神の力ある勇士たち

2018年11月25日 (日)

御国が来ますように―天地の架け橋としてのキリストにある「新しい人」(9)

「わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(Ⅱコリント10:3-6)

オースチンスパークスのこの度の連載は、士師記をテーマとしており、士師記に重ねて、今日の聖徒らの恐るべき弱さの原因について語るところから始まっている。これからどう展開して行くのか、非常に興味深い内容である。

「霊の力の回復」第一章 十字架についての新たな理解 (3)
 
これを読むとき、私たちの霊的な強さは、神への徹底した従順の欠如から来ることが分かる。従順とは、御言葉に従うことであり、従うためには、御言葉と反するものに決して安易な妥協をしないことが必要となる。

ある人々が教会への迫害者に対する裁判に及び、裁判外で和解したところ、賠償金の支払いを約束したはずの相手が国外へ逃げてしまったという。これなども中途半端な妥協の結果としての苦い教訓であると言えよう。

真に和解できる相手ならば良いが、約束を履行するつもりがないか、履行しない可能性のある相手との和解は禁物である。

キリスト教徒は何事においても争うべきでなく、和解を目指すべきだと言う人々がいる。しかし、この世には決して和解してはならない相手、和解が不可能な相手というものが存在する。妥協することが、福音の根幹すなわち永遠の命に関わる問題へと発展する場合があるのだ。

そのように安易な妥協を繰り返し、手を結んではならない者と妥協することが、どれほど主の民から力を失わせるか、主のための証を失わせるか、士師記における主の民の敗北の積み重ねの中に見て取れると、上記の論説でも示唆されているのではないかと思う。

しかし、妥協してはならない相手とは、この世のあれやこれやの人間というよりも、とどのつまりは、サタンである。

ところが、筆者は、最近、ある信者と話をした際に、「何でもサタンのせいにするのはサタンへの責任転嫁だ」などという発言を聞いて、心から驚愕してしまった。筆者はそれとは全く逆の考え方をしているからである。

筆者の考えを述べておこう、「どんなことでもサタンのせいにしてしすぎることはない」と。

本来、サタンが負うべきはずの重荷を、人類がどれほど不当に転嫁されて苦しんでいることか。御言葉の約束を固く信じてて、これを自分に適用しさえすれば、それが自分の重荷ではなく、サタンの重荷であることにすぐに気づいて、解放される権利があるのに、それを知らずに、悪魔から不当に押しつけられた重荷を自分の力で背負おうとして苦しんでいる信者たちがどれほどいるか。

その重荷は、御言葉に基づいて、悪魔にお返しすれば良いのである。それなのに、御言葉を適用して自由になることができるのに、それに気づかず、わざわざ自分で問題解決をせねばならないと考えて苦しんでいる人は多い。不当な重荷を押しつけられているにも関わらず、まだ自分は負うべき重荷を十分に背負っていないなどと自分を責めているのである。そして、あまつさえ、サタンに責任転嫁してはならないなどと荒唐無稽な発言を大真面目にしているのである。

だが、そのように無知でいる兄弟姉妹を嘲笑うこともまた禁物である。以上のようなクリスチャンの弱さを見て、「これだからニッポンキリスト教界は・・・」などと言い始めれば、まさに悪魔の思う壺である。兄弟姉妹を責めるのではなく、彼らの目をくらましているサタンをこそ責めなければならない。

(KFCのように、クリスチャンの無知を高みから見下ろしては嘲笑しているグループなどは、クリスチャンを責めながら、決して悪魔を責めようとしないところに大きな罠がある。カルト被害者救済活動が、被害者の無知を責めて、加害者を無罪放免したのと同じ理屈である。確かに、クリスチャンの弱体化は嘆かわしい問題であるとはいえ、キリスト教徒の無知を責めたり、嘲笑するような人々は、それによって、聖徒らを辱めてサタンを無罪放免する側に回っていることを思い知るべきである。)

かつて筆者はある交わりにおいて「サタンを責める」ことの有用性を聞かされ、そこから非常に重要な教訓を学んだと考えている。サタンを責めるなどのことは、初めは筆者にも、まるで意味のないことのように思われた。しかし、その後、不当な重荷を負わされないためには、徹底的にサタンと言い争って、御言葉に固く立って、サタンから来た重荷をサタンに跳ね返すことが必要なのだと学んだ。そして、それが可能なのだと。

もう一度、我々はどんなことでもサタンのせいにしてしすぎということはない、ということを言っておかねばならない。私たちがどれくらい解放されるかは、私たちが不当に負わされている重荷にどれほど気づいて、これをサタンに跳ね返すかにもかかっていると言えよう。筆者が多くの信者に気づいてもらいたいと願わずにいられないことは、サタンだけは、どれほど責めても、責めすぎということはなく、サタンを責めても、いかなる権利侵害も発生せず、八つ当たりにも該当せず、名誉毀損も発生しないことだ。そもそも地獄で永遠の刑罰に定められている存在に対して、私たちがどれほどひどい責め言葉を発したとしても、行き過ぎということはない。サタンには永遠の恥辱がすでに与えられているのだから、今更、回復すべき名誉などあるはずもないことは明白である。

ところが、不思議なことに、キリスト教徒を名乗っている人たちのうちかなりの数が、サタンを憎むこともなく、むしろ、サタンに同情すらしている現状があることを知って、筆者はこれに非常に驚き、嘆かわしい事態だと思っている。

聖書に記されている通り、サタンは「我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者」(黙示12:10)であり、私たちクリスチャンを日夜告発する者である。サタンがどれほど執拗に、私たちにいわれのないことで責任転嫁しては、私たちに有罪を宣告しようと機会を狙っているかは、ゼカリヤ書を見ても分かる。

「 時に主は大祭司ヨシュアが、主の使の前に立ち、サタンがその右に立って、これを訴えているのをわたしに示された。 主はサタンに言われた、「サタンよ、主はあなたを責めるのだ。すなわちエルサレムを選んだ主はあなたを責めるのだ。これは火の中から取り出した燃えさしではないか」。 」(ゼカリヤ3:1-2)

悪魔は大祭司ヨシュアを訴えたように、今日も、聖徒らを訴えている。サタンがどれほど聖徒らに濡れ衣を着せようと、日夜、神の御前で執拗に聖徒らを訴えているかを考えれば、私たちは、そのいわれのない告発から身を守るために、御言葉で武装する必要を否定することはできない。

私たちには、サタンの執拗さを上回るほどの執拗さで、サタンを神に告発することが必要なのであり、そのために、私たちは自分を贖って下さった神の約束に固く立って、御言葉を防衛の盾として自分自身に適用し、証の言葉を述べなければならないのである。

兄弟たちは、小羊の血と
 自分たちの証しの言葉とで、
 彼に打ち勝った。
 彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。」(黙示12:11)

「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、”霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(エフェソ6:10-18)

このように、霊の戦いは何ら荒唐無稽な作り話でもファンタジーでもない。「悪魔の策略」というものがれっきとして存在しており、これに対抗して立つために、主の力によって強められ、神の武具によって武装することが必要なのだと御言葉ははっきり述べている。

これまで当ブログでは、霊の戦いとは、暗闇の軍勢が振りまく嘘に対して、御言葉に立って反論し、激しい論戦を繰り広げ、嘘に打ち勝つことを指すと述べて来た。霊の戦いとは神社に油をまくことでもなければ、悪霊退散の祈祷を行うことでも、訳の分からなお札を家中に張り巡らすことでもない。

私たちの戦いは、悪魔の虚偽に対して、神の御言葉に固く立って反駁し、嘘を打ち破って、人々の思いの中に働く惑わしを打ち破り、この地上において、真理を浸透させて行くことである。

むろん、物理的な領域における戦いというものもあるとは思うが、まずもって霊の戦いとは、真理と嘘の間で戦われる激しい攻防戦なのである。そこで、私たちも日常生活において、あらゆる不当な言いがかりや圧迫を受けるであろうが、そもそも自分に非のないことで、悪魔から不当に責任転嫁される筋合いにはないということを、はっきりと言い返さなければならない。どんな些細なことであれ、心に罪悪感をもたらす重荷をきっぱりと拒否して、罪はその真の出所(悪魔)にお返しする必要がある。

その根拠となるものが、小羊の血潮による義認である。これを持って、私たちは自分がどんな事柄においても、誰にも決して責められるべきところのない完全な人だと言えるのである。

しかし、それでもサタンはあることないこと取り上げては、私たちを非難して来るであろうから、私たちはその虚偽に対しては、神に義とされた者として断固立ち向かい、神の開いた法廷の前で、日夜、サタンと対峙して、彼の罪を訴えなければならない。

クリスチャンは望むと望まざるとに関わらず、日夜、サタンから激しい論戦を挑まれ、それに対して御言葉によって勝利することが求められているのである。

ここで注目せねばならないのは、神とサタンが言い争っているのではないということだ。法廷において、対立する陣営として向き合い、論戦を繰り広げているのは、人類(聖徒ら)と悪魔であり、神は両者の言い分に耳を傾け、判決を下す裁判官の立場にある。

神がサタンの言い分に耳を傾けるのかと驚く人があるかも知れないが、ヨブに試練が与えられた時、神は、サタンがまずヨブのような義人でも試練が与えられれば信仰を捨てるだろうと述べた言葉に耳を貸されたことを思い出したい。そして、サタンの提案した挑戦の方法では、決してヨブの信仰を取り去ることができないことを示すために、神はあえてサタンの提案を実行に移すことを許されたのである。

このように、神は今日も、悪魔と信じる者たちの言い分を比較衡量される。しかし、それはサタンに勝利を与えるためではなく、サタンのすべての策略を打ち破って、神の教会が、神の豊かではかりしれない知恵を表し、それによって神に栄光を帰するためである。サタンはあらゆる脅かしを使いさえすれば、信者はみな神への信仰を捨てるものと確信している。しかし、神はそうではないことを知っておられる。知っておられるが、サタンの挑発を跳ね返して、信仰に立ちおおせて神に栄光を帰する仕事を、あえて信者に委ねておられるのである。

神と悪魔との間では、キリストの十字架においてすでに決着が着いているが、被造物の世界において、決着をつけるのは、いわば、私たちの仕事である。

神はキリストの十字架において、私たちを奴隷にしていた罪の債務証書を無効にし、破り捨てられたが、その後、今度は、私たちがサタンへの告発状を書いて、それを携えて、神の御前に立っている。

サタンも被造物であるが、私たちも被造物として、神の創造された世界の主権が誰にあるのかを争っている。悪魔は、それが自分のものだと言う。しかし、私たちはそうでなく、神のものだと言う。私たちは、サタンは不法侵入者であって、サタンが主張している主権は、神から強奪したものでしかないから無効であると訴えている。

「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。」(ヤコブ4:7)

私たちに任されている使命は、キリストの勝利を被造物の世界においても打ち立て、御名の権威を行使して、すべてのものが膝をかがめてイエスは主と告白するよう、神の主権、力、支配をこの地に来たらせることである。そのために、私たちは、サタンによる占拠が不法であり、無効であることを訴えて、立ち退きを迫っているのである。

私たちが被造物の世界において、御名の主権を取り戻し、かつ行使して、サタンに立ち退きを迫る根拠となるのは、キリストが十字架において悪魔の支配を打ち破られ、私たちを奴隷として拘束していた罪の債務証書を無効とし、死の力を滅ぼされたことである。

この勝利の証文を振りかざして、私たちは日夜、神の法廷において、サタンの言いがかりに立ち向かい、事実を争っているのである。敗北すれば、サタンの領土が広がる。勝利すれば、キリストの主権による支配が広がる。創世記の冒頭で、人類が蛇に遭遇し、神に従うのか、悪魔に従うのか、決断を迫られた時のように、今日も、私たちは神の御言葉と悪魔の言い分のどちらを信じて従うのか、常に決断を迫られている。

だが、創世記と異なるのは、私たちにはすでに律法を成就されたキリストが共におられ、私たちのために知恵と力となって下さっていることである。

繰り返すが、神は確かにキリストの十字架において悪魔に勝利を下されたが、その勝利を行使することは、私たちの日々の生活にかかっている。その勝利をこの地に実際として引き下ろし、適用し、キリストの御名によって支配される領域を拡大することは、私たち自身に任された仕事なのである。

その中で、私たちは、私たちを不当に責めるサタンを責め返し、彼に重荷を跳ね返すことがどれほど必要であるかを知らなければいけない。

繰り返すが、サタンの罪というのは、もはや天に到達するほどにうず高く積みあがっており、その上に何を増し加えたとしても、加えたことにならないほどである。サタンはいわば無限大に罪を犯している存在であって、「サタンを責めるのはお門違い」などということは決してあり得ない。

人類が罪を犯して堕落したことも、根本的にはサタンのそそのかしによる。確かにキリスト教徒となり神の子供として受け入れられるには、私たち自身が、罪を悔い改め、神に立ち帰ることが必要であるが、それは一度限り永遠に効力を持つものであり、悔い改めとは、悪魔に向かって永遠に懺悔し続けることではない。

すべての罪の起源は、サタンにあり、サタンこそ責められるべき張本人であることを私たちは忘れるべきではない。それを忘れて、霊的に弱体化したクリスチャンばかりを責め続けていれば、いずれ悪魔に加担する羽目になって行くのは避けられないであろう。

聖徒らが弱体化したことの責任も、もとを辿ればすべてサタンにあると言えるのであって、サタンにはいかなる同情も憐憫も無用であり、サタンに責任転嫁してはならないなどと言った主張は、すべて荒唐無稽である。それは私たちに真の敵が誰であるかを忘れさせ、私たちのものではない重荷を私たちに背負い込ませようとするための虚偽の策略であると言えよう。

ところが、このような話を始めると、早速、耳を閉ざしてしまう信徒たちが現れる。彼らは悪魔とは何かしら形而上の存在であって、比喩のようなものだと考えて、それが現実の存在だとは信じておらず、悪魔に立ち向かうという話を聞くと、極端なたとえ話や、冗談のような話を聞かされていると考えて、耳を背けるのである。しかし、悪魔の存在を否定すれば、その分だけ、彼らは自分たちをそそのかし、惑わす存在があることに対して無知となり、抵抗する力がなくなって、無力となるのだと言える。

敵が存在しているにも関わらず、敵などいないと考えて防衛を怠るほどに危険なことはない。攻撃を跳ね返すためには、攻撃の源を知らなければならない。しかし、多くの場合、敵からくる攻撃は、物理的なものというよりも、思想的な攻撃である。敵の要塞というものが存在する。嘘、詭弁、屁理屈、神の知恵に逆らう高慢、思いをくらます惑わしなどの策略が存在し、それらを発する要塞となる拠点も存在する。

しかし、私たちは、その要塞をも御言葉に立脚して、神の知恵により、ことごとく論破して、破壊して行くのである。以下の言葉は、預言者エレミヤだけに述べられた言葉ではない。万民祭司の今日の時代には、クリスチャン一人一人がその役目を担わなければならない召しを告げたものに過ぎない。

いつまでも弱さの中にとどまっていてはならない。神の勇士たちよ。小羊の血潮により、贖われた者として、神の義に固く立って、悪魔の嘘に対抗し、主の偉大な力によって強くなり、敵の要塞を破壊して、すべての思いをとりこにしてキリストに従わせる神の戦士として大胆に前進し、新たな領土を勝ち取りなさい。

「主の言葉がわたしに臨んで言う、 「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生れないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした」。  その時わたしは言った、「ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません」。

しかし主はわたしに言われた、「あなたはただ若者にすぎないと言ってはならない。だれにでも、すべてわたしがつかわす人へ行き、あなたに命じることをみな語らなければならない。 彼らを恐れてはならない、わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」と主は仰せられる。 そして主はみ手を伸べて、わたしの口につけ、主はわたしに言われた、「見よ、わたしの言葉をあなたの口に入れた。 見よ、わたしはきょう、あなたを万民の上と、万国の上に立て、あなたに、あるいは抜き、あるいはこわし、あるいは滅ぼし、あるいは倒し、あるいは建て、あるいは植えさせる」。 」(エレミヤ1:4-10)

私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」

2018年11月 4日 (日)

神の国とその義を第一として生きるならば、地上の必要をはるかに超えて、願うものはすべて添えて与えられる。(2)

さて、今月の終わり頃までに、事件が一つの山場を迎えることになる。今また大量の書類に埋もれ、準備作業の最中であるが、この正念場を超えれば、事件はしかるべき経過を辿り、終結へ向かう。悪人はふさわしい裁きを待つことになる。

今年も約半分ほどが過ぎてから、様々な手続きが以前の何倍もスムーズに進むようになった。そのおかげで、今、筆者の中では、日本の男たちに対する信頼が、随分と回復している。

この事件を通して、筆者はこれまでの人生で関わったことのない様々な職業の人たちに関わり、その中で、信念を貫き通すことの価値を学んだ。かつ、信念を持って仕事をしている誠意ある人たちに出会い、大いに助けられた。

たとえば、昼食も取らずに、事件のために電話を受け続けてくれた検察官、休日出勤までして捜査している警察官、答えに窮する質問が向けられたときに、とっさに答えてくれた裁判官、何度も裁判所に足を運ぶ中で、配慮を示してくれた書記官、それから、融通をきかせてくれた民間企業の人々・・・。一つ一つは実に些細な事柄でしかないが、それらが絶妙に相合わさって、事件の進展を大いに助けている。

民主党政権が自壊して、安倍自民党政権に戻って以来、日本は理念においても、経済においても、落ちぶれるばかりで、世界の四流国へと沈没しつつあるように見受けられるが、それでも、その中にあって、弱い立場にある者をかばい、正義を曲げず、真実を曲げない人間が、確かに存在していることが分かった。

そのような人々の仕事ぶりは、男であれ、女であれ、すがすがしいものであると感じずにいられない。そして、彼らの仕事を見るにつけても、やはり、筆者は筆者として、自分の信念を貫かねばならないと思う。

筆者はこれまで、何事であれ、命の息吹の感じられる方向性をひたすら探し求めて進んで来た。砂漠の中で貴重なオアシスを探し出すように、真実と誠実さの感じられる、清い命の流れが見いだせる方向だけに向かって進み、人々と接する時にも、嘘や不正がなく、真実性の感じられる主張を行う人々を探し当てて来た。そして、そういう人々に、この世の重要な用事を託し、彼らと一緒に進んできた。そうして真実、公正、正義を探し求めて生きることこそ、無駄な害を受けずに平安に生きるために死活的重要性を持つものであることを今も疑わない。

だが、そうして行く中で、かつて筆者が交わりを持ちたいと望んでいたキリスト教の信仰を持つ人々は、徹底的に筆者の周りから退けられた。これは実に逆説的な現象である。

筆者は今でも、聖書に基づくキリスト教の信仰を何より第一として生きているが、その筆者を助け、支えてくれたほとんどすべての人々は、信仰とは関係のない、この世の人々だったのである。

しかし、彼らは良識ある人々で、筆者の信仰をとてもよく理解してくれた。あるいは、理解しようと努めてくれた。たとえば、筆者は、裁判が始まるまで、裁判所とは、庶民には縁遠い場所で、裁判官というものは、ただ原告と被告の主張を見比べて、どちらに分があるかを、冷徹な科学者のようにはかり、無味乾燥で機械的な判決文を書くものと思っていたが、事実は全くそうではなかった。

むろん、すべての裁判官が良心的な人間であるわけではない。しかし、裁判官の職務の基本は、法的概念に基づいて弱者を救済することにあり、人々の訴えに真摯に耳を傾け、訴えられた被害を、自分自身の内面を通過させてその重さを理解した上で、それに対してどのような補償が望ましいかを考えることにある。

従って、裁判官は、宗教や信仰を背景にした訴えであっても、その思想的背景を無視して進むわけにはいかないのだ。自分とは異なる信仰を持つ人々の世界観をも理解し、人としての理解力、洞察力、共感能力、バランスの取れたものの見方をフル活用して、事件の真相をとらえねばならない。

それは検察、警察であれ同じである。信仰がないからと言って、信仰者の訴えを無碍に扱うことはできない。むしろ、世人は、立場は違えど、信仰を持つ人々に対して、一種の尊敬のような気持ちを持っていると言えよう。そのことが、膨大な分量の書面をもって方々に働きかけているうちに、はっきりと分かって来たのである。

さて、この10月に筆者は170頁に上る準備書面を用意したが、これが事件の流れを大きく変える一つのきっかけであったとみなしている。そもそもこの反駁を書き上げること自体、まさに天の采配がなければできないことだったからである。

このことの大きさを理解してもらうために、ある質問を読者に向けてみよう。

仮にあなたのもとに、弁護士が大きな文字で書いた12頁の訴状や準備書面が届いたとしよう。あなたが被告として、これに応じるとすれば、この書面に反駁するのに、どのくらいの時間を要すると思うか? 本人訴訟で応じる場合を想定しての質問である。

筆者の答えは、12頁の文書に反駁するために、最低でも1週間以上の作業が必要になるというものだ。しかも、これはただ反駁の書面を準備するためだけにかかる時間を指すのであって、事実の確認や、調査の時間は含まれない。

1週間、毎日、朝から晩までパソコンに向かい、ぶっ通しで反論を書き、ようやく12頁の書面に対する相応の反駁ができ上がるのである。その分量は、軽く30頁を超え、場合によっては、50頁以上に及ぶ。なぜなら、その文書の約半分は、相手方が記した内容の単なる引用であって、あなた自身の反論ではないからである。

つまり、誰かの主張に反駁するためには、その主張の倍以上の分量の書面が必要になるということだ。しかも、送られて来るのは、紙媒体であって、電子データではない。引用部分はすべて手打ちでデータ化する必要がある。その中には、日本語の文章だけでなく、URLや、複雑な記号、図形、あるいは外国語でえさえ、含まれているかも知れない。興味のない、読みたくない文章も、飛ばすわけにいかない。どんなに下らない愚かしい主張にも、きめ細やかに目を通し、きちんと反駁せねばならない。

多くの場合、訴訟においては、次回期日までに与えられる時間は1ヶ月以内である。先送りできるとしても、せいぜい1回か2回程度だ。だが、一般市民であるあなたには、弁護士のように、朝から晩までパソコンに向かう余裕があるはずもない。従って、弁護士に依頼するだけの資金がなければ、仕事を終えて帰宅してから、眠い目をこすりつつ、自分でその作業をするしかない。

こうした環境において、仮にあなたのもとに170頁にのぼる訴状や準備書面が届いたら、それに反駁するためにかかる時間は、一体、どれほどであろうか?

筆者の答えは、何カ月かかっても、一人で反論するのは無理だというものである。これは勇気とか決意とか覚悟の問題ではない。

170頁の文書に反駁するためには、300頁以上の分量が必要となる。しかし、文系の学術論文を例に取るならば、300頁の学術論文を書き上げるためには、昼夜を問わず、半年以上、ぶっ通しで作業する必要がある。大抵は、調査のために1~2年以上の月日が投入される。博士論文の場合は、6年程度の月日をかけて完成することも稀でない。半年で書き上げられれば、天才の領域と言えるかも知れない。

訴訟は論文ではないが、命と生活がかかっており、そもそも心理的に向き合いたくない問題がテーマとなっている点で、論文とはまた違った困難さと切迫性がある。その上、公開されている裁判ならば、傍聴も許されるため、あなた自身が、被告として一般市民の前に見世物とされる可能性がある。その上、あなたの書いた書面も、いついつまでも記録として保存され、あなたの死後になっても、まだ市民に閲覧請求され、内容が知れ渡る可能性もある。

あなたがこの裁判に臨むに当たり、どんなに仕事に追われ、書面を書く暇がなく、心理的に追い詰められていたと弁明したくても、その時には、誰もそんな弁明は聞いてくれない。あなた自身の代わりに、ただ書面だけが残り、要するに、こんな愚かしい主張しか出せない人間だったのか、それなのになぜ身の程知らずな挑発行為に及んだのかと、死後になって指摘されることが、果たして望ましいことであろうか。

そのような危険をも考慮した上で、あなたは膨大な分量の資料をデータ化し、内容を把握しながら、信憑性のある反駁を練り上げて行かねばならない。さらに、自分の主張を肉付けするために、有利な証拠を新たに探して来るのも、あなたの仕事である。

多分、そういう作業には、大半の人々が耐えられないことと思う。つまり、170頁もの文書で訴えられたとき、これにきちんとした根拠を示して自分一人の力だけで反論できるような人は、一般市民の中には、ほとんどいないのだ。

それでは、大金を積んで弁護士に依頼すれば、作業が簡略化できるかと言えば、それもあまりない。そもそも弁護士は当事者でないので、事件の詳しい事情を知らず、弁護士の作る書面には、必ずどこかに穴があると言って良い。

弁護士は、体裁だけは反論するであろうが、事の真相を知らないため、ほとんどの場合、正義などどうでも良く、詭弁を弄してでも良いから、形式だけを整えることが主要な仕事である。そこで、弁護士が書いた内容は、格好だけはついているかも知れないが、それで本当に勝てるかどうかは全く分からない。

勝つためには、あなた自身が、相手の主張の弱点をよく理解し、それに対する有効な反論の仕方を弁護士に伝えなければならないが、それができるくらいなら、初めから弁護士になど依頼する必要がないであろう。

そういうわけで、知的・経済的に、さしたる力を持たない一般市民が、インターネットで、軽はずみな短いコメントで他者を誹謗中傷したりしていれば、膨大な証拠資料と共に訴訟で訴えられ、それだけで一貫の終わりとなる危険がある。余命ブログの事件が良い例であるが、他者のヘイトスピーチに煽られて、分不相応な思い上がりに陥り、何の落度もない知識人らに、いわれなき憎悪と攻撃を向ければ、厳しい報いが待ち受けているだけである。

世間は、スラップ訴訟とは高額訴訟のことだと思っているようだが、請求金額だけが訴訟のインパクトなのではない。文書の内容、量もまた、非常に大きな衝撃力となりうる武器なのである。

もちろん、スラップ訴訟に限らず、あらゆる訴訟において、限られた時間内に、相手方よりも圧倒的に優位に立つ力がなければ、勝ち目はない。だが、原告であれ、被告であれ、一体、どうして一般市民がそんな巨大な負担に耐えられようか?

しかし、神が味方して下さるならば、それが可能となるのである。あなたは圧倒的な優位に置かれ、ダイナマイトのような武器を手にすることになる。神は、ご自分の権益にとって真に重要な戦いが起きれば、必ず、戦いに耐えうるすべての条件を用意して下さる。

その時、あなたは自分一人ではとてもこなせないような、とてつもない作業量を遂行することができる。ただ勝利するだけでなく、「勝ち得て余りがある」と言えるだけの作業をこなせるのである。

このように、筆者の遭遇した事件では、信仰の戦いを、信念を持って戦い通していると、ある時点で、狭い通路を抜け出し、広い場所に立たされる時がやって来た。天高く引き上げられて、余計な重荷から解放されて、広々と物事全体を俯瞰できる場所に置かれたと言って良いかもしれない。

このように、激しい戦いの中をも、勇気と信念を持って進んで行くとき、追い詰められるどころか、逆に心に余裕が生まれる。そして、自分の心の決意にふさわしい協力者たちにも、巡り合うことができる。それは、自分が信じて歩んできた道にふさわしい同志たちを見つけたという満足感の伴う貴重な出会いである。

このように、良い人たちに巡り合うためには、自分自身が生長せねばならない。日々、必要な代価を払って、自分の十字架を負い、掲げている旗を降ろすことなく、勇気を持って進んで行かねばならない。

そのとき、初めて、その歩みを喜んでサポートしてくれる人たちが現れる。女性だから、自分の主張をしてはいけないとか、男性の面子を立てるために、男性だけを優位に置いて、その下で仕えねばならないなどのことは決してない。むしろ、女性であろうと、男性であろうと、信念のために自分の命のすべてをかけて勇敢に進むならば、その時、周りの人々は自然と、その主張を理解し、助けてくれるようになる。もしもあなたが女性ならば、屈強で頼もしい男性たちが周りを取り囲み、ちゃんと目的地に着けるようにガードしてくれるだろう。

このように、自分の信念にどれだけ忠実に生きるかが、人の人生の価値だけでなく、人間関係をも決めると筆者はみなしている。人が自分のしかるべき立ち位置に立つ時、初めて、価値ある協力者が得られ、人間関係がことごとく正常化されて行く。

そういうわけで、真に魅力的な人々に巡り合い、そういう人々に取り囲まれて生きたいならば、そのためにも、私たちは、高い望みを持たなければならない。何よりも、神の国とその義を第一として生きるべきである。そうすれば、物質的な必要にも、人間的な支援にも、仕事にも、人との出会いにも、物事の巡り合わせや、経済にも、何一つ欠けることなく、すべてが天から供給されて満たされるだろう。

その時、初めて、どんなに困難な戦いが起ころうとも、神が味方して下さることによって、勝利をおさめる秘訣が分かる。そうして多くの勝利を勝ち取った後で、世を去る時にも、胸を張って、これで良かったと言える悔いのない人生を歩めることだろう。,主の御名は誉むべきかな。

(ちなみに、フィナーレとして用意されている書面は、民事訴訟に関するものではない。もちろん、裁判資料も追加するが、それとは別に、新たに大きなお土産が用意されている。クリスマスに向けて、苺やホイップクリームをふんだんにちりばめた巨大なケーキを作り上げているところだと言って良いかも知れない。)

2018年10月30日 (火)

御国が来ますように―天地の架け橋としてのキリストにある「新しい人」(6)

「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。

しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。

主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」(ルカ12:42-48)

一つ前の記事で触れた天に召された夫婦のことを書きたい。筆者はこの夫人から生前、一度だけ、有意義な叱責を受けたことがあった。

夫人が三渓園に筆者を誘い出してくれて、いつものように親しく交わりのひと時を持とうとした際のことである。その日は、筆者の霊的コンディションがそれまでと違い、交わりのために整えられておらず、最悪の状態にあった。

私たちは出店のテーブルに着き、夫人は道すがら買った筆者の大好きな桜餅を取り出して、団らんのひとときを持とうとしたが、その時、

「あら、お茶がないわね。あなた、買って来てくれる?」

と、気づいて筆者に言った。

筆者は立ち上がって、近くにある出店をいくつか覗いてみたが、目ぼしいものがなく、早々に引き返して来た。筆者が手ぶらで戻って来たのを見て、夫人は呆れて言った。

「あら、どうしたの?」

筆者が見つからなかったと言うと、夫人は呆れた様子で、

「お茶を売ってないわけないじゃない。もっとよく探さなきゃ」

と言ったが、筆者があまりに疲れ果ててもう行きたくない様子なのを見て言った。

「もういいわ、あなたはそこで待ってなさい、私が見つけて来るから」

夫人は自分で店を回り、すぐに戻って来て、ペットボトルのお茶を筆者の目の前に置いて言った。

「ほらね、すぐに見つかったでしょう。一体、あなたはどこを探したのよ?」

夫人はそれから筆者に向かってお説教を始めた。

「あなたには言わなくちゃいけないことがあるわ。このお茶のことだけじゃないのよ。あなたはいつもこんな風に、ちょっとした困難にぶつかったら、もう自分の望みを早々と簡単にあきらめてしまうの? この世のことなら、まだそれでも許されるかも知れないけれども、神様に従うに当たって、そんな姿勢では、この先、あなたは進んで行けなくなるわよ。
信仰を立派に守り通すためには、どんな困難があっても、それを突破して、最後まで望みを捨てずに進んで行く勇気と強さが必要なのよ。それがこんな情けないことでどうするの。あなたはもっと強くならなくちゃいけないわ。自分の目的を最後まであきらめずに貫き通すことをもっと学ばなくちゃいけないわ」

夫人が筆者に説教などしたのは、後にも先にもこの時一度限りであった。しかし、それを聞いている間にも、筆者はただぼんやりと力なく笑うだけであった。

実は、そのようなことになったのには原因があった。

この頃、筆者は、夫人からの再三に渡る忠告を無視して、仕事に打ち込み、毎日のように終電近くまで会社に残って残業していた。専門の仕事で実力を発揮し、自分で自分を支えなければならないというプレッシャーがあり、また、他の人々の負担を軽減することが期待されていたのである。

そのため、ようやく休日が来て、夫人に交わりに呼び出されても、疲労のあまり、指定された外出先に出て行くのがやっとで、美しい風景にも、心ここにあらずの状態で、ペットボトル一本の買い出しを頼まれても、果たせないほどに、疲れ切っていたのである。

残業だけではない、ほんのわずかな人数しかいない狭いオフィスで毎日のように変わる不安定な力関係、経営者からの無理筋の要求、愚かしい紛争にも、辟易するまでに心を疲弊させられていた。そして、それがまるで筆者の人生の中で重大事件のように心の座を占めていたのである。

夫人はそれまで常に率先して気前よく他者を助ける側に回っていたため、信仰の交わりにおいて、筆者は夫人から何かを要求されたことがなく、苦言を呈されるなどのこともそれまで一度もなかった。夫人はすべてにおいて満ち足りており、いかなる形でも、誰にも助けを求める必要がなく、筆者に買い出しを頼むどころか、いつも自分から交わりに必要なものを持ち寄っていたので、年少者に使いを頼むなどのこともなかったのである。

しかし、この時ばかりは、事情が違った。夫人は、筆者が主の道から逸れかけていることを知っており、筆者の陥りかけている悲惨な状況の危険性を指し示すために、あえて筆者に買い物を命じた(ものと考えられる)。そして、筆者はそのどうでも良いような些細な買い物をさえ、遂行する力がなくなっていたことを示されたのである。

その事件が示していた結論は、筆者が、このままこの世の価値観に没入し、神の国とその義ではないものを第一として生きる方向へ進めば、デリラに欺かれたサムソンに勇士としての力が失われたのと同じように、筆者の内なる力と尊厳は完全に消え失せ、筆者はわしのように翼をかって、天高く舞い上がるどころか、ペットボトル一本のお茶さえ買う力がないほど、弱々しい人間となり、地を這うように生きるしかなくなるということであった。そんなことでは、やがて夫人にも呆れられ、交わりからも脱落し、ついには自分の生活も失って、命さえなくなるであろう。

そういった方向性を、夫人は暗に指し示したのである。そして、どちらを選ぶのか、筆者に選択を迫ったのであった。 しかし、筆者は、その当時、そのような忠告は、働かなくて良い立場にある夫人の浮世離れした生活スタイルに過ぎないかのように思い、自分のような者に他にいかなる選択肢があるのかと、心の中で弁明するだけであった。

そんな考えが根本的に誤っていたことは、その後すぐに判明した。会社は残業代を支払わなくなり、残業代は定額制に移行し、それに同意しない社員は、愚痴や不満を経営者に告げ口されて、栄えある記念行事の前夜に、密室で契約打ち切りを言い渡されるという残酷な仕打ちに遭わされたのである。

そういう出来事を見て、筆者もようやく目が覚めたのだが、こうした結果を実際に見るまでは、夫人の忠告の正しさが分からなかった。自分で自分を支えなければならないというプレッシャーはそれほど大きく、筆者はこの世の仕組みがいかに御国の法則とかけ離れているか、まだ具体的にほとんど学んでいなかったのである。

夫人はそうしたことを見越した上で、筆者に様々な忠告をしてくれた。その当時、筆者はまだ多くのことを理解していなかったとはいえ、筆者は、故意に神の御心に反したわけではなく、ただ考えが甘く、経験が不足していただけであったので、神は筆者の正しい導き手として、その後も、忍耐強く、筆者に幾度も教訓を与え、筆者が天的な法則を学び、それを理解し、それに沿って生きられるよう手助けして下さった。

天的な法則と言っても、何もそれは神秘的な漠然としたものはない。それはただ神の国とその義、および、神を第一とする信徒の交わりを、この世のすべての関係や価値よりも優先して生きよというものである。筆者の内なる力、人としての尊厳、自由なゆとりある生活は、このように天の御国の権益を第一として生きる時、初めて保たれるのである。

命を保ち、自由と豊かさに至り着きたいならば、神の国とその義を第一として生きなさい。地上での生活や利益を最優先する態度では、囚人同然の生活が待っているだけであり、最後には、必死でつなごうとした命さえ、失われて終わるだけである。

そのように、それから今日まで何年間もかけて、筆者は御言葉の正しさを実地で試し、ことごとく証明して来たのである。

筆者の人間としての力は、地上にある限り、いつでもごく限られたものに過ぎないが、それでも、真に神を第一に尊んで生きるならば、筆者の限界の中でも、十分にすべてを行うことができるよう、神ご自身がすべてを整え、按配して下さる。

主ご自身が筆者の知恵と力となって下さり、決して筆者が行き詰まりに達して立ち止まることがないよう、守り、育て、養って下さる。

このように、天的な法則に従っている限り、人は雄々しく、強く、気高く、賢い、すべてに不足のない、自由な人として生きることができる。この世の問題に巻き込まれて疲弊し切ったり、行き詰まり、方々に助けを求めて人としての尊厳を失うことはない。

主イエスは、父なる神の御心を行うことが、ご自分の隠れた糧だとおっしゃられたが、それはこういうわけであり、私たちは天の雇用主にこそ喜ばれる生活を送らなければならず、そのことが私たちの地上生活において真のサラリーとなるのである。

この天的な道から逸れるや否や、私たちの力はすぐに失われる。地上では、この世の弱肉強食の原理が働くだけで、自力で自分を保つ力のない弱い人間は、真っ先に残酷で容赦のない結末へと追いやられるだけである。何らこの世における後ろ盾をも優位をも持たないキリスト者の存在などは、地の塩たる役目を失えば、まるで吹けば飛ぶ木の葉のように、この世の事件に翻弄された挙句、世人よりももっとひどい残酷な結末に追いやられるだけである。

そこで、私たちは、無駄な損失を避けるためにも、ただ神の力によって支えられ、守られて生きることこそ、この地上で人としての尊厳を保って生きる唯一の道であることを、できるだけ早期に学ぶ必要がある。天の父なる神に喜ばれる仕事をしてこそ、この世におけるすべての必要が満たされ、生存が保たれることを早期に知らなければならない。

いや、ただ生存が保たれるだけではない。もしも天的な法則に従って生きるならば、私たちは自分の肉体的限界、精神的限界、時間的な制約といったすべての物理的限界の中にありつつも、それを超えて、いかなる限界によっても脅かされることなく、何にも不足することのない、自由と豊かさの中を生きることができるのである。

それが天高く、わしのように翼をかって、自由に雄々しく舞い上がることの意味である。地上の限界に満ちた法則を、はるか足の下に踏みしだき、一人の有限な人間でありながら、一人ではとてもなし得ないような数多くの有益な仕事を果たすことができる。

そこに私たちの尊厳、高貴さがある。しかし、そういう人生が実現するためには、私たちが、まことの命であり、すべての供給源であるキリストに頼り、御父の喜ばれることが何であるかをわきまえて、私たちの真の雇用主を喜ばせるために生きねばならない。

キリストは、人間として地上に来られたとき、罪の他は、私たちと同じようにすべての人間的な弱さと限界を持っておられたが、それにも関わらず、彼はその限界によって、一切、神の御旨を実現するに当たり制約を受けられなかった。

キリストは、地上的な制約の中を生きられたにも関わらず、それによって全く損なわれず、不足することもない完全な人だったのである。キリストは万物を足の下に統べ治める方として、この世の物理法則もご自分に従えることのできる、真に完全な人である。そのキリストにある私たちは今日、自分も彼と同様に生きられることを知る必要がある。

実のところ、物理法則は、私たちを縛るためにあるものではなく、かえって生かすために存在している。

考えてもみれば良い、もしも私たちが見栄えの良い鳥かごを買い、そこに美しい鳥のヒナたちを買って入れるとすれば、それは一体、何のためであろうか? まさか様々な限界によって鳥たちを脅かし、苦しめるためではあるまい?

神が目に見える万物を人間のために創造され、その中に私たちを置かれたのも、本来は、同様の目的と配慮からである。それは決して幾多の限界によって私たちを脅かし、苦しめることが目的ではなかったのである。

この地球だけでなく、時空間を含め、すべての造られた被造物は、本来は、人間を生かし、人間に奉仕するためにこそある。しかし、アダムの堕落後、そのような創造の本来的な目的は失われたので、これを回復するには、私たちが真に完全な人であるキリストと霊的に一つに結び合わされ、この世を超えた新たな御国の法則の中を生きることが必要である。

この天的な法則は、この世の言葉で言い尽くすことはできないが、肝心なのは、何をするに当たっても、まずはただお一人の神に栄光を帰することを第一優先し、そのためにこの世的な利益や価値観を二義的なものとして扱う態度を貫くことである。

そうして御国の権益を第一とする姿勢を保つならば、その生き様に対しては、神が最終責任を負って下さる。しかも、それはこの世を超える永遠の保証である。

この世の経営者は、あなたがどんなにその意に従って奉仕してみたところで、あなたの生活を微塵も保障してくれず、むしろ、あなたから取れるものをすべて取り上げ、もう取るものがなくなったと判断した時点で、あなたを捨てて路頭に迷わすであろう。しかし、良き羊飼いである神は、あなたがその御声に忠実に聞き従うならば、あなたに命を与え、あなたを緑の牧場に、憩いの水際へ導いて下さる。あなたはそこで安らかに眠り、安らかに食べ、安心して好きなだけ駆け回ることができる。
 
人間に過ぎない者の栄光のために、自分自身をなげうてば、ただ破滅が待っているだけであるが、天の雇用主であり、まことの羊飼いなるお方の支配下を出なければ、自由が約束されている。

そこで、私たちは、神に栄光を帰するために、毎瞬、自分の力によって生きるのでなく、神の知恵と力に頼って、天的な法則に従って生きることを選び取るのである。

筆者は、この安らかな恵みをもっとよく知りたいと思っている。神の愛と憐れみの深さを、その恵みの大きさを、生きてもっとよく知りたいと思っている。何よりも、キリストにある新しい人の麗しい尊厳、高貴な生活をもっとよく知りたいと願っている。

以前の筆者は、困った時に神に助けを求め、神がもしも助けて下さるならば、その代わりに自分の人生を神に捧げても良いなどといった、まるで取引のような祈りをよくしていたものだが、今はそのような祈り方はもうしない。

むしろ、神は私たちの同労者であり、最も忠実な相談役であり、慰め主である。もちろん、神は私たちの主であり、私たちはその僕であるから、私たちが神と対等になることは決してなく、私たちが、御言葉に服従しなければならない立場にあることは変わらないとはいえ、神はへりくだっておられるので、私たちに必要な時に、いつでも喜んで助けを与え、私たちを支えて下さる。神は忠実な僕にとっては、決して僕を脅かす恐ろしい主人ではない。私たちが心の最も奥底まで信頼して打ち明けることのできる、最も親しい相談役、確かな助言者である。

筆者は夫人が世を去って後、様々な困難を突破して、決して望みを捨てずにあきらめることなく前進する方法を少しずつ学んだ。今はもう悪しき経営者のために、身を粉にして残業するなどの愚かな振る舞いはしない代わりに、御言葉の正しさを生きて証明するためならば、どんなにでも時間を費やし、困難を乗り越え、決してあきらめずに結果を勝ち取りたいと願っている。

こうして、だんだん「お茶」のストックにも、バリエーションが出て来たような気がする。今ならば、筆者は夫人から意志薄弱で弱々しい人間であるかのように叱責を受けることはないのではないか? 

もしも主がお要りようならば――。もしも主が本当に私をお要りようならば、そのためにこそ、喜んで自分の持てるすべてを捧げよう。スカルの井戸で、イエスのために水を汲んだサマリヤの女のように、あるいは、ダビデの渇きを癒すために、決死の覚悟で敵陣に乗り込んで飲み水を獲得した僕たちのように、私たちは神の御心の満足のためになら、地上で自分の限界ある存在をすべてなげうってでも勇敢に進んで行くべきである。その働きが私たちの地上での糧となって行くのである。

私たちの心も、体も、すべては神の栄光のために聖別されて捧げられた生きた供え物である。他の誰のものでもない。そこで、もしも誰かが働いて豊かな報酬を得たいと思うならば、まずは主のために、御国のために、神から栄誉を受けるために働きなさい。フルタイムで御国のために働きなさい。そうすれば、やがて思いもしない豊かさにあずかり、どんな困難に遭遇しても行き詰ることなく、常に幸福に満ち足りて生きることができるだろう。

こうして、私たちは、地上で天の権益のために身を費やす代わりに、それによって失われるものとは比べるべくもない、巨大で重い天の報酬にあずかる。その報酬とは、御父、御子、聖霊の交わりの中に入れられること、そして、私たちの主なる神からの誉め言葉である。

キリストが再び地上に来られる時までに、大いなる祝賀式典に備えて、彼のために栄光の花道を整え、豪勢な食卓を用意せねばならない。

だが、神が喜ばれる祝宴の食卓とは一体、何だろうか? それは神の御心を満足させるべく整えられた人の心である。かつてバプテスマのヨハネが人々を悔い改めに導き、主イエスの到来のために道を整えたのと同様、地上にあるすべてのものが、御前に膝をかがめ、すべての思いがとりことされてキリストに従う日のために、私たちが道を整えなければならないのである。

そのために、私たちは自分自身を叱咤激励し、忍耐しながら、奮闘を続け、幾多の戦いをくぐり抜けて、収穫を勝ち取っている。地上にける信徒の交わりのためにも、いくつかの物品を持ち寄るが、何よりも、主の満足を勝ち得るために、日々、働いているのである。

わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものにあるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(Ⅱコリント10:3-6)

2018年10月27日 (土)

御国が来ますように―天地の架け橋としてのキリストにある「新しい人」(4)



いつの間にか、横浜は紅葉して秋の美しい風情となっていた。
ついこの間まで、冷房が必要だったのに、今は動物たちのために暖房が必要である。

朝晩の寒暖の差が激しくなり、あやうく小鳥が体調を崩しそうになったので、遠赤外線ヒーターを小鳥のヒナたちのためにつけてやった。

言い尽くせない激戦の一年間であった今年も、もう終わりに近づいている。

懸命に走り抜けている間に、気づかぬうちにすっかり季節が変わっていた。
上は分厚い書類の束を抱えて幾度も訪れた裁判所の光景であるが、去り際に、思わず見事な銀杏に見とれた。

心の重荷は過ぎ去り、喜びと、平安とが訪れる。

我が人生の中で、類例のない大きな試練の年であったが、なすべきことを立派に成し遂げ、立ち向かうべきものに毅然と立ち向かい、守るべきものを守り通したという、形容しがたい平安と満足感が心に溢れている。

もちろん、まだ何も終了したわけではないが、それでも、本当に第一とすべきことを第一として生き、それによって、神の恵みの大きさを知り、神が愛する子供たちをどれほどはかりしれない配慮をもって守り、導いて下さるか、その一端を知ったというすがすがしい満足感があるのだ。やはり、神の国の前進のために生涯を捧げること以上に、有意義な生き方はなく、神と同労して生きる以上の満足は地上には決してないと自信を持って言える。

だが、そのために大きな犠牲が存在したことは言うまでもない。何しろ、手探りで前進し、一切、人間的な助けを受けずに、神だけを頼りとして、二人三脚で進んだのである。一人の不慣れな人間としては、言葉に言い尽くせない試練があったことは間違いない。

まさに「死の陰の谷」のような暗いトンネルを通過したと言っても良いだろう。

しかし、その間に生じた著しい犠牲さえも、神はただちに安息のうちに補償して下さった。「主が与え、主がとりたもう、主の御名は誉むべきかな」という姿勢を貫徹したときに、失われたものが、わずかなうちに前よりも豊かに回復されたのである。

これは筆者にとって、天からもう一度与えられたヨブの子供たちに等しい。

神にはこの世の経済や物流を支配することなど何でもなく、私たちが損失だと思っているようなものはいくらでも回復することがおできになる。

だから、試練があっても、筆者の人生に損失は生じなかった。そして、追い詰められて窮するということもなかった。その結果はこれから徐々に表れて来ることであろう。

しかし、目に見える結果がはっきりと現れるよりも前に、筆者自身の人間としての内なる尊厳が、完全な回復軌道に乗ったことが分かる。このことが何より最も肝心である。

たとえば、普通の人々は、脅されれば恐怖におじ惑い、いじめられれば泣いて逃げ、中傷されれば、悩み苦しむだけの、弱く、臆病な人間であろうが、そのようなどこにでもいるありふれた人間とは異なる、キリストと共に天の王国を統治するにふさわしい力と威光と尊厳を備えた真に「新しい人」が、筆者の内側に姿を現し始めているのである。

この新しい人格は、どのような試練が起きようとも、御名の栄光のためにすべてを捧げて前進することができる勇敢な新しい人格である。だが、それは勇敢な兵士のようであると同時に、言葉に言い尽くせない平安に根差した実にチャーミングな人格でもある。

それをクリスチャンの用語では「キリストが内に造り込まれる」と言う。しかし、キリストの人格が私たちの人格の内に彫り刻まれ、形作られるために、まず必要なのは、試練である、と言うと、多くの人たちがそんな苦しみは御免だと、ためらって去って行くかも知れない。

しかし、この試練をくぐりぬけずして得られるものは何もない。試練の只中で、忍耐して希望を持ち続けて信仰によって進むとき、初めて、この世のすべての有様を超越した、何によっても揺るがされることのない新しい人格が内側から生まれて来るのである。この世のどんな利益とも引き換えにならない神への愛と従順が生まれて来るのである。

だが、それは一足飛びには行かない、本当に少しずつ、少しずつの進歩である。

そして、この原則は全ての信じる者たちに共通する。当初は状況に翻弄され、きりきり舞いさせられ、四方八方に助けを求めているだけのように見えたか弱い人の中から、少しずつ、信仰によって、神の強さが発揮され始める。束縛されて苦しめられているだけのように見えた人の中から、自由と尊厳が回復される。混乱し、悩みに満ちていたように見えた人の中から、揺るぎない平安と喜びが生まれて来る。

今日が恵みの日、救いの日、日々、囚われ人が解放され、悲しむ者が慰めを得、キリストにある新しい人が、弱った人々の中に、徐々に姿を現し始める。

もちろん、キリスト者は信仰を持った時から、御霊が内に住んで下さるのだが、それだけではすべてが完了ではなく、その人自身の人格、考え方、気質、行動が、長い時間をかけて、人間的な水準から、御国の水準へと、変えられなければならないのである。

こうして生まれる新しい人格には、力と権威と尊厳が伴っている。それは幼い日のヨセフではなく、キリストの御丈まで成長し、霊的に成人に達したヨセフである。神の御心が何であり、何をすれば、神に喜ばれるのかを知っている熟練した神の僕である。

その新しい人格がはっきり姿を表せば表すほど、信仰者の内側から、キリストのまことの命の支配権が発揮され、行使されるようになる。筆者はそう確信している。

筆者はまだまだ御霊による支配を十分に知ったとは全く言えないが、少しずつ、御国の前進が、目に見える形で地上に及んでいることを感じつつある。そこで、この先の歩みは、これまでとはかなり違ったものになるだろうと予感する。

さて、そろそろスローテンポにしていたブログ更新をリアルタイムに戻したい。

これまで幾度となく述べて来たことの繰り返しになるが、神の国とその義をまず第一に追い求めなさい、そうすれば、すべては添えて与えられる、という御言葉は本物である。

「信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それらはみな、異邦人が切に求めているものだ。
あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:30-34)

この御言葉が真実であることは、筆者が生きて来た行程のすべてを振り返っただけでも、十分に分かることである。もしも神の国とその義を第一として生きるということをしなかったならば、筆者は今、ここに存在することさえきっとなかったのに違いない。

そこで、読者にも言いたい、もしもあなたがこの困難なご時世を、最後まで無事にそして勇敢に高貴な人として生き延びたいと願うならば、神の権益に関わる仕事をしなさいと。

真に御国の権益に関わる戦いを始めなさい。そのために持てるすべてを投じなさい。そうすれば、それを実現するために必要なすべてが、天から与えられる。誰にも助けを求める必要はない。このことは間違いのない教訓である。

だが、一体、何をすれば、神の御名に栄光を帰することができるのか? その方法は人それぞれに異なる。重要なのは、人間の利益のために奉仕するのではなく、神の利益のために奉仕することを第一に目指すことである。

私たちクリスチャンは、神の栄光が損なわれ、御名が傷つけられている現場を見たとき、これを素通りするのでなく、御名の栄光の回復のために働くべきである、と筆者は強く主張する。真実が曲げられ、正義が曲げられ、嘘と虐げと搾取がはびこり、何よりも神の花嫁たる教会が告発され、穢され、傷つけられ、蹂躙されているのを見たとき、これを素通りするのではなく、神が贖われた者を告発する者には、小羊の血潮に立って毅然と立ち向かうべきである。

キリストの花嫁なる教会は、キリストにとってご自分と同じほどに価値ある存在である。キリストがその命を捨ててまで愛され、贖われた花嫁である。その教会が蹂躙され、混乱に陥り、主の民が離散し、行き場を失うことを、果たして神が望まれるであろうか?

悪魔は立ち向かえば、逃げ去る、そう聖書に書いてある通り、そうして回復される権益は、この世のすべての利益にまさる、御国の権益である。このようにして、御国の権益を地上で拡大して行くことが、神の喜ばれる奉仕なのである。

とはいえ、各自が主の御名の栄光のために奉仕する方法は、様々に異なるので、御国の権益を守り、拡大するための戦いの方法には、決まった型があるわけではない。だが、いずれにしても、その戦いに共通している点は、一人一人が、自分が生き永らえることだけを第一目的として生きるのではなく、真に神の栄光を回復するために、御国の拡大のために、自分の人生を残らず捧げることである。

そうするときに、どんな困難が起きようとも、神があなたの人生に最後まで責任を持って下さり、平安のうちに必要のすべてが備えられる。あなたの望みを実現に至らせて下さるのは神である。明日の苦労といったものは、本当に些末な問題でしかないことが分かるだろう。もちろん、兵士である限り、戦いは激しく、厳しいかも知れないが、それを切り抜けるために必要な知恵も、助けも、慰めも、物資も、すべて天から供給される。

だから、あなたは自分が一人ですべてに立ち向かっているのでは決してないことが徐々に分かって来るだろう。それどころか、私たちを中心として、すべてのものが、やがて私たちの内におられるキリストの権威と支配に服従するようになるのである。

キリストが万物を足の下に統べ治める方であるというのは、絵空事ではなく、私たちキリスト者一人一人の生き様を通して実現する事柄なのである。だから、私たちは、キリストの支配が本当に自分の身の周りで実現するまで、彼がすべてを足の下にするのを見るまで、ずっと十字架を貫き通さなければならない。試練があったからと言って、決してあきらめて退却してはいけない。

天から竜を投げ落とすための秘訣は、小羊の血(贖いによる義認)に固く立って、試練があっても、死に至るまで証の言葉を降ろさないことである。

また、ゼカリヤ書で大祭司ヨシュアを訴えるサタンが罪に定められたように、今日も、神は、クリスチャンを訴える悪魔に対してこそ、有罪を宣告される。

そして、神は私たちの汚れた衣を脱がせ、新しい祭服を着せられ、清い帽子をかぶらせて下さる。ちょうど帰って来た放蕩息子が新しい服を着せられたように。これは私たちの人格の内なる造り変えを象徴する描写である。

そして、この造り変え、聖別は、日々行われる。このように神に守られ、愛され、義とされ、とりなされ、聖別されるために必要なことは、日々、神の戒めを守り、御言葉に従って歩み、祭司としてのつとめを果たすことである。

愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」(一ヨハネ4:18-19)

このようにある通り、全き愛は、恐れを取り除く。だが、そのような完全な愛は、神への愛、何よりも、神が私たちを愛して下さる愛の中にしか存在しない。御霊によって、その交わりの中に入れられるとき、私たちの心の中から、恐れは取り払われる。そのように神の愛を知る時、私たちは初めて、どんな試練にも臆せず、自分の残るすべての生涯を、御国の前進のために捧げることができるようになる。それは決して自分自身の決意や力にはよらない。

だが、同時にその愛は、私たち自身の人格を造り変え、私たちを神にあって、他者との関係にも、御心をもたらすことができる人へと変えて行く。ヨセフはエジプトに売られた後、自分の生まれ育った故郷とも、父とも兄弟たちとも関わりがなくなり、長い間、彼らとは二度と会うことさえないと考えていたであろうが、それにも関わらず、神はその当時から、ヨセフを通して、彼の一家に恵みをもたらそうと決意されていたのである。

私たちが本当に神に対して自分を捧げるならば、似たようなことが起きる。私たちの存在は、そのものが「キリストによって神に献げられる良い香り」(Ⅱコリント2:15)となり、私たちの自覚とは関わりのないところで、他者を生かすために用いられるだろう。私たちは自分で何かをしてやったなどとは全く思わないかも知れないが、私たちの存在そのものが、神のご計画の成就のために欠かせない一部となるのである。(しかし、滅びる者にとっては、「死から死に至らせる香り」であり、救われる者にとって「命から命に至らせる香り」である。)

* * *

「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。
神のメシアの権威が現れた。
我々の兄弟たちを告発する者、
昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、
投げ落とされたからである。

兄弟たちは、小羊の血と
自分たちの証しの言葉とで、
彼に打ち勝った。
彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。」(黙示12:10-11)

* * *


「時に主は大祭司ヨシュアが、主の使の前に立ち、サタンがその右に立って、これを訴えているのをわたしに示された。  主はサタンに言われた、「サタンよ、主はあなたを責めるのだ。すなわちエルサレムを選んだ主はあなたを責めるのだ。これは火の中から取り出した燃えさしではないか」。
ヨシュアは汚れた衣を着て、み使の前に立っていたが、 み使は自分の前に立っている者どもに言った、「彼の汚れた衣を脱がせなさい」。またヨシュアに向かって言った、「見よ、わたしはあなたの罪を取り除いた。あなたに祭服を着せよう」。 わたしは言った、「清い帽子を頭にかぶらせなさい」。そこで清い帽子を頭にかぶらせ、衣を彼に着せた。主の使はかたわらに立っていた。
主の使は、ヨシュアを戒めて言った、「万軍の主は、こう仰せられる、あなたがもし、わたしの道に歩み、わたしの務を守るならば、わたしの家をつかさどり、わたしの庭を守ることができる。わたしはまた、ここに立っている者どもの中に行き来することを得させる。」(ゼカリヤ書3:1-6)

2018年5月26日 (土)

祝福あれ、主の御名によって来る人に。私たちは主の家からあなたたちを祝福する。(2)

「義のために迫害される人々は、幸いである。
 天の国はその人たちのものである。

 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:10-12)
 
厳粛かつ喜びに満ちた朝である。戦略的なことなので今は詳しくは話せないが、最初の訴えの提起が終わり、これから順番に複合的な訴えを次々に出して行くことになる。ものすごい量の文書だ。受けとる者をさぞかし煩わせることになろう。インターネットに発表する文章にはいかなる法的価値もないが、ネット上によた言を並べるくらいなら、ちゃんとした効力を持つ文書を書いた方が良い。

さて、重要な日に限り、道路へ出ると仮免許の車がノロノロと前を走っていたり、渋滞に巻き込まれたりして、なかなかスリリングである。だが、心の中は実に平安だ。主よ、目的地へたどり着くまで守って下さいと祈りつつ、何だかアクション映画の主人公になったような気分だ。

ところで、最近、ある若い登山家が、エベレスト登頂に失敗して亡くなったという。なんとそれまで7度挑戦し、7回とも失敗した上での8度目の挑戦だったのだという。その人は登山家と呼ぶには、世界ではあまりにも無名の存在で、プロの登山家の間では、登山家としての評価はあまり受けていなかったらしい。

むしろ、世間からの応援を受けて、「登山のショー化」とでもいうべき、プロの登山家とは全く異なる挑戦を行う異色の存在として見られていた。近年は、実績がなさすぎるのに、あまりにも無謀な挑戦をしているとして、このまま行くと死の危険があるという警告すらもなされていたというのだ。まさにその危惧が的中した形となった。

その登山家には大企業のスポンサーやファンの数々がついて、熱烈な応援が続けられていたという。プロの登山家の目から見れば、到底、エベレスト登頂(しかもただの登頂ではなく極めて困難な挑戦)を果たす実力などなかったにも関わらず、おだてられ、祀り上げられ、担ぎ上げられて、引くに引けなくなり、毎年の失敗の後に、ついに最後の挑戦に赴き、そこで命を落としたのだという。

嘘の混じった感動体験の終わりは何とも悲惨なものである。束の間の高揚感の後で、手痛いツケがやって来る。担ぎ上げた人々の心にも、忘れられない苦い教訓となって残ることだろう。

この登山家は決して詐欺をやっていたわけではないが、自分の身の丈を知らず、本当の意味での登山家の精神を持っていなかったと見られる。決してこれと同列に並べるわけではないが、最近では、ピアニストとして活躍するのに十分な実力と才能があったわけでもない日本人の若者が、「シチリア公マエストロ殿下」などと詐称して、自分を偉大なピアニストに見せかけて、ヨーロッパなどで詐欺的公演活動を繰り広げていたというニュースもあった。

約10年前の日本では、日本人が国外でこのような大規模な詐欺活動を行うとは、ほとんど考えられていなかった。我が国の人々は、根気強い努力や、忍耐力で知られていた。それがここほんのわずかな間で、地道な努力を嫌い、時間をかけて高い目標を目指すのではなく、短期間で、ドーピングのような不正な方法を使って、人を出し抜き、欺きながら、虚構の実績を築き上げ、人々のアイドルとなり、大金を稼ごうとするような人々が現れるようになった。だんだんこの国が本当に壊れて来ていることを感じる。

ペンテコステ運動もこれに似ている。この運動からは、実に様々な「霊の器」たちが、線香花火のように束の間、現れては消えて行った。この運動では何かの超自然的な力を持っていれば、それだけで、誰でも指導者になれる。地道な教育訓練など必要ない。短い間で人々の注目を集め、華やかな舞台を作り上げることさえできれば、それが成功なのだ。彼らの「ミニストリー」は、まさにショーと呼んだ方が良いであろう。

だが、ショーであるがゆえに、それは内実が伴わない、束の間の幻のような夢でしかなく、その夢のあとで、苦い教訓が訪れる。

ペンテコステ運動から生まれて来たカルト被害者救済活動も同じである。これは『水戸黄門』や、『暴れん坊将軍』といったドラマと全く同じ、キリスト教界を舞台とした勧善懲悪のドラマである。正義の味方をきどる人達が、勇敢に次々と悪者をやっつけるというドラマを、現実を舞台にして演じ続けているのである。

観客は斬り合いの場面を見て溜飲を下げ、悪者とされた人々をさらしものにして引きずり回し、その悪事の証拠をつつき回し、非難する。

これがドラマであるうちは良いが、現実を舞台にしているところが、非常にいやらしく、恐ろしい。現実では、一人の人間が、ずっと絶え間なく正義の味方を演じ続けるなどのことは不可能だ。むろん、そうそう都合よく悪者が次々と登場して来るはずもない。

それにも関わらず、たとえばネット上で誰かが正義の味方のように発言を始めると、おかしなことが起きる。取り巻き連中が集まり、ヨイショしてショーが始まり、彼らは現実を舞台に、ずっと正義の味方を演じ続けるしかなくなってしまうのだ。

すると、どういうことが起きるだろうか? 

悪者を「製造」するしかなくなる。次から次へとドラマの材料となりそうなストーリーをかき集めて来ては、絶えず悪者を作り出し、これを糾弾するしかなくなる。

現実にはそんな都合の良いドラマがあるはずもなく、彼らに人を裁く権限もないにも関わらず、ただ自分を正義と見せかけるために、「カルトの疑いあり」と嫌疑をかける相手を終わりなく見つけて来ては、自分が勇敢に「敵」と戦い、「敵」をやっつけているという演出を行うしかなくなる。

観客は、血に飢えているので、もはや現実と虚構の区別がつかなくなり、「生きた生贄」を次々と求める。どこかで聞いたような話だ。ローマの衆愚制の末期状態の「パンと見世物」にも似ている。

私たちの進むべき道は、自己栄化の道ではない。自分で自分を義とし、誉めそやし、人々から注目を浴びて、群衆と手に手を取り合って歓呼されて進んで行く道ではない。

自分に都合の良いことを言ってくれる人が、真実を述べているのだという短絡的な考え方を、いい加減に卒業せねばならないのだ。

人々があなたを取り巻き、あなたにおべっかを使うのは、決してあなたを愛し、あなたのためを思っているからではない。コメント投稿者は、ただ自分の欲望を誰かに重ね、その人間に賛辞を送ることで、自分はしかるべき代価を払わずに、誰かの中に手っ取り早く夢を見、自分の代わりに、その人物を前線に立たせて自分の夢を実現するために戦わせようとしているだけだ。

要するに、あなたを破滅させるために、あなたを賞賛しているだけなのだ。

虚栄の生き方を行う人々の末路は非常に厳しいものとなる。そのようにして偽りの高みに祀り上げられた挙句、破滅することに比べれば、低められることは、イエスの過越の血潮の中に隠れることであるから、まことに幸いである。

主イエスは罪がなかったのに、罪とされ、十字架の死に至るまでの苦難を受けられた。ご自分の生きておられた時代にもてはやされることなく、宗教指導者として祀り上げられ、権威を振るうこともなく、地上では、家も、財産も、ご自分の職業も、家族も、友人も、何一つ所有せず、何も持たない人として、ご自分の生涯をすべて人々のために捧げられた。

我々の救い主が地上で栄光をお受けにならなかったのに、その僕である私たちが彼に先んじて栄光を受けるとすれば、それは何かが完全に間違った生き方であると言える。

これが試金石なのである。私たちがイエスのために、自己を否むことができるのかどうか、蔑みや、嘲笑や、悪罵の言葉をも乗り越えて、福音のために身を捧げることができるかどうか。それとも、ただ自己の栄光のために福音を利用しているだけなのか。

それをはっきりさせる何より明白な試金石である。

地上のエルサレムはそれぞれの石が残らないほどに崩壊したが、天のエルサレムにこそ、神の眼差しが注がれている。

誰がご自分の僕であり、誰が神の義に立っているかは、必ず、神ご自身が証明される。だが、私たちは、それを自分で人前に振りかざすことはしない。悪魔の不当な訴えには毅然と立ち向かい、当然ながら虚偽をのべている人々は恥をこうむることになるが、それでも、私たちがよって立つのは、神の義であって、自分自身の義ではないのだ。

地上のエルサレムは、神が遣わされた預言者らを受け入れることを拒んだ。
今の言葉で言えば、彼らは神が遣わされた預言者や僕らを、カルト扱いしたということになろう。

しかし、私たちは、心から言う、

「祝福あれ、主の御名によって来る人に。私たちは主の家からあなたたちを祝福する」と。

私たちは誰が主の御名によって来る人々であるかを見分け、彼らを追い出したり、排斥することなく、喜びを持って迎え入れる。

そう、この言葉は、私たちが「主の家」にいればこそ、言えることだ。

ダビデは言った、

主はわたしの光、わたしの救い
 わたしは誰を恐れよう。
 主はわたしの命の砦
 わたしは誰の前におのおくことがあろう。

 さいなむ者が迫り、
 わたしの肉を食い尽くそうとするが
 わたしを苦しめるその敵こそ、かえって
 よろめき倒れるであろう。

 彼らがわたしに対して陣を敷いても
 わたしの心は恐れない。
 わたしに向かって戦いを挑んで来ても
 わたしには確信がある。

 ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。
 命のある限り、主の家に宿り、
 主のを仰ぎ望んで喜びを得
 その宮で朝を迎えることを。

 災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ
 幕屋の奥深くに隠してくださる。
 岩の上に立たせ
 群がる敵の上に頭を高く上げさせてくださう。
 わたしは主の幕屋でいけにえをささげ、歓声をあげ
 主に向かって賛美の歌をうたう。」(詩編27:1-6)

偽りの証人、不法を言い広める者が、ダビデに逆らって立つ時、ダビデは、はっきりと彼らの前で、神の守りと慈しみを宣言する。神が自分の頭に油を注いで下さり、敵前で食卓をもうけて下さることを確信していた。

「わたしは信じます。命あるものの地で主の恵みを見ることを。
 主を待ち望め。雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。」と。

命あるものの地で、主の恵みを見る。何と良い言葉ではないか。私たちはまだ見ぬ都に思いを馳せながら、主の御顔を尋ね求める。主に似た者とされるために。エクレシアは要塞をも打ち破る力を持った強力な神の軍隊。神の守りが私たちを覆い、私たちの霊・魂・肉体のすべてを人知を超えた平安により守っている。

2018年5月19日 (土)

もし神が私たちの味方であるならば、誰が私たちに敵対できますか。どんな被造物も、キリストによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです。

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために取り成してくださるのです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができるましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。

「わたしたちは、あなたのために、
 一日中死にさらされ、
 屠られる羊のように見られている」

と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にあるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:31-19)

とても気持ちの良い穏やかな日が続いている。書類の作成の真っただ中であるが、冒頭では少し違った話題を提供しておきたい。

筆者がヴァイオリンを再開してから約1年が経とうとしているが、今取り組んでいる曲の中には、バッハの『シャコンヌ』もある。

ブゾーニがこの曲をピアノ用に編曲していることを知ったのは比較的最近だ。両方をやってみると、改めてバッハのこの曲の奥深さ、ブゾーニの編曲の見事さが分かる。ピアノとヴァイオリンの両方の楽器の特性を活かして、それぞれの長所を曲に取り入れることもできる。

むろん、シャコンヌはもとは舞曲の様式であるから、葬儀とは何の関係もない。だが、筆者が昨年、ブゾーニの編曲版を練習し始めたのは、親族が亡くなる直前にあることを知らされたことがきっかけだった。

親族を見送るために演奏しようと考えていたのである。しかし、その親族の家にはピアノがなく、筆者は葬儀には立ち会うこともなかったので、幸いなことに、この美しくダイナミックな曲を葬儀で演奏することはせずに済んだ。

それでも、不思議なことに、その人が亡くなったのは、ちょうど筆者がこの曲に取り組み、曲がそれなりに出来上がった時のことであった。「そろそろ、完成したな」とつぶやいたその次の日に、その人は亡くなったという知らせが来たのであった。

バッハは敬虔なキリスト教信者であったが、筆者はこの曲の中に、それほど信仰的な要素を感じない。これはバッハの信仰を否定しているわけではなく、バッハの曲が、非常に人間的に感じられるということを言いたいのである。

信仰の歩みは、ある意味で、とても軽快な部分がある。人間の魂のあの切ないまでのもつれ、悲しみ、叫びといったものは、信仰生活にはそれほど関わって来ない。キリストの復活の命を知ると、特にそうだが、以前には抜け出られなかったそうした魂の重荷ともつれから、かなり解放される部分がある。

キリストにあっての信仰の歩みは、重い足取りではなく、相当に軽快な足取りなのである(筆者の記述からはあまりそれが感じられないと言われそうだが…)。

しかし、バッハの曲には、永遠にたどり着こうと願いながらも、自力ではそれができない、生まれながらの人間の限界、魂のもがき、紆余曲折、脆さ、儚さなど、人間のあるがままの弱さと、魂の遍歴、呻きが非常によく表れているように感じられる。

この曲を聴くと、生まれながらの人間の有限性を痛切に感じさせられ、人間とは一体、何なのだろうかという厳粛な思いにさせられる。聖書の中で呈される「人とは何者なのでしょう」という疑問は、神の人間に対する深い愛に基づくものであるため、感謝と喜びに満ちているのだが、バッハの曲から感じられる疑問は、まだ永遠にたどり着く前の人間の切ない叫びのように感じられてならない。

さて、ピアノがない代わりに、親族の家にはヴァイオリンを持って行ったが、その時、筆者の手元にあったのは、安物の楽器商から買った音の良くないヴァイオリンだけで、顎当てもなく、覚えている曲も、子供時代に弾いた一曲くらいであった。

当然ながら、演奏と呼べるような曲は弾けず、親族からのコメントもなかったが、その人と筆者とは全く異なる価値観に生きており、その人はクラシック音楽にも一切、関心がなく、最後まで「音楽など聴く高級な耳は私にはない」などと皮肉を言っていたほどなので、うまく演奏ができていたとしても、やはりコメントはなかっただろうと思う。

筆者がその人をバッハの曲で送ってあげたいと考えたのは、どちらかと言えば、筆者の自己満足であり、その人はバッハの音楽を理解する耳を持っていなかったので、そんなことを全く必要としていなかったのである。

だが、そういういきさつもあって、筆者は、この人と生きているうちに喜びを共有するためだけに会い、この曲を葬儀で演奏しなかったことは、まことに幸いだったと考えている。そして、この曲を弾いているうちに、いかにこの曲が荘厳で、有限なる人間の切ない魂の叫びを感じさせると言っても、それでもやはり、生きることの喜びを感じずにいられないのである。

音楽を演奏するのは、人を死出の旅路に送り出すためではなく、生きていることの喜びを共有するためである。

さて、それにしても、初心者が『シャコンヌ』をヴァイオリンで弾くというのは、どう考えても、背伸びのしすぎという考えもあるだろうし、実際、その通りだと言えよう。もし十分に時間があるならば、この曲にたどり着くまでの間に、あまたの曲に取り組み、そのような無謀な挑戦は避けるべきだと思う。

それでも、筆者はもともとこの楽器を思うように弾けるようになるまで、何年越しかのチャレンジだと覚悟を決めていたので、時間がかかることは最初から承知で、焦りもなく、気楽なものであった。

筆者は、ヴァイオリンについては、まずは楽器に友達になってもらうことが大切と考え、決して強引で無理な接近はしないことに決めている。一日に長時間弾くこともせず、難解な箇所を延々と繰り返すようなうんざりする練習の仕方を決してしない。弾けても弾けなくとも、無理をせず、曲が難しく、嫌になりそうになれば、2、3日、「寝かせておく」。

すると、しばらく経って、再び取り上げてみると、思いのほか、前には弾けなかったところが、弾けるようになり、出せなかった音が出て、不思議と上達しているのだ。一体、眠っている間に、なぜ上達があるのか、本当に不思議としか言いようがない。

ヴァイオリンは音作りのためだけに相当な時間がかかる。曲を覚えるのに時間は要らず、運指やポジションを覚えるのも全く大変ではない。とはいえ、重音の連続を美しく聞こえるように弾けるようになるまでには、大変な月日がかかる。低い弦の高音域は、押さえても音にならない。一曲を弾き通すだけでも、最初はエベレスト登頂のようにはるかに遠く感じられた。

それでも、取り組むこと3~4ヶ月くらいの頃だろうか、ある時、動画を見ていると、演奏者がまるで自分に乗り移ったように、力加減、バランスのとり方などについて、ふっと疑問が氷解したのであった。ああ、これで峠を越えたな、あとは時間をかけてゆっくり細部を完成させて行くだけだ…と分かったのである。この曲をある程度、満足するよう弾けるようになるまで、3年も5年もの月日はかからないであろうと分かった。

さて、この記事と話題が異なるが、今準備している書類について、少しだけ書いておこう。損害賠償請求訴訟は、原告の住所地(の管轄裁判所)で提起できる。被告が移送を申し立てても、よほどの理由がない限り、認められないことは、IWJの岩上氏が橋下氏から受けたスラップ訴訟の件でも証明されている。

裁判の管轄を決めるのはあくまで裁判官であって、管轄を争った場合の結果をある程度、予想することは可能でも、事前に断定することは不可能である。特に、岩上氏はジャーナリストで全国各地を飛び回っていることから、移送の申立てが認められなかったと見られる。それでは、被害者のために全国各地を飛び回っている牧師はどうだろう? 少し予想すれば、軽はずみに断定的な発言を記すことは控えようと思うはずである。

また、ブログの記述が名誉毀損に該当しないことを証明するためには、その記述内容が真実であることを裏づけるために被告の論証が必要になるのは言うまでもないが、これは被告にとって大変に骨の折れる作業になるというか、ほとんど不可能であると言って良い。もともと真実でない記述を真実だと論証するなど、誰にとっても無理な相談だ。

また、他人のブログの題名や文章を大量に剽窃して記事やコメントに含めたり、他人のブログに不必要なリンクを大量に貼るような記事を数多く投稿したりすることは、むろん、逆SEOの手法に含まれる。

工作員や親衛隊という言葉も、学生運動の専売特許ではない。コメント投稿者と共同して不正に検索順位を操作した記録があまた残っているのだから、工作員との共同作業と言われるのは仕方がないだろう。

もちろん、裁判手続きを取ったり、警察を利用することは、市民としての正当な権利を行使することであって、「公務員に助けを求める」ことを意味しない。裁判所の書記官はただ事務手続きを行うだけであり、警察は捜査を行うだけで、物事に白黒つけて決着を下すのは彼らではない。これらの人々は市民の救済者ではない。公務員は国民の公僕であるから、行政の職員はサービスを提供し、司法の職員は司法手続きを前に進めるだけである。

筆者がブログで述べているのは、憲法の言う公務員とは、選挙で選ばれた政治家を指すのであって、国家公務員制度や公務員試験の由来は、戦前の明治憲法時代の官吏にあるということだ。つまり、現在の公務員と呼ばれている人々は、旧時代の遺物なのである。

だが、こうした主張も、筆者の専売特許ではないし、何ら筆者が公務員を「罵倒」していることにも当たらない。ましてそれは筆者が市民として裁判を利用したり、警察を利用したりすることを不当であるかのように非難し、押しとどめる根拠とはならない。

こうしたごくわずかな事項を取り上げただけでも、向こうの記述がいかにデタラメで、およそ司法手続きを理解しない人間の言い分であり、勝ち目が薄いかは誰にでもすぐに分かるだろう。反論する価値もないので、これ以上詳しく書く必要もないものと思う。しかも、大半の記事は内容の是非を問う以前に単なる著作権法違反として削除の対象となる。

このような事態だからこそ、ずっと以前から、筆者はラスコーリニコフに学ぶよう伝えているのだ。

筆者は大地にひざまずき、神に感謝を捧げる。だが、それはラスコーリニコフのように罪の赦しを乞うためでなく、罪赦されて、義とされ、復活の命が与えられ、勝利していることを神に感謝するためだ。

クリスチャンは、自分が神に選ばれた者であることを大胆に宣言できなくて一体、どうするのだろうか。万民祭司の今の時代、クリスチャンは一人一人がみな神の預言者であり、祭司なのではないと否定するつもりなのだろうか。一体、そうした揺るぎない聖書的事実を自ら否定してどうするつもりなのだろうか。それは自分がクリスチャンではなく、神に選ばれておらず、神の祭司でも預言者でもなく、「神に疎外されし者」であることを、まさに自分自身の口から告白しているのと同じではないのか? そのようなことは考えるだに恐ろしい告白である。

筆者は、冒頭に挙げた御言葉は、まさに筆者のためにあることを信じて疑わない。筆者だけでなく、むろん、すべてのクリスチャンに同じように当てはまる。悪魔はディアボロスすなわち中傷者であり、訴える者である。しかし、キリストにあって、私たちにはすべての訴え、すべての罪定めからの救いと勝利が与えられているのだから、絶大な血潮の価値を確信して、大胆に前進して行くべきなのである。

この土地に、キリストの主権が打ち立てられることを確信して、高い山に登頂した人がするように、筆者は目に見えない勝利の旗を立てる。そして心で言う、主よ、感謝します。あなたの御言葉は正しく、あなたの知恵は十分で、あなたの栄光は揺るぎません。

私たちは永遠に至るまで、キリストの復活の証人であり、自らの証しを公然と高所に掲げるのです。私たちは世の光であって、山の下にある町は、この光から隠れることはできません。

白毫が世界を照らすのではない。私たちの持っているこの小さな光こそ、神の御言葉の真実を証するものとして世を照らすのです、私たちはこの光を隠しません・・・。


<参考までに…>


アルトゥール・ルービンシュテイン


ヤッシャ・ハイフェッツ


ナタン・ミルスタイン


イツァーク・パールマン


アンドレス・セゴビア

2018年5月12日 (土)

小さな群れよ、恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国をくださるのだから!

「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4:7)

さて、当方が申し立てた民事調停の第二回目の期日が開かれなかったことを、まるで当方が一方的に調停期日を「キャンセル」したかのように、自分に都合よく言いふらしている連中がいるようなので、一言断っておきたい。

普段から、裁判、裁判と叫んでいる割には、彼らは裁判手続きの詳しいことをよほど知らないらしい。当方は、申立を取り下げたわけでは全くなく、そもそも民事調停のキャンセルと不成立は全く違うものなのだ。

今回は、訴訟へ切り替えるために、裁判所に調停不成立としてもらえるよう要請を行った。後日、必要文書が裁判所から送られて来るので、それをつけて訴状を出すだけである。

民事調停は不成立になれば、これを前提として訴訟に移行することができる。その方がゼロベースから訴訟を起こすよりはるかに有利なのだ。しかも、今度は、原告の住所地の裁判所へ訴状を出すことになる。わざわざ遠方へ足を運ぶ必要がない。実に便利である。

訴えは複数、提起することになろう。しかし、この辺のことは戦略なのでブログで詳細を公にはしない。だが、本訴となれば、判決も含めて、申立の内容も、答弁書も公表されるため、誰が嘘を言っているのかは、当然ながら、万人に知れ渡ることになる。訴えに反論するためには十分な証拠が必要であり、根拠のある反論ができなければ、原告の言い分が認められるだけである。

カルト被害者救済を唱えている陣営は、案外、裁判手続きに疎いようで、この当たりのことを何も知らずに、ただ調停が開かれなかっただけで、争いは終わった、自分たちは勝った、通常通りの生活に戻ったと、恥ずかしげもなく嘘のプロパガンダを流布しているようだ。相変わらず、刑事事件も終結していないうちから、あまりにも軽率な連中である。
 
だが、考え違いをしないでもらいたいのだが、彼らのついた嘘は必ず、責任追及されることになる。当ブログは信仰告白がメインなので、裁判手続きについて細かいことは、これからも事前には決して書かない。場合によっては、事後も書かないことがあるかも知れない。今、言えるのは、こちら側では必要なアクションを着々と取って行くだけであり、脅されたからと言って退却することは決してないということである。

向き合う価値のない連中、あまりにも愚かな論争とは思うが、バアルの450人の預言者を相手取ったエリヤと同じように、勇敢に、決して途中で諦めたり、手を引くことはせず、決着をつけるまで戦い抜く所存である。

これまでも、幾度も見て来た光景なのだが、理屈の勝負となった時に、人数や力だけをよりどころとして来た連中は、絶対に勝てない。仮に向こうが当方を「口達者なだけで臆病な兎」と考えて馬鹿にし、見下げているとしても、口で筋の通った理屈を唱えられなければ、負けるのが裁判というものなのだ。そこでは、人数も図体も腕力も何の頼りにもならない。

それが証拠に、鳴尾教会との裁判で、アッセンブリー教団・村上サイドはボロ負けしている。そうなるまで、鳴尾教会の信徒の人数の減少を、村上は鬼の首でも取ったように吹聴して、さんざん上から目線で馬鹿にしていたが、その村上が負けたのだ。次には、「穴にこもった兎」と揶揄してさんざん馬鹿にしていた人間に負けることになる。事前に馬鹿にすればするほど、敗訴した時にはさらに面目丸つぶれとなろう。

このように、ジャイアン対のび太、ジャイアン対スネ夫の勝負であっても、ジャイアンが必ず負けるのが裁判というものなのだ。ジャイアン相手であれば、誰でも訴状を出しさえすれば、自動的に勝てると言っても過言ではない。別に口達者でなくてもよいのである。ジャイアンには腕力以外の取り柄がないので、誰にとっても恐れるに足りない。しかも、申立書は8割方出来ている。

もっと言えば、私たちはロゴスなるキリストに立脚して、信仰によって、すべてのことを行っている。私たちには、決して揺るがされることのない永遠の岩なるお方がおられる。だが、向こうには何も立脚するよりどころがない。あえて言うなら虚無の深淵、混沌から生まれて来たような、信仰のない連中である。このような闇が光に打勝つことは決してあり得ない。よろめいても、つかまる支えになるものさえ彼らにはなく、風に吹き去られるもみ殻である。

このような状況で、とある連中が、決着も着いていない争いについて、嘘のプロパガンダをさんざん流布していることは、こちらにとっては、実に好材料である。間違いなく、彼らが垂れ流す嘘は、賠償金や罪の重さに関わって来ることになるからだ。大いに油断させて、言いたい放題言わせて、周到に材料を集めながら、様子を見るのも一つの戦略で、愚か者は口が軽く、思い込みが強く、自惚れ切って、慢心しているため、自らの愚かさによって墓穴を掘るに任せよう。

ちなみに、参考までに書いておくと・・・

(被告の)名誉毀損行為が違法でないと認められるには以下の3つの条件が必要になります。
• 【公共の利害に関すること】
• 【書き込んだ目的が公共の利益を図るもの】
• 【その内容が真実である又は真実と信じる相当の理由がある】
これらを1つでも満たしていないことを裁判所に主張し、認められれば(原告の)請求が認められる可能性はあります。

これを読めば、我々にとっての戦いのハードルがどんなに低いかすぐに分かるのではないだろうか。筆者に関する誹謗中諸の書き込みは、この条件を全部満たしていない。筆者は公共性のある人間ではない。当ブログは公刊論文でもなく、宗教団体の発信したメッセージでもなく、公共の利益とは関係のない、私人の信仰告白に過ぎない。さらに、最後の真実であることの立証責任を彼らは絶対に果たせないであろう。本人でない者がこれを立証するのはもともと至難の業だからだ。

たとえば、実際に刑事告訴された人物について、事実に基づき、「誰それが刑事告訴された」とブログに書くのは、事実なので、基本的に違法行為とはみなされない。しかし、「誰それのブログ内容が犯罪的である」とか「誰それは精神疾患である」などと書き、それが名誉毀損の違法行為に当たらないと主張するためには、「誰それのブログに具体的な犯罪性があること」および「誰それが精神疾患に陥っていること」を、書いた本人や情報を掲載した者が、具体的根拠と共に立証せねばならないのである。

そこで、相手をよく知りもしないのに、根拠なく人を貶める印象批評ばかりしていれば、その記述のすべてについて、立証責任を問われることになり、それが立証できないために、誹謗中傷になって終わる。記事の削除くらいで済めば良いが、賠償請求の対象となる危険が極めて高いのだ。

だからこそ、当ブログでは結論を述べるに当たっては、必ず根拠となるソースを明白にするようにしている。画像の転載でも、安全と認められなければ、出典を記載しないことはない。こういう細かい作業は、論文の書き方の基本である。しかし、彼らの主張には根拠となるソースがいつもない。そこで、多分、彼らは反論のために論拠を探し出すだけでも、大変な苦労となるだろう。次々とネガキャンを書けば書くほど、立証責任がますます重く彼らにのしかかって来るというわけだ。

それから、もう少しだけついでに予告すると、訴えの内容如何によっては、賠償金は必ずしも判決が出てから支払いになるとは限らない。さらに、調停で一回請求がなされていると、延滞利息がつけられることもある。むろん、追加の請求が発生することは言うまでもなく…あとは、残念ながら、訴状が届いてからのお・楽・し・みだ。

そういうわけで、今、思い出されるのは、以前、筆者がこちらへ引っ越して来たばかりの頃に、筆者のバイクがいたずらで盗まれ、犯人が全員検挙された時のことだ。筆者は警察に被害届を出した際、犯人が見つかることには大した期待を寄せておらず、バイクも見つからないかも知れないと半分あきらめていた。しかし、すぐに近所で乗り捨てられていたバイクが発見され、それほどの故障もなく、十分に使用可能であったので、日常生活にはまるで支障をきたさなかった。後ほど弁護士から示談の電話がかかって来て、その時に、筆者のバイクを盗んだのは、8人くらいの少年グループで、あちこちで似た様な事件を引き起こしていたため、別の家で防犯カメラにばっちりと犯行の映像が映っていたことから、全員、面子が割れて捕まったと聞かされた。悔やまれるのは、その時、一人一人にきちんと賠償請求していれば、即座に新しいバイクが買えていたに違いないということだけである。

そこで、以前にも書いたように、村上密、杉本徳久を含め、カルト被害者救済活動の支持者らに誹謗中傷された人々は、集団訴訟に移行することを強くお勧めする。筆者はカルト団体は基本的に支持しないが、信教の自由を守る戦いにおいては、心は一つである。しかも、以上の連中は「不正に時効はない」という考え方のようなので、大昔の事件でも思う存分に追及されたら良いと思う。根拠のない脅しメール一通であっても、賠償請求に上乗せすればよろしい。迷惑を受けた宗教団体の方々は、アッセンブリー教団に公式に苦情と罷免の請求を送りつけられたらどうだろうか。当ブログでも、訴訟が開始すれば、署名なども募るかも知れない。

当ブログは、裁判沙汰やネガキャンにのめりこむことなく、この先も、あくまで基本路線の穏やかで平和な信仰告白と異端反駁を続けて行きたいと考えているが、おそらく、この事件の決着をつけることと、安倍政権の崩壊は深い所では一つにつながっているのではないかと感じられてならない。ネトウヨが跋扈して弁護士に勝ち目のない懲戒請求を送りつけるような、薄汚れた曲がった時代は早く終わらねばならない。きっと大勢の人々がそう感じているはずだ。

しかし、神の国の前進は、我々がぽかんと空を仰いでいてやって来るものではなく、一人一人のクリスチャンの毅然としたアクションにかかっている。そこで、我々は勇敢に真実を持って誠意ある行動を取るべきなのである。

「小さな群れよ、恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国をくださる。」(ルカ12:32)

2018年3月 8日 (木)

キリストの花嫁たる教会の聖と高貴さについて―キリストと共にすべての権威を超えて支配する教会―

オリーブ園に非常にタイムリーな記事が載っているため、転載したい。オースチン-スパークスの「土台のある都」 第六章 都――天の統治の座 (5)から。

三.その行政上の特徴

 教会に関して、また私たちの現在の題目である「土台のある都」としての教会のために、この手紙の中に示されている三番目の点は、その行政上の特徴です。この手紙の中にこれを明らかに示す数々の事柄が示されています。この都、この教会を構成するこの民の天的性質と霊性のゆえに、そこには一つの強力な行政上の要素があります。これに関して一つか二つの節を見ることにしましょう。

 エペソ一・二一~二二。「すべての支配、権威、力、主権、この世界だけでなく来るべき世界においても唱えられるあらゆる名を遥かに超えて高くされました。また神は、万物をキリストの足の下に服従させ、そして彼を万物の上にかしらとして教会に与えられました……」。主御自身と共に、そして教会の主権的かしらとしての彼の地位から始まります。

 二章六節。「キリスト・イエスの中で、私たちを彼と共に復活させ、彼と共に天上に座らせて下さいました」。ですから、彼の地位だけでなく彼の存在とも一つになる特権を私たちは与えられています。私たちは彼と霊的に結ばれたと見なされています。天上における彼の地位だけでなく、天上における彼の存在とも一つなのです。それはあらゆる支配、権威、力、主権等を遥かに超えています。教会は彼のこの地位とつながっています。

 三章一〇節。「それは今や天上にいる主権者たちや権力者たちに対して、教会を通して神の多様な知恵を知らせるためです」。これは行政上の要素ではないでしょうか?教会により、神は主権者たちや権力者たちという知的存在を支配しておられること、この知的存在に強い印象を与え、彼らを教え、御自分の多くの面にわたる知恵を知らせておられることは、極めて明白です。

 六章一二節から。この天上では、教会は戦いの中にあると見なされている一方で、教会は権力の座にあるとも見なされています。これは優位に立つため、優勢になるための戦いではなく、むしろ優位性を示すため、次の事実を示すための戦いです。すなわち、これらの主権者たちや権力者たちは敗北しており、天上にあるキリストとその教会とに服しているという事実です

 ここでエペソ六章と黙示録一二章とを比較する必要があります。エペソ六章では、教会は天上で主権者たちや権力者たちと格闘中であると見なされています。黙示録一二章の場合、一つの群れが悪しき者、暗闇の軍勢の激しい襲撃を受けています。その後、この群れはそれらの軍勢を天から投げ落とし、それらの軍勢が活動していた領域を統治する地位を完全かつ最終的に受け継ぎます。これがこの戦い、敵との大きな最後の戦いの終わりです。この戦いにより、敵は空中または天上の自分の場所から投げ落とされます。エペソ六章から黙示録一二章に目を向けるとよいでしょう。エペソ六章では戦い、代々にわたる戦いが進んでいます。黙示録一二章では、この戦いが最高潮に達していることがわかります。その結果、依然として天上にいたエペソ六章のこれらの軍勢は天から追い出され、もはやそれらのための場所は見つからなくなります。そして教会は天に残されて、王座の支配する地位を完全に占めます。

 以上の記事では、キリストは万物のかしらであり、万物を足の下に従わせ、「すべての支配、権威、力、主権、この世界だけでなく来るべき世界においても唱えられるあらゆる名を遥かに超えて高くされ」た方であるが、教会は、万物のうちから初穂として贖われたキリストに連なる存在として、キリストをかしらとしてその支配に服し、キリストと共に復活し、彼と共に天に座らされた者として、サタンが最終的な滅びと罰を受けるまでの間、この世を超越したキリストの目に見えない絶大な支配を、この地上において目に見える形で体現し、サタンのわざを打ち壊し、サタンを天から投げ落としながら、神の国の前進に寄与すべきミッションを負っていることが理解できる。

 前の記事にも書いた通り、キリスト者はこのように誰しもが、自覚しようとすまいと、暗闇の勢力との間での主権の激しい争奪戦にすでに巻き込まれているのである。

 それは、霊的陣地を巡る激しい争奪戦であり、戦いを開始するからには、必ず、勝利をゴールとせねばならない。

 この争奪戦の原則は、この世のチェスや将棋やオセロなどのゲームと基本的に同じである。戦いに勝利して、敵を敗北に追い込み、敵の財産を奪い、陣地を勝ち取り、そこに敵である暗闇の勢力の支配とは異なる、キリストの復活の命の支配を打ち立てることが目的なのである。

 パウロは次のように述べた、わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(Ⅱコリント10:4-6)

   すなわち、キリスト者は誰しも霊的戦いに遭遇しており、その戦いの中で、敵の要塞を打ち破り、敵の屁理屈をすべて打破し、敵の武装を解除して、その領土を明け渡させ、財産を分捕り、敵軍を捕虜として自らの隊列に加える権限を与えられているのである。

 キリスト者はこの戦いに無知であってはならない。霊的な敵を敗北に追い込み、捕虜として引いて行き、凱旋の行進で辱めてさらしものとして処罰を加えるまで、決して退かない覚悟を決めねばならない。
 
 だが、神の民と暗闇の勢力との間の争いについては、往々にしてクリスチャンがあまりにも未熟かつ無知なので、神の子供たちよりも、暗闇の勢力の方がはるかに狡猾で戦いに精通しており、それゆえに、先に神の子供たちに攻撃をしかけて優位に立とうとして来ることが多い。

 たとえば、カルト被害者救済活動を率いる村上密が、教会に恨みを持つ被害者を募っては、諸教会に裁判をしかけ、その教会を弱体化して、牧師を追放し、自らの教会に併合する(ブランチ化する)ということを繰り返して来たことをよく考えてもらいたい。

 彼らは、諸教会に激しい戦いをしかけて弱体化・疲弊させるために、自称被害者らを募り、その証言を利用しては、諸教会を中傷し、リーダーに悪者のレッテルを貼り、ネガティヴ・キャンペーンを張って悪評をまき散らし、信徒の離散を促し、さらに、それでも教会に残った信徒には、密偵を送り込んでは分裂工作をしかけて結束を弱め、それでも教会が陥落しなければ、教会に裁判をしかけ、教会が徹底的に弱体化したところを狙って、リーダーを追放し、教会の領土、信徒、財産を奪って、暗闇の勢力の財産に加えるのである

 このようなことは、福音伝道を主たる職務とする牧師の活動に全くそぐわないことは言うまでもないが、しかし、こうした彼らの活動は何よりも、暗闇の勢力が、村上密という一人の人間を利用しながら、神の教会に激しい戦いをしかけて、教会を弱体化させては陥落し、暗闇の領土として加えて支配するという方法論を取って来たことをよく示している。

 これは神の教会と暗闇の勢力との間で、激しい陣地の争奪戦がすでに開始していることを表している。すでに数多くの教会が脅しつけられて圧迫を受け、降伏するか、弱体化しており、Dr.Luke率いるKFCなども、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団によってすでに陥落された恥ずべき集会の一つであると言える。

 我々は、こうして、霊的な敵が、神の教会に執拗かつ激しい攻撃をしかけては教会を城のごとく陥落し、暗闇の領土に併合しようともくろんでいると分かっている以上、キリスト者の側でも、これに積極的に応戦して、敵に反撃し、敵の作戦を打破し、その悪しき計画を破綻せて、むしろ、敵の領土を奪い取って、キリストの復活の命によって支配される陣地を拡大せねばならない必要性に直面していることに気づかねばならない。

 つまり、我々は敵の望んでいることと正反対の現実が起きるよう、手を尽くして立ち向かわねばならないのである。

 敵が以上のように卑劣な方法と作戦を用いて、キリストの花嫁たる諸教会を蹂躙・冒涜し、教会から神の聖を取り除こうとしているならば、神の子供たちも、ただその作戦から自らを防御するだけでなく、これに徹底的に応戦して、敵に反撃して勝利をおさめなければならない。

 敵の中傷に対して、それが嘘であると説明して自己弁護しているだけでは全く足りない。霊的な敵どもは、神の教会を地上から殲滅・駆逐することを目的としており、その目的を成就しない限り、決して攻撃の手を休めることもなく、ターゲットから手を引くつもりもないことを理解して、これはどちらかが殲滅されるまで、決して終わらない戦いであって、神の子供たちも、決して手をこまねいていてはならず、敵と同じだけ執拗さと激しい憤りを持って、敵軍が完全に殲滅して力を失うまで、徹底的に攻撃をしかけて敗北に追い込まねばならないことを自覚すべきなのである。

 むろん、我々は誰からも戦いをしかけられていないのに、自ら誰をも攻撃する必要はないし、誰からも憎まれていないのに、誰をも憎む必要はない。

 しかし、神の教会の殲滅を目的として悪霊の思いを体現して活動している人間どもが確かに存在するという事実が分かったならば、これらの連中は完全に福音の敵であるから、それに立ち向かう過程で、容赦してはいけないことを知るべきである。彼らが自ら犯した悪事に対する処罰を受け、恥をかかされ、逃げ去り、彼らが神の教会をさらしものにして嘲笑したのと同じように、いや、その何倍も、嘲笑され、辱められ、さらしものとされる結果に追い込むまで、決して攻撃の手を緩めてはならないのである。

 なぜなら、こちらが徹底的に応戦しない限り、彼らは次々と教会に打撃を与えては教会を破壊することを決してやめないからである。キリスト者は敵のわざを完全に破壊するために、具体的な反撃を行わねばならないのである。

 それは、真の意味での「聖戦」であり「十字軍」である。

 ほとんどのクリスチャンは、信仰生活とは、教会で讃美歌を歌い、楽しい昼食会を開き、お気に入りの信徒たちと歓談にふけり、折り紙を折ったり、キャンプに行ったりすることだと考えており、霊的な戦いが常に進行中であることを全く知らないし、意にも解さない。

 しかし、そのような未熟なクリスチャンであっても、思ってもみない激しい攻撃をしかけられれば、さすがに何かが起きていることに気づかないわけにいかないだろう。

 だが、落胆することは全くない。戦いが起きるときには、それを機に、キリスト者の側でも、積極的に敵の要塞を打ち砕き、敵陣を我が物として勝ち取るチャンスが与えられていることを思うべきである。

 神は、我々が勇敢にその戦いを戦い抜いて、勝利をおさめることを願っておられる。

 そこで、こちら側も、勝利するまで退かない覚悟を固めねばならない。

 さて、我々が用いる武器とは、敵が用いているような肉による方法ではない。我々は聖書の御言葉に立って武装することで、敵の嘘を論破して打ち破り、彼らの暴虐を声を大にして非難し、彼らの悪事の証拠を白日のもとに晒すことで力を失わせ、また、この世のあらゆる正当かつ常識的で合法的な手段に則り、彼らを武装解除して抑える(縛り上げる)ために必要な具体的な措置を取るのである。

 そのように反撃を続けることで、我々は敵の要塞を最終的に陥落し、敵の領土を完全に明け渡させて、これを神の国の主権が及ぶ領域に加え、敵軍のリーダーとその手下たちを戦利品として勝ち取ることができる。彼らを凱旋の行列でさらし者として辱め、処罰することが可能である。

 多くのクリスチャンは、全くと言っていいほど次の重要な事実を知らない。

 すなわち、神の教会を冒涜・蹂躙することは、この世においても、来るべき世においても、重い罪に相当するにも関わらず、サタンを中傷することは少しも罪にはならないのだと。サタンにはどれほど激しい憎悪と悪罵の言葉を浴びせても、決してやりすぎということはなく、どんなに口汚い非難や冒涜の言葉でさえ、むしろ全く足りないくらいなのである。

 クリスチャンには、悪魔に対する憎しみがなくてはならない。何よりも、悪を憎む心がなくてはならない。悪魔の犯した罪が、永遠の刑罰に相当することを考えれば、クリスチャンが悪魔に対して向けるべき憎しみと非難は底なしであって当然なのだ。

 我々は贖われる前の記憶では、滅びゆくアダムである人間の一人として生まれているので、どのような人間に対しても、まずは同胞としての憐れみの感情を持つであろう。同じ人間に対して憎しみや敵意を向けたり、戦いの相手とみなすことはためらわれるはずだ。

 しかし、信仰者になった以上、我々は、ただ単に人間的なものの見方から、全ての人間を自らの同胞として考えることをやめて、神の側から物事を見、神の国の権益に立って、何が神に栄光をもたらすかという観点で物事を見るように、思考を変えて行かなくてはならない。

 その過程で、私たちは、たとえクリスチャンの同胞を名乗り、兄弟姉妹を名乗っていたとしても、明らかに贖われていないと分かる行動を取る者たち、もっと言えば、明らかに暗闇の勢力の手先となって、聖徒たちに敵対し、神の教会やクリスチャンの破壊と殲滅を願い、それを職業として実行に移しているような者たちに対しては、兄弟姉妹としての容赦や憐れみを決して持ってはいけないことを知るべきなのである。

 こういう悪しき人々の存在を利用しながら、霊的な敵が、キリスト者の殲滅と死を願って攻撃をしかけている以上、キリスト者の側が、こうした敵どもに対する憐れみや容赦を持つことは、自ら敗北を望み、死を望んでいるのと同じであり、それは憐れみではなく、取り除かれねばならない甘さ、弱さでしかないことを理解せねばならない。

 神の教会は、教会を冒涜して荒らし回る者たちの薄汚い手をはねのけて、キリストの花嫁たる高貴さと尊厳を公然と証明せねばならない。

 その根拠として、教会はすでに「すべての支配、権威、力、主権、この世界だけでなく来るべき世界においても唱えられるあらゆる名を遥かに超えて高くされ」た方の頭首権に服し、この方と共に、この方の御名によって、この世だけでなく来るべき世においても、すべての支配、権威、力、主権を超える絶大な権威を与えられていることを思うべきである。

 サタンを天から投げ落とす権威は、教会にこそ与えられている。神はその仕事を教会に託しておられるのだから、教会はその権威を大胆に行使すべきである。それによって暗闇の勢力が権威を行使していた領域を明け渡させ、そこにキリストの復活の命による支配を打ち立て、御国の前進に貢献すべきなのである。

 キリストの花嫁は、花婿なるキリストのゆえに、高貴で聖なる貴い存在であり、勇敢な戦士のように強い存在でもある。この花嫁は、決して穢れた者たちに自分を冒涜させたり、蹂躙させたりすることはせず、むしろ、最後までキリストに対する貞潔を捨てず、むしろ、穢れた者たちが、この花嫁のゆえに、恥をかかされて敗退するよう、勇敢に戦いを戦い通す。

 この花嫁は、賢い花嫁であり、花婿なるキリストが地上に来られるまでの間に、花婿に栄光を帰するよう迎えるべくすべての支度を整える。

 繰り返すが、教会は、キリストの花嫁であるから、キリスト以外の何者にも服することをせず、神の知恵に逆らうあらゆる高慢を論破し、暗闇の勢力を敗北に追い込み、その陣地と手下を戦利品として勝ち取りながら、そこにキリストの支配権を打ち立てて、神の国の前進に寄与し、花婿なるキリストに栄光を帰すべきなのである。

 悪魔がほえたけるししのごとく獲物を求めて徘徊していても、全く恐れるに足らない。勝利はキリストにあり、教会にあるのだから。