キリストの命にある霊的統治

2019年8月25日 (日)

わたしを信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れるようになる。

「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。

 あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。
 あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。

 聖書にこう書いてあるからです。

 「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。
 これを信じる者は、決して失望することはない。」

 従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、

「家を建てる者の捨てた石、
 これが隅の親石となった」

 のであり、また、
 「つまずきの石、
 妨げの岩」
 なのです。

 彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。
 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。

 あなたがたは、
「かつては神の民ではなかったが、
 今は神の民であり、
 憐れみを受けなかったが、
 今は憐れみを受けている」
のです。」(ペトロの手紙一2:1-10)

* * *

まだ8月も終わっていないというのに、蝉の声がめっきり減って、すっかり秋の気配が感じられるようになった。駆け足で冬がやって来ようとしている。あまりに早すぎる時の流れに、困惑を覚えずにいられないほどである。

さて、前回に引き続き、「重荷を跳ね返す」ことの重要性について書くことから始めたい。これは正しくは、サタンから来た重荷をサタンに跳ね返す、という意味だ。

このテーマを書くに当たり、類似した内容を書いている人が他にいないか探してみたが、見つからなかった。
 
この問題は、注目されていないようだが、キリスト者にとって極めて重要であると筆者は思わずにいられない。

私たちは、日々の十字架として、主から来た重荷を担うべき時がある。その中には、信仰ゆえの試練もあれば、恐怖に打ち勝って前進することが必要な場合もある。

しかし、時に、私たちが負うべきでない重荷が、敵から押しつけられる場合がある。そのとき、私たちは不当な圧迫をもたらす策略を事前に見抜き、その重荷が私たちの手に押しつけられる前に、罠を粉砕して、そこから抜け出すようにしなければならない。

それができないと、人生において長期に渡り、不当な重荷に苦しめられ続けることになる可能性がある。

サタンは責任転嫁の達人である。人をターゲットとして、自己の罪を他人に押しつけ、重荷を押しつけられた人が、あたかもそれを自分のものであるかのように考えて、自らそれを背負い込むよう仕向ける。一旦、背負い込んだら、ますますその荷を重くし、その重荷から二度と抜け出せないように仕向ける。

また、サタンは他人の成果を横取りする達人でもある。私たちが勝ち取った苦労の結果を、まるで我が物であるかのように、栄光をかすめ取ろうとする。

しかしながら、前回、述べた通り、神から来た重荷は、そのような性質のものではない。

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)

だから、私たちは、一口に重荷と言っても、その中には、神が私たちを成長させるために許されて起きた試練と、人を不当に苦しめ、栄光をかすめ取り、人生を停滞させようとして悪魔がもたらした重荷の2種類が存在することに気づき、後者の重荷については、これを受け取り拒否して、サタンにお返しする方法を学ぶ必要がある。

自分の人生にやって来る様々な困難を、どんなものであっても、すべて神から与えられたものとして受け取っていてはいけない。その出所をきちんと見分け、敵から来たものは、敵に担っていただくのが一番なのである。

* * *

 筆者はこれまで長い間、書類作成の仕事をして来たため、書面を作り上げることはまるで苦にならないと思い、訴訟や、各種の法的手続きのために時間を費やすことを、損と思うこともなく進めて来た。

しかし、そうは言っても、今年は、昨年と違い、審理や各種の手続きのために要する時間を、できるだけ省略する方法を考えなくてはならないと思うようになった。

それは特に、相手方が常に締め切りに遅れ、証拠もない支離滅裂な内容の書面を提出して来るのを見て、このような無意味な主張に、いつまでも膨大な手間暇を割いて反論していてはいけないと思わされたためでもある。

それに、筆者の人生が、訴訟から解放されなければならない必要性があることにもようやく気づいた。

訴訟を提起してからというもの、筆者の人生は、ずっと訴訟を中心として成り立って来た。筆者は、裁判所の仕事に心から敬意を払っているものの、今や審理と同じほど重要な仕事ができた以上、今までのように、準備書面を作成するために、仕事を脇に置くことはできない。仕事だけでなく、自分の人生の時間をきちんと守るため、訴訟に割ける時間を配分しなければならない。

とはいえ、それによって、訴訟において成し遂げなければならない事柄を省略するわけにも行かないため、この先の歩みには、神の助けと知恵が必要である。

それにしても、筆者が新たに選んだ仕事は、本当に、主がこれを与えて下さったのだと思わずにいられない貴重なものである。

そのことは、職場で日々起きてくる様々な難題に、筆者が正しい答えを見つけようと努力しさえすれば、常に問題が解消されて行くことを見ても分かる。
 
時に、働いていると、私たちの仕事の成果を、その本来の意味から全くかけ離れたものへと変えてしまおうとする悪しき圧力がかかることがある。真面目に働く気のない人間が、真面目に働く人たちの努力の成果を、自己の怠慢を覆い隠し、他者の栄光をかすめ取る目的のために、横領するように吸い上げ、利用しようとすることがある。

筆者はこれまでの職場においては、そうした理不尽に、立ち向かう術はないとあきらめていた。

なぜなら、日本の多くの営利企業では、労働の成果が個人に還元されず、集団の成果とされるため、そこでは、働けば働くほど、その者が、働かない者の怠慢をカバーすることになるような理不尽な仕組みがもとから存在するためである。

共産主義社会のようなものである。そこでは、無責任で何もしない人間が、最も軽い荷を負い、高い能力を持ち、責任感も強く、会社の行く末を案じ、周囲に気配りができる、最も誠実な人間が、人一倍、重い荷を負わされることになる。

もっと言えば、1人の優秀な社員の目覚ましい働きに、怠け者の5人の社員がたかり、怠け者が、働き者の仕事の成果をかすめとって自己の怠慢を隠すための集団が、始めから作り上げられていると言っても良い状況がある。そして、働き者は、働かない者の怠慢をカバーするために雇用されると言っても良いほどの仕組みがある。

筆者はそのような労働は、真に社会に役立つことはなく、呪われた罪の連帯責任のように、負債を分かち合うことにしかつながらないと考え、これと訣別すべく、「バビロン体系」を脱したのであった。

その後、筆者が携わっている仕事は、もはや以上のようなものではない。だから、筆者は、他人の労働の成果を我が物としてかすめ取ろうとする人々の不当な干渉が起きたとき、これをきちんと排除し、重荷はこれを考えついた本人に跳ね返すことが可能であることに、ようやく気づいた。

そのようなことが可能となったのも、筆者の行う仕事が、基本的に、筆者自身の裁量に委ねられており、他者からの干渉を受けずに、独立した判断を下すことができるためである。

筆者には、裁判官の仕事にどこかしら似た性質を持つ仕事が与えられたと書いた。裁判官の仕事は、独立しており、合議審を除き、単独審では、一人の裁判官の判断によって判決が下されるし、合議審の場合であっても、裁判官一人一人の判断は、独立しているはずである。

その独立性を保つためにも、裁判官は3年くらいのスパンで全国各地を異動している。地域とのしがらみや癒着が生じて、公平な判断が下せなくなることを阻止するためだという。

筆者がかつて属していた宗教団体の教団でも、同じような制度が存在したと聞かされている。牧師が一つの教会にとどまりつづけると、様々なしがらみが生じるため、それは良くないということで、数年間で、教会を転任するという制度が存在したのである。

ところが、今やその仕組みは崩れ、牧師たちは一つの教会に長年、堂々ととどまるようになり、さらにその息子や娘までが、その教会の跡を継ぐようにまでなった。しかし、裁判官が異動している世の中で、牧師たちが転任を拒む理由は、ないという気がしてならない。
 
わずか3年で全国各地を異動して行くのでは、どこにも定着できない寄留者のような感覚も生じるだろう。家族がいても、単身赴任になることもあろうし、子供たちも、学校を転校するなど、荷を負わなくてはならない。全く新たな見知らぬ土地に行って、その日から、何事もなかったように、日常生活を開始することもできまい。

それでも、あえてそのような制度をもうけることで、市民の訴えに対し、公平性が保たれるよう配慮がなされているのである。
 
筆者は、神から与えられた召しに基づき、信仰によって、この地にやって来たため、果たすべき役割がまだ終わっていないうちに、よその土地に移されることはないであろうと考えている。実際に、筆者自身がよその土地に移ろうと試みたことも何度もあったのだが、その試みはすべて頓挫して終わった。

筆者は、こうして異動こそしていないが、これまで仕事に就くときには、一切、コネを利用せず、常にアウトサイダーとして新たな組織の中に入って来た。
 
その原則は、ずっと前から同じである。どんな時にも、すべてを天に任せ、正攻法で、表玄関を通過して来た。さらに、最近は、複数の応募を同時に行うこともやめて、不実な企業に騙されるリスクがあっても、本命一本だけで勝負するようになった。そこで、勝負の全うさは、以前よりも増し加わっていると言えよう。

筆者の人生の原則は、ただ一つの真実だけを追求するというものであり、それは、神との関係、人との関係だけでなく、あらゆる場所において、貫かねばならない原則であると考える。

そこで、職場を選ぶにも、唯一無二の相思相愛の関係が成立しないような場所に赴く必要はないと考えて、不実な応募はしないことに決めた。相手が不実だから、自分も不実であることが許されると思うのは間違いであって、騙す側に回るくらいならば、騙される側に立つ方がましなのである。

その原則が、間違っていたと証明されたことは一度もない。

そこで、第一審が終わり、筆者が裁判所の近くにとどまり、紛争処理を生きるフィールドに定めようと決意したときにも、当然のごとく、筆者はたった一つの仕事にしか応募しなかった。

しかも、その時、筆者は審理の準備のために、数ヶ月も仕事を辞めていたので、無職となっていた。それまでの筆者ならば、そういう状況で、また新たに就職活動を行わねばならないことを非常に苦痛に思い、不利なスタートとして恐れを感じたであろう。

しかし、筆者にはその時、全く恐れがなかった。それだけでなく、生き方を根本的に変え、目指す方向性を変えようという考えがあったので、それはちょうど良い新たな門出にしか感じられなかった。

さらに、筆者の人生には、財布の中身を決して勘定しないという、もう一つの原則がある。ダビデが王になって人口を数えたことが、罪であると聖書に書いてあるように、筆者は自分の財産を数えないことに決めている。

そこで、いつ何をして働くべきかも、すべて天の采配による。明日のことをあれやこれやと思いめぐらし、懸命に自分の残りの財産を勘定して、損がないように立ち回るなどの計算は全くしない。

だが、歴代の宣教師たちの多くが、そうして自分の生計をすべて主に委ねながら、未開の地に赴き、伝道して来たことを思えば、これは何ら例外的な原則でも、不思議な方法でもない。

神の国とその義を第一にして生きるなら、すべての必要は添えて与えられるのであって、何をして生きるべきか、どうやって日々の糧を得るべきかという問題が、私たちにとって心を悩ませるべき第一義的課題ではないのである。

とはいえ、筆者がバビロン体系の中で生きているうちは、常に嘘や、搾取などといった問題から解放されることはなく、それゆえ、絶えざる困難に悩まされたため、筆者は熟慮の末に、バビロン体系そのものを離れることにした。

そうして、判決を手に新たな任務を探し、新たな場所へ赴き、そこで筆者の裁判を担当してくれた裁判官に、どこかしら似た経歴を持つ上司が、筆者を面接し、その場でただちに内定を受けたのであった。

判決が、まるですべての扉を自動で開けるための鍵のようになって、今までには筆者がどんなに努力をしても、得られることのなかった成果として、新たな進路をもたらしてくれた。

筆者は即日にして、これまでに最長の契約期間を得て、給与の額さえ、自己申告するよう求められた。その上司は、筆者の見栄えのしない履歴書に対し、ディスカウントの言葉を発することは全くなかった。

だが、それでも、筆者はこれを最高の満足とはとらえておらず、すべてはまだ始まったばかりで、この現状で満足してしまっているようでは、前進もないと考えている。さらなる自由、さらなる豊かさを勝ち取るために、進んで行かなくてはならない。

バビロン体系と訣別した以上、筆者の仕事の目的は、もはや自己実現、自己顕示にはない。そういう意味で、この干潟は、筆者にとって休息の場所であり、これまでのように忙しない、生きるためにやむを得ず、馬車馬のごとく働くための「労働」の場所ではない。

筆者は、この干潟のはしくれのような職場にたどり着いてから、一見、頼りなさそうに見える小舟に乗って、そこで船頭の一人のようになって、見張り人の役目を果たしている。舟が危ない岩にぶつかりそうになれば、その都度、警告を発するようにしている。

舟は、筆者の警告を聞き入れて、危険を回避している。こうして、筆者にも、何がしかの役目が与えられ、必要とされていることが分かっているうちは、そこを離れようとは夢にも思わない。

筆者の役目は、自分の労働の成果を誇示して、輝かしい栄達を遂げ、誰かを圧倒することにはない。ちょうど主イエスが、嵐が荒れ狂って、舟に乗った弟子たちが安全確保のために狂奔しているときに、船底で熟睡されていたように、誰からも存在すらも気取られないようなさりげない自然な方法で、舟の安全を守ることにある。

このような働き方は、これまでの筆者の人生にはなかったものである。

労働でありながら、それは安息であって、自分にも、他人にも、安息をもたらす働きである。

他者からの不当な干渉を排除し、自分自身の判断の独立性を保ちながら、自己の望む、真に正しいと信じる事柄を成し遂げるために働く。

徒党を組まず、不誠実な試みには加担せず、独立不羈を貫きながら、それでも、自分一人ではなく、仲間の存在がある。

そのような生き方が成り立つためには、他者と連帯せずに、独立して仕事を進められる自由がなくてはならない。しかも、そこに、仕事そのものが持つ深い意味づけ、筆者の判断が生かされる余地、真実を追求することに価値が見いだされなくてはならない。

さらに職場そのものが、そのような追求に価値を見いだし、これを評価できるところでなくてはならない。

そうした希少な条件が揃った「干潟」が、筆者の人生に出現した。それはまだ完成に至っておらず、本領も発揮しておらず、真の姿には至り着いておらず、船出したばかりであるが、完成体を表す萌芽のようなものが、はっきりと見出され、そこには、筆者と似たような理念、似たような価値観を持つ人々が集まっている。

だから、筆者は彼らと同じ船に乗って、この船の向かう方向性に期待をかけて、そこにとどまっている。おそらくは、一生のつきあいになる可能性もあるのではないかと見ている。

このようなことは、筆者の人生にはこれまで起きたことがなかった。一審で得た判決が、筆者を呪いの言葉から解放し、目に見えない宝を与え、新たな扉を開くための手形のようになってくれたのである。

こうして、筆者の目指す命の川の流れが少しずつ出現している。これはこの先、何年間もかかって完成に至る大型プロジェクトの始まりであって、筆者は地下から大量の生ける水を汲み出すための目に見えない大型パイプラインを建設している最中である。

その生ける水は、筆者が訴訟の最中、裁判所の地下に流れていることを偶然にも発見したものである。訴訟において、筆者は小さな井戸を掘っただけであったが、それだけでも、確かにそこに生ける水が流れていること、これを地上に汲み上げる方法があることが分かった。そこで、筆者は、裁判所の飛び地になっている干潟を探して、これを中継し、地下から地上にこの水を大規模に汲み出すためのパイプラインを作り始めたのである。

もちろん、これは比喩であるとはいえ、比喩とは言い切れない部分がある。判決には人を解放する力があり、人々の切なる訴えが集積している裁判所は、天に向かって人の訴えが届いている場所でもある。人間に過ぎない裁判官も、人々の悲痛な訴えに耳を貸し、自由と解放を与える判決を書くが、神もそれをお聞きになっていることを筆者は疑わない。
 
筆者の抱える訴訟においては、まだ第二審の最初の期日も開かれていないが、筆者の主要な関心は、もはや個人的な係争にはない。警察における手続きも、控訴審の行く末も、筆者の新たな仕事も、やがてはすべてがパズルのピースのように絶妙に組み合わさって、今までになかった新たな形が生まれて来るだろうという気がしている。

今はまだそれがどういう形で起きるのか分からないが、少なくとも筆者は、これまでのように、返済してもしても埋め合わせることのできない負債を返すというむなしい働きのために生きているのではない。ゼロからプラスを構築し、真に正しいと信じられる目的の実現のために働いている。

こうして、干潟に流れるうたかたのように、泥水の中に身を横たえて、上から光を当てられる瞬間をただ待っていただけの、影に過ぎない存在であった筆者が、今や干潟に光を当てて、神秘的作用を自ら引き起こす側に回ろうとしている。

どうしてそんな役目が筆者に回って来たのかは分からない、だが、これはとても光栄な働きであって、何かしら途方もないことが、これから起きようとしていると感じる。筆者はその瞬間に向かって、一人ではなく、他の人々と共に手を携えて進んでいる。

* * *

筆者は10年ほど前、夜行バスに乗って、横浜の街を幾度か訪れた時のことを思う。その頃、この街は、筆者にとって、まさに生ける水が泉となってわき出すために用意された特別な街のようであった。

早朝になって、窓から外の景色を覗くと、窓を開けたわけでもないのに、命の水の流れが、地下だけでなく、地上においても、大気の中に溶け込み、新鮮な空気となって、上から降り注いでいるように感じられた。

駅を歩くだけでも、筆者はこの泉の気配を感じずにいられないほどであった。その頃、筆者は、キリスト者の集会の中に、命の流れの源があるのだと思っていた。兄弟姉妹と共に、手を携えて、これからその泉を地上に流し出す仕事をするのだと考えていた。

その読みは、誤ってはいなかったのかも知れない。だが、その命の流れは、間もなくせき止められ、バリケードで塞がれ、これを受け継ぐ仕事は、筆者にバトンタッチされた。筆者は彼らの舟から失格者のように降ろされたにも関わらず、その仕事は、まさに筆者に受け継がれたのである。

それから何年も経ち、主イエスがスカルの井戸でサマリヤの女に出会われた時のように、筆者は誰も見向きもしないみすぼらしい干潟のほとりで、再び、この泉を発見した。その時、筆者には分かった。生ける命の水の泉を発見する秘訣は、へりくだりにあるのだと。

私たちが、人に捨てられ、誰からも見向きもされず、関心も持たれず、徹底的に侮られ、嘲られ、踏みつけにされ、孤独と、悲しみに暮れて、真のへりくだりに達しないことには、主イエスも、私たちの前に、姿を現すこともできないし、私たちを救うことも、手を差し伸べることもできない。

なぜなら、私たちはあまりにも強すぎて、自信満々で、独りよがりに陥り過ぎていて、常に自己過信し、自己充足し過ぎているためである。その自己過信が取り去られ、自己充足が打ち破られて、私たちが心から本当に主を求めないことには、神でさえ、人をどうすることもできない。

筆者が裁判所から離れたくないと思うのは、いつまでも訴訟にとらわれ、争いを続けたいがためではない。そこで学んだへりくだりから離れたくないためである。自分が最も低くされ、孤独であり、寄る辺なく、助けがなかった時に、神が筆者を見捨てられず、筆者の訴えを取り上げて下さり、筆者を迎える場所を用意し、必要な措置をすべて講じて下さったことの恵みを、片時も忘れたくないためである。

地上の裁判官は、人として束の間、この事件を担当してくれ、一瞬の出会いがあったに過ぎず、地上で筆者が得た判決文の文字も、完全なものであるわけでもない。それゆえ、係争は終わっておらず、判決の約束さえ、未だ完全な実現を見ていない。だが、そんなこととは一切関係なく、神ご自身が、この出来事を通して、筆者の前を通り過ぎて行かれたことを、筆者は忘れたくないし、その感謝に満ちた出来事を、終わらせたいとも、思っていない。

パイプラインの建設が完成に至るためには、おそらくは筆者自身が、第一審が開かれていた時と同じように、絶えず自己を無の立場に置いて、低めることが必要になろう。それは、筆者がただ神にのみ希望を見いだし、自分の何もかもを脇に置いて、この街にやって来た時と同じ心境である。

その頃の筆者は知らなかったが、そのようにして筆者がこの地に招かれたのは、その後、筆者が人の目に偉大な事業を成し遂げるためではなく、その後も、同じへりくだりの中にとどまり続けるためであった。

だから、現在、筆者は、自分が解放されたからと言って、これまで通過して来た大いなる試練を忘れたいとは思わない。最も重要なのは、筆者が解放されたことそれ自体ではなく、筆者を解放しようとして、あらゆる手を尽くしてくれた人々が存在すること、また、彼らの配慮を通して、神の豊かで憐れみに満ちた采配が、今も筆者に降り注いでいることなのである。

だから、筆者は、そのことを心に刻みつけておくために、あえてこの思い出深い場所を離れたくないと考えている。人が苦難の中に、いつまでもとどまり続ける必要は全くないが、人の心の泉は、苦難によって、人の魂に刻みつけられた裂け目から、流れ出す。神に出会うためには、私たち自身が、神と同じほど己を低くすることが必要で、それがなければ、私たちが飽くことなく求めている幸いも、自由も、解放も、決して私たちの人生に真にもたらされることはないのである。

渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れるようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)

2019年6月29日 (土)

私ではなくキリスト―どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために取り成してくださるのです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。

「わたしたちは、あなたのために、
 一日中死にさらされ、
 屠られる羊のように見られている」

と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にあるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:31-19)

さて、今回は、人の心から恐れの暗がりを取り払うことの必要性について書きたい。

当ブログでは、毎回、裁判の話題に熱中している。書いても書いてもテーマが尽きないほどに、訴訟を提起したことにより学んだ内容が多かったためである。

たとえば、物事を光の下に晒すことの重要性に改めて気づされたのも、訴訟の最中である。

人の記憶の中には、しばしば、自分でも光の下に持ち出すことがためらわれる多くの事柄が存在する。誰にでも、できれば語りたくない、人の目にさらしたくないと思う様々な出来事が存在するだろう。だが、そうした出来事も、かえって公然と光の下に持ち出すことで「解毒」できる場合がある。
 
裁判で取り沙汰されるほぼすべての事件は、それ自体、誰にも明るみに出すことがためらわれるような出来事ばかりである。

だが、事件をあえて人の目の前に持ち出し、裁きに委ねることで、悪しき影響力が焼き尽くされるようにして消失し、無効化される場合がある。
   
こうして人前に持ち出されなくとも、人の心には、誰しも、自分で気づいていない暗がりが存在する。それはちょうど部屋の中で、照明が行き届いていない、埃っぽく暗い片隅のようなものだ。暗がりの度合いも様々で、真っ暗闇のこともあれば、薄暗がりの場合もある。

この暗がりは、人の心の恐れと直結している。外からやって来る様々な良からぬ思念や影響力がこの一角に吹き寄せられる。思いがけない不安、良からぬ想像、悪い予感、悲嘆、失意、落胆、様々なネガティブな思念が、この一角に吹き溜まりのように寄せ集められるのだ。
 
だが、どんな暗がりであろうと、心の中に暗闇を残しておくことは望ましくない。そこで、心の大掃除をして、自分でも気づいていない恐れを払拭・克服することは重要である。

筆者が最近気づいたことは、人生に起きる様々な出来事は、それが良いものであろうと、悪いものであろうと、(特にクリスチャンの場合)、その人自身の意識的・無意識な許しのもとでしか起きないということである。

それはごく些細な事柄から大きな事件に至るまで、すべて同様である。特に、信仰者の場合にはそれが当てはまる。なぜなら、クリスチャンはすでにサタンの支配下から連れ出され、愛する御子の支配下に入れられているため、クリスチャンの人生に起きる一つ一つの出来事は、信仰によってコントロールが可能であり、決して、この世の人々のように、不可抗力に翻弄されることはないためである。

たとえば、筆者はペットと田舎道を散歩している時に、危険な大型ダンプカーがそばを通り過ぎることに危機感を募らせていた時期があった。

しかし、何度も散歩しているうちに、いつどんな車とすれ違うかまで、自分の無意識的なコントロールを及ぼせることがだんだん分かって来たのである。

むしろ、いつ危険な車とすれ違うかと、常にびくびく警戒しながら散歩していることで、かえって散歩の時間を無益な心配に浪費してしまう。そういう恐れを克服し、安全な散歩時間を「自ら創造する」ことが実際に可能なのだということが分かり始めたのである。

一体、ヴィオロンは何を言っているのか、気でも狂ったのだろうかと、信じない人々は信じなければ良いが、いずれにしても、人は自分の人生に起きる出来事の多くを、自分自身の心に恐れによって自ら招いている部分がある。
   
多くの人々は、自分の人生の未来について、ああなると困る、こういう出来事が起きるといけない、などといった様々な悪しき想像を巡らし、これを常に心の負担としながら、自分自身が人生の主人として、堂々と道の真ん中を歩いて行く権利を自ら失っているのである。
 
堂々と安全に散歩するために、まず排除しなければならないのは、こうした様々な悪しき思念である。

これはもちろん比喩である。筆者は、人の人生におきるすべての出来事が自業自得だと言って、不運な事件に遭遇した誰かを責めたいがために、このようなことを書いているわけではない。
 
たとえそうした出来事が起きても、人は必ず自分の心の中で、その出来事と取っ組み合って、これを昇華せねばならないのであって、さらにもっと言えば、そのような出来事に見舞われるよりも前に、まずは自分で自分の心の恐れの暗がりを取り払い、悪しき思念を、それが実現するよりも前に、道の脇に退避させなくてはならない必要性があることを説いているだけである。

退避せねばならないのは、私たちではなく、ダンプカーの方なのである。いや、もっと正確に言えば、ダンプカーに遭ってしまうかも知れないという恐れや思念自体に、道の脇に退避してもらわなくてはいけないのである。

こうして、心に不安を抱かせる思念、無意識に沸き起こる不安などを征服し、これを自分で道からどける作業が必要となる。

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」 (箴言4:23) 
  
初めのうちは、方法論が分からないので、不安を交わすだけで精一杯であろうが、そのうち、散歩中の対向車を「未然に」撃退する秘訣が分かって来る。

この方法論は、すべてに当てはまる。たとえば、当ブログで前々から書いて来た通り、訴訟などにおける被告の行動は読めないし、反訴や、提訴、控訴の可能性などを、予めコントロールするなど誰にも不可能に思われるだろう。

しかしながら、これも道を通りかかるダンプカーと同じで、すれ違いを未然に阻止した上で、道の真ん中を堂々と歩いて行くことは可能なのである。
 
つまり、敵の攻撃をどこまで許すか、許さないかといった問題も、実はすべて私たち自身の心にかかっているのである。

もちろん、すべての戦いを最初から何もかも避けて通ることができるわけではない。むしろ、真正面からぶつかり、戦いに挑むことで、初めて心の恐れを克服、征服、撃退することが可能となる場合もある。

初回からすべての悪しき不運なすれ違いを完全に避けて通れるなどとは考えない方が良いであろう。
 
だが、そうこうしているうちに、戦いは目に見える形となって現れるよりも前に、「もし・・・したら」という悪しき思念の形ですでに自分の心で起きていることが分かって来る。

相手がダンプカーであろうと、人間の集団であろうと、方法論は変わらない。すれ違う相手が誰であれ、あなたが窮屈に道の端に幅寄せされることもなく、かと言って彼らと真正面からぶつかって事故になることもなく、自分の散歩時間を安全に守り抜いて、彼らに全く心乱されずに堂々と安全にすれ違うことは可能なのである。

あなたがそうして自分の人生の主人として、堂々と道の真ん中を歩ける日が来るまで、何度も、何度も、あなたは奇妙なすれ違いに遭遇し、それが自分の心のシミュレーションであることに気づいて恐れを征服する方法を学ぶまで、訓練を続けさせられるだろう。

人の人生の主人は、自分自身なのであって、あなたはその主導権を守り抜く術を学ばなければならない。そうでなければ、いつまで経っても、あなたは自分の人生において脇役にしかなれない。招かれざる客や、思いがけない不運な訪問者や、好ましくないすれ違いが、常にあなたの人生の主役であるかのように王座を占めて良いものであろうか。

しかし、人生の主導権を他人に奪われないためには、あなた自身が、自分の心をコントロールする秘訣を学ばねばならない。その秘訣とは、目に見える物事と取っ組み合うよりも前に、まずは、自分自身の心の目に見えない恐れを把握して、これを征服する秘訣を学ぶことである。
 
初めからすべてがコントロールし切れるわけではないので、失敗と見えることも多々、起きて来るかも知れないが、人間的な観点からは間違いと見えることさえも、キリスト者にあっては、安全の中で修正される。

カーナビが運転手がどれほど道を間違えても、目的地を指し示すことをやめることなく、運転手を叱りつけることもないように、私たちの主イエス・キリストは、根気強く私たちの行く先を示し続けて下さるからだ。

クリスチャンの人生は、ナビゲーターである御霊の導きのもとに、変わらない目的へ向かって進んでいる。そこに損失と言える出来事はない。どんなに損失や、回り道や、遅延や、停滞のように見えることがあっても、それも信仰ある限り、キリストの無尽蔵の命によって修正され、覆われて行く。

むしろ、遅延や損失だと考えていた事柄が、逆に後になってから、目的地までにかかる時間を大幅に節約する秘訣に変わっていたりもする。だから、失敗を恐れる必要はなく、停滞や、遅延や、損失や、回り道を恐れることはない。

筆者は、当ブログを巡る訴訟や掲示板に対する取り組みの中で、どれほどひどい迫害や中傷が起きようとも、これを心の中で完全に征服する術を学んだ。

これらはすべて散歩中に道ですれ違うダンプカーのようなものである。何一つその問題と本質的に変わるところはない。従って、それらはすべて起きるよりも前にコントロールすることが可能なのであり、ダンプカーが到来するよりも前に、これを阻止する方法が存在するのだと分かれば、目に見える現象に振り回されることはもはやなくなる。

そういう意味で、筆者は、当ブログを巡る訴訟の第二審が始まるよりも前から、すでにこの訴訟がほとんど決着してしまっていることを感じている。理論的には、これから提示しなければならない内容は数多くあるし、書面を作成するのは相当な時間と手間がかかり、かなり面倒にも感じられるが、霊的には、もはや戦いのほとんどの部分がすでに終了してしまっていることが分かるのだ。

それは、自分の心に沸き起こるすべての葛藤と恐れを克服するという、最も厳しい戦いがすでに終了しているためである。残るは緻密に理論を構築し、争点を漏らさず提示して行くことだけである。

これは昨年の今頃、第一審を提起した時とよく似ている。実は、その当時の最も重要な目に見えない争点は、第一審の最中に争われたような事柄ではなく、筆者がそもそも訴訟を提起するかどうかというアクションにかかっていた。

筆者の側から、訴訟が提起されることを恐れたからこそ、暗闇の勢力からはその当時、とりわけ激しい妨害が起来て来たのである。正直な話、暗闇の勢力は、ネット上でどちらが本当のことを言っているか分からないような中途半端な論争が行われている限り、誰から何を言われたところで、痛くも痒くもない。

だが、訴訟となれば、社会的影響力が及ぶ、はっきりした決着がつくことになる。

だからこそ、妨害が起きて来たのであり、同様のことは、クリスチャンが何か一つの決定的なアクションを起こそうとする前には必ず起きて来る。

たとえば、訴訟を提起すれば、判決を得るかどうかが次なる決定的なアクションとなるだろう。勝訴の見込みがあるならば、当然ながら、判決に至り着かせまいとする様々な妨害が起きて来るのは必至だ。

敵はささやくだろう。あなたの理屈には弱いところがあるのではないか。前例のない争いで、冒険をするのは危険ではないのか。裁判官は本当に味方か。当事者の誰かが控訴すれば、争いが長期化するのではないか。賠償が認められても、支払われなければ意味がないではないか。そんなリスクを負ってまで、戦い抜いて白黒決着をつけることに、本当に合理性があるのか、云々・・・。
 
こうしたささやきは、すべて「心のダンプカー」である。あなたは一体、何を望むのか。どんな目的にたどり着きたいのか。目的地を思い浮かべるより前に、すれ違うかも知れない様々なダンプカーを恐れて散歩を取りやめるのがあなたの第一目的なのか。

むしろ、実際に目に見える出来事が起きる前に、このダンプカーに道を通らせないことが重要である。もしもそれでもダンプカーが通ったら? 意に介さないことだ。二回目、三回目に、同様のことが起きそうになっても、二度と通らせない秘訣を一度目のすれ違いの時にしっかり学んでおくことだ。

その道は、あなたの道であって、ダンプカーのための道ではないのである。

そして、その道は、キリストがその命を投げ打って、あなたのために切り開いて下さった道なのだ。あなたはこれを邪魔者に譲ってはいけないし、誰にも塞がれてもいけない。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6).

いずれにしても、私たちが人生で遭遇するすべての戦いに共通することは、敵はあれやこれやの目に見える人間ではなく、もしくは、目に見える様々な悪しき出来事でもなく、私たちの心に暗闇の勢力から直接もたらされる各種の恐怖にあるということだ。
 
恐怖や悪しき思念が、心の中に吹き寄せられる一角を作らないように、私たちが自分の心を点検し、これを光の下に持って行き、すべての暗がりを取り払って、恐れを無効化する必要性がある。
 
暗闇の勢力の用いる最も主要な武器は、死と恐怖である。そこで、私たちが自分の心を見張り、恐れを征服する秘訣を学ぶことこそ、人生において様々な戦いや困難に勝利するために、第一義的に重要な課題なのである。

2019年4月30日 (火)

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(17)―恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。

13.聖書の神に逆らい、御言葉に逆らうカルト被害者救済活動からのエクソダス(Ⅱ)

人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」(ヨハネ16:2-4)

「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。」(ヨハネ16:13-14)

さて、警察との会話で非常に印象的なことがあった。筆者がこの事件の全容について話し、筆者はもはや犯人が許されることを望んでおらず、厳しい処罰を望んでいる、と述べた時のことであった。

筆者は、それは筆者だけのためではないのであって、神の福音を退け、教会を冒涜し、聖徒らを迫害し、神の教会に手をかけたその罪に対しては、厳しい報いがなければならない、という考えを述べた。

その時、驚くべき相槌が返って来た。

「あなたは彼らは神の赦しを超えてしまった、と思われるわけですね・・・」

筆者は驚いて問い返した。

「まさしくそうです。でも、まだ私が何も言っていないのに、よくお分かりになりましたね?」

筆者は非常に驚いたので、あなたも信仰者なんですか、と問うたが、返事はそうではない、というものであった。だが、筆者は信仰を持たない人間が、この話を聞いて、以上のような発言をしたことに、心から驚き、その言葉を心に留めた。

彼らが神の赦しを超えた、という言葉は、2009年に杉本が初めて筆者と当ブログを1千件のコメントと共にバッシングした時から、幾人もの信者が表明して来たことである。そのバッシング記事には、不法行為と呼べる構成要件はまだ整っていなかったにも関わらず、霊的文脈においては、おそらくこれが他のどんな不法行為に比べても、最も著しい(神とエクレシアと聖徒に対する)冒涜行為であったろうことを筆者も疑わない。

その時から、杉本の命運は決まっていた。筆者はそう考えている。

すでに幾度も書いた通り、筆者は2010年に杉本徳久に向かって、ラスコーリニコフにならって、己が罪を認めるようにとの勧告を書いたが、その時から、この事件の結末を、すでに心の内側で予感していたと言えよう。

霊的な直観は、現実に先立つ。真理の御霊は、やがて来るべき事柄を知らせると聖書にある通り、私たちにはこの先、起きることについても、分かっていることが多くある。だから、筆者は自分の出した訴えがどうなるのか、どんなに事件の進展が遅いように思われる時でも、結果を予め知っているのである。

そして、そのことを、実に不思議なことに、筆者のみならず、筆者の話を聞いていた警察官も、理解して、これを筆者に先んじて口にしたのである。

もう一つ、警察官が予見的なことを語ったことがある。

それは昨年、筆者が杉本に対する第一の告訴状を出して間もなく、若い担当刑事が杉本に電話で連絡を取った時のことであった。

担当刑事は、杉本に対して電話で「ブログを削除して下さい」と要求したのである。

繰り返すが、「ブログ記事を削除」ではなく「ブログを削除」するよう求めたのである。

これは非常に奇妙なことであった。本来、表現の自由が尊重されて、権利侵害が行われている該当記事だけの削除が求められるのが通常である。ところが、警察はそのようには言わなかった。「神々の風景」についても、プロバイダの措置として全体が非開示にされた。いずれは全体が削除されるであろう。これと同じことを、もう一つのブログに対しても警察は求めたのである。

これらのことは、非常に印象的かつ予表的であった。

さて、筆者は今でも一審判決の言い渡しの時のことを度々思い出す。

その日は、待ち望んだ解放の判決のはずであった。何日も前から、ようやくこれで事件が終わるのだと考え、筆者は喜んでいた。

それにも関わらず、前日から、どういうわけか緊張が解けなかった。その日、法廷には、見知らぬ傍聴人が一人来ており、掲示板の関係者かも知れないと思われたことも要因の一つだったろう。

裁判官は法廷に姿を現し、法壇に着座すると、掲示板で起きている騒ぎのことを、知ってか知らずか、「困った事態が起きてしまいましたね」といった具合に、筆者に笑いかけた。そして、筆者のことをおもんばかってであろう、傍聴人に対し、携帯電話のスイッチを切り、録音や撮影を行わないよう注意した。

時刻が来るまで重い沈黙の時が流れた。筆者は何かしらただならぬ緊張感に包まれていた。判決に異議申立てはしないと予め決めており、これで争いは終結する、書類作成の仕事からも解放される、そう思って喜んでいたはずが、前日から引いた風邪のせいで、頭ははっきりせず、いよいよ裁判官が判決を読み上げ始めた途端、筆者は裁判官と目を合わせることもできなくなった。

主文の冒頭部分を聞いただけで、筆者には、これが事件の完成ではあり得ないことを理解したのである。

裁判官は、筆者が心ここにあらずの状態になったことを察知したのか、最後に少し苛立たし気な表情で、「あなた、本当に聞いているんですか?」とでも言うかのような調子で、筆者に判決への同意を求めた。

だが、同意を求められるなど予想もしていなかった筆者は、自分が質問を受けていると理解して返答するまでに少し時間がかかった。

このように、一審判決の言い渡しは、どこかしらちぐはぐな雰囲気で終わった。口頭弁論の終結時の時に生まれた一体感とは全く異なる緊張がそこにあり、裁判官はいささか憮然としたような、よそよそしい表情で退廷して行き、見知らぬ傍聴人も、杉本が負けると考えていなかったのか、すさまじいショックを受けたようにダッと走り去って行った。

筆者は判決言い渡し後、前よりもさらなる緊張状態に陥った。おそらく、裁判官も書記官も、それは筆者が判決に不服があって、異議申し立てをしようとしているためではないかと考えたのではないかと思う。
 
なぜそのようなことになったのか、筆者は今ならばよく分かる。筆者はこの判決を歓迎するつもりで、無条件に受け入れると決意していたが、心の深い所では、もしも筆者が、これを最終的な宣告として受け入れれば、次の瞬間、筆者に待っているものは死だけであると、確実に予見していたのである。

筆者は判決言い渡しの後、しばらくの間、そのことに全く気づかないふりをしていた。裁判官と書記官にお礼状を書き、早々と後処理に取りかかった。人間的に見れば、まずまずの結果である。争いから早期に解放されたことを喜ぶべきであろう・・・。

しかし、それはあくまで人間的な観点から見た場合の話でしかなかった。筆者の内なる直観は、事態はまるで逆であることを、はっきりと理解していた。この中途半端な終わりに身を委ねることに、筆者の内なる人は激しい拒否反応を示した。風邪は日に日に悪くなって行くばかりであった。
 
村上は初めから、筆者に勝訴すれば、筆者にとどめを刺すつもりであったのだと思われる。それが証拠に、一審判決が確定もしていないうちから、村上は筆者に対する勝利宣言をブログに発表し、さらに筆者に対する人格権侵害の記事を発表した。

これはおそらく村上の当初からの予定だったのではないかと推察される。村上はおそらく筆者が「完敗」を認め、今後、全く抵抗しない立場に身を置くのが当然と考え、公然かつ堂々と権利侵害を始めたのであろうと。

「往生際の悪い」筆者に、とどめを刺すために、民事で「完全勝訴」を宣言した上、さらに息の根を止めるべく、刑事告訴に及ぶことは、予定の行動だったのではないかと。
 
村上が掲示板における筆者に対する嵐のような24時間体制の誹謗中傷を、どこ吹く風とばかりに黙認していたのも、その書き込みが、筆者の心を揺さぶって、何らかの失言につながるのを狙っての措置であったと見ることもできよう。

そして、杉本が賠償金を未だ支払わないことも、同じ文脈から出た行動である。彼らは諦めていない――筆者を「カルト信者」として社会的に抹殺に追い込み、公然と証の言葉を述べる完全に口を封じることを――。
 
強制脱会活動が、幾人もの他宗教の信者を社会的に殺して来たのと同様、この人々は、彼らの「説得」に応じない筆者を「人格障害」に追い込み、社会的に抹殺しようとの考えを、依然、捨ててはいない、だからこそ、控訴という正当な方法によって、この判決を覆そうと努力するのではなく、判決の実行を先延ばしし、賠償金を支払わないことで、筆者がさらに追い込まれるよう、策を講じているのではないかと見られるのだ。

筆者はこのことについても、警察に伝えた。掲示板の投稿のほぼすべてが村上の支持者と見られる人物たちで固められていること、こうした権利侵害も、信者たちの単独犯であるとは思えず、杉本の行為も、単独であるとは到底、考えられないこと。
 
不思議なことに、こうした話を、警察は決して空想としては聞かなかった。そうなったのも、理由がある。何しろ、昨年の時点では、村上は告訴対象にも含まれていなかったが、事件は進展しており、村上による権利侵害の証拠が手に入った今では、筆者の言うことをあながち作り話として退けるわけにもいかない状況が整いつつあるからだ。少しずつ事件は核心に近づいて来ている。

話を戻せば、村上は完全勝訴の上にも、さらに念には念を入れて、筆者を「抹殺」するために、刑事告訴に及ぼうとしたのであり――それは初めから既定路線だったと見られる。

そこで、もしもあの時、筆者が一審での部分的勝訴に甘んじて、戦いをやめていれば――このような恐るべき霊的攻撃に対して、筆者には抗う術が残らなかったであろう。そうなれば、向こうの思う壺の状況が作り上げられたはずだ。

だが、筆者の内なる人はそのことをよく知っていればこそ、村上による権利侵害の証拠が手に入った瞬間、待ち望んだ判決を振り切って、ただちに控訴に及んだのである。

むろん、一審判決を超えるためには、さらなる証拠の積み上げが必要であり、最終的な判決を手にするまでの間に、事の真相にどこまで迫れるかが、今回の争いの本髄である。
 
いずれにせよ、こうして、紛争が一審で終わらなかったことは、まさに奇跡的な天の助けであると言えた。

一審を担当してくれた裁判官はすでに異動で去ったが、初めて法廷に姿を現した時、「私はこの事件から逃げるつもりはありません」と述べたことが思い出される。そして、筆者が先日、長い時間をかけて、犯人の処罰を願う、と述べたときにも、警察の上部は、これと似たような言葉を繰り返し言った、必ずこの事件をふさわしい方法で解決すると。

民事訴訟が始まったばかりの頃、筆者は裁判官が公平に客観的に事件を裁いてくれるだろうと考え、電話会議でも、裁判官と書記官の二人にがっちりと脇を固められて、守られているような安心感を覚えていた。

その頃、筆者には、自分自身が、力強く立ち上がって、自らこの事件を率いて行くのだという自覚はそれほどなかった。訴えを出した後も、最後まで、主導権を握るのは自分でなければならず、筆者こそ、周囲の全ての人々の心を動かす鍵を握っているのだということが、分かり始めたのは、少し後のことである。

筆者はしばしば、裁判官とさえ、胸襟を開いて――いや、まるで激しく衝突するがごとく、議論を戦わせたことがあった。ここには書かないが、実に様々なドラマがあり、その中で、筆者は、初めは冷静で頼りがいがあるように見えた裁判官さえ、筆者の心の動揺にどれほど大きな影響を受けているかを理解し、この事件を正しく進めるためには、あくまで筆者が自分をしっかりと持って、目的となる地点から目を離さず、全員をまとめてその目的へ向かって牽引していく姿勢が必要なのだと知った。

そうして、関係者のすべてをまとめて、皆が心を一つに合わせて同じ目的へ向かって行くことができるように整えることは、必要不可欠なだけでなく、実際に可能であることを知ったのである。
 
それが分かったおかげで、一審の終わりは、見事に息の合うものとなった。この頃から、筆者は、キリスト者はどんな事件に見舞われようとも、カルバリの十字架の勝利のゆえに、すでにすべてを足の下に従えているのであって、私たちはその事実を実際とするために、この地に置かれており、御名のゆえに、万物を足の下に従えることが、現実にできるのだという秘訣が分かり始めた。

裁判官は、事件から逃げないと約束してくれた分だけ、何としてもこの争いから筆者を救い出して去って行かねばならないと考えたのであろう、考えられる限りの手を尽くしてくれた。だから、一審判決が本当の終わりではなくなったとはいえ、筆者は一審で与えられた命に、より完全性を持たせるために、これに控訴状という服を着せて、世に送り出した。

それから、警察署に出した告訴状についても、筆者は事件を前に進めるために、まるで未熟児に対するように世話をしている。そして、可能な限りの労力を割いて、この事件を理解して進めてもらうための働きかけを続けている。
 
こうして当事者が事件を牽引する作業は、まさに途轍もない作業である。訴状に関しても、告訴状に関しても、同じことが言えるが、訴えを出すというのは、初めの第一歩に過ぎず、そこから何百キロもの道のりを徒歩で歩き通すような行程が必要となる。

怠惰で、人とぶつかることの嫌いな人間には、こうした気の遠くなるような作業を貫き通すことはできまい。

筆者自身、これまでコンクリート製の分厚い壁を5つくらいは粉砕したような気がするが、あらゆる障害を打破することが必要なだけでなく、人の心を動かし、皆を一つの目的へ向かって団結させて、立ち上がらせて行く力が必要となる。その働きかけのために、膨大な労力が必要となる。なぜなら、訴えは書面で出しはするものの、最後には人がこれを処理するからである。
 
それは見えないオーケストラの見えない指揮者になるのにも似ているかも知れない。関係者の全てが、息を合わせて一つの調べを奏で、一つの目的へ向かって行くことができるようになるまで、筆者は調整を繰り返す。

そうして、努力に努力を重ねているうちに、ある瞬間に、望んでいる答え、望んでいる回答がようやく実現する。

それはその時々で、束の間の現れに過ぎないものではあるが、神の御心にかなう御国の秩序が到来し、調和の取れた調べが流れだす時が来る。その瞬間には、まるで生ける水の川々が溢れ、流れ出すように、すべてのものがキリストの愛の中に飲み込まれる。筆者の周囲の人々も、それによって潤され、浸され、すべてが感動的なまでに美しい終わりを迎える。

その日が来ることを待ち望みつつ、筆者は自分の訴えをより洗練させて、より完成へと向かわせている。神の正しい義なる裁き、まことの裁き主であられる主の真実かつ公平な判決が得られるように、目的へ向かって進んでいる。それは救われる者にとっては自由と解放の響きであり、滅びるものには死の宣告である。

その戦いの中で、筆者は孤軍奮闘しているわけではなく、雲のような証人たちに囲まれている。敵陣に包囲されて逃げ場がなくなるように見えるときにも、援軍は常に用意されており、霊の目を開いて、周りを見渡せば、エリシャが見たあの火の馬と火の戦車は、今日も神を信じる者と共にある。主は筆者に言われるだろう、

「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」(列王記下6:16)

* * *
 
さて、村上密がまたもや見当外れなことを書いている。

「人はいつも危険と背中合わせで過ごしていると私は思う。その感覚を失うともっと危険に接近することになる。身近な人の忠告は危険を回避する忠告が含まれている。そのような親身になってくれる人がいない人はその人自身が危険になる。暴走とはそういうことを言うのではないか。」(4月27日の記事「暴走」)

村上の記事にはいつも同じ特徴が見られる。それは孤独を否定し、一人になることを否定し、常に集団の中に隠れようとする特徴だ。杉本の記事にも全く同じ特徴がみられた。

村上は最新記事でも同じことを述べている、「連休はカルト研修の時期 」では、カルトに入らないためには、家族の連絡こそ必要と訴えている。

「5月は研修の期間である。子供の行き先がはっきりわからない場合、カルトの研修を受けてる可能性がある。子供の行動が明確でないことを放っておくと対応が後手になる。親子間の連絡が疎遠にならないように気を付けよう。」

これは子供を一人にさせておくと危ない、何をしているか分からないまま、放っておいたらいけない、というだけにとどまらず、まるで親に子供を監視せよと言っているように聞こえる。常に子供を一人にさせず、集団の群れの中にいさせて、何をしているのかが、周囲に見えるようにしておかねば、カルトのような重大な危険に取り込まれてしまいかねないと、半ば脅しのような言葉で、親が子供を監視する必要性を訴えている。

村上はこうして記事の中で、常に目に見える人間関係の必要性を訴え、悩める人間には話を聞いてくれる誰かが必要だと訴え、互いに互いの行動を把握して、人間の相互扶助ネットワークを作り上げることが、あたかも救済であるかのように強調する。人間関係の只中にいさえすれば、集団の只中にいさえすれば、危険を免れられるかのように説くのだ。

それは逆に言えば、一人になれば死ぬという脅し文句と同じだ。牧師のいる教会では、指導者は神の代理権威であると教えられ、牧師の指導の圏内から信徒が逃げれば、信徒は救いを失うかのように解かれることが少なくない。「あなたは一人では聖書を学べない、助けてくれる人や、教えてくれる人が必要だ。だからこの教会にいなさい、私たちと一緒に学びなさい。一人になったらいけない」というわけである。だが、その本当の目的は、信者を目に見える教会に束縛し、牧師に献金を捧げさせ、いついつまでも牧師の説教がなければ、聖書を理解もできない霊的赤子の状態に押しとどめ、信徒から栄光を搾取することにある。

いわば、天皇の赤子だった時代の臣民と同じである。カルト宗教の「霊の父母」と同じで、村上は今も「生み生まれる親子の立体関係」の必要を説き、そこから離れての個人はあり得ないと説いているだけなのであって、なぜそのようなことをするかと言えば、その集団が、偽りのイデオロギーに従って作り上げられたものであり、集団に帰依し、その関係性の中に束縛されている限り、その誤った理念から、人は抜け出せないからだ。個人を集団に留め置くために、(疑似的なものも含め)親子関係が最大限美化され、利用されるのである。

カルト被害者救済活動は、悪しき反聖書的な理念に基づいて作り上げられた一大要塞であり、そこから人を逃がさないでいるためにこそ、相互監視が必要なのである。その監視社会を美化し、正当化するために用いられるのが、親子関係やら、師弟関係やらといった美名である。

だが、聖書の奥義とは、「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」(創世記2:18)というものであって、まず「父母からの自立」が前提となり、キリストとエクレシアの結婚も成し遂げられる。

聖書における正しい関係は、「生み生まれる親子の立体関係」ではない。信者が神に出会うためには、自分の生まれ落ちた家の民を忘れ、「父の家を忘れる」ことがどうしても必要である。これは人が生まれながらの自己に死んで、この世に対して死に、キリストに対して生きるようになることを意味する。

娘よ、聞け。
耳を傾けて聞き、そしてよく見よ。
あなたの民とあなたの父の家を忘れよ。
王はあなたの美しさを慕う。
王はあなたの主。彼の前にひれ伏すがよい。
ティルスの娘よ。民の豪族は贈り物を携え
あなたが顔を向けるのを待っている。」(詩編45:11-12)

筆者の目から見た限り、牧師たちは、大勢の信者や家族に囲まれているように見えても、内心は孤独である。特に、高慢ゆえに他人の助言を聞かない牧師の周りでは、真摯に忠告してくれる人もいなくなっていくため、いざという時、必要な助言を誰からも受けることができない。

大勢の人たちに囲まれていても、みなイエスマンばかりなので、牧師が暴走しても、止める者もない。もしも村上に、身近に親身になって危険を忠告してくれる人間が一人でもいたならば、筆者に対する人格権侵害の記事を投稿してこれをすぐに削除したり、筆者を刑事告訴したなどという記事を発表してこれを削除したり、杉本徳久と共に筆者を馬鹿にする文通を書証として裁判に提出したりと言った愚行には決して及ばなかったであろう。
 
筆者に対する弾劾記事をブログに次々投稿し、掲示板での誹謗中傷を黙認・容認したりすることもなく、何よりも、カルト被害者救済活動に手を染めなかっただろう。

こうした行為に村上が及んだのは、村上には、誰も親身になって忠告する人間がおらず、むしろ、悪い助言者ばかりが取り巻いていたことの証拠である。

こうして、村上の記事では、親子の絆、年長者と年少者の絆、社会の助け合い、相互扶助のネットワークの必要性ばかりが語られるが、そこでは、最も重大な争点が抜け落ちている。

それは、私たちにとって、最も身近かつ忠実な助言者は誰なのか、という問題だ。

もちろんのこと、私たちの最も信頼できる助言者は、見えないイエス・キリストである。船頭多くして船山に登る式に、多すぎる助言者は道を誤らせ、年長者の忠告をどんなに聞こうと、イエス・キリストの忠告を退ける人間の人生は呪われる。

そこで、村上の記事は、筆者には常にバビロンの次のつぶやきを想起させる。

「わたしは、女王の座に着いており、やもめなどではない。決して悲しい目に遭いはしない。」(黙示18:7)

「やもめなどではない」――というバビロンの言葉は、言い換えれば、「私は一人ではない」という意味である。村上は言う、自分には身近に「親身になってくれる人がいる」から暴走することはないと。「親子関係」も万全だから、危険はない、自分は「大人たちの忠告」を聞いているから大丈夫だ、道を誤ることなどないと。

しかし、 「主はこう言われる、

 「おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、
  その心が主を離れている人は、のろわれる。
  彼は荒野に育つ小さい木のように、
  何も良いことの来るのを見ない。
  荒野の、干上がった所に住み、人の住まない塩地にいる。
 
  おおよそ主にたより、主を頼みとする人はさいわいである。
  彼は水のほとりに植えた木のようで、
  その根を川にのばし、暑さにあっても恐れることはない。
  その葉は常に青く、ひでりの年にも憂えることなく、絶えず実を結ぶ」。
 
  心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。
  だれがこれを、よく知ることができようか。
  「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。
  おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」。
 
  しゃこが自分が産んだのではない卵を抱くように、
  不正な財産を得る者がある。
  その人は一生の半ばにそれから離れて、その終りには愚かな者となる。

  初めから高くあげられた栄えあるみ座は、われわれの聖所のある所である。
 
  またイスラエルの望みである主よ、あなたを捨てる者はみな恥をかき、
  あなたを離れる者は土に名をしるされます。
  それは生ける水の源である主を捨てたからです。」(エレミヤ17:5-13)

筆者から見れば、「暴走」とは、目に見える助言者を失った結果として起きることではない。むしろ、「暴走」とは、ただ一人のまことの助言者を当てにせず、目に見える偶像にすがり、頼った結果として起きるものである。

周りのイエスマンたちにおだてられ、自分の欠点が見えなくなった宗教指導者が、分不相応な自画自賛に明け暮れながら、利己的な道を貪欲に突き進み、当然の破滅に落ち込んで滅び去って行くことなどは、まさにその典型である。

筆者は、村上を担ぎ上げた信者たちにも、重い責任があると考えている。村上を間近で知らない人間が、村上に対して疑問を抱かないのは仕方がないが、村上を間近で知っており、疑問を感じながらも、声をあげなかった信者たちの責任は重いと考えている。特に、カルト被害者たちの責任は重い。

統一教会側の「全国 拉致監禁・強制改宗被害者の会」が記している「2 拉致監禁による強制棄教事件の歴史」によると、脱カルト強制脱会運動の歴史には、大きく分けて4つの段階があり、拉致・監禁による強制脱会を最初に始めた者は、村上ではなかったようであるが、村上がこの運動に入った頃に、この運動は最盛期を迎える。拉致・監禁による強制脱会の手法が確立したのはその頃で、別な情報によれば、村上自身も数百件以上の強制脱会を手伝ったと言われている。

その後、強制脱会運動に関わった牧師たちの一部が民事・刑事で訴えられ、敗北に追い込まれたりする中でも、村上には追及の手が及ばなかったのは、ただ村上が非常に巧妙に立ち回り、人権侵害に加担した証拠を残さないようにしていたというだけではなく、村上を取り巻いている無数のカルト被害者らが、村上に対する徹底的な援護射撃・サポートに回ったことが大きく影響していただろう。

京都七條基督教会の役員も、ある時期までは、大半が村上自身が脱会させた元統一教会の信者で固められていたと指摘されている。彼らは村上の意向には決して逆らうことのない忠実な信徒たちであった。そして、今、当ブログに起きていることを見てみれば分かるように、村上が脱会させた信者たちは、村上の忠実な僕のように村上を取り巻いて、村上への批判的な言動を抑制し、これを即座に潰す役割を担ったのである。

このように、自らが脱会させた信者たちを防御の盾のごとく周りにはりめぐらし、彼らからの支持や賞賛を受けて活動したことが、村上の栄光を確固たるものとし、彼の率いる運動の偽りの悪しき本質を覆い隠し、村上の反カルト運動の成功者としてのイメージを作り上げ、この運動を存続させる原動力となったことは見逃せない事実である。

村上の周囲には、今もかつてカルトに入信し、強制脱会させられた際に、自己の意思を打ち砕かれたために、それ以後、村上に対して全く頭が上がらなくなり、異議申し立てができなくなった信者たちが大勢いるものと見られる。(筆者が2008年にこの教会を訪れた時にも、かなりの数、そういう信者たちがいた。)

彼らは、自分たちが村上のおかげで恐ろしいカルトから「救出」されたと額面通りに信じ込んでいるので、一生、村上を救世主のように慕い続け、忠実にその命に従う、マインドコントロールされた信者たちである。

だが、村上の脱会活動は、初めから信者の「救出」のためではなかった、と筆者はみなしている。筆者は以前に書いた記事の中で、村上がどのような形で統一教会から脱会したかという経緯について触れた。

そこでも書いた通り、村上は青年時代に、自ら親族からの拉致・監禁を伴う激しい暴力行為によって、統一教会から無理やり引きずり出され、強制的な脱会を遂げた。家に連れ戻されて後は、手足をロープで縛られ、身動き取れないようにさせられて、座敷牢に閉じ込められていたと自ら書いている。

脱会以後、牧師となってから、村上が繰り広げた脱会活動は、まさに村上自身が、青年時代に自己の意志を打ち砕かれ、身体の自由を奪われ、屈辱のうちに棄教せせられた悲劇的な脱会体験を、他の信者たちの身の上に再現しようとするものであったと言えよう。
 
つまり、村上の率いる反カルト強制脱会運動は、まさに村上自身が青年時代に負った深い心の痛手を、無意識のうちに、他の信者たちとの間で、共有・再現しようとするものだったのである(=反復強迫)。

また、村上は、この他にも、子供時代から親による恒常的に暴力(虐待)を受けて成長してきた様子が分かる記事もいくつも綴っている。

このようなことから、当然のごとく導き出される結論は、村上は統一教会に入信して初めてカルトに出会ったわけではなく、それ以前から、カルト的な歪んだ世界観を心の中に持ち続けて生きて来たことである。

その歪んだ世界観の土台となったのは、彼の家庭である。

筆者は幾度も書いて来た、カルトに接近する人々には、大抵、幼少期から家庭で受けた何かしらの心の傷があると。それが最大の原因となって、彼らはその傷から逃避するために、カルトへ接近するのだと。従って、たとえカルトから信者を引き戻したとしても、この家庭における傷という問題が解決されない限り、彼らがカルトに入った本当の動機は見出されることも、解決されることもない。ゆえに、この問題を放置していれば、その信者は、一つのカルトを脱しても、またそれに類似する何かの団体を見つけ出し、それを逃避の手段とし、そうして同じ種類の現実逃避を、人生で幾度となく繰り返して行くことになるだけであると。

家庭こそ、カルトとの最初の出会いであり、出発点であった――その事実を、村上は依然として見ることができないからこそ、彼はカルトを批判しても、家庭を批判することができないのである。親子関係を密にし、連絡を取り合い、大人たちの言うことを聞いてさえいれば、危険を免れるかのように説き続けているのは、他の信者たちに対してだけでなく、村上が自分自身に言い聞かせているのであって、統一教会のカルト性には気づけても、自分の育った家庭のカルト性には未だに気づかないように、自分で自分をマインドコントロールしているのである。

それだけでなく、村上はこの誤った理念を、幾度となく繰り返される「救出劇」の中で、座敷牢に閉じ込められた他の信者たちにまで、植えつけて来た。身体の自由を奪われ、惨めさと屈辱の中でうなだれる信者に、親たちの行った暴力には目をつぶって、親の言うことに従えと教えるのは、筆者から見れば、文鮮明を「霊の父」とみなし、再臨のキリストとして無条件に従えと教えているのとさほど変わらない。

つまり、村上の反カルト運動は、うわべだけは聖書を利用しているが、断じて、聖書に基づくものではなく、それは断じて、「救出活動」などではなく、村上自身が、強制脱会の対象とされた時に(またはそれ以前から)心に生じた犠牲者としての像(被害者意識、トラウマ)を、他の信者たちにも植えつけるためのはけ口でしかなかったのである。

そうして「救出者」を演じることで、村上は現実を巧みにごまかし、犠牲とされた自分自身の心の痛みから目を背け、自分が心に抱える本当の問題を覆い隠しながら、鬱憤のはけ口を得て来たのである。

そういう文脈で見ると、村上が盛んに「一人」になることに強い抵抗感を示し、人には身近な助言者が必要だ、とか、話を親身になって聞いてくれる人が必要だ、と切々と訴えていることが、誰よりも、村上が未だ自分の生まれ育った家庭によるマインドコントロールの事実と向き合いたくないがために、それを今も「お経」のごとく自分自身に言い聞かせているだけであることが分かる。

親子の関係から出て、一人の個人になった時、あまりにも恐ろしい現実に直面し、世界観が崩壊してしまわないよう、自分は「救出」されたのだ、ありがたい「助言」を受けたのだ、まさか暴力を振るわれたのでも、拉致・監禁されたのでもなく、人権侵害などなかった、と念仏のごとく、繰り返し独り言を唱えているのである。

村上の周りにいる信者たち(カルト被害者)たちも同様で、彼らは「監視はなかった」、「マインドコントロールはなかった」、「人権侵害などなかった」と、同じ念仏を唱え続けているのである。

自らに対して行われた権利侵害を認めないからこそ、彼らは筆者や当ブログに対して行っていることが、恐ろしい権利侵害である事実も認められない。自分を生きた人間として扱うことができず、自分の感情を殺し、自分の心の痛みから目を背け続けている人間が、他者の痛みだけを真剣に取り上げ、これを理解し、他者を解放することなど、できるはずもないことは明白である。

従って、彼らに出来ることは、ただ一つ、自分を犠牲として来たように、他者をも犠牲にすることだけである。それを「救出」や「解放」と呼び変え、神の福音から人々の目を逸らさせて、彼らの手にかかった人々が、キリストが用意して下さった解放に永遠に至りつけないように、御国への門の前に立ち塞がり、自分だけでなく、周りの人々まで滅びに巻き込んでいることが、この運動の最大の罪である。

<続く>

2019年4月 6日 (土)

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(3)わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。

短い短い休息のひと時であった・・・。

不思議なことだ。人間的な判断と、霊的な判断はしばしば大きく食い違う。判決言い渡しと共に解放感を覚えていたのは、筆者のあくまで人間としての感情、知性、判断であった。

心の深いところで、筆者の霊的な判断は、戦いがこんな中途半端なところで終わるはずがないし、終わってはならないことを的確に知って、大いなる拒否反応を起こしていたのではないかと見られる。

そこで、判決言い渡しの前日から引きずっていた風邪は、新たな一歩を踏み出すまでの間、日に日に悪くなる一方であった。
   
しかしながら、今週初めが来るまで、判決言い渡しと共に、事件は終了したものと考えていた筆者は、早くも事件の後処理をすべく、民事部にいくつかの書類作成を依頼し、事件ファイルの閲覧を申し出た。そこには、訴訟費用の計算という目的も含まれていた。

訴訟費用の計算は面倒で時間がかかる上、そこには弁護士費用などの大がかりな費用も含まれておらず、さほどの利益が見込まれないためか、裁判に勝っても、訴訟費用の確定をする人は非常に少ないという。だが、一応、ひと通りの手続きを学ぶ必要があるし、できることは時間のある間にきちんとやっておきたいと思った。

だが、筆者が晴れ晴れとした顔で記録閲覧を頼んだのとは対照的に、書記官はいささか顔を曇らせていたように見えた。

「訴訟費用の計算をしたいんですが」
「まだ送達が完了してませんし、判決の確定まで待った方が?」
「今の時点で見ておいた方がいいんで。後になると面倒なんでしょう」
「今はまだ記録の整理中で。しかも、控訴があるかも知れませんよ?」
「ないですよ」
「分かりませんよ、まだ」
「そんなのないですってば・・・」
 
筆者は、これまで書記官が常に裁判官の判断に忠実に従って動いて来たのを知っていたので、まさか書記官が控訴によって、裁判官の下した判決が覆されることを望んでいるわけでないことは理解していた。だとすれば、何が書記官の心にひっかかっているのだろうと、腑に落ちないものを感じた。
  
しかも、筆者は控訴を無意味なものとして一審判決を確定させるべく、早々に書記官に様々な書類作成を依頼していた。(これは被告が控訴しても全くと言って良いほどに利益がないようにするための措置である。)
  
ところが、4月1日に被告村上の出したブログ記事ですべての状況が変わり、思いもかけないことに、原告側から控訴を考える事態となった。その事情を電話で詳しく告げてから、再度、記録閲覧を申し出ると、書記官の表情が曇り後晴れになっていた。

もう一度記録閲覧に出向くと、再び緊張モードに入った筆者とは裏腹に、今度は書記官が晴れ晴れとした表情をしていた。そして、気前よく大量のファイルを出して来てくれた。

ちなみに、訴訟費用などは、実際に、全く微々たるものでしかないが、このようにほんのごくわずかな費用であっても、負債は負債に違いないと言える。従って、筆者は、このような負債が、たとえどんなにごくわずかであろうと、神の子供たちに負担として生じることは、絶対にあり得ないことだと理解している。

(なぜなら、キリストは私たちにとって不利な債務証書を、すべて十字架で破り捨てられたのであるから、私たちには債務というものが存在しないためである。)

そういう意味で、筆者は裁判官の判断に異議を唱えるつもりはないが、一審の判決は、霊的観点から見れば、必ず覆されることが前提とされているような内容だったと言える。

さらに、どういうわけか知らないが、筆者は訴えを出すときに、訴訟費用の負担を、仮執行の範囲から外した。なぜそうしたのか、今になっては理由がよく分からないが、そうしたことにより、実際に、現時点で、不法行為に問われなかった村上の訴訟費用の負担が、判決確定前に筆者にかかって来ることは決してないという結果が出ているのである。

従って、現時点で、筆者にはいかなる「債務」もない。こうしたことは、まさに神の知恵であるとしか言いようのないことである。従って、それにも関わらず、筆者が訴訟費用の計算をしているのは、いずれこれを被告ら(後の被控訴人ら)に請求するための備えである。
  
さて、控訴状を事件係に持って行ったとき、早速、訂正があると告げられ、見栄えにこだわりたかった筆者が、まだ日にちはあるので書き直すと言ったところ、係がいつになく断固たる表情で首を横に振った。

「いいえ、一か所くらいの訂正なら、今ここで訂正した方がいいです。とにかく早く出した方がいいですから・・・。これで十分にきれいですよ」
   
何だか抗いようのない口調であったので、筆者はそれに従うことにした。筆者は別にその日でなくても良いと考えていたのだが、付与された番号を見ると、まさにこの日のために特別に用意されていたような数字の並びで、天には今日でなくてはならない何かの事情があったのだろうという気がした。
 
その後、分厚いファィルに埋もれて、記録の閲覧謄写をした。筆者は書類の山に埋もれると、自分のことなど何もかも忘れてしまうたちで、朝からずっと様々な書類を作り続けて、その時まで、ほとんど何も食べていなかったことに気づいた。それに加えて風邪が追い討ちをかけた。
 
本当は判決言い渡し後、せめて一週間くらいは、ゆっくり休まなければならない。記録の閲覧など後回しである。だが、こういう事件の場合、そうも言っていられず、事件の記録を一つ一つめくっていると、様々な思いが込み上げて来て、思っていた時間をあっという間に過ぎ、5時前に急かされるようにして庁舎の外に出た。

車に乗り込んだ時、突然、ふとこの事件を担当してくれた裁判官の気配を、まざまざとそば近くに感じたような気がした。それはちょうどまるで筆者の目の間に、事件ファイルを持った裁判官が現れたかのようで、人間の常識を超えて、何か切迫したメッセージを伝えられたような気がした。

実におかしな出来事であった。裁判官は異動して横浜地裁にはいないはずであり、もちろん、筆者が記録閲覧したことも知るはずがなく、今ここで起きていることに関心を寄せる理由があるとも思えないが、一体、何かが起きたのだろうか・・・と筆者はいぶかしく思った。

理由は帰宅してから分かったような気がした。村上密のブログに、まさに筆者が裁判所を出る直前の時間に、早くも筆者が控訴したというニュースが投稿されていたのだ。
 
村上密が筆者の行動を、筆者自身よりも早く報道しているとは、驚き呆れることであった。しかも、彼が「完全勝訴」と書いた同日の夕方、3時から5時にかけて、裁判所の業務時間が終了するまでに残されたわずかな時間の筆者の動きを、これほど正確に知って素早く報道しているとは、実に奇妙かつ不気味なことである。
   
まさにジョージ・オーウェルの世界を彷彿とさせる出来事である。双方向のテレスクリーンには、「祖国を捨てた人民の敵ビオロン、本日夕刻、ビッグ・ブラザーを控訴!!」などという文字が踊り、テレスクリーンには、その他にも連日のように、筆者を人民の敵として告発するニュースが新たに流されている。まるでエマニュエル・ゴールドスタインさながらの扱いを受けている気分だ。

筆者が約10年前に、ビッグ・ブラザーの支配するあの国を、秘密警察の暗躍する全体主義国と呼び、そこから国外亡命を遂げてからというもの、筆者はあの国では、まさに祖国を捨てたゴールドスタインさながらの狂人・罪人として扱われているのだ・・・。

なぜ杉本ブログに賠償が命じられて後、また、掲示板が大々的に刑事告訴の対象とされて後、村上が自らのブログで、当ブログ執筆者の実名を公表したり、当ブログを名指しで非難する記事を次々と書き始めたのか、そこに、筆者の言う「全体主義国」の有様を、読者は伺い知ることができよう。

一審では、村上―杉本の共謀関係は立証されていないが、筆者はこのような結果となることを前々から予測していた。つまり、杉本による権利侵害は、杉本が独自の判断により、単独でなしたことでは決してない――というのが筆者の以前からの推測なのである。もしそうでなければ、村上は、杉本が自らのブログで筆者を批判できなくなったことを皮切りに、今度は自分のブログで筆者を批判し始めることは決してなかったであろう。

二人はメール文通も書証として提出して来ているが、その内容は、二人が完全に気脈を通じていると言えるものであり、さらに、杉本に賠償が命じられても、村上は決してそのことを報道しない。このことか分かるのは、つまり、村上には、杉本がしたことが許しがたい人権侵害であるという認識が今もって欠けているということである。

そして、杉本が果たせなくなった役割を担うために、村上はずっと何年も前から当ブログに掲載されていた記事について、今になって自らのブログで批判を展開し始めたのである。(だが、村上が書いている控訴以外に関する記事については、おそらく刑事事件等の捜査が進み次第、筆者の主張の裏づけとして、証拠を提示しながら書いて行くことになろう。)
 
さて、話を戻せば、おそらく裁判所の関係者ならば、事件番号が付与された時点で、リアルタイムで控訴の情報を把握することは可能であろう。

だから、裁判官も(村上の記事はさておき)、控訴のことを知っていておかしくないと思われるが、書記官の態度を見る限り、裁判官にも、きっとこの控訴が、判決内容を不服としての控訴でないことくらいは、十分に理解してもらえるだろうと思う。むろん、二審の裁判官にもそれが分かるように、理由書をきちんと作成する予定である。

裁判官には、法的根拠に基づいた判決しか出せない。そこにはいささかの情も込めるわけにはいかないし、事実と異なる事柄や、推測に過ぎない事柄も書けない。しかしながら、彼らにも人間的な感情はあって、それは必ずしも、法的な解釈に沿うものとは限らないのだ。

しかも、一審でこの事件を担当してくれた裁判官と書記官の二人は、筆者が口頭弁論の際に、被告杉本・村上の双方から、提訴・反訴・控訴の脅しを受け、被告杉本からは徹底的な誹謗中傷を受け、どれほど二人から見下され、蔑まれ、踏みにじられていたかを、実際に、その目で見て知っている生き証人のような人々である。

さらにもっと言えば、被告杉本は、一信徒に過ぎない筆者を、宗教指導者と呼び、まるで筆者が魔女か何かででもあるかのように形容した書面を提出して来た。杉本が提出した準備書面は、杉本が公表したブログに輪をかけて、筆者に対する恐ろしいほどの誹謗中傷に満ちており、こうした常軌を逸した内容の書面は、裁判所の関係者の目に触れたのである。
 
裁判官も、書記官も、裁判所の権威を守る側に立っているので、誰かが判決に異議を唱えることを自分から望んだりはしない。むろん、争いが長引くことを望んだりもしない。それでも、筆者は、この人たちに限らず、筆者を取り巻く、雲のような無数の証人たちから、「ヴィオロンさん、あなたはもう戦いが終わったと喜んでいるようですけど、本当にそれで満足なんですか。本当にこれがあなたの心から納得できる答えなんですか。これがあなたが命をかけてまで、立証しようとした内容なんですか。あなたは自分が目的達成できたなんて、本当に思っているのじゃないでしょうね。あなたは安全になったわけでなく、依然として、立ち向かうべき危機の最中にあるのに、まさか本当にこのような結果で、満足して立ち止まってしまうつもりじゃありませんよね・・・」と迫られていたような気がしてならない。

被告杉本からの控訴はあり得ないと、筆者は今も判断しているが(なぜなら、村上が完全勝訴したと宣言しているものを、杉本が控訴すれば、かえって敵に判決を覆すチャンスを与えることになるからである)、そのこととは別に、筆者自身が戦うことをやめて立ち止まってしまうことに対し、無言の警告が投げかけられていたように思う。

ここで立ち止まることは、妥協であって、偽りの平和への安住であって、それを選べば、たとえ被告から控訴がなされなくとも、あなたは遅かれ早かれいずれ死へ向かうだけだと。

だが、そのことは、誰よりも筆者自身が霊の内でよく分かっていたと言えよう。筆者は人間的な判断としては、この成果で十分だと考え、それ以上、争いを続行する理由もなかったので、ひとまず戦いは終わったと喜んでいたが、その心情とは逆に、日に日に具合が悪くなって行ったことが、人間的な観点から見る事実と、霊的事実がいかに異なるかをよく示している。

筆者がようやく食べ物をまともに口にできるようになったのは、控訴状を出し、さらに刑事告訴の具体的な相談を警察と始めてからのことであった。

今では被控訴人となった村上密の内心が、まずはブログを通じて、余すところなくぶちまけられるのを待つのみである。まずは隠れていた事柄が明るみに出されなければならないためである。
 
筆者は、この道は、筆者が考えているよりもはるかに長く、ずっとずっと先まで続いていることを思い知らされている。人間的な休息は、霊的停滞をしか意味しないのかも知れない。
 
こうして、筆者はお世話になった民事部を後にして、人生で初めて得たまずまずの判決をも後にして、さらに遠くへ歩いて行こうとしている。たった一人で、どこまで歩いて行かねばならないのかも分からないが、待ち受けている何もかもが、見知らぬ世界なわけではない。

いずれにしても、すべては天の采配である。ここで立ち止まってはいけないのだと、筆者は警告されている。塩が塩気を失えば、誰がそんなものに注意を払うだろう。心から望む通りの目標に達するまで、代価を払うことをやめてはいけない。もっともっと深く井戸を掘りなさい。もっともっと高く、遠くまで歩いて行きなさい。リスクを取って自分の十字架を負い、日々、主と共に戦い抜いて、勝利と解放を勝ち取る姿あってこそ、人々からも、真の意味での理解や尊敬を勝ち得ることができるのだ・・・。
 
どうして女性が一人で戦わなければならないのか。筆者はこの深い井戸から何を汲み上げようとしているのか。筆者が争いのために争いを起こしているわけでないことは、今後の一連の記事の中でも、説明して行かねばならないし、きっとそれは可能だろう。

というよりも、筆者は己が利益のためにここに立っているわけではないのだから、この仕事を貫徹するのは、筆者だけでなく、神のなさる仕事であると考えている。これは主との共同作業である。そうである以上、この先は、もっと多くの気負いを手放して行かなくてはならない。そうでなくては、各種の重荷を負いつつ、軽快な足取りで先に進んで行くことはできないだろう。

ここではっきりと断っておきたい。二審で出る結果は、筆者からいかなる負債をも将来に渡ってまで完全に取り除くものとなるであろうと。たとえ数千円に満たない被告1名の訴訟費用であろうと、残らずそれらは取り除かれる。

今、筆者がせねばならない仕事は、この事件に限らず、目には見えないが、うず高く筆者の机の上に積み上げられた悲痛な嘆願書を、次から次へと処理することだ。これが筆者の「お仕事」なのだと、今は非常によく分かる。週末も、作成せねばならない書類が山積みだ。

かつてできるだけ見栄えの良い履歴書を作成しては、何とかして人々に良い印象を与え、誰かから出来合いの仕事を与えてもらおうと奔走していた頃は、こんな仕事が存在することに、心を留めたこともなかった。

誰からも振り返られず、打ち捨てられていた、目に見えない訴えを取り上げ、それを悪魔と暗闇の勢力を打ち破るために、大いなる武器として行使する。誰も述べなかった新しい言葉を述べて、社会をよりよく変える起爆剤とするために、戦いの武器として行使する。これは心から意義があると言える敬服すべき有益な仕事だ。

そういう仕事が、一つ着手すると、次から次へと入って来る。そして、どういうわけか、戦い続行するために必要な材料も、自然と向こうから集まって来る。

今、筆者が「干潟」にとどまって掘り起こしているこの「仕事」には、はかりしれないほど深い意義がある。そうである以上、その仕事を果たすための前提は、神が整えて下さるであろう。そもそもそれがなければ、筆者は第一審の判決にたどり着くことさえ不可能だったのである。

渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れるようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である。」(マタイ6:33-34)

「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:13-14)

2019年2月20日 (水)

時をよく用いなさい。折が良くても悪くても励みなさい。今は悪い時代なのです。

「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」 (エフェソ5:15-17)

「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」(Ⅱテモテ4:2)

「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」(ローマ12:18)

我が国には「帯に短し襷に長し」などという言い回しがあるが、キリスト者の人生は、これとは正反対であって、すべてに「ちょうど良し」というものであるか、もっと言えば、「必要を満たして余りがある」というものである。

時間についても、同様のことが言える。キリスト者は、神の御心をとらえようと、目を覚まして歩んでさえいるならば、不注意でタイミングを逸したと思うような時でさえ、まるで時間軸を逆走するようにして、失った時間を追うことができる。

このようなことを言えば、「あなたは気でも違ったのですか、何をおっしゃられているのか全く分かりません」という答えが返って来そうだが、これは本当のことなのである。

これをたとえるならば、あなたが予め時刻表を調べて、ある電車に乗車するはずだったところ、駅に到着が遅れて電車に乗り遅れたとしよう。その電車を乗り過ごすと、時間通りに目的地に着けなくなり、あなたの予定は台無しになる。そう思ってあなたが悔やんでいると、どういうわけか、乗り過ごした電車よりも、もっと早く目的地に着く電車が、少しばかり予定時刻に遅れて駅に到着した。あなたは運よくそれに乗車でき、結果的に、遅れを完全に取り戻したどころか、予定時刻よりもはるか前に目的地に着いてしまった、といった具合である。

主にあって、贖われている者は、何事についても、足りないとか、間に合わないということがなく、決して手遅れだと悔やむ必要がない。むしろ、決して手遅れだと自分で認めてはいけないのであって、遅れているように見える時でも、御心を掴むために走り続けていると、多くの場合、遅れたと思ったその時間さえ、取り返すことができる。

そもそもアダムとエバがエデンの園で神に従うことに失敗してから、人類史においては、気の遠くなるような途方もない回り道と遅れだけが続いている。初代教会においては目覚ましい信仰が見られたかも知れないが、今はどうだろう。現代教会史もまた遅れそのものに見える。

この無意味な回り道、終わりのない堂々巡り、延々と続く遅刻状態から、どうやって輝かしい目的の達成などが生まれて来ようか、と人は思うだろう。ところが、神は人類の堕落や、信仰の先人たちや、教会史に溢れるおびただしい失敗といった回り道のことなど、全く意に介しておられない。

今日という極めて悪い時代にも、堂々巡りと回り道と失敗の連続にしか見えない歴史の只中から、神はいつでも熱心に御心を求める者たちのために、完全な御業をなして下さることがおできになるのであって、それは今日の私たちにもまさに当てはまることを、私たちは心に留め、かつ信じる必要がある。

私たちは、どんなに機会を逸したと感じるような時でも、決して後悔することなく、御心を熱心に追い求めることをやめるべきではない。どんな時にも、何が正しいことであって、神が喜ばれることであり、何が機会を有効活用することに当たるのか、考え続け、実行し続ける必要がある。そうする時に、まるで時を遡るようにして、見失ったと思ったものにも、追いつくことができるのだ。

あるいは、これは自分の力量が、果たさねばならない仕事に追いつかないと思われるときにも、同じように当てはまる。

たとえば、比較的最近、筆者は何週間にも渡り、山のような文書作成という仕事と取っ組み合った挙句、あまりにも疲れ切って、ついに自分が何を書いているのかさえ分からないほどの状態になった。自分の書いた文書を読み返すことはおろか、文字さえも見たくないという状態に陥ったのである。

筆者にとって、文章を書くことは、呼吸をするのと同じほど自然な作業で、何ら苦痛ではない。ところが、そんな筆者も、さすがに連日連夜、ぶっ通しで大量の文書作成を行った後では、消化不良状態に陥ったのであった。

それが一つだけのテーマに関わる論文などであったなら、まだ興味も力も尽きなかったかも知れないが、いくつもの仕事を同時に抱え、次々と取り組んでいるうちに、ついに文章を見るのも考えるのも嫌になったのである。もはや自分が何を書いているのか、自信もないが、推敲など考えたくもない、どんなにひどい誤字脱字が発見されようとも、知ったことではない、意味内容に錯綜が見られ、議論が紛糾したとしても、どうでもいい、というほどの心境に至ったのである。

しかし、何とかして最低限度のハードルだけはクリアするよう仕上げて手離したと思った直後、またもや頭痛をきたらせるような複雑な案件を、メールだけで解決しなければならなくなった。

その案件もまた、意味が伝わりさえすれば良いと気楽に構えていられるような内容ではなく、交渉事を有利に進めなければならない真剣勝負であった。格闘技にたとえれば、にらみ合っている対戦相手に、最初のわざをしかける瞬間だろうか。威勢のいい啖呵を切って、率先してイニシアティブを取り、相手を威嚇し、後退させねばならないような場面なのに、にらみを利かせるどころか、意味さえ通じるかどうか不明な文章を書き送るのが精一杯だったのである。

筆者としてはそのメールの内容は無念の出来栄えであり、まるで千鳥足で歩くような隙だらけと言ってよい主張だったにも関わらず、その案件は、こじれることもなく、誤解を生むこともなく、まさに筆者が願った通りの効果を生んで、決着が着いたのであった。これはとても不思議なことであった。

おそらく、消化不良状態で作成した文書にも、これと同じことが当てはまるはずだと考えられる。売り物の文学作品でない以上、もともと完璧が要求されているわけではないのだが、そのことをさて置いても、文書の価値は、文字だけにあるのではなく、内面に込められた力にあり、その力のもたらす効果は、文字を超えるのだと言えよう。

だから、その文書には、内面的な力の裏づけがある以上、たとえ未完成であったとしても、この先、十分な効果をもたらすはずだと筆者は確信している。(むろん、ここで言う内面的な力とは、人間の生まれながらの文才や、文章が呼び起こす情感や、あるいは法的根拠のことではなく、地上のすべての法体系を超えた、信仰による御言葉の正しい霊的秩序の裏づけのことである。)
 
私たちが、聖書の御言葉をすべての物事に対して徹底して貫き通す時、対立や紛争が広がる前に打ち砕かれて、早期に平和が到来するということもしばしば起きる。なぜなら、私たちは、信仰によって、暗闇の勢力がしかける罠を、彼らが実際に行動に移すよりも前に見抜くことができ、事前にこれを無効化できるからである。この問題についてはいつか別に書き記すことにしたい。
   
さらに、別な事例もある。以前の記事にも書いた通り、本年が始まってすぐ、筆者は危うく寝たきりになるかという危険にも遭遇したが、筆者が寝込みそうになっていた時、かねてより取引のあった人から、ある買い物をした。すると、今までにはなかなか望んでも手に入らなかった商品が、破格の値段で、山積みとなって提案されただけでなく、通常であれば、東京方面まで出向いて受け渡しをせねばならないところ、売主がとても熱心に購買を勧め、筆者の住んでいる近くまで受け渡しに来てくれたのである。時間も体力もない時であったから筆者は大助かりであったが、そんなことはこれまで一度も起きたことがなかった。

これらはみなすべて、キリスト者には「万策尽きた」という状態が来ない、ということを証明する事例である。キリスト者には、常に必要のすべてが信仰によって、恵みによって与えられ、「足りない」とか「及ばない」ということが決してない。だから、自分の今持っているものを見て、それがとても少ないからと言って、願いをあきらめてはならない。もしその願いが、御心に反しない、正しいものであるならば、それを達成する手段を、神は必ず与えて下さる。筆者の力が尽きても、それで事が終わりとならず、筆者が身動きの取れない時には、筆者の代わりに、他の人が動いてまで事が達成されるのである。

だが、このことは、決して、私たちが他人の目から見て、偉大な人間になることを意味しない。私たちの持っている「かめの粉」も「びんの油」も、決して溢れるほどにはならず、人の目から見て、我々の持っている知性や富や力は、ごくごく限られた貧弱なものに過ぎないかも知れない。

それにも関わらず、この貧弱な土の器を元手として、それを信仰によって何倍にも増強して、勝利をおさめることが実際に可能なのであり、私たちはそのように収穫を来たらせるような達成を続けて歩むべきなのである。

冒頭に挙げた、時をよく用いなさい、という御言葉は、以上に説明した通り、私たちが自分たちの生まれながらの微小な力を、御心を実現するために、信仰によって行使するとき、それが何倍にも増し加えられ、思いもかけない収穫を生むこと、そこで私たちは、たゆみなくそのような収穫を目指して進み続けなければいけないという意味を持つ。

多くの信者は、ただ何もしないで祈り、ぼんやりと空を見上げて待っていれば、千倍、百倍の祝福が空から降って来るなどと考えているようであるが、そのようなことは決して起きないと言えよう。

もしも心から祝福を得たいと願うならば、祝福を願うだけでなく、それを勝ち取らなければならない。それは目的地にたどり着きたいなら、たどり着きたいと願うだけでなく、実際に目的地に向かわなければならないのと同じである。

私たちは、永遠に至る収穫を得たいと願うならば、まず自分が持っているなけなしのものを、神のために捧げ、次に、御心を実現するために、具体的な行動に出なければならない。収穫はそれに続いてやって来る。肝心なことは、主にあって、真に正しい目的のために、御心を満足させると確信する目的のために、自分のなけなしのものを捧げることである。

そうすれば、自分の力がいかに限られたものであろうと、その限界に制約されることなく、いかなる行き詰まりにも達することなく、「勝ち得て余りがある」と言える人生を送ることができる。

だから、人の目に「足りない」とか「及ばない」ように見える有様に、決して心を留めてはいけない。決して、自分自身の限界に目を留めて、正しい願いを実行に移す前に諦めるべきではない。私たちが自分から諦めて退却することさえなければ、神は私たちが持っている取るに足りない力を使って、十分にご自分の栄光を表す大胆な御業をなして下さる。その結果、私たちは神を信じることが、決して失望に終わらないという御言葉の正しさを知り、主と共に喜びに溢れるだろう。そうして、この地上においても、永遠の領域においても、巨大な収穫を得るチャンスを逸さないで生きることは実際に可能なのである。

2019年1月 6日 (日)

主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。
また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。

どのような時にも、”霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。また、わたしが適切な言葉を用いて話、福音の神秘を大胆に示すことができるようん、わたしのためにも祈ってください。

わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。」(エフェソ6:10-20)

オリーブ園の直近のオースチンスパークスの記事「「霊の力の回復」第四章 霊の事柄のための霊的能力 (11)」も依然としてタイムリーな内容である。

この論説は、今日の弱体化した教会(エクレシア)が主の霊によって力づけられ、上から生まれた人々によって構成され、霊的な戦いに対して十分に備えられ、訓練された戦闘員となる必要性を訴えている。

前回の記事にも書いた通り、今日、クリスチャンと呼ばれている民の多くは、戦争が勃発しているのに、そのことを知らされずに非武装のまま土地に残された民間人のようである(まして非クリスチャンは戦いがあることなど全く知らされていない最も無防備な人々である)。

しかし、彼らが知らなくとも、戦いの火蓋はすでに切って落とされており、暗闇の勢力の欺きの活動が存在し、敵の襲来が迫っているのは事実であるから、彼らがずっと無防備のままであれば、やがて捕えられ、捕虜として引いていかれ、緩慢な死に追いやられるか、たちまち暴虐に見舞われるか、いずれにしても、悲劇が待ち構えているだけである。

そのような結果に至らないために、我々は戦って勝利をおさめなければならない。だが、今日、戦いがあることを知って、神の武具で武装して、きちんと戦闘に備えているクリスチャンはほとんど見当たらない嘆かわしい現状がある。

そこで、一部、ごくわずかに訓練を受け、戦いに備えて武装することを知っている信者が、無防備な民のために見張り人となり、防御兵の役目を果たさなければならない。

バビロンの倒壊はすでに始まっているのであり、私たちはその滅びに巻き込まれないよう、自分だけでなく、多くの人々をも避難させる役目を担っている。サムソンは最期の力を振り絞ってペリシテ人の神殿を倒壊させ、自分もその下敷きとなって死んだが、今日、私たちはキリストの十字架の死と復活を帯びているから、自分自身と人々を倒壊する火宅から生きて助け出す力を持っている(ただし霊的には絶えず死をくぐらなければならない)。

私たちが激しい戦いの中で、自己の安寧を最優先して、さっさとあきらめて退却するのか、それとも最後までその戦いの中に踏みとどまって、勝利を確信し、人々を説得して避難させ、彼らが川を渡り終わるまで、そこで最後まで契約の箱を抱えあげて立ち尽くせるかどうかで、多くの人々の命運までが決まってしまう。

エクソダスは一人だけで成し遂げられるものではなく、多くの人々がそれに続くのである。彼らが紅海を渡り終えるまで、海を切り開き、道を支えている誰かが必要である。

筆者は長い間、そのことを知らず、筆者自身も、自分が戦闘員として立たされていることに気づいていない一人であったが、それでも神の子供の一人として、さまざまな訓練を受けることになり、それが戦闘員とされるための訓練であることが、徐々に分かって来た。そうこうしているうちに、ついには、自分の生まれながらの弱さや限界、あるいは知恵の不足をすべて補って、自分のものではない、神の上からの力が私たちの内に働き、どんな激しい戦いをも最後までくぐり抜けることを十分に可能にしてくれるため、私たちはそれを最後まで信じて立ちおおせなければならないことが分かったのである。
 
オースチンスパークスが以下で「非戦闘員」と呼んでいる人々は、ほとんどが、いわゆる既存のキリスト教の組織や団体の枠組みの中にいる人々である。それらの団体の構成員は、血縁や、友人関係や、その他の地上の生まれながらの魂の情愛による絆や、縁故によってほとんど占められており、神の命によって生まれたのでない大勢の人々、また、地上的な人間関係の絆でがんじがらめとされている。その団体は全く霊的な戦いがあることも知らず、その戦いに巻き込まれないために、垣を巡らし、城壁を作り、その中に閉じこもってしまった人々である。

しかし、聖書におけるエクレシアはそのようなものではなく、神の新しい命によって上から生まれ、キリストの頭首権に服する人々によって構成される目に見えない共同体である。そして、私たちは自己の安全のために、自分の団体の中に閉じこもるのでなく、絶えず全世界に出て行って、福音を宣べ伝える使命を帯びている。

自覚があろうとなかろうと、一人一人のクリスチャンは、常に新しい霊的領土を獲得するための戦いの中に置かれているのであり、私たちの信仰的態度は、私たちが身を置いている見えない領域に、誰の支配が及ぶのか、すなわち、キリストの主権が打ち立てられるのか、それとも、それに反する者の主権が打ち立てられるのか、激しい支配権の争奪戦の行方を決定する。

私たちはそこで暗闇の勢力の支配を駆逐し、彼らが恐怖によって人々を従わせようとするわざを打ち壊して、そこに自分たちが掲げているキリストの御名の旗を打ち立てて、キリストの主権を確立せねばならず、その作業によって、私たち自身のみならず、大勢の人々が、暗闇の支配下から解放され、まことの命なる方の支配へと移し出されるのである。

しかし、それは決して、私たちがこの世の力によって支配権を奪還するというクーデターによって成し遂げられるものではない。むしろ、私たちが最も弱くされて主と共に十字架の死を通ることによって、そこに逆説的に復活の命が働くという方法でなくてはならない。

その時、私たちの弱さの中に、私たちのものではないはかりしれない神の力が働き、私たちが霊的に経由した死と復活が、すさまじいまでの衝撃力となって、これまで暗闇の勢力の欺きにとらえられて盲目とされていた多くの人々にも波及し、人々は自ら事の本質を悟り、神に直接、連なって、愛する御子の支配下にかくまわれ、そこで御名のために命をかけて戦うことのできる戦闘員へと変えられて行くのである。

次の御言葉は、今日の荒廃した状態の教会にも、当てはまるものであり、終末の時代のことだけを指して言われたわけではないと筆者は信じている。

シオンの子らよ、あなたがたの神、主によって喜び楽しめ。主はあなたがたを義とするために秋の雨を賜い、またあなたがたのために豊かに雨を降らせ、前のように、秋の雨と春の雨とを降らせられる。
 

打ち場は穀物で満ち、石がめは新しい酒と油とであふれる。 わたしがあなたがたに送った大軍、すなわち群がるいなご、とびいなご、滅ぼすいなご、かみ食らういなごの食った年をわたしはあなたがたに償う。

あなたがたは、じゅうぶん食べて飽き、あなたがたに不思議なわざをなされたあなたがたの神、主のみ名をほめたたえる。

わが民は永遠にはずかしめられることがない。 あなたがたはイスラエルのうちにわたしのいることを知り、主なるわたしがあなたがたの神であって、ほかにないことを知る。わが民は永遠にはずかしめられることがない。


その後わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。

その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ。 その後わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。 その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ。

だが、上記の御言葉を、聖霊を受ける必要性だけをことさらに強調する運動と混同することはできない。私たちの信仰生活の中心に位置するものは、いつでもキリストの十字架の死と復活でなくてはならない。十字架を中心に据えず、自分への祝福や、霊的現象ばかりを追い求めれば、必ずや別な目的へと逸れて行くことであろう。

必要なのは、万民祭司の時代にふさわしく、私たち一人一人の信者がキリストに直接、連なり、神の霊によって上から生まれ、直接、御霊から教わる民となることである。そして、日々、自分の十字架を取って主に従い、子としての訓練を受け入れることである。
 
私たちは地上的な団体に所属して形骸化した信仰生活を送ることを神に従うことと同一視するのではなく、上から生まれ、神の教会の中に、直接、上から置かれ、そこで使命を与えられ、果たすことの意味を考えなければならない。

戸口で自己を焼き尽くされた上で、目に見えない共同体であるエクレシアの中に入れられ、そこで神が望んでおられる役割を果たすことの意義を考えなければならない。エクレシアはただ単にキリストが再び来られるのを待ち望んでいる聖なる花嫁であるだけでなく、頭首なるキリストの意を受けて、それを地に実現するための神の最強の軍隊でもある。神の多種多様な知恵が、教会を通して、天上の諸々の主権や権威に対して知らしめられ、教会を通じて、サタンのわざが打ち壊され、サタンが天から投げ落とされ、神に栄光が帰されるのである。

エクレシアには主の安息が満ちていると同時に、これは花婿の栄光のために戦う花嫁でもある。そして、そのような役割を確実に教会が果たせるようになるためには、幾度も述べた通り、一人一人の構成員が真に主と共なる十字架の死と復活を経て、神の命によって上から生まれ、エクレシアの中に上から入れられ、それぞれの場所に置かれる必要がある。そうなって初めて、それぞれに置かれた場所で、自分にどのような召しが与えられているのか、各自が理解して、これを果たせるようになるのである。

私たちは、主の御名によって呼ばれる軍隊の一人として、目に見えない霊的なミッションを担う戦闘員として、自分に与えられている召しが、確かに自分自身の思いから来たものではなく、神から来たものであることを確信し、どんな犠牲が伴っても、それを最後まで貫徹して勝利をおさめ、成果を勝ち取るまであきらめないという強い願いを持つ必要がある。

そのような召しを与えて下さることは、ただ神だけに可能であるが、私たちクリスチャンは一人一人が本来、みなそのように神の武具で武装し、戦いに熟練し、霊的に訓練された戦闘員となる必要があり、エクレシアはそのように整えられた戦闘員によって神の栄光のために大胆なわざがなされるべき場所なのである。

以下、オースチンスパークスの論説から。

  最も霊的な事柄に関しても、多くの非戦闘員がいるおそれがあります。彼らがその中にいるのは、そこから出るのを恐れているからです。彼らは撤退しようとしません。それは自分に何が起きるのかを恐れているため、あるいはその中に友人がいるため、あるいはそれに個人的関心を持っているため、あるいはそれに全く同意しているためです。

主に私たちの心を探ってもらって次のように自問しましょう。「なぜ私はこの中にいるのでしょう?私がその中にいるのは、上からその中に入ったからでしょうか?神が御自身に関する強力な経験に基づいて私をその中に置かれたので、それ以外どうしようもないためでしょうか?それは辞めたり、引き下がったり、他の何かに行ったりできるものではなく、私の命なのです」。

神がそこに一つの民を獲得される時、彼の主権が宣言される扉が開かれます。とても多くの人々は隅にいて傍観しています。それが正しいのかどうかまったく確信がなく、それは完全に安全なのかどうか疑問に思っています。そして、状況を分析しています。これは彼らがその中にない証拠です。主の主権は、その中におらず、そしてその中に上から入ったことのない人々のせいで、停滞させられるおそれがあります。

 私たちは神に属する事柄の中に上から入らなければなりません。協会や運動に加わるようにキリスト教に加わることはできません。そのように神の事柄の中に入ることはできません。「上から入る」という言葉で私が何を言わんとしているのか、あなたは疑問に思っておられるでしょう。私が言わんとしているのは、あなたは死んで葬られ、今や天の側から中に入ったということです。それは開かれた天を通ってであり、あなた自身の心の中にイエス・キリストが啓示されるという方法によってです。これはあなたにとって地的事柄では全くありません。その起源は天にあります。

2018年12月16日 (日)

女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならない。

このところのオリーブ園の連載は、クリスチャンにとって相当に厳しい教訓を示したものである。オースチンスパークスはすべてを比喩で語っているが、筆者にはこのことが非常によく分かる。

たとえば、最新の記事を見てみよう、なぜ、主の民には、「主と共に進み続けて主が意図された全き豊かさの中に入ることに失敗した」ということが度々起きるのか。

クリスチャンはキリストの復活の命の満ち満ちた豊かさに入れられるよう定められている。それがクリスチャンの使命である。にも関わらず、なぜ主の民の多くには、神の御心ではない弱々しさ、時ならぬ死、主のためではない困難や、貧しさ、苦しみが満ち溢れているのか。

それは結局、主の民が神以下のもので妥協する(神が望んでおられる水準以下のもので妥協する)ことを繰り返したためである。肉的なもの、地的なものと妥協した結果、神の命ではない、朽ちゆく堕落した命の束縛が主の民にもたらされたのである。

別の言葉で言えば、それはどこかの時点で主の民が、十字架の死と復活の地点にとどまることに失敗し、自分の肉を優先し、自己の利益を得ようと、十字架の装甲の中から外に出てしまったことによる。

筆者自身の経験と確信に立って言えば、それはほとんどの場合、人情を優先すること、そして自分の地上の生活を守ろうとする態度から来る。

キリスト者の人間関係はすべて十字架の死に渡されていなければならないが、そこへ信者が肉的な思い、地的な思いを混ぜ込み、肉親の情愛、年功序列、親しい友人間での優遇や配慮などを公然と持ち込み、それをあたかも信仰によるクリスチャンの交わりであるかのように置き換えて行くと、交わりそのものが腐敗するということが起きる。

また、教会が脅かされ、クリスチャンが義のために立ち上がって戦わなければならない時に、自分の生活の心配を優先させて、立ち上がることを怠る。すると、悪が公認されたも同然に解禁され、教会は自由を取り上げられて、迫害され、証の言葉は取り去られ、主の民はますます貧困になり、苦しめられるようになって行く。

私たちがもし神でない何者かに承認を与えるならば、その者が私たちに対して神のように振る舞い始めるであろう。宗教指導者に権威を与えるならば、その者があなたに対して神のように振る舞うであろうし、この世の仕事を最優先にするならば、その仕事や上司や会社の規則があなたの心を支配するであろう。暴君のように凶暴な人間の脅しの言葉に屈するならば、あなたはその者の意向に従ってしか生きられなくなる。肉的な情愛を交わりの中に持ち込むならば、その肉的関係が許した範囲でしか前に進めなくなる。

クリスチャンが最優先の目的として目を注いだその対象が、その信者にとっての「神」となるのであり、もし私たちがキリストから一瞬でも目を離すならば、あなたの目を逸らさせた何かがあなたの心を支配するようになり、やがて神でないものを神としたことの厳しい報いがあなたの人生に訪れることになる。

多くの信者らが、そのように地的な思いで心を占領された結果、神の教会の中には、いばらや雑草が公然とはびこるようになり、それに対して私たちは非常に厳しい態度を取って、ちょうどレビ人が同胞を剣にかけて殺した時のように、聖絶のものを断ち切り、自分の魂の愛の対象となるものを十字架の死に渡さねばならない瞬間が訪れる。

だが、そのようにして是正が間に合うこともあまり多くはない。多くの団体は、主が望んでおられるのとは違った方向へ一旦、歩き始めると、その後、当初、目指していたものからはますます遠ざかるばかりで、その歩みを止めることも、是正することもできない。

そうなると、その腐敗に気づいた個人が、自らの意志で、神の命の息吹をほぼ完全に失った団体を出て、御言葉に従って、信じる方向へ向かうこと(エクソダス)しか選択肢はなくなる。その方向づけとなるのは、やはり、信者が聖書の御言葉への信仰に深く立ち戻り、どこまでも目に見えないただお一人の神を優先し、地的なすべての利益を後回しにしても、ただ神の御心を満足させることだけを第一に追い求めて生きる強く熱心な心の願い求めしかない。

回復されなければならないのは、信者が自分の生まれながらの命のすべてと引き換えにしてでも、神を知りたいと願う純粋で熱心な信仰の希求であり、代価を払って神の国とその義を第一優先して生きる姿勢である。

そのための道は、多くの場合、一人で歩かねばならない。あなたはちょうど人目を避けてスカルの井戸に水を汲みに来たサマリヤの女のように、人の目からは隠されている細く狭い道を一人で辿ることになろう。それでも、道から迷い出てしまったと気づいたならば、一人で細い道を歩き続けてでも、目的へ戻るべきである。

大勢の人々と連れ立って広い門を通って行ってはいけない。今日、あまりにも多くの信者らは、代価を払うことを厭い、地的な思いで心を占領され、公然と別の道へ逸れてしまい、神の御心に反するものに対して、かつては公然と異議を唱えていた人々でさえ、沈黙へ入りつつあるが、その真似をしてはいけない。なぜなら、その結果として、彼らには思いがけない貧しさと孤独と災いや悲しみが降りかかることになるからである。

クリスチャン生活における豊かさは、私たちがどれだけのものを主のために投資したかによって保証される。そのためにこそ、我々には神の武具が与えられており、これを行使して、敵を駆逐し、新たな領土を獲得することが要求されている。

その法則を知っているのに沈黙し続けている今日の信者らの状態を、筆者は非常に御心に反するものと思って憂慮しており、その沈黙の後に、彼らに訪れる時代がどんなに不自由で暗黒のものとなるのかに思いを馳せずにいられない。

私たちは、小羊の血潮と証の言葉によって、敵の虚偽の圧迫を打ち破る力が与えられているわけだから、神の武具を公然と使用して敵を打ち破り、圧迫を跳ね返し、新たな領土を獲得することをやめてはいけないのである。

だが、代価を払ってその戦いを貫徹する人々があまりにも少ないこと、そして、その道が、人の目には安全に見えても、その実、無用な貧しさと苦しみと死に至る道であることを人々が自覚していないことを憂慮する。一旦、証の言葉を宣べるのをやめて、沈黙に入ると、再び沈黙を破ることがいかに難しくなるかが分かるであろう。

そこで、よくよく心に留めていただきたい、もしあなたが霊的な敵を追い出さないならば、あなたは敵を追い出せなくなるのだと。敵を追い出さないことは、敵と協力しているのと同じなのだと。あなたに課せられた使命は、あなたの信仰が十分に強くなって、あなたが敵としている者たちを力強く追い出す権限を持っていることを十分に自覚し、その権限を実際に行使することである。ところが、それを行使せず、神の御心に反するものと妥協するならば、あなたは御国の後継者としての資格を失いかねない。

なぜなら、私たちが敵としている者は、正統な資格がないのに、神の御国の後継者を詐称して、正統な後継者を追い出そうとしている者たちだからである。彼らの目的は、あなたに御国を継がせないこと、その後継者たる資格を行使させないこと、あなたを神の命の豊かさに入らせないことである。

そのような者を、固く信仰に立って追い出す権限が、クリスチャンに与えられていることを私たちは自覚すべきであって、パウロの言葉を思い出さなければならない。

「ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。」(ガラテヤ4:28-31)

御国の後継者を詐称している者たちについては、彼らの本質を見抜き、彼らが犯している悪事を公然と主張し、これを明るみに出さなければならない。そうすれば、おそらく、それ以上に何もせずとも、これらの者は恥をこうむり、クリスチャンから手を引いて逃げ去るであろう。私たちの戦いは血肉のものではないので、私たちの武器も、この世のものではないからである。

(毒麦を引き抜く仕事は私たちの仕事ではなく、それは神がなさる仕事である。しかし、毒麦は毒麦たる本質をきちんと露わにするため、これを見抜いて指摘することは十分に可能かつ非常に有益な仕事である。主の民が無用な攻撃を受けている時に、それを見て見ぬふりをすることは、敵の悪事に加担するのと同じである。)

重要なのは、どれほど敵が優勢で勝ち誇っているように見えたとしても、キリストの十字架の勝利に立って、その事実を信仰によって地に引き下ろすまで、決して諦めることなく敵の圧迫に立ち向かうことである。
 
そのようにして敵の虚偽の圧迫に立ち向かわねばならない時に、御言葉を高く掲げて立ち向かうことをせず、人情を優先して妥協するならば、神の教会がますます弱体化することとなり、場合によっては、あなた自身が彼らによって追い出され、御国の後継者たる資格を失うことになるであろう。あなたは神と富とに兼ね仕えることはできないという御言葉の厳しい教訓を思わなければならない。

しかし、主の方を向くならば、すべての覆いは取り除かれて、失われた視力、力も回復される。私たちはどちらへ顔を向けるのか、常に思い起こして、毎日、心を奮い立たせて、勝ち取るべき成果を求めて前進を続けねばならない。前進しないことそれ自体が、後退を意味するのである。
   
オースチンスパークス著、「霊の力の回復」第三章 主と共に進み続ける (2)
 
最初に述べたように、これは主と共に進み続けて主が意図された全き豊かさの中に入ることに失敗したことによります。どこかにためらい、留保、議論、疑問があったのです。どこかで差し控えていたのです。どこかの時点で結果に伴う代価を計算して、抵抗が少ない道を取ってしまったのです。どこかで何らかのささやかな個人的利益を考慮してしまったのです。どこかで完全に滅ぼすことを主が要求されているものを容赦してしまったのです。

主が指さして「これを放棄しなければなりません」と言われたのに、それを放棄しなかったのです。主は一歩踏み出すことを要求されたのに、踏み出さなかったのです。完全に十字架に渡されるべき肉を少しばかり容赦してしまったのです。

そしてこのようなことが起きる時は常に、このように保留し、容赦し、個人的な考慮をするときは常に、失敗が続きます……これが起きる時は常に、ただちに妥協することになります。敵が有利になります。そして神の民の力は弱まって、自分たちが悪の力を解放してしまったことに気づきます。この悪の力は徐々にゆっくりと働いて優勢になり、遂には彼らは自分たちに対する神の御旨よりも劣るものの中に自分たちがいることに気づきます。


 神が意図されたのは豊かさ、絶対的状態、最終的状態、至高性、主権でした。しかし、これらの様々な理由のどれか一つか二つ以上により、彼らは御霊が導かれるように神と共に進み続けることに失敗しました。そしてこの失敗により、彼らは行き詰まっただけでなく、何らかの明確な悪に対して扉を開けてしまいました。そしてその悪が中に入って来て、彼ら自身が主の御名の中で占領すべきだった土地を占領してしまいました。

ですから、彼らはこの標準に達することなく、束縛の中に陥って、最終的に敵を追い出さなかったので最終的に敵を追い出せなくなったことに気づきました。それはこのように作用します。すなわち、それをしないなら、それができなくなるのです。主と共に進み続けないなら常にこうなります。ああ、これらの霊的事実をこのように力強く示すことにより、どうか主がこれを私たちの心にはっきりと分からせて下さいますように……

主と共に進み続けることに関して疑問を持つこと、主が「進め」と言っているのに一瞬でも立ち止まること、私たちのなすべきことを主が私たちに教えて下さっているのに、それ以外の考えが侵入して私たちに影響を及ぼすのを許すことは、極めて危険なことであることを、主が私たちに徹底的に分からせて下さいますように。

2018年11月 6日 (火)

御国が来ますように―天地の架け橋としてのキリストにある「新しい人」(7)

オリーブ園のオースチンスパークスの記事「「私たちのすべてなるキリスト」 第九章 子たる身分の意味と価値(3)」が秀逸なので、この一連の論説を続けて読むことをお勧めする。

そこには、御子が地上にあって、どのように御父から命の供給を受け、権威と尊厳を持って生きられたか、その具体的な方法が記されている。それは、今日、私たちが地上にあって御子と同じように使用できる法則である。

私たちは御霊にあって、その命からすべてを引き出す方法を知る必要がある。これは魔法ではなく、子たる身分に基づいて、神から私たちに与えられた恵みである。

私たちは、キリストの復活の命の中から、日々の糧、人々と関わる際の知恵、この世を圧倒的に超える権威、目に見えない高い霊的な地位を供給されるのである。

キリスト者として歩むに連れて、私たちはいかなる人間関係の中においても、自分が支配的・優越的地位に立たなければならないことが分かって来るだろう。それがなければ、私たちに与えられた自由は発揮されることがないし、私たちの霊的権威が地上に及ぼされることもない。

とはいえ、私たちはこの地上において、王でもなく、支配者でも、権威者でもない。むしろ、何の肩書も持たない寄る辺のない民のように見えることであろう。

しかし、その弱く貧しい民が、キリストにあって、彼と共に、地上のすべてのものを足の下にする圧倒的な力と権威を授けられているのである。それはこの世の経済、物流、そして人間関係にももちろん適用される。

私たちが地上のものに心惹かれ、それに心を奪われてしまうと、それが人間であっても、物質であっても、その目に見えるものが私たちの心を支配することになる。しかし、正常な秩序は、それとは逆に、私たちがすべての地上のものを霊的に支配することにある。

私たちが心に抱いている永遠の望み――私たちの信じているただお一人の神、その御名が、すべての目に見えるものにまさる権威として掲げられれ、万物が、私たちの存在を通して、キリストに服従することが、神が望んでおられる正しい秩序なのである。

従って、それゆえに、内にキリストを持ち運んでいる私たちは、地上のどんなものに屈服してもならず、地上の支配よりも下に置かれてはならず、この世の経済や、人の思惑や、この地上に立てられた権威にまさる、これらを霊的に支配することのできる目に見えない霊的権威を与えられているのであって、その霊的権威を行使することによって、初めてこの地上に、御国の秩序を引き下ろすことができる。

私たちは、御子が地上におられた時にそうであられたと同様、この世のすべての物理法則、事物、人々を超越して、霊的に支配する立場に立つことができるのであり、また、そうしなければならない。

それは本当に、御子がそうであられたのと同じ、この世に渦巻く諸々の支配や思惑に巻き込まれて翻弄されることのない、この世の触れることのできない、貴い、崇高な天的な地位である。天の御座から、地上のすべてのものを統べ治める立場である。

その高い地位は、様々な試練の中で、信仰を貫き通す時に、初めてはっきりと姿を現して来る。いわば、エジプトに売られた日の幼いヨセフが、生長して、ファラオに次ぐエジプトの宰相となり、知恵と権威を持ってエジプトを治める者となって、現れて来るような具合である。

キリスト者が人生で遭遇するすべての出来事は、こうして本人の霊的成長に合わせて、スケールが拡大して行く。戦いのスケールも、霊的成長に合わせて拡大して行く。

その中で、私たちはこの世を超える圧倒的な権威を行使する術を学ぶようになるが、しかし、それは、霊的成長に伴う、霊的権威の増し加わりであって、必ずしも、私たちがこの世で、人々がその名を聞いてすぐにひざまずくような、何か圧倒的に偉大な権威を手にすることを意味しない。

私たちの権威は、地上の肩書、地位ではなく、御名に由来するものである。

こうして、御名の権威が私たちを通して地上に現れ出るために、この世の経済、物流、人の心、物事の有様、といったすべてのものを、私たちは、キリストにあって、私たちの意志の下に従属させ、屈服させていく方法を学ぶ必要がある。

それは激しい支配権の争奪戦の中で、十字架を貫き通すことで初めて可能となるが、このように、あらゆる試練の中で、信仰による確信を捨てずに進んで行くならば、不思議と、物事も、人々も、諸条件も、いずれ私たちの意志の下に服するようになるのである。

私たちの意志の下に、と言っても、私たちが御言葉に服従し、キリストにあって生きている以上、それは私たちの存在を通して、地上の事物が、御名の権威に服することを意味する。

こうして、キリスト者は、地上の諸原則をすべて足の下に従える方法を学ばなければならない。それができるようになって初めて、キリストにある新しい人――地上の堕落に巻き込まれ、触れられることのない、真に高貴な人としての霊的地位が現れ出て来ると言えよう。

異教のシャーマンや、修行僧も、物理法則を従える方法を熱心に研究している。しかし、私たちは、そういう修行を通して自己改造するのではなく、私たちの内側に与えられている新しい命の法則に従って自然に生きることにより、この世を超越する新しい法則の中を生きる方法を身につけるのである。

ただし、私たちは肉体的な修行の中を通りはしないが、日々の十字架は負う必要がある。この痛みに満ちた教訓なくして、決して私たちがヨセフのような崇高な地位に立つことはできない。

キリスト者は、神にあって自分に与えられたこの新しい命の力を開発し、知らなければならない。キリストの復活の命の中に、神がどれほど人を愛され、恵まれ、人に崇高で重い使命を託されたか、なぜ、どのような目的で、神は人を創造されたのか、その答えが凝縮されて込められている。

アダムが創造された時、神はアダムに地を治めるように求められたが、その使命は、今日、キリストを通して、キリストにあって生きる私たちに託されている。私たちはこの新たな法則――御国の到来を、人々に告げ知らせる者であり、その新しい法則を実際にこの地上にもたらし、霊的収穫をもたらさなければならない。そうして行くときに、その支配権が、不思議な形で、この世の事物だでなく、多くの人々の心にも及んでいる様子を見ることができるだろう。

2018年11月 3日 (土)

神の国とその義を第一として生きるならば、地上の必要をはるかに超えて、願うものはすべて添えて与えられる。

一つ前の記事で、私たちの目標は、ただ自分が何とか生き延びるといった低い次元にとどまっているべきではなく、キリスト者の人生は、ただ地上の必要を満たされて生きる、などという卑小なレベルをはるかに超えて、もっともっと自由で独創的なものであるべきだということを書いた。

これまで当ブログにおいては、信仰生活において、重要な役目を果たすのは、各自の望みであり、御霊と同労する生活においては、各自の望みこそ、無から有を生み出す原動力になって行くのだということを繰り返し強調して来た。

そして、その望みとは、神の国と神の義とを第一として生きることの妨げにならないならば、どんなものでも構わないのである。

聖書にはこうある、

あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」( ピリピ2:13)

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」(マタイ7:7-11)

今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう」。」(ヨハネ16:24)

「 イエスは答えて言われた、「神を信じなさい。 よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。
そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。 」(マルコ11:22-24)

あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。」「わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。」(ヨハネ15:7-8,11)

たとえば、筆者は珍しい鳥を探し求めている。そして、筆者のそのような趣味を「贅沢だ」と批判した人がいないわけではない。また、「福音の奉仕者となりたいならば、パウロのように自分をいつも身軽にしておくために、ペットなど飼うのはやめなさい」と忠告して来た人もいた。

しかし、筆者はそのような考え方が正しいものだとは思わない。伝統的なキリスト教では、あまりにも偏った禁欲主義や愛他主義が説かれており、それゆえ、クリスチャンが自分個人のために何かを望むこと自体が、まるで罪であるかのように教えられ、制限されている向きがあるが、その考えは誤っている。

クリスチャン生活とは、慈善事業ではない。大規模な福音伝道を行い、改宗者を増やすことや、困っている人々や、貧しい人々を助けることだけが、クリスチャンの目的なのではない。

もちろん、筆者は、豪奢な生活を送り、それを自慢したいがために、珍しい鳥が欲しいと言っているわけではない。庭つきの豪邸を手に入れ、そこに大型鳥のための部屋を作り、外国から特注の餌を取り寄せ、毎日のように鳥との触れ合いの写真をインスタグラムにアップする…そんな自己満足的生活を「神の恵み」として誇りたいがゆえに、以上のように言うわけではない。

もしも私たちが物欲を第一として生きるなら、その生き方は確かに根本的に間違っていると言えよう。しかし、神は地上のすべての生き物を人間のために造られ、すべての目に見える環境条件、物理法則を、人間のために造られたのである。

神はこの地上を、私たちのために恵みとして造られ、地上にあって、私たちが大いに主を喜び、その栄光を知ることができるように、万物を造られたのである。そして、それぞれの生き物に、他の種類とは全く異なる独自の生き方や個性を与えて下さった。それは人間も同じである。

キリスト者は、神にあって、自由と豊かさの中を個性的に生きる権利が与えられている。そこで、人前に敬虔な信者と見られたいがために、あれも望むまい、これも望むまいと、自分の望みを過度に制限し、あらゆる禁止事項で自分をがんじがらめにしながら、自分の心の必要を置き去りにして、人に批判されないかどかばかりを気にして、ただ他者の評価だけを求めて生きることが、クリスチャン生活の目的では決してない。

熱心に日曜礼拝に通い、奉仕と献金をし、伝道に邁進し、あるいは神学校に行くなどのことが、神が人に望んでおられる敬虔な信仰生活のモデルなのでは決してない。クリスチャン生活において、誰もが同じように指導者になったり、有名な教師やリーダーとなって人を教えることが、共通の目的では決してないのである。

信仰生活とは、もっともっと個人的なものであり、多くの場合、人がその人自身にしか分からない方法で、隠れた領域で、神と同労して生きることを指す。その中には、その人が真にあるべき自然でチャーミングな人として、誰とも異なる自分の人生をひそやかに生きて行くことも含まれる。

そこで、私たちは、それぞれに自分なりに他者とは異なる望みを抱いて、自分の人生を自由に個性的に生きて良いのであって、それは神の喜ばれる、神の御心にかなった事柄なのである。

そういう意味で、クリスチャンは、自分が心に抱く望みを、もっと尊重して良いのであり、大いにそうすべきである。

筆者は、そのように生きる中で、些細で個人的な望みであっても、主と同労して求めて行くならば、実にタイムリーで不思議な出会いが与えられ、それが実現の運びとなることを、幾度も経験して来た。

ただし、断っておかなければならないのは、目に見える物質的な何かを手に入れたいという願いは、人間が心に抱きうる願いの中で、あまり高い望みとは言えないことだ。どうせ願うならば、自分が何かを得て豊かになるだけで終わるような低く小さな願いではなく、もっともっと崇高で、達成困難な願いを持つべきである。ちょうど山上の垂訓のように。

ジョージ・ミュラーが信仰だけによって数えきれない孤児を養い、滅びる命を助けることに貢献したように、私たちも、一人の人間としての限界を大きく打ち破って、神の御心を大胆に実現するような、そういう願いを持つべきである。

だが、事の大小に関わらず、私たちの抱く望みこそ、人が御霊に導かれて生きるに当たり、霊的創造を行う起爆剤になるものだということは変わらない事実である。

当ブログでは、以前から、キリスト者は御霊と同労して「環境を創造する」ことができると書いて来た。各自の心に生まれる望みとは、最初はぼんやりした設計図のようなものであるが、設計図が描かれるや否や、御霊の中で、ただちにそれに沿った現実の創造が始まる。

たとえば、私たちが主にあって、何かを手に入れたいと心に願う。すると、それがどんなにかすかな願いであっても、また、私たちが現実に何もオーダーしていないうちから、霊的な世界においては、それがキリストのまことの命を経由して「発注」される。結果として、この世の物流・経済の中で、私たちの心のリクエストにかなったものが、私たちのそば近くまで呼び集められて来るのである。

そこで、私たちはそんなにも長い時間をかけて、ものすごい苦労を払って、望んでいる物品を探し出す必要がない。現実に何かをオーダーしようと決意するまでの間に、すでに願い求めたものは、私たちの近くまで送り届けられて来ている。必要なのは、所有権を移すための最後の手続きを信仰によってなしとげることだけである。

信仰生活とはこのようなわけで、神が恵みによって私たちのために用意して下さったものを、私たちが喜んで受け取り、それを自分の栄光、自分の満足のためだけに享受するのではなく、キリストにあって、御名の栄光のために、感謝して受け取り、喜び楽しむためのものである。そして、自分が満たされた分を、世の中に還元し、さらに御心を満足させるために、もっと大きな願いを心に抱いて進んで行くのである。

ヴィオロンは地上的な利益に憧れ、享楽的な生活を送りたいゆえに、今更のように「繁栄の福音」を語っているわけでなく、地上的な恵みを享受することの必要性を語るために、この記事を書いているわけでもない。

私たちクリスチャンの使命は、自らの望みによって、信仰によって無から有を呼び出して来る創造行為にあり、自分の願いを実現に至らせることによって、神の御心を満足させることが、私たちの人生目的なのである。そうして生きる時に、私たち自身にも、大いなる喜びと満足がもたらされる。そのことが、神が私たちに願っておられることなのである。

* * *

一つ前の記事で、尼僧になる夢をあきらめて、禅寺の住職の妻になったある人のことを書いた。それは、地上的には、何不自由のない幸福な生活であり、常識にもかなう、誰からも非難されることのない落度のない生き方であったろうが、それでも、筆者は、この人が自分の望みを中途で置き去りにしたことを、大変、遺憾なことだとみなしている。

筆者の考えによると、この人は、もしも自分の高い理想をあきらめずに最後までそれを貫徹して生きたならば、当然ながら、自分自身が女性住職となれたはずの人である。彼女こそ、最も重い責任を担うリーダーの役目を果たすにふさわしい人であった。それだけの評価は、彼女に早い段階で向けられていたはずである。

彼女の夫となった人は、彼女のように高い志を持っておらず、彼女のように誠意ある努力家でもなかった。しかし、彼は男性であるという利点を大いに活用し、彼女を妻として従えることで、自分にはない能力を補ったのである。

つまり、彼女が夫として、自分の主人として仕えた人間の理想は、彼女ほど高いものではなく、そのような人間が、自分よりも高潔な志を持つ人間を従えて、主人となるべきではなかったのだとさえ言えるかも知れない。

ところが、このようにして、本来、低い理想しか持っていない人間に、高い理想を持った人間が仕えさせられるということが往々にして起きる。そのために、崇高な目的が置き去りにされ、それが果たせずじまいとなるばかりか、かえって誰かの低い野望の実現の道具とされて行くのである。

このようにして、人が当初、抱いたはずの高い目標が、達成不可能に終わるばかりか、全くそれとは異なる悪しき目的のために利用されるという出来事が、あるべきことだとは筆者は思わない。

(ただし、筆者はキリスト者であるから、禅寺に入って修行して悟りを得ることが、人の目指すべき崇高な目的だと言いたいがために、この記事を書いているわけではない。真理を探求する道に入った人は、答えを得るまで、決してその探求を捨てるべきでなく、自分が求めているもの以下の答えで満足することは、その人を道から逸らす誘惑になると強調しているのである。)

そこで、筆者はここで大胆極まりない仮説を提示しておきたい。それは、男であれ、女であれ、あるいは家柄や、血筋、財産などに関係なく、真に高潔で達成困難な志を持つ人間こそが、リーダーとして立つにふさわしいのであって、それ以下の望みしか抱かない人間は、むしろ、その人間に仕えるべきだというものである。

この世では、学歴、財産、性別、家柄、血統などによる差別が横行しているが、筆者は、人間の貴賎は、そのような要素によって決まるものではなく、かえってその人が抱く志の高さによって決まるものだと考えている。

ある人は、人間に貴賎などはない、と否定するであろうが、筆者はそうは思わない。志の高い人間と、そうでない人とが、同じだけのチャンスを与えられるべきで、同じ可能性を持っているとは考えない。しかし、志を高く持って生きることは、非常に高い代価を要求されることを意味し、それに耐えて目標を目指し続ける人間だけが、成果を勝ち取ることができる。そのため、その道を行くことのできる人たちはそう多くはない。

ヨセフと兄弟たちとの間に起きた確執はまさにそういう現象であった。ヨセフは幼い頃から、父に理由なく偏愛されたわけではなく、兄弟たちに抜きんでた志の高さを持っており、多くの賜物を与えられた人間であったからこそ、愛され、期待をかけられたのである。

しかし、そのように大きな可能性を与えられたがゆえに、その望みが実現に至るまでの間に、彼は厳しい代価を要求され、他の人々よりもつらく孤独な人生を送らなければならなかった。

筆者には、キリスト教と禅をごちゃまぜに論じるつもりはないが、高い目的を達成するために、厳しい試練が必要となることは、スポーツであれ、学問であれ、宗教であれ、どのような分野においても、変わらない事実である。
 
怠け者で自己中心な生き方をする人間ほど、努力を嫌い、自分を試されることを嫌う。そして、彼らは中途半端な努力で、大きな成果を得たいがために、自分以外の人間の誠実な努力を、自分の野心の実現のために大いに利用する。

高い志を持った人間が、そのような悪事に巻き込まれるべきではない。聖書には、賢い花嫁と愚かな花嫁のたとえがあるが、そこでは、賢い花嫁は、自分が真実な信仰によって蓄えた油を、怠け者の花嫁のために分けてやってはならないと教えられている。

それと同じように、志の高い人は、自分が厳しい代価を払って勝ちえた教訓や成果を、努力もせず、代価も払わなかった他人に、ただでくれてやるようなことを決してすべきではない。

人が代価を払うのは、自分の望みを実現するためであり、望む結果を実現することによって、社会全体にも、益をもたらすことができる。そうなるまで、その人は、決して自分の努力の成果を、他人に譲り渡してはならない。

勝ち抜いて最も素晴らしい賞を得ようとすることは、高慢さの証ではなく、真に厳しい代価なしには成し遂げられない偉業である。その偉業を一旦、目指したならば、最後までわき目もふらずに、その道を貫徹すべきであって、それを達成してこそ、人からも真の尊敬が得られる。

最も高い賞を勝ち取るだけの熱意も覚悟もなく、その努力も払おうとしない人間に、自分の成果を安易に与えるような態度では、その人は誰からも真の尊敬を得ることはできないであろう。
   
さて、ある宗教者が、霊的な世界においても、市場原理主義のような残酷な淘汰の理論が当てはまると吹聴しているため、筆者はこれに対し、反論しておきたい。もし霊的な淘汰の原則を振りかざすのであれば、それはまさに心の領域にこそ当てはまり、「志の高さによる淘汰」を主張するべきであると。

門地、家柄、血統、出自、学歴、性別、コネ、財産の有無、手練手管の有無などによって、人がこの世で淘汰されるかどうかが決まるのではない。極言するならば、志の低い人間こそが、真っ先に淘汰されて行くか、もしくは、志の高い人間に仕える僕の立場に置かれるにふさわしいのである。

それこそが、本来的に正しい霊的な秩序である、と言えよう。そして、この秩序が実現するためにこそ、クリスチャンは地上に置かれている。

しかし、多くの人は問うだろう、「ヴィオロンさん、それならば、なぜあなたの言う『あるべき秩序』とは正反対の現実ばかりが広がっているのでしょうか? なぜ正しい人々が罪に定められ、寄る辺のない者が虐げられ、悪者や暴君がほしいままに振る舞っているのですか。いつまでこんな時代が続くのでしょうか」と。

その問いには、クリスチャンが自ら目指している高い目的のために、いつまでも代価も払わず、世人と同じ目的しか目指さず、常に道を中途であきらめているからそうなるのではないか、と答えよう。どんな困難に直面しても、あきらめずに目的を目指して進み続ける人たちがあまりに少ないために、ここまで世の中が悪化した可能性を考えてみないのかと。

もしもクリスチャンが、神の国と神の義を第一とするという、最も崇高な価値のために、それ以外の価値をすべて二義的なものとして扱う態度を貫きさえするならば、その時、その信者の上に君臨していた横暴な主人は取り除かれ、かえって、そのクリスチャンの目的に、世人を含め、彼を取り巻くすべての人々が仕えさせられる結果となり、彼を憎んでいる敵でさえ、彼の目的に奉仕させられることであろう。

それはちょうどヨセフの作った束に、兄弟たちの作った束がお辞儀したのと同じである。愚かな人間が暴君となって民を支配している時代は、誰もにとって不幸でしかないが、高潔で憐れみの心を持つ君主が上に立てば、民は幸福になる。この地上において、真に高潔な人間が上に立って権威を担うことで、初めて霊的トリクルダウンが起き、自由と解放が行き渡るのである。

そのあるべき霊的な正しい秩序が実現するとき、見かけは全く平凡で弱々しい人間でしかないクリスチャンに対して、その内側におられるキリストのゆえに、この世のすべてのものが服従し、仕えさせられるという、実に不思議で逆説的な現象が起きる。

何の権威も持たない、か弱く平凡な人間に過ぎない者が、キリストと共に、すべてを足の下にするのである。しかし、それは決して、独裁者が強権的に暴力によって民を支配するような残酷な支配ではなく、自由と命による解放である。悲しむ者には慰めが与えられ、貧しい者は満ち足りて喜び、義に飢え渇いている者が正義を見て安堵する。

しかし、それが実現するためには、どのような試練が起きようとも、心の望みを決してあきらめず、自分の目指している栄冠を、決して誰にも奪われることなく、勇敢に目指して進んで行く人たちがいなくてはならない。私たちは、そのような光景を見るためにこそ、日夜、代価を払って奮闘しているのであって、その成果が着々と現れつつあることについては、追って書きたい。

2018年10月29日 (月)

御国が来ますように―天地の架け橋としてのキリストにある「新しい人」(5)

  夕べに田園風景の中を散歩すると、コスモスが見事に風に揺れていた。日暮れが早くなったので、我が家の動物たちとの散歩時間も早めねばならない。もうしばらくの間である、こうして静かに散歩できるのも。あと少しすれば、寒い冬がやって来る。

上記の写真は、鎌倉に住むとある(信仰にある)兄弟が生前、筆者を植物園に案内してくれた時のものだ。この兄弟は、夫人に先立たれ、筆者が仕事や人生で色々な困難にぶつかり、信仰の交わりのために連絡を取ることを控えていた間に、いつの間にか天に召されていた。

それまでの間にも、その兄弟はいくつもの大病を患い、何度も生死の境をさまよいながら、夫人に看病され、支えられ、何とか命を取り留めていたが、その夫人の死後、一人で地上に残されても、まだ元気そうな顔を見せてくれていたのは、筆者のための神の憐れみであったのだろうかと思い巡らす。

もしも筆者が、あの頃、この兄弟をもっと必要として、しばしば連絡を取って、もっと多くの回数、交わりに呼び出していたならば、神はもう少しの間、この人を筆者の必要のために、地上に残しておいてくれたのだろうか?

何しろ、そう考えても不思議でないほど、この夫婦はどちらもが地上に未練というものがなかった。ただ人のために役立つこと以外には、自分自身のためには、この地上で何一つ要求するものも、し残したこともないというすがすがしい人生を送る人たちだったのである。ある意味で、非常に恵まれた環境を生き、多くの人々が地上で執着するような事物には、全く関心がなかった。

だから、彼らは、身近に彼らを必要とする人がいなくなると同時に、ただちに天に召されて行ったのだという気がしてならない。多分、筆者が彼らにとって、地上に残るための最後の必要だったのではないかと思わずにいられない。

さて、我が家の小鳥のヒナたちは、朝から晩まで騒がしい。まるで赤ん坊の世話のように手が抜けないが、何羽もの小鳥が、けたたましく鳴きながら、大きな口を開けて飛びついて来るのを見るのは、何とも言えない喜びであり、愛らしさである。

鳥には春と秋に産卵期があるが、鳥のヒナを育てるならば、春でなく秋がお勧めだ。なぜなら、日本の夏は、素人には気温の調節が難しいからだ。特に、猛暑の終わりから秋にかけての気温の変化は、人体にとっても大きな負担だが、小鳥のヒナにとっては致命的な負担となりうる。

小鳥が体調を崩すにはほんの半日あれば十分で、特に成鳥になるまでの一年間は油断がならない。個体差もあるので、他の鳥にとって何でもない変化が、ある鳥にとってだけ大打撃となったりもするのだ。

とはいえ、小鳥がまだ活発に反応を返している間は、多少、具合が悪そうに見えても、処置はまだ十分に間に合うと期待して良い。成鳥でも、ヒナ同様の保温と、強制給餌とで、回復させることができる。我が家には強制給餌用のカテーテルはないが、鳥にまだ食べる力が残っているうちは、挿し餌と同じ要領で対応できる。固形物ではなく、流動食を与えること。とにかく絶食の状態が続かないようすることである。

これまで筆者には、子供の頃から、鳥に関してはさまざまな思い出があり、悲しい別れやつらい失敗談も数多くあった。特に、子供の頃に最初に見た光景は、人間の無知のゆえに、せっかくかえったヒナも育たなかったという悲しい結果であった。

そういうこともあって、多くの愛鳥家たちは、繁殖をこそ重視して、珍しい鳥のヒナをかえすための研究に日夜、心血を注いでいるが、筆者はそのような研究に没頭する気になれず、まだ卵からヒナを返し、無事に全羽を育て切る自信がないため、巣箱を入れる気にはなっていない。

来年には文鳥よりももっと高価な鳥たちの間で、新たに愛らしく美しいペアが生まれるだろう。新たな学習のチャンスで、美しい色の羽を持つ貴重なヒナたちを育てようと思えば育てられる。そろそろ、巣箱を入れることも、考えてみようか。文鳥あたりから始めるのが良いだろうか。そう思いめぐらしながらも、まだ決断がつかないでいる。

* * *

最近、霊的な戦いにおいて、一つの大きな山場を超えたことがよく分かる。多くの人たちが、まるで正気を取り返したように、最初から至極まっとうなものであった筆者の意見に、大きく頷いてくれるようになった。

一体、この国はもう滅びるしかないのだろうかと幾度も考えたが、崖っぷちのようなところで、何とか正気を取り返し、踏みとどまっている現状だと思う。これから、ここまで退却させられたすべてを押し戻さなければならない。

筆者は人からの理解や賛同を求めているわけではないが、主が送ってくれる援軍はとても心強い。その一言一言に勇気づけられ、心の尊厳を回復し、心を奮い立たせることができる。

だが、気は抜けない。最後の決戦までの大詰めの準備作業が残っているからだ。神は筆者にこの準備のために必要な期間をわざわざもうけて下さった。誰も知らないが、予定が先送りされて猶予が与えられているのは、理由のないことではない。

主のために、教会を守るために、公然と訴えを出せる立場にいながら、生計を維持するために、その作業を先送りしている人たちがいる。だが、筆者は彼らに言いたい、生計を維持することが、私たちの第一優先課題ではないのだと、真に天の御国の権益に寄与する仕事をすれば、すべてのものは添えて与えられると。生計を維持するためにも、まずは御国の権益のために働くことだと。

実際に、御国の権益拡大のために種を蒔くことが、私たちの地上における生存を豊かに保つための最大の秘訣なのである。この原則は、私たちが地上に生きている限り、決して変わらない。だから、勇気を奮って、この原則を試してみることをお勧めする。真に神に喜ばれる仕事を第一とするならば、生きるための必要はすべて添えて与えられる。

さて、筆者が鳥を好きなのは、地に足をつけない(根差さない)生き物だからである。

天高く、空高く、わしの翼のように、翼をかって、復活の命の統治の中を生きていきたいと願う。そう考えながら、ふとイザヤ書の第40章の節を思い出して、御言葉を調べると、何とタイムリーな内容ではないか。

この一章は今、まるで詩のように筆者の心に響いて来る。そうだ、主の回復の時を告げる幸いなニュースが、今、筆者の耳元にも聞こえて来ている。まだ何事も起こらないうちから、麗しい音楽のように、その調べが耳元に届くのである。

まるで訴えを出した人が、正義の判決文が読み上げられる瞬間を待ち望むように、筆者は、主の深淵な取り計らいに、その解放を告げ、自由をもたらす宣言に耳を澄ます。まことに草のようにはかない筆者の存在を、神は御心に留めて下さり、筆者の受けた他愛もない苦難のために、大いなる慰めを与えて下さったのだ。

そこで、筆者は羊のように神の懐に抱かれ、その腕の中で安らぐ。神は乳飲み子のような羊さえ、傷つけることなく優しく導かれる。万物の創造主であるからこそ、私たちすべての被造物の弱さと、そのしかるべき取扱いを心得ておられ、一つの命も絶やすことなく、私たちの呼び声に耳を傾け、適宜、助けの手を差し伸べて下さることができるのである。

自由を告げる福音が、今、私たちの耳に届いている。今日が恵みの日、救いの日である。解放の宣言に耳を澄まし、これを受け入れる人は幸いである。私たちを囚われ人の立場から自由にして下さった、大いなる主の御名の前に畏れかしこみなさい。主の御名を誉めたたえなさい、エルサレムよ、あなたの苦難はすでに終わったのである。

あなたがたの神は言われる、「慰めよ、わが民を慰めよ、ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役の期は終り、そのとがはすでにゆるされ、そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を主の手から受けた」。

呼ばわる者の声がする、「荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ、高底のある地は平らになり、険しい所は平地となる。


こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。これは主の口が語られたのである」。
声が聞える、「呼ばわれ」。わたしは言った、「なんと呼ばわりましょうか」。

人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。 主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」。

よきおとずれをシオンに伝える者よ、高い山にのぼれ。よきおとずれをエルサレムに伝える者よ、強く声をあげよ、声をあげて恐れるな。ユダのもろもろの町に言え、「あなたがたの神を見よ」と。

見よ、主なる神は大能をもってこられ、その腕は世を治める。見よ、その報いは主と共にあり、そのはたらきの報いは、そのみ前にある。主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる。

だれが、たなごころをもって海をはかり、指を伸ばして天をはかり、地のちりを枡に盛り、てんびんをもって、もろもろの山をはかり、はかりをもって、もろもろの丘をはかったか。だれが、主の霊を導き、その相談役となって主を教えたか。

主はだれと相談して悟りを得たか。だれが主に公義の道を教え、知識を教え、悟りの道を示したか。 見よ、もろもろの国民は、おけの一しずくのように、はかりの上のちりのように思われる。見よ、主は島々を、ほこりのようにあげられる。レバノンは、たきぎに足りない、またその獣は、燔祭に足りない。主のみ前には、もろもろの国民は無きにひとしい。彼らは主によって、無きもののように、むなしいもののように思われる。

それで、あなたがたは神をだれとくらべ、どんな像と比較しようとするのか。偶像は細工人が鋳て造り、鍛冶が、金をもって、それをおおい、また、これがために銀の鎖を造る。貧しい者は、ささげ物として朽ちることのない木を選び、巧みな細工人を求めて、動くことのない像を立たせる。

あなたがたは知らなかったか。あなたがたは聞かなかったか。初めから、あなたがたに伝えられなかったか。地の基をおいた時から、あなたがたは悟らなかったか。
主は地球のはるか上に座して、地に住む者をいなごのように見られる。主は天を幕のようにひろげ、これを住むべき天幕のように張り、また、もろもろの君を無きものとせられ、地のつかさたちを、むなしくされる。

彼らは、かろうじて植えられ、かろうじてまかれ、その幹がかろうじて地に根をおろしたとき、神がその上を吹かれると、彼らは枯れて、わらのように、つむじ風にまき去られる。

聖者は言われる、「それで、あなたがたは、わたしをだれにくらべ、わたしは、だれにひとしいというのか」。

目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ。主は数をしらべて万軍をひきいだし、おのおのをその名で呼ばれる。その勢いの大いなるにより、またその力の強きがゆえに、一つも欠けることはない。

ヤコブよ、何ゆえあなたは、「わが道は主に隠れている」と言うか。イスラエルよ、何ゆえあなたは、「わが訴えはわが神に顧みられない」と言うか。

あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。

弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。 年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。

このイザヤ書の御言葉に、主よ、本当にその通りです、と、筆者は心から言うことができる。

我が主よ、あなたは私が弱った時に力を与え、私に勢いのない時に、強さを増し加えられました。私が若くても弱り、疲れ、倒れ果てそうになった時、あなたが私を支えて下さり、新たなる力を与え、わしのように天高く舞い上がる力を与えて下さったのです。

だからこそ、誰が私を見捨て、裏切ろうとも、どれほど援軍が少なくなろうとも、どれほど数多くの誤解が生まれようと、そんなことには一切、関係なく、私は頭を上げて、あなたのお与え下さった義と聖と贖いに立って、あなたと共に大胆に前進し続けることができたのです。そして、あなたは地上のどこからでも新たなる援軍を、私のために呼び起こして下さることができました。そのことを私はこの目ではっきりと見たのです。

そこで、私はあなたの民でない人々に助けを乞うことは金輪際しますまい。主の民が、異邦の民に助けを求めるのでなく、異邦の民が、主の民に仕えるのです。私の助けは、ただあなたお一人からやって来るのです。

我が主よ、あなたがおられるからこそ、今、私は自由であることができるのです。あなたの知恵に満ちた深淵なお取り計らいに、私は心から感謝せずにはおれません。あなたのはかり知れない知恵とご計画は、私の理解を超えているとはいえ、私は自分の訴えがあなたに顧みられていないとはもう申さないことでしょう。私の道があなたに隠れているとも申し上げません。

どれほど私の道が不確かに見える時であっても、主よ、あなたが私の同伴者である限り、あなたは必ず、目的地まで正しく私を導いて下さることがおできになると、私は確信しています。私のこの言葉は、信仰による宣言としてこの先も私の人生に残り続けるでしょう。あなたが私の決意を心に留めて下さり、私を最後まで御言葉の内に保って下さいますように。

我が主よ、私は頭を垂れて言います、あなたこそ、私たちの期待に応えて下さることのできる方、あなたこそが、私たちにとっての真の解決であり、助け手であり、希望なのです。あなたは私たちの期待を決して裏切られることのない方です。私たちを失望に終わらせない方です。どうか、あなたにふさわしい大いなるヴィジョンを、この枯れた骨のような、死んだような民にお与え下さい。

そして、私たちが、もう一度、生きた者として立ち上がり、あなたの大いなる御名に、栄光を帰する存在となりますように。あなたの御名にのみ、栄光が帰されますように。地上のもろもろの事物、すべての生きとし生けるものたちが、こぞってあなたの御名を讃え、あなたに服し、あなたに感謝を捧げますように。

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