神の約束された命の冠

2018年2月 5日 (月)

束の間の軽い患難と引き換えに与えられる永遠の重い栄光

「ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。

ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。

人の子が現れる日にも、同じことが起こる。

その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。

ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。」(ルカ17:26-33)

その時、かのふたりは手を伸べてロトを家の内に引き入れ、戸を閉じた。
そして家の入口におる人々を、老若の別なく打って目をくらましたので、
彼らは入口を捜すのに疲れた。 」(創世記19:10-11)

このところ、筆者はひたひたと良くないものがこの街に迫って来ていることを感じ、エクソダスの時が近いと感じる。ここに残ったり、定着する選択肢はない。エクソダスできるか、できないか、それが人の生死を分けると感じている。

このような時だから、以前のような牧歌的な記事を書くことは決してできない。人の耳に心地よい言葉を一切並べることはできないし、もっともらしい説教のような告白や、人の歓心を買うための記事など断じて書くことはできない。

さて、クリスチャンは考えてみたことがあるだろうか?

もしも自分の住んでいる街が、ソドムとゴモラであったなら?

ソドムとゴモラの住人との間に、平和な隣人関係や、愛や友情を育めるだろうか? そこで住人に受け入れられ、身内のようにみなされることは可能だろうか?

ノアが箱舟を建てていた時、ノアと同じ街に住んでいた住人や知り合いの誰一人として、彼が何をしているのか理解できなかったであろうし、ノアは彼らの嘲りに直面し、孤独だったろう。

同じように、ソドムにあるロトの家に神の御使いがやって来たとき、ソドムの住人たちがロトの家に押しかけて何を要求したかを思い出せば良い。

その街で、ロトは以前からずっと孤独ではなかったろうか。ソドムの住人たちは、ロトの家にやって来た御使いたちを凌辱する目的で、ロトに向かって彼らの引き渡しを求め、彼らの要求に従わないロトに押し迫ってこう言ったのだ、「この男は渡ってきたよそ者であるのに、いつも、さばきびとになろうとする。それで、われわれは彼らに加えるよりも、おまえに多くの害を加えよう」(創世記19:9)

ソドムの住人たちは、常日頃からまるで不良集団のように、いきりたって「獲物」を求め、街を徘徊していたと思われる。ロトがどんなに彼らをいさめても、「よそ者が何を思い上がって俺たちに尊大な態度で説教するか!」と、自分に忠告して来たロトにかえって危害を加えようとするだけであったほど、彼らは常日頃からまともではなかった。

そして、こういう住人は、ソドムでは例外ではなく、むしろ標準だったのではないかと思われる。何しろ、聖書をよく読むと、ロトの家に押し寄せたソドムの住人たちの中には、老いも若きもいて、かなりの大規模な集団をなしていたと思われるのである。決して一部の不良少年のような集団ではなかったことが分かる。また、そこにいない他の住人たちも、みなこの集団を恐れてものが言えなくなり、彼らが何をしてもとがめることなく、ただ目立たぬよう陰に引っ込んでいるだけだったのではないだろうか。もしかすると、この集団は、不良集団どころか、ソドムの自警団を名乗っていた可能性さえも考えられる。

ロトの娘たちの中で、ソドムの住人のもとに嫁に行った者たちは、誰もが婿の言いなりになってソドムの気質に汚染され、脱出のチャンスが与えられても、これを活かすことができなかった。

ロトがソドムから連れ出すことができたのは、ただ未婚の娘たちだけである。未婚というのは、その地に定着していないことを意味する。

ロトの妻でさえ、脱出がかなわなかったことを考えると、まさに配偶者の存在そのものが、財産と同じように、重荷となった可能性がある。ロトの妻が、ソドム脱出の際、ソドムの富に惹かれ、後ろを振り向いて、塩の柱になったことを考えれば、妻という存在が、ロトにとって、それ以前から、ひそかな心の重荷となっていた可能性さえある。

おそらく、ソドム脱出の前から、ロトは妻と信念を分かち合うことができなくなり、孤独であったのではないだろうか?

ロトの心を支配する価値観、何よりもロトの持っていた神への信仰は、おそらく、その地においては、誰からも理解されていなかったのではないだろうか。家族にさえも、理解者がいなかった可能性がある。そして、当のロトでさえ、ソドムに住んでいたくらいだから、聖書では「義人」と称され、かろうじて助かったとはいえ、かなりの程度、ソドムの価値観の汚染を受け、危うい状態にあった様子が、聖書の様々な記述から伺えるのである。

「兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。」(Ⅰコリント7:29-31)

こうして、聖書は、配偶者であれ、家であれ、喜びであれ、悲しみであれ、家財道具であれ、飲んだり、食べたりすることであれ、どんなものも、キリスト者の主要な関心事になってはいけないと教える。地上にある限り、我々はそういう事柄に一切、関わらないわけにはいかないとはいえ、それらを行う時にも、ないがごとくに振る舞い、心を置いてはいけないと聖書は言うのだ。

筆者はロトの物語を教訓として振り返りながら、ますますそういう思いを強めている。

筆者は、首都圏に、また、この街に、これから何が起きようとしているのか知らず、筆者がここを出て行ったからと言って、まさかその日に天から火と硫黄が降って来るなどと言いたいわけではない。

ただもうここにいてはいけないということが分かるのみである。複数の筋から「出なさい」という忠告を受けた。

何より、筆者は、この街の住人の気質が、どんどん悪くなって行っていることを感じている。むろん、この街に限ったことではない。それは首都圏全域かもしれないし、もっと広範囲を含んでいるかも知れない。

いずれにせよ、「ソドムとゴモラ化」とでも言うべき現象が起き、洪水が少しずつ足元から押し寄せるように、じわじわと人を飲み込んで行くのを感じる。

「その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。」

脱出の日には、全く後ろを振り返ることなく、地上のものへのすべての未練を一瞬で断ち切り、ただ前だけを向いて進んで行かなければならない。

だが、現代という時代には、たとえ神が脱出させて下さるにせよ、ロトと同じように、身一つで街を逃げ出すということはおそらくないであろうと筆者は思う。それでも、地に属するものには決して未練を持ってはいけないということはいつの時代も変わらない。

筆者は、この地に定着せず、この地の住人の歓心を得ようとすることなく、この地の人々の評価を受けたいと願わず、ここに住み着いて穏便にやって行くことを目的に生きて来なかったことを、誇りに思いこそすれ、いささかも恥とは思わない。それどころか、ソドムの社会に受容され、そこに定住して、一切の孤独とは無縁で、人々と「うまくやれる」人がいたとしたら、その人は明らかにおかしいのだと確信している。その人は我が身に滅びを招いているだけなのである。

だが、筆者がこのように言ったからとて、決して筆者がこの街を馬鹿にしているなどとは思わないで欲しい。この街に比べて、他の街ならマシだとか、どこならばよりよく暮らせるか、といった比較の次元で話しているのではない。これは霊的な文脈である。

だが、脱出する前に、まだひと仕事ある。ペリシテ人の神殿を崩壊させ、宮から商売人たちを追い出し、不信者とのつり合わないくびきを根こそぎ打ち砕いて、真に自分を自由の身とし、誰の奴隷にもならずに出て行くという最後の仕事が残っている。天の大掃除である。

話が変わるようだが、筆者はこれまで、主として、思想面から異端思想の構造を明らかにし、糾弾して来た。悪魔の思想というものが、この世にあることを指摘し、それらに共通する構造を明らかにして来た(グノーシス主義の構造)。

すなわち、悪魔の思想には、聖書の神だけが神であるという地位を奪って、生まれながらの人間を神として掲げ、キリストの十字架の贖いを否定し、キリストの花嫁たる教会に敵対するという特徴があるということを告げて来た。

多くの場合、こうした異常な思想を信じる人々が「神聖な要素」であるかのように主張するのは、人間の弱さ(生まれながらの自己)である。

カルト被害者救済活動もこうした思想の一つであるが、彼らは「被害者性」という人間の弱点を、あたかも神聖なものであるかのように掲げる。だからこそ、「被害者が冒涜された」などと主張しているのである。

彼らがこうして「被害者性」という「弱さ」を聖なる要素であるかのように掲げるのは、マザー・テレサが「貧しい人たちの中にキリストがおられる」と表現したのと同じ理由からである。彼らは要するに神でないものを神としているのであり、本当は、貧しさも、弱さも、被害者意識も、神聖とは何の関係もない、ただの堕落した人間の一部に過ぎない。

ところが、マルクス主義もそうなのだが、虐げられた人々が集まって、自らの弱さをあたかも神聖な要素であるかのように掲げ、それを軸にして連帯すると、強者と弱者の関係を覆し、自らの弱者性をバネに神にまで至ろうとする思想が生まれる。

これが社会主義思想くらいの程度にとどまっていればまだ良いのだが、本当に神の教会に敵対することを目的とする思想になってしまうことがある。それが、カルト被害者救済活動である。この思想の極めて悪質なところは、神聖な方は、聖書の神ご自身であり、また、キリストの十字架の贖いを受け入れ、御子を信じて救われた信者によって構成される神の教会こそ、その聖にあずかっている存在のはずなのに、彼らは「教会で被害を受けたという人の弱さ(被害者性、弱者性、自己)」を神聖な要素とはき違え、教会を悪者として訴えながら、自分自身が教会の裁き主となろうとし、教会を押しのけて、あたかも自分こそ神聖な存在(宮)であるかのように主張している点なのである。

むろん、今日、組織としてのキリスト教会には様々な堕落が起きて、神の御心から離れていることは事実である。だが、そのことを内側から憂慮し、御言葉に立ち戻ることで是正していくことと、堕落しつつある一部の教会のために、教会全体を敵に回して告発することはわけが違う。

後者の思想・運動は悪魔的な構造を持つものなので、これに関わって行くうちに、人々は悪霊に深く憑りつかれて正気を失い、無実のクリスチャンに対する迫害・弾圧に及ぶことになる。筆者はこれまでに幾度もそう警告して来た。そして実際にその通りのことが起きているのである。

にも関わらず、大勢のクリスチャンを名乗る人々が、この思想に貫かれてクリスチャンを弾圧する者どもらの勢いに気圧されて、沈黙してしまった。あるいは、脅しつけられて、黙ってしまった。ちょうどソドムとゴモラの中で、ロトが住人たちに押し迫られていた時、他の住人たちはどこにいたのかも分からず、ロトの家族でさえ、一切抵抗できずに口をつぐんでいたのと同じである。

しかし、突如、話が変わるように思われるかもしれないが、筆者は次の言葉が好きである。

ソドムの住人たちが、ロトの家に御使いの引き渡しを求めて押し迫った時、御使いたちがソドムの住人たちの目をくらませたので、彼らは大勢であったにも関わらず、ロトの家に押し入ることができなかった。

もう一度言うが、筆者はこの言葉がとても好きである。

「彼らは入口を捜すのに疲れた。」

聖書を読むと、悪霊たちは、人間を宿として、人の中に住もうと絶えず願っていることが分かる。

「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになるだろう。」(マタイ12:43-45)

悪霊に入られないための秘訣は、家を「空き家」にしないことだ。もしキリストが住んでさえおられるならば、悪霊はそこに入ることができない。ソドムの住人たちがロトの家に押し寄せて来たとき、ロトの家の中には御使いたちがいた。そこで、御使いたちは、住人たちがどんなに大量であっても、彼らの目をことごとく打ってくらませ、入り口が見つからないようにさせたのである。

住人たちはそんなに大きくもないと思われるロトの家の周りをぐるぐるぐる行き巡ったが、入り口が見つからず、疲れ果てて帰ったというのだから、筆者はこの場面を想像すると、思わず笑ってしまう。

だが、現代のキリスト者もこれと同じで、キリストが内に住んでさえおられるならば、悪魔に入り口を自ら指し示したりすることはないのだ。

しかし、もしキリストが住んでおられなければ、悪魔にとっては入り口を見つけるのは容易であろう。

今は、カルト被害者救済活動の思想的な構造について言及することはしない。ただ、この悪魔的な思想に憑りつかれてしまった人たちが、筆者を攻略するために、すさまじい呪いと中傷を筆者に投げかけていることだけを述べて糾弾しておきたい。

筆者の周りにいるクリスチャンたちは、これに抵抗できず、自らが罵倒されているにも関わらず、立ち向かうどころか、彼らの軍門に下ってしまった。今や彼らを公然と糾弾しているのは、ただ一人筆者しかいない(もちろん、彼らを非難している人たちはいるのだが、立ち向かうという点では、筆者一人のように思われる)。

だからこそ、彼らは何とかして筆者の証をも地上から取り去りたいと業を煮やしていればこそ、筆者にすさまじい呪いと迫害と中傷を加えているのである。

彼らの言い分の中核は、「おまえはこのソドムの街でうまくやれず、ソドムに定着もできず、ソドムに受け入れられず、ソドムで生計を立てることに失敗した情けない落伍者だ。このソドムの住人は、誰もおまえの存在を喜んでいないし、おまえの証にうんざりしている。あとから来たよそ者のくせに、おまえは自分が俺たちに受け入れられなかったからと言って、まるで俺たちのさばきつかさのように尊大に振る舞い、俺たちに上から目線で説教しようとした。そんな高慢な態度は許せない。だから、カルト化教会の道を踏み外したどんな牧師よりも、おまえをもっとひどい目に遭わせてやる」ということに尽きる。

まさにロトに対してソドムの住人たちが述べた言葉と同じである。

それに対する筆者の反論はすでに記した通り。ソドムに受容され、ソドムで孤独を感じず、ソドムに定着する人間の方が全くどうかしているのだ。筆者は一度たりともそんな人間になりたいと考えたことはなく、彼らに「落伍者」であるかのように罵られても、それをむしろ当然であると思う。

むろん、筆者は彼らの呪いや中傷を放置する気はないし、彼らの思い通りになることもない。彼らの手から筆者自身を救い出す。二度と彼らが筆者を呪ったり、汚し言を言うことができないように。

だが、ひとこと断っておけば、この戦いは長期に渡り続いており、激しい迫害になっているとはいえ、そんなに次元の高い戦いではない。こうした人々によるネット上のクリスチャンに対する迫害は、現実生活においてまで、信者に危害を加えるレベルに達しておらず、また、影響の範囲も限られている。何より、きちんと手を打てば終結するし、このような低い次元の情報を鵜呑みにして信じる人々の数もごくわずかに限られている。

学者にとっては自分の主張の論拠をどこから引っ張って来るのかが大切であり、誰も自らの論文で三流・四流のゴシップ新聞の記事を引用したりしないのと同じように、あまりに低い次元の誹謗中傷などを大真面目に信じて吹聴していれば、その人の人間性が疑われるだけである。

だから、一定の洞察力を持っている人は、誰もこういう低次元の情報に振り回されることはない。

しかし、この度、筆者は、そうしたものを超える、もっと高度な迫害が現実にありうることを述べておきたい。それは歴代のクリスチャンがずっと耐え抜いて来た、本当の迫害のことである。

再び、話が変わるように思われるかも知れないが、悪霊は人間を宿としてその中に入り込み、その人間を思うがまま操るが、人間の中に悪魔自身が入ることがありうることを、聖書ははっきり教えている。

「しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。」(ルカ22:4-6)

これはイエスを売り渡す行為が、決して下級の悪霊にはできない仕事だったことをよく表している。だからこそ、サタン自身がそれを遂行するために、ユダの中に入ったのである。そして、注目したいのが、ユダに悪魔が入ったのはいつなのか、ということである。

「イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。

弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。シモン・ペテロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。

その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。

それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。

座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」(ヨハネ13:21-30)

前にも書いたことがあるが、神はクリスチャンに代価を要求される時、決して本人の承諾なしに何かを強制的に剥ぎ取ったりはなさらない。たとえば、殉教を願っていないクリスチャンに殉教を強制されるようなことは決してない。

クリスチャンが神に従う過程で、何を手放すかは、神とその信者との間で合意があった上で、決められる。そして、神は決定的に重要な事項は、信者が目を覚ましてさえいるならば、前もって知らせて下さる。大きな迫害が迫っている時や、危機が訪れようとしている時、もし信者が御霊に聞く姿勢さえ失っていなければ、必ず知らせて下さる。

だから、もし何の前触れもなしに、不意にとてつもなく悪しき出来事が起きてそれに翻弄されるようなことがあれば、その時は、クリスチャンが目を覚ましていなかった可能性が高い。

主イエスは、ご自分が父なる神に従うために、命を投げ出さなければならないことを、以上に挙げた場面で、すでに知っておられた。それが避けがたい召しであることも知っておられた。そして、神との間で、命を投げ出すことにすでに同意されていたのである。

主イエスが、その召しに承諾してから、初めて、サタンは動くことができた。いわば、サタンは、イエスの許可なく、ユダを使ってイエスを裏切ることができなかったのだと言える。そこで、イエスが「今こそ、その時だ」と、指示した時、初めてサタンがユダに入った。イエスは裏切られることを前もって知っており、ご自分が死に渡されなければならないことをすでに承諾しておられたからである。

我々クリスチャンの人生にも、似たようなことが起きる。

悪魔がどんなに猛威を振るうように見える時でも、最終的に見れば、それは神の支配下で許された範囲内でしかないのである。たとえば、クリスチャンには、兄弟姉妹を名乗る人たちによる手ひどい裏切りが起こることも稀ではないが、そのようなことは、ある日、突然、起きるものではない。あるいは、肉親にまで裏切られることもあろうが、そういうことは、必ず、神ご自身が信者に教えて下さる。我々はすべての兆候から、そうなることを前もって予測できるのである。むろん、心の準備も可能である、目を覚ましてさえいるならば。

クリスチャンを罵るくらいのことは、下級の悪霊のレベルでも可能であろうが、クリスチャンに手をかけて命を取るような危害を加えるというようなところまで行くと、これはサタン自身の仕事である。サタンの霊を受けた人間しか、そのようなことを大規模に実行できる人間はいない。だが、心配しなくて良い。そのような迫害は、それを受けるクリスチャン自身が、神との間で、前もって同意しない限り、その人の身に起こりはしない。

聖書は言う、

「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。

しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。

あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(ルカ21:10-19)

筆者は今まで幾度も殉教について述べて来た。最終的には、すべてのクリスチャンは殉教を目指すべきであると思う。だが、筆者について言えば、今はまだその時ではない。これは殉教を恐れるがゆえに言うのではなく、すべての物事に時があることをただ述べているだけだ。だが、上記の御言葉の実に多くの部分はすでに筆者の人生で成就している。戦いはかなり深いレベルにまで達した。

これから先、クリスチャンに対する迫害は、時をかけて、より一層、巧妙に、深化して行くであろうし、ついに最後には殺意のレベルへまでも進行して行くであろうと予想する。そうなるためには、まだしばらく時があり、時代の状況そのものが変わることであろうが、すでにその戦いが始められようとしていることを筆者は知っている。

この地へやって来たときとは正反対である。やって来たときには、筆者はキリスト者の純粋な交わりを求めて、それに憧れ、心躍らせていたが、牧歌的な時代は終わったのである。

そして、筆者は心の中で神に向かって言う、「いいでしょう。同意します。私にはあなた以外で価値あるものは何もありません。」と。「たとえ兄弟姉妹であろうと、ソドムの住人であろうと、誰であろうと、あるいは物であろうと、家であろうと、何であろうと、あなた以外のもので、私が自分の心の中心として据えるものは何もありません。私はあなたが私に望んでおられる道を生きることに同意します。ただその道において、あなたが束の間の苦難と引き換えに、はかりしれない重い栄光をすでに天に用意しておられることも私は知っており、その褒賞を見上げ、それに至り着きたいと願っているのです。どうか私があなたの栄光に入り損なうことがありませんように。」

2018年1月29日 (月)

神の相続人―キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受ける

「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。

この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを明かししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ローマ8:12-17)

「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。
自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ12:1-2)

もしもこのブログを読んでいる人々の中に、力の強い人間の顔色を伺い、権力者の思惑を忖度して行動している人がいるなら、そんな生き方はやめて、一刻も早く、神の顔色を伺った方が良い。

筆者はよくサムソンの最期を思い出す。このブログでサムソンに触れたのは、今回が初めてではない。

信者は、地上の人間である限り、神の義と神の国を第一にして生きると言いながらも、それでも、心は常に地上のものによろめき、容易に逸脱を繰り返す危なっかしさを持っている。筆者も、そうした弱さを持つ人間の一人として、自分の心が真に重要なものから逸れかけていると気づく時、はっとサムソンのことを教訓として思い出すのだ。

もちろん、神の霊が内に住んでおられる信者が、デリラの誘惑に屈したりすることはない。むろん、信者がサムソンのような最期を遂げる必要もない。この地上にいる信者たちが誰しもサムソンのような最期を遂げていたのでは、御国の前進もないだろう。

とはいえ、サムソンの生涯は、そのものが私たちにとって大きな教訓である。

信者は目を覚まして、地上のものに心惹かれることに警戒し、何が真に重要なことであるか、常に見極めようとしなければ、霊的視力は容易に曇らされてしまい、天の宝を失ってしまうという教訓なのである。

そうして目を覚まさせられる瞬間、筆者はサムソンのことを思う。そして、考えるのだ。どうすれば、神の目に本当に喜ばれる奉仕を成し遂げることができるのか。そして、そうだ、まだやり残したことがあった、と思う。ペリシテ人の神殿を崩壊させる仕事が残っているではないか、と心に思うのだ。

このように、筆者が渾身の力を振り絞って「ペリシテ人の神殿」を崩壊させて来たことが、これまでに何度かある。その戦いは、周りから見れば、ありふれた出来事でしかなかったかも知れないが、そこには大きな心理的なドラマがあり、予行演習があった。

デリラの誘惑に引きずられたために、罠に陥れられ、神から与えられた賜物としての力と輝きを失ったサムソン。両手を鎖につながれ、両眼をえぐり出され、奴隷的苦役に従事させられ、ついにはペリシテ人の余興として辱められるために、見世物として宴席に引き出されたサムソンが、最期の力をふりしぼって、ペリシテ人の神殿の柱に手をかけた。

サムソン最期の神への奉仕だ。

彼は何もかも剥ぎ取られた人生最期の瞬間に、自分のすべてをかけて、地上のものへの未練を振り切り、神の権益に寄与した。その瞬間、ペリシテ人の奴隷になっていたサムソンに怪力が戻った。異教の神殿は音を立てて崩壊し、宴席に連なって酔いしれていたペリシテ人たちは、奴隷のサムソンにまさかそんな力があるとは思わず、完全に油断し切って慢心し、欲望にふけり、酔いしれていたので、逃げ出す暇もなく、壊れた神殿の下敷きになって死んだ。

サムソンの場合は、気づくのが、ちょっと遅すぎたのではないか、と筆者は思う。本当は、これほどまでにすべてを剥ぎ取られる前に、信者が神に立ち返ることは十分に可能だ。だが、同時に、パウロが「あなたがたは罪と戦って、血を流すまでに抵抗したことがない」と信者を叱咤したように、人間の心に潜む堕落の深さを、まだ十分に知らないがゆえに、甘く見てはいけない部分もある。

ある信者たちは、ダビデとバテシェバの物語を聞いて、ダビデの心の弱さを嘲笑する。何と愚かな人間だろう、自分であれば、そんな過ちは絶対に犯しはしないのに、と笑うのだ。だが、人間と人間の魂の間には、各自の感情や思惑をはるかに超えた、何かしらの絶大な本能的な力が働くことがある。魔がさすとでも言うのか、とてもではないが自力では太刀打ちうちできないような強力な誘惑が人生に起きて来ることも時にはあるのだ。

それが、人間の堕落した魂と肉体に働く悪魔的な力である。

そして、信者らは、この堕落した魂と肉体に働く力を、常にキリストと共なる十字架の死へともたらし、神の霊の働きによって体の働きを殺す。これは人の力で成し遂げられることではない。キリストが十字架で勝利されたからこそ、適用することのできる力なのである。

キリスト者は神の神殿であり、サムソンも旧約聖書に登場するすべての信仰の先人同様に、神の神殿の型である。ナジル人の風習として、サムソンが髪の毛に剃刀を当てないことは、サムソンが神の神殿としてこの世から聖別された地位を保つという意味を持っていた。頭の毛を切ることは、神殿とこの世を隔てている覆いを取り払い、神の神聖を自ら捨ててこの世と同化することと同義だったのである。

このような文脈で見ると、ナジル人のサムソンは神に対して霊的に女性である人類を代表していたと言えるかも知れない。パウロは言う、女性の長い髪は頭の覆いのためであり、その意味で髪は女性の栄光であると。人類という被造物は、創造主である神に対して霊的に女性の立場にある、この意味では、髪に覆いをかけることで聖別を保ったサムソンと人類とは重なるのかも知れない。

キリスト者の支配は、心の中から始まる。神と悪魔との戦いは、いわば、信者の心の中心の争奪戦でもある。信者が何を第一として生きるのか、神を第一として生きているのか、それとも、それ以外のものを第一として生きているのか、その激しい主導権争いが信者の心の中から始まるのだ。

信者が霊的な戦いに勝つためには、信者が自らの心の中で、ただ神だけを中心に据え、他の何者にも決して頼らない状態を作り出さなければならない。心の中からすべての「デリラ」を追い出し、「アカンの外套」を捨て去り、神以外のどんなものも心の中に中心として据えるものがない状態にしておかねばならない。

決してどんな地上の人間にも頼らず、神だけが栄光を受けられる状況を自ら作り出すのだ。

さらに、もしできるならば、エリヤがしたように、戦いをより一層、難しいものとするために、神の栄光が人の目によりはっきりと現れるために、祭壇に何度も水をかけ、火がつきにくいようにしておけば良い。
神がついておられなければ、勝利などあり得ない状況にしておくのだ。

それさえできれば、戦いの勝利は確定したも同然である。あとは柱に手をかけ、一歩を踏み出すだけだ。待ち望みの時は過ぎた。髪の毛は十分に伸びている。神がついておられるならば、誰が信者に敵することができようか。

さて、今回は長い記事は書かない。

はっきり告げておきたいのは、筆者の書いた多くの内容には、筆者でさえ書いた当時は理解していなかったような予言的な意味が込められていることが、後になってから分かることがよくあることだ。これは自慢話ではなく、キリスト者の歩みに、何一つ偶然はないことを示している。

筆者は、以前、剣を取る者は剣で滅びるように、裁判に訴える者は裁判で滅びると書いた。

神が怒られるのが遅く、その憤りは長く続かないと聖書にあるように、筆者もかなり気は長い方だ。むしろ、怒るべき時に怒らないのでチャンスを逃していると叱咤されてもおかしくない。

それでも、そんな筆者も、サムソンがその怪力によって何人もの敵を倒したように、自らの主張だけで、いくつもの「ペリシテ人の神殿」を倒した。予行演習としてはもう十分であろう。随分、時間がかかってしまったが、そろそろ本番が待っている。

筆者は一つ前の記事に、新居に来て後、しばらく家具を選ぶことに熱中していたと書いた。それは無価値なこの世的な興味関心であったかも知れないが、そのことからも、学んだ教訓はある。それは、完全なものを得るために、信者は決して妥協してはならないということである。

時に、ベターはベストの不倶戴天の敵となる。次善にも、それなりの長所があり、輝きがある。だが、次善が、最善であるかのように振る舞った時、次善はただちに悪となる。それは悪しき腐敗した虚偽として、取り除かれねばならないものになって行くのである。

ガラス玉もイミテーションとして楽しむうちは無害であろう。だが、ガラス玉が自分はダイヤモンドだと言い始めた時に、それは悪の権化、罪の化身となる。山登りをする人が、初めから自分は5合目までしか目指していなかったから、途中で山を下りたと言えば、嘘にはならない。だが、もともと山頂まで上るはずだった人が、4合目、5合目で疲れて立ち止まり、下山したにも関わらず、自分は登頂したと宣言すれば、それは大嘘である。

問題は、キリスト者は常に神が満足される完全を目指さなければならないのに、そこにこそ、神と私たちの心を完全に満足させる天の栄光に満ちた相続財産があるのに、多くの人たちが、次善で満足した上、それがあたかも最善であり、完全であるかのように見せかけようとすることにある。

筆者はこれまで「カルト被害者救済活動」の何が間違っているかについて述べて来たが、この活動も、神の最善に悪質に立ち向かう「次善」である。神ではない人間による救済事業は、うわべだけは善良そうに見えるが、真理に立ち向かう悪質な虚偽だからである。

聖書の真理は、神ご自身にしか、人間を救済することはできず、苦しむ人々を「救済」する仕事は、ただ神だけのものであって、人間自身には人間の救済はできないというものだ。神の助けを受けることこそ、我ら人間にとって完全な道であり、最善の道である。我らの救い主として栄光を受けるべき方は、神ただお一人しかいない。

にも関わらず、この地上では、牧師や、教師や、カウンセラーや、助言者たちが、あたかも自分たちが人間を苦しみから救う力を持っているかのように、親切で善良そうな言葉を振りまき、耳元でささやく。まして、神の教会で起きたトラブルを、自分たちには解決できる力があると言う不遜な人たちまでいる。そして、彼らは、神の教会や信者の欠点や弱点をさかんに噂し合いながら、教会を貶め、悪しき教会から人々を助け出すと言っては、心弱く自信のない大勢の人たちを惑わして行く。

だが、これはしょせんAチームBチームの戦いでしかないのだ。神になり代わって指導者として信者に君臨する中間搾取者が、自ら他の中間搾取者を訴え、取り締まっているだけで、「あの先生」と「この先生」の間の戦いを行き巡っている限り、決して信者が自由になれる日は来ない。

このような偽りの「指導者たち」の唱える「救い」が完全に偽物であることは、彼らが筆者に対して行って来たすべての仕業からすでにはっきりと明らかである。彼らは、信者たちの弱さにつけこみ、問題につけこみ、それを解決してやるように見せかけながら、実際には、「偽物の救い」という、デリラの甘い誘いでがんじがらめにし、信者に本当の神の力を決して味わわせないように、信者の聖別を奪い取って、捕虜として連れて行くだけなのである。

彼らが望んでいるのは、ただ自らが神の代理となって、信者の心を支配し、神がお与えになった信者の自由を奪い、信者を道具として自分の利益のために搾取し、それにも関わらず、自分はあたかも人前に人助けをしている善人であるかのように振る舞い、神から栄光を奪い取って、自分自身が栄光を受けることだけなのである。彼らにとって、弱さのゆえに自分を頼って来た信者は、いわば、獲物である。

このような活動は、神の救いに真っ向から対立する悪質な虚偽である。だが、そのことは幾度となく述べて来たのでここでは繰り返さない。

キリスト者は、すべてにおいて、完全を目指さなければならず、それ以下のもので決して満足して立ち止まってはならない。たとえどんなに優しく親切そうな人間が現われ、困っている時に、助力を申し出て来たとしても、それが人間であって、神ご自身ではないという事実が持つ重大な意味を、信者は決して忘れるべきでないのだ。そして、次善を最善以上に高く掲げるという過ちを決して犯すべきではなく、神以外のものに栄光を帰してはいけない。次善の誘惑に屈しないために、そのような偽りの助けは最初から拒むのがよかろう。

繰り返すが、我らの救い主は天にも地にもただお一人であり、救済者は神しかいない。だが、キリスト者はその真理に従うために戦いを迫られる。あらゆる面で、神の完全を追求するために、あらゆる次善を拒否する戦いを最後まで立派に戦い抜かねばならない。

そこで、信者には、肉なる腕(人間)から来るすべての助けを、悪しき堕落した誘惑として拒否しなければならない時が来るのだ。だが、自分が救済者をきどりたい人たちは、「次善」呼ばわりされ、自分たちの助けの手は必要ないと言われると、プライドを傷つけられたと感じて怒り出す。その瞬間に、彼らの化けの皮がはがれる。

彼らは、苦しむ人々を救済すると口ではあんなに親切そうにうそぶいていたのに、いざ、自分たちの本質を見抜かれると、それを見抜いて去って行った人々に猛烈に石を投げ、殺意に至るほどの敵意を持って追いかけ、真実を訴えさせまいと、口を封じようとする。

このような凶暴な人々の本質が、救済者ではないどころか、むしろ、人殺しであることは、今や誰の目にも明白である。

主イエスが言われた言葉を思い出そう。

「彼らが答えて、「私たちの父はアブラハムです。」と言うと、イエスは言われた。
アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。ところが、いま、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことをしなかった。あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。

そこで彼らが、「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です。」と言うと、イエスは言われた、

「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。<…>あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころにしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。」(ヨハネ8:39-44)

このところ、有名人の不倫騒動が世間を騒がしており、この世の法に照らし合わせても罪に相当するはずのない事柄が、あたかも重大な罪のように取りざたされ、そのために人々が互いに石を投げ、断罪し合っているが、それを見ても思う。世の裁きは何と神の裁きに比べて、憐れみも容赦もないことだろうかと。

いつもそうだが、人間による裁き(人間による救済と同じ)は、最初こそ、人の目に優しく、親切そうに、正義のように見える。ところが、人間による裁きは、最後には、どんな宗教でさえ考えつかなかったほどの、とてつもなく厳しい行き過ぎた制裁となり、ついには法にも常識にも基づかないデタラメな私刑へと落ち込んで行くのである。

こうして、悪魔(この世)が悪魔(この世)を厳しく裁き、取り締まるというのだから、思わず笑ってしまう。だが、人間による救済は、このように、必ず救済どころか、とてつもなく厳しい裁きにしかならないことが、途中で明らかになる。そのことが、「カルト被害者救済活動」の暴走の過程でも、完全に裏づけられていると言える。

私たちは神の憐れみに満ちた裁きにすがるのか、憐れみのない人間の裁きにすがるのか、常にどちらかの選択を迫られている。

「自分たちはアブラハムの子孫だ」と言いながら、主イエスに対する敵意に燃え、イエスを救い主として受け入れず、十字架にかけて殺した人々は、自らよりどころにしていた律法によって容赦なく裁かれることになった。

今日も同じである。神が義とされた教会やクリスチャンに、この世の法の裁きを適用し、クリスチャンを有罪に追い込むことで、正義を実現しようと考えるような人々は、結局、自分自身がよりどころとしているこの世の法によって最も容赦なく罪に定められるだけである。

彼らを裁くのは、御霊ではなく、主イエスでもなく、御言葉ではない。彼らには神の憐れみに満ちた裁きが適用されず、彼らを裁くのは、彼らが信じて頼みとしているこの世の法である。そして、悪魔の悪魔に対する裁きはいかなる容赦もないものであり、彼らが他者に対してふりかざした厳しい基準がそのまま彼らに当てはまることになる。律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい」(ルカ16:17)のだ。

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。

だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。
あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」(マタイ5:21-26)

悪魔はあたかも自分にこそクリスチャンを訴える権利と資格があるかのように振る舞うだろう。聖書によれば、悪魔は「日夜、兄弟たちを訴える者」であるから、常にクリスチャンを自分から先に告発しようと躍起になっている。

だが、聖書の御言葉を参照するなら、どうだろう。むろん、神に義とされた者を再び罪に定めることのできる存在はおらず、悪魔の訴えはむなしく退けられるばかりか、兄弟(クリスチャン)を罵倒し、傷つける者こそ、特別に厳しい裁きを受けることが聖書にははっきりと示されているのだ。

そういう者たちは、最後の1コドランスまで支払って、和解しない限り、牢から出て来ることはできない。これは、この世の裁きのことだけを指しているのではなく、むろん、地獄の永遠の裁きのことをも指している。恐ろしいことである。神の贖いによって義とされたクリスチャンを罵倒し、罪に定めようとすることが、どんなに恐ろしい罪であり、永遠の厳しい裁きに価するかがよく示されていると言えよう。

2018年1月17日 (水)

地に安住せず、さらにすぐれた故郷、天の故郷だけを目指して歩む

「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。

 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。

 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥とはなさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(ヘブル11:5-16)


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

"
人は「キリストに似て非なる あるセンター」を持ちたがります。
先ずは 
ある人間を中心とする「自分達のワンセット」をある場所に固定し 
その上に安定的で堅固なものを建て上げようとします

即ち
人にある宗教性には ある時間と場所を定め そこに「立派な礼拝」を
構築したいとする強い願望があるのです。

更に言えば そこには
「神への礼拝」を獲得した上で 
この地上に自分達を根付かせ自分達の名を高く掲げたいと言う
人本来の宗教本能が働いているのです。


その達成の時には あの「大バビロンと言う名の女」は安心し誇って
言うでしょう、私は乏しい「やもめ」ではない、
拠り所がある 安定があると。

<中略>

これこそが、全聖書が首尾一貫糾弾するバベルでありバビロンなのです。
そして現代 全世界のキリスト教宗教はかつて無かったほどの
「大いなるバビロン」構築に向かってまい進していると言ってよいでしょう

そこにあるのは 神の言葉・黙示録が再三にわたって警告する

地に住む」(原文では「地に座る」)と言う
人の奥底に居座る根深い願望なのです。
それは今この瞬間でさえ私達の心にも存在し得るのです。




教会はただ「迫害の中、ゆくえ知れない旅のさなかに」初めて
出現するのです。あなたが死に向かう その途上にのみ現れるのです。
教会がこの地に居座ることなどありません。
教会に安定や固定などあり得ないのです。私達は単に 寄る辺無き 
何も持たない「やもめ」でなければならないのです。

「わが民よ、この女から離れなさい。」(黙18の4)
「あなた方はシオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、
無数の御使い達の大祝会に近づいているのです。」(ヘブル12の22) "

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「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」(マタイ24:37-39)

「それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。
 汚れたものに触れないようにせよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 わたしはあなたがたの父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる、
 と全能の主が言われる。」(Ⅱコリント6:17-18)


わたしの民がわたしに聞き従い、
 イスラエルがわたしの道に歩む者であったなら
 わたしはたちどころに彼らの敵を屈服させ
 彼らを苦しめる者の上に手を返すであろうに。

 主を憎む者が主に屈服し
 この運命が永劫に続くように。
 主は民を最良の小麦で養ってくださる。

 「わたしは岩から蜜を滴らせて
 あなたがたを飽かせるだろう。」(詩編81:14-17)

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

一つ前の記事で書いたことを訂正する必要がある。筆者はこの土地から筆者を追い払おうとする暗闇の勢力による激しい妨害と戦って、自分と住まいを守り通した、という趣旨のことを書いたが、そうした事柄は、勝利として宣言するには甚だ不十分であったことが判明したのである。

前にも書いた通り、クリスチャンにはこの世にあって様々な圧迫が押し寄せて来る時があり、そのほとんどは暗闇の勢力から来るものであるが、信者はこうした悪魔の妨害から、ただそれに立ち向かって、持っているものを信仰によって守り通しただけでは、獲得物はゼロでしかなく、勝利とは言えない。天の褒賞を手にして、ゼロからプラスに生活を拡張して、初めて勝利があったと言える。

以前にも、「栄光から栄光へ、主の似姿に変えられて行く」とは、どのようなことであるか、という記事でも触れたが、キリスト者に苦難が与えられる時には、必ず、それに相応する天の慰めが待ち構えている。これは変わらない霊的法則性である。試練を信仰によって耐え抜き、戦い通せば、天の褒美が待っている。

だが、その褒賞を掴むには、特に揺るぎない信仰が要る。激しい戦いの最中に疲労困憊してしまったり、失意落胆して、希望を失ったりせず、平静でなければならず、必ず、神はご自分により頼む者を失望に終わらせず、天に褒美を備えて下さるという確信が必要であるが、それに加えて、激しい戦いが決着する時、決してその戦いの激しさだけに気を取られたり、決着したことだけで満足したりもせず、さらなる前進や飛躍に向かって、すぐに大胆に一歩を踏み出す信仰が要るのだ。

なぜなら、キリスト者に与えられる苦難とセットになって来る天の褒賞とは、多くの場合、現実生活において、信者が新たな前進や飛躍を遂げることのできる何かしらの稀有なチャンスとなって現れることが少なくないからだ。いわば、真っ暗闇のトンネルを通過するような激しい苦難の直後に、思っても見ないような稀有なチャンスが訪れるのである。

このようにして準備された天の褒賞に確固として到達しないことには、本当の意味で、信者の霊的な戦いは終わったとは言えず、ただ現状を守り通しただけでは、何も成果がないのと同然なのである。

それどころか、信者が天の褒賞を掴まないで、ただ現状を守り通しただけ満足してしまうと、神の守りから逸れてしまう危険性さえある。

特に、キリスト者の地上の住まいについては、特別な誘惑が伴うので、要注意である。クリスチャンが地上の住まいに固執することは、彼が地に安住してしまう危険性を常に伴うからである。もっとも、住まいに限らず、信者にはどんな事柄についても、自己満足したり、定住、定着、安住しようとする願望が、前進を妨げる大きな障害物となることに注意が必要である。

だが、筆者はここで、クリスチャンが地上の住まいを手放してホームレスになるべきだとか、すべての財産を文字通り捨てて無産階級になるべきだなどということを言っているのではない。そうではなく、神は常に信者が地上生活を送るために必要なすべてを供給して下さるのであり、信者はそれを享受して良く、当然、その中には住まいも含まれているのだが、信者はどんなものが信仰によって与えられても、決して地上的な利益に満足してその状態に定着・安住してはいけないし、それらに執着すべきでもなく、地上で与えられている状態が、過渡的で。不完全なものでしかないことを常に自覚して、地上においてさえ、常に今以上にまさったものを神が備えて下さっていることを信じて前進を続け、最終的には、天の都に到達することを目指さなければならない、と言いたいのである。(地上において決して現状に満足することなく、むしろ、現状に満足することを否んでさらに優れたものを求めて、たゆみなく前進し続けることは、天の都への行路と重なる。)

この点で、現在、オリーブ園にオースチン-スパークスの興味深い記事が連載されているが(末尾にも少し引用する)、そこにも、キリスト者が決して地的なものに巻き込まれることなく、天的な住まいに向かって歩み続けることの重要性が示されている。

キリスト者の前進は、こうして常に天の住まいを理想として、これを目指しながら、それに満たない地上の住まいを不完全なものとして拒み、前進し続ける時にのみ起きる。もし信者が地的なものを見てそれに満足し、そこに安住を企て始めると、たちまち霊的な前進はやみ、天の褒賞もなくなり、神はその事業から手を引かれるのである。

このような「地に定住する誘惑」は、信者の住んでいる地上の家が、快適からほど遠く、狭苦しく、貧相で、自慢もできない、あばら家に過ぎない時には、あまり大きなものとはならない。信者は自分の生活が不便であるうちは、早くそこを出て、もっと良い住処に行きたいと願い続け、その願いに天の住まいを重ねるので、地に定住しようなどという気にはならない。

しかし、信者の住んでいる家がそこそこ快適な住処になり、自分でも満足し、人に自慢もできるようなものになって来る時、信者がさらにまさったものを願い続けることをやめて、そこに安住してしまう危険性がただちに生じる。

「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)

と聖書にあるように、クリスチャンが信仰によって地上生活で得られるものの中には、霊的な糧だけでなく、物質的な糧も含まれる。これまで書いて来たように、信者は、住居であれ、生活の糧であれ、仕事であれ、何であれ、望むものを、ただ主にあって、御言葉に基づき、信仰により地上にリアリティとして引き出し、獲得することができるのである。

だが、今、すでに目に見えているものに満足する心には、信仰は必要ない。もし今、信者が手にしているものに満足し、見ている風景に満足し、さらにまさったものを神に求めることをやめてしまえば、その時、信者はもはや目に見えるものによって歩んでいるのであって、見えないもの(信仰)によって歩んでいるのではないのである。信者の心は、地上の目に見えている物質や、よく見知った光景に束縛され、それに執着し、神はその状態をどうご覧になるのか、神はそのような中途半端なスケールでは決して満足されることはなく、それをゴールだとも思っておられず、信者にもっともっと遠くまで前進するよう望んでおられ、今見ている風景よりもはるかにまさった都を、実際に信者のために常に用意されているのだという事実を忘れ、否定してしまうのである。

筆者はこれまで幾度もクリスチャンの様々な家庭集会に出席したことがあり、そこで実に立派で麗しい様々な家々を見て来た。そこにある平和で、立派そうな快適な暮らしを見て来た。当時、筆者はそれをまるで自分には手の届かないものを見るように眺め、また、そうした信者たちの中には、小規模な家庭集会を組織することで、初代教会のような、巨大組織を持たない信者の群れを形成しようとし、それが神の御心にかなっているのだと考える信者もいた。

だが、当時の経験に立って、今、筆者が言えることは、筆者は今決して自分で家庭集会を開こうとは思わないし、それが正しいことであるとも思わない、ということだけである。なぜなら、家庭集会というものには、どうしても人間の見栄や競争願望が強く働き、結局、それは自分の暮らしの経済的な規模や、家族の人数などを自慢する場となってしまい、信者たちがいかに地に定着して自分の暮らしに満足しているかをアピールする場になり果ててしまうだけでなく、そこに別な信者を集めることにより、エクレシアを地上に固定化し、別な信者まで「地に住む」者としてしまうという反聖書的・悪魔的な意味合いが強く出てしまうからである。

筆者がこの地に来る前にキリスト者たちから聞いた言葉、また、筆者自身が聖書を通して得られる確信は、エクレシアは物理的・地理的制約とは一切関係ないということである。もっと言えば、エクレシアとは、神を信じ、神の子供として受け入れられた信者自身のことであり、地上に固定化された教会の建物とは一切関係なく、また、信者の住んでいる家とも関係ない。

にも関わらず、信者が、信仰を口実にして、自分の地上の家に固執し、これを信仰の賜物であるかのように他の信者たちに向かって自慢し、そこに満足して定着し、これを神の神聖な宮のように誇示し始めると、それはたちまち腐敗し、神の御心にかなわないものとなってしまう危険がある。このことは、信者たちが誇る地上の建物としての教会にも全く同じように当てはまる。大規模な礼拝堂を建設することで、信者が神に奉仕できると考えることは全くの誤りだが、信者の地上の家についても同じことが言える。自分の家の経済的規模を誇ることが、神の栄光には全くつながらないのである。

もちろん、神は信者の地上生活に必要なものを全て与えられる。そこには家も含まれる。信者は自分が望むことを神に申し上げ、信仰によってそれを実体化すれば良い。より良い家を求めることが悪なわけではない。だが、それは決して、信者が与えられたものに安住し、これを神が目指していた都そのものであるかのように誇るためではない。信者はたとえ地上的な利益が、当初は信仰によって与えられたのだとしても、与えられたものに決して満足することなく、そこに安住もせず、常にさらに先へ進んで行かなければならない。

こうして信仰により、信者が天の報酬を掴みながら、「栄光から栄光へと」、さらに優れた都を目指し、それに近づきながら歩み続けることは、たやすいことではない。その前進の最も大きな妨げとなるのが、信者の自己満足、自己安堵である。

信者は、一つの試練を立派に勇敢に耐え抜いても、一つの戦いに勝利しただけで、たちまちそれがゴールだと思ってしまい、それ以上、進んで行くことを考えなくなることもある。戦いの激しさに疲れ、前進したくないと思うこともある。そうなると、神は信者をさらに前進させるために、信者の自己満足を打ち砕くための新たな試練を課し、信者が握りしめているものを容赦なく剥ぎ取ることまで、時にはせざるを得なくなる。

できるならば、そのような深刻な事態にまで至り着く前に、信者は気力を奮い起こして立ち上がり、真に神の御心を満足させる完全・完成へと至り着かないことには、自分自身も決して満足などしないという気概を取り戻し、さらに前進すべく行軍を進めるべきであろう。

さて、個人的なことを言えば、今回、筆者が疑念を抱いたのは、横浜という街に住んでいることへの自己満足であった。筆者は横浜に何のこだわりがあるわけでもなく、この街よりも都会に住んでいたこともあれば、もっと田舎暮らしの良さも知っているが、それでも、以前よりも良い住環境を手にした時、この地にとどまって安住してしまう危険が自分に忍び寄っていることに、遅ればせながらようやく気づいたのである。

そして、信者は何か一つの激しい戦いを経て、勝利を得ても、決してそれですべてが終わったなどと思うことなく、(ただちに)生活をさらに拡張すべく、新たな戦いへ出て行くべきであり、霊的前進がないのに、生活の拡張もあり得ないという事実に気づかされたのであった。

筆者はこの地にやって来た時、神が力強く働いて移住を後押してして下さったという確信があったので、それに気を取られるあまり、この地に深く定着することは、全く神の御心にかなうことでなく、そろそろ別な道が用意されているかも知れない、という可能性をすぐには思わなかったのである。

それどころか、住環境がより良くなると、かえって出る必要など全くないかのように思い、この地を出るべき時がひたひたと近づいていることに、随分、鈍感であった。

ところが、よく考えてみれば、このところ、特にこの数年で、筆者は、横浜の街のみならず、首都圏全域が、まるでソドムとゴモラのように腐敗・変質していることを思わざるを得ない。役人は不誠実、横暴・凶悪になり、住人の気質は陰険になり、人々は互いに騙し合い、搾取し合い、殺し合い、首都圏は、表向きのブランドイメージとは似ても似つかない、善良な人間にとっては、空気を吸うだけでも耐えられないような腐敗して、長くはとどまれない街に変わり果てている。

横浜という土地にも、深刻な疑念を抱かざるを得ない事件が、ここ最近、連続している。まず、一昨年は「津久井やまゆり園」事件があった。(2016年7月26日、神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」が、施設に恨みを持つ元施設職員 の若い男に襲撃され、19人が死亡、27人が重軽傷を負った事件)。そして、昨年は、座間の事件である。(神奈川県座間市の当時27歳の男が住むアパート室内で、若い女性8人 、男性1人の、計9人とみられる複数人の遺体が見つかり、死体遺棄事件として扱われた)。

こうした異常な事件では、どちらの場合にも、この社会で生きることに困難を覚えた社会的弱者たちが、その弱さを利用され、多数、犠牲とされた。後者の事件では、過酷な競争社会を生き抜くことに疲れを感じていた自殺志願者の若者たちの苦しみを足がかりにして、同じ若者世代に属する犯人が、同情的な態度を装いながら、彼らを騙し、歯牙にかけて殺したのである。

さらに、今年になると、新年早々、有名な着付け業者が、横浜の桜木町にあるみなとみらい店で、新成人を騙してサービスを提供せずに夜逃げし、新成人の成人式が大規模に台無しにされる事件が起きた。同様のことが八王子店でも起きたというが、これまで、首都圏でこんな事件が大規模に起きたことはなく、新成人という世代だけがターゲットにされることもなかった。しかも、業者の名前が「はれのひ」というから、皮肉も甚だしく、経営者が特別な反社会的な怨念に基づいて計画的に弱い立場にある者に無差別的な復讐を企てたかのような精神を感じざるを得ない。

だが、こうした事件だけでなく、筆者は日常生活においても、昔であれば、あり得ないような非常識なトラブルをよく見かけるようになった。さらに、西を向いても東を向いても、ブラック企業が蔓延し、それを取り締まる役所も機能停止し、弱い世代が根こそぎ犠牲にされ、食い物にされている。

さらに、このようにして前途ある人々が貧困に陥れられ、結婚もせず、家も買えず、車もなく、それゆえ少子化がますます加速している中で、同性愛者の人権などが公然と叫ばれるようになり、かえって、異性愛者が同性愛者に懺悔を迫られたり、肩身が狭くなる風潮が広がっている。同性愛者の人権を口実に、異性愛者が隅に追いやられたり、弾圧される世の中になりつつあることが感じられるのである。

こうした現象には、かつて「自分たちはキリスト教会で傷つけられた被害者だ」と主張するいわゆる「カルト被害者」を名乗る人々が、キリスト教界に登場して来た時、筆者のようなクリスチャンが、彼らの聖書に基づかない、およそクリスチャンらしくない、信仰の欠如した生き方を批判しただけでも、「被害者」を名乗る連中から袋叩きにされる危険に見舞われたのとそっくり同じ構図が見られる。

本来、キリスト教会というところは、聖書の御言葉への信仰を持つ信者によってのみ占められるべきであるのに、そこに、異常な牧師やカウンセラーたちが、「教会のカルト化」を憂慮すると言って、教会でつまずき、傷つけられたとする「カルト被害者」を、「加害者」たる教会が「救済」しなければならない責任があると叫び始め、公然と「被害者」たちをあたかも信者であるかのように教会に招き入れたために、教会が、もはや信者たちの場所ではなくなり、むしろ、教会や信者によって傷つけられたとする、信仰もあるかどうか分からず、さらには教会自体に怨念を持つ人々のたまり場へと変質させられて行ったのである。(その中にはキリスト教と縁がないばかりか、長年、カルトと批判される新興宗教の中にいて、ほとんど無理やり脱会させられただけの他宗教の信者なども数多く含まれていた。)

こうして「カルト被害者救済活動」が教会を舞台に公然と繰り広げられた結果、本来、最も教会のメンバーたるにふさわしいはずの正常な信仰を持つクリスチャンが、かえって「加害者」や「悪魔」のレッテルを貼られて、教会から外に追いやられる一方で、信仰の欠片もない「被害者」たちが堂々とまるで「信者」であるがごとくに教会に居残るという転倒した現象さえ、起きたのである。(このようなことは、いわば、教会の本当の信者たちを駆逐して、信仰を持たない人々に総入れ替えするために悪魔的勢力によって行なわれた、教会全体の乗っ取りであったと言えるだろう。)

ちょうど同様な現象が、LGBTの人権問題を皮切りに、起きつつあると言えよう。

「自分たちはこれまで差別され、苦しめられ、抑圧されてきた被害者・社会的弱者だ」と名乗る人々が現われ、彼らの存在を利用して、本来、何の問題もなかった正常なはずの人々に「加害者」のレッテルを貼り、罪悪感を抱かせ、追い詰め、これらの人々を駆逐して行くことをきっかけに、正常なものを異常なものによって駆逐し、取り替えようとする動きが出ているのである。

同性愛が、聖書において、神が定められた人間の自然なあり方でないことは繰り返すまでもない。だが、何者かが、同性愛者の「差別され、踏みにじられた人権の救済」を声高に主張することで、同性愛者対異性愛者という対立項をまことしやかに作り出し、同性愛者を異性愛者にぶつけ、両者を戦わせ、異性愛者に「加害者」のレッテルを貼って追い詰めることで、異性愛者を隅に追いやり、ますます異性愛者が生きづらくなり、少子化が加速化するだけの世の中を作っているのである。

その結果として、ついに最後は、結婚のイメージや、夫婦のイメージ、家族のイメージまでもが塗り替えられることであろう。同性同士の結婚が当たり前になり、チャペルは連日、同性愛者の結婚式を扱うようになる一方で、異性愛者は、彼らを差別し排除して来た「罪ある抑圧階級」として、うなだれて、隅に追いやられることになりかねない。

暗闇の勢力の真の目的は、社会的弱者の救済でもなければ、同性愛者の人権の「回復」(?)でもない。むしろ、同性愛者を口実にして、正常で自然な結婚生活、神が造られた自然な男女のあり方そのものを破壊し、駆逐し、根絶して行くことにこそあるのだと言える。

聖書に記されたソドムとゴモラの街は、不法や姦淫が満ち溢れていただけでなく、男色の街だったことに注意が必要である。それなのに、今やクリスチャンや牧師を名乗っている人々でさえ、同性愛者の人権の擁護に回っている始末である。

このようなわけで、筆者は近年、首都圏全体が、もはやソドムとゴモラ同様になりつつあるという感覚を抱かざるを得ない。

さらに、首都圏では、官民を問わず、あまりにも虐げと搾取が横行している。非正規雇用化が進み、どの職場も、まるで信者を食い尽くして存続するカルト団体のように、従業員や職員を骨までしゃぶりつくして利益を上げることに邁進し、長時間残業や、過労死や、不当な解雇や、賃金未払いや、職場でのイジメが横行して、働いても、働いても、豊かになれる見込みのない社会層が国民の圧倒的多数を占めるようになり、彼らは、未来の展望のまるでない、仕事と呼ぶよりも、もはや懲罰にも等しい働き方の中で、じわじわと殺されつつある。このような、カルト団体にも等しくなった社会がまるで「常識」のごとく唱える未来のない異常な生き方に自ら身を委ねるのは、自殺行為にも等しい、と言わざるを得ない。

こうして、貧しい人々を容赦なく踏みしだき、虐げながら、また、被災地の人々の苦しみを見殺しにしながら、一部の巨大企業だけが偽りの経済繁栄を享受して、政府はそれだけを根拠に我が国の経済は復興したと唱え、戦前回帰のイデオロギーに基づき、ありもしない「神国」の威光を世界に知らしめすべく、呪われた祭典としての東京オリンピックが進められようとしている。

筆者にはこんな異常な祭典が正常に開催されるとは到底、信じられないが、この祭典とそれが招きよせる呪いや破滅に巻き込まれないよう、そこから遠ざかる必要を感じないわけにはいかない。

いずれにせよ、カルト団体の中にとどまっていながら、幸福に生きることができないのが当然であるように、このように歪んで呪われたイデオロギーに基づく不毛な土地には、さっさと背を向け、その支配下にとどまることを避けるべきではないだろうか?との疑念が高まるのである。

カルト団体を是正しようとしても無駄なように、政治改革を唱えて、この異常なものと取っ組み合い、それを是正することが信者の仕事ではないであろう。彼らは自らの信念に従い、行き着くところまで行き着いて滅びるしかないことであろう。

そういうわけで、長年、安住という状況からほど遠かったがゆえに、特定の地に定住する危険にはさほど見舞われず、それに鈍感であった筆者も、今の首都圏では、何をどう模索しても、明るい未来の展望を切り開くことは無理なのだと思わざるを得ない。それどころか、ここはまさにソドムとゴモラの街そのものであり、どんなにこの腐敗した街で平和と安寧を享受したとしても、それは偽りの繁栄にしかならず、到底、神の御心を満足させるものとはならないのではないかと考えざるを得ない。

信者は、常に心の中では何も持たない貧しいやもめのごとく、身一つで、さらにまさった天の都を目指して歩き続けるべきだが、とりわけこの街については、神の使いは今、この街の大々的な腐敗に心を痛めている人々に一人一人、声をかけて、エクソダスの時を知らせておられるのではないだろうか、という思いさえこみ上げてならない。だが、もしその直観が思い過ごしでなく正しいものであるならば、遠からず、神はそのように道を整えて下さるであろう。
 
以下、オースチンースパークスの論説を引用して終える。

「土台のある都」 第一章 導入的概論 (9)

四.寄留者であり旅人である

 それと密接に関係し、対応していることですが、その土地のアブラハムは寄留者・旅人として幕屋の中に住み、その地に何の分け前も持たず、その土地では旅人だった、と告げられています。これは天的性質の特徴ではないでしょうか?ここでは寄留者であり旅人です。しかし、それでは私たちはどこに属しているのでしょう?ペテロは彼の手紙を書くときこう述べています、「愛する者たちよ、私は旅人であり寄留者であるあなたたちにお願いします……」(一ペテ二・一一)天の国に属しており、天の市民権を持っているのです。

五.地的庇護や報いを拒むこと

 この世からの庇護や報いは、アブラハムには何もありませんでした。彼は正しい諸原則のために尽力したかもしれませんし、そうすることによってこの世の人々に益をもたらしたかもしれませんが(この地上の主の民の霊的奉仕がこの世に対して、この不敬虔な世に対してすら、何らかの益を及ぼしたことに、異を唱える人がいるでしょうか?その中に主の民がいなければこの世がどうなっていたかは、主だけが御存知です)、アブラハムは彼の活動から益を受けたこの世の人々や、ソドムとゴモラの町の人々に対して、彼らが何らかの報いを与えて彼を庇護しようとした時、「結構です」と言いました。アブラハムは依然として外に立っていたのです。

 この地上の神の民の奉仕を利用すること、彼らに感謝、称号、地位を送ること、彼らをこの地上の人々の間で重要なものにすることが、これまで悪魔が仕掛けてきた最も深刻な罠の一つでした。これらの昇進が行われ、これらの贈物が与えられ、この感謝が送られ、これらの地位が与えられる時、往々にして、深遠な霊的重要性が失われ、その生活の実際の霊的価値は終わりを告げることがわかります。多くの真に価値ある神の僕の悲劇は――彼らは霊的な方法で神によって力強く用いられましたが、その霊的価値を失い、その特徴を失ったまま人生を終えました――何らかの方法で彼らが感謝・受容されるようになり、この世からの感謝と恩恵と報いを受け取ったせいでした。天的性質と分離を維持することが、霊的価値を維持するのに必要不可欠です。

 

2017年2月28日 (火)

自分を低くする者が高くされる―ただ神のために自分を注ぎ出すことによってのみ結ばれる永遠に朽ちない実

「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。私たちは、この務めがそしられないために、どんなことにも人につまずきを与えないようにと、あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しているのです。

すなわち非常な忍耐と、悩みと、嘆きの中で、また、むち打たれるときにも、入獄にも、暴動にも、労役にも、徹夜にも、断食にも
また、純潔と知識と、寛容と親切と、聖霊と偽りのない愛と、真理のことばと神の力とにより、また、左右の手に持っている義の武器により、また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。

私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。」(
コリント6:2-10)

ここ最近、キリスト者が苦難を通して得られる天の栄光があることについて、連続して記事を書いているが、上記の御言葉もそれにぴったり重なる。

パウロが耐え忍んだ「非常な忍耐、悩み、嘆き、鞭打ち、投獄、暴動、労役、徹夜、断食」などの話を聞くと、不信者は、そんな信仰の試練は御免こうむるとばかりに一目散に逃げて行くかも知れない。

だが、信者にとって、キリストの御名のゆえに受ける苦難は、恥でもなければ、災いでもない。パウロはこうした苦難をものともせず、別な箇所では次のようにも述べている。

「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
あなたのために、私たちは一日中、
死に定められている。
私たちは、ほふられる羊とみなされた。」
と書いてあるとおりです。」(ローマ8:35-36)

人類の罪のために永遠にほふられた小羊なるお方は、もちろん、キリストただお一人である。しかしながら、キリストの十字架の死と復活に信仰を通してあずかる主の弟子たちもまた、イエスと同じように「一日中、死に定められている」のである。

不信者はこういう話を聞いて、ますます疑念を深めて言うだろう、「私にはそんな信仰は理解しかねます。あなたの信仰はあまりにも偏っています。あなたの話すことを聞いていると、クリスチャンがどんなに神のために苦しまなければならないか、そんな話題ばかりではありませんか。私はそんな信仰は嫌です。御免こうむります。」

このような考えの人をあえて説得しようとは思わないが、何度も述べて来たように、キリスト者の人生にはただ苦しみしかなく、幸福は伴わないなどと勝手に誤解されては困る。

さらに、言っておかなくてはならないのは、クリスチャンが主の御名のゆえに地上で受ける苦しみは、ただ贖われた信者から成る教会のためであるばかりか、まさに以上のような不信者たちのためでもあるということだ。

なぜなら、自分が損なわれることにより、地に落ちて実を結ぶことが、初穂として贖われた者たちの役目だからである。

むろん、世は信者たちの受ける苦難が自分たちのためだとは少しも思っていない。そこで、キリスト者が受ける試練のことで、世が感謝したり理解を示すことは決してないと言えよう。

そのようなことは世に告げ知らせる必要もないことであり、世は、預言者たちを迫害して殺し、主イエスを十字架につけて殺し、主イエスの弟子たちをも迫害して命を奪った時から今に至るまで、その悪しき性質は寸分たりとも変わっていない。

だが、それにも関わらず、主イエスご自身がそうされたように、主イエスの弟子たちもまた、教会のため、自分自身のためだけではなく、神の愛のゆえに、福音に敵対し、神に反抗し続ける世人のためにも、自分自身を注ぎだし、それによって神の僕としての道を全うするのである。キリスト者が世から拒絶され、憎まれ、嘲られ、低められることによって受ける苦難を通してしか結ばれることのない実が存在し、このようにして神の国が拡大する法則は今も変わらない。

こうしてキリストの僕たちが、自分を拒絶する世の罪人らの反抗をものともせず、彼らをも救いへの道に招き入れるために福音を語り続けることができたのは、そこに人間の思惑によらない、神の無条件の愛があったためであり、彼らは自分自身の利益をはるかに超えるもっと大きなものにとらえられていたからこそ、自分たちを拒絶し、あるいは殺そうとまでする人々のために苦しみを受けることを辞さずに、神の国の権益拡大に向かって進んだのである。

だから、キリストの僕たちが地上で受ける苦しみは、ただ単に彼ら自身の信仰の成長のため、彼らが受ける天での栄光のため、あるいはすでに贖われた者たちの栄光のためだけではないのである。たとえ世が理解せずとも、彼らがそのように自分自身を注ぎだすことができたのは、神のためであると同時に、人々のためでもあり、世人のためでもあった、と言える。そして彼らの苦しみを通して教会が大きな前進を遂げて行ったのである。

さて、今回の記事では、殉教というスケールの大きな試練は脇に置いて、むしろ、それに至るまでの、もう少し小さな日常生活のスケールにおいて、信者が信仰ゆえに受ける「苦しみ」に必ず「栄光」が伴うこと、また、そのようにして、キリストの十字架の死と復活に同形化されることによってのみ、信者は多くの実を結び、「栄光から栄光へ」主の似姿に変えられて行くことができるということについて、引き続き書いていきたい。

すでに述べた通り、信者がもしも主の御名のゆえにいかなる苦しみをも試練をも受けないならば、その人の信仰は何かがおかしいと言える。だが、同時に、信者の地上生活が絶えず苦しみだけに満たされ、試練を勇気を持って耐え忍んだことへの報いとしての、天の喜びに満ちた栄光を何一つ経験しないならば、そのような信仰生活も、やはり何かがおかしいのである。

信者の正常な信仰生活においては、信者が地上で主のために受ける苦しみには、必ず報いが伴う。それは天の重い栄光の前触れとしてもたらされていることが、多くの場合、信者自身にも分かる。そして、多くの場合、実際に、試練を耐え忍んだことへの報いとして、天の父なる神から与えられる栄光を、信者は自分自身でも確認できるのである。

もちろん、信者が耐え忍んだ苦しみのゆえに、地上でどんな実が結ばれたのかは、最後まで分からないこともある。そして、「主の御名のゆえの苦しみ」と言っても、それは必ずしも、信仰に対する迫害だけでなく、信者が地上で耐え忍ぶあらゆる圧迫を含んでいる。信者は地上で受ける全ての苦しみを「御名のゆえに」甘んじて受けるのである。そして、多くの場合、信者はそのような出来事を通して働く十字架の死と復活の原則を、自分の人生で生きて実際に知ることができる。

だから、クリスチャンの生活が絶え間なく苦しみに満たされているだけで、喜びも勝利も栄光もないのだと考えることは大きな間違いである。信者は、地上で受けるあらゆる圧迫や制限、人として生まれ持った愚かさや限界にも関わらず、そこに神の偉大な力が働いて、巨大な勝利がもたらされるというパラドックスを味わうことができる。

だから、もしクリスチャンの中に、十字架の死と復活の原則が人生でどのように働くのか知らないという人があるなら、実際に自分の生活を使ってこの法則を試してみることをお勧めする。つまり、主の御名によって、信者が己を低くして、小さな苦難を信仰によって耐え忍ぶことにより、どんなに大きな栄光がもたされるのか、日々の生活のごく些細な事柄を通して、誰しも十分すぎるほどに確かめられる。

だが、これは先に述べた通り、信者がただ悪魔の虜となって苦難にいたずらに翻弄される消極的で受け身の生き方や、信者が無用な苦しみを自分から好んで招くような自虐的な生き方を意味しない。信者は現在、自分が望まずして、自分の生活に働くあらゆる制限、圧迫、束縛、予期せずして起きて来る迫害や苦難を、主のために耐え忍ぶのであり、そうした弱さが弱さで終わらず、時が来れば必ず、神がその出来事の解決となって、ご自分の栄光をそこに現して下さり、信者をも共に高く引き上げて下さることを確信して、その時を勇気と確信を持って大胆に待ち望むのである。

信者は、ただ自分が一刻も早く楽になり、不快な思いをしたくないから、また、自分の名誉が傷つけられたくないから、といった利己的な動機で、苦難が長引かないように神に願うのではない。その苦しみを通して、神に栄光が帰されることだけを願って、自分のためでなく、神の栄光のために、神の御心が地上に成るようよう願い求め、神を信じて待ち望む者が、地上で忍耐することによって、ふさわさしい時に助けを得て、神自らが信者の弁護者になって下さり、信者をあらゆる苦難から確かに力強く救い出して下さる助け主であることを天地の前で証明し、それによって、主の御名がほめたたえられることを願うのである。つまり、神が栄光を受けられる機会として、自分の苦難があることを信じるのである。ダビデが次のように詠った通りである。

私たちにではなく、主よ、私たちにではなく
あなたの恵みとまことのために
栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください」(詩編115:1)

信者は「御名のために」地上におけるすべての苦しみを耐え、「御名のゆえに」神がその苦しみを栄光に変えて下さることを信じるのである。信者が、あらゆる苦難を信仰によって堅く勝利の確信のうちに耐え忍ぶ秘訣を学びさえすれば、苦しみは多くの場合、急速に取り去られる。たとえそうでなくとも、信者の内なる人が強められることにより、信者は地上で経験する苦しみによって圧迫されたり、心悩まされ、悲しみに打ちひしがれたりすることがなくなり、むしろ、そこに復活の命が働くことを信じて期待できるようになる。

だが、苦難を通して受ける天の栄光を逃さないためには、信者は自分が何を主の御名のゆえに耐え忍んでいるのか、人にはあまり触れ回らない方が良いであろう。「私は神のためにかれこれの巨大な苦しみを耐え忍びました。すでに殉教をも辞さない覚悟です」などと人前で言うのは、やめておいた方が良い。そのような決意表明は失敗に終わる可能性が高い。

もしどうしても信者が受けた苦難について語りたいならば、苦難をいわゆるお涙頂戴の物語に変えて多くの人々の関心を引きつける材料としたり、自己宣伝の材料として用いたりするのでなく神だけが栄光を受けられるように、聖書の神が信じる者をどんな状況においても見捨てられることのない確かなお方であることを世が知ることができるように語るべきである。

とはいえ、主が本当に信者の苦しみを喜びに変え、御業を成して下さる時には、人はどんなに黙っていようと思っても、黙っていられないほどの喜びに突き動かされることは確かなのだが。

このように、信者は大きなことから小さなことまで、神と信者とだけが知っている日常のごく隠れた様々な出来事を通して、信仰による訓練を絶え間なく重ねて行くことにより、その先に初めて殉教などの極めて大きなスケールの試練にも十分に耐えうるだけの力が養われる。つまり、信者に地上で与えられる試練は、各人の信仰の成長段階に応じて与えられるのであって、決して一足飛びのものではなく、戦いの初心者がいきなり熟練者しか勝利できないような困難な戦いに直面することは絶対にないと言える。

そして、何度も書いているように、キリスト者が地上で受けるあらゆる試練は、どんなに些細なものであっても、神の御前に覚えられており、予想だにしない大きな栄光が伴うのであり、その栄光は、信者がこの地上に実際に生きている間に、あらゆる生活場面で確認することができる。

聖書の神は、信者に与える恵みを出し惜しみされるような方ではなく、また、信者を無駄に追い詰めたり、苦しめる残酷な主人でもない。信者がこの地上に生きる間、良きものを惜しみなく与えて下さり、あらゆる祝福で満たして下さる方である。だから、信者が地上で人としての生活を送るために必要なすべてを十分に備えて下さらないことはない。

だが、だからと言って、信者は恵みが与えられるがゆえに神に従うのではなく、地上の一切の利益にも増して、神ご自身を愛するがゆえに従うことを、絶えず告白し続けるのである。そして、信者は地上で必要な一切のものを、この世の手練手管によらず、ただ信仰によって地上に引き下ろす。それによって、神こそすべてのものの造り主であり、すべての供給者であり、キリストの命の中にこそ、あらゆるものを支配し、供給する力があることを知るのである。

キリストの復活の命は、支配する命である。この命が信者の内にあることによって、信者は外見的にはこの世の有限な滅びゆく弱い存在に過ぎないが、その内側に、この世を打ち破る圧倒的な勝利の法則性を確かに有していることが分かるのである。そこで、信者自身が地上で抱える生まれ持った人間としての様々な弱さとは対極的に、彼の内にある死を打ち破った支配する命によって、外からやって来るすべての圧迫に翻弄されることなく勝利する秘訣を学ぶのである。

***

さて、次に、信者に対する神からの吟味、光による照らし、検査というテーマについても少し書いておきたい。

神のさばき、神の吟味というものは、レントゲン写真の撮影にもどこかしら似た、神から人間への吟味である。そして、しばしば、神は試練を通して、信じる者の心の内を吟味される。

人間は生まれつき自分を試されることや、自分自身を吟味され、検査されることを望まない。人間には光の照射によって自分の本質が明らかにされることを拒む本能があり、それはレントゲン写真を撮られるような時でさえそうだ。

たとえば、私たちは、肺や手足のレントゲン写真といった、首から下の写真ならば、健康診断でよく見慣れているであろうが、首から上のレントゲン写真を見慣れている人はどれくらいいるであろうか?

特に、頭がい骨の写真を、真正面でも横からでない別な角度から撮られたりすると、死人のように目も鼻も空洞化した自分の顔の写真を見て、一体、これが生きた自分自身を少しでも反映した写真なのだろうかと改めて驚かされる。

レントゲン写真はすべてグロテスクなものであるが、それは病気や歪みを早期に発見するために撮られたものだから、撮影される人間が、カメラの前でポーズを取るようにして、必死に自分のグロテスクさを取り繕ろうとするのは無駄なことである。
 
余計な肉が排除され、取り繕いが通用しないからこそ、正確な写真が撮れるのであり、仮に異常が発見されても、落胆するどころか、むしろ、不調の原因はこれだったのか、早期発見できてよかったと安堵するのである。

ところが、今日、多くの信者たちは、全くこれとは逆の道を歩んでいる。彼らは神に認められるためには、まず、神の御前に正直に取り繕わない自分自身の姿を見せなければならないのだということが、どうしても認められないのである。

彼らは、神に受け入れられるためには、相当に立派な行いが信者の側になければならないという巨大な錯誤の中にあって、いわゆる教会生活を通して、神の目に認められるための善行を必死になって積み上げている。

彼らは、いわば、神のさばきに耐えるためには、人間の側で満たさなければならない高度な要件があって、信仰の「優等生」になるための努力を毎日続けねばならないと思い込んでいるのである。

だが、このような考え方は極めて深刻な自己欺瞞の罠である。そんな彼らの努力は、まるでレントゲン写真を撮るに当たって、少しでも美しい「自分の骨の写真」を取ってもらおうと、医者に向かって懸命にせがみ、撮影された自分の写真が気に入らないと注文を付けては、あれこれとポーズを取って撮り直しを要求し、取り繕いを重ねる患者の姿にも似ている。

この種類の「患者たち」は、自分の病気や弱いところが何であるかを知るために、少しでも正確な写真を撮ってもらうことにはいささかも関心がなく、むしろ、少しでも自分の恥や弱さが暴かれないで済むように、自分を可能な限り飾り、健康に見せかけるために、どれだけ本当の自分を偽って、外面を取り繕い、裸の恥を撮影されることを免れられるかに腐心しているのである。

だが、神にはそういう人間の取り繕いは一切通用しない。神が人間をご覧になるまなざしは、レントゲン写真よりももっとはるかに正確で、人間の側では、小骨一本のごくごくわずかな歪みまで、どんな小さな病巣まで、隠しおおせるものはなく、どんな心の弱さであろうと、信者の過去であろうと、現在であろうと、未来であろうと、隠蔽できるものは何もない。神の目にすべては明らかで、裸であり、人間の取り繕いが全く功を奏さないのである。

だから、来るべき日に神のさばきの御座の前に立たされる時に向けて、信者が、常日頃から、この地上生活においても、神の御前で自分自身を探られ、申し開きを求められる場面でも、信者が神に対して自分を取り繕ったり、ごまかすことは一切通用しないし、それは有害である。

むしろ、信者がそこで果たすべき義務があるとすれば、ただ正直であることだけである。現在の自分の状態がどうあろうとも、どれほど合格基準に満たない、惨めなものに思われても、信者は神の側から行われるすべての吟味に対して、ただ自分を隠し立てなく明らかにして、正直に差し出すのである。

つまり、信者はレントゲン写真を撮る時に、自分を取り繕わずにあるがままの自分を撮ってもらうのを目的とするのと同じように、あるいは、ナビを設定する際に自分の現在地を偽って目的地を設定したりしないのと同じように、現在の自分にどんな弱さがあって、どんな欠点があり、どれほど過去に取り返しのつかない失敗を犯し、人生がいかなる損傷を受けているように思えようとも、自分の歩んで来た過去、現在のすべてを恥じることなく、隠し立てなく、神の光の照射に委ね、こうして自分が一切を神の御手に委ねていること、また、信者が受けた損失が何のせいであるにせよ、神がそれらの損失を豊かに補って余りある方であると信じていることを態度で表明するのである。

だから、信者は、人の目から見て、恥や、不完全さ、弱さ、欠陥、失敗と映る事柄についても、決して自己を飾るために、自分の過去を自力で修正しようとせず、自分自身の存在がまるごと神に委ねられており、神がすべての問題に正しい処置を施し、信者をあるべき状態へと導くことのできる唯一の方であると信頼して、この神に自分を委ねるのである。

このようにして、信者が神に明け渡すことにより、神の光によって照らされた信者の心の領域だけが、漂白された布のように罪から清められ、神の力に覆われて、新たにされて行く。信者が神に明け渡そうとしさない領域には、神の力は働かず、それどころか、それは長い間、施錠されたままの暗い地下室の倉庫のようなもので、そこにどれほど蜘蛛の巣が張り、埃が分厚い層のようにたまり、そこに蓄えられていたはずの宝がすでに錆び、朽ちていたとしても、信者がこの部屋を自分で開錠して大掃除に了承しない限り、誰もどうすることもできないのだ。

多くの信者たちは、神と人の前に自分を取り繕うために、自分の心に開かずの間を作り、そこに自分の見たくないあらゆるものを押し込んでいる。そして、そこに自分の弱さが集中して隠されていることを無意識に知っているので、それを恥じて、そのような開かずの間が自分の心の中にあること自体を自分にも隠し、外にも隠し、神にも隠しながら、自己を対外的に粉飾し、虚勢を張り続けるのである。だが、このように、信者が神の吟味に明け渡そうとしない心の暗い領域が罪の温床となって行くのである。

従って、信者の神への明け渡し、清め、従順は、信者が自分の行動をどれだけ律して「神の合格基準」に達するように外面的に整えたかによるのではなく、むしろ、信者が現状の自分をどれほど不完全で未熟に感じていたとしても、信者がその自分をありのままを神に探られることに同意し、自己の見たくないすべての欠点を隠そうとしたりせず、自分の全てを神によって吟味され、照らされ、明らかにされることに了承し、その痛みに耐えつつ、自らの弱さに対して神がもたらされる力強い解決に信頼して自分を委ねることができたか、その程度によると言っても良い。
 
信者がそのようにして神に自分を照らされる時に感じるごくごくわずかな痛み、ごくごくわずかな恥を耐え忍んで、自分の限界を正直に、あるがまま、恥じることも、隠すことも、取り繕うこともなく、従順に神の御手に委ね、自分の弱さの中に、神が力強く働いて下さることを信じさえするならば、信者の弱さは、たちまち神の憐れみに満ちた強さによって覆われ、信者は自分の無力や限界の中に、キリストが生き生きと働いて下さるのを知り、「もはや私ではなく、キリスト」が生きておられることを知るのである。

開かずの間は大掃除されて明るく清潔な小部屋になり、骨しか見えない白黒のレントゲン写真には肉や目鼻がついて生き生きとした色彩と表情が生まれ、死人がよみがえって、生きた者とされるのを見ることができるのである。

信者の生活は、片方では、地上の滅びゆく人間に過ぎない自分自身が、もう片方では、まことの生きた人であるキリストにしっかりと結ばれることにより、共に生かされているようなものである。片方は滅びゆく人間というよりも、すでに死人である。自分では何もすることはできず、まして実を結ぶ善行を行う力などない。だが、その人間の死が、信仰によって、キリストの死に結ばれているがゆえに、死んだはずの腐敗した人間が、キリストの復活にあずかって、清められ、彼の豊かな命によって生かされ、生き生きと輝いて、この両者が一人の新しい人の中で平和裏に結合・共存しているのである。

だから、信者は、自分の抱えるあらゆる弱さや限界に限らず、自分の存在そのものが、まるごとキリストと共に十字架で「すでに死んでいる」こと、それと同時に、十字架で共によみがえらされ、「神の中に隠されて生きている」ことを確信し、それゆえに、自らの死を帯びた圧倒的な弱さの中でも、大胆に神の命の強さを信じて前進して行くことができるのである。

このようにして、信者は地上で受けるあらゆる苦難を通して、絶えず神に自分を探られることに同意しつつ、より深く、より一層、自分の弱さを含めて、自分自身の全てを神に明け渡し、自分の処遇の一切を神に委ねることにより、死の中に生きて働く神の復活の力を知り、天の恵みを地上に引き下ろし、天の父なる神から栄光を受けることができるのである。

こうした法則があることを知っていたからこそ、預言者たちも、使徒たちも、みなキリストのゆえに受ける苦しみをものともせずに、喜んで苦難に甘んじることができたのである。

だから、信者の歩むべき道は、自分の力で必死に自分の外面を取り繕い、あらゆる努力を払って、信仰の「優等生」であろうとして、人目にそのように認められようと努力することとは真逆なのである。

むしろ、すべての真に「優秀な」イエスの弟子たちは、そうした自己宣伝とは無縁であり、むしろ、地上生活において、辱めや、苦難や、恥や、悪評や、そしりに耐えたのであり、決して地上の生涯において、偉大な宗教的権威者のように高められ、誉めたたえられることを目指したりはしなかった。

キリスト者の信仰の前進は、自分で自分を優秀な人間として人前に推薦したり、自分で自分を飾り、偉大にみせかけることによって、自分で自分を救おうとする努力とどこまで手を切って、自分の価値ではなく、キリストの価値だけにすべての信頼を置いて、ただキリストのみを頼りとして生きるのか、それによって決まるのである。

「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。」(マタイ6:1)

「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」(マタイ5:10-12)

「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に表れるからである。」と言われたのです。

ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さ誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじていますなぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」(Ⅱコリント12:9-10)

 
  * * *
 
さて今、思い起こされるのは、ウォッチマン•ニーの『キリスト者の標準』の次の一節である。

「一九ニ九年に、私は上海から故郷の福州に帰りました。ある日私は、健康を害したため、非常に衰弱したからだを杖で支えつつ道を歩いていましたが、途中大学時代の教授に会いました。

教授は私を喫茶店につれて行き、私たちは席につきました。彼は私を頭のてっぺんからつま先まで眺め、次につま先から頭のてっぺんまでを眺めてこう言いました。

「ねえ、きみ、きみの学生時代には、われわれはきみにずい分期待をかけていたし、きみが何か偉大なことを成し遂げるだろうと望みをかけていた。きみは 今この有様が、きみのあるべき姿であるとでも言うのかね。」

彼は私を射抜くようなまなざしで、この質問を発したのです。正直なところ、私はそれを耳にした時、くずおれて泣き出したい衝動にかられました。私の生涯、健康、すべてのすべてが消え去ってしまったのです。しかも大学で法律を教えた教授が今ここにいて、「きみは成功もせず、進歩もなく、なんら取り立てて示すものも持たずに、いぜんとしてこんな状態でいるのか」と尋ねているのです。

しかし、次の瞬間ーーそれは私にとって、始めての経験でしたがーー私は自分の上に臨む「栄光の御霊」とはどのようなものであるかを、真に知ったのです。自分のいのちを主のために注ぎ尽くすことができるという思いが、栄光をもって私の魂に溢れました。そのとき、栄光の御霊そのものが私に臨んだのです。

私は目を上げ、ためらうことなく言うことができました。「主よ、あなたを讃えます。これこそ望み得る最善のことです。私の選んだ道は正しい道でした。」私の旧師にとっては、主に仕えることが全くのむだであると思えたのです。しかし、福音の目的は、私たちをして主の価値を真に自覚させるためにあるのです。」『キリスト者の標準』、ウォッチマン・ニー著、斎藤一訳、いのちのことば社、pp.306-307 、下線は筆者による、本文では点による強調。)

ウォッチマン•ニーは今日、彼の名がつけられて残されている著書の文章を通しても理解できるように、かなり研究者肌の知性の持ち主だったようで、霊的な事柄についてこれほどまでに知的・論理的に分析を試みた信仰者は他に類を見ないように思う。

若い時分には、聖書注解者になることをも夢見ていたようだが、それも頷ける話で、知的分析、論証は彼の天与の才であり、以上の引用からも、学生時代から彼は同期に抜きん出て将来を嘱望されていた様子が伺える。

少しでも学術研究に関わったことのある人間ならば、ニーの文章が知的好奇心旺盛な人間にとってどれほど魅力的に映るかも分かるであろう。 ところが、ニーはその才能を主のために放棄し、「浪費してしまった」のである。

それは、大学の恩師にとってはさぞかし手痛い損失に見えたものと思う。もし研究者を目指していたならば、権威として大成していたのは間違いないからである。そうでなくとも、新しい発見によって社会を揺るがし、変革する人物になるだけの資質は十分に備わっていた。だからこそ、期待を裏切られた恩師は、この久方ぶりの邂逅の場面で、ニーの衰弱して落ちぶれた「惨めな姿」に痛烈な皮肉を浴びせたのである。

しかも、それだけではない。ニーは聖書注解者として名を残すことをさえも断念した。そして、彼がどんな最期を遂げたのかは知られている通りである。

一体、この人は自分に与えられた大きな才能を何に使ったのか? 神のためにとは言うが、ただ自虐的に自分を苦しめ、人生を浪費しただではないのか? という疑問も生まれて来よう。

彼がもし聖書注解を書いていれば、今の時代になっても、並ぶもののない書を残せたであろう。我々にとってもそれは興味深い内容だったに違いない。だが、それすらもしなかったのはなぜなのか。今日ニーの著書とされているもののほとんどは同時代人の速記録の書き起こしによるもので、色々な人々の思惑がつけ加わり、偽りの宗教によって書き換えられ、改ざんされ、ただで利用され、宗教的権威にしたて上げられ、ニー自身がどんな人だったのかすらも、粉飾されて分からなくなり、純粋にニーの作品と言い切れるものがどれだけあるのかも不明だ。もし自分の名を冠した著書を発行してさえいれば、そうしたことは避けられたはずである。

にも関わらず、彼がそうしなかったのは、自分のためでなく、この世の人々のためでもなく、社会の発展のためでもなく、ただ神のためにだけ自分を注ぎ出し、地上では完全に無名の、いかなる権威とも無縁の人間として生きるためであったと見られる。もし願いさえすれば、自らの得意とする分野で、様々な成功を手にする事ができたであろうが、人前に栄光を受けないために、それをあえて望まなかったのである。

学術研究の分野に身を置くことは、「先生」と呼ばれる立場に立つことと密接に結びついている。それは自分自身を学問的権威者として他人に推薦する行為である。また、その探求はどこまで行っても、神を抜きにした人間の魂による終わらない探求であり、人間の天然の知的好奇心を満たすためだけに行われる活動である。そうである以上、そのような探求は、人間の堕落した魂の働きを活性化させ、肥大化させることはあっても、純粋な霊的な活動には本質的に対立する、信仰に基づく行動ではないのではないかと筆者は推測する。

知識欲に限らず、人間の魂が持って生まれた欲というのは、情であれ、他の何であれ、どれもこれも、人間の目にどんなに美しく優れた性質のように映っても、すべて堕落に陥る可能性を持つ。それは、人間の魂そのものが罪によって腐敗・堕落しているせいである。そこで、天与の才を発揮して生きるという、人の耳にはまことに無難そうに、もっともらしく、良さそうに聞こえる言葉でも、一歩間違えば、己の欲に好きなだけ邁進して生きよという貪欲の奨励になりかねない危険が存在するのである。

ただ神だけが、人間の天然の魂の衝動から生まれて来る腐敗した活動と、純粋に霊的な活動を正しく切り分けることができる。前者はどんなに人の目に立派に、良さそうに見えても、あくまで人間の探求に過ぎない腐敗した活動であって、永遠に神に向くことがなく、永遠に残る実を結ぶこともない。

ウォッチマン・ニーはどこかの時点でそれを悟り、知的研究の分野から身を引いたのであろう。聖書注解者になることの中にさえ、神から来たのでない人間の魂の探求が紛れ込む可能性を悟り、自分はそのような方法で神に仕え、人々に仕えることはふさわしくないと理解したのであろう。彼が自分の可能性や才能を脇に置いて、これらを捨てても、御国への奉仕を優先したのは、主に仕えるためであり、神への献身のためだったのだが、同時に、それが教会に対する奉仕でもあり、人々に対する奉仕でもあったことを筆者は疑わない。

だが、もしも仮にそこで彼が身を引かず、知的研究に携わり続けた場合、この人の身の上に何が起きただろうか? 彼はおそらく学問的権威者となって、多くの弟子を従えて、立派な先生として、新調の服を着て巷を歩くことができ、自分について何一つ引け目も感じず、情けなく思うこともなく、まして若くして衰弱したからだで、よろめきながら杖をついて歩いたり、その格好のせいで、人に哀れまれたり、蔑まれたりもしなくて良かったであろう。

だが、そうして得た社会的成功と引き換えに、彼を待ち受けるものは何だったろうか? サタンの誘惑だけだったのではあるまいか? 彼はそのようにして地上で自分が栄光を受け切ってしまうことよりも、神としての栄光を自ら捨てて十字架の死にまでご自分を渡されたキリストにならって、自分も自分を高くせず、人からの栄誉ではなく神から栄誉を受けることの方を潔しとしたのである。

このようなことは、人の目から見れば、あまりにも馬鹿げた損失に過ぎないものと映るであろう。色々な才覚が与えられていたのに、それを十分に活用しないまま世を去るとは、何と愚かな無駄であろうかと人々は思うだけであろう。人は、この世において頭角を現し、ひとかどの人間として認められ、名を残すことを成功と考え、自分の才能や活動意欲を余すところなく発揮できる場を求め、なおかつ、著書や、目に見える様々な功績を手柄として残すことを願う。それが自分のためであると同時に、他者のためにもなるのだと信じて疑わない。そして、自らの名を残すことができなければ、地上に生きている意味もないと考えるのであろう。

だが、神の評価は、人の評価とは多くの場合、正反対であり、まさに裏返しである。地上で自分で自分を高くしようとする者が、神の御前に賞賛を受けることは絶対にできない。神は、世から徹底的に憎まれ、蔑まれ、退けられたキリストの苦難に、信者がどれほど自分もあずかることに同意し、キリストの死に自分を同形化したか、その度合いによって、信者が天で受ける栄光をお決めになる。

だから、信者が地上で人前に栄光を受けながら、同時に、天の神からも栄光を受けようとすることはできない相談なのである。そして、何が本当に主の御名のために信者が耐え忍んだ苦難であるのかは、ただ神だけがご存知である。

ニーに限らず、キリストに従う者は、地上で自らいかなる権威になることもなく、最後まで無名の知られざる信徒として、人の目にではなく、ただ神の御前にのみ覚えられ、認められることを目指して生き続けるべきであると筆者は考えている。

信者が主のために自分を低くされ、苦しみを受ける時、ニーが書いているように、栄光の御霊が力強く自分に臨む瞬間を、信者が必ずしも常に経験するわけではない。だが、たとえ主の臨在が、信者に実感を伴う形で感じられない場合にも、信者は、この地上で自分が低められることによってしか働くことのない天の法則と栄光が確かにあること、それによってしか結ばれない実が確かにあること、それはまさに神が願っておられる事柄であると、人生のあらゆる場面で知ることができる。そして、信者がそのように神の御前で低められ、無に徹することを耐え忍ぶと、神はその労苦を特別に重んじて下さり、特別な恵みによって報いて下さるのを、実際に多くの場面で見ることができるのである。

だから、信者が一時的に陥った苦しみだけを見て、落胆するには全く及ばない。ヨブがそうであったように、多くの場合、信者が主のために失った様々な富は、時が来れば、前よりも一層、豊かにされて信者の手に返される。それが死後になってしか起きないことは決してない。この地上に生きている間に、信者は、十字架の死と共に働く復活の原則を、キリストの命にある絶大な権威や力を、信者のために神が天に蓄えて下さっている無尽蔵の富や栄光の大きさを、十分に伺い知ることができる。

そのような歩みを主と共に地道に続けて行った最後の段階になって、ようやく殉教というテーマが信者の目の前に現れて来る。信者が十字架の死と復活の原則をほとんど知らないうちに、一足飛びにそのような事柄が求められることはまずない。そして、その段階になると、信者はそれまでの人生を通して、すでに神の恵み深さ、憐れみ深さ、誠実さ、愛の深さを十分に知っているので、もはや自分の内には神のために留保するものは何一つありませんと、ためらいなく応答する心の準備ができているのである。

2017年2月22日 (水)

栄光から栄光へ―鏡のように主の栄光を反映させながら、主と同じかたちに姿を変えられて行く

偽りの宗教からのエクソダスが完了し、悪しき霊どもを除霊し、地獄の軍勢にもと来たところへ帰るように命じ、原点に立ち戻って、生ける水の水脈を見つける。

追いすがるファラオの追手を振り切って、その軍隊がことごとく水に沈むのを見届けて、この地にやって来た時に見えていた、新たなすがすがしい展望を取り戻す。

キリスト者が立っている土地は、悪しき軍勢に占領され、踏みにじられたために、荒廃している。この土地に、彼はキリストの復活の旗を立てて、御子の統治を宣言する。

キリスト者は、はるかに天の都を仰ぎ見つつ、前途に神が信じる者のために備えて下さった豊かな約束の地を見据える。そこで天の無尽蔵の豊かな富と、永遠の栄光がキリスト者を待ち受けている。

そう、御子の復活の命の統治は、信じる者の内ですでに始まっているのだが、信者が自分の内でそれを知ったことで、すべてが終わるのではない。キリスト者にはまだまだこれから獲得せねばならない土地がある。つまり、自分自身の内にある統治を外へ流れ出さなければならないのだ。

信じる者の足元では、荒れ果てた大地の割れ目から、澄んだ泉が湧き出すように、復活の命の統治を通して、清らかな水が流れ出ている。それはまだ少量の流れだが、いずれは大河になって、荒廃した大地全体を潤し、よみがえらせるはずだ。これは、主イエスが信じる者たちにただで受けよと言われた生ける水、疲れた人々を癒し、病んでいる人を立ち上がらせ、死んだものを生き返らせ、サタンに支配されていた人々を解放する力のある命の流れである。

御座の統治から流れ出す生ける水の川々である。

長年に渡り、深く深く井戸を掘り続けてきたキリスト者は、ようやく水脈に達したという確かな手ごたえを感じて、安堵する。飢え渇きと共に飽くことなく井戸を掘り続けて来た彼は、ようやく荷を降ろし、喜びのうちに安堵して、額を拭う。やはり、神は信じる者の呼び声に応えて下さったのだ。求め続けるうちに、天の資源にようやく達した。そうなれば、工事はあらかた終わったようなもので、あとはこの水を汲み出し、絶え間なく流れさせるための設備を整えなければならない。

さて、前回の記事では、キリスト者にとっての苦しみと栄光の不思議な関係について述べた。

キリスト者が神の御前に栄光を受けようと思えば、地上で苦しみをも受けなければならないことを書いた。この二つは密接に結びついており、苦しみがキリスト者の体を通過することによってしか得られない栄光がある。

クリスチャンは世から召し出された者たちであるが、御国の働き人であり、神の兵士でもある以上、ただ自分自身の幸福と平和と繁栄のためだけに召されたのではなく、神の国の権益を守る兵士として、神の利益のために召し出されたのである。そうである以上、キリスト者は、神の軍隊の兵士として、地獄の軍勢との激しい戦いを戦い抜いて勝利をおさめることなしに、神からの褒め言葉にあずかることは決してできない。そして、戦いはどんなものであっても、命がけであり、自分自身のためだけでなく、自分を召して下さった方の栄光のために、あらゆる障害を乗り越えてでも、勝利したいとの強い願いがないなら、むしろ、初めから臨まない方がましである。

だから、クリスチャンには、地上で人前に栄光を受けて、拍手喝采を浴びて、安楽に生き、自分自身だけを楽しませながら、なおかつ、神の御前にも栄光を受けようなどという生き方は成り立たないのである。むしろ、神の御前にどれだけ己を低くして地上における患難を耐え抜いたかが、来るべき日において、キリスト者が神の御前で受ける栄光の度合いを決める。

今回は苦難がもたらす栄光というテーマをさらに発展させて、「栄光から栄光へ」というテーマを語りたい。

「しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。
かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。

しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:14-18)

古い契約、それはキリスト者が去って来た世界、すでに水に沈んでいる世界であるが、それは何も律法や、ユダヤ教のことだけを指すのではない。今日、聖書に従う信仰に見せかけた偽りの宗教においては人が敬虔な信者を装うために勝手に作り出した様々な規則や掟が存在する。日曜礼拝を遵守することや、奉仕や献金を行うこともそれに含まれ、そのような定めを数多く守って、人の目に正しい行いをしていると認められることこそ、敬虔な信者のあるべき姿だと説かれる。

しかし、そのようにして、各種の規則で自分を縛り、自分自身の立派な行動を通して、人前に義を得ようとすることは、どこまで行っても終わらない偽りの霊性を得るための偽りの精進である。どれほど人が善行を積んでも、そのことによって、「私はここまで達したのだから、もう義人となった。これ以上、誰からも後ろ指をさされることなく、何も要求されることはない。もう大丈夫だ」と言える日は来ない。また、世が信者が学びや精進によって高みに到達しようとする必死の努力を認めてくれて、「あなたはここまで努力を払ったのだから、合格水準に達しました。もうこれ以上何も要求しません」と言ってくれる日も来ない。

むしろ、人が努力すればするほど、ますます深く泥沼にはまって行くかのように、要求だけが加算される。どれほど人が善行を積んでも、心に「もう大丈夫だ」という確信と平安はやって来ないばかりか、彼に対する期待と要求がさらに増し加わる。だから、そのように自分自身の善行や努力によって義を得ようとする人は、自分自身の心の消えない不安を覆い隠すために、永遠に終わらない努力を重ねているのであり、その行為は、人が義とされるために行っているというよりは、むしろ、心の内なる罪悪感を薄め、本当の自分自身の惨めな姿から目を背け、これを覆い隠すために行われる自己欺瞞であり、キリストによらない人類の偽りの贖罪行為なのである。

このような努力を人がどんなに重ねても、ちょうど巨額の負債を抱えて苦しむ人が、返済しても、返済しても、利子がますます膨らんで行くことにより負債の額が減らないように、人類がどんなに自分で自分を義としようと努力しても、罪悪感はますます膨らみ、義とされることはなく、神に到達することはない。魂のあがないしろは高価で、人は自分で自分の罪を贖うことはできないからである。

そのような人たちは、心に覆いがかかり、思いが鈍くされており、神の義が分からなくなってしまっているのである。彼らは自分では神を信じていると思っているかも知れないが、彼らの悲痛なまでの努力の根底にあるのは、神への信頼や、愛ではなく、むしろ、神に対しての虚勢、演技、取り繕いであり、なおかつ、彼らの心の根底にあるのは、「どうして神は我々に対して、こんなにも重い返済不可能な罪の負債を負わせたのだ」という憤り、恨みである。そして、彼らは「神によって不当に負わされた罪の債務証書」を帳消しにするために、それほどまでに悲痛な努力を払っているのだから、神もそれを認めざるを得ないと考えて、神ご自身を否定して、神の御心を退けて、神の御怒りから身を避けて、自分自身を守るための偽りのレンガの塔(バベルの塔)を建設し続けているのである。

だが、そのように人が己が力では到底、返しきれない罪の負債を人類に負わせたのは、神ではなく、サタンである。だから、サタンを打ち破ることによってしか、人がその負債から解放される術はない。そして、神はそれをすでに成し遂げて下さったのであり、神はキリストの十字架を通して、すでに人間の罪の債務証書を無効にする道を開いて下さっているのである。だから、人がこの「罪の債務証書」を自力で返済する必要はなく、また、そのことで神を恨みに思う必要もなく、むしろ、糾弾されるべきは悪魔であって、神はキリストを通して彼に打ち勝たれたことを確信し、それを宣言し、喜び、現実に適用するだけで良いのである。

ただ上記のような人々はそれが分からず、自分に負わされた途方もない負い目を返済し続けることにより、自分たちは神に仕えているのだと誤解しており、彼らが仕えている相手は、神ではなく、彼らをまさに罪の負債地獄に突き落とした地獄の看守たる悪魔であるということが分からないのである。

しかし、人が真にキリストご自身の方を向くならば、この救いようない古い契約でがんじがらめにされた泥沼の状態から、誰しも自由にされることができる。それだけではない、その人の内側が新たにされ、主の御姿へと変えられて行く。

しかしながら、栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を変えられて行くことは、やはり、信じる者が己を低くして苦難を甘んじて受け、キリストの遜りにあずかることにしかないのである。だから、キリスト者が「いいとこどり」の人生を送ることはできない。神から喜びや恵みと平安だけを頂戴し、苦しみは一切御免だと言うことはできない。

しかし、誤解してはならないのは、信者が無駄に虐げられ、抑圧の中にとどまり、悪魔の圧迫の虜とされ続けることが、神が栄光をお受けになる手段ではないことである。むしろ、信者はそうしたすべての圧迫の中で、これに勝利する力を信仰によって得なければならないのである。

信者にとって地上の苦しみとは何なのかと問えば、それは、苦しみを通して信者に突きつけられる地上的な限界のことだとも言えよう。信者は患難を通り抜けることによって、恐れや、不安や、自分自身の限界を痛切に感じる。しばしば、自分自身の人生を照らされ、自分の誤りの多い選択を振り返り、もしかしてこれは避けることので来た苦しみではなかったかと考える。

しかし、信者は自分の抱えるあらゆる限界や愚かさにも関わらず、それに対して自分の力によってではなく、ただ信仰に立って、キリストにより、絶え間なく、この限界に「NO」を突きつけるのである。つまり、信者は、「自分にはできないが、神にはできる」という確信に立って、迫りくるすべての苦難に立ち向かい、それを乗り越えるのである。信者はこの地上で圧迫を受け、苦しめられ、追い詰められもし、そのような出来事が起きた原因がどこにあるのかさえ分からないことが多いが、絶え間なく、これらの地上の圧迫に対し、地上の限界ある人間としての自分自身に基づいてではなく、天的な人である「キリスト」によって、立ち向かい続けるのである。その時、そのパラドックスの中に、神のはかり知れない力が働く。

従って、信者が患難を通過することによって得られる天の栄光とは、信者が苦しみに翻弄され、悪魔に圧迫され続ける立場に受け身に立つことを意味せず、自虐的的で、自縄自縛の立場に身を置くことを意味せず、むしろ、それとは反対に、信仰によってそれらの圧迫を内面的に打ち破り、これに勝利する秘訣を学ぶことにある。信者の人生には、絶え間なく外側で様々な事件が起き続けるであろう、しかし、信者が苦難に勝利する力を学ぶと、それらの出来事が、信者の内面に影響を及ぼさないようになる。いかなる現象が起きようとも、どのように自分自身を脅かされようとも、信者が大胆な確信に基づいて、キリストの復活を宣べ伝えることが可能になるのである。

パウロは書いている、

「しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。

私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。

ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する賞賛が届くのです。」(Ⅰコリント4:3-5)

パウロは神の力ある使徒であったにも関わらず、兄弟姉妹と呼ばれた人々からも中傷されたり、あらぬ疑いをかけられたりもし、兄弟姉妹ではないこの世の人々からは、まして誤解され、憎まれ、迫害され、しばしばあらぬ罪を着せられて法廷にも立たされ、弁明を求められたりした。

このような迫害を使徒たちも経験したというのに、今日、キリスト者がこうした誤解や偏見や対立や苦難を全て避けて通ることができると考えるのは大きな間違いであろう。もしそのようにいかなる対立も迫害も生じないのだとしたら、その信者の信仰生活は何かがおかしいのだとはっきり言える。

しかしながら、パウロは、この世の目線に立って、人間の見地から、自分に対して下される評価や「人間による判決」をものともせず、「私は自分で自分をさばくことさえしません」と述べた。パウロはかつては熱心なユダヤ教徒であり、教会の迫害者であり、それゆえ、クリスチャンからは回心当初は恐れられもし、疑いもかけられもしたが、そのような過去でさえ、パウロは神の御前に死んだものとして一切ないがごとくに自分の手から放し、すべてを神の御手に委ね、自分自身では全く過去に拘泥せず、それに限らず、回心後に起きたどんな事柄についても、自分で自分を振り返って犯した過ちとキリストへの従順を勘定して、自分がどの程度義人であるかをはかるようなことをしなかった。

パウロは人前に立たされて弁明を求められる時、自分自身により頼まず、ただ彼を贖い出されたキリストの御名、キリストの義と聖と贖いだけに頼って立ったのであった。それだけが自分を守る防御の盾であることを彼は知っていたからである。彼は、神がいずれ自分を裁かれることを知っているが、神の裁きをも恐れてはいない。神の裁きについて大胆に述べることができたのも、彼が人間の裁きから身を避ける口実として、神の裁きを持ち出していたからではなく、人間の裁きよりもはるかに正確で決して間違いのない、すべてをご存知である神のさばきの前に立たされる時でさえ、確信を持って進み出ることができるという自負を持っていたためである。

その確信に満ちた自負は、地上の人であるパウロ自身から生まれるものではなく、パウロを通して働かれるキリストによるものであった。全身全霊でキリストに従い通しているがゆえに、パウロは、この方が、自分自身を力強く弁護して下さり、義として下さり、神は信じる者の信頼に応えて下さるという確信がったのである。

それだけではなく、パウロは、神の裁きの前に立たされる時、自分が罪に定められることがなく、義とされるばかりか、朽ちない栄冠を受けるであろうことを確信していた。信仰者はただキリストの贖いを信じて神の目に義とされただけでは十分ではない。それだけでは、罪赦されて、ただスタートラインに立っただけのことである。それ以上に、神からの栄誉にあずかるために、地上で勝利を持って試練を通過せねばならないのである。

兵士が戦いを経ずして勲章をもらうことはできず、スポーツ選手が試合を経ないのに賞を勝ち取ることができないように、信者には、この地上において患難を忍び抜くことによってしか、得られない天の栄誉がある。苦しみや圧迫を通して、信仰が試され、すべての試練に勝利する秘訣を学び、キリストにあって、完全に「おとな」にならない限り、神の朽ちない栄冠を得ることはできないことを、パウロは知っていた。だからこそ、救われた後の地上における生涯を、彼はこの朽ちない「神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走る」ことに費やしたのである。

つまり、天で用意されている「神の栄冠」という栄誉を得るために、信者は、この世における苦しみを通され、それを通して、キリストの十字架の死に同形化され、より深く復活の命にあずかるのである。この死を土台とした復活の命の増し加わりこそ、教会の成長の秘訣なのである。

「私たちは、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくさる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。」(ピリピ3:12-14)

ヤコブも同じように、試練、患難、苦しみを信仰によって忍び通すことによってのみ、信者は「何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者とな」ることを書いている。

私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブ1:2-4)

試練に耐える人は幸いです。耐え抜いてよしと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」(ヤコブ1:12)

以上の事から、私たちは、どうすれば信者がキリストに似た者とされるのか、どうすれば、「鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行」くことができるのか、どうすれば、「キリストの身丈まで成長し、完全なおとなとなる」ことができるのか、その秘訣を学ぶことができる。

エペソ書4章11節から16節には、キリストのからだを建て上げるために、信者それぞれに与えられた賜物に従い、教会には役割分担があることが語られると同時に、そうして信者一人一人が賜物に応じて互いに仕え合うことが、信じる者たちが「キリストの満ち満ちた身丈」にまで成長し、「完全におとなになって」、もはや人間の言い伝えに過ぎない偽りの教えに騙されたり、弄ばれたりすることなく、真理のうちにとどまり、キリストに従い抜いて成長するためであることが語られている。

しかしながら、多くのプロテスタントの教会においては、エペソ書のこの箇所は、組織としての教会内の信者の役割分担を示すものと解釈して、教会に牧師制度を置く根拠とさえみなしている。だが、筆者はそのような文脈でこの聖書箇所を引用しない。筆者はそもそも教会というものを、地上の組織としては見ておらず、教会内に町内会やらPTAやら、はたまた学習塾のような、様々な固定化された役割分担を置くことにより、教会の成長を促すことができるとも考えていない。

むしろ、筆者自身の経験に立って言えば、キリストのみからだなるエクレシアの働きは、決して、地上的な組織としての役割分担や、まして教団教派や組織の枠組みにとらわれるものではなく、むしろ、そのような地上的な疑似教会組織と無関係になった時点で、初めてキリストの生きた働きが信者に見えて来るのである。神は人間が人間の意志によって立てた地上の組織のネットワークを通さず、人の思いによらず、人知を超えた不思議な方法で、互いに知らない信者たちをも時宜に応じて引き合わせ、しばしば、予期せぬ形で、塩気を失って死んだこの世の地上組織としての教会の代わりに、この世の不信者からの圧迫でさえも、エクレシアを建て上げる機会として用いられる。

これは、決して不信者が教会の一部となって、教会のために奉仕していると言うのではない。不信者はあくまで教会の外にいて、教会を建て上げる目的でその働きに関わっていないのだが、それにも関わらず、この世の不信者からの迫害や圧迫を、神は教会を建て上げる手段として用いておられるのである。

前回、ステパノの殉教の場面に触れたが、イエスの復活後、このような形でユダヤ教徒による教会への迫害が強まるまでは、弟子たちの宣教によって、神の御言葉を受け入れる人々が地上に増え広がり、神の教会に加えられる兄弟姉妹が増加していた。人の目には、あたかも、そのようにして信者数が地上で増加し、教会が地上で権勢拡大し続けることこそ、教会の「成長」を指すように見えるであろう。

ところが、神は教会の成長を、決して、そのような規模や人数や組織力によってはかられないのである。むしろ、神は、サウロによる教会への迫害、ステパノの殉教などの出来事を許されて、教会が地上で勢力を増して人間的な力の結集する場所となって、強大な組織が建設され、弟子たちが多くの信者たちを従えて宗教的権威となるよりも前に、信者たちを迫害によって散らされ、教会を離散させられたのである。

教会の成長は常にこのように、世からの激しい迫害や苦難と背中合わせで、人間の目から見た繁栄や成功とは真逆の方向性を向いており、真にキリストに従う弟子たちが、大勢の人びとから敬われ、かしずかれ、立派な教師、宗教的権威者として崇められることはない。神の望んでおられる「教会成長」は、これとは全く正反対で、地上における迫害や苦しみや誤解や偏見とは一切無縁の、地上で歓迎され、安泰な地位を築き上げることのできる強力な組織力を意味しないのである。むしろ、神から見た教会の成長とは、量や規模といった、外側から見て誰しもすぐに分かるような基準でおしはかられることはなく、より深く内面的な基準によってはかられ、量よりも質を指していると言えよう。つまり、信者があらゆる苦しみの中を通され、代価を払って、ただキリストだけに従い抜く過程で生まれて来る洗練された従順、献身、信者がキリストの死と復活に同形化されたその程度の増し加わり、神への燃えるような愛の増し加わりを意味するのである。

このようなわけで、筆者は、エクレシアが何であるのかを、信者が肉眼でとらえて理解することはできず、エクレシアというものを、人が地上の組織の中に限定・固定化することもできず、また、エクレシアをキリストにふさわしく建て上げ、成長させるために、神がどのような方法を用いられるのかを、決して人知でははかりしることができない、という考えに立っている。

神がエクレシアを成長させられる手段は、この世の人々が組織を成長させるために考え出すような手練手管とはむしろ反対なのである。この世の人々は、教会に学習塾のような役割分担を設け、専門家による教育訓練を充実させ、入塾した者たちを鍛えれば、それによって教会全体の信仰を成長させることができると思うかも知れない。だが、神は決してエクレシアの成長のためにそんなな方法を用いられることはない。

先の記事でも触れた通り、パウロが述べたのは、むしろ、教会に栄光がもたらされるのは、キリスト者が投獄されたり、迫害されたり、誤解され、排斥され、苦しみを受けるなど、人間の目には決して好ましくない、心地よくない様々な出来事を通してだということであった。そのようにして、一人のキリスト者が苦しむのは、教会全体のためであり、教会全体の利益にかなっていると、彼は述べたのである。

これはまさに人が肉眼で見て、組織を成長させ、発展させる方法とは真逆である。人間の目には、苦しみや、迫害や、組織を弱体化させるものにしか映らないであろう。このような逆説的な方法を用いて、神が教会を成長させておられるとは、信仰者でさえ、信仰によらなければ、理解することはできないであろう。

しかしながら、たとえ人知ではかることができずとも、このような形で、キリスト者が不思議な形で互いに仕え合うことによって、教会が成長して行くのである。信者たちが互いにお世辞を述べあって、互いを誉めそやし、互いに栄光を受け合い、苦しみとは無縁の、人間にとって心地よく安全な共同体を地上に確固として築き上げることで、教会が成長するのではなく、むしろ一人一人が自分の代価を払って、試練を忍び通しながら、キリストに従い抜くその過程で、初めて互いが仕え合うことが可能になるのである。そのようにして、信者一人一人が「完全におとなになってキリストの満ち満ちた身丈にまで達する」のである。

「それが、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。<…>

 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」(エペソ4:12-16)

果たして、今日、キリスト教と呼ばれる宗教が、すっかり人間の安楽と現世利益のためだけの疑似宗教と化している中、このように主のための試練をも甘んじて受け、この世からの迫害や誤解や偏見や危難をも勇敢にくぐり抜け、様々な訓練を通して、神の御手に懲らしめられながら、それでも己を低くしてそれに耐え、苦難を忍び通して信仰を成長させ、キリストの死と復活により深く同形化され、朽ちない神の栄冠にあずかりたいと、心から願う信者は、どのくらい存在するのであろうか? 

そういう信者がどのくらいいるのかいないのか、それは筆者の知るところではないが、苦難と栄光の深い関わりについてのテーマは、この後の記事でもさらに続行して行く。

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