グノーシス主義(偽りの教え)

2016年12月17日 (土)

欧米諸国を裏切ってまでロシアにすり寄る安倍政権を待ち受ける国際的孤立と、極東シベリア共同開発に名を借りた日本政府の大陸侵略の野望

・米国とEU諸国との協調を裏切って、ロシアと「同衾」した日本政府の二股外交が必然的に招く国際的な孤立

カジノ法案の衆院での強行採決以来、我が国の多少なりとも見識ある全ての人間の目には、安倍政権が詐欺の温床であり、危険極まりない地獄への暴走列車であることがはっきりと見えてしまった。

安倍政権には、もはやインテリ知識人層からも、カルト内閣、広域暴力団安倍組、博打政権の博打外交など、歯に衣着せない容赦のない呼び名が向けられ、人々が侮蔑と憎しみを隠さないようになっている。

反原発、反TPP、北方領土返還、アベノミクス…、これまでに安倍政権が打ち出したすべての施策が、国民を欺くための詐欺の仕かけでしかなく、それは国民に嘘をついて存在しない偽りの甘い夢を見させておいて騙し、その間に、可能な限り、国富を収奪して、外国に貢ぎ、我が国を破滅へ導くために打ち出される詐欺と売国のスローガンであることが未だかつてないほどに明白になったのである。

そもそも「この道しかない」などと言い始めた時点で、すでにそれはカルトなのである。「この道」という言葉は、宗教の信者がよく使うものであるが、クリスチャンにとっての道とは元来、一つしかなく、どこかの目に見える人間が、「私が道だ、私が唯一の道を指し示す」などと言い始めた時点で、その人間は反キリストの霊の持ち主であることが確定していると言って良い。

キリスト教徒でなくとも、おそらく、宗教家はいち早く安倍政権の恐ろしさ、特に、安倍が現人神となって国民に強要しようとしている自分への崇拝が極めて危険な似非宗教であることにすぐに気づくはずだ。このような政権を支持する者には、どんな宗教を信じていようと、信仰者としての矜持はない。都議会における自民党と公明党との分裂が取沙汰されているが、いずれ国会でも両者は分裂し、現役官僚からも離反者が出ることであろう。この先、みなが安倍に騙されていただけであることが、もっとあからさまに分かって来る。どんなに控えめに言っても、安倍はもはや正気ではないのだと、誰もが思うようになろう。

だが、目下、正気を失った博打政権が、自分が倒される前に、もっと壊せるだけ徹底的に日本を壊そうと、ロシアからマフィアの親分を連れて来て、二人で一晩以上をかけて懇ろに仲むつまじく語り合ったというのだから、このニュースには背筋がぞっとするとしか言えない。

領土問題に何の進展もないことが前もって分かっていたので、筆者はプーチン訪日という出来事には何の期待も寄せず、冷ややかに見つめるのみであったが、プーチン氏の到着から一夜明けて、当初感じていた不快感は、安倍の犯した売国の罪によって、取り返しのつかない事態が起きたのだという、さらに不気味な予感へと変わった。

領土が返還されないのに、安倍がロシアに3000億円もの経済支援を申し出たという狂気じみた外交的敗北から始まり、タイ人のウォン・ウティナン君には強制国外退去処分を言い渡しておきながら、ロシア人の入国のためにはビザ要件を緩和するという。平和条約も締結されていないうちから、北方領土やシベリアの共同開発という無謀な計画に前のめりになり、さらに平和条約をダシにして、「信頼関係の構築のために、双方の国民感情を傷つけないよう配慮する」などといった無茶な約束まで口にする。

やはり、安倍は空恐ろしいことをやってしまったという印象である。天木直人氏が12月16日の記事「歴史に残る安倍首相の対プーチン屈辱外交」に書いているように、この「屈辱外交」が我が国にもたらす弊害ははかりしれない大きさになると思われる。最悪の影響は、今後、日米同盟関係が急速に悪化しかねないことだ。

筆者は、日本は対米隷属から脱しなければならないと考えるため、日米同盟は必ず見直され、最終的には、日本は米国の傘下を出なければならないと思う。だが、その方法が、日本政府が米国の意向を無視してロシアに寝返ることによって、日米関係を急速に悪化させるというあまりにも拙速かつ愚かな方法であるべきでないのは明白である。

しかしながら、この度の安倍・プーチン会談は、EU諸国、そして米国との関係においても、日本の外交の決定的かつ明白な分岐点となるであろうと筆者は予測する。70年間続いて来た戦後体制は、プーチン訪日という日に終わったのである。だが、それは実際、安倍の望むような美しい形ではなく、また、我が国の自立という形でもなく、ただ米露への二股外交というあまりにも恐るべき裏切りに満ちた不誠実なドロドロの関係で終わった。

これまでの事実から、筆者には、日本政府は、国民をイジメ抜くための悪意を込めた政策を、大抵、週末に向けて発表することが分かっている。

いかがわしいカルト宗教は、信者を徹底的に疲労困憊状態に追い込むことで、信者が片時も落ち着いて物事を考えることができず、カルトの偽りに気づくチャンスがないようにすることが知られているが、カルト化した安倍政権が国民に対して絶え間なく行っていることも、それと同様の精神的な攻撃である。

つまり、勤労者の国民の大半は、月曜から金曜までの平日は、サービス残業や、過重労働でへとへとにさせられた上、週末に向かっても、心を締めつけられる不穏なニュースばかりを聞かされて、休日にも精神的な苦痛の中に置かれることになるが、これは、国民を決して精神的にリラックスさせないために、政府が故意に行っていることである。
 
これまでのあらゆる出来事から判断して、この国の政府高官及び官僚たちは、休日を迎える前に、特に念入りに、自分たちの権力が永久に安泰だと信じて高枕で眠れるように、国民に向かって精神的な圧迫と恐怖を増し加えるような残酷な政策を発表することを悦楽にしているものと見られる。
 
だから今回、安倍が国民を愚弄するがごとく、北方領土返還という存在しない偽りの夢をちらつかせながら、あろうことか、その存在しない夢と引き換えに、日本の国富を早々とロシアに売り渡すと決めたことを、週末に向けて発表したのは何ら不思議ではない。
 
もしも今回、そんなことよりももっと驚くべき事実があったとすれば、それはちょうどプーチンが日本に来たのと同じタイミングで、EU首脳会議で対ロ制裁の延長が決定されたというニュースが流れたことである。

以下に引用したニュースでは、NHKが懸命に、EU諸国のロシアへの強硬路線と、米国および日本のロシアへの立場は違うのだと強調しようとしているが、今のタイミングで、EU諸国がこれほど強烈にロシアへの対決姿勢を明白に示したのには、明らかに、ロシアに対する恫喝と警告だけでなく、ロシアに協力関係を申し出る日本政府に対する牽制と恫喝の狙いが暗黙のうちに含まれているように感じられてならない。

今回のEU首脳会談と、プーチン訪日という出来事が、どこまで互いに影響を与え合っているのかは分からないが、EU首脳は一致して、彼らの敵意をよそに二国首脳だけで懇ろな関係を強調するプーチンと安倍の両者に対して、厳しい警告と弾劾と受け取れるメッセージを発したのである。

そこで、今回のEU諸国の対ロ制裁の延長の発表のタイミングは、今回の日ロ首脳会談が、これからの日本の外交にはかりしれないほどに暗い影を落とすことを暗示するものであると筆者は見ている。つまり、今回、日本は欧米の対ロ制裁の足並みから完全に外れたのであり、そうなった時点で、ロシアと共に国際的に孤立の悪影響に巻き込まれる道はすでに定まったのである。
 

EU首脳会議 ロシアへの経済制裁延長で一致NHK 12月16日 10時21分

EU=ヨーロッパ連合は首脳会議を開き、ウクライナ情勢を受けて続けてきたロシアへの経済制裁を、来年7月末まで延長することで一致し、日本やアメリカがロシアとの関係強化に向けて動き出す中、ヨーロッパは引き続き、厳しい姿勢で臨む方針を打ち出しました。

EU各国は15日、ベルギーのブリュッセルで、ことし最後の首脳会議を開き、対外政策を中心に話し合いました。

この中で、おととし、ウクライナ東部で、政府軍と親ロシア派の戦闘が起きて以降、EUが親ロシア派の後ろ盾となっているロシアに対して続けている経済制裁について、来年7月末まで延長することで各国が一致しました。

この制裁は、ロシアの政府系の金融機関や、エネルギー関連企業がEU域内で資金調達を行うことや、ロシアとの武器の取り引きを禁止するものです。

EUは制裁を延長する理由として、去年、ウクライナ政府と親ロシア派が合意した停戦が、完全には履行されておらず、ロシアが役割を果たしていないことを挙げています。

ロシアに対しては、日本がプーチン大統領の訪日をきっかけに関係強化に乗り出しているほか、アメリカのトランプ次期大統領もオバマ政権とは一転して関係改善に意欲を示しています。

しかし、EUでは、ロシアがウクライナの主権を侵害しているとの非難が根強く、ロシアと国境を接し、警戒を強めている国も多いことから、引き続き厳しい姿勢で臨む方針を打ち出したかたちです。


果たして、この先、米ロの関係が本当に改善されて、日米ロ間に緊張緩和の蜜月が訪れるなどといった保証はない。トランプはまだ大統領になっておらず、米国がロシアへの態度を軟化させるだろうという予測は、トランプの意向だけに基づく期待値込みの楽観に過ぎない。

いずれにしても、米ロの関係改善がまだ実現していないにも関わらず、安倍が米国に先んじてロシアを味方につけて関係改善を誇ろうとしたことは、米国に対する挑発行為のように受け止められて仕方がなく、安倍が各国首脳に先駆けて、一人トランプ詣でをして得意になった時と同じように、そこからは、米国を出し抜いて世界をリードする立場に立ちたいという野望を誇示する浅はかな狙いが透けて見えるだけである。このような行為に厳しい報いが伴わないとは、到底、考えられない。
 
それにしても、ヨーロッパ諸国は、地理的にロシアとの距離が近いことから、ロシアに占領される恐怖がよほど根強いものと思われる。我々はEU諸国の「ロシアに占領される」という恐怖に鈍感であるべきではないと思う。

むろん、ウクライナのユーロマイダンの政変は、親EUを旗印に掲げる人々を使った陰謀によるところが大きく、この政変によって引き起こされた同国の混乱を一方的にロシアの非とするのは適当でないと筆者は考える。クリミアも自らロシアへの帰属を望んだのであり、これをロシアが軍事力で侵略したと述べるには無理がある。

だが、そういう事情をさて置いても、ウクライナにおける親EU派と新ロ派の対立は政変が起きるずっと以前から続いて来たものであり、両者の間には水面下での激しい駆け引きがあった。
 
これまで幾度となく繰り返して来たことだが、米国も深い闇であるが、ロシアも米国と同じほど(あるいはもっと)深い闇である。

プーチン政権は、ブッシュ政権がそうであったように、偽のテロ事件を引き起こすことによって、国家権力を強化し続けて来たと言われる。いわば、敵を自ら生産することによって、国内の団結を作り上げるという、米国と同じ手法を取ってこの政権は成長して来たのである。

チェチェン戦争が、米国にとっての9.11と同じような、ロシア政府による偽旗事件であったことや、プーチンが権力を握り続けた代償が、ロシアの議会制民主主義の死であったことなどは、アンナ・ポリトコフスカヤのようなジャーナリストによってすでに幾度も指摘されている。

そのポリトコフスカヤを含む、プーチン政権に手厳しい批判を向けたジャーナリストの数多くが暗殺と思われる不審死を遂げている事実や、そもそも、これほど長い間、ロシアでプーチン氏の政権が続いているという事実だけを見ても、それ自体がおよそ民主主義からはほど遠い尋常でない状況と言わざるを得ない。そして、ロシアという国は、体制がどれほど変わっても、歴史的にはずっと絶え間ない国家権力の増強、領土拡張政策を取って来たのであり、現在、起きている出来事も、その延長上にあるとみなされる。

特に、ソ連時代のロシアは実際に軍事力による侵略・制圧を繰り返して来ており、ヨーロッパではそのことはまだ記憶に新しい。だから、武力による制圧であれ、どんな方法であれ、ロシアが領土を拡張して影響力を増し加えようとすること自体が、EU諸国からは「脅威」とみなされるのは不思議ではない。

そのような事情を加味すると、EU諸国の「ロシア恐怖症」は、ただ単に米国に一方的に肩入れしているがために生まれたというよりも、もっと深い意味を持つものであり、何よりも、それは自国がロシアに占領され、侵略されることへの本能的な恐怖から来るのだと言えよう。

もしそうだとすれば、我が国は、こうしたロシアの隣国による直観を決して軽視すべきではない。人間であっても、国家であっても、原則は同じであるが、遠くにいる他人だけから好意的な評価を受けていても、近くの隣人との間で絶えまなくトラブルを起こし続けて、隣人からの評価がことごとくマイナスだという人物は、要注意である。そうなるには、必ずそれだけの理由が存在する。ロシアには、いつも次々に敵が現れ、しかもロシアがその敵を利用して、自分が不当に攻撃されている被害者であるかのように装いつつ、着々と力を蓄え、味方を増やして来たこと自体が、政治的に巧妙な作戦であると見なければならない。

米国が世界各地で絶えず戦争やクーデターを人工的に引き起こしては金儲けの手段として来た事実が全くいただけないものであると同様に、ロシアという国に、次から次へと敵対する国々が登場して、戦いが起きているのも、決して良い特長とは言えない。ある意味では、その敵意と反目自体が、ロシアが自ら引き起こしている現象だという可能性がある。

だから、あえてそのようなトラブルの渦中にある国に、同盟国の出方もまだ決まっていないうちに、日本がわざわざ自分から先んじて接近して行くメリットなどどこにもないのは明白である。特に、日本のこれまでの米国追従に貫かれた戦後史全体を振り返っても、日本の首相が米国大統領に先んじて、そのような行動を取ることは異例であり、それ自体が、同盟国へのとてつもない裏切り行為、挑発行為と受け止められて、したたかに報いられる危険は否めない。

折しもちょうど沖縄でオスプレイが落ちて、日本国内で反米感情が高まっている時である。それを好機とばかりに、巧妙に米国に悪役を押しつけて、日本の首相が他国に媚を売ったのだから、そうした事実は、米国から見れば、「同盟の意味が全く分かっておらず、守ってやる価値もない国」と見られ、蔑まれるだけに終わりかねない。

もっとはっきり言えば、米国のポチに過ぎないはずの属国が、恐れ知らずにも、親分を悪者に見せかけながら、親分を裏切って、他国と密通し、不義を重ねたという話なのだ。

安倍がどうしてもロシアに接近したいのであれば、米国との関係を清算して、我が国が自立した外交を打ち立て、対ロ制裁の行方に対しても、国際社会において態度を明白にしてから、そうすべきであった。一方では米国の庇護を求め、対ロ制裁に加わっておきながら、もう一方では、制裁中の国に自らすり寄り、信頼関係を強調し、経済支援を申し出るなどの無節操な二股外交は、全く筋が通らず、国際的に何の信頼にも結びつかないのは当然である。

むろん、今のところは、オバマも含めて、公然と安倍の恥ずべき振る舞いを非難する者は各国首脳の中にはないであろうと思う。なぜなら、安倍の振る舞いは、あまりにも幼稚すぎて、知識人が言葉に出して取り沙汰する価値すらもないからだ。だが、彼らが名指しで非難しないことと、報復して来ないこととは訳が違う。愚か者には、愚か者にふさわしい返答の仕方がある。安倍の卑しい野望は、すでにトランプからTPP離脱で梯子を外されたことにも見る通り、諸国に見透かされており、この先、国際社会から黙ってのけ者とされ、一斉に梯子を外されることで、報復を受ける可能性がある。そういうしっぺ返しがなくとも、このまま安倍の二股外交が続くと、その結果として、日米同盟は揺るがされ、米国の代わりに日本がロシアへ追随するという事態さえ考えられないことではない。

そうなった場合に最も恐ろしいのは、日本がロシアに代わって世界的な孤立をその身に背負わされることである。

今までにも述べたように、日本が今ロシアに接近しても、損害以外に受けるものは何もない。ロシアは、日本が対ロ制裁に加わっている間に、中国をアジアの経済的なパートナーとして選んだため、日本が今から極東開発にどれだけ協力してみたところで、しょせん、ロシアから中国以上の経済的なパートナーとみなされることはない。

中国とロシアは安倍の望んでいる「中国包囲網」を知った上で、決してこれに手を貸すことはなく、むしろ、この二国は、安倍の心の内を完全に見透かした上で、いずれそれを裏返しにする形で、逆に日本を包囲して孤立化させて来る可能性が高いと思う。仮にもしそういうことが行われるとすれば、それは、ロシアがさらに親密さをアピールして、何かの餌をぶら下げて、より懐深く日本を自らに引きつけることにより、また、その誘いに乗って、安倍政権が一見、自立を装った米国との訣別を持ち出すことにより、日米関係に本格的にヒビが入り、日本が最も無防備になった瞬間に行われるであろう。

筆者の考えでは、ロシアは必ず、したたかに日本の期待を裏切って、いつかこの国に攻め入って来るはずだ。その裏切りは、すでに領土返還なしにロシアが経済協力だけを日本からむしり取った時点で始まっていると言える。ロシアとはいかなる信頼関係の構築も土台、無理であり、この国は他国を利用することしかできない。思想的にも、KGB出身のプーチン氏を頂点に頂いている事実にはっきりと見ることができるように、この国ではソ連時代の歴史と教育の影響は未だ根強く、ロシアは今でも共産主義のままなのである。

だから、ロシアと共産党政権下の中国との間には、もともと安倍の思想など全く及ばないほどに、より強力な結びつきと、親和性があると考えられ、仮に対ロ制裁に日本が全く加わらなかったとしても、日本が両者の間に割って入ることはもともとできない相談であったと思う。

そして、そのことは日本にとって幸運だったのである。共産主義という思想は、我が国が決して内に取り入れるべきではない危険な思想であり、また、「強いロシアの復活」を目指すプーチン型の国家主義的な統治も、非常に危険な性質を持つものである。ロシアには歴史上、強大な国家権力が圧倒的大多数の民衆を抑圧し、虐げるという以外の国家形態が存在したことがない。だから、これまで日本が米国に阻まれ、中国に出遅れてロシアへの接近の機会を失って来たことは、何ら問題ではなく、ロシアとは距離を保っておくに越したことはないのだが、安倍は自ら米国をよそにしてロシアにすり寄り、他国がロシアに厳しい態度で接し、距離を置いている時に、抜け駆けしてロシアと懇ろに「同衾」したことによって、ロシアという国家に歴史を貫いて流れて来た負の思想を、完全に内に取り込み、輸入してしまった。山口でのプーチンへのもてなしという安倍の行動は、プーチンこそ安倍の本命であったことをよく物語っている。なぜなら、安倍は日本を裁いて軍国主義政権を終わらせ、祖父をA級戦犯とし、日本を属国化した米国を憎んでいるからである。プーチンへの思慕は米国への当てつけであり、まさに、裏切りであると言える。だが、当てつけであり、裏切りであればこそ、プーチンへの接近は決してどの国にも何の信頼関係ももたらさず、ただ裏切りによって終止符が打たれのである。

米国は、そんな愚かで節操のない安倍の振る舞いに内心で呆れ果てながらも、ロシアと同じように、何らかの形で手ひどく報復することで利益を奪い返すチャンスを伺って、あえてこの問題に言及することなく、安倍政権を泳がせる可能性がある。何しろ、米国は、かつて日本軍による真珠湾攻撃を知っていながら、あえてこれを阻止せず、日本軍の愚かな暴走を許して意図的に泥沼の戦争に引きずり込み、広島と長崎に原爆を二つも実験的に投下し、日本が一億玉砕の手前になってやっと敗戦を受け入れるまで導き、今もこの国を事実上の占領状態に置いている国であるから、精神的に未熟でお子様のままのこの国と、決して国民を大切にしようとしない日本政府の精神的弱点をどのように利用し尽くして利益を得るかなど十分に研究済みのはずである。

だから、筆者の見立てによる最悪のシナリオは、日本という国が、今後、安倍の野望を見透かされた上で、米ロの両国から可能な限りゆすられ、たかられるだけでなく、やがては米ロが犯した似たような悪事の尻拭い役として、それ以上の悪事を犯すようにそそのかされて、国際的に悪魔役を演じさせられ、その結果として再び権威失墜して、かつての敗戦のごとき破滅に至り、自国をまともに統治する能力のない国として、第二の占領状態に置かれ、様々な国に領土を分割されて他国に統治されて終わるという悲劇である。

今のままでは、そうした結末も、あながち幻想だとは言い切れない。安倍はまさに外患誘致に等しい形で、最も危険な国と自ら懇ろに通じ、国のトップとして公に国を売り、危険を誘致しているのである。そのようなことの結果としてやがて起きるのは侵略である。我が国が侵略するのでなく、侵略されるのである。これを止める方法は、安倍政権を退陣に追い込み、安倍の唱える地獄へ直通する「この道」を封鎖し、なおかつ、米国ともロシアとも距離を置いて、平和的な方法で自存する道を探すことだけしかない。

 
・かつての満蒙開拓団とシベリア抑留の悪夢をよみがえらせる北方領土やシベリアにおける日ロ経済協力と共同開発

国家の病とは厄介なもので、国家権力による民衆弾圧の歴史がずっと繰り返されているロシアの例を見ても分かるように、この亡霊のような歴史的負の遺産を払いのけ、これと訣別するのはそう簡単でないと思われる。そこで、仮に安倍政権が早期に打倒されなかった場合、今後、善良な国民は、日本政府の唱える欺瞞に満ちた抑圧政策からどのようにして身を守るかということだけが、焦眉の課題となるだろうと思う。

日ロの首脳会談に合わせるように、EU首脳陣が対ロ制裁の延長を表明したことには、上記した以上の意味があって、筆者は、今回のプーチン訪日は、安倍の本心を試すために、日本に対してあえて仕掛けられた一種の罠なのだという気がしてならない。

なぜなら、この度、安倍首相がロシアにすり寄った背景には、日本政府も、あわよくば大陸へ進出して、ロシアと同じように領土を拡張するという利益にあやかりたいという野望が透けて見えてならないからだ。

つまり、安倍が北方領土を取り返すという「夢」を国民の前にぶら下げて、シベリアや北方領土の共同開発に積極的に乗り出そうとしているのは、その実、日本政府の領土拡張政策という悲願の一端を示しているに過ぎず、この政府が真に目指しているのは、かつてと同じように、大陸にまで国土を広げること(要するに侵略)なのだと筆者は考えざるを得ない。

安倍の目が今見ているのは、現実の日本ではなく、かつての「大日本帝国」の抱いていた幻想なのであり、同氏にとっては、現実の北方領土が今どこの国の帰属であるかなど、全く大した問題でなく、大陸へ進出する機会を掴むことによって、かつての軍国主義政権の偽りの夢であった「大東亜共栄圏」の再生へとつながるきっかけをつかむことこそ重要のだと思われてならない。

だから、実のところ、安倍がロシアに肩入れすることによって、擁護しようとしているのは、自分自身の侵略の野望であり、ロシアへの制裁を緩和することによって、解き放ちたいと思っているのは、かつての軍国主義時代の侵略と世界征服の夢なのである。安倍はできれば、ロシアからも北方領土を奪い返したいと思っているが、それがならずとも、まずは北方領土やシベリア共同開発という名目で、大陸進出のきかっけを与えてくれそうなプーチン政権に、味方のようにすり寄り、跪いてでもその機会を頼み込みたいわけである。足がかりさえ作ってしまえば、あとはどうにでもなる、活動しているうちに、いつかその地を我が物として奪い取ってしまえば良いという算段なのであろう。

むろん、ロシアはロシアで、安倍の魂胆は十分すぎるほどに見抜いた上で、したたかに日本を利用するためにやって来たに過ぎない。当然ながら、ロシアは日本に1ミリたりとも領土を割譲してやる気などなく、ただ安倍政権の野望を思う存分に利用して、日本企業を自国の領土開発の都合の良い使い捨て材料として徹底的に利用し尽くすことを考えているだけである。

この両国首脳は腹黒さという点では同じであり、お互いに「友好」、「信頼」、「協力」などの甘い言葉をちらつかせながら、自らの本心を隠して、相手をどうやって騙そうかと虎視眈々と互いに目配せし合っているだけである。

安倍が今回、プーチンを山口に招いてもてなし、経済協力を約束したことを通して、言わんとしているのは、「どのような方法であれ、己が領土を先に拡大した者が勝ちなのですよ、ねえ、ウラジーミル(ちなみに、ウラジーミルという名前は、「世界征服」を意味する象徴的な名である)。ロシアはウクライナとクリミアでは実によくやりましたね。我々はあなたの手腕を高く評価していますよ。だって、あなたのなさったことは、全ての国が自分もやりたいと望んでいることじゃありませんか。それにも関わらず、制裁でそれに答えるというのは、我々も本心では納得できないところです。しかし、これまでにはアメリカの力が強すぎて、我々としても、勇気を持って物申せない部分があったのですが、これからは少しずつこの煩わしい関係を見直して行くことにしますので、もう少しだけ待っていていただけませんか。ここは一つ、提案ですが、本格的に我が国が米国から自立し、貴国と平和条約を結べるまでに成熟する前に、まずはあなた方に支援を約束しますので、その見返りに、我が国にもぜひ新たな出番を与えていただけないでしょうか。あなたの国の豊富な天然資源、広大なシベリアの領土の開発などは、我が国にとっては前々から実に魅力的な投資材料と映っているのです…」

いつまで経っても、歴史に学ぶことなく、自ら墓穴を掘り続ける愚かな政府である。

かつて日本が大陸に侵略を企てたときにも、今と同じように「経済」が謳い文句であった。それは領土の拡張という国家的な野望のためだけでなく、まずは財閥をぼろ儲けさせることをこそ主たる目的に行われたのである。大陸での「開拓」は、要するに、大企業にとっての新たなフロンティアであり、カジノと同じような一獲千金の夢であった。

従って、筆者の目には、現在の安倍政権にとって、北方領土とシベリアに眠る利権を狙ってロシアと経済協力を行うことは、かつてこの国が目指した「大東亜共栄圏」という悪夢を再びよみがえらせるための侵略戦争に向けての初めの第一歩なのだと感じられてならない。

つまり、安倍のプーチン政権への憧れにも似た思慕には、国家主義の復活という夢だけでなく、何よりも領土拡張の夢が込められているものと考えられる。北方領土問題を持ち出したのは、そのきっかけに過ぎないのである。

だから、これから先、日本政府が打ち出すであろうシベリアの共同開発や、日ロ経済協力などといった美辞麗句は、そういう文脈でこそ、とらえなければならない。要するに、それは開発(開拓)に名を借りた侵略の野望の言い換えに過ぎないのであり、日本政府は、ロシアと同じように、無限な膨張拡大を夢見ているのであり、北方領土についても、本心ではロシアの主権を全く認めておらず、今後も認めるつもりがなく、ロシアもこれと同様に、4島を日本に返還する気などさらさらなく、日本の活動拠点とするつもりもないにも関わらず、二つの政府が互いに本心を隠しながら、互いを欺き合って、どうやって利権を餌にちらつかせることで、相手を最大限に利用し、巻き上げられるかを考えながら、「互いの主権を尊重する」といったむなしい絵空事のような空文句を弄して騙しあっているという恐ろしい現実があるに過ぎない。

そこには「友好」もなければ、「信頼」もなく、ただ互いに相手を騙し、食い尽くそうという悪意が存在するだけである。他国の領土に意欲的に開発に出かけて行くことは、いつの時代であれ、侵略の野望を隠し持ってこそ行なわれる行為であり、警戒される。かつての日本軍による「満州開拓」がそうであったように、そういう政策にすすんで巻き込まれた人間を待つものは、破滅以外にはない。

そもそも国家としてこれまで長期に渡る交流の積み重ねも実績もなかったロシアと日本の二国の首脳が、突然、まるで夏休みのキャンプ中に仲良くなった中学生のように、首脳同士の相性だけで、「友情」や「信頼」を言い始めるのは、とてつもなく不気味で、信用ならない事態であり、こういう形での親密さのアピールは、すべて国民を欺くための偽りの舞台演出であって、詐欺のしかけでしかない。このような信頼だの友情だのに見せかけた目くらましの魔法は、必ず、裏切り、騙し討ちの侵略となって本質を現わすだろう。

安倍晋三のような人間は、これまでどの場面においても、誰との関係においても、嘘ばかりを並べて、不誠実な言動を繰り返して来た。ついに米国にさえ不忠実な行動を取り始めたのである。このような人間が、親しさを演出して誰かに近づくのは、ただその相手を食い物にする目的のためだけでしかない。ロシアはそんな安倍には似合いの相手で、安倍がロシアに近づいたのは、ロシアから奪い取りたいという目的あってのことで、プーチンもそれはよく分かっていながら、自分の方が上手であると自負していればこそ、あえてその誘いに応じたのである。こうして、二国の首脳が互いを騙し合い、互いから奪い取るためにこそ、「友情」を演出して、互いを懐に引きつけあっているのである。こういう恐ろしい関係には、決して関わらず、巻き込まれないのが一番である。

これから先、どういう形で日本政府が日ロの経済協力や、極東や北方領土の共同開発を宣伝するのかは分からないが、「行きは良い良い、帰りは怖い」で、政府の打ち出す一獲千金の夢にたぶらかされて、目をくらまされ、その政策に浅はかに踊らされれば、その人間には、以下のごとき愚かしい悲劇が繰り返されるだけだと筆者は予想する。

画像は「満蒙開拓団の集団自決」(季節の変化、2015-08-30)から引用。



右は長野県が作成した「満蒙開拓青少年義勇軍募集」のポスターだが、見るからに知性の感じられない若者の姿を故意に描いたとしか思えない悪趣味な絵である。(シベリアと北方領土の開発利権に内心で涎を垂らす今の安倍の心境はまさにこのようなものではないかと推測される。)

満蒙開拓団とは、かつて日本政府が行った大々的な開拓キャンペーンにより、大陸に移住すれば豊かになれると言われ、一獲千金の夢で心を釣り上げられた日本の農村の貧しい人々が、騙されるも同然に、日本政府が作った傀儡国家としての満州へ国策として移住させられた挙句、第二次世界大戦中、ソ連軍の参戦により同地が戦禍に見舞われると、日本軍によってたちまち容赦なく見捨てられ、地獄の逃避行へ追い込まれ、集団自決などの悲劇へ追いやられたものである。

戦禍の中、かろうじて生き残った人々も、ソ連軍によって強制収容所へ送られたり、家族と生き別れになって、中国人の間で売られたり、働かされたり、現地人と結婚させられたりして、つらい生活を余儀なくされた。山崎豊子が『大地の子』で描いたような中国残留邦人も、そのような中を生きた人々である。

大陸に置き去りにされて、帰国がかなわなくなった中国残留邦人や、ソ連の強制収容所に送られた抑留者の存在があることは、戦後すぐに分かっていたが、中国残留邦人については、1972年9月の日中共同声明による日中国交正常化が起きるまで、中国領内で起きていることの事情は我が国では容易に知り得ず、調査もかなわなかった。日中国交正常化後も、日本政府は、かつて自らが積極的に推進した開拓キャンペーンの悲惨な結果と責任を直視したがらず、政府が中国残留邦人の肉親調査に乗り出したのは、ようやく80年代になってからのことであった。

さらに日本政府に残留邦人と認められて帰国や帰国後の支援を受けるには条件があり、必要な証言がそろわず、残留邦人と認定されず帰国もかなわなかった人々もおり、認定を巡って長期に渡り、日本政府と訴訟となり、裁判によってようやく認められたケースもある。日本政府から残留邦人と認められて日本に帰国しても、あまりにも長い年月、大陸で暮らしていた人々には、日本人としての記憶は薄く、言葉の壁や就労の壁が立ちはだかり、日本人としての暮らしは困難であった。また、中国残留邦人に比べれば数は少ないとはいえ、ロシア領内に取り残され、ロシア人と同化して暮らした人々も存在し、中には、本当にロシア人となって日本人のアイデンティティを捨てて生きた人もいた。

ソ連兵から帰国させると言われて騙されてソ連の強制収容所に送られた日本人は、そこで想像を絶する悲惨な生活を強いられ、実に数多くが飢えと過酷な労働で死に絶え、ようやく帰国しても、世間からアカになったなどと言われて後ろ指を指され、過酷な差別を受けた。

中国残留邦人の存在が80年代には日本の世間の注目を浴びてメディアに盛んに取り上げられたこととは対照的に、シベリア抑留者に対する戦後の補償は、あまりにも長い間、日本政府からも、ロシア政府からも見向きもされず、シベリア抑留者への補償という問題自体が、戦前戦中に「非国民」扱いされて特高警察によって拷問されて死に至らしめられた国民への補償と同様に、長年、差別感情などの中で、タブー視され、深く覆いがかけられ、隠されて来た。

仮に過酷な収容所生活のせいで発生した深刻なPTSDの影響などがあったとしても、彼らが肉体的にも精神的にも受けた苦痛に対する公のケアは全く行われず、抑留生活のために生じた苦しみは、長年、個人が心の内に抱えて耐え続けるしかなかった。そのようなことになった背景には、かつて敵軍の捕虜とされるくらいならば、自ら命を絶つべしと教えて一億玉砕を唱えた日本政府の洗脳の結果、他国の捕虜となって抑留されたこと自体を、国への一種の裏切り行為のようにみなして暗黙のうちに個人の責めに帰そうとする政府の暗黙の考えと、そういう考えに迎合して抑留者の存在をタブー視し、抹殺し、擁護しようとしなかった世間の風潮の影響が根強くあったのではないかと考えられる。

戦後強制抑留者法に基づき、シベリア戦後強制抑留者に対する政府の特別給付金の請求受付が始まったのは、ようやく2010年(平成22年)、民主党政権下のことである。しかも、すでにあまりにも多くの抑留者が亡くなった後のことで、政府の施策としては遅すぎるものであった。おそらく、民主党への政権交代が起きていなければ、未だに抑留者への補償は皆無だった可能性があると思われてならない。

だが、それよりもっと恐ろしいのは、こうして他国の領土で起きた外国絡みの事件で、対外的にも存在が否定できない人々については、まだしも真相解明の努力が行われ、補償の話が持ち上がったものの、たとえば、日本国内で特高警察によって「非国民」の罪を着せられ、拷問を受けて獄死した人々や、隣組の密告に基づき、そのような嫌疑をかけられて殺された人々の遺族などには、今ももって政府からの謝罪や名誉回復はおろか、何らの補償も行なわれておらず、真相究明の努力が一切なされていない事実である。これは非常に恐るべきことであり、日本史の深い闇であるとしか言いようがない。

話を戻せば、侵略戦争はまさに博打のような賭けであり、政府の美辞麗句と甘い儲け話に踊らされて、実現できもしない夢を思い描いて、大陸に赴いた人々は、日ソ中立条約を破ったソ連の侵攻と、都合が悪くなると国民を置き去りにさっさと逃亡した日本軍によって、騙し討ちにされるようにして二重に裏切られ、生き地獄のような環境をさまよわねばならなかった。以下は、Wikipediaの「中国残留邦人」から抜粋しただけの短い文章だが、ここに日本政府の無謀な大陸進出という無責任な夢に巻き込まれた人々が、どんな悲劇に見舞われたのか、その一端を伺い知ることができる。
 

1931年9月18日以降の満州事変後、直ちに日本は清の最後の皇帝である溥儀を担ぎ出し、旧満州(現中国東北部)で満州国をつくった。建国と同時に満州事変以前より提唱されていた日本の内地から満州への移住(満蒙開拓移民)が実行され、日本は1936年の廣田内閣の計画では500万人、実数では32万人以上の開拓民を送り込んだ。

移民が大規模になった背景には、アメリカ合衆国発の世界恐慌の影響を受けて発生した昭和恐慌によって、当時の日本の地方の農村地域は疲弊と困窮をきわめていた事にある。娘を身売りさせる家が続出し、窮乏生活を送らざるを得ない農業従事者は強い移民志向を持っていた。

第二次世界大戦末期の1945年8月に日本と中立条約を結んでいたソ連が同条約の一方的破棄を宣言し、8月9日、ただちに中国東北部(満州国)への侵攻を開始した。これを既に予測していた関東軍は民間人よりトラックや車の徴用を済ませ、列車も確保した。軍人家族らはその夜のうちに列車で満州東部へ避難できたが、翌日以降に侵攻の事実を知った多くの一般人や、遅れをとった民間人らは移動手段もなく徒歩で避難するしかなかった。国境付近の在留邦人のうち、成人男性は関東軍の命令により「国境警備軍」を結成しソ連軍に対峙した。避難民はおのずと老人や婦人、子供が多数となった。

ソ連侵攻と関東軍の撤退によって満州における日本の支配権と、それに基づく社会秩序は崩壊した。内陸部へ入植した開拓民らの帰国は困難を極め、避難の混乱の中で家族と離れ離れになったり、命を落とした開拓民も少なくなかった。遼東半島にソ連軍が到達するまでに大連港からの出国に間に合わなかった多くの人々は日本人収容所で数年間にわたり収容、帰国が足止めされた。収容所での越冬中に寒波や栄養失調や病気で命を落とす者が続出した。1946年(昭和21年)春までその帰国をソ連が許さなかった為、家族離散や死別の悲劇がここにも生まれた。この避難のさなかで身寄りのなくなった日本人の幼児は縁故または人身売買により現地の中国人の養子(残留孤児)に、日本人女性は同様に中国人の妻となって生き延びることになった(残留婦人)。


かつて日本政府が抱いた侵略の野望は、大陸諸国の人々に深い苦痛と悲劇をもたらしたのみならず、日本人にも、数えきれない悲劇をもたらした。だが、安倍晋三の主張を通して、まるでその悲劇が、何の反省もないまま、現代によみがえろうとしているかのようである。かつての歴史の反省も不十分なままに、今度は「行け、北方領土!! 目指せ、シベリア開発、日ロ経済交流の発展の夢!!」といった軽はずみなスローガンを唱えて、またもや政府が企業の尻を叩いて金儲けを目的にシベリア開発に参入させるつもりなのであろうか。

これまで政府が後押しするまでもなく、日ロ経済交流を目指した企業はいくつもあったが、結局、そういう業界が栄え、ロシア企業との密接な信頼関係を構築することはほとんどと言って良いほどなかった。それは、ロシア独特の様々な制度的弊害がビジネスの障害となって立ちはだかって来たことの結果でもある。さらに、ロシア人には歴史的に約束を守らない国民性があり、これまでプーチン大統領が会談の約束を守らなかったことも、一度や二度ではないと言われる。このような国民性は、日本人の常識から見ると、全く考えられないものであり、ロシア人の常態化したルール違反と、法外に煩雑化された法律上の手続きは、日本人の想像を超えており、日ロのビジネスの発展にとって極めて有害な阻害要因となって来た。

そうしたことに加えて、ロシアが以上に述べた通り、ソ連崩壊後も、日本人のシベリア抑留者に対して何の補償も行なっておらず、中立条約を破っての参戦という歴史の総括も行なわず、ソ連時代に抑圧した自国民や他国民への補償問題を棚上げしたまま今日に至っていることが、日本人のロシアという国に対する負の感情を醸造する大いなる原因となり、信頼関係の構築を妨げて来た。自国にとって都合の悪いことは歴史的過去であっても認めようとはせず、決してこれを謝罪することも責任を負うことも補償することもしない、このような体質の国と友情や信頼は育めないと考えるのは、日本人の自然な国民感情である。

だから、このような政治状況では、今後も、日ロ関係が活発化するとは思えず、大企業であっても、中小零細企業がこれまで幾度となく阻まれて来た壁を超えるのは困難であろうと筆者は予想する。たとえこの先、北方領土で、あるいはシベリアで、日本人とロシア人の自由な行き来が出来るようになり、共同経済開発が行われたとしても、それだけでは、ロシア人を日本人が信頼するには早すぎるのであって、それだけでこれまで培われなかった信頼関係が突如として生まれるようなことは、決して今後も起きないであろうと言える。

今回、ロシアとの信頼関係が長い時間をかけて構築されるよりも前に、北方領土や極東シベリアにおける経済協力を日本政府が自らロシアに申し出たことは、北方領土に対してロシアの統治権を認めることに等しい敗北であるばかりか、それはさらに日本人をロシアの国益のために、自国の法の及ばない領土に向けて差し出すことを認めたも同然である。自国の法の保護外に出た人間は、単なる外国人であり、いざ政変が起きれば即、難民にしかならない。

そういうあいまいなゾーンで、これら二つの国がこれからやろうとしていることは、どこからどう見ても、シベリア抑留の時代とさほど変わらない日本人に対する無責任な騙しと搾取でしかないように筆者には見受けられる。

とにかく、国際社会におけるロシアへの扱いが今後どのようなものになるのかさえ、まだ分かっておらず、ロシアへの不安材料が山積みになっている今のような時に、やれロシアとの信頼関係の構築だの、経済協力を申し出るだの、安倍の主張していることはまるで正気の沙汰ではない、と言わざるを得ない。経済協力は、領土問題に決着がつき、平和条約が締結されてから、その後、考えてみても良いことであって、それが領土返還や、平和条約締結のための前提条件のように差し出されるのは異常である。

そのようなことをやっていれば、平和条約の締結という言葉で、今後も無限にゆすられ、たかられることになるだけである。そもそも、平和条約の締結の対象外である国と、どんな協力関係があり得るのか、それ自体が笑止千万であり、平和条約の締結がなされて来なかったのには、それだけの理由があることを考慮せねばならない。にも関わらず、平和条約締結がないことを「異常」とみなして、これを日本側からの積極的な歩み寄りの努力によってのみ解決しようと主張すること自体が、すでに常軌を逸した発想であり、狂気の沙汰としか言いようがない。

そういう転倒した理屈になるのは、結局、安倍政権の本当の狙いが、ロシアとの信頼関係の構築などにはなく、要するに、カネと利権に目がくらまされて、大陸進出という悪夢に再びうなされて飛びつこうとしているだけだからである。開発、協力といった美名の裏で、領土拡張の野心を燃やし、再び、一獲千金の夢で人の心を釣り上げて、安全の保障のない危険な地域に国民を送り出し、一山築こうと考えているから、そうなるのであって、他国との友情や信頼などは騙しの口実に過ぎない。政府のそうした騙しの手口は、戦前から今に至るまで何ら変わっていないと言えよう。

繰り返すが、本当は北方領土も奪い取ってでも取り戻したいという本心を隠したままで、口先だけ友好や協力を申し出ることで、他国に味方のように近づいて行く、そんな不誠実で下心の見え透いた政策が功を奏することは絶対にない。そんな提案を受け入れる方も、提案した側にまさる悪魔なのである。はっきり警告しておくが、このような政策はしたたかに裏切られて終わるだけで、善良な国民はこの手の未来も希望もない儲け話に決して巻き込まれるべきではない。

実のところ、ロシアとの経済協力もまた、アベノミクスの失敗を糊塗するためににわかに作り出された新たな幻想に過ぎない。失敗の上塗りに過ぎないので、すぐに成果なしに行きづまるであろう。我々は、満蒙開拓団が集団自決させられた事実や、ソ連軍が日本人を強制収容所に送ってただ働きさせたという恐るべき歴史的事実に学ぶべきである。そういう過去から目を背け、新たに領土を開発するなどといった夢のような儲け話に乗った人々は、命を脅かされ、殺されて死ぬだけである。

だから、今、北方領土を材料にして、目の前に新たなフロンティアという餌をぶら下げられて、国民が見せられているのは、かつて大日本帝国の抱いた野望と同じ、大陸侵略の悪夢であることに気づくべきである。友情だとか、協力だとか言ったきれい事の甘言はみなその野望を隠すためのカモフラージュである。

シベリア抑留という歴史の清算さえできない国と、共同経済開発など絶対にあり得ないことであるが、そのあり得ない事柄を日本政府がやるというのだから、それは第二の抑留にしかつながらないのは明白である。日本政府とロシア政府の両者によって、日本国民が再び騙され、見捨てられ、シベリアで命を落とし、あるいは戦禍に巻き込まれ、命を脅かされる悪夢が再び近づいているのである。

安倍は南スーダンだけでなく、世界各国で自国民を紛争に巻き込み、殺したいのであろう。だからこそ、わざと危険な国にばかり国民を差し向けて、自ら人の命を売ろうとするのである。数えきれない人々が、このような政府の唱える偽りの夢に欺かれて命を落としたという過去の歴史の苦い教訓を、善良な国民は決して忘れるべきではない。歴史を直視せず、都合の悪い過去には蓋をして、全て無かったことにする現在の日ロ両政府が唱えていることは、共に甚だしい虚偽でしかない。彼らの語る夢は、どれもこれもむなしい偽りの幻ばかりでしかなく、彼らの行く道は、詐欺師や盗人や殺人者と同じ道であり、彼らが口先で弄する美辞麗句に欺かれて、その背中につき従った人々を待ち受けるのは破滅だけである。

悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。
しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。
(Ⅱテモテ3:13~14)


わが子よ、悪者があなたを誘っても、それに従ってはならない。
 彼らがあなたに向かって、
 「一緒に来なさい。われわれは待ち伏せして、人の血を流し、
 罪のない者を、ゆえなく伏してねらい、

 陰府のように、彼らを生きたままで、のみ尽し、健やかな者を、墓に下る者のようにしよう。
 われわれは、さまざまの尊い貨財を得、奪い取った物で、われわれの家を満たそう。
 あなたもわれわれの仲間に加わりなさい、われわれは共に一つの金袋を持とう」
 と言っても、
わが子よ、彼らの仲間になってはならない、
 あなたの足をとどめて、彼らの道に行ってはならない。

 彼らの足は悪に走り、血を流すことに速いからだ。
 すべて鳥の目の前で
 網を張るのは、むだである。

 彼らは自分の血を待ち伏せし、自分の命を伏してねらうのだ。
 すべて利をむさぼる者の道はこのようなものである。
 これはその持ち主の命を取り去るのだ。
」(箴言1:10~19)

2016年12月12日 (月)

カルト化する安倍政権――霊媒師・安倍晋三率いるオカルト政府による、国民への「呪い」と目くらましの「魔法」としての「まつりごと(祭祀)」と、偽りの人工芝・反対運動――

・ソ連の末期状態との類似性――いよいよカルト化・反社会化して、凶悪さをむき出しにする安倍政権――

安倍政権はいよいよ断末魔の状態にさしかかっているように見受けられる。この政権のやることなすことすべてが支離滅裂・あからさまな反社会的・国民蔑視・愚弄の抑圧政策になっている。

憲法改正や、緊急事態宣言など、この政権が実行を目論む凶悪な政策は、これからが本番とはいえ、あまりにも政治の劣化が激しいので、いよいよ体制の崩壊が近いのかも知れないと感じられる。まさに国家のメルトダウンが起きている。

戦後、本来ならば、もっと早くに倒されていなければならなかった体制が、そのまま温存された弊害がいよいよ誰にも無視できないほどに明らかになって、真の意味での体制転換の日が迫っていると見られる。

ソ連はチェルノブイリ原発事故後、そう長くは持ちこたえられなかった。ゴルバチョフが推し進めたペレストロイカ、グラースノスチによって世に出たスターリン時代を含むソビエト体制の暗黒時代の政府の機密資料の存在が、ソ連の体制の信頼失墜の決定打となり、崩壊を導いたことは疑いがないが、それに加えて、チェルノブイリ原発事故の悪影響をソ連政府が隠蔽し続けた悪影響も、相当に大きかったことであろう。

ソ連に限らず、理念を失った国家は滅亡する以外に道はない。戦前の財閥と天皇家の血縁と肥大化した官僚機構に支えられる現在の日本の国家体制が辿りつつある道は、古代ローマ帝国の崩壊や、ソ連崩壊を彷彿とさせる、内側からの道徳的腐敗・腐食による国家のメルトダウンである。

この政府の終わりは存外に早く来るかも知れない。今、国会を蹂躙している政権与党は、力が尽きるまでやりたい放題のことをするであろうが、彼らの拙速すぎる愚かな行動が、報われる日は来ないと思う。

景気が回復しないのに、国家公務員の給与やボーナスだけを政府がずっと引き上げ続けて、官僚のご機嫌を取っている近視眼的な策も、政府の寿命をさらに縮めるだけであろう。

福島原発事故にかかるコスト、さらにオリンピックによって生じる多額のコストも、急速な人口減少とあいまって、国家財政の赤字化に急速に拍車をかけるであろう。

ここに一つの予測を述べておくと、2020年を境に、この国の人口バランスと財政状態は目に見えて急速に悪化するものと思う。従って、公務員の給与引き上げなどは、あと二、三年もしないうちに、タブーとなるものと思う。そして、この国の行政府は、全体が、間もなく夕張市のような縮小の末路を辿ることになる。

だから、国民は、劣化する政府のまやかしの言辞に全く希望を託すことなく、今から自存できる方法を探しておくに越したことはない。遠からず、今のような政府の形態は終焉を迎えることになるだろう。そうなれば、組織や団体にすがってしか生きられない人々が、真っ先に難民化することになる。

国内の足元の土台が崩れ始めている時に、防衛費を拡大し、戦争に前のめりになっても、労働力と食糧さえまともに自給できないこの国に戦争の遂行が無理であるのは、すでに70年以上前に立証済みである。我が国には戦争に長期に渡り持ちこたえられるだけの体力も知恵もない。経済活動においても原則は同じであり、国内で需要を満たせない分、野心を抱いて海外に進出すれば、情勢の悪化に伴い、撤退を迫られたり、社員が現地に取り残されて帰国できなくなるだけである。


・リゾート法の二の舞となるであろうカジノ法案――20年と経たずに次々と破綻したテーマパークの前例――
 
さて、カジノ法(案)については、政府与党は、参議院での採決を延期するか、省略するかして、国民の目を欺き、国民感情が冷めてから実行に移せば何とかなると考えていると思われるが、現実はそれほど甘くない。

国会で拙速に法案を通したとしても、その後、カジノ法には、予想もしなかった様々な障害が持ち上がり、結果として、近道をしたはずが、最も遠回りになるだけであろう。

そもそもカジノなど、原発と同じで、いざ立地となれば、強硬な住民反対運動が起きることは目に見えている。

自分の住む街を、一攫千金の夢に騙されて賭けに負けた、人生のうらぶれた敗残者たちが、夜な夜な当てもなくうろつくような、恐ろしい界隈にしたいと願う住人は一人もいない。

どんなにIRに建設されるのはカジノだけではないと役人が念を押しても、住民は「今のままで十分」、「怪しげな大人たちにウロウロされたんじゃ、子供を連れて散歩もできなくなる」、「治安が悪くなり、地価が下がる」などと言って反対することだろう。

カジノ建設を巡っても、原発建設の場合と同じような、建設反対派と賛成派とによる住民同士の分断や、長期に渡る反目が助長されかねないことだけでも、すでに今から大いなる負の懸念材料である。

さて、「「巨大カジノ」で日本経済は本当に良くなるのか?」(静岡大学人文社会科学部教授 鳥畑与一 YOMIURI ONLINE 2016年11月07日 11時43分)などの論稿を参照しても、改めて、カジノを誘致して栄えた都市は基本的に世界にはないのだ、と思わざるを得ない。

カジノ大国の米国でさえ、
  

カジノによる繁栄の象徴であったアトランティックシティ(ニュージャージー州)が、カジノ収益の半減により、12あったカジノのうち、5つが閉鎖し、市経済が破綻に瀕している。ミシシッピ州の貧しい街がカジノで再生し、「チュニカの奇跡」と称賛されたカジノ街・チュニカも同様である

という状況であり、世界では希少なカジノ誘致の成功例のように言われるシンガポールでも、国内客のカジノ利用は厳しく規制されている。つまり、シンガポールのカジノは主として外国客向けで、国内客が集まらないおかげで、ようやく治安と依存症対策が保たれている様子である。

だから、もともと観光を主産業としているわけでない日本にカジノを建設してみたところで、外国客だけを最初からターゲットに絞るのは極めて困難と思われる。複合型施設というのであれば、なおさらのことである。従って、日本にIRを建設し、これを日本人客向けに経営すれば、結局、日本人の利用客を対象として見込むことになるが、この娯楽は日本人の従来の生活観・道徳観になじまないので、客足が遠のいて米国の二の舞となり、カジノは早期に破綻し、街の活性化にはつながらず、ただ治安が悪くなるだけに終わることは目に見えている。

カジノ法案は、かつてのリゾート法を彷彿とさせるが、カジノも、経営戦略においては、他の娯楽施設とそう大きな違いはないはずである。

かつてバブル期の87年に「総合保養地域整備法(通称リゾート法」が成立した。これに基づき、全国に無数のテーマパークの建設ラッシュが相次いだが、そのほとんどが、わずか20年も経たずに経営破綻したという事実に、大型娯楽施設の経営の難しさがよく証明されている。

次のサイトに掲載されているだけでも、リゾート法成立後に建設され、破綻(閉園)となった有名どころのテーマパークはこれほど数多く存在する。(紫字はすでに閉園済)。

倉敷チボリ公園の閉園や、ハウステンボスの経営破綻などは有名な例だが、リゾート法に後押しされて、国内客を当て込んで建設されたテーマパークは、その9割近くがすでに閉園となり、しかも、カジノの場合は、対象客が絞り込まれておらず、需要が明白でない上に、他の娯楽施設にはない弊害が「負のおまけ」として着いて来る。
 

長崎オランダ村(開園1983年、閉園2001年)
ハウステンポス(開園1992年、2003年破綻)
グリュック王国(帯広市 開園1989年、閉園2003年)
カナディアンワールド公園(芦別市 開園1990年、閉園97年)
志摩スペイン村(三重 開園1994年、2006年経営再建)
レオマワールド(丸亀市 開園1991年、2000年閉園)
呉ポートピアランド(呉市 92年開園、98年閉園)
柏崎トルコ文化村(柏崎市 96年開園、2001年閉園)
ナムコ・ワンダー・エッグ(1992年開園、2000年閉園)
シーガイア(宮崎 開園1994年、2001年破綻)
ワイルド・ブルー・ヨコハマ(開園1992年、2001年廃園)
鎌倉シネマワールド(95年開園、98年閉園)
富士ガリバー王国(上九一色村 97年開園、2001年閉園)
アジアパーク(熊本県荒尾市  93年開園、2000年閉園) 
チボリ公園(倉敷市 97年開園、2001年経営建直し、2008年閉園)
スペースワールド(北九州市 90年開園、2005年破綻)
新潟ロシア村(1993年開園、2003年閉園)
フェスティバル・ゲート(97年開業、2004年閉業)
ネイブルランド(大牟田市 95年開園、98年閉園)
伊豆長岡スポーツWワ-ルド(伊豆の国市、88年開園、96年倒産 )

かつてのリゾート法の反省もないままに、またぞろ過去と同じような政策を打ち出して来るのだから、よくよく過去の総括ができない愚かな政府である。

リゾート法とカジノ法案の抱える問題の類似性は、どちらもが、地元の歴史や伝統に根差した独自性のある産業の育成に力を入れず、外国からの借り物に過ぎないノウハウを使った娯楽施設を一朝一夕で建設し、短期間で一獲千金を狙うという安易な発想と、地域産業の活性化を国が主導・管理しようとする越権行為である。

早い話が、地域の活性化に名を借りて、国が大規模な建設需要を作り出して、手っ取り早く土建業者に利益を渡すための癒着の仕組みである。地元を犠牲にした利権にまみれた儲け話だから暴走しているのである。

安倍首相はカジノで雇用が創出できるなどと吹聴しているようだが、カジノを使わなければ創出できない雇用など、なくて結構である。売春宿に雇用されていることが、人にとって何の誇りともならないのと同じように、人様の不幸を踏み台にしてまで、自分だけが雇用にありつくことを、人に平気で願わせるような仕組みはこの国に必要ない。そんな「就職」がカタギの人間の人生にとって誇りとなり幸いをもたらすと思っている人間はすでに気が狂っている。

それにしても、市場原理主義もここまで行き着くいたのかと思う末期状態である。もともと金儲けが全てという価値観を教育現場にまで持ち込み、学校時代から、級友を出し抜いて、自分だけがテストで良い点数を取り、受験競争を勝ち抜いて、良い学校へ進学し、エリート官僚になり、エリート企業に就職して、上級国民の仲間入りすることだけを隠れた「国是」とするような、歪んだ教育システムを普及させ、国民の間に無駄に競争を煽った結果がこれである。

国民同士が互いを騙し合い、踏みつけ合い、食い合ってでも、人の弱みを利用して、他者を最大限不幸に追いやりながら、自分一人だけ、利益を得て甘い汁を吸い、勝ち残りさえすれば、人生の「勝者」だというわけであろう。

こんな悪魔的な競争からは、早期にリタイアするに限る。

カジノ法のようなものを放置していれば、次なる儲け話として、今度は国際的な大規模売春施設のビジネス展開やら、福島原発における廃炉作業や、自衛隊のかけつけ警護などを含めた、「現代の特攻・人材派遣ビジネス(実質的な人身売買)」などといった話も出て来よう。

戦前・戦中もそうであったが、人々の経済難・就職難という不幸を悪用して、人間を死出の旅路に赴かせる「人材派遣業(人身売買)」が隆盛を極めるのであろう。

我が国政府は、戦前・戦中も、国民の犠牲の山を作り出し、これを踏み台として、蓄財の根拠とすることにしか関心がなかったのである。その体質は今日に至るまで変わらない。

地方は、これ以上、地元の活性化という自分たちの大切な仕事を、この悪魔的な日本政府に奪われるべきではないだろう。地方の成長には、中央集権化された政府のマニュアルは必要ない。何百年間とそこに暮らす人々の間に受け継がれて来た地の利に関する知識や、伝統産業の技法や、地元の人々の自主的な暮らしの中で得られた知恵と工夫によって、生き延びる策は見つかるはずだ。それは外国から輸入することによって補いうるような紛い物のにわか知識ではないはずである。

大体、人間が自分の頭を使ってきちんと物事を考えなくなり、安易なマニュアルに頼って一獲千金の夢を目指し、それによって経済成長を成し遂げることができると考えるようになれば、そんな人間はもうおしまいであり、そういう考えの地域は真っ先に衰退して滅びるだけであろう。ギャンブルに手を出す人間も、そんな「ビジネス」に頼って産業を活性化できると考える面々も、どうかしており、共に気が狂っている。結局は両者共に同じ穴の狢で、悪魔的破滅へ落ちて行くだけである。関わらないのが一番である。


・各種の目くらましの反政府運動――SEALDsの人工芝・ネームロンダリング・政治資金規正法違反疑惑――

さて、少し遅くなったが、色んな場所で以下のビデオが拡散されていたので、ここにも貼り付けておきたい。

御用メディアと新聞がもはや人々に飽きられて見向きもされなくなってしまった中、アーティストによるこのような「抵抗運動」は、今後ももっと増えて来るものと思われる。もともと芸術には真の犠牲に裏打ちされた迫真性がなければ、決して人々に支持されることはない。

長渕剛について筆者は今は何とも言えないが、各人の抵抗がどれだけ本気であるかは、その生き様によって裏付けられるだろう。中島みゆきのように、ある程度までは、はみだし者・反骨精神のアーティストとしてかなり良い線を行きながらも、団塊の世代の代弁者として高度経済成長などの国策に沿った歌を作り、最終的には国策及びメディアと合体してしまうのか、それとも最後まで反骨精神のアーティストとして残るのか、興味深いところである。


【長渕剛】FNS歌謡祭 初出演!『魂の叫び〜乾杯』(2016/12/07... 投稿者 happy274

ただし、LITERAの解説「長渕剛がFNS歌謡祭でワイドショーや歌番組を真っ向批判! 凍りつくフジ、『とくダネ!』は長渕映像を封印」(2016.12.08.)を読むと、長渕剛は反安倍政権デモの学生団体SEALDsを支持していたようであり、この点はいただけない。

SEALDsについては、すでに色々なところで疑惑が表明されており、その中でも最も有力な説はこれが草の根反対運動に見せかけだけの「人工芝運動」であるということである。以前から当ブログでも、この学生運動は、体制側によって巧妙に仕組まれた偽りの運動に過ぎないという見解を示して来た。

特に、信仰者の立場からあえて言わねばならないことは、聖書に基づくキリスト教信仰と、組織としてのキリスト教界は全く別物であり、キリスト教界(関係者含む)は偽善にまみれて腐敗した組織となっているため、キリスト教界とその関係者から出て来る「善良そうに見える弱者救済運動」は、特に内容を疑ってみる必要があるということだ。

SEALDs代表者の奥田愛基氏の父奥田知志氏は、すでに述べた通り、ホームレス伝道という弱者救済事業に従事する牧師であるが、奥田牧師の弱者救済思想の理念をつぶさに見て行けば、それが極めて聖書から離れた、牧師にふさわしくない異端的な思想であることは、すでに記事の中で明らかにした。

そもそもキリスト教は、聖書の神の御言葉に基づく信仰による救いという、目に見えないパンを人々に紹介することを第一義的課題としており、これは経済困窮者に地上のパンを与えることを主たる目的とする弱者救済の思想や社会活動ではない。にも関わらず、目に見えないパンと、目に見える地上のパンの優先順位を逆にしたとき、それはたとえどんなに人間の目や耳に優しく心地よく響いても、もはやキリスト教ではない悪魔的な思想へと変わって行くのである。

こうした見地に立てば、奥田牧師は真の信仰者でなく、キリスト教徒に見せかけた非キリスト教思想の持主であり、愛基氏は幼い頃からホームレス伝道にのめりこむ父親の悪影響を受けて、自身が深い孤独や絶望を経験したにも関わらず、父親の活動の欺瞞を批判することなく、むしろ、これを継承し、同じ手法によって、弱者の弱みにつけ込み、救済者のような役を演じることによって、世間の注目を浴びて有名人となった。愛基氏の活動は、キリスト教のホームレス(路上生活者)伝道の手法から宗教色を除き去り、対象者を路上デモ者に置き変えただけのものである。

SEALDsはこれまで幾度も名前をころころと変えては活動を行い、現在は、Re:DEMOSと改称している。奥田氏が2011年の震災後に主宰した政治団体だけでも、TAZ、SASPL、SEALDsといくつも名称が変わっている。

これほど短期間で頻繁に名称を変えねばならない理由は不明であり、特に、SEALDsが何の目的達成もされていないのに、昨年8月15日という時期に解散した意味も全く不明であり、その解散前に、この団体に対する政治資金規正法違反の疑惑が浮上していた事実は見逃せない。

SEALDs、政治資金規正法違反の疑惑浮上…違法な手段で寄付募集や政治活動か」(BUSINESS JOURNAL 2016.06.27)などを参照。

結局、SEALDsの解散は、政治資金規正法違反の疑惑から世間の目をそらすための目くらましであった可能性があり、その意味で奥田氏の度重なる政治団体の改称は「ネームロンダリング」とも揶揄される。

筆者は当ブログにおいて、ペンテコステ運動に属する似非キリスト教の教団である日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の(牧師でもない)信者の鵜川貴範氏が、幾度も幾度も名前を変えて、経歴を詐称しながら、自分のミニストリーを開いて来た過去があることを指摘した。

鵜川貴範氏に限らず、そのような方法は、ペンテコステ運動の偽指導者の使う常套手段である。この似非キリスト教運動は、短期間で、次々と新たな「自称預言者」を生産しては、社会的弱者などを旗印に使って、お涙頂戴の物語を提示し、指導者に派手なパフォーマンスを伴う新種のミニストリーを打ち出させることで、信者から金を巻き上げるプロの宗教詐欺である。

ペンテコステ運動の指導者らは突然、どこからともなく現れて、人目を引く派手なパフォーマンスを行い、弱者救済の理念を打ち出して、人々の同情や共感を巧みに引き出しながら、その間に集金活動にいそしみ、短期間で大量の献金を募って姿をくらますのである。しかも、鵜川氏に見るように、指導者としての訓練さえ受けていないたった一人の信徒が、生涯に渡り手を変え品を変え、このような詐欺的な活動を繰り返す例もある。

奥田愛基氏の行動は、こういう偽りのキリスト教徒の用いる方法を彷彿とさせるものである。

しかも、ペンテコステ運動の詐欺師と呼ばれて差し支えない宗教指導者の多くは、社会的マイノリティの出身であったり、元ヤクザや、病者や、自殺志願者であったり、過去に何かしら不幸な体験や生い立ちを抱える「いわくつきの人間」であることが多い。

そうした人々が自分の負の体験や生い立ちを売り物にして、自らを「社会的弱者の代表者」のように見せかけ、人々の被害者意識と一体化し、同情票を得ながら、集金活動を行う。奥田氏の活動はその点もよく似ている。

多くの日本人は、弱者救済に見せかけた偽りのお涙頂戴物語を疑うことができないので、これが詐欺の仕掛けであることをも見抜けず、自分の代わりに抗議の声を上げてくれそうな誰かに安易に期待しては、資金を託そうとする。

だが、こうして自分自身は声を上げずに、今まで通りの生活を送りながら、自分の代わりに疑問を代弁してくれそうな誰かに期待を託した時点で、裏切られることはすでに決定済だと言えよう。

そのことは、川内原発の再稼働反対を訴えて当選したはずの鹿児島県知事三田園氏の「変節ぶり」からも見えて来る。同氏の変節は選挙当選直後から始まっていたようである。

【三反園ショック(上)】「原発ばっかり、答えようがない」 当選後、報道陣振り切る三反園氏…九電「元の木阿弥」募る懸念」(産経WEST 2016.7.12 07:36更新)

三反園鹿児島県知事の正体(上) 」(ニュースサイト ハンター 2016年10月11日 11:10 この他にも一連の記事あり)などを参照されたい。

同じことが、翁長知事にも当てはまる。翁長知事は「辺野古に基地を作らせない」ことを公約に掲げながらも、その行動を見れば、結局、基地建設を容認する側に回るであろうという予測を、植草一秀氏が何度も訴えている。

筆者は、これまで幾度か、沖縄の基地問題について、記事を書こうとしたが、その度ごとに思い起こされるのが、沖縄のキリスト教界におけるカルト被害者問題であった。

筆者にはどうしても沖縄の人々を一方的な被害者として描くことはできない。筆者は当ブログにおいて、上記した通り、似非キリスト教であるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団において、キリスト教界において被害を受けたとする「カルト被害者らの救済活動」を主導する村上密牧師が、どれほど危険で信用ならない人物であるか、再三に渡り、書いて来た。

だが、沖縄のカルト被害者の一部は、同牧師の信用できない人柄を筆者以上によく知っていながら、それでも公然と反対の声を上げないのである。沖縄には村上氏の統制が本土以上に行き届いており、反対者は即座に報復を受けるというのが理由であった。

これを知った時、筆者は何と臆病なことかと思うと同時に、直観的に翁長知事のことが頭をよぎった。沖縄の人々は、自分たちの問題を手っ取り早く解決してくれそうな政治的リーダーに安直な期待を寄せるという受け身の生き方を未だやめられないのかと思ったのである。

リーダーに欠点があることを知っていても、それでもまだ自分ではない誰かに自分たちの「被害」を代弁してもらおうというナイーブで依存的なものの考え方をしている限り、きっとこれからも騙され続けるだろうという気がしたのである。

これはあながち厳しすぎる書き方とは言えない。それは筆者自身が、キリスト教界において「神の代弁者」をきどる牧師やパスタ―などといった人種がどれほど不誠実で信頼ならない私利私欲にまみれた偽善者であるかを軒並み見続けて来たことから来る直観的な確信である。

政治家も宗教家も、騙しのテクニックはみな同じで、人が自分に関する極めて深刻重要な問題の解決を、自分ではない誰かに全権委任し、その人間が善意によって自分の要望に都合良く応えてくれるだろうと期待し始めた時点で、敗北はすでに始まっているのだと言えよう。

沖縄の独立という問題は、日本全体の独立とも深くつながる精神的には一つづきの問題だと筆者は考えるが、この問題が長引いている背景には、人々の弱みを利用し、依存心につけこむ悪なる権力者たちの存在があるだけでなく、そうした欲深い権力者の正体を見抜けず、彼らに自ら期待を託そうとする人々の愚かさという問題がある。

人間の真の自立は、目に見える人間のリーダーへの安易な依存や期待を捨てて、まず、自分の抱える問題を、誰にも明け渡さず、ただ自らの力だけで解決してみせるという意気込みを持たない限り、決してやって来ることはない。自分の抱える問題を他者に解決してもらおうとしている限り、その人間は自立のスタートラインにさえ立てないと思われてならない。

SEALDsにも全く同じことが言える。人々がこの団体に希望を託そうとするのは、自分にはできないことを彼らが自分に代わって成し遂げてくれるという期待からである。この団体を支援する人々の心理は、慈善事業への支持とほぼ同じで、要は特権階級による一種の罪滅ぼしである。

若者だから、話が巧みだから、勢いがあって、純粋で善良そうだから・・・、そんなうわべは、彼らが信用できる人間だという何の根拠ともならない。いつの時代も詐欺師ほどパフォーマンスは巧みなのである。

奥田愛基氏のように、2015年以前にはほとんど注目されていなかった若者が、何のバックアップなしに独力でメディアで注目される活動を行うことは、まず無理なのだという事実に気づかなければならない。メディアに好意的に取り上げられていること自体が、すでに十分な疑いの根拠になりうる。以下の画像は、「元SEALDS政治資金規正法違反、カンパの使途不明、収支報告非公開、資金源についての調査1」M.x.file (2016/9/21(水) )から転載したものだが、このような広告を朝日新聞の前5段に載せるには、定価ベースで1500万円の資金が必要となるという。

この不況下で、求人広告さえ有償で出せない中小企業も多い中、学生団体に過ぎないものが、このような高額な広告を出し、それが社会に容認されていること自体、随分、おかしな話であると、多くの人々はなぜ疑わないのか。こんな広告が出せるなら、SEALDsがカンパを募らなければならない必然性はもとよりないと言えよう。にも関わらず、「学生の善意と借金で運営されている」などとアピールして、しきりにカンパを募り、しかも、そのカンパさえ、政治資金規正法違反の疑いが濃厚というのだから、こんな団体のどこに透明性・信頼性があるだろうか。

よくよくダブルメッセージが大好きな連中であると思う。美しい謳い文句だけを掲げて、この国が民主主義国家であるかのように見せかけて、人々を酔わせておいて、本質的に重要なアクションが何であるかを人々に見失わせ、人の目を欺いて、正反対の結果を導くのである。

「断固、ブレない、TPP反対」などと言っていた連中と全く同じ手法である。目下、我が国の民主主義は立ち止まり、機能停止の上、死に瀕している。SEALDsが民主主義の前進の何の役に立ったというのか。言っておくが、歴代首相のすべてが天皇家の血縁だという事実だけを見ても、我が国はもとより民主主義国家ではないことは誰の目にも明白である

イメージ 1
(この新聞広告が出せる団体は大企業に匹敵する。カンパの必要はない。)


・死者が大好きなオカルト政府とオカルト信者の安倍晋三による
真珠湾の死霊詣で

さて、この度、突然に発表された安倍晋三の真珠湾訪問について、これをサプライズ外交だなどともてはやすメディアはともかく、なぜ、今、真珠湾なのか。日本人の多くは突如、発表されたこの訪問について非常に不気味な印象を覚えている。

安倍のパールハーバー訪問は、まずは拙速なトランプ詣でに対して抗議を申し入れたというオバマ政権からのお仕置きのためのお詫び行脚の要求であった可能性が高いが、そうでなくとも、政治的に過去の出来事が引き合いに出される時には、いつでも現在の出来事と同時進行するものとして、二重のコンテクストを持つ。

安倍の他ならぬこの時期のパールハーバーへの訪問は、南スーダンへ自衛隊の派遣が行われたことなどともおそらく無関係ではあるまい。

つまり、この訪問は、これから先、自衛隊を軍隊に昇格させて「お国のために」命を捧げる人間たちを英雄化したいという安倍の野望に、米国の側からしっかり釘を刺す機会として利用されるものと思われる。もしも日本がこの先、軍国主義の復活を目指して、米国の指示に一歩でも先んじて暴走しようとするならば、何度でも同じことが起きるぞ、という警告である。

だから、安倍の今回の真珠湾訪問は、自衛隊の任務が着々と拡張されつつあることに対する米国からの牽制の意図があると受け止められる。70年以上前の日本軍の”罪過”を今再び蒸し返すことで、安倍の国家主義の暴走に釘を刺しているのである。

だが、それだけではない。兵頭正俊氏は、この訪問は、オバマの広島訪問と対を成すものであり、原爆投下に対する国際的な非難や、米国内での罪意識が高まる中で、要するに、原爆投下は日本軍の暴走を止めるためにやむを得ない措置だったというストーリーを強化し、今日の日米軍事同盟が、日米両国の双方からの合意に基づく欠かせないものであるものと見せかけるための儀礼的なパフォーマンスであるとみなす。
 

ポピュリズムとファシズム」(2016年12月8日)から引用

「太平洋戦争における、軍事的には不必要だった広島・長崎への原爆投下は、インディアンや黒人への原罪意識と同様に、時間とともに米国の贖罪意識に深化しつつある。また、米国の若い世代では、原爆投下は不必要だったという認識が増えてきている。それを解消するために、米国の1%はオバマを広島に遣わしたのである。

その意味は、太平洋戦争は、日本の宣戦布告なしのパールハーバー急襲から始まり、広島・長崎への原爆投下によって終わった。原爆投下は、戦争を終わらせるためにやむを得ないものであった。オバマの広島見物はこのストーリー強化の第一幕なのである。

(中略)

このストーリーを完成させるためには、第二幕として日本の首相にパールハーバーを訪問させ、謝罪させなければならない。そこで初めて米国は太平洋戦争の贖罪意識を払拭できるのだ。

米国にとってはパールハーバーがあくまでも中心であり、パールハーバーによって広島・長崎を相対化したいのである。

(中略)

広島とパールハーバーを両国の首脳が相互訪問する戦略は、

1 米国の広島・長崎への贖罪意識の払拭

2 米日軍事同盟の強化

の2点から成っている。

(中略)

行き着く果ては米日軍事同盟の強化なのだ。

第一幕はすでに上がった。オバマの広島見物で日本が失ったものは大きい。いずれオバマによって拡大強化された小型核兵器を、米軍支配下の自衛隊が使う時代がくるかもしれない

こうして、「真珠湾攻撃があったから、原爆投下もやむを得なかったのだ」というストーリーが強化され、到底、つり合わない二つの出来事を「相殺」することによって、原爆投下の罪悪が「帳消し」にされるだけでなく、結局、米国の助けなしには、日本は永久に自立などできない半人前の国家なのだというストーリー立てが日米の両政治家によって流布されるのである。

つまり、日本という国は、今も昔も、己自身の力だけによって自分を正しく治めることのできない半人前の未熟な国家であり、米国の庇護なしには一瞬たりとも自存できず、それは日本政府自らが認めている事実なのだから、日本の自衛隊も、日本国民も、米国の絶えざる監視と制約の下で行動するのは当然であるという見解を、日米両国の合意事項として既成事実化し、事実上の占領状態を半永久的に長引かせる狙いがあると考えられる。

安倍自身の思想に照らし合わせても、今回の真珠湾への慰霊訪問は、おそらく本意ではなかったに違いないと思われるが、そのようなストーリー立てにチャンスを与える隙を、拙速なトランプ詣でにより、安倍が自ら作ったのである。

日本という国は、70年以上も前の「罪過」をもとに未だに精神的に脅され、ゆすられ、半人前扱いされているのであるが、ある意味では、そのためにこそ、日本の政府高官や国会が、日本会議メンバーで占められているという事実や、安倍が首相であるという事実があるのではないだろうか。

岸信介がCIAに身売りしたことと引き換えに、A級戦犯としての処刑を免れ、首相の座にまで上り詰められたのだという話はよく広まっているが、米国は安倍晋三の危険な政治思想をよく知っているはずである。

こうした事実は、日本という国をあえて「自立できない危険な国」に見せかけ、思い通りに操り、弱体化しようと考える国が絶えず行っている見えないクーデターであると考えられないだろうか。

だが、安倍晋三は、我が国政治家が、単に政治的に米国に身売りしているだけでなく、霊的・魂的なレベルでも、悪魔に身売りしているのだという事実をよく示しているものと思う。

これまで当ブログでは、米国から持ち込まれたキリスト教の異端としてのペンテコステ運動が、いかに日本のキリスト教界を堕落させたかという危険な特徴について分析して来たが、安倍晋三は、この運動の危険な霊媒師と非常に共通する特徴を持っている。

ペンテコステ運動は一応表向きにはキリスト教を装っているが、実質的には、統一教会と変わらないただの異端であり、彼らを動かしているのは悪魔に由来する偽りの霊であって、彼らはその偽りの霊を受けて語る霊媒師なのである。

聖書のたとえでは、悪霊は、人間の中に大量に住むことができることが示されている。以下に挙げる安倍首相夫人の言を通しても、安倍が関わって来た「宗教」は統一教会だけではないこと、従って、安倍晋三はもはや一つや二つだけでないあらゆる正体不明の汚れた霊どもの住処になっている可能性が高いように思われてならない。

以下の記事がどこかの新興宗教のパンフレットであれば、誰も相手にせず笑って通り過ぎるだけであろうが、首相夫人の発言だというから呆れる。
 

「「日本の精神性が世界をリードしていかないと地球が終わる」 安倍昭恵氏インタビュー BLOGOS 2016年11月09日 11:14 以下、昭恵夫人の発言

深く考えないで」というか。何をするか考える時にも、「じゃぁ、これ!」みたいな感じで生きているので。

「そうですね。でも今はごちゃごちゃで、自分でも何してるのか、よくわかっていなくて。でも「神様に動かされてる」と思っているので(以下略)」

「キリスト教の学校で育ったんですけど、今は別にキリスト教というわけじゃなくて、どちらかというと神道です。」   

私は、大きな自然の一部であって、“動かされてる感”がすごくあるんですよね。主人もよく言うのですが、総理大臣は努力でなれるものではなくて。」   

「そこで総理大臣になるっていうのは、“何か持ってる”“何か別の力”だと思うんですよ。「神」という言い方をしなくてもいいんだけど、なんかこう、“大いなる力”が働いていると私は思っていて。その力にある意味流されてるというか、乗っかっているのかなと、私は感じます。  」

主人自身も特別な宗教があるわけじゃないんですけど、毎晩声を上げて、祈る言葉を唱えているような人なんですね。 」

こういう人々が「神」と呼んでいるものは、間違いなく、悪魔に由来する霊であって、この夫婦は正体不明のオカルトの「霊」に操られていればこそ、自分では主体的・能動的に物事を考えられなくなって、印象と感覚が命じるままに、受け身に流されて生きているのである。

ペンテコステ運動のようなキリスト教の異端の最たる特徴は、人間が知的・論理的に深く物事を考察することをやめて、ただ印象と直感を重視して、考えもなしに愚直な体験主義に走るようになる反知性主義にあって、その危険は、人間に理性を失わせる麻薬と同じである。だが、そのようにして理性を失っているにも関わらず、この運動の信者たちは、愚直な自分たちこそ最も賢く正しいと思い込むのであって、こうした頑なさ、高慢さは、悪魔に由来する「偽りの知恵」から来るものであることを再三に渡り、述べて来た。

その意味で、安倍首相夫妻の思想的高慢さは、まさにペンテコステ運動の信者たちと全く同じ病理的様相を呈している。物事をきちんと吟味・考察する力を失い、フワフワとした印象と感覚だけに流されて直情的・衝動的・受動的に、愚直な思いつきで生きているにも関わらず、そんな自分たちが世界で最も賢い知恵ある人間であるかのように思い込み、自分たちの指南がなければ「地球が終わる」とまで思い込んでいるのである。ほとほと呆れるとしか言いようがない。

どんな宗教を信じていようとも、こういう高慢さが、日本人の精神性のうちには含まれていないということだけははっきり言える。日本人はもともと謙遜を重んじ、決して自分自身を人前で高く評価したり、自ら勝ち誇ることを美徳としない国民性の持ち主である。

だから、上記の安倍首相夫人が述べているような思想は、明らかに、日本人の伝統的な精神性から出て来るものではなく、何か「外来の異質な思想」がそこに加わった結果である。

そして、こうした根拠のない思い上がりは、元を辿れば、大抵、悪魔が人間に吹き込んで生まれる異端思想へと行き着く。人間が自分自身できちんと物事を考えず、オカルト的な霊の言いなりになって受動的に動いていればこそ、「何か大きな力に突き動かされている」という自覚が生まれるのであり、悪魔に操られているにも関わらず、自分たちは「神に従っている」と思い込んでいるのである。

上記のインタビューの中で、首相夫人が、安倍総理が、総理にふさわしい実力もないのに、何か得体の知れない力が働いた結果、首相の座に返り咲いたと語っていることは重要である。

これは、安倍が首相の座に再び返り咲いたのが、(米国からの政治的なバックアップのみならず、)まぎれもなく悪魔的な力、オカルト的な力との闇取引の結果であることを物語っている。おそらくは、安倍はその正体不明の”霊力”を受けるためにこそ、毎晩、得体の知れない相手に向かって祈祷を続けているのであろう。そして、安倍の政治は、このオカルト的な呪いに満ちた霊力を我が国のみならず、全世界に波及させるための「祭祀」であり「儀式」なのである。

宗教に全く理解のない人々は、こうした話を笑って受け流すかも知れないが、悪魔と契約を結んだ結果、人が地上で偽りの栄光を受けることは、ハリウッドスターなどの芸能人や芸術家やマジシャンなどには極めてありがちな話である。

すでに述べた通り、悪魔に魅入られる人間には、幼少期からの暗い特殊な生い立ちがあることが多いが、安倍晋三にはその意味でも絶好の材料を持っている。これに加えて、人生のどこかの時点で、安倍自身がオカルト的な力に自分の魂を完全に売り渡し、それと引き換えに現在の立場を得ているのであろう。

悪霊から来る力を受けていればこそ、同氏の思想は反知性主義、人権抑圧の悪魔的思想に貫かれているのであって、同氏の用いる論法は、ことごとく嘘、詭弁、ごまかし、論理のすり替え、脅しなどの暗闇の手法に満ちているのである。

首相夫人の言葉によると、彼ら夫妻は、日本のみならず、全世界をも自らの悪魔的思想によって統治することを目指しているオカルト政治家ということになる。要するに、世界征服の野望に憑りつかれているのであって、彼らの言う「地球儀俯瞰外交」なるものはその野望の言い換えなのであろう。

そして、以前から書いている通り、悪魔的な思想は、常に死者の世界に非常な関心を抱いており、多くの霊媒師たちは、死者の霊と好んで交流する。

だから、安倍晋三が真珠湾に赴くのは、同氏による死者の霊への追っかけとみなせる。”英霊”に対する愛着もそうなのだが、そこには基本的に死者の霊への愛着が表れているだけでなく、もっと言えば、「自ら殺害した犠牲者の霊への尽きせぬ思慕」という、まさに犯罪者の精神性としか言いようのない異常嗜好が込められている。

以前、筆者は、安倍晋三の内心は、いや、安倍晋三だけでなく、日本政府の異常な精神性は、童話の『青ひげ』とまるで同じだと述べたことがある。『青ひげ』の童話においては、青ひげの家の秘密の部屋には、青ひげが自ら殺した数多くの妻の亡骸がうずたかく積まれていることになっている。だが、現実に、これを地で行っているのが我が国政府であり、我が国の厚労省の建物内部には、未だ70年近く前の戦没者の白骨がうずたかく積まれている。これはオカルトや創作ではなく、現実の話であり、どこにも引き取り手がなく、他に行き場がない戦没者たちの遺骨が当局に何十年間とため込まれているのである。

政府当局が、70年近く前に死んだ国民の身元も知れない白骨化した遺骸を、何十年間も公の官舎に大量にため込んでいるなどという話が、世界のどこか別の国で聞かれるであろうか?

この政府は、そういう異常なことをしておきながら、もう一方では、戦没者たちの亡骸の前に立って、さめざめと頭を垂れて空涙を流し、「二度と過ちは繰り返しませんから」などと述べて、反省したふりをしながら、犠牲者を上から見下し、人々の犠牲を利用して偽善者ぶりを最大限に発揮して、脚光を浴び、自己満足しているのである。

このようなものが真の反省とどうして言えるであろうか。我が国では、かつての軍国主義政府に逆らって特高警察に殺された人々の名誉回復さえまともになされていない。約70年前に政府が自ら殺したも同然の国民の亡骸さえも十分に弔っておらず、遺族のもとに返されてもいない。にもかかわらず、この国の政治家は、もう国内の犠牲者や、自国の戦没者はさて置いて、他国の戦没者を「追悼」するという華々しい役割を引き受けて、全国民に頭を下げさせ、自らを栄光化しようと言うのであろうか。どこまで浅ましい人たちなのか。

こうして、このオカルト政府は、自分たちが踏みにじり、愚弄し、犠牲とした人々を、死後までも半永久的に愚弄し、己が栄光の手段に変えることに、手放せない快楽を見いだし、そのためにこそ、彼らは好んでもの言えない死者を訪問するのである。生者からも生き血を吸うが、死者の栄光までも盗むのである。

こうして、一方では、口先だけで過去の「戦争の罪過」を反省したかのように装いながら、もう一方では、着々と防衛費を拡大し、自衛隊の任務を押し広げ、近々新たな戦争を起こして、どうやって自国民を犠牲にするか、機会を伺って話し合い、戦争が起こらないまでも、国民を紛争地へ送り込んで、どうやって国民の白骨をまた増やそうかという考えに胸躍らせているのである。

一体、これが青髭の異常な精神性とどう違うというのか。我が国はまさにかつてのソ連やナチスや北朝鮮とそっくりになって来ているとしか言えない。


・「風が吹けば桶屋が儲かる」――他者の弱みを食い物にして利益に変えるカルト宗教と偽善者政府とのマッチポンプ――

さて、このカルト化した政府は、死者から栄光を盗むだけでは飽き足らず、自らが国にもたらした恐るべき人心荒廃、国土の荒廃、国民に強いた犠牲に対する「処方箋」として、自分たちの偽りの「宗教」をマッチポンプとして提示する。

医者が人の病気なしには儲からないのと同様、詐欺師の政治家にとって最も困るのは、人々が自立して、彼らの助けを必要としなくなることである。だから、詐欺師の政治家にとっては、雇用情勢の悪化や、経済の貧困化など、国民の問題は山積しておいた方が良い。

だから、彼らは必ず人の弱みや、他者の犠牲を自分たちのパフォーマンスの材料として利用する。人の弱みにつけこんで、救済者のように登場し、脚光を浴び、栄光を受けようとする。彼らの政策はもともとすべてマッチポンプである。

もし他者に弱みがなければ、あえて問題を作り出してでも、彼らはターゲットとなる人間を弱体化させる。弱体化させた上で、自分たちの助けなしには生きられないと言って人を自分に依存させ、栄光を盗むのである。

安倍晋三の政治家としての手法は、人々の弱みを利用することで成り立って来た。だが、北朝鮮拉致被害者の問題もそうであるように、安倍晋三が着手して成果らしきものがわずかでも出た問題が一つでもあったか。

彼らにあずけた問題には解決がないのは当然で、こうした連中にとっては、いつまでも人を脅しつける材料として、人の弱みは永久になくならない方が有利なのだ。

こうして国民の弱みに寄生し、それを食い物とする政治家たちのマッチポンプが最後に行き着くのが宗教である。

この度、衆院でのカジノ法案の審議中、国会で般若心経を読み上げて批判を浴びたという自民党の谷川弥一衆院議員が、無駄な長広舌の中で語ったのが、カジノ法案がもたらす「負の部分」としての人心の荒廃に対する「処方箋」として宗教の必要性であった。

(「カジノ法案質問で般若心経 「採決前」6時間審議の中身」(J-Castニュース 2016/12/ 5 21:00等を参照。)

つまり、カジノ法などを通して徹底的に国民生活を荒廃させれば、人心荒廃現象に対する「救い」として、自ら宗教に走る人々が増えるから、宗教が儲かる、そこで政府は宗教の必要をぜひとも見直して、宗教ともっと緊密に連携していただきたい、というのが、この議員の主張であった。

自ら人心を荒廃させるような政策を推進しておきながら、「(野党のように対案もなくただ一方的に)批判するだけでは芸がない」、「我々には宗教というれっきとした『対案』がある」と言うわけである。

何ともおぞましいまでの偽善者ぶり、典型的なマッチポンプ型思考ではないか。

こういう偽善者の宗教家らにとっては、原発事故の被害を含め、国土の荒廃、人心の荒廃、国民の不幸、犠牲、弱みこそ、まさにビジネスチャンスなのである。徹底的に人を苦しめ、不幸に追いやり、犠牲にしておいて、自分たちは混乱の最中に、犠牲になった人々に優しく「救いの手」を差し伸べるヒーローを演じ、それをきっかけに人々をまた新たな抑圧の中へと閉じ込めて行くのである。

こうして、前回の"On your mark"に関する記事でも述べたように、放射能汚染などの恐怖によって人々を脅すことで、国民を自由なき牢獄に閉じ込めて支配するカルト宗教と、この宗教と一体化した政府が出来上がる。

谷川弥一衆院議員の主張の趣旨は、「カジノ法案その他その他で、この国が暗黒国家へと転落し、人心が荒廃した分は、我々宗教が受け皿になりますよ。こんな美味しい話はないじゃないですか。ですから、政府もぜひともここは一つ宗教と手を組んでですね、利益を山分けしましょう」ということに尽きる。

こんな話が国会で聞かれるということは、悪魔的宗教と政府が公然と手を結んで、祭政一致に至ろうとしている事実を示すものでしかない。我が国は、まるでヨーロッパ中世を彷彿とさせるような、暗黒国家への転落にさしかかっているのである。

この国の国民はそろそろ、この国のトップや要職の座についているのは、シャーマンと同様のいかがわしい霊媒師・詐欺師であって、彼らは次から次へと国民に目くらましの魔法(呪い)をかけては国民を抑圧し、国民が弱体化したところに偽りの助けの手を差し伸べることによって、救済者を演じながら、自らの魔術師としての仕事の需要を作り出しているだけだということに、いい加減、気づく必要がある。

彼らは、ペンテコステ運動の指導者と同じく、詐欺師であり、霊媒師なのである。彼らにとっての政治とは、自分たちのオカルト的な霊力を全国に押し広げ、波及させるための魔法としての「まつりごと(祭祀)」である。

彼らが次々と打ち出す政策は、霊媒師のお告げと同じく、決して的中することのない嘘の予言であり、彼らの繰り広げるパフォーマンスは、国民を欺くための「魔法」であると同時に、「呪い」である。これ以上、彼らに嘘と呪いの言葉を言わせないためには、彼らに口を開く機会を与えるべきではない。

安倍政権はそもそもが違憲内閣であり、この政権が実行することは、ことごとく規則破りであり、彼らの権威は、現実に立脚しない幻の上に築き上げられたものに過ぎない。安倍政権とそれに追従する人々は、害ばかりもたらす凶悪な政策を次々実行し、国を徹底的に破壊し尽くす前に、憲法違反の罪に問われ、公職から追放されなければならない。

だが、偽りの指導者とそれにつき従う従者たちは、自分たちが詐欺師であることをよくよく分かっていればこそ、その正体が告発される前に、先手を打って、憲法を改正し、人権を抑圧し、自分たちを告発する可能性を持つ人間(国民)を根こそぎ抑圧し、滅ぼそうとしているのである。

王妃エステルが大臣ハマンに立ち向かったように、自分の全ての利益と引き換えにしてでも、これらの連中を弾劾する人々が出て来なければならない。

2016年11月29日 (火)

イゼベルの霊がもたらす男女の秩序転覆――男性化した女性たちと、非男性化された男性たち

・「偽りの期待を持たせて人を欺きながら、梯子を外し、騙された相手を嘲笑する」(ダブルバインド)イゼベルの霊の典型的な心理操作のテクニック

さて、話題は少し変わるようだが、以前の記事の末尾で紹介したEden Mediaの警告動画では、興味深い事実が告げられている。それは「イゼベルの霊」が、女性の男性化と、男性の非男性化という転倒した現象を人々にもたらすという指摘である。

本稿では、ペンテコステ運動に関わった信者たちと接して来た筆者自身の実体験を通して、この問題について、より踏み込んで考察していきたい。




 
筆者は、ペンテコステ運動とはイゼベルの霊に率いられる弱者救済を装った秩序転覆(キリスト教破壊)運動であると見ており、イゼベルの霊とは、端的に言えば、グノーシス主義の秩序転覆の霊を意味する。

なぜイゼベルという女性の名がついているかと言えば、この霊は神に対する人類(霊的女性)の側からの反逆の霊であり、より低い次元では、男女の秩序を覆すフェミニズムの思想を指しているからである。ペンテコステ運動にも、その思想的な基盤に、フェミニズム神学なるものが存在することはすでに確認した。

このように、イゼベルの霊とは、男女の秩序を覆す霊、もっと言えば、神と人類との立場を置き換えて、被造物に過ぎない人間が、己を神として自分自身を拝み、栄光化する人類の自己崇拝とナルシシズムの霊であり、他者の心の傷をきっかけに人の心に侵入し、ターゲットを抑圧的に支配する。当然ながら、この霊は、ターゲットが自分よりも強い男性であっても、弱みを握ることで、思い通りに支配して行く。

さて、「男性の非男性化、女性の男性化」という本題に入る前に、まずは最初にイゼベルの霊の心理的支配のテクニックについて述べておきたい。

以下の図は、以上の動画の画像に筆者が注釈を書き加えたものであるが、これはイゼベルの霊がターゲットとする人間を、自分に都合の良い「箱(マトリックス)」に閉じ込めた上で、様々な心理的な駆け引きを行うことによってターゲットを自分の支配下に束縛し、搾取・抑圧する手法を構造的に表している。


   
イゼベルの霊とターゲットとは、何らかの心の傷(コンプレックスや負の記憶のトラウマ)を通じて強固なソウル・タイによって結ばれている。この霊は一見、人の心の傷に優しく寄り添い、これを癒してやるように見せかけながら、ターゲットに近づいて行く。その偽りを見抜けず、心を開いたターゲットは、彼女の偽りの優しさに依存するようになる。だが、イゼベルの霊は、ターゲットの心の傷を癒すどころか、より押し広げ、ますます重症化して行くことで、ターゲットの弱みを半永久的に握って、自分から離れられないように仕向ける。「傷」を頼りに結ばれるこの「絆」が絶ち切れない限り、ターゲットはイゼベルの霊によって永久に搾取され、人格がどんどん弱体化して行くことになる。

イゼベルの霊は、愛や同情や優しさに見せかけて、自分がターゲットを搾取し、不当に抑圧していることを気取られないように、ターゲットを自分の用意した「マトリックス」(=イゼベルの霊の管理と統制が行き届いている閉鎖的な組織や宗教団体やサークル等)に閉じ込め、ターゲットが得られる情報が非常に偏った一方的な内容に制限されるように操作する。

情報こそ、人間が物を考え、自由を希求する上で最も有力となる手掛かりなのであり、人間へのマインドコントロールは、まずはターゲットとなる人間から自由な情報源を奪い、ターゲットを社会的に孤立化させて、得られる情報を制限することから始まる。ターゲットとなる人が客観的な情報を自由に幅広く入手した上で、自分自身の頭で、何が正しくて何が間違っているのかを自主的に吟味し、物事を疑いながら批判的に考察しながら判断を下す自由と考察能力を失った時点で、マインドコントロールの基礎はほぼ完成している。

イゼベルの用意する「箱(マトリックス、子宮)」はそのためにこそ存在する。つまり、この霊は、ターゲットがまるで子宮の中にいる赤ん坊のように、彼女からの栄養補給がなければ、自分では何もできないような、依存的で手足を縛られた状態にするのである。この霊は、ターゲットを何かの閉鎖的な組織や団体に閉じ込めることで、ターゲットが誰とでも自由に交流でき、様々な情報を自分の意志で広く入手できるような環境を奪う。経済的な自立を奪うことで、行動を制限することも少なくない。そして、この霊は、自分の気に入った一方的で都合の良い偏った情報だけを、ターゲットに「正しい情報」として与え、それ以外の情報を一切、「間違ったもの」として受けつけなくなるように教え込むことで、ターゲットが不都合な情報に接するのを禁じ、マインドコントロールを施す。

多くの場合、宗教団体がターゲットを閉じ込める「マトリックス」の役割を果たすことになる。イゼベルの霊は、「神」の概念を悪用することによって、自分にとって都合の良い情報にしかターゲットが接触しなくなるように仕向ける。彼女は、世話好きで、慈愛に満ちた優しい助力者、敬虔な信者や、宗教指導者の姿に仮装し、自分こそが人生の正しい指南役であるかのように、ターゲットの前に現れてその心を掴み、「神」や「宗教」に名を借りて、ターゲットが自分の与える情報や助言だけに依存して生き、彼女の思う通りの人間になるよう操作して行く。こうして、イゼベルの霊が、ターゲットを閉じ込めるための「子宮(マトリックス)」が完成する。

もしこの霊の閉じ込めがあまりにも乱暴で性急であれば、誰でも自分が操作されている危険に気づくであろう。そこで、イゼベルの霊は、ターゲットが自分は騙され、搾取されているだけなのだとは気づかないように、様々な偽りの「餌」を与えることで、ターゲットを懐柔しながら、アメとムチによって心理的駆け引きを繰り広げる。ある時は、ターゲットをおだてあげ、立派な指導者的な立場などを用意してやることにより虚栄心をくすぐり、ある時は、か弱いふりをして、泣き落としや、同情を引き出す作戦に出、ある時は、性的な魅力をアピールし、思わせぶりな態度を取ることで、恋人の代わりを演じ、ある時は、何か偉大な奇跡のような事柄を約束し、心を揺さぶる。そのようにして、ターゲットを様々な「餌」を使って自分に引きつけておきながら、いざターゲットがそれに騙されて近づいてくると、冷たく突き放して混乱させる。そして、その混乱した姿を見て、ターゲットを侮蔑し、恥をかかせ、それはターゲットが悪かったからそうなったのだと言っては、罪悪感を持たせ、態度の改善を求めて、自分から離れられないようにして行くのである。

このように相矛盾するメッセージを同時に投げかける心理作戦(ダブルバインド)に陥れられたターゲットは、イゼベルの霊の絶えず豹変する矛盾に満ちた行動にどう反応すべきか分からず、立ちすくんでしまい、彼女への同情心や、自分が慰めてもらいたい願望から、彼女を憎み切ることもできず、離れられないまま、対処に悩み続けることになる。そのように悩みながらこの霊と関わりを続けること自体が、すでにしかけられた罠にはまっていることを意味するのである。

さて、このようなマインドコントロールのテクニックを用いて人を思うがままに支配するイゼベルの霊の持ち主が、必ずしも、女性であるとは限らない。なぜなら、男性であっても、イゼベルの霊とソウル・タイを結べば、その人の人格は、やがてイゼベルの霊そっくりになって行くからである。

たとえば、筆者は以前の記事で、Kingdom Fellowship ChucrhのDr.Lukeによる信者への心理的駆け引きの手法についてすでに触れた。同氏には、青春時代において、将来の結婚を前提とする交際をしていた女性から結婚を求められた際に、曖昧な態度で身をかわし、返答を先延ばしにしたことがきっかけとなって、交際が破局したという事件が起きたことを、同氏自身が、自らのメッセージにおいて明らかにしていたことにも触れた。

Dr.Lukeはそれがきっかけで神を求めて回心に至ったと証するのだが、その後の人生でも、全くこれと同じパターンの行動を繰り返し、今度は、KFCという宗教団体を舞台として、そこへ集まって来る信者に対して、以上の女性に対して行ったのと同じ心理的駆け引きを繰り広げているのである。すなわち、同氏は、ブログやインターネットや動画や様々なツールを使って、いかに自分が霊的に高邁で魅力的な存在であるか(そこには性的な意味合いも当然ながら含まれる)をしきにりアピールしながら、人望を集め、その心理的トリックを見破れずに、同氏を魅力的な宗教指導者のように思って期待して近づいて来る信者らに対して、ことごとく「梯子を外す」ような行動に出て、彼らを失望させ、恥をかかせ、その信者らの混乱した様子を見て、「自分は何も約束していないのに、彼らは勝手に期待してぶら下がって来た。そういう依存的な心に問題があるのだ」などと言って彼らを侮蔑し、嘲笑するということの繰り返しであった。それでも、KFCに残り続けているのは、Dr.Lukeのそういう残酷な性格をよくよく理解した上で、殴られても殴られても夫のもとを去らない妻のように、何かの弱みがきっかけとなって、不当な扱いに完全に抵抗する力を失ってしまった信者たちだけである。

このように、何かの約束を口にしておきながら、それを守らず、あるいは思わせぶりな態度を取って人の心をひきつけておきながら、相手を突き放すことによって、ターゲットを混乱させ、その心を傷つけ、侮辱するという不誠実な行為は、典型的なイジメのテクニックである。こうした行動は、たとえば、Dr.Lukeが一方的に杉本徳久氏を提訴すると語った行動にも、よく表れていただろう。同氏は杉本徳久氏からの非難に遭遇した時、これに対してきちんと反論しようとはせず、誰も依頼していないにも関わらず、自ら勝手に筆者の名前を持ち出して、同氏に提訴の予告を行った。ところが、多くの関係者に絶大な影響を及ぼしたにも関わらず、同氏は、全く理由不明なまま、長期間に渡り、その宣言を実行に移そうとせず、ただ巻き込まれた関係者だけが大変な迷惑をこうむるという事態が起きた。Dr.Lukeがこの不誠実な行動に対して弁明らしき言葉を公に発したのはずっと何年も後になってからのことである。当時、筆者が同氏の行動の不誠実さを責め、どんなに対立している相手に対しても、そのような行動を取るべきでないと指摘し、回答を迫った時のDr.Lukeの反応は、まさに返答を先延ばしにすることで梯子を外し、自分の発言の影響に巻き込まれた全ての人間に恥をかかせ、追い詰めるものでしかなかった。しかも、KFC外の人間に対してはこのように曖昧な態度を取っておきながら、Dr.Lukeは元KFCの信者でありながら自分を批判する人間に対しては速やかな告訴に及んだのである。当時、同氏の行動の意味を正確に理解できる者はなかったであろう。

このようなことはすべてイゼベルの霊が行う心理的な駆け引きをよく物語っている。Dr.Lukeの行動は、自分の潔白を証明するために行われたものではなく、ただKFCという団体を通じて自分に接触して来た信者たちが、偽りの期待や、もしくは、何かのこじれた事件を通して自分自身につながり、半永久的に離れなれなくなることで、苦しめることを目的とするものであった。同氏は常日頃から特に何も事件が起きないまでも、他人にいたずらに期待を持たせておいて、約束したものを決して与えないことによって、いつまでも信者たちが自分から離れられなくなるように仕向けていたのである。

若い時分に、Dr.Lukeのこうした行動の背後にある不誠実さを見抜いた上で、同氏に対する希望を完全に捨てて、同氏の元を早々に去った女性は、その意味で、慧眼であったと言えよう。その女性に信仰があったのかどうかは知らないが、それに引き換え、これまで何十年間もDr.Lukeの人柄を観察して来たにも関わらず、今日になってもまだ、心理的なトリックを見抜けず、Dr.Lukeの信奉者となってKFCに束縛されている信者たち以上に愚かな存在はいない。むろん、彼らは何かの弱みを担保に取られていればこそ、不誠実な指導者といつまでも癒着を続けねばならない状況に陥っているのである。

このようなことは、村上密牧師のカルト被害者救済活動の場合にも、同じように当てはまる。村上牧師の人柄が、その外見とは裏腹に、全く信頼できない不誠実なものであることは、約14年前に鳴尾教会で同氏が引き起こした事件によって証明されている。村上牧師は、Dr.Lukeが公然とキリスト教界に反旗を翻すことで"ワル"をきどり、その挑戦的な態度で人気と注目を集めたのと同じように、キリスト教界に恨みを持つカルト被害者を集めて、裁判を通じてキリスト教界に戦いを挑むことで、自分自身を正義の味方のように見せかけたのである。

だが、その正義の味方としての立ち振る舞いも仮面に過ぎず、この牧師のもとに身を寄せた信者の中でも、裁判による解決に至るのはごくわずかでしかなく、裁判にも至らないケースが水面下に数多く存在し、真に解決を得られる信者は稀であった。さらに、鳴尾教会に対する訴訟に見るように、村上牧師自身が、スラップ訴訟としか言いようのない勝ち目のない裁判を自ら教会にしかけて、敗訴する側に回っている。そのように、問題解決の見込みがほとんどないにも関わらず、偽りの期待を持たせることによって信者たちを自分のもとに引きつけ、かつ、反対者をひどく中傷することで、自分自身の不誠実な行為の犠牲者となった人間を愚弄し、笑い者にするというのは、Dr.Lukeの行動とほとんど変わらない狭量さである。このような指導者が自らの配下にある者たちを守ることができないのは一目瞭然であろう。

だが、そうした特徴は、Dr.Lukeや村上密牧師といった個人に限ったものではなく、ペンテコステ運動全体の特徴でもある。天声教会のケースでも、KFCと全く同じように、教会という団体そのものが、指導者層が自分にとって都合の良い情報だけを一方的に信徒に信じ込ませるための「マトリックス」となっている。指導者自身も、社会から隔絶されたこの閉鎖的な環境に束縛されて、偏った物の見方しかできなくなっているが、信者たちもそこに束縛されている。

KFCや、天声教会や、カルト被害者救済活動のすべての例に共通するのは、彼らが指導者を中心に自分たちにとっての安全地帯である何かの「マトリックス」を作り、そこに閉じ込められている者だけが、正しい信仰の持ち主であって、自分たちの活動に反対する人間は皆、悪魔の手下であるかのような虚偽を流布している点である。さらに、既存のキリスト教界に対して挑発的に振る舞い、自分たちには従来のクリスチャンにはない正しさがあるかのように主張して、自分自身を正義の味方に見せかけ、常に反対者を侮辱したり嘲笑するようなメッセージを投げかけることで、批判を封じ込め、自分たちの優越性を主張しようとしている点も同じである。

彼らのメッセージ内容はほとんど全てが自分たちの正しさと優越性を誇示するためのものとなっている。それは彼らの「マトリックス」がいかに優れて正しいものであるかを、関係する信者たちに信じ込ませ、他の教会は堕落しているので決して行かない方が良いと思わせて、接触を禁じ、情報を統制した上で、自分たちのもとに永遠に束縛するために使われるマインドコントロールの手段である。

こうした指導者たちが、本当は、自分自身がまるで牢獄のような環境に閉じ込められて、自由を失っているにも関わらず、牢獄の外にはもっとひどい世界が広がっていると思わせることで、また、自分たちの活動に与しない反対者を徹底的に吊し上げ、公衆の面前で侮辱・嘲笑することによって、彼らの「マトリックス」の異常性に人々が気づいて脱走するのを阻止するという手法は、かつてソ連が取っていた政策にそっくりである。ソビエト・ロシアは、一国社会主義路線を取っていた間、世界から孤立していたが、戦争や計画経済の失敗によって国が荒廃し飢餓状態に陥ってもなお、自分たちの政策が世界に先駆けて優れたものであるという思い込みを捨てることなく、「西側の資本主義国では地獄絵図のような風景が広がっているが、それに比べれば、我が国はまるでユートピアだ」などと偽りの宣伝を行うことによって、国民の逃亡を阻止し、国外への亡命者に対しては「人民の敵」として大々的なバッシングを行うことで見せしめとし、国外逃亡に対してはこれを「罪」として死刑に相当する厳罰を科していた。共産主義という絶対にやって来ない幻を「餌」としてぶら下げることで、無いものを担保に、徹底的に国民を騙し、搾取し、支配していたのである。

なぜ以上に挙げたようなペンテコステ運動の指導者たちは、自己の教会を「マトリックス」化して、自由なき牢獄に自ら閉じ込められた上、他の者たちをも同じ牢獄に閉じ込めようとするのだろうか。そこにどんな目的があるのだろうか。

第一には、指導者が信者たちを食い物にして栄光を受け、金もうけをしたいという欲望があるだろう。イゼベルの霊は名誉欲の塊である。だが、彼女の内心は非常に空虚なので、自分一人だけでは何事も果たせず、常に手下となってくれる信奉者を必要とする。支持者や信奉者たちを搾取し、彼らから盗むことによってのみ、彼女は栄光を受けるのである。

この霊は偽りの希望を信者たちに持たせて彼らを欺いている間、信者たちから栄光を盗むだけでなく、金銭(献金)や労働(奉仕)をも搾取する。すでに述べた通り、ペンテコステ運動の指導者たちは、その出身を調べて行くと、その大半が、単なる「自称牧師」や「自称カウンセラー」などの、まともな教育訓練をほとんど受けていない、ただ勝手に指導者として名乗り出ただけの、ほとんど成り上がり者と言っても良いようなにわか牧者たちである。中には、明らかに問題のある環境に育ち、非行(場合によっては殺人さえ)などの眉をひそめる行為を繰り返していたり、回心してクリスチャンになった後でも、成熟した社会生活を送った経験がないに等しいような場合も珍しくない。このように、詐欺師と言っても過言ではないような不誠実かつ不適格な人間が、「聖霊のバプテスマ」を口実にして、何かの超自然的な霊力を誇たというだけで、無から一足飛びに宗教指導者として栄光の座に就き、短期間で、自分のミニストリーを開き、信者たちを集めて大金を巻き上げるのである。

こうした指導者は、(詐欺師はみなそうであるが)大胆で厚かましくパフォーマンスが巧みで、人の心の弱点を見抜いてそれを利用する技に長けているので、最初のうちは、弱者救済などを口実にして、既存のキリスト教界を勇敢に非難してその問題点をあぶり出し、悪代官をやっつける正義の味方のように振る舞い、人々の抱える問題に寄り添うことで、救済者のように振る舞い、注目を集め、感謝され、信頼され、期待されるかも知れない。

詐欺師は、無いところから幻に過ぎない栄光を引き出すために、他人の持っている栄光を盗むしかなく、その第一歩は、既存の秩序を引きずりおろして転覆させて、権力の空白地帯を作り出すことから始まる。彼らは従来の体制の不備を突き、それを転覆させる改革者のように装って現れ、その斬新で奇抜で挑戦的なパフォーマンスに圧倒された愚かな人々が、歓呼して彼らを支持し、そうした信者たちからさらに搾取して、自分の勝手気ままに支配できる団体(ミニストリー)を作り上げるのである。

だが、以上のようなペンテコステ運動の指導者たちは、突如としてどこからから現れ来て、一瞬、人々の注目をさらうものの、人間関係の結び方、行動があまりにも未熟で幼稚であり、不誠実かつ挑戦的なために、そのうち多くの人たちから相手にされなくなり、仲間内でも分裂し、孤立化して行くことになる。そうなると、何かしら一国社会主義路線のようなものが出来て、反対者も増えて来るので、信者の離散を食い止めるために、ますます彼らは疑心暗鬼に陥り、他の団体に対する敵意をむき出しにしながら、より厳しく情報を統制して引き締めをはかり、自己の優位性をしきりに強調して、信者を引き留めるしかなくなる。最後の一人が離脱するまで、自分の縄張りの外にいる信者たちを敵視・非難・断罪しながら、「自分たち(だけ)が正しい信仰の持ち主である」と言い張り続けるのであろう。指導者の不誠実な正体が早々に見抜かれてメンバー全員が離脱すればまだ良いが、そうならないうちに、指導者がいよいよ自分の正体が気づかれそうな段階になると、自らが責任追及されることを恐れて、人民寺院事件や、戦中の日本がまさにそうであったように、信者たちを道連れに集団的な心中ような悲劇的最期に向かうこともあり得る。そうなると、まさに「盗み・殺し・滅ぼす」という悪魔の意図が達成されることになる。


男性の「非男性化」と女性の「男性化」――イゼベルの霊が生み出す卑怯で軟弱化した男たちと尊大で厚かましい女性たち

さて、話を戻せば、筆者自身の目から見ても、ペンテコステ運動に関わる信者たちには、「女性の男性化」、「男性の女性化」という現象が顕著に見られた。

もっと卑近な言葉で説明するならば、この運動を特徴づけるのは、「男性の上に立ち、男性を思うがままに操ろうとする傲岸で不遜な女性たち」と、「そうした女性たちの尻に喜んで敷かれ、彼女たちの助けなくては何もできないほどまでに軟弱化した女々しい男性たち」であった。

ペンテコステ運動に関わる女性信者たちは、外見的には、非常に女性らしく、たおやかに、敬虔そうに、純粋そうに見えるかも知れない。以前、筆者は学生時代に遭遇した(後には著しいトラブルメーカーとなった)ペンテコステ信者について記事に記したことがあるが、彼女の場合も、その外見には、いずれそういう厄介な事態が持ち上がると予想させるものはなく、かえってある種の純粋な美しさのようなものさえ見て取れたものだ。その後、ペンテコステ信者たちとの関わりにおいて、筆者はこうした純粋そうに見える外見的な美が、この運動に関わる信者たちの多くに共通する特徴の一つであると分かった。

ペンテコステ運動に関わる女性信者たちは、一見、率直で、信仰熱心で、全てのことをあけっぴろげに語り、人の弱さに対しても敏感で、困っている他人にはかいがいしく寄り添う術を心得ており、その同情心溢れる行動や、親切心は、女性らしさや、内心の謙虚さの証のように見えるかも知れない。信仰生活においても、彼女たちは人助けに熱心で、自分が直面している問題や、様々な事柄についての印象を隠し立てなく語るので、それを信頼の証であるように誤解してしまう人もあるかも知れない。

だが、もう少し深く関わりを続けて行くと、そのぱっと見のたおやかさ、愛らしさ、優しさ、柔軟さとは裏腹に、彼女たちは内心では非常に頑固で、融通が利かず、しかも、一度、何かを思い込んだらどんなに周囲が止めても自制がきかないほどまでに猪突猛進で、その判断は、非常に偏っており、直情的で、非論理的で、一言で言えば、暗愚であり、何事も深く考察せず思いつきや印象だけで判断し、周囲の理解やサポートを度外視して、自分勝手に進んでいき、それにも関わらず、自分の判断に絶対的なまでの信頼を置いていることが分かるだろう。

彼女たちに何かを思いとどまるように説得するのは非常に困難である。なぜなら、彼女たちは、自分は他者よりも物事がよく分かっており、霊的に目が見えているのに、他者には自分ほど霊的視力がないから、自分の考えていることを理解できないのであって、そんな可哀想な彼らには、自分が逆に物事を教えてあげなければいけない、と考えているからだ。こうして彼女たちは、他者からの忠告を軽んじ、思い込んだ方向へまっしぐらに突き進んで行く。その勢いは止めようもないほど強引で、呆れながら見守っているしかない。すると、最後になって、やはり、彼女たちの確信は誤りだったのだということが事実として判明する。だが、それに巻き込まれた人たちは大変な迷惑をこうむるのである。

一言で言えば、ペンテコステ運動の支持者たちは、男女を問わず、大変なトラブルメーカーである。しかし、彼・彼女たちは、霊的な慢心に陥っているため、内心では自分を他者よりも賢いと思っており、自分がトラブルを引き起こしているとの自覚はない。彼らの自分は霊的に目が見えているという思い込みは、内心のコンプレックスの裏返しとして生まれる反知性主義から来る。

すでに述べたように、ペンテコステ運動の信者たちの中には、高学歴の信者は少なく、どちらかと言えば、マイノリティや、社会的に冷遇されて来た立場の信者が多く、女性信者たちの多くも、ごくごく平凡な主婦であったり、普通の人々であり、立派な学歴や、専門知識や、エリート的な職業を誇示して、自分は賢いとか、一般大衆に抜きんでた存在であるなどと言えるような人々はこの運動にはあまりいない。

だから、彼らは一見、自分たちは平凡な人間で、とりたてて賢いわけでもなく、特技があるわけでもないと振る舞っているが、その謙虚さも、真の謙遜ではなく、謙遜に見せかけた傲慢であり、彼らは謙虚そうな外見とは裏腹に、内心では、ひそかにあらゆる「知」を嫌悪し、憎みながら、無知である自分が最も賢いと考えているのである。

そのような考えが生まれる理由は、この運動の支持者らが、偽りの「霊」を受けていることにある。すでに述べた通り、ペンテコステ運動を率いる霊は、グノーシス主義的な秩序転覆の霊、人類の自己崇拝・自己栄化・ナルシシズムの霊である。この霊の特色は、まず反知性主義である。なぜなら、この霊の起源は、サタンが人類に吹き込んだ偽りの知恵に由来するからである。ペンテコステ運動が反知性主義的(別の言葉で言えば、体験主義)である理由は、まさにここにある。

なぜペンテコステ運動が体験重視なのかと言えば、それはこの運動が、もともとあらゆる知性(による考察と検証)を憎んでいるからである。この運動においては、何の論理的な裏付けも検証もなしに、信者たちが見せかけ倒しの奇跡や、安易な受け狙いのパフォーマンスに欺かれているが、そうなるのは、この運動に関わる信者たちがもともと深く物事を自らの頭で考察し、自分自身の知性によって検証することを馬鹿にし、嫌悪しているからである。こうした現象はペンテコステ運動を率いる反知性主義的な霊が引き起こしている霊的盲目である。

ペンテコステ運動の体験主義は、悪魔から来る偽りの知恵
であって、その起源は創世記において、エバが悪魔にそそのかされて、何が正しく、何が間違っているのかを自らの頭で考察・検証することをやめて、ただ感覚と印象だけに身を任せて、自分にとって美しく、好ましいと感じられる禁断の実を手に取って罪に堕落した時に、彼女に吹き込まれた偽りと同じトリックである。

悪魔は、決して信者たちに何事もきちんと考察・検証させず、ただ感覚と印象だけに従って、自分にとって好ましいものを選び取るようそそのかす。その上、そうした愚かで自己中心な行動によって、「神のようになれる」と吹き込むのである。今日も、ペンテコステ運動の信者たちは、何も考えずに自分にとって好ましいと思われる体験に安易に身を任せることで、自分が「神のように賢くなった」と偽りの高慢を吹き込まれているのだが、そんな思い上がりが、キリストの御霊から生まれて来ることは決してあり得ない。


ペンテコステ運動の信者たちは、内心では反知性主義的で、知性そのものを憎んでいる。彼らは、知性があるから、自分は賢いと考えているのではなく、「霊」を受け、何かの神秘体験を味わったから、自分には霊的視力が与えられたと思い込んでいるのである。彼らが「知性」だと考えているものは、その実、自らの欲にそそのかされる「愚かさ」であって、「霊的盲目」に他ならない。だが、その霊は、反知性主義的な高ぶりの霊であるがゆえに、それが愚かさに過ぎないことを気づかせず、むしろ、一番愚かな者に、「自分は一番賢く偉い」などと思い込ませるのである。


この反知性主義は、コンプレックスの裏返しでもある。もう一度、創世記で、悪魔がアダムとエバを堕落させるために欺いた時に用いた心理的トリックを振り返ると、悪魔は人類に向かって、「神は不当にあなた方(人類)の目から知性を隠して、知性を自分だけの専売特許として独占することによって、偉く賢い存在となっているのだ」などと思わせたことが分かる。悪魔は人類に対して、「あなた方は不当に教育(知)を受けられなかったがゆえに、未だ愚かさの中にとどめおかれているのであって、神のあなた方に対する扱いは不当である」という(神に対する)コンプレックスを植えつけたのである。

ペンテコステ運動の信者たちは、低い社会層の出身であることが多いと書いたが、彼らの中には、幼少期から満足な家庭環境がなかったために、心傷つき、あるいは低い社会層の出身であるがゆえに冷遇され、差別されたり、回心前には、少年時代からの不良であっていたり、非行に走っていたり、果てはヤクザになったりした者もある。こうした社会層の出身者には、たとえ無意識であっても、自分の生い立ちへの引け目があり、特に、「自分たちは貧しかったがゆえに不利な立場に置かれ、無学な状態に留め置かれ、十分な教育を受けられなかったために、こんなに愚かになってしまったのだ」というコンプレックスと恨みが心に存在していることが多い。そういう恨みは、特に、高い教育を独占することによって、有利な就職をし、高給にあずかり、「貴族」のごとく支配層となっている知的エリートに対する恨みとして心に潜んでいる。

その無意識の恨みと、被差別感情があるゆえに、彼らは常に自分よりも弱く、問題を抱えた人たちを周りに集めて、人々の救済者のように振る舞いたがるのであり、男性信者、男性指導者であれば、自分よりも知的な女性が目の前に現れた時に、コンプレックスゆえに彼女らを自分に対する大いなる脅威と感じ、敵愾心をむき出しにしたりするのである。

ペンテコステ運動の信者たちは、たとえ無意識であったとしても、いつまでも社会の底辺の敗残者とみなされたままでいることには我慢がならないという怒りと復讐心と、それでも、社会的弱者が知性において勝負しても知的エリートに決して勝つことはできないという確信から、自分たちを見下し、踏みつけにして来た知的エリートを出し抜くために、知性によらず、神秘体験を高く掲げることによって、エリートを凌駕し、復讐を果たそうと試みているのである。それは、彼らを導く霊がさせていることである。このようなことを全て認識した上で、この運動に入信する信者はいないであろうが、たとえ信者たちが認識していなくとも、この運動の根底に流れるものは、反知性主義を掲げることによる知的エリート(最終的には人類、神)に対する復讐である。

だから、こうした運動に関わる信者たちが、愚かな者こそ一番賢いと思って、一切の知的考察を退け、ただ感情と印象だけですべての物事をおしはかるような暗愚な行動を、「知」として誇っている背景には、自分は十分な教育の機会を不当に奪われて社会において冷遇されて来たがために、愚かさの中に閉じ込められて生きるしかなかったのだという恨みの念と、その劣等感ゆえに知性を軽んじ、嫌悪することで、あらゆる知的なものに対して優位に立ち、勝ち誇りたいという復讐心が潜んでいるのである。

筆者はむろん、この国の(あるいは世界の)知的エリートと呼ばれる人々の誇る知性が、必ずしも正しいものだとは思っていないし、彼らが高い教育を財力によって独占している状況もあるべきとは考えない。多くの国々では教育は無償化の方向へ進んでおり、それが世界的な流れであって、我が国もそうならなければならないと考えている。だが、たとえ、すべての人々が高い教育を受け、今とは比較にならないほどの知性を手に入れたとしても、まことの知恵はただ神にのみあり、人類にはどちらを向いても、正しい知恵はないのである。人間の知性にはいたずらに人を高ぶらせる効果がある。今日の知的エリートもまた歪み、病んでいる。だが、それでも、ペンテコステ運動の信者たちの知的エリート主義に対する反発から生まれる反知性主義がいただけないのは、たとえそれがどんなに表面的には、社会構造の歪みから生まれるやむを得ない反発であるように見受けられたとしても、その根底には、神に対する恨みに起因する、人類と神への挑戦という恐るべき性質が隠されているからである。特に、ペンテコステ運動の信者たちは、自らの無知や愚かさを「知」として誇ることで、内心では、悪魔の知恵を振りかざして神の知恵に挑戦しているのである。

こうした特徴のために、ペンテコステ運動に関わる信者たちは、うわべは柔軟で謙虚そうに振る舞っていても、内心では頑固で融通が利かず、一旦何かを思い込むと、周囲のどんな説得にも耳を貸さず、誰に対しても、自分の方が物事がよく見えていると思い込み、その思い込みに基づいて、他者を思い通りにコントロールしようとするのである。

だから、この運動に関わる女性信者たちは、外見がどんなに女性らしく見えたとしても、男性的なまでに猛烈なパワーを発揮してリーダーシップを握り、旋風のごとく周りを巻き込みながら、あらゆる物事を自分の思い通りに進めようとする。

そして、これと引き換えに、この運動に関わる男性信者たちは、軟弱で、意志薄弱で、女性たちからの助けがなければ何もできないほどまでに臆病で無責任な卑怯者となって、上記のような信者たちの言いなりになって、その掌で転がされ、彼女たちの命令に引きずられて行くのである。

このように「男性化した女性」と「非男性化された男性」との転倒した秩序は、たとえば、KFCで隠れてメッセージを語っていたBr.Takaこと鵜川貴範氏とその妻直子氏の関係性にも顕著に見られた。二人の内で主導権を握っていたのは、明らかに妻の方であった。直子氏の高圧的で恫喝的な物言いの前には、Br.Takaのみならず、Dr.Lukeもまるで忠犬のごとく従っていたのであった。

ペンテコステ運動に関わる男性たちが、このように大胆不敵な女性たちに屈従するのは、彼らの内面が空虚で、劣等感に苛まれ、自己が傷ついているためであって、彼らには真のリーダーシップを取れるだけの自信と力がないのである。こうした男性たちには、支持者に誉めそやされ、他者を押しのけて優越感に浸る以外には、自信の源となるものがない。そして、他者から何かを盗むことだけを生き甲斐としている。

筆者は、ペンテコステ運動(だけに限らないが)の信者たちが、勝手に人のメールを転送したり、他人のブログ記事を自分が思いついたもののようにメッセージで利用したり、聖書や先人たちの著書を無断印刷して大量に配布したり、これを自分の作品のように自分のブログで著作権表示もなしに縦横無尽に引用したり、改造する場面を幾度となく見て来た。その結果、こうした剽窃は、盗みなのだという結論に筆者は至っている。

彼らは、自分に近づいて来る信者から栄光を盗むだけでなく、手柄を盗み、思想を盗み、夢を盗む。特に、人の望みを奪って、他者を失望させ、隅に追いやっておきながら、自分だけが脚光を浴びて、すべての栄光を独占することで、気に入らない他者に対する圧倒的な優位性を誇示することが、彼らの最大の生き甲斐であり、よすがである。

この人々は内心が空虚なので、人から盗む以外には、自己の自信と力の源となるものが存在しない。彼らが力強く、大胆に、目を輝かせて、立派そうな態度を取り、雄弁なメッセージを語るのは、イエスマンの支持者に囲まれて誉めそやされ、持ち上げられている時か、教師然と人を上から教えている時か、他者を批判して引きずりおろしている時か、自分よりも弱そうな誰かに支援者のように寄り添い、人の弱みを巧みに聞き出しては内心で自分の優位性を確認して満足している時か、あるいは、自分の偉大な超自然的な力を誇っているような時だけである。

彼らは、人に正体を見破られ、おべっかを受けられなくなり、捧げてもらうものもなくなり、盗むものがなくなり、自己の優越性が失われると、完全に心弱くなって力を失ってしまう。彼らは自分が栄光を受けることのできる舞台には、好んで出かけて行くが、いざ自分が不利な立場に置かれ、人に非難されたりすると、途端に臆病になり、まともな反論一つもできずに、仲間を見捨ててさっさと逃亡し、自己弁護や反論の仕事を支持者たちに任せきりにしながら、自分は影に隠れて陰湿な復讐計画にいそしむことも珍しくない。

多くの場合、ペンテコステ運動のリーダーたちは、あまりにも自尊心が傷つきやすく、臆病で、ナイーブなので、普通の人々であれば、公然と反論できるような些細な疑問や批判にさえ、まともに立ち向かう力がない。それはただ自尊心が傷つきやすすぎるためではなく、内心では、自分が詐欺師だという自覚があるので、反論できないということもあるだろう。

こんなリーダーだから、男性であっても、自分や、配下にある人間を、各種の脅威から力強く守ることもできず、仲間が傷つけられても、我が身可愛さに、自分だけ難を逃れることを最優先して逃亡することしかできない。要するに、彼らは聖書のたとえにある通り、群れを守らない雇われ羊飼いなのであり、羊を食い物にして栄光を受けることだけが目的で、敵の襲来を受ければ、真っ先に羊を見捨てて逃亡するような、勇気と潔さのかけらもない、男らしさを失った、見栄と自己保身だけが全ての、卑怯で臆病な牧者なのである。

だから、そういう臆病で見栄っ張りで自己中心なリーダーの周りには、自然と、同じような取り巻きだけが残ることになる。そのように臆病でずるくて身勝手な人々が、自分たちの弱さ、欠点、醜さには目をつぶって、互いを誉めそやし、自分たちを高く掲げて、神に等しい存在とみなして自画自賛し、自分たちに逆らう者は「悪魔の手下」とみなして中傷し、追い払い、気に入らない他者を呪い、裁きや、破滅の宣告を下すのであるから、目も当てられない有様となる。もうこうなっては、男性らしさ、女性らしさ云々というレベルの話ではなく、人格が荒廃して狂犬のようになって人間らしささえ失っていると言った方が良いだろう。

ペンテコステ運動とは、現実の人生において、社会的に低い立場に置かれ、冷遇され、様々な弱さや屈辱感や劣等感を抱える人々が、地道な努力によって自己の弱さを克服することなく、また、真に神により頼み、信仰によって強められることによってその弱さを克服しながら歩んで行くのでもなく、自分自身の弱さからは目を背け、手っ取り早く、悪魔的な力を手にすることによって、栄光の高みに上り、自分を踏みつけにした人々を見返すための、霊的ドーピングのようなものである。

この運動に関わる信者たちは、自己の真の状態から目を背けて、偽りの神秘体験によって自分が飛躍的に偉大になったかのように錯覚している。そして、リバイバルなどと言った偽りの夢と、自分は神に油注がれた偉大な預言者であって他の信者たちとは別格の存在であるという思い込みに基づいて虚栄に生きているので、そのような目くらましの現実逃避に生きている期間が長くなればなるほど、人格が弱まり、現実の様々な問題に勇気を持って自ら直面しながら生きる力がなくなって行く。

彼らは常日頃から、宗教の世界に逃げ込み、誰もが立ち向かわなければならないような現実の諸問題との接触を避け、自分がいつでも人から賞賛を受け、決して憎まれ役や悪役になって名誉を傷つけられたり、対立に巻き込まれることもなく、ヒーローとなって活躍できるような、安全で夢のような幻想の舞台を、弱すぎる自己のための延命集中治療室として用意している。彼らはその「マトリックス」にあまりにも長期間引きこもっているため、精神的には手足をもがれたも同然の状態であり、その救命室から一歩でも外に出ると、もう自分では生きられないほどに弱くなっている。

現実世界においては、そんな彼らの弱さのために、多くの場合、こうした指導者らの家庭は深刻な危機にさらされている。夫婦仲が悪かったり、配偶者をよそにして信者との霊的姦淫にふけっていたり、子供たちが病に倒れ、自殺に追い込まれていたりするが、それにも関わらず、こうした指導者たちは、自らの崩壊しかかった家庭や、孤独に悩み苦しんでいる(あるいは死にかかっている)家族をかえりみようともせず、自分一人だけ脚光を浴びる舞台に立って、立派な教師然とメッセージを語り、人々の注目と拍手喝采を浴びて満足していたりする。最悪のケースでは、子供たちが自殺に至っても、その事件を「神が信者としての私に与えたもうた信仰の試練」などと言って美化・正当化し、自分の宗教活動の異常さに気づくこともなくさらに突き進んで行く有様である。

筆者は、異端の宗教はみな弱肉強食であり最終的には子殺しへと結びつくと述べて来たが、このような域まで達すると、信者が支払った代償も大きすぎるので、偽りに気づいて後戻りすることもほぼ不可能であろうと思う。ペンテコステ運動が信者に与える影響とは、このようなものなのである。どうしてそんなものが正常な信仰と呼べようか。

ところで、筆者の考えでは、真の男性らしさというものは、自分を傷つけられたり、脅かされたりする時にも、忍耐強く耐えしのびつつ、苦難に力強く抵抗し、言うべきことはしっかり言って反論もしながら、自分を守り、同時に仲間を励まし、希望を持ち続ける力にこそある。

真の男性らしさとは、人からいわれなく誤解されたり、非難されたり、評判を傷つけられたり、反抗されたり、あるいは突如、襲来する敵と戦いになって傷を受けても、自分と自分の配下にあるものを最後まで力強く勇敢に守り抜くことができる強さにこそある。この強さは、ただ単に肉体的な強さを意味するのではなく、何よりも精神的な強さを意味する。だが、その強さは、己のためにあるのではなく、自分よりも弱いものをかばい、声なき者の声を代弁するための強さである。だから、真に男らしい人間は、自分が憎まれ役になって泥をかぶることを厭わず、誤解されること厭わず、自分の栄光を愛さず、傷つけられても力づくで報復しない。このような強さと忍耐こそ、真の男気につながる賞賛に値する美徳ではないかと筆者は考えている。

真に完成された「男らしさ」は、人間にはなく、人類の救いのために、あらぬ嫌疑をかけられ、いわれなく誤解され、憎まれて、十字架において死に渡されることによって、人類の反抗を耐え忍ばれたキリストにこそ、最もよく表れているのではないかと思う。キリストにこそ、神は男性に本来的に与えられた理想的な忍耐力を余すところなく表されたのではないかと筆者は考えている。その忍耐力とは、自己の名誉や、自己の評判や、自己の安全を守るために、自己の圧倒的な強さを他者に見せつけ、他者を力づくで排除してでも、自分の正当性を主張するというものではなかった。むしろ、自分を理解しない者、自分を誤解する者、自分を非難し、自分に石を投げ、嘲笑する者のために忍耐し、また、自分の愛する者、自分の信じる者のために、自分自身を完全に投げ出して犠牲にし、愛する者が真に自分を理解して振り返ってくれる時まで、誰にも何事も押しつけることなく待つことのできる力であった。

むろん、このような完全な忍耐と自己犠牲は、キリストにしか提供することのできないものであり、神がついておられればこそ、御子の正しさが証明されるのであって、人間が神に代わって自己犠牲することで他者を救うことはできないし、それによって自分の正しさを証明することもできないであろう。だが、我々は、キリストを模範として、そこから学ぶことはできる。キリストは聖霊を受け、神の力を持っておられたにも関わらず、それを自己の強さや優位性を他者に見せつけて、他者を圧倒して排除する目的では用いられなかった。キリストの力は、自己の正当性を主張するためではなく、神の栄光を証するために、他者を生かすために用いられ、ご自身はその力によって武装することなく、自分自身を誇示することもなく、むしろ、徹底的な弱さの中を通らされることによって、ご自身ではなく、神に栄光を帰されたのである。

その行動を見れば、ペンテコステ運動の信者たちの目指している目的が、どれほどキリストの示された模範からほど遠いものであるかが分かるであろう。この運動は、神に栄光を帰さず、キリストを証しない。むしろ、神を口実として、人類が己を神以上に高く掲げ、自己を栄光化し、自分自身を「神」として崇拝することを正当化する。この運動は、キリスト教に名を借りていても、その本質は全くキリスト教ではない異質な思想であり、そこでは、劣等感や心の傷や怨念によって癒着した人々が、キリスト教界を仮想敵として団結しながら、聖書の御言葉に基づく真の知恵ではない、体験主義という偽りの知恵を掲げて、キリスト教に戦いをしかけ、怨念と反知性主義によって、クリスチャンを引きずりおろして、その代わりに自分自身を高く掲げるのである。

彼らは常に仮想敵を作っては、自分たちは敵に囲まれ、不当に攻撃されていると言って騒いでいる。その仮想敵は、主にキリスト教界を指しているのだが、一体、それほどまでにキリスト教界を非難し、攻撃し、侮蔑せずにいられない彼らの恐怖と疑心暗鬼はどこから来るのであろうか。それは、彼らの内心の拭い難い恐怖と劣等感――根源的には悪魔の恐怖と屈辱感――に由来する。自分たちの卑怯さを重々内心では分かっており、自分たちはいつか罪のゆえに必ず裁かれ、その裁きはすでに決定済であるという確信あればこそ、彼らは絶えず恐怖に怯え、自己正当化のために、キリスト教とクリスチャンに有罪宣告せずにいられないのである。彼らに裁きを宣告するのが、聖書の神であり、キリストの十字架であり、クリスチャンの証であればこそ、彼らは自分たちを訴える者を早々に取り除き、消し去ろうと、今日もキリスト教界を敵とし、キリストの十字架を敵とし、クリスチャンを敵として非難しながら、「バラバを赦せ!キリストを殺せ!」と叫んでいるのである。どうしてこんな運動がキリスト教の一派のわけがあろうか。

2016年11月27日 (日)

クリスチャンに社会的弱者に対する負い目の意識を植えつけることで、神ではなく世に奉仕させる偽りのキリスト教としてのペンテコステ運動

・クリスチャンに社会的弱者への負い目の意識を植えつけることで、キリスト教を世人の利益に都合よく改造し、神ではなく人類に仕えさせようとする偽りのキリスト教としてのペンテコステ運動の危険

さて、これまでの記事において、イゼベルの霊というテーマを用いて、クリスチャンが怨念と被害者意識に支配されて、すべての物事を「加害者・被害者」の対立というフィルターを通して見るようになり、自分自身を被害者とみなすか、もしくは自分を加害者の立場に置いて、罪の意識から絶えざる懺悔と自己批判を繰り広げ、他者への償いを使命として生きるようになることの危険性を見て来た。

すでに見た通り、こうしたトリックは、異端の宗教では普通に用いられており、統一教会においては、信者に罪の意識を植えつけることで、償いとして奉仕活動や献金を促そうとする手法が使われている。しかし、今日、統一教会の脱会者である村上密牧師の主導で、ペンテコステ運動において繰り広げられている、キリスト教会で傷つけられた被害者を「救済する」ためのカルト被害者救済活動も、以上に書いたのと同じ心理的カラクリに基づくものであり、これはキリスト教の中にいながら、キリスト教への加害者意識を捨てられない者が、自らの拭い去れない罪の意識から繰り広げるキリスト教への自己批判であると同時に、罪の償いとしての社会的弱者への懺悔の活動であることを書いた。

だが、これに類似する現象は、ペンテコステ運動の枠組みを超えて、キリスト教界に広く普及しており、ホームレス伝道などの中にも同じ性質を見て取れる。ホームレス伝道に関しては別途、稿を改めて書きたいと考えているが、すでに過去の記事でも触れた通り、解散した学生団体SEALDsの代表者であった奥田愛基氏の父である奥田知志牧師や、マザー・テレサのケースに見るように、生涯を弱者救済活動に捧げる人間には、幼少期もしくは青春時代に何かの事件を通して決定的な罪の意識が心に植えつけられている場合が多く、(奥田牧師は釜ヶ崎で、マザー・テレサはインドのコルカタで、そのような体験をしたものと思われる)、こうした人々はその時に植えつけられた自らの罪の意識を払拭せんがために、残りの生涯を弱者救済事業に捧げざるを得なくなるのである。

このような文脈における弱者救済活動は、弱者救済という美しい響きとは裏腹に、実際には、たとえクリスチャンを名乗っていても、心傷つき、罪悪感に苛まれ、神の救いを見いだせない信者が、自らの心の傷を慰め、自分自身を罪から贖うために行う偽りの自己救済の試みであって、そのようなものは、真の意味での他者への愛や支援にはならない、ということをこれまで書いて来た。奥田牧師の場合にも、同牧師が自分の家庭を半ば置き去りにするような形で、ホームレス伝道にのめりこんでいた影響なども手伝って、息子の愛基氏が幼少期に絶望に至り、学校でのいじめなどを苦にして自殺未遂にまで至っていることが、息子の手記から明らかになっているという。このように、まるでかつての学生運動時代の共産主義の革命家を、キリスト教の社会活動家に置き変えただけのような、家庭をも自分をもかえりみない、痛ましいまでに自己犠牲的で熱血で悲壮な救済事業への取り組みは、決して健全な心理から生まれるものではなく、隣人愛に基づくものでもなく、ただ人間の罪の意識から出て来るものであって、決して誰に対しても正常な結果をももたらさないであろうと言える。

奥田家の場合は、同牧師は家庭に異変が起きても、ホームレス伝道への自らの熱意の裏にある動機の根本的な危険性に気づくことなく、同氏のホームレス救済事業は成功談のように美化され、息子もまた父の事業の根本的な歪みを疑うことなく、父の持っていた罪意識から来る使命感を受け継ぎ、路上デモ支援に身を捧げるなど、親子二代に渡って、類似する道を歩むことになっている。

本当は、このように人の家庭を歪め、子供たちを犠牲にしてまで行われる弱者救済事業は根本的に何かがおかしいのだと気づいて、これを美談として扱うことなく、息子は、この事業に働く怨念と罪の意識の呪縛を見抜いた上で、これと訣別し、いつまでも罪の償いのために生き続ける人生を拒否すべきであったろう。しかし、現実はそうはならず、親子二代に渡って、罪の意識による弱者への自己懺悔の活動が継承された。路上デモ者の苦難に寄り添い、彼らの苦難に自分の苦難を重ね、彼らに手を差し伸べることで自らに手を差し伸べ、路上に人生の活動の場を積極的に見いだす愛基氏の行動は、もともとキリスト教会の信者が繰り広げるホームレス伝道や路傍伝道から福音伝道の要素を抜き去っただけのものであり、そのスタイルはもともとキリスト教会の社会事業、もっと言えば同氏の父の活動に由来する。

本来、牧師という職業は、イエス・キリストが十字架において信じる者の一切の罪を贖われたので、これを信じるなら、もはやその信者が罪の意識に苦しめられて、自分で己が罪の償いを続ける必要はないという聖書の普遍的事実に立って、世の罪を指摘し、世に悔い改めを迫り、世に救いの道を指し示すべき立場にあるはずなのだが、今日のキリスト教は、神の福音だけではどうしても飽き足らなくなって、キリスト教は独善的で冷たいという世からの批判をかわすために、世に譲歩し、世からの承認と賛同を求めずにはいられなくなっている様子である。その歩み寄りが、社会的弱者の救済事業となって表れるのである。

近年、キリスト教においては、『キリスト教の自己批判:明日の福音のために』(上村静著、新教出版社、2013年)などといった著書にも見られるように、社会的弱者への憐れみの欠如した伝統的なキリスト教のあり方を厳しく批判し、これをキリスト教の「独善性」や「排他性」とみなして断罪(クリスチャンの側から自己批判)しながら、キリスト教徒はこれまで自ら無関心に見捨てて来た社会的弱者に対して罪の償いを果たすために行動すべきであると唱える理論がしきりに登場している。社会的弱者のために、という美化された口実があるために、こうした理論の本質的な危険性に気づいて声を上げる人間はほとんど皆無と言って良い状況にある。だが、「明日の福音のために」という、以上に挙げた著書のタイトルにもよく表れているように、こうした理論は、社会的弱者の利益に仕えようとしない排他的で独善的な宗教に未来はないとして、信者自身の告白という形を取りながらも、暗にキリスト教そのものを仮想敵のごとく非難し、変革を迫っているのである。

これまでにも幾度も述べて来たことであるが、このように、キリスト教の内側から出て来る自己批判を装いながら提示される偽りの弱者救済の理論には非常な注意と警戒が必要である。当ブログでは解放神学の危険性を考察することで、こうした偽りの弱者救済理論の持つ危険性を指摘して来たが、このような理論には、「キリスト教は社会的弱者の利益に奉仕するものでなければならない」という大義名分を振りかざして、従来のキリスト教を社会的弱者を排除する「残酷で独善的で排他的な宗教」であったと糾弾し、キリスト教に有罪を宣告し、キリスト教はもっと社会に貢献する寛容で慈愛に満ちた宗教に変革されねばならないと唱え、キリスト教の福音の本質を、巧妙に何か別のもの(すなわち、神の利益に奉仕するものから、人間の利益に奉仕するものへと)すり替えようとする意図がその根底に隠されている。

以上に挙げた『キリスト教の自己批判』においても、解放神学とほぼ同じように、キリスト教の使命を、人間の魂を救うことではなく、信仰を持たない社会的弱者の利益を確保するための社会奉仕活動へとすり替えてしまうよう効果が見て取れる。

こうした理論は、社会的弱者の存在を口実にしつつ、信者が目に見えないパンよりも、目に見える地上のパンを優先して生きるよう促し、キリスト教が人間の魂の救いよりもこの世の物質的な利益を優先して、神ではなく人類の利益に奉仕するものとなるよう、「救済」の概念を巧妙にすり替え、キリスト教の福音を人間の地上的な利益にかなうものへと変質させる効果を持っている。

このように神とこの世の地位を逆転させ、目に見えない霊的な糧とこの世の物質的な糧との優先順位を置き換える転倒した思想を普及させるために、偽りの弱者救済の理論は、「キリスト教はこれまで社会的弱者を十分にかえりみて来なかった」と言ってはクリスチャンを責め、クリスチャンに罪悪感を植えつけることで、世から贖い出された信者たちを、再び、この世の奴隷とし、人類の利益に奉仕する存在へと変えようとするのである。

一旦、このトリックにはまって、罪の意識を持ってしまえば、その信者は良心を汚されてしまい、もはや神の目に清められた者として自信を持って立つことはできなくなる。たとえかつてはキリストの十字架の贖いを信じて罪赦されたという自覚を持っていたとしても、再び、罪の意識の奴隷となれば、その負い目ある限り、その信者はずっと罪の奴隷、この世の奴隷として束縛された状態に置かれ、自ら「被害者」を名乗る人間(世)の意のままに動かされることになる。

聖書には、人間の罪を表すものとして「いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書」(コロサイ2:14)という言葉が用いられているが、罪悪感とは、霊的な文脈における貸し借りの関係であり、もしもある人が罪のために負い目の意識を持つならば、その人は霊的な負債を負っているのであり、たとえその負い目を発生させる源となった出来事がどんなに遠い過去であって、仮に当事者がすでに亡くなっているなどして、誰一人それを記憶している者がなかったとしても、本人さえもその出来事を忘れていたとしても、その霊的な負債が完済されて、貸し借りの関係が一切解消されていない限り、その人はいつまでも罪による束縛の下に置かれ続けることになる。

罪意識は、それがキリストの贖いによって解消されない限り、人が悪魔に脅され、この世の支配下に屈する最大の根拠とされるものである。これは悪魔が人を脅し、ゆすり、支配するための格好の材料である。統一教会を含む、いかがわしい各種の宗教では、不幸な事件に遭遇した人に対して、「あなたは十分に先祖供養しなかったために、先祖の祟りとしてこのような災いがふりかかったのだ」などと言って、人を脅し、その「罪」を解消するために高価な壺などを買わせようとする手法が知られているが、そこでは、人に罪悪感を植えつけることで、これを植えつけた人間がその相手を思い通りに支配するという心理的トリックが利用されているのである。

そこで、「キリスト教は社会的弱者を容赦なく見捨てて、自分たちだけで神の救いを独占して来た排他的で独善的な宗教であるから、キリスト教は自らの排他性を罪として悔いて、もっと世に役立つ寛容で慈愛に満ちた福音となって、社会的弱者の利益にも積極的に貢献するようつとめるべきだ」などといった主張も、実のところ、上記の「先祖の祟り」による脅しとさほど変わらない心理的トリックに貫かれていることを見抜かなければならない。

そこではただ「被害者」の仮面をつけて登場しているのが「先祖」なのか、それとも「社会的弱者」なのか、という違いがあるだけで、その他の事項はほとんど基本的に変わらない。結局、そこでは、クリスチャンに対して、何かの行動が不足していたと言っては、真の被害者とは到底言いがたい第三者が巧妙に「被害者」の仮面をつけて登場し、クリスチャンを罪に定め、罪悪感を持たせることで、信者が己が罪を償うためには、「自称被害者」の希望に従って、彼らの注文通りに行動することで、自らの行動を改めるしかないのだと思い込ませるのである。

こうした考えの偽りを見抜けず、そこでしかけられた心理的な罠にはまってしまうと、クリスチャンはとがめのない良心を失って、自分を「加害者」とみなすようになり、「キリスト教や教会やクリスチャンに見捨てられた被害者」を名乗り出る人々に全く頭が上がらなくなり、彼らに対して終わりなき罪の償いを果たさなくてはならなくなる。実際には、ただあらぬ罪の意識を植えつけられ、世から言いがかりをつけられ、その因縁のために脅され、ゆすられ、たかられ、自分の人生を自由に生きられなくなっているだけにも関わらず、「弱者救済」の美名がついているがために、懺悔活動にいそしんでいる人々は、自分は社会に役立つとても良い事業を行っているのであって、まさか信仰を持たない人の背後に働く悪霊に都合よく脅されて彼らの利益の操り人形になっているのではないと思い込んでいるのである。

だが、本来ならば、世から罪定めを受けるどころか、世に罪を告げ知らせ、世に悔い改めを迫り、世の利益のためでなく、神と御国の利益のために働くべき牧師や信者たちが、このようなトリックにまんまとはまって、神を知らない不信者に自分の罪意識を解消してもらおうと、彼らのもとを訪れてはその注文を聞き、こうして世人への罪の償いに努力している様子は、まさに皮肉としか言いようがない。

筆者は、ホームレス伝道にいそしむ奥田牧師や、カルト被害者救済活動に携わる村上密牧師は、以上のように、隣人愛ではなく、罪悪感から弱者救済に突き動かされている人々であると考えている。こうした人々は、自分自身の抱える心の闇(罪の意識や、絶望や、空虚感)を埋めるために、自分と同じような、あるいは自分よりももっと「可哀想な人々」を見つけて来ては、彼らを支援することで、自己の空虚な心を慰め、かつ、自分自身の心の抱える怒りのはけ口を、何らかの救済事業(という名目での抵抗運動)に求めずにいられないのである。

筆者は、クリスチャンが社会的弱者に対して憐れみのない行動を取るべきだと言いたいわけではなく、また、真に困っている人に対して物質的支援が一切、無駄だと言うわけでもない。だが、ここで提起しているのはそれよりももっと深い問題なのである。

ここで問題となっているのは、「加害者・被害者」という対立構造を持ち出して、クリスチャンであるにも関わらず、罪悪感から、見捨てられた弱者・被害者の救済にいそしむ人々は、人間の罪を指摘し、また人間の罪を赦すことができる存在とは誰かという問いへの答えを、巧妙に捻じ曲げ、はき違えており、そうした人々の思考においては、信仰を持たない者が、社会的弱者という立場に名を借りて(もしくは社会的弱者の存在を巧妙に口実として利用して)、キリスト教とクリスチャンに対して「神」のごとく君臨してこの宗教全体を罪に定め、信者であるはずの人々が、それに反論するどころか、信仰を持たない彼らの言い分を全面的に認めて、自ら言いなりになってその要求に従うことを肯定している異常さである。

そのようにして、信仰を持たないこの世の不信者が、自らの利害に基づいてキリスト教を断罪し、この宗教の足りないところを数え上げて、罪に定めるなど全く恐ろしいことであり、さらに、そのような理不尽な言い分を大真面目に聞いて心に罪悪感を植えつけられた一部のクリスチャン(?)たちが、自分は神に贖われたという清い良心と御子の贖いの完全性を信じる信仰を失って、世人の言いなりとなって、自ら加害者の立場に立って、世の不信者に懺悔し、彼らの利益に仕える道具となって、キリスト教の第一義的使命が、神に仕えることでなく、世に対する奉仕活動にあるかのようにみなしていることは、大変、恐ろしい事実である。

もしもこのような転倒した理屈が成立するならば、クリスチャンは、キリスト教に何らかの被害者意識を持つ者たちが現れれば、簡単にその言いなりになって、彼らの気のすむまで脅され、ゆすられ、たかられ、賠償を要求されるであろう。こうして、キリスト教全体が不信者の利益のために都合よく書き変えられ、全く別の宗教に変質することであろう。このような理屈は、「見捨てられた社会的弱者」を口実にして、キリスト教を脅して思うがままに従わせたい人々の欲望を正当化しているだけである。こうした理論は、キリスト教に恨みを持つ者たちにとってはまさに好都合であり、そこから皇帝ネロの犯したキリスト教徒への迫害と殺戮の罪までの距離はわずかに数歩程度でしかない。

世人はいつの時代も、ネロのような大規模迫害を用いなくとも、常に自ら神となってキリスト教に君臨したいと願っており、そのためにキリスト教の福音を骨抜きにして、この宗教全体を世の利益に仕える道具へ変えて行こうと狙っている。このような不信者の思惑にクリスチャンが自ら迎合し、この世の人間の非難に屈して、地上的・物質的支援(目に見えるパン)を神の福音(見えないパン)と対等かそれ以上の位置に掲げる時、キリスト教の福音は完全に骨抜きにされ、存在意義を失うのである。そうなると、これはもはや塩気を失った塩として捨てられ、踏みつけられるだけである。

さて、ペンテコステ運動に話を戻せば、自ら抱える拭い難い罪の意識の償いとして弱者救済事業にいそしむ牧師たちの活動の一環として、アーサー・ホーランドや元ヤクザの牧師(ミッション・バラバ)による世界各国での十字架行進なども挙げられるだろう。この十字架行進は、公式ページの記載によると、1992年に始まり、ごく最近まで、長年に渡り、世界各国で続けられて来たようであるが、イエス・キリストがすでに負われたはずの十字架を、人間に過ぎない者が再び背負って歩こうとするこの活動は、福音伝道の観点からは全く意味をなさない二番煎じであるばかりか、霊的には有害でさえあると筆者はみなしている。

確かに、奇抜な格好をした牧師が、十字架を背負って各国を巡り歩く姿は、人目を引くであろうし、そのパフォーマンスを見て、これをクリスチャンの巡礼の一種ととらえ、信者の謙遜さや世に対する愛の表れであるかのように誤解して、感動し、涙を流すような人間も、ひょっとすると、いるにはいるのかも知れない。しかし、たとえそうであったとしても、人が十字架を背負って歩くという行為は、クリスチャンならば誰もが知っているように、霊的には罪を負った人間が世のさらし者となりながら己が罪を悔いつつ死へ向かって行進することを意味するだけであるから、信者にふさわしい行動とは言えない。それは罪人が自ら犯した罪のゆえに、恥辱を負って、衆目に晒され、罵倒されながら、自らの罪にふさわしい罰を受けるために刑場へ引かれて行く惨めな姿そのものである。

一体、なぜキリストの贖いを信じて受け入れ、罪赦されたはずの人間が、このような行為をせねばならないのか? それが意味するところは何なのであろうか? 十字架が価値ある貴いものとなるのは、罪を犯したことのない聖なる神の御子キリストが、人類の身代わりに罪無くして十字架において罰せられることによって人類のために贖いとなられたという霊的な文脈においてのみであり、それ以外のケースで、罪ある人間が自ら十字架を背負って歩くことには、ただ単に人類の自業自得の罪を表す以外の意味はない。もっと言うならば、キリストの十字架の贖いを受け入れたはずのクリスチャンが、キリストがされたのと同じように、自ら十字架を背負って歩くことは、その信者がキリストの贖いを内心では否定しており、これを退けて、再び、自分で自分の罪を贖うために終わりなき苦行に励んでいるのと同じ無益で無謀な行為を象徴的に意味する。信者にそのような行動をさせるのは、キリストの御霊ではなく、反キリストの霊だと言われてもおかしくない。

聖書には、「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ10:38)という主イエスの御言葉があるが、これは信者が信仰ゆえに自らの生活において負わなければならない目に見えない様々な代償(自己の死、霊的な試練等々)を意味するのであって、信者が文字通り、目に見える十字架を肩に担いで世界各国を巡礼せよという命令を意味するのではない。さらに、信者が十字架を負って従うべき対象も、目に見えない主イエス・キリストのみであって、世人の目に認められるためのパフォーマンスとして十字架を負えという意味ではない。

アーサー・ホーランドの十字架行進は、この牧師自身がキリストの贖いを自ら退けていることを物語っているにも等しい。こうした活動は、世に対するパフォーマンス以上の効果はなく、その必然性がどこにあるのかも不明であるが、これをクリスチャンになっても罪の意識を捨てられない牧師や信者たちが、自らの負い目の意識から繰り広げる世に対する自主的な罪の告白と償いという文脈でとらえるならば、初めてその意味が明白になる。

アーサー・ホーランドが、牧師になった後でも、根本的に罪赦されたという実感を持てないでいるであろうことは、同氏が創設した元ヤクザの牧師の伝道団体である「ミッション・バラバ」の命名にもよく表れている。

一般に、クリスチャンが、聖書において自分自身をどの人物に同形化するのかは、極めて重要な問題であるが、ミッション・バラバのメンバーの牧師たちは、ゴルゴタに立てられた三本の十字架のどれにも自分を同形化せず、むしろ、キリストの代わりに無罪放免されて十字架刑を完全に免れた殺人者バラバに自分を同形化したのである。

筆者が覚えている限り、ミッション・バラバの命名の根拠については「十字架を免れたバラバも結局は、その後、自分の代わりに十字架に処せられたキリストの死に衝撃を受け、自らの罪を悔い改めてクリスチャンになったのではないか」などという楽観的な推測が用いられていたような気がするが、いずれにしても、そんな話は聖書にはない。

だから、バラバは決して悔い改めた罪人の代名詞ではないのである。この命名には、ひょっとすると「バラバが赦されたことは、キリストに対して申し訳ないことであった」という思いが込められていたのかも知れない。バラバに代表されるような、「恥辱と死の苦痛を免れたいばかりに、罪なきキリストを身がわりに十字架につけてまで、自分自身を無罪放免した卑怯で身勝手で頑なな加害者」としての人類の側から、「人類の横暴のために罪なくして殺された被害者であるキリストへの懺悔」としての意味合いが込められていたのかも知れない。

だが、もしそのような考えが根本にあるとすれば、それは一見、神に対する罪の悔い改めのように見えるかも知れないが、実際には、そこにあるのは、甚だ不遜な考えである。なぜなら、人類が神を人類の「被害者」であるかのように考えて、神に対して同情するほどまでに不遜な考えはないからである。人間に過ぎない者が、神を自分たちの悪行の「犠牲者」とみなして、自ら神に同情することによって、神の霊をなだめ、慰めようとするのは、傲慢以外の何物でもない。聖書をきちんと読めば、キリストは人類の罪の「被害者」として十字架にかかられたわけでなく、人類の凶暴さという意味では、そのような側面が確かに一面では見受けられはするものの、同時に、この十字架にはそれよりも深遠な神のご計画があり、キリストの十字架は、人類の贖いのために神の側から愛によって自主的に差し出された犠牲であり、人類はそれを自分自身の罪の贖いとして感謝して受けとるべきであって、自分とは無関係のものとして涙を流して同情すべき対象ではないことが分かる。

にも関わらず、もし誰かがキリストに「同情する」ならば、その人は、御子の十字架を自分のものとして受け取っていないのである。なぜなら、自分は運よく罰を免れたが、他人は不器用のせいかあるいは不運のせいでそれを免れられなかったと考えている人だけが、自分と違っていわれなく重い刑罰に処せられた誰かに同情することができるからである。もし信者が本当に自分自身の罪を認め、キリストの十字架を自分の罪に対する身代わりの刑罰として受け取っているならば、キリストの受けられた刑罰は、信者が当然受けるべき罰であるから、信者はこれを「不当なもの」として受け止めることはできない。彼はキリストを通して贖いが達成されたことを喜び、感謝し、御子の犠牲を賛美しこそすれ、キリストを人類の罪の被害者のようにみなして「同情」することは決してないであろう。たとえ約二千年前にゴルゴタの丘で死んだのが信者の肉体でなく、信者自身はキリストと同じ苦痛を寸分たりとも味わっていないとしても、信仰を通じて、霊的にその信者は確かにキリストと一体となって、永遠に十字架において罰せられたのである。キリストの受けた刑罰は、信者自身に下された刑罰であり、そこでは信者の信仰を通して、キリストが信者と一つになっていればこそ、キリストの贖いがその信者に対して生きて効力を発し、キリストと共に霊的に死んだ信者は、キリストと共に復活し、贖われた者として新しく生きるのである。

だが、ミッション・バラバという名を見る限り、アーサー・ホーランドを始めとして、そのメンバーは、キリストの十字架の贖いを自分自身の罪に対する贖いとして受け取っていなかった可能性が極めて高いように見受けられる。彼らは、ゴルゴタに立てられた三本の十字架のうち、ただキリストの十字架に自分を同形化しなかったのみならず、死の直前でキリストに向かって罪を悔い改めて、彼をメシアと認め、救われて御国に受け入れられた罪人にも自分をなぞらえなかった。むしろ、十字架刑を完全に免れて、ゴルゴタに立つこともなかったバラバに自分をなぞらえることで、キリストの十字架と自分自身を無縁としたのである。これは極めて暗示的である。

どんなに表向きクリスチャンを名乗っていても、内心ではキリストの十字架の贖いの霊的意義を自分自身に適用していないからこそ、彼らはバラバと同じ立場に立って、不当に十字架を免れた罪により、未だに神(と人類)に赦免を求めて懺悔と償いを続けねばならなくなっているのではあるまいか。そのようにして、自分自身を神の贖いと無縁の者として切り離しているからこそ、彼らは元ヤクザとか、元不良といった過去の負のレッテルを捨てることもできず、この恥ずべきレッテルを貴重なものであるかのように、社会的弱者の証としてかえって売り文句にしながら、神の贖いを退けた人間が、自分自身で背負わねばならない負いきれない刑罰の象徴としての十字架行進などといった活動にいそしんでいるのではないか。それは牧師でありながら、彼らの内心では罪の意識が全く内側で払拭されていないことの証拠である。

アーサー・ホーランドは十字架行進の開始以前から、元不良や元ヤクザの信者仲間と共に、路傍伝道にも精力的に乗り出していたが、このように、世人に対して、特に、世人の中でもとりわけ社会的弱者を対象に、神の愛と憐れみを積極的に説きながらも、同時に、自分自身には罪赦された自覚がなく、内心で深い絶望感を抱えながら、弱者救済という名目で、自らの罪の償いに従事する様子は、奥田牧師や、マザー・テレサ等と共通しているように見受けられる。

マザー・テレサの場合もそうであるが、信仰を持たない世の方を向いて、打ち捨てられた不信者に寄り添い、愛を示すことで、世に愛想を示そうとする活動から見えて来るのは、彼らがその不信者に自分自身を同形化し、彼らの苦しみの中に、自分自身の内心の苦悩を重ね、彼らの中に、自分自身の絶望感を投影することで、自分自身を救おうとし、彼らを「神」とすることで、自分自身を「神」として拝んでいるという事実である。

結局、そこでは、信者の信仰生活を評価するのが、見えない神ではなく、世の人々であるかのように置き換えられ、「社会的弱者」や「被害者」などといった世の人々が、クリスチャンに対して「神」になってしまっており、牧師や信者が、聖書の御言葉に基づき、世を罪に定め、悔い改めを迫るどころか、世に向かって「あなたは神に愛されている」などと語って世の罪を積極的に覆い隠し、世に媚びて、世の利益の代弁者となり、そうしてキリスト教の使命を、人間に奉仕し、人間の欲望をかなえるための社会活動へとすり変えているのである。

このように世に迎合した行動を取るのは、決まって、何かの罪悪感を心に抱え、自分の魂を世に質に取られ、神の救いを拒んでいる人間だけである。「犯罪者は(繰り返し)現場に戻る」という言い回しに表れているように、彼らは自らの心に負い目があり、罪によって自分の魂を世につながれ、担保に取られていればこそ、世という現場に縛りつけられ、繰り返し、そこへ戻らざるを得ないのである。彼らは神を見失っていればこそ、信仰を持たない世人を肯定することで、自分自身を肯定し、世の不信者を美化することで、自分自身を美化し、不信者を「神」のごとく高く掲げることによって、自分自身を崇拝しているのである。

しかし、クリスチャンとは、世から贖い出された者であり、信者はもはや自分自身や、世の栄光のために生きているのではなく、神の栄光のために生きている人々である。信者は罪のゆえに悪魔の奴隷として死の恐怖に脅かされながら、この世の支配下に置かれている者ではないので、世人の利益に媚びて、彼らの言いなりになる必要もない。クリスチャンを無罪放免するのは、世人ではなく、世の社会的弱者でもなく、神お一人だけである。

「義人は信仰によって生きる」と聖書にある通り、信者がどんなに立派な人間性を誇り、熱心な社会奉仕活動を誇ってみたところで、それはマルチン・ルターが登るのをあきらめたピラトの階段を信者が自らの膝で這い上ることと同じであり、それらの行為によって、信者が己が罪を自ら贖い、神の目に義とされることは永久にない。そうした行為によって、人が自らを義としようとすることは、みな人類による自己懺悔、終わりなきむなしい自己救済の試みでしかなく、どんなに社会的弱者に罪の償いを続けても、彼らは罪を告白すべき相手を完全に間違えている以上、人がその行為によって罪赦される日は永久に来ないのである。

聖書の神が、昨日も今日も、永遠に変わらないお方であるように、聖書の福音は時代を通じて一つであり、福音の本質は、過去も未来も永遠に変わらない。キリスト教の福音の本質は、時代のニーズの変化や、人間の思惑によって左右されるものではない。だから、欺かれてはならない、昨日や今日とは全く異なる「明日の福音」なるものは決して存在しない。もしそのようなものがあるとすれば、それは偽りの福音だけである。

福音が一つである以上、人間が罪から解放されて、自由になりたければ、そのために通るべき道もただ一つしかない。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)「あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません」(Ⅰコリント7:23)聖書にこのようにある通り、キリストの贖いを通して、世から贖い出された信者が、その自由を失わないでいるためには、信者がただ神にのみ従い、再び世の(人の)思惑に屈して、世の(人の)奴隷とならないことが必要である。

世に真理はなく、正義も、真実もない。加害者であろうと、被害者であろうと、弱者であろうと、マイノリティであろうと、御子の贖いの下にいない者は、全て罪人でしかなく、人間の罪を赦す権限は世にはなく、神にしかない。それにも関わらず、信者が、世のために、弱者のためにという美名に欺かれて、世の顔色を伺い、世の軍門に下るならば、世は自らの前に跪き、その支配に下る人間を徹底的に騙し、盗み、滅ぼすだけであろう。「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」(ヤコブ4:3)

このように、
信仰を持たず、神を敬わず、神に従うこともない世に媚びて、世の悔い改めない不信者に対して「あなたは神に愛されている」などと言っては世の罪を無罪放免し、すすんで世の利益の代弁者になろうとする人々は、今日も自分自身を神の敵として、「この人を除け。バラバを釈放しろ。」(ルカ23:18)と叫んでいるのである。だからこそ、そのような人々は決して世を罪に定めようとはしない代わりに、キリスト教を「独善的で排他的な宗教」だと言って罪に定め、クリスチャンに有罪を宣告し、罪の償いを求める。それは結局、彼らが神を罪に定め、敵に回しているのと同じことである。そういうことをしておきながら、同時に「キリストが無罪であるにも関わらず十字架にかけられたのは申し訳ないことであった」などと言って、神のために同情の涙を流し、神を犠牲者に見立てて見当外れな懺悔の活動にいそしむのである。

バラバとは、「都に起こった暴動と人殺しのかどで牢にはいっていた者」(ルカ23:19)であり、一説によれば、革命家だったとも言われる。虐げられた民衆の不満を手っ取り早く解消するために、都の秩序転覆を企てて暴動を起こし、悪代官のように見える役人を何人も殺害したりしていたのかも知れない。そんな荒くれ者の男の方が、キリストに比べ、民衆には親しみやすく、身近に思えたのである。それは、バラバが民衆の利益、つまり、弱者の救済を口実にこれらの犯罪を行ったからであろう。バラバの名前の由来も、息子を意味する「バル」と父を意味する「アバス」から成っているというが、それも偶然ではなかろう。問題は、彼の父は誰なのかということである。ピラトの前には二人の男が立っている。一人は聖なる神の独り子なるキリストであり、もう一人は罪深い人類から生まれたバラバである。当然ながら、キリストを罪に定めることによって無罪とされたバラバは人類を代表しているのであり、その父については、次の御言葉が当てはまる。

「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときには、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」(ヨハネ8:44)

2016年11月21日 (月)

韓国キリスト教(ペンテコステ運動)のシャーマニズム化の危険―霊媒師と相違ない偽りの牧者と信徒たち

・韓国キリスト教(ペンテコステ運動)のシャーマニズム化の危険

ところで、以前に天声教会のことに触れたので、ここで少しばかり、韓国のキリスト教、中でも韓国キリスト教の中で特に勢力を伸ばしている韓国のペンテコステ運動の独特の特徴について補足しておきたい。韓国のペンテコステ運動には、日本とは異なる独特の歴史と形態がある。それは韓国という国が辿って来た歴史とも無関係ではないと思うが、韓国キリスト教(以下、主として全てペンテコステ運動を指す)には、必ずしも日本のクリスチャンにとって(世界のクリスチャンにとって)決して好ましいものではない異教からの影響が強く見られると筆者はみなしている。

ペンテコステ運動については、日本、韓国を問わず、異端であると筆者はみなしていることはすでに述べたが、中でもとりわけ、韓国におけるペンテコステ運動には、シャーマニズムの強い影響を受けていることが様々な指摘から読み取れる。

掲載元のPDFを見つけることができなかったので、別サイトに転載された内容を引用するが、たとえば、渕上恭子著「韓国のペンテコスタリズムにおける『祈禱院運動』の展開―キリスト教土着化論の考察―」(南山大学南山宗教文化研究所懇話会、2010年10月)という興味深い考察においては、韓国のキリスト教におけるリバイバルの発生時期と異端の発生との関連性、また、韓国キリスト教の興味深い成り立ちが説明されている。
 

韓国・朝鮮のキリスト教史において、1907 年の大復興會運動に始まって、国家が危機に瀕し大きな社会変動に直面する時、熱烈なリバイバルが沸き起こってきたが、これらのリバイバル運動と連動しながら、キリスト教史の節目節目で種々の「祈禱院運動」が現出してきた。民族の危機にあって、宣教奇蹟と謳われる韓国キリスト教の急成長を牽引してきた大復興會運動と、「祈禱院運動」を担った異端キリスト教や新興宗教、さらにはシャーマニズム化したキリスト教が、各々の信仰形態を流入させ合って、今日の韓国キリスト教の基本的性格を形作ってきたと考えられる。

引用は最小限にとどめるので、詳しくはご自分で本文を読んでいただきたいのだが、この考察から分かるのは、韓国キリスト教界においては複数回の「リバイバル」が起きた時期があること、そのリバイバル発生時期は、大体、国家が存亡の危機に脅かされた時期に重なっていたこと、また、そうした「リバイバル」の発生の陰には、初期の異端である「祈祷院運動」などのような疑似キリスト教的な神秘主義的な異端の発生が常につきまとっていたという事実である。

何より興味深いのは、「国が存亡の危機にある」という危機感が、韓国の「リバイバル」の発生の土台となったという指摘である。なぜなら、「自己が脅かされている」という危機感は、これまで当ブログで述べて来たように、グノーシス主義の発生にはうってつけの土壌だからである。

おそらくは全世界で「リバイバル」の発生時期と神秘主義的な異端の発生は常に並行しており、両者の境界は極めて見分けがたいのではないかと思う。上記の考察からも分かるのは、韓国でも、リバイバルが起きると同時に、神秘主義異端の様々な潮流も隆盛を極めたという事実であり、さらに、韓国におけるペンテコステ運動は、初めから正統な教義と異端の二つが見分けがたく混合し、さらにそこにシャーマニズムなどの土着の民間信仰の影響も合わさって、キリスト教と非キリスト教的な要素が混合して生まれたものであり、韓国キリスト教はこの独特の成立過程のために混合の性質を否定することができないものとなっているということである。

なお、上記の考察以外にも、今日の韓国キリスト教の基本的性格が、シャーマニズムに大きく影響を受けており、非キリスト教的民間信仰と切り離せない関係にあることは、他の場所でも指摘されている。

韓国キリスト教には、早天祈祷などの「祈祷」を特別に重んじる習慣がある。彼らの「祈祷」への熱中は、日本人の常識を超えるものであり、特に、韓国人のペンテコステ運動の信者は、祈りを通して聖霊と交わることにより、自分に超自然的な能力が付与されるとみなし、熱心さの表れとして、文字通り、朝から晩まで祈祷に没頭し、現実生活が送れなくなっているほどである。

しかしながら、こうした異常とも見える熱烈すぎる「祈祷」の習慣も、もとを辿れば、特に早天祈祷などは、非キリスト教的な他宗教の習慣に由来するものであるという。

以上の考察によると、韓国キリスト教の早天祈祷の習慣は、韓国最初のリバイバルの立役者である吉善宙牧師(Kil,Sun-Ju:1869~1935)が、キリスト教徒になる前に入信していた朝鮮民族伝来の神仙思想である仙教の習慣を取り入れて始まったものだという。
 

その際、吉善宙が仙教に帰依していた時分に、仙門では降神の時間とされている夜明けに祈禱をしていた習慣が、キリスト教徒となった後までも引き継がれたことにより、朝鮮のキリスト教で早天祈禱が行われるようになったのである。このようにして、古代朝鮮の仙教で降神の方法として行われていた早天祈禱が、吉善宙牧師の宗教遍歴を介して、韓国キリスト教に入り込んでくることとなった。

このように、今日の韓国キリスト教のあり方には、儀式的な側面においても、他宗教の影響が見られ、さらに、韓国キリスト教の根本には、シャーマニズムが欠かせない要素として存在することが様々な場所で指摘されている。たとえば、<随筆>◇韓国文化のシャーマニズムパワー◇ 広島大学 崔 吉城 名誉教授(東洋経済日報 2009/11/13)から抜粋する。
 

私は学校で教育を受けるにつれてシャーマニズムを遠く避けるようになり、批判的になった。そしてクリスチャンになった。多くのキリスト教会はシャーマニズムを迷信として扱った。しかし、シャーマニズムは消滅するものではなく、キリスト教会の核心部分において信仰として生き残っていることが分かった。多くのキリスト教会が土着化する中でシャーマニズム化する現象が起きているのである。教会の中で病気治療のための祈りなどはシャーマニズムと変わりがない。

この著者は幼い頃からシャーマニズムに接し、その後、シャーマニズムを離れてクリスチャンになったが、韓国のキリスト教を振り返ると、まさに韓国キリスト教のシャーマニズム化が起きているとしか言えないと結論づけるのである。

さらに、「キリスト教受容における韓日の比較 (A comparative Viewon the Reception of Christianity in Japan and Korea)」(朴 正義(Park Jung-Wei) 圓光大学校 師範大学 日本教育学科副教授 日本語教育学科長)では、韓国の土着の信仰であるシャーマニズムの世界観が、韓国人のキリスト教の受容と理解にある程度、役立ったことを肯定的に評価しつつも、シャーマニズムは韓国キリスト教の信仰生活のあり方に必ずしも良いとは言えない大きな影響を及ぼしている事実を指摘する。
 

四、韓国におけるキリスト教とシャーマニズム

 キリスト教、特に改新教の韓国伝来期において、衰退した仏教・儒教はキリスト教に対抗する力はなく、唯一対抗する力をもっていたのは巫俗信仰シャーマニズムだけです。すでにお話いたしましたように、巫俗信仰は、韓国民衆の中に深く根を下ろした民衆の現世利益をかなえる唯一の宗教といえます。しかし、この巫俗信仰が意外にも、韓国民衆のキリスト教理解に大きな役割を果たしたのです。<中略>

 シャーマニズムは本来汎神論ではありますが、しかし全体の霊界を支配する最高神が存在するという観念をもっています。韓国において古くから〔ハン〕という語がありますが、これは天を意味する語で、また唯一とか偉大という意味も含んでいます。このハンに韓国語の人格的な尊称であるニム(様)を付け、つまりハンニムとなりますが、これは天の神様とか唯一神または偉大な神の意味です。さらに、このハンニムの音を分けハヌニム・ハナニムと呼んでいます。いずれにせよ宇宙を支配する最高神で、この神が雨を降らし収穫を左右する神と信じられており。祈雨祭を捧げる対象の神となっています。韓国において、儒教と仏教がともにこの神の存在を認めております。

 そして、これは全知全能でこの宇宙の支配者であるキリスト教の唯一神を容易に理解させる助けとなっており、さらに、キリスト教は天主の意味としてこの名称(ハナニム)を使用することによって、キリスト教の神に対する民衆の違和感を取り除いています。最近ではハナニムがハヌニムと区別され、キリスト教の独占物のように使われていますが、元来は韓国シャーマニズムの最高神の名称です。また、シャーマニズムがもっていた雑霊邪鬼とこれとは区別されるハナニムの存在は、キリスト教の神と天使・サタンの世界の理解を早めるのにも役立っています。

このように、シャーマニズムの世界観が土台となって、韓国民衆のキリスト教への理解と受容が促進されて来たのは事実であろう。だが、以下の引用にあるように、韓国教会とシャーマニズムとの接近はそれだけにとどまらず、教会は自ら積極的にシャーマニズムを取り入れることによって韓国人の共感を呼びおこし発展してきた事実があるという。著者はシャーマニズムとの接近の結果として、「韓国キリスト教のシャーマニズム化」が起きたこと、つまり、現在の韓国のキリスト教自体がシャーマニズムに大きな影響を受けて成立していることを認めている。

見ようによっては、こうした事実はクリスチャンにとって極めて危険なものである。なぜなら、たとえ世界観が似ていたとしても、シャーマニズムを導く「霊」は、聖書における神の聖霊とは全く別の霊に由来することが明らかだからである。そこで、キリスト教とシャーマニズムの混合が、キリスト教に良い影響を及ぼすことはまずありえない。韓国キリスト教には何かの異変が起きていると考えるのが妥当であろう。

しかしながら、以下に見るように、ここで「シャーマニズム化」と呼ばれている現象は、具体的には、信者が自己の魂の平静さを失って、一種の「神がかり状態」のような熱狂と狂乱に陥った状態で祈祷を捧げるなど、今日の世界各国におけるペンテコステ運動が異常だと非難されている点とさほど変わらない。特に、そのような祈祷を現世利益を求めて行うことが、韓国シャーマニズムの特徴であるのだと著者は言う。
 

 また、韓国教会の祈祷会に、特に世界で初めて韓国で聞かれたとされている早朝祈祷会に参加すれば、信者たちが一種の陶酔状態の中で個人個人が大声で自己の救いを求めている光景にでくわします。そして、祈りの言葉のほとんどが、現世利益を追求するものです。これは、日本の教会で見られるような静かな祈りの光景とは全く異質のもので、同じ宗教とは思いがたいものがあります。韓国キリスト教は、自らのシャーマニズム性を否定しますが、「韓国のキリスト教は、厳密な意味においてシャーマニズムと対決し精算しなければならない問題点が多い」と、キリスト教者自らが言わざるを得ないように、韓国キリスト教のシャーマニズム化は否定できないでしょう。
 以上のように、韓国人の原宗教的要素であるシャーマニズムは、韓国人がキリスト教を受け入れるにおいて、障害とならずむしろキリスト教理解の助けとなっており、そして、キリスト教はシャーマニズムを取り入れることによって韓国人の共感を呼びおこし発展してきたと言えます。

今日、日本に存在する韓国系の教会でも、このような「信者たちが一種の陶酔状態の中で個人個人が大声で自己の救いを求めている光景」は見られる。むろん、それは必ずしも韓国キリスト教だけの特徴とは言えず、ペンテコステ運動自体に共通する特徴だと言えるのだが、それでも、韓国のペンテコステ運動には、世界のペンテコステ運動と比べても、とりわけ現実逃避的な性格が強い様子が見受けられると筆者は考えている。

なぜなら、キリスト教における常識的な見解においては、信者はすでに聖書の信仰に立って自己の救いを得ているわけだから、改めて自分の救いのために祈る必要はない。信者が様々な困難に直面する時などを含め、日々、信者は神に具体的な助けを求め、信仰生活において祈りることが必要であるとはいえ、その祈りは、必ずしも、教会の礼拝堂や、祈祷院にこもってしかなされ得ないものではなく、日常生活の様々な場面で、信者は様々な用事をこなしながら、心の内で自ら神に祈ることはできる。さらに、祈りと同じほど重要なのは、信者が家庭や、社会において、信仰を態度で表しながら具代的に行動して生きることである。

ところが、信者が自分がすでに得た信仰的事実に基づいて実際に行動することよりも、「大声で自己の救いを求めて」教会や祈祷院にこもって祈り続けることを優先する韓国クリスチャンの姿には、信仰に基づいた現実的な行動よりも、ただ祈りを通して、すべてを神に解決してもらいたいという受け身の姿勢、あるいは、祈っているうちに何か超自然的な現象が起きて、自分が直面していた問題が劇的に消失してほしいとでも言うかのような、他力本願で現実逃避的な願望が非常に強く表れているように筆者には見受けられる。

このような韓国ペンテコステ・キリスト教徒のあまりにも熱心かつ長時間に渡る祈祷への没頭には、韓国人信者たちを現実生活から引き離そうとする何かしらの良くない願望が表れているように筆者には思われてならない。このような祈祷に没頭し続けている限り、信者は家庭や社会から引き離され、クリスチャン以外の人々の間で信仰を表明する機会を失い、現実の諸問題に自ら向き合いながら、現実を力強く生きて行くことはできなくなるであろう。しかも、その祈りの内容が、現世利益を求めるものであれば、なおさらのこと、自己中心な内容のために、祈祷は社会との広い接点を失い、ますます内向きになる結果になりかねない。

日本における韓国系のキリスト教会では、実際に、早天祈祷会から、夜の断食祈祷会などまで、朝から晩まで祈祷が行われているわけであるが、そのように信者が家庭や社会で現実生活を送ることを妨げるほどまでに祈祷に熱中することは、果たして正常と言えるのであろうか、現実逃避でないと言えるのかどうか、筆者は深く疑問に思う。さらに、その祈祷が、「キリスト教のシャーマニズム化」と評されるのであれば、そもそも何の霊と交信しているのか分からない祈祷の効果は薄いというよりも危険ではないかと思われる。

このように、韓国キリスト教は、その成立過程で、シャーマニズムや他宗教や異端思想の影響を強く受けているという複雑な事情を持ち、そうした歴史ゆえに韓国キリスト教と異教との境界線は極めて分かりにくいものとなっている。

だから、このような韓国ペンテコステ運動を導く霊が何であるのか、それについては警戒が十分に必要であると思う。これまで筆者は、ペンテコステ運動がグノーシス主義的・東洋思想における母性崇拝の霊を基調とする疑似キリスト教であることを指摘して来たが、この異教的な基礎は、原始宗教であるシャーマニズムにも通じるところがあるかも知れない。

特に、シャーマニズムには、巫女(女性だけでなく男性も)のように、霊媒のような存在が必要とされる。人々は特別な力を持つシャーマンを通してお告げを聞いたり、厄除けをしてもらう。そのような「霊を受ける器」としての霊媒の存在は、ペンテコステ運動におけるカリスマ指導者の役割にも非常によく似ていることを思わせる。

「牧師」という名で呼ばれるために疑いが生じにくくなっているだけで、特別に神の霊を受けたとして超自然的な力を誇示したり、神がかり状態となって理解できない言語を話し続けたり、預言と称して正体不明の霊のお告げを語るペンテコステ運動の指導者は、本質的にはシャーマニズムと同じ霊媒師なのだと考えるのが適切ではないかと筆者は考える。

韓国キリスト教に限らず、ペンテコステ運動の基礎は、原始宗教を含めた異教的な信仰にあり、ペンテコステ運動そのものがキリスト教に仮装したシャーマニズムだとさえ言えるかも知れない。

少なくとも、韓国キリスト教が明らかにシャーマニズム化しているという危険な特徴や指摘を見落として、信徒が教会行事を全て正しいものと考えて没頭していれば、おそらく、その信者は現実における家庭や社会での生活からますます遠く引き離され、ありもしない夢のようなお告げや祈祷に熱中し、現実感覚を見失って行くだけであろう。

ペンテコステ運動は、それ自体が、悪い意味での宗教的「阿片」であり、目くらましのための、まやかしの信仰である、と筆者は考えている。この運動に接触した信者は、現実生活に起きる諸問題に勇気を持って直面しながら、これを解決して行く力を失い、むしろ、自分を哀れんで現実のあらゆる問題から逃げ出し、神に他力本願でな期待を託すという受け身の生き方に転じる。このような現実逃避運動にどれほど没入してみたところで、その信者は、人生の貴重な時間を失って、ますます人格が弱くなるだけで、現実の諸問題に立ち上かう知恵と勇気を得ることはないであろう。
 

・女性を男性の「被害者」とみなすことで、男女の秩序を覆そうとするペンテコステ運動の異常性――天声教会のメッセージから

さて、このような韓国キリスト教の独特の成り立ちと性質を踏まえれば、こうした教会のどこに警戒すべき危険があるのかも理解できるだろう。筆者がKFCの姉妹教会である天声教会のあり方について深刻な危惧を覚え、いくつかの記事を記したのも、こうした事情があるためである。

天声教会においては、教育訓練の欠如したパスタ―が講壇に立って信徒を教え、教会を拠点に信徒の結婚生活を侵害するようなあるまじき生活を送っているという問題があることを指摘したが、それに加えて、同教会には、祈祷への現実逃避的な熱中を含め、韓国ペンテコステ運動につきものの、およそ正常とは考えられない様々な危険な特徴が見受けられる。

天声教会のメッセージの主題を見ただけでも、同教会のメッセージ内容はペンテコステ運動のすべての危険な特徴を踏襲していることがよく分かる、すなわち、➀地上的な豊かさを求めるご利益信仰に信者の関心を引きつける手法、②悪霊との目に見えない戦いを極度に強調することで、信徒の心に恐怖と疑心暗鬼を植えつけ、教会指導者への忠誠を要求する手法、さらに、KFCにも共通して見られたように③荒廃と破滅の預言によって、教会の外の世界は荒廃と衰退の一途を辿り、教会しか安全地帯はないと信徒に思わせることで、教会に囲い込んで行く手法、④信徒の心に罪悪感と被害者意識を植えつけることで支配の手がかりとする手法、などがある。いくつか目についたタイトルを挙げておく。

大地が喜んで実りを結ばせるために(創世記1:24-31) 主日礼拝2部 2016年11月20日(Sun)
ダビデに仕えた勇士たち - 登録された三十勇士と除外されたヨアブ(2サムエル記23:18-39) 2サムエル記講解説教 2015年11月19日
悪しき者に占拠された都の中で働く御国のスパイ達(2サムエル記15:24-37) 2015年9月21日
「サタン 偽りの言葉巧みな二等兵(ルカ10章17-20節)」 主日礼拝2部 2015年10月18日
イゼベルを為すがままにするなかれ(黙示録2:18-29) 金曜徹夜祈祷会 2016年9月2日(Fri)
世界の荒廃の預言 - 全ての人は等しくなり格差は破壊される(イザヤ24:1-13) 이사야 강 해설교 イザヤ書講解説教 2015年11月18日

➀は繰り返される年中行事のようであるが、「大地が実りを結ばせる」という用語そのものに、キリスト教ではない異教的な要素を強く感じざるを得ない。なぜなら、キリスト教においては、実りをもたらす方は神しかおられないが、世界各国の様々な国では、大地を「母なるもの」として賛美し、大地そのものが豊穣をもたらす源であるという異教的な考えが強く残っており、豊穣を祈願して「母なる神」に様々な供物が捧げられるためである。

②では、神と悪魔との戦い、悪霊との戦いなどが強調されているが、ペンテコステ運動が常にそうであるように、こうした「霊の戦い」は終始、拡大解釈がいくらでも可能なほのめかしによって語られ、具体的に説明されない。指導者が「悪霊」や「サタン」という言葉を用いて一体、何を糾弾しようとしているのか、現実的にどのような危険を指して信徒に警告しているのか、聖書の例話が比喩として語られるだけで、具体的に説明がされない。そこで、こうした漠然とした形で霊の戦いについて聞かされた信徒の間では、恐怖が募り、疑心暗鬼が蔓延し、結果として、教会指導者に従わない信徒を互いに悪霊扱いし始めたり、自分自身が「悪霊」として非難されないために、より一層、教会指導者に尽くそうなどと考えるのである。

このように、すでに救われて教会を訪れたはずの信徒を改めて「敵・味方」に分類し、仲間を疑わせ、神への愛からではなく、敵とみなされて排斥されたくない恐怖心から、信徒がより一層指導部への忠誠を誓うよう仕向ける方法は、カルトの常套手段である。かつては我が国で「非国民」という言葉を使うことによって、国民を「敵・味方」に二分し、国の指導に従わない国民を事実上、悪魔扱いして排除していたのである。

彼らがこうしてしきりに「スパイ」や「悪霊」などを引き合いに出し、敵に脅かされているかのような印象や、疑心暗鬼を信徒に植えつけるのは、指導者自身を疑わせないためである。実際には、このように、人々の心に恐怖を煽る二項対立を持ち出して、信徒を敵味方に分類し、信徒を見えない神ではなく、目に見える人間の指導者の判断に従わせて行こうとする方法こそ、悪霊に由来するものである。すでに述べた通り、天声教会が追放しなければならない「イゼベルの霊」も、既婚者でありながら教会指導者と教会を拠点に共同生活を送り、教会全体を思うがままに操るような信徒を指すのであって、そのような信徒に牛耳られている教会のあり方に危機感を覚え、外から異議を唱える信徒たちを指すのではない。

にも関わらず、こうしたメッセージでは、すべてがさかさまにされ、自分たち教会は「聖なる者」とされて絶対化される一方、自分たちの信仰生活のあり方を疑ったり、批判する者はみな「悪魔」扱いされる。このような極度に単純化された図式に逃げ込むことで、自分たちへのいかなる批判にも耳を塞いで、ただ教会だけを安全地帯としてそこへ引きこもることで現実逃避をはかるという完全な錯誤が成立しているのである。

さらに注目すべきことは、天声教会が、聞く者(特に男性)の心に罪悪感や、自己嫌悪感を呼び起こすようなメッセージを語り、聖書において神に従った人物のイメージを極度に歪め、女性の被害者意識を煽るようなセンセーショナルなタイトルをメッセージに使っている点である。

一度に強姦加害者の親、強姦被害者の親となってしまったダビデ(2サムエル記13:7-19) 2サムエル記講解説教  2015年9月3日

通常のキリスト教会では、どんな牧師も自分のメッセージにこんな題名をつけることはしない。そんなことをすれば良識を疑われるだけである。通常の教会においては、ダビデの罪が語られる時には、必ず、それと並行して神の赦しが語られる。ダビデは大きな罪を犯したが、その罪は、神の御前にはすでに赦されている。ダビデはこの失敗のために、人生において厳しい刈り取りをし、苦しみを受け、神はそのことをご存知で、もはやダビデを責めてはおられない。

だから、ダビデの失敗を通して、今日、クリスチャンの目に明らかになっているのは、人間の罪の深さと、それに対する神の憐れみの深さであり、人はたとえ思わぬ罪を犯しても、ダビデのように悔いることさえできれば、神に立ち返る道は常に開かれているという事実である。

イエス・キリストが、ダビデとバテシェバの子孫から生まれたという系図を見るだけでも、二人の関係が、最終的には、神に受け入れられたことが分かる。ダビデはバテシェバを愛し、二人の子孫の系譜はキリストの誕生へと続く。それを考えると、バテシェバの人生は単なる不幸な被害者や、悲劇の主人公として終わらなかったことが分かる。人間が罪を犯すことは、あるべきでないとはいえ、この出来事にも神の深い配材があり、ダビデの過ちも、最終的には神のご計画を妨げるものとはならなかったのである。

しかしながら、上記のメッセージはあまりにも歪曲に満ちており、こうした深い文脈で物事をとらえようとせず、父なる神がすでに赦された罪に対して、ダビデの失敗をとげとげしく非難し、彼の落ち度を針小棒大にあげつらい、ダビデの犯した悪事を標本のように見立ててさらし者とし、他方で、バテシェバは「強姦被害者」であるとして二人を貶める。こんな天声教会のメッセージの何といやらしく意地悪く、高慢なことであろうか。

だが、このような物の見方は決して偶然に生まれて来るものではない。彼らがバテシェバを一方的な被害者と見なしているところにも、ペンテコステ運動に流れるグノーシス主義的な特徴が見ごとに表れている。結局、このメッセージが言わんとしているのは、「女性は男性の被害者だ」ということに尽きるのである。

天声教会の指導者は、バテシェバをダビデの被害者と見ることを通して、男性とは欲望に満ちて、暴力的で、わがままで、女性を常に虐げ、踏みにじる悪しき存在であるかのように描いている。なおかつ、こうした歪んだ物の見方に基づいて、男女の関わりそのものまでも否定的に、汚れた、悲劇的で、歪んだ、嫌悪すべきもののように描き出すことで、神が定められた男女の本来的にあるべき健全な秩序や関わりそのものまでも歪めてしまっている。

こうしたメッセージの根底に隠れているのは、女性の心に男性への対する嫌悪を植えつけ、被害者意識を煽ろうとするフェミニズムの思想であり、このメッセージは、ただ歪んだ男女の関係を極度に誇張し、男性を断罪するだけで、罪の悔い改めに対する神の赦しの完全性や、キリストがご自分の花嫁なる教会を愛されたような夫婦の健全なあり方についての視点が欠落している。また、ダビデの生涯に渡るバテシェバへの愛情も全く否定されている。ここに見られるのは、ただ男女の関わりそのものに対する徹底的な嫌悪感、拒否感だけである。

すでに説明したように、女性を男性の「被害者」とみなし、男性への憎悪を煽るフェミニズムの思想は、もとを辿ればグノーシス主義から出たものであり、ペンテコステ運動も、グノーシス主義に起源があると筆者は考えている。

グノーシス主義に起源があればこそ、ペンテコステ運動はマイノリティを美化し、女性を美化し、女性を男性の「被害者」であるかのように描き、男性には罪悪感や自己嫌悪を植えつけ、女性には被害者意識と男性への憎しみを植えつけることで、女性と男性を闘争関係に起き、男女の秩序を転覆しようと狙うのである。フェミニズムとは、結局、神と人類との秩序を覆そうとする試みであるから、この運動は人類の側から神に対して挑まれた闘争なのである。

グノーシス主義は、被害者意識を軸として、力の弱い者が、力の強い者との支配関係を覆そうとする秩序転覆の思想であり、フェミニズムの思想が男性を女性への加害者として描く目的は、男性に罪悪感を持たせることによって、男性の力を封じ込め、女性を男性よりも上位に置いて、男女の秩序を覆し、女性が男性を支配することで、男性に対して復讐を果たすことにある。

この手法はペンテコステ運動においては、人類を神の被害者とすることによって、人類が神を訴え、神を乗り越え、自ら神となるという構図となる。だが、一応、ペンテコステ運動はキリスト教に偽装しているので、あからさまに神を加害者とすることはせず、隠れたプロットの中でそれを持ち出すのである。

天声教会の上記のメッセージは、ダビデを罪深い加害者、バテシェバを罪なき被害者として描くことで、男性を罪深い加害者とみなして、女性をその被害者とみなすフェミニズム的思考パターンをよく表している。

だが、このメッセージは、より深い意味では、グノーシス主義的な秩序転覆の構図を示すものであることは、ダビデとバテシェバの関係を、神と人類との関係に置き換えると理解できる。

彼らが「加害者」として糾弾しているのは、ダビデだけではなく、その背後に存在し、ダビデを義と認められた父なる神である。そして、彼らが「被害者」としてかばっているのは、バテシェバとその死んだ子だけでなく、堕落した人類という「母子」なのである。

このメッセージの本質がグノーシス主義にあることは、グノーシス主義神話を通して理解できる。すでに述べた通り、グノーシス主義神話においては、幾通りかのパターンで筋書きに多少の差異はあるものの、その中には、自ら神のようになろうとして、単独で子を生むという過失によって天界から転落しかかったソフィアが、自分の過失によって生まれた醜い悪神にさらに凌辱されて、その子孫として人類が誕生するという筋書きもある。

このようなグノーシス主義神話では、人類の直接の父は、この世を支配している暗愚で暴力的な悪神だということになり、この悪なる父を否定的に乗り越え、その上に自らの本当の父があるという事実を見いだすことによって、人は神に回帰するというのがこうした思想の基本的な考え方である。

そこで、このような神話に照らし合わせれば、人類とはまさに「父による母への凌辱」の結果として生まれた悲劇の子供ということになるため、「父」は悪者である。天声教会のメッセージには、このような意味で、グノーシス主義神話の構図を、ただ聖書におけるダビデとバテシェバの関係に置き換えただけとしか言いようのない隠れたプロットが存在することが分かる。彼らがダビデの行為を「強姦」として糾弾しているのは、実は、グノーシス主義的な文脈における人類の誕生のことで神を非難しているのである。

むろん、このような思想を人間に語らせるのは霊である。(その意味でも、ペンテコステ運動の指導者は霊媒師であると筆者は言うのである。)彼らの語るメッセージは、彼ら自身が自分の知性で思いついたものではなく、彼らを支配する霊が、自らの思想として語るものである。それが聖書に由来するものでなく、悪霊の思想に他ならないことは、聖書の御言葉との対比と、いつの時代も変わらない悪霊の思想共通の特徴がある事実によって見分けられる。

このことが分かれば、以上の天声教会のメッセージが、隠れた霊的暗示の効果を持っており、そこにおいては、ダビデが象徴的に「悪神」になぞらえられていること、その「悪神」による暴力の結果、侮辱され、愚弄された「母」(バテシェバ)と、さらに「父」の暴力の結果生まれて来た悲劇の「子」が、被害者として美化されていることが分かる。

このように「父」の横暴の犠牲となった「悲劇の母子」にスポットライトを当てて、これに同情し、彼らを無罪放免し、このような「神の不当な暴力の被害者」を救済しようとするのが、グノーシス主義の目的であり、このメッセージは、そうした意味で、グノーシス主義の基本理念にまさに合致している様子が見えて来る。

結局、このメッセージが暗に言わんとしているところは、「人類は(神の)被害者である」ということに尽きる。ダビデを「加害者」の立場に置くことによって、このメッセージは暗黙のうちに、男性全体だけでなく、聖徒らをも罪に定め、ひいては神までも「加害者」の立場に起きつつ、他方、自分たちは、その被害者だということにしてしまうのである。

こうした考えは、聖書の象徴的な意味を無視している。ダビデの罪の結果として生まれて間もなく死んでしまった子供は、最初の人間アダムをも暗示していると見ることができる。そして、ダビデとバテシェバから生まれ、父の王国を受け継ぐ子供となったソロモンは、第二のアダムであるキリストを暗示する。第一のアダムは、罪に堕落したゆえ命へ至る道を見つけられずに死んだが、第二のアダムは、神への従順ゆえに義とされて命と安息に至る。こうして「後の者が先になる」――というのは、聖書の至るところに共通する型である。

しかしながら、以上の天声教会のメッセージは、死んでしまった子供のために同情し、これを父の罪の結果であるとして糾弾する。そこから見えて来るのは、バテシェバと死んだ子供という「母子」を「弱者」としてかばうことで、神に創造されながらも、罪に堕落したために神から切り離された人類をかばい、人類を父なる神よりも高く掲げ、無罪放免しようというグノーシス主義的な思惑である。

彼らの考え方には大きな錯誤がある。それは、バテシェバも、その子も、ダビデと同じような罪を犯さなかったかもしれないが、罪人の一人に過ぎず、決して罪なき聖なる存在ではないということである。人間を義とすることができるのは、神であって、人ではない。ダビデを義とされたのは神であって、バテシェバが彼を赦したから彼の罪が消えたわけではないのである。

だが、ペンテコステ運動の支持者たちは、すべての人間関係をただ「加害者・被害者」という二項対立のフィルターを通してしか見ようとせず、「被害者」を神聖なまでに美化し、祀り上げる一方で、「加害者」を罪人として断罪する。そして、ただ被害者によって無罪放免されることだけが、人間の罪が赦される唯一の道であるかのように主張して、ひたすら、人を罪意識や被害者意識に閉じ込め、人間の罪を赦す権威は、神にこそあって、人間にはないという聖書の事実を忘れさせるのである。そして、被害者を名乗る人たちが、気のすむまで「加害者」を断罪し続け、償いを要求することを「救済」に置き換えて行くのである。

ペンテコステ運動を導くイゼベルの霊は、被害者意識の霊であると筆者は述べて来たが、この霊の手口は、他人に不当な因縁をつけて恐喝するヤクザの手法と同じである。ヤクザに脅され、ゆすられ、たかられている人は、恐怖のあまり、ヤクザから解放されるためには、ヤクザに赦しを乞うしかないと思い込む。だが、どんなにヤクザに赦しを乞うても、赦されるどころか、ますます弱みを握られ、責められ、思うがままに操られるだけである。人が悪魔に罪の赦しを乞うても無駄なのである。

しかし、ペンテコステ運動を含め、グノーシス主義は、人間の罪というものを、神に対して犯されたものではなく、人に対して犯されたものとしてのみ理解することによって、罪を指摘したり、罪を赦す権威が、あたかも被害者である人間にあって、被害者意識を持つ人間は、自分の被害者意識を盾に取って、他者を永久に脅し、断罪し続けることが正当化されるかのように考えている。

天声教会のメッセージ内容には、男性にしきりに罪悪感や嫌悪感をもたせることで、思うがままに支配しようとする「イゼベルの霊」の精神構造がよく表れていると言えよう。

すでに述べたように、統一教会における「エバ国家」の概念に見るように、他者の心に罪悪感を植えつけることで、その人間を脅し、思い通りに支配して行こうとするのは、悪霊の常套手段である。村上密牧師が、統一教会を脱会して後も、自らの心に植えつけられた加害者意識を捨てられず、キリスト教に入信後も、自分自身を依然、「加害者」の立場に置いて、キリスト教会で傷つけられたカルト被害者の救済活動にいそしんでいることについて書いたが、天声教会の指導者も、これと同様に、自ら男性でありながら、自分自身をダビデに重ねて「加害者」の立場に起き、「被害女性」の心境に寄り添うかのようなメッセージを語ることで、「被害者」の心を慰撫し、彼女たちに暗黙の懺悔を果たそうとしているのである。

だが、このようなフェミニズム的な思考の影響を受け、自己嫌悪、負い目の意識を背負わされた男性たちは、自分への健全な自信を失って行くことになる。ダビデの罪を責めている彼らは、彼を責めることによって、自分自身を罪に定めているのだとは気づかないのである。

しかし、自分自身をこのようにしか見られなくなった人間は、どんなに自己批判を続けても、その負い目の意識は払拭できないであろう。こんなメッセージは、語っている本人ばかりか、聞いている人の心にも、男性への嫌悪と、男女の関わりへの嫌悪を植えつける。

人間の罪に対する神の憐れみの深さと、人間の罪を超えて働く神の計画よりも、ただ人間の罪に対する負い目と、嫌悪感だけが募って行くことになる。早い話が、男性であれ、女性であれ、そのようにまで自分の性についてこれほど悲観的な考えを持つに至った人々が、健全で幸福な結婚生活を送り、伴侶を愛して、共に手を携えて生きることは、まず無理な相談ではないかと考えられる。

以上に挙げたような天声教会の極端に誇張された男性嫌悪のメッセージは、KFCがそうであったように、自分を夫の被害者であると考える女性信徒たちの思いが強く投影・代弁され出来上がっているものだと言えよう。日ごろから、家庭において、社会において、何かの被害者意識を持つ女性たちが、自分たちの被害者意識を、真の加害者に向けられないので、他の誰かに吹き込み、代弁させるのである。心傷ついた、子供のような誰かをターゲットとして捕まえて来て、自分好みのメッセ―ジを語らせ、自分を虐げる男性たちの代わりにその人間を懺悔させることで、自己を慰めるのである。ターゲットとされる人々にも、母親に愛されないで育ったなどの何らかの弱みがあって、その弱点と、自分を認めて欲しいという願望を担保に取られ、彼女たちに利用される結果となるのである。

こういう関係こそ、その本質は、霊的姦淫に他ならず、糾弾されてしかるべきものである。真に問題なのは、姦淫の罪を犯したが、それを神と人の前で真摯に悔いることができたために罪赦されたダビデではなく、自ら霊的姦淫の罪を犯していながら、その罪を隠し、認めようともせず、誰の前にも悔いようともしない教会指導者と信徒たちの方にこそある。

神が罪とみなしておられるのは、男女関係そのものではなく、結婚の枠組みを侵害するような男女の関わりであり、姦淫の罪とは、何も肉体的な関わりだけを指すのではなく、霊的姦淫という罪もある。ある信徒が、他の信徒を家庭から引き離し、日常生活から引き離し、配偶者から引き離し、教会生活や宗教行事に過度に没頭させ、その心を神や配偶者や家族から奪って自分に向けさせるなどのことも、霊的姦淫の罪である。

教会指導者自身が、誰よりも誤解を呼ぶような、他者の結婚生活をないがしろにする生活を教会を拠点に送り、他の信徒の心を盗んでいる状態で、他の信徒に向かって、姦淫の罪について警告するのは、まさに笑止としか言えない。この指導者は、姦淫の罪の本質を、男女の肉体的な関係だけに限定することによって、霊的姦淫という、それよりもさらに恐ろしい罪の本質から目を背けているのである。

他のメッセージのタイトルや内容からも判断できるように、この教会で語られているメッセージは、KFCと同じように、常に自分たちを他の信者たちと引き比べて、他の信者の失敗や欠点をあげつらいながら、自分たちだけは、彼らの誤りを踏襲せずに、神に受け入れられる優秀な信徒であり続けられるかのような内容となっている。こうして他者の誤りを引き合いに出すことで、自分自身を高く掲げるのである。先人たちの失敗を意地悪くあげつらい、彼らの信仰の薄さと罪深さを心の内で断罪しながら、自分たちだけは決してそんな愚かな誤りは犯さず、神に見捨てられることのない、正しい道を進んでいけると豪語しているのである。

そういう目線に立っていればこそ、この教会の指導者は、自分たちはまるで被害者であるかのような立場に立って、自分自身が現実に犯している罪には一言たりとも言及しないまま、自分たちは心美しい、罪なき人間であり、残酷で暴力的で自己中心な連中や、堕落した「スパイ」どもとはわけが違うと主張するのである。

こうした人々の思考においては、すべてがさかさまに見えている。彼らは悔い改めて罪赦されたクリスチャンを断罪し、加害者呼ばわりする一方で、自分たちは悔い改めることもなく罪赦されるはずもないのに、「被害者」であると主張することによって、自分自身を一方的にて無罪放免しながら、改めて、聖徒らを訴えようとしているのである。

だが、このようにひたすら他者の罪をあげつらいながら、自分自身を義とする高慢な人間にこそ、「私たちは見える」と言い張った罪が残り続けることであろう。

最後に、ダビデの失敗は、ただ単に姦淫の罪の恐ろしさと共に、人間のナルシシズムの罪を示しているように思われてならない。ダビデは、若い時分には、大変美しく、活発であり、バテシェバに出会うまでは、自らの美しさ、若さ、力といった、天然の生命の力や美を疑うことはなかったに違いない。バテシェバも大変美しく、ダビデは彼女を見たとき、自分にふさわしい人間を見つけたと思ったに違いない。そして、おそらくは、バテシェバの方でも、ダビデがあまりにも魅力に溢れていたので、その行動を疑うことができない心境にあったのではないかと考える。平凡な人間であったウリヤに比べ、ダビデは彼女の心を圧倒する様々な術を持っていたのではないだろうか。ダビデはそれまで、望むものを何でも手にすることができた。女性の心も思いのままであり、何を望んでも罪になることがなかった。だが、彼が自分の力に慢心し、自己の美や力を当然のものと考えた時、失敗が訪れたのである。この出来事があって初めて、ダビデは自己の存在の根本に潜む罪なる性質に気づいたのではないかと思われる。

人間の判断は極めて身勝手で、人間は自分の感覚にとって心地よく、美しいものだけを好む。自分にとって美しく映るものを義ととらえ、醜く映るものを悪ととらえ、新鮮で、若々しく、命の力に溢れた、自分の目を楽しませてくれる美に価値を見いだす。しかし、人間の目にどう映るかとは別に、美というものの中には、根本的に悪に傾きやすい危険が潜んでいること、その危険性が自分自身のうちに潜んでいることに、ダビデは気づいたのではないだろうか。サタンは、自己の美しさに慢心して神への反逆に至った。もしもサタンが美と無縁であったなら、高慢に陥ることは決してなかったであろう。

ダビデの息子の一人であるアブシャロムは、父よりも美しかったと思われる。その美しさのゆえにも、ダビデは彼を愛したのであろう。だが、この息子が自らの美しさに慢心し、ダビデへの反逆を企てることになる。その姿を見て、ダビデは、自分の外見の美の力を疑うこともなかった若い当時の自分自身を思わなかったであろうか。人間の美というものがいかに人々を眩惑して物事の本質を簡単に見失わせる欺きに満ちたものであり、その美の持ち主自身をも狂わせるものであるかを考えなかっただろうか。

このようなことから見ても、人間の罪というものは非常に巧妙で見えにくく、ダビデは罪を犯したがバテシェバは一方的な被害者であって罪がないなどと簡単に言えるような図式は存在しないことが分かる。ダビデの犯した罪は、女性も含め、人間そのものに根本的に流れる罪なのである。

なのに、こうした事実を見ずして、人が自分の目と耳を喜ばせてくれるうわべだけの綺麗事に熱中し、この綺麗事を握りしめて、それによって自分自身の存在を美化し、正当化し始める時、その人間は真実から逸れて、罪なる本質の中に陥って行くのではないだろうか。

ダビデがバテシェバを何が何でも手に入れようとしたように、今日、多くの宗教指導者は、エクレシアの強奪に余念がない。キリストの花嫁たるエクレシアは、神にとっての宝である。だが、この花嫁たる教会をめぐって、人はどれほどの争いと罪を繰り広げて来ただろうか。

ペンテコステ運動の指導者たちは、ダビデがウリヤを殺してでもその妻を奪ったように、心ある信者たちを追放してでも、教会を私物化し、残る信者たちの心を神や配偶者から盗んで自分に向けさせている。こうして教会を自分の栄光、手柄の手段へと変えている。

ダビデと違って、彼らはこれを恥ずかしいと思わず、霊的姦淫の罪とも考えない。彼らはあまりにも自己の力に慢心しているので、教会が自分の前に跪くのは当然だとさえ思っている。ペンテコステ運動が支持者にもたらすのは、このような不遜なまでの、あるいは痛ましいまでの、自己の力へ慢心、自己の美への賛美である。こうした指導者たちはあまりにも己惚れすぎているために、誰から指摘されても、その状態が罪であるということに気づけない。本当は、こういう指導者こそ、霊的姦淫の罪により糾弾されるべきである。

こうした指導者は、片方では、信徒の耳に都合の良いことを約束しながら、もう一方では、公然と「世界の荒廃」などを予告して、破滅や呪いの予言を語り、信者を恐怖と疑心暗鬼に陥れることで、自分の教会に束縛し、思惑通りに行動させようと促す。(その点でも、KFCと天声教会は似ている。)そういうことになるのは、この人々が神から遣わされた預言者ではなく、ただ自分自身の心の欲望と荒廃を信徒に向かって語っているだけだからである。こうした指導者に着いて行けば、羊には正常な未来はまず望めないであろう。

2016年11月 9日 (水)

「イゼベルの霊」が生み出すマザコンと、父なる神に反逆する母子が神の家の後継者を詐称して、家の乗っ取りをたくらむペンテコステ運動の危険

・安倍晋三に見る「イゼベルの霊」による支配の危険――母が子に怨念と被害者意識を吹き込むことで生まれる歪んだマザー・コンプレックス
 
さて、ペンテコステ運動の弊害については、以下でも話をつづけるが、この項目では、「抑圧的に支配する異常な母の霊」であるイゼベルの霊が、人の人格をどれほど異常に歪め、人生を狂わせるものであるか、その破壊的影響について、安倍晋三という人物を例に取って考えてみたい。

我が国の現在の首相である安倍晋三が、統一教会と密接な関係にあることは、インターネットでは常識である。さらに、それだけでなく、同氏が相当に深刻な「マザー・コンプレックス」であることも、一般によく知られている。

ちなみに、マザー・コンプレックスという言葉は、心理学用語ではなく、学術的に病理現象として定義されているわけではないようだが、それでも、この語が一般に広く使用されて定着している様子にも見るように、これは日本社会にあまりにも広く蔓延している心の病の一種であると筆者は考えている。

マザー・コンプレックスとは、母親の抱える不安や、孤独、心の傷、被害者意識などが、子に強く投影された結果、それが子供の心の傷となって引き起こされる現象であると筆者はみなしている。

欧米社会では、比較的裕福な家庭の子供などは特に、早くから学校の寄宿舎へ入れられるなどして、親元を離れ、親とは別個の自立した人格としての自覚と責任感を持つよう促される。いつまでも親にべったりな状態が良いものとはみなされておらず、親に依存的な子供は、一人前でないとみなされ、他の子供たちからも嘲笑や侮蔑の対象になることもある。

こうして早くから子供の親離れと自立を促す習慣は、個人を重視するキリスト教的世界観とも無縁ではないであろう。なぜなら、聖書に「その父母を離れ」(創世記2:24)とあるように、キリスト教的世界観においては、人の人生の歩みは、生まれ落ちた家庭から自立して、親の意志とは独立した一個の人格として、自主的に自己決定を下せる状態になることを一人前とみなしているからである。

しかし、東洋諸国においては、集団と個人との概念の切り分けがなく、子をいつまでも親の付属物のように考えたり、社員を企業の所有物のようにみなし、個人をその帰属する団体の所有のごとく考える風潮が根強い。我が国では、家庭においても、子供を健全に成長させるためには、親からの適度な分離が必要であり、子は親だけでなく社会全体で育てるものだという意識が普及していない。

このような社会では、子供は親とは別個の自立した人格であるという意識が非常に薄く、子供を健全に成長させる全責任が、ひたすら親にあるかのようにみなされ、子が成人後に犯罪を犯しても、その責任が親にあるかのようにみなされ、親がバッシングされたりすることも珍しくない。あるいは、親の方でも、子が成人してもなお、子供を自分の付属物のようにみなし、子供の人生を思い通りに支配しようとすることもある。

こうしたことは、まさに東洋的世界観が反映して起きて来る現象であると考えられる。なぜなら、東洋的世界観にはそもそも神と人との断絶という概念がなく、目に見える宇宙と個人とは一体で切り離せないものとみなされ、それが転じて、組織や集団と個人との切り分けも否定され、全世界が一体であるかのようにみなされているためである。

さて、子供への過剰で歪んだ支配は、父親も、母親同様に行う可能性があるが、母から子への抑圧的な支配は、父親の場合と比べて、非常に巧妙で分かりにくい性質を持っている。

父親の子供へのコントロールは、一方的な命令という形で表れることが多い。そこで、もし父親が子供の意志を無視して、一方的な命令を下せば、それは子供の側からの大きな反発を呼び起こし、家庭において、激しい衝突や軋轢を生む可能性がある。それに引き換え、母から子への過剰なコントロールは、父のように強権的で抑圧的な命令という形を取らず、むしろ、一見、子供への「同情」や「愛情」、「思いやり」、「優しさ」といった形をを装って行われることが多い。そこで、それが過剰な支配であり、抑圧であることが、はた目には分かりにくく、当の子供自身にとっても、それが母による自分の人格への侵入であり、人生への不当な介入であることが分かりづらい。

しかも、子供を自分の欲望の道具として支配する母親は、子供が母の本当の動機を決して疑うことができないように、それを子供への同情や愛情という形でカモフラージュするだけでなく、しばしば、自分を夫の被害者と見せかけることで、子供の心に父に対する嫌悪感を植えつけ、自分への同情を呼び起こし、母子の距離を縮めて行くことが多い。

こうした異常な母親は、家庭において自分が抱える孤独や、不安、被害者意識を巧みに子供に吹き込み、父を巧妙に悪者にすることによって、自分には悪意がないかのように装い、子供が自分だけの味方となって、自分に同情するよう仕向ける。「まず母に元気になってもらわないことには、自分の幸せもないのだ」と子供に思わせることで、子供を母親である自分と運命共同体にしてしまい、同じ被害者意識によって結ばれるよう仕向けるのである。

早い話が、それは母親による子供へのマインドコントロールなのであるが、「自分たちは脅かされている被害者だ」という同じ意識を共有することで、母子の境界線が失われる。子は、母の不安を自分自身の思いのように継承しながら、母の利益の代弁者となって、母の観点に立ってのみ全ての物事を見、母の不安を解消することだけを人生の第一義的な使命として生きるようになる。

こうして、母と子が被害者意識によって精神的に癒着し、一体となって離れられなくなり、子が母の重荷を自分の重荷として背負い、成人してもなお、母から承認を受け、母を守る盾となって、母を喜ばせ、母の抱える不安や孤独や被害者意識を解消するために生き、独立した一人の人格としてのプライドと境界線を失った状態が、いわゆるマザー・コンプレックスである。このような異常な母親による支配は、被害者意識による連帯があるだけに、子供にとって見抜き難く、抵抗しがたい性質を持つ。

さて、安倍晋三に話題を戻せば、安倍氏の母親(洋子)は、「昭和の妖怪」と呼ばれた岸信介の長女として生まれた。現在ではゴッド・マザーなどとも呼ばれる彼女は、未だに息子である安倍氏の精神に絶大な影響を及ぼしており、内閣改造にまで介入しているとも言われる。安倍氏が官邸になかなか住もうとしないのも、母親から離れられないためなのだと世間では囁かれていた。

この洋子という女性は、あらゆる事実に鑑みて、父親である岸信介の思いを誰よりも強く受け継いで育ったものと思われる。父がA級戦犯としての「汚名」を着せられ、死刑に処されるかという瀬戸際まで追い込まれ、そのために家名が汚されたことへの「無念」や「屈辱感」や「被害者意識」を、この女性は強く我が事として感じ、それゆえ、岸信介に下された歴史の「不当な」審判を覆して、父を「名誉回復」することで、家の名誉を回復し、一家を復興したいという願いを誰よりも強く持って生きて来たものと考えられる。つまり、彼女は「家が脅かされている」という被害者意識を人一倍持って成長して来たのである。

LITERA掲載の記事「母親に弟より愛されたい! 安倍首相の岸信介、改憲への拘りは「マザコン」の現れ!?」(2015.04.01.)によると、洋子氏は「岸家の復興」という悲願を、まず最初に、岸家に養子に出した自分の三男に託そうとしたようである。だが、すでに岸家の人間ではなくなっていた彼女が、家を飛び越えて子供の将来を操るという計画は周囲からも不評を買い、結局、彼女はその悲願を、晋三に託さざるを得なくなった。

こうしたことから、この洋子という女性は、自分の父がこうむった恥から来る怨念と被害者意識を、息子を通して解消しようと考えていたことが分かる。彼女はすでに岸家を出ていたにも関わらず、岸家の人間としての意識を捨てられず、息子が彼女に代わって、先祖の無念を晴らし、家の潔白を主張して、彼女の生家の名誉を回復する道具となってくれることを望み、そのようにして息子を自分の欲望をかなえる道具としようとしたのである。

上記の記事などから判断するに、安倍晋三は、母のマインド・コントロールをまともに受けて成長し、母に認められたいという願望のゆえに、母の怨念と被害者意識と一体化し、それゆえ、A級戦犯とされた岸信介を誰よりも尊敬し、亡き祖父と母の思いを代弁して、先祖の「名誉回復」をはかることを悲願として生き、そのために、祖父が持っていたイデオロギーに自分も身を投じた。

こうして、安倍晋三は首相の座にあるうちに、何とかして「自虐史観」を廃して、自分たちにとって不名誉な歴史はすべて修正し、憲法を改正し、かつての「皇国」として大日本帝国が持っていた「栄光」(むろん、そんなものは存在しないのだが)を「復活」させることにより、自分たちのルーツを正当化し、栄光の高みに押し上げることを、生涯の目的のようにみなすようになったものと見られる(それが「日本を取り戻す」という同氏のスローガンの意味である)。

こうして、安倍氏は、怨念と被害者意識というへその緒で母と強固に結ばれたまま、成人してもなお、母とは別の人間である自分自身の人生を生きることができず、先祖と母の思いを代弁して無念を晴らすことだけが全生涯の目的となってしまったのである。

本来ならば、安倍氏は岸家の人間ではないので、岸信介の「無念」を継承しなければならない理由もないはずであるが、母の存在を通して、彼の負い目の意識、被害者意識を強烈に心に植えつけられ、その呪縛から抜け出ることができなくなってしまったのである。

祖先が下された審判のゆえに、負い目が心に深く刻まれていればこそ、その怨念と屈辱を跳ね返すために、自分たちは無実であると主張しないわけにいかないのである。つまり、自分たちの家に下された歴史の審判は、ただ戦勝国という強者によって押しつけられただけの不当判決であると主張して、これを覆すことによって、先祖の無念を晴らし、負のくびきを払い落として、栄光を取り戻したいと願わずにいられないのである。それはすべて罪の意識を払拭したいという願望から来ていることである。

そのように、安倍氏が母から受け継いで個人的に抱える怨念、被害者意識、復讐心が、我が国において、敗戦を未だに受け入れられない歴史修正主義者やナショナリストやネトウヨのような人々の負の感情と響き合って、我が国に集団的な被害者意識に基づくナショナリズムを生んでいるのである。

このように、安倍晋三という人間は、母(先祖)の被害者意識に人生を乗っ取られ、これを払いのけることだけを目的に生きているも同然であり、その姿はまさに、当ブログで述べて来たグノーシス主義・東洋思想における「脅かされている母を守る子」の姿に重なる。

そこには、ただ「脅かされている母を守る」という姿勢があるだけでなく、「聖書の神が人類に下した罪と死の(不当)判決から逃れたい」という願望が透けて見える。

幾度も述べたように、悪魔は、神によって自分に下された罪定めと永遠の滅びの判決から何とかして逃れて自分を無罪放免したいと願っており、そこで、自分を「神の被害者」であると考え、自分ではなく神を「有罪」として告発することで、神の判決に逆らい続けて生きている。そして、神を知らず、悪魔の支配下にある生まれながらの人類(罪人)を手下とし、自分と同様の負い目の意識を負わせ、自分への有罪宣告から逃れるために神に敵対するよう仕向けているのである。

岸信介を「名誉回復」して、「大日本帝国の栄光」を取り戻すことで、歴史を修正し、自分たちにかけられた汚名を返上して、再び、栄光の高みに上ろうという、以上のような安倍家の人々の考え方は、その魂の深い次元では、まさに悪魔の抱える神に対する怨念と被害者意識と、秩序転覆の願望へと重なって行く。

だから、以上に挙げた例は、決して、先祖がA級戦犯にされたという特殊な事情を抱える一家に限定された話ではなく、その背後には、聖書の父なる神に反逆するグノーシス主義的な母性による「神を押しのけて自分を神としたい」という普遍的な対立が見えるのである。

この母子が逆らっているのは、東京裁判を含めたあれやこれやの不都合な歴史的事実ではない。彼らは歴史的判決を受け入れないことによって、より深い次元では、結局、神がキリストの十字架において人類に下された有罪宣告そのものに逆らって、人間の生まれながらの自己を無罪放免し、自らを神としようと狙っているのである。


・「父」に歯向かう「母」と、「母」の過失をかばう「父なし子」が、勝手に神の家の後継者を詐称して、神の家を乗っ取ろうとする詐欺としてのグノーシス主義

グノーシス主義とは「家が脅かされている」という「母」の被害者意識を土台に成立する「母子家庭の母と父なし子の悲劇の物語」である。なぜ悲劇なのかと言えば、彼らの「脅かされている」という被害者意識は、彼ら自身が犯した罪から来るものであって、ゆえなきことではなく、にも関わらず、己が罪を認めようとしないこの「母子」が「父の家」へ平和に復帰することは絶対にあり得ないからである。

ここで「父なし子」と筆者は述べたが、それが何を意味するのかを、グノーシス主義の構造に照らし合わせて、もう一度振り返っておきたい。

グノーシス主義神話においては、自ら神の創造の秘訣を盗み、神のようになりたいと願った最下位の女性人格(ソフィア)が、どのような方法でかは分からないが、神に反逆して単独で子を生むに至った。そして、この「母」が、自分が生んだ子や子孫(人類)と一緒になって、自分たちこそ神の正統な後継者であると主張し、そうして「子」が「母」の犯した過ちを修正することが、この思想においては、人類の生きる最高の目的とされている。

ここで、単独で子を生むに至った女性人格が、「ソフィア(知恵)」という名で呼ばれているのも偶然ではない。聖書的観点から見れば、この「知恵」は、神に逆らう偽りの知恵を指す。その「知恵」とは、聖書の創世記において、堕落した悪魔が、自分と同じように神に反逆するよう人類をそそのかす際に使った「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:5)という端的に言葉に表れている。つまり、「知恵を受ければ、誰もが神のようになれる。それによって神を乗り越え、神以上の存在となりなさい」という悪魔の誘惑を指す。

グノーシス主義においては、「神のようになるために知恵を手にしたい」と願ったソフィアの欲望が罰せられることなく、それどころか、この「母」の欲望を正当化し、「母の過ちを修正する」ことこそが、「子」たる人類の使命とされる。

母の過ちを修正するとは、子が母の過ちをかばい、その過ちによって生まれた自分自身のルーツをも正当化し、自分たちは神の後継者として、神の家に正式に迎え入れる資格があると名乗り出て、神の家の一員となり、自ら神となることを意味し、そうして自力で神に回帰することが、人類の最終的なゴールだというわけである。

だが、ここに極めて大きな問題が横たわっている。それは、人類は神の側からの承認を抜きに、一方的に名乗り出ただけで、自力で神に回帰する道があるのか、という問題である。

むろん、そんな道が存在しないことは、聖書によれば明らかだが、グノーシス主義神話を見ても、この点については、神話自体に大きな欠陥があると言えよう。グノーシス主義は、ソフィアの生んだ子の子孫である人類は、「神聖な霊の欠片」を受け継ぐ神の子孫であると主張する。だが、そのことを裏づける客観的な証拠は、この神話の中には存在しない。なぜなら、どうやってソフィアが単独で子を生むに至ったのか、その経緯が明らかにならない以上、彼女の「過ち」の結果として生まれた人類が、神の子孫であると証明する手立ては何もないからである。

ソフィアの違反がどのように成し遂げられたのか、グノーシス主義神話においては詳細が何も語られていないことから、自らの欲望を叶えるために、ソフィアが記述することもはばかられるような、何かしらの禁じ手を使ったのであろうことは明白である。

こうして、彼女は違反に違反を重ね、その結果として生まれた「子」が、本当に「神聖な霊の欠片」を持つ神の正統な後継者であると言える証拠は、グノーシス主義神話の中にはどこにも見つからない。普通に考えても、そのような類の話は、全く胡散臭く疑わしいものとしか言えない。

グノーシス主義が、人類が神のものである「神聖な霊の欠片」を持ち、本来的に神と同一であると主張しているのは、単に人類の側からの「自称」に過ぎない。つまり、ある日、自分は神と同一であるという「知識」に「覚醒」しさえすれば、その日から、人類は神の子孫として、神への回帰の道が開かれるというのである。

このような「神話」の中には、「父からの認可」という発想そのものがない。「父の意向」は、この思想においては、徹頭徹尾、無視されている。ただ「母子」が勝手に自称しさえすれば、彼らは「父の認可」を抜きに、勝手に神の家の子孫・後継者となり、神そのものにもなれるというのである。

正直に言って、こんなにも一方的で虫のよさすぎる話に、誰も信憑性を見いだすことはできないであろう。何よりも、ここまで徹底的に存在を無視され、その意向を踏みにじられ、愚弄されている「父」が、このような「母子」の主張に耳を傾け、これを正しいと認めて、彼らを自分の家族として、自らの後継者として家に迎え入れるようなことは全く考えられない。

もしそんなことが起きれば、もはやそれは「家」ではなくなる。一家の大黒柱、最高の権威である「父」が認めないのに、何者とも知れない者たちがその家の主となることが許されるなら、それは家の乗っ取り事件であり、家の破壊である。そして、ここにこそ、グノーシス主義の狙いが存在する。

グノーシス主義とは、結局、「神の家の乗っ取り」の思想である。だからこそ、最初から最後まですべてが「自称」なのである。人類がただ知識に覚醒して自分から名乗り出さえすれば、神にまでなれるという考えは、神を愚弄している。もともと神を愚弄していればこそ、神の承認など抜きにして、勝手に物事を進めようとするのである。

このようなグノーシス主義の特徴は、誰でも手を挙げれば明日からでも牧師やメッセンジャーになって人を教えられるという、ペンテコステ運動の安っぽくお手軽な特徴にもぴったり重なる。

聖書のテモテ書には、教会の監督や執事の選出の際の審査基準についてこうある。

「「ひとが もし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである。」ということばは真実です。

ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。

――自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。


また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです。

執事もまたこういう人でなければなりません。謹厳で、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利をむさぼらず、きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人です。まず審査を受けさせなさい。そして、非難される点がなければ、執事の職につかせなさい。」(Ⅰテモテ3:1-10)

監督や執事になるための条件は、ここに挙げた記述にとどまらず、さらに続くのだが、いずれにしても、そこでは、教会の要職に信徒が何の審査もなしに就くべきでないことがはっきりと示されている。

以上のような条件は、監督や執事のみならず、当然、牧師やメッセンジャーの選出の際にも当てはまるであろう。牧師やメッセンジャーには、もっと厳しい審査基準が要求されて当然である。

以上に挙げられている条件は、かなり厳しいものであり、それに照らし合わせれば、自分や他人の結婚生活をないがしろにして、他の信者との霊的姦淫にふけっているような信徒は、初めから教会の要職には不適格者として問題外にされているのは言うまでもない。

このような記述が聖書にあるにも関わらず、それを無視して、誰でも神秘体験を受けて「神の霊の器」となったと自称しさえすれば、監督や執事どころか、牧師やメッセンジャーにまでなれるペンテコステ運動が、どれほどいかがわしい信用ならないものであるかは、改めて強調するまでもない。

なぜこの運動においては、牧師やメッセンジャーになるための審査基準がないに等しいほどまでに甘いのか? なぜ客観的な証拠が何もないまま、「自称預言者」が横行するのをいつまでも許しているのか?

それはこの運動が、もともと詐欺師に活躍の場を与えることを目的としているために他ならない。詐欺師のために用意された舞台だからこそ、そこでは詐欺師にとって不利な審査基準が撤廃されているのである。つまり、ペンテコステ運動の指導者は、キリストの名を使ってキリスト教徒を名乗ってはいても、それは完全な偽りであって、彼らは本当はクリスチャンではないということである。

同じことが、統一教会にも当てはまる。「再臨のキリストである」と勝手に自称しさえすれば、その人間がその日から偉大な宗教指導者とみなされ、神にまでなれるというわけだから、何とお手軽な宗教であろうか。ペンテコステ運動との違いは、ただ「神に油注がれた預言者」を名乗るか、「再臨のキリスト」を名乗るかという違いだけである。どちらもキリスト教に名を借りただけの絶望的なまでに信用ならない偽りの宗教である。

キリスト教は、父なる神への従順を信仰生活の基礎としている。人が神に受け入れられるためのすべての条件は、父の御旨に従うことにあり、父の御旨に従うとは、父が遣わされた御子を受け入れ、その御言葉に従うことにある。

それにも関わらず、グノーシス主義は、父の戒めを無視し、父の遣わされた御子を無視し、父の意向を徹底的にないがしろにして、「母の御旨」を全てとしている。

「母の御旨」とは、人類の身勝手な欲望のことである。

統一教会もペンテコステ運動も、共にキリスト教の異端であり、こういう思想の持ち主にとって、大切なのはただ自分の欲望だけである。彼らの「信仰」は、自分自身への信仰、つまり、自己崇拝である。彼らにとって、他人はみな彼らの欲望を満たす手段でしかない。

安倍家の例では、母洋子は、自分がすでに岸家の人間ではなくなっているにも関わらず、家を飛び越えて他家の事情に介入し、自分が嫁いだ夫の家を尊重せずに、夫の意向を無視して、自分の生家にこだわり、自分は生家の人間であるかのように振る舞い、自己のルーツの正当化に固執する。そして、彼女は、自分では叶えることのできない夢を、岸家の人間ではない息子に託す。

こうしたことはすべてルール違反であり、彼女は、社会常識を破り、夫の意志を飛び越え、家の枠組みをも飛び越えて、ただひたすら自分の欲望だけを叶えようとしている。歴史的事実もないがしろにし、自分の主人をもないがしろにし、自分の属する家もないがしろにし、他人の家もないがしろにしながら、ただただ自分の祖先の罪をかばって自己正当化をはかることだけを目的に生きているのである。

このような非常識で規則破りの常習犯としての自己中心で厚かましい行動は、ペンテコステ運動の信者たちにも共通して見られることである。何度も繰り返して来たことであるが、ペンテコステ運動に関わる多くの信者たちは、信者が妻である場合には、自分自身を夫の被害者と考えて、夫を心の中で侮蔑しているケースも珍しくない。彼女たちは、自分の主人である夫の意志を決して尊重しようとはせず、家庭を無視して宗教行事に入れ込むなどのことは日常茶飯事で、夫の被害者であることを至る所で触れ回り、夫の面子を潰している例もある。さらには、この運動の信者たちは、自分の所属している教会があっても、牧師や指導者の意志に従わず、彼らに隠れて、平気で他教会に出かけて行き、母教会をよそにして他教会の信徒や指導者と親しく交わるなどのことも日常茶飯事である。こうして、信仰生活においても、平気で二重生活を送り、家族のしがらみや、組織の枠組みなどないがごとくに、どこにでも入り込み、規則を無視して他教会の事情に首を突っ込み、そこにもとからいる信者を追い払ってでも、自分の縄張りを広げて行く。このように、規則も常識もないがしろにし、他人の意志も無視し、自分の意志を妨げるものなど何もないかのように、アメーバのように形を変えてどこにでも浸透し、無限に膨張・拡大しながら、関わるすべての者たちを自分の色に染め上げて行こうとするのが、ペンテコステ運動の信者の特徴である。彼らにはその厚かましく自己中心で非常識な行動に対する罪や恥の意識は全くと言って良いほどない。

ペンテコステ運動の信者たちをそこまで尊大かつ非常識にさせている原因は、彼らの心の被害者意識にある。彼らは、自分たちは家庭においても、教会においても、社会においても、一方的な被害者であると考えることで、自分の行動を正当化していることが多い。もし自分たちの行動に疑いを投げかけられるようなことがあれば、彼らは弱々しい外見や、社会的弱者としての立場などを存分に用いて、情に訴え、自分たちは哀れな被害者であって、多くの過失を情状酌量されるべき存在であるから、自分たちを責めるのは無情で残酷な行為だと主張する。そのような泣き落としも功を奏さなければ、自分と同じように被害者意識を抱える厚かましく自己中心な人間を仲間として呼び寄せ、被害者意識によって結託することで、自分たちに耳の痛い言葉を投げかける人間を「悪魔」扱いし、恫喝し、嘲笑し、呪いの言葉を浴びせることによって、集団的に排斥するのである。

敬虔なクリスチャンの仮面を被りながら、そのようなネットワークを、自分の教会の枠組みを超えて、既存のキリスト教界の中にどこまでも張り巡らそうとする。そのようにして、結果として自分たちの所属していない教会にまでも勢力を広げ、これを乗っ取ることが、彼らの隠れた目的なのである。断じて、教会にこのような破壊的影響を及ぼす運動が、聖書に基づくものであることはあり得ない。

グノーシス主義は、反逆と秩序転覆の思想である。そこでは、神に反逆した「母」と、反逆によって生まれた「子」が一体となって、自らの罪をかばい、「父」に無理やり自分たちを認知させることによって、自己のルーツを自力で浄化し、神の家に回帰して「母子家庭」の汚名を返上しようとたくらんでいる。

このように、グノーシス主義が、聖書の神に敵対する徹底した反逆の思想であるからこそ、初代教会の時代に登場したグノーシス主義の様々な流派の中には、アダム、カイン、ニムロデ、ソドムとゴモラの住人、エサウ、イシマエル、イスカリオテのユダのような、神に反逆した聖書の登場人物たちをまるで聖人のように誉めたたえ、彼らこそキリストの真の弟子であったとして、堕落した罪人らを「名誉回復」しようとする思想も生まれたのである。

このようなグノーシス主義の支離滅裂な反逆の精神は今も健在であり、今日のキリスト教の数多くの異端のみならず、ペンテコステ運動にも脈々と受け継がれている。だから、もしこの運動の支持者をキリスト教徒だと信じて疑わずに関わると、大変な目に遭わされることになろう。

鈴木大拙が、「東洋民族の意識・心理・思想・文化の根源には、この母を守るということがある。母である。父ではない、これを忘れてはならぬ。」と述べているのは、まさにグノーシス主義的世界観に基づいた考えなのである。「母を守る」という言葉は、「母の過ちを修復する」ということと同義である。過ちを犯した母だからこそ、存在を脅かされているのだが、その母をかばうことによって、子までも母と同じ過ちを身に背負おうとする思想である。

そして、このような東洋的・グノーシス主義的世界観における「母を守る」という概念を、キリスト教に公然と持ち込むことによって、キリスト教を骨抜きにしようとしているのがペンテコステ運動である。

カリスマ運動の指導者である手束正昭氏は、キリスト教における「母性の欠如」を非難する。同氏は、鈴木大拙と同じように、カトリックがマリア崇拝によって母性原理を補われたのは良いことであるとしながらも、他方、「プロテスタント教会は“聖書のみ”の立場から、聖書からは導き出し得ない『マリヤ崇拝』を廃棄せざるを得」なくなり、その結果、父性原理と母性原理のバランスを失い、「極めて父性的で、厳粛な宗教に陥ってしまった」と嘆く。そして、このようなプロテスタントに、「人間性の安定や健全さを求めることは難しく、従って、プロテスタント国においては精神的な病を患う人々がより多く排出されることになったのである。父性というのは、上と下、善と悪を峻別して、秩序立てていこうとするので、どうしても心理的葛藤が起こりやすいからである」と言って、まるでキリスト教の父性原理こそが諸悪の根源であるかのように非難する。

クリスチャンがこんな主張に簡単に欺かれているようでは話にならないであろう。ここに、グノーシス主義的な「母性」による神の家の乗っ取りの精神があることを見抜かなくてはならない。

こうした主張の本質は、決して「母性原理を補うことによってキリスト教にバランスを回復する」などという美化されたところにあるのではない。そこにあるのは、「父」と「母」を同等に並べ、次に「母」が「父」を凌駕することによって、「父なる神」から主導権を奪おうという試みなのである。そして、「母」とは人類を指す。

だから、そこにあるのは、神の家の主人は誰なのかという問題なのである。

心理的葛藤が起こらないため」などと称して、そこには、同情や愛情や優しさや善意に見せかけて、巧妙に「父」を悪者とし、御父への従順から信者を引き離そうとする思惑が働いていることにクリスチャンは気づかなければならない。

その「母」は優しげに言う、「キリスト教の父なる神様は、全くひどい横暴な独裁者で、考えることもなすことも、みな一方的で偏っているから、そんな残酷で独りよがりな神様の言うことは、あなたは聞かなくても良いわ」。こうして、父の決定をことごとく骨抜きにし、ないがしろにし、その権威を否定し、その戒めを無にして行こうというのが、この「母」の目的なのである。

「父」の役目とは、まさに手束氏が述べているように、「上と下、善と悪を峻別して、秩序立てて行く」ことにこそある。もしそれが否定されるならば、そんな家庭に「父」はいないも同然である。上下もなければ、善悪もなく、秩序もない。そんなものは家と呼ぶことさえできない。単なる混沌(カオス)である。

グノーシス主義的な「母」が、父性原理の二分性を嫌い、これを残酷なものとして非難するのは、彼女が「父」の意向に服していないからである。自分の罪が暴かれないためにこそ、自分を罪に問うことのできる権威を持つ存在を否定し、告発し、消し去りたいのである。

だから、こんな「母」が「父」と並んで上手くやって行くことは絶対に無理である。彼女は偽り者であって、「父」のふさわしい助け手ではない。この「母」の優しさや寛容さは、偽りであって、真の愛情から来るものではない。彼女は自分の過ちを隠ぺいしているからこそ、他人の過ちにも寛容なのである。

だから、このような罪深い「母」と一体化させられると、「子」は神への従順、貞潔さ、清い良心を失って、魂を汚され、自己を喪失する。母の罪意識を一体となって抱えさせられ、一生、負い目の意識から抜け出られなくなり、父なる神に純粋に向かうことはできなくなる。

そして、その「子」は「母」と一体となって自分の抱える罪の意識を正当化するために、絶えず「父」を否定し憎みながら生きることになる。それは「子」の自尊心をむしばみ、屈辱感、劣等感、被害者意識と、憎しみでいっぱいにしてしまう。「母をかばう」ことによって、「子」は真実を直視できなくなっているので、己が罪をも認められず、悔い改めて、罪赦される機会も失われる。こうして、「子」には「父」に回帰する道が永遠に閉ざされることになる。

挙句の果ては、そのように残酷に支配されている「子」の心では、やがて「母」への憎しみが高じて、それが神と全人類への憎しみになり、特に、エクレシア(教会)への憎しみへと発展するであろう。

人が神の家に正式に迎えられるための手段は、このように怨念と被害者意識の塊である「異常な母」としての「イゼベルの霊」と手を切ることにしかない。人類が無意識に追い求めているのは「父からの承認」であるが、罪深く異常な「母」に結ばれている限り、人は決して「父の本当の子供」にはなれない。

人が神の家に迎え入れられるための条件は、父なる神に対する従順であり、その従順は、御子が十字架において死に至るまでの従順として達成された。この御子の十字架の贖いの御業を通してしか、人間が神に迎え入れられる手段はない。

「イゼベルの霊」と訣別するとは、人間が自己崇拝・自己栄化の偽りの霊と手を切り、神がキリストの十字架において人類の生まれながらの自己に対して下された罪と死の判決を余すところなく自分のものとして受け入れ、神の御手の下に己を低くすることを意味する。それは、キリストが十字架で耐え忍ばれたすべての恥辱と苦痛を、人が自分自身のものとして受け入れ、神が御子に下された裁きを自分自身に対する裁きとして受け入れ、彼の死を自分の死として認めることである。

ところが、ペンテコステ運動は、羊のための唯一の門であるキリストを介さず、人類が一方的に神秘体験によって神と結ばれ、神の子供とされたと主張する。キリストの十字架を抜きにして、神秘体験を誇ることで、信者が自分は「神属人類」となったと主張して、自分を神に等しい存在として高く掲げるのである。

彼らは、神だけを聖なる方とせず、被造物に過ぎない自分を神として誇り、神から神の地位を奪って自分に栄光を帰し、信者の心をも神から奪って、自分自身を崇めさせている。

このように、御父の戒めに従順でなく、キリストの十字架の贖いも否定して、自己の死を経ておらず、本当は、神の家の後継者を名乗る資格を何一つ持っていないのに、ただその身分を詐称しているからこそ、ペンテコステ運動の支持者らが自分を「神の器」だとするその主張には、それを裏づける客観的な証拠が何一つ見つからないのである。

神の家の後継者を詐称しているだけだから、彼らの主張には、主観的な体験以外に何も根拠が存在しないのである。

「イゼベルの霊」とそれに操られる「子」という、詐欺師のような「母子」のペアは、厚かましくしたたかに振る舞うので、しばらくの間は、人を惑わすことはできるかも知れないが、最終的には、必ず、御国の後継者を詐称した罪と、神の家の不法な乗っ取りの罪によって裁かれ、神の家から永久追放される。この「母子」に対する判決はすでに下されている。

「しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」」(ガラテヤ4:30)

父に従わず、父をないがしろにする母と、その母が生んだ誰の子とも分からない子が神の家に家族として迎え入れられることは決してない。この母子による神の家の乗っ取り計画は成功しない。彼らに待ち受けているのは滅びだけである。だからこそ、グノーシス主義とは「母子家庭と父なし子の悲劇の物語」であると筆者は言うのである。

2016年11月 8日 (火)

「イゼベルの霊」によるキリスト教の乗っ取り運動としてのペンテコステ運動

・ペンテコステ運動は「イゼベルの霊」によるキリスト教の乗っ取り運動である

これまでの当ブログにおける一連の記事を通して、「イゼベルの霊」の特徴を分析することで、筆者が一体、何を示そうとしているのか、その内容は、ある程度、読者に伝わっているのではないかと思う。

だが、もし伝わっているとしても、あえて踏み込んで説明を続けなければならない。「イゼベルの霊」とは、すでに述べた通り、人の罪悪感や、負い目の意識を足がかかりにして、他者の心に入り込み、他者の人格を乗っ取って支配しようとする「異常な母の霊」である。

悪魔が光の天使を装うように、この忌むべき「母の霊」は、愛情深く、献身的で、敬虔な慈母のような姿をして近づいて来る。だが、彼女の目的は、心傷ついて被害者意識を持つ人間を、真の自由と解放へ導くことにはなく、うわべでは優しく同情的なそぶりを見せながら、傷ついた人の心の弱点に取り入って、彼らを自分の欲望をかなえる道具として支配することにある。

だから、イゼベルの霊に捕まった人々は、彼女の霊の支配下にいる限り、怨念や被害者意識から永久に解放されることはない。心の傷を癒されるどころか、ますます傷が深まって、健全な自尊心を失って行くことになる。そのようにして、被害者意識から立ち上がれなくなり、最後には、何をするにも、彼女からの偽りの慰めと励ましがなければ行動できないほどまでに、自尊心を失って行くことが、彼女の支配の狙いなのである。

イゼベルの霊は、グノーシス主義を起源として生まれており、この霊そのものが被害者意識の塊である。彼女は、外見的には、ただ一人のまことの神を信じている敬虔な信者のように振る舞うかも知れないが、その実、神以外に多くの愛人を抱え、神への貞潔さはなく、彼女は夫を裏切る人妻であるバビロンと同質である。

彼女は、「子ら」を自分の欲望の道具として支配することで、神への反逆へと駆り立てる。この霊の最終目的は、神への反逆と裏切りによって生んだ自分の「子ら」と一体となって、「自分たちこそが神の家の正統な後継者である」と名乗り、父なる神を押しのけて、自分たちこそが神であるとして、神の家を占領し、自分たちを一家の主人に据えることにある。

要するに、イゼベルの霊は、キリスト教に偽装する偽りの霊による、キリスト教の乗っ取りを目的としているのである。

これまで見て来たように、ペンテコステ運動はまさにイゼベルの霊に率いられる疑似キリスト教に他ならない。そうである以上、この運動は、キリスト教を敵視し、最終的には、キリスト教を凌駕し、駆逐し、神の家を乗っ取ることを目的にしているのである。

さて、このような異常な運動を端的に表す特徴としては、「無秩序と混乱」、「被害者意識」、「霊的姦淫」などの用語が挙げられるであろう。以下で分析するように、ペンテコステ運動につきもののこうした悪しき特徴は、この運動が神の正しい聖霊に導かれていないことの何よりの明白な証拠である。


・ペンテコステ運動を導く「イゼベルの霊」が信者たちと結ぶ「被害者意識によるソウル・タイ」

ペンテコステ運動の信者たちは、他のプロテスタントのキリスト教界とはやや異なる独特の社会層の出身であることが多い。一言で言えば、ペンテコステ運動は、もともと無学で貧しく、社会や教会からも見放されて行き場を失ったような人々を、「聖霊による超自然的な癒しや回復」などの超常現象や、異言などの神秘体験によって引きつけ、社会的弱者を主な伝道対象として始まった歴史を持つ。そこで、今日でも、この運動の信者の中には、社会的弱者が極めて多く、現在は、元カルト団体の信者や、元ヤクザ、元ホームレス、元麻薬中毒患者、病者、障害者、社会的マイノリティ、キリスト教界につまずいた過去を持つ信者など、社会から疎外されたり、冷遇された背景を持つ信者が多数在籍している。

このように、もともとキリスト教界からも伝道対象とみなされず、社会でも冷遇されて、行き場を失ったような信者たちを数多く集めていることから、ペンテコステ運動に関わる人々は、極めて被害者意識の生じやすい環境にあると言える。

この運動においては、信者や指導者が講壇に立って、信仰の証として、既存の教会で信仰生活につまずいた体験や、病に苦しんだり、人生における様々な挫折体験に苦しんだ記憶などの、過去の負の体験を積極的にアピールし、そうした体験によって人々の注意を引きつけるような伝道方法を行っているケースも多い。

こうした告白の内容は、表向きには、神を証する内容の形を取っているかも知れないが、実際には、同性愛者などの「カミングアウト」と極めてよく似ている。

そうした告白は、問題を抱えた信者が、自分と同じような問題を抱える信者たちのコミュニティに所属し、問題を互いに確認し合うことによって、その問題を「無害化」し、自分たちが持っていた恥の意識や、負い目や、劣等感を払拭し、負のアイデンティティから解放されようとするものである。

自分たちが過去に受けた心の傷や、挫折体験や、社会で疎外された記憶や、追い詰められた状況などを積極的に人前でアピールし、他者と問題を共有し、連帯することで、それが問題であるという意識を捨て去り、集団的に自己肯定感や、慰めを得るのである。

筆者は、こうした「カミングアウト」のような告白から生じる同情や共感や連帯感を、正常なものとは全くみなしておらず、そうした告白が、神の栄光を証するものであるとも思っていない。

むしろ、そういう告白は、彼らの抱えている問題や、疎外感、負い目の意識、劣等感をより強固にし、キリストの十字架に渡すことなく、自己のアイデンティティの一部にまで高めて行くものであり、そういう告白は、イゼベルの霊がしのびよって来てその信者と強固なソウル・タイ(魂の結びつき)を結ぶには極めて好都合である。

悪霊は、人の魂に傷口がない限り、侵入することができない。他者に対する怨念や、赦せない心や、被害者意識などの負の記憶がなければ、悪霊は侵入口を得られない。そして、悪霊は、人の心にそういった負の記憶がない場合には、新たにそれを作り出すことによって、罪悪感を植えつけ、それを手掛かりに人をコントロールして行こうとする。

「被害者意識」による連帯(ソウル・タイ)が、悪霊によるいかに強力なマインドコントロールの手段となるかは、統一教会などの団体を見ればよく分かる。

統一教会は、アダム(夫)とエバ(妻)との関係になぞらえて、韓国を「アダム国家」、日本を「エバ国家」と呼び、日本は「加害国」であるから堕落した悪魔の国とした上で、「被害国」である韓国に謝罪し償いを果たさねばならないと教える。そうした理屈を用いて、この偽りの宗教は、日本人妻たちが集団で韓国の貧しい農村に嫁ぎ、強制に近い結婚を通して、韓国人の夫に仕え、あるいは日本にいる信者たちが多額の献金を韓国の教会に送ることで、「被害国」に償いを果たすべきであると教える。このように歪められた概念としての「アダム」と「エバ」の関係は、統一教会においては、国家だけでなく、信者間にも、主従関係に等しいものとして適用されるようである。

このように、社会におけるすべての関係を「加害者・被害者」の二項対立を通してしか理解せず、特定の人々の「被害者意識」を事実上「神聖視」することで、他者の心に罪悪感や負い目の意識を植えつけ、その人間を思い通りに支配して行く手がかりにしようというのが、この団体の狙いである。だから、この団体に入信した日本人は、自らを「罪深い加害国」の人間であるとみなし、懺悔と自己批判を繰り返しながらも、同時に、「被害国」の立場に立って全ての物事を見、他者の「被害者意識」に自分を乗っ取られてしまうのである。

ペンテコステ運動は、その思想的構造をつぶさに観察してみれば、まさに統一教会とほとんど変わらない構造を持っていることが見えて来る。

特に、ペンテコステ運動に属するアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の繰り広げるカルト被害者救済活動などには、以上に挙げたような「加害者・被害者」という単純化された図式が極めて特徴的に表れていると言えよう。

しかも、この被害者運動を率いる村上密牧師は、統一教会の出身である。筆者の見立てでは、村上密牧師は、統一教会を脱会した後でも、統一教会流の「加害者・被害者」の二項対立に基づくものの見方を脱することができず、脱会後も、自分が「加害者」サイドに立っているという負い目から、「被害者」に償いをせねばならないという切迫した強迫観念に駆られて、カルト被害者救済活動にいそしむことによって、統一教会時代と同じように、被害者に対する償いを果たそうとしているのである。

現在の村上氏にとって、「加害者」とは、多くの信者をつまずかせて教会から外に追いやったり、神社に油をまくような非常識な牧師を登場させる「キリスト教」そのものである。つまり、自身もプロテスタントの牧師でありながら、同氏は自らの属するキリスト教そのものを「加害宗教」とみなし、加害者側に立って、罪の意識から、被害者に対する償いを続けているのである。

フェミニズム神学者は、キリスト教を「父性原理の二分性によって多くの信者たちをつまづかせ、精神病理に追い込む偏った欠陥宗教」とみなして、キリスト教に「有罪」を宣告したが、以上のような被害者救済活動に携わる人々も、聖書の二元論に罪があるかのように訴えて、キリスト教を悪者とし、牧師を悪者とし、教会を悪者とし、そして、キリスト教によって傷つけられた被害者は正しい、とみなしているのである。そして、自分ばかりか、他のクリスチャンたちもみな同じように、加害宗教の信者としての負い目を持って、教会につまずいた哀れな「被害者」たちの「救済」に助力すべきだと主張しているのである。

だが、聖書に照らし合わせれば、このような考えがいかに本末転倒であるか分かろう。キリストの十字架は、人間の罪の赦しのために与えられたのであって、その贖いを信じて受け入れた信者が、もはや罪悪感に悩まされる必要はない。可哀想な人々の救済にどんなにいそしんでも、それによって人が自分自身の罪を贖うことは不可能であり、また、それによって他者の魂が救済されることもない。

しかしながら、上記のような人々は、キリストの救いを受け入れたように見えても、魂の深いところで結ばれた「被害者とのソウル・タイ」は消えないのである。だから、一つのカルト団体を脱会し、キリストの贖いを信じて受け入れても、罪悪感から解放されず、未だに自分を加害者の一部のようにみなし、自分の入信した宗教をさえ悪者としながら、弱者に対する罪の意識ゆえに、贖罪行為にいそしむことをやめられないのである。

筆者は、カルトを脱会した人が、真に神に出会って正常な信仰生活に至ることは無理なのだとまでは決して言うつもりはない。だが、カルトを脱会した人には、非常に深刻な心理的な課題があって、脱会したからと言ってそれで問題は終わらず、また、その問題は、カルトによるマインドコントロールの悪影響などと言った表面的な事実よりも、もっと深いところから生まれているものであることを見なければ、その人の生涯に根本的な変化が訪れることはないと考えている。

カルトのイデオロギーに心を惹かれて入信する人には、それに親近感を抱くだけの思想的な土台が、入信前から、すでに心に形成されている。その人の培った世界観そのものが、カルトと似たような思想的特徴を持っているのである。だからこそ、その人はカルトに勧誘された時に、そこに自分と同種のものを見いだし、その思想が偽りであることを見抜けなかったのである。

そうした事実を本人がきちんと見据え、自らの成育歴にまでさかのぼって、自分の心理的な弱点が発生した根本原因を探り出し、これを取り除くことをしなければ、その人は同じ心の弱点を抱えたまま、二度でも、三度でも、同様の過ちを犯し続ける可能性が高い。

以前にも書いたが、「被害者意識(イゼベルの霊)との強力なソウル・タイ」の土台となるものは、カルト団体への入信などよりももっと前から、すでに本人の魂の中に築かれていることが多い。幼い頃や多感な時代に目撃した何かの決定的な痛ましい事件によって発生した心の傷が、最初の明白な「被害者意識によるソウル・タイ」の現われとなることが多いのである。

たとえば、幼い頃に身近な誰かの自殺などの事件に遭遇すると、その出来事を目撃した人の心には、自分はその人を救いなかったという無力感、罪悪感が発生することがありうる。そうした人たちは、大人になっても、負い目の意識を拭い去れず、無意識のうちに、自分の過去を修正するために、過去に遭遇した事件と似たような理不尽の犠牲になっている人たちを探し出し、彼らに助けの手を差し伸べることで、自分自身を罪の意識から救済しようとつとめることがある。

そのような人たちの繰り広げる弱者救済活動は、傍目には、愛情や思いやりに基づくように見えるので、その真の動機が、彼ら自身の罪悪感にあるのだということが見抜かれる可能性は低いであろう。だが、それがもし他者の怨念や被害意識に憑依された人が、自らの罪悪感の重荷から逃れるために行っている活動であれば、それは本質的には、全く不毛な自己救済に終わる。

しかし、人生のある時点で、何らかの痛ましい出来事の記憶を通して、人々の怨念と被害者意識に憑りつかれ、負い目の意識から抜け出せなくなった人々は、魂の内側で、「被害者意識との強力なソウル・タイ」を結び、それがあるために、どこへ行っても、無意識のうちに弱者救済の活動を繰り広げる結果になる可能性がある。早い話が、彼らは他者の被害者意識に呪縛されているのである。

だから、そのようなケースでは、その人は「被害者意識とのソウル・タイ」が発生した根本原因にまでさかのぼって、キリストの十字架においてこの出来事と訣別し、自分の抱える罪の意識を神に解決してもらう必要がある。それをせずに、どんなに自分で罪の意識を払拭しようと償いを繰り返しても、ますます罪の意識にがんじがらめになって行くだけで、その贖罪行為に終わりが来ることはない。そして、そのようなことを続けていれば、最後には、結局、その人は自分自身も被害者意識と一体化して、犠牲者となって終わることになる。そのようにして、ターゲットと定めた人間を自分と同じ破滅へ引きずり込んで滅ぼすことが、イゼベルの霊の目的でもある。

さて、カルト被害者救済活動に関わらず、ペンテコステ運動は、たとえ公然とそのように主張しているわけではないにしても、すでに他の記事で指摘した通り、その理念の構造を調べるならば、初めから、既存のキリスト教界を「加害者」の立場において糾弾し、キリスト教を(その厳しすぎる父性原理の二分性のゆえに、精神病を生み出す)「欠陥宗教」として「有罪」を宣告することで、クリスチャンに罪の懺悔と償いを迫ろうとする性質を持つものであることは明らかである。

そのようなキリスト教に対する被害者意識の霊に導かれていればこそ、この運動は、キリスト教界からも見捨てられ、社会でも疎外されて悩みを抱える人々を主な伝道のターゲットとして定めるのである。

キリスト教界でつまづいた「被害者」を対象とするカルト被害者救済活動などは、決して偶然に生まれたものではなく、この運動がもともと持っていたキリスト教への敵意と憎悪と被害者意識が結晶化しただけであり、この運動がその実、キリスト教それ自体を仮想敵としていることを如実に物語っているに過ぎない。

こうした運動は、早い話が、「キリスト教の被害者」を集団的に組織し、裁判を起こすことによって、他教会の運営に強制介入して、教会の秩序を破壊し、そのような方法で、やがてはキリスト教界全体に有罪を宣告することで、これを乗っ取って行こうとする野望を表すものに過ぎない。

カルト被害者救済活動は、それ自体が、疑似キリスト教としてのペンテコステ運動によるキリスト教界の「乗っ取り」のための巧妙な隠れ蓑なのである。さらに言えば、キリスト教への被害者意識に貫かれるペンテコステ運動自体が、異端思想によるキリスト教界の乗っ取りのために生まれたものであると言って過言ではない。


・「混乱と無秩序の霊」としてのペンテコステ運動

聖書は言う、「預言者たちの霊は預言者たちに服従するものなのです。それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです。」(Ⅰコリント14:32-33)と。

ところが、ペンテコステ運動を導く霊は、まさに「混乱と無秩序の霊」である。

ペンテコステ運動には、その集会の形態においても、およそ秩序というものが全く見られないが、教職者の任命方法においても、秩序を無視している。こうした現象は、この運動に「秩序転覆の精神」が満ちているために起きていることである。

この運動においては、信仰生活において十分な成熟が見られず、信徒を教えるために何らの専門的な教育も訓練も受けていない信者が、いきなり教職者の立場に立って説教を語るなどのこともしょっちゅう行われている。

この運動に属する教職者の数多くは、聖職者としての十分な訓練や教育をほとんど受けていない自称牧師、自称メッセンジャー、自称カウンセラーなどである。その中には、元ヤクザ出身の牧師もいれば、カルト団体を脱会して間もなく、カルトのマインドコントロールの影響さえも十分に解けていないのに、牧師やカウンセラーとなって人を教えている例も見られる。

心の傷を抱えたままの人間が、同じように心の傷を抱える人間を導くのでは、まさに盲人による盲人の手引きにしかならず、人を教える立場に立つためにはよほどの訓練と成熟が必要とされることは言うまでもないが、ペンテコステ運動はこうした常識をもあざ笑うかのように、教職者に最もふさわしくない、問題のある過去を抱えた訓練も受けていない人間を、大した功績もないうちに、あっという間に聖職者の高みにまで押し上げてしまうのである。

このように、ペンテコステ系の団体では、通常のプロテスタントのキリスト教界に比べて、教職者となるためのハードルが著しく低いが、こうしたことは、この運動がもともと聖書の深い理解や、信仰生活における実地の訓練などよりも、ただ「聖霊を受けた」などの、第三者には全く確認できない、主観的で個人的な幻のような神秘体験を重視しているためである。

ペンテコステ運動は最初から主観的な体験重視の運動であり、しかも、その体験の内容が、論理的にも客観的にも証明不可能な「超常現象」であり、「神秘体験」である。

だから、客観的に証明可能な実績をよそにしても、このように主観的で個人体験を重視する伝統のもとでは、当然ながら、偽の奇跡体験を売り物とする詐欺師まがいの連中が横行し、そうした人々が指導者となって信徒を欺くという結果になるのは避けられない。

正体不明の「霊界との交信」によって、「神のお告げ(預言)」を受けたと自称し、誰にも理解できない戯言(異言)をしゃべるなどの現象は、キリスト教とは何の関係もないスピリチュアリズムの世界でも普通に広まっていることだからである。そのような現象だけを指して、それが神の霊であると言うことは誰にもできないであろう。

にも関わらず、そうした超常現象や神秘体験を通して、「神と交わった」、「神の霊を受けた」、「指導者として神に召された」などと自称しさえすれば、誰でもその日から一人前の信者とみなされ、教職者にもなれるのがペンテコステ運動であり、そういう運動は、大した努力も実績もないのに、手っ取り早く人の注目される高い地位に立って、人々に褒めそやされ、自分を疎外した社会を見返したいと願っている詐欺師のような人々には、まさにうってつけである。まさにそんなおいしい話はないと映ることであろう。

このように、信仰者としても確かな身元を保証できない、にわか牧師を多数生み出すペンテコステ運動の負の特徴は、たとえば、Dr.Luke率いるKFC(Kingdom Fellowship church)とその姉妹教会である横浜の天声キリスト教会にも、明白に表れている。

Dr.Lukeも、天声教会の現パスターとされる林和也氏も、キリスト教の牧師となるための正式な教育と訓練を何ら実地で受けないまま、自ら「パスタ―」を名乗り、牧会者の立場に立つようになった。Dr.Lukeは、経歴だけから見れば、ペンテコステ運動には稀な高学歴の持ち主であるが、その専門はキリスト教の教職者とは何の関係もなく、聖職者としての訓練を示すものではない。

このように、教会において牧会者としての訓練を受けて指導され、任命されたわけでもない人々が、いきなり牧会者となって講壇に立つことが許されるのが、ペンテコステ運動である。

この運動においては、自称「神の霊の器」であるカリスマ的な指導者が、自分たちこそ神に特別に祝福された選ばれた信者であると誇って、神秘体験を売り物にして信者を集めるなどのことは日常茶飯事である。そういう事例においては、いずれ様々なスキャンダルが明らかになって、その指導者は結局、神の器ではなかったということが判明するのがお決まりのパターンなのだが、「リバイバル」などを目的に掲げて行われた彼らの集金に投じられた献金は戻って来ることはない。

このようなことは、通常のキリスト教界では考えられないほどまでにずさんな信用ならない仕組みであり、まさに真似事のような「自称」に過ぎない世界であり、もっと言えば、振り込め詐欺の変種のようなものである。

筆者は決して神学校というものに存在意義を見いだしておらず、牧師制度にも賛意を示すつもりはないが、誰でも自称しさえすれば、明日からでも、牧者となって人を教えられるという、ペンテコステ運動のあまりにも軽薄でお手軽な慣習は、組織全体を危機にさらすだけであることは否定できない事実であると考えている。実地で何の訓練を受けていない指導者が、いきなり「神の器」や「預言者」を自称して、自ら「聖なる者」を名乗って教会のトップとなるなど、会衆にとってはまさに悲劇である。組織としての最低限度の形態さえ整っていない「教会」が正常に機能するはずもなく、でたらめな運営がまかり通り、悪霊の牙城となって終わるだけなのは目に見えている。

だからこそ、そのような教会には、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者であった鵜川貴範氏のように、自分の母教会を裏切ってまで、「自称メッセンジャー」となって他教会に首を突っ込み、他教会の乗っ取りを企むような、まさに詐欺師の見本としか言えないような人物も活躍の場を見いだすことになるのである。

従って、これほどまでにでたらめな特徴を持つペンテコステ運動に属する教団が、カルト監視機構を提唱して、全キリスト教界のカルト化の監視を訴えたり、カルト被害者救済活動を繰り広げて、他教会の運営に介入したりしているのは、もはや笑い話であるとしか言えない。

そういうことが起きるのも、結局、ペンテコステ運動を率いる霊が、「秩序転覆の霊」だからであり、この運動が目的としているのが、キリスト教界の破壊と乗っ取りだからである。

もともとキリスト教界を混乱させることだけを目的としていればこそ、この運動においては、本来は資格がない不適格な者ばかりがリーダーとなって、「我こそは神に選ばれた聖なる器である」などと誇り、でたらめな教会運営を行い、本物の信者を断罪・駆逐して行くのである。

ペンテコステ運動は、イゼベルの霊によるキリスト教の偽装運動であり、「異なる霊」によるキリスト教界の乗っ取りの試みである。ペンテコステ運動の提唱する「リバイバル」の本質は、まさらにバビロン(バベルの塔)の構築という世界征服の野望である。

聖書における「バベル」とはもともと「混乱」を意味する。人類が天まで届く塔を建てて自らを神に等しい者として、まことの神を凌駕し、押しのけようと試みたので、神がその計画を打ち砕くために、人類の言語をバラバラにして意思疎通ができないよう混乱させたことがその語の由来である。

今日、ペンテコステ運動の信者たちが、互いに全く理解し合えない、意味不明の戯言としか言えないような「異言」を、「神の言葉」と称して、てんでんばらばらにしゃべりながら自己陶酔に浸っている様子は、まさに「混乱」と「無秩序」を体現するものとしか言えない。

こうしたことは、彼らを導く霊の本質が「混乱と無秩序の霊」であることをよく物語っており、それだからこそ、こうした信者たちは、互いの意思疎通や承認など初めからお構いなしに、「自称」に過ぎない形で、めいめいバラバラな自己主張に明け暮れているのである。


・ペンテコステ運動の特徴としての「霊的姦淫」―指導者崇拝の教え

さらに、イゼベルの霊とは、唯一の神以外に多くの愛人を持つ「霊的姦淫」の霊である。

グノーシス主義の掲げる「神秘なる母性」は、何が聖であり、何が汚れたものであるかを明確に峻別する聖書の父なる神とは異なり、人の過ちを非難せず、何でも優しく受容し、受け入れる母性であるから、それは偶像崇拝、多神教、汎神論なども優しく受け入れる。その結果として、この霊に導かれる信者たちは、神でないものを神として拝むことになる。

イゼベルの霊が信者たちに犯させる罪の中でも最大の罪は、人類の自己崇拝という罪である。だから、この霊に影響された人々は、ほとんど例外なく、歪んだナルシストとなって、自らを神格化し、最終的には自己を神と同一の存在として高く掲げることになる。

彼らの経歴をつぶさに振り返るなら、こうした人々は、一見、他者に優しく、親切で、敬虔な信者のようにも見えるかも知れないが、内心んでは、被害者意識に貫かれ、傷ついた自己を抱えて、過去の問題をずっと引きずっていることが分かるであろう。だから、彼らが神に等しいものとして神聖視しているのは、彼ら自身であるというより、彼らの抱える被害者意識なのである。

このように歪んだナルシシズムとしての被害者意識や、(傷ついた)自己の神格化という特徴は、以上に挙げた村上密牧師、KFCのDr.Luke、天声教会の林和也氏など、ペンテコステ運動に関わる指導者のほぼすべてに共通して観察される。

すでに述べたように、ペンテコステ運動の支持者たちには、大抵、幼少期からの家庭生活において抱える心の傷が存在する。また、青年時代に異性との関わりにおいて大きな心の傷を受けていたり、大人になってからも、配偶者との間に溝を抱えている例も多数見受けられる。

たとえば、Dr.Lukeは自身の述べていた信仰のあかしによると、若い頃に結婚を前提として交際していた女性に、結婚してほしいと促された際、(進学などを理由に)曖昧に答えをはぐらかしたために、信頼を失って交際が破局し、女性は別の男性と結婚してしまったと述べていたことがある。同氏は、その時に味わった絶望感をきっかけに、心から神を求めるようになり、聖霊による深い慰めを得たと、この体験を信仰の証として語っているのだが、それにしては、その当時、同氏が抱えていた問題は、その後も、解決したようには一向に見えないのである。

Dr.Lukeはその後、新たなパートナーを見つけ、平和で幸福な家庭生活を送っているかのように主張しているが、それにしては、同氏の行動のすべての側面から見えて来るのは、かつての別離によって傷つけられた同氏のおさまらない心の傷と復讐心である。

その心の傷と復讐心あってこそ、Dr.Lukeはいかに自分が女性にとって(女性のみならず全ての人々にとって)魅力的な存在であるかを誇示する自己美化、行き過ぎたナルシシズム、自画自賛を繰り返さずにいられなくなったのである。

村上密牧師の「被害者救済活動」とよく似ていて、過去に起きた問題は、繰り返し、繰り返し、その人の人生において形を変えながら現われ、その度ごとに、Dr.Lukeはこの問題に間違った答えを出し続けているようにしか見えないのである。

さて、目に見える人間との関係は、目に見えない神との関係の影のようなものであり、自分の愛する唯一のパートナーである異性に対して、誠実で貞潔で忠実な態度をとれない人間は、ただ単に人間関係に問題を抱えているだけでなく、神に対する霊的な貞操をも持っていない可能性が高い。

Dr.Lukeの自画自賛はおよそクリスチャンの既婚者にはふさわしくないものである。同氏は自分のブログにおいて、勤め先の大学で自分がいかに女子学生の注目の的になっているかをひたすら自慢せずにいられず、さらに、六本木での夜遊びも止められず、クレジットカードの明細は妻にも決して見せないのだと礼拝メッセージで豪語していた(ちなみに、Dr.Lukeの妻は夫の集会を全くと言って良いほど訪れておらず、信仰生活における夫婦の協調は見られなかった。)

KFCという団体の中においても、Dr.Lukeのナルシシズムは、同氏の信奉者となった他の信者たち(必ずしも女性信者とは限らない)との絶え間ない霊的姦淫と、そのために引き起こされる信者たちの不断の地位争いという形で反映していた。

Dr.Lukeは、そのような争いは自分には全く責任のないことであり、勝手に人々が彼を信奉し、一方的に期待を裏切られて失望しているだけであるかのように主張していたが、事実はそうでなかったものと筆者は確信している。そうした不毛な関係には、明らかに、同氏の青春時代における人間関係の破局と全く同種の構図が繰り返されていた。すなわち、Dr.Luke自身が、「自分がいかに魅力的な存在であるか」を周囲にしきりにアピールすることで、周囲の人々に暗示をかけ、人々の心を自分に惹きつけておきながら、いざ人々から期待に応えるよう要求されると、彼らを冷たく突き放し、その心を傷つける、ということの連続だったのである。そのように他者の心を弄び、傷つけるために用いられる心理的な駆け引きは、まさにイゼベルの霊がターゲットを思い通りに操り、支配し、傷つけるための手法そのものである。

そのような歪んだ方法を通してでも、絶えず自分が他者の注目の的となって、他者からの愛情や関心を独占し、また同時に自分を慕ってやって来る人々を侮蔑し、愚弄して退けていなければ気が済まないDr.Lukeの歪んだナルシシズムは、まさに傷ついたアイデンティティや、劣等感、復讐心の裏返しとして発生したものであったと筆者は見ている。おそらくはそうした心の傷は、同氏の青春時代の人間関係の破局の時点で初めて生じたものではなく、それよりもはるか前から、おそらくは幼少期から、すでに発生していたのではないかと想像される。察するに、生い立ちと親(特に母親)との関係に起因するものなのであろう。

このような深い心の傷を抱える人間は、本人が自分自身の心の傷を直視し、その元凶となる負の記憶を十字架において処理し、それによって生じた罪意識を自分自身から取り除き、その傷が生み出した行為の罪深さを見ない限り、半永久的に誤った行動となって悪影響を放ち続ける。このような傷を抱えたままの人間は、たとえ表面的にはどんなに満ち足りた生活を送っているように見えたとしても、無意識のうちに人を傷つけ、やがては自己愛性人格障害の様相を呈して行くことになるのである。だから、KFCに通う信徒は常に入れ替わっている。一時、Dr.Lukeと親しく交わっていた信徒も、多くが途中で離反し、長年に渡ってこの団体に居続けているのはほんの少数でしかなく、追い出された信徒たちも数多く存在している。そのようなことは、同氏が長期に渡り人々と誠実で信頼できる人間関係を築けないことから発生している。

ある信者は、Dr.LukeとKFCの危険性について次のように述べた。「KFCそのものが、彼が傷ついた自己を慰めるための牙城になっているわけです。彼には人格的な魅力がある。情に厚いことや、恩義を忘れないことや、人の心をほろりとされるような様々な魅力がある。ダメなところだけでなく、そういう魅力もあるので、彼のそばにいる人々は、彼の行動にどんなに問題があって、あるいは、不誠実な振る舞いをされても、ただちに離れようという気にはならないわけです。もう少し、期待して待っていれば、もしかしたら、彼も変わるかもしれない、神が問題を示されて、態度が改善するかも知れない、などと情状酌量し、望みをつなごうとするのです。でも、結局は、そうして人情に訴えることもまた、彼を支配する悪霊の作戦の一つのようなもので、その人情があだとなって、結局、人々は騙され、裏切られ、傷つけられるのです。だから、彼の魅惑的な力は、聖霊から来るものではなく、悪霊に由来するものであって、その魅力にほだされて関わりを続けること自体が危険であることを理解しなければならないのです。」

現在、KFCにいる信者たちは、心の傷を抱えて、他に行き場のなくなった人々である。特に、キリスト教界にはもう戻れないが、居場所を失いたくないという信者たちが古参信徒として残っている。彼らの多くは、配偶者を持つ妻たちであるが、家庭からの逃避の場を求めて、KFCに通っている。あるいは、キリスト教界にいながら、所属教会の牧師を裏切り、仲間の信徒を裏切って、KFCのメッセージを聴き続けている者もいる。こうしたことはすべて、神を裏切って、自分たちの群れを裏切って、家庭を裏切って、人間に過ぎない者を神の栄光の高みに押し上げ、自分を傷つけた者に復讐を果たすためにこそ行われている。

Dr.Lukeのナルシシズムは、同氏の傷つけられた心の被害者意識と復讐心の裏返しとして発生して来たものである。それが生じた最初のきっかけが何であったのかまでは、誰にも分からない。だが、根本原因が何であれ、そのような被害者意識は、長年に渡って持ち続けると、当初、起きた出来事の影響をはるかに超えて果てしなく膨張して行き、やがては人類全体と、キリスト教界と、神に対する敵意にまで発展して行くのである。

他者への根本的な恨みや憎しみを捨てられない人々が、真にキリストの僕となることはできない。そうした人々は、自らの劣等感を優越感で覆い隠すために、宗教に入信するのであって、その信仰生活は本当のものではない。たとえば、夫を恨み続ける妻たちが、夫に対する優位を手に入れるために、信仰にすがるといったこともよく起きる。カルト団体へ入信する妻たちの動機の多くはそうしたところにある。家庭において、社会において、居場所を見いだせず、自分は強い者たちによって踏みにじられた被害者だと感じている妻や子供たちが、夫や親を凌駕する最後の砦として、宗教にすがり、自分を虐げた強者たちを、神を知らない罪人・未信者だと見下げることで、そこに自己の優位を見いだし、心のうちでひそかに復讐を果たすということも往々にしてある。そういう場合は、信仰生活そのものがいわば家庭生活からの現実逃避と復讐の場になっているのである。

このように、神を信じていると自称している人の動機が、真に純粋でなく、彼らの信仰生活が、別の何かの問題からの逃避の手段であり、彼らの惨めな自己を覆い隠すまやかしの手段となっていることは往々にしてある。ある人々は、神不在の心の空洞を覆い隠すために、敬虔な信仰者を装うのである。

そして、ペンテコステ運動のように、そのようにして社会や、家庭や、キリスト教や、果ては神に対しても被害者意識を抱える人々が、集まって団結することで、「自分たちこそまことのキリスト教徒である」と名乗り、キリスト教界を見返そうとする例も珍しくない。

だが、そのような復讐心に基づく人々の「信仰生活」が正常な結果を出すことは絶対にない。そうした人々の信仰生活は、当然の成り行きとして、キリスト教界に戦いを挑み、正常なクリスチャンを罪人として告発し、仲間を絶えず傷つけては排斥するという結果にしか結びつかない。

そうこうしているうちに、自己正当化と被害者意識で凝り固まった人々は、自分たちに反対する者はみな「悪魔の手下」といった考え方に憑りつかれ、人を疑うばかりで誰とも誠実な関係を結べなくなり、やがては聖書の福音からも完全に逸れて、神から神であることさえ盗んで、自分自身を神と自称し、自己崇拝、自己栄光の罪へと陥って行く。KFCはすでにその段階へ入り、異端であることを自ら暴露したも同然である。

残念なことに、KFCの姉妹教会である天声教会も、この点で例外ではなく、この教会では、2009年に、何の正式な手続きもなしに、それまで教会員でさえなく、牧師としての教育も訓練も全く受けていない人物(林和也氏)がいきなり「パスタ―」にされるといった異常な出来事が起きた。

しかも、これを手助けしたのが、天声教会にいる元KFCの信徒の韓国人女性であった。この女性は、以前に、Dr.Lukeの補佐的な役割を果たしたいと願いながらも、KFCの信徒らによって団体を追放されたという過去を持っおり、おそらくはその当時に果たせなかった願望を、子供のような年齢の信者を使って果たそうと願ったものと見られる。

この女性は既婚者であるにも関わらず、教会を拠点としてこのパスタ―と密接な共同生活を送るようになった。恋人のように連れ立って頻繁に外出を共にし、離れていても親子のように密に電話で連絡を取り合い、早天祈祷会や断食祈祷を含め、朝から晩まで教会行事のために林氏を拘束し、同氏はやがて自らの住居も引き払って教会に住み込むようになった。だが、教会には、人が生活するためのスペースがないため、プライバシーも保てず、生活においても何から何まで信徒の世話を受けるしかない。

このようにして信者が自活の手段を奪われて宗教行事だけにのめり込むことは、まさに悪しき団体が信者にマインドコントロールを行うための典型的な手法であることが一目瞭然であった。しかも、素人がメッセンジャーになるなど、あり得ない話であり、本来ならば、神学校に通わせたりして、訓練を受けた後に、牧師として任命するのが当然である。

だが、カルトが人を取り込むのは、真に優れた指導者として福音を宣べ伝えさせるためではなく、傷ついた自尊心を足がかりに団体に取り込み、支配するためでしかない。そこで、講壇でメッセージを語らせるということは、しばしば、カルト団体が心傷ついた人々の自尊心をくすぐり、団体から離れられないようにするための「餌」として利用される。

さらに、上記の韓国人女性は、配偶者をよそにして教会行事と「パスタ―」の世話にのめり込んでいる他にも、水商売用の衣装を販売するブティックを教会の近くに経営するなど、およそ信仰者にふさわしくない生活を送っていた。

筆者はこれらのことを目にして、この「パスタ―」に対して、この教会は危険であり、他者の結婚の関係を侵害するような共同生活が主の御心にかなわず、主の栄光にもふさわしくなく、教会の名を汚す罪深いものであるから、終止符を打つべきであること、そのように信徒に相応しくない生活はただちにやめて、教会を離れて自活した方が良いと告げた。

しかし、同氏はあまりにも教会生活に深く心を支配されていたため、自分の「聖職者」としての任務に反する言動を行うような人間は、みな「イゼベルの霊」に違いないと断定し、こうした忠告に聞く耳を全く持たなかった。自分にとって耳の痛い言葉を告げる者は、悪魔の使いに違いないという考えに至っていたのである。

そのようなことになったのも、林氏がそれまでの人生において抱えていた被害者意識が原因となっているものと筆者は見ている。それはDr.Lukeのケースと極めてよく似ている。

天声教会にメッセンジャーとして取り込まれる前、同氏はちょうど仕事の切れ目にあって、それまでのエンジニアとしての生業を失い、なおかつ、将来を期待していた交際女性とも別れを経験したばかりであった。その痛手を同情的に優しく介抱してやるように見せかけて、その状況を利用して同氏を自分好みの「パスタ―」にしたて上げたのが、上記の韓国人女性である。彼女がそのようなことをしたのも、結局は、それによって彼女を追放したKFCを見返し、なおかつ、彼女が自らの家庭や伴侶に対して抱いていた何らかの被害者意識ゆえに、家庭生活から現実逃避し、伴侶に復讐を果たすことが目的であったとしか考えられない。その欲望のために、彼女は他者の心の傷につけ込み、自分とは何の関係もないはるかに年下の人間を自分の願望をかなえる道具として利用したのである。

その当時の林氏について、Dr.Lukeはある懸念を持っていたようであった。林氏がクリスチャンホームに育ち、閉鎖的な宗教教育を受けたことによって、幼少期から自由な人生を送れず、幅広いものの見方を養うことができなかったことを憂慮して、Dr.Lukeは彼を宗教教育の弊害から解放する必要があると考えていたようであった。そして、筆者はその発想自体は間違っていないものと考えている。だが、信者が解放されなければならない危険は、幼少期に受けた宗教教育のみならず、ペンテコステ運動そのものである。

そうした意味で、自分自身がペンテコステ運動の枠組みを出られず、「パスター」としての栄光も捨てられなかったDr.Lukeの計画が極めて中途半端に終わったのは不思議ではない。

林氏は、不況ゆえに仕事を失って社会での居場所を失い、人生のプランを共有するパートナーをも失って行き場がなくなった心の空白と痛手を利用されて、キリスト教界から出るどころか、再び、ペンテコステ運動のような疑似キリスト教に戻って行くことになった。

ペンテコステ運動に関わる人々は、おそらく筆者のこのような主張を聞いても受けつけず、これを「リバイバルを妨害しようとする悪魔の霊」だとか、「嫉妬のゆえに指導者をひきずりおろそうと企むイゼベルの霊」だなどと断定し、とんでもない決めつけだと考えて、一笑に付そうとすることであろう。(林和也氏が、人間の指導者に従うことを「神に従うこと」と同一視し、指導者に逆らう者をみな「イゼベルの霊」扱いする白か黒かの思考パターンに陥っている様子は同氏のメッセージによく表れている)。

しかしながら、上記のようなペンテコステ運動の指導者がどんなに「自分は神に選ばれた霊の器であり、預言者であるから、自分に逆らったり、自分を批判する者は悪魔の霊に憑りつかれているのだ」などと主張したとしても、実際には、彼らは何の正式な任命手続きをも受けておらず、十分な職業訓練も受けていないまま、講壇に立った自称メッセンジャーでしかない。その上、他者の家庭生活を侵害して、霊的姦淫と呼ばれて仕方のない生活を送り、信徒の心を神から奪い、家庭から奪って、自分自身に向けさせて、自分を神の使いのように崇めさせているのだから、そのような生活のどこに「聖職者」にふさわしい神への従順があると言えようか。

親が子を助けるように、信徒を助けるのではなく、むしろ、信徒から助けられ、仕えられている指導者を、誰が正統な牧者として「神に油注がれた者」と認めるのか。そういうことが通用するのは、ペンテコステ運動の中だけである。

さて、ペンテコステ運動において、このような「自称牧師」が次々と担ぎ上げられる背景には、彼ら自身の意志だけでなく、彼らをおだて上げ、自分好みの指導者に仕立て上げることで、自分の欲望をかなえようとする信者たちの悪影響が必ず存在する。

KFCもそうなのであるが、家庭生活において満足が得られず、夫を心の内で憎み、自分を被害者だと考えている妻たちが、夫に対する復讐の手段として、未熟で心傷ついた男性たちを見つけて来ては、その心の傷を癒してやるように見せかけ、彼らの魂を子供のように手の中で操りながら、彼らをおだてあげ、担ぎ上げ、自分好みの指導者として、人形のように操り、支配して行くのである。そのようにして人の心の弱点につけ入る彼らのしたたかで巧妙な手練手管は、およそ若い独身の男女が考え付いたり真似のできるようなものではない。若くて警戒心がなく、真にキリストへの忠誠心のない人々は、このような人々からの「支援」や「同情」をあっけなく本当の愛情と勘違いして操られて行くことになる。

筆者がイゼベルの霊は「人妻」であり、「母の霊」であると述べるのは、こうした事情があるためだ。ヒトラーでさえ、彼を担ぎ上げた女性信奉者たちの助力なしに、独裁者の地位にまでは昇り詰められなかったのである。担ぎ上げられた人間と、担ぎ上げる人間たちの被害者意識と復讐心が互いに響き合って、悪しき指導者と信者たちとが、切っても切れないソウル・タイを結んで、復讐心の牙城のような団体を築き上げて行く。だが、このようなものは正しい信仰のあり方ではなく、指導者崇拝という霊的姦淫の罪、ひいては、人類の自己崇拝の罪でしかない。

筆者は、この社会において様々な挫折体験を味わい、疎外感を覚える人々の心の弱さに決して同情しないわけではない。だが、それでも、人の被害者意識につけこんで、これに同情的に寄り添い、優しく介抱してやるように見せかけながら、安直な慰めを与え、その心の傷を足がかりに、相手を自分の欲望の通りに思いのまま支配する「母の霊」とは、まことに恐ろしいものだと思わずにいられない。そんな霊に支配されて、安直な慰めを受けて、自分を神に等しい者だと思い上がりに陥るよりは、一人で助けなくもがき苦しんでいた方がまだましなのではないかとさえ思うほどである。

エレミヤ書には、神が忌み嫌われる偽預言者の特徴として、「彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ。平安だ。』と言っている。」(エレミヤ6:14)と、偽預言者たちが信者に与える安っぽい同情や慰めが非難されている。

本当は、人の苦しみには、人間の安易な理解を超えるほどの深い意味があって、神の民の傷は、決して手軽に癒されるべきものではないのである。神はご自分の愛しておられる子供たちを様々な方法で訓練される。時には、深い苦難を通過させることで、魂を練られることもある。その苦しみが自己の失敗によって生じた苦難であろうと、そうでなかろうと、そのようなところを通過することによってしか、人は十字架の深い意味を知ることができず、神がその人に知らせようとした重大な教訓を学ぶことができないのである。

人間はただ自分が傷つかないこと、心理的な葛藤やストレスを受けないこと、自分自身が安全であることだけを第一に求め、信仰生活においても、それが理想であるように思い描き、できるだけ苦しみが少なくなるように、自分の身勝手な欲望をかなえてくれそうな人々のもとだけを行き来し、不快なことが起これば、自分を被害者とみなして同情の涙を注いでくれる人々の安直な慰めに飛びつく。

だが、実際には、信仰生活とは彼らが理想として思い描くようなものでは全くない。そのことは、神に愛されたダビデでさえ、己が罪を知らされ、深い苦悩の中で生涯を過ごしたことを見ても分かることである。

聖書に登場する預言者や、信仰の偉人たちのうち、誰一人として苦難を通過しなかった者はいない。彼らは必ずしもダビデのような失敗は犯さなかったかも知れないが、誤解され、いわれなく非難され、中傷され、離反され、憎まれ、迫害され、命を狙われ、時には殺された。民の注目の的となって誉めそやされながら、安全と栄光のうちに生涯を歩んだ者など一人もいない。

信仰生活に限定せずとも、人には、一人で乗り越えなければならない多数の課題が存在する。人間の力だけでは乗り越えられないからこそ、神の助けがあるのだが、人間の理解や支援を度外視して、ただ神とだけ向き合いながら、自分自身で問題を乗り越える力を養わなければ、その人にはどんな人格的成長もない。

自己の欠点を直視することは、人にとっては困難であろうが、人が苦難を通して真に自分の弱点と向き合い、自分の心を吟味することがなければ、その人にはどんな成長も気づきもない。他者ばかりを責めて、自分を被害者だと考えていれば、一歩たりとも、前進して行くことができない。

ところが、今日、キリスト教、特にペンテコステ運動の指導者を名乗っている人々は、全くそれとは異なる道を進んでいる。彼らは心傷ついた人々を積極的に勧誘しては、「あなたは悪くない」という安直な慰めと自己正当化の思いを吹き込み、手軽に信者たちの傷を癒し、その人が真に己の弱点と向き合い、自己の罪を悔い改めて神に立ち返る前に、偽りの慰めと癒しを与えることによって、かえって神から遠ざけ、被害者意識から立ち上がれないようにし、決して問題を乗り越えられないようにしてしまっている。

こうして、安直な慰めを与えることで、手軽に信者たちの傷を癒し、現実逃避によって偽りの平和を唱える者たちは、神から民の心を盗む、呪われるべき偽預言者である。

聖書において、ダビデ王の息子アブシャロムは、ダビデが犯した罪の報いとして、父に反逆する道を選んだが、その末路は悲しい破滅で終わった。アブシャロムが父を出し抜こうと考え出した方法は、以下の通りであった。彼は、美しく立派な容姿をしていたので、その自分の長所を存分に利用して、老いてゆく父をさしおいて、民の人気を集め、自分こそが王であるかのように振る舞い、人々の愛情と尊敬を集めたのである。彼は民の抱える様々な問題を狡猾に利用して、民の陳情に思いやり深く耳を傾けてやるように装いながら、民の被害者意識に巧みに訴えかけて、彼らの心を掴んだ。彼は、王は彼らの抱える悩みには関心がなく、民の陳情には耳を傾けて下さらないのだと思わせて、王を差し置いて民に同情の涙を注ぐことで、民の心を王から引き離し、自分自身に向けさせ、自分こそが憐れみ深い真の指導者であるかのように民衆に思わせたのである。サムエル記には、「こうしてアブシャロムはイスラエル人の心を盗んだ。」(サムエル記Ⅱ15:6)と書いてある。

今日、ペンテコステ運動に関わる多くの指導者が、安易な慰め主となることによって、信者たちの心を神から奪い、盗んでいる。彼らはまことの神の代わりに、人々の心の問題を解決してやるように見せかけ、信者たちが深い苦しみの只中で、己が罪と弱さを自覚しつつ心から神を呼び求めることを妨げている。そのような指導者にそそのかされて被害者意識に凝り固まってしまった信者たちもまた、自分と同じような心の傷を抱える人々を次々とスカウトしては、被害者意識によるソウル・タイを拡大し、自分たちが神に逆らっているのだとは知らずに、集団的に神の敵と化している。ペンテコステ運動は、そのものが被害者意識の牙城である。

2016年11月 4日 (金)

「イゼベルの霊」とは、グノーシス主義的な母性崇拝に由来する「抑圧的に支配する異常な母の霊」である

・グノーシス主義・東洋思想とは、聖書の父なる神を差し置いて、人類を神以上に高く掲げる母性崇拝の思想である。

前回、かなり急いで説明したので、もう一度、ここでグノーシス主義の基本構造をおさらいしておきたい。

グノーシス主義・東洋思想とは、根本的にキリスト教に敵対する秩序転覆の思想であり、同時に、厭世的で悲観的な哲学・世界観でもある。(すでに書いたように、筆者は東洋思想もその構造から見ればグノーシス主義の一種に分類されるととらえている。)

この思想が秩序転覆の思想であるという理由ば、グノーシス主義・東洋思想の根本には、(各神話の細かい差異はさて置き)、万物の生命の源を「神秘なる母性」に求め、この「母なる神(=神秘なる母性)」を聖書における「父なる神」以上に高く掲げる信仰が横たわっているからである。

万物の生命の源を「母なるもの」に求め、「母なるもの」をすべてを包容する慈愛に満ちた存在として崇める思想は、非キリスト教的・異教的な世界、特に東洋諸国においては、明確な宗教や信仰として認知されておらずとも、漠然と、空気のように広く普及している。東洋的世界観は、まさにこの「母なるもの」と切り離すことのできないものである。

しかし、グノーシス主義的な世界観における、「母なる神」という概念は、ただ単に万物の生命の源の象徴としての「母」を指すだけではない(ただし、筆者は、聖書によれば、万物の生命の源は、「母」にはなく、むしろ「父」にこそあると考えているので、生命の源が「母」にあるという考えそのものに同意できない)。ここで言う「母」とは、何よりも、神に造られた被造物としての人類そのものを指す。

聖書の記述によれば、人類最初の女性であるエバは、人類最初の男性であるアダムのあばら骨から、アダムの助け手となるべくして造られたとされる。この男女の秩序は、聖書において、変えられないものであり、また多くのことを象徴している。だが、この男女の秩序は、決して、フェミニズム神学者が言うように、聖書が女を男に比べて劣った、不完全な存在であるとみなして、聖書が男尊女卑の思想に貫かれているなどといった皮相な事柄を意味するのではない。

聖書において、アダムとエバの関係は、二人の罪による堕落ゆえに正しく機能しなかったが、この二人の秩序は、「最後のアダム」であるキリスト(霊的にはただ一人の男子)と、キリストのわき腹から生まれる花嫁たる教会(エクレシア)との結婚を予表するものであった。そうした意味において、人類とは、キリストの花嫁、神の助け手となるべく造られた、霊的な「女性」なのである。

ここで言う「霊的な女性」という概念の中には、人類は本来的に、神を礼拝するために造られた被造物であり、「神から命を受ける器」であり、「神の宮」であるという意味が込められている。だが、そのことは、「神の宮」としての人類の神聖を意味するものでは決してない。宮が貴いのは、神が住まわれるからであって、神を抜きにして、宮が自分だけで聖なる存在となることはない。もしキリストとの結合がなければ、人類は堕落した存在に過ぎず、もし神が住まわれないなら、宮は宮としての貴い価値を失う。宮は、神が住まわれることによって初めて清められ、貴くなるが、神をよそにして、宮が一人だけで神聖を主張するのはナンセンスである。このような意味においても、聖書における神と人類との(霊的な男女の)秩序は覆せないものである。

しかしながら、グノーシス主義は、このような神と人類との秩序を覆してしまう。グノーシス主義は「父なる神」以上に「母なる神」を高く掲げるが、そこから、フェミニズムのように、母性を神格化することで、男女の秩序を転覆しようとする発想も生まれて来る。フェミニズムの思想は、決して単独で産まれたものではなく、その背景にはグノーシス主義がある。こうした思想は、女性をまるで男性の被害者であるかのように主張することで、男性を憎悪すべき罪深い加害者とみなし、かつ、被害者性によって女性を美化することで、女性を男性よりも高く掲げ、あわよくば、男性を無用な存在として退けつつ、この世における男女の秩序を転覆しようとする。だが、こうした思想は、より深い次元では、人類を神の被害者とし、神ではなく人類を崇拝の対象として掲げることによって、神と人類との秩序を覆そうとする欲望が潜んでいる。男女の秩序を覆す思想とは、結局、根本的には、神と人類との秩序を覆すことと同じなのである。

だから、グノーシス主義・東洋思想における「神秘なる母性」への崇拝とは、結局のところ、人類が聖書におけるまことの神を退けて、神の被造物に過ぎない自分自身を神よりも高く掲げ、自己を賛美しようとする自画自賛・自己崇拝の思想であると言える。だから、そこで崇拝されている「神秘なる母」とは、要するに、人類自身のことなのである。

おそらくは、神を知らない堕落した罪深い人類の欲望は、今後、テクノロジーによって、生命それ自体をコントロールする秘訣を見いだし、自らの力で老いや死を克服して、永遠の命を手に入れる方法を開発しようというところへ向かって行くであろう。テクノロジーは、すでに多くの病を克服することで、長寿を可能としたが、やがては死の克服と、永遠の命の獲得を目的に据えるようになるだろう。人類は自らの力で死を克服し、生命を操る秘訣を手にすることによって、神によらずに人類の力だけで、永遠の命を生む「母」になりたいという欲望を抱えているのである。

このように、グノーシス主義的「母性崇拝」の思想には、人類が神を抜きにして単独で神の叡智に到達し、永遠の命を得たいとする欲望が流れているのだが、それはナルシシズムに満ちた、人類の自己崇拝の思想であると同時に、まことの神に対する被害者意識に満ちた思想でもある。

すでに見て来たように、鈴木大拙は、東洋的な世界観の根本には、「母が脅かされている(から母を守らなければならない)」という考えがあると述べたが、そのような発想は、言い換えれば、「聖書の父なる神によって、母(人類)脅かされているから、父なる神の脅威から母(人類)を守らなければならない」という被害者意識を土台としているのだと言える。母(人類)を脅かしている存在とは、聖書の神を指すのである。

グノーシス主義は、このように、聖書の神に対する敵意、被害者意識に基づく思想である。聖書の神が、人類が罪によって堕落したため、全人類に対して、十字架において死の判決を下され、人類が自力で神に回帰する道は永久に途絶えたことを、この思想は、どうしても認めたくないのである。人類は、当初は神によって、神に似せて造られたが、被造物に過ぎず、かつ堕落してしまったので、神の神聖からほど遠いものとなり、神ご自身のように聖ではないということを、この思想は、どうしても認められないのである。

そこで、この思想は、人類がこのように堕落し、その美と栄光を失ったのは、人類が悪いのではなく、神が悪いせいだと考える。この思想は、人類の罪を決して認めないので、人類に罪と死の判決を下した神を悪者とし、人類を神の被害者とする。そして、人類が神を否定することで、自らに死の判決を下した神を否定的に乗り越え、自ら神になり代わって、神に復讐を果たすべきとそそのかすのである。ちょうどフェミニズムの思想が、女性は男性によって劣った存在として規定され、愚弄されていると考えて、男性を嫌悪し、男性を乗り越えることによって、男性を抜きにして、女性が単独で「完全な存在」となることを目指しているのと同じように、グノーシス主義は、創造神を、無知で、劣った悪神として、侮蔑と愚弄の対象とし、被造物に過ぎない人類を、神よりも高く掲げることで、神と人との秩序を覆し、神に対して復讐を遂げようとするのである。聖書の神に対する敵意と被害者意識が、この思想には徹頭徹尾、流れている。

グノーシス主義は、悲観的・厭世的な世界観であればこそ、ハンス・ヨナス教授が述べているように、世の中が混乱し、人々が希望を失い、社会に絶望と被害者意識が満ち溢れるような時代には、いつでもどのような場所にでも、生まれうるものである。

ただし、筆者は、グノーシス主義のような世界観は、異教的な文化的土壌とも密接な関わりがあるものと考えている。

病原菌が、人の肉体的な弱さや傷につけ込まない限り、人の中で増殖して害をなすことができないように、グノーシス主義も、それを受け入れ、培養するにふさわしい土壌が人の心にない限り、決して発生しない。

そして、グノーシス主義が発生するためには、怨念、被害者意識、厭世観、無常観などといった背景が、人の心に必要なのである。こうしたものの溢れる社会には、グノーシス主義は極めて集団的に発生しやすいと言える。

だが、東洋思想に流れる無常観は、まさにグノーシス主義にとっては、最適な寝床であったのではないかと筆者は考えている。インド哲学や仏教などの根底に流れる無常観は、まさにグノーシス主義の悲観的・厭世的な世界観に通じるものと考えられる。

グノーシス主義の発生は、原則として、時代や場所を問わないが、それでも、キリスト教対グノーシス主義の戦いの構図の中では、西洋対東洋といった図式が盛んに見え隠れするのも、そのせいである。西洋世界においては、キリスト教が普及したために、グノーシス主義は弾圧・駆逐されたが、その後、東洋世界こそ、グノーシス主義を保存する母体となって来た歴史があるためである。

ちなみに、筆者が一連の記事で用いている異教的世界観という用語は、かなり荒っぽく大雑把なため、誤解を呼ぶ恐れがあるかも知れない。そこで断っておくと、この概念には、時代を問わず、場所を問わず、聖書のまことの神を受け入れず、聖書の父なる神以上に、異なる神(々)を高く掲げるすべての思想や文化が含まれる。たとえば、国家神道や、共産主義思想のように、宗教という形態を取っていない思想も、広義においては、異教的世界観に含まれると筆者はみなしている。

国家神道もそうであるが、共産主義思想なども、その基本構造から判断するに、宗教に匹敵するものであり、その土台は、まさにグノーシス主義に他ならない。共産主義思想は、決して宗教のように「神聖」という概念を用いず、「弱者の神聖」を謳っているわけでもないが、その基本構造において、事実上、虐げられて自己存在を脅かされた弱者を「聖なるもの」として掲げ、抑圧された者たち(の怨念と被害者意識)を神格化し、それを核として世界の変革を目指していることは否定できない。

つまり、たとえあからさまに「神聖」という概念を用いておらずとも、事実上、「社会的弱者を神聖視し、弱者が怨念と被害者意識によって団結することによって、弱者と強者との秩序を転覆して、弱者が強者を抑圧して復讐を成し遂げようとする思想」は、みな根本ではグノーシス主義に属するのであり、こうした神によらない人類の自己救済の思想はみな、当ブログでは、異教的な世界観の中に分類される。


・「イゼベルの霊」とは、キリスト教とグノーシス主義・東洋思想を合体させて混合宗教を作ろうとする母性崇拝の霊である

さて、長い前置きを終えて、ようやく本題に入るが、今回の記事のテーマは、異教的な世界観を総称するものとして、聖書にも警告されている「イゼベルの霊」というものの危険性について考えることにある。

結論から述べれば、「イゼベルの霊」とは、「霊的な女性である人類が、自己を神以上に高く掲げ、神に逆らって己が罪を否定して、神を乗り越えて自らを神格化しようとする思想」であり、言い換えれば、グノーシス主義的・東洋思想的な母性崇拝(人類の自己崇拝)そのもののことである。

聖書になじみのない人は、「イゼベルの霊」という言葉を聞いても理解できず、突然、どこへ話が飛んだのかという印象しか持たないかも知れない。そこで、まず「イゼベルの霊」という用語が、クリスチャンにとって何を意味するのか、この反キリストの霊に対して込められた糾弾の意味について、予め説明しておくことが必要であると思う。

「イゼベル」という名自体は、旧約聖書と新約聖書の両方に登場する。旧約聖書に登場するイゼベルの人物像は、夫であるアハブ王をそそのかして背教に陥れ、国全体を背教によって堕落させて神に背かせ、神が遣わした預言者をも殺意を持って迫害し、まことの神への信仰を駆逐しようとする悪女として描かれる。他方、新約聖書においては、この同名の女性の名は、特定の人物を指すものというよりも、聖書に反する堕落した教えを言い広める悪霊そのものか、もしくは、その悪霊にとりつかれ、誤った教えを広める要塞となった信者たちを象徴的に指す。

早い話が、「イゼベルの霊」という呼称は、聖書の信仰に立つ信仰者から見れば、到底、容認できない、背教や、誤った異端の教えを流布する偽りの霊(またはその霊に操られる信者)を象徴的に指す。

新約においてイゼベルの霊に該当する聖書箇所は以下の通りである。聖書によれば、正しい信仰から逸れてしまった「イゼベル」と、その霊の影響を受けた信者たちには厳しい裁きが待ち受けている。

「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。

わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。

見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行ないを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。

また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。」(黙示2:20-23)

ところで、当ブログにおいてはこれまで、聖書の黙示録に登場するバビロンとは、異教的な信仰と、キリスト教とを混ぜ合わせて(両者の霊的姦淫によって)出来上がる混合宗教、すなわち、疑似(似非)キリスト教を指すものであると書いて来た。

「イゼベルの霊」も、以上に見るように、偶像崇拝を指していることから、その本質は、バビロンと同じ疑似キリスト教であると考えられる。つまり、イゼベルの霊もまた、うわべは敬虔なキリスト教徒を装いながら、内面では聖書の唯一の神に対する貞潔さを失って、異教の神々と結合して出来上がった堕落した宗教としての疑似キリスト教を指すものとみなせる。

旧約聖書におけるイゼベルが、正しい信仰に偶像崇拝を混ぜ込むことによって、国を堕落させたように、今日においても、「イゼベルの霊」は、キリスト教に聖書にはない異教的な要素を「つけ加える」ことによって、キリスト教を堕落させようと狙っているのである。

ところで、「イゼベルの霊」が生み出す混合宗教の最たるものとして、ここで挙げたいのが、ペンテコステ運動である。すでに述べた通り、この運動は、あたかもプロテスタントの一派のようにみなされているが、その本質は、異教的な母性崇拝にあることを、これまで一連の記事において見て来た。その事実は、広義においてペンテコステ運動と同種の運動であるカリスマ運動の指導者である手束正昭牧師が、自らの著書において、フェミニズム神学に基づき、聖霊を「母なる霊」と呼んでいる事実に明白に表れている。フェミニズム神学とは、「キリスト教には父性原理の二分性ばかりが強すぎて、母性的要素が足りないので、キリスト教は厳格で偏った宗教になってしまった。母性的要素を補うことによって、キリスト教は欠点を是正され、バランスの取れた宗教になる」などと主張して、キリスト教の中に、聖書にはない母性崇拝をひそかに持ち込むことによって、東洋的な母性崇拝とキリスト教とを合体させた混合宗教を作り上げようとするものである。

だが、今日、ペンテコステ運動に限らず、異教的な母性崇拝の要素は、キリスト教の中に様々な形態を取って公然と入りこんでいる。プロテスタントからは偶像崇拝として非難されているカトリックにおける聖母マリア崇拝などもその一つであり、こうしたものも、「イゼベルの霊」と呼ばれてしかるべき教えである。

結局、「イゼベルの霊」とは、グノーシス主義的・東洋思想的な世界観そのもののことであり、東洋思想的な母性崇拝の霊であると言える。だが、母性崇拝と言っても、結局は、それは人類の自己崇拝の思想を指すのである。

それだからこそ、イゼベルの霊に影響された信者たちは、ほぼ例外なく、歪んだナルシストになって行くのである。カトリックの聖職者による性的不祥事などを例にあげるまでもなく、得体の知れない「母なる霊」に導かれるペンテコステ運動の信者たちにも、以下に述べるように、極度の自己陶酔・ナルシシズム・自己崇拝が観察される。

ペンテコステ運動に関わる信者たちは、ほとんど例外なく、自らの非凡な神秘体験をあからさまに人前で誇り、聖書の記述に反して、誰にも理解できない「異言」を公然と語り、見せびらかし、そうした超常現象を通して、自らが「神の偉大な霊の器」であることを自己顕示し、神ではなく、自分を高く掲げる。

この運動に関わる信者たちの「信仰の証」なるものを聞けば、その内容が、徹頭徹尾、自己の差別化と、自画自賛に溢れていることがすぐに分かる。そうした信者たちのブログ記事、メッセージなどは、隅から隅まで自画自賛に貫かれ、その行き過ぎた自己陶酔、ナルシシズム、自己顕示によって、自分自身を絶対化していることが理解できる。さらに、そこに、誰が見ても不自然で胡散臭いとしか思われないような、非日常的な神秘体験と、極度に情緒的で不自然な感動体験がちりばめられ、それらの体験によって、いかに彼らが他の凡庸な信者たちとは別格の、神に近い特別に祝福された存在であるかが強調されている。

また、この運動においては、牧師として専門教育を受けたわけでもなく、何の資格もなく、訓練も受けていない信者が、ただ「神の霊を受けた」と自称しただけで、突然、メッセンジャーとなって、セミナーや集会で預言者のごとく語り出すということも日常茶飯事で、「自称牧師」、「自称預言者」、「自称メッセンジャー」が至る所で縦横無尽に活動していることでも知られる。こうした無秩序の行き着く先は、大抵、偽りの霊に導かれる彼らの誤った「預言」によって、多くの信者たちが人生の道を踏み誤り、混乱の中に投げ出されるという悲しい結末で終わる。

ペンテコステ運動は、神ご自身を退けて、宮に過ぎない人間が自分自身を誇り、そのような厚かましく愚かで自画自賛的な霊的運動を、特定の教会ばかりか、全世界にまで拡大し、全世界を一つの霊の配下におさめようと、「リバイバル」を提唱する。だが、問題は、この運動を率いる霊とは、一体、何なのかということである。彼らは、自分たちを導く霊は、「聖霊である」と主張するが、彼らの行いは、あらゆる面から見て、ことごとく聖書に反しているため、そうした「実」から判断しても、この運動を支配する霊が、到底、神の聖霊ではないことは明白であり、なおかつ、聖霊を「母なる霊」とする手束氏の主張なども合わせるならば、ペンテコステ運動はそれ自体が、明らかに聖霊に偽装する偽りの霊に導かれる偽りの運動なのである。

そこで、敬虔な信者の目から見れば、このように無秩序かつ盲目的で非聖書的な「俺様主義的な」厚かましい運動を、全世界にまで拡大されるほどにはた迷惑なことはない。だが、この運動の当事者は、自己陶酔のあまり、それが神の御旨であると信じ込み、他者の迷惑などお構いなしに、大真面目に「リバイバル」を目指し、そのために必死で活動し、日夜、祈祷を繰り広げている。そして、彼らの信じる「リバイバル」に反対したり、彼らの自己陶酔的な集会に疑問を投げかけたり、もしくは、「偉大な霊の器」である彼らの欠点を指摘したり、その集会を批判し、この運動の威光を曇らせるような人間は、みな「悪魔の手下」であり、「イゼベルの霊」に違いないと決めつけられ、こうして、彼らは自分たちに歯向かう者に悪魔との罵声を浴びせ、自己に対するいかなる批判も受けつけないまでに頑なになっている。

だが、残念ながら、筆者の目から見れば、「イゼベルの霊」という非難は、目に見える人間の指導者を神以上に絶対化・神格化し、母性崇拝に陥っているペンテコステ運動そのものと、また、この運動に関わって自己陶酔と自己の神格化に至った信者たち自身にこそ向けられなければならない。ペンテコステ運動の提唱する「リバイバル」も、単に彼ら自身のナルシシズムから生まれて来た自己増殖を目的とする歪んだ欲望以外の何物でもない。

このような人間の神格化及び自己陶酔の運動は、まさに人類の自己崇拝の思想である「イゼベルの霊」からしか生まれ得ないものである。

だが、ペンテコステ運動に限らず、もしもキリスト者が、神ご自身以上に自分自身を高く掲げ、神ではなく自分自身に栄光を帰するならば、その人も「イゼベルの霊」の影響下にあるのだと言えよう。だから、ここで非難されるべきは、ペンテコステ運動だけではないのである。

筆者は再三に渡り、プロテスタントの牧師制度自体が誤ったものであると指摘して来たが、それは牧師制度というものが、信者を目に見えないキリストではなく、目に見える人間の指導者に従わせ、人間である指導者に栄光を帰し、指導者を拝ませる偶像崇拝(人類の自己崇拝)だからである。

カトリックにおける法王の神格化や、聖職者のヒエラルキーなどが誤っているとすれば、プロテスタントにおける牧師制度も、それと同じほど誤っているのだと言える。どちらも人間に過ぎない存在を神と同等もしくは神以上に高く掲げ、神の神聖を横取りしている。だが、中でも、とりわけ、ペンテコステ運動は、超常現象を操るカリスマ的な「偉大な霊の器」を誉めそやし、こうした指導者への集団的な陶酔、服従などを要求している点で、通常の牧師制度に輪をかけて、なお一層、深い人間崇拝の罪に落ちていると言えよう。


・「イゼベルの霊」とは、主人を裏切る人妻の霊であり、「子らを抑圧的に支配する異常な母の霊」である

さて、この記事の末尾に、Eden Mediaの警告動画を二つ掲載しておくが、この動画の説明だけでは、「イゼベルの霊」の本質について、不十分で誤解を招きかねない部分があると思うため、ここでもう少し、説明を補っておきたい。

まず記しておかねばならないのは、「イゼベルの霊」とは、聖書における「大淫婦バビロン」と同じように、その根源は、グノーシス主義的な母性崇拝にあるため、それはただ単に「女性の霊」であるばかりでなく、「母の霊」だということである。

「イゼベルの霊」とは、夫(唯一の神)を裏切り、我が子(信者たち)を抑圧的に支配する「異常な母の霊」である。「異常な母」であると言うのは、もし正常な「母」であれば、自分が生んだ子を養い、子が成長すれば、やがて自分を離れて独立するよう促すであろうが、イゼベルは、自分の子らを一生、自分の欲望をかなえる道具として、自分の支配下に閉じ込めてしまうからである。

イゼベルの霊とは、人妻であり、母の霊である。だから、もし聖書における「イゼベルの霊」の持ち主が、若くて美しく魅惑的な独身女性や、あるいは、いかがわしい商売に従事する美麗な女性たちだけに限定されると考えている人があるならば、その人は早めに考えを改めた方が良い。

聖書の箴言にはこうある。

「命令はともしびであり、おしえは光であり、
 訓戒のための叱責はいのちの道であるからだ。

 これはあなたを悪い女から守り、
 見知らぬ女のなめらかな舌から守る。

 そのまぶたに捕えられるな。

 遊女はひとかたまりのパンで買えるが、
 人妻は尊いいのちをあさるからだ。」(箴言6:23-26)

以上の聖句において、「人妻」が、「遊女」よりもさらに恐ろしい危険な誘惑の源として警告の対象にされていることに注意したい。こうした警告がなされる理由は、「遊女」(娼婦)はただ金銭のために一時的に身を売るだけであり、はっきりとそれと分かる身なりをしており、限定された場所にしか存在しておらず、彼女たちは世間から軽蔑される職業に従事しており、到底、誰からも真実な愛情の対象とはみなされないが、堕落した「人妻」は、敬虔かつ貞淑そうな装いをしながら、どこにでも出かけて行き、真実な愛情に見せかけて、数多くの人々を誘惑し、隠れて主人を裏切り、他者の人生を滅ぼすからである。

上記に挙げた新約聖書のイゼベルに関する記述においても、彼女には多くの「愛人」がいるだけでなく、「子供たち」がいることが言及されている。

聖書においては、大淫婦バビロンも、「母」と呼ばれていることに注目したい。

「その額にには、意味の秘められた名が書かれていた。すなわち、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン。」という名であった。」(黙示録17:5)

このように、バビロン、イゼベルの霊は、基本的に、「人妻」であり、「母」である。彼女たちは、唯一の主人に結ばれていながらも、主人を裏切って、多くの愛人を持つ堕落した「人妻」であり、なおかつ、自分の「子供たち」を抑圧的に支配して自立を妨げる異常な「母」である。

彼女たちは「異常な母」でありながら、同時に、自分を慈愛に満ちた聖母のように見せかけ、偽りの美しさによって多くの人々を魅惑する。イゼベルの美しさは、彼女の母性本能から来るものである。

だが、うわべは慈愛に満ちているように見えても、「イゼベルの霊」は決して人を慰めることも、癒すことも、解放することもしない。ただ閉じ込め、道具として支配するだけである。

この「異常な母の霊」は、被害者意識に満ちており、あたかも子供たちを養ってやるように見せかけながら、子供たちに自分と同じ被害者意識を植えつけ、子らが被害者意識という見えないへその緒で彼女と結ばれて、永遠に「マザー・コンプレックス」となって、彼女の支配を離れられず、生きている限り、「母を守る」ことを使命として、彼女の自己防衛や、欲望をかなえる道具となって生きるように、巧妙な形で自分の「マトリックス(子宮)」に閉じ込めてしまう。

イゼベルの霊とは、グノーシス主義や、東洋思想において神格化されている「母なる神」であるが、この「母なる神」とは、聖書の父なる神に対抗して、自己を脅かされている異教的な神(々)である(同時に、それは人類のことでもある)。

東洋思想に流れる「子が母を守るべき」という考えは、「母が脅かされている」という被害者意識からこそ発生している。「母なる霊」であるイゼベルの霊は、絶えず自分を脅かされていると感じていればこそ、「母子ともに家が脅かされている」という恐怖感、危機意識を子供たちに植えつけ、被害者意識を共有することで、子供たちと運命共同体となり、子供たちが彼女を守る防波堤となって、彼女の支配から一生、抜け出せないようにしてしまうのである。彼女が子供たちを閉じ込める「マトリックス」は、「脅かされている家」であると言える。

この霊の支配がどれほど恐ろしいものであるかは、「母を守る」という異教的な考え方が、どれほど多くの人を犠牲にして来たかを見ることによって理解できる。

一つ前の記事において、筆者は「母なるロシアを守る」という考え方が、キリスト教から生まれたものではなく、異教的世界観を土台として生まれたものであること、この概念は、ロシアという国を、国民にとって絶対的なまでに神格化し、国家を守るために国民はすべてを捧げるべきという、国家への絶対的なまでの忠誠・服従を要求する「信仰」にも近いものとなっていることを述べた。そして、そのように「母なるロシア」という概念を用いて、「国」を神聖視・絶対化していればこそ、ロシアの為政者たちは、「神聖な母なるロシアとの結婚」を盾に、自らの権力を強化して来たのであり、その結果、この国の歴史は、異常なまでに肥大化した国家権力が、国民を抑圧的に支配するということの連続となったのである。

ちなみに、ここでは、「母なるロシア」と、神聖な母性と同一視されている国家そのものが、国民を閉じ込める「マトリックス」となっている。

異教的母性崇拝としての「イゼベルの霊」は、このように、国家レベルにまで高められることがある。ロシアと同様の現象が、かつて我が国では、国家神道(国体思想)において見られた。国体思想においては、「子が親を守るべき」という考えに基づき、「臣民は天皇の赤子であるから、天皇のために命を捨てるべき」と説かれ、国民は、天皇制維持(国体の護持)のための防波堤となって、天皇のためにすすんで死ぬことが奨励(ほとんど強制)されたのである。

かつて『国体の本義』において、確認したように、国家神道(国体思想)においても、「マトリックス」の役割を国家が果たした。そこでは、国家は、天皇を中心とする「一大家族国家」とみなされ、臣民は生まれ落ちたその瞬間から、国家と切り離せない関係にあり、その関係は、個人による選択の余地のない、離脱の許されないものとみなされた。国家を離れての個人という概念は、無きに等しい抽象概念であるとされたのである。

さらに、今日、ペンテコステ運動においては、目に見える人間の指導者が「霊の父母」として神格化され、「霊の子」である信者たちは、「霊の親」への事実上の絶対的なまでの従順(崇拝と言って差し支えない)を求められる。そして、そのような歪んだ家族モデルに基づく「霊の家」を全世界に押し広げることが、「リバイバル」であるとみなされる。

この運動においては、教会や、教団などが、信者を閉じ込める「マトリックス」の役割を果たしている。それだからこそ、ペンテコステ運動に属するアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、自らの教団から信者や教会が離脱することを決して許そうとしないのである。アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団京都教会の村上密牧師は、自らの教団を自主的に離脱した鳴尾教会のような小さな教会に向かって、徹底的なまでに悪罵の言葉を浴びせ、離脱を許すまじと非難しているが、そうした自由なき恐るべき主張は、ペンテコステ運動が、母性崇拝という「イゼベルの霊」の歪んだ信仰の入れ物となり、この霊の支配に基づき、自教団という彼女の「マトリックス」に信者を閉じ込め、そこから決して逃がすまじとしている姿勢をよく示すものである。こうして、信者から自由と自己決定権を奪い、信者を「子」として教団というマトリックスに閉じ込めることによって、残酷な「母なる霊」の支配から決して抜け出られないように拘束しているのである。

このような側面から見ても、ペンテコステ運動は、キリスト教ではなく、異常な母である「イゼベルの霊」に導かれている悪しき偽りの運動であると言える。異常な母の霊の支配する運動だからこそ、子らが自立して、自らの意志によって自分自身の人生を選び取り、母を離れて自由に生きて行くことを許さないのである。

さらに、「子孫は先祖のために尽くし、年少者は年長者のために仕え、子は親のために命を捨てるべき」といった東洋的な世界観は、W.ニーの著書『権威と服従』などに見られる「年長者の兄弟姉妹の指示に年少者の兄弟姉妹は無条件に従うべき」といった考え方の中にも受け継がれていると言えよう。

このように、「子は親に仕え、子が親を守るために命を捨てるべき」という考えは、偽りの思想につきものの転倒した思想である。すでに他の記事でも述べた通り、本来は、子こそ、親によって守られなければならない存在であり、子が自分よりも強い者である親を守るために命を投げ出すべきなどといった異常な思想の下では、子は親の付属物とみなされて、独立した人格を否定され、成長するために必要な助けを親から得られないばかりか、下手をすれば、親の利益のために自分の命までも失ってしまうことになる。そのような転倒した価値観の下では、子は親の見栄や欲望をかなえる道具として搾取され、犠牲とされるばかりで、正常な生活を送ることは決してできない。早い話が、グノーシス主義・東洋思想における母性崇拝としての「イゼベルの霊」のもたらすものは、親子関係というよりも、搾取と人殺しの思想であると言えるであろう。


・「イゼベルの霊」とは、聖書の神によって自己存在を脅かされていると感じる生まれながらの人類(罪人)の被害者意識のことでもある

イゼベルの霊とは、被害者意識の塊である。なぜなら、この霊の根本には、「聖書の神とキリスト教によって、人類が不当に存在を脅かされている」という恐怖があるためである。

イゼベルの霊は、悪魔に由来するものであり、悪魔は自分が神を裏切っており、まもなく神に裁かれ、永遠の滅びと恥辱に投げ込まれることを本能的に理解している。だが、悪魔とそれに導かれる諸霊は、決してその判決を受け入れることができないので、そこで、「神の下された判決は不当だ」という被害者意識を持っている。そして、この被害者意識に基づき、神に反逆するために、自分と同じような恐怖感や、被害者意識を持つ人間をたくさん集めて来て、被害者意識によって連帯することで、自己防衛の砦を作り上げ、聖書のまことの神という「脅威」に対抗するための霊的要塞を作り上げているのである。

だから、イゼベルの霊は、傷ついた心や、被害者意識を持つ人々を好んで探し出し、犠牲者にふさわしい人間を見つけると、母性本能を最大限に発揮して、聖女のように、慈愛に満ちた優しい母のように振る舞いながら、問題を抱えた人々に寄り添い、かいがいしく世話を焼いてやることによって、警戒心を緩め、そうして彼らの心の弱点を巧みに探り出し、その人間の心を操って行く。

彼女は、初めから悪鬼としての正体を表したりはせず、ターゲットとした人間を優しくかばってやうに見せかけながら、その人間が、自己憐憫と、自己正当化の思いと、被害者意識から抜け出られないようにして行き、その弱みを担保に、自分の繭のようなマトリックスの中に取り込み、偽りの安全、偽りの慰めを与え、彼女のもとを永久に離れられないように拘束して行くのである。

だが、彼女の優しさは、偽りである。だから、イゼベルの霊の支配に落ちた人間は、「自分は悪くない」という思いに凝り固まって行き、他者を責めるばかりで、傷ついた自尊心が回復することもなく、やがて被害者意識から立ち上がれなくなる。そして、その被害者意識によって、「脅かされる母」であるイゼベルと見えないへその緒で結ばれて、イゼベルの自己防衛の手段として使い尽くされて行くことになる。

ペンテコステ運動に関わる信者たちに接触して、彼らの人生についてつぶさに耳を傾ければ、ほとんど例外なく、彼らが何らかの根強い被害者意識を持っていることが分かるであろう。概してこの運動の支持者に共通しているのは、既存のキリスト教界において信仰生活につまづいた過去を持ち、それゆえ、キリスト教界に対して根強い不信感や恨みを持っていること、また、その恨みの裏返しとして、自分たちがキリスト教界の知らない高邁な霊的真理を知っており、神と親しく交わることのできる特別に選ばれた存在であると考えることで、既存のキリスト教界を見返そうとしていることである。

ペンテコステ運動を支持する指導者のメッセージを聞いてみると、その内容は既存のキリスト教界に対する根強い敵意と反感に貫かれ、他の堕落した教会とは異なり、自分たちこそが「神に受け入れられる正しいキリスト教である」という自惚れ、自己の差別化の意識が随所に見られることであろう。

こうした運動の支持者の多くは、幼少期に家庭生活において大きな心の傷を受けており、親に対する恨みを心に持ち続けていたり、あるいは、若い時分に異性との関わりにおいて何か決定的な心の傷を受け、異性に対する不信感や恨みを抱えていたりする。また、社会的弱者である場合が多いため、社会生活において色々と不利な立場に立たされ、この世に対する敵意、被害者意識などを持ち続けている例も往々にして見られる。

そうした被害者意識が、大人になってからは、配偶者に対する恨みに発展し、特に女性の場合は、信者たちは、自分は配偶者から不当に抑圧されている被害者だと考えている場合も少なくない。

だが、真に夫から抑圧されている不幸な妻たちと、以上のような人々との決定的な違いは、ペンテコステ運動の信者たちは、仮に自分を夫の被害者だと考えて自己を哀れみ、夫を加害者のように主張したとしても、決してその不幸な状態に終止符を打つための現実的な努力をしないことである。彼女たちは、愚痴は言うが、決して勇気を持って夫のもとを去ることをせず、夫と真正面からぶつかってでも、自分が望む生活を打ち立てるための努力をしない。むしろ、「夫が改心してキリストの僕になってくれたら、すべては見違えるように変わるだろう・・・」などといった他力本願な解決に漠然と希望を託すことで、現実から目をそらし、考えることをやめ、自らの行動の責任を放棄して、打つべき対策を講じず、状況に翻弄されてなすがままになるのである。だから、彼女たちの愚痴を聞いていれば、結局、あらゆる試行錯誤を行って、真に自由になることを願っているのではなく、ただ何もしないまま、「自分は被害者である」という立場に居直り、すべてを人のせいにして、かつ、自分の努力によらずに、奇跡的な解決が訪れることに期待して生きているだけなのだということが次第に分かって来る。そのような諦めに満ちた生き方は、無責任を助長するだけで、前進を生まない。

カルト被害者にしても同じなのである。仮に裁判によって自分を傷つけた教会や悪徳牧師に一矢報いることができたとして、その先に何が待っているのであろうか? 真実な信仰はどのようにして養われるのか? 多くの場合、カルト的な団体に接近する人には、そうなる以前から、自分の心に、異常な世界観を呼び寄せる土壌が存在する。病原菌が人に害をなすためには、人に何かの弱さがなければならないように、悪霊が人につけ込むためには、ターゲットとなる人の心に何らかの傷が存在しなければならないのである。

だから、信者は、悪しき霊につけ込まれる隙となった自己の弱さを見ずして、自分はただ騙されただけの被害者だと一方的に主張していれば、なぜ自分がそのような場所へ引きつけられたのか、どのような弱点を持っていたためにそうなったのか、その事実を知ることもできず、聖書に反する道を歩んだことを反省する余地も失われてしまう。こうして、きちんと過去の総括の作業をしないまま、自分を一方的な被害者と考えることで、自分を慰めていれば、いつまでも心の弱点はなくならず、一つの悪しき団体を脱会しても、その次にはまた同様のカルトに自ら捕まってしまうだけであろう。

「あなたは被害者である」という偽りの慰めは、人に自己肯定、自己正当化、自己憐憫の思いを吹き込み、被害者意識の中で、真摯な自己反省、自己吟味の機会を奪ってしまう。この偽りの優しさと慰めは、あらゆる事件を通して、人が神の力強い御手の下にへりくだり、自分で思ってもいなかった深みまで、自分の心が探られ、明るみに出されることを妨げる。

何かの事件によって、心傷つけられた人は、当初は、自分は絶対に悪くないと思い込み、ただ耐え難い出来事が身に降りかかったとしか思わないであろうが、なぜ神がそのような出来事が起きるのを許されたのか、それが自分にとってどんな教訓を意味するのかは、何年も、何年も、経つうちに、ようやく分かって来る。一体、自分に何が足りなかったために、そのような事件が起き、自分の弱点がどこにあったのか、自分の側にも完璧に落ち度がなかったとは到底、言いきれないことを、一定の時が経過して、初めて人は理解するのである。

だが、安直な偽りの慰めは、人に「自分は悪くない」という思いをもたらすだけで、人が苦難に真正面から向き合って、自分の心を探る勇気と試みを妨げ、人格的な成長の機会を奪ってしまう。何よりも、自己憐憫の感情と、人間から得られる安っぽい慰めが、問題の只中で、深く、真摯に神に向き合い、信仰によって、ただ神の慰めと神の解決だけを求め続けることを妨げるのである。

結局、イゼベルの霊がターゲットとする人に与える表面的な慰めや、優しさや、同情は、すべて人を真の慰め主である神に至らせず、かえって被害者意識によって、その人を神の敵へと変えて行くための欺きであり、偽りなのである。だから、このような偽りの助けにすがった人間は、ことごとく、歪んだナルシストとなり、やがては自己を絶対化して、自分を神以上の存在として掲げることになる。

イゼベルの魅惑的な美しさは、彼女の優れた母性本能と、あたかもキリストに結ばれた貞淑な花嫁のような偽りの外見から来るものである。この霊は、自分を慈悲深い母、聖女のように崇高な存在に見せかけることができる。母であり、人妻の霊だからこそ、巧妙な誘惑の手練手管に長けており、その罠は、見えにくく、巧妙で、したたかなのである。

https://youtu.be/XBMUHPDm5z8

https://youtu.be/F1SYuUGl8Vk

(イゼベルの霊と、彼女の霊に支配される「子ら」としてのナルシストたちは、車の両輪のように一体である。それを考えれば、常に指導者の神格化や、信徒の自己陶酔を生んでいるペンテコステ運動が、どのような偽りの霊に導かれているのかも理解できる。)

2016年11月 1日 (火)

傷ついたアイデンティティと被害者意識を原動力として生まれる偽りの世界救済の思想の危険

・「自己を脅かされている」という被害者意識が生む危険な人格障害

ひとつ前の記事では、文学上の主人公であるエフゲニー・オネーギンの人格を例に、ロシアという国家の歴史的に傷ついたアイデンティティという問題について見て来た。

筆者の見解では、オネーギンという人物像には、ただ単に帝政ロシアの時代のロシア知識人の内心の問題が反映されているだけでなく、そこには、今日までロシアという国家、また、ロシア人が自己のアイデンティティにおいて抱えて来た傷、さらに、その傷のために生じる病理現象が、端的かつ象徴的に凝縮してこめられている。

ところで、オネーギンに代表されるような「傷ついた人格」は、現代の日本人とも決して無縁ではない。かつて我が国の文学においては、ロシア文学の「余計者」とよく似た「高等遊民」などと呼ばれる憂愁を抱える知識人のタイプが登場したが、現代社会においても、オネーギン的な人格は、知的エリートのみならず、幅広い社会層に広がっている。

我が国には、敗戦、占領、属国化政策などの歴史的な負の過去があることに加えて、戦後の偏差値を重んじる受験競争や、高度経済成長期の就職戦線、その後も現在にまで受け継がれる企業への絶対服従の風土などが、国民の間に健全な自尊心が育つことを妨げている。

こうした状況の中で、健全な自尊心を養うことのできなかった人間は、傷ついて、病んだ、オネーギン的な(あるいはそれをさらに上回るもっと深刻な)歪んだ人格障害の特徴を抱えながら、良心を失った知的エリートとして生活しており、官僚や、聖職者などの中にも、こうしたタイプの人間が見受けられる。

その他にも、たとえば、ネトウヨや、植松容疑者といった知的エリートと呼べない、比較的社会の下層に位置する人々の中にも、同様の人格障害の持ち主は広がっている。彼らはオネーギンのような高い教養、巧みなパフォーマンスを持たないが、自己の内面に抱える鬱屈した被害者意識、社会で適切な居場所を見いだせないための絶望感、絶えず自分の心の空洞を転嫁できそうな相手を獲物のように探し求めているなどの点で、上記の人々と共通していると言えよう。

現代という時代は、被害者意識が急激に社会に蔓延した結果、人々のアイデンティティが侵食されており、傷ついて病んだ人格の特徴を持たない人間を探す方が極めて困難な時代であると言える。

そして、ロシアと同様に、我が国においても、健全なアイデンティティを養うことのできなかった人々の被害者意識は、個人のレベルで人格障害を生んでいるだけでなく、国家のレベルでも、集団的に危険なナショナリズムを生んでいる。

先の記事で述べた通り、ナショナリズムとは、「自分(自国)が脅かされている」という恐怖感、被害者意識、劣等感などからこそ生まれて来るものである。

被害者意識というものの厄介な点は、個人には(あるいは、国家にも)プライドがあるため、自己を脅かされているという恐怖感や、被害者意識を感じていればいるほど、人はかえって自己の弱さや恐怖を必死になって覆い隠し、否定しようとすることである。

そして、自分の弱さ、内心の恐怖から目を背けるために、自分を鍛えたり、優れた思想を学んでそれを取り入れようとしたり、熱心な宗教家を装ったりして、むしろ、自分をあるがまま以上に強く、美しく、優秀で、完全無欠な正義の味方のように見せかけようとするのである。

そうした自己欺瞞の行き着く最高の形態がメシアニズムの思想である。

「自分を脅かされている」と感じている存在が、プライドのゆえに、自分の抱える弱さや恐怖心から目を背け、その弱さを他者に転嫁し、助けを必要としているのは、自分ではなくむしろ他者なのだと考えて、他者の救済者を名乗り出て他者よりも優位に立つことによって、自尊心を満たし、そのような方法で、自分に劣等感を味わわせた存在を見返すと同時に、他者の救済に便乗して自己救済を成し遂げようとするのがこのメシアニズムの思想の特徴である。

メシアニズムの思想とは、いわば、被害者意識を覆い隠すためのトリックとしての自己救済の思想なのである。


・怨念や、劣等感や、被害者意識を原動力として発生するメシアニズムの思想の危険

ロシアにおけるメシアニズムの思想の中には、たとえば、すでに述べたように、「モスクワは第三の(最後の)ローマである(第四のローマはない)」などとする、「ロシア正教こそが唯一正しいキリスト教の担い手であり、ロシアには世界を救う資格がある」といった救済思想がある。

この「モスクワ=第三ローマ説」は、ロシア(16世紀頃のモスクワ公国)がモンゴルの支配を跳ね返し、ロシアのキリスト教の本家であったビザンチン帝国が滅亡し、ヨーロッパのカトリックの腐敗が明らかになった頃に生まれた概念であり、ようやく滅亡の危機を脱して国力を回復したばかりのロシアのキリスト教が、ヨーロッパのキリスト教の危機的な状況を利用して、あたかも「ロシア正教こそが世界で唯一正しいキリスト教であり、ロシアはその担い手であるから、世界を救済する資格がある」かのように提唱する思想であった。

これは修道僧によって提示された思想であり、国家権力の側から公式に流布されたものではなく、実際に、当時のロシア正教全体の中にこのような思想がどの程度、広まっていたのか、それがロシア民衆の間にどの程度、定着して、国の団結に役立ったのかも不明であるが、いわば、これはロシアのメシアニズムの思想の先駆けであり、宗教に名を借りて、国の団結や威信を強化し、国家を神聖視する思想の土台を形作る思想の早い段階での明確な現れの一つであったと見ることができるだろう。

このようなロシアのメシアニズムの思想の基本構造は、その後も、宗教とは異なる形態において現れる。20世紀に、世界初の社会主義国であるソ連が、全世界を資本主義の弊害から救い、世界をプロレタリアートの天国である共産主義社会へと塗り変える拠点となるなどといった思想の中にも、以上に挙げた宗教メシアニズムとそれほど変わらない、メシアニズムの思想の基本構造が継承されていると見ることができる。

以下でも説明するように、「(母なる)ロシアを世界の諸国の脅威から守る」という被害者意識から生まれて来たプーチン政権が、「強いロシア」を提唱していることの中にも、以上のような「ロシアによる世界救済」の思想が受け継がれているという見方も可能である。

さて、メシアニズムの思想は、戦前の日本においても、「八紘一宇」などというスローガンの下、「天皇を「神」として頂く「神の国」である日本こそ、キリスト教の弊害・ヨーロッパ的な植民地主義の弊害から、アジアを含めた世界の諸国を解放する資格があるのだ」などとする国家神道の形で登場して来た。

一体、国境を超えて、宗教や、政治を問わず、様々な形態で現れ出て来るこれらの世界救済の思想の共通点は何であろうか? 端的に、二つの共通点が挙げられる。一つ目は、こうした思想が、真に世界をリードするにふさわしい先進国から出て来ることは決してなく、どちらかと言えば、歴史的な進歩から大きく後れを取っている後進的な国々から登場して来ること、第二に、こうした思想は、国が存亡の危機にあって「自己を脅かされている」という集団的な危機意識・被害者意識を持つ国々から、そうした弱さから目を背けるためのトリックとして生まれて来るという点である。

結論から言えば、メシアニズムの思想とは、被害者意識を抱える弱者救済の思想であり、それは自己を脅かす敵を根絶して、自己を世界一とすることで、自己救済を成し遂げようとする思想である。こうした思想は、健全なアイデンティティを持つ者から生まれることはなく、必ず、傷ついたアイデンティティを持つ存在からのみ生まれて来る。すなわち、こうした思想の根本にあるのは、被害者意識を持つ者が、脅かされ、傷ついた自分を「神聖な存在」とみなし、その「神聖な核(=被害者意識)」を全世界に押し広げ、全世界を自己に同化することによって、自分を脅かす存在を駆逐して、世界征服を成し遂げ、偽りの平和を築こうとする願望である。

こうした考えの根本には、「脅かされ、虐げられている弱者にこそ、世界を理想的に変革し、救済する資格がある」とみなす考え方がある。だから、こうした思想は、人々の内にある被害者意識、脅かされているという恐怖を「神聖なもの」にまで美化し、それを世界救済のための「神聖な核」にまで高めて行くのである。

ロシアの初期の社会主義の思想においても、虐げられているがゆえにロシア民衆を「神聖な存在」として美化する思想が至るところに見られた。虐げられているゆえに、民衆には、ロシアばかりか、世界の救済の担い手となるような優れた要素が宿っているというわけである。そうした考え(民衆の美化)は、当時のロシア文学には至る所に見られ、ゲルツェンなどの初期の社会主義者も、同じ路線に立って、ロシアの農村における農村共同体に、世界を理想的に変革する核となる要素があるとみなしていた。

「虐げられた者」を美化し、被害者意識によって団結を迫る思想は、社会主義時代においてはプロレタリアートの美化、「万国の労働者よ団結せよ」などのスローガンとなり、虐げられているがゆえに、プロレタリアートを世界を理想的な変革の担い手とする思想へと結びついた。

このように、メシアニズムの思想において、中核的な役割を果たすのは、決まって何らかの脅かされている社会的弱者の存在である。さらにもっと言えば、そうした弱者の内に見出される「被害者意識」こそ、「神聖な核」とみなされるのだと言える。被害者意識を軸に、自国ばかりか、全世界の人々が団結・連帯することによって、それまでの支配関係を覆し、理想的な世界を打ち立てることができるというのが、そうした思想の基本構造である。

このような思想は、むろん、偽りである。そこで被害者意識が「神聖」な要素にまで高められているのは、恐るべきことである。被害者意識に脅かされる者たちが、怨念と復讐心によって団結・連帯したからと言って、それが世界救済になどつながるはずもないのは明らかであるが、いずれにしても、その思想は「自己存在を脅かされている」と感じる者たちが、その被害者意識を軸に集結・決起することによって、自己救済を成し遂げようという思想であるから、そうした思想の担い手にとっては、その被害者意識に加わらない者たちは、「神聖」ではなく、世界の変革にふさわしくもなく、そのような存在がどうなろうとも全く構わないのである。

少し先走って言えば、これまでにも再三、述べて来たように、ペンテコステ運動も、基本的に上記のような思想と同種のメシアニズムの思想であると言える。

これまで述べて来たように、ペンテコステ運動の拠点となった教会は、ほぼ例外なく、全世界を自分たちと同じ信仰に塗り変え、同じ「霊の家」に帰依させることを目的に掲げる「リバイバル」を提唱している。だが、貧しく、無学なゆえに、既存のキリスト教からは伝道の対象ともみなされずに、打ち捨てられて来た社会的弱者を主な伝道対象として始まったこの運動が今も盛んに提唱している「リバイバル」とは、その概念をつぶさに見て行けば、「八紘一宇」(国家神道)、「全人類一家族理想」(統一教会)、プロレタリアートの天国としての共産主義などと全く変わらない、弱者のユートピアに他ならず、これもまた虐げられた弱者による被害者意識に基づく偽りの世界救済の思想であることが見えて来る。

次回以降の記事でも詳述するように、ペンテコステ運動はキリスト教ではなく、疑似キリスト教的な異端であり、ペンテコステ運動の原動力となっているものは、(既存の)キリスト教に対する被害者意識である。

この事実さえ見れば、なぜキリスト教を名乗っているはずのペンテコステ運動の只中から、既存のキリスト教界の「カルト化」を糾弾しつつ、キリスト教会に次々と裁判をしかけて、教会を取り潰すようなカルト被害者救済活動といった異常な運動が生まれて来るのか、なぜそれにも関わらず、カルトとみなされる教会の数多くがまさにペンテコステ運動に属しているといった矛盾が存在するのか、といったことの謎が解けるであろう。このようなことが起きるのは、ペンテコステ運動が本質的にキリスト教を仮想敵とする疑似キリスト教であるために他ならない。

ちなみに、聖書によれば、終わりの時代になればなるほど、公の会堂(教会)は偽の信者たちで占拠され、信者たちは迫害を受け、散らされることが記されており、古代ローマ帝国時代のように、クリスチャンの爆発的増加によって全世界がキリスト教に塗り替えられるといったことは、聖書には記述されていない。それにも関わらず、ペンテコステ運動の支持者たちが、自分たちと同じ信仰を持つ教会を全世界に押し広げるための「リバイバル」を唱え続けるのは、この思想が本質的に自己増殖を目的とする異端であり、最終的には、キリスト教の駆逐を真の目的としているためである。

興味深いのは、「モスクワ=第三ローマ説」も、社会主義思想も、国家神道も、統一教会も、ペンテコステ運動も、みなその本質においては、キリスト教を仮想敵としていると見られることである。

「モスクワ=第三ローマ説」は、ロシア正教から生まれたのだから、キリスト教を仮想敵としているとは言えないのではないか、といった反論もあるだろう。しかし、以下に見るように、ペンテコステ運動がその本質においては疑似キリスト教であると筆者が指摘するのと同様に、ロシアのキリスト教も、ヨーロッパのキリスト教とは根本的に受容の過程が異なっており、その意味で、大きな弱点を抱えており、そのために、ロシアという国には、その本質において真にキリスト教信仰が浸透することなく、むしろ、文化的な土壌においては、常に異教的な世界観に立ったままであったと筆者は見ている。

それだからこそ、ヨーロッパにおけるキリスト教全体に対する敵視に基づく「モスクワ=第三ローマ説」が登場したり、あるいは、長年のキリスト教国でありながら、ロシアが20世紀にはあっさりとキリスト教を捨てて、社会主義化の道を辿るなどの出来事が起きたのである。

次の記事でも詳述するが、こうしたすべてのメシアニズムの思想の背後にあるのは、キリスト教に敵対するグノーシス主義的・東洋思想的・異教的世界観である。これまでに見て来たように、グノーシス主義とは、基本的に、「神秘なる母性」を崇める母性崇拝の思想である。

なお、ロシアにおいては、今日でも、「母なるロシア」(Матушка Россия, Россия-матушка, Мать-Россия, Матушка Русь)といった表現が、愛国心を込めた表現として広く使われている。ソ連時代には「母なる祖国」(Родина-мать)と言った呼び名も頻繁に使われ、このように国そのものを母なる女性人格として誉め讃える思想が今も伝統として受け継がれているのである。

だが、このような用語は、決してキリスト教的なものではなく、明らかに、異教的な発想を土台として成立したものである。それは単なる愛国心の表れではなく、グノーシス主義における「神秘なる母性」崇拝を国家に当てはめ、国家そのものを「神聖なる母性」として崇拝する一種の信仰であると言った方が良いと筆者は考えている。

Wikipediaの説明によると、「母なるロシア」というシンボルは、政治的にも利用されて来た。つまり、ロシアの統治者は、自分は「母なるロシア(が内外の敵に脅かされないための)守り手である」と名乗り出て、「母なるロシア」と「神聖な結婚の関係にある」という概念を用いて、自らの政治権力を正当化する根拠として来たのだという。

こうして、国そのものを「聖なる母」として神格化し、至高の価値として崇め奉り、「ロシアとの結婚」を何より重んじていればこそ、プーチン氏のような為政者は、自らの夫人との生活にも訣別し、ただ国の統治者としての公の人生だけに全存在を投じようとしているのだと見ることもできよう。そうした観点から見るならば、「母なるロシア」とは、ただ単に愛国的な表現であるのではなく、文字通り、全身全霊を母国のために捧げて祖国防衛に努めよという、一種のカルト的とも言えるほどの信仰を土台としている用語であると言うこともできよう。

このように、ロシアの政治的な統治の背景には、常に「母なるロシアを様々な脅威から守らねばならない」という発想があったが、この「母を守る」という発想は、明らかに、当ブログで指摘して来た、グノーシス主義的・東洋的な世界観の根本に横たわる「母を守る」という発想に通じる。

そこにあるのは、「神聖な母が脅かされている」もしくは「脅かされる危険がある」から、「子らが立ち上がって、家全体で、母を防衛しなければならない」という危機意識、もっと言えば、母子ともに、家が脅かされているという被害者意識である。

現代のような時代では、確かに、ロシアという国は様々な危機に囲まれていると言えようが、このような被害者意識は、必ずしも、現実的な根拠があって生まれるものではない。「母なるロシアが脅かされている」という被害者意識は、表面的な政治的対立よりももっと深いところから生まれて来る世界観である。先の記事でも述べたように、「ロシアを脅かす脅威」とは、文字通り、ロシア以外のすべての国々を指すのであるが、中でもとりわけ、真の脅威となっているものが、実はキリスト教であることを、以下で詳しく見て行きたい。


・メシアニズムの思想は、怨念と復讐心から生まれるものであって、真に優れて先駆的な文化の只中から出て来ることは決してない

ところで、メシアニズムの思想は、決して真に優れた国や、優れた文化の只中から登場して来ることはない。このような思想は、早い話が、劣等感と、遅れの意識、屈辱感の裏返しとして生まれるものであって、決まって、どちらかと言えば、文化的に後進的な国々の中から発生して来る。

先に述べたように、ロシアのキリスト教には、世界を救済できるような要素は全くなかった。それどころか、ロシアのキリスト教は、その受容の過程からして、ヨーロッパのキリスト教とは大きく異なっており、最初から大きな弱点を抱えていたのである。ロシアには、ローマ帝国時代のキリスト教のように、迫害の只中で、信徒の信仰の自発的な増加によって、やむにやまれず国教にまで拡大したといった歴史はなかった。ロシアのキリスト教は、民衆の只中から自発的に広まった信仰ではなく、ただ単に国家の威信強化のために、外側から移植され、半強制的に民衆に押しつけられたものに過ぎず、そのため、内心の伴わない、うわべだけの偽装のような改宗であった。

このような半強制的な改宗によって、キリスト教の精神の本髄が、国民の間に浸透・定着するはずもなく、それだからこそ、うわべだけの改宗後も、ロシアには依然として、異教的な民間信仰の要素が色濃く残り続けたのである。そのような意味で、ロシアという国の本質は、その深部においては、たとえ表面的にはキリスト教国となった歴史があったとはいえ、ずっと変わらず異教的な信仰にとどまっていたのだと言って過言ではない。

帝政時代、ロシアはキリスト教国であったが、その間の歩みも、ロシアを本質的に変えることがなかった。だからこそ、20世紀になると、ロシアはキリスト教の仮面を投げ捨てて、社会主義的無神論に転身し、共産主義思想によってキリスト教国に敵対する道を選んだのである。そして、ソ連崩壊後の現在に至るまでも、ロシアでは未だオウム真理教が圧倒的な増加を誇って政府の規制の対象となっているなどの事実からも分かるように、異教的な土壌が大きくものを言っている。新興宗教はロシアに積極的な活動の場を見いだしているが、それは非キリスト教的な異教的世界観が、この国の土壌に今も深く根差しているためであり、共産主義思想も、まさにこの異教的な土壌の中でこそ培養されたのである。

このように、ロシアという国は、歴史上、決して表層のみでしか、キリスト教を受容したことはなく、ロシアにおけるキリスト教は決して真の自発的な信仰として、国民の間に深く浸透して行くことがなかった。だから、その意味で、ロシアのキリスト教には、決してヨーロッパと比べて、これを優れたものとして誇れる要素はなかったのである。

ヨーロッパのキリスト教は、確かに、国教化されて以後、著しい世俗化の道を歩み、その意味において、この世と妥協して堕落したと言えるかも知れないが、それゆえ、宗教改革が起こりもし、絶えず、聖書の本質に立ち戻ろうとの試みが生まれて来た。それに引き換え、ロシアにおけるキリスト教には、ヨーロッパのキリスト教に匹敵する意味での宗教改革がなかった。ロシアにはルネサンスがなく、ニーコンの改革とそれに反対する古儀式派との対立も、儀式のあり方を巡って生じた争いに過ぎず、教義面における深い討論には全く結びつかなかった。

ロシア正教は、もともと荘厳な宗教絵画などの装飾や儀式などの印象を感覚的に受容することや、瞑想に近い祈りなどに重きを置いており、プロテスタントのように信徒自身が主体的に聖書を理解する過程を重んじない。もともと一人一人の信者が聖書を知的・論理的に解釈し、理解するという主体的な側面が薄いことから、教義面における討論が高まって、聖書に立ち戻るべきとの訴えがなされて、大々的な宗教改革に結びつくといった現象が起きなかったのも不思議ではない。

このように、ロシアのキリスト教が、ヨーロッパのキリスト教と比較して、当初から抱えていた大きな「弱点」を全て無視して、ただカトリックの腐敗や、ビザンチン帝国の崩壊などを口実に、「ロシアこそが正しいキリスト教の最後の担い手であり、世界に正しい信仰のあり方を教え、世界を救済することのできる国である」と自負するという思想は、まさに現実を無視した幻想であり、根拠なき自惚れであるとしか言えない。

こうした発想は、ロシアのキリスト教が、ヨーロッパのキリスト教に比べて、もともと大きく遅れを取っており、また、ロシアという国そのものが、モンゴルの占領によって存亡の危機に脅かされ、長く発展を阻害されたという悲劇的な歴史があればこそ、その反発として生まれて来たものであったと言えよう。つまり、ヨーロッパに対する遅れの自覚がそれほど深く、無意識のうちにも、ヨーロッパのキリスト教に対する激しい敵愾心・復讐心を生んでいたからこそ、いつかこれを見返し、凌駕することで、その遅れを取り戻し、世界一に名乗り出て雪辱を果たしてやろうとの復讐心が、以上のような思想の形となって現れたのだと考えられる。

もっと言うならば、ロシアのキリスト教は、決して土着の信仰として根づかない「借り物」のようなものであればこそ、ヨーロッパのキリスト教からは遅れた信仰、あるいは「フェイク」のようなものとみなされ、断罪されたり、侮蔑される危険があった。あるいは、ロシアの文化が、本質的には、キリスト教に染まらず、異教的な世界観のままであればこそ、そうした異教的世界観が、キリスト教の側から暴かれ、断罪され、駆逐される危険があった。「モスクワ=第三ローマ説」は、こうした意味で、ロシアがその本質において持ち続けて来た異教的世界観の側からの、自己防衛を目的としたキリスト教に対する敵対宣言であった可能性も考えられる。

こうした思想的傾向は、ロシアにその後も変わらず持ち続けられる。帝政時代には、封建的な権力による民衆への抑圧のために、ロシア社会の進歩がヨーロッパに比べて著しく停滞し、そのために、ヨーロッパにおける資本主義の目覚ましい発展からロシアは遅れを取っているという危機意識がロシア知識人に広まった。こうした遅れを取り戻して、世界に先駆ける存在とならねばならないという危機意識が、その後、社会主義化によってロシアが世界をリードするといった発想へと結びついたものと見られる。ソ連崩壊後は、資本主義国の見舞われなかった経済的混乱の只中から、「強いロシアを取り戻す」ことをスローガンに掲げるプーチン政権が登場して来た。これらのことはすべて、ロシアという国が内面で抱えていた「国が脅かされて滅亡の危機にあり、このままでは世界から取り残されてしまう」という強い危機感と、遅れの意識や、劣等感を克服して、自国よりも進歩的な全ての国々を凌駕したいという無意識の敵愾心・競争意識・復讐心が生み出した現象であったと言えるのではないかと思う。


・ヨーロッパ文化の急激な受容により東洋的な世界観が圧迫されたことへの反発として生まれた日本の国家神道というメシアニズム

翻って、戦前・戦中の日本の国家神道を見てみると、以上に挙げたような、ロシアとさほど変わらない現象が起きていたように見受けられる。日本は、歴史上、一度もキリスト教国になったことはないが、それでも、開国以降、ヨーロッパ産業文明の目覚ましい進歩に圧倒され、急激にヨーロッパを模倣して近代化をはからねばならなくなった過程で、自国はヨーロッパに著しく遅れを取っているという危機感やコンプレックスが生まれたものと見られる。

我が国の場合は、ロシアの場合とは多少、事情が異なるとはいえ、宗教的にも、キリスト教を土台として成立したヨーロッパ文化と、日本がもともと伝統的に継承していた東洋的・異教的な世界観との間にはあまりにも大きなずれがあり、それらは互いに異質であり、なじまないものであったため、外側でヨーロッパ文化を模倣すればするほど、日本が内側で持ち続けて来た東洋的な世界観との乖離状態が無視できないギャップとなって表れ、このギャップを克服するために、何かの心理的トリックが必要となったものと見られる。

そこで、表面的には西洋文化を受け入れた風を装いながらも、内側では、東洋思想を保存して、西洋的な思想(特にキリスト教)の侵食を決して許さないために、人工的に作り出されたものが、国家神道を土台とするメシアニズムの思想であったと考えることができる。

日本は事実上のメシアニズムの思想である国家神道の理念を打ち出すことにより、日本こそ、西洋文明の二元論的行き詰まりから全世界を救うことのできる特別な使命を持つ国であると自認した。

日本は、キリストに代わり、「天皇」を神聖な存在として掲げ、かつ、日本という国家自体を、「天皇を中心とする神聖な一大家族国家」とみなすことによって、国全体をキリスト教に対する防波堤としようとしたが、その理念の最大の目的は、全世界をキリスト教の侵食から「保護し」、異教的(東洋思想的な)世界観を保存することにあったと見られる。

このような「全世界をキリスト教の弊害から救う」という理念を正当化するために、国家神道は、西洋文化と東洋文化の合体によって、新たな文化を創造できるという折衷案的な解決方法を編み出した。キリスト教の神の概念はあくまで受け入れられないものとして、それに代わるものとして天皇崇拝を提唱しながらも、西洋文明の長所だけは取り入れ、これを日本がそれまで伝統的に持ち続けて来た東洋思想、東洋文化と合体させて、新たな混合文化を創り出し、それによって、「キリスト教と西洋文明の欠点から来る世界の行き詰まりを打破・是正できる」と主張したのである。

だが、むろん、こうした思想も甚だしい偽りであって、天皇崇拝や、東洋文化や、国家神道が、キリスト教に優る、世界に先駆けて優れたものだから、世界を行き詰まりから救うなどといった思想には、お世辞にも肯定することはできないし、それが根拠なき自惚れに過ぎなかったことは、歴史が証明済みである。むろん、それぞれの文化には、独自の長所が存在し、東洋文化にも、文化的な長所というものは存在するであろうが、だからと言って、その長所を持って「世界の救済者」を自認するといった厚かましい思想は、文化的な長所とは全く関係ない話である。

そのような思想は、日本が開国以降、ヨーロッパ産業文明に対して感じていた著しい遅れの意識と、劣等感、何よりもヨーロッパにおけるキリスト教に対する無意識の敵愾心が生み出したものであるとしか言えない。


・異教的・東洋的世界観の持つ被害者意識はキリスト教への敵意から来る

幾度も述べて来たことだが、東洋思想の根底には、キリスト教に対する根強い恐怖感と被害者意識が存在する。東洋思想の根底に流れる「母を守らなければならない」という発想は、要するに、「西洋的なキリスト教の父性原理の脅威から、東洋的・異教的な母性崇拝を守らなければならない」ということに尽きる。

だから、そこで言う「母」とは、異教的世界観の総体なのである。戦前の日本や、ロシアにおいて、国そのものを神聖な存在のようにみなし、国民全体が団結して立ち上がって、この「母なる国」を内外の脅威から防衛することにより、自国のみならず、世界を行き詰まりから救済できるかのような思想が度々、生まれて来たのは、こうした思想の背景に、まさに異教的・グノーシス主義的な世界観が存在しているからに他ならない。

つまり、ここで言う「国」とは、単なる国家ではなく、異教的な世界観、とりわけ、グノーシス主義的な「神秘なる母性」崇拝を保存するための「神聖な母体」としての入れ物(宮)なのである。だから、その「母」を脅かす存在とは、ただ国を脅かす内外のあれやこれやの政治勢力を指すだけでなく、本質的には、キリスト教(の父性原理)の脅威を意味するのである。

結局、こうした思想が最終目的に掲げているのは、異教的世界観(異教的な母性崇拝)をナンバーワンに据えることによって、全世界をキリスト教の(父性原理の)「脅威」から守り、聖書とは異なる異教的な「神」を世界の中心に据えようという思惑である。

「モスクワ=第三ローマ説」も、ロシアのキリスト教こそが世界で唯一正統であるという、一見、あたかもキリスト教という宗教の中での対立のように見受けられる主張の陰で、その実、真の目的は、ロシアという国家そのものを「神聖なる母」として、全世界の上に掲げることにあるものと考えられる。こうした思想の根底に流れるものは、決してキリスト教的な理念ではなく、単に政治的な争いを宗教的な装いのもとに表現しているに過ぎない。ロシア正教がビザンチンから伝来したと言っても、ローマはもともとキリスト教の聖地ではないので、ローマを継承したからと言って、本来、それは正統なキリスト教のシンボルにはならないはずである。それでも、あえてそのような表現が用いられたのは、明らかに、そこにカトリックに対する敵意が込められているからであり、モスクワ(公国)が、ビザンチンを継承して、バチカンに代わる新たなローマを名乗ることによって、ロシアにカトリックに優る宗教権力を打ち立てようとの願望が表れていたに過ぎない。

ただし、その後、ロシア正教はソ連時代に受けた弾圧などによって、かつての勢力を失い、今日のロシア正教に以上のような宗教的なメシアニズムの思想が残っているかと言えば、その可能性はかなり薄いであろう。むしろ、そうした思惑は宗教の舞台を離れて、政治の世界にこそ色濃く受け継がれている。

筆者は、それぞれの国の抱える文化的な土壌というものは、地層のようなもので、よほどのことがない限り、覆されることも、変化することもないと考えている。だから、ロシアも我が国も、文化の深層において抱える異教的な土壌というものがある限り、おそらく、以上に挙げたような忌むべき世界救済の思想は、今後も、繰り返し、繰り返し、何度でも形を変えながら、これらの国々から現れて来るであろうと思う。それらの思想は、現れる度ごとに、キリスト教への敵意をより一層、明白にしながら、最終的には、キリスト教を完全に乗っ取って、「我こそは正しい宗教である」と宣言することを目的にして行くのであろう。

結論として言えるのは、以上のようなメシアニズムの思想は、すべて怨念と被害者意識を基に生まれる復讐の思想である、ということである。こうした思想を育む土壌となる被害者意識は、ただ単に歴史的な負の事件だけをきっかけに生まれるものではなく、その根本には、キリスト教(の神)に対する、異教的・グノーシス主義的世界観の側からの怨念と被害者意識が存在する。だから、こうした被害者意識に満ちた思想が、真の復讐のターゲットとして定めているのは、内外のあれやこれやの脅威ではなく、まさにキリスト教そのものであり、聖書における唯一の神であることを知らなければならない。

次回以降の記事では、グノーシス主義的・異教的世界観がいかに被害者意識と切り離せないものであるか、また、グノーシス主義的・東洋的な母性崇拝の総称としての「イゼベルの霊」がいかに被害者意識に満ちているか、また、「イゼベルの霊」の支配に導かれる疑似キリスト教としてのペンテコステ運動に関わることが人にとってどれほど危険であるか、具体例を挙げながら考察して行く。

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2016年10月23日 (日)

ロシアという国の危険な本質と、北方領土返還の完全な実現の前にロシアと平和条約を結ぶことの愚かさ、無益さ、有害性について

・日ロ両国の接近が我が国に将来的にもたらすであろう悲劇について

・ロシアビジネスの不幸な現場から


かつてロシア人の友人が、筆者に面と向かって言った。

「プーチン政権に逆らうと社会的に抹殺される」

比較的リベラルで、特に体制反対派とも言えないロシアの知識人が口にしたその言葉は、筆者にとってもそれなりに重く響いた。その言葉の重さは、徐々に増し加わり、様々な実体験と共に、筆者のロシアという国への淡い期待を打ち砕き、我が国とロシアとの平和条約締結を無意味なものととらえさせるに十分なきっかけへと発展した。
 
母国をいたく愛するそのロシアの友人には残念なことかも知れないが、ロシア人が一般にどんなに信用ならない、したたかで、ずるい国民性を持っているか、ロシアと我が国との誠実な取引がいかに成立困難であり、またこのような国と取引すること自体が危険な行為であるか、これから具体的に記して行く予定である。

一言だけ先に書いておくと、ロシアビジネスを営む多くの企業を知っている者として筆者が言えることは、この業界は根本的に不幸である、ということだけだ。レールモントフの詩に表現された「奴隷の国(ロシア)」という響きは、当時だけに限ったことではない。ロシアビジネスに携わるほぼすべての企業で敷かれているのは、レールモントフが詩に書いた通りの、細部に渡るまでの行き過ぎた管理と統制、相互監視・密告体制である。そして人命の軽視、人権の軽視、不法と虐げの恒常化…。

むろん、日本にもブラック企業と呼ばれるビジネスが溢れ、テレマーケティングなど業界そのものがブラックと言われている分野もある。状況は似たり寄ったりだと言われるかも知れない。確かにそうとも言えるだろう。今や我々はビジネスそのもの意味が全く異なり、労働そのものが非人間的な苦役と化そうとしている時代にさしかかっているからだ。

だが、ロシアビジネスの場合は、さらにそれに輪をかけて別種の危険が増し加わることになる。まず第一に、ロシア人は一般的に約束を守らないことで有名である。たとえば、仮に日ロ政府間で正式に合意が交わされ、シベリアに何かのモニュメントの建立が決められたとしよう。それでも、ロシア企業は、必要な資材の納期を一年間先延ばしにしても平気である。契約違反と言われようが、全く意に介さず、どうせ自分たちの他に頼る相手などいないだろうと言わんばかりに、追及されてもダラダラと言い訳を並べ、あるいは情に訴えて真相をごまかそうとする。そのくせ、自分に有利な条件を引き出すための交渉には余念がなく、平気で取引相手を出し抜き、利用する。

したたかで、狡猾で、平気で約束を反故にし、常に勝ち馬に乗ろうと、それまでの仲間を捨ててでも強い者に寝返る。こうした手法について、ロシア人に恥を知れと言っても無駄なことである。ロシア人にはこうした方法が、モラルに反しているという認識はない。取引や交渉の進め方について、同じ土台に立てないのであるから、お人好しの日本人には、彼らのしたたかさに太刀打ちする術はないと言って差し支えない。もしどうしても太刀打ちしたいならば、相手にまさるヤクザ的手法を身につけて恫喝するしかない。

だから、こうしたことの自然の成り行きとして、ロシアビジネスに長年、関わっている日本人は、次第に性格がロシア化して行く。見栄と出世だけが全てだとでも言うかのように、とてつもなく厚かましく、尊大で、利己的で、傲慢になり、かつて持っていたはずの礼儀正しさやつつましやかな謙虚さや誠実さを失って、態度からもはっきりと分かるヤクザ者となり、他者の功績を平然と盗んだり、横取りし、あるいは嘘をついて、ルールを破り、同僚を出し抜き、貶めても平気な人間と化してしまう。そして、たとえ自分の非を突かれ、失敗を突きつけられても、頑なに認めず、謝ろうとしない。どこまでも言い訳を並べて居直るか、同情を引き出して言いぬけようとする。

むろん、以上のようなロシアの実情に心を痛めているロシア人もいないわけではないであろうが、それはあくまで例外に過ぎないことが問題だ。ドストエフスキーも、レフ・トルストイも、すべて例外的なロシア人であり、彼らの文学は当時のロシアの現状に対する深い絶望感から生まれて来たものと言っても過言ではない。我々は、ロシア文化のうわずみのような良いところだけを見て、これがロシアだと断定し、国全体を美化することはすべきではない。

筆者は以上のような現状を見つつ、ロシアとのビジネスを発展させても、我が国にさして利益があるわけではない、と結論づけている。これほど長い間、この分野に発展がなかったこと自体、理由のないことではなく、誠実に約束を履行できない相手と取引することは無謀な行為でしかない。これまで我が国にかの国と平和条約の締結がなかったのはむしろ当然で、幸運なことだったのではないか。ロシア人が誠実に物事に対処することを学ぶまで、ロシアとの友好など我が国には要らないのである。


・ロシアの抱える「被害者意識」と歪んだメシアニズム――他文化の絶え間ない「借用」と侵略によって、国力を強化し、傷ついた自己イメージを救おうと試みて来たロシア

ロシアという国は飽くことのない権力闘争に生きる不幸な国である。すでに書いたことであるが、ロシアにアルコール中毒患者が多いのも、あまりにも過酷な権力闘争の中で打ち負かされて、心破れたロシア人男性が多いためであり、ロシア人女性は美しく心優しいと言われるが、その優しさとて、以上のような自国の厳しい現状の只中から生まれて来た一種の諦念と結びついた同情でしかなく、自分よりも弱い者に対しては同情的かも知れないが、決して真の独立や自立を目指す心意気を生まない。

これまでの記事の中で、筆者は、ロシアという国は、文化も借り物ならば、宗教も借り物、およそすべてが借り物で成り立っている、存在そのものがフェイクに近いような幻の国だという、ある種の極論めいた結論を述べた。そのフェイクに近い国が歴史上、ずっと絶え間なく拡大・膨張政策を取り続けて来たことに、ある種の不気味さがある。今回、なぜそのようなことが起きているのか、ロシアという国が自己意識の深層で抱える問題について詳しく考えてみたい。

まず、ロシアという国は、自国にとって有利で、国家の威信を強めてくれそうなものであれば、どんなものでも、他から平然と「借用」する国である。その例は枚挙に暇がない。ロシアの大都市圏で誉め讃えられるヨーロッパ的町並みは、ロシアの近代化のためにピョートル大帝時代に輸入されたものであり、キリスト教も、ロシアを周辺国に一流の国と認めさせるために、国家の威信強化を目的にビザンチンから借用されたものである。ウラジーミル大公の命令によって、それまで民間の異教信仰に頼って生きていた多くの農村の民衆までもが、教義さえ分からないまま、無理やり洗礼を受けさせられ、キリスト教徒に改宗させられた。こんな強制的な集団改宗の有様を見るだけで、それがロシアがうわべだけ「キリスト教国」を偽装するための儀式に過ぎなかったことは明らかである。さらに、ソ連時代にロシアが取り入れた共産主義思想も、ヨーロッパからの輸入である。マルクスは、社会主義は資本主義の発展の結果として起きるものだと考えていたので、自らの思想の最初の実験場が、当時、ヨーロッパには経済的にも文化的にもかなり遅れを取っていたロシアに定められようとは、想像してもいなかった。

マルクス主義思想も含め、このようにロシアが、自国を飛躍的に「世界一」へと高めてくれそうなアイテムであれば、他国に先駆けてでも、それを導入した理由は、ロシアがそれまでずっと自己意識の深層で持ち続けて来た傷ついた国家のイメージ被害者意識の裏返しであったと言える。自国のアイデンティティの根幹で、傷ついた自己意識、被害者意識を持ち続けていたがゆえに、他を凌駕して世界一の存在に躍り出ることで、世界を救済し、劣等感を払拭し、雪辱を果たそうとする歪んだメシアニズムの思想が生まれたのである。

マルクス主義などは、ロシアという国がこのようにもともと深層で持っていたメシアニズムの思想が表面化するときに取った形態の一つに過ぎない。プーチン氏の目指す「強いロシア(の復興)」にも同じ思想が表れており、おそらくは、こうした思想は今後も二度、三度と、現れて来るものと思われる。

さて、以上で見た通り、ロシアが他国の優れた文化や思想や宗教を、自国に「借用」しようとするのは、それらの優れた価値に本気で学ぶためではなく、むしろ、それらの価値を表面的に取り入れることで、一流国の仲間入りを果たしたかのように見せかけ、自国の威信を強化する目的でしかなかった。だから、こうして行われる改革や変化はいずれも、対外的に見栄を張る必要のためだけに行われるものであって、ロシアという国の歴史や文化の只中から必要に迫られて生まれて来たものでない以上、ロシアという国に本質的に根差すことなく、根本的な変化をもたらすものとはならなかった。それでも、一流国であるために、昨日までの民衆の生き様を根底から覆し、自国のそれまでの歴史や文化の価値を根こそぎ否定してでも、急激で極端な改革を実行しようとすることが、ロシアの歴史には度々あった。このように、ロシアにとって、自国が他国に比べて引けを取らず、周辺国と対等に肩を並べ、これらを凌駕する存在となることこそ、いつでも第一義的な課題であり、その目的の達成のためならば、他国の持っている優れた価値を強引に剽窃したり、自国の歴史や文化の連続性を無視してまでも、他文化の物真似に走ることも辞さないのである。すべての価値が、民衆には還元されることなく、ただただ国力の強化、国家の威信の増強へと吸い尽くされて行くところに、この国の不幸が存在する。

このような現象は、国家的なアイデンティティをいたく傷つけられ、ひどいコンプレックスを抱えている国にしか起き得ない事柄である。自尊心を失い、心傷つけられ、本当は自分は一流国でないという劣等感に苛まれていればこそ、借り物の衣装を身にまとってでも、自分を一流国であると認めさせたいのである。軍備の増強と、国家の拡大・膨張政策(マッチョイズム)に走ることで、真の自分自身から目をそらさざるを得ないのである。

うわべだけ他者の真似事に走っても、決して本質では一致することはできないが、かりそめにも自分はエリートの一員となったと思うことで、傷ついた自己を慰めることはできる。こうして、他者のやり方を真似ることで、他者にあたかも自分が仲間であるかのように見せかけて油断させておいて、本心では、自分にひどい惨めさとコンプレックスを味わわせた他者を打ち倒そうと考えながら、その内心を隠して、友好を装ってその相手に近づき、やがて相手をぱっくりと飲み込んでしまう。何しろ、本家本元が消滅していなくなってくれれば、自分をフェイクだと主張する者もなくなる。それが他国とのロシアの絶え間ない争いの歴史であると言えるのではないか。キリスト教の中においてさえ、ロシアには、カトリシズムを堕落したものとみなすあまり、ヨーロッパのキリスト教全体を侮蔑し、自国のキリスト教こそが世界で唯一正しいと自負する思想が存在した。このような優越意識は、劣等感の裏返しとしてしか決して生まれて来ないものである。

筆者は歴史家ではないので、モンゴルによる統治時代に、ロシアに対してひどく残酷な所業が行われたという言い伝えの中に、果たして誇張はないのかといった点についてここで争う気はない。だが、重要に思われるのは、仮にロシアの傷ついた自己意識が、それ以前から持ち続けられたものであったとしても、異民族の占領・統治下に置かれ、国が消滅に近い状態となったタタールのくびき時代の歴史的な記憶が、今日までも、ロシア人の心に大きな屈辱感・劣等感、被害者意識を生む一因となっているのではないかという疑いである。さらにもっと重要なのは、このタタールのくびきを跳ね返すために、ロシアは精神的に敵(モンゴル)と同化し、モンゴル的統治方法を己が内に取り込んだのではないかということである。

ロシア人の多くは、屈辱的なこととして決して認めたがらないであろうが、以上のような指摘はすでになされているものであり、モンゴルによる制圧時代に、事実上、モンゴル人とロシア人との混血が進んだだけでなく、両者の文化が混合し、異質なものが混ざり合い、ロシアにとって、モンゴルとの一体化という後戻りできない変化が起きたのである。

何よりも、ロシアという国を今日まで特徴づける、強大な中央集権的な国家権力による圧倒的な民衆支配の原型は、まさにこのモンゴル統治時代にこそ生まれたのではないかと想像せざるを得ない。なぜなら、このような統一的な政権は、絶えず諸公が分裂していたキエフ・ルーシ時代にはまだ見られなかったものであり、こうした中央集権的な政権そのものが、モンゴルの統治方法の借用であると見受けられるためである。ロシアはモンゴルの抑圧から脱するために、モンゴル以上の強力な国家権力を打ち立てねばならない必要に迫られており、そのために、モンゴルの統治手法を己が内に取り込むことで、これを跳ね返す必要があった。ロシアはモンゴル貴族との婚姻によってモンゴル支配に微笑みながら友好的に協力の手を差し伸べ、これと協力し同化する風を装いながら、これを飲み込んで、相手を打倒して立ち上がった。以後、ロシアの歴史は、モンゴル的な占領・拡大政策と、それ以前からずっと続けて来た絶え間ない「借用」の連続である。

こうして、タタールのくびきは終了し、敵は弱体化し、駆逐されたが、それでも自分たちは踏みにじられ、痛めつけられ、今も絶えず脅かされている弱者だという被害者意識はなくならなかった。その弱者性と屈辱感と恥の意識を覆い隠すために、より一層、国家権力の強化に励み、他国を凌駕しようとの強迫観念から抜け出せなくなったのが、それ以後のロシアなのではあるまいかという気がしてならない。

とにかく、ロシアという国の国家観の根底には、自国の発展と威信強化のためならば、自国民や他国や果ては世界全体がどうなろうとも構わないといった発想があるように思われてならない。なぜ彼らはそこまで「国」というものの強化にこだわるのか? 強迫観念のようなこの思想は、タタールのくびきをきっかけに生まれたものではないとしても、かつて異民族の統治下に置かれて、自国が占領され、抑圧され、消滅同然となった時代に、より強化され、こうして傷つけられて失われた国家の自己イメージを今も引きずり、絶え間ない恐怖と屈辱感に脅かされているために、その傷ついた自己を救うために、永遠に自分を脅かす敵がいなくなるまで、世界征服を模索し続けねばらないという思い込みが生まれているのではないだろうか。

このような批評を「あまりにもひどい一方的で根拠なき感情的な決めつけだ」と考える人がいるならば、ロシア人がかつてシベリアの強制収容所でどのような生活を送ったのか、その記録を読んでみれば良い。同胞同士がどれほど憎み合い、殺し合い、貶め合ったかが分かるであろう。何よりも国力強化のために、このように憎悪すべき強制収容所群島を国中に作り上げ、自国民を徹底的に虐げ、収奪するシステムを完成させたこと自体、ロシアにおける「国」の概念が、どれほど恐ろしく歪んでいるかをよく物語っていると言えよう。

そして、大変、残念なことに、ロシアという国の持っているこのように傷ついた自己イメージ、被害者意識、それを跳ね返すために生まれて来る歪んだ世界征服の夢(メシアニズムの思想)は、かなりの部分がほとんどそっくり、今日の我が国の国家像にも当てはまるのである。

* * *

・安倍氏とプーチン氏に共通する「被害者意識」と、これを跳ね返すためのマッチョイズムとしてのナショナリズム

ソ連が行ったシベリア抑留や、北方領土の占領、またロシアの社会主義化などの出来事のために、我が国では、相当長い間、ロシアに対する不信感が国民に根付いていた。また、プーチン政権に対する我が国世論の批判や不信感も、つい最近まで相当に根強いものがあった。それが激変するのは、明らかに、安倍政権になってからのことである。安倍氏がプーチン氏との個人的な親密さを積極的にアピールしながら、領土問題の解決を自分の手柄にしようと動き出してから、それまで暗黙の了解となっていたロシアへの不信感が、世間で語られなくなって行ったのである。

何度か書いて来たことであるが、安倍政権の思想的特徴は、プーチン政権と本質的に同じである。また、人間としての両者の人格的な欠点も非常に酷似している。彼らには、一部では、サイコパスや、自己愛性人格障害といった評価も向けられているが、それも当然であろう。飽くことのない権力欲、人前で栄光を受けることを愛してやまない名誉欲、困っている人間には同情的なそぶりを見せながらも、人の弱みをとことん利用して出世の手段として行き、その陰で反対者は容赦なく力で抑圧し、駆逐して行く。非情さ、冷酷さ、猜疑心、復讐心の強さ、などは互いに似通っている。
   

安倍政権によるメディア懐柔・統制はすでに批判を浴びて久しいが、プーチン政権に逆らって殺害されたり、不明な死を遂げたジャーナリストの噂も絶えない。

日曜未明、あるジャーナリストの不審死と、先を行く205人のジャーナリストの死 (2016年8月29日)(HKennedyの見た世界から)

「ヴラジミール・プーチンが大統領に就任してからのロシア、及びロシア連邦で暗殺されたり、不審死を遂げたジャーナリストの数は205人に上ります。」

プーチン政権下、暗殺されるジャーナリスト達 

  
安倍氏がしきりにプーチン氏を評価するのは、ただ単に同氏が領土問題をきっかけに脚光を浴びたいだけではない。その接近には、何よりも、両者の持つ思想的な親和性が影響しており、安倍氏の目指す理想的な統治像が、プーチン政権にこそあることが影響している。

安倍氏の目指す「美しい日本」像は、プーチンの掲げる「強いロシア」と本質的に同じなのであり、それは我が国においてかつて否定され、退けられた軍国主義・国家主義の再来を意味する。

両者の思想的な親和性がどこから生まれているのか、その理由は、安倍氏と密接な関わりのある統一教会の思想を考慮しても、理解できることである。すでに述べたように、統一教会はかつて「共産主義の脅威」に対抗することを目的に掲げながら、共産主義との闘いの過程で、政敵からすべての忌むべき手法を自分自身の内に取り込んで行った。統一教会が共産主義と一体化した過程は、統一教会の組織である国際勝共連合の掲げる「核武装」や「憲法改正」、「スパイ防止法」などのスローガンが、すべてもとを辿れば共産主義国が実施した人民統制の手段と重なることからも理解できる。これはモンゴル統治を廃するために、ロシアがモンゴル統治と一体化して行った過程とよく似ている。統一教会は、表向きには共産主義と闘っているように喧伝しながらも、実際には、共産主義を手本として、その手段を己が内に取り込むことで、自己の権力拡大の手段としたのである。

そこで、このような全体主義・宗教カルトに関わる全ての人に、今日も、親ロ的な思想が伝統のように受け継がれているのは不思議ではない。KGB出身のプーチン氏の統治方法がソ連時代に極めて酷似していることが示すように、また、日本にいるロシア研究者の数多くが今日も思想的には共産主義に親近感を抱き続けているように、たとえ時代が変わっても、彼らは本質的には今も変わらず共産主義者のままなのだと言って差し支えない。筆者は、共産主義思想ももとを辿ればグノーシス主義思想に行き着くものと考えているが、グノーシス主義とは、元来、被害者意識から生まれるものであって、何よりも「神に対する人類の被害者意識」から発生する思想である。聖書の神によって罪に定められた人類が、被害者意識によって神に敵対して団結し、神の下した判決を覆して自力で自分を無罪とし、名誉回復を遂げようとする思想がグノーシス主義である。

安倍氏には同氏が国家観として持ち続けている「被害者意識」に加えて、個人的なルーツとして持ち続けている「被害者意識」もあり、この二つは安倍氏という個人の人格の中で密接に結びつき、同氏は双方の「名誉回復」を目指している。安倍氏の政策がどれほど対米隷属的だと批判されようとも、同氏のルーツを辿れば、安倍氏が心からの親米派であるとはおよそ考えられないのもそのためである。同氏が望んでいるのは、一時はA級戦犯とされ死刑に処されるかという恐怖を味わった祖父の「名誉回復」であり、それによって自分自身のルーツを「浄化する」ことであろう。だが、そのようにして祖父を名誉回復するためには、どこかで「米国のくびき」を跳ね返すことがぜひとも必要であり、戦勝国によって下された審判を覆して汚名を返上せねばならない。その意味も込めて、ロシアへの接近をはかっているのではないかと考えられる。(だが、以下に書く通り、こうした行為はすべて祖国への裏切りとして、したたかに報いられるであろう。ロシアに接近しても、北方領土の返還にはつながらないどころか、安倍のこうもりのような振る舞いの陰で、同氏は最終的には米ロの両国に裏切られ、敗戦時と同じように、米ロによる新たな日本の領土の占領・分割という悲劇を招くことにもつながりかねないと懸念する。)

さらに、上記したようなロシアが国家像として抱えている「傷ついた自国のイメージ」と、それを跳ね返すために「強い国を取り戻そう」とするスローガンは、敗戦によって「屈辱を受けた」ゆえに、これを「跳ね返さなければならない」と考える、安倍氏を含む日本会議メンバーのような人々の心境にも重なる部分が大きい。

内心では、自国の占領、抑圧、消滅の恐怖を今も持ち続け、歴史的事実のために屈辱感、劣等感に苛まれているという共通点があればこそ、彼らは一人のリーダーのもとで団結する「強いロシア」の国家主義にも親近感と憧れを抱くのである。

ロシア国家が国民性として抱える「傷ついた自己」の本質については、次のような指摘もある。
  

ロシア、アメリカ、日本のナショナリストの抱える危険(HKennedyの見た世界 2016年8月30日、太字、赤字は筆者による)

現在のロシアにあるのは、共産主義というイデオロギーではなく、プーチン大統領を筆頭にしたマフィア集団に政権を牛耳られたロシア・ナショナリズムです。これを要約すれば「すべて周りの国々は我々に対抗している。我々は敵によって周りを囲まれている。我々は強く在らなければならず、プーチンを必要としている。プーチンのみが我々を救う事が出来る」という考えです。

但し、言ってみればこのような主張は、ロシアのナショナリストだけではなく、日本のナショナリストやアメリカのナショナリスト(多くのナショナリストはトランプ支持者です)の間にも広まる『被害者意識』に繋がります。

外国や周辺国が危害を与えようと自分たちの国に敵対しているという『陰謀説』から来る『被害者意識』の蔓延るナショナリズムには、他者(他国)との共存や協力は全て『売国奴』『国の敵』と映ります。ここから考えても、国中にプロパガンダを流してナショナリズムを鼓舞しているプーチン大統領が、外国との連携や協調路線や柔軟路線をとることは無く、又対日外交で言えば、北方領土を返還する意思が微塵も無い事はあまりにも明らかであり、強権を振るうプーチン大統領なら「解決するかもしれない」のではなく、プーチンだからこそ「解決にならない」ことを見極めるべきです。

  
以上の記事では、ロシアの国家の本質は、「すべての国がロシアに敵対している」という「被害者意識」にあるとされる。今日、状況はまさにそれに近いものとなっているので、こうした思い込みは全く根拠がない単なる被害妄想とも言い切れない有様だが、しかし、こうした敵対状況すらも、場合によっては、より深い次元では、ロシアが抱える「被害者意識」が現実に投影されて起きて来たものと見ることもできる。(あるいは、ロシアが己が利益のために、「米国という世界的巨悪に対し、孤立状態に陥ってでも、決然と立ち向かう勇敢な一国」の姿を好んで演出しているという見方もできる。)

だが、このように「周辺国から敵対されている」という被害者意識・危機意識は、「中国の脅威」などをしきりに煽る安倍晋三の「被害者意識」とも共通するものがある。両者ともに、「自分は脅かされている」という危機感から抜け出すことができず、他国に対する不信感・敵意・不安を煽ることによって、それを自己の政治権力強化の手段として行く点は同じである。仮想敵を作り、対立や被害者意識を煽ることによって、「強い統一的なリーダーのもとに国民が一致団結し、国家を強力な防衛の砦としていくこと以外に、我が国民が身を守る術はない」などと訴え、国と自分自身を同一視し、自分という政治的なリーダーの下に国民を集結させようとする政治手法は極めてよく似ている。

こうした人々にとっては、平和が訪れるよりも、敵が存在し、国が危機に晒されているという恐怖感が絶えず国民の間に存在する方が好都合なのである。

かなり古い記事ではあるが、以下のような記事も、プーチン氏個人の世界観をも読み解く鍵となるであろうと思う。「荒海でクジラ撃ちのプーチン首相、「人生は危険なもの」とうそぶく」(2010年8月27日)AFPBB News

全世界が自分に敵対しているという被害者意識を持ち続けていればこそ、こうした人間たちは、人生を絶え間ない権力闘争に置き換え、周囲の人間を「敵か味方か」に二分し、飽くことなく闘争や、スリルに生きることが人生であると捉える。彼らにとっての人生とは、最初から安息の場ではなく、絶え間ない闘争でしかない。このような人間には、他者を信頼するとか、愛することはできない。だからこそ、その証拠に、長年連れ添った伴侶をも離縁してしまうか、家庭内離婚状態となり、家庭に決して平和が訪れないのである。それは彼らが人生の目的としているものが、最初から、家庭の安らぎとは程遠いものだからである。

だが、そのようにして対外的な危機ばかりを煽り、疑心暗鬼から武装を強化し続けていれば、いずれ叫んでいた対立が本当になる日が来ないとも限らない。だから、このような心理的傾向を持つ二つの国の接近は、大変、危険なものであると言える。何よりも、共に被害者意識と疑心暗鬼に苛まれるだけの二つの国の間に、決して真の友情と連帯などあり得ない。あるのは、どちらが先に食うか、食われるか、という問題だけである。


・ロシアはソ連時代と本質的に変わらない――決して北方領土を返還しないばかりか、さらなる領土侵略に及ぶ危険性を考えなければならない
  

侵略国家ロシアは「北方領土」を返さないばかりか北海道の侵略占領を狙う

 「平和条約の締結」は、ロシアが違法に侵略して占領し続けている日本の北方領土を日本に返還し、謝罪と賠償をして、結ばれるものだ。つまり、ロシアが国際法を守り、侵略を否定する「平和愛好国家」に転換したときに結ばれるものだ。だが、そんなことはありえない。ロシアは2008年8月にはグルジアを軍事侵略したのだ。これを、安倍首相のブレーンであり、反米の思想工作を巧みに展開する中西輝政京大名誉教授は強く支持した(私の2013年11月21日脱の文の2節参照)。中西氏は安倍首相の私的諮問機関「安全保障と防衛力に関する懇談会」(2013年9月10日)の委員である。ロシアは、シリアのアサド独裁政権を支援し、化学兵器の原料を提供してきた国だ。

 つまり、 2月8日の日露首脳会談での、<戦後68年間にわたって平和条約がないという異常な状態を終わらせなければいけない>というプーチンの「認識」は、日本国民を騙すための嘘である。同じく安倍首相の「同認識」も、国民を騙すための嘘である。

<略>

 新ロシア帝国は、マルクス・レーニン主義は棄てたが(共産主義では経済を発展させることができないこと、西側自由主義国を騙すため)、ソ連時代のKGBによる国内弾圧体制と、ソ連時代の対外政策=侵略主義を断固として継承したから、国家の本質はソ連時代と同じである。

 ソ連時代の対外政策の侵略主義は、帝政ロシアの対外政策の継承であった。沿海州のウラジオストクは、「東方(日本)征服」の意味である。新ロシアの国章は、帝政ロシアの「双頭の鷲」である。新ロシアの国歌のメロディーは、スターリン作のソ連のものであるし、レーニン廟もソ連時代のままである(中川八洋氏『地政学の論理』17,18頁参照。2009年5月刊)。このように「新ロシア」と称しているが、本質はソ連時代の継承であり、悪の帝国なのだ。

 なによりも、新ロシアの支配者はソ連時代と同じだ。 旧東欧諸国のように、弾圧されていた側が政権を取ったのではない。ソ連共産党の代わりをKGBが担うようになっただけであり、「ソ連崩壊」は、「国家の偽装倒壊」なのである。西側は騙されたのである。

  
「悪の帝国」などという半ば陳腐化してしまった台詞にも見られるように、以上のような記事に、学術的な検証としての価値を見いだすのは困難かも知れないが、しかし、言わんとしていることの趣旨はそれなりに理解はできる。

プーチン氏が、いかに表向きはソ連時代への反省と共産主義と訣別したと宣言し、ロシアが新しい国家として出発したように見えたとしても、実際には、それは見せかけに過ぎず、国家の本質は変わっていないというのである。そのことが、現在のロシア国歌にも表れており、KGB出身のプーチン氏が長期政権を維持している事実にも表れており、レーニン廟が一度も取り払われたことがない事実にも表れているのだという。

そして、ソ連の本質とは、絶え間ない拡大・膨張(侵略)政策であった。それは今も変わらないロシアの国家政策である。別の指摘では、ソ連時代、東欧も含め、ロシアと「平和・友好条約」などといった美しい名前の条約を結んだ国は、ほとんど約束を裏切られて侵略の対象となった。たとえば、アフガニスタンは、1978年にソ連と結んだ善隣友好条約が口実となって、翌年、ソ連に侵攻された。日本はかつて日ソ中立条約に違反して、ソ連からの対日参戦を受けた。こうしたことからも、ロシアにとっては、「中立」や「平和」や「友好」といった名のつく約束は、ただ相手方の行動の自由だけを縛っておいて、自分は約束など無いがごとくに好き勝手に振る舞い、自分にとってのみ有利に事を進めるための裏切りと侵略の第一歩でしかないと見る向きもある。

いずれにしても、ソ連に形式的な終止符が打たれたからと言って、それだけを持って、ロシアという国の、こうした信頼のできない不誠実で裏切りに満ちた歴史的な習慣、ずるくて抜け目のない国民性がなくなったと考えるのは早すぎるであろう。まだソ連時代に学校教育を受けた人々がこの国では若者層を支えている。そうしたことだけを取っても、共産主義のイデオロギーが、体制の変革と共にただちに消え失せたと考えることはできない。

だが、共産主義にこだわらずとも、ロシアという国は、歴史上、強大な国家権力が絶え間なく拡大を続けながら、自国の民衆を容赦なく抑圧するという道を外れたことが一度もない国である。赤の広場はかつてイヴァン雷帝によって人民の公開処刑が行われた場所でもあった。このような悲劇的な過去を持つ国家としてのロシアの本質は、今後も決して変わらないであろうと筆者は考えている。

何よりも、歴史的事実によって傷つけられた自己イメージを、軍備の増強や、国家の威信強化といった表面的な手段(マッチョイズム)で補うとすること自体に無理があるのだ。そのようにして、自己の内面と向き合って、真の健全さ、高貴さを身に着けるために、何が必要なのかを考える代わりに、ただ手っ取り早く他者の持っている優れた価値を強奪したり、仮想敵を作り出すことによって、諸悪の根源が自分以外の何者かにあるように見せかけ、これを口実に軍備を増強し、周囲を屈従させることによって、仮に世界一の座を手に入れたとしても、そんなことで一流国としての気品が身に着くことはない。そうしたことによっては、より一層深い疑心暗鬼と対立関係が生まれるだけで、傷ついた自己イメージが回復されることもなければ、決して本当の安らぎと満足もやって来ない。真の尊厳は、人間の場合も、国家の場合も、等しく内側から始まるのであって、外側から身に着けることはできないのである。

そして、我が国は、敗戦を経て、軍国主義や国家主義とは訣別したはずであるが、「お上」を至高の価値とする以上の価値観を未だ持てず、何事も個人から出発せず、「お上」から出発してしか考えられないない点で、ロシアと同じような精神的遅れを抱えて今日に至っている。そして、かつて大国になろうとして失敗したという汚名を返上するために、より一層、強い国作りに励まなければならないという強迫観念に駆られている点でも、ロシアと似ている。国家としての自信、品格、プライド、尊厳などを、内側から支えるための真の心の支柱を未だに持てず、それを外側からの「借り物」によって補強しながら、「国家」だけをハリボテのように増強し、今またいつかきた道を逆戻って行こうとしている点で、我が国はロシアと非常によく似た病理現象に陥っているのだと言えよう。

このように欠点を同じくする者同士が、己が欠点には目をつぶりながら、互いを誉めそやし、美化し合って、手を結んだ日には、今まで以上の悲劇が起きるであろうと予測するのは当然である。このような光景に対して、筆者がかけられる言葉は次の一言だけである。

「悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。」(テモテ3:13)

だから、筆者は、我が国がロシアに接近することは、我が国にとって何のメリットもなく、それどころか、有害な結果をもたらすだけに終わるだろうと確信している。安倍政権がこれまで推進した政策のうち、どれ一つとして、我が国の国益にかなったものはなかったが、とりわけ、ロシアには北方領土を返すつもりなど微塵もない。北方領土を餌にして、我が国はロシアの国益のために仕えさせられ、シベリア・極東開発に存分に利用されるだけで、したたかに欺かれて終わるであろう。それくらいであればまだ良いが、米ロの間に本当の対立が起きた日には、我が国はどちらからも裏切られ、国土が真っ二つに分割されるなどという悲劇にも巻き込まれかねない。そうなった日には、シベリア・極東開発という名目で現地に送り出された我が国民は、シベリアに取り残され、帰国もかなわなくなって、またも第二のシベリア抑留のようなことが起きるだけである。

* * *

・文学的主人公に擬人化されるロシアの傷ついた自己イメージ

エフゲニー・オネーギンの人物像には、ロシアという国の一般的な国民性、また国家観が象徴的に込められていると筆者は見ている。むろん、これは文学的な創作の主人公であり、同種のアンチヒーローとしての「余計者」の系譜は、オネーギン一人では終わらないのだが、オネーギンの人物像は、「傷ついたロシア」の自己イメージを非常に簡潔に象徴的に体現していると言えるのではないかと思う。

オネーギンは、上流階級の出身であるから、うわべは立派で、紳士的で、教養や知識もある前途有望な青年である。ヨーロッパの水準に比べても劣らない立派な教養人であり知識人の紳士であるように、人目には映ることであろう。何よりも、彼は世渡り上手で、空気を読むことに長けており、社交の場では自分を上品に、賢く、魅力的な人間と見せかける術を持っている。彼は人の心を上手に掴むことができる。だが、それは計算づくの行動で、当世風の流儀の上手な模倣に過ぎず、彼の内心は深く心傷ついており、病んで、自信を喪失している。そのため、彼には社会において決して自分のあるべき居場所を見いだすことができず、他者を本気で愛したり、信頼することもできず、人間関係においては、ただ自己の利益のために、相手を期待させて利用しておきながら、したたかに裏切り、傷つけることしかできない。外見は知識人だが、知識人として当然、持っていなければならない倫理や道徳が、彼には決定的に欠けているのだ。

オネーギンにはまだサイコパスとまでは言い切れない、良心の呵責や、ためらいや、後悔も含めた人間らしい感情が備わっているが、それでも、彼の人格は、深い所ですでに致命的な根腐れを引き起こしており、どんな反省も後悔も彼を変えることはできない。彼の傷ついた人格は、決して彼の人生において、あるべき決断をさせず、軽薄でうわべだけの利益になびいて、本質的に重要なものを常に見誤らせ、他者との長続きしない不誠実な関係を結ぶよう仕向けるだけで、彼をどんどん不幸においやってしまう。そのため、オネーギンの人生に巻き込まれた人々は、みな結果的に不幸になる。タチヤーナは一見、優しく誠実な女性のようであるが、彼女の生涯を通じての振る舞いも、オネーギンには何の薬ともならず、彼女はただオネーギンの犠牲者としての立場を抜け出ることはできない・・・。オネーギンに対する処方箋はロシアにはないのである。

オネーギンというのは、単なる創作上の主人公ではなく、「傷ついたロシア」そのものを擬人化した人格だと言えるのではないかと筆者は考えている。同種の人格は、他の文学的創作にもおおむね受け継がれているが、こうしたアンチヒーローは、ただ単に創作上の存在であるだけでなく、ロシア人が国民性として歴史的に常に抱えて来た根深い心理的なコンプレックスと、歪んだ被害者意識と自己憐憫、その心の傷ゆえに、彼らが正しくあるべき関係をどんな他者ともきちんと構築できず、常に嘘や騙しや利用や裏切りといった、他者ばかりか、自分自身にとってもいずれ手痛いツケとなって跳ね返って来るような有害な関係しか結べないという重大な精神的・人格的な欠点を象徴的に示しているように思われてならない。

むろん、すべてのロシア人が同じ人格的欠点を持っていると言うつもりはないが、それでも、こうした人格には、創作の域を超えて、何かしらこの国全体に共通するような深い意味が込められており、ロシアという国の未来が抱える絶望が象徴的に暗示・投影されているように感じられてならない。どんなに個々のロシア人が誠実であっても、国家としての運命全体が不幸であるならば、個人がそれに巻き込まれることを避けるのは難しいであろう。

歴史的に、ロシアの良心的な知識人は、国全体が抱えるこの心理的な傷をどのように克服するかという課題を常に切実なものとして受け止め、ロシアという国から何とかこの不幸の源を切り離して、誠実で温かな心を取り戻して、平和と安息に満ちた国を作ろうと模索した。だが、彼らはその解決方法を見いださなかった。そして、ロシアは国全体として、常に誤った道を選び取ることによって、この問題と向き合うことから目を背けて来たのである。

すなわち、国力のさらなる強化というマッチョイムズへの傾倒によって、己が内面の空虚さ、傷、腐敗を覆い隠し、自己の抱える恐れや劣等感や屈辱感を、うわべだけの模倣や、力によって補強し、他国を制圧することで憂さを晴らそうとする間違った方法を取った。武装することによってしか、人格的欠点を覆い隠せないほどに危険なことはない。傷ついた人格に強力な武器をもたせるのは、周囲にとっては重大な脅威以外の何物でもない。

オネーギンは傷ついた国家、傷ついた国民性の象徴であり、我が国の国民性とも決して無縁とは言えない欠点を持っているのだが、オネーギンと我が国の国民性の違いがあるとすれば、それは我が国にはオネーギンほどの狡猾さ、したたかさがないという点であろうか。もしそうだとすれば、なおさらのこと、我が国は、到底、ロシアのような国を相手にしてはならないと言えよう。もし人生を幸福に送りたいならば、これは決して出会わない方が良く、決して関わるべきでない危険なタイプの人格である。

現在は、米国のやりたい放題の陰で、ロシアが多くのことでいわれなく非難され、国際的に追い詰められているがゆえに、ロシアを被害者のように見て、「可哀想」と考えたり、逆に反米感情からロシアに拍手を送るむきも世間には存在するものと思う。筆者は米国を擁護したいたがために、ロシアのイメージを貶めようとしてこう述べているわけでは決してない。だが、ロシアについては、決してこの国の言い分をいかなる点についても信用しないことが得策であるというのは、歴史があらゆる場面で物語っていることではないかと思う。だから、現状の政治的孤立状態を利用して、この国が自分をあたかも「可哀想な存在」であるかのように見せかけて、被害者のように同情票を得ることもまた彼らの戦略の一環であるから、それに加担しない方が良いと言えるだけである。ロシアはそもそも他国から同情を受けなければならないようなか弱い存在ではない。国家の沽券にかかわる問題については、恐るべき強固なプライドを持って、どれほどのすさまじい犠牲を肯定してでも、面子を守り通そうとする。まさにその途方もないプライドと力こそが、被害者意識と表裏一体をなしているのであって、そのような強さは、本質的には悪であって、決して同情に値するものではない。そのことを見抜けなければ、他国に同情しているつもりが、したたかに利用され、気づいた時には犠牲者にされるだけに終わるであろう。

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