キリストの再臨

2019年3月12日 (火)

たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。(2)

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じなければならないからです。」(ヘブライ11:6)

神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、
 決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。
 だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます。
 
 「主はわたしの助け手。
 わたしは恐れない。
 人はわたしに何ができるだろう。
 
 あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。
 彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見習いなさい。
 イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。
 いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません。」(ヘブライ13:5-8)

* * *
   
神の国の権益を真に確保しようとするクリスチャンが、誰であれ迫害を受けることは、イエスが聖書の随所で予告しておられることである。

暗闇の勢力による神の子供たちへの理由なき激しい憎しみは、地獄から来る。悪魔は人殺しであるから、最終的には、悪魔は神の子供たちを殺害しようとする。それが許されない間にも、悪魔と暗闇の勢力は日々、正しい人々に対して精神的殺人を繰り返している。

だが、私たちはこのような地獄の軍勢の激しい憎しみを恐れたり、その前にたじろぐべきではない。主の御名のために犠牲を払うことは、貴い価値あることであり、そして、神は御自分を呼び求める民を決して孤独の中に打ち捨てておかれることはないから、私たちは御名のゆえに悪しざまに言われることを決して恐れることなく、これを大いに喜ぶべきであろう。天での報いは大きいからである。
 
オリーブ園の連載でも、オースチンスパークスの次のような記事が掲載されている通りである。

「キリストとの合一」第二章 彼の地位――御父の愛によって(4) から抜粋

キリストの権益の前進を目的とするものはみな、それが何であろうと、ただちに邪悪な嫉妬、疑い、憎しみ、偏見、そしてもし可能なら殺害の対象となります。この反対は、人々に関する限り、何の理由もなく生じます。取り調べや調査もせずに生じます。それはたやすく、自動的に生じます。そして、それは極めて理不尽で非合理的な姿勢で取り囲まれます。そういった姿勢の多くは公正な調査で破綻します。しかし、それは存在します。どうして人々はこの手のものに捕われてしまうのか、という疑問が依然として残ります。しかし、それがどこから来るのか、私たちはよく知っています。そして、それは御子に関する神のあらゆる働きに対する愛とは正反対なのです。



さて、今回は、エルサレム問題の根底にある思想的対立を考えるに当たって、極めて重要な鍵となる、聖書に登場する「二人の女」について触れたい。もちろん、ここで言う「女」とは、象徴であって、二種類の人類のことを指す。

おそらくこのテーマは、今日、ほとんどの教会で語られることがないものであろう。なぜなら、こうしたテーマは、多くの女性にとって、あまりにもデリケートな問題をはらんでおり、ともすれば、誤解を持って受け止められかねないためだ。

だが、これが聖書において極めて重要なテーマである以上、私たちはこのテーマを避けて通ることはできない。そして、当ブログではこれを題材として書くに当たり、今ほどそれに適したタイミングはないものと思う。

当ブログにおいては、人類は神の助け手として造られた霊的な女性であるということを、繰り返し述べて来た。

創世記では、神は最初の人類であるアダム(男)からエバ(女性)を創造された際、次のように述べられた、「また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。 」(創世記2:18)

以上のフレーズを指して、これはアダムからエバが造られたことを意味するだけでなく、神がご自分のための助け手として人類を創造されたことを指しており、その意味で、「神の独り言」であると述べた人もある。

つまり、このフレーズには、アダム(男性)の助け手としてエバ(女性)が造られたというだけでなく、神がご自分の聖なる独り子のために、助け手、花嫁として、人類を創造されたという意味が込められているのである。

そこで、神の助け手として造られた人類は、霊的には女性である。そして、人類がどのような「女」として生きるのかは、一人一人にとって非常に重要である。

さて、聖書に登場する一人目の「女」は、神の恵みによって救われて、聖なる花婿なるキリストを忠実に待つエクレシア(教会)を指す。

しかし、彼女は花婿なるキリストがまだ目に見える形で現れていないがゆえに、「未婚の女」、「夫に捨てられた女」、「やもめ」などと呼ばれ、かつ、「子供を産まない女」として蔑まれる。以下のガラテヤ人の手紙に引用されている箇所は、エクレシアを指したものである。

「喜べ、子を産まない不妊の女よ、
 喜びの声をあげて叫べ、
 産みの苦しみを知らない女よ。
 一人取り残された女が夫ある女よりも、
 多くの子を産むから。」(ガラテヤ4:27)

他方、もう一人の「女」とは、エクレシアとは対照的に、神の恵みによって救われるのではなく、自力で神に至り着こうと、神の御言葉を捨て、手っ取り早く、己の情欲に身を委ねる、堕落した教会、バビロンである。

バビロンは、キリストだけを孤独や試練の中で待ち続けることを嫌って、己の欲を満たすために、非常に多くの愛人(異端の教え)と霊的姦淫を重ね、忌むべき子を産み、それゆえ、黙示録では「大淫婦」という恥ずべき名で呼ばれる。また、富んでおり、貧しさや孤独を知らないことから、「女王」や「夫と子供のある女」にたとえられる。

「彼女は心の中でこう言っているからである。『わたしは女王の座に着いており、やもめなどではない。決して悲しい目に遭いはしない。」(黙示18:7)

あなたは言った、「わたしは、とこしえに女王となる」と。そして、あなたはこれらの事を心にとめず、またその終りを思わなかった。 楽しみにふけり、安らかにおり、心のうちに「ただわたしだけで、わたしのほかにだれもなく、わたしは寡婦となることはない、また子を失うことはない」と言う者よ、今この事を聞け。」(イザヤ47:7-8)

バビロンは、見た目には富んでいて悲しみを知らず、幸福の絶頂にあるように見えても、情欲のままに生きる、堕落した人類として、その末路は厳しいものとなる。

それは、彼女が罪に生き、主と共なる十字架を通して己が情欲に対して死んでキリストだけをを待ち望むエクレシアの孤独と貧しさを蔑み、神の聖なる御心を成就する新しい人類を憎み、迫害し、神の御言葉を退けたからである。

ちなみに、かつて当ブログでは、バビロンが「混ぜ合わせた杯」を持っていることに触れたが、この言葉は、共同訳では「彼女が注いだ杯」(黙示18:6)となっており、この言葉に、異なる性質のものを混合するという意味は特に込められていないようである。

だが、バビロンはそれ自体が、混合の教えである。ぜなら、バビロンはキリストを知らないがゆえに罪に生きる人類を指すのではなく、キリストの教えを知っていながら、これを受け入れず、うわべだけ神の教えで身を飾り、内実は、堕落した生き方を続けるキリスト教と異教的要素が合体して生まれる背教を指しているからである。

従って、バビロンが持っている杯には、混合物が注がれていることは容易に想像がつくが、同時に、それは彼女が聖徒らを迫害に酔いしれながら流した血や彼らの苦悩を混ぜ合わせた杯であると考えられるのである。

聖書のプロットは、ある意味、最初から最後まで、この「二人の女」の相克と、最終的なエクレシアの勝利を描いたものであると言うことができよう。

人類最初の女であるエバは、系統としてはバビロンに属する。彼女は、エデンの園で、神が、それを食べれば死ぬから食べてはいけないと禁じた善悪を知る木の実について、あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」(創世記3:4-5)と言った蛇の誘惑に負けて、己の力で、神のようになろうとして、神の掟を捨てて、その罪のゆえに堕落して、夫と共に楽園から追放された。

「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。 」(創世記3:6)とある通り、エバは自分を喜ばせてくれる感覚に身を委ね、己の情欲に従って生き、それによって神に到達しようとして、堕落したのである。

以来、人間の堕落した肉は、罪と死の法則に支配され、神に従い得ないものとして、滅びに定められた。そのため、すべての人類は、生まれながらに滅びゆく神の御怒りの子となったのである。

肉の思いは死であり、霊の思いは命と平安であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。」(ローマ8:6-8)

エバは夫と共に子供を産むが、生まれた子供の間では、早くも人類最初の殺人が起きた。

兄であるカインは、地の産物を得る者、すなわち、肉の欲望のままに生きて神に反逆する民を象徴していた。他方、弟アベルは羊を飼う者、すなわち、まことの羊飼いなるキリストおよびキリストに連なる民を象徴する者であった。

カインは地の産物を神に捧げものとして供えたが、弟アベルは、動物のういごの犠牲を神に捧た。そして、カインは、弟の供え物だけが神に受け入れられたのを見て、弟アベルを激しく妬んで、野原に連れ出して殺害した。

こうして、最初の人類の子であるカインとアベルの中にも、早くも「バビロン」と「エクレシア」につながる二つの系統の人類が、象徴的に現れているのを見て取れる。

むろん、誰もが知っている通り、アベルが理由なき憎しみによって殺されたのは、やがてキリストが堕落した人類の憎しみにより、罪なくして十字架にかかって殺されることの予表であった。

今日も、当ブログの証しが十字架の死に基づいているために、これに理由なき憎しみを燃やしている人々がいるが、冒頭でオースチンスパークスの論説に挙げたように、このようなことが、太古から今日まで、神への礼拝を巡って起きているのであり、神の御言葉を守る子供たちが肉によって生まれた子らに迫害されることは、歴史始まって以来絶え間なく続いている現象である。

この二系統の人類すなわち「二人の女」は、旧約聖書と、以下に引用するガラテヤ人への手紙の中で、アブラハムを巡る「二人の女」すなわち、ハガルとサラとして、よりはっきりした対比の中で描かれている。

ここでは、ハガルは、性急で、神が定められた時まで忍耐して待つことができず、何とかして自分の力で死を回避して、自己保存して生き残り、神に到達して永遠にまで至ろうとする人類の肉的な力とその情欲を象徴している。

他方、サラは、忍耐強く神の御言葉の成就を待ち望み、その信仰が認められて、ついに恵みによって、約束の永遠の命を得る忠実な神の子供たち(教会)を象徴する。

彼女たちを巡る話はよく知られている。アブラハムとサラは、百歳になっても子供が生まれなかったため、サラは夫アブラハムのために何とかして子孫を残そうと、己が知恵に頼って、自分の侍女(奴隷)を夫に差し出す。

ハガルはアブラハムのためにイシマエルを生んだが、自分が女主人よりも先に子供を生んだことで、高慢になって、サラを見下げるようになった。

さらに、ハガルが子を生んだ後で、サラとアブラハムは、高齢で子を産む能力を完全に失っていたにも関わらず、信仰によって、御言葉の成就として、「約束の子」であるイサクが与えられた。

その後、ハガルとサラの間には、壮絶な女の戦いが起きるようになり、さらにハガルの子イシマエルも、母にならって、サラの子イサクをいじめるようになった。

アブラハムは、ハガルとサラの板挟みになり、悩んだ末、神の御心を問い、その結果、肉の力によって生まれた母子であるハガルとイシマエルは、奴隷の出自であって、神の御心にかなわず、アブラハムの家の正統な後継者の資格を持たないため、二人を家から追放するしかないという結論に至った。

こうして、肉の力によって生まれた母子は、アブラハムの家から追放されて、約束の相続人としての地位から正式に排除されたのである。

さて、ガラテヤ書において、パウロは、ハガルとサラという二人の女が、霊的な比喩であるとみなして、次のようにその意味を解説している。

ここでは、ハガルは、人類が律法を守り抜くことで、自らの力で義とされ、神の聖にあずかることができると信じる「地上のエルサレム」、すなわち、ユダヤ教の教え全体を指している。

他方、サラは、人は律法を守ることによっては罪に定められるだけで、決して救われることはなく、救われるには、キリストの十字架の贖いを信じて受け入れることによって、神の恵みによって義とされるしかない、という信仰によって生きる「天のエルサレム」(教会)を指している。

「わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。

アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。

これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。

他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。なぜなら、次のように書いてあるからです。


「喜べ、子を産まない不妊の女よ、
 喜びの声をあげて叫べ、
 産みの苦しみを知らない女よ。
 一人取り残された女が夫ある女よりも
 多くの子を産むから。」

ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あなとき、肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じことが行われています。

しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。


この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。
」(ガラテヤ4:21-31,5:1)


ここでは、肉の力によって子を産み、早々に孤独とは無縁になった女奴隷ハガル(地上のエルサレム)が、約束の子を忍耐して待ち続けるサラ、(天のエルサレム)を、「子を産まない不妊の女」、「産みの苦しみを知らない女」、「一人取り残された女」、「やもめ」、「夫を持たない女」などと呼んで、罵り、蔑んだ様子がよく分かる。

ちなみに、旧約聖書におけるサラは、イサクを生んだことにより、「産みの苦しみを知らない女」ではなくなったし、アブラハムという夫があったので、厳密に言えば、以上の定義には当てはまらない。

それにも関わらず、サラがこのように呼ばれているのは、サラに生まれた子供が、信仰によって、神の恵みによって与えられた子であり、アブラハムとサラの肉的な力によって生まれた子でなかったことを指している。そういう意味で、サラは「夫のない女」と呼ばれているのである。

天のエルサレムが「夫のない女」と呼ばれているのも、彼女が、人間の生まれながらの肉的な力に頼って、収穫を得ようとすることがなく、ただ御霊によってのみ、永遠に残る実を生み出すという、神の教会の聖なる性質を表している。

このようにして、肉の力を誇る者は、早々に繁栄して孤独ではなくなり、幸福を勝ち取ったように見えるものの、それは永遠に残る実ではないため、神の御国では排除されて、忌むべきものとして滅びに定められ、かえって、孤独を耐え忍んで、神の約束の成就を待ち望んだ者が、約束の成就として、御国の後継者となる、という原則が示される。

この原則は、その後、聖霊によって乙女マリヤがイエスを生んだことで完全に成就する。

マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ結婚していないうちに、聖霊によってイエスを身ごもり、救い主が生まれた。イエスは、聖霊によって生まれたという意味で、人間の生まれながらの肉の力とは何の関係もなく、一切の罪による汚れや堕落と無縁の、神の聖なる独り子であった。

マリヤがキリストを生んだとき、「夫を持たない女」であったことは、キリストの生誕には、人の生来の肉の力が働く余地がなかったことを指している。

イサクが生まれるためには、アブラハムの介在が必要であったが、マリヤがキリストを生むに当たり、ヨセフの存在は、ないがごとくに影が薄くなっている。ヨセフは確かに悩んだ末に、御使いに示されて、マリヤを離縁せず、彼女の身の安全を守るためにベツレヘムまで付い、その後、イエスが生まれた後で、彼女の夫になったが、キリストが生まれたことには、ヨセフは何の関与もなかった。

こうして、聖霊によりキリストを生んだマリヤは、やがて御霊の実を結んで多くの収穫をもたらすエクレシア(教会)を予表している。

また、肉の力によらず、聖霊によって生まれた神の独り子なるイエスの出自は、私たちクリスチャンが、バプテスマを受けて地上の肉なる生まれ(下からの出自)に死んで、水と霊によって新しく上から生まれた出自を代表している。

クリスチャンは、キリストを信じ、水と御霊を通して、上から新しく生まれ、さらに、キリストの死と復活にあずかって、聖なる民とされているのであり、このように、キリスト者が、上から御霊によって生まれた者であることを指して、パウロは、「天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。」と述べているのである。

下から生まれた者は、肉の力によって生まれたのであり、罪と死の奴隷である。上から生まれた者だけが、御霊によって、命と平安の自由の中を歩むことができ。

とはいえ、私たちキリスト者も、贖われた者であるとはいえ、その贖いは、地上にあるうちには、まだ完成していない。

私たちの内で贖われているのは霊であって、堕落した魂と肉体は、依然として「罪と死の法則」に支配される旧創造(肉)に属する。それゆえ、信者が地上にいる間、古き肉の情欲に支配されないためには、肉に対して、主と共なる十字架の霊的死の働きが絶えず必要になるのである。

黙示録第12章には、竜(サタン)に追われながら、身ごもって男の子を産む「女」が登場する。これを何の比喩ととらえるのかは諸説別れるが、少なくとも、この女の子孫の残りの者たちが、「神の掟を守り、イエスの証しをまもりとおしている者たち」(黙示12:17)と呼ばれていることを見れば、この「女」は、天のエルサレムに属する者であることが分かる。

このくだりには、女とこれを迫害する竜(サタン)がいるだけで、女の夫たる者の影はない。この時点では、聖徒らを生み出すために、人間の肉なる力が全く必要とされておらず、人類にはまことの主人としてキリストが備えられているため、目に見える「夫」の存在が必要なくなっているためだと見られる。

このように、人類が肉の力で己が子孫を残すという「系図」の意味は、キリストが生まれた時点で終わったのだと言えよう。それ以降、神が注目しておられるのは、人類がどのような者を父母として、どんな系図によって生まれたのかではなく、その者が、果たして、御霊によって上から(キリストから)生まれたのか、それとも、肉なる力によって人類から生まれた堕落した人類に過ぎないのかということだけである。

地上に子孫を残さねばならないという考えは、人間が死ぬことを前提としてのみ成り立っている。一つの世代が死ぬからこそ、自分の命を次世代につなげようとするのであり、これは種としての人類が、自己保存の願望に基づき、世代が連続して続いて行くことによって、あたかもそこに永遠性が保たれているかのように見せかけるトリックのようなものに過ぎない。

だが、キリストによって新しく生まれた人類は、永遠の命を内にいただいているため、この自己保存の願望に支配される理由がないのである。イエスはこのことを指して、サドカイ派の人々と次のような問答をされた。

「復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。

「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけなければならない』と。
 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。

 イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の箇所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」」(マルコ12:18-27)

もちろん、この問答は、サドカイ派の人々が、復活を否定するために、イエスを陥れようとしてしかけた論争であったが、イエスの答えを見るならば、復活の時、すなわち、やがて来るべき神の国、新しい天と地においては、人類にはもはや死はないため、人類のうちに、夫も妻も存在しないことが分かるだろう。

強いて言うならば、その時には、キリストが人類の夫であり、人類がその花嫁なのである。ヨハネの黙示録に、

「更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。
そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。」(黙示21:3)

と書かれている通りである。つまり、この時こそ、神の助け手として、霊的に女性として創造された人類が、まさにあるべき地位について、幕屋としての責務を果たすのである。

だが、そうして新しい天と地が到来する前から、御霊を内にいただいているクリスチャンの内側には、神の国がすでに到来しており、従って、その者はすでに永遠の命にあずかっているわけであるから、死に追い立てられて、子孫を残さねばならないという切迫した生存本能からは解放されているだけでなく、その者にとっての第一義的責務は、地上で滅びゆく子孫を生み出すことではなく、滅びることのない永遠の実を結ぶこと(神の国の権益を増し加え、キリストに連なる者を信仰によって生み出すこと)である。

そのことを指して、パウロは、「今危機が迫っている状態にあるので、こうするのがよいとわたしは考えます。人は現状にとどまっているのがよいのです。妻と結ばれているなら、そのつながりを解こうとせず、妻と結ばれていないなら妻を求めてはいけない。」(Ⅰコリント7:26-27)と述べたのである。

このように、「めとったり嫁いだり」する行為は、人が有限なる肉体を維持するために、食べたり飲んだりするのと同じく、滅びゆく肉の古き情欲に支配されて起きる、この世の移ろいゆく有様に過ぎず、永遠とは何の関係もないものであり、そのことを、主イエスも次のように示されたのである。

「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。人の子が現れる日にも、同じことが起こる。」(ルカ17:26-30)

従って、終末の時代、すなわち、キリストの再臨が近づくに連れて、人が古き肉の情欲に従って、自己保存の願望に突き動かされて生きるのか、それとも、キリストにあって永遠の命によって生まれた者として、神の国の新しい法則(命の御霊の法則)によって生きるのかは、人の生死を分ける決定的な分かれ目になることを知るべきである。

キリストが近づいているにも関わらず、依然として、罪と死の法則に支配されて己が情欲に生きる者は、時が来ているのにそれが分からないまま、この世の些事に没頭しているうちに、滅ぼされてしまう危険があると警告されているのだ。このように、神の御心に反し、それをとらえることに失敗する人々の没頭しているこの世の些事に「めとったり嫁いだり」という行為が含まれていることは、見逃すことのできない事実である。

すでに示した通り、黙示録の終わりには、小羊なるキリストと、聖なる花嫁なる天のエルサレムとの婚礼が描かれており、神の目から見て、最も重要な「婚礼」は、ここにある。

婚礼の祝宴に招かれているのに、それに注意を払わず、己の命の心配だけに心を費やしている人々は、みな神の御心が分からず、役に立たない僕として、滅ぼされるか、外の暗闇に追い出されてしまうのである。

「イエスは、また、たとえを用いて語られた。
天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。
 そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』

しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、その人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。


そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。

 王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。その者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」(マタイ22:1-14)

むろん、このたとえは、直接的には、まずはユダヤ人に救いが伝えられたのに、選ばれた民が、キリストを救い主として受け入れることを拒んだので、かえって異邦人たちに福音が伝えられたことを指している。

ルカによる福音書1第14章7-24節でも、同様のたとえが記されており、そこでは、祝宴に招かれたにも関わらず、出席を断った人々は、口々に「畑を買ったので、身に行かねばなりません。どうか、失礼させてください。」とか、「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください」とか、「妻を迎えたばかりなので、行くことができません。などという理由で、これを辞退する。

まさに、売ったり買ったり、嫁いだりめとったりして、己の欲に突き動かされて、個人的な生活に没頭していたことが、小羊の婚礼に彼らが全く注意を払わない理由だったのである。

このように、時代が終わりにさしかかるに連れて、神はますます人類の肉なる力には注目されなくなり、滅びゆく人類が、己が力で子孫を残すことは、何の重要性もなくなるどころか、神の御旨に悪質に対立する行為にさえなり、その代わりとして、目に見えない花婿キリストが、花嫁として準備が整ったエクレシアを迎える真の婚礼の喜びに、誰があずかれるのかという問題が、クローズアップされる。

なお、聖書では、終末が近づくに連れて、すべてのもののスケールが拡大している。創世記では、蛇であったサタンは、「巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者」(黙示12:9)と呼ばれている。

そして、バビロンは、大いなる都として発展しており、おそらくは堕落した世界的な規模の一大宗教勢力にまで拡大している。

すでに述べた通り、バビロンは、うわべだけキリスト教の装いをしているが、異教と混合した堕落した疑似キリスト教である。そして、「彼女の罪は積み重なって天にまで届き、神はその不義を覚えておられるからである。」(黙示18:5)とある通り、バビロンは高慢になって、おそらく己が力で天にまで到達しようと、天にまで達するほどの罪をうず高く積み重ねたのである。

これに対して、エクレシアに連なる人々は、獣およびバビロンからの様々な迫害を受けて散らされ、荒れ野に逃げたり、殉教したりしているものと見られるが、バビロンの倒壊後には、聖なる都エルサレムとして姿を現す。これも巨大な都であり、二度と主から離れることのない、聖なる永遠の都として確立する。

このように、主の民は、バビロンと獣からの迫害の中、巨大な試練を受けて、徹底的な弱さの中で、信仰によって、神の力だけによって強められることを知って、すべての試練に勝利をおさめた後で、花婿なるキリストを迎える準備を整えた純潔の花嫁として姿を現すのである。

* * *

さて、以上に挙げたような聖書のくだりを見ても、地上の目に見える都であるエルサレムは、本質的に堕落した都バビロンに通じるものではあっても、贖われた民からなる聖なるエルサレムとは、何の関係もないことがすぐに分かる。

聖書の御言葉のどこを見ても、現在、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の三大宗教の聖地とされている地上のエルサレムが、キリストの再臨と大いなる関係を持つ神聖な都であるなどという事実は全く見いだせない。

「また、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っており、小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた。」(黙示14:1)という黙示録の記述をも、額面通りに受け止めて、キリストが再臨されるのはシオンの山だ、などと言うことはできないであろう。

なぜなら、聖書が一貫して私たちに告げていることは、私たちの目指している都は、地上の都ではなく、「天の故郷」だということだからである。

こうして天のふるさとに達するためにこそ、私たちは目に見えるものに目を留めず、この世的な富、己が欲望を満たすことに心を砕かず、この世に深入りすることなく、かえって、イエスの負われた辱めを身に受けて、宿営(目に見える神殿)の外に出て、みもとへ行こうとしているのである。

「それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに行こうではありませんか。
わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです。」(ヘブライ13:12-14)

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。

もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブル11:13-16)


このように、私たちが求めているものが「天の故郷」であると聖書が告げているのに、どうしてキリスト者が地上の国であるイスラエルの建国や、エルサレムにおける神殿建設などに注目する理由があろうか。

むしろ、救い主であるキリストが来られたのに、これを受け入れず、十字架につけて殺したユダヤ人たちが、聖なる場所として尊んでいた地上の都エルサレムに向かって、主イエスが、どのように厳しい宣告をなされたかを思い出すべきである。

「「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。

イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはできない。」(マタイ23:37-39.24:1-2)

主イエスの言葉は、西暦70年に成就して、エルサレムはローマ軍の進軍によって陥落した。エルサレム神殿はその時に滅ぼされて壊滅し、神殿に入れば安全だと考え、そこにたてこもっていたユダヤ人は殺害され、ローマの進軍を避けてマサダに逃げたユダヤ人たちは、そこで集団自決を遂げた。マサダとは「要塞」の意味であり、この要塞へ続く道が「蛇の道」と呼ばれていたことも、偶然とは思えないような話である。

そのとき、「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。」(マタイ24:15)との主イエスの警告も成就したと解釈されるのである。

だが、今日、プロテスタントの信者の一部(キリスト教シオニズムに影響を受けた人々)は、この御言葉には、将来的に起きることを告げる二重の意味があって、やがてエルサレムにユダヤ教の神殿が建設され、そこに反キリストが立つことを預言したものであるとみなし、こうした出来事が成就するのを手助けすることによって、キリストの再臨を早めることができるなどと主張する。

だが、それではまるで反キリストを目に見える都の神殿に立たせることで、キリストの再臨を促そうと言っているのと同じであり、そのためにイスラエルを支援するなどというのは、ほとんど荒唐無稽と言う他ない。

むしろ、こうした状況を吟味すれば、推測できる結論はただ一つであって、反キリストは、異邦人の中からではなく、まさにユダヤ教徒が待望する「メシア」を名乗って、地上の都エルサレムに登場して来るだろうということである。そして、欺かれた一部のキリスト教徒らが、これを聖書預言の成就のため、キリストの再臨のためと称して、イスラエルの諸政策に賛同することで、今からバックアップしようとしているだけなのである。


従って、こうした考えの中には、ユダヤ教とキリスト教の混合という恐るべき発想が込められていることを見なければならない。トランプ米大統領も、娘夫婦がともにユダヤ教徒であり、ユダヤ教の強い影響を受けていると見られるし、トランプの支持層とされるプロテスタントの信者らも、シオニズムが、聖書に合致するものであるかのように思い込むことで、その実、ユダヤ教からの影響力を取り込み、ひどく欺かれているだけであることに気づいていないのである。

だが、日本のプロテスタントも、こうした欺きとどこまで無縁であれるのかは疑わしい。日本のプロテスタントは、米国プロテスタントにあまりにも大きな影響を受けており、さらに、日ユ同祖論などの荒唐無稽な説も流布されており、それを信じて、日本人の生まれながらのルーツを神聖なものとみなそうとする信者すらも現れている。

そのため、日本のプロテスタントにも、イスラエルの行っていることを聖書の御言葉を結びつけて正当化しようという考えがかなり広く普及している。日本が第二次世界大戦中にナチス・ドイツと同盟国であったなどの歴史的過去への罪悪感も、それに影響を与えていることであろう。

こうして、地上のイスラエルという国を、あたかもメシアを生み出すための神聖な母体であるかのようにみなす思想が、プロテスタントの中にも、まことしやかにキリスト教の仮面をつけて入って来ているのであり、こうした動きはすべて、筆者には、目に見える宗派としてのプロテスタントが、反キリストの到来へと整えられつつあることの現れであるように見受けられる。

だが、もちろん、このようなキリスト教シオニズムは、聖書の記述を文字通りに真理であると信じる信仰とは何の関係もない考えであるから、それは聖書信仰に基づく思想ではあり得ないこと、むろん、当ブログの見解とも何の関係もないことを、何度でも断っておかなければならない。

* * *

さて、パウロの言葉の中で、今日、信者の間で多くの議論を呼んでいる箇所がある。それはテモテへの手紙第一の中で、パウロが次のように述べていることである。

「婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。この言葉は真実です。」(テモテ一2:12-15,3:1)

今日、ほとんどの教会は、これを文字通りの原則として取り入れるようなことはしていない。

私たちは、主イエスが地上でまだ幼子だったとき、エルサレムの神殿で、長子を神に捧げるための儀式を行うに当たり、シメオンとアンナが彼を出迎えたことを知っている(ルカによる福音書第2章)。そのうち、アンナは八十四歳になったやもめの女預言者であった。

このように、この時点でも、神殿には女預言者が仕えていたのであり、今日のプロテスタントにも、多数の女性牧師や説教者がおり、今日のプロテスタントでも、女性が教会では黙っていなければならないとか、女性が子を産むことによって救われるなどという教説を教えている教会はまずない。

なお、ローマ帝国においては、女性には基本的に市民権が与えられておらず、政治参与が認められておらず、その点でローマの女性たちの教養がひどく低かった可能性は考えられ、パウロが、そうした事情の下で、以上の言葉を、文字通りの意味で使っていた可能性も全く考えられないとは言えないものの、それがパウロの勧めという域を超えて、聖書の原則に合致するものであると言えるかと問えば、答えは否であろう。

なぜなら、以上の言葉は、パウロ自身がガラテヤ書で、天のエルサレムを「夫のない女」「子を産まない女」にたとえていることと、全く矛盾するからである。

さらに、イエスがスカルの井戸で出会われ、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:14)と告げられ、かつ、「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。<略>まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:21-24)と告げられた女も、ユダヤ人からは蔑まれているサマリヤの女であり、しかも、かつては五人の夫があったのに、イエスと出会った時には、夫ではない者と連れ添っている女であった。

このように、聖書の原則は、強い者ではなく弱い者、高ぶる者ではなくへりくだる者、人に認められて評価される者ではなく蔑まれる者、選ばれた者ではなく見捨てられた者、人の目から見て取るに足りない者、無に等しい者を、神は常に用いられるというものである。

従って、以上に挙げたパウロの言葉も、一種の比喩としてとらえられる。つまり、ここで言われている「婦人」とは、エクレシア全体すなわち人類を指しており、男から女が造られたように、人類は神の助け手として、神に仕えるために創造されたのであって、その意味で、神と人類、キリストとエクレシアとの主従関係は、逆転されてはならないものである。

人類には神に言い逆らうことはできず、御言葉に従わなければない。だが、エバが蛇に最初にそそのかされたように、人類は神に背いて堕落したのであって、もともと罪になびきやすい性質があるゆえ、イエスの御言葉に従うためには、自分の堕落した肉の力である情欲に対して、絶えず十字架の霊的死を帯びていなければならない。そして、偽りの教えに惑わされず、固く信仰に立ち続けて、たゆみなく善を行うならば、高ぶって滅びゆく肉の子孫を誇るのではなく、キリストに連なる永遠に至る収穫をもたらし、神に喜ばれることができるだろう。

「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。」(ガラテヤ6:7-10)

従って、神が人類に求めておられるのは、どこまでも肉の力によらず、信仰によって、永遠に至る実を結ぶことなのであり、己の欲により目に見える成果を残すことではない、ということが分かるだろう。

そういう意味で、今日のキリスト教の礼拝は、ますます目に見えるものから解放される必要に迫られていると言える。すでに述べたように、プロテスタントは、神への礼拝を教会の目に見える様々な装飾からくる感覚刺激から解放し、信者をより深い御言葉への知的理解へ向かわせた点で、大きな信仰の回復を成し遂げたが、今日、私たちは、神への礼拝をさらに目に見える指導者や、目に見える礼拝堂からも解放して、「この山でもエルサレムでもない所で」、より一層、見えないキリストを通して父なる神にのみ捧げる必要に迫られている。

そこで、目に見える既存の教団教派が、今後、ますますバビロン化へ向かう一方で、御霊の働きは、地上では何も持たないつつましい「やもめ」として、目に見える団体や指導者にではなく、見えないキリストだけに頼って歩む、エクレシアの各々の信者の中に受け継がれて行くであろう。

2019年3月10日 (日)

たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。(1)

「預言者ハバククが、幻で示された託宣。

 主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに
 いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。
 わたしが、あなたに「不法」と訴えているのに
 あなたは助けてくださらない。

 どうして、あなたはわたしに災いを見させ
 労苦に目を留めさせられるのか。
 暴虐と不法がわたしの前にあり

 争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。
 
  律法は無力となり
 正義はいつまでも示されない。
 神に逆らう者が正しい人を取り囲む。

 たとえ、正義が示されても曲げられてしまう。

 諸国を見渡し、目を留め
 大いに驚くがよい。お前たちの時代に一つのことが行われる。
 それを告げられても、お前たちは信じまい。

 見よ、わたしはカルデア人を起こす。
 それは冷酷で剽悍な国民。地上の広い領域に軍を進め
 自分のものでない領土を占領する。

 彼らは恐ろしく、すさまじい。
 彼らから、裁きと支配が出る。

  彼らの馬は豹よりも速く
 夕暮れの狼よりも素早く
 その騎兵は跳びはねる。騎兵は遠くから来て
 獲物に襲いかかる鷲のように飛ぶ。

 彼らは来て、皆、暴虐を行う。どの顔も前方に向き
 砂を集めるようにとりこを集める。

 彼らは王たちを嘲り
 支配者たちを嘲笑う。どんな砦をも嘲笑って
 土を積み上げ、それを攻め取る。

 彼らは風のように来て、過ぎ去る。
 しかし、彼らは罪に定められる。自分の力を神としたからだ。

 主よ、あなたは永遠の昔から
 わが神、わが聖なる方ではありませんか。
 我々は死ぬことはありません。
 主よ、あなたは我々を裁くために彼らを備えられた。
 岩なる神よ、あなたは我々を懲らしめるため彼らを立てられた。

 あなたの目は悪を見るにはあまりに清い。
 人の労苦に目を留めながら捨てて置かれることはない。
 それなのになぜ、欺く者に目を留めながら黙っておられるのですか
 神に逆らう者が、自分より正しい者を
 呑み込んでいるのに。

 あなたは人間を海の魚のように治める者もない、
 這うもののようにされました。


 彼らはすべての人を鉤にかけて釣り上げ網に入れて引き寄せ、
 投網を打って集める。

 こうして、彼らは喜び躍っています。

 それゆえ、彼らはその網にいけにえをささげ投網に向かって
 香をたいています。

 これを使って、彼らは豊かな分け前を得食物に潤うからです。

 だからといって、彼らは絶えず容赦なく諸国民を殺すために
 剣を抜いてもよいのでしょうか。


 わたしは歩哨の部署につき砦の上に立って見張り
 神がわたしに何を語り 
 わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。

 主はわたしに答えて、言われた。
 「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように板の上にはっきりと記せ。

 定められた時のためにもうひとつの幻があるからだ。
 それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。
 たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。

 見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。
 しかし、神に従う人は信仰によって生きる。
  (ハバクク第1章1節~2章4節)


* * *

今、非常に大きな感動が心に込み上げて来る。
これほど、上記の御言葉がタイムリーに響く瞬間が他にあろうか。

筆者は昨年、暗闇の勢力から挑まれたおびただしい数の不法行為に対して、ふさわしい裁きが下されることをを待ち望み、この争いを司法の場に持ち出した。

結審するまでの間に、極めて激しい戦いがあったことは先の記事で記した。筆者は、提訴、控訴、反訴の脅しのすべてに立ち向かって、この脅しを粉砕しなければ、判決にたどり着くことができなかったのである。

だが、そこで戦いは終わりとならなかった。

結審から判決が出るまで3ヶ月。その間にも、空中で激しい論戦が行われた。

口頭弁論が開かれていた頃にも、暗闇の勢力からは、嘘に満ちた険悪な議論が、書面および口頭にて幾度もしかけられた。その際、この事件を担当してくれた裁判官は、親切で善良な人であったので、筆者がこれ以上の権利侵害を受けて、より一層の身に危険が及ぶことを案じて、議論がひどくなる前に制止してくれたり、筆者が答弁する前に、被告らに対して、筆者の答弁を代弁するかのようなしかるべき注意を述べてくれたこともあった。

裁判官は、か弱い一人の女性としての筆者の身を案じ、何とか審理が平和裏に解決することを願っていたのであろう。だが、それは人間的な観点からは正しい措置であったかも知れないが、しかし、筆者には、依然として、自分一人で受けねばならない「杯」が残っていたことが分かっていた。

筆者はキリスト者として、誰の力にも頼ることなく、自らの意思により、信仰の証しを貫徹して、霊的戦いを制することができなければならない。

この裁判に限らず、筆者が心の底から待ち望んでいる正義の判決は、筆者自身が、死に至るまでの従順によって、神に従う決意表明をすることなしにば、勝ち取れないものなのである。

そこで、結審を勝ち取ったことそれ自体は、極めて大きな勝利だったとはいえ、この戦いは、裁判が結審しても、終わりにならず、筆者は、土の器である自分がさらに裂かれることに同意せねばならず、その後も、暗闇の勢力からの論戦は、掲示板に飛び火して、そこでこれまで以上に徹底的な誹謗中傷と、権利侵害がなされたのである。

これがこの訴訟におけるいわば最終戦で、弁論が打ち切られた後も、暗闇の勢力はこれを場外乱闘に持ち込んだのだと言えよう。

むろん、この世の法に違反する者は、この世の法によって裁かれる。従って、彼ら不法行為に及んだ者どもが、処罰に値するのは言うまでもない。そして、しかるべき措置は取られている。

だが、筆者がここで言いたいのは、キリスト者には、主の御名のゆえに、受けねばならない苦難があって、それは私たちが信仰を守り抜く上で、避けては通れないものであり、私たちは御名の栄光のために、その代価を払うことを惜しんではならないということである。

この世の人々は、弱い者の身に危険が及ばず、より一層の権利侵害が起きることを防ぐためには、議論を早々と打ち切って沈黙することが、最善であるかのように思っているかも知れない。

だが、そうではない。キリスト者には、決して語ることをやめてはならない瞬間があり、絶対に退却することのできない戦いがある。

たとえ、ある瞬間に、誰かキリスト者が、自分の身を案じて、語ることをやめたとしても、その戦いは、決してそこで終わりにならないだろう。キリスト者は、一つの戦いに自分で立ち向かって勝利をおさめない限り、生きている間中、それに圧迫され続けるだけなのである。従って、身の安全を考えるならば、まずは暗闇の勢力に毅然と立ち向かって、敵の武器をへし折ることなくして、圧迫も脅かしも止むことはないと知るべきなのである。

当ブログにしかけられている論戦は、人間対人間の争いではなく、それを超えた領域にある、神の聖霊と、それに逆らう霊的勢力との間で行われている激しい戦いである。

それが証拠に、当ブログに対して投げつけられている非難と悪罵の言葉をよく見れば、誰しも、その根底には、聖書そのものに対する非難と悪罵があることがすぐに分かるだろう。

たとえば、当ブログの証しが「妄想」によるものであって、精神病の産物であるかのように主張している人たちは、驚くべきことに、聖書の記述そのものが、荒唐無稽なファンタジーであるかのように主張している。

彼らは、創世記において、エデンの園において、悪魔が蛇の姿を取って人の前に現れ、人類をそそのかしたなどという記述は嘘であると言う。むろん、ノアの洪水や、悪魔や悪霊の存在なども、みなファンタジーに過ぎず、そもそも聖書は古代文献の一つでしかなく、そこに書かれていることは、神話であって、額面通りに信じること自体が愚かしいことだと主張している。

恐るべきことに、当ブログに激しい論戦を挑んでいる彼らは、クリスチャンを名乗っているにも関わらず、聖書が、神の霊感を受けて書かれた書物であることを否定し、聖書は人間が書いたものに過ぎないなどと主張している。

彼らの主張を要約すれば、「悪魔なんてない。暗闇の勢力もない。そんなものはみな精神病の産物だ」ということになろう。

そこから察するに、人類の堕落も、悪魔の存在も、ノアの洪水も認めない彼らは、当然ながら、マリアが聖霊によって身ごもってキリストを生んだなどの記述も、認めていないであろう。

だとすれば、聖書をファンタジーに満ちた古代文献に過ぎないとしている彼らは、結局のところ、クリスチャンを名乗っているにも関わらず、キリストが神の独り子であって、人類の罪の贖いのために十字架にかかられたという聖書の基本的な真理を、全く認めていないことになる。

そこから導き出される結論はただ一つであって、彼らが当ブログをバッシングすることで、真に広めようとしていることは、結局、キリストは神の子ではなく、人類の救い主ではないという一言に尽きる。

要するに、イエス・キリストが神の子であることを否定し、十字架の贖いを否定したいがために、彼らは2009年に当ブログに発表された「キリストの十字架以外に救いはない!」という記事に猛反発し、それ以来、執拗に当ブログに対するバッシングを続けて来たのである。

従って、そのバッシングの根底にあるのは、聖書の御言葉が真理であることを否定して、イエスが神の独り子であって、人類の救い主であることを否定する反キリストの思想である。

何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。

しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリピ3:18-21)

従って、このような恐るべき聖書の御言葉を否定する冒涜的発言が投げつけられている時に、我々が沈黙しているとすれば、それはまさに我々が反キリストの思想に屈したことを意味するだけである。

この争いは、人間対人間の争いではなく、神と悪魔との間で繰り広げられている激しい論戦であり、私たちキリスト者は、その戦いにおいて、最後まで、固く神の側に立って、聖書の御言葉の正しさに立脚して、暗闇の勢力の前で、自らの信仰の証を毅然と続けねばならない。

初代教会の使徒、信者たち、全世界のクリスチャンたち、また、日本における戦前、戦中の信者たちも、同じように迫害を受け、そこで信仰の証しを選び取るのか、身の安全を選び取るのか、選択を迫られたのである。

誹謗中傷がなされたからという理由で、さっさと退却しているようでは、そこですべてが終わりとなり、激しい戦いを勝ち抜いて信仰の証しを守り切ることなど決してできるはずもない。

我々はこの地上の全被造物の前で問われている。我々にとって最も大切なものは何か。自分の名誉や、身の安全か。それとも、神の御言葉の正しさなのか。

私たちは、悪人にはふさわしい裁きが下されることを願い求めているが、それが実現する前に、まず、自分の信じている神の御言葉の正しさを公然と世に証明せねばならず、そのために自分の持てるすべてを捧げ、死をも辞さないという覚悟で、すべての圧迫に立ち向かって、勝利をおさめるべきである。

兄弟たちは、小羊の血と
 自分たちの証しの言葉とで、
 彼に打ち勝った。
 彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。」(黙示12:11)

とある通りである。もしも私たちが命をかけて証をしなければ、「我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者」(黙示12:10)すなわち、サタンを天から投げ落とすことはできない。

「イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。

人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。」(ルカ9:23-26)

口先だけの内実の伴わない言葉では、悪魔と暗闇の勢力に対して、何の脅威をも圧迫をも、もたらすことはできない。

仮に私たちが自分の命を惜しんだとしても、それによって自分の命を保つことはできない。自分の命を真に大切にするならば、なおさらのこと、主に従い抜くために、死に至るまで自分の命を惜しまない覚悟で、御言葉の確信に立ち続け、信仰の証を守り通すことが必要となる。それによって自分の命を再び得ることができよう。
 
それが、主イエスの受けた辱めを負って、この世の宿営の外に出て、御許へ召されることの意味である。世の人々が、私たちの信仰をどんなに嘲笑い、罵ったとしても、その脅かしを恐れてはならない。もしも私たちが真に主の民に属し、心の内で、主の御名のゆえに苦難を受けていることを知っているならば、その杯を最後まで受け切ることを恐れてはならない。

「それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに行こうではありませんか。わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです。」(ヘブライ13:12-14)

このように、キリスト者が、完全に自分自身を主の死に同形化するとき、初めて暗闇の勢力の最大の脅しも打ち破られて無効化され、復活の力の大胆な現れが起きて、彼らは退却して行く。

さらに、それに伴って、大きな富の明け渡しが起きるだろう。

前の記事で書いた通り、神はご自分を信じる民を、絶望の中に沈黙して見捨てて行かれるような方ではない。神は私たちを苦難の中に見捨ててはおかず、ふさわしい時に、力強く御手を伸べて、私たちを救い出して下さる。

しかし、山々を引き裂いて天から降りて来て、すべての被造物を一瞬で沈黙させ、圧倒的な裁きを下すことのできる神は、まずは地上において、私たち信仰者自身が、果たすべき責任を果たすのを待っておられる。

そのために、私たち自身にも、代価を払うことが求められる。すなわち、私たちは、古いもの(魂、肉体)に霊的死の働きがなされることを許し、自分を祭壇に横たえ、全勝のいけにえとして、自分自身に御言葉の剣が刺し通されるのを許さなければならない。

そうして、私たちの古いものがまず死に渡され、私たちがキリストの苦しみにあずかるとき、私たちの内に、より一層の清めと、肉に対する霊的死の効果が働き、私たちはキリストの死に自分を同形化しつつ、彼の復活の力を知って、戦いに勝利することができるようになる。

こうして、主の苦しみにあずかり、試練を忍び通して勝利を得る決意を固めることが、私たちの「心の武装」である。

キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。」(Ⅰペテロ4:1-2)

「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。」(フィリピ1:29-30)

わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして使者の中からの復活に達したいのです。」(フィリピ3:10-11)

主イエスは地上におられた間、絶えず、パリサイ人や律法学者から論戦を挑まれ、罪人たちから猛烈な非難を浴びせられ、その反抗を耐え忍ばれた。

そこで、私たちも、あらゆるいわれのない論争をしかけられる時にも、忍耐強く応戦して行かねばならない。もしかしたら、一人くらいは、その論戦を見聞きして、考えを改める者も出て来るかも知れない。

へブル書にはこうある、

「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。

このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。」(ヘブライ12:1-3)

* * *

これまで2009年来、当ブログをバッシングして来た人々が、最もひどい攻撃の対象として来たのは、プロテスタントの教会の中でも、いわゆる聖霊派と呼ばれる、聖霊の働きを強調・重視する教会の関係者に対してであった。

ペンテコステ運動の中には、怪しげな霊の運動も混入しており、今や数々の混乱が引き起こされているのは事実であるが、上記の人々が、聖霊派の教会や信者に対して最もひどいバッシングに及んだ背景には、彼らが、聖霊の働きを心底、憎んでいることが挙げられる。

それはちょうど戦時中、キリスト教徒の中でも、ホーリネス信者に対して、最も激しい迫害が行われたのと、構図は同じである。ホーリネス信者は、その当時、「新生」「聖化」「神癒」「再臨」を文字通り信じており、そこには聖霊の目覚ましいわざが働いていた。それが国体思想の持主にとって最も恐るべき脅威と映ったであろうことは想像に難くない。

ホーリネスの運動が形骸化した後、その流れを汲んで登場して来たのがペンテコステ運動であり、さらに、ペンテコステ運動が当初の純粋性を失った後では、御霊の働きは、この運動を離れて信仰を守る民に最も顕著な形で受け継がれた。

聖霊は、やがて来るべき神の国の秩序そのものであり、サタンがどんなことをしても手を触れることのできない、破壊することもできない復活の領域である。そこで、サタンは、聖霊を攻撃できないので、信者を攻撃するのであり、暗闇の勢力は、いつの時代も、キリスト教の中でもとりわけ、聖書の御言葉を文字通り真理であると信じ、信仰を通して、御言葉を忠実に体現し、これを実際として地に引き下ろし、神の聖霊のみわざを大胆に実現しようとしている人々の証を、集中的に攻撃・破壊しようとして来た。

ちなみに、聖書には「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、”霊”に対する冒瀆は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」(マタイ12:31-32)とある。

悪魔と暗闇の勢力には、聖霊そのものを冒涜することも、破壊することもできないが、信者は人間であって、旧創造から成る贖われていない部分を持っているので、神の聖霊を持ち運んでいる外側の「器」としての信者を攻撃することは、暗闇の勢力には、ある程度、可能である。そこで、敵は、信者の心と体という旧創造の部分に対して、激しい攻撃をしかけて来る。

私たちが心を圧迫され、肉体が危険にさらされることを案じて、早々に信仰の証しをやめることが、彼らの狙いである。

しかし、これは、人間対人間の争いではなく、
聖書の御言葉の真実性を否定する思想の持ち主と、聖書の御言葉の真実性を証する者との間の、霊的な激しい論戦であるから、私たちは、自分の魂と肉体に対してしかけられる攻撃に対して、主と共なる十字架の死に自分を同形化して応戦せねばならない。

その時、私たちの霊的死の只中から、目覚ましい復活の命の働きが起きて来る。死がなければ、復活も生じず、私たちがまずキリストの苦しみにあずかり、その死の中に、大胆に御言葉が信仰によって働くことなくして、復活の命の現れはないことを知るべきである。

黙示録を見ても、キリストが再び来られるまでの間、エクレシア(教会)は激しい戦いを戦い抜かなければならないことが分かる。

そこで、私たちも、試練を通される覚悟を固めるべきであり、おびただしい証人たちの前で、自分に定められた競争を勇敢に走り抜き、賞を勝ち取ることができるかを試されていることを思うべきであろう。

暗闇の勢力は、聖書の御言葉の真実性を破壊するために、キリストの十字架に逆らい、聖霊に逆らって、神に反逆しており、あれやこれやの信者を迫害することで、聖書の御言葉の真実性そのものを破壊しようとしている。だが、私たちはそれに対抗して、より一層、公然と御言葉の正しさを世に掲げなければならない。

もちろん、私たちの主は、遅れることなく、速やかにやって来て、最後まで忍耐して勝利をおさめた者たちには栄光を与え、悪人にはふさわしい裁きをなして下さる。

だが、それを待つ側である私たちは、主を迎える準備が出来ていると言えるだろうか? よくやったと主人に褒められる働きを確かになしたという確信があるだろうか?

判決を待ちながら、主の再臨を思う。そして、地上に置かれている間、より一層、心の武装をして、御言葉を実際として地に引き下ろし、サタンのわざを無効化し、御霊の自由と解放を実現するための方法を知らねばならないと思う。主の再臨は、そのように御言葉を実際として生きる主の民の存在によってこそ、早められ、引き寄せられることであろうと確信する。「主よ、来たりませ」と言いたい。



* * *

さて、暗闇の勢力から当ブログに対する非難が最も激烈なものとなった時期の一つが、昨年の5月頃であり、それは当時、国際社会でエルサレム問題が再び注目されていたこと密接な関係があった。

2017年末から、米国のトランプ大統領は、エルサレムをイスラエルの首都として公式に認めると宣言しており、昨年5月にはイスラエル独立式典70周年の記念式典に合わせて、それまでテルアビブに置かれていた在イスラエル米国大使館が、エルサレムに移転された。また、同月、トランプは現職大統領として初めてエルサレムの「嘆きの壁」を訪問し、ユダヤ教徒の装束でユダヤ教式の祈りを捧げるなどしている。

(この問題については、
米、エルサレムをイスラエルの首都と承認へ 各国で初めて」(BBC news 2017年12月6日)、
焦点:米大使館移転で中東緊迫化、「エルサレム問題」とは何か」(REUTERS 2018年5月15日)、
トランプ家とユダヤ教、その浅からぬ関係 現職で初めて聖地「嘆きの壁」を訪問した意味」(東洋経済ONLINE 内田 通夫  2017年5月30日)、
エルサレム問題」(コトバンク、知恵蔵 大迫秀樹 フリー編集者 2018年の解説)などを参照されたい。)

だが、日本を含め、国際社会の多くの国々は、イスラエルがエルサレムを自国の主都と宣言していることを認めておらず、依然として大使館をテルアビブにおいており、米国大使館の移転に伴う式典にも代表者を送らなかった。その移転に伴い、パレスチナ側からの抗議行動も高まり、イスラエルによるパレスチナ占領を非難する論調が、マスコミを通じて一気に広まり、ネット上でも大々的に拡散された。

その時、マスコミは一斉に、トランプ大統領を以上のような行動に突き動かしたのは、彼の有力な支持基盤であるキリスト教福音派(米国プロテスタント)であるとして、キリスト教福音派は、親イスラエル的な態度を取って、国際社会の非難を無視してイスラエルの不法な占領を正当化しているとして、一斉にキリスト教福音派をバッシングするニュースを展開したのである。

その際、マスコミは、一般の日本人にはそれほどなじみのないエルサレム問題を訴えることで、キリスト教福音派を攻撃するのではなく、むしろ、キリスト教福音派がLGBT(同性愛)を聖書に基づかないものとして否定しているとか、妊娠中絶を否定しているなどの理由を挙げつつ、あたかも福音派が、現代社会になじまない非常に偏狭かつ狭量で短絡的な主義主張をいくつも掲げており、それゆえに、エルサレム問題についても、イスラエルの占領を正当化しているかのように結びつけて、キリスト教福音派を非難するという態度を取った。

このように、昨年5月にエルサレム問題がマスコミで取り上げられ、トランプ大統領の支持基盤であるキリスト教福音派へのマスコミによる攻撃的なニュースが流されたことを機に、それに煽られた愚かな人々が、未だかつて一度もエルサレム問題など論じたこともない当ブログにまで押しかけ、大いなるバッシングを加えたのであった。

彼らの言い分は、要するに、当ブログが、すべてのプロテスタント教会と同じく、聖書を神の霊感を受けた書物であって、そこに書かれている記述は真理であると信じて、信仰の証しを続けていること自体が、許しがたいことであって、当ブログが、同性愛に反対し、LGBTを擁護せず、妊娠中絶を認めておらず(当ブログは一度もこの問題を論じたことがない)、イスラエルによるパレスチナ占領を非難した記事も見当たらないことが、その証拠だというのである。

そういう決めつけを持ち出して、彼らは、聖書を額面通りに信じるキリスト教徒こそ、現代社会において許容されない恐るべき差別と偏見を生み出すカルト思想の思想の持主であって、要するに、聖書を文字通りに信じることは恐るべき誤謬であると主張して、当ブログを非難したのである。

ちなみに、この滅茶苦茶な問題提起の中には、あまりにも多くの錯綜がまじりあっているため、誤解のないように丹念に紐解いて行かなくてはいけない。

まずはエルサレム問題からだ。

ここで、まず、マスコミが十把一からげに用いているトランプの支持層であると呼ばれている「キリスト教福音派」という用語を我々は整理しなければならない。

キリスト教福音派とは、元来、聖書の記述を真理であると信じる米国プロテスタント全体を指すような、かなり広義かつあいまいな用語であって、現存する一定の団体などを指すものではないから、プロテスタントのどれくらいの信者をこれに含めることができるのかも、正確には定義できない。

実際には、プロテスタントには数限りない流派があって、考え方も詳細は様々に異なり、むろん、キリスト教福音派の中にも、イスラエルによるパレスチナ占領に反対しているクリスチャンは存在している。そこで、キリスト教福音派全体が、米国大使館のエルサレム移転をみな歓迎しているかのような言い方自体が、正確ではないと言えよう。

エルサレムをイスラエルの主都と認めることを歓迎しているプロテスタントのキリスト教徒とは、結局のところ、米国福音派というよりも、米国プロテスタントに浸透している「キリスト教シオニズム」に感化された人々を指すと言うべきである。

彼らの考え方がどのようなものであるかは、「イスラエル首都エルサレム移転」を福音主義者が支持するのはなぜか? 」(BizSeeds 2017年12月19日 )などを参照されたい。ここで「福音主義者」とされているものを、「キリスト教シオニズムに影響を受けたプロテスタント信者」とすれば、彼らの考え方が見えて来る。

「これらの記述を信じている福音主義者たちは、「イスラエルがユダヤ人のものであり、イスラエルの首都がエルサレムだ、ということは神が決めたことであり、議論の余地はない」、「イスラエルが神の意向に沿って、エルサレムを首都とした形で再建されれば、イエス様が再臨してくれる」と本気で信じているわけである。」


一言で言えば、キリスト教シオニズムに影響を受けたプロテスタントの信者らは、世界中に散らされた民であるユダヤ人が、イスラエルに集まって自分たちの国を建国し、エルサレムを首都と定め、そこに第三神殿を再建することが、聖書の記述に合致しているものと信じ、それらの出来事は、聖書の預言の成就であるから、絶対に起こらねばならず、さらに、それはキリストの再臨をもたらすために不可欠な将来的な歴史事件であるから、その実現を早めるために、イスラエルを支援するのは当然だ、と信じ込んでいるのである。

こうして、彼らはイスラエルによるエルサレム占領と神殿建設を推し進めることによって、キリストの再臨を引き寄せることができると信じ込んでいる。

一体、現在の米国プロテスタントにどのくらいの割合で、キリスト教シオニズムが浸透しているのか、筆者はよく分からないが、恐るべきことに、このような考え方は、米国プロテスタントには相当に広く普及している可能性があり、筆者が知っている限り、米国のみならず、日本のプロテスタントにおいても、相当に広くプロパガンダされつつあることは確かである。

「イスラエルのために祈れ」とか、第三神殿の再建に注目することで、聖書預言の成就を観察することができるなどと言っている人たちがそれに当たる。

ちなみに、当ブログは次の記事でも詳しく根拠を記すように、そのような人々と同じ考えには立っていない。そして、キリスト教シオニズムのような考え方が、聖書の記述を忠実に信じた結果として導き出されるとも到底、考えられないものとみなしている。

むしろ、当ブログで危惧しているのは、プロテスタントのキリスト教界が、カルト被害者救済活動(当ブログをバッシングしている勢力)の恫喝に屈して信仰の証しを保ち続けられなくなった以上、プロテスタントはすでに霊的に役目を終えており、新たな信仰回復運動が待たれるが、こうして、御言葉に基づく信仰の証しを離れ、御霊の息吹を失って、形骸したプロテスタントは、この先、反キリストの到来の下準備に利用されていく危険があるということである。

その際に非常に大きな役目を果たすのが、キリスト教シオニズムではないかと考えられるのである。

いずれにせよ、マスコミは、米国大使館のイスラエル移転をきっかけに緊張が高まったエルサレム問題を利用して、本来、「キリスト教シオニズム」に限定して向けられるべき非難を、ターゲットをすり替えて、プロテスタント全体(福音主義)へ置き換え、さらに、それをあろうことか、「聖書を文字通りに真理であると信じる信仰」(聖書信仰)に置き換え、聖書の記述を真理であると信じるすべての人々の信仰を非難・攻撃する材料として利用した。

それに便乗して、かねてより、当ブログに対して非難を展開していた人々が、これに飛び付いて、当ブログの信仰の証しに今まで以上に悪質なバッシングを加える材料としたのである。

だが、彼らの主張の根本は、すでに述べた通り、LGBT擁護や、妊娠中絶の容認や、エルサレム問題の考察にはなく、要するに、彼らは、聖書は荒唐無稽なファンタジーであって、それを額面通りに信じるなど、まさに愚の骨頂であり、精神病の産物に過ぎないという主張をしたいだけなのであり、エルサレム問題は、彼らが聖書を攻撃して、自らの反キリスト的思想を述べる新たなきっかけとなっただけである。
 
同性愛や、LGBTや、妊娠中絶を肯定する記述が聖書に存在しないことは、すでに記した通りであるから、反論するまでもない。ただし、エルサレム問題については、上記した通り、これはプロテスタント全体を新たな恐るべき誤謬に陥れる可能性のある非常に危険な思想的問題をはらんでいることから、このテーマについては次の記事で詳しく論じるつもりである。

* * *

予告として、多少、先走って述べておくと、プロテスタントはカルト被害者救済活動の恫喝に屈し、すでに霊的に役目を終えているが、M,Kなど、カルト被害者救済活動に迎合したクリスチャンの指導者らが、みな東洋思想からの強い影響を受けていることにも見られる通り、当ブログにおいては、終末のバビロンは、キリスト教と東洋思想を融合した「混ぜ合わせた福音」であるという考えを、これまで幾度となく述べて来た。

戦前・戦中の日本の国家神道・国体思想も、西洋思想と東洋思想の融合を掲げていたのである。

当ブログでは、東洋思想の根底にはグノーシス主義があること、すなわち、「母が脅かされているから、母を守らなければならない」という恐怖と被害妄想による自己防衛の連帯願望があることを述べて来た。東洋思想は、日本で「禅」という、最も洗練されて完成された形態にまで発展したが、そこで指摘されている、「母」を脅かしている存在とは、「父」すなわちキリスト教であるということも論じた。

つまり、東洋思想の根底には、自分(この思想の持主)がやがてキリスト教によって罰せられ、駆逐されるという潜在的な恐怖があるのだと言える。言い換えれば、これは聖書の父なる神を敵として、人類の罪意識から出て来た自己防衛の思想なのである。

さて、戦前・戦中の日本の国体思想は、日本という国を、「万世一系の天皇家という神聖なる血統とそれに赤子として連なる臣民」を容れるための「神聖な母体」であるとみなすものであったが、このような思想が起きて来たこと自体が、東洋思想の側から、キリスト教に対する必死の自己防衛反応であったと言える。

国体思想の中では、東洋思想と西洋思想を合体して新たな日本文化を創造することがその使命であると提唱されていたことも確認したが、このような発想の中には、「敵にやられる前に、敵に近づいて、敵を味方に取り込み、敵と合体することで、何とかして生き延びよう」という東洋思想の側からの生き残りをかけた必死のあがきが見て取れる。

さて、単純に言えば、この国体思想を、思想の形態は違えど、基本形は同じまま、日本からイスラエルに置き換えたようなものが、キリスト教シオニズムであると筆者はとらえている。

なぜなら、キリストを救い主と認めないユダヤ教徒は、メシアは自分たちの只中から将来的に出現すると信じ、イスラエルという国は、その母体となるとみなしているからである。しかも、現在のユダヤ教およびイスラエルには、国が消滅し、全世界から迫害され、散らされて来たという歴史的過去のために、自分たちが絶えず脅かされているという潜在的な被害者意識と自己防御の願望がある。そして、彼らをそのように脅かしたのは、キリスト教国の人々であり、とりわけ、プロテスタントであると言うことができるであろう(この点については、後述する)。

そこで、ユダヤ教の中にも、キリスト教に対する潜在的恐怖が内包されていると言えるのであって、それゆえに、今やユダヤ教のシオニズムの側から、キリスト教に対する(融合のための)手招きがなされているのである。

その罠を見抜けず、この招きにキリスト教徒を名乗る人々の一部が浅はかに乗り、ユダヤ教とキリスト教の折衷案のようなアイディアを作り上げたものが、現在のキリスト教シオニズムである(ただし、これは現在のプロテスタントに広まっているものを指し、キリスト教シオニズムそれ自体はもっと古い起源を持つ)。

その結果、ユダヤ教徒は、イスラエルをメシアを生む母体となる国(国体)であるとみなし、キリスト教シオニズムに感化されたキリスト教徒は、イスラエルはキリストの再臨を促す神聖な母体であるかのように考え、両者ともに、地上の国としてのイスラエルとその諸政策を賛美することにより、ユダヤ教とキリスト教の融合という、歴史最後の最も洗練された「混ぜ物の福音」のカクテルを作っているところなのであり、彼らはそのようにして、まさに反キリストの到来の下準備をしているというのが、当ブログの見解である。

そこで、これから先の、目に見える組織や団体としての日本のプロテスタントは、戦前・戦中に国体思想を受け入れてこれと合体することで、真実なキリスト教徒を迫害する側に回ったように、今また新たに東洋思想との融合という「混ぜ物」の作業に加えて、最後の総仕上げとして、ユダヤ教シオニズムを内に取り込み、キリストの再臨を願うと言いつつ、イスラエル発の新たなる「国体思想」に賛同し、時間をかけて、反キリストの到来に道を備え、人類最後の蜂起へと向かって行くという恐るべき仕事を果たすことになるのではないかと考えられる。

いずれにしても、カルト被害者救済活動に立ち向かうことができなかった時点で、プロテスタントはすでに役目を終えている以上、これから先、これが新たな信仰回復運動の源となることはもはや見込めない。役目を終えたものが存続し続けると、どういう諸政策が起きるかは、改めて説明する必要がない。

私たちは、聖書原理主義者とか福音主義者などと呼ばれる人々が何を主張しているのかに注目するのではなく、聖書そのものが何を言っているのか、自分できちんと吟味し、考えなくてはならない。聖書原理主義者が唱えている内容が、すなわち、聖書に書かれている内容ではないからである。

聖書はユダヤ教(キリスト教)シオニズムを全く唱道してなどいないというのが、筆者の考えである。それは歴史的には成就する出来事を含んでいるかも知れないが、むしろ、反キリストへとつながる動きなのだとみなされる。従って、そのようなことを口実に、当ブログがあたかもイスラエルによるパレスチナ占領やその他の諸政策を奨励・賛美しているかのようにみなして、「キリスト教原理主義者」とか「福音主義者」などとレッテルを貼って、聖書に忠実に歩む当ブログの信仰の証しを非難するのは、まさしく完全な筋違いと言う他ない。

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