キリストの命にある霊的統治

2017年5月 2日 (火)

十字架の死と復活の原則―栄光から栄光へ―主と同じかたちに姿を変えられて行く (2)

「しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。
かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。

しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:14-18)


何年ぶりかに、700キロの走行距離を経て、久々に郷里の美味しい空気を味わうことができた。

不思議なことだが、筆者が天に直接、養われる生活を始めてからは、神に向かうために自由な時間が圧迫されるようなことがあると、それから間もなくして、神ご自身が、信じる者のために、暇(いとま)を用意して下さることが頻繁に起きるようになった。

たとえば、このところ、しばらくブログ更新が滞っていたが、このように、日常生活で、神に向かうことが難しくなるほどの多忙状況に陥ったり、何かの出来事で過度に心を煩わされるような時が続くと、必ずと言って良いほど、立ち止まる機会が与えられる。信じる者は、心煩わせる全ての出来事の渦中から高く引き上げられて、安息を取り戻すための平穏な場所に置かれる。しかも、その移行がとても自然な形で、誰にとっても無理のない形で起きるのだ。

このように、神の国とその義とを第一に生きてさえいれば、信者には、ただ生きるためだけの様々な心配は無用である。これは確かな事実であり、法則でもある。だが、筆者は、こう言うことによって、信者が自分の生活に必要な様々な措置を自分で何も講じなくて良いと言っているのではない。やるべきことやらねばならない。ただ、どうやって生きようかとあれやこれやと心を悩ませ、煩わせる必要がなくなるのである。

もし信者が本当に神の国とのその義の何たるかを知っており、あるいは心から探求しており、神にさえ心の照準を合わせているならば、多くの人々が毎日、胃が痛むほどに悩んでいる食べ物、飲み物、着物の心配を含めたあらゆる日常生活の心配事、仕事や生計を立てることに関する心配事は、何もかも完全に神の御手に任せてしまうのが一番良い。神が信者の生活を心配して下さるからだ。

もし信者が仕事で成功したり、立身出世などといったことに少しでも興味があるなら、そうした一切のことがらも、すべて神にお任せすることをお勧めする。

これは信者が「すべてを神に任せる」という口実で、自己放棄し、自分では一切何もしなくなるという意味ではない。また、望みを捨て去るという意味でもない。自分で何かを獲得しようともがき、必死の努力を重ねる代わりに、望みのすべてを正直に神に打ち明け、神にそれを承認していただけるかどうかを尋ね、もし神との間に争いがないならば、神の御手から改めて承認された自分の願いを受けとって、その実現に生きることが一番確かで自然な方法だという意味である。

筆者はこれまでにも幾度か述べて来たように、ある時期から、自分の人生を完全に天に委ねてしまった。つまり、神の恵みにより、天の経済によって生かされるようになり、どう生きるかということについて、あれこれ心配をしなくなったのである。

だが、それは決して、筆者の人生に何一つ心配に値する出来事が起きなくなったという意味ではない。何の波乱も、一つの事件も起きなくなったという意味ではない。そうした事柄に心が触れられなくなり、何が起きても、一切、心を騒がせず、静かに落ち着いて最善の解決を見いだし、そこへ向かう方法が分かって来たという意味である。

これは子供が自転車の乗り方を覚えるのにもよく似て、最初は何かしらとてつもない無謀な実験のように、もしくは無責任な考えのようにすら感じられるだろう。普通の人々は、仕事や家族のことで何と心を煩わせていることか! そして、まるで心煩わせることこそ、義務を果たすことであるかのように思い込んでいる。生活環境が変わり、仕事内容が変わったり、勤務地が変わったり、居住地を変えたり、家族に変化が起きたりすれば、その度ごとに、ほとんどの人は、これからの自分の人生は一体、どうなるのだろうかと不安を抱かずにいられないであろう。

この不安定な時代には、多くの人々はただ生計を維持するだけでも大変な苦労を負わされており、さらに、その不安に追い討ちをかけるように、しばしば情勢の不安が生じ、または心根の悪い人たちに遭遇して、裏切られたり、騙される寸前のところに追い込まれたり、あるいは、思わぬ負の事件をもいくつもくぐり抜けねばならない。そうした中でも、その出来事について思い煩わず、圧倒的な平安の中に座し、神の守りを確信し、心を悩ませずに、すべての出来事にふさわしい解決を見いだすというのは、並大抵のわざではない。いや、それは人の努力によってできることではない。

だから、筆者がこの法則を体得するにも、多少の時間はかかった。だが、それを通しても分かるのは、人にとって何よりも時間がかかるのは、自分の生存を自力で支えるためのあれやこれやの手練手管や方策を獲得しようともがくことではなく、どのような状況の中でも平安の中にとどまる秘訣を知ることなのだ。多分、この秘訣を知っている人はほとんどいないだろう。なぜなら、そのような平安は、人の力で獲得できるものではなく、神から来るものだからである。

だが、それでも言えるのは、御言葉への信仰に基づき、一切の思い煩いを捨てて、神に自分自身を委ね切ることは、そんなにも難しいことではなく、慣れてしまうと全く困難ではないということだ。それは天の法則に従って生きることを意味する。

さて、ここで筆者の言う「天の法則に従って生き、どんな状況においても平安に座する秘訣」とは、外見的にいかにもハッピーで、悩みがなさそうで、喜びに満ちて、常に笑顔を絶やさず生きている理想的なクリスチャンの姿、などといった皮相で軽薄な印象の次元の話ではない。これは、外側から判断して、その人が他人にどう見えるかという問題とは全く関係なく、信者が内面において天の法則(命の御霊の法則)を知っており、その確信に基づいて生きているかどうかを指す。

この地上にも、自然界の法則がある。たとえば、野生の動物たちは、一体、どうやって食糧のありかを自分で見つけられるのだろうか。道端にいる猫や犬やカラスや雀たちは、どうやって自分を養っているのか。どうしてかは分からないが、彼らは生きるための法則を自ら知っており、神は彼らに自分の命をつなぐために必要な知恵を、彼らの命の中に組み込む形でお与えになった。それならば、まして人間が、しかも、キリストを信じて、その復活の命によって生かされている人間が、自分を生かす天の法則を知らないはずがない。

多くの信者は、神に向かって、自分が直面している当面の問題を解決するためのふさわしい知恵を下さいと言って、延々と長い祈りを捧げるが、筆者はこう言いたい、天の法則は、キリストが十字架の死を経て信じる者にお与えになった復活の命の中にすでに組み込まれていると。つまり、もしも信者が、真にキリストを知って、アダムの古い命ではなく、キリストの新しい復活の命によって生かされているならば、その信者は、自分を生かす新しい法則を自ら知っているはずであり、その鍵は御言葉の中にある。信者は御言葉を通じて、あらゆる問題解決に必要な知恵を自分で探り出し、体得する秘訣をすでに持っているのだと。

それが、キリストが信者の中に住んで下さることの意味である。つまり、神がキリストを通して信者に与えられた新しい命(命の御霊)が、信者がどう生きるべきかをおのずから信者に教えてくれるのである。

だから、信者は余計な思い煩いを一切捨てて、心静かに御言葉を探り、御言葉に従い、神がお与え下さった新しい法則に従って生きるだけで良いのである。そして、その新しい法則は、人間に苦役ではなく、自由をもたらすものであり、もはや信者はかつてのように、恐れや義務感にとらわれて生きるのではなく、心の本当の願いに従って生きることができる。

キリストの復活の命は、人がただ生存するためだけに、耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶように求めるような、残酷な性質のものではなく、御名によって、信者が心に願うことを率直に神に求めることを許してくれる。つまり、絶大な自由を信者に与えてくれる。だから、神との間に争いがなく、良心に咎めがないならば、信者は御名によって、大胆に、自分の心の願いを神に申し上げ、その実現を願い求めれば良いのである! 求めたならば、落ち着いて、その実現を信じ、それに向けて、ごく普通に、必要な新しい一歩を踏み出せば良いだけである。そこには、困難で複雑なことは何もない。

こうして、何重にも重い衣装をまとっていた人が、それを一つ一つ脱ぎ捨てて、軽快な服装に着替えるように、信者はかつて自分を縛っていた様々な心の重荷から解放されて、自由になって行く。かつてのように、地上の残酷な法則に縛られ、翻弄されて生きるよりも、天の新しい法則に従って生きる方が、はるかに自然であることが分かって来る。

信者が、天の新しい法則に従って生きるために、特に必要なことは、後ろを振り返らないこと(過去に未練や執着をもたないこと、自分で自分の過去を裁いて失敗に悩んだり、これを修正しようとして見てくれに拘泥しないこと)、自分の心の願いに正直であること(自分の心を神の御前に偽らないこと)、神の忌み嫌われる汚れたものとは分離することである。

最後の項目の中には、明らかに反聖書的な考えや教えを持つ人や団体と訣別することだけでなく、信者が自分自身の心に思い浮かぶ恐怖や、悪しき想像、思念と訣別することも含まれる。この課題は極めて重要である。

筆者はこれまで、信仰による創造というテーマについて幾度か書いたが、信者は、自分で自覚していようといまいと、自分の思念と言葉によって、絶えず信仰的に何かを創造しているのである。だが、その創造は、必ずしも、神の御心に合致せず、むしろ、悪魔のささやきに耳を貸すようなものである場合もある。なぜなら、信者自身が、自分は一体、何を本当だと信じるのか、御言葉に合致する事実を選び取るのか、そうでない事実を選ぶのか、選択を迫られているからである。

信者が、もし神の御心に合致した調和の取れた生き様を願うならば、自分の思いを統制し、御言葉にかなわない、自分にふさわしくない、神を喜ばせない、キリストに従わない思念を撃退して自分の外に追い払わなければならない。自分の身に呪いや滅びを招くような悪しき思念とは訣別しなければならない。そして、この課題は、信者の生活が順風満帆であるときにはたやすく達成できると思われるかも知れないが、逆境にある時にも、同じようにせねばならない。

信者は、人からの呪いの言葉を聞いたとしても、それを決して自分の中に取り入れるべきではなく、まして信じてはならないし、ネガティブな事件がどれほど身近に起きたとしても、それに注意を払うべきではなく、それを最終的な現実として受け入れるべきでもなく、御言葉に逆らう状況に徹底的に立ち向かいながら、ただ神が定めて下さった目的地(キリストにある新しい人、復活の領域にある自由と解放)だけを求めてまっすぐに見つめ続けねばならない。

信者が何を現実と認めるかによって、信者の歩みは全く変わってしまうのである。道に横たわって進路を妨げる障害物を現実だと思うならば、一歩たりとも前に進んで行くことはできなくなる。だが、悪しき思念は、必ずしも、他人の言動や、不意の望まない出来事を通してやって来るとは限らず、まるで自分の思いであるかのように、信者の心に思い浮かぶこともある。それでも、信者はこれを自分の思いであると錯覚せずに、その出所を識別して、御名によってその思いを拒絶し、これを虚偽として立ち向かわなければならないのである。

筆者はまだ天の法則を十分に知ったとは言わないが、これまでの年月、一日、一日、神がどんな状況においても、信じる者を支え、導いて下さる方であることを確かめて来たため、その一日、一日が、神がどんなに信頼できる方であるかということの確証となって、筆者の確信を補強している。

さて、すでに書いた通り、今回も、天の不思議な采配により、久々に郷里の空気を吸う機会を得たが、こうしている間にも、十字架の死と復活の原則は、生きて信じる者の人生に確かに働くことを筆者は経験し続けている。

たとえば、この道中に連れて来た小鳥が、到着後に不意に重大な怪我をするという事件も起きたが、神に助けを求めると、良い獣医を見つけて、早期に適切な治療を施すことができ、そのおかげで、小鳥も順調に回復を遂げるに至った。

場合によっては命に関わるほどのリスクを伴っておかしくない重大事故であったが、今やほとんど元通りに健康を回復しつつあり、これにも、死の中に働く確かな命の法則を見る。

さて、これから先の記事では、十字架の死だけでなく、復活の側面に大きくスポットライトを当てたいと筆者は考えている。前回までの記事では、筆者はキリスト者が低められることの重要性について幾度も触れたが、ここから先は、栄光から栄光へと、キリストの似姿に変えられて行くことに重点を置いて話を続けたいと考えている。

その本題に入る前に断っておきたいのは、筆者が、信者が低められる必要があると述べるのは、決して信者が自分から低い地位を求めるべきという意味ではないことだ。これは自虐の勧めではないからだ。しかし、信者が束の間、意に反して、卑しめられたり、低められたり、注目されず、無化されたかのような立場に置かれるということは、しばしば起きうる。そして、その訓練の間に、信者が呻きや嘆きを通して、神の御前にそこからの解放を願い出るならば、それは間もなく叶えられる。

そのため、もし信者が、束の間、低められることがあれば、その後には、高くされることが続くと思って差し支えない。それは、信仰者には、主にあって御名のゆえに遭遇した束の間の苦しみの後に、常に休息の時がやって来るのと同じである。

たとえば、この時代の状況もあって、筆者はこれまで、個人的に、長い間、自分が並大抵でない苦労の連続の中を生きて来た自覚があり、それは筆者の周囲の人々も共通して認めているところであったが、しかしながら、そうした苦労にも終止符が打たれ、次第に、人生が自由と解放へとシフトして来ているのを感じる。

つまり、筆者自身の歩みが、栄光から栄光へと、キリストの似姿へ変えられて行くという局面に移り変わって来ているのだ。

かつて、アブラハム型、イサク型、ヤコブ型、どの人生に自分が一番近いかを問う質問を聞いたことがあるが、筆者の歩みは、どこかしらヤコブの人生にも似ている。開けた広い場所へ出るまでの間は、ラクダが針の穴を通るように、狭苦しい窮屈な通路を長々と通過せねばならない時期がある。だが、それもいつかは終わり、大路へ達する。あるいは、ヨセフの人生にも少し似ているかも知れない。他の人々が遭遇することがないようなスケールの劇的な苦難にも度々遭遇して来ているからだ。

筆者は、これまでの人生に絶えまない格闘があったので、ヤコブのように、自分の「もものつがい」が外されるために、何か特別に劇的な格闘があったのかどうかも分からないが、気づくと、もものつがいも外れ、これまでさんざんそこから脱出しようとして苦しんだり悩んだりする原因になった出来事が、全く古い出来事として過ぎ去り、とうに自分の心に触れなくなっているのを知るのである。

それどころか、そうした出来事が人間の心を翻弄するカラクリが、あまりにもはっきり分かってしまうので、その悪しき装置の仕掛けを見抜いて、これを事前に打ち壊すことさえ可能になる。そのようなことがあらゆる場面で起きて来る。

それはちょうどいじめられっ子が、成長して、いじめっ子の挑発にびくともしなくなるのにもよく似ている。敵はクリスチャンを苦しめる目的で、絶えず悪しき活動を続ける。ところが、クリスチャンの方では、そうした次元の事柄に、全く自分が反応しなくなるのが分かるのである。レベル1の敵と対戦して負けては、悔しい思いをしていたのは大昔の話になり、今立ち向かうべき相手は、レベル10は超えている。仮に取っ組み合って立ち向かい、格闘する対戦が訪れるにしても、その時々にふさわしい相手を見分けられるようになる。レベル1の敵が活発に蠢いているのを見たとしても、脅威にも思わず、全く動じることもなく、相手にもせず、素通りするだけなのである。

一つの例を挙げれば、かつてもブログ記事に書いたことであるが、筆者は何年もかなり前に、大手で有名ではあるが、モラルの欠ける劣悪な人材派遣会社のもとから、同じほどモラルの欠落した劣悪な派遣先に遣わされ、そこでいわれのない理由で、一方的に契約を短縮させられそうになり、交渉の末にようやくその措置を免れるという出来事に遭遇したことがあった。

その当時は、何も理由が分からずに遭遇した出来事だったため、この事件に、筆者は衝撃を受け、愚かしい長々とした交渉に消耗もしたが、その後、人材派遣業そのものがブラックな業界だと言われる中でも、派遣会社にはピンからキリまであって、上記に比べ、はるかにましで良心的な会社も存在しており、良心的な会社は、同じような状況が持ち上がっても、決して以上のような措置を取らないことを知った。

つまり、その時、筆者が関わった会社は、大手にも関わらず、あらゆる派遣会社の中でも、とりわけモラルがなく、レベルが低かったのだと言えるのである。後になって分かったことは、問題となった派遣会社は、当時から、他の派遣会社がさじを投げ、すでに派遣を中止して撤退したような、劣悪な環境の職場に積極的に乗り込んで行っては、ブラック企業を食い漁るようにして、シェアを伸ばしていたということであった。

筆者がその当時、派遣された職場も、他の派遣会社が送り込んだ人材への扱いが相当にひどかったため、他社が度重なるクレームをつけたにも関わらず改善がなく、他社がすでに手を引いた職場だったことを、筆者はまさにその当時、職場にいた同僚から聞かされた。他の会社が撤退するほど悪い環境に、積極的に乗り込んで行くのだから、そんな環境で、問題に巻き込まれないことの方がおかしい。

しかし、そうなっても、派遣会社の方は派遣先と連携して、何が起きても、ただ労働者に一方的な責任を負わせる形で幕引きを図ろうとするのが通常だったと見られる。その派遣会社は、近年も、有名企業に正社員を対象とするいわゆる首切りマニュアルなるものを提供してリストラを促し、社員の退職を機に人材派遣のチャンスを増やして、自らの儲けの手段としていたことを、TVでも特集として報道され、世間に問題視されるに至っているほどだ。いわば、他者の不幸を自分の儲け話に変える手法が、社風として定着してしまっているのである。(しかも、その劣悪な派遣会社が、当時、筆者を派遣した先が、政府の事業の下請け企業であった。政府の下請けという立場もまたとりわけ悲哀に満ちた環境が生まれる元凶である。)

さて、当記事は労働環境について論じることを目的としていないので、本題に戻るが、上記のような事件は、筆者には、遭遇した当時は、いきさつを全く知らなかったため、それなりに衝撃的に感じられたものであるが、その後の月日で、すっかりその人材派遣会社のレベルの低さとモラルの欠如が見えてしまい、その事件が起きたカラクリも分かってしまい、なおかつ、比較的良心的でましな会社が他にいくらでも存在していることや、派遣であろうとなかろうと、会社を選ぶ権利は誰にでもあり、起きた出来事も、見る人から見れば、最初から予測できた当然の結果でしかなく、少しも筆者の個人的な責任に帰されるべきものでないことが分かったので、今はこのような出来事にはまるで心を動かすことなく、振り返って憤ることもなく、ただ取り合う価値もない出来事として呆れながら、素通りして行くだけである。

この世の中には、残念ながら、ハイエナやハゲタカのような企業や宗教や人間も存在しており、空中に蠢くウィルスを根絶できないように、それらを駆逐することは誰にもできない相談である。だが、人が健康であればウィルスに感染しないのと同様、そのような低いレベルの対象を見抜くことさえできれば、これを相手にせず、関わらないことによって、害を受けず、関わったとしてもその害を最小限度にとどめることは誰にでも可能なのである。

以上の体験談は、労働問題を論じるためでなく、信仰の生長について語るための一種の比喩として持ち出したものである。つまり、人生で一時的に、耐え難いほど心を悩ませる問題が起きて来ることがあっても、人が生長すれば、その事件を通り過ぎることができる。そして、もっとはるかに高度な問題に取り組むようになる。卑劣な人間や組織ほど、活発に自己主張するため、他者を押しのけて、人の不幸を踏み台にしてでも、貪欲に自己の利益拡大をはかるかも知れないが、そうした人々の厚顔不遜さに影響されることも減って行き、そばで誰がどのような生き様をしていようとも、落ち着いて自分の歩みを進めつつ、卑劣漢にその後、何が起きるのかを、冷静に観察できるようになる。つまり、理不尽な状況や有様を見ても、義憤に駆られて、自分の手で誰かに報復したり、自分の手で正義を実現しようなどと思うこともなく、すべての問題にふさわしい結果が現れることを確信して、穏やかでいることができ、心を悩ませる価値もないような問題や人々のために、人生の貴重な時間を膨大に浪費することはなくなるのだ。

この世に人材派遣会社が数えきれないほどあって、仕事を探している人間の側で、いくらでも選択が可能であるのと同様に、人はどんな対象と付き合う際にも、自分にふさわしレベルの相手を見分けて選ぶことができる。

つまり、誰でも相手をよく観察し、本心を見分ける術を心得て、関わる相手の性質やレベルを自分で見抜いて、これを定め、選びさえすれば、自分を守ることができる。そのための観察眼や洞察力を磨くべきなのである。(何よりも霊的洞察力・識別力を持つべきである。)だが、もし比較材料が全くなければ、学習を積む機会もないであろう。もしある人の人生に苦しみも悩みも全くないならば、その人には、さらなる自由や解放を求める機会自体が訪れないであろう。

人生に起きる出来事はすべてこのようなものである。一時的に卑劣な人間や劣悪な組織に出会ったとしても、全く絶望する必要がないのは、それよりももっと良心的な人間や組織が必ず存在するからである。つまり、人は何があっても、決して諦めることなく、より純粋なもの、より誠実なもの、より良心的なもの、より真実なもの、より完全なものを探し求め続けるべきであって、さらなる望みを持ち続けるべきなのである。最終的には、完全に真実な方は、神ご自身のみであることを忘れず、神にすべての望みをかけているなら、人生において、真実で誠実なものを求め続ける信者の願いを、神は笑われたりはしない。すべてのものについて、より真実で完全なものを求める願いがあって初めて、人は虚偽を脱し、不完全さと訣別し、より完全に近いレベルに到達することができる。地上における人の人生に完全はないが、それでも、信者は完成に向かって、絶えず歩み続ける。神と出会ったと言っているクリスチャンでも、決して信仰によって一足飛びにすべてを得ることはできない。自分の望みに従って一歩ずつ踏み出して行くしかないのである。

今となっては、筆者は人材派遣会社などに関わろうとは思わないが、かつてはなぜ派遣会社などを利用するのかとよく聞かれたものだ。それだけではない。なぜこんな条件に黙って応じているのか。なぜこんなに短い契約期間なのか。なぜこんな仕事内容なのか。あなたほどの人が、なぜ…。だが、他者がどんなに忠告しても、本人がそれを心から理不尽だと感じて、その束縛を脱することを全身全霊で望まないことには、脱出の道も現われない。そのことは、筆者が他の人たちを観察して常に感じて来たことだ。残念ながら、何と多くの人たちが、本来は、とうに脱しているべき劣悪な環境に自らとどまろうとすることか。多くの人たちは、束縛を振り払って自由になることよりも、かえって束縛に自分を合わせて自分の願いを切り取ることを願う。

信仰の成長も基本的にはそれと同じである。自分を悩ませたり、苦しめたり、束縛している問題に、一つ一つ、根気強く向き合って、神が約束しておられる自由と解放とは何なのかを思い巡らし、ふさわしい解決、ふさわしい解放、ふさわしい達成を自ら願い求めて、より完全なものへ向かって、一歩、一歩、階段を上るようにして、そこへ到達して行こうとする試みなしには、一足飛びにいきなり何かしら高度な達成へ至りつくことは決してない。自分が不当に束縛されているのに、それを束縛とも思わず、他者の同情を得る手段として利用したり、解放される必要があるのに、自分はすでに自由だなどと豪語して、問題と向き合うことなく、自分を偽っていれば、そこから一歩たりとも成長しないのは当然である。

かつて、ある信者が筆者に向かってこう言ったのを思い出す、「ヴィオロンさん、私があなたについて評価するのは、あなたの望みの高さです。現状だけを見て比べれば、今、あなたよりもはるかにましな状態、ましな環境にあり、はるかに成功しているように見える人たちはたくさんいるでしょう。でも、私が、あなたが他の人たちと違うと思うところは、あなたの望みの高さなのです。望みこそ、人の最終的な到達点を決めるものであって、現状がどうあるかは関係ありません。あなたには非常に高い望みがある。誰にも見られないほどの高い望みがある。だから、私はあなたに期待するのです。」

筆者は今、神以外の誰からも「期待している」と言われて喜ぶことはきっとないだろうと思う。人の評価ほど当てにならないものはなく、他人の期待に応えることが筆者の責務でもないからだ。だが、それでも、以上のような意見には、依然として耳を貸すべき部分があって、誰しも望みは高く持つべきだと考えている。特に、信仰者はそうだ。我らの望みは、キリストなのだから、まさに最高の最高の望みである。この最高の方を信じ、その方が共におられるにも関わらず、どうして我々が自分の人生について望みを高く持っていけない理由があるだろうか。そして、神がその願いを喜んで下さると信じない理由があるだろうか。

人は何を望み、何を現実だと思い、何を信じるかによって、その歩みは全く変わってしまう。不誠実な友に満足し、束縛があっても束縛とも思わず、モラルの欠ける状況に自ら甘んじたり、受けた苦難のゆえに、ただ苦々しい思いだけを心に抱いて、憤りや失意や悲しみに暮れて生きるのは容易である。自分は被害者だと主張して、途方に暮れたり、他者を責め続けるのも容易である。しかしながら、どんな出来事であれ、遭遇した出来事を、さらに高い到達点を目指すきっかけとし、より真実なもの、より確かなもの、より完全なものを見いだし、決して失われることのない希望と栄光に達するきっかけとしたいと心から願い、実際に、その栄光に至りつくことも可能なのだと、筆者は信じてやまない。なぜなら、より良い環境、より良い条件、より良い対象に出会いたいという願い、より真実な、決して変わることのない完全なもの、最良のものに出会いたいという人の願いを、神は決して笑うことなく、常に重んじて下さるからだ。神は筆者を常にその願いに従って、実際に願いの実現へと導いて下さったのであり、最善、最良のものを願い続ける人の望みは、最終的には、人を必ず神に向かわせる。神はご自分が完全な方であられるがゆえに、完全を求める人の願いをも重んじて下さるのである。

もう一度書いておくと、キリスト者には、しばしば自分を低めることに同意すべき時があるが、それは決して信者が自分で自分を卑しめるべきということではない。むしろ、信者はどんな限界や束縛の中にあっても、御言葉に基づいて、常に大胆に自由を目指すべきであり、神がキリストにあって約束して下さっている絶大な自由の価値を決して忘れるべきではない。謙虚さと卑屈さとは全く異なる別の事柄である。信者は、心の望みは、どんなことがあっても、決して自ら低めてはいけない。現状がどうあれ、信者の人生は、信仰を通して、心の望みに従って、形作られて行くからである。 「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)と聖書に書かれている通りである。

2016年9月 4日 (日)

肉の思いは死であるが、御霊の思いは命と平安

「その聖なるすまいにおられる神は
 みなしごの父、やもめの保護者である。
 神は寄るべなき者に住むべき家を与え、
 めしゅうどを解いて幸福に導かれる。」
                  (詩篇第68篇5-6節)

  
神はどんな状態からでも信者の家庭を回復することのできる方である。神は信者のどんな失われたものでも回復できるし、無から有を作り出すことのできる方である。

むろん、家のない人に家を供給することもできるし、生活の糧も与えることができる。家族のない人に家族を与えることもできる。

神は絶望の淵にいる人々に希望を与え、仕事を失った人たちに良い仕事を与え、主に信頼する者たちに、生きるために必要な全ての糧と、未来の希望を用意することができる。

我らの望みを実現して下さる方は神である。
我らの万軍の主、ただお一人の神である。
  
神の助けを受けるためにただ一つ必要な条件は、神のみを頼りとすること、主イエス・キリストの御名のみにより頼み、キリストのみに栄光を帰すること、人間の助けに頼らないことである。
 
さて、上に書いたような一つ一つの恵みは、私の人生を通しても豊かに立証済みである。

他方、カルト被害者救済活動なるものに関わり、自分自身を被害者と考えて、神と教会や牧師や、他のクリスチャンを訴えることだけに精を出している人間の人生には、この先も、永久に何の解決もないだろう。

100%保証するが、自分を被害者だと自称している人が、神の幸福にあずかることは決してない。
 
しかし、私自身は、この活動と完全に縁を切って、アッセンブリーズ教団や、村上密氏や、彼を支持する人間たちと訣別してから、家庭のすみずみに至るまで、幸福が回復されたのである。

父は以前よりももっと話をじっくり聞いてくれるようになったし、姉妹関係も回復した。 悩みの時には、親族だけでなく、助けてくれる人たちが常に用意されている。

たとえば、ロシア人の友が必要だと主に願い出れば、神が友を送って下さる。
専門の仕事が必要だと願い出れば、神がこれを与えて下さる。
生活の糧も、ペットも、家も、何もかも、主に願って与えられて来たのである。

そして、私自身の安全も、我が実家も、常に守られている。

これは、私の仕事が常に順調で、私に特別な才覚があって、人並み以上に恵まれた生活を送って来たから言うのではなく、むしろ、私は仕事を変えたり、願いが変わったり、明日の保険などという考えとは無縁のところで生きて来た。

が、それにも関わらず、毎日、毎日、必ず、神が必要の全てを備えて下さり、私の人生を守って下さり、しかも、豊かに守って下さることを、これまで一日、一日、しっかりと確かめて来たのである。
   
カルト被害者救済活動なるものにまだ接触があった頃、私は結局、この活動に何らの希望も解決も見いだせず、将来への展望も何も見いだせないまま、その頃に住んでいた家を手放して、実家に帰らざるを得なくなるという出来事があった。

いよいよ郷里に帰るというその時、筆者が当時、助けを求めて通っていたアッセンブリーズ京都教会の村上密牧師の夫人が、筆者に向かってこう言い放った。

「岡山にも、教会はいっぱいあるからね」

耳を疑うようなこの言葉を聞いたとき、どれほどこの婦人が心冷たい人間であるかを筆者はよくよく思い知った。そして、このような人物から離れられることは幸いだと確信したのである。

つまり、村上牧師夫人は、「あなたがいなくなって寂しくなるわ」と、お世辞でも別れを惜しむでもなく、「なかなか会えないけど、元気で頑張ってね」と励ますでもなく、

「岡山にも、教会はいっぱいあるからね」と、それだけ冷たく言い放ったのである。要するに、そこには、「あなたがいなくなってせいせいするわ、二度と戻って来ないでね」というニュアンスが、はっきりと込められていたのである。

実際のところ、この夫人の冷酷さについては、カルト被害者救済活動に関係していた被害者たちの間でさえ、定評がある。まるで氷の人形のように冷酷で無慈悲かつサディスティックだというのである。

村上夫人の旧姓は津村である。筆者はこの女性の父親である牧師の人柄をよく知っている。その牧師を筆頭に、元津村ファミリーの人間は、大体みなそうなのだが、この女性も、まるでサイボーグ戦士のように無感覚で、他人の心の痛みというものを、およそ理解したり、慰めたりできるような繊細な心の持ち主ではない。

だから、もし誰か心傷ついている時に、相談相手が欲しいと願うなら、絶対に、村上夫妻に助けを求めることだけは、やめておいた方がいい。問題が解決するどころか、彼らの餌食とされ、下手をすれば、それをきっかけとして、死へ追いやられることになるだけであろう。

特に、夫人には何も打ち明けてはいけない。まだ癒えない傷を、切れもしない鈍い刀で無理やりグイグイとこじあけられるように、傷口を押し広げられ、徹底的に痛めつけられることは請け合いである。村上夫妻はサディストなのではないかと感じずにいられないほどのやり方である。

言っておくが、これは筆者が一人だけで主張していることではなく、被害者の間での定評なのである。
 
おそらく、カルト被害者の中では、このような悪質な「カウンセリング」の結果、死に追いやられた人たちもいるのではないかと想像せずにいられない。

こうして、筆者はこれらのサディストたちの親子の両方から逃れて来たことになるが、もうすでに彼らと手を切って何年になるか分からないのに、未だに筆者には、この教会と牧師の関係者とおぼしき連中からの嫌がらせが続いている様子を見れば、一般の人々にも、ここで筆者が主張していることが、嘘とは言えないことがよく立証されるであろう。

沖縄の被害者は村上ファミリーによってもっとひどい恫喝の下に置かれているともっぱらの評判である。
 
このような事実があるわけだから、クリスチャンはどんなに不安を覚える出来事に遭遇しても、カルト被害者救済活動なるものには決して関わらないことをお勧めする。アッセンブリーズ教団にも決して足を向けてはいけない。
 
さて、上記のような牧師夫人の捨て台詞と共にその教会を去ることになる前に、一度だけ、筆者は、関西での生活に不安を覚えたことを、この牧師夫人に打ち明けたことがあった。

当時、筆者はバイクで通勤していたので、もし通勤中に交通事故に遭ったならば、どうすれば良いかという不安が心によぎった。もし自分に万一のことがあると、親族が近くにいないので、すぐに誰かに助けを求められないという不安を語ってしまったのであった。

その時に、この牧師夫人が筆者に答えた言葉が、これまた典型的なサディストとして非常に奮っていた。彼女は表情を変えもせず、こう言い放ったのだ。

「遺書を書いて携帯しておけばいいじゃない。『もし私に万一のことがあったら、村上に葬儀をして下さい』って」

筆者はこの答えを聞いたとき、一体、これが牧師夫人の言葉だろうかと絶句した。

「大丈夫、通勤の道も、神様が必ず守ってくれるわよ、それを信じましょうよ」と励ますでもなく、「私たちがついているわよ。何かあったら、すぐに私たちに電話してね」と言うでもなく、

「もし不慮の事故で自分が死んだ時には、村上密に葬儀をして下さい、と遺書に書いて、その遺書を常時、懐に携帯しておけばいいじゃない」

と言ったのである。

まるで筆者が事故死しても当然であるとでも言いたげなこの死に対する消極的かつ絶望的で不信仰で投げやりな答えと、筆者がまだ何も言わないうちから、筆者の葬儀が京都アッセンブリーズ教会で行われることを当然視しているかのようなこの答えには、本当にドン引きしてしまった。

そして、筆者はあまりにもこの牧師夫人の答えに呆れ果てたので、夫人には面と向かって何も言わなかった(言っても無駄であろう)が、その時、心の中で、「絶対に筆者は死なないし、こんな冷酷人間の思い通りになって、こんな連中に葬儀を頼むようなこともしない」と決意したのであった。
 
大体、そんなことが起きたのでは、神の名折れであり、地獄の笑い者にしかならないであろう。一体、そんな死に方のどこに信仰の意味があると言うのか、信仰者の名が泣く。神の助けを信じると言いながら、悪魔の吹き込む嘘の不安に負けて、犬死するなど言語道断であり、絶対にそのよう悪しき前例を作ってはいけないと、断固、決意したのであった。

当時、筆者の信仰はまだ人間に頼ったり、他者に不安を打ち明けたりするほど未熟で、神の守りの万全さを自ら決意するまでには至っていなかったが、それにしても、そんな当時の筆者にも、上記の牧師夫人の答えは、クリスチャンとしてあるまじき言語道断なものであり、そこには死に対する力強い抵抗もなく、死を打ち破る信仰の勝利もなく、もしかけらほどでも信仰を持っていれば、絶対に出て来るはずのない臆病者の悪魔的・敗北的回答だと理解するだけの力はあった。

だから、神への信仰そのものを全否定し、弱い者たちを冷酷に突き放し、人が死ぬことを当然視してそれを助長しこそすれ、死に対して全く抵抗しようともしないこの牧師夫人の不信仰で冷酷な言葉を、筆者は人に生きる力を失わせるための悪魔の策略としてきっぱり退け、夫人の勧めに従って遺書を書くことを拒み、なおかつ、村上密に葬儀を頼むという言語道断な提案をも退けて、その当時、筆者が親交を結んだ信頼できるクリスチャンの名と携帯番号をノートに記して、「万一の際は、この人物に連絡してください」というメモだけを携帯し、絶対に、何があっても、村上密には連絡が行かないように布石を打ったのであった。

むろん、アッセンブリーズ教団と京都教会といかなる縁も持たない今、筆者に関して、この牧師が乗り出して来ることは決してない。

だが、今ならば、筆者は信仰が成長したので、たとえ上記のような状況に置かれても、もう不安を覚えることはないし、誰にも助けを求めることはないであろうと言える。そもそも、筆者は自らの死に備えて、わざわざ遺書など携帯することはない。それは、筆者の死がもし避けがたいものとして近づいて来る時には、必ず、神が知らせて下さると確信しているからである。

それに、第一、クリスチャンが、携え上げや殉教を願うこともなく、ありふれた事故死や、畳の上での死を当たり前のように受け入れているようでは、信仰者としてもう終わりである。

クリスチャンにとっての死とは、生と同じく、神への証でなければならないのだ。それはありふれた出来事ではなく、主への献身の完成でなければならない。

今、筆者はバイクだけでなく車も運転する。必ずしもいつも近くに駆けつけてくれる誰かが常にいるという状況ではない。

しかし、筆者が乗っているのは、信仰という乗り物であり、その同乗者は神である。神が私の保険であり、私の最も注意深い同乗者であり、助手席のナビゲーターである。だから、私は「もし事故に遭ったなら・・・」などという想定を考えることさえなく、困ったことがあれば、「主よ、どうしましょうか?」と相談する。

これは筆者が格別に熟練したドライバーで、腕に相当の自信があるから言うわけでもないし、筆者の車が特別頑丈にできているためでもない。道に迷うことから、機械のトラブルに見舞われることから、日常生活で、全く相談事が生じないことは決してない。だが、それらはすべて主に持って行くのである。実際、筆者が長年のペーパードライバーから特別な講習もなしに一直線にドライバーに戻った時にも、すべて主のみが守り、助けて下さったのである。

頑丈で確かなのは車でもなければ筆者の腕前でもなく、主の確かな守りである。

さて、こんな有様だったので、カルト被害者救済活動と訣別したことに、筆者は何のためらいも後悔もありはしない。あんな風に冷酷でサディスティックで生きる希望を持たない敗北的な連中と関わっていれば、信者はいつしか最初に持っていたはずの生きる望みさえ奪われて、彼らの嫌がらせの果てに精神的に殺されて本当に死者にされてしまうだけである。

別の記事に書いたが、当時、アッセンブリーズ教団に属していた鳴尾教会で、村上夫人の父である津村牧師に関わってボロボロになるまで使役され、マタハラにも遭い、大切な子供を失った伝道者夫妻の話も今日に伝わっている。だから、筆者が上記のように書いたからと言って、それは決して誇張ではないと確かに言える。
 
神でないものに助けを求めれば、悪魔がつけこんで来るだけである。その挙句の果てに行き着く先は、死でしかない。だから、生きていたいという望みがわずかでもあるならば、一刻も早く人間の指導者に助けを求めることをやめて、そんな敗北の道は早々にお断りするにこしたことはない。

さて、この運動を離れたのはもうはるか昔のことであるが、筆者には、それ以来、家を失うなどということは、一度も起きたことがない。
 
かえって、アッセンブリーズ教団に残った信徒が家を失ったという話を聞くばかりである。

その信者は、かつて筆者がカルト被害者救済活動と対立していたことを、まるで筆者の人徳のなさの結果であるかのように責め、嘲笑していた。要するに、筆者が不器用だから人と対立しているのであって、皆と仲良くしていれば、そんな対立は起きるはずなく、筆者はこの運動の支持者とも和解すべきと彼女は言うのであった。
 
彼女には、自分なら決してそんな対立に巻き込まれはしないという自負があって、自分の八方美人性によほどの自信があったのであろう。何しろ、アッセンブリーズ教団の人間なのだから、そう考えたとしても、不思議ではない。そして、筆者を支援するように口では言いながら、陰では多くの信者たちに、筆者に対する侮蔑的な見方を植えつけていた。
  
だが、筆者はその八方美人的な自称信者の上から目線で自信満々な忠告を聞かなかった。
 
何しろ、神に敵対する人間たちと仲良くすることが信仰の道ではないのである。主に対して不忠実で、聖書の御言葉に従わない人間とは、袂を分かたない限り、自分自身にも彼らと同じ呪いを招くことになるだけであることは、その頃には、もう十分に理解していた。

汚れたものとは分離せよ、それが聖書が随所で信者に警告している原則である。

だから、筆者にはアッセンブリーズ教団に戻る気もなかったし、カルト被害者救済活動に戻る気もなく、その信者の助言を聞く必要もないと分かっていた。さらに、その信者と関わる必要もなかったのである。その最後の点だけが、その頃には分かっていなかった点であった。筆者はその人も「信者」だと思っていたからだ。
 
さて、神に祝福されるための道は、御言葉に忠実に従い、神に従わない悪人どもと手を切ることである。人に好かれ、世の覚えめでたい人間になることなどが信仰生活の目的では決してないのである。そのような生き方を推奨し、神にではなく、世に色目を使って媚びる人間とは早く訣別することが肝心である。
 
さて、話を戻せば、筆者の「貧しさ」や「不器用さ」ゆえの苦労を、さんざん他人事のように嘲笑し、自分ならばもっとうまくやれると上から目線で見下しながら、忠告を繰り返していたその信者は、自分と同じ病院で治療を受けていた自分の障害者の友人にも、「私はもっと設備の良い病院で治療を受けるから、あなたとはさよならする」と言い放って、その病院を去って行った。

しかし、その言葉通りに彼女はその後、豊かな生活を送るどころか、かえって夫の給与が下がって、家を手放して、郊外にある実家に戻らざるを得なくなったのであった。

夫を持たない天涯孤独かつ重度の障害者である闘病生活の仲間と、筆者の悩みと孤独の多い信仰生活を、まるで不器用さの証であるかのように、さんざん上から目線で嘲笑した信者の行く末であった。

もしそのアッセンブリー信者の筆者への忠告が正しかったのならば、決してそんな結末にはならなかったであろうと筆者は確信している。設備の良い病院で治療を受けると同時に、より良い家に住み替えるくらいのことができたであろう。

何しろ、どんなに些細なことがきっかけであれ、信仰者がやむなく生活を縮小し、持ち物を手放し、家を失う、という結末は、悪魔を大喜びさせるだけだからである。それはあたかも神の助けが不十分であり、なおかつ、信者が不信仰であることの現れのように世には受け取られる。

だから、もし本当に神を信じているならば、信者は決して自殺によって犬死になどしてはならないし、どんな持ち物も安易に手放してはならないし、世の情勢が悪くなったからと言って、それに影響されて貧しくなって行くこともない。

どんな窮地に追い込まれても、そこから神の偉大さを、信仰を通して立証できるだけの勝利をつかみ取らなければならないのだ。
 
ところが、彼女は、人前で自分の裕福さと器用さ(立ち回りの上手さ)を誇って、自分ほどに器用に生きていない人間を見下して嘲笑していたにも関わらず、時代の趨勢の通りに、より貧しくなっていくという結果を避けられなかったのである。それは、その信者の誇っていた世渡りの才覚が、何ら世の情勢の悪化に立ち向かう力とはならなかったことをはっきりと物語っている。

世と馴れ合う人間は、世が「豊かになれ」と言ってくれる間は、豊かになるが、世に「貧乏になれ」と言われたら、それに全く立ち向かう力を持たないのである。そのような人間は、もし世から「死ね」と言われたら、本当に死んでしまうのに違いない。つまり、彼らが信者を名乗っているのはほんの口先だけのことで、実際には貧しさや病や死の圧迫に対して、信仰によって立ち向かう術を全く持たないのである。一体、そんな信仰に意味があろうだろうか?

我らの神は、そんな時にこそ、我らの力強い助け主となって下さる方である。我らの神は、やもめや、みなし子や、よるべのない者たちを見捨てず、彼らが追い詰められた時の最も力強い砦、最強の保護者である。我々が最も弱く、最も策なく、窮地に追い込まれているようなその時こそ、我らの神の出番があり、神の全能の力が現れる。我らに神以外の全ての助けが断たれるその時にこそ、神の力強さが最も大胆に現れるのだ。
   
それなのに、アッセンブリーズ教団にいるこの人々たちの主張の何と弱々しく敗北的なことだろうか。彼らの言う「信仰」なるものは、この世においてあらゆる死の圧迫に大胆に立ち向かうために全く役に立たない非力なゴミ・ガラクタでしかなく、むしろ、速やかにあの世へ渡って自分を慰めるためのパスポートでしかない。悪魔は大喜びであろう。そのようなものは断じて信仰と呼ばれるべきではない。

だから、そんな様子を見るにつけても、アッセンブリーズ教団やカルト被害者救済活動を擁護することは、誰に対しても、呪いに満ちた悲惨な結果しか招かない、と改めて筆者は確信している。この運動は、世の方しか向いておらず、神の方を向いていないからだ。悪魔と世のなすがままである。それでいながら、どうやって天に蓄えられた宝を信仰によって地上に引き下ろすことなどできよう。こんな運動に関わりながら、神に祝福された人生を送るのは無理な相談である。
 
村上密は、自殺した人間を責めたり、罪に問うのは残酷であって、自殺者は神に拒まれ、天国へ行けないという考えは、クリスチャンの偏見だ、などという趣旨の記事を繰り返しブログに書いているようである。要するに、自殺者も天国に行けるし、神に受け入れられるかのようなデマの流布に加担しているのだ。

このような屁理屈は、死に対する何の抑止力にもなりはせず、死を願う人たちの心の願望をいたずらに助長するだけである。

「自殺しても、罪にはなりません。天国にも行けるし、神様も分かってくれます」
 
そんな風に、人々の自殺願望に太鼓判を押し、死へ向かって背中を押すような、むなしい自己安堵の言葉を、自称「被害者救済活動」に携わる牧師が投げかけているのだから、世も末、言語道断、笑止千万な話である。しかも、それが牧師を名乗っている人間の言葉なのであるから、全く呆れ果てる。

そこに、一体どんな「救済」があるというのか? 死が救済だとでも言うのであろうか?
 
そのような主張から透けて見えてくるのは、この牧師夫妻に関わったために、実際に死に追いやられた被害者が相当数存在するのだろうという暗黙の事実だ。

彼らは、自分たちが救えなかった被害者への無念、自分たちの非力さ、不信仰という罪を覆い隠すために、上記のように自殺者を擁護し、自殺を後押しするような主張をしているだけである、筆者にはそうとしか見えない。
  
だが、キリストは、死に打ち勝った方であり、信じる者に豊かに命を供給される方である。

キリストは、カルバリで悪魔を打ち破り、我々を悪魔のもたらす全ての死の恐怖から救い出し、我々を死の奴隷状態から実際に解放して下さった方なのである。
 
だから、一体、この方への信仰を持っているのに、なぜ、我々が依然、死に怯えて暮らさねばならない理由があるのだろうか。いや、我々は死に立ち向かい、これを断固拒否し、撃退しなければならないのである。
  
筆者自身の確かな経験に立って、ここに警告しておくが、人間に過ぎない村上密に助けを求めた人間は死ぬだけであろう。彼らは救済にもあずかることはないし、受けた被害も回復されない。むしろ、持っていたものまで取り上げられる。

しかし、主イエス・キリストに助けを求める人間は、これらすべてを回復され、単に死に打ち勝つどころか、神の満ち満ちた命の豊かさに至る。
 
だから、筆者は、カルト被害者救済活動に失望し、一旦は、郷里に帰ったが、その後、信仰によってまた新たな家を手に入れて独立できたし、仕事も与えられているし、関西の地を去って後、今度は関東にやって来ることが出来たので、前よりも大きなチャレンジに至った。

まだまだ、このチャレンジは続くのである。むろん、郷里は自然が豊かで食べ物が美味しく、いつでも帰りたいという誘惑はあるが、キリスト者の道は「出て来たところに戻る」ことにはなく、「前に向かって身を伸ばし」、常にまだ見ぬ地へ、天の都を目指すことにある。
 
こうした事柄は、もし筆者がアッセンブリーズ教団や被害者運動などというものにすがっていれば、絶対に起きなかったことばかりで、目に見える人間に助けを求めて、見えない神に従わないことの不毛性をよく物語る事実である。
 
だから、貧しい者はただ主イエス・キリストの御名にすがり、神にのみ助けを求めるが良い。もし本当に神だけに栄光を帰するならば、主は御名に信頼する全ての人たちの願いに応えて、豊かな命を与えて下さる。

神の家族に加えられた人々は、もはやみなし子でもなければ、やもめでもない。神が保護者なのだから、地上の誰にも増して富んでいる人間であり、キリストと共に、天の相続財産が約束された御国の後継者である。

福音書の中で、放蕩息子が帰宅した時に、父親が彼に新しい服を着せ、履物と、指輪をはめてくれたように、神はあらゆる贈り物で、信じる者たちの人生を満たして下さる。
 
だから、真に恵まれて豊かで幸福な人生を生き、人間として地上に生まれて来たことの醍醐味を味わいたいならば、カルト被害者救済活動などという汚れた運動とはさっさと手を切り、被害者をダシにして自分の栄光を求めるような牧師への期待は、可能な限り早く捨てることである。

そして、まことの創造者たる神に立ち返り、神だけに栄光を帰して生きることである。

この唯一の神、我らのまことの造り主なる神を退け、神と教会とクリスチャンを訴える道を選んだ人間には、破滅しか降りかかるものはない。

村上密の最期は、自身の予告にふさわしいものとなるだろう。つまり、彼が自殺を擁護しているのは、自殺した被害者のためではなく、実のところ、自分自身の未来への自己弁明のためなのではないかと思わずにいられない。

「肉の思いは死であるが、御霊の思いは命と平安である。」(ローマ8:6)

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