えない世界は存在しない。
 
だからこそ、筆者は余計に、唐沢がいかに「脳内空転的に三島のように腹を切るのもグロ。今回の西部氏の老人性鬱病と間違われるような最期もね。要するにキレイに逝きたいと思うのだ。」などと言っていても、彼の生涯の終わりは、非常に象徴的な自己破壊となり、苦痛を免れられないであろうと思うのだ。村上の愛読書がフィリップ・ヤンシーの『苦痛』であって、そこには次から次へと激痛に呻く人々が登場して来ることも、よく似ている気がする。

唐沢は、死は肉体の完成であるとして、「死の美学」を語りながら、己の肉体を破壊する方法を絶えず思いめぐらしているようにしか、筆者には見えない。死のカタログのページをめくって、どのような死に様が自分にとって良いかを絶えず思いめぐらし、絶えず死に憧れて、生を語りながら、死へと至り着かずにいられない唐沢の中に、すでに彼の最期が明白に表れていると思うのだ。

しかし、私たちは断じて、このような唯物論的「死の美学」を信奉する者ではない。

「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平安であります。」(ローマ8:6)
「義人は信仰によって生きる。」(ヘブル10:38)
もし、わたしたちがキリストと一体となってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。<略>わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」(ローマ6:5-8)
 
私たちは、キリストと共に十字架で死んで、彼と共によみがえった者として、すでに死の脅威からは解き放たれている。とはいえ、日々、自分の十字架を負って、主の霊的死を身に帯びるからこそ、そこによみがえりの命が働き、私たちは生きる。

そういう意味では、私たちに霊的死は必要であるが、それはあくまで霊的死であって、肉体的死を目指すものではない。だから、筆者は、自分がどのように死ねば、満足を得られるのか、と、死に様を思いめぐらすようなことはない。むしろ、生きている間に、何を成し遂げれば、御心の満足になるのか、と思いめぐらし、時間を惜しんで、御国の前進のために働いている。

筆者は、キリストと共なる古き人に死んで、もはや自己満足のために生きているのではなく、筆者のために死んでよみがえって下さった方のために生きているのであるから、束の間に過ぎない地上における自分の美を保存するために、まるで自分を冷凍保存するように、死というガラスケースの中に閉じ込めようなどとは間違っても思わない。

いずれにしても、キリスト教を罪に定め、神を信じる敬虔な信者たちを「精神異常者」呼ばわりし、信仰を侮蔑し、教会を冒涜するこれらの牧師たちは、自画自賛し、信者たちを病人呼ばわりした舌の根も乾かないうちに、自分たちは、率先して、病どころか、激痛や、死を慕い求めながら、罪に罪を重ね、破滅へ向かっているのである。
 
 
<続く>

2019年3月16日 (土)

霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。(2)

「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」(マタイ19:11)

わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。」(マタイ19:29)

* * *

さて、掲示板での騒ぎのために心痛めている人があるかも知れないので、一言書いておきたい。我々信じる者を巡って起きる対立は、人間的な対立ではない。その背後には、神の霊とそれに逆らう汚れた霊の対立がある。聖書には、次のように書かれている通りである。

「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。ですから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」(エフェソ6:10-13)

私たちが敵としているのは、目に見える肉なる人間ではなく、彼らを導いている悪の諸霊であり、暗闇の世界の支配者、それが率いるもろもろの支配と権威である。
 
はっきり言えば、私たちが敵としているのは、目に見える人間ではなく、彼らの吹き込む嘘偽りの教えである。

人間はたかだか100年ほどしか生きないが、おそらく霊には寿命というものがないのではないと思われる。創世記で蛇の姿をしていたサタンが、黙示録では、年老いた竜になっているところを見ると、サタンと暗闇の勢力にも、年を取るということはあるのかも知れないが、彼らには体がないので、寿命が来て死ぬことはなく、従って、世の終わりが来て、神の永遠の刑罰が彼らに下され、彼らが己が悪行の報いとして、火の池に投げ込まれるときまで、この諸霊どもは生き続けるものと見られる。

つまり、暗闇の勢力に属する悪の諸霊は、神の天地創造からこの方、ずっと変わり映えのしないメンバーで、人類を欺き、惑わし続けているのであって、彼らは自分の体を持たないために、常に宿主となる人間を探し出しては、その人間を通じて、堕落した惑わしの力を行使しようと、この人間を要塞として利用して来たのであって、悪の諸霊の吹き込む嘘を受け入れた人々が、その宿主となって来たのである。

従って、もう一度言うが、私たちが無力化して粉砕すべき対象は、目に見える人間ではなく、また、悪の諸霊それ自体でもなく、その霊どもが、人間を要塞化してそこから宣べ続けている「偽りの教え」である。

悪の諸霊は、人間の手によって根絶されることはない。これを最終的に裁かれるのは神である。従って、私たちの戦いの目的は、悪霊そのものを対処するというよりも、悪の諸霊の述べる嘘に満ちた偽りの教えを粉砕して、彼らの脅しを無効化することにあるということを、いつも覚えておかなければならない。

私たちが目にしている人間的な対立の背後には、必ず、霊的な対立が存在する。そこで、もしも我々信者の証しを否定するために、立ち向かって来る人間があるとすれば、その人は自分の考えを述べているのではなく、彼らを導く悪霊の考えを述べているのであって、その究極の目的は、聖書の御言葉を否定することにあると理解しなければならない。
 
私たちは、どのような相手であれ、人に向き合うに当たり、彼らの述べている思想がどのようなものであるかを把握することによって、彼らがどのような霊に導かれて生きているのかを見分けることができる。

聖書が次のように教える通りである。

愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊は、すべて、神から出ていません。これは反キリストの霊です。」(Ⅰヨハネ4:1-3)
 
  さて、当ブログでこれまでずっとグノーシス主義の構造を明らかにして来たのは、それが悪霊の教えの基本形だからである。基本形と言っても、これは聖書をさかさまにしたものであるから、悪霊にオリジナルの教えがあるわけではない。とはいえ、この基本形を知ってさえいれば、悪の諸霊が時代を超えて作り出すすべての思想は、すべてそのバリエーションに過ぎないことが理解できる。

たとえば、長年、当ブログに激しい攻撃を加え続けているカルト被害者救済活動の支持者の一人は、キリスト教徒を名乗っているにも関わらず、自らのブログで、聖書は神の霊感を受けて書かれた書物ではなく、人間が書いたものに過ぎないとか、悪魔もなければ、暗闇の勢力も存在せず、エデンの園で悪魔が蛇の姿を取って現れて人類を惑わせたなどのことは事実でなく、ノアの洪水もなく、聖書の記述を文字通りに信じるなど、精神異常の産物であって馬鹿げている、という見解を公然と述べている。

当ブログでは、そのような見解からは、必然的に、乙女マリヤが御霊によって身ごもってイエス・キリストを生んだという聖書の記述などは、すべて「馬鹿げた作り話」という結論しか導き出せず、従って、このような人々は、うわべだけはキリスト教徒を名乗りながらも、結局、イエス・キリストが神の独り子であって、人類の救い主であることを否定しているのだと示した。

このことから、彼らを導いているのは、反キリストの霊であると言える。そして、このように、彼らが、聖書が神の霊感を受けて書かれた書物であることを否定し、イエスが神の独り子なることを否定していることを理解した上で、改めて彼らが当ブログに投げつけている悪罵の言葉を見れば、その内容が、ほとんど彼らが聖書を非難している言葉とほぼそっくりであることも、すぐに分かるはずだと指摘した。

つまり、彼らは聖書が「嘘に満ちた作り話」であると確信していればこそ、当ブログの信仰の証しが「妄想の産物」であるかのようにみなして攻撃・中傷しているのであって、当ブログに向けられた非難は、それを通して、彼らが聖書の御言葉を否定し、聖書の神に敵対するための手段なのである。

さらに、彼らが「聖書の記述は嘘だ」と主張していることに加えて、彼らが何より広めたい第二番目の主張は、「神は唯一でない」ということである。

当ブログは、「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただお一人なのです。」(Ⅰテモテ2:5)の御言葉に基づき、聖書のただお一人の神以外の「神々」など存在せず、牧師などの指導者は、とどのつまり、キリストになり代わって信者の心を支配しようとしている偶像に過ぎないと主張して来た。

この主張こそ、彼らにとって最も許しがたいものなのである。なぜなら、この主張は、宗教指導者の権威を否定するのみならず、それに属する彼ら自身が、「神々」であることを否定するものだからである。

上記のような人々が、すでに心の内で、自分たちを「神々だ」と宣言していることは、これらの人々の一人が「神々の風景」という題名のブログを開設していたことや、当ブログにもかつて書き込みをしことのあるある集会の指導者が、今や「自分たちはエロヒム(神々)だ」と公言している様子を見てもわかる。これは決して偶然ではない。

彼らが言いたいのは、結局、「俺たちは神々だ! それを否定して、神は唯一だなどと宣言する輩は、俺たちの『神聖』を『冒涜』しているのであって、許せない」ということであり、自分たちこそ「神々である」と宣言するためにこそ、彼らは、彼らの考えに大いに水を差す当ブログを、何とかこの世から駆逐しようと、あれやこれやの言いがかりをつけては、当ブログの信仰の証しを否定しているだけなのである。

だが、恐れないでもらいたい。今、掲示板で馬鹿騒ぎを繰り広げている連中は、筆者に指一本触れることはできない(そのようなことは、彼らには許されていない)。彼らにできることは、彼らの偽りの教えを否定し、真実な信仰の証しを続けるクリスチャンに、あらん限りの罵詈雑言を投げつけることで、聖書に基づく信仰の証しを公然と続けることは、ためにならず、危険なことであるかのように多くの人たちに思わせ、信者を威嚇することだけなのである。

そこで、筆者は、このような卑劣な脅しには断じて屈しないようにと人々に呼びかけておく。

これまで幾度も書いて来たように、クリスチャンが信仰のために主に献げるものは、すべて前もって、神と信者との間で了承のもとに取り去られるものに限られている。従って、今起きていることは、将来起きることの予表ではあるにせよ、彼らは決して神が許した限度を超えて、クリスチャンに手をかけることは許されていないのである。
 
イエスが何を言われたか、思い出してもらいたい。

「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。
しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や楼に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。

それはなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。

あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(ルカ21:10-19)


このように、クリスチャンが世から憎まれ、迫害を受けるのは、人々の前で立派に信仰を証する目的のためである、と主イエスははっきり言われた。

従って、私たちが迫害を受けたとき、せねばならないことは、人々の前で敵の嘘や詭弁に満ちた主張を、対抗弁論によって毅然かつ堂々と打ち破ることであって、彼らの脅しを恐れて退却することではない。

なぜなら、すでに述べた通り、私たちが向き合っているのは、あれやこれやの人間ではなく、悪の諸霊が吹き込む偽りの教えそのものであって、私たちがなすべきことは、すでに述べた通り、彼らの嘘を指摘し、聖書の御言葉が真実であることを公然と証明することで、大勢の人々に対して行使されている彼らの嘘による脅しと、惑わしの力を、無効化することだからである。

それが、「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく」という言葉の意味なのである。

* * *

さて、今回は、「聖書の記述は嘘だ」という彼らの第一の言いがかりに加えて、「我々は神々である」という彼らの第二の嘘が意味するところについて、重点的に考えてみたい。

なぜなら、聖書のまことの神である唯一の神を否定して、自分たちが「神々である」と詐称することこそ、グノーシス主義思想の最大の目的だからだ。

福音書には、ぶどう園をあずかった悪い農夫たちのたとえ話が複数個所、登場する。

むろん、誰でも知っているように、この悪い農夫たちは、直接的には、ユダヤ人を指す。ユダヤ人たちは、神が自分たちのために遣わされた預言者たちを迫害して殺し、神が独り子なる救い主を遣わされたのに、これをかえって十字架につけて殺した。

そこで、救いはユダヤ人から取り上げられて、異邦人に与えられ、それだけでなく、主イエスを拒んだユダヤ人の都エルサレムは、やがてローマの進軍により滅ぼされ、神殿は石組一つも残らないほど徹底的に壊滅した。

実は、グノーシス主義の構造とは、まさにこの悪い農夫たちの策略そのものであると言える。そして、恐るべきことに、今日、目に見える教会には、まさに神と人とが主客転倒したグノーシス主義の教えが広まり、まさにこのぶどう園の有様が広がっているのである。

今回は、マタイによる福音書からそのたとえ話を引用しよう。

「ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。

さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受けとるために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で撃ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。

そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。


さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。

イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。


『家を建てる者の捨てた石、
 これが隅の親石となった。
 これは、主がなさったことで、
 わたしたちの目には不思議に見える。』

 だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。

 祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。」(マタイ21:33-46)

私たちは、このたとえを読んで、首をかしげるだろう。一体、なぜこの悪い農夫どもは、ぶどう園の主人の跡取り息子を殺したからと言って、農園が自分たちのものになると考えたのだろうかと。殺人によって所有権を奪うことなどできるはずもないのにと。

全くその通りで、そんな考えが荒唐無稽であることは言うまでもない。しかし、暗闇の勢力は、有史以来、殺人によって神の国(神への礼拝)を正しい人々の手から奪い取ろうとして来たのであって、カインはアベルを殺すことで、神への礼拝を奪い取れると考え、ユダヤ人たちも、キリストを殺せば、自分たちの教えだけが、正しいものとして残ると考え、自分たちが本当は神に受け入れられておらず、全くの罪人でしかないという事実を誰からも暴かれずに済むと思ったのである。

要するに、これらの人々は、本物を駆逐しさえすれば、誰にも本物と偽物との区別がつかなくなり、偽物である自分たちが、正体を暴かれることなく、公然と本物を名乗れるかのように考えたのである。

ここに、「唯一の神から、神であることを奪って、自分たちが神になりかわりたい」というグノーシス主義の究極的な願望が込められていると言える。

当ブログにおいては、グノーシス主義とは、被造物が主体となって、自らの創造主を客体に貶め、被造物が創造主の神聖を盗み出して自ら「神々」になろうとする「模倣と簒奪の思想」であると述べて来た。

要するに、グノーシス主義は、聖書の神と人とを主客転倒した「さかさまの思想」であって、神によって罪に定められ、神聖から排除された、堕落した生まれながらの人類が、自分たちを罪に定めた聖書の神に反逆し、神に復讐を遂げることを正当化するために造り出された思想なのである。そして、もちろん、その起源は、創世記において、人類を誘惑した蛇の教えにある。

グノーシス主義思想が、「擬制(フィクション)としての父の物語」だと言われるのもそのためで、この思想の持ち主は、神の国の後継者ではないのに、後継者であると詐称して、まことの神から、神であることを奪って、己を神としたいからこそ、彼らにとって「父なる神」はフィクションでなければならないのである。なぜなら、本当の父というものがあれば、彼らの嘘がすぐにバレてしまい、彼らは父の圧倒的な権威によって、家を追われることになるためである。

聖書において、父なる神は、「わたしは有る」(出エジプト3:14)と力強く宣言される方であって、断じてフィクションなどではない。

お前はわたしの子
 今日、わたしはお前を生んだ。
 求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし
 地の果てまで、お前の領土とする。
 お前は鉄の杖で彼らを打ち
 陶工が器を砕くように砕く。」(詩編2:7-9)

この箇所は、キリストを指したものであるが、父なる神が聖霊によって独り子なるキリストを生んだように、私たちクリスチャンも、バプテスマを通して下からの出自に死んで、御霊を通してキリストによって上から生まれた者たちである。

私たちはこうしてキリストによって、父なる神から生まれていればこそ、この父に、子として何でも願い求めることができるのであり、もしも私たちが「父が分からない」子だとするならば、私たちは信仰によって、何一つ神に願い出る資格を持たない者となる。

「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。

神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。

もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ローマ8:12-17)

と書かれてある通りである。

ここでは、神の子供であることを見分けるために、いくつかの条件が提示されている。まず、「神の霊」によって導かれていること。そして、その霊とは、人を恐怖によって奴隷とする霊ではなく、私たちが神の子であることを証する霊であること。

次に、私たちが神の子であるならば、キリストと共に「共同相続人」でもあること。これは私たちが、やがて来るべき新しい天と地で栄光に満ちた贖いに預かることを指している。

さらに、私たちがキリストと共に苦しみを受けることによって、栄光を受けることが出来ること。これはクリスチャンが地上で主の御名のゆえに負わねばならない苦難を指す。

また、非常に重要なこととして、神の霊によって導かれて生きるためには、「肉に従って生き」ず、かえって「霊によって体の仕業を絶つ」ことが必要になる。これは主と共なる十字架の死の効果が、信者の肉に対して絶えず及んでいることを意味するが、このことについては後述する。
   
ところが、被造物を主とするグノーシス主義は、「父なる神」をもの言わぬ「虚無の深淵」や「鏡」に貶め、「存在の流出」という考えにより、あたかも天地万物のすべての被造物は、父なる神の意志によらず、自動的に流出したかのように述べる。

幾度も述べた通り、ここには、父の意志というものが介在しないため、「お前はわたしの子 今日、わたしはお前を生んだ。」という父から子への明白な承認が全くない。それどころか、もの言わぬ「父」は、いるかどうかも分からない存在へと追いやられている。

このようにグノーシス主義は、「父なる神」から発言権を奪った上で、神の姿が水面に映って乱反射した映像から流出して出来たとされる被造物を「神々」として誉め讃えるのである。

このように、まことの神を骨抜きにして、その神から神聖なるリアリティを盗むがごとくに生まれた被造物を「神々」として賛美するという人類の自己満足、自己賛美のために造られた思想が、グノーシス主義である。

どこまでも人類の自己満足、自己賛美の思想であって、それを力強く承認してくれる者の存在がないからこそ、この思想には、この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。と言える「神の子とする霊」「証」の存在はなく、ただひたすら「俺たちの父祖は神だ!俺たちは神の子孫であって、神々だ!」という「自称」の世界が広がっているだけなのである。

しかし、彼らの自己満足にも、決定的に水を差す存在がある。それが、ソフィアの失敗作と生まれたヤルダバオートである。

グノーシス主義においては、地上を支配する醜い悪神ヤルダバオート(デーミウルゴス)は、アイオーンたちのヒエラルキーを飛び超えて、単独で神の神聖を盗もうとして失敗したソフィアの過失の結果、生まれた悲劇の産物であるとされる。そして、これが聖書の創造主(ヤハウェ)と同一視されて、徹底的に悪罵と嘲笑の対象とされるのである。

私たちは、グノーシス主義とは、聖書の唯一の神を徹底的に憎悪し、悪罵・嘲笑することを目的に生まれた思想であることを覚えておく必要がある。

グノーシス主義がヤルダバオートを憎むのは、まず彼の存在そのものが、母としてのソフィアの企ての失敗(被造物の失敗)を示すものであることに加え、彼の外見が、自分たちは美しいと思って自画自賛しているアイオーンたちから見て醜く見え、さらに、何よりも、ヤルダバオートが「わたしの他に神はない」と宣言しているためである。

もちろん、ヤルダバオートのこの宣言は、「わたしは主である。わたしのほかに神はない、ひとりもない。」(イザヤ45:5)などの聖書の神の宣言を、グノーシス主義者が皮肉り、嘲笑するために悪用したものである。

つまり、「神々」なるアイオーンたちから見れば、自分一人だけが神であるかのように宣言し、他の「神々」の存在を頑なに認めないヤルダバオートは、「高慢」で「無知」で「愚か」な悪神であって、許せない存在と見えるのである。

それゆえ、グノーシス主義の思想は、至る所で、ヤルダバオートに聖書の唯一の神を重ねて、これを高慢で無知で愚かな神として、徹底的に嫌悪し、嘲笑の対象とするのである。

このように、グノーシス主義が最も憎んでいるのは、神は唯一であって、他に神はいないと述べている聖書の真理なのであって、この思想の持主の目的は、神が唯一であることを否定して、その代わりに、被造物を「神々」に据えることにこそある。

先に結論から述べるならば、掲示板において当ブログに盛んに悪罵の言葉を向けている人々が、当ブログの主張を「高慢」で「狭量」で「僭越」なものであるかのようにみなしているのも、同じ理由からである。

当ブログの信仰の証しを「妄想」や「精神異常の産物」として罵っている人々は、聖書の記述をも、人間に精神異常をもたらすだけの「作り話」だとみなして否定しているだけでなく、当ブログの信仰の証しを「高慢」だと罵ることにより、自分たちこそ「神々」であるとして、唯一の神を否定しているのである。

もちろん、彼らが神の独り子なるイエス・キリストの十字架の贖いも認めていないことはすでに述べた。だとしたら、ただ一人の救い主を信じないのに、自分たちが救われていると自称している彼らは、自分たちが生まれながらにして「神々」だと詐称しているに過ぎない。

こうした悪罵の背景には、太古から続いて来た、聖書の神に反逆する思想があるということを、私たちは覚えておく必要がある。

グノーシス主義というのは、初代教会の時代に名付けられた呼び名に過ぎず、この思想それ自体は、もっと前から存在している。その起源は、創世記で人類をそそのかした蛇にさかのぼり、いわば、蛇の教えを体系化したものが、グノーシス主義なのであって、それが多くのバリエーションを作って、世界の宗教、哲学、政治思想などに受け継がれている。

結局のところ、世界の思想は、根本的に大別すると、キリスト教と非キリスト教(グノーシス主義)の二つしかないのであって、聖書の御言葉が真理であることを認めない思想は、すべてグノーシス主義のバリエーションとして分類することができるのである。

私たちは、このように、太古から、聖書の唯一神を徹底的に悪罵、憎悪し、神を誹謗中傷の対象として来た悪魔的思想というものが存在し、それが悪の諸霊によって、現代にも、惑わされた人々に連綿と受け継がれていることを理解しておく必要がある。

だから、掲示板における人々の当ブログに対する非難の根底には、グノーシス主義が存在しているのであって、当ブログがこの偽りの教えの嘘を体系的に明るみに出していればこそ、彼らの非難は苛烈を極めるのである。

とはいえ、私たちの神ご自身が罵られ、嘲られている時に、私たちがキリストの苦しみにあずかるのは当然であって、それによって、私たちは来るべき世において、主と共に栄光を受けることができるであろう。約束の相続人であるからこそ、キリストと共に苦しむという栄誉も与えられているのである。

わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたよりも前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:11-12)

話を戻せば、グノーシス主義には、もの言わぬ「虚無の深淵」とされているとはいえ、一応、形ばかりは「父なる神」が存在している。これは「神々」の誕生にほんのわずかなりとも口実を与えるために造り出された、骨抜きにされた沈黙する神であって、すでにフィクションのような存在である。

だが、東洋思想においては、このようにフィクションによって抜け殻と化した「父なる神」すらもなく、万物の生命の源は、公然と「母なる神」(神秘なる混沌)にあるとして、女性原理が神聖なものであるかのように誉め讃えられる。

この「母なる神」(老子によれば玄牝)は、言い換えれば、人間の肉の情欲そのもののである。詳しくは省略するが、東洋思想では、天地万物は、「神秘なる母胎」なるものから、情欲の交わりによって誕生したのだとされ、東洋思想の根本には、堕落した肉の情欲をあたかも神聖なものであるかのように誉め讃える思想がある。

幾度も述べて来た通り、このような思想は、ペンテコステ運動の中にも、「母なる聖霊」論などという荒唐無稽な形を取って入り込み、キリスト教の「父なる神」を骨抜きにし、堕落させようとして侵入しているのは言うまでもない。

このようなものは、要するに、唯一の神を否定して、「父なる神」の戒めなど完全に無視して、己の肉の欲望のままに、あらゆるものと奔放に交わり、無責任に子を生み出し続ける、忌むべき「母」バビロンのことである。

女は紫と赤の衣を来て、金と宝石と真珠で身を飾り、忌まわしいものや、自分のみだらな行いの汚れで満ちた金の杯を手に持っていた。その額には、秘められた意味の名が記されていたが、それは、「大バビロン、みだらな女たちや、地上の忌まわしい者たちの母」という名である。わたしは、この女が聖なる者たちの血と、イエスの証人たちの血に酔いしれているのを見た。」(黙示17:4-6)

(ちなみに、今日、このバビロンが堕落した肉欲の象徴であり、偽りの教えの総体であることを否定する信者はほとんどいないであろう。そして、バビロンがどれほど豪奢に着飾っているかの描写が、次のパウロの言葉といかに対極にあるかもよく分かるはずだ。

「婦人はつつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべきであり、髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたりしてはなりません。むしろ、良い業で身を飾るのが、髪を敬うと公言する婦人にふさわしいことです。」(Ⅰテモテ2:9-11)

ところが、今日、ある人々は当ブログを非難して、このくだりの「婦人」とは、象徴を指すものではなく、文字通りの意味だと主張している。そして、「婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。」(Ⅰテモテ2:12)という続くパウロの言葉を文字通りに解釈し、これを実行すべきだと述べて、彼らの教会の講壇に立っているわけでもない当ブログの記事が、ただ女性執筆者によるものだというだけの理由で、許せないなどと支離滅裂な非難を展開している。

だが、バビロンとの対比によっても、この「婦人」が象徴であることは明らかであり、そうでないと主張したい人は、まずは自分たちの教会の講壇から女性説教者をすべて追放すれば良かろう。そして、自分たちの娘にも、いかなる結婚式やその他の宴会でも、決して高価な着物を着させず、生まれてから一度も髪を編まず、金や真珠を一切、身に着けるのをやめさせると良いのである。そして、教会に足を踏み入れてから立ち去るまで、彼女たちには一言も口を利かないように教えるがよい。それが以上の御言葉を文字通りに受け取ることの意味なのだから、この人々は、まずは自分たちが信じるところを忠実に実践すべきなのである。)

このように、グノーシス主義における「神々(被造物)」とは、本質的にバビロンと同じく、堕落した被造物のうちに働く生まれながらの肉の欲望を「神聖なる女性原理」として誉め讃えたものであり、彼女の行いが悪いからこそ、グノーシス主義者は、「父なる神」には沈黙しておいてもらわなくてはならないのである。

彼らは「父」の戒めに従っていないからこそ、彼らにとって「父」はフィクションである方が都合が良く、むろん、バビロンの姦淫によって生まれた「子ら」にとっても、父が誰かなどといった問題は、タブーであって、放っておいてもらわなくてはならない問題なのである。

このような思想の特徴は、肉に対する霊的死がなく、心に割礼を受けていないという一言に尽きる。

だが、先の御言葉でも、正統な神の国の後継者には、「霊によって体の働きを殺す」という「一つの義務」が課せられている。

「わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。

これが、罪に対する赦しとは別の、キリストの十字架のもう一つの側面である。私たちの旧創造に属する堕落した肉を霊的に死に渡すことのできる絶大な十字架の効力である。

だが、グノーシス主義においては、罪もなければ、十字架もないため、この思想は、人間の肉欲を聖なるものであるかのように褒めたたえるだけで、それに対するいかなる処方箋も提示しない。

グノーシス主義では、天地万物の創造は、真の至高者が、水面に自分の姿を映し出すことによって、そこから「神々」の存在が、映像のごとく「流出」して生まれたとされる。

だが、この筋書きも、人間の自己愛の産物であって、ちょうどギリシア神話に登場するナルシス(ナルキッソス)が、水面に映った自分の映像に恋い焦がれて死んだのと原則は同じである。

ナルシスの悲劇は、「本体ではなく、映像こそが真のリアリティだ!」と宣言して、主客転倒して、本体からオリジナリティを強奪しようとするグノーシス主義者の願望をよく表していると言えよう(だからこそ、しばしばグノーシス主義の研究者らはこの物語に言及する)。

だが、ここで言う「映像」とは、堕落した被造物全体を指すだけでなく、人の肉の欲望そのもののことなのである。

ナルシスは、水面という鏡に自分を吸い取られることによって、本体は虚無であって、映像こそがまことのリアリティだという転倒したものの見方を提示し、その恐るべき思想の至り着く当然の結末として、自分を失って死んだのであるが、ここには、神は虚無であって、被造物こそがまことのリアリティだという転倒した思想が表れているだけでなく、被造物も、肉に対する霊的死など帯びる必要がなく、思う存分、肉欲に翻弄されて生きた結果、肉欲を「主」として、その持ち主たる人間(自分)を「従」として、肉欲に自分を吸い取られることにより、いずれ神にまで至れるとする完全に転倒したグノーシス主義の考え方がよく表れている(むろん、そんなことが起きるはずもなく、彼らを待ち構えている結論は、死だけである)。

ギリシア神話では、あくまで物語の主役は、まだナルシスにあったが、グノーシス主義は、そこからより進んで、主役(至高者)を完全に沈黙に追い込んだ上、ナルシスの自己愛を、水面に乱反射させるようにして「神々」という形で結実させる。そして、この「神々」の動向の方に巧妙に物語の中心を移していく。そして、東洋思想になると、形骸化して沈黙する「父」もいなくなり、被造物(「母」)だけが勝ち誇っている。

無限とも言えるほどにたくさんの鏡、数えきれない映像、それらがせめぎ合って、みな本体を押しのけては、自分たちこそ本体だと、真のリアリティだと叫ぶ――これは、東洋における八百万の神にも通じる考えであって、グノーシス主義のアイオーンたちの形成する世界と同じものであり、現在、掲示板で起きている現象そのものであると言える(彼らは無数の鏡を作り、そこに当ブログについても悪意ある歪んだ映像を作り出し、それがリアリティであるかのように叫んでいる)。

これらの「神々」は、すべて時期尚早に結ばれた肉の実、「ハガルーイシマエルーバビロン」の系統に属する、心の割礼を受けない堕落した人類の欲望を表している。

自己愛というのは、自己保存願望と同じである。そこで、「神々」などと言っても、結局、グノーシス主義における「神々」の正体は、煩悩とでも呼んだ方がふさわしい、数えきれない欲望を表しているだけなのである。それらの欲望の中で最たるものが、人類が自力で子孫を残し、自己保存することによって、神の永遠にまで至り着きたいという願望である。

その欲望が、老子の言う玄牝であり、東洋思想の神秘なる混沌であり、グノーシス主義における最初の被造物にして万物の母なるバルベーローであり、これらはすべて人類の肉の欲望の総体である「ハガル」を象徴し、最終的には「大淫婦バビロン」に至り着くものである。

旧約聖書におけるサラは、アブラハムの妻であったにも関わらず、自分に子が生まれないことに悩み、このままアブラハムの家の子孫が絶えては困るという考えで、肉なる力によって、アブラハムの血統を保存しようと、自分の代わりに奴隷のハガルをアブラハムに差し出した。

この時点では、サラは神の御言葉の成就を待てず、「霊によって体の働きを殺す」どころか、肉の思いによって、早々に実を結ばせようと、奴隷を主人に差し出して、苦しみを招いてしまう。

だが、ここで言う奴隷のハガルとは、罪と死の奴隷となって、絶えず死の恐怖に追い立てられている人類の肉欲そのものであって、何とかして死に至る前に、自力で死に打ち勝って、永遠に至り着きたいという、人類の焦り、恐怖を指している。

つまり、「ハガル」とは、罪と死の法則によって支配され、「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊」の象徴であると言えよう。

人類の肉の欲望は、何であれ、すべて究極的には、死の恐怖に追い立てられて生まれる自己保存願望である。

そこで、グノーシス主義とは、心に割礼を受けていない、人を奴隷として恐怖によって支配する霊、堕落した肉欲の実を結ばせようと願う「ハガル」という母胎を、あたかも神聖なものであるかのように誉め讃え、ハガルの生み出す肉の実によって、神に喜ばれる信仰によって生まれる聖なる約束の子を駆逐し、消失させようという思想であると言える。

そこで、ぶどう園の悪い農夫たちは、みな「ハガル」の子孫である、と言えよう。彼らは、アブラハムの正式な妻であるサラから生まれた約束の子を殺して、奴隷のハガルから時期尚早に生まれた子を跡継ぎに据えれば、神の国を強奪できるだろうと考えた。

彼らの言いたいのは、こういうことである、「本物を殺して、コピーだけを残せ。そうすれば、俺達がコピーであって模造品に過ぎないとは、誰にも分からなくなり、俺たちの犯罪行為はかき消される。」

「本物の信仰の証しを地上から消し去り、神の子供たちをインターネットから駆逐しろ。そうすれば、何が本物で、何が偽物かなどと、誰にも分からなくなる。本物の神の子供たちを教会から追い出せば、神の国の後継者を名乗れるのは、俺たちだけだ。俺たちは神々であって、神聖で侵すべからざる存在だ。俺たちを冒涜する者は、誰でも同じ苦しみに遭わせてやれ。」

それが、この悪い農夫たちの悪質な企みであり、いわば、悪魔の教えの根幹であると言えよう。そして、このような盗人・人殺しによって支配されるぶどう園の行く末がどうなるのかは、聖書に書かれている通りである。

今日、無数の「ハガルの子孫たち」が現れて、自分たちは神の国の後継者だと詐称しては、聖書のまことの神に反逆し、キリストに連なる神の子供たちを教会から追い出し、彼らに憎しみを燃やして迫害を繰り返している。そして、すでに地上の目に見える教会は、これらの詐称者によって占拠されてしまった。だからこそ、このような場所からはエクソダスせねばならないし、彼らの偽りの教えに加担してはならないと言うのである。

* * *

霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。」(ガラテヤ5:16-17)

霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制である。これらを禁じる掟はありません。」(ガラテヤ5:22)

キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」(ガラテヤ5:16-25)



「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。
 そして、彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せられる。
 
 『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。』
 全能の主はこう仰せられる。

 愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」(Ⅱコリント6:14-18,7:1)

* * *

最後に、冒頭に挙げた御言葉は、私たちが神に従う上で、肉による下からの生まれに死ぬのみならず、肉による絆、魂の愛情にも死なねばならない時があることをよく示している。

あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。<略>また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。」とある通り、時には、親族や、兄弟や、友人からさえも、迫害されて、厳しい試練を通過せねばならない場合がありうることが予告されている。

だが、それゆえに、イエスは
「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。」(マタイ19:29)と言われ、迫害に耐え抜いたことに対して、大きな栄光があることを約束されたのである。

だが、ここには、妻と夫との関係だけは含まれていない。それは、妻と夫の関係は、血縁によるものではなく、キリストと教会を予表するものであるため、信仰による迫害によって捨てなければならないものの中に含まれていないのである。

しかしながら、冒頭に挙げた通り、「
天の国のために結婚しない者もいる。」と、主イエスははっきりと述べ、それを受け入れられる心のある人は、そうした心構えで生きるようにと勧められた。パウロも、これに準ずる考えを述べている。

ところで、夫と妻との関係を論じるに当たり、ある人々は、
「不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」(マタイ19:9)というイエスの御言葉を取り上げて、聖書は絶対的に離婚を禁じていると主張しているが、「不法な結婚でもないのに」とある通り、イエスはそこに例外をもうけられたことに注意が必要であろう。

このことについて、終わりのない愚かしい議論を繰り返している人間どもがいるため、そういう彼らには、サドカイ派の人たちの質問を裏返しにして、お尋ねしたい。

たとえば、カルト被害者救済活動の指導者は、カルト宗教で、指導者が信者に「神の啓示」として命じた結婚は、解消しても構わないと触れ回っているが、それはイエスの言われた
「不法な結婚」に相当するのか、しないのか。

さらに、ある人が結婚して、二人か三人の子供をもうけた後に、自ら家族を捨てて、しばらく経ってから、誰か別の、誰とも結婚したことのない若い人をつかまえて、その人の無知と弱みにつけこんで、結婚したと仮定しよう。しばらく経ってから、その人は、その若い伴侶を捨てて、さらに別の若い人を見つけて結婚したとしよう。そうして、七度、その人は、家庭を築き、その度毎に、子をもうけるか、もしくはもうけないで、伴侶を捨てて、ついには独身になった。そのような場合に、その人が地上で築いた七つの家庭のうち、その人が離婚を禁じられた伴侶とは、誰(何人)を指すのか。

この質問にきちんと答えられる人が、他者に向かって石を投げつければ良いのである。だが、果たして、これに答えられる人間が、目に見える教会や指導者にしがみつき、それを己が神聖の根拠であるかのように主張している信者の中にいるのかと疑問に思う。

要するに、愚かでむなしい議論にははまらないことである。

エクレシアのまことの伴侶はキリストであるから、信者は地上の移ろい行くものに心を留めないで、真っすぐに神の国を見上げて生きるのが、最も賢明な策であることは、誰にも否定できない事実であろう。

2019年3月14日 (木)

霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

さて、キリストとの合一というテーマがいかに重要なものであるかを示すために、オースチンスパークスの論説を改めて引用しておく。

キリストとの合一」第二章 彼の地位――御父の愛によって(7)

 この合一は役職的なものではありませんし、法的・形式的なものでもありません。それは愛情によります。ここで支配的なのは強制ではありません。強制しても愛は決して止まることはなく、常に進み続けて究極的可能性に至ります。

 キリストとの合一はこのような性格のものです。なぜなら、それは神の愛の中心だからです。もちろん、あなたはこれらすべてに関して静かな黙想を大いにしなければなりませんし、私たちがキリストに関して述べていることをすべてクリスチャン生活と関係づけなければなりません。

 「彼が愛する御子の王国の中に移して下さいました」(コロ一・一三)。この側面――「彼の愛する御子」――だけでも驚くほど素晴らしいですし豊かです。キリストとの合一は私たちをこの立場に、この領域の中にもたらします。

 ああ、まるで神の愛は彼が見い出される善の程度や悪の程度によって等級が分かれているかのように、この愛を等級付けして考えないようにしましょう。あなたや私に対する彼の愛は、彼が御子に対して抱いておられる愛です。これがその啓示です。キリストに結ばれることは、御父の愛する御子として彼が持っておられる御父との関係の完全な寸法の中に包まれることです。「まさに神として彼が持っておられる御父との関係の完全な寸法の中に」と私は述べていません。人として、御子イエス・キリストとしての彼について述べているのです。

   さて、牧師を介さずにキリストとの霊的合一に達するというテーマは、暗闇の勢力にとって、よほど致命的なウィークポイントのようである。

 なぜなら、この話題になると、とりわけ激しく入念な誹謗中傷が当ブログに向けられて来るからだ。かえってそのことにより、このテーマが神と悪魔との両方から見て、極めて見逃せない重要性を帯びた喫急の課題となっていることが分かる。

 しかし、それも当然である。なぜなら、神の眼差しは、キリストとエクレシアとの結婚、小羊の婚礼にこそ、注がれているからだ。だから、神の御思いの中心にあるテーマが、暗闇の勢力にとって衝撃とならないはずがない。

 ちなみに、当ブログに誹謗中傷を繰り返している人々(犯罪行為のため捜査中)の様子を見れば、どんなにキリスト教のことを知らない世間の人々でも、教会に所属している信者が、教団教派に属さない信者を、これほどまでに徹底的に攻撃・中傷している様子を見て、プロテスタントがいかに危機的状況に陥っているかを察知し、絶対にこのような人々が集まっている教会になど足を向けたくないと考えるようになるものと思う。

 この人々は、当ブログの内容に同意できないならば、読まずに放置していれば良いだけなのであるが、同じ教会に属している訳でもなく、顔を合わせたこともない人間の執筆するこのブログに対して、これほど執拗に権利侵害を繰り返さざるを得ないのは、彼らがどうしても、キリスト教信者を、牧師や司祭といった目に見える宗教指導者に隷従させて自由を与えず、そこから出ようとする人間に徹底的な妨害を加えずにはおかないカルトと化しているためである。

 筆者は訴訟を通して、今日のプロテスンタントの諸教会が、いかにカルト被害者救済活動の側から多数の訴訟をしかけられて、制圧され、陥落されて行ったかという過程に詳しく触れた。もはや公然と抵抗しているのは、当ブログだけとなりつつあることも述べた。その後、実際に、プロテスタントは恫喝されて完全に陥落されたも同然の陥っている。

 しかし、こうして当ブログが最後まで信仰の証しを持ち続けている以上、カルト被害者救済活動という反キリスト的勢力が、どのような方法を用いて、プロテスタントの諸教会や信者を恫喝し、彼らの証しを地上から取り去り、自らの支配下に置いて制圧して来たかという証拠は、公然と記録として残され、白日の下に晒されることになる。

 掲示板においても、当ブログに関する中傷を広めているのは、間違いなく、この勢力である。彼らはまさに黙示録に登場する「獣」の霊に導かれた人々であると言えよう。彼らは、本質的に人殺しである。今までにも、多くの人々を助けると見せかけながら、精神的殺人を繰り返し、死へ追いやって来たのであろうが、何とかして当ブログに対しても、信仰の証しを取り去るきっかけ掴みたいと欲望と執念を燃やし、執拗な言いがかりを繰り返しているのである。

 だが、神は竜に追いかけられた女を荒野へ逃がされたように、汚れた霊の持ち主どもによる迫害から、筆者を助け出されるであろう。

 さて、キリスト教以外の宗教にも、巫女などを含め、神に仕えることだけを職業とする人々が存在する。また、昔の仏教では、多くの僧侶に妻帯が禁じられていた。もちろん、キリスト教でも、昔の宣教師の多くは、神に身を捧げて奉仕に専念して生きるために、あえて伴侶をもうけず、自分の家庭を持たなかった。
 
 ところが、今日、キリスト教の目に見える教団教派では、教会は牧師一家(妻だけでなく子供や孫に至るまで!)を金銭的に支えるための手段と化し、信者らは牧師一家を養うために重い献金を課されてあえいでいる。

 そして、当ブログのような場所で、既存の教団教派に属さず、宗教指導者に頼らず、ただ見えない神にのみ仕えて生きると宣言すると、正体不明の信者らが、そんな考えは絶対に許せない、トラウマの産物だ、精神病だと叫び、憎しみに燃えて、既存の教団教派とその指導者を擁護すべく、引きずりおろそうと押し寄せて来るのである。

 こういう現象が起きているのは、キリスト教の既存の教団教派が、目に見える宗教指導者に信者を縛りつける危険なカルトと化しているためで、これまでは、思想面から、そのことを詳しく論じて来たが、現実に起きている出来事を見れば、それ以上に説得力のある材料はないことであろう。

 それはかつて天皇皇后を現人神とみなし、これを拝まない人々を、国民同士で攻撃し合って排除していたのと構図は同じである。庶民はその当時、天皇など見たこともなく、全く関わりのないところで暮らしていたにも関わらず、「天皇は神である」と思い込むことによって、自分自身も「神々の子孫」であると己惚れ、己を誇ることができたのである。

 そこで、天皇崇拝に陥った人々は、高慢になって、天皇を拝まない人を見ると、自分が否定されているかのように怒りを燃やし、密告したり、特高警察に売ったりして、率先して集団的に弾圧・排除した。その直接の動機は、「神国日本」のルーツを否定する者は、神聖なる臣民の一人である「俺様」を否定しているのだから許せない、という、自分が面子を潰され、プライドを否定されたことへの憎しみと怒りであったろう。

 これと同じように、今日のプロテスタントおよびカトリックでは、聖職者(司祭や牧師)が、信者のルーツを神聖に見せかけるための偶像と化している現状がある。かねてより、「牧師先生と呼ばれないと怒り出す牧師がいる」と言って呆れていた人がいたが、今やインターネットが普及して、牧師を拝まない「不届きな信者」は、牧師の下手人である無数の信者たちが、掲示板で匿名で集団リンチして葬り去ってくれる便利な時代となった。牧師はこうして気に入らない信徒を自分の手を汚さずに葬り去れるのだから、何と楽な時代だろうか。

 こういうわけで、宗教指導者という偶像に頼らず、真に聖書を自分で紐解いて理解し、なおかつ、キリストとの真実な霊的な交わりに入れられ、神を知りたいと熱心に願い、そのために、自分の身をフルタイムで捧げ、生涯を投じようとする信者が現れると、サタンにとっては耐えられない脅威となるようで、猛攻撃をせねば居ても立っても居られなくなるようなのだ。

 おそらく、筆者が神学校に行くと宣言しても、誰一人バッシングするものはないであろうが、宗教指導者に頼らずに信仰に生きようと宣言すると、それによって傷つけられる人間など、誰一人いないのに、何の利害関係にもない人々から、考えられないようなバッシングが起きて来るわけなのである。

 それはなぜかと言えば、まず第一に、一人一人の信者が、直接、キリストに連なり、真理を知るようになると、聖職者だけが真理を知って、これを信者に正しく伝えることができるという彼らが築いて来た幻想が崩れてしまうからだ。さらに、この指導者たちが、実は神を知らないのに、知っているかのように偽って、信仰に生きていないのに、篤い信仰を持っているかのように見せかけて来た実態が明らかになってしまう。
 
 もちろん、信者が誰でも直接、御霊に教えられて、神の御言葉を学ぶようになると、当然ながら、聖職者と呼ばれる人々は、献金を払ってくれる信者たちに去られて、失業することも免れられない。何よりも、彼らの権威が否定される。

 だが、指導者たちが失業すること以上に、悪魔にとって脅威なのは、目に見える人間を拝むことは、人類が、霊的割礼を受けたことのない、自分の生まれながらの肉的なパワーを拝んでいるのと同じなのだということを、多くの信者たちが知ってしまうことである。

 今日のプロテスタントのほとんどの教会では、十字架はただ人類の罪の悔い改めのためとしか教えられず、人間の生まれながらの肉の堕落については、語られることもない。肉に対する十字架の死の必要性などまず教えられない。

 数多くの異教では、人類の堕落した生まれながらの肉的な力を、子孫繁栄をもたらす力だと言って、美化し、誉め讃えている。しかし、他方では、この力が、制御できない粗野で荒々しい自己保存・自己拡大の欲望として、終わりなき戦争、殺戮、暴力、虐待に利用され、弱い者たちが踏みにじられて、言い知れない苦悩をこうむっている。

 聖書の神は、人類が堕落した肉的な生まれながらのパワーに生きているままでは、罪と死の法則に支配されているだけで、決して神に受け入れられ、神に喜ばれる聖なる子供たちとはなれないことを知っておられた。

 そこで、神はご自分の選ばれた人々に、堕落した人間の肉なるパワーに対する霊的死の宣告として、割礼を命じられたのである。それは、人類が、己の誇り、頼みとしている力が、汚れた悪しき力であって、彼らがその堕落した生まれながらの力に死んで、神によって上から与えられた清い力によって生かされることにより、神の民とされるためであった。

 主イエスが地上に来られて、十字架にかかられて死なれたことにより、肉に対する霊的死は完成に達した。そこで、もはやキリスト教信者は今日、割礼を受ける必要はないが、その代わりに、絶えず主と共なる十字架の死に自分を同形化し、自分自身の古き肉の情欲を十字架で死に渡す必要がある。その霊的死を帯びた時、初めて十字架の復活の命が、その信者の中に働くのである。

 このように、聖書の原則は、まずは信者が己が肉的な力に対して、霊的死を帯びるところから始まる。男であれ、女であれ、自分の生まれながらのセルフに対して死なねば、復活の命にあずかることはできない。

 しかし、目に見える指導者を立てている教会は、信者に見えないキリストを礼拝しているように見せかけながら、こっそりと目に見えるものを拝ませることで、本質的には、キリストの十字架を否定して、生まれながらの肉的な力、十字架の霊的死を経ていない、滅びゆく目に見える被造物の堕落したパワーを、あたかもそのまま神聖なものであるかのように、誉め讃えさせ、拝ませているのである。

 プロテスタントの諸教会が、カルト被害者救済活動に屈してしまったのは、結局、諸教会の目に見える指導者が、この運動の支持者らと同じように、堕落したアダムの命から来る自己保存願望を究極の目的とし、十字架の死を経由しておらず、霊的割礼を受けておらず、目に見える生来の自己の力により頼んで、神の聖に達しようとしていたからなのである。

 このように、今日、目に見える指導者に信者を依存させ、それに緊縛するプロテスタントの制度(牧師制度、教会籍)は、見えないキリストの支配に悪質に敵対するものとなってしまった。当ブログは十年ほど前からそのことを指摘しているが、この十年間の間に、これらの制度にしがみつく人々の堕落は、あまりにも目に余るものとなっていることが誰の目にも明白である。

 だが、新約聖書の原則は、一人一人の信者が直接、キリストに連なり、御霊から教わるというものであるから、信者が宗教指導者に属さないで信仰生活を送ることは、奇妙でないどころか、むしろ、当然である。

 そこで、読者には、カトリックであろうと、プロテスタントであろうと、目に見える指導者のいる教会に、これから先、決して所属しないことを勧める。当ブログに起きていることを、目を開いてよく見てみることだ。そうすれば、当ブログにバッシングを加えている人々が、絶対に敬虔な信仰を持つ主の民ではあり得ないことが分かり、このような人々が占めている目に見える建物の中で、まことの神を礼拝できるなどという考えは消え去るであろう。

 彼らが拝んでいるものは、聖書の神ではなく、むしろ、悪魔であり、彼らの指導者は、先生というより、獣と呼ばれる方がふさわしい。そこで、もちろんのこと、カルト問題を扱っている様々な「専門家」を名乗る宗教指導者にも、悩み相談など、絶対にしないことを勧める。なぜなら、そこであなたが話した内容は、あなたがその団体を去ろうとする時に、当ブログが受けたのと同じような形で、陰湿なバッシングのために徹底利用されるからだ。

 ちょうど派遣会社が外国人技能実習生を劣悪な環境と考えられないほどの低賃金で働かせるために、パスポートをあずかって逃げられないようにするのと同じく、情報は信者を人質にするための手段なのである。

 さて、もう話してしまったという人もいるかも知れない。すでに所属している信者はどうすれば良いのかという問いもあろう。これに対する聖書の答えは、後ろを振り返るな、上着を取りに戻ろうとするな、というものだ。

 もしも、イエスの次の御言葉を、現代にも通じるものとして受け取るならば、「荒らす憎むべき者が聖なる場所に立っている」今、このように汚れた者どもに占領された神殿に、自分の荷物を取りに戻ろうとすることは、百害あって一利ない。

 彼らの元から出て行き、一切の関わりを断つことである。その上で、主だけを仰いで生きることである。

 すなわち、反キリストに属する不法の子らが占領した目に見える礼拝堂になど、いかなる未練も持たず、エジプトに置いて来た宝になど一切目もくれず、一目散に、前へ向かって走ることだ。ひたすら、上にあるものを求め、目に見える都ではなく、天の都を目指して走ることである。

 キリストに受け入れられるための方法は、主と共なる十字架を経て、心に割礼を受け、この世と自分自身と悪魔に対して死んで、らくだが針の穴を通るように、御言葉への信仰以外には何も持たずに、貧しいやもめのように、主の辱めを身に負って、宿所の外に出て、彼のみもとへ行くことである。この世に未練を持てば、待っているのは、ロトの妻の運命だけである。

わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:19-20)

「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。

 しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っていおいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。

 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」(ガラテヤ5:16-25)

「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」(ガラテヤ6:14)

2019年1月13日 (日)

人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。

人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は、自分の身に裁きを招くでしょう。

実際、支配者は、善を行う者にはそうでないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。

しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。

だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。

すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。」(ローマ13:1-7)

改めて以上の御言葉が心に思い起こされる。

いくつか前の記事に、私たちは裁判官も含め、地上で立てられたすべての権威に服すべきということについて書いた。そうしないことの恐ろしさがどんなものであるかを、筆者はすでに結審した裁判の過程で十分に思い知らされたと言える。
 
今回、被告となった人々は、すでに結審したその訴訟のみならず、他の裁判においても、幾度も裁判所の判断を信頼しない姿勢を示して来た。彼らは自分たちにとって不利な判決が出ると、早速、「裁判所はこの世の機関であって、信仰の世界には疎いから・・・」という言い訳がましい弁明を持ち出し、自分たちにとって不利な判決を尊重しない姿勢を示して来たのである。

そのように、ご都合主義的に地上の裁判所の権威を利用して来た被告らの一人は、筆者の提起した裁判では、ついに裁判所の決定を「不法行為」であるとまで言い立てた。

詳細はここには記さない(それを記すのは、すべてが終結してからのことになろう)が、筆者が行ったある申請が裁判所によって許可されたことが許せないがために、被告はついに裁判所が「不法行為」を働いているとまで言い始め、裁判官の権威をさえ否定するような主張に及んだのである。

その主張を書面で読んだとき、筆者は、ついに来るべき瞬間が来たなと感じた。彼らはこれまでにも自分たちにとって不利な決定は何であれ、認めない態度を取って来たが、今となっては、ただこれまでのように、教会の権威に逆らうだけでなく、地上の権威にも逆らい、ついにおよそ自分の上に立てられた権威という権威をすべて否定して、自分はどんな裁きにも服さず、自ら裁き主となって、神に等しい権威者になろうとしていると筆者は感じ、そのような発言を非常に恐ろしいものであると感じたのである。

そして、その恐るべき発言を聞いたからこそ、筆者は、決してその姿勢にならってはならず、そのために、我々は信仰を持たない人々の決定であっても、自分の上に立てられた権威の前に、己を低くして、徹底的に従順な姿勢を貫かなければならないと固く心に留め、そうすることを決意したのである。
 
我々の上に立てられた信仰を持たない権威者は、彼らも人間であるから、しばしば、弱さも見せるであろうし、判断を誤りかけることさえあるかも知れない。しかし、もし我々が誰かを自分の上に立てられた権威者として選んだのであれば、私たちはたとえ彼らの弱さや限界を知ったとしても、それにつけこんだり、利用したりすることなく、彼らの人格を理解し、受け入れた上で、彼らが我々との関わりの中で、共に正しい判断へと至り着くことができるよう、最大限の努力を払わなければならない。私たちはそのために、仕える人々とならなければならないのである。

筆者はちょうど裁判が結審した日に、裁判官のみならず、自分の職場の上司に従うのかどうかも試されていた。その日、出勤するのか、それとも欠勤するのか、という選択が、死活的重要性を帯びる問題となったのである。

職場にはそれぞれ異なるルールがあり、自由に欠勤できる職場もあれば、欠勤が非常に厳しくマイナス評価される職場もある。その職場は、早退の許可を得ることさえ容易ではなかった。
 
筆者は、期日よりも前に早退の許可を願い出ていたものの、期日当日の朝になってから、審理の時間に遅れてはならないことを考え、いっそ大事を取るため、何か理由をつけて欠勤した方が良いのではないかと思いめぐらした。しかし、仕事も重要な時期であったので、やはり申告通り、勤務を早引けして審理に駆けつけることにした。

そして、それが正解だったのである。その日、出勤してから、改めて早退の旨を上司に告げると、不思議なことに、筆者が何も願い出ないうちに、上司から前もって申告していた時間よりも30分早く前に早退して良いと許可が出た。そのおかげで、筆者がいつもと異なる駅で降りたために、出口を間違えて道に迷ったにも関わらず、予定時刻に全く遅れることもなく、余裕を持って期日に到着することができたのである。

しかも、その日、裁判所の周辺では、パトカーが不法駐車を取り締まっていた。それは筆者が初めて見る光景で、これまで裁判所付近の道路には、広い駐車場もないため、常に色々な(業者も含め)車が止まっていた。そして、取り締まりなど一向に行われている気配もなかった

それなのに、その日には、パトカーが来てラウドスピーカーで停車中の車に向かって立ち退きを呼びかけていた。明らかに、その後、立ち退かない車には罰金が科されていたか、強制的に撤去・移動させられていたに違いない。従って、もしもこの日、筆者が職場を欠勤し、車で裁判所に向かうようなことがあれば、その後、何が起きていたかは保証の限りではない。

そうした出来事や、すでに書いた通りの結審の運びを見て、筆者は、この日、地上で立てられた権威者に従うかどうか、筆者の内心が試されていたのだと理解したのであった。

それは天から筆者に下されたテストのようなものであった。もしも筆者が、突発的な欠勤の一日くらい大したことはないと考えたり、もしくは、職場の上司であれ、裁判官であれ、あるいは警官であれ、誰か一人に対してでも序列および信頼関係を崩すような行為に出ていたならば、それだけでこの日受けられた一切の輝かしい勝利の結末を失わせるに十分な効果を発揮したであろうと疑わない。

  繰り返すが、我々の上に立てられたさまざまな身近な権威者には、人間としての弱さや限界も存在するかも知れない。たとえば、職場にたくさんの上司がいたとして、その全員が、私たちの気に入るわけではないであろうし、過度に厳しいルールが課されているかのように感じられ、改善が必要と思うこともあるかも知れない。あまりにもがんじがらめの自由のない規則に対しては、私たちの心は反発を覚えるであろう。

だが、そういった問題と、我々が権威そのものに従うかどうかという問題は別問題なのである。ルールは運用が変わったり、改善がなされたりして、変化して行く可能性がある。上司の顔ぶれも変わるであろう。

だが、現時点で定められているルールが不完全なものであったとしても、私たちはそのことを口実に、その背後に存在する権威を認めないことはできない。同じように、上司の人間性に限界が見えたとしても、私たちはそれを口実にして、その人に与えられた権威そのものを否定するという行動に出てはいけないのである。

言い換えるならば、神が立てられた権威はすべて、その権威者の人間性と、実に不思議なユニークな形で一つに結びついている。人間であるからこそ、長所もあれば、短所も存在するが、生きた人格を持った人間が、権威を行使し、決定を下すからこそ、その権威にはかけがえのない価値があると言える。

私たちは、権威者はいくらでも交替が可能であるように思っているかも知れない。首相も交替すれば、大臣も交替し、政治家も変わり、役所の職員などは、すべて交替可能な要員に見えるであろう。機械でも代行できるような仕事だと思う事さえあるかも知れない。誰が決定しても、同じ結果が出ると思うこともあるだろう。

しかし、実際にはそうではないのだ。私たちがさざまなところで出会う権威者は、実は一人一人が、人格を持ったユニークな存在であり、彼らの権威の行使は、彼らの人格や、彼らの人間的な判断と一つに結びついており、それは決して他の人々に真似ができるものではないし、二度と繰り返せるものではない。しかも、それは我々との関係性の中で行使される権威なのである。

従って、彼らが行っていることは、単なる職務上の処理や、偶然に過ぎない出来事のように見えたとしても、実際には、その一つ一つが、彼らの人間性の発揮であり、我々との人間関係なのであり、そうであるがゆえに、それは非常にユニークでチャーミングな権威の行使であると言える。しかも、それには我々の側からの関与も求められる。

そこで、どんなに些細な決定であれ、それは人間の自由意志の行使、また自己決定・自己表現の一つの形態であり、人間社会の方向性を決定づける上で、見逃せない意味や効果を持つものなのである。

そのため、我々はただ単に、権威者が自分にとって有利な決定を下せるからという理由で、彼らが持っている権威だけを恐れ、尊重するわけではなく、あるいは、自分に有利な決定が欲しいから、面従腹背の態度を取り、うわべだけ従うわけでもなく、その権威者の人間性にも注意を払い、彼らを全人格的な存在として敬い、認める必要がある。

それは、我々がちょうど神に仕え、神を愛するように、自分の上に立てられた地上の権威者たち、上司たちを敬い、仕えるべきことを意味する。ただし、これは私たちが、人間に過ぎない者を、まるで神のように思って絶対服従するとか、一切の不服を申し立ててはいけないという意味ではない。

私たちは地上の人間に対していかなる異議申し立てもしてはならないわけではない。変えるべきルールというものも存在する。しかし、権威者に対する異議申し立てを行う上で、重要なのは、上司への異議申し立ては、まず部下の側から上司への心からの敬意と従順と信頼の裏づけがあって、初めて効力を帯びるということである。信頼関係が構築されていないのに不服を申し立てることは、序列の転覆、人間関係の破壊につながり、本質的には反逆という要素をはらむ行為である。

そこで、私たちは、自分の上に立てられた権威者の人間的な欠点や弱さや限界をも理解した上で、彼らに心からの従順を示す必要がある。彼らに言いたいことがあるならば、信頼関係が損なわれない方法で、彼らの人格を尊重しつつ、助言や忠告を上に上げる必要がある。そのような配慮が必要なのは、私たち自身も、彼らと同じように、欠点や弱さや限界を持った存在であり、彼らの権威によって、尊重され、守られるべき立場にあるのに、その保護を失わないためである。

このような話を持ち出したのは、筆者が審理を抱えていた日に、単に一日、仕事を欠勤するかどうかという問題でさえ、心の深い所では、筆者の上司に対する態度、職場全体に対する態度、自分の上に立てられた権威者に対する態度を如実に示していたと思うためである。

その日から今日に至るまで、テストはずっと続いている。そのテストとは、筆者が自己の力を誇るためのものではなく、むしろ、自己を手放すことを求められるテストであり、自分の都合、自分の事情、自分の思い、自分の手柄を失い、自らの栄光を手放してでも、自らの上に立てられた権威に従えるかどうかを試すテストである。

私たちは一人一人が不完全さを持った人間であり、自分の事情、自分の都合、自分の利益を最優先したいと考える思いが出て来る時がある。そして、上に立てられた権威者に向かっても、まずは自分の事情を訴え、それを理解してもらうのが当然、という態度を取ろうとする。

だが、権威者は部下の事情を真っ先に考えて行動すべき立場にはない。そして上司と部下は、互いの弱さや欠点をも知りながら、共に協力して正しい決定を下して行かねばならない関係にある。そこで、もし私たちが自分の上司に対して、もっと我々のために自由を与えて欲しい、理解や配慮を示してほしいと願うならば、まずは部下としての私たちの従順が、正真正銘、心から真実なものであることが証明されねばならない。

そうすれば、その従順は、信仰を持たない上司にも、大きな影響をもたらし、彼らの心を動かす力となり、彼らが私たちを信用して、私たちの言い分を耳を傾け、正しく権威を行使して、私たちにより多くの自由を与え、さらに世の中をあるべき正しい方向へ向かわせる決定を下すきっかけとなりうるだろう。

だが、それとは逆に、もしも私たちが上司たちの人間的な限界、弱さ、欠点といったものにばかり目を向け、それを口実にして、彼らの人格だけでなく、彼らの権威までも否定し始めるならば、結果として、正しい決定が下される大きなチャンスが失われてしまうだけでなく、その権威者と私たちとは信頼関係を失って、互いが疑心暗鬼に陥り、あるいは離反し、ついに双方ともに暗闇の勢力に引き渡されるということが起きうる。

その結果、上司たちは部下を憎むようになり、部下に対して悪を行使するために、自らの権威を濫用するようになり、部下の側でもいつまでも上司に対する不服だけを心に抱え、いつか秩序を転覆してやるなどとクーデタの機会を伺うようなことが起きかねないのである。

しかし、本来、上司と部下はそのような存在ではない。それはキリストと花嫁なる教会がそうであるように、協力して正しい行いを成し遂げるべき関係である。

今はあまり時間がないので、この程度にとどめるが、これは非常に奥が深く、かつ重要なテーマなので、この先も、何度か繰り返すことになるのではないかと思う。

結論をもう一度述べる。私たちはクリスチャンとして、地上で立てられた権威に対して、従う姿勢を見せるべきである。それは主に従うように、上司に従うことを意味する。改善すべきところは提案し、不正には決して加担しない態度を取りながらも、私たちは上司に何か提案する時にも、権威そのものを決して否定しない態度を取るべきである。そして、自分の上に立てられた権威者も、弱い人間であって限界があり、いつ誤った判断に陥るか分からない恐れがあることを十分に理解して、彼らの弱さを助長したり、つけこむようなことを決してせずに、むしろ、彼らがその弱さを乗り越えて、真にあるべきふさわしい形で己が権威を行使し、大勢の人々に正しい影響を及ぼすことができるよう、絶えず祈り、願い続け、それを助ける姿勢を持つべきなのである。

私たちには、自分の上に立てられた権威者のためにとりなし続けることが必要である。だが、そのためには、私たちが口先だけで、自分以外の他人の振る舞いだけを正そうと、もっともらしい言葉を並べることが必要なのではなく、何よりもまず、私たち自身が、日々自分の十字架を取って、主の死を共に身に帯びることが必要である。我々自身に、主と共なる十字架が適用されていないのに、我々が何千、何万語を費やして正しい主張を語ってみたところで、そのすべての言葉はむなしい。私たちがどれほど神に従順であるかという度合いが、地上の権威者への従順の度合いをも決定するのである。

2019年1月 4日 (金)

この十字架によって、世は私に対し、私は世に対してはりつけにされているのです。

「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊(魂と霊)、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。

更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。」(ヘブライ4:12-13)


「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世は私に対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」(ガラテヤ6:14)

今日のオリーブ園の記事「「霊の力の回復」第四章 霊の事柄のための霊的能力 (10)」(オースチンスパークス)も非常に意義深い。

 「エホデはこれを対処しなければなりませんでした。彼は太った人であるエグロンを対処しなければなりませんでした。さて、聖書に記されていることにはみな意義があります。エグロンは円もしくは丸いことを意味します。聖書は「さて、エグロンはとても太った人だった」と述べています。

とても太った人は、あまり多くのエネルギーを使ったことのない人です(私は攻撃的になりたくありません!)。単なる口先だけの者は、とても自己充足しており、自分のことでいっぱいで真の霊のエネルギーや力がない、という雰囲気を帯びています。それは一種の満ち足りて自己満足・自己充足しているものであり、決してあまり多くのことを行いません。

エグロンは彼の夏の部屋で素晴らしい快適な時を過ごしていました。この肉、この満ち足りた、快適で、宗教界の中で自己満足している天然の人が入って来て、神の民を支配します。「円」を意味する彼の名は、口先だけの者は円を描いて進み、決してどこにも辿り着かないことを示唆するように思われます。口先だけの者――これがエグロンです。

そしてエホデはこれを、それ自身の根拠に基づいて、神の御言葉という両刃の剣を用いて対処しました。そして、口先だけのものと本物とを真っ二つに切り分けるほどに刺し通しました。エホデの名が「告白」を意味するのは興味深いです。彼は口先だけのものに反対しました。この二つの証しの間には大きな違いがあります。その詳細は霊的背景の上にとても多くの光を投じます。


 主が私たちに告げたいのは次のことのように思われます。すなわち、霊の力は主イエスの全き主権の中に立つ問題であり、それをあなたの生活の中で個人的・団体的に知る問題なのです。それに必要不可欠なのは、あなたが主を生き生きとした個人的・実際的方法で知ることであり、あなたの生活が単なるキリスト教的生活ではなくなることです――あなたがその中にあるのは、その中にいることが良いことだからでも、自分に宗教的傾向があるからそれに興味を持っているからでもなく、その中にいざるをえないからです。あなたはその中に上から生まれたのです。」

円には完全という意味もあるが、当ブログにおいては、円とはどこにも行きつかない永遠の堂々巡り、人類が自力で神の懐に回帰して、神と分離される前の一体性を取り戻そうとするむなしい努力、すなわち、被造物を造物主と取り替えようとするグノーシス主義思想における「鏡」、相矛盾する概念の統合であるウロボロスの輪、東洋思想における永遠の混沌との一体化である「道」、禅においてすべてがさかさまになった「大円鏡智」などを意味し、すべて人類が歴史を逆行して自力で神に回帰しようとする不可能な努力のことを指していると示して来た。

そういう意味で、士師記に登場する、神が起こされた勇士エホデが滅ぼした、イスラエルを虐げていたモアブ人の王エグロンの名が「円」を意味することは興味深い。

(筆者はここで筆者がかつていたこともあるキリスト教の集会でクーデターを起こして集会を乗っ取った人物(夫妻)が、共に太った人物であったことを思い出さずにいられない。夫妻ともどもに非常に似た者同士だったのである。

筆者は外見で人を判断したいとは思わないし、外見がすなわち人の性格を表すものだとも言わないが、彼らの場合は例外で、彼らの外見は彼らの内面をよく表していた――自己を制御できない状態、貪欲さ、動物的で野卑な性格、忍耐のなさ、性急さ、緩慢さ、感覚の鈍麻といった内面の状態をはっきりと表していたのである。だから、筆者はこの集会のリーダーに向かって、この人々の危険性を告げたとき、彼らはなぜあれほどまでに太っているのか、という質問を投げかけたことがあった。他方、集会のリーダーは外見に非常にこだわりのある人物で、外見を鍛え上げ、自己鍛錬に励んでいたが、そのような人物が、自分のポリシーと相容れないエグロンのような人々と和合したことも、非常に象徴的であった。人の生まれながらの自己から発生するものは、何であれ、円を描いて対極のものと結びつき、腐敗して行くのである。)


   
異端思想(神秘主義)のシンボル
エグロン=円=輪=和=日輪=道=ウロボロスの輪=大円鏡智=グノーシス主義の鏡


こうして、神と人との区別を否定するすべての異端思想(神秘主義思想)が、相矛盾する概念の統合、循環する時間軸として、円というシンボルで表されるのに対し、聖書に基づく正統なキリスト教の時間軸は、直線であって、円ではなく、そこでは矛盾する概念が一つに溶け合うなどのことは絶対に起こらない。正統なキリスト教にはアルファ(はじめ)とオメガ(終わり)があって、それは決して円を描いて一つに結びつくことはない。

聖書は、神の御言葉には、切り分ける(切断する)機能があるとしており、それは何よりも人の生まれながらの腐敗した命の働きと、神の新しい聖なる命の働きとを鋭く切り分ける。その切り分けの機能は、ちょうど旧約聖書において、いけにえとして神に捧げられた動物が幕屋で解体される場面になぞらえられる。

エホデの名は「告白」を意味し、その言葉は、ちょうど黙示録に登場する「証しの言葉」に一致する。クリスチャンは小羊の血により罪を清められ、キリストの復活の証人として、神の御言葉の正しさを証言する人々である。聖書の御言葉が神に属する聖なる永遠に続くものと、神に属さない滅びゆくものを切り分ける機能を持つならば、御言葉を告白する人々の証しも、同様に、すべての物事を切り分ける機能を持つ。

兄弟たちは、小羊の血と
 自分たちの証しの言葉とで、
 彼に打ち勝った。
 彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。」(黙示12:11)

エホデがエグロンを対処したことは、今日、私たちが口先だけで十字架を唱えながらも決して自己を主と共なる十字架において死に渡そうとしない相矛盾した態度を捨てて、厳粛に御言葉に服し、生まれながらの自分自身に対する死の宣告を受け入れることを意味する。

エグロンのように天然の命に基づいて、緩慢な滅びである円を描いて生活する人々は、信者の中にも、あまりにも数多く存在するが、私たちは彼らにならうことなく、自分自身が、祭壇の上に捧げられた供え物として、まことの大祭司なる主イエスの御言葉の切り分けの機能の下に服し、切断されることに同意しなければならない。

裁きは神の家から始まる――私たちは世が滅びるよりも前に、世から召し出された者として、真っ先に神の裁きに服する者たちである。今日、主の民全体が、両刃の剣よりも鋭い神の言葉によって刺し通され、対処される必要があるが、私たちはその代表として、神が立てられたエホデである御言葉の剣を取り、自分自身の内側にあるエグロンが刺し通されることに同意する。

私たちはいついかなる瞬間にも、自分がゴルゴタで主と一体となって、この世に対してはりつけにされて死んでいることを認め、告白する。ただこのキリストの十字架によってのみ、地獄の全軍勢が、私たちに手出しをする力を失い、かえってその勢力がキリストによって征服されて、彼の凱旋の行進に捕虜としてさらしものとされるのである。

2018年12月31日 (月)

しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。

「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世は私に対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」(ガラテヤ6:14)

神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」(コロサイ2:13-15)

ただ一点、キリスト。

以前にあるキリスト者からよく聞かされた言葉だ。その当時は、標語のようにしかみなしていなかったこの言葉が、筆者にとって、今はもっと深い意味を持つ。

当ブログとブログ主に対するさまざまな人権侵害を理由として筆者が起こしていた裁判が、12月27日に結審した。判決言い渡しは3月末に予定されている。

すでに記して来た通り、この裁判はネット上で起きた紛争処理の一部であり、これに付随して続行しなければならない訴えが複数残されている。そこで、この審理終結をもって事件が完全に終結したわけではない。

だが、今、筆者が書きたいのは、この紛争のために筆者が支払った犠牲のことではなく、むしろ、この事件を通して、神がどれほど筆者を含めた関係者一同に大きな恵みと学びを与えて下さったかということである。

今、判決を準備している最中の裁判官の心の静寂を邪魔したくないため、多くのことは書かないが、予め断っておけば、筆者は、 今回の裁判は、教会史の中に刻まれておかしくないほど、深い意義を持つものであり、今回の裁判を担当してくれた裁判官や書記官の名は、私たちクリスチャンの名と並んで、初代教会の時代から現在まで続く目には見えない使徒行伝の記録の中に、永遠に刻みつけられ、神の目に留められるだろうと信じている。

それほど神はこの裁判を通して、我々にお与え下さった救いの確かさを、余すところなく証明して下さったものと筆者は信じている。結審の様子を思い起こすと、今でも心に深い感動が込み上げて来る。

通常、裁判などというものは、原告であれ被告であれ、誰も関わりたくないと願うものであるが、今回の紛争において、筆者は弁論の回を重ねるごとに、裁判官や書記官を近しい存在に感じるようになった。これは、自分の住所の所轄裁判所で訴えを起こすことができる原告の役得のようなものである。

この訴訟においては、弁論のほとんどが電話会議という形で行われた。電話会議は、被告らにとっては遠方の裁判所まで足を運ばなくて良い利点があり、原告にとっては、法廷のような段差や距離感を取り払い、裁判官や書記官と顔と顔を合わせて互いの表情がよく見える近い場所で、リアルに感情を分かち合いながら審理を進められるという利点がある。

そうして回を重ねるうちに、最初は裁判所をただ近寄りがたい場所とみなし、紛争解決の糸口を探していただけであった筆者が、最後には、この事件に関わってくれた全ての人々に対する厚い信頼を持つようになり、最後にはまるでチームワークのような固く緊密な結束・連携により、弁論を終結に至らせることができたのである。判決をまだ聞いていないうちから、筆者は、このような紛争のために労してくれた人々に心からの感謝や敬意を払わないわけにいかない。

今回は、当事者の誰も弁護士をつけなかったことにより、それぞれが本音で心を開いて語り合うことができた。そのおかげで、非常にリアルでドラマチックな展開が生まれたのだと言える。関わった一人一人の正直な心の本音が、裁判所の関係者に至るまで、明らかにされたことにより、事件にふさわしい結論が導き出されるために必要なすべての前提が整えられたのである。

以前にも書いたように、筆者は弁護士という職業を好かない。筆者の弁護者は、今もこれからも見えないキリストただお一人だけで十分であり、もしも今回もこの審理の輪の中に一人でも弁護士が入っていれば、率直な話し合いはたちまち不可能となっていたであろうと思う。

筆者は最後の弁論期日において、電話会議が終了した後、法廷へ移動する前に少しだけ与えられた時間の中で、ちょうど投獄されたパウロが獄吏に向かって福音を宣べ伝えたように、裁判所の人々に対し、筆者を贖って下さった神の福音のはかりしれない意義を伝えることができた。そして、そのことこそ、他のどんな結果にまさって、有益かつ貴い収穫だったのではないかとみなしている。

神はこの事件を通して、御子キリストを通して筆者に与えて下さった贖いがどんなに揺るぎないものであるかを見事に証明して下さった。だから、筆者はこの紛争を提起したことに、何一つ後悔はなく、神に栄光を帰することができたと心から喜んでいる。

しかし、今回の結審を勝ち取るためには、筆者自身にも、己を低くして通らなければならない狭き門があった。

この裁判が始まった時から、裁判官は年度末に異動を予定していることを明かしており、もしも彼に判決を書いてもらいたいならば、我々は年内にすべての弁論を終えて審理を終結させる必要があった。しかし、被告らは反訴を主張して、それを不可能にしようとしていたし、この裁判を結審させて判決を勝ち取るためには、筆者も自分の主張を脇に置いて、個人の利益をはるかに超えたところにある、神の利益のために、身を投げ出すことが必要だったのである。

およそほとんどの裁判は、人権を守る目的のために起こされるものであるが、筆者はクリスチャンとして、この裁判を通して自己の権利だけを主張しようとしているのではなく、私たちのために贖いを成し遂げて下さった聖書の神の正しさを生きて世に証明し、神の利益を擁護するために立たされた。

クリスチャンには、自分の命と引き換えにしてでも、信仰の証しを守り通さなければならない瞬間が存在する。そこで、この裁判を通して、筆者は求められた代価を払うことで、わずかながらも、福音のために命をかけた初代教会のクリスチャンらのような殉教の精神を学ぶことができたものと思う。

キリストこそ私たちの人生の真の主人であり、私たちの全ての全てであり、我々の人権も、幸福も、すべてこの方に由来している。このお方を否定して、私たちにはいかなる命もなければ、権利も幸福もない。当ブログの標題にも引用している以下の御言葉の通り、私たちは代価を払って買い取られたのであり、もはや自分自身のために生きているのではないのである。

「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」
(ガラテヤ2:19-21)


私たちはクリスチャンとして、何が聖書の御言葉にかなう真理であって、何がそうでないのかという事実については、決して主張を曲げることも、譲ることもできない。そうは言っても、私たちは自分の主義主張を掲げているのではなく、真理に立つ民として、福音の使徒とされているのであるから、ヨブのように、常に自分をむなしくして全焼のいけにえとして祭壇で焼き尽くされ、自分の主張を神の御前に投げ捨てる覚悟がなければならない。

そこで、裁判官の異動のためにもうけられた制約も、筆者の心を試す良い試金石となった。最後に行われた電話会議では、裁判官と書記官は、筆者をできるだけ早くこの紛争から解放するために、真心をこめて、この日に結審できるためのすべての手筈を予め整えてくれていた。

だが、弁論を終結するためには、あくまで筆者が自分自身を十字架に置くことが最後の決め手としてぜひとも必要だったのである。もしもこの日、筆者が自分の主張に固執し続けていたならば、年内終結というリミットは守れず、筆者は望んでいた判決を得ることもできず、裁判官の交替はやむを得ないものとなっていたであろうと思う。

この日、裁判官は、弁論が始まる前に、被告と口論にならないために、被告の主張を最後まで黙って聞くよう筆者に注意を促した。

さらに、裁判官は被告から締め切りを超えて出された書面があることを説明し、これを受けとるかどうかを筆者に尋ねた。筆者は、締め切りを守らず期日直前に出された書面を受けとりたくないという意向を前々から表明していたが、この日ばかりは、書面を受けとることに同意せざるを得なかった。

その後、書記官が被告らとの電話をつなぎ、裁判官がいつものように陳述扱いにする書面を読み上げ始めた。

筆者は当初、それをうつむいて聞いていた。裁判官が原告の提出した書面について尋ね始めた時も、まだうつむいて返事をしていた。ようやく目を上げようとすると、筆者の視界には、目の前で裁判官が読み上げた書面を手元の書類と照合してチェックをつけている書記官の様子が入りかけた。

筆者が何気なくその様子を見やろうとしたその瞬間、突如、どこからともなく、「いけない!目を上げて裁判官だけを真っすぐに見なさい!」という、まるで叱責のように鋭く厳しい制止の言葉が、筆者の心に飛び込んできたのである。

筆者ははっとして裁判官を見やったが、裁判官は事件のファイルと、陳述扱いにする書類を記載した書面をせわしなく見比べながら読み上げている最中で、以上の制止の言葉が、誰から(どこから)筆者に向けて発せられたのかは分からなかった。

しかし、筆者はこの警告を非常に重要なものと受け止め、それ以後は、しっかりと目を上げて、裁判官の言葉や態度から目を逸らすことなく注目し、ただ裁判官と連携して弁論を終結させることだけにすべての意識を集中した。

裁判官は、これが最後の弁論になることを断った上で、各自に最後の機会として自分の主張を言うよう、一人一人に発言を求めた。「まずは原告から」と、最初に発言を求められた筆者は、即座に、言うべきことは何もないと返答した。すると、被告らも、それに続いて、まるで調子を合わせるように、次々に言うことは何もないと発言し、原告に反訴もしないと答えたのである。

筆者の目の前で、書記官が心底、驚いている様子が伝わって来た。何しろ、その一つ前の弁論時には、議論は紛糾して非常に険悪な雰囲気となり、被告らは原告に必ず反訴すると宣言し、裁判官は我々の議論を遮って制止し、電話会議が終わった時、一同は絶望的な雰囲気に包まれ、裁判官は大きなため息をついて、これですべての希望が砕け散った、すべては原告のせいだ、と言わんばかりの表情をしていたのである。

だが、その時、筆者は信仰者として、被告らの反訴の脅しが決して実現しないことをただ一人確実に知っていたので、何とかして筆者のために労してくれている人々の心を取り戻し、絶望感を払拭して、勇気づけねばならないと思い、残された時間で、ほとんど捨て身と言っても良い態度で、すべてのことは想定内であり、どんな結果になろうとも、筆者はそれを身に負う覚悟ができており、反訴であろうと、控訴であろうと、その他の脅しであろうと、何一つ恐れているものはなく、誰の責任にするつもりもないと説明しなければならなかった。

しかも、筆者は、その時、まだすべての主張が言い尽くされたわけではなく、最後の総仕上げが残っているという印象を受けていたので、被告らの憤りを恐れず、最後まで主張を言わせてほしいと裁判官に頼んだのであった。

その後、筆者は自分の主張を書面で提出することができたので、最後の弁論では、いかなる主張もしないことを心に決めていた。そして、裁判官も、誰にも追加の主張がないことを確かめると、あっという間に口頭弁論の終結を言い渡した。その際、結審のために必要な最後の手筈までが予めすべて裁判所の側で整えられていたことが鮮やかに証明された。

こうして最後の電話会議は(双方の弁論の)開始からわずか1,2分程度で終了した。見事な連携プレーが成し遂げられて、議論の紛糾もなく、鮮やかに審理が終わった。

議論してはならないという裁判官の忠告がやはり正しかった。筆者は思わず満足の笑みを隠せず、裁判官もほっとして笑顔を見せ、一同、緊張が解けて解放感に包まれた。

しかし、このように息の合った連携は、もしも筆者が少しでも裁判官の判断に不服を感じていたならば、きっと成し遂げられなかったであろうことを疑わない。

人間が発したのではないかも知れないあの厳しい制止の言葉は、ほんの一瞬でも、その審理の場で最高の指揮官であり権威者である裁判官から筆者が目を離し、各自の思いがバラバラになったまま審理を進めることの危険性を筆者に告げたものだったように思う。

書記官も多くの配慮をなしてくれ、書類のやり取りはすべて書記官を通して行い、この審理の極めて重要な立会人となっていた書記官は、ついに筆者には親しみ深い、身近な存在になっていた。

とはいえ、この紛争の行く末を決める決定権を持っている存在は、裁判官を置いて他になかったのである。

そこで、権威に服するという点においては、決して覆せない序列がそこにあり、書記官は裁判官の権威に服し、それに従っていた。そこで、筆者も、この序列を壊さず、自分を解放する宣言を下すことのできる唯一の人間だけを真っすぐに見つめ、その発言に耳を澄まさなくてはならなかったのである。

筆者には、この事件を担当した担当してくれた裁判官が、この事件をとても深く理解してくれ、これを終結させるためにあらゆる努力を払ってくれていることが、前々からとてもよく分かっていた。だが、それでも、筆者がもしも最後まで自分の主張、自分のポリシーだけにこだわっていたとすれば、裁判官の深い配慮に気づけないまま、むしろ、裁判官に不服を覚えながら、各自の心がバラバラの状態で最後の弁論が行われた可能性がある。

たとえば、裁判官が弁論が始まる前に、筆者の発言に注意を促したことや、筆者が書面の当日受け取りをせざるを得なかったことなどの些細な事柄に、筆者が少しでも気を取られ、それに不満を覚えていれば、以上のような展開もなく、我々には着地点が見つからなくなって、弁論の終結もできなくなっていた可能性がないとは言えない。

つまり、この裁判官に判決を書いてもらいたいという筆者の願いが実現するかどうかは、筆者が彼を信頼してその采配に自分を委ね、その判断に全面的に従うことができるかどうかにかかっていたのである。(だからこそ、最後の弁論では、筆者はすべてを脇に置いて、裁判官を注視しなければならなかった。)

筆者から見て、地上に立てられた裁判官は、見えない裁き主としての神の権威を象徴する存在である。もちろん、すべての裁判官がみな同じような存在であるわけではない。しかし、私たちが地上の裁判官の判断にどのような態度を取るかは、私たちが神の裁きに対してどのような態度を取るかという問題ともどこかで密接につながっているように思う。

もしも私たちが、顔を上げて、まっすぐに自分の上に立てられた権威者を信頼して見つめないならば、その行為の中には、何かしら非常に恐ろしい危険が生じ得ることが分かったのである。

創世記において、カインは弟アベルを殺す前に、まず神に不満を抱き、神から目を逸らして、顔を伏せたとある。神の采配に対する不満が、カインの目を神から逸らさせ、顔を伏せさせるという行為につながり、そうして光であるお方から目をそらしたことで、カインの心に暗闇が生まれ、そこに罪が入り込む余地が発生し、彼は罪に誘われるまま、弟を殺したのである。

「日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。
しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。

そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。 正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。

カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。 主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。 あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」。 」(創世記4:3-12)

もしも私たちがただの一瞬でも、私たちの最も愛する方、私たちに命を与え、自由を与えることのできる方、私たちを祝福し、あらゆる悪から力強く救い出す権威を持ったお方から目を離し、神に向かって顔を上げることをせず、自分の顔を伏せて、自分自身の思いや、ほかのことに気を取られ始めるならば、その一瞬の気の緩みが原因となり、私たちは神との親しい交わり、神との同労を失い、あっという間に、御心から遠くへ引き離されて、神の御前から退けられてしまいかねない危険を思わないわけにいかない。

筆者はこれまで主に心の姿勢について語って来たのであり、私たちが肉眼で何を見つめるのかという目線の重要性を語ったことはなかった。しかし、私たちの目が何を見つめるのかという問題は、私たちの心の姿勢を如実に表すものであり、非常に重要な問題である。

この審理においては、ただ裁判官だけが、筆者を法的に保護する判決文を書くことができるのであって、他の誰にもその真似をすることはできない。その人物に向かって不服を表明することは、自分を解放する決定を自分で否定し、退けることと同じである。

裁判官の割り当ては、原告や被告の希望によって行なわれるものではない。しかし、審理の初めから、筆者にはこの人にはこの事件を理解して解決に導くことが可能であり、この人に判決を書いてもらいたいという願いがあった。そこで、一人の裁判官に判決を書いてもらうために、訴えを分割して他部署に委ねることをも断った。

そこで筆者は、弁論終結のためには、地上の裁判官の考えや判断を尊重してこれに同意し、彼が何を意図し、弁論をどのように導こうとしているのか、まっすぐに裁判官を見つめて、その言葉や表情に注意を払い、これに同意しなければ、次に起きることを予想できず、同じ目的に向かって同労して、自分を解放に至らせるための判決を得ることができなかったのである。

最初は偶然のように始まった人選であり、出会いであったが、弁論の終結が近づくに連れて、裁判官の交替という出来事は、筆者には何としても阻止せねばならない選択肢となって行った。それは筆者が自己の義に固執して正義の判決を失うこととほとんど同じほどの意味を持ち、そこで、裁判官は弁護士でないにも関わらず、筆者は待ち望んでいる判決を得るために、裁判官の判断に完全に同意してこれを受け入れ、彼と同労することが必要不可欠だったのである。

これと同様に、私たちはクリスチャンとして、地上において、絶えず神と同労する必要に迫られている。もしも私たちがその役目を放棄して、最高権威者である神ご自身に不満を抱き、一瞬でも神から目を逸らすならば、私たちは自分をあらゆる悪から救い出すことがおできになる方の力強い決定を見失い、生きる方向性を失って行くことになる。

最後の弁論では、そのような危険はすべて排除されて、鮮やかに審理が終結し、その後、信仰の証しをする時間までも与えられた。筆者は、裁判官や書記官の前で、改めてキリストの十字架の意義を伝え、この裁判が、筆者を贖い出して下さった神の御業を表すものであることを伝えることができたのではないかと思う。

その後、筆者は書記官に伴われて、予め準備が整えられていた法廷に導かれ、すでに法壇に着座して我々を待っていた裁判官に迎え入れられた。その時、ここは筆者が自分を捨てて十字架に服さなければ、決して到達することのできない場所であったことをしみじみと感じた。

この裁判を最後まで遂行するためには、筆者はクリスチャンの一人として、神の御言葉の正しさを公然と証するために、すべての虚偽の脅しに立ち向かって、自分の命を最後まで注ぎだす必要があった。また、自分の心の中で、己を低くして、狭い道を通り、狭き門としての十字架を通らなければならなかった。それができなかったならば、決して到達できなかった場所、得ることのできない決定に、筆者はたどり着いたと感じたのである。

主イエスは言われた。わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」(マルコによる福音書 8:34-38)

法廷はしばしば人間のエゴとエゴとがぶつかり合うたけの闘争の場所のように見えるかも知れない。しかし、実際には、そこで人の痛み苦しみの記録にじかに触れ、また、人の魂が切にあえぎ求めている解決に達するためには、それぞれが己を低くして通過せねばならない見えない門が存在する。原告や被告だけが苦しみながら戦っているのではなく、そこに一堂に会するすべての関係者が心に持たなければならない謙遜さが存在する。

法廷では、裁判官は最も高い席に着席し、それよりも一段低い席に書記官が着き、原告や被告などの紛争当事者には、傍聴席と同じ目線の一番低い席が用意されている。裁判官が最も高い席に着くのは、その権威の高さに照らし合わせて当然のことと思われるかも知れないが、その裁判官といえども、決して傲然と上から人々の苦しみを見下ろしているわけではない。

裁判官は退廷するとき、決して傍聴席に背を向けず、法廷を目の前にしたまま退出する。しかも、退出する時に通る扉はかなり低く、背の高い裁判官は、ちょうど法廷に向かってお辞儀をするような恰好で身をかがめて退出せねばならない。

筆者はそれを見るにつけても、裁判官にさえ、法廷に出るためには、己を低くして通過せねばならない狭き門があるのだと感じた。そして、筆者には筆者なりに、この最後のステージに到達するために、身をかがめて通過せねばならない見えない狭い門があった。各自がそれをクリアしなければ、この三者のメンバーで、審理を終結させることはできなかったであろうことを思わされた。

法廷は神聖な儀式の場ではなく、そこにあるのはキリスト者の交わりでもない。しかし、筆者は今、キリスト者の交わりが成立するためには、それに参加する信者らの自己が、ことごとくエクレシアの戸口で焼き尽くされて死んでいなければならないという、ある信仰者の言葉を思い出さずにいられない。

モーセは燃える芝の前で靴を脱ぐように言われたが、神聖な場所に入るためには、人は自己を焼き尽くされて死を通過していなければならない。今回、法廷においては、死に定められた者が、命を与えられ、贖い出されてゲヘナから連れ戻され、名誉を回復されるという、奇跡のようなことが起き、私たちが信じている神の救いの確かさが、それによって公然と世に証されたわけであるが、それが実現するためには、まず人の自己が低められ、十字架で死に渡されていることが必要だったのである。

こうして、今回の裁判では、その全過程において、神が随所で憐れみに満ちた采配を施して下さり、すべてがドラマチックな展開を辿った。おそらく、このような裁判は他に類例がないもので、一生、忘れることのない意義深い思い出として、関係者の脳裏に刻まれるのではないかと思う。

判決言い渡しの時に、もう一度、彼らと再会することが筆者には許されている。その時、筆者がどうなっているのか、どんな変化が身に起きているのか、それもまた楽しみである。

最後に、筆者はこの裁判を通して、クリスチャンがキリストにあって与えられている絶大な特権のことを思わずにいられない。筆者は教会やクリスチャンを罪に定めるカルト被害者救済活動がなぜ誤っているのかを説明するために、準備書面を作成する過程で、ビュン・ジェーチャン牧師が民事では賠償を命じられたものの、刑事事件では無罪判決を受けたことに触れたが、こうした事例を見るにつけても、ひょっとすると、クリスチャンに有罪を宣告することは、この世の人々には不可能なことなのかも知れないという気がしてならない。

信仰の道の途上で足を踏み外すクリスチャンは大勢いるであろうし、そうした信者や、過ちを犯した宗教指導者らが、神の御前で受ける裁きが格別厳しいものとなることも確かであろうが、それでも、私たちは、神が贖われたクリスチャンに罪を宣告できる者は、神ご自身と、福音の使徒以外には誰もいないという厳粛な事実を思わずにいられない。

誰かが福音の使徒とされたことには、それほど人間の理解を超えた神秘があり、神が義とされたクリスチャンに有罪を宣告し、手をかけることは、まさに悪魔(とその代弁者)にしか許されていない所業なのだと言えよう。

そういうわけで、神がキリストの貴い命と引き換えに贖って下さった筆者を告発できる人間は地上には誰もいない、という事実が、またしても公然と証明された。もちろん、筆者を刑事告訴したり、反訴したりできる人間も誰もいないことが。それは筆者が暗闇の勢力から脅される度に、幾度も述べて来た以下の御言葉の通りである。

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。


「わたしたちは、あなたのために
一日中死にさらされ、
屠られる羊のようにみなされている」
と書いてある通りです。

しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:33-39)

教会とは、キリストの命によって新たに生まれたクリスチャンの総体であり、神が罪赦されて、キリストを通して義と聖と贖いを授けられた人々の集団である。神は地上の脆く弱い存在に過ぎない私たちをお選びになり、私たちをこの世から召し出されて、ご自分の栄光を表すための器とされた。神はこのように弱く脆い存在を通して、ご自分のはかりしれない知恵を、天上のもろもろの支配や権威に対して知らしめようとなさっておられるのである。

「こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。」(エフェソの信徒への手紙3:10-13)

教会とは、キリストをかしらとするキリストのからだであって、キリストが満ちておられるところである。からだは、かしらであるキリストの思いを体現するためにこの世と接点を持ち、この世と接触する。私たちは、この闇の世において、キリストの栄光を証するための器官として、土の器の中に神のはかりしれない命をいただいて、星のように輝いている。

この先、どんなに教会が迫害されようとも、神はなお教会を通して、この世のすべての欺きを超越するご自分の多種多様な知恵を表されるだろう。だから、私たちは苦難を受けても落胆せず、あらゆる試練の中で、さらに一層、信仰を強くして、大胆に御座に進み出て、恵みを受けることができると疑わない。

敵がどんなに激しく活動して、クリスチャンの望みを絶やそうとしても、私たちは、どんな状況でも、神がご自分の栄光を力強く鮮やかに示して下さることを信じており、失望落胆する理由がない。

私たちが見るべきは、ただ一点、キリスト。詩編の中に記されている通り、奴隷が主人の手を一心に見つめるように、私たちはただキリストだけを一心に見つめ、すべての名にまさる彼の御名を高く掲げ、最高の権威者である神から目を離さない。

私たちはまっすぐに目を上げて、天の御座におられる方に目を注ぎ、神が私たちに何を望んでおられるのかに注目し、その御声に一心に耳を澄ます。

そして、神が私たちがまだ罪人であった時に、私たちを愛して、その独り子を地上に送り、命を捨てて下さったその愛をより深く知り、私たちもそれに同じ愛で応え、身を捧げて生きるために、ルツのように、心の中で愛と真実をもって神への従順を言い表すのである。

もし私たちが己を低くして主と共なる十字架で自分を死に渡すならば、神は私たちが信仰を守り通す上で受けたすべての苦難や損失を、それとは比べものにならないほどに豊かな命によって回復して下さる。

神は敵前で私たちのために宴をもうけ、私たちの頭に油を注ぎ、私たちの杯を満たして下さるだろう。

私たちの信じている神のどれほど不思議で偉大なことか。この方に賛美と感謝を捧げ、栄光を帰したい。
 
目を上げて、わたしはあなたを仰ぎます
天にいます方よ。

御覧ください、僕が主人の手に目を注ぎ、
はしためが女主人の手に目を注ぐように
わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ
憐れみを待ちます。

わたしたちを憐れんでください。
主よ、わたしたちを憐れんでください。
わたしたちはあまりにも恥に飽かされています。
平然と生きる者らの嘲笑に
傲然と生きる者らの侮りに
わたしたちの魂はあまりにも飽かされています。」

* * *

「イスラエルよ、言え。
「主がわたしたちの味方でなかったなら
 主がわたしたちの味方でなかったなら

 わたしたちに逆らう者が立ったとき
 そのとき、わたしたちは生きながら
 敵意の炎に呑み込まれていたであろう。

 そのとき、大水がわたしたちを押し流し
 激流がわたしたちを超えて行ったであろう。
 そのとき、わたしたちを超えて行ったであろう
 驕り高ぶる大水が。

 主をたたえよ。
 主はわたしたちを敵の餌食になさらなかった。
 仕掛けられた網から逃れる鳥のように
 わたしたちの魂は逃れ出た。
 網は破られ、わたしたちは逃れ出た。

 わたしたちの助けは天地を造られた主の御名にある。

* * *

「主に依り頼む人は、シオンの山。
 揺らぐことなく、とこしえに座る。
 山々はエルサレムを囲み
 主は御自分の民を囲んでいてくださる。
 今も、そしてとこしえに。

 主に従う人に割り当てられた地に
 主に逆らう者の笏が置かれることのないように。
 主に従う人が悪に手を伸ばすことがないように。

 主よ、良い人、心のまっすぐな人を
 幸せにしてください。
 よこしまな自分の道にそれて行く者を
 主よ、悪を行う者と共に追い払ってください。

 イスラエルの上に平和がありますように。」

* * *

「主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて
 わたしたちは夢を見ている人のようになった。
 そのときには、わたしたちの口に笑いが
 舌に喜びの歌が満ちるであろう。
 そのときには、国々も言うであろう 
 「
主はこの人々に、大きな業をなしとげられた」と。

 主よ、わたしたちのために
 大きな業を成し遂げてください。
 わたしたちは喜び祝うでしょう。
 主よ、ネゲブに川の流れを導くように
 わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。

 涙と共に種を蒔く人は
 喜びの歌と共に刈り入れる。
 種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は
 束ねた穂を背負い
 喜びの歌をうたいながら帰ってくる。
(詩編123-126編)

2018年8月25日 (土)

日々の十字架を負う意義――わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。

これまでの記事の中で筆者は、嘘にまみれた世界の中で、公正、真実、誠実さを追い求めることが、命を救う鍵となるだろうと強調して来たが、実際にその通りの原則が、筆者の人生において成就している。

もちろん、真実なるお方はキリストただお一人なのだが、キリストは目に見えないお方であるがゆえに、私たちは現実生活の中で、ただぼんやり天を仰いで待つのではなく、自分自身の力で、何が本当であるかを判断し、限りなく、真実性のあるものだけを選び取って行かねばならない。
 
今、何が本当であるかを着実に見分け、真実だけを選び取って行かなければ、命取りとなるような時代が到来している。真実と虚偽を見分けることができるかどうかで、人の命運が分かれるのだ。

たとえば、これまで、筆者に向かって色の良いことを約束しておきながら、その約束を実行せず、いわれのない損害を与えようとする人々は、数多く現れて来た。(これは本当のことである。)しかし、その中には、見るからにいかがわしい似非宗教指導者や、求人詐欺を働く悪徳企業のような、初めから誰にでもそれと見分けられるどうしようもない組織やリーダーたちだけが含まれていたわけではない。

残念ながら、そこには、筆者にとって非常に親しい身近な大切な人たちの嘘の甘言も含まれていたのである。

今から少し前、筆者がある問題の解決に悩んでいた頃、「私が必ず力を貸してやる」と申し出た人がいた。その人は身近な人間であり、長いつきあいのある存在であった。

その人は言った、「ヴィオロンは私にとって非常に大事な人間だから、必ず、約束を実行する」と。

ただし、その約束は次のような注釈つきだった。「明日、ある人だけにはこのことを相談しておきたい。私はその人の了解なしには行動できないから」。

そこで、筆者は即座に答えた、「あなたは私よりも年長なのに、未だ自分のことも一人で決められないのでしょうか。ほかの人と相談すれば、あなたは必ず心を翻すでしょう」

その人は言った、「そんなことはない。私がそんなにも簡単に自分の約束を破ると思うか。私がヴィオロンのことをそんなにも軽んじていると考えるのか」

筆者は礼儀上、その言葉には何も答えないでおいた。その人はそれを筆者の同意だと思ったのか、我が意を得たりとばかりに満足そうだった。

しかし、その人は筆者と長いつきあいがあるとはいえ、信仰は全く共有しておらず、信仰面では筆者とはむしろ、正反対の立場に立っていた。そこで、筆者は、その日が来るよりもずっと前から、内心ではうすうすその人と筆者との運命は間もなく完全に別れるだろうことを予感していた。おそらく、この会話が最後の試金石になるだろうと感じていた。

その人は案の定、その翌日、まだ舌の根も乾かないうちに前言を翻し、約束は反故にしたいと通告して来た。だが、筆者は、そうなることを予想済みであったので、何のショックも受けず、静かに言った、筆者の方でも、すでに別の解決ルートを見つけたので、助けてもらう必要はなくなったと。

その人が、筆者にあたかも大きな力を貸すかのように述べたのは、筆者の生活であるイベントが予定されていた前日のことであった。もしもその大事な時に、筆者がむなしい約束を信じて、その助けを当てにして、予定通りに行動していたなら、筆者の人生は大きな損害を受けたかも知れない。

だが、筆者はこれまでの経験則から、その人がどんなに筆者にとって身近で大切な人間であっても、一切、信仰を共有することもできず、同じ立場に立っていない人から助けを受けることは決してあり得ないと知っていた。

そこで、そのような人間の約束を、信じず、当てにもしていなかった。むしろ、その人が筆者を必ず助けると言った言葉を聞いた直後、筆者は物事を熟考し、速やかに、その助けを一切、当てにしなくて済む方法に行動を切り替えた。そうでなければ損害を受けていたのは間違いのない事実である。

このように、どんなに感情的には身近で親しい人間に思われる人の言葉であっても、信仰に基づかず、真理に立っておらず、誠実さや真実性に欠ける行動ををしている人間の述べた言葉は、すべて当てにならないものとして、退けなければならない。その原則を筆者はこれまで幾度にも渡って学ばされていた。

人情に働きかけられたり、おだてられて心をくすぐられたりして、自己満足することによって、信じてはならない言葉を信じれば、取り返しのつかない害をこうむるだけである。

これまで筆者の人生において、真実を見分ける力を養うことは、まだまだ小さな予行演習の繰り返しのようであったが、社会全体が、どっぷりと海のような嘘の中に浸かるに連れて、嘘を退け、何が真実であるかを見分ける力は、死活的重要性を帯びるに至っている。

繰り返すが、ただ自分の感情にとって心地よく好ましく感じられるものだけを信じ、選び取ってていたのでは、ただちに死に直結し、生きられなくなる時代が到来しているのである。

さて、以上とは似ているようで、また別の話がある。

最近、筆者はある事件で協力を得るために、かつての信仰仲間の幾人かに、久方ぶりにコンタクトを取ってみた。すると、そのうちの一人の身に悲しい事件が起きていることが分かった。

悲しい事件と言っても、本人には全くその自覚がないから、そう思うのは筆者だけである。

その人は、事件への協力を約束したが、その際、あたかも筆者の健康を気遣うような口調で、熱心に電位治療器の無料体験を勧めて来た。

あまり熱心に勧めるので、直接、会うついでに寄ってみようと、筆者はその人の案内で体験会場を訪れてみた。

しかし、会場の入り口に「ハピネス」などと書いた怪しげな旗がひらめいているのを見た瞬間に、筆者の心の中では「あ、これはヤバイな」という警告が鳴り響いた。

体験会場の中に入ると、「一般社団法人ハピネス」という、宗教団体とみまごう組織名が掲げられている。
   
いくつもの椅子が並べられた会場を見回すと、そこには老人ばかりが集まり、まるで病院の待合室のようであった。

会場に並べられた粗末な椅子に置いてある座布団が、電位治療器の役目を果たしているらしいが、そこに集まった人々は、まだ何かが始まる前から、この電位治療器のおかげで、劇的に歩けるようになったとか、病気が治っただとか、ありとあらゆる奇跡物語を「あかし」していた。知人はすっかりその気にさせられている様子だったが、筆者はそれを聞いてますます「ヤバい」と感じた。

そうこうしているうちに、若い販売員が登場して、老人たちの前でパフォーマンスを始めた。そして、「この電位治療器には、病気を治癒する力はありませんが、体の調子を整えることができます。体の調子を普段から整えておくことで、将来的に、がんになったり、深刻な病気にかかるリスクを減らすことができるのです…。ついこの間も、30代の若い女の子が、病気の予防に役立つならと買ったばかりですが、今ならキャンペーン価格で…」などと語り始めた。

キャンペーン価格と言えども、65万円は下らなかったように記憶している。庶民が思いつきで手を出せる値段ではない。しかも、販売員がのっけから「がんのリスク」などと、明らかに人の不安や恐怖を煽るような話を始めたことに、筆者は非常な不快感を覚えた。

筆者は心から病気を憎んでいる。筆者がここへ来たのは、病気の話など聞かされるためではなく、暗闇の勢力にいかに勇敢に立ち向かって、それを撃退するかという問題を話し合うのためであった。こんなくだらない話につきあっている暇はない。

やたらと人を不安に陥れる脅し文句を並べ、何一つ科学的な証拠もないくせに、この電位治療器を使ってさえいれば、まるで将来的に病気のリスクを低減でき、がんにかかる可能性を減らせるかのような、眉唾物の話んは、筆者は心の底から憤りを覚えずにいられなかった。

しかも、会場の電気椅子(いや、電位治療器)に座っていると、筆者はドキドキして来て、嫌な感じを覚えた。むろん、警戒していたためもあるだろうが、そもそもペースメーカーを使っている人は、使用できないなどの説明を聞いても、明らかに、これは人体に不自然な刺激と圧迫を加えるものであると分かる。

仮にこの電気椅子にほんのわずかでも治療の効果が認められるのだとしても、このような外的刺激に頼らなければ、健康を維持できないほどまでに弱体化した人間にはなりたくないと強く思った。

だが、何よりも、筆者が違和感を覚えたのは、その体験会場に来ている人々が、することもなくぼんやり受け身に椅子の上に座って、販売員の説教を待っているだけであることだった。

本当に困っている人たちは、寸刻を惜しんで働いており、こんなところで時間を潰している余裕はない。志の高い人は、同じ時間を使って、社会運動にでも参加するだろう。それなのに、この人たちには、他にすることが何もないのだろうか。

病気のリスクを減らしたいなら、同じ時間を使って、家で体操でもすれば良い。ジョギングでもマラソンでもウォーキングでもして体を鍛えれば良い。そもそも、この人たちの家庭には、彼らの優しい心遣いや、世話を待っている家族はいないのか。泣いている孫や、赤ん坊はいないのだろうか。

おそらく帰宅すれば、彼らの温かい配慮や世話を待っている家族の一人もいるはずであり、その他にも、社会のためにできることはいくらでもあるはずなのに、それらすべての問題を差し置いて、自分の体のことばかりを心配し、こんなところで受け身に座っていれば、ますます筋力は衰え、知性も後退し、他人にお膳立てしてもらわなければ、何もできない無能な人間になって行くだけである。そんな方法で病気を防げるなどと本気で信じているなら、まさに愚の骨頂だ。

筆者は、眉唾物の怪しげな奇跡体験談が飛び交ういかがわしい会場に、一刻たりともとどまる気がせず、販売員の話もそこそこに、知人を無理やり外に引っ張り出すようにして会場を立ち去った。筆者がそこにいたのは、わずか5分から10分くらいだっただろう。

その後、筆者はその知人に向かって説いた、これはほとんど宗教で、霊感商法と同じだ、こういういかがわしい商売に関わるのは危ない、と。

しかし、その知人には全く効き目がなかったようであった。

それでも、しばらくの間、その知人とは連絡を絶たなかった。そのうちに、再び、ひょんなことから、会話の中で電位治療器の話が出て来た。

筆者はその会話の中で、キリストの十字架の贖いこそ、私たちの完全な命であって、救いであるのに、昨今、キリスト教徒を名乗りながらも、あからさまに聖書66巻は神の霊感を受けて書かれた書物ではないなどと否定して、自ら神の救いを拒んでいる、呆れるような人々がいる、と述べた。

そして、その話のついでに、知人に向かって、やはりあの電位治療器の無料体験に通うのは早くやめた方がいい、科学的にも十分な実験が行われたわけでないのだから、どんな副作用や禁断症状が伴うかも分からない。依存状態になる前に、こういう外的手段に頼らず、自分の命の力だけで、健康を維持できるようにした方が良い、と語った。

すると、知人からは、思わぬ拒否反応と共に、驚くべき叱責の言葉が返って来たのである。

「ヴィオロンさん、あなたは何も分かっていない。あなたはほんのわずかもあの体験会場にとどまらなかったくせに、試してみるよりも前から、電位治療にはどうせ効果なんかないと決めつけている。そんなあなたの態度は、まるで聖書66巻は神の霊感を受けた書物ではないと、聖書を読むよりも前から決めつけて、救いを拒んでいる人たちと全く同じだ!!」

「はあ? 一体、何を言っているの!?」

筆者は驚いて問い返した。

「まさかあの電位治療器に、キリストの救いや聖書66巻と何の関係もあるわけないでしょう?」

「いや、同じだ! あなたは救いがあるのに、救いなんてない、聖書なんて信じない、と救いを自ら拒んでいる人間たちと同じだ!!」

筆者は鳩が豆鉄砲を食ったように驚き呆れると同時に、これは重症だ、手遅れかも知れない、という手ごたえを持った。

孤独な老人が、販売員の親切そうな口調や、無料体験会場の賑わいに釣られて、電位治療器にはまりこむのはまだ分かるとしても、かつてキリスト教徒だった人の口から、その電気椅子があたかもキリストの救いと同等であるかのような言葉を聞かされるとは、こんな商売がまっとうなものであるはずがないという確信が込み上げて来た。

「あれはただの電気椅子でしょ。それなのに、どうしてそれを聖書とか、神の救いと同列に並べられるわけ。しかも、あれを試さないからと言って、何で私が救いを拒んでいるということになるわけ。

もしそういう理屈が成り立つならば、同じような椅子が、他にもたくさんあるはず。試せというなら、全部試して、見比べてみるべきじゃないの。他の椅子を知らないし、よく知りもしないくせに、あれだけが救いみたいに決めつけてるのは自分でしょう?」

「そりゃ、全部、試したわけじゃないから、他にももっと良いものはあるかも知れないけど…」
と知人は口ごもる。

「そうでしょう? でも、それを言い始めたら、電気椅子だけじゃなく、青汁や、サプリメントや、マッサージ器や、その他、ありとあらゆるものに、それなりの効能があるはずでしょう。TVをつければ、通販番組で、いくらでも奇跡体験を聞ける。あなたはそういうものをいくつ試したわけ。他のを十分に試してもいないのに、どうしてあの椅子だけにそこまでこだわるの?」

「自分で試したから。あれが効くって分かったんだよ」

「呆れた。騙されてるだけだって、分からないわけ」

「騙されてなんかいない。何も買ってないし」

「買わなくたって、宣伝係として大いに利用されてるじゃないの」

「だって、歩けなかったのに、歩けるようになったって言ってる人にも会ったし。それを否定するの?」

「馬鹿馬鹿しい。そんな話はベニー・ヒンの大会で病気が癒されたとか言ってる奇跡体験と何も変わらないじゃない。そういう『あかし』を聞かされただけで、証拠もないのに飛びついて信じるの? 何度、騙されたら学習するわけ?」

「きついなあ。ヴィオロンさんだって、今はそういうことを言っているけれども、十年後には、体が弱くなって、考えが変わるかも知れないよ」

「馬鹿なことを言わないで。十年経っても、私の考えは変わらないから」

「いつまでも健康でいられないかも知れない。がんになるかも知れないよ?」

「いい加減なこと言わないで。ほらね、もう脅しが始まった。あのお兄さんが会場で言っていたことを、あなたは受け売りしているだけじゃない。だって、言ってたものね、がんのリスクを減らせるかも知れないとか、云々。

あなたはそういう話を聞いただけで、愚かにも真顔で信じ込んで、都合よく利用されて、会場のサクラにされた上、電気椅子の伝道師にまでされちゃったんだね。

でも、私にはそんな伝道は要らない。私には癒し主であるキリストがすでに着いておられるんだから、病気を恐れる必要なんてないし、ましてあんな訳の分からない椅子にすがりつかなきゃいけない理由もない。

まことの命であり、健康そのものであり、すべての問題の解決である方が、すでに内におられるのに、何のために、あんなあの世の待合室みたいな会場の椅子に、救いを求めて通わなくちゃいけないの。

毎日、あんなところに通わないと健康を維持できないと思い込んでるなら、それはまるで教会に通っていないと救いを失うと脅されて、日曜ごとに教会のベンチにしがみついている信徒と同じじゃないの? そういう信仰生活はもう卒業したんじゃなかったの?」

「・・・」

「私から見れば、あなたはあそこで大勢の人たちと会ってちやほやされて、孤独を紛らし、自分の健康を心配してもらうことと引き換えに、すっかり洗脳されちゃって、病気の治療どころか、病気を受け入れさせられてることが分からないんだね。

人の人生では、自分で信じたことが本当になるんだよ。病気になるかも知れないなんて言われて、それを真に受ければ、本当にその通りになるだけだよ。しかも、がんになるかも知れないと言われて、大真面目に信じて電位治療器を買うのは、先祖の祟りと言われて、壺を買うのと同じだよね。

でも、言っておくけど、先祖の祟りは、壺を買ったくらいでは、きっと免れられないよ。一つの脅しを受け入れれば、次から次へと新たな脅しがやって来るだけだよ。壺では終わらず、さらにもっと高価なものを買わなくちゃいけなくなるだけ。同じように、がんのリスクは、あんな電位治療器なんかでは、防止できない。あのお兄ちゃんだって言ってたじゃない、電気椅子には、病気の治療の効果はないって。

だから、あなたは存在しない幻の解決と引き換えに、現実の巨大なリスクを引き受けさせられているだけなんだよ。本当の目的は、治療の効果もない機械と引き換えに、がんになるかも知れないっていう恐れを現実のものとして引き受けさせることにあるんだよ」

「・・・」

「だから、病気や祟りの脅しなんて、聞いた瞬間に、断固、拒否しなくちゃいけないわけ。しかも、私たちには真実な救いが与えられているから、そういう恐怖で脅される理由はないって分かっているはずなのに、あなたはあんな低次元な脅しを拒否しないどころか、私にまで恐怖を広めようとしているの?

でも、そもそもがんがどれくらいお金がかかる病気か、あなたは本当に考えたことがある? 電位治療器も買えない人が、そんな病気とおつきあいしてる余裕があるわけ? 自分の生活を考えたら、がんなんて病気と仲良くしている余裕は、最初から全く存在しないってことが、自分で分かるんじゃないの。そんな病気、お呼びじゃない。早期発見してみたところで、仕事も休めないし、残業しないと生きられない人に、どうやってそんな病気の予防策にお金を投じている暇があるの。誰がその間、面倒をみてくれるの? そんな病気、かかっただけで一貫の終わりだよね。そんな病気のことで、四六時中悩んでいられるような人たちなんて、あそこに来ている老人みたいに、ほんの一握りの恵まれた人たちだけだよ。私に言わせれば、まさにぜいたく病みたいなもの。

それでも、あなたがどうしてもそんな眉唾物の話を本気で信じて、私にまで布教したいって言うなら、まずは、あの椅子を自分で買ってからにすればいい。どうせあなたが言っている『試さないと分からない』なんて台詞は、無料お試し体験程度でしょう。

そんな中途半端な体験で、知ったかぶりされても困るんだよね。ちゃんとローンでも組んで機械を買って、自宅で毎日長時間試して、博士論文くらいのデータを集めてから、人にものを言いなさいな。中途半端にしか試してない人間から、中途半端な説教を受ける気は私にはないから。そんな薄っぺらい無責任な言葉と態度で、人を説得できると思ってることが大間違い、というか他人を馬鹿にしてるんだね。

あなたがその霊感商法と手を切らないなら、この交わりもこれで終わりにしましょう」

この説得の言葉を聞いても、知人はまだ筆者の考えが間違っていると確信していたらしかった。

電気椅子はそれほどまでにその知人の心をとらえ、もはや心の王座を占めていると言って良く、それに比べ、筆者のような人間は、あの会場のサクラの一人程度にしか見えていなかったのであろう。知人が誘えば、筆者もあの機械に病みつきになると本当に思われていたのだとすれば、随分と軽くみられたものである。

ところが、サクラでなければならない筆者から、電気椅子を捨てなければ、交わりは終わりだと宣告され、知人はよほど腹に据えかねたのか、その後、自ら信仰の交わりを絶つと言って来た。

しかし、それには「あなたとはこれまで互いに信仰的見解が最も近いと思っていたので、とても残念だ・・・」という未練がましい注釈と、さらに、電気椅子はやめない代わりに、これから当分の間、信仰告白をやめさせてもらう、と挑戦的な捨て台詞のおまけがついていた。

それは筆者が、この知人に向かって、人前で神を拒む人間を、神も拒まれると聖書にあるから、困難があっても、公に信仰のあかしを続けることはとても重要だと思うと語った直後のことであった。

ああ、やっぱりな・・・、と筆者は思った。 恐るべし、あれはただの電位治療器ではない。この知人が、筆者の前で、電位治療器などというこの世のガラクタを、聖書66巻やキリストの救いになぞらえて語ったことは、偶然ではなかったのだ。

その知人にとって、あの電位治療器は、まさに「踏み絵」の役割を果たし、信仰を棄てる契機にまでなってしまったのだ。

そんな人間から、「信仰的見解が最も近いと思っていた」などと言われたことに、筆者はただただぞっとして冗談はやめてくれと薄気味悪さを感じるだけであった。

さて、この電位治療器については、ほんの少しネットを検索しただけでも、筆者と同様の意見がたくさん見つかる。

ネットでは、筆者が目にした高額で販売されている電位治療器は、原価5万程度の代物でしかないと言われている。さらに、売り方にあまりにも問題があることは、数多くの場所で指摘されている。

「治療の効果があるわけではないが、体の調子を整えることで、がんの予防にもつながる」などと、正式に認められてもおらず、科学的に一切証明されていない効能を無理やりこじつけのように謳ってアピールするなど、違法すれすれの説明である。

しかも、販売員が奇跡体験を語ると違法になる恐れがあるため、無料体験会場には、予めサクラと思われる参加者が仕込まれ、その参加者の口から「これを使ったら、歩けなかったのが、歩けるようになった」とか、「病気が治った」などと、奇跡の「あかし」をさせることで、眉唾物の「福音」を口コミで広めて行こうとする念の入れようである。

老人や病者の孤独や弱みにつけこみ、親切心を装いながら、人々を食い物にする悪徳商法には、強い憤りを感じるが、それと同時に、筆者が思うことは、以下に引用する記事にも書かれている通り、それにひっかかる人間の側も、どうしようもなく愚かで無責任で自己中心で能天気な阿呆だけだということだけだ。

それでも、福音を知らないならば、まだ弁護の余地もあるかも知れないが、最も救いようがないのは、キリストの福音の価値を自ら知っていながら、天の御座に憧れるのではなく、あのような地上の安物の電気椅子に心を奪われ、その無料体験ごときを、キリストの救いと取り替えた人間である。これでは、まるで一杯のレンズ豆のあつものと引き換えに、長子の権を売り払ったエサウとほとんど変わらないではないか。

筆者は、暗闇の勢力との闘いの中で、少しでも力を借りられないかと思ってその知人に声をかけたのであったが、あまりにも愚かすぎる結末に、開いた口が塞がらなかった。

大体、自分の体の心配、自分の健康の心配、自分の必要性、自分の快楽・・・、そんなことばかりを四六時中、気にしているから、最後にはこういう結末へ引っ張られて行くことになるのだ。

四六時中、自分の心配ばかりをしているから、最後には椅子から全く動くことさえできなくなり、ついには立ち上がることもできなくなって、病が癒されるどころか、病に倒れて終わるのである。あれはただの椅子ではない。肥大化したセルフの玉座である。

しかも、電位治療器に正式に認められている効能とは「頭痛、肩こり、慢性便秘、不眠症の緩解」だけであるらしい。

だが、「頭痛、肩こり、慢性便秘、不眠症」などは、取り立てて大騒ぎするような不調ではなく、まして高額な治療器を使ってまで早急に撃退しなければならない深刻な病ではない。

誰でも、悩み事が生じれば、夜も眠れないほど考え込んだり、頭痛や肩こりを覚えたり、食欲もなくなり、体調も一時的に悪化したりもするだろう。

だが、それは一過性のことだ。それなのに、一体、いつから、人にとってそのような一時的で些細な悩み苦しみまでが、あってはならないもののようにみなされ、不眠や肩こりや頭痛までが、あるまじき重大な病のようにみなされるようになったのか? 

しかも、「がんになるかも知れない」などという、手に負えない巨大な病のリスクを引き受けることに比べれば、頭痛や肩こりといったほんの些細な痛み苦しみを黙って甘んじて受けることは、はるかにたやすいことではないのだろうか?

それなのに、ほんの些細な悩み苦しみをも、あるまじきことのようにみなし、ほんの少し、自分が痛み苦しみを負わされたくらいのことで、まるで重大事件が起きたかのように大騒ぎし、四六時中、我が身可愛さから、自分の体、自分の健康、自分の感情、自分の感覚のことばかりを話題にし、ほんの些細な体調不良にも神経質に騒ぎ立てて早急に手を打たねばならないと走り回り、朝から晩まで常に自分の体のことだけを心の中心に据えて生きているから、その不安につけこまれて、経済的に損失を負わされるだけでなく、巨大な病のリスクまでも引き受けさせられるはめになるのだ。

聖書は言う、

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」(マタイ16:24-27)

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」(Ⅱコリント4:16-17)

私たちの「外なる人」が衰えて行くことは、避けようのない事柄である。私たちは内に復活の命をいただいてはいるが、あくまでそれを土の器の中に抱えており、常に外なる人の限界に脅かされている。

しかし、そのために生じる痛み、悩み、苦しみなどは、実に些細なものであって、一時的な軽い艱難でしかない。地上での生涯を立派に耐え抜けば、その艱難とは比べものにもならない天の栄光が約束されているのだ。

そのようなわけで、キリスト者にあっては、地上における一時的な軽い艱難は、有益な実を生みこそすれ、無駄になることはない。ところが、そんな些細な艱難さえをも、甘んじて負うことを避け、常に自分にとって心地よい快楽体験ばかりけを追い求め、朽ちゆく自分の地上の命を惜しみ、これを大事に握りしめて手放さず、生まれながらの自分を永遠にまで永らえさせることを考えていれば、最後にはその命すらも失って、どん底に突き落とされて終わるのが関の山だ。

もともとその命は有限で、どんなに工夫しても永遠に永らえさせることなどできはしない腐敗したアダムの命なのだから。その命にしがみつく者が呪われたり、罰せられたとしても仕方がない結末である。

何がハピネスだ。もしこんな薄っぺらい幸福が、幸福だというなら、筆者はそういう幸福は要らない。

人間の幸福は、ただ喜びや快感だけでなく、悲しみや悩みや痛み苦しみと相合わさって絶妙に美しい織物のようになっている。私たちは、主の御手から恵みだけを受けとるのではなく、艱難をも甘んじて受け取るべきである。

そして、神が私たちを悩み苦しみを通しても、練り清めて下さり、私たちの思いのすべて知って下さり、必ず、問題には解決を与え、ふさわしい時にそれを取り除け、苦しみをも、栄光に変えて下さることを信じて、外からの助けにすがらず、ただ内におられるキリストの命の力だけによって、すべての危機を乗り越えて行く方法を学ぶべきなのである。

それなのに、一体、どうして、キリストの十字架における永遠の救いと、神の霊感を受けて書かれた書物である聖書66巻を、たかが電位治療器ごときと引き換えにできようか。

去って行った知人の後ろ姿を見つつも、筆者は、やはり、このような商売は、憎むべきものであって、何があっても関わりたくないし、こんなもののために貴い救いを失うなど、あまりにも愚かすぎる結末だと思うことしきりであった。
 

憎むべし、電位治療器。憎むべし、悪徳商法。」から抜粋

「ネット上で、私はこんなに効果がありました!と鼻息を荒くしている人がいます。
こういう人たちには、きっと悪意はないのでしょう。
自分が良くなったのだから、純粋な好意から、他人にもすすめたい、と。
しかしその好意は、周囲にとっては迷惑で、無責任なものでしかありません。
効いた原因もろくに説明出来ず、厚生省の認可も受けていない。
そんなものを、”たまたま自分に効果があった”からといって、他人に勧めるというのは、
極めて無責任で、能天気で、浅はかで、滑稽で、馬鹿で、救いようがない。
ある意味では幸せとも言えますが。
こういう図式は、カルト宗教にも良く似ています。

高齢者を集め「がんが治る」などと宣伝していた電位治療器の販売業者」(国民生活センター)から抜粋

「本件業者は、体験会場へ大勢の高齢者を集めて、「血圧を正常値に戻す」「がんが治る」などの効能・効果をうたい電位治療器を販売していた。会場でビデオを見、病気が回復したという人の話や業者のもっともらしい説明を聞き、病気を抱える高齢者は効果を信用し契約した。

当該治療器は医療機器承認番号を取得していたが、効果として表示できるのは「頭痛・肩こり・不眠・便秘」のみであった。

消費者契約法や薬事法に抵触する販売方法と思われることから、当センターは、信販会社に、加盟店の指導を十分行うよう申し入れた。

 また、本件のようなケースでは、仮に、業者が消費生活センターの相談員や相談者を訴えたとしても、逆に、業者に対して不法行為による損害賠償請求の訴えを提起することが可能であろう。


ダマされないぞ!インチキ商法! (悪質商法データベース)」から引用

分類

薬事法における管理医療機器(クラスII)に分類される。認証基準に適合する製品に関しては頭痛、肩こり、慢性便秘、不眠症の緩解が効能効果として認められる。

注意点

上記のとおり、頭痛、肩こり、慢性便秘、不眠症の緩解については薬事法により効能効果が認められているが、その他の効果については法的に認められているわけではない。パワーヘルスの例に見られるように、これ以外の効果(たとえば、糖尿病・高血圧・ガンの治癒など)を公的に求められた効果として謳って販売した場合、違法行為とみなされる。

 

2018年4月 4日 (水)

「生み生まれる天然の関係」に、十字架の霊的死が適用されなければ、人は神の宮として生きることはできない

前回では、三島由紀夫の『金閣寺』には隠れた霊的プロットがあることを見て来た。すなわち、金閣寺とは、深い文脈では、神の宮として作られた人間自身のことを指しており、人間が本来あるべき状態を取り戻したときの理想的な姿を象徴的に表していることを見て来た。

この物語の主人公は、吃音という(より深い文脈では人類の罪を象徴する)問題を抱えているため、恥や不完全さとコンプレックスの意識に絶えず苛まれており、自分が理想状態から遠くかけ離れており、それに「値しない」という意識を持っている。

そこで、主人公は自分を惨めで恥ずべき存在と考えているが、金閣寺に憧れるとき、彼は無意識のうちに、自分が本来的に、神の宮として創造されたことに思いを馳せ、その機能を完全に取り戻したいと思い焦がれているのである。

従って、主人公が金閣寺との一体化を目指すことは、決して自分の外にある、自分とは全く別の何かを得ることによって、高みに至り着きたいと考えているわけではなく、むしろ、彼は人類の願望を代弁して、「この堕落した状態から抜け出て、神の宮としての機能を取り戻し、あるべき完全さや尊厳に立ち戻るためには、どうすれば良いか」と考え続け、自分自身の理想を追い求めているのである。

つまり、この主人公にとって、金閣寺とは、被造物が罪を取り除かれて、あるべき姿を取り戻したときの美や完成の象徴であり、彼は自分自身がそのようになりたいからこそ、金閣寺に尽きせぬ憧憬と思慕を抱くのである。

それにも関わらず、主人公が金閣寺に到達できないことを知って、自らの理想である金閣寺を否定し、破壊することは、人類が目指していた本来的な目的を諦め、これを否定すると同時に、それに到達するために創造された自分身を破壊することを意味する。

それゆえ、「金閣殺し」は「自分殺し」に結びつくのである。

主人公が追い求めていたものは「永遠の女性美」でありながら、それは彼と全く関係のないものではなく、神の宮として創造された自分自身のことだからである。

だが、なぜこの主人公にとって、金閣寺はそれほどまでに手の届かない、到達不可能な目的だったのか。なぜ彼はこの神聖な神の宮を目指しても、それに拒まれているという意識しか持てなかったのか。

それは、この主人公には、罪を贖う「十字架」が欠けていたからである。

聖書によれば、人が神の宮となることができるのは、キリストの御霊が、信仰によって、信者の内に住み、信者がその霊に従い、この霊を尊び、崇めて生きる時だけである。

そうなるためには、人はアダムの命に対する死をくぐらなければならない。

生まれながらの被造物には、どんなことをしても、神の霊と交わる道はなく、それゆえ、神の宮としての機能を発揮することもできない。

その事実を知らず、受け入れられない人々は、生まれたままの命のままで、何とかして最高の美に到達しようともがき、それに値する存在となるために、自分の堕落した命を改造しようと必死に努力し、苦しむ。

そして、目に見える人間の誰かの中に、自分の模範となるべき像を探し求め、その人物を「神」として崇め、忠誠を誓うことで、自分自身も神に連なろうと試みたりするが、その試みが成功することは決してない。

彼らがどんなに被造物を神として拝み、これに近づこうとしても、結果として判明するのは、「自分は神から疎外されている」という事実だけであり、彼らは自分が神として拝んでいるものとさえ、決して一体化することができない。

さて、聖書の創世記が述べている「それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。 」(創世記2:24)という御言葉には、霊的な文脈があり、それはキリストと花嫁たるエクレシアの合一を指している。

その霊的合一は人自身の中で起こるのであり、そのようにして人が神の霊を入れる神の宮となり、人の内側で神の霊と人の霊が一つとなった状態こそ、人間のあるべき完全な姿であるのだと言える。

人自身が神の幕屋となり、そこに神の霊が入り、神の霊の光によってその宮全体が照らされ、神ご自身だけでなく、宮も神聖とされるのである。

『金閣寺』の主人公は、そのようなことがありうるとは知らないまま、無意識に「永遠の女性美」を追い求める。彼はその理想の中に、神の霊を祀る宮としての機能を取り戻した時の人類の姿を見ようとしているのだとは自分では知らない。

そして、もちろん、彼の目指している「永遠の女性美」も、本当は金閣寺の中にはなく、キリストの花嫁たるエクレシア(教会)の中にしか存在していないことを知らない。

この主人公がそこに至り着くただ一つの方法は、人類を罪から贖うキリストの十字架を経て、自分自身に対して霊的に死ぬことだけである。

その唯一の解決を退けた結果が、霊的死ではなく、物理的な死を通して、この理想と一体化するという悲劇の結末を生むのである。

仏教の世界観においても、グノーシス主義と同様、世界の根源は、虚無の深淵のごとき存在としての「無」であるとされる。従って、仏教哲学の概念に照らし合わせても、主人公が至高の存在として追い求め、憧れている金閣寺には、真のリアリティはないということが分かる。

金閣寺は、結局、エクレシアの模造品としてのバビロンを意味するのであって、被造物が決して十字架の死を通ることなしに、美の極致、完成に至れるという偽りの思想なのであり、それは偽りの幻想でしかなく、その本質は「無」なのである。

しかしながら、人がキリストの十字架を通して贖われ、神の神殿となり、神が人の内側に住まれ、人と共にある状態は、決して人にとって達成不可能なおとぎ話のような理想ではない。

それは人類にとっての悲願であるだけでなく、神にとっての悲願でもあることが、聖書の記述から分かる。

「見よ。神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも苦労もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示21:3-4)

このように、神の霊が人の内側に入り、人が宮としての機能を取り戻すとき、初めて人は永遠の存在となり、自己の完全性を得ることができる。もちろん、最終的な贖いの完成のためには、復活の時を待たねばならず、地上ではその予表を見ているとはいえ、それでも、相当な程度、その完全性にあずかることはできるのである。

だが、聖書が、そのようにして、人が神の霊を受けるための条件として、要求していることは、「人はその父と母を離れて」という事実である。

これは何を指しているのか。より深い意味では、人が罪を悔い改めてバプテスマを受け、キリストと共なる十字架を通して、この世に対して死に、自分自身に対して死に、生まれながらのアダムの命とそれに関わるすべてのものに対して死んで、神に対して生きる者となることを意味する。

そのことが、創世記においても、すでに予表されていたのだと言える。つまり、人が生まれながらの「父と母」との関係を離れ、「生み生まれるという自然の関係」に対して死なない限り、神との出会いも結合もあり得ないことを、創世記の御言葉は予表しているのである。

教会を表す原語エクレシアとは、「この世から召し出される」という意味で、この世から召し出されておらず、天然の関係に死を経ていない者は、神の民とはならず、神の宮ともならない。

詩編の次の言葉も、同じことを意味する。

「娘よ、聞け。
耳を傾けて聞き、そしてよく見よ。
あなたの民とあなたの父の家を忘れよ。
王はあなたの美しさを慕う。
王はあなたの主。彼の前にひれ伏すがよい。
ティルスの娘よ。民の豪族は贈り物を携え
あなたが顔を向けるのを待っている。」(詩編45:11-12)

これもまた人が生まれながらの出自から召し出されて神の民とされ、キリストの花嫁たるエクレシアに加えられる十字架の死と復活のプロセスを表しているのである。

ヨハネの福音書には、主イエスとファリサイ派のニコデモの次のようなやり取りがある。

「イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。
ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょう。」

イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。」(ヨハネ3:3-7)

主イエスの言われた「新たに生まれる」ことは、人がバプテスマを受け、信仰によって、生まれながらの命に死に、キリストの命によって新たに活かされることを意味する。それがなければ、人は神の国に入ることはできない。生まれながらの命に生きる姿のままでは、誰一人、神の霊をいただいて宮となることは不可能なのである。

次の言葉も同じように、生まれながらの関係に対する霊的死の必要性を述べている。

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。
人をその父に、
娘を母に、
嫁をしゅうとめに。
こうして、自分の家族の者が敵となる。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイ10:34-39)

聖書は、父と母を敬えと教えており、両親を憎むべきとは教えていない。しかしながら、イエスは、人が神を愛する以上に、自分の生まれながらの出自や家庭を大事にして生きることは無理であると教える。

神に従う過程で、信者らは必ず、父や母への天然の愛情、娘や息子への天然の愛情という、「生み生まれる自然の関係」に基づく魂の情愛を死に渡さなければならない時が来ることを示されたのである。

従って、聖書の教えは、国家神道が教えるような「生み生まれるといふ自然の関係を本とし」て、人が神の国に到達できるというものではない。それは絶対的に不可能である。

それで人はその父と母を離れて」とあるのは、真に人がキリストに結ばれるためには、必ずキリストと共なる十字架を通して、自分自身の生まれながらの命や、天然の自己、この世、肉にあるすべての関係に対して死を通らねばならないことを示しているのである。

そういう意味で、「父と母を離れ」るという言葉の意味は非常に深いと言える。それは人が生まれたままの姿では、決して神の国に入ることができないことを示している。

しかし、すでに述べて来たように、今日、実にキリスト教界においては、この原則が破られて、さかさまの教えが説かれているのが現状である。

たとえば、多くの他の教会では、一人の信者の一家全員が救われて教会に所属し、「クリスチャンホーム」が形成されることこそが、信者の目指すべき到達目標であるかのように教えられる。

この世の習慣を通して「父の日」や「母の日」といったイベントが祝われるだけでなく、さらには、信者の家族であれば、救われていなくとも、教会の一員であるかのように教会で葬儀が行われたりするのが現状である。

肉による親子関係が、十字架の死を経ることもなしに、公然と神の家族であるかのように教会に持ち込まれているのである。

しかし、我々は、聖書を通して、神の家族と、肉による家族との間には、何の関係もないという事実を見る。

主イエスは、公生涯を始められてから、肉による親子関係を全く神の家族の中に持ち込むことは全くなさらず、生みの親子であるからと言って、ご自分の肉親を、信仰によって結ばれた神の家族以上に重んじることは全くなさらなかった。それは次の御言葉から明らかである。

「イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう。あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」(ルカ11:27-28)

「イエスが群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人がわたしの兄弟、姉妹、また母である。」」(マタイ12:46-50)

また、イエスは十字架にかかられた時、自分を生んだ母を目の前に見て、次のように言われた。

「イエスは母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」(ヨハネ19:26-27)

このように、イエスはご自分の肉親を、信仰を持つ他の人々の前で、特別扱いすることはなさらなかったが、ついに十字架の下で、肉による親子の絆は本当に断ち切られ、それに代わって、信仰による神の家族が成立したのである。

使徒行伝では、イエスの母マリアとイエスの兄弟たちが、何一つ特別な待遇を受けることなく、他の信徒の兄弟姉妹と同じように、共に集まり、祈っている姿が描かれている(使徒1:14)

このように、主イエスは徹底して肉にある絆を退けられ、信仰によって結ばれた神の家族としての絆を重んじられた。にも関わらず、今日のほとんどの教会ではそれが完全にさかさまになってしまっているのである。

今日の教会では、ペンテコステ・カリスマ運動のように、あからさまに「キリスト教には父性的要素ばかりが強すぎて、母性的要素が足りない」と、ケチをつけることはないかも知れないが、それでも、「キリスト教はこれまで社会的強者ばかりを伝道対象とし、社会的弱者を容赦なく見捨てる冷たい宗教であった。キリスト教はこのような残酷な欠点を克服しなければならない」と言って、信仰によらない弱者救済活動に非常に熱心となる風潮は至る所に見られる。

ホームレス伝道やその他の慈善事業といった、本来、この世のNPOや市民団体が行うべき社会事業にまで、教会が積極的に乗り出し、弱者救済活動を売り物にして注目を集め、あるいは、カウンセリングなどと称して、精神的な弱さを抱える人々を積極的に招き寄せては、支援を表明する。

しかし、こうした弱者救済活動は、人の弱さを美化し、甘やかすことはしても、弱者を決して弱さから解放することはない。それどころか、人の弱みをきっかけとして、弱者をさらなる搾取と支配の中に巻き込んで行くだけである。

人の弱さ、愚かさ、恐れ、恥の意識、罪意識は、本来的には、罪から来るものであり、主と共なる十字架の死に渡されるべきものである。

教会が、そうした人の弱さを、あたかも大いに同情を受けるべき、哀れまれるべきものであって、まるで貴い神聖な要素であるかのように扱うことは根本的に間違っている。

だが、そのようにして、アダムの命に属するものは何であれ、すべて十字架で霊的に死に渡されねばならないという聖書の真理を無視して、教会が各種の弱者救済活動に熱心になり、弱者を美化した結果、今日の多くの教会には、元ヤクザ、元ホームレス、元カルト信者、障害者、病者などの社会的弱者が溢れ、特別な事情を抱える、精神的な弱さを持つ人たちが溢れ、これらの人々が、まるで自己の弱さを聖なる要素であるかのように考えて誇るという転倒した現象が起きているのである。

教会が「病院」や「駆け込み寺」のようになってしまった挙句、病院ならば、きちんと治療を施して退院させてくれるからまだ良く、「駆け込み寺」は一時的な退避の場でしかないが、いつまでも「愛」や「憐れみ」を口実に、人の弱さを甘やかし、助長するばかりで、何の治療も施さず(もちろん、病院でないのだから、教会が人の弱さの治療などできるはずもない。カウンセリングにしても同じことである)、人の弱さに終わりなき同情の涙を注ぎ、これを壊れやすい宝石のように扱うばかりで、かえってより一層、人がその弱さを手放して力強く立ち上がることが永久にできなくなるように仕向けているのである。

このようにして、今日のほとんどの教会は、旧創造に属するものを死に渡すどころか、これらを惜しみ、いたわり、哀れみ、尊びながら、本来ならば十字架で死に渡されるべき数々の肉にある関係、罪から来る弱さ、この世とのつながりを、あたかも信仰生活の欠かせない一部であるかのように説き、公然と受け入れている。

そういうことの結果、今日、教会と名のつくほとんどすべての教会において、信仰生活は、父なる神を中心とするものでなく、被造物を中心とする、被造物を喜ばせるための教えに代わってしまった。

福音とは、人間の指導者が、信徒の弱みにつけこみながら、信徒を搾取して生計を成り立たせるための手段でしかなくなり、人間の宗教指導者に栄光を帰する手段となり、信仰は、被造物を喜ばせるこの世的な祝福や恵みを引き出す手段とみなされ、信仰生活の目的は、自分たちだけが、どれだけ多くの恵みを獲得して、他の信徒の及ばない特権階級としてハッピーな生活を送れるかにあるとさえ考えられるようになったのである。

聖書の御言葉が骨抜きにされ、キリスト教が、父なる神ではなく、被造物を喜ばせる教えへと変えられているのである。

これはもうキリスト教ではない。それは明らかに被造物崇拝という、キリスト教とは異なるグノーシス主義的な偶像崇拝の教えである。

そこで、人がこのような偽りの只中に身を置き、目に見える人間を拝み、自分の欲望を満たすために、神を求め、信仰を手段として利用しているうちは、その信者の内に本当に神が住んで下さり、ご自分を現して下さることは決してない。

彼らが哀れみ、救済しようとしている対象は、神が十字架において、廃棄することを決定された古き人間であり、彼らが拝んでいるものは、キリストの十字架の死を経ていない、旧創造としての目に見える人間なのである。

このような教えは、根本から十字架に逆らう偽りであるから、これと分離・訣別しないことには、結局、そういう教えを信じている人々は、最終的には、金閣寺の主人公と同じような結末を辿るしかなくなる。

神殿とは、神を祀るための場所であり、俗世とは完全に区別された聖なる領域であって、ただ神のためだけにもうけられた特別な場所である。

ところが、クリスチャンを名乗っている信者らが、誰を神としているのかも分からない生活を送り、己が欲望を満たすためだけに信仰生活を送り、目に見える宗教指導者を誉め讃えていれば、一体、そんな人々を、誰が神殿と認められようか。

「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとべリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。

神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。

「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。
 そして、彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せになる。

「そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。』
 全能の主は仰せられる。」(Ⅱコリント6:14-18)

「あの者ども」は、被造物を神として拝んでいるすべての人々のことを指す。それはキリスト教の神を知らないがゆえに、この世の様々な誤った思想のとりことなって生きている世人のことではなく、まさにキリスト教を知っていながら、神の御言葉を曲げて、それを被造物中心、人間中心の教えへと歪め、虚偽の福音を宣べ伝えている偽善者たちのことを指すのである。

残念ながら、今日、数々のキリスト教会で教えられているのは、このように転倒した教えであり、クリスチャンを名乗っている人々の大半は、そうした偽りの教えを信じる人々である。

これを行き過ぎた悲観であるとは思わないでもらいたい。なぜなら、聖書ははっきりと以下のように予告しているからだ。

だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。」(Ⅱテモテ4:3-4)

「だれも健全な教えを聞こうとしない」時代がすでに来ているのである。

もはや9割以上の”クリスチャン”を名乗る人々が、グノーシス主義に汚染された被造物中心の教えを拝し、神を信じると言いながら、自分自身の欲望を拝んでいると言って過言ではない。

そのような人々は、自分に都合の良い話を述べてくれる教師たちをてんでんばらばらに担ぎ上げては、その指導者を偶像として足元に群がっているが、聖書は、クリスチャンがキリストに従う上で、いかなる目に見える「教師たち」からも教えを受ける必要はないと述べている。

「以上、あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました。しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。」(Ⅰヨハネ2:26-27)

御言葉がこのように、御霊に聞くよう教えているのに、目に見える人間から教えを受けることが必要不可欠であるかのように説く教えは、まさに聖書をさかさまにした偽りであり、その根本には、被造物を神として崇めるグノーシス主義があればこそ、そういう結果が出るのである。

今日、キリスト教界を名乗っているところでは、例外なく、御言葉を取り継ぐ教師を名乗る「牧師」が存在するのも、同じ理由からである。

牧師制度とはグノーシス主義的なヒエラルキーを教会に持ち込んだものであり、宗教指導者を神として目に見える人間い栄光を帰し、信徒への搾取を肯定する霊的階級制度なのである。

そのような制度を敷く教会では、信徒は目に見える人間である牧師を介することなく、信仰生活を送ることはできず、このようなシステムの中にいる限り、信徒がキリストの御霊から直接真理を教わって生きることは無理である。

だからこそ、そのような忌むべき場所からは、エクソダスせねばならないのである。

こうした教会にいる信者たちは、どんなに熱心に教えを乞うているつもりであっても、被造物を神として拝むことによっては、決して誰も神の国に入ることはできない。そこで、彼らは、自分たちは神を信じていると言いながら、ますます神から遠く「疎外」され、不自然で異様な生き方に転落していく。

そして、自分たちの罪を覆い隠すために、神に忠実に生きている兄弟姉妹や、本物のエクレシアである神の教会を攻撃したり、最後まで、自分が誤っているという事実から逃避し続けるために、自決のような形で自ら世を去るか、もしくは集団自殺を遂げるか、あるいは病や、精神的弱さや、罪や、それまでさんざん彼らが「哀れまれるべき弱さ」であるとして振りかざし、美化し、誇り、甘やかして来た自分のわがままのツケを支払わされて、罪に問われたり、刑罰を科されたり、病に飲み込まれたりしながら、自滅の道を辿るしかないのである。

キリスト教とは、十字架の死をキリストだけに押しつけて、人間だけはこれを元手に恵みに満ちたハッピーな生活を送れば良いというお手軽な教えではない。むろん、それは人間が苦行にいそしむことで「自らの十字架を負う」という教えでもないが、主と共なる十字架における霊的な死を受け入れた人々だけが、神の定めた滅びの刑罰を免れることができるわけであるから、アダムの命を愛し、天然の自己を愛し、己が欲望を神とする人々が、キリストだけにすべての苦しみと恥を押しつけたつもりいなって、自分は十字架における霊的死を免れられたかのように錯覚できるのは、ほんの一瞬でしかない。十字架を逃れたと思っていると、彼らにはその代わりに、現実の滅びが襲いかかるだけなのである。

もう一度書いておこう。イエスは言われた。

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。

また、パウロも言った。

「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。

何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、
キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです、彼らの行き着くところは滅びです。彼らは 腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。

キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に造り変えてくださるのです。」(フィリピ3:17-21)

2017年2月15日 (水)

地上にあるものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(Ⅰペテロ1:8-9)

今ほど、この御言葉がしっくり感じられる瞬間はないような気がする。

少し前の記事で、筆者は「キリスト者の新しい時代の幕開け」と書いたが、この度、大きなエクソダスがまた一つ達成された。今や聖徒らが、差別と搾取に基づく牧師制度を肯定するプロテスタントと訣別し、キリスト以外にどんなリーダーもいない、信徒一人一人が直接、キリストにつながり、御霊を通して神ご自身から御言葉を教わり、信徒がみな対等な兄弟姉妹としてエクレシアに連なる万民祭司の理念がまさに実現しようとしているのである。

2009年、既存の教会組織に疑問を持ち、真実な信仰を求めて、神だけに従うために出発する多くのキリスト者が出現していた頃、彼らが一様に見ていたのは、まさにこのような展望であった。

つまり、しみもしわもないキリストの花嫁にふさわしいまことの教会の姿を、みな一心に追い求めていたのである。

2000年以上前に、主イエスが地上に来られ、十字架の死と復活を経験され、信じる者に御霊を与えて下さった時に、万民祭司の時代はすでに始まっていた。だが、それにも関わらず、地上に広がったキリスト教界の宗教組織は、常に人間的な思惑に基づき、この世との妥協を重ね、後退を繰り返して来た。

その結果、聖書の御言葉を通して、信じる者に与えられたとてつもない特権、キリストのものとされ、神の子供とされた信者たちが持つ絶大な特権が、常に骨抜きにされ、値引きされ、曖昧にされ、過小評価され、ごまかされ、水で薄められ、掠め取られ、否定され、悪魔に奪い取られて来たのである。地上のキリスト教組織は、いつの時代も、始まるや否や、もう聖書の御言葉から逸れ、御霊の息吹のない、聖書におけるエクレシアとは似ても似つかない、死んだ組織と変わり果てていた。だが、地上の宗教組織が、世と妥協を重ねる一方、そこから出て、聖書に立ち戻ろうとする新たな信仰復興運動も、常に生まれて来たのである。

プロテスタントも、当初は信仰復興運動として始まった。この運動はその名の通り、何よりもカトリックの堕落や腐敗に対する抗議運動として登場し、既存の宗教組織に対する強い疑念のもとに、聖書に立ち返ることを目指して始まった。プロテスタントは、聖書の各国語への翻訳などの事実にも見られるように、それまでカトリックでは聖職者だけが独占していた聖書の真理についての知識を、一般大衆に解放すべく努力し、世界の隅々まで伝道を繰り広げることにより、無学で貧しい人々を含めた世界中のあらゆる人々に福音を宣べ伝えることをその使命とした。プロテスタントは、その興隆の時期が資本主義の発展に重なることにも見るように、大衆向けの大規模伝道を繰り広げ、それによって来たるべきマスメディアの発展の基礎をも築いた。

プロテスタントの中には、義憤に基づく革命的な体制転換の試みと、すでに述べたように、労働に基づく人間の自己変革の試みや、さらに、大規模に大衆に訴えかけるマーケティングの手法などといった、資本主義のみならず、その後の社会主義思想の土台ともなる発想や、現代社会における様々な大衆向けの運動の土台となる発想が山のように込められていたと言えるかも知れない。

しかしながら、そのプロテスタントも時と共に腐敗し、もともとこの運動が持っていた地上的な要素の問題が明らかになった。既存の宗教組織に対する強い抗議の精神は、カトリックなどの別宗派に向けられるだけでなく、プロテスタント内の信者たちにも向けられて、教義や解釈の違いからくる様々な相克や分裂を引き起こした。その結果、プロテスタントの中には、それぞれ異なる教義を提唱する数えきれないほどの教団教派が生まれ、さらにそれらの組織が互いに反目し合って、時には同士討ち的な争いを繰り広げ、教会同士のいがみあい、対立が常態化した。また、マスメディアを用いた一般大衆向けの大規模伝道も腐敗して行き、ペンテコステ運動の指導者のようないかがわしいにわか伝道者たちが、一獲千金のために大衆を欺いて繰り広げる偽りのミニストリーにも、存分に活躍の機会を提供することになった。

プロテスタントは、カトリックが隆盛を極めた時代に、聖職者たちだけによって独占されていた聖書の真理を一般大衆向けに解放するという点では、確かに巨大な役割を果たしたが、その解放は、不完全なものであった。プロテスタントは、カトリックのように統一された強固な聖職者のヒエラルキーを持たなかったものの、牧師制度を肯定していたことにより、神と信者との間に、キリスト以外の目に見える人間を仲介者として置き、信者が直接、神から御言葉を教わるのではなく、牧師という目に見える人間の理解や解釈のフィルターを通して、聖書の真理に接触するようにし向けたのである。

プロテスタントの信者は、特定の牧師の牧会する教会に身を置いている限り、どんなに自分自身で聖書に触れて理解しようとしても、結局、牧師の限られた理解の範疇から出ることを許されず、常に牧師という親鳥が咀嚼してかみ砕いた乳のような餌を、口づてに与えられる幼鳥の立場を抜け出せなかった。信者は教会の中で、もしも聖書について、牧師の理解と異なる主張をすれば、即、異端者として教会を追放されるしかなかった。このような牧師制度が生み出した制約は、信者一人一人の信仰の自主的な成長を妨げ、信者がキリストの身丈にまで達することを著しく妨げる要因となった。

結局、プロテスタントにおいては、聖書の真理が、カトリックの聖職者の独占状態からは解放されたものの、今度は、牧師によって独占され、信徒一人一人が、直接、キリストに結びつき、御霊によって直接、御言葉を教わりながら、キリストにある成人にまで成長するという、聖書によればごく当たり前の真理が、制度的に妨げられたのである。こうして、万民祭司の理念は、謳い文句にとどまり、実現しなかった。

プロテスタントの持つこのような制度的な欠陥のゆえに、やがてプロテスタントという宗派そのものが、聖書の真理を持ち運ぶ宮というより、聖職者階級を支えるための母体と化してしまった。それと共に、プロテスタントの大規模伝道の形態も堕落して行き、それは聖書の真理を忠実に大衆に伝えるものよりも、信者を欺いてこの母体の中に閉じ込める手段と化した。

大衆への大規模伝道を繰り広げることにより、プロテスタントが、全世界の隅々にまで福音を宣べ伝えるという使命を果たした時、この宗派は、それと同時に役目を終えたのだと言えるかも知れない。今やインターネットも普及し、ごく限られた僻地や少数民族を除いて、世界のどの場所でも、非キリスト教国であっても、聖書の福音に触れることは難しくない。

こうして、全世界に福音が届けられた時、クリスチャンの信仰生活には、それまでとは異なる時代がやって来たのである。それは、今までのように、対象を選ばずに無差別的に誰にでも福音が語られる時代から、福音を聞いた者が、聞いた御言葉に従うかどうかによって、一人一人の内面が試されるという時代である。

既存のキリスト教界の組織から脱出する者たちが現れていた当時、一時、「御言葉の飢饉」という言葉がよく聞かれた。それは、フェイクと化した大衆向けの伝道ばかりが巷に溢れる中で、真実、神に従いたいと願う純粋な信者たちが、心から御言葉を宣べ伝える声がほとんど聞かれなくなったという嘆きでもある。

万人に無差別的に福音を宣べ伝える大衆向けの伝道は、全世界に福音が宣べ伝えられた時点で、使命を終えたのだと言えるのではないかと思う。大衆伝道は、福音を知らない地域にいる福音を知らない者たちを対象にしてこそ意味があるのであって、福音を何度、聞いても、真理に聞き従う気のない者たちを対象にするのでは意味がない。また、信者たちが「堅い食物」を自分で採るようになって、聖職者階級を必要としなくなることがないよう、いつまでも信者を霊的幼児にとどめおくために、この世的な舞台演出のちりばめられた各種のいかがわしい大衆向けのミニストリーに引きつけておくのでは意味がない。

こうして、すでに使命を終えたにも関わらず、依然として、続行される無差別的な大衆伝道という手法は、ただ時代遅れであるだけでなく、有害な結果を招くようになった。教会は本来、聖書の神の救いを個人的に信じて受け入れ、贖われた者のためにあるはずにも関わらず、大衆伝道の旗を掲げているうちに、いつの間にか、不信者にも門戸を開き、教会の奉仕の対象が、神から大衆へとすり替わって行ったのである。

大衆伝道の旗を降ろさないために、教会は、御言葉に従順でなく、教会にも福音にも理解を示さない、この世の不信者ら(しばしばカルト宗教の信者)にさえ、自ら歩み寄って、贖われない大衆の利益に積極的に仕えることで、彼らの心を引こうとした。そうした妥協の結果、教会には不信者も数多く入り込み、贖われた者とそうでない者との区別は消え、教会はこの世の人々に対するマーケティングのために、ますますこの世的な手段を公然と駆使するようになり、聖書から遠ざかり、ただ大衆を喜ばせるための単なる奉仕活動の場へと転落して行った。

こうして、プロテスタントの多くの教会からは、世に厳しく罪を指摘して悔い改めを迫るメッセージや、心飢え渇いた信者たちに真にキリストの御言葉の衝撃力を伝えるメッセージが消え、教会は、すべてのものの上に立つかしらであり、一切の権威をこえる権威であるキリストの権威と支配を自ら捨てて、堕落したこの世の支配に屈し、その結果、世の支配下で踏みしだかれて、塩気を失ってしまったのである。

このように聖書から離れて世の方を向き、キリストの香りを失ったプロテスタントの多くの教会に代わって、今や、聖書の真理を担う、新たな信仰復興運動が必要とされているわけだが、その形態は、どのようなものになるのか、少し考えてみたい。

当ブログでは幾度となく繰り返し引用して来たオースチン-スパークスの「私たちのいのちなるキリスト」の一部をもう一度引用したい。

時代が終末――キリストの現れ――に向かって進むにつれて、二つの特徴がますます明らかになるでしょう。

一方において、事物、人、運動、制度、組織などが優勢になり、大衆を引きつけ、群衆をとらえるでしょう。
他方、そうしたものへの失望と幻滅が増大し、少数の人々が主ご自身に立ち返り、彼だけが自分のいのちであることを見いだすでしょう。


こうしたことには三つの要素があるでしょう。

第一は、反キリストの原則の明確なる発展であり、それはキリストに取って代わるか、取って代わろうとするでしょう。

第二は、人造のキリスト教内のキリストご自身の代替物であり、自らの勢いで生成発展する偽りのいのちです

第三は、真実、真理、主ご自身を知る内なる知識を求める、深い純粋な探求です。

第一の場合、人間の力が崇拝され、ヒューマニズムが大いに氾濫し、人の驚異と栄光がたたえられるでしょう。第三の場合は、いのちであるキリストがすべてでしょう。

教え、伝統、制度、運動、人などの何物かにクリスチャンが帰属するなら、必ずいのちが制限される結果になるでしょう。そして、やがて混乱と幻滅が生じ、おそらくもっと悪いことになるでしょう。新約聖書がまごうことなく明らかにし、強調しているように、万物の運命は「キリストがすべてのすべて」となることです。

この短い引用文の中に、奇跡や、お涙頂戴の信仰の証や、名だたる宗教指導者や、ヒューマニズムに支えられる各種の救済事業などを売り物にして、大衆の心を引きつけ、牧師制度を通して、人間に栄光を帰するプロテスタントの大衆伝道のあり方が、今日の終末の時代においては、むしろ、反キリストの支配の手段とされつつある現状を見ることができる。

神に仕えることを第一とせず、聖職者階級と、この世の一般大衆(人間)に奉仕することを何より重んじ、この世の社会を発展させることを目的に、各種の支援活動を繰り広げるプロテスタントは、もはやそれ自体が「人造のキリスト教」と化して、キリストの命を失っているのであり、それ自体がフェイクと言って差し支えない体系になっているのである。そこで一般大衆に提供される「支援」は、神の救いからはほど遠い、地上的・物質的な利益に過ぎず、そこで信者たちが行う熱心な奉仕や学びも、「自らの勢いで生成発展する偽りのいのち」であって、「キリストのまことの命の代替物」でしかない。どんなに信者が奉仕と学びを重ね、鍛錬を積んでも、キリストの真の命とは全く無関係のまま、堕落した「セルフ」は十字架の死を経ることはなく、ますます神に逆らう堕落した人間の自己と欲望が高められ、人類に栄光が帰されて終わるだけであって、そこに神の栄光につながるものは何も存在しない。

このように神への反逆の殿堂と化した「人造のキリスト教」の中から、大衆を苦難から救う救世主を騙る反キリストが登場して来るまで、もうあとほんのわずかな期間を残すばかりである。

これ以上、「人造のキリスト教」についての描写を続けることは無用であろう。それよりも、今回の記事では、「そうしたものへの失望と幻滅が増大し、少数の人々が主ご自身に立ち返り、彼だけが自分のいのちであることを見いだ」し、「真実、真理、主ご自身を知る内なる知識を求める、深い純粋な探求」が生まれるという、後半部分に主眼を置いており、ここにこそ、限りない希望を見いだしている。腐敗した偽りの体系からはエクソダスして、真実、神ご自身を求める信仰者の群れが出現するのである。

信者の人生には、決定的に重要な霊的「エクソダス」の瞬間が幾度かある。それは信者が偽りと知らずに接触して来たこの世の体系からの分離の瞬間である。その「エクソダス」の中には、偽りの宗教体系からの脱出も含まれる。

信者は、キリストと共なる十字架の死を通して、この世に対して死ぬことを知った後も、世と深くつながっている堕落した偽りの体系に知らずに接触することがあり、そのような場合には、真にキリストだけに従いたいなら、偽りと気づいた瞬間に、そこから自らを分離せねばならない。この分離は、信者が神に逆らう全ての思想から自分自身を分離することを意味し、必ずしも物理的・地理的な脱出を伴うものではない。

筆者のこれまでの経験からも言えるのは、信者の「エクソダス」の瞬間には、嵐のような多くの激変や圧迫が観察されることである。偽りの体系は自らの奴隷を一人でも逃がすまいと追っ手を遣わし、信者の人生には、しばしば、未だかつて起きなかったような圧迫がもたらされる。だが、モーセが民を率いてエジプトを脱出する際に、どれほどの苦労を払わねばならなかったかを考えれば、それは全く不思議な現象ではなく、さらに、それは信者が心を騒がせるに値する事件でもない。信者を引き戻そうとする全ての圧迫にも関わらず、御言葉の真実のゆえに、信者を「マトリックス」につないでいたへその緒は全て断ち切られ、ファラオの軍隊は水に沈み、エクソダスは完了するのである。

さて、2009年当時は、日本各地に、代償を伴う厳しいエクソダスの過程を経て、キリストに贖われた信者たちが、まるで若々しい新芽のように、あちらこちらに出現していた。その後、激しい暴風雨と、生い茂るいばらとあざみと、荒らし回る獰猛な野獣の中で、この新芽が消え去ったのか、それとも、やがて来るべき豊かな実りに備えて、地中深く根を下ろしながら、時を待っているのか、今はまだはっきりとは分からない。だが、いずれにしても、筆者は思うのである、もし信者が一度、神のために自分の生涯を残らず捧げる決意をしたならば、その召しは決して変わることはなく、たとえ自分の召しが分からなくなったように思える時でも、その約束は、神が覚えて下さり、その使命を果たすために必要な条件を神ご自身が整えて下さるだろうと。

「私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください」」(イザヤ6:8)

すでに書いたように、キリストのものとして贖われ、救いの確信があるからと言って、その信者には、常に神が分かるわけではない。神は遠くにおられるように感じられることもあれば、沈黙しておられることもある。黙示録を書いたヨハネも、パトモス島にあって、絶えず啓示を受け続けていたわけではない。偉大な霊的啓示が絶えずひっきりなしに信者の人生に注がれると思うなら、それは間違いであり、多くの沈黙の時、待ち望みの時、忍耐の時がある。啓示によって明白に示された真理さえ、自分の内に失われたかのように感じられる時がある。そして、信者が神を知ることができるのは、ただ霊の内だけであり、それはしばしばかすかな御声であり、信者の肉的な思いがこれをかき消してしまう。信者の人間的な感覚は神から絶えず離れており、神を知るのには役立たない。

だが、それにも関わらず、主に贖われた者が、神から引き離されることはなく、主を知る知識を切に求め続ける信者の純粋な探求と、神がどこにおられるのか分からないと言って、自己の外に神を探し求める人々の探求には決定的な違いがあると言えるのである。

それは、我々、聖徒らの心の内深くに、神に対する尽きることのない愛が、絶えず存在していることからも言える。見たこともない方をどうして信じ、愛し、崇めることができるのか、それは人には説明できない事柄である。我々は、肉眼で見るようにキリストの姿を見たり、耳でその声を聞いたり、この手で触れたりするわけではない。だが、それにも関わらず、キリストに思いを向ける時、この方が確かに生きておられ、我々の救い主であり、力強い助け主であり、世の終わりまで共にいて下さり、決して我々を見放されることはないということが、自然な水の流れのように、信仰告白として口をついて出て来るのである。

「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(Ⅰペテロ1:8-9)

我々は、主を見ていないが、心から愛しており、再び地上に来られる姿を見ていないが、戻って来られることを信じており、主を待ち望むという召しに、心から光栄と喜びを感じている。

私たちは、自分の外に神を求めて探し回る必要はない。キリストは、信仰を通して、信じる者の内側に住んで下さり、御霊を通して、ご自身を現して下さるからである。そして、この方が信じる者に提供して下さっている完全な義、完全な贖い、完全な聖は、信仰を通じて確かに私たちのものであり、そして、やがて来るべき世で、神が私たちのために備えて下さっているはかり知れない相続財産のことをも、私たちは知っている。それらのはかり知れない恵みと、絶大な特権のゆえに、ただおそれかしこみつつ、喜びを持って、私たちは主を褒めたたえることをせずにいられないのである。

この尽きせぬ喜びと、賛美と、神に栄光を帰することが、私たちが確かに贖われた者であることを教えてくれる。神は我々にとって真にリアリティなるお方であり、まるで雛鳥が親鳥を見分けて鳴き、狐が自分の巣に帰るように、私たちは、喜びに満ちた確信を持って、この方こそ我々の創造主であると告白し、自分がこの方に確かに結ばれており、キリストのものとされていることを大胆に告白することができる。私たちは、すでにすべてのことを知ったなどとは言わない。キリストを十分に知ったとも言わない。ただキリストを知る知識をますます深く追い求めてはいるが、それでも、「神はどこにおられるのか」と言って、自分の外に神を探し求めたりはしないのである。

パウロは言った、「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。

それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。

私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それをちりあくたと思っています。

それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」(ピリピ3:7-9)

信者にとっては、キリストを知る知識の絶大な価値のゆえに、キリストを知る以前に持っていた全てのものは無価値となってしまう。キリスト以外の一切のものが「損」になるだけでなく、「無」にすらなる。これは、信者がキリスト以外のいっさいのものを「無だと感じている」とか、「無とみなそうとしている」ことを意味するのではなく、実際に「無になる(=無効化される、影響力を全く持たなくなる)」ことを意味する。

パウロは贖われる前に、人間的な観点から見れば、他の誰にもまして、誇るべきものを持っていた。生まれも、育ちも申し分なく、優れた業績や、落ち度のない立派な行いを誇ることができた。しかし、そのような「キリストを知る以前の自分自身」は、キリストと共に十字架につけられた時、一切合切、無いものとして墓の向こうへ追いやられたのである。

エクソダスの瞬間を超えたことがある信者ならば、きっと分かるであろうが、このようなことは、人が自分自身の力で達成できることではない。キリストと共なる十字架の死が適用されるまで、信者はあくまでこの世の人間であり、自分の生まれや、育ちや、知識や、経験や、能力や、業績や、世間からの評価や、地上的なつながりといった、ありとあらゆるこの世的な要素を引きずって、それらにより頼み、それらを心に留めて、そうした地上的な要素こそ、自分自身を形成するのだと思って生きている。それは、あまりにも深く慣れ親しんだ世界なので、それ以外の世界があり得るとは想像もできず、また、そこから自分自身の意志で脱出・分離するなど、到底、無理な相談である。

だが、信者に御言葉への信仰に基づいてキリスト共なる十字架における死が適用されると、それが実際となって成就した瞬間から、信者は、そのような地上的な要素が、自分に対して死んでいることを理解するのである。自分自身で何かを捨てようと努力するのではなく、かつて自分を構成していたこの世の要素が全て水に沈み、すでに完全に手の届かないところに去って、自分の思いや感情に触れなくなるのが分かるのである。

だから、信者がこの世においてかつてはあれほど大事にしていた地位、名誉、評判、業績、信者がこの世の人として持っていた過去の記憶や、この世の人々からの意見や評価や賛同などが、どんなものであれ、完全に「墓の向こう」へ行ってしまい、気にすべき事柄でなくなり、それがたとえ自分に関することであっても、信者の関心の対象でなくなり、聞かされても、思いに触れず、まるで他人事のように感じられるのである。

ちょうど死んで墓に入ってしまった故人が、自分についてこの世の人々の間でどんな会話が交わされていようと、一切、それを感じることも、注意を払うこともできないように、キリストと共に死んで神の内に隠されているキリスト者には、かつて自分自身であったものも含めて、この世の事象が触れることができなくなるのである。

そして、かつての地上的な出自に代わって、今度は、キリストにある者としての天的な出自が、信者にリアリティとして迫って来る。「もはや、私ではなくキリスト」となるのである。むろん、信者がキリストに変身するのではなく、信者の内に住んで下さっているキリストを、信者自身が見るわけでもない。それでも、信者の心の中に、もはや「私」はなく、キリストが住んで下さり、生きておられることを信じることができるのである。

信者は、たとえ復活の命の何たるかがまだよく分かっていなかったとしても、キリストの死を通して、自分に対する神の贖いが永遠に達成されており、自分がキリストのものとされていることが分かる。信者にはもはや「足りない」ということがなく、「取り返しがつかない」こともない。キリストにあって、信者はすべてに満たされている。だから、感謝を持って心に言うことができる。

主よ、あなたのためならば、私には何も惜しくはありません。
あなたのために、私が留保しているものはもう何もありません。
主よ、私の若い頃からの約束を覚えて、心に留めて下さい。
私は生涯、あなたのためだけに、捧げられた供え物であり、
もはや自分自身のために生きておりません。
あなたの栄光のために、私をお使い下さい。
私自身と、私の生涯は、残らずあなたのためにあり、
私は、あなたのものなのです。

信者は、命を投げ出して自分を贖って下さったキリストへの心からの応答として、愛を持って自分を捧げることができる。主と共なる十字架において自分に死んでしまえば、もはや留保しているものはなくなり、自分の生涯そのものを神への捧げものとして惜しむことなく差し出すことができる。

だが、それは決して人間的な思いに基づく情緒的な魂の愛の結びつきではないのである。その決意は、代償を伴うものであり、生涯に渡る御言葉への従順を通してしか達成できない。

イザヤ書では、「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」と応答した預言者に衝撃的な言葉が告げられる。神の言葉を携えて世に出て行く預言者が、高貴な存在として、大衆に歓呼して受け入れられることはない。大衆が預言者の言葉を聞いて悔い改め、素直に神に立ち返ることで、大きな喜びと収穫がもたらされるとは、神は言われなかった。むしろ、逆の事柄が告げられたのである。

「行って、この民に言え。
聞き続けよ。だが悟るな。
 見続けよ。だが知るな。』
 この民の心を肥え鈍らせ、
 その耳を遠くし、
 その目を堅く閉ざせ。
 自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。」(イザヤ6:9-10)

これは旧約の時代も、新約の時代も変わらず同じである。神の言葉を託されて世のもとへ遣わされた預言者を、世は受け入れない。神の独り子として世の罪を贖うために遣わされた尊い小羊を、世は拒み、十字架につけて殺したように、イエスの弟子たちをも拒み、迫害した。世は何度、福音を聞かされても、己が罪から目を背けるために、これを拒み、イエスの復活の証人たちを憎み、排斥したのである。そうしたことが、今日になったからと言って、変わることは決してない。

だから、世人に福音を告げるというのは、すべてのキリスト者にとって命がけの召しであり、何らその個人にとって感覚的に喜ばしい、栄誉をもたらす光栄な使命ではない。この事実を見るにつけても、キリスト者の道は、大規模大衆伝道を通して、大衆と一体化して、この世の人々と手を携えて歩むことには決してないと分かる。

キリスト者は、復活の証人として、イエスの復活を、また、自分自身も信仰を通してイエスと共に死と復活にあずかっていることを、大胆に世に向かって語り続ける。しかし、世はそれを信じず、受け入れもしない。

だから、キリスト者は、世へ理解を求めず、絶えず神に向かって行く。世が神の言葉を受け入れない分、なおさらのこと、ただ一心に神に向かって行くのである。神は、贖われたキリスト者を、二度と世の友、世の奴隷として遣わされることなく、むしろ、ご自分の器として民の間から聖別して取り分けられる。キリスト者と世との間には、十字架が、永遠に交わることのない隔たりとして立てられている。

このようなことを聞くと、世人は言うであろう、「一体、それは、何のための救い、何のための贖いなのでしょうか。キリストを信じたがために、世から拒まれ、理解されなくなり、迫害されるのでは、信じた後では、信じる前より、生きることがより一層、苦しくなるだけで、どこに信じることのメリットがあるんですか。その上、過去に積み上げ来た業績も無になるのでは、神のためにすべてを捨てたキリスト者には、一体、何が残るのでしょうか。そんな人生に、どんな満足があるのでしょうか。」

世人にどんなに分からなくとも、キリスト者には何も残らないのではなく、「私」ではなく「キリスト」が残るのである。そして、それこそが、キリスト者にとってのはかり知れない満足である。なぜなら、この方にこそすべてが満ちているからである。キリスト者は、もはや自分自身の満足のために生きておらず、神の満足のために、神の栄光のために召し出された者であり、主と共に十字架の死によって、すでに水の中に沈み、分離したものを取り返したいとは願わないのである。

神の御心は、やがて万物がすべてキリストに服すること、「イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられる」(ピリピ2:10-11)ことにこそある。

クリスチャンはすべてのものがキリストに服する来るべき世に向けて、「神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われた」(黙示14:4)者たちである。ここに「人々の中から」贖われたと書いてあり、「人々と共に」ではないことに注意したい。キリスト者は、世に対して死んだ者として、世人とは一線を画し、ただ神と小羊のためだけに、世から取り分けられて、召し出された人々である。だから、クリスチャンは福音を世に向かって語ることはしても、決して世と同化して、世人の利益に仕える僕とはならない。贖われた者はどこまでもただキリストの僕であって、もはや自分自身のものでさえないのである。

「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。

キリストはすべての支配と権威のかしらです。

<…>あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです」(コロサイ2:8-12)

こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。

あなたがたは地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
なたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです


私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。」(コロサイ3:1-4)

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