義人の祈りには力がある

2018年9月10日 (月)

あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:48)

今週一週間も、またしても、多くの学びある時を過ごした。

このところ毎日のように、暗闇の勢力の圧迫に立ち向かうことを学ばされている。毎日、何も起こらない日がないのである。電車に乗れば、人身事故で大幅な遅延が起きて予定が狂ったり、平穏な朝を迎え、駐輪場にバイクが止めたかと思えば、もう夕方には思いもかけない突風が来て車が倒れている。我が家の鳥たちにも、動物たちにも、日々、様々な変化が起き、油断して隙を作らないように、色々なところに心を配らなければならない。

このような種類の圧迫は未だかつてなかったものであり、時が縮まっていることを強く感じざるを得ない。時代が新たなフェーズに入っており、霊的な防衛の盾をはりめぐらさなければならないことを感じる。しかし、こうした圧迫に立ち向かうことは、決して困難ではない。

そのために必要なのは、何よりも、周囲でどのような出来事が起きようとも、決して、出来事の表面的な有様に心を奪われて、失望したり、落胆することなく、毅然と心の中で顔をあげて、これらの一つ一つの出来事の只中で、死を打ち破ったキリストの復活の命に立って、死の圧迫を打ち破るために立ち向かうことである。

その中で、「かめの粉は尽きず、瓶の油は絶えない。」と以前に書いた通り、享楽的な生活を送るほどにまで有り余る資産はなくとも、貧しすぎて生きていけないほどの困窮を通らされることもなく、神の守りの中で、自分の資産を心配していちいち数えたりせずとも、必要なものがすべて天から供給されて与えられ、行きづまることがないのを知らされている。

多くの信仰の先人たちは、最後のなけなしの資産をもなげうって、主のための奉仕に邁進したが、その中で、彼らは、自分たちの生計を神が不思議な方法で維持して下さったことを証ししている。まさにその通りのことが、筆者の身にも起きており、信仰による明け渡しの度合いは、年々、深まっている。ただぼんやりと「神が守って下さる」と考えるのではなく、筆者の限られた知恵の中に、主が働いて下さり、何をどうすべきか、教えられているがゆえに、守られているのである。

もし上からの知恵がなければ、筆者のように平凡な人間の生活は、昨今の凶悪なご時世の中で、とうに破滅して終わっていたことであろう。それほど不思議な力が臨んで、筆者の生活は守られ、生かされ、支えられているのである。

そこで、筆者は、どんなことでも、神に率直に打ち明けて助けを乞うことをお勧めしたい。

かつて筆者に向かって「神には泣き言であろうと、怒りであろうと、不満であろうと、恨み言であろうと、愚痴であろうと、どんなことでも、正直に思いの丈を打ち明けて、まさに神の胸ぐらをつかむような勢いで直談判することも許されるのですよ。そういう正気さも神は重んじて下さるのですよ」と助言した信者がいた。

その頃から、筆者は、愚痴や弱音や泣きごとのようなことでも、神には恥じることなく率直に打ち明け、解決を得ることを続けて来た。神は真実なお方であるから、私たちが助けを乞うているのに、それを退けたりはなさらない。こうして相談する先があればこそ、筆者は行きづまることがないのである。

だからこそ、筆者は、すべての信者に、自分の主張を神に率直に打ち明けることをお勧めする。

この世でも、自分の権利をきちんと訴えなければ、それが認められることはない。たとえば、裁判は、ただ人が受けた被害を取り返す目的のためだけに起こされるものではない。そもそも、自分がどんな権利を持っているのか、どのような人間であって、どう扱われるのがふさわしいのか、自分自身の完全な権利を自覚することなくして、不当な主張に立ち向かうことは誰にもできない相談である。

筆者がこれまで常にカルト被害者救済活動を批判して来たのは、この活動を支援する人々(カルト被害者を名乗っている人々ではなく、被害者を支援すると表明している人々)が、常に自分には何の弱さも落ち度もなく、困っているのは自分以外の誰か他人であると主張して、いつも他人ばかりを助けようとする一方で、自分は神に助けを求めないためでもある。

一体、彼らはどういう動機から被害者を支援すると言っているのか、定かでない。おそらく、彼ら自身も、どこかの時点で、教会やキリスト教につまずいて、心の傷を負った被害者なのだろうと思われるが、彼らは決して自分の心が傷ついていることを認めず、自分が被害を受けたとは主張せず、自分の弱さ、自分の脆さ、自分の恥、自分の心の傷を、頑なに認めず、覆い隠しながら、傷ついて助けを求めているのは自分ではなく、他の誰かであると言って、常に自分以外の誰かに、自分の弱さを転嫁して、他人を助けることで、自分を救おうとするのである。

だが、それは彼らが自分の真の姿を否定して、自分を救うために行っている代償行為であるから、そのように他者を助けることによって、彼らの傷ついた自己が癒されることは永遠になく、彼らの弱さが取り除かれて、問題が解決することもない。マザー・テレサのように他人を助けていれば、社会からは、善良で思いやり深い人間であるかのように高く評価されるかも知れないが、その一方で、彼らの心の中では、他人を助ければ助けるほど、ますます自己の孤独が深まり、神が分からないという闇が深くなって行くのである。

それは彼ら自身が、常に他人の弱さだけに注目し、決して自分の弱さ、自分の行き詰まり、自分の問題を見ようとしないためである。そうして彼らが神の助けを乞わないので、神ご自身も、彼らから遠のいて行ってしまい、彼らの抱える問題にはいつまで経っても解決が与えられないのである。

それに引き換え、他人がどうあれ、自分の抱える問題を真正面から見据え、自分の問題の解決のために、なりふり構わず、率直に弱さを認めて天に助けを乞うことができる人は、問題から抜け出すスピードも速い。

裁判では、緻密な証拠の裏づけ、法的根拠の裏づけを確保した上で、自分の主張を明白に提示せねばならないが、そのようにして明白かつ合理的に自分の主張を行えば、多くの場合、その主張は認められる。しかし、主張しなければ、初めから願いが認められる見込みもない。

この法則は、霊的な世界においても適用されるのであって、神に対して(もしくはサタンに立ち向かって)、自分の権利がどのようなものであるかを強く主張せず、暗闇の勢力からいわれのない非難を受けても、黙っており、自分の権利を少しも取り戻そうとしない人間は、決して不完全な状態から脱する見込みがないばかりか、いずれその非難が現実になってその人の身に成就してしまうのである。

このことは、悪人に立ち向かって、彼らに自ら報復を加えよと言っているのでは決してない。裁判では主張できない多くの被害がこの世に存在することは確かであり、筆者がここで述べているのは、たとえに過ぎず、何よりも、信者が神に対して自分の弱さを認め、自分の問題を率直に認めて神に打ち明けて、真に完全な人となるために、御言葉が約束してくれている権利に基づき、上からの新たな力を乞い、神に解決を求めることの重要性である。そのように主張する根拠となるのが、真の意味での人権意識なのであり、その人権意識は、聖書の御言葉に立脚するものなのである。

この世の法廷闘争においては、憲法を最高法規として、法が規定する人権の概念に基づき、自己の権利を主張するが、霊的な世界において、我々が自分の権利を主張する根拠となるのは、キリストが獲得された完全な人としての権利である。

我々はキリストの贖いの完全性に立って、これを穢し、否定するすべての主張に立ち向かうのである。

もう一度言うと、筆者がカルト被害者救済活動を決して認めることができないと主張するのは、これまで幾度も述べて来た通り、この活動を支援する人々が、あたかも被害者を助けてやるように見せかけながら、被害者を永久に被害者の鎖につないだまま、栄光を搾取する道具とし、彼らが被害から立ち上がって、神の完全な救い、完全な贖い、完全な回復に到達して自由になることを決して許さないためである。

このような活動は、労働者が手っ取り早く仕事を見つける手助けをしてやるように見せかけながら、労働者の賃金を中間搾取する人材派遣業や、信者が神の御言葉を受けとるためには、牧師の手助けを受けなければならないとする牧師制度によく似ており、要するに、人間の弱みをダシにした霊的中間搾取の手法でしかないのである。

牧師制度は一人一人の信者を、まるで母親の乳房にすがりつく赤ん坊のように、牧師という存在から離れられない依存状態に押しとどめ、決して信者が自立して御言葉の糧を一人で得て咀嚼できる大人に成長することを許さない。そのように信者を霊的な赤ん坊のような弱さの中に閉じ込めることによって初めて、牧師は信徒の弱さに付け込んで、信徒の助け手として、手柄を得ることができる。

同様に、カルト被害者救済活動は、被害者を永久に被害者のままにしておくことによって、初めて被害者を支援する人々に栄光をもたらすのである。

しかし、私たちは、自分が霊的にいつまでも後見人や保護者を必要とする子供ではないことを知っており、不要な松葉杖を捨てて自力で立ち上がる必要がある。いつまでも自分を半人前に押しとどめようとする圧力に屈してはならないのである。

このことは、別なたとえで言えば、最近、自動車業界で起きた完成検査不備の大規模なリコールを思い出させる。そこでは、資格を持たない者が完成検査を行ったため、一度は完全であると宣言されて公道を自由に走っていたはずの車が、リコール対象とされ、再び不完全なものであるかのように検査を受けなくてはならなくなったのである。

私たちはキリストの十字架の贖いを信じて受け入れることにより、一度限り永遠に罪赦されて、完全な贖いにあずかり、神の目にキリストと同じく完全な人として受け入れられる資格を得たはずである。

それにも関わらず、一体誰が、その贖いが成就した後で、神の贖いには不十分なところがあったかのように、私たちが不完全な人間であるかのように非難して、私たちを罪に定めることができるのであろうか。

もしそんな主張が成り立つならば、神が一度限り永遠に、私たちを完全な存在として受け入れられ、私たちを自由とされた宣言は、間違っていたことになる。そのように一旦、自由が宣言された後で、神の検査は、実は不完全なものであって、私たちは再び、何者かによって、自由を取り上げられ、罪ある不完全な存在であるかのように、再検査の対象とされなければならないのだとすれば、そんな救いに何の価値があるだろうか。

そんなことがあって良いはずがない。神の検査は、真の資格者による検査であるから、その検査に合格した者に、後になって不備が見つかることは絶対にあり得ないのである。それにも関わらず、その検査に不備があったと訴えている者がいるとすれば、それはまさに虚偽であって、「兄弟たちを訴える者」による不当な告発に他ならない。

筆者がこの世の裁判において証明しようとしているのは、まさに以上の事柄なのである。暗闇の勢力は、何とかして神が義とされた者たちを訴えて、再び有罪を宣告しようと願っているが、それは虚偽の訴えであるから、ことごとく打ち破られて、退けられることになる。

神は私たちの潔白を公然と立証して下さる。私たちはリコール対象ではなく、神の目に、いかなる不備も落ち度もない完全な存在として受け入れられている。現実の私たちは、土の器なので、あれやこれやの弱さや、未熟さや、不完全さが見受けられるように思われるかも知れないが、それにも関わらず、私たちに対して神の贖いが及んでおり、神の目には、私たちはキリストと同じ完全な人として受け入れられているのである。

そこで、私たち自身が、自分の表面的な有様にとらわれることなく、自分たちの真の人権(キリストが何者であるかという事実)に立脚して、自分の権利を主張して譲らず、私たちを訴えて再び有罪を宣告しようと願っている暗闇の勢力からのすべての圧迫に対して、毅然と立ち向かって、虚偽の主張を退けなければならないのである。

かつて筆者を刑事告訴すると予告して来た人間がいたが、その計画は、筆者が予想した通り、成就しなかったことを思い出してもらいたい。その者は筆者を罪に問うことができなかったのである。

それと同じように、この度も、裁判の過程で、筆者に対して中傷行為を行っていた一人の牧師が、その記事を自ら取り下げると宣言した。その牧師は、決して自己の過ちを認めたわけではないにせよ、筆者に有罪を宣告して謝罪を迫った自分の主張を押し通すことを断念せざるを得なくなったのである。

このように、筆者を無実にも関わらず罪ある者として訴えようとするすべての主張は、この先も、ことごとく打ち破られて行くであろう。

そして、それは筆者自身だけの力によるものではなく、筆者の弁舌の巧みさや、裁判の風向きによるものでもなく、ただ神の完全な贖いが筆者に臨んでいることの明白な証明なのである。要するに、神が筆者を贖われたのに、その後で、筆者を訴えることのできる人間は、地上には一人もいないという事実が立証されているだけなのである。

しかし、繰り返すが、筆者の外見および地上の人間として筆者が持っている能力は、平平凡凡なものに過ぎず、何の偉大さもきらびやかさもないため、この先も、そのように取り立てて偉大ではない筆者の外なる人の要素だけを見て、筆者を蔑んだり、軽んじようとする人間は現れるかも知れない。

だが、そのようなことも、ほんの表面的な有様に過ぎない。脆く儚い土の器としての信者の外なる人の中に、神のはかりしれない力が働いているのが現実なのであり、その力こそ、キリストの復活の命であり、その力が筆者の朽ちゆく不完全な外なる人を覆っている以上、信者の表面的な有様だけを見て、神が贖われた信徒に挑戦しようとする人間は、結果的にしたたかな敗北を見るだけである。

ところで、話題が変わるようだが、多くのキリスト教徒を名乗る人々が、異端の方向へ逸れて行ってしまうのは、彼らが神を自分が享楽を得て、偉大な存在になるための手段として利用しようとするためである。

聖霊派の集会では、絶え間なく、キャンプやら、聖霊待望集会のような、非日常的で享楽的な催し物が開かれている。筆者は聖霊派には属さないゴットホルト・ベック氏の集会においても、同じように、絶え間なく「喜びの集い」が開かれていることの異常性に、疑問を呈したことがある。

一体、これらのお祭り騒ぎ的イベントは、何を目的として開かれるものなのか? 吟味して行けば、これらのイベントは、みなそれに参加する信者らに、「神」を「体験して味わう」という一種の恍惚体験、享楽的感覚を与えるものであって、信者が「神」を口実にして、神秘体験を通して快感を得るための手段でしかないことが分かるだろう。

信者が神に従う過程で、不思議な出来事は幾度も起きて来るが、しかし、神はあくまで私たちが僕として服し、その命に従うべき主人であって、私たちが快感や満足を得るための手段ではないし、自分を偉大に見せかけるための手段でもない。

それにも関わらず、神を自分が楽しみを得るために、また、自分を偉大な存在とする目的で食する秘密の果実か何かのように扱うならば、たちまち、その信者は異端の方向へ逸れて行ってしまう。それは神と人の主従関係が逆転するためであり、そのような考えはすべて神秘主義から来ている。

そこで、筆者はこれらの恍惚体験をもたらす感覚的享楽をもたらすイベントは、すべて本質的に悪魔的なものであると断言して差し支えないものとみなしている。それが証拠に、こうしたイベントに参加した信者らは、異口同音に、自分たちが他の団体の信者らよりもすぐれて真理を知っており、高みに引き上げられているかのように述べて、他の信者を見下げ、優位を誇るようになる。そのような高慢さが公然と信者らの言動に現れることが、何よりも、これらのイベントが本質的に悪魔的なものであることの明白な証明であると筆者は感じている。

このようにとんでもない思い違いに至って、神を己を偉大とする手段として利用しないためにこそ、神は愛する子供たちに、あえて弱さや、圧迫や、苦難の中を通らせ、私たちが常に自己の限界の中で、率直に神の助けを呼び求めて、上からの力にすがらざるを得ない状況に置かれるのである。

そこで、もしもある信者の生活の中に、全く苦難もなく試練もないのだとすれば、その信仰生活は何かが根本的におかしいのだと断言して構わない。

私たちの外見も、神の助けを得たことにより、立派になったり、偉大になったりするわけではなく、私たちの生活が、神の助けを得たことにより、飛躍的に悩み苦しみの一切から解かれるわけでもない。

むしろ、一つの事件に劇的解決が与えられても、次にそれよりもさらに高度な試練が待ち構えている。神の助けは常に、私たちが頭を低くして、圧迫や蔑みや嘲笑や誤解をも甘んじて受けながら、それでも、それらの圧迫や苦難に信仰によって毅然と立ち向かう時にこそ、与えられる。

繰り返すが、神の御前に私たちが己を低くするとは、私たちが不当な蔑みや嘲笑にいつまでも翻弄されて、どんなに侮辱されても、それに受け身に甘んじることを意味しない。私たちは、不当な訴えには、毅然と立ち向かい、潔白を主張して虚偽を粉砕せねばならない。

しかしながら、それと同時に、私たちが不当な訴えを受けることによってこうむる痛み苦しみは、神の目には、私たちが御前に己を低くして、試練を耐え忍んだことの証として評価されているのであり、私たちがそうした圧迫の中でも、自分を確かに保って、虚偽の訴えに屈することなく、神の贖いの完全に立脚して、御言葉によって神の完全を主張し続けた努力は、天において高く評価されるのである。

こうして、神の偉大な力は、常に私たちの弱さとセットになって働くのであって、私たちの生来の気質として与えられた器用さや、能力、才覚などが、そのまま神の力として働くわけではない。だからこそ、周囲の人々は、私たちを守り、支えている力が、私たち自身に由来する力でないことを知って、これに瞠目し、驚嘆せざるを得ないのである。
 
霊的な法則性は、霊的な事実に従って、自己の権利を主張したものが勝つというものである。主張しなければ、どんな権利も認められない。だが、デタラメな主張でも、主張しさえすれば、認められるというものではなく、私たちは正当な根拠に基づいて、権利を主張しなければならないが、何よりその根拠となるものが、聖書の御言葉なのである。

そこで、筆者は決して自己の権利のためだけに、各種の訴えを出しているわけではない。筆者を贖われた神がどういう存在であるか、神が私たちに約束して下さった御言葉がどれほど確かなものであるかを公然と証明するために、一連の主張を行っているのである。

御言葉は、キリストが神の御心を完全に満足させたことにより、御子を信じる私たちも、キリストと同じように、神の目にかなう者とされたと述べている。だからこそ、私たちを訴えることのできる者は誰もいないのである。そして、この御言葉は、「しかし律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです。」(ルカ16:17)とある通り、私たちが目の前に見ている天地万物、神羅万象、私たちの朽ちゆく外なる人を含め、すべての滅びゆく目に見える被造物にまさる神の永遠かつ不変の事実なのである。

私たちはキリストのゆえに、律法の要求するすべての厳しい検査に合格して義とされ、自由とされた。それにも関わらず、私たちが再び律法の検査に不合格とされて、リコール対象とされることは決してない。つまり、私たちが公道を思いのまま自由に走る権利は、神に由来するものであるから、私たちに不完全を言い渡してこれを取り上げて、検査対象に引き戻すことのできる者はどこにもいないのである。

冒頭に挙げた御言葉は、前後の文脈を読むと、あたかも悪人に対する寛容さを求めるものであるかのように受け取れないことはないが、筆者は、この御言葉は、信者が、神を信じる人に対しても、そうでない人に対しても、自分に与えられた贖いがどれほど完全なものであるかを絶えず証し続けることの重要性を述べたものであると理解している。

神が完全であるように、私たちも完全な者になるとは、決して私たちが自力で弱さを克服して一切の未熟さや落度のない偉大な存在になろうと努力することを意味せず、ただ私たちが自分がどのような者であれ、どんな状況の只中であろうとも、御言葉の約束に立脚して、自分に与えられた救いの完全さを信じて、神の完全な力が自分を覆うよう、神を信じてより頼むことを意味するだけである。

2018年5月29日 (火)

主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き、まっすぐにあなたの道を歩ませてください。

「主よ、朝毎に、わたしの声を聞いてください。
 朝ごとに、わたしは御前に訴え出て
 あなたを仰ぎ望みます。
 
 あなたは、決して逆らう者を喜ぶ神ではありません。
 悪人は御もとに宿ることを許されず
 誇り高い者は御目に向かって立つことができず
 悪を行う者はすべて憎まれます。
 主よ、あなたは偽って語る者を滅ぼし
 流血の罪を犯す者、欺く者をいとわれます。

 しかしわたしは、深い慈しみをいただいて
 あなたの家に入り、聖なる宮に向かってひれ伏し
 あなたを畏れ敬います。
 主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き
 まっすぐにあなたの道を歩ませてください。」(詩編5:4-9)

まだまだしばらくの間、重要な訴えのための膨大な書類作成が続く。だが、捨てる神あれば拾う神・・・ではないが、紛争が起きれば、それをきっかけに、回復される絆もある。協力者が現れ、助けられる。

まことに聖書の御言葉は正しく、神が許されて起きる地上の軽い艱難には、常に大いなる天の栄光が伴う。苦難には慰めを、悲しみには喜びを、欠乏には満たしを与えて下さる我らの神の御名は誉むべきかな。

暗闇の勢力は、兄弟姉妹に何とかして猜疑心を植えつけ、ネガキャンを展開し、互いに裏切らせ、信仰の絆を分断し、引き裂こうとするのかも知れないが、必ず、それに影響を受けない草の根的な交わりを神は取っておいて下さる。

これこそかつてずっと夢見ていた草の根的なクリスチャンの集まりだ・・・。

しばらくの間、誤解や対立があって分断されていても、時と共に回復される絆もある。困難があるからこそ、忍耐によって乗り越えたのだと言える絆がある。

そういう意味で、罵りや中傷の言葉は、人の心を試す実に良い試金石だ。誰が本当に最後まで、主にあって兄弟姉妹でいられるのか。誰が人間のうわべだけの有様に惑わされることなく、物事を見極め、人間的な絆によってではなく、信仰によって繋がり合えるのか。

おそらく、私たちは死ぬまで他者との間で、すべての物ごとに対する見方が完全に一致することは決してないだろう。そういう意味では、クリスチャンに思想的な同志を求めても無駄である。必ず、どこかでズレが起きて来る。そのズレにこだわれば、分裂や対立しか待つものはなかろう。だが、たとえ多くの点で見解が互いに異なっていたとしても、基本的なところで、一致を保つことはできる。

その基本とは、キリスト以外によりどころを持たないことだ。人間の造った組織や団体を離れ、立派な教師や指導者の肩書に背を向け、いかなるビジネスや集金活動、組織や指導者の栄光とも関係ないところで、素朴で対等な兄弟姉妹として、ただ聖書への信仰によってのみ、繋がり合うことができるかどうか?

そんな草の根的な信徒の交わりを、筆者はずっと前から探索し続けている。そんなものを求めても無駄だ、そういうものはないんだよと、悪魔は言うかも知れない。

だが、そんなにも簡単に諦めるのは忍耐力のなさの表れでしかない。かつてある姉妹にも、早く諦めてはいけないと叱咤されたことがある。だから、はっきり言っておきたい、今日、社会の状況がこれほど悪化し、人々の心が険悪になり、人々が裏切り合い、貶め合う中でも、そうしたみずみずしい新鮮な青草のような信徒たちは、確かに温存されているのだと。

ただし、私たちが、それに気づく目を持っているのかどうかはすべてを分けるだろう。いと小さき貴重な兄弟姉妹の存在に気づくためには、私たちの目が、曇らされた状態でなくなることが必要である。立派な肩書をぶらさげた人気の指導者、荘厳な教会、うやうやしい礼拝儀式、大人数の集会、弁舌の巧みさ、知識の豊富さ、外見のきらびやかさなど、見かけ倒しの虚栄に振り回され、踊らされ、惑わされ、絶えず欺かれてばかりの軽薄な浮草のような心では、どんなに価値ある貴重なものに出会っても、それに気づくことは永遠にできまい。

そのように惑わされやすい軽薄な心そのものと訣別し、自己の栄光にも死んでいない限り、我々の目に、みすぼらしく取るに足りない「草」たちの価値が分かる日は決してないであろう。だが、その青草の発見は、十字架で死なれたキリストご自身の発見でもあり、ある意味では、自分自身の発見でもある。

ところで、宗教的なリーダーというものは、やはり、決して人前で信徒を罵ったり、悪しざまに言ったり、信徒の個人情報を無断で公開したりしてはいけないと筆者は思う。筆者は牧師制度そのものに反対であるが、それをさておいても、あらゆる組織のリーダーには、自分のもとに集まって来るさまざまな信徒に対する包容力がどうしても必要だ。

特に、教会にはあらゆる問題を抱えた人々がやって来る。巨額の借金を抱えた人々、家庭内問題を抱えた人々、心理的な病を抱え、人生に行きづまっている人々、こうした人々の中には、福音などには全く耳を傾けず、ただ自分の愚痴を聞いてもらう事だけを求め、手っ取り早い現世利益を求め、それが得られないために、早々に指導者を罵って教会を去って行く人もあろうし、またあるときには、牧師を脅すことを目的にヤクザがやって来ることもあろう。

こうしたすべての人々にリーダーは対処せねばならないのであって、自分を批判されればすぐにかっとなって言い返し、信徒の中傷を言いふらすような人々は、もともと指導者の器ではない。

ところが、プロテスタントの牧師には、そういうリーダーの力量を持った人がほとんど見られないのが現状だ。昔からそうだが、本当に信仰のある志の高い人々は、決して牧師になどならない。それもそのはず、信徒の献金で生計を立てるのが当然になっているような、特権階級としか言いようのない職業的地位に就こうと自ら願うような人々は、それ相応の心を持った人々しかいないからだ。

そうした人間的な力量に欠け、信仰的な力量にも欠けている牧師のいる教会に所属してみたところで、信徒に心の安らぎが得られるはずもない。

ただでさえ、日本の教会の永遠のテーマは、ずっと「なぜ日本にはキリスト教が普及しないのか」というものだ。多分、これから先も、20年経とうと、30年経とうと、このテーマは依然として、教会の中心的課題であり続けるに違いない。

多くの教会は高齢化の影響もあり、閑古鳥が鳴いており、社会的事業に乗り出さないとやって行けない有様だというのに、そんな中で、まるで教会の衰退に拍車をかけるがごとくに、所属教会を自ら明かしながら、インターネットで他の信徒を悪しざまに罵り、聖書を否定するような「信徒」が現れる。

ただでさえ信徒数が少ない教会にとって、そのような不良信徒の出現は、とてつもない打撃になるだろう。そうした事態からも見えて来るのは、もしもその信徒の教会生活が、本当に満たされて正しく幸福なものであったなら、その信徒が、面識もない他の信徒たちに言いがかりをつけては聖書を捨てろなどと言いふらしたりするようなことは、決してなかっただろうということだ。

得意げに所属教会を名乗っていても、実際には、まるで身の置き所のない孤独感がひしひしと伝わって来る。所属教会に対する配慮もないのだろう。空疎な祝福の言葉が、かつてよく聞いた「栄光在主」とか「頌主」とかいったむなしい言葉を思い起こさせる。

悪いことは言わないから、早くそんなにも身の置き所なく味気ない教会生活をきっぱり離れ去った方が良いのだ。いつまでも形骸化した組織にすがりついているからこそ、心のむなしさが募る。その空虚さを、所属教会以外のところで埋め合わせようと、聖書に忠実な信仰生活を送る信徒を引きずり降ろすしかないなど、何と惨めな生き方であろうか。

だが、もっと恐ろしいのは、そういうことをしているうちに、いつの間にか、その信徒にとっては、あれやこれやの気に入らないクリスチャンだけでなく、「聖書」そのものが敵になっていくことだ。

これが一番、恐ろしいことなのである。

その人にとっては、所属している組織が「神」となり、聖書の御言葉が、人を狂わせる「悪」と見えて来る。すべての物事を人間を中心として見るあまり、自分にそんなにも心の空虚さとむなしさを味わわせたのは、人間に過ぎない牧師や、人間の造った組織ではなく、神ご自身だという風に、考え方が転倒するのである。

まるで聖書とはさかさまの世界観であり、どこをどうすればクリスチャンを名乗っている人間が、このような考え方になるのか、首をひねるばかりである。だが、何度も言って来たように、これがペンテコステ運動が人にもたらす倒錯した世界観なのである。

実体のない組織にすがり続けていると、最後にはそういう事態にまでなってしまうのだ。私たちはそのような悪しき運動を離れ去ることを宣言する。

これまで幾度となく繰り返して来た通り、ペンテコステ運動から生まれて来たカルト被害者救済活動の失敗が、プロテスタントの終焉を何よりよく物語っている。被害者救済を唱えている人々自身が、まさに被害者を率先して売り渡し、被害者を中傷し、破滅させる所業に手を染めたという事実は、キリスト教史の恥ずべき汚点として、歴史を超えて永久に語り継がれるだろう。そうした恥ずべき事態が、これらの人々が被害者救済を唱えて来た真の目的が、全く被害者の救済になどなかったことをよく物語っている。

プロテスタントはもう終わっているのだと、気づかなければならない時に来ている。むろん、だからと言って、他の宗派に去れば良いという簡単な問題ではない。宗教改革は続行しているが、それは今やプロテスタントを離れて、人の目に見えないところで続行している。聖書は万人に解放された。今は聖職者階級というものから、信徒が解放されねばならない時代である。万民祭司という新約聖書の当然かつ根本的な大原則が回復されるために。

いくつか前の記事で、筆者がある職場からエクソダスしたエピソードを書いたのは、これをキリスト教界になぞらえて、今、ここからエクソダスしないと、この業界はこの先、本当にひどいことになって行くと警告したかったからだ。御霊の息吹が失われ、神が目を背けられ、人の関心も失い、誰からも打ち捨てられて形骸化した組織の中に残っていると、とんでもない事態が起きて来るだけである。

今、多少、手傷を負ってでも良いから、建物全体が倒壊する前に、そこから出た方が良いのだ。そのまま残っていれば、傷を負うくらいでは済まされず、やがて命を失うことになるだろう。

しかし、そうした警告に耳を傾ける人はほとんどいまい。今、この国の経済界で起きていることも、キリスト教界で起きていることは、合わせ鏡だ。自分は選ばれた民だ、他の人々と違って、安定した居場所がある、れっきとした教会員だ、仲間がいて、孤独ではない生活がある、と豪語することと、私は正社員だ、難解な試験をパスして、上位で合格したエリート公務員だ、教職員だ、妻子もいれば、家もあり、家業もあり、土地も財産もあり、誇るべきものがこれほどたくさんある・・・などと豪語することの間には、さしたる違いはない。

そういう見せかけのアイテムの数々を誇っていると、やがてすべてが取り去られ、とんでもない事態に巻き込まれるだけである。

人間の本当の救いは、そんな風に目に見えるものの中には決してないからだ。本物の救いを偽物のバッジと取り替えた人々には、つらく苦しい未来が待っているだけである。そのことは、教会籍制度に何よりもよく当てはまる。神の救いは、教会籍のように目に見える証明に決して置き換えることなどできない。それが証拠に、その証明書は、これほど多くの教会難民のような人々を生み出した。そうでありながら、まだ教会籍にすがり続ける人々は、自分をエリートだと自称している。

これは世の有様と同じである。組織それ自体の中に、命はないのに、組織をまことの命と取り違え、神と取り違えると、そういう忌むべき事態が起きるのである。宮は、神がやって来られて、その中に入られて、初めて価値を持つというのに、神が忌み嫌われ、見捨てられ、神ご自身が不在となった宮が、己を神のようにみなして誇っている。何と忌まわしい光景であろうか。

高プロ制度を批判している場合ではない。偽りの階層制の上に成り立つ一つの虚構の世界がまるごと倒壊しかかっているのが今なのだ。この危ない建物全体から離れねば、誰も身を守ることはできない時代にさしかかっている。

さて、いきなり話は変わるようだが、我が家のペットが昨日の朝、ちょっと様子が変に見えたので、動物病院に連れて行った。かつて動物病院では、誤診がもとになって狂奔させられた嫌な思い出があるが、今回は違った。全く異なる病院である。無駄な治療は一切しないし、余計な手当ても勧めない。待合室にいると、看護士さんがやって来て、採れたての新鮮な野菜をサンプルとしてくれた。家に帰ると、ペットは何事もなかったようにけろっと元気になっていた。何でもなかったのだが、連れて行ったついでに色々身ぎれいにしてもらった。

もらった玉ねぎに包丁を入れると、みずみずしい真っ白な断片が見える。しばらく水にさらせば、生のままでもサラダにできそうだ。試しに炒め物に半分使ってみると、あまりに美味だったので、もう半分も早速調理した。

とにかく、一つ一つのことについて祈る。主の助けを乞う。すると、一見、人の目にはハプニングに見えるような、思わぬ出来事からも、思わぬ出会いが生まれ、新たなチャンスが生まれて来る。大規模な組織など必要ない。立派な指導者の助言も要らない。ただ草の根的な知恵と知識だけで、私たちは十分に生きていける。その確信は、日常生活だけでなく、信仰生活にも十分に当てはまる。

人に知られないひそやかなところで、御霊の導きにすべてを委ねて、一歩一歩、主と共に進んで行こう。それは人に踏み固められた道でないため、不安が全くないと言えば嘘になるが、それでも、霊の内側には、確信があり、平安がある。

筆者はたとえこの先、どれだけ多くの兄弟姉妹からの賛同や理解を得たとしても、心はただ主にのみ向けておきたいと真に思う。ただお一人のまことの神である方とのみ、二人三脚し、すべてのことを相談しながら、地上にいる最後の瞬間まで、共に歩いて行きたいのだ。これが新エルサレムまで続いている狭く細い道である。それは人に知られず、誰にも踏み固められていない細い道だからこそ、スリルもあれば、冒険もあり、涙もあれば、笑いも、喜びもあり、毎日、わくわくする体験には事欠かない。決してそうした体験を人前で語ることはないであろうが、主に訴え、主に感謝する出来事に溢れている。

組織になど所属せずとも、いや、組織に所属しないからこそ、真に神が働いて下さったと言える出会いがあり、真に自分の人生だと言える地点に立脚して、味わい深い日々を送ることができる。

まことに主は我らの重荷を日々担われる。それゆえ我らの荷は軽い。新しい朝ごとに主を讃え、すべてのことを主に訴えよ。主が我らの正義、解決となって下さる。御名に栄光あれ。

2016年9月13日 (火)

悪魔による大量生産からキリストにあるオーダーメイドへ

かつて、学術論文を書きながら、生計を維持するために、さまざまな仕事を経験したことがある。今になっても、論文の締め切りに追われていた当時の自分を夢に見ることがある。

その頃の筆者には、人の成さない偉大な仕事を成し遂げた いとの夢があった。友人に向かって、こんな大胆な台詞を口にしていた、「私も自分のケーニヒスベルクへ世界を集められるような人になりたい」*。

(*これはは哲学者カントが生涯のうちに一度も国外旅行をせず、ケーニヒスベルクだけで人生を終えたことになぞらえた言葉である。カントは自分から世界の国々に出て行かなかったが、その代わりに、自らの哲学によって、世界を自分のもとに集めた。人はそれくらいの強烈な創造行為を行うべきである、という意味。

ちなみに、ケーニヒスベルクは東プロイセンの主都であり、ドイツ騎士団によって建てられた美しい貿易都市で、レンガ造りの街並みで知られた。が、第二次大戦中にロシアに占領されてカリーニングラードと改称され、古き良き街並みは破壊され、歴史はほぼ完全に絶たれた。今もって再興は不可能な状態で、いわば、歴史の幻となった都の一つである。)
 
さて、以上のような願いは、天然の人としての筆者だけの力では、実現が不可能であった。そこで、筆者は主と共なる十字架を経て、それまでの願いが全て自分の手から取り去られ、天から聖別されて、再び、キリストの力によって再興されて戻って来るのを見る必要があった。

それまでの夢は、あたかも一旦、目の前で砕け散ったかのようであったが、力強い十字架の解放の御業によって、再び、復興されて筆者の手に返された。筆者はこの十字架の御業により、永遠にアダムの世界にあるあらゆる絶望から救い出され、全ての恐れから解放されて、十字架の死と復活によって、天的な高さへと引き上げられ、暗闇の支配下から、愛する御子の支配下へと移されたのであった。

キリストにあって満ち溢れる光の支配下へと移され、新 しい心と、新しい霊とが与えられた――。

以前とは全く違う人生が開け、過去についての後悔や、痛みや、悲しみは、なくなり、どこにいても、何をしていても、主が共におられると、信じることができるようになった。

そして、今や、主とともに生き、歩んで行きたいという願いだけが、生涯の目的となったのである。

だが、「古き人に死んだ」というテーマと、「神に生きる」というテーマを追求する余り、筆者は、キリストにある新しい人として、自分が過去と現在をどのように結びつけるべきかが、長い間、よく分からなかった。

特に、従来のキリスト教においては、「献身する」とは、信者が自分の個人的な人生を離れて、全生涯を福音宣教に捧げることを意味すると教えられる。

そんな固定概念も手伝って、神のために生きることと、自分の個人生活が、どのように両立し、統合されるのか、筆者には、長い間、よく分からなかったのである。

そして、筆者がこの当時、関わっていた兄弟姉妹は、この点において、全く助けにならなかったどころか、誤った観念によって、かなり有害な影響を及ぼした。

その頃、筆者が「兄弟姉妹」として交わっていた全員が、筆者とは全く無関係なフィールドで生きて来た人たちであり、ほとんどの場合、自らの専門も持っていなければ、あったとしても、すでに仕事からも離れた年金生活者などで、彼らは信仰生活というものを、この世の職業とは何ら関係ない、ほとんど形而上のもののようにとらえていた。

そこで、前途ある若者が、一体、働きながら、どのように神に仕えることができるのか、という問題には、全く具体的な答えやヒントをくれなかったのである。むしろ、そのような人々の話を聞けば聞くほど、筆者にも、「信者がこの世の職業を通して自己実現を目指すことは、御心にかなわない生き方なのだ」といった考えが増し加わるばかりであった。

筆者は兄弟姉妹の人生を参考材料にすることができず、また、彼らも、キリストにある「新しい人」の生き様について、従来のキリスト教の固定概念を超え得るような考えを何も持っていなかったので、その交わりからは、何の新しい発想も生まれて来なかった。

そんなこともあって、筆者は、何年間も、この問題については答えを見いだせなかった。果たして、自分の過去に積み上げて来た功績、過去の自分の持っていた夢、性格、知識、経験、生き様などを、新しい人生にあって、どの程度、継承して良いのだろうか? 

たとえば、学術研究の世界において功績を打ち立てたいという願いは、今後も、妥当なものとして持ち続けるべきなのだろうか? かつて書いていた論文を続行させるために、研究書を取り寄せて、文学の世界に没入することは、許されるのであろうか? 

そんな疑問から始まって、たとえば、ペットを飼うことは許されるのか、とか、一体、自分の願いや嗜好のどこまでが、御心にかなうものとして、生活に適用して良いのであろうか、といった疑問の中にあった。

そういった疑問がなかなか解けなかったので、筆者は長い間、自分で自分の人生を「保留」にし、自分の願いを「保留」し、自分の経歴を「保留」して、それとは無関係の生き様を続けていた。

兄弟姉妹からの不適切な助言の影響もあって、かなり長い間、筆者は自分のかつての個人的特徴を「アダム来のもの」として捨て去るべきなのかどうかという問いに、明確な答えを出せなかったので、個人的な願いに基づいて生活の新たな一歩を踏み出すことをためらっていた。

だが、こうしたことは、全く、間違った固定概念を持つ人々からの悪影響に他ならず、本当は、「キリストにある新しい人」について、そんな疑問を持つ必要はなかったのである。

筆者の過去は、すでに霊的に十字架を経ていたので、キリストにある新しい人に自然と再統合されており、筆者が自分から過去を捨てるとか、個人生活を捨てるとか、そんな行動は全く必要なかった。たとえば、かつてよく筆者が口にしていた「自分のケーニヒスベルクに世界を集める」とかいった台詞も、筆者は、長い間、信仰の何たるかをよく分かっていなかった頃に口にした若気の至りでしかないような気もしていたのであるが、実は、そんな些細な願いでさえ、キリストにある新しい人の中に有益に再統合されていたのである。

そんなわけで、主と共なる十字架の死と復活の何たるかを実際に経験した後も、筆者はあたかも自で自分の過去と訣別せねばならないかのように考えていたため、学術論文を書いておらず、論文を書いているわけでもないのに、ただ生計を立てるためだけに、論文の締め切りに追われていた頃と大差ない、自分の専門とは無関係の仕事に従事したりしていた。

だが、そのような考えは、すでに述べた通り、あたかも信者であるかのように、兄弟姉妹を名乗る人々を通じてもたらされた暗闇の勢力の偽りの力の影響によって生まれたものだったのである。

暗闇の勢力は、信者の人生が、十字架を通して解放され、信者が神と同労して生き生きと自由に生活しながら、,キリストによって生まれた「新しい人」として、天的な歩みを進めることを何としても妨げるために、全力を挙げて、信者の思いを攻撃して来る。だが、その攻撃の多くが、他でもない「兄弟姉妹」を名乗る人々から、間違った不適切な偽りの助言という形を通してやって来ることに、当時の筆者はまだ十分に気づいていなかったのである。

さて、暗闇の勢力が信者に吹き込む嘘の筆頭格は、いわれなき「罪悪感」である。つまり、本当は罪深くもなく、わがままでもなければ、贅沢でもない、信者の些細な願望までも、それがあたかも神の御心にそぐわない罪深いものであるかのように思わせることで、信者に自ら願いを捨てさせ、あきらめさせることが、暗闇の勢力の策略なのである。

第二は、神に対して生きることへの偏見であり、「徹底的に自己を放棄しなければ、神に従うことはできない」という名目で、信者に自分の個性を自ら捨てさせ、自分を否定させようとする偽りであり、これもまた暗闇の勢力による極めて重大な嘘である。そして、第一の嘘と第二の嘘は密接に絡み合っている。

地獄の軍勢は、この世に生きる人々を罪の奴隷として拘束しており、そこで暗闇の勢力は、人を貧しさや、不自由や、夢や希望のない人生に閉じ込め、可能な限り苦しめ、自由を奪うことを使命としている。だが、彼らは、信仰を持たずにこの世に生きている人たちだけでなく、キリストにある新しい人をも、そのように束縛しようと、信者の思いの中に攻撃をしかけて来るのである。

暗闇の勢力は、信者が自分の願いを率直に神に申し上げながら、生き生きと自主的かつ個性的な人生を送ることを何としても妨げようとして、こう言う、「あなたの専門知識や、かつての職業や、かつての願いは、みな堕落したアダムの古き人から生まれたものであるから、あなたはそれを罪深いものとして捨てなければならない。そうしなければ、神のために生きることはできない」と。

実は、兄弟姉妹を名乗っている多くの信者たちでさえ、知らず知らずのうちに、このような悪魔の嘘に加担して、信者をより束縛し、より不自由にし、より不自然に苦しんで生きさせる手伝いをしようとすることが多いのである。

今日の信者のほとんどは、「キリストにある新しい人」という言葉を口にしながらも、実際に、「新しい人」は、この世の職業において、個人生活において、どのように生きるべきか、ほとんど分かってはいない。だから、もしこの点について、信者がうっかり、ふさわしくない兄弟姉妹に助言を求めようものならば、非常に好ましくない有害なアドバイスを受けることがあり得る。

当時の筆者の周りにいた兄弟姉妹の多くは、ただ信者が「神のために」何かを「捨てる」ことや、「理不尽を耐え忍ぶ」ことだけが、御心に従う道であるかのように誤解して、周囲の人々に対して、そのような説得に腐心していた。これは、今日のクリスチャンの多くの姿と同じである。

たとえばの話、「ペットを飼いたい」という願いを、筆者がある兄弟に向かって口にしたとき、その「兄弟」はこう答えた。

「ヴィオロンさん、パウロがペットなんか連れて伝道旅行できたと思いますか?」

こうして、その「兄弟」は、信者がペットを飼うことが、いかにも主への献身の妨げになる、伝道&宣教にとって障害となる、と言わんばかりの否定的反応を示した。だが、筆者は、その頃には、この兄弟の性格を知り抜いていたので、こうした忠告ばかりをずっと聞き続けていれば、自分の人生で何一つ、願いを決行できはしないということを悟っていた。そこで、その忠告を振り切って、ペットを飼ったのであった。

ここで筆者が議論したいのは、信者がペットを飼うことの是非ではなく、従来のキリスト教の固定概念の域を出ない人々は、全ての考え方が、万事こんな調子だということである。つまり、彼らは自分よりも若い「後学」となるような信者をつかまえて、彼からあらゆる自由と権利を取り上げた上で、自分好みの型に当てはめるために、その信者の生活のどんな些細な事柄についても、「神のために」という理由がついていないと、信者に何も許そうとせず、しきりに反対するのである。

たとえば、神のために人生を捧げた人が、学術論文など書くべきではない、といった考えもその中に含まれているし、自分の専門性を人前で誇示すべきではないとか、何を買うか、何を食べるか、といった些細なことでも、「贅沢」や「貪欲」に該当すると非難して、事細かに様々な制約を持ち出して来る人たちもいるのである。そんな人々に助言を求めるのは、自殺行為にも等しい。

だが、何年も、筆者はそういった兄弟姉妹の考え方が根本的に間違っていること、彼らに意見や忠告の機会を与えてはならないこと、あるいは、もっとひどい場合には、こうした人々を「兄弟姉妹」と考えるべきではない、ということに気づくのが遅れた。そして、かなり経ってから、キリストにある新しい人の人生は、過去の何かを「捨てること」に基づいて成り立っているのではなく、むしろ、十字架を経て、「新しい人」には、過去の要素がすべて再統合されているので、信者は自分で過去の生き様と訣別しようと努力して、自分の願いを滅却したり、それを禁じたりする必要はない、ということが分かったのであった。

信者は、御言葉に背き、神を悲しませるような反逆的な内容でなければ、自分の心の自然な願いに従って、ごく普通に生きて行けば良いのであり、もし自分に備わっている何らかの適性があれば、それを思う存分、活かせば良いのである。

奇しくも、そのことを筆者に向かって語ったのは、ベック集会にいた兄弟たちであったが、彼らは、以前に筆者が出会った「兄弟姉妹」たちが、筆者の心にかけた呪縛を解いて、いかに筆者が自分の専門性を有効に活用して生きるべきか、延々と筆者を説得した。

「ヴィオロンさん、あなたの学歴や経歴は、神が許されるのでなければ、決して手に入れられないものです。それが許されたということは、あなたにはそれを用いてなすべきことがある、という意味に他なりません。だから、あなたは自分の専門とは関係のない仕事に就いて苦しんだりする必要はありません。そんな人生が、神のために生きることではないのです。あなたは自分の能力や知識を神に捧げ、神がそれをどう用いて下さるのかを見るべきです。」

この忠告は筆者の心に光を与えた。年々、悪化して行く情勢の中で、専門と関係ない仕事をして生計を立てることには、筆者も限界を感じていたので、筆者は彼らの忠告の通りに、自分の過去に持っていたすべての知識や経験をすべて改めて主にお捧げし、その後、専門の仕事に立ち戻るために必要な努力をして、人生がどう開かれるのかを観察した。

そうして、筆者は確かに専門に復帰したのであるが、しかしながら、以上の兄弟姉妹の助言にも、相当な限界があった。それは、この集会の多くの人たちは、かなり裕福であり、生活の苦労をあまり知らず、特に、筆者の世代が社会で置かれている窮状がどれほど深刻なものであるかに、理解がなかったことである。それゆえ、彼らもまた、前述の兄弟姉妹と同じように、「後学」を自分たちの正しいと思う考えに当てはめ、従わせせようとして来たのである。

以上のような方法で、筆者が神に願って与えられた専門の条件が、過酷で、とても長くは続けられそうにないものだと分かって、筆者がその仕事を辞めようとしたとき、仕事を見つける時に助言し、祈ってくれた兄弟姉妹が、かえって敵対する側に回った。彼らには、「神様が与えて下さった仕事を、そんなにも早く辞めようとするなど、不信仰であり、言語道断だ」という考えしか、返答の持ち合わせがなかった。

また、この集会以外のつながりのある姉妹からも、その時、同じように非難の言葉を返されたことを覚えている。あろうことか、この姉妹からは、この転職を機に、絶縁さえも申し渡されたのであった。その時、筆者には、次の仕事も無事に決まっていたのだが、彼女は、それを喜んでくれるどころか、「もうそんなにも早く、次の仕事を見つけたなんて」と冷たい反応を示し、「もう二度と連絡して来ないで」と、交わりの扉を閉ざしたのであった。

だが、いかに周囲の兄弟姉妹に誤解されたとしても、当時、働いていたのは筆者自身であるから、筆者が誰よりも、その労働環境が、逆立ちしても長くは持ちこたえられないものであることをよく知っていた。そのような不適切な条件に耐えていれば、いずれ自分を壊すことになり、場合によっては、不法に加担することにさえつながりかねない。それが神の御心であろうはずがないことは承知していた。
   
だから、筆者はこれらの「兄弟姉妹」の誤解や怒りや叱責を無視して、自分の判断で、新たな道に踏み出して行った。

こうして、兄弟姉妹と考えていた人々から、間違った、不適切な忠告や助言を受け、それに従わなかったために、筆者がこうむった誤解の数々は、枚挙に暇がない。だが、たとえ不愉快な誤解をこうむったとしても、筆者は根気強く自由と解放を目指して信仰による模索を続けねばならないことを知っていた。だから、そうした助言は、神から来るものではなく、暗闇の勢力から来るものと確信して、筆者はそれらを振り切ったのである。

そもそも、信者は自分の人生について、主ご自身だけを相談相手に、自分自身で決断を下して行かねばならない。たとえ兄弟姉妹であっても、他者に主導権を明け渡すことはできないし、人の支配下に入ると、そこから始まるのは、奴隷的拘束だけである。だから、たとえ兄弟姉妹であっても、他者に助言の隙を与えることは、ほとんどの場合、逆効果となる。
 
そんな模索を繰り返す過程で、筆者には、この世に存在する仕事の大半が、非常に問題だらけで、実に多くの場合は、違法な労働条件のもとに行われており、たとえ専門に関係する仕事に就いても、その事情はすぐに変わらず、こうした悪しき問題が一挙に解決する見込みはほとんどない、ということが分かって来た。

しかし、そんな中でも、筆者は「世の情勢がこんな風だから、どんな不適切な条件にも、自分が耐えるしかない」とは考えず、可能な限り、自分の願いを否定することなく、正常な仕事を探す努力を続けた。

つまり、この世の情勢に自分を合わせるのではなく、あくまで自分の正しいと思うことや、願いを譲らずに天に向かって主張し続けて、根気強く、不正や、不法を助長することなく、神の正義と、自分自身の願いにかなう、納得できる条件を求め続けたのである。

この世の情勢では、99%見込みがない時だからこそ、信仰に頼る価値がある。人にはできなくとも、神にはできる。世はいつでも「これしかないから、あなたは妥協して条件を引き下げなさい。多少の不正には目をつぶりなさい」と言って来るであろうが、信者がその言い分に耳を貸して、自分が最低限度だと思っている条件にさえ、妥協を繰り返すようでは、信仰者となった意味はなく、その先はない。神は必ず、信者が健やかに自立した生活を営むために、必要な全ての条件をお与え下さるはずだ、と、筆者は心に確信していた。

そのような筆者のスタンスを、兄弟姉妹のほとんどは理解できなかったであろうと思う。筆者の態度は、彼らから見れば、「贅沢」であり、「わがまま」であり、「えり好み」でしかなかったのではないかと想像される。だが、そのように不評をこうむるであろうことが予め分かっていたので、筆者の方でも、もう彼らには何の助言も乞わず、相談もしなかった。

そうして、筆者は他者の助言や忠告に従って生きることをやめ、ただ神との関係において、自分の願いをあきらめずに神に申し上げることだけによって、生きることに決めたのである。

そして、その過程で、実に驚くべきことが分かって来た。

筆者がこれまでに見つけた仕事は、もはや相当な数に達しているのだが、もともと数少ないと言われていた専門分野の仕事である。労働条件に文句をつけて、度々、仕事を変わっているような人間に、将来の見込みなどない、と普通の世間は考えるであろう。しかも、筆者は郷里からの援助などは受けず、完全に独立して、自分だけで生計を立てている。筆者の試みは、どうせ長くは続かないだろう、と高をくくっていた人々がいたとしても不思議ではない。

だが、それにも関わらず、筆者は行き詰まりに達することはなく、常に道が開けたのである。そして、それが神の采配であるばかりでなく、筆者と主との「信仰による同労」によって生まれた結果であることが、筆者にも、だんだんはっきりと分かって来た。

つまり、これまでの筆者はよく「こんなご時世だから」と悲観したり、恐れに駆られたりもしながら、それでもあきらめきれずに、「どうか御心にかなう良い条件の仕事をお与えて下さい」と、必死の思いで神に懇願したりしていたのだが、本当はそのように祈るべきではなく、実のところ、神の方が筆者に向かって、問うておられたのである、「あなたは一体、何をしたいのですか。世の情勢は関係ありません。あなたが願っている内容を正直に具体的に私に向かって言いなさい。そして、私にはその願いを満たすことができると信じ、権威を持って行動しなさい。」

神がそのように問うておられることは、その都度、「運よく」見つかる仕事が、どうにも筆者が心の中でそれまで思い描いていた条件にかなり合致している様子からも理解できるのだった。つまり、筆者自身も半信半疑の状態で祈りつつ、「神が奇跡を備えて下さるならば」と期待し、「運よく」見つけたと思っていたものが、実は、筆者自身が心の願いによって、主と同労して自ら創り出したものであり、神が筆者の祈りと信仰に応えて下さったことにより、信仰に応じて「創造」されたものであることを、認めずにいられなくなったのである。むろん、そうしたことは、職探しの過程だけでなく、生活のあらゆる場面で起きて来た。

このあたりから、筆者の考え方が劇的に変わって来た。

つまり、キリストにあって生きる「新しい人」は、この世の情勢に翻弄され、圧迫されて生きるどころか、天に直通の祈りを捧げ、キリストとの同労により、無から有を呼び出して来る権威を持つのだということが、次第に分かり始めたのである。

その「新しい人」の生き様は、世の中の悪化して行く情勢の中で、かろうじて生存が保たれているといったようなレベルのものではなく、まさに(共産主義者が自分たちの思い描くユートピアを表現するために、誇らしげに使っていたあの有名な)フレーズ、「必然の王国から自由の王国へ」、に見るように、「この世の情勢が悪いから、信者は仕方がなく妥協して、たとえ不法で劣悪な条件でも、この程度で我慢しなければならない」といったような、ちっぽけかつ不自由な生き方から、「あなたは何を願うのか」という、信者自身の個人的な願いに基づく「オーダーメイド」の生き方への転換なのである。

「キリストにある新しい人」の人生は、天と地の同労によって作り出される極めて個人的な人生であり、その生き方にキリスト以外の「型」はない。神は信者の心の願いに、細部に渡るまで耳傾け、応えて下さるので、キリスト者の人生は、極めて個人的な特色を持つもの、周囲の誰にも似ていない「オリジナルな」ものとなる、ということを、信者が心に留めておくのは有益である。

この世のほとんどの人々は、まるで大量生産された服を買って着るように、職業や、暮らしぶりなど、人生の隅々においてまで、すべての事柄について、ある種の型に自分をあてはめている。そして、その域を決して出ることはできないし、出ようと考えない。彼らは、その「型」が、自分の個性にとって非常に窮屈で、多くの苦しみをもたらしていることを、ある程度は認識しているのだが、それでも、それがあるまじき制約だとは考えず、あくまで自分自身を型に合わせて切り刻むことが正しいことであり、それ以外の人生はあり得ないかのように錯覚している。

だが、本当の人の人生のあるべき秩序は、それとは逆なのである。人間が型に合わせるべきなのではなく、型が人間に合わせて作られるべきなのである。型というものは、人間によって人間のためにこそ、造り出されるものであって、人間に奉仕することが、その役目だからである。そういう意味で、キリストにあって自由とされた人の人生は、もはや大量生産された型に自分を当てはめて、それに適合しない自分の一部を自ら切り刻んで切除しようと苦しむ人生ではなく、型が信者に従って作られる「オーダーメイド」の人生なのである。

そんなことは信じられないし、信じたくない、という人は信じなくて結構である。

だが、そのように、信者の人生が、信仰による「オーダーメイド」である以上、神との同労において、信者が心に何を願うのか、その願いの内容は、宇宙的な重要性を持っており、信者の人生に最も大きくものを言う事柄である。

そして、聖書の原則はこうである、「口を大きく開けよ、私がそれを満たそう。」

つまり、神は信者に大志を抱くよう求めておられるのである。世人の誰であっても、多少のコネや、実力さえあれば、実現できるような、ちっぽけな願いで人生を終わるのではなく、「どうせなら、神にしか実現できないような、壮大なスケールの夢を持ちなさい。私(神)があなたと同労してそれを叶えてあげるから。そのようにあなたを満たすことが、私の心なのです」と、神は信者に求めておられるのである。

だから、信者が自分の人生について、どういう願望を抱くのかという問題は、信者が神をどのようなお方であると考えているのかという問題に直結している。信者は、神の愛と理解の無限なること、神の懐の深さ、気前良さ、その御力の偉大さなどに、ふさわしい夢を抱くべきである。そして、自分の願いを率直に神に申し上げ、「私にはできないことも、神にはできる」と、神を信頼して一歩を踏み出して行く時、神はそのような信仰を喜んで下さると、筆者は確信している。

そのようなわけで、多くの兄弟姉妹が「わがままだ」とか「贅沢だ」とか「献身者にふさわしくない」、「貪欲だ」などと言って批判し、退けていた信者の個人的な願いこそ、実は、極めて重要な事柄であり、それは信者自身にとってのみならず、神にとっても重要であり、神はその願いに熱心に耳を傾けて下さり、その願いに応えて、ご自分を現して下さることが分かって来たのである。

「現世利益を求めてはいけない」などの言葉で、多くの信者が、自らそんな願望は自分にはないかのように否定しようとしている信者の願いこそが、実は、信者がキリストと共に同労して行う「信仰による創造」の原材料となって行くのだ、ということが分かって来たのである。

だから、信者は、自分の個人的な願いを自ら捨てようとしてはいけないのである。それが明らかに御言葉に反するものでない限り、自分の願いをあきらめることなく、根気強く、天に向かって願い続けるべきである。

信者は自ら「古き人」と訣別しようとして、自分のあれやこれやの特質を自分で抹殺しようと努力する必要はない。信者の過去も、性格も、知識も、能力も、何もかもが、キリストにある「新しい人」に自然に統合されていることを信ずべきである。そして、十字架を経て、自分に備わった全ての特徴が、すでに神のものとして、神にあって有益に活かされることを信ずべきである。

もう一度言うが、信者は、自分の心の願いを通じて、信仰によって環境を創造しているのである。信者が環境に合わせるのではなく、環境が信者によって創造され、治められるべきなのである。

最初のアダムは、地を治めるために創造された。アダムは堕落してその任務に失敗したが、神はキリストにあって再び人類に地を治めさせようと計画しておられる。人間の創造の目的は、人類の罪による堕落と、サタンによるこの世の占領という出来事によってさえ、変わることなく、神はこれを永遠のご計画の中で成就される。それは、ただ単に信者が自らの意志でこの地を治めるというだけでなく、信者が主と同労して、すべてのものをキリストの御名の権威の下に服従させるという壮大な計画の一部なのである。

だから、信者が信仰によって祈り求める時に行使しているのは、御名の権威なのである。その祈りが応えられることは、環境が信者を通して、御名の権威に服することを意味する。

確かに、この世は堕落しており、目に見えるものはいつか終わらなければならない。そうして新しい世がやって来る。だが、キリスト者にあっては、御国はすでに来ている、ということを覚えておかなくてはならない。御国は、信者の心の中に、霊の内にすでに到来しており、信者は御名の権威に基づいて、霊的な支配権を行使することによって、天を地にもたらし、御国をこの地に及ぼし、この世を堕落した悪魔の霊的支配から奪還して、キリストの統治を打ち立てねばならないのである。だから、信者が主にあって何を願い、何を求めるのかは、この二つの支配権――キリストの支配と悪魔の支配――の争奪戦において、極めて重要な意味を持つ。

だが、それはただ単に霊的な戦いにおける勝利と、神の権益の拡大のためという文脈においてのみ行われるのではなく、神は信者自身の個性そのものを、極めて重要なものとして尊重して下さり、キリストにある新しい人の中で、信者の人格や個性が、生き生きと発揮され、そうして信者が一人の人として真に自然なあるべき人間の姿を形成することを願っておられる。

この「新しい人」は、自分の個性を、地獄の軍勢に支配されるこの世が大量生産した型に合わせて自ら歪め、切り刻んでは、自らを苦しめるという不自然で抑圧された生き方(必然の王国)を離れて、信仰によって、神と同労しながら、神に自分の願いを率直に申し上げ、祈りを通して、主と共に望む環境を作り上げていくという「オーダーメイド」(自由の王国)の生き方へと転換して行くのである。

悪魔による大量生産からキリストにあるオーダーメイドへ――御名の権威に基づく環境の創造――それが「キリストにある新しい人」の生き様の主要な特長の一つである。信者が主と共に信仰によって環境を呼び出し、自ら創り出すのだから、信者のいる「ケーニヒスベルク」に全てが集まって来るのは至極当然である。

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