上にあるものを求めなさい

2019年7月14日 (日)

わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。

さて、非常に意義ある一週間を過ごした。相変わらず、裁判所と警察と数多くの書類のやり取りを重ねており、その作業はこれからも続く。だが、控訴理由書を書き上げるために、主が特別に与えて下さった最後の自由時間が終わった。

数ヶ月をかけて書き上げた理由書が、ようやく筆者の手を離れると、主はたちまち新しい進路を筆者のために指し示された。

筆者が書類を自分で運んで行くことに決めて、霞が関駅へ向かっている最中、日比谷線の六本木駅あたりで、電話が鳴った。天はすべてを見ている。いつ筆者の仕事が終わったのか、いつのタイミングで新たな課題を与えるべきか、主はすべてご存じなのである。

こうして、御国への奉仕が一つ終わると、次の新たな仕事が与えられる。筆者は前回の記事で、自分の専門を去り、残る生涯を、見栄えのしない「干潟」としての紛争処理というフィールドにとどまり、この干潟から、可能な限りのエネルギーを汲み出して生きようと決意したと書いた。

これは決して筆者が法廷闘争に生きることを意味しない。裁判所で働こうとしているわけでもない。だが、筆者は、法律家ではない立場から、困っている人たちのために自分の経験を役立て、法律をパートナーに新たな人生を生きようと決意したのである。

かつての専門は、筆者とはついに相思相愛の関係にはならなかった。これは不幸な片想いの道で、このパートナーは、利己的で、横暴で、筆者に幸いを与えることもほとんどなかったが、新たな道連れは、どうやら非常に気前が良く、豊かで、何より正義と真実に溢れており、筆者を守ってくれることができるらしいと分かったのである。

そこで、筆者はこの新しく頼もしい道連れと、常に一緒にいられて、一瞬たりとも離れないで済むように、また、いつでもこのパートナーに頼んで、自分のみならず、他の人々のためにも、必要な命を汲み出すことができる働きをして生きることに決めたのである。

筆者には、まだまだこの「干潟」にとどまってなさねばならない仕事がたくさんある。

そうして、筆者が自分の興味関心ではなく、真に価値ある正しい目的のために、多くの人々を利する目的のために生きようと決意した途端、これまでとはうって変わって、ただちに生きる心配など全く無用な立場に置かれた。日常のために、あれやこれやと心を煩わせる心配もなくなったのである。

さらに、この一年間、筆者が取り組んでいた別の難問も、向こうから筆者を手放し、立ち去って行こうとしている。

筆者はこれらの問題について、どういう解決策を選ぶべきか、自分では分からず、まだまだ取り組む必要があるのかと覚悟を固めていた。しかし、自分だけの思いや判断で、誤った選択をしてしないように、神が願われる事柄が実現するよう、祈り求め、手探りで進んでいたところ、神は「もうよろしい。あなたの任務は終わりました」と言われるように、これらの問題に終止符を打たれたのである。

改めて、主の御心の中心は、当ブログを巡る訴訟――というより、筆者が最後まで、信仰の証しを守り通し、十字架上で約束された復活の命を通して、キリストにある新しい人として生きることを、どのくらい実現できるのか、というテーマにあるように感じられる。それ以外のすべての問題は、些末なものでしかなく、この戦いにおいて最後まで勝利をおさめるためにこそ、すべての時間と資金が采配されていると思わずにいられなかった。

だが、その戦いとは、要するに、筆者自身が、すべての恐れと圧迫に打ち勝って、神が約束された新しい人としての内なる尊厳を完全に取り返すための戦いなのである。

一審判決の前後、筆者に時間的余裕が与えられていたことには、非常に深い意味があった。この時に、ネット上で起きている事柄に注意を払っていなかったならば、当然ながら、控訴のタイミングも逸したであろうし、紛争は中途半端なまま終わっていただろう。

しかし、神はそのようなことが起きないよう、時間的余裕をもうけて下さっていた。その間、ネットで起きていた議論は、すべて控訴理由書の土台となるものであった。その当時に記事にしたためた内容を、正式な書面の形で書き表すために、数ヶ月を要した。

古書として破格の値段で入手した室井忠著『日本宗教の闇 強制棄教との戦いの軌跡』手元に届いたのは、理由書を提出しようとする前日であった。

今回、どうしても訴えねばならなかったのは、カルト被害者救済活動の中心には、こうしたプロテスタントの猛毒の副産物と言うべき強制脱会活動が脈々と流れているということである。

当ブログでは、カルトと反カルトは本質的に同じであって、どちらも牧師制度の悪から出て来るものだということを幾度も書いた。プロテスタントは、カトリックのような聖職者のヒエラルキーと、聖職者による聖書の独占という問題から、信徒を解放したものの、その解放は、牧師制度を残すことによって、不完全に、中途半端に終わっているのであり、今やプロテスタントからの「宗教改革」が必要とされているのである。

プロテスタントが、もはやかつてのような新鮮な御霊の息吹を失って、形骸化した歴史的遺物となり、さらに有害なものにさえなりつつあることが、様々な現象を通して、確認できるのが、今日という時代なのである。

そこで、この度、筆者はプロテスタントそのものを脱出することにした。

筆者のもらった判決は、見えない紅海を渡って、新たな復活の領域に到達するために、なくてはならない「エクソダス」の道を指し示すものであった。
 
数ヶ月前に、筆者は「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(1)」という記事を書き、そこで、バビロン王国を去り、エクレシア王国の住人になったと書いた。

そのエクソダスは、理由書を書き上げている数ヶ月の間にいつの間にか完了していた。

エクレシア王国は、復活の領域であるから、そこに生まれながらの自分自身(セルフ)から出たものは、何一つ持って入ることはできない。

そこで、筆者はバビロン王国を脱出し、エクレシア王国の永住権を得るに当たり、➀プロテスタント、②資本主義、③筆者のかつての専門、この三つを「セルフ」に属するものとして捨てねばならなかった。

さらに、筆者は営利を目的としないエクレシア会社(企業ではないので、エクレシア法人としておこう)に雇用されるに際して、最初の給与は、判決という名の手形として支払われるから、これを現金化する方法を学びなさいと、ただ一人の主人から命じられたと書いた。

筆者は、それはあたかも取立によって債権を回収しなさいという意味であるかのように考えていたが、実はそうではなく、判決は、天の尽きせぬ富を引き出すための手形であり、目に見えない「干潟」から利益を汲み出す方法を知りなさいという命令だったのである。

地上の判決は、被告に対しては、永遠の断絶を言い渡し、天から新たな宝を引き出すための根拠となるものであった。
 
だが、それは死んだ文字だけにとらわれていれば、決して見えて来ない事実であった。

そこで、筆者は、見えない法の世界への招待券に書いてある、目に見えない地図に従って、しかるべき団体に出向いた。すると、そこに実際に、筆者が地上で果たすべきミッションを示す契約の書類が用意されており、それに対する報酬も約束されたのである。

地上の判決には、まだ補うべき点が存在しているが、そこには、それ以上に、もっと深い、尽きせぬ霊的な意味が込められていた。それ自体が、汲んでも汲んでも汲み尽くせない命の泉のような、終わりなき「支払い」を筆者に約束する手形だったのである。

しかも、それは筆者のためだけに命を与えるものではなく、いつの間にか、他の人々に命を分け与えるためにも役立つものとなっており、それが、筆者の新たなミッションとされていたのである。

ただし、その支払いは、純粋に天から来るのであって、地上のものに依存しておらず、地上の被告とは関係がなく、地上の人々に対して行使するものでもなかったのである。

その手形を天に向かって行使することが、天の富を地上に引き下ろす方法であって、これが天のサラリーを「現金化」する方法だと初めて分かったのである。

もしも判決を地上的方法で行使していれば、そこに死んだ文字として書かれたもの以上のものは決して得られない。ところが、筆者が得た天の報いは、使えば尽きてしまうようなものではなく、終わりなき富であり、新たな世界での筆者の身分を保証するものであった。

このようなことをどう表現すれば良いかよく分からない。多分、比喩としてさえほとんど理解されないのではないかと危ぶむ。

筆者はかつて裁判所は家のようなものだと書いた。筆者の目から見ると、そこは正義の実行される場所、真実が何であるかが明らかにされる場所、虐げられて、弱り切った人たちが、ようやく正しい裁きを得て、休息と安堵にたどり着く場所であった。

むろん、これは筆者の理想化に過ぎないと考える人たちは多いだろう。この世には、裁判所に正義など見いだしておらず、むしろ、不当判決ばかりの世界だと考えている人たちもいるかもしれない。

しかし、筆者はそうは見ていなかった。筆者にとって、そこは要塞であり、砦であり、真実と、正しい裁きが生まれて来る場所であり、それが与えられると信じないことには、そもそもそこに助けを求めて近づくわけにもいかなかったのである。

そのような望みを抱いてやって来た筆者の目には、まるで裁判所の地下に、見えない命の泉があって、そこから、人々を生かし、潤す命の流れが、こんこんと湧き出ているようにさえ映った。

ところが、いざ自分が判決をもらってみると、いつの間にか、その泉は、筆者の内側に移行していた。筆者は、「あなたは解放された。自由になって生きなさい」との宣言を受けたが、気づくと、その自由は、筆者自身の内側に書き込まれ、根づき、筆者自身が、与えられた命を持ち運び、これを他の人々に分かち与える存在となっていたのである。

判決を通して、筆者に分与された不思議な命は、筆者が地上の債権を回収しようとむなしい取立を行っている最中も、日々刻々と生長し、いつの間にか、それなりの分量に達して、筆者自身の内側から外へ川のように流れ出して、周囲を潤すものへと変わっていた。
 
それはまだ小さな川なので、気づくか気づかないという程度であろう。だが、それがやがて大きな川となって流れ出す時が来る。それが筆者に地上で与えられた真のミッションなのである。

一体、どういうわけでそういうことが起きたのか知らないが、まるで蝋燭から蝋燭へ火が灯されるように、筆者が飽くことなく求めて来た正しい裁きは、筆者の中に種のように蒔かれ、気づかぬ間に発芽し、他の人たちに向かって、新たな命をもたらす小さな種として伝播するようになっていた・・・。

こうして目に見えない終わりなき命の連鎖が始まった。それは地上におけるいかなる人間関係にもよらない、それを飛び越えた領域で起きる不思議な命の伝授である。
 
そうした立場を得たことで、筆者は内側で、あるべき尊厳を回復し、自分が何者であるかを、よりはっきり自覚するきっかけを得た。筆者は、自分があるべき場所、果たすべき使命に相当に近づいたことを感じている。

人の高貴さは、その人が抱いているミッションの気高さと大いに関係がある。聖書に登場する霊的先人たちはすべて神の解放のみわざに従事し、民を自由に導こうとする主の御旨を体現する人々ばかりであった。ヨセフは幼い頃から、おぼろげながらに自分に与えられた使命の大きさを知っていた。だが、そこへ到達するためには、様々な苦い試練を味わい、徹底的にへりくだらされねばならなかったのである。

それが十字架の道である。すべての先人はその道を通った。だが、へりくだる人に神は恵みを注いで下さり、試練がその人の糧となり、ますます高貴で栄えあるミッションを与えてくれる。その栄光、高貴さは、生まれながらのその人自身から来るものではない。

「主は霊である。そして、主の霊のあるところには自由がある。わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」(Ⅱコリント3:18)

「顔の覆い」とは、罪による隔てを意味する。地上の判決は、被告との間に打ち立てられた「永遠の遮蔽の措置」であると書いた。
 
その隔ては、裁判官と原告との間にはない。これは、あたかもまことの裁き主なる神と、贖われた人との関係を指すかのようである。

これらはすべて予表である。

地上における判決は、カルバリの十字架において破り捨てられた私たちの罪の債務証書を予表している。それは悪魔によって、私たちに転嫁されていたあらゆる不当な責め言葉や呪いを断ち切って、これを負うべき者へと投げ返すものである。

カルバリの十字架における宣言を根拠に、私たちは顔の覆いなしに、何の隔てもなく、まことの裁き主である父なる神に、子として近づき、大祭司なる方の恵みの御座に大胆に進み出て、必要なものを何でも願い出ることができる。
 
同時に、「顔の覆いなしに」とは、花嫁のベールアウトの瞬間のようなものである。花嫁の顔を覆っていたベールが取り払われるのは、結婚式のことであり、そこで花婿と花嫁とが初めて「顔と顔を合わせる」。

以上の御言葉は、キリストとエクレシアとが、ついに婚礼によって顔と顔を合わせる、人の贖いの完成の瞬間を指したものである。その時、神と人との間には、すべての隔てが取り除かれる。罪による隔てが、完全に取り除かれる日が来る。こうして、隔てが取り除けられたとき、人は神の栄光を映す存在となり、人は創造の当初、神に似せて造られたその目的と使命を完全に回復する。

人は神の助け手として創造されたのであり、人の役目とは、神が宣言なさることに対し、「アーメン(その通りです)」と答えることにある。第一審判決に対しては、筆者はまだ完全に「その通りです」と言えない部分が残っているがために、それを補うために控訴に及んでいるものの、このことは、あたかも、人の贖いが、地上にあっては、まだすべては完成されていないことを指すかのようである。

私たちには、完全な約束が与えられているが、その贖いの完全な成就は、来るべき世を待たねばならない。

とはいえ、そのことは決して、この地上において、私たちが目的に近付けないことを意味しない。むしろ、逆であり、筆者は、その瞬間へ向かって、一歩一歩、あるべき姿を確かに取り戻している。

ただし、それは純粋に筆者の内なる尊厳の回復であって、外見のことを指すわけではない。筆者の滅びゆく地上の人としての外見は、年々、ますます取るに足りない、見栄えのしないものとなっていくだけであろうが、主の御手の下にへりくだらされた人は、まるで外なる人に反比例するがごとく、内側では、栄光と尊厳がますます増し加わって行く。

その高貴さ、尊厳は、やがて隠しようのない不思議な魅力、権威、力となって、その人の内側から外へ溢れ出し、かつ他の人たちにも分け与えられて行くことであろう。

十字架で一度限り永遠に下された判決は、私たちに一生、必要なものをすべて与え、さらなる自由を、尊厳を取り戻させてくれる。もはや後ろを振り返る必要はない。

第二審は、より完全な贖いの成就を予表するものとなり、キリストにある新しい人の出現を、さらにはっきりと約束してくれるものとなるだろうと筆者は見ている。だが、それと並行して、筆者には、それと同じくらい重要なミッションがあって、今や自分だけではない多くの人たちにも、自由に至るエクソダスの道があることを告げ知らせ、自分に与えられた解放を、他の人々のために役立てたいとの願いがある。

その成果が一定の分量に達したときに、さらに大きなミッションが与えられることになるだろうと筆者は前もって感じている。いずれにせよ、筆者はなさねばならない仕事、新たな課題の只中に置かれたのであり、それを果たせることは、筆者にとってはかりしれない光栄である。

2019年3月13日 (水)

私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを待っています。

先の記事でウェーバーを取り上げたとき、彼はその著書で、社会は、宗教すなわちキリスト教の最先端の信仰の運動が原動力となって動かされていることを指摘したのだと書いた。

ウェーバーは、マルクスのように下部構造(見えるもの)が上部構造(見えないもの)を規定すると考えることなく、むしろ、その逆に、見えないものこそ、見えるものを規定するのであって、その決定的要素となるものが、キリスト教であるとみなしたのである。

その考えはおおむね聖書の原則に合致している。現代人のほとんどは、宗教と社会の動きや、国際情勢は別物であって、キリスト教の最先端の信仰回復運動が社会を動かしているなどとは考えていないであろう。

しかし、聖書の原則は、すべてのものは、神の御言葉によって創造され、また御子によって支えられているのであり、目に見えるものは、見えないものから出来たのであって、見えるものが見えるものを生んだのではないというものだ。

「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(ヘブライ11:3)

すべての聖書に基づかない宗教や、あらゆる詐欺師・錬金術師も、毎日、何とかして少しでも労苦せず、無から有を生み出し、濡れ手に粟式に富が手に入らないかと考えを巡らせていることであろうが、私たちを真に命の豊かさに至らせる秘訣は、まことの命である聖書の正しい御言葉にしかない。

そこで、もしも私たちが、真に今、世界で起きていることは何なのか知りたいと願い、また真に無から有を生み出すような豊かで生産的な人生を送りたいと願うならば、まず第一に、聖書の神の御言葉をよく研究してこれを理解し、神の御心(関心事)がどこにあるのかをとらえることが必要となる。

そうして、私たちの関心が、神御自身の関心と重なるならば、次の御言葉が私たちの人生の上に成就して、どれほど多くの錬金術師・魔法使いが束になっても、彼らには絶対に生み出すことのできない本当の命の豊かさに、私たちはあずかって生きることができるだろう。

「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:31-34)

神の命の豊かさに支えられて、平安のうちに生きる秘訣は、神の国の秩序を飽くことなく追い求めて生きることにのみある。

先の記事で、終末へ向けての神の関心事は、小羊の婚礼にこそあると書いた。それはエクレシアが完成に向かい、人がキリストのための花嫁なる教会として整えられることである。

だが、イエスのたとえでは、婚礼に招かれたほとんどの人々は、自分の生活の心配、自分の命の心配であまりにも心がいっぱいだったので、神の関心事にはまるで注意を払わず、神に招かれていたのに、祝宴に出かけず、その喜びと栄光に共にあずかる機会を逸し、悪い場合には、神の使いに反逆して滅ぼされ、あるいは、準備が出来ていないのに婚礼に出席しようとして、外の暗闇に追い出されてしまった。

このように、神の関心事に全く心が及ばない人々が、御心の外を、計画の外を歩いていて、祝福にあずかるわけもない。だから、真に祝福を受けようと思うなら、信者は神の関心事の中に入り込まなければならない。

先の記事で、イエスが幼子だったとき、イエスの両親が彼を長子として主に献げる儀式を行うため、エルサレムの神殿に入ったとき、シメオンとアンナが出迎えたことを書いた。シメオンはもちろんのこと、アンナも、シメオンがイエスを腕に抱いて神を誉め讃えているのを見て、幼子がメシアであることをすぐに悟って、人々にその到来を告げに行った。

彼女について書かれたくだりは、次の通りである。

「また、アシェル続のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。」(ルカ2:36-38)

筆者は「彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」というフレーズがとても好きである。この箇所は、ダビデの詩編の次の箇所を思い出させる。

ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。
 命のある限り、主の家に宿り
 主を仰ぎ望んで喜びを得
 その宮で朝を迎えることを。

 災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ
 幕屋の奥深くに隠してくださる。
 岩の上に立たせ
 群がる敵の上に頭を高く上げさせてくださる。
 わたしは主の幕屋でいけにえをささげ、歓声をあげ
 主に向かって賛美の歌をうたう。」(詩編27:4-6)

ダビデが願ったように、私たちも命のある限り、主の家に住むこと、すなわち、夜も昼も、神に仕え、神を賛美し、その御心を尋ね求めて生きことができる。

そのようにして、主の御心の中に入り込み、主の関心事が何であるのかを第一に追い求めて生きるならば、シメオンとアンナが幼子イエスを見た瞬間に、それがメシアであることが分かったように、私たちも、神のなさることの一つ一つの意味を、誰から説明を受けずとも、分かるようになるに違いない。

あらゆる宗教には、大抵、その宗教の聖典の研究だけに従事して生きる人々がいる。その人々は、一切、世俗の仕事をしないで、神の宮に仕えることだけを己が職業としている。
 
もしも私たちが真に願うならば、私たちも、自分を完全に主に捧げて、神の御心のためだけに自分を注ぎだして生きる人となることができるであろう。神はそのようにして御自分を待ち望む民を、これまでにも用意して来られたのであるが、これからも、そうした心意気の信者を歓迎して下さることを筆者は信じて疑わない。

これが、筆者がプロテスタントと資本主義を離れると言っていることの意味内容である。つまり、御言葉の奉仕者として、神に直接、養われて生きることは、いつの時代にも可能なのであって、その願いを持つ者は、ぜひそうすべきである。プロテスタントを離れる必要性については後述する。

* *  *

さて、聖書は、万物は、御子によって、御子のために造られたとしている。

御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。

御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一となられたのです。

神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」(コロサイ1:15-20)

神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座におつきになりました。」(ヘブライ1:3)

このように、御子は万物が創造される前からおられ、さらに、万物は御子によって、御子のために創造されたのであり、今でも、御子によって支えられているのだと分かる。

筆者は訴訟を進めるに当たり、法体系を調べた。その際に行った作業は、たとえるならば、まるでこの世という巨大な高層ビルの裏側に入り込み、人々が行き交う美しいエントランスや清潔なエレベーターではなく、誰も目にしない、立ち入ることもできないような、暗く、埃っぽい地下に降りて、むきだしのコンクリートの壁や、頑丈な鉄骨にじかに手を触れ、ビル全体の基礎構造を確かめているような具合であった。

人々は美しく整えられたビルの表面しか知らないので、その裏側や、ビルを支えている構造がどうなっているのかを知らない。法体系は、この世を支えている見えない秩序であって、いわば、ビルの基礎構造のようなものである。

むろん、この世では必ずしも定められた秩序の通りにすべてが動いているわけではないが、それでも、法は生きていて、この世に起きる諸事情を規定し、修正し、違反を罰することもできる。

だから、筆者は自らの訴えを書くに当たり、まずはその構造を調べに行き、その中に入り込んで、この基礎構造を支えとして自分の主張を作り上げた。そうすると、それはもはや単なる一個人の意見や主張のレベルではなくなり、しっかりとした基礎の裏づけに支えられる頑丈なものとなるのである。
 
この世の法体系は、世界を構成している見えない霊的秩序の絵図のようなものである。聖書は、イエスは神の御言葉そのものであって、万物はこの方によって生まれ、この方によって支えられていると言う。御言葉は、この世を規定している見えない秩序であるだけでなく、やがて来るべき秩序でもある。

そこで、私たちがこの世を生きるに当たり、自分の主張や生き様を、真に確かなものとしたいと願うならば、永遠にまで変わることのない、御言葉の堅固な基礎構造によりかかり、その裏づけを得て、これと一体化して、自分の歩みを進めるのが一番安全なのである。

私たち自身は、弱い被造物に過ぎないかも知れないが、御言葉と一つになることによって、それが私たちの強さとなり、力となり、私たちの主張が、神の御前に正しいと認められるために必要なすべての根拠を提供してくれる。神の御言葉こそ、全世界を成り立たせている基礎構造であり、私たちの個々の人生の中でも、基礎構造をなすべきものである。

しかし、万物は御子によって創造されたにも関わらず、アダムの堕落と共に、サタンに引き渡されて堕落していまった。それゆえ、現在の目に見える被造物全体は「虚無に服して」(ローマ8:20)いる。だが、神は被造物をこの虚無から救い出し、復活の輝かしい栄光の中に入れようとなさっておられるのである。

このことについて、オースチンスパークスの今日の論説は非常に興味深いので引用しておきたい。

 

「キリストとの合一」第二章 彼の地位――御父の愛によって(6)

 さて、これはとても実際的なことです。イエス・キリストを経ないまま神に至ろう、とあなたは思っていますか?御父の定めでは、すべてが御子と共にあります。さて、これは包括的であって、被造物全体を網羅します。彼の中で、彼を通して、彼に至るよう、万物は創造されました。それゆえ、被造物全体についての神の定めは御子と共にありました。すなわち、神は御子という立場に基づいて、創造された万物に対応されるのです。

さて、被造物がその最初の君主であるアダムを通して神の御子の諸々の王権を破り、それらを敵対者であるサタンに手渡した時、神は何をされたでしょう?パウロの素晴らしい言葉によると、神はただちに、全被造物のまさに中心に、「失望」を書き込まれたのです。御子の嗣業に対する彼の妬むほどの情熱は、彼は御子の外の敵対者や反逆をご覧にならないことを意味します。パウロは「被造物は虚無に服した」(ロマ八・二〇)と述べています。

そしてその瞬間から、被造物の中心に失望があります。これは人にも言えます。人のいかなる達成、成功、偉業、発明にもかかわらず、最後の結末は失望です。私たちの周囲の被造物の中に魅力的で美しいものがあったとしても、それはそこそこ進んだ後、色あせて死んでしまいます。すべてが死と腐敗に服しています。これは失望です。定めは破られました。

栄光、豊かさ、究極的完成は、御子に対して定められました。御子の外側では、そのように定められておらず、すべてが失望です。そうではないでしょうか?どうして人々にはこれが分からないのでしょう?他の誰も知らなくても、私たちクリスチャンはそれを知っています。

しかし、神はほむべきかな、私たちは神の定めに戻って、この失望は一掃されました。神は私たちのもとに、御子における定めに、キリストとの合一に戻って来て下さいました。


  聖書は言う、すべての被造物は、贖われるときを待ち望んで、産みの苦しみを味わっていると。

「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。

被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、”霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。


見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ローマ8:18-25)

以上のくだりは、先の記事でも触れたパウロの言葉、「しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。」(Ⅰテモテ2:15)とも重なる。

ここで「婦人」とは人類を象徴していることを説明したが、パウロがこのくだりで、「子を産むことによって救われます」と指しているのは、人類がすべての被造物と共に、体の贖いにあずかり、完全に滅びの縄目から完全に解放されて、主と共に栄光に輝く復活の自由に達すること、また、そうなるまでの間、「産みの苦しみ」が存在することを表していると言えよう。
   
従って、ここでは、「産みの苦しみ」を耐え忍んでいるのも人類(全被造物)ならば、その苦しみの結果として、新しく生まれて来るのも人類(全被造物)なのだと言える。これは新創造が生み出されるまでに、全被造物が耐え忍ばねばならない産みの苦しみであって、そうして、すべてが新しくされる時には、人はさらにキリストに似た者とされて、彼と共に栄光にあずかる神の国の共同相続人とされている。

「このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは”霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Ⅱコリント3:15-18)

そこで、現在、全被造物が味わっている「産みの苦しみ」は、被造物が完全に贖われてキリストと同じ姿に、主の栄光を映し出すものへと変えられるための過程なのであり、そのときには、もはや人類(被造物)は虚無に服するものではなくなり、本体なるキリストと同じ姿を持ち、同じ栄光を持つ者とされる。

今日でも、私たちはキリストにあって霊による一致の中に入れられているが、その時には、さらにこの一致が完全なものとなる。

かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」(ヨハネ14:20-21)

この約束を通して、どれほど神が人を愛し、人を重んじて下さっているかが分かるはずである。人はあくまで造られた被造物に過ぎないにも関わらず、神はキリストを通して、人に、ご自分を知ることのできる方法を備えて下さり、キリストはご自分を愛する人々に、御自身を現して下さり、ご自分に似た者となる道を開いていて下さるのである。

ここには、創世記で蛇が人類をそそのかしてささやいた、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」(創世記3:4-5)という、神の御言葉を排除して、人が神の性質を盗み取ることでしか、神に至りつけないという発想の入り込む余地が全くない。



図1 聖書における神と人との主従関係
 
これに対し、依然として、蛇(サタン)が人類をそそのかすにあたり、述べたように、神は故意に、人をご自分よりも劣った卑しい存在として創造され、たのだから、人がこの劣った性質を克服するためには、神の意志に反してでも、神の神聖な性質を盗み取るしかないという考え(神に対するコンプレックス)に基づき、人が神の御言葉によらず、自分自身の意志と力で、神の性質を盗み、神と置き換わろうとしているのが、グノーシス主義だと言えよう。

グノーシス主義には一応、「原父(プロパテール)」という存在があり、聖書の父なる神に似たような存在が設定されている(真の至高者と同一)が、これはほとんど存在しないも同然の、形骸化した「お飾りの神」のようなものである。

すでに述べた通り、この至高者は、物言わぬ「鏡」であり、「虚無の深淵」であり、自らの意思によって力強く万物を生み出す存在ではなく、むしろ、被造物に受動的に自らの姿を映しとられて、自らの意思とは関係なく、信的存在を「流出」させることを、制御することもできない「神」である。

これは父としての権威と力を持たない「沈黙する神」と呼んでも良いだろう。この「沈黙する神」は、初めから他者から模倣され、自らのリアリティを侵害されて、神聖を簒奪されており、それに抵抗できない。

この思想では、「父なる神」が自らの意志に基づき、人を自分に似せた存在に創造したのではなく、神(至高神)の性質が「流出」(コピー)されることによって被造物が誕生している。すでに述べた通り、まだ「神々」なる被造物の誕生当初の段階では、この「流出」は「簒奪」と呼べるほどの故意性がなかったにせよ、それでも、誕生の段階から、すでに被造物の側からの至高神への浸食・侵害が起きていたことは確かなのである。

このことを見れば、グノーシス主義の思想の本当の主役は、神にあるのではなく、被造物の方にあるのだと分かる。つまり、これは「違法コピーを正当化し、偽物をオリジナルと置き換えるために造られたさかさまの思想」と言って良く、至高神の性質を盗み取るようにして生まれて来たあまたの被造物の存在を正当化するために造られた思想なのである。
 
グノーシス主義でも、原父(創造主―オリジナル)は父性原理を、被造物(被造物―コピー)は女性原理を代表するものとみなせるが、この思想は、母性原理(被造物―コピー)を「主」として、父性原理(創造主―オリジナル)を「従」とする、一言で言ってしまえば、神と人との主従関係を逆転して、目に見えるものを目に見えないものの根源に置き換える唯物論である。

これと同じ特徴が、万物を生み出す命の源は、女性原理にあるとみなして、女性原理を神とするすべての思想に流れており、むろん、「神秘なる混沌」「母なるもの」(女性原理)をすべての生命の源とみなす東洋思想にも、同じ発想が流れている。

従って、女性原理をすべての生命の源であると掲げているすべての思想は、要するに、見えるものを見えないものの根源としているのであり、根本的には唯物論だと言えるのである。

グノーシス主義では、至高者が「虚無の深淵」とされていること、すでに見て来たが、ここにも、神と被造物との関係を逆転させようとする聖書とは真逆の原則が表れている。聖書においては、被造物こそが堕落して虚無に服しているのであって、グノーシス主義はこれをさかさまにして、父なる神を虚無に服させたのである。

さらに、存在の流出に加えて、よりはっきりした形で、被造物が至高神の意志を無視・侵害して、神の神聖を模倣・簒奪したのが「ソフィアの過失」である。この事件は、ちょうどエバがエデンの園で、「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われた」(創世記3:6)木の実を取って食べて、自ら神のようになろうとしたのと同様に、被造物が、己が情と欲に基づいて、自らの感覚を喜ばせることによって、神のようになろうとした企てとみなせる。

以上で確認した通り、聖書における「産みの苦しみ」とは、被造物の贖いが完成するまでのプロセスを指すため、これを考慮するならば、グノーシス主義のプロットにおいて、ソフィアが単独で子を産もうとした行為は、「被造物が、神(の意志)を抜きに、単独で己が贖いを完成しようとした」試みを指すことは明白となる。

ひとことで言ってしまえば、ソフィアの行為は、堕落した被造物が自分で自分を義とし、贖おうとしたこと、つまり、コピーに過ぎないものが、自らの力で本物のオリジナルに置き換わり、被造物であることをやめて、神の完全に達しようとした企てを意味する。

そして、グノーシス主義では、ソフィアの企てが、失敗に終わった後も、そのミッションは人類に受け継がれ、「母の過ち」を修正することが、人類の使命とされるのである。



図2.グノーシス主義における神と人との主従関係の転倒
 
こうして、グノーシス主義は、その骨組みだけを取り出せば、人が己の肉の情欲を満足させることによって、神へと至り着こうとする、聖書とは真逆の思想なのであって、そのために、この思想は、被造物の側から、創造主に対して、果てしない「模倣と簒奪」を繰り返すことを正当化するのである。

そこには、人類の罪も堕落もなければ、肉に対する十字架の死もない。だから、この思想に生きる人は、己が欲するままに生きた挙句、神の神聖に至りつけるかのように考えるが、それによって生み出されるのは、神とは似ても似つかない失敗作だけである。

このようなものが、女性原理を万物の生命の源とみなす思想の根本に存在するのであり、さらに極言すれば、そこには、人が己が情欲を「神」とする思想があるのだと言えよう。そのことを指して、パウロは次のように言った。

「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」(フィリピ3:18-19)

「腹を神」としているとは、肉と欲を神としているという意味であり、「恥ずべきものを誇りとし」とは、罪に生きることをあたかも正しいことであるかのように唱道していること、「この世のことしか考えていません」とは、己の欲を満たしてくれそうな、目に見えるものだけにより頼んで生きていることを指す。

だが、パウロは、これに続けて、私たちキリスト者が目指しているのは、そのようなものでは断じてなく、私たちは、主と共なる十字架において、この世に対してははりつけにされて死に、自分自身の肉に対しても死に、罪と死の法則に従ってではなく、命の御霊の法則に従い、目に見える都ではなく、あくまで見えない都、見えない天を目指していると述べる。

私たちは、そこからキリストが再び来られ、最終的に、私たちが完全に贖われて、もはや二度と堕落した肉に支配されることのない、キリストと同じ栄光の体へ変えられることを待ち望んでいる。

「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリピ3:20-21)

そこで、結論として、これまで繰り返して来たように、今日、キリスト教における神への礼拝は、目に見える指導者、目に見える場所から解放される必要がある。

プロテスタントの牧師制度は、カトリックの聖職者制度や、荘厳で立派な礼拝堂を建設するための献金集めとしての免罪符の支払いから信者を解放した代わりに、今度は、目に見えないキリストを、目に見える指導者(牧師)に置き換え、聖書の御言葉を、信者がキリストではなく牧師を介在して受けとらざるを得ない状態にとどめたことで、改革を中途半端に終わらせただけでなく、最終的には、目に見える被造物(母性原理)を、創造主なる父なる神(父性原理)以上に高く掲げるという唯物論的逆転に陥ってしまった。プロテスタントの礼拝が、特定の教会の礼拝堂に固定化されていることも、同様の原則に基づく。

これでは結局、イスラエルの建国を促し、地上のエルサレムに再びユダヤ教の神殿を建設することで、キリストの再臨が促されると言っている人々と、原則はまるで同じである。

「目に見えるもの」が、贖いの完成へとつながる神聖な要素であるかのようにみなし、その発展を促すことで、人類の贖いが成就するかのように思い込んでいるという点で、これらはグノーシス主義と同じ、さかさまの理論であり、プロテスタントは牧師制度や教会籍制度を固定化することで、そこへ落ち込んでしまったと言える。

こうした「さかさまの理論」を主張し始めた人々は、「目が開け」るどころか、その顔に覆いがかかり、見えないキリストの栄光を映し出すことができなくなり、かえって、神を「虚無」に服させて、自分自身が神であるかのように錯覚するようになる。

そして、高慢になって、神の御名を自分たちの栄光を打ち立てるために利用し、己が肉の情欲を満たすことこそ、己が存在を神聖化する秘訣であるかのようにはき違えるようになる。

だからこそ、牧師制度からは離れなければならないのである。それはこの制度が、被造物を神と置き換えようとする思想の体現だからである。むろん、固定的な礼拝堂からも離れなければならない。その点で、カトリックからのみならず、プロテスタントからも脱出する必要があり、両者ともに信仰回復運動としての意義は失っている。

これを離れなければならないのは、そこにあるのが、被造物を父なる神以上に高く掲げ、目に見えるものを、目に見えないものの根源に置き換えようとする、本質的には唯物論と何ら変わらない聖書への反逆の思想だからである。

このような汚れた思想と分離せず、それを受け入れてしまうと、人は信仰によらず、己が情欲に従ってしか歩めなくなる。そして、このような転倒した教え、神不在の理論の中に身を置いていながら、同時に、まことの神を知りたいと願っても不可能なのである。

このことは、今日、当ブログが、目に見える指導者に従い、目に見える礼拝堂に通わないことを、恫喝と悪罵の言葉と共に非難し続けている人々が、どれほど常軌を逸した不法を働く者どもになり果てているか、その様子を見ても、よく分かると言えるだろう。

必至になって目に見えるもの(指導者、礼拝堂、儀式その他)を擁護し、あたかもそれが神聖であるかのように主張する彼らの姿は、いわば、目に見えるものを神とするプロテスタントの行き着く終着点なのである。今やプロテスタント全体が、このような不法の子らの恫喝を前に、抵抗する力を失ってしまったが、それはすでに述べた通り、プロテスタントが、教会がより本来的な姿へと回復されていく変遷の一過程でしかなく、その中には、過ぎ去らなければならない古き要素が含まれていたにも関わらず、これと訣別しなかったことの必然的な結果である。

今やプロテスタントの中の「目に見えるもの」(神への礼拝を目に見える牧師や礼拝堂の中に見いだそうとする制度)が、まことの神への礼拝の妨げとなっているのに、この宗派は、「目に見えるもの」を擁護して、これを神聖であるかのように保存しようとしたために、神の御言葉を退け、その結果として、上記のような不法の者たちと手を結び、行きつく先が同じとなってしまったのである。

プロテスタントであろうと、カトリックであろうと、神の御心から遠く離れたものを、あたかも神聖なものであるかのようにいつまでも擁護し続けていれば、誰しも、結局、サタンの虜となり、暗闇の勢力に引き渡されて行くのは仕方がない。


図3 キリストは神と人との唯一の仲保者であるから、エクレシア(教会)における兄弟姉妹はみな対等な関係にあるはずである。

図4 ところが、プロテスタントでは、牧師が神と人との唯一の仲保者であるキリストに置き換わってしまったために、神の栄光が反映しなくなり、神が無きに等しい者として形骸化した(唯物論的転倒)。

おそらくカトリックもプロテスタントも、ずっと前から、生きた信仰を見失って、目に見えるものを、目に見えないものに置き換える神不在の理論と化していたからこそ、その只中から、マザー・テレサや奥田牧師(もしくは遠藤周作)が唱えたような、人間を不条理の中に見捨てて「沈黙する神」のイメージが、発生して来たのだと言えよう。

このように人類の苦しみを見捨て、助けることもできないで、苦難の中に置き去りにして行くだけの、弱々しく沈黙する神は、聖書の神ではなく、御言葉からは、あまりにもかけ離れている。むしろ、これは人間が虚無に服させて自ら骨抜きにしてしまった神の姿であると言えよう。

しかし、人が目に見えるものの中だけを巡り続けている限り、まことのリアリティである神は決して見いだせない。その代わりに、このように人類を助ける力を全く持たない、無きに等しい神しか、見えて来るものはない。それは神というよりも、無力な人類が、自分自身の姿を、鏡に投影するようにして作り出した自己の似像に過ぎない。つまり、人間が自ら神を規定しようとした結果、彼らの神は、そのようにまで弱体化し、虚無にまで服してしまったのである。

だからこそ、こうした汚れた教えからは「エクソダス」せねばならない。そして、私たちは目に見えるものに従ってではなく、自分たちを本当に生かす力のある、目に見えない御言葉に従って、見えない都を目指して歩むのである。

わたしの民よ、彼女から離れ去れ。
 その罪に加わったり、
 その災いに巻き込まれたりしないようにせよ。
 彼女の罪は積み重なって天にまで届き、
 神はその不義を覚えておられるからである。」(黙示18:4-5)

あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。<略>神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。

「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。
 そして、彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せられる。
 
 『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。』
 全能の主はこう仰せられる。

 愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。
(Ⅱコリント6:14-18,7:1)

2019年3月12日 (火)

たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。(3)

* * *

さて、今回は、前回の続きとして、グノーシス主義および東洋思想といった、非キリスト教的異教の思想の中には、決まって「ハガル―シナイ山―バビロン」の原則が流れている、ということに触れておきたい。

ハンス・ヨナス教授が述べた通り、グノーシス主義思想とは、特定の時代に限定された特定の思想を指すものではなく、時代の様相が混迷を極め、人々の思いの中に悲観が広がり、政治的にも危機的状況となり、明白な希望が失われているような時代には、いつでもどこでも、発生しうるものであり、さらに、この思想は、独自の神話を持たないため、あらゆる宗教や思想の中にもぐりこみ、それを換骨奪胎しては、自分に都合よく変えてしまう性質がある。

グノーシス主義は、いわば、常に何かの思想や宗教哲学などを宿主として、そこに潜り込み、寄生して成り立つ模倣と簒奪の思想なのである。

グノーシス主義には、独自の神話はないが、一応、神話的なプロットの原型はあり、果てしない模倣と簒奪を正当化するためだけに存在しているこの思想では、その神話的プロットも、当然ながらその原則に沿ったものとなる。それが「存在の流出」という考え方である。

まず、グノーシス主義思想では、真の至高者なる神が存在するとされるが、その神はあまりにも神々しい存在であるため、(一部の説では「独り子」以外には)、誰も見たことのない「知られざる神」であるという。

それにも関わらず、どういうわけか、その「知られざる神」が、この思想では「虚無の深淵」や「鏡」にたとえられ、その深淵である「鏡」に至高者の姿が映し出されることによって、無数の神的存在(アイオーン)が流出したとされる。

だが、これは非常に奇怪千万な話である。至高者にも関わらず、グノーシス主義の神は、自分の存在が「流出」することを自分でコントロールできなかったというのだろうか。

このことから、グノーシス主義の「神々」(アイオーン)は、至高神自身の意志とは関係なく、至高神の存在を模倣・簒奪して、まるで神の神聖が盗み取られ、漏洩されるようにして「流出」したものであると言える。つまり、グノーシス主義のプロットの中では、至高者は、神であるにも関わらず、自己存在が、自己の意志と関係なく「流出」することを、自分で制御することができない存在なのである。

このことを考えると、グノーシス主義における「神々」(アイオーン)の誕生は、聖書の神が、被造物を創造された時のように、主体的で能動的な創造行為ではなく、むしろ、被造物の側から、至高者の存在を盗み取り、これを模倣して自らを生んだも同然のものであるとしか言えない。

その点で、グノーシス主義の「神」は、至高神という名とは裏腹に、最初から自己存在を他の被造物によって見られ、知られ、盗み取られる受け身の神であって、主体ではなく、客体なのだと言えよう。

こうして、グノーシス主義の「神」は、最初から客体として、他の被造物に存在を盗み取られ、侵害されているのであって、神と呼ばれるにはふさわしくない存在である。その受動性、沈黙、弱さ、非独立性は、聖書における神が、「わたしはある」と言われ、自らの意思によって被造物を創造し、被造物が神に背いて堕落した際には、被造物を追放したり、滅びに定めることのできる、強い権限を持ち、人格と意志を持った能動的存在であることとはまさに逆である。

グノーシス主義の「至高神」は、たとえるならば、「御真影」のようもの言わぬ神であって、無数の「神々」であるアイオーンの存在に神的位置づけを与えるためのアリバイ、もしくは、お飾りのような存在に過ぎないと言えよう。

この点で、グノーシス主義は、最初から、神と被造物との関係を逆転し、至高神という神を規定しながらも、その神を「知られざる神」とすることによって、至高神に「リアリティ」があるのではなく、むしろ、至高神の神聖を映し取って生まれた模造品である被造物なるアイオーンの方に、「リアリティ」が存在するとして、神と被造物の関係性を逆転していると言えるのである。

結局のところ、グノーシス主義とは、本体である至高神から、その神聖を流出させて、模倣・簒奪して、無数の影のようなアイオーンたち(模倣者たち)を作り出すことを正当化するために生まれた思想であると言える。(ちなみに、アイオーンの間にもヒエラルキーがあって、至高者から遠ざかるに連れて、質の悪いコピーのようになって行く。)

そういう意味で、グノーシス主義とは、終わりなき質の悪いコピペを正当化する模倣と簒奪の思想なのであって、本来ならば、万物の創造主でなければならない神に主体性を持たせず、かえって神を客体として、被造物の方に主体性を与える「さかさまの思想」だと言えるのである。

さらに、グノーシス主義思想において、当初のアイオーンの流出は、アイオーンの側から至高者の神聖を盗み出すために意図的に起こされた反乱ではなかったが、この思想においては、その後、「ソフィアの過失」というさらに決定的な出来事が起きる。

グノーシス主義の神的世界では、すべてのアイオーンは男性名詞と女性名詞のペアとなっており、そのペアからしか子供は生まれないとされているにも関わらず、最下位の女性人格のアイオーンであるソフィアが、単独で子を産もうと欲して、何かしらの禁じ手を使って、おそらくは至高者なる神を「知り」、その「過失」の結果として、醜い悪神ヤルダバオート(デーミウルゴス)という子を生んで、この子を下界に投げ捨て、この悪神が、下界(地上)の支配者となって、悲劇と混乱に満ちた暗闇の世界がそこに創造され、悪神の子孫として人類が生まれたというのである。

ここで、ソフィアが単独で子を生んだことは、至高者の側からの願いに基づくものではなく、ソフィアの側からの意識的な反逆として、彼女が至高者の神聖を盗み取って、故意に流出させたものであるとみなせる。

このように、グノーシス主義の神話的プロットにおいては、繰り返し、神の神聖が、被造物の側から盗み取られていることが分かる。そして、後になるほど、その盗みは、より意図的で、より悲劇的で、より悪意あるものとなって行く。

そして、そのように、至高神の意志を介在せずに、被造物の側からの違反によって、神の神聖が不当に盗み出された結果、グノーシス主義では、人類が誕生したとされているのであって、父を不明として、ソフィアの過失をきっかけとして生まれた人類は、初めから悲劇を運命づけられている。

それでも、この思想においては、どういうわけか、父不明のはずの人類には、至高者のものである「神聖な霊の欠片」が宿っているため、人類は、自分の直接的な父である悪神よりも知恵があり、悪神を否定的に超えて、真の至高者へ立ち戻ることができ、それによって、「母の過ち」を修正することができるとされている。

グノーシス主義では、悪神ヤルダバオートが、聖書の創造主(ヤハウェ)と同一視されるため、この思想では、聖書の神を徹底的に愚弄して、これを出し抜くことが、あたかも人類の正しい使命であって、人類を真の神に回帰させることにつながるかのようにみなされるのである。

だが、ここで人類の母とされているソフィアが、どうやって単独で子を生んだのかがはっきりしない以上、グノーシス主義においける人類が、真に至高神から神聖な霊の欠片を受け継いでいるとする客観的な根拠は何もない。何よりも、グノーシス主義思想それ自体において、至高神は、人類を己が子孫と認める発言を行ってないのである。

それにも関わらず、人類が、自分は至高神の子孫であると名乗り出て、自分を天界に認知せよと求めただけで、至高神に連なる者となれるとしていること自体が、これまたこの思想のどうしようもない模倣と盗みの原則をよく表していると言え、グノーシス主義の世界観の中では、誰かが「自称」しさえすれば、何ら客観的な根拠がなくとも、それが真実であるかのようにまかり通ることをよく示している。

このように、グノーシス主義思想とは、初めから、誰かが自分よりも優れた他者の性質を模倣し、盗み取り、本体を映したおぼろげな映像に過ぎないものを、本体と置き換える盗みと反逆を正当化する思想なのであって、そこには、神に逆らって堕落した人類が、不当に神の性質を盗み、これを模倣・簒奪することにより、聖書の神を否定して、自ら神であると宣言して、神と置き換わろうとする悪魔的思想が流れていると言えるのである。

ところで、この悪魔的思想の「模倣と簒奪の原則」は、インターネットの掲示板でも、顕著に見て取れよう。今日、掲示板は、そこに集まった悪意ある人々が、現実世界に存在する様々な事物の姿を歪めて映し出しては、存在を流出させてディスカウントするための「鏡」となっている。

そこで、悪意ある人々は、掲示板で、この世の事物をターゲットとして映し出し、そこで自分たちが盗み取って流出させた歪んだ映像の方が、本体を凌ぐリアリティであるかのように言いふらし、自分たちにこそ、本体を見定める資格があると主張して、本体のオリジナリティを侵害し続けている。

さらに、そうして存在を盗み取られた人々の一部も、ヴァーチャルリアリティである掲示板の方に、あたかも「リアリティ」があるかのような虚偽を信じ、掲示板に書かれた誹謗中傷を苦にして、自殺に追いやられたりまでしている。

こうして、本体とその歪んだ映像に過ぎないものの主従関係を逆転し、本体の質の悪いコピーに過ぎず、影に過ぎないものを、本体であるかのように偽り、出来そこないのコピーの大量作成によって、本体を凌駕し、駆逐することを狙っている点で、掲示板は、本質的に、グノーシス主義と同じ、見えない悪意による「模倣と簒奪の原則」に基づいて成り立っていると言えるのである。

さらに、グノーシス主義における、人類の悲劇の誕生は、先の記事で触れたハガルとイシマエルの運命にも重なる。

ハガルは、女主人であるサラの考えによって、アブラハムに子をもうけるために与えられた奴隷であるから、自ら反逆として、アブラハムをサラから奪ったのではなかった。

とはいえ、アブラハムはハガルの夫ではなかったわけであるから、やはり、ハガルの行為は一種の盗みのようなもので、なおかつ彼女が子を産んでから、奴隷であるにも関わらず、自らが女主人であるかのように思い上がって、サラを見下げるようになったことは、主人らに対する反逆であったと言えないこともない。

また、ハガルが子を生んだことは、肉の働きであっても、信仰によるものではなかったわけであるから、その点でも、ハガルの行為は、本来は至高者を知る権限がなかったにも関わらず、己が欲望に基づき、至高者の子を欲したソフィアの過失に極めて近いものであったと言える。

さらに、ソフィアがその「過失」ゆえに天界から転落しかかり、その子であるヤルダバオートが下界に投げ落とされたように、ハガルとイシマエルは、アブラハムの家から追放されて、父のいない母子家庭になったという点も似ている。

そして、彼らは自分たちが行ったことが罪であって、自分たちが神の御心にかなわない不完全啞存在であるとは決して認めたくないがゆえに、その後も、自分たちは神の家の正統な後継者であるかのように偽って、約束の子らを迫害し続けるのである。

このように見て行くと、グノーシス主義では、「信仰によらず、己が肉の力によって、神を知り、その実としての子を生みたい。」という、人類の肉の欲望を肯定する思想が、一貫して流れているのだと言えよう。

従って、これは一貫して、人類が自らの下からの生まれを、あたかも神聖なルーツであるかのように偽り、自らを神とする、聖書における大淫婦バビロンを肯定する思想だと言えるのである。

グノーシス主義は、どんな思想や宗教の中にでも入り込むものであるから、その発生は洋の東西も問わず、東洋思想において「母が脅かされている」とする考え方の中にも、これと本質的に全く同じものが流れていると言える。

東洋思想においても、万物を生み出す源は「神秘なる混沌」という母性原理にあるとされており、万物の生命の源は、「父」ではなく「母」にあるとされる。そこに我々は、被造物(女性原理=人類)と、創造主(父性原理=父なる神)との主従関係の逆転が起きている様子を見て取れる。

ちなみに、グノーシス主義思想の研究者である大田俊寛氏は、このような思想の発生を、古代社会においては、DNA鑑定もなく、母が誰であるかは明白であるが、父が誰であるかを確かめる術がなかったことに見いだし、「擬制(フィクション)としての父」という考えを提示している。

それに基づき、大田氏は、古代社会から家父長制から現代に至るまで、人類が父によって支配されるという考え方は、「フィクション」に過ぎないのだとし、そこから、聖書の父なる神もフィクションに過ぎないという考えを導き出すのである。

このことは、むろん、「父なる神」をフィクションどころか、「わたしはある」という絶対的なリアリティであると定義する聖書の真理に悪質に反する虚偽であることは明白であるが、グノーシス主義の核心を表すたとえとしては、言い得て妙である。

グノーシス主義では、ソフィアの過失が、具体的にどんな事件であったのかが全く明らかにされていないことを見ても分かるように、要するに、この思想においては、何らかの形で「子」が生まれさえすれば良いのであって、本当の父が誰であるかは、さして重要ではないのである。
 
もちろん、グノーシス主義は、このような考えが、聖書の唯一の神である「父なる神」を否定し、キリストと教会の関係に基づく一夫一婦制を否定するものであることを知っていればこそ、己が思想が、本質的に、キリスト教における、揺るぎないリアリティであるまことの父なる神に対する裏切り、反逆であり、キリスト教に悪質に敵対するものであることを無意識的に知っており、そうであればこそ、この思想の中には、潜在的にキリスト教(の「父なる神」)に対する恐怖、すなわち、いつか自分たちがキリスト教の「父なる神」によって罰せられることになるという恐怖が内包されているのである。

そのため、この思想には、父のいない母子家庭に生まれ、父からの正当な承認がないのに、神聖な神の子孫を自称(詐称)する人類が、いつか「父なる神」から罰せられることになるため、その御怒りから自分たちを守らなければならないという、自己防衛と被害者意識による連帯願望が流れていると言えるのである。

なお、東洋思想においては、この自己防衛の思想が「禅」という形で結晶化し、また、手段としての自己防衛は、「武士道(武術)」という形で結実した。武士道の根底にあるものは、人類を楽園から追放し、滅びに定めた聖書の神に対する怒りと憎しみの感情であって、それは神の御怒りに満ちた裁きから身を避けようとする人類の自己防衛の手段であり、永遠から切り離されて滅びに定められた者たちの生んだ悲痛な「死の美学」であることも、すでに確認した通りである。

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 (上二つの画像は、映画『龍の正体』から)

筆者はこれと同じ自己保存・自己防衛の願望を、戦前・戦中の日本の国体思想に、またユダヤ教メシアニズムにも、見出さずにいられない。

第二次大戦中の日本の沖縄戦における集団自決、そして、マサダの集団自決などに流れる思想は、根本的に全く同じものであると筆者はみなしている。つまり、それは、まことの父なる神の承認によらず、父なる神を避けて、人類という「母子」が、自らの力で自分たちのルーツを浄化して、神からの恵みと承認によらず、自力で神の神聖に至り着くことができるかのように主張して、自己防御しようとした結果、必然的に行きついた悲惨な滅びなのである。

そこには、己の力で神に達しようとする者が、霊的に罰せられずには終わらないというバベルの塔と同じ原則が働いている。

おそらく今日、ホロコーストを生き延びたユダヤ人によって建設されたイスラエルでも、自己防衛のための団結の願望は、以前にもまして強いものとなっていることが予想される。それがパレスチナ住民たちに対する攻撃の激しさの中にも現れているのだろう。

なお、プロテスタントの宗教改革の指導者であったマルチン・ルターは、ユダヤ人をキリスト教に改宗させることができると望んでいた間は、ユダヤ人を擁護していたが、それが不可能であることが分かってからは、ユダヤ人を激しく批判したことも知られている。今日、ルターのそうした言説は、反ユダヤ主義を促すものとして非難の対象となることもあるが、いずれにしても、人は神の恵みによって、信仰によってしか救われないとするキリスト教の信仰が、人は律法を守ることによって救われるとしているユダヤ教の理念と相容れないことは確かであるから、ルターによるユダヤ人への批判の中には、不思議とは言えない部分がある。

こうしてキリストを拒んだがゆえに、都を破壊されて失い、さらにプロテスタントのキリスト教徒からも激しい非難と迫害を受け、全世界に散らされた歴史的過去は、今日のユダヤ人には、トラウマに近い感情を残しているのではないかと想像される。それだからこそ、その悲痛な歴史的記憶の只中から、より一層、強固な自己保存、自己防御の感情が生まれて来るのであり、それが彼らのメシア待望という、聖書の神に最終的に逆らう終末の反キリストを生み出す原動力となって行くのではないかと考えられるのである。

人は信仰によって何かを獲得するためには、神が定められた約束の時まで、忍耐強く御言葉の成就を待つことが必要とされる。それは、あくまで神の決定としての御言葉の成就であって、人間の側からの欲望に基づく思いつきではなく、その約束を成就して下さるのも神である。そして、神がご自分の約束の成就される時、それは決して人間の肉欲を満足させる形で成し遂げられることはない。

だが、人は肉の情欲によって、神の約束を待つことができず、性急に自分で自分を保存しようとする。そして、常に感覚的満足(快楽)を欲し、己が力で成果を勝ち取ることで、神を喜ばせることができると考える。

しかし、どんなにそこに悲痛なまでの幸福への希求の思いが込められていたとしても、神の御言葉に立脚しないものは、すべて真のリアリティを持たず、永続性がない。だからこそ、肉によって生まれる子は、霊によって(信仰によって)生まれる子よりも、先に勢力を増して勝ち誇るがものの、その勢いは、ほんの一時的でしかなく、肉によって生まれたものは、神の計画によらないため、初めから滅びを運命づけられ、すぐに消えて行くのである。

「人は皆、草のようで、
 その華やかさはすべて、草の花のようだ。
 草は枯れ、
 花は散る。
 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」(Ⅰペテロ1:24-25)

そこで、当ブログでも、己が肉の力を誇り、この世の栄耀栄華を誇るクリスチャンに偽装する指導者らの唱える幸福が、草のようにしおれ、消失して行くのは当然だと主張している。

当ブログでは、とある宗教指導者の家庭に降りかかった様々な不幸のことにも言及したが、これもまさに、以上で述べた通りのバビロンに働く聖書の原則が成就したものに過ぎず、筆者が述べている個人的な見解ではない。

これに対する唯一の処方箋は、悔い改めて神に立ち帰ることである。

「それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはあなたがたを、おのおのそのおこないに従ってさばくと、主なる神は言われる。悔い改めて、あなたがたのすべてのとがを離れよ。さもないと悪はあなたがたを滅ぼす。 あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」。 」(エゼキエル18:30-32)

かつてイスラエルの家が責められているように、今、プロテスタントの神の家と呼ばれる教会やその牧者たちも責められているのである。

だが、彼らが依然として、悔い改めを退け、己が富、権勢、支持者の人数、家庭、所属団体の規模、安楽な生活などを誇り、貧しい主の民を蔑み、嘲笑し続ける限り、彼らの繁栄は束の間の風のように過ぎ去るであろう。

主イエスが地上の都エルサレムに対して下された宣告と、その後のエルサレムの歴史、そして人類の肉に対する滅びの宣告を、私たちは思い出すべきである。

肉の思いは死であり、霊の思いは命と平安であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。」(ローマ8:6-8)
 
だが、何一つ絶望する必要がないのは、エクレシアは最終的に、「夫ある女よりも多くの子を生む」と言われており、バビロンの栄耀栄華をはるかに超えて、永遠に至る栄光を約束されているからである。

だからこそ、私たちは地上にある間、己が権勢や、能力を誇らず、より一層、神の御前に「夫を持たない女」「やもめ」「子を生まない女」として、キリストだけを待ち望んで生きるつつましい純潔の花嫁、聖なる天の都を目指したいと願うのである。

2018年5月21日 (月)

祝福あれ、主の御名によって来る人に。私たちは主の家からあなたたちを祝福する。

思った通り、働かせ方改悪法案が強引に押し通されようとしており、これが通れば、まさに我が国は24時間働かせ放題のディストピアへと転じることになる。

筆者がこれまでずっと述べて来た通り、労働がまさに罪のゆえの終わりなき懲罰と化す時代が到来しているのだ。アウシュヴィッツ行きの列車が人々を満杯に乗せて、汽笛をあげて発車しようとしている。

この列車に乗ってはいけない。今は勤労の精神を説く時代ではない。プロテスタントの始まりと共にヨーロッパ諸国で勤労の精神が取り入れられたが、プロテスタントも、労働市場も、徹底的に腐敗堕落し、もはや終焉にさしかかっているのだ。

「私たちは安定的な雇用を得て、定期的な収入と、高い職業的な地位を得て、まっとうな市民としてのつとめを果たしているから大丈夫・・・」などと思っていると、行き先は飢えと死の支配する強制収容所となろう。

それはキリスト教界も同じで、宗教組織に所属し、宗教指導者に従うことで、それを神の救いの目に見える形の代替物のように思って握りしめていると、行き先は地獄でしかない。

この国は、もはやすべてにおいてタガが外れており、善と悪が逆転し、すべてのことがひっくり返っている。善良な人々が悪人とみなされ、悪人が善人面して跋扈している。

だが、そうなったのには、深い理由がある。これは我が国が経済成長だけを第一として、金儲けを至上の価値として歩んできたことの手痛いツケであり、必然的な結果なのである。

戦前もそうであったが、戦争は、政府や皇族や大企業の金儲けのために起こされるものであって、口実など何でも良いのである。要するに、儲かりさえすれば、どんな手段を取っても構わないという精神が、戦争へとつながって行くのだ。

人権軽視の憲法改悪と、武器の製造と輸出(軍需産業の育成)、国公立大学における人文科学の縮小、人間を過労死させるまで働かせて使い捨てることを厭わない働かせ方改悪法案などは、すべて根底では一つにつながっている。要するに、これらは金の力の前に人権および人命が徹底的に軽視され続けたことの結果、起きたことである。

最近、辛淑玉さんが事実上の国外亡命を果たしたというニュースを知って驚いた。以下のニュースは「読む・書く・考える」のブログから転載したものである。
 

東京新聞(3/14):

「ニュース女子」問題で辛淑玉さん
ヘイト標的 拠点ドイツに 

 沖縄県の米軍基地反対運動を扱った東京MXテレビの番組「ニュース女子」で、名誉を毅損されたと認められた団体代表の辛淑玉さん(59)が昨年11月からドイツに生活拠点を移した。本紙の取材に対し、昨年1月に番組が放送されてから民族差別に基づくヘイトクライム(憎悪犯罪)の標的にされかねない不安が高まったとして、「事実上の亡命です」と明かした。(辻渕智之)

 辛さんによると、番組放送後、注文していない物が自宅に届いた。近所で見知らぬ人が親指を下に向け批判するポーズをしたり、罵声を浴びたりもした。これまでも仕事先などへの脅迫や嫌がらせはあったが「私の身近な生活圏に踏込んできた」という。(略)
(略)
 最近は「スリーパーセル」(潜伏工作員)との中傷もある。先月、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)中央本部が銃撃されたことに触れ、「私が狙われてもおかしくなかった。国のリーダーは北朝鮮と敵対しても、『日本の中にいる朝鮮人たちは一緒に生きていく隣人です』と宣言してほしい」と訴える。

この出来事についてブログの著者は呼びかけている、
 

「辛淑玉さんは、日米両政府から差別・迫害されるマイノリティ(沖縄)に連帯し、その自己解放運動を支援してきた。そんなマイノリティ(在日コリアン)女性の自宅を特定し、嫌がらせを繰り返して、ついには国内で生活できなくなるまで追い詰める。これが「愛国」だの「美しい国」だのを標榜している連中の正体なのだ。

一刻も早く、そんな不良日本人どもからこの国を取り返さなければならない。それは、間違いなく、この国のマジョリティである我々の責務である。

まったく同感である。だが、それにしても、ここまで事態が深刻化していたと知って筆者は驚いた。単なるテレビ番組だけの問題ではなくなり、実生活にまで被害が及び、もはや日本にいられないというまでの事態になっていたのだ。

「ニュース女子」とは、化粧品会社DHCの傘下のグループ企業が制作しているテレビ番組である。このDHCは、澤藤統一郎弁護士のブログの文章を理由に、弁護士に高額スラップ訴訟を起こしたことで知られる。DHCが起こした高額スラップ訴訟については、「澤藤統一郎の憲法日記」に詳しく、弁護士はDHCと勇敢に戦って勝訴し、今やDHCが被告となっている。

「ニュース女子」では最近、沖縄の高江・ヘリパット基地建設に関連して、事実として裏づけの取れていない、基地反対派の活動を一方的に敵視して貶める内容の放送を行ったとして、ネットでも数多くの批判を浴びていた。DHCのグループ会社が制作するこのTV番組は、まさにDHCという企業の意向を強く受けて制作されていたと見られる。
 

朝日新聞デジタル 「ニュース女子」打ち切りへ MXと制作会社に隔たり 
田玉恵美 2018年3月1日03時21分 から抜粋

 ニュース女子は、化粧品大手ディーエイチシーのグループ会社「DHCテレビジョン」が取材・制作し、MXが完成版の納品を受けて放送している。問題になった昨年1月2日の放送回については、放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会が昨年12月、MXが番組内容を適正にチェックせず、中核となった事実についても裏付けがないとして「重大な放送倫理違反があった」とする意見を公表していた。

 関係者によると、批判を受け、MXは自ら番組の制作に関与したいと申し入れて交渉していたが、DHC側から断られたという。このため、今春の番組改編に合わせて番組の放送をやめることを決めた。


しかし、BPOから放送倫理違反との結論が出されたことに対し、DHC会長は、かえって「BPOは正気か」とする反論を発表し、そこでBPOは委員のほとんどが「反日、左翼」に占められており、正常な判断など下せるはずがないと、偏見としか言いようのない衝撃的な見解を述べている。そして、「ニュース女子」はうちきりになったわけではない、これからも放映を続行すると強弁して、BPOに対決宣言と見える姿勢を打ち出している。

【DHC会長独占手記】「ニュース女子」騒動、BPOは正気か 
「ニュース女子」DHC会長、衝撃の反論手記 
から抜粋
「田嘉明(DHC会長)

 今、問題になっている放送倫理・番組向上機構(BPO)についてですが、まずこの倫理という言葉を辞書で調べてみると「善悪・正邪の判断において普遍的な基準となるもの」(「大辞泉」)ということになっています。そもそも委員のほとんどが反日、左翼という極端に偏った組織に「善悪・正邪」の判断などできるのでしょうか。

 沖縄問題に関わっている在日コリアンを中心にした活動家に、彼らが肩入れするのは恐らく同胞愛に起因しているものと思われます。私どもは同じように、わが同胞、沖縄県民の惨状を見て、止むに止まれぬ気持ちから放映に踏み切ったのです。これこそが善意ある正義の行動ではないでしょうか。

 先日、情報バラエティー番組『ニュース女子』の問題に関して、朝日新聞が「放送の打ち切り決定」というニュースを大々的に流したようですが、『ニュース女子』の放映は今も打ち切ってはいません。これからも全国17社の地上波放送局で放映は続行します。」

  だが、以上のような見解を見ても、すぐに分かることは、DHC側が、沖縄の基地問題を、日本と米国の外交問題、政治問題、また、日本本土と沖縄との偏って不公平な関係といった観点からとらえるのではなく、これを日本人対在日コリアンという民族対立のヘイト問題にすりかえることで、人々の目を問題の本当の核心から目をそらそうとしていることである。

もしも民族的対立という観点からとらえるのであれば、沖縄の基地問題は、何よりも、日本人から琉球人への差別という観点から論じられねばならない。今でも続行している日本本土による沖縄への基地の押しつけという不公平にこそ、まずは目を向けなければならない。

ところが、本土と沖縄という問題を、それとは全く異なる日本人と在日コリアンの対立という問題にすり替え、「在日コリアン側からの日本人への敵視」が行われているという、一種の被害妄想めいた話を作り出すことによって、沖縄を差別してきた加害者であるはずの日本人が、かえって被害者であるかのような問題のすり替えが行われようとしている。

そうした原因すり替え論の結果として、辛淑玉さんが国外亡命さざるを得ないような状況さえ起きて来ている。本来は、企業が政治活動に携わること自体が、望ましいことではないと筆者は考えるのだが、最近は、企業にもあからさまな右傾化が起きており、DHCのみならず、巨大企業がブランド力と動員力を使って、テレビだけにとどまらない政治的影響力を行使するようになっている様子が伺える。

とはいえ、日本人もTV番組や巨大企業の宣伝だからと裏づけの取れない情報を完全に鵜呑みにするほどまで愚かではないため、こうした動きに対しては、強い反発も起きており、DHC製品の不買運動もじわじわ広がっているようであり、上記の弁護士などもDHCの不買運動を呼びかけて広く反響を得ている様子である。

東京MXテレビとDHCの開き直りに反感、デモや不買運動もー『ニュース女子』沖縄ヘイト放送
志葉玲  | フリージャーナリスト(環境、人権、戦争と平和)  2017/1/27(金) 8:59


だが、今のままだと、まもなく不買運動など呼びかけずとも、化粧品のことなど誰も考えていられないような恐るべき時代がやって来ることになるだろう・・・。しかも、まるでロシア革命時に大勢のロシア人が国外に亡命したように、辛淑玉さんのみならず、我が国で「非国民」のレッテルを貼られた人々が、続々とこの国を捨てて国外亡命を果たすような時代が、もうすぐそこまで来ていると感じられてならないのである。

こうした一連の出来事を見つつ、筆者も色々と考えさせられる。

筆者は最近、ヴァイオリンを弾きながら、辛淑玉さんのように、将来、ドイツへ行ってみるのも悪くないなあ・・・、などと思いめぐらしている。国外亡命のためではない。何しろ、ドイツは教育が無償だそうだから、改めて音楽を学び直す良い機会ともなろう。

音楽には国境もなければ言語の壁もないため、いざとなれば、日本国内外を問わず、そこから何か開けてくるものがあるだろうと思うのだ。筆者はこの試みが、深いところで、筆者自身の自由とも密接につながっていることを強く確信している。

筆者は以前から、この国はソドムとゴモラ化していると書いており、まさしくその通りの展開となっていることを感じている。そして、このような腐敗した領域からは出るべきだと述べている。だが、筆者が述べている「エクソダス」とは、あからさまな国外亡命のような、物理的な移動を指しているわけではないのだ。時には、そういうことが不可欠な場合もないわけではないと思うが、はるかに重要なのは、霊的エクソダスである。

これから先、どれだけ早く真実に気づいて「エクソダス」を成し遂げるかが、一人一人の生死を分けることであろう。

筆者は、働かせ方改悪法案に賛同しておらず、事実上の24時間労働制・国家総動員体制などに賛成票を投じるつもりも全くないが、それでも、残念ながら、我が国に国家総動員体制のようなものが敷かれるのはほとんど避けられない結果だと考えている。

それはこの国がこれまで敷いて来たヒエラルキー、競争原理が必然的にもたらす結果なのであり、一旦、とことん行き着くところまで行き着かない限り、この残酷な競争の激化は止められないのではないかと考えている。

だから、私たちはそうした先行きのない世界から目を逸らし、新しい地境を見るべきなのである。もし船の左側に網を降ろして何も魚が取れなかったなら、右側に網を降ろしてみれば良いのだ。左側は、人間の努力によってすべてを達成する道、右側は、神の約束によってすべてが達成される道である。

話が変わるように思われるかも知れないが、経済界および労働市場の絶望的なることを示すために、あるエピソードを述べておきたい。

それはかつて筆者が何年も前に、アルバイトのような仕事をして、とある故障・修理受付のセンターで働いていた時のことであった。

筆者がその職場に入ったとき、その職場は、開けた都会の駅からすぐの大型ショッピングモールのビル街の只中の、きれいでピカピカのオフィスにあった。まだ立ち上がったばかりで、大勢の同僚たちが雇用され、活気があり、窓から見える景色はきれいで、食べ物屋にも困らず、まことに良い雰囲気であった。

ところが、それがとことん異常になり果てて行くまで、3ヶ月もかからなかった。そのセンターの仕事には最初から前線部門と技術部門の二つの区分があり、最初、これらの部門の間に差別はなかった。だが、最初から給与が違っており、技術部門の方がわずかに高かった。前線部門は修理の受付をして技術部門へ渡すための一次対応であった。

センター始まってしばらくすると、いつの間にか、前線部門と技術部門との間にヒエラルキーのような格差が出来てきた。前線部門は、技術部門に接続する前段階の苦情受付のための捨て駒のような役目を押しつけられ、技術部門との間に、だんだん給与面だけでなく心理的にも大きな格差ができ、技術部門は特権的な地位のようにみなされるようになって行ったのである。

職場の中にヒエラルキーがあるということは心理的にも非常によくない。職場内にあからさまな無気力感が漂い、同僚同士が妬み合ったり、足を引っ張り合ったりして、何一つ良いことは起きない。

だが、そのセンターには、筆者が働き始めて3か月頃した頃から、今度は、いきなり現場の仕事には全く携わることのない庶務部門や、社員の仕事をチェックしてはダメ出しするだけの品質管理部門といった新たな部門が導入されて、さらに新たな重層的ヒエラルキーが出来上がり、事務仕事に携わる連中が、前線部門、技術部門を問わず、センター全体の仕事を見張り、難癖をつけては、大きな顔をするようになったのである。

いきなり導入された庶務部が、シフト管理などにうるさく口出しをし、全従業員に君臨して大きな顔をし始め、一つの職場内で、事実上の官僚集団のようになって行った。一つのセンターの中に完全な「お役所」が出来上がり、筆者は開いた口がふさがらなかった。

そのような事態になるまでの間に、仕事の質もどんどん落ちて行った。最初は活気があったセンターが、連日の苦情のために、どんどん疲弊して行った。さらに、従業員は、あくどい形で、顧客から金をとるために、修理しなくても良い箇所まで、修理させるようにとの業務指示を下されたりと、納得のできないことの連続で、顧客が可哀想だと思われることしきりであった。

何より、連日のように顧客から異常と思われる終わりのない苦情が入って来るようになり、それにみなが苦しめられていた。むろん、そんな苦情が発生したこと自体、企業の経営方針、倫理の欠如が深刻に問われる。そうした希望の見えない仕事の中で、職場では身びいきがはびこり、幹部の覚えめでたい連中だけが、見る間に出世して管理職に登用されて行き、管理者ばかりがゴロゴロいるようになったのであった。

筆者はより高い給与とましな仕事内容を求めて技術部門への転身を試みたが、あいにく実現しなかった。(そして、筆者の人生では、この仕事が本業とは関係のない最後のアルバイトとなった。)

以上のような変化の中で、筆者はこの職場には将来の希望が全く見いだせないため、早く転職せねばならないと思うようになった。品質管理部門が、皆の仕事に目を光らせて、あれやこれやとうるさく難癖をつけているため、思うように仕事もできなくなり、筆者はこの職場を一刻も早く出るべきと確信した。

ほんのわずかな期間に、入ったばかりの頃のわきあいあいとした雰囲気、同僚たちとのあけっぴろげな談笑、これから何かが始まるぞという活気は、急速に萎み、見る影もなくなっていた。

筆者が仕事に愛想を尽かしかかっている気配を察知して、それまで同僚だった人が、それを上部に密告し、友達の顔をして、筆者の動向を調べ上げ、中枢部に報告するようになった、筆者はうすうす同僚の裏切りを感じてはいたが、それでも、それを全く意に介さず、その同僚の説得を振り切って、センターを去った。

その同僚は、筆者の退職後、筆者を裏切り者のように言いふらしていたらしい。(だが、自己弁明しておけば、そのように悪しざまに言われていた人々の中には、筆者のみならず、この職場を脱出しようとしたすべての同僚たちがを含まれていたのである。)

そして、密告までして上部に媚を売り、その仕事にしがみつき、センターに残った人たちが、その後、どのような末路を辿ったのかは、センターにいた仲の良かった別な同僚が仔細に至るまで教えてくれた。

筆者がそこを出た後、なんとごくわずかな間で、本社からリストラ精鋭部隊なるものが送り込まれて、大規模リストラを決行し、そのセンターが事実上、崩壊したというのである。

筆者はその話を聞くまで、追い出し部屋だとかの話を耳にしても、半信半疑で、リストラ部隊などといったものは、あるはずのない話だと思っていた。まさかそれなりに名の通った大企業に、自社の社員たちをリストラすることだけを専門にしている社員が雇われているなど、考えてみたこともなかったのである。一体、何のために?

ところが、それは本当のことらしかった。本部から四人の凄腕のリストラ精鋭部隊が送り込まれて来て、センターに残っていた同僚たちをことごとく片っ端からクビにして行ったというのだ。

仕事のできる優秀な人々がまず真っ先にターゲットとされ、仕事に難癖をつけられては、何度も、何度も、訂正を求められ、それにうんざりして自分から辞めた人も多かったという。数か国語を扱える優秀な社員も同じようにターゲットとされて追い払われた。

次に、管理職、平を問わず、大規模なリストラが決行されて、センターの人員が半数近くもいなくなった。その後は、事実上の恐怖政治が敷かれ、最後までクビにならずに残った人たちは、シフトも自由に申告できなくなり、休みも思うように取れず、恐怖で辞めることもままならず、会社への密告を恐れて同僚と口を利くことさえできなくなり、職場に出勤しても、恐怖のあまり手が震えてパソコンを打てないほどだったという。

センター自体はなくならなかったはずだが、筆者が見知っていた同僚の8割がたは解雇されて入れ替えられた。筆者がいた頃に、身びいきで出世していった人々も、みなすげ替えられたのである。

筆者はこの他にも、職場の腐敗や、崩壊に近い現象をそれなりに見て来たが、短期間でこれほどまでにダイナミックな崩壊(自滅?)を遂げた事例は他に聞いたことがなかった。立ち上げ当初の活気ある雰囲気を知っていただけに、まさかという思いが今でも込み上げて来るが、やはり、自分の中の直観は正しかったのだと思う。

リストラ部隊は、筆者には、抜き身の剣を持った御使いたちの姿を思い起こさせる。コネや身びいきがはびこり、不平等なヒエラルキーが敷かれ、お友達ばかりが管理職になって出世し、誠実な人々はひたすら苦情処理のような味気ない仕事を押しつけられ、昇進の道も閉ざされ、将来の希望もなく、不公平、不正義、堕落、腐敗の代名詞のようになったセンターには、こうして目に見えない剣が投げ込まれて、誰の手にもよらず、職場が自壊して行ったのである。

そうした話を同僚から克明に聞かされた時、職場がそんなひどい状態に陥るよりも前に、筆者がそこを去ったのは、まことに正しい決断だったと、改めて心の中で頷いたものであった。たとえ裏切り者のように罵られたりしたとしても構わない、残っていれば、もっとはるかにひどい事態が待ち受けていたことは明らかなのである。

可哀想なことに、優秀でまじめで仕事好きだった同僚は、精神的に追い詰められて、疲弊した様子だった。決して誰とも対立したり、会社の悪口を言ったりするようなタイプではなく、思いやり深く、働き者の同僚であったが、結局、無理がたたって怪我をして、その仕事を続けることはかなわなくなったようであった。

筆者が何を言いたいかは、しまいまで言い切らずとも、分かってもらえるのではないかと思う。

これまで我が国は、「国と企業のために役立つ優秀な人材」を求めて、ひたすら偏差値教育やら、就職戦線やら、国家公務員試験制度やらを通して、国民同士を競争させ、国民の間にヒエラルキーを敷いて、差別的な階層を作り出した。仕事を得る上でも、新卒・既卒の差別や、正規雇用と非正規雇用の身分差別、圧倒的な賃金格差を作り出し、とことん不公平な体制を敷いて、国民同士を「勝ち組・負け組」に分断して、戦わせて来たのである。

そのような悪しき分断作戦に、国民は気づいて立ち向かうべきであったのに、競争原理に踊らされ、自分を「勝ち組」として、地位にしがみつくことに必死の人々は、隣人に起こっていることに無関心で、自分が優位にあるうちは、自分だけが大丈夫であれば良いと考え、他人を見殺しにした。自分自身が徹底的にターゲットとされるまで、搾取や、リストラや、過労死や、ハラスメントなどは、自分には関係のないことだと高をくくっていた。

そのような愚かさ、無関心さ、無慈悲さ、利己主義がもたらす最後の当然の結末として、我が国では、今や国家や企業の無限大の搾取の願望が、ついに24時間働かせ放題のディストピアという形で押し通されようとしているのだ。

もうこうなると、国の崩壊そのものが近いと言えよう。今や抜き身の剣を持った御使いたちが、天から派遣されて、目に見えない死の剣を、我が国の国民全体の頭上に振りかざしている最中なのである。

それなのに、人々は殺されるまで物言わぬ羊として、上からの覚えめでたい人間として生きるため、地位にしがみつくため、殺人的な政策にも黙って従い、屠殺場に黙って引いて行かれるつもりなのであろうか? 

残念ながら、こうした現象は、経済界だけに限ったことではなく、むろん、国の組織も、学術研究機関も同じであり、およそ地上の組織という組織が、腐敗して、頼りにならない、人間を苦しめ、圧迫し、閉じ込めるものとなっているのである。

それは、宗教指導者の利益を第一とし、宗教指導者から評価されることを信者の「救い」と取り替えた腐敗した宗教組織にも共通することである。

「囲いの呪縛から出よ!」と、筆者はもう一度、言いたい。私たちは「和の精神」の呪縛から自分を解放すべきなのである。

カルト団体では、宗教指導者が信者に死ぬ寸前まで奉仕を要求するが、今の経済界で起こっていることは、それと本質的に同じ現象である。合理的な結果を出すために働かせるのではなく、人間を完全に奴隷化して支配するために、限度を超えた労働を要求しているのである。

このような死の世界には触れてはいけない。問題は、過労死をいかに防ぐかとか、企業や団体に労基法をどうやって守らせるかとか、正規と非正規の格差をどうやって埋めるかと言ったところにはもはやないのだ。

この果てしない地獄のような搾取の願望、人命を何とも思わずに犠牲とする金儲け第一主義の腐敗した理念から、どうやって一人一人が身を引きはがし、身を守り、これにNOを突きつけ、これとは全く異なる価値観に従って生きて行くかという選択の問題なのである。

筆者はクリスチャンとして言うが、今やまさに一人一人の信者が、信仰によって神ご自身との直接のつながりを得て、人間の指導者を介さず、組織を介さず、神のまことの命からすべての供給を受けて生きて行かねばならない時代が来ている。

それはハドソン・テイラーやジョージ・ミュラーを含め、幾多のキリスト教の先人が生涯に渡って成し遂げて来た方法であるから、何も不可思議な方法論ではないし、恐れることでもない。

イエスは十字架にかかられる前にこう言われた。

「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。

わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(ヨハネ12:23-26)

この御言葉は、隣人愛のために自分を捧げるという文脈で誤解される向きが強いが、実際にはそうではない。この御言葉は、クリスチャンが、この世で得られるすべてのかりそめの栄誉、地位、財産など、人間の間で作り出される虚栄に対して死ぬという意味を強く持っている。

これは、人の目に立派な人間と認められ、この世でひとかどの者と認められて地位を築き上げようとすることをやめて、ただお一人の神だけに評価され、神の御心を満足させることだけを求めて生きよという神の命令なのである。そして、主イエスは、その実現のために、十字架の死に向かわれたのであり、ご自分の死を指して、ご自分の「栄光」だと言われたのである。

イエスが地上に来られた時代、地上には立派なエルサレムの都と神殿があった。多数の宗教指導者がいて、人々に敬われていた。だが、イエスはそうした人々から全く栄光をお受けにならなかった。むしろ、主イエスは彼らを偽善者と呼び、「白く塗った墓」にたとえ、「外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている」(マタイ23:27)と非難されたのである。

イエスは彼らにこう言われた、

「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。こうして、自分が預言者を殺した者の子孫であることを、自ら証明している。

先祖のが始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。蛇よ。蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。

こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」(マタイ23:29-36)

今日の時代もこれと全く同じではないだろうか。地上には荘厳で立派な教会がいくつも建てられ、立派な服を着た宗教指導者たちが講壇から重々しく説教し、うやうやしく荘厳な儀式が行われている。そして、彼らのもとに集まる信者は、自分たちは正しい宗教指導者を拝む正しい信者であると自負している。

あたかも、そこには完成に近い素晴らしい礼拝があり、素晴らしい敬虔な指導者や信者たちがいるように見えることであろう。

ところが、そうした人々は、神が遣わされた「預言者、知者、学者」を決して認めようとはせず、その中の「ある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する」。そして、その血の責任を、自分自身の身に負っているのである。

イエスが、エルサレムの都と神殿の崩壊を予告して言われたことを思い出したい。

「「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ。めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。

見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。
言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。

イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指した。そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石ここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」」(マタイ23:37-39.,24:1-2)

このような宣告が一切、我が国とは関係がないと、私たちは言えるだろうか? 義人を罪に定め、真実を闇に葬り、不法と虐げを見て見ぬふりをし、寄る辺ない弱い者たちを嘲笑して死に追いやり、神に従う信者を迫害し、神が遣わされた預言者を殺そうとする国や街が、この先、無傷で立ちおおせることなどあるだろうか?

だが、私たちは、地上のエルサレムではなく、天のエルサレムを目指して歩んでいる。地上の目に見える都、宗教組織、目に見える礼拝、目に見える宗教指導者に帰属するのではなく、天の都に根差して生きている。だから、私たちは常に見えない新しい地に目を注ぎ、地上の目に見える有様に足を取られることは決してない。上にあるものを求めるために、崩壊しかかっている地上の有様からは目を離すのである。

今日、私たちがこの身に負っている「イエスの死」は、現実の死ではなく、十字架における霊的死である。私たちは絶えず自分の心に問われている、あなたは何を第一として生きるのかと。この地上における栄誉、人からの賞賛や理解、高い地位などと言ったものを求め、それを第一として生きるのか、それとも、見えない神からの賞賛や評価だけを求めて生きるのか。神を愛し、神に従って生きることと、地上での栄誉を求めることは決して両立しない。

筆者は何も持たずにこの地へやって来たときと同じように、手ぶらかつ気楽に、しかし心から、神に向かって祈る、主イエスよ、私はあなたに従います。何があろうとも、私はあなたに従います。私は、キリストがそうであったように、完全な人となり、あなたに従いたいと心から願っている僕の一人です。私の行くべき道を教えて下さい。私を教え、導いて下さい。私の人生は、あなたの御手の中にあり、私は人生最後の瞬間まで、あなたの僕です。

私たち自身の努力や決意は不完全であっても、神は私たちの信仰に必ず応えて下さる。何しろ、私たちが神を選んだのではなく、主が私たちを選んで下さったのであり、それは私たちが出て行って、実を結び、その実が永遠に残るためなのである。

そこで、地上の有様がますます悲惨に、混乱に満ちて行ったとしても、私たちの心の中には、常に新しい尽きない感謝の歌がある。それは、私たちの永遠になくなることのない希望である、まことの神への尽きない賛美と感謝の歌である。

だから、私たちは確信を持って大胆にこう言う、「主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなし得よう」と。イエスはすでに十字架で私たちのために勝利を取られたのであり、生涯の終わりまで、完全に私たちの味方でいて下さるのである。

「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。
 イスラエルは言え。  慈しみはとこしえに。
 アロンの家は言え。  慈しみはとこしえに。
 主を畏れる人は言え。 慈しみはとこしえに。

 苦難のはざまから主を呼び求めると

 主は答えてわたしを解き放たれた。
 主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。
 人間がわたしに何をなしえよう。
 
 主はわたしの味方、助けとなって
 わたしを憎む者らを支配させてくださる。
 人間に頼らず、主を避けどころとしよう。
 君侯に頼らず、主を避けどころとしよう。
 
 国々はこぞってわたしを包囲するが
 主の御名によってわたしは必ず彼らを滅ぼす。
 蜂のようにわたしを包囲するが
 茨が燃えるように彼らは燃え尽きる。
 主の御名によってわたしは必ず彼らを滅ぼす。

 激しく攻められて倒れそうになったわたしを
 主は助けてくださった。
 主はわたしの砦、わたしの歌。
 主はわたしの救いとなってくださった。

 御救いを喜び謳う声が主に従う人の天幕に響く。
 主の右の手は御力を示す。
 主の右の手は高く上がり
 主の道の手は御力を示す。

 死ぬことなく、生き長らえて
 主の御業を語り伝えよう。
 主はわたしを厳しく懲らしめられたが
 死に渡すことはなさらなかった。

 正義の城門を開け
 わたしは入って主に感謝しよう。
 これは主の城門
 主に従う人はここを入る。
 わたしはあなたに感謝をささげる
 あなたは、答え、救いを与えてくださった。

 家を建てる者の退けた石が
 隅の親石となった。
 これは主の御業
 わたしたちの目には驚くべきこと。
 
 今日こそ主の御業の日。
 今日を喜び祝い、喜び踊ろう。

 どうか主よ、わたしたちに救いを。
 どうか主よ、わたしたちに栄えを。
 
 祝福あれ、主の御名によって来る人に。
 わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。
 主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。
 祭壇の角のところこまで
 祭りのいけにえを綱でひいて行け。
 あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。
 わたしの神よ、あなたをあがめる。

 恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。」(詩編118:5-29) 

2018年1月29日 (月)

天に備えられた故郷を熱望しつつ、上にあるものを求める

全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」(マルコ16:15-16)

わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。

人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証をすることになる。

引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。

兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。」(マタイ10:16-23)

* * *
以上の御言葉が、以前よりもはっきり、切実なものとして筆者に迫って来る。
これらのことは、考えてみると、すべて筆者の身の上に成就して来たことばかりである。

「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」
これも全くその通りである。

筆者が住んでいる街は、やって来た時には、大きな喜びがあったが、今やソドムとゴモラに近い場所になって来ていると感じる。その理由は前の記事に書いた。暮らしが快適でなくなったという意味ではない。霊的に衰退・退廃してしまったのだ。

筆者は、首都圏全体が、これから大きな苦難に見舞われようとしていることを感じている。

もっとも、このようなことを書いたからと言って、いたずらに人々を脅かしているとは思わないでもらいたい。新聞雑誌で報道されている通り、この先、30年間のうちに首都圏に関東大震災に匹敵する災害が起きる確率は70%以上である。中でも、横浜はとりわけ大きな被害に見舞われると予測されている。

その危険だけを取っても、こうした中で、あえて首都圏にとどまるかどうかは、重い決断である。筆者は阪神大震災、東日本大震災を経験した。幸いなことに、どちらの場合も、筆者自身も、周りにいた関係者も、それほど大きな被害を受けなかったが、次に来るであろう震災については、今までと同じように考えるわけにいかないのだ。

さらに、震災だけではない。戦争の危険が迫っている。このことについてはまた別の機会に書きたい。

だが、筆者は今回、震災や戦争を恐れて逃げ出そうとしているのではない。そのような噂を聞いても慌てるなと聖書に書いてある通りである。

むしろ、筆者は神ご自身から、ここを出るべきだという教訓を与えられたと感じている。
そして、その確信は、筆者が新しい快適な住居に来てからわずか数ヶ月でやって来た。

それはまだ筆者がお気に入りの家具を色々取り揃えている最中のことであった。筆者は信仰告白のブログを更新することよりも、カーテンのサイズをはかり、お気に入りの布を選び、照明器具を物色することに熱心であった。

それから、ピアノを猛特訓していた。ラフマニノフの美しいプレリュードの数々に取り組み、ピアノ・コンチェルトを弾いた。ヴァイオリンに熱中し、セザール・フランクのソナタをそれなりに弾けるようになって来た。実は、以前に記事でも書いた通り、このフランクのソナタが、この地と筆者との最初の挨拶の曲であり、また、別れの曲になってしまったのだが…。

こうして、ようやく落ち着いて楽器が弾けるようになり、気に入った家具を自分の好みに合わせて用意し、大好きな動物たちとゆっくり暮らせると思った矢先、

「あなたが熱中している生活は、私の心にかなうものではありません。」

と、神から示されたのだ。

いや、神からだけでなく、悪魔の側からさえ、皮肉な質問が向けられた、「ヴィオロンさん、あなたはいつからそんな風に、どこにでもいるただの普通の人になったんですか。いまだにこんなところでぐずぐずしてるんですか。まさか本気でここに定住する気じゃないでしょうね。」(そのメッセージはこの世の人々のごく些細な言葉を通してやって来た。)

筆者ははっとした。だが、そのような発想は、筆者の考えを超えていたので、筆者はなかなかその結論を受け入れられず、神と争っていたと言っても良い。

「主よ、私がこれまでどんな生活を送って来たか、あなたはご存じではありませんか。今まで一度だって、私は自分の生活に落ち着いて目を向けられたことはありませんでした。私は今まで照明器具のことでこんなに悩んだことはありません。この自由が悪だというのでしょうか。」

「あなたはどうしてしまったんですか。今あなたが物色している照明器具などよりも、はるかにまさったものを、私がいくらでもあなたのために天から用意できるということを、あなたは忘れてしまったんですか。あなたのための宝は、すべて私が天に備えていることをもう忘れたんですか。あなたは地上のものにばかり気を取られ、天の宝に対する憧れをもう持っていないのですか。あなたが今、夢中になって握りしめている地上のすべてのものが、本当に神の国のために本質的に重要だとあなたは思っているのですか。」

「でも、これはあなたが恵みによって私に与えて下さったものではありませんか…」

「いいですか、たとえ与えられた時には恵みであったとしても、あなたがそれを握りしめるなら、たちまちそれは腐敗します。あなたがもしもこの先も、今と同じように、この世の事柄に没頭し続けるなら、あなたは地の塩ではなくなるため、私はあなたを捨てざるを得ません。私は私への信仰によって成ったもの以外の生活を守ったり、保障することはできません。」

「待って下さい、主よ、それでは困ります。そんなことになるくらいなら、私は何もかも捨てます。あなたがすべてを剥ぎ取られる時、それがどういう形になるのか、私はこれまでの人生で痛いほど知っています。剥ぎ取られるよりも前に、私は喜んですべてを捨てます。何も握りしめたりしません。」

もちろん、このような対話が実際にあったわけではない。これは筆者の霊的な気づきの要約でしかない。ただ筆者は、やっと快適な生活が送れて、自分の趣味に没頭できると喜んでいた矢先、自分が心を砕いている生活が、神にとっては全く本質的に重要でなく、神が願っておられるものは、もっとはるかに高いところにあることを痛烈に思い知らされたのだ。

その時、筆者は考えた。平穏な生活の何と危険なことであろう。快適な住居で神を忘れるよりは、狭い不便な住居の中にいても、ただまっすぐに神を見上げていた方がはるかにましであると。

それ以来、筆者は自分の目を楽しませてくれたすべてのものを、パウロが言ったように、損と思い、厭うようになった。家具を物色することに時間を費やすのをやめたのはもちろんである。これは決して生活に必要なものまで放棄することを決めたという意味ではない。そのようなものに熱心に心を砕くのをやめたということである。

いつもそうなのだが、筆者は牧歌的な性格なのか、あまりにも楽観的に過ぎるのか、ちょっとした生活の平穏が与えられると、すぐに戦いをやめてしまう。これは人間の生まれつきの傾向であろう、ちょっとでも平和がやって来ると、自分の周りで起きているあまりにも激しい霊的な戦いから目を背け、神の権益を忘れ、自分自身の平和に安住しようとしてしまう。

筆者の心には、これまで「普通の人として穏やかに暮らしたい」という願望が根強く残っていた。できるなら、もう二度とあのような苦しく激しい戦いを戦うことなく、このまま立ち上がらず、穏やかに座ったまま暮らしたいという願いがこみあげて来る。

筆者は神に問う、「主よ、今、少しだけ、このまま立ち止まらせて下さいませんか。楽器を弾きたいんです。他にも色々と考えていることがあるんです。これまで私に一般人としての普通の暮らしという贅沢が、いつ与えられたことがあったでしょうか」と。

しかし、神は、それではだめなのだ、と言われる。楽器を弾くことが罪なのではない。ただ、神の御心にかなう生活は、決して「一般人としての普通の暮らし」などではないのだ。神は、神の御思いは人間の思いよりも高く、神のスタンダードは人間のスタンダードをはるかに上回り、神の考えは、筆者の考えよりもはるかに大きく、広い、と言われる。

筆者が価値だと思っているものよりも、はるかに大きな価値を、神は筆者のために用意しておられ、 「口を大きく開けよ、私がそれを満たそう」と言われるのだ。

なのに、筆者があまりにも小さくしか口を開けず、あまりにも少しの宝で有頂天になってしまうため、せっかく用意された天の宝が届かないのである。

要するに、神は、いつでも常に筆者の狭い考えを打ち壊される。筆者がどんなに最善を願っているつもりであっても、まだそれでは低い、と神は言われるのである。

それを示される度に、筆者は、神の恵みと憐れみの深さに、瞠目せざるを得なくなる。そして、やはり、神は神なのであり、人間に過ぎない筆者のちっぽけな思惑になど、とらわれる方ではないと、改めて畏れを覚えるのである。

気をつけておかねばならない。人生に次々と苦難が襲いかかって来るような時には、放っておいても、誰しも必死に神に助けを求めるであろう。油断がならないのは、平和な時である。

神のために召し出された者が、この世の人々と全く同じような生き方を目指していたのでは、塩気を失った塩として捨てられるだけである。

「人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証をすることになる。」

さて、以上の御言葉も、全くその通りであることを筆者は知った。筆者はこの地にやって来た時、キリスト者の交わりを求めてやって来たが、当時、筆者が「兄弟姉妹」だと考えていた人々は、ことごとくクリスチャンらしさを失って行った。というより、手ひどい裏切りや中傷といった争いも起きたのだ。

にも関わらず、筆者はごくわずかな心あるキリスト者との交わりを続けていた。だが、ついに筆者が交わっていた心あるキリスト者の夫婦が地上を去ったというニュースをその親族から聞いた。見渡せば、この地にはもはや筆者が兄弟姉妹の交わりを求めてやって来た頃の痕跡は何も残っていなかった。

筆者が交わりを望んで来たクリスチャンらの堕落については、もはや述べる言葉がない。この世の人々がこの世の事柄に没入し、神に敵対して歩んでいるのであれば、まだ分かるが、かつて筆者が兄弟姉妹であると考えていた人々の実に多くが、ロトの日のように、娶り、嫁ぎ、食べ、飲み、売り、買い、この世のことに邁進しながら、本当に地に安住してしまうか、あるいは、イエスを売り渡したユダのように、兄弟を売って恥じないまでになってしまった。

また、首都圏はあまりにも不法と搾取に満ちており、腐敗して未来のない不毛の土地になりつつあるように感じられる。筆者はこれまで、地上の裁判などには一切関わることなく生きていきたいと願っていたが、それでも、この悪しき世の中で、暗闇の勢力からの激しい挑戦を受けて、やむなく一人で裁判官らの前に立ったことが数度ある。四人の弁護士に、筆者一人で対峙し、勝利をおさめたこともある。

筆者はこれを手柄や自慢話として書いているのではない。誰しも戦いなど望まないからだ。こうした争いは純粋にこの世の事柄であったが、長い間、いかなる争い事も、決してこの世の法廷に持ち出したくないと考えていた筆者も、それを機に立ち上がることを迫られた。最近では、正しい主張ならば、公然と人前で主張せねばならない事柄も多くあるのだということが分かった。

クリスチャンがこの世の裁判を通して、王や総督の前に引き出され、この世の人々に対して神を証することがある、という聖書の御言葉の正しさを知ったのである。そして、公然と主張すべき事柄を主張すれば、必ず、神が味方して正義を実現して下さると分かったのである。

そのようにして、物事にはきちんと決着をつけておくべき時がある。そのことが、もっと前に分かっていたなら、筆者は色々なことを曖昧なままにしておかず、公然と立ち向かって、早くに終止符を打てたはずのことが数多くある。そのことが今は分かる。だが、何事にも生きている限り、遅すぎることはないだろう。

さて、こうした戦いの過程で、筆者が学んだ何より重要な教訓は、どのような戦いの最中にある時にも、決して弁護人をつけず、神ご自身だけを弁護者として、全ての圧迫に自分で立ち向かって勝利をおさめる秘訣であった。

これまでどんな紛争が起きても、筆者は一切、弁護人をつけなかった。すべての主張をこのブログに記しているのと同じように、自分自身の言葉で書き記し、誰の力をも一切借りることなく、自分自身で不当な主張に立ち向かい、勝利して来たのである。

こうして、神と共に一人ですべてに立ち向かうことこそ、この地に来てから筆者が最も学ばねばならなかった教訓である。それを学ぶのにどれほどの時間を要したであろうか。筆者の戦いたくないという牧歌的で楽観的な考えや、常に誰か有力な人間を頼ろうとする少女的な考えの甘さは、その戦いの過程で相当に削ぎ落とされて行ったと言える。

どんなことが起きても、神と筆者の二人三脚で切り抜けることが可能だと、自信がついたのである。

戦いは難しければ難しいほど面白い。

これは好奇心で言うのではない。神の栄光が現れるためには、人間の力は強くなくて良いのだ。

預言者エリヤは450人のバアルの預言者に、たった一人で立ち向かった。それに比べれば、筆者の通過して来た出来事など、ほんの序の口だと言える。

我々には、最強の弁護者である神ご自身がついておられる。聖霊が我々と共にいて弁護して下さる。だから、我々は神以外のどんな存在にもより頼む必要はない。それなのに、心の弱さに負けて、肉なる腕に頼ろうとすれば、無用な苦しみが待っているだけである。

話が脱線するようだが、弁護士という職業は、自分の経済的利益のために、他人の争いを利用して成り立っている。弁護士は、依頼人が裁判に勝っても負けても、どちらの場合でも、自分には食いはぐれがないよう契約しているので、結果はどちらでも構わないのだ。できれば勝ちたいとは願うであろうが、紛争当事者のように、命がけで法廷に立つことは、弁護士には決してないのだ。

さらに、弁護士は時間に応じて報酬を受け取っているので、依頼人の争いがすぐに決着してしまうと損になる。従って、弁護士が、紛争の早期解決に努めることはまずなく、むしろ、紛争がもつれにもつれ、長引いた方が、彼らにとって得なのである。そんな職業である弁護士が、本気になって紛争当事者を助けてくれる理由がどこにあるだろう。
 
普通の人々は、弁護士を大勢つければ、勝算の見込みが上がると考えるのかも知れない。だが、筆者の目から見れば、事実はまるで逆である。

弁護士を大勢つけて戦いに臨むと、「船頭多くして船山に登る」式に、自分の主張に整合性が取れなくなって、勝ち目が薄くなって行くだけである。実際に、何人もの弁護士の書いた答弁書を読めば、まるでつぎだらけの布のように、主張内容に辻褄が合わない場所が多くあり、よく読めば、どの段落から新しい弁護士が担当したのかさえ、明らかになってしまうような有様である。

そこで、このように無責任かつ当事者意識の薄い人々にわざわざ法外に高い謝礼を払ってまでアドバイスを求めることは、賢明とは言えない。さらに、キリスト者がそのようなことをすれば、弁護士の一言一言が足手まといとなり、成るものも成らなくなるだけであろうと思う。

極めつけの問題は、弁護士自身が法を守らない、というお決まりの逸脱にある。弁護士の目的は、他人に法を守らせることであっても、自分自身が法を守り、法に従うことにはない。むしろ、数多くの弁護士が最も得意としているのは、「ああ言えばこう言う」式に、法をどれほど上手にかいくぐり、自分サイドに都合よく解釈して、自分たちだけが自由の幅を広げるかであり、そのような意識が高じると、ついに自分自身が法の上に立って、法を曲げ、支配するというところまで行ってしまう。

その究極の形が、改憲である。

世間は安倍首相の戦前回帰の思想やそれに基づく改憲の野望のことは批判するが、筆者が見たところでは、日本の政治家のほとんどは、与野党を問わず、改憲派である。

たとえば、立憲民主党の枝野代表もまた弁護士出身であり、同氏はかつて憲法9条に関する私的改憲案を自らの論文として出していたことで知られる(現在はその案を放棄しているそうだが)。

このように、立憲民主党の代表がかつて自ら9条の私的改憲案を出していたことは、大きな自己矛盾であり、皮肉であるとさえ言えるかも知れない。日本という国が、成立してこの方、一度も憲法をきちんと守ったことがないのに、すでに現状を優先して憲法を変えるべきだと、政治家は言うのである。

野党の代表でさえ、この始末であるから、一体、誰に期待できるのであろうか。このことは、立憲民主党が護憲政党では全くないことをよく表している。

こうしたことから容易に推し量れるのは、弁護士という職業が、紛争に巻き込まれた人々の弱さや苦しみに寄り添うように見せかけながらも、他者の争いを糧に生きる職業であるのと同様に、与野党の攻防などは、しょせん、国民の弱さや苦しみを糧にして生きる「政治家」という中間搾取層の隠れ蓑でしかなく、AチームBチームの戦いに過ぎないということだ。

話を戻せば、こうして、改憲案の内容には違いがあれど、結局、改憲それ自体は、ほとんどの政治家が目指している共通のゴールであるだけでなく、弁護士にとっても、何かしら最終目的のように見えているのではないかと思われてならない。
 
弁護士でさえ、法を守ろうとは考えておらず、憲法を現状に照らし合わせてズレのあるもの、時代遅れなものとみなし、現状に合わせて法の文言を買えるべきと考えている。彼らは、法よりも(彼らの目から見た)リアリティを優先する人々なのである。

あるいは、もっと言い換えれば、「自ら最高法規である憲法に手をつける」ことが、この国では、政治家だけでなく、多くの弁護士にとっても、悲願なのかも知れない。

もっとも、弁護士のすべてがそういう思いを持っていると言うつもりはない。だが、今、多くの人々の目には、憲法は、そのようにしか映っておらず、野党でさえ、来るべき改憲の日の準備のために、もっと憲法について国民の間で活発な議論がなされるべきだと考え、特に若者の意見を聞くことが必要だ、などと述べたり、誰でももっと気軽に改憲論議に参加できるようにすべきであって、憲法カフェのようなものを作ったらどうだろうか…、などと提案し、お手軽な憲法改正の地ならしをしているのだ。

彼らは筆者のように現状を法に合わせて修正すべきだとは考えていない。従って、彼らにとっては、(目に見える)現実の支配が法の支配よりも上位にあるのだ。これではどうやって法の精神を現実に適用することができようか。

従って、こうした事実から見えて来るのは、弁護士という職業は、概して、表向きに多くの人たちがそうに違いないと考えているように、法を敬い、法を遵守することを目的に生きている人々ではない、ということだ。極端な言い方をすれば、法に寄生することで、いかに法から自分の旨味を引き出し、首尾よく中間搾取を成し遂げるかが、弁護士という職業の醍醐味であるのだとも言える。

従って、こうした人々には、自らこそが、法の守り手であり、庶民に比べて、自分たちは法の精神に精通しているという誇りやプライドはあるかも知れないが、そのような自負が強ければ強いほど、かえって彼らは、自ら法に手を付けることも辞さない(自分自身を法の上位に置く)ほどの不遜さを同時に持ち合わせているのである。

厳しい表現を使えば、このような弁護士の不遜さは、パリサイ人や律法学者たちの不遜さに通じるものがあるのではないか、と筆者は思う。主イエスが地上におられた頃の律法学者やパリサイ人たちは、律法のことなら何でも自分たちにおまかせあれと言えるほどに勉強熱心であり、それゆえ、当時の庶民からは、立派な教師のごとく尊敬されていた。だが、主イエスが糾弾された通り、彼らは律法の教師を自認しながら、自分自身は律法を守っていなかったのである。

今日の牧師やいわゆる「御言葉の教師たち」もそれと同じである。講壇から信徒の上に立って、自分はあたかもすべての物事を理解したかのような調子で信徒に説教するが、人を教えながら自分自身を教えず、自分は聖書の御言葉に従って生きていないのである。

筆者はこれまで、牧師や「御言葉の教師」を名乗る人たちは、弁護士と同じように、信者の心の弱さに寄生して生きる霊的中間搾取階級である、と述べて来た。彼らは、自分一人では立てず、霊的な戦いを一人では戦い抜けないと考える心弱い信者を呼び寄せて、彼らの弱さや自信のなさにつけこんで、それを自己の利益や金もうけの手段に変えているのである。

だから、教会のカルト化など憂う前に、クリスチャンは、あちらの先生、こちらの先生へと浮草のように頼るべき存在を求めて放浪することをまずやめ、そもそも牧師という職業が万民祭司の時代には不要であることをきちんと認め、主イエスが教えられた通り、キリスト以外の誰をも教師とせず、ただ神だけを頼りとして一人で立つという気概とプライドがどうしても必要なのである。

弁護士からアドバイスを受ければ、足手まといになるが、「御言葉の教師」を自負する牧師や教師たちのアドバイスは、それよりももっとはるかに有害である。

「<…>いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。」(Ⅰヨハネ2:27)

聖書の御言葉がこのように命じているのだから、人間に過ぎない者に頼り、人間に栄光を帰そうとすれば、どのような悲惨な結果が待ち受けているかは明白である。

筆者はこの地へ来てから、「兄弟姉妹の交わり」と称する目に見える人間関係に、再三、欺かれて来た。そのことは、「兄弟姉妹の交わり」と呼ばれているものでさえ、目に見えるもの、地上的な、堕落した人間関係になりうることをよく示している。

勇者サムソンは、異教徒の娘デリラの誘惑に負けなければ、神から来る力を失うことはなかった。今日、デリラとは、弁護士や、教師や、牧師など、人の弱さを利用して、優しさや、思いやりや、助言を装って親切そうに近づいて来る、すべての霊的中間搾取者を指すと言っても差し支えないと筆者は考えている。

デリラと心の鎖でつながれたことによって、サムソンの力は絶たれた。自分一人ならば、どんな強力な鎖でも、彼は瞬時に断ち切ることができたのに、デリラという存在を受け入れてしまった瞬間に、完全に身動き取れず、がんじがらめになって鎖につながれ、自由を失い、さらに霊的視力を失って、両眼をえぐり出されて盲目にされ、奴隷にまで転落してしまったのである。

この警告を、我々は慎重に受け止める必要があるものと思う。デリラとは特に魅惑的な一部の若い女性のことだけを指すなどと矮小化してとらえるべきではない。デリラとは、この地のもの、滅びゆくもの、堕落した被造物全体を象徴していると言ってよく、そこには当然ながら、人間全般も含まれているのである。

我々が警戒しなければならないことは、兄弟姉妹の交わりを求めると言いながら、目に見える人間関係にしがみつき、束縛され、その結果として、見栄や競争意識や義理人情や欲望の渦巻く人間のしがらみの中に、がんじがらめにされて行き、御霊の自由を失うことである。

地上の宗教組織としての教会がそういう場所になってしまっていることについては幾度も論じて来たので、ここでは再び言及しない。今、筆者が述べたいのは、地上の教会組織に幻滅したと言いながらも、依然として、教会をキリストよりも上位に置こうとする誘惑がクリスチャンに強く働いていることである。

以前に、筆者は「エクレシア崇拝」に陥る危険性について警告したことがあった。キリストだけを純粋に慕い求めるエクレシア(教会)を探求するというのは、なるほど大変、美しい表現である。かつて筆者も、きっとどこかに初代教会のように純粋な兄弟姉妹の交わりがあるに違いなく、また、そうしたものを自分たちの交わりを通して実現したいと考えていたこともあった。

地上の宗教団体として堕落してしまった教会への幻滅がひどければひどいほど、初代教会のような交わりを求める気持ちは信者の心に強く働くだろう。

だが、実際には、初代教会が我々の追い求めるべき目標ではないし、理想的な兄弟姉妹の交わりを追い求めることが、クリスチャンの生きる目的でもない。そもそも我々が追い求めるべき対象は、エクレシアではなく、キリストなのである。にも関わらず、エクレシア(教会)に力点を置き、人間の作り出す甘美な交わりのうちに理想を模索したり、あるいは、自分たちの交わりを理想であるかのように賛美することは、結局、キリストを退けて、自己を見つめ、自己(人間)を栄光化することへつながって行く。

特に、自分たちの交わりことそ、まことの教会だと自負している人々や、「家々の教会」を主張している人たちに、この警告は有効であろう。筆者は、長い間、家庭集会などとは無縁の環境に生きていたので、さほど危険を感じなかったが、地上の家や、自分の家で行われる集会をそのまま教会と同一視することは、限りなく危険である。

確かに、主の御名によって、二、三人が集まるところに、主も共におられ、主は兄弟姉妹を通して大いに働いて下さることがある。だが、そういうことが一度や二度あったからと言って、その目に見える交わり、目に見える集会がただちに教会というわけでは決してないのだ。

エクレシアとは決して我々が地上に固定化することができず、これだという形式を探し出して、それにあてはめて定義できるものでもない。それは束の間、地上に現れたように見えるかも知れないが、決して地上的な要素に限定されたり、とらわれることのない、変幻自在で、永遠性を持つものなのである。エクレシアを支配しているのはキリストだけであって、神ご自身以外の者には、決してそれを掴み、私物化したり、エクレシアによって栄光を受けることはできないのである。

もしも誰かがエクレシアをこの手で掴もうとし、コントロールしようとし始めれば、たちまちそれは腐敗し、崩壊して行く。

この記事の冒頭で、筆者が最後にこの地で交わっていた善良なクリスチャン夫婦が亡くなった、ということを書いた。夫人が先に亡くなり、続いて夫が亡くなったが、彼らが祈りによって与えられたという美しい家に、筆者は夫人が亡くなる数か月前にお邪魔したことがある。そのことも記事でも触れた。

ノアの箱舟と同じ寸法だというその家には、夫人が選び抜いて設置したセンスの良い家具に囲まれた、清潔で美しい居間があり、そこには、白いアップライト・ピアノが置いてあった。そこで、筆者がピアノを弾き、夫人が讃美歌を歌った。夫人は、本当に筆者を愛してくれたので、涙を流して喜んでくれたほどである。壁には伝道の書の聖句を記した額縁がかけられ、屋上には、静かな森を見下ろしながら、誰にも遠慮することなく長時間祈れるルーフバルコニーがあった。

今でもよく覚えているが、その夫人はどれほど心を尽くして筆者をもてなしてくれただろうか。共に祈り、語らったひと時はどんなに美しい思い出になっているだろうか。

「ヴィオロンさん、私があなたをここへお招きしたのは、祈れば誰でもこれは(こういう家が)手に入ることをあなたに知らせたかったからなのよ」と、夫人は言った。

当時、家庭集会などとは無縁の、暮らすだけがやっとの家に住んでいた筆者は、夫人の言葉に、皮肉気に肩をすくめて笑った。そんな忠告、私にはまだ早いですよ、と思ったのだ。彼女に家の自慢をされたとは思わないが、筆者が家のことについて考えるのは、まだまだ先のことなので、忠告はただ心に留めて置く、と心の中で思った。

当時、筆者の目には、その夫人の家の素晴らしさよりも、誰にも知られず、そこで開かれる二、三人の交わりの方がはるかに素晴らしく映った。その美しい交わりの思い出は、まるで奇跡のように筆者の脳裏に刻まれた。

だが、そのようにしてキリスト者らが交わった家も、その夫婦の死後、すっかりがらんどうにされ、売却される予定だと知らされた。夫婦の親族さえも日本にはいなくなり、もはやその夫婦がこの地上に暮らしていたことを思い出す人々も、筆者の周りにはいなくなった。むろん、夫人が筆者のために何度も横浜にやって来ては、横浜駅の混雑の中で待っていてくれたことなど、誰も覚えてはいない。

その夫婦が亡くなったという知らせもショックであったが、あれほど豊かな交わりのひと時が持たれた美しい家、筆者の目には、神聖な場所も同然に見えていたその家が、すでに当時の面影をとどめておらず、家具もすべて運び出され、空っぽになり、ついには信仰とは一切無縁のこの世の人の手に渡るであろうというニュースは、もっと衝撃的であった。

まるで神聖な思い出が、踏みにじられ、無残に破壊されて行くような寂しさを心に覚えた。

だが、このニュースを、筆者はとても教訓的なものとして心に留めた。筆者はおそらくかなり鋭い感受性を持ち、すべての出来事を豊かな感性で受け止め、鮮明に心に記憶する。そうして記憶した事柄を、何度も思い返しては、分析を加え、書き記す。思い出はどのようなものであれ――良いものであれ、悪いものであれ――筆者の中で生きた記憶であり、まるで筆者自身の一部のようで、その記憶こそが、筆者という人間を形成しているように思われることがある。

さらに、キリスト者の交わりは、ただの思い出ではない。あの時、この場所で、あの兄弟姉妹たちとの交わりの中で、神が力強く働いて下さった、とか、神が私たちの存在を覚え、心に留めて下さった、という記憶は、どれほど人にとって光栄なものであろうか。

ところが、どんなに美しく大切な思い出であっても、主は、「それを手放しなさい、そこに真実があるわけではないのだから」と筆者に言われているように思うのだ。

クリスチャンの道のりは、見知った過去にあるのではなく、常にまだ見ぬ地へと、未来へ向かって行く。だから、主は警告されるのだ、「あなたの目を過去から離しなさい。悪い思い出だけを忘れるべきなのではありません。美しく良い思い出も同様なのです。どんなにそれが美しく心を誘う良き思い出であっても、どんなにそれが美しい交わりの記憶であっても、決してそれを理想化してはなりません。あなたの目標はいつでも、常にまだ見ぬ未来に、これから起きることの中にあるのです。あなたの心は、いつもこの先、私があなたのために天に用意している宝にこそ、向かっていなければならないことを心に留めなさい…。」

仮に過去にどんなに優れた、完全に近い兄弟姉妹の交わりがあったとしても、それは、筆者がこの手で掴もうとした瞬間に、幻のように消えて行く。主ご自身が、それが偶像となって筆者の心を支配する前に、これを地上から取り去られ、壊されるのだ。

思い出の場所が壊されて行き、痕跡をとどめなくなることは筆者にはつらい。だが、それでも、信仰の先人たちは、はるかにまさった都を目指して、常にまだ見ぬ地へと出て行ったのである、行き先を知らずに――。

だから、この先、地上でどんなに良い交わりを得たとしても、筆者は二度とそれに拘泥することはないだろうと思う。過去にあったのと同じものを再現しようと考えたり、過去にあった交わりを神聖なものであるかのように惜しんだりもしない。

地上に現れるものはすべて不完全であって、幻影のようなものである。神のエクレシアは決して地上に現れた諸現象によって定義できないし、とらえることもできない。

そのようなわけで、未来に何が待ち受けているのかなど、想像もつかず、知らない土地へ行くとなれば、想像の目安となるものさえもない。だが、それでも、どこへ向かうのか、行き先を知らないまま、出て行くのがキリスト者の役目なのだ。

キリスト者は、こうして、最初は弱くとも、次第に、一切の地上的なものを頼りとせず、どんな困難の最中でも、神と自分だけですべてを切り抜ける秘訣を必ず習得することになる。それができないと、前に進んでいくことはできない。

地上のものに頼らないとは、兄弟姉妹の存在にも一切頼らないということである。

だが、多くの信者は、この学課に耐えられないことだろうと筆者は思う。彼らにはほんのわずかな瞬間でさえ、自分一人だけで神と共に取り残されることが、耐えがたい孤独のように映るのだ。だから、人間の温もりから切り離されるくらいならば、いっそ信仰の前進をあきらめて、途中でリタイアしてしまう。

だが、筆者は横浜へやって来た当初の目的を決して忘れてはいない。それは、牧師や教師といった霊的中間搾取階級の存在しない、キリスト者の対等な交わりを得るためであった。

万民祭司の時代にふさわしく、信者一人一人がキリストから直接教えを受け、聖書から直接学び、御言葉の教師を自称しているだけの人間に過ぎない者たちに、二度と栄光を掠め取られたり、搾取されたり、支配されることのない、霊的中間搾取者のいない、対等なキリスト者の交わりに連なるべく、筆者はすべての組織及び牧師たちを離れて、この地にやって来たのである。

たとえ、筆者の周りのクリスチャンたちが、口ではキリストだけに頼ると言いながら、結局は、自分たちの好みのリーダーをてんでんばらばらに担ぎ上げ、あるいは、自分自身がリーダーとなって他の信者に君臨し、そうした地上的な人間関係のしがらみを少しも手放すつもりもなく、自らそこに束縛され、地上的な組織を作り上げてはそれをエクレシアと呼び、そこに安住することを考えていたとしても、筆者はそこを出て行かなければならないのである。

むしろ、筆者がそのような人々の中途半端さを疑問に思いながらも、これを退けることもせず、長年、彼らを信仰の敵と考えることもなく、同じ場所に佇んでいたことこそ、大きな停滞の原因であった。

筆者は、当初、キリスト者の自由な交わりを求めて来たはずなのに、自由のない交わりしか目にすることができず、かなり長い間、訳が分からず当惑していた。中途半端にも関わらず、その人間関係をきっぱりと断ち切る決断がつかなかったことが、大きな災いの源だったのである。

キリスト者の歩みは、戦って前進するか、それとも後退するか、そのどちらかしかない。もしキリスト者が勇敢に前進せずに、同じ地点に佇んで足踏みしていたなら、早速、紅海で溺れ死んだはずのエジプト軍が、ゾンビのように背後から襲いかかり、たちまちキリスト者をとうに後にして来たはずのエジプトへ、奴隷として引き戻そうとするであろう。

世の惑わしは、人間関係を通じて最も強力に働く。その中には、当然、クリスチャンを名乗る人々とのしがらみも含まれている。暗闇の勢力は、デリラの誘惑も同然の、「人間関係のしがらみ」を通じて、筆者に対して最も強力に働きかけたのである。

一見、聖なるものを装った、地上的な人間関係のしがらみが、決定的な瞬間に、クリスチャンを身動き取れなくさせる「デリラの罠」として機能するのである。筆者が立ち向かうべきものに毅然と立ち向かわねばならない瞬間に、気づくと、たくさんのデリラたちが、がっちりと筆者を両脇から取り押さえ、抵抗できなくさせてしまうだけでなく、やって来るエジプト軍に喜んで筆者を差し出し、彼らに捕虜として連行させてしまうのである。

だから、筆者の霊的な戦いは、まずは裏切り者のデリラたちにつけいる隙を与えない、ということから始まった。牧師、教師、弁護人、助言者、親切な助力者を装ってやって来る、すべての肉なる腕を排除するところから、戦いは始まった。クリスチャンについても同じである。

ああ、この人々はバビロンの手先でしかなかったのだと、筆者が心から気づいたのは、彼らと知り合って、もう何年も経ってからのことだった。しかも、そうなるまで、一体、何度、筆者はこの人々に裏切られては売り渡されたか、その回数ははかり知れない。

こうした学習を積まなければ、神に対する貞潔さを守り抜くために何が必要か、人間に対する未練が、神に従う上でどんなに重大な障害物となるか、分からなかったのである。

それに気づくためには、手痛い経験が幾度も必要であった。

キリスト者の歩みは、神の目にどう映るかよりも、人の目にどう映るのかを気にし始めた瞬間に、天から地上に転落する。だが、この移行(天から地への移行・転落)は、本人がほとんど気づかないほど些細な逸脱から始まるのだ。

さて、もう一度、話を戻すと、「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり…」
これもまた然りである。

これはクリスチャンの兄弟姉妹だけでなく、筆者の親族についても、ことごとく当てはまる。そのことを筆者は予感するがゆえに、二度と地上の故郷を振り返らないと決意しつつ、地上の故郷を出て来たのである。

だが、筆者にも地上の人間としての記憶があるため、懐かしい記憶から、あるいは人間的な感情から、ふと彼らを振り返ろうとすることが度々あった。だが、その度に、ロトの妻に降りかかったような厄災が、猛烈に降りかかって来るのである。

かなり長い間、筆者はその厄災が何のせいで起きているのか分からず、信仰生活を送りながらも、地上の人間的な絆を維持することができると考えていた。ところが、それも誤りであった。

主イエスのために、父、母、娘、息子、家、田畑、仕事、およそ地上の人間のすべての絆を捨てねばならないというのは、本当のことだ。もちろん、地上的な名誉や地位もそこには含まれている。

もっと言えば、被造物全般への愛着を心の中からかなぐり捨てて、地上の一切の人間や事物への未練を断ち切り、ついには自分自身が地上の人間であることさえ否定して、キリストによって、上から生まれた人間として、完全に異なるアイデンティティを持たねばならないのだ。

「誰でもキリストにあるなら、その人は、新しく造られた者…」

実は、筆者の研究テーマは、この「新しい人間」にこそある。神と出会うまで、筆者はその当時、自分がどこへ導かれているのか、何を目指しているのか、自分で知らなかったが、筆者が最初に研究発表を行った時に語ったのが、この「新しい人間」というテーマについてであった。

つまり、筆者の生涯の研究テーマは、新創造なのである。新創造とは、すなわち、キリストである。

私たちはエクレシアを目指しているのではなく、キリストを目指している。そして、「もはや私が生きているのではない」という境地――、キリストが私を通して生きて下さっているという境地を絶えず目指している。

キリストが、もはや分かちがたいほどに私たちと一つとなって下さり、我々の全てがキリストの性質で覆われることを望んでいるのである。地上にある限り、見た目はただの弱々しく平凡な人間に過ぎないが、それでも、信仰によって、神はすでに信じる者と一つであると力強く約束して下さっているのだ。

「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。」

そうなのだ。イスラエルの町々を全部回りきらないうちに、人の子が来ると主イエスは言われたのに、筆者はあまりにも長い間、一つの街にとどまっていた。迫害があっても、なお、出て行くことを考えなかった。何という呆れるほどの気づきの遅さであろうか。

要するに、筆者はとうに別の町へ去るべき時期に来ていたのだが、その事実が今まで見えていなかったのである。そして、今、ある予感が筆者をとらえている。それはかつてあの夫人が筆者に述べた言葉は、来るべき場所にて実現するだろうという予感だ。

聖書は何と言っているだろうか。アブラハムは行き先を知らないまま出て行ったが、その行く先に彼が財産として受け継ぐことになる土地があったと言っている。もちろん、私たちの最終的な財産は天にある。受け継ぐのは天の御国である。しかしながら、そこに行き着くまでの仮の宿としての地上の財産(家)も、神は当然ながら、用意して下さるであろう。

「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」(ヘブライ11:8)

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、それを見て喜びの声をあげ、
自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥とはなさいません神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブル11:13-16)

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